盗賊戦争(1915年7月)

173
盗賊戦争(1915年
1915年7月)
1913年
1913年、メキシコ湾
メキシコ湾からアリゾナ、
からアリゾナ、カリフォルニアにかけた
カリフォルニアにかけた国境防衛のため
国境防衛のため米国陸
のため米国陸
軍は南部軍管区の
南部軍管区の本拠地をサンアントニオに
本拠地をサンアントニオに置
をサンアントニオに置いた。
いた。1915年
1915年、師団長ジェネラル・フ
師団長ジェネラル・フ
レデリック・フンストンは二
レデリック・フンストンは二万人に
万人に満たない兵力
たない兵力で
兵力で千七百四十五マイルの
千七百四十五マイルの国境線
マイルの国境線の
国境線の警護に
警護に
あたっていた。
あたっていた。もともとジェネラル・フンストンの
もともとジェネラル・フンストンの主要任務
ンストンの主要任務は
主要任務は、メキシコ人
メキシコ人グループがア
メリカ領土
メリカ領土を
領土を足場に
足場に特定の
特定の革命分派を
革命分派を支援することを
支援することを禁
することを禁じた、
じた、所謂中立法違反行為を
所謂中立法違反行為を取り
締まるためであり、
まるためであり、盗賊や
盗賊や密輸の
密輸の取締り
取締りではなかった。
ではなかった。二月末、
月末、テキサス州知事
テキサス州知事ジェーム
州知事ジェーム
ス・E
ス・E・ファーガソンは、
・ファーガソンは、テキサスは日毎
テキサスは日毎メキシコからの
日毎メキシコからの侵入者
メキシコからの侵入者により
侵入者により掠奪
により掠奪を
掠奪を受けている
ことを訴
ことを訴えて、
えて、ウイルソン大統領
ウイルソン大統領に
大統領に助けを求
けを求めた。
めた。ファーガソンは国境
ファーガソンは国境における
国境における恐怖
における恐怖に
恐怖に対
処すべく、
すべく、三十人
三十人のテキサス・レンジャースを雇
のテキサス・レンジャースを雇うため、
うため、三万ドルが必要
ドルが必要であ
必要であった
であった。
った。フン
ストンは、
ストンは、ファーガソンが状況
ファーガソンが状況を
状況を途轍もなく
途轍もなく誇張
もなく誇張している
誇張していると
していると報告した
報告した。
した。ウイルソンは英断
ウイルソンは英断
を下し、資金援助をしない
金援助をしない代
をしない代わりに、
わりに、三月五日より掠奪集団
より掠奪集団を
掠奪集団を敵と見做して
見做して南部軍管区部
して南部軍管区部
隊に対応させるよう
対応させるよう政策転換
させるよう政策転換をした
政策転換をした。
をした。フンストンはファーガソンと協議
フンストンはファーガソンと協議し
協議し、最も不安定な
不安定な
地域に
地域に部隊を
部隊を配備し
配備し、敵を逮捕、
逮捕、武装解除して
武装解除して保安官
して保安官に
保安官に渡す手筈を
手筈を整えた。
えた。
1915年
1915年におけるファーガソン知事
におけるファーガソン知事のレンジャース
知事のレンジャース部隊
のレンジャース部隊は
部隊は定員を
定員を割っていた。
っていた。四年前
にテキサス議会
にテキサス議会が
議会が承認したテキサス・レンジャース
承認したテキサス・レンジャース部隊
したテキサス・レンジャース部隊は
部隊は総員八十五
総員八十五名
八十五名、大尉、
大尉、一等軍曹
と二十名
二十名ずつの四
ずつの四個中隊を
個中隊を総務局長が
総務局長が統括することになっていたが
統括することになっていたが、
することになっていたが、1915年
1915年6月時点、
時点、
総数三十四
総数三十四名
三十四名の三個大隊にすぎなかっ
個大隊にすぎなかった
にすぎなかった。レンジャース
レンジャース総務局長
ース総務局長は
総務局長は日増しに
日増しに不穏
しに不穏になる
不穏になる南
になる南
テキサスの情勢
テキサスの情勢に
情勢に対応し
対応し、J.J.サンダース
、J.J.サンダース大尉
サンダース大尉の
大尉のA中隊、J.M.
