218 パンチョ・ビ パンチョ・ビヤのコロンバス襲撃 ヤのコロンバス襲撃 1915年 915年の終わり、 わり、ビヤの壊滅的 ヤの壊滅的なソノラ 壊滅的なソノラ作戦 なソノラ作戦の 作戦の後、アメリカの観測 アメリカの観測筋 観測筋はカランサが 実権を 実権を握り北部師団は 北部師団は軍事的に 軍事的に消滅した 消滅したとの したとの見方 との見方で 見方で一致し 一致していた。 ていた。その上 その上、多くがビ くがビヤは アメリカへ亡命 アメリカへ亡命する 亡命すると すると予想した 予想した。 した。チワワ州知事 チワワ州知事イグナチオ・ 州知事イグナチオ・エンリケスは イグナチオ・エンリケスはビ エンリケスはビヤが亡命 ヤが亡命する 亡命する とは言 とは言わなかったが、 わなかったが、州内をさ 州内をさ迷 をさ迷っているビ っているビヤ兵は取るに足 るに足らぬと判断 らぬと判断し 判断し、カランサに二 カランサに二 千人の 千人の兵を要求しただけであった 要求しただけであった。 しただけであった。ビヤはそれまで手 ヤはそれまで手を付けることがなかったアメリカ資 けることがなかったアメリカ資 本の農場を 農場を襲い始めた。 めた。人気が 人気が落ちるにつれて、 ちるにつれて、ビヤは狂暴 ヤは狂暴さを 狂暴さを剥 さを剥き出しにしていった。 しにしていった。 更に不評を 不評を買ったのは、 ったのは、鉱山業その 鉱山業その他 その他で操業を 操業を再開しようとした 再開しようとしたアメリカ しようとしたアメリカ企業 アメリカ企業を 企業をビヤが妨 ヤが妨 害したことであった。 したことであった。経済回復を 経済回復を遅らせることでカランサ政権 らせることでカランサ政権を 政権を弱めようとしたのと、 めようとしたのと、ア メリカの企業家 メリカの企業家に 企業家に危害を 危害を加えることにより、 えることにより、アメリカ政府 アメリカ政府が 政府が軍事介入に 軍事介入に踏み切ることを期 ることを期 待していた ていた。 1916年 1916年1月10日 10日、このような背景 このような背景のもとチワワ 背景のもとチワワ州 のもとチワワ州サンタ・イサベルの町 サンタ・イサベルの町で、鉱山 の町クシゥィラチ行 クシゥィラチ行き旅客列車がジェネラル・パブロ・ロペスの 旅客列車がジェネラル・パブロ・ロペスの指揮 がジェネラル・パブロ・ロペスの指揮する 指揮するビ するビヤ軍分遣隊に 軍分遣隊に 襲われた。 われた。列車にはメキシコ 列車にはメキシコ人以外 にはメキシコ人以外に 人以外に、クシゥィラチ鉱山 クシゥィラチ鉱山の 鉱山の操業再開のためアメリカ 操業再開のためアメリカ人 のためアメリカ人マ ネージャーと十八 ージャーと十八人 十八人の鉱山技師が 鉱山技師が乗っていた。 っていた。彼等はチ 彼等はチワワでの はチワワでの内戦 ワワでの内戦が 内戦が激しくなり避難 しくなり避難し 避難し ていたのを、 ていたのを、カランサ政府 カランサ政府が 政府が治安回復を 治安回復を保証して 保証して操業再開 して操業再開を 操業再開を求めたため、 めたため、戻る途中であっ 途中であっ た。治安に 治安に不安を 不安を感じたマネージャー・ じたマネージャー・C.R. マネージャー・C.R.・ワトソンはカランサ政府 ワトソンはカランサ政府に 政府に軍隊の 軍隊の派遣を 派遣を 求めた。 めた。しかし、 しかし、カランサのチワワ政府 カランサのチワワ政府は 政府は、ビヤは既 ヤは既に無力で 無力で、その必要 その必要はないことを 必要はないことを強 はないことを強 調し、軍隊の 軍隊の派遣を 派遣を拒んだ。 んだ。この決定 この決定が 決定が悲劇を 悲劇を招いた。 いた。突然列車が 突然列車が止められ、 められ、様子を 様子を探り に外に出たアメリカ人 アメリカ人三人のうち 三人のうち二人 のうち二人は 二人はいきなり射殺 いきなり射殺され 射殺され、 され、ただ一人 ただ一人の 一人の生存者となるトー 生存者となるトー マス・ホームスは藪 マス・ホームスは藪の中に逃れた。 れた。客車に 客車に入ったロペスの兵士 ったロペスの兵士はアメリカ 兵士はアメリカ人 はアメリカ人を皆外へ 皆外へ連れ 出して殺 して殺した。 した。この殺 この殺戮のあと、 のあと、メキシコへの介入 メキシコへの介入を 介入を叫ぶ声が高まったが、 まったが、ウイルソン大 イルソン大 統領はメキシコの 統領はメキシコの内政 はメキシコの内政干渉 内政干渉になるとして 干渉になるとして退 になるとして退けた。 けた。しかし数週間 しかし数週間後 数週間後、大統領が 大統領が態度を 態度をガラリ と変える出 える出来事が起る。 8 9 1916年 1916年1月18日、パンチョ・ビ パンチョ・ビヤは二 ヤは二百人の精鋭、 精鋭、ドラド守備隊 守備隊員を集め、これ から国境 から国境の 国境の町オヒナガからアメリカを攻 からアメリカを攻撃することを伝 することを伝えた。 えた。最後となるこの攻 となるこの攻撃が終わ ったら、 ったら、皆解散すること 解散すること、 すること、途中で 途中で分遣隊が 分遣隊が加わることを伝 わることを伝えた。 えた。オヒナガの対岸プレ 対岸プレシ プレシデ ィオのあたりは何 ィオのあたりは何もないところ もないところで、守備が 守備が手薄であること以外 であること以外、 以外、ビヤが何故 ヤが何故そこを 何故そこを選 そこを選んだ のか、 のか、理由は 理由は分からない。 からない。24と 24と25日の夜、かなりの脱走 かなりの脱走兵 脱走兵が出た。カルデ カルデナス大佐 ナス大佐が 大佐が 五人を連れて脱走 れて脱走兵 脱走兵を追った。 った。28日 28日まで待 まで待ってもカルデ ってもカルデナスは戻 ナスは戻ってこなかった。 ってこなかった。更に 脱走兵 脱走兵が増えることを畏 えることを畏れたビ れたビヤは遠征 ヤは遠征を 遠征を中止した 中止した。 した。 ビヤはこれに懲 ヤはこれに懲りず2月20日、未だ忠誠を 忠誠を誓う腹心の 腹心の部下カンデ カンデラリオ・セ ラリオ・セルバンテ スを彼 スを彼の故郷ナ 故郷ナミキパに送 キパに送り、元北部師団の 北部師団の兵士を 兵士を対象に 対象に強制徴兵 制徴兵を行った。 った。志願