中隊、J.M.フォックス
、J.M.フォックス大尉
フォックス大尉の
大尉の
B中隊を
中隊をヴァレーに配置
ァレーに配置した
配置した。
した。後にD中隊が
中隊が追加さ
追加され、ラレドからブ
ラレドからブラウンズヴィ
ラウンズヴィルのリ
ズヴィルのリ
オグランデからコーパ
オグランデからコーパスクリスティ
クリスティにかけた一
にかけた一帯に七十五%
七十五%のレンジャースがいた。
のレンジャースがいた。
34
35
テキサス・レンジャースの記録
テキサス・レンジャースの記録によると
記録によると、
によると、テキサスでは「
テキサスでは「盗賊戦争」
盗賊戦争」と呼ばれたサンデ
ばれたサンデ
ィエゴ計画
ィエゴ計画(PSD)
計画(PSD)攻撃
(PSD)攻撃隊
攻撃隊による襲撃
による襲撃の
襲撃の始まりは1915
まりは1915年
1915年7月2日の夜とされ
とされている。
ている。
不法侵入した
不法侵入した武装
した武装騎馬
武装騎馬集団
騎馬集団がリオグランデの
集団がリオグランデの北約
がリオグランデの北約三十
北約三十マイルの
三十マイルのセバ
マイルのセバス
セバスチァンで目撃
ンで目撃さ
目撃された。
レンジャー・ロ
レンジャー・ロイ・アルドゥ
イ・アルドゥリッチ
リッチ、税関検査官
税関検査官ジョセフ・テイラーは
ョセフ・テイラーは直
フ・テイラーは直ちに土地の
土地の農場
主と保安隊を
保安隊を組織して
組織して追跡
して追跡したが
追跡したが、
したが、盗賊を
盗賊を発見できなかった。
なかった。7月6日、保安隊は
保安隊は三十五
名になっていた。
になっていた。翌日には陸軍
には陸軍騎
陸軍騎兵部隊も
兵部隊も加わり、
わり、総勢五十
総勢五十人
五十人を越える保安隊
える保安隊は
保安隊は探索を
探索を続
けた。
けた。それから
それから数日
から数日間
数日間、幾つかの襲撃
つかの襲撃事
襲撃事件が発生した
発生した。
した。メキシコから侵入
メキシコから侵入した
侵入した盗賊
した盗賊は
盗賊は河か
ら二十マイル
二十マイル近
マイル近く侵入して
侵入して馬
して馬や馬具を
馬具を盗み、住民を
住民を恐怖に
恐怖に陥れた。
侵入者は
侵入者は保安隊を
保安隊を撒いて、疲れた馬を乗り捨て、新しい馬
しい馬を盗んで乗り換え、牧場の牛
や山羊を
山羊を屠殺して
屠殺して食用
して食用にした
食用にした。
にした。この辺
この辺りは略
りは略奪者には
奪者には恰好
には恰好の
恰好の地勢であ
地勢であった
であった。
った。広い範囲にわ
範囲にわ
たって農業用
たって農業用地
農業用地に切り開かれていても、
ていても、カメロ
カメロン、ヒダルゴ
ダルゴ両郡一
両郡一帯は低い樫の木の林、
メスキート、
メスキート、低木の
低木の藪、ウチワサ
チワサボテンなど
テンなどがいたるところ
がいたるところに群生していた
群生していた。
していた。曲がりくね
がりくね
ったリオグランデは両岸
ったリオグランデは両岸を
両岸を背の高い草や低木の
低木の林で覆われていて、
ていて、この年
この年は旱魃のため
旱魃のため水
のため水
36
174
量は少なく、
なく、渡河できる場所は
場所は無数にあった。
にあった。
最初の一週間PSD
週間PSD攻撃
PSD攻撃隊
攻撃隊は保安隊の
安隊の裏をかいた。
をかいた。保安隊員は
保安隊員は盗賊団の
盗賊団の行動パターンが
パターンが
理解できなかった。
なかった。気になったのは、
になったのは、攻撃隊
攻撃隊が郡の北方と
北方と河岸周辺とで
河岸周辺とで同
とで同時作戦を展開し
展開し
ていたことであった。
ていたことであった。ポート・イサ
ート・イサベルからブ
ルからブラウンズヴィ
ラウンズヴィルを
ズヴィルをパ
ルをパトロールしていた騎
ールしていた騎兵
隊が河岸近くで
河岸近くで銃撃
くで銃撃を
銃撃を受けた。
けた。
盗賊戦争で
盗賊戦争で最初の死者が出たのは7
たのは7月9日、カメロ
カメロンとヒ
ンとヒダルゴ
ダルゴ郡境であった。
であった。大農場
キング・ランチ
キング・ランチの現場監督フランク・マーテ
監督フランク・マーティ
フランク・マーティンが一人
ンが一人の
一人の盗賊を
盗賊を殺し、もう一人
もう一人は
一人は重傷を
重傷を
負った。
った。それから
それから三日
から三日後
三日後の日曜日、ブラウンズヴィ
ラウンズヴィル
ズヴィル近くで行
くで行われた屋外ダンス
屋外ダンスパ
ダンスパーティ
ーティ
ーで保安官代
ーで保安官代理
保安官代理とコンステーブ
とコンステーブル(治安官)
安官)代理が射殺さ
射殺された。両方ともメキシコ
両方ともメキシコ系
ともメキシコ系であ
った。
った。襲ったのは二人
ったのは二人組
二人組みで、一人は
一人は川向うのマ
川向うのマタモロ
うのマタモロス
タモロスへ逃げ、あとの一人
あとの一人は
一人は重傷を
重傷を負
い、暫くして死
くして死んだ。
んだ。
37
7月12日、襲撃は
襲撃は大胆になった。
になった。十一人
十一人のメキシコ人武装集団
のメキシコ人武装集団がライフォードから
人武装集団がライフォードから四
がライフォードから四
マイル南
マイル南にあるニルス・ピ
にあるニルス・ピーターソンの店
ーソンの店を襲い、店主に銃口を
銃口を突きつけたままライフル
やショ
やショットガンの弾
ットガンの弾、食料品な
食料品などを強奪し、電話線
電話線を切断して逃走
して逃走した
逃走した。
した。保安官は
保安官は直ちに
保安隊を
保安隊を組んで追跡したが
追跡したが無駄
したが無駄であった
無駄であった。
であった。集団の
集団の中にいた年配
にいた年配の
年配の男は誘拐さ
誘拐されて道案内人
道案内人
にされ
にされていたが、
ていたが、その夜うまく逃
うまく逃れた。このことから盗賊
このことから盗賊の
盗賊の一団はこの
一団はこの辺
はこの辺の者ではないこ
とが分
とが分かった。
かった。治安当局を不安にさせたのは
不安にさせたのは、
にさせたのは、これまでの一
までの一連の襲撃事
襲撃事件は単なる盗賊
なる盗賊集
盗賊集
団ではなく、
ではなく、ゲリラ戦
リラ戦を思わせるような動
わせるような動きをしていたことであった。
していたことであった。
7月17日
17日、PSD奇襲
PSD奇襲隊
奇襲隊はカメロ
はカメロン郡の北部で最初のアングロ
のアングロ、十八歳
十八歳のブライアン・
ボレイを犠牲
レイを犠牲にした
犠牲にした。
にした。レイモ
レイモンズヴィルの
ズヴィルの東
ルの東十八マイルの
十八マイルの農
マイルの農場で、ボレイが二人
レイが二人のメキシ
二人のメキシ
コ人と働いているところへ
いているところへ武装
ろへ武装した
武装した騎馬
した騎馬の
騎馬のメキシコ人
メキシコ人一人が
一人が現れた。三人は
三人は急いで家
いで家へ駆
け込み武器を取って元
って元の場所へ
場所へ戻ったところ
ったところをボレイは二
レイは二発撃込ま
発撃込まれ死んだ。
んだ。カメロ
カメロン、
ヒダルゴ
ダルゴ、ウィラシー
ラシー三郡のシェリフは保安隊
のシェリフは保安隊を
保安隊を組み、後を追ったが、
ったが、犯人は見付からな
かった。
かった。
ボレイ殺害
レイ殺害は
殺害はヴァレー一
ァレー一帯にパニックを
ニックを引
クを引き起こした。
こした。税関の
税関の協力を
協力を受けた保安官もレ
保安官もレ
ンジャースも取締
ンジャースも取締りの
取締りの成果
りの成果を
成果を上げていなかった。
ていなかった。農園主
農園主は家族を
家族を町へ移し始めていた。
めていた。ヴ
ァレー最大
ァレー最大のキング
最大のキング農
のキング農場を持つ富豪シー
富豪シーザ
シーザー・クレバ
ー・クレバーグは知事
ーグは知事に
知事に治安回復を
回復を要求した
要求した。
した。
もう一
もう一つ知事を
知事を動かした要
かした要因があった。
があった。灌漑事
灌漑事業の進展と
進展と共に土地ブ
土地ブームが起
ームが起っていた。
っていた。
奇襲隊
奇襲隊は影響力
影響力のある政
のある政治家や
治家や裕福な
裕福な地主に
地主に深刻な
深刻な影響を
影響を与えた。
えた。早急にこの
早急にこの一
にこの一帯の治安
を回復しない
回復しない限
しない限り、土地を
土地を売ることが出来
ることが出来ず
出来ず、融資した銀
した銀行が破綻する
破綻する恐
する恐れが出てきた。
知事ファーガソンは
知事ファーガソンは連邦
ファーガソンは連邦政
連邦政府に泣きついた。
ついた。ワシントンは再
シントンは再びテキサスを狼少
テキサスを狼少年
狼少年としか見
としか見
なかった。
なかった。法律上軍隊
律上軍隊が
軍隊が出動で
出動できるのは、
るのは、アメリカで徴
アメリカで徴集した革命部隊
した革命部隊がメキシコに
革命部隊がメキシコに入
がメキシコに入る
のを阻止
のを阻止する
阻止する場
する場合と、メキシコから攻
メキシコから攻め込む武装集団と
武装集団と戦う場合に限られているとして、
ているとして、
ジェネラル・フンストンは部隊
ジェネラル・フンストンは部隊の
部隊の増強に応じなかった。
じなかった。
38
39
40
175
国境近
国境近くの住民
くの住民は
住民は保護を
保護を求め絶叫し
絶叫し、部隊の
部隊の増強はなく、
はなく、連邦政
連邦政府から資金
から資金援助
資金援助を
援助を拒ま
れたファーガソンは、
たファーガソンは、か細い財政をなん
をなんとか工面
とか工面して
工面して渋
して渋々レンジャースの増員
レンジャースの増員に
増員に踏み切っ
た。彼は四個目のD部隊を
部隊を創設して
創設してヴ
してヴァレーの問題
ァレーの問題に
問題に対処することにした
対処することにした。
することにした。ファーガソン
はD部隊の
部隊の隊長に
隊長にヘンリー・リー・ランソムを任命
ンリー・リー・ランソムを任命した
任命した。
した。ランソムはテキサス・レンジャ
ランソムはテキサス・レンジャ
ースの歴史
ースの歴史上
歴史上最も物議を醸す大尉となった
大尉となった。
となった。スペイン戦争中
イン戦争中ランソムは
戦争中ランソムは1
ランソムは1899年
99年十九歳
でテキサス騎
でテキサス騎兵中隊の
兵中隊の一員としてフ
一員としてフィ
としてフィリピンに派
ンに派遣され、二年間従軍した後
した後、ほぼ一
ほぼ一貫し
て保安関
保安関係の仕事をし、
をし、190
1905と09年の二度にわたり、
にわたり、共に短い間レンジャースに所
レンジャースに所
属したことがあった。
したことがあった。
ランソムは191
ランソムは1910
1910年、治安の悪化していた
悪化していたヒ
していたヒューストンで刑
ーストンで刑事として雇
として雇われて間もな
く、真夜中近く同僚と二人で
二人で路面電車
面電車を待っていた著
っていた著名な弁護士に近づいて、
いて、至近距離か
距離か
ら射殺し
射殺し、殺人罪で告訴さ
告訴されが、弁護士が拳銃を持っていたので、
っていたので、巧みに正当防衛を
防衛を主張
して無
して無罪となった。
なった。1912
1912年、彼はヒューストン市
ーストン市長ライスから警
ライスから警察署長
察署長に任命さ
任命された。
彼の荒っぽい取締りのため
取締りのため市
りのため市民から警
から警察暴力
察暴力へ批判が
批判が高まり、
まり、次の市長が就任するなり解
するなり解
任された。7月20日、知事によって
知事によって任命
によって任命さ
任命されたランソムは、
たランソムは、7月24日ハーリンジェン
に駐屯した
駐屯した。
した。
41
7月24日、奇襲隊
奇襲隊がブラウンズヴィ
ラウンズヴィルから
ズヴィルから五十
ルから五十マイル
五十マイル上
マイル上流にある小
にある小さな村落
さな村落プ
村落プログレ
ッソにあるサエ
ッソにあるサエンスの
ンスの店を襲った。
った。カメロ
カメロン郡保安官補佐
保安官補佐チ
補佐チャディ
ャディックが襲撃
ックが襲撃者
襲撃者の一人を
一人を
射殺し
射殺し、税関検査官
税関検査官ホワイトがもう一人
イトがもう一人を
一人を逮捕に
逮捕に抵抗した
抵抗した理
した理由で殺した。
した。同じ日ブラウン
ズヴィル
ズヴィル近くの屋外
くの屋外ダン
屋外ダンス
ダンスパーティ
ーティーでカメロ
ーでカメロン郡のメキシコ系治
のメキシコ系治安官
系治安官と
安官と補佐官
補佐官の二人が
二人が
刺された。
7月25日、奇襲隊
奇襲隊は更に大胆なゲリラ攻撃
リラ攻撃を
攻撃を加えた。
えた。数人が
数人がセバス
セバスチャンの近
ンの近くで、
くで、
鉄道の橋に火を放って破
って破壊した。
した。鉄道に沿った電
った電信・電話線
電話線は切断され、線路を止める犬
釘も抜かれ、ブラウンズヴィ
ラウンズヴィルは
ズヴィルは事
ルは事実上孤立した。
した。二人の
二人のレンジャース大尉
レンジャース大尉、
大尉、サンダース
とランソムの
とランソムの部隊が
部隊が昼夜にかけて
にかけて探索
けて探索したが
探索したが、
したが、何の手掛かりも得
かりも得られなかった。
なかった。
7月 29 日の夜、サンベ
サンベニート市
ニート市治安官フランク・カーと
安官フランク・カーと保安官代
フランク・カーと保安官代理
保安官代理ダニエ
ダニエル・イノホ
ル・イノホサ
ノホサ
は、アングロ
アングロ殺害と
殺害と牛を盗んだ容疑
んだ容疑で
容疑で留置所に入れられていたアドルフォ・ムニョ
ていたアドルフォ・ムニョスをブ
スをブ
ラウンズヴィ
ラウンズヴィル
ズヴィルへ移す目的で車に乗せて出発
せて出発した
出発した。
した。翌朝ムニョ
ムニョスが大
スが大きなメスキートの木
なメスキートの木
に吊るされ
るされているのが見
ているのが見付かった。
かった。カーとイノホ
カーとイノホサはウイン
ノホサはウインチ
サはウインチェスタ
ェスター銃を振り回す覆面
をした八
をした八人の男に待ち伏せされ
せされムニョ
ムニョスを奪
スを奪われたと報告
たと報告した
報告した。
した。二人は
二人は屈強な保安官とし
保安官とし
てこの一
てこの一帯では畏
では畏れられていて、
ていて、途中で
途中で易々と囚人を奪われる事は考えられ
えられず、恐らく彼
らく彼
等の作り話であろ
であろうと思われる。
翌週、
翌週、攻撃は
攻撃は激しさを増
しさを増した。
した。8月2日、ポイント・イサベ
イント・イサベルから十四
ルから十四マイル
十四マイルほ
マイルほどのと
ころで測量をしていた一団
をしていた一団が
一団が十五人
十五人のメキシコ人
のメキシコ人から銃撃
から銃撃を
銃撃を受けたが、
たが、一人が
一人が銃弾で
銃弾で掠り
傷を受けた以
けた以外は全員無事であった。
であった。同じ頃ブラウンズヴィ
ラウンズヴィル
ズヴィル郊外でメキシコから河
でメキシコから河を渡
って侵入
って侵入した
侵入した二
した二組の奇襲隊
奇襲隊員が農場主に
場主に銃を突きつけて十三
つけて十三頭
十三頭の馬と鞍を五つ奪って逃
って逃げ
42
43
176
た。
44
34. James A. Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Diego
19041904-1923”
1923”, University of Oklahoma Press, P86
35. Ibid. P86
36. Charlehs H. Barris III and Louis R. Sadler, “Texas Rangers and the Mexican Revolution”
Revolution”,
University of New Mexico Press, 2002, P248
37. Ibid. P250
38. Ibid. P250
39. Ibid. P251
40. Ibid. P252
41. Ibid. P255-257
42. Ibid. P260
43. Ibid. P258
44.
44. Ibid. P260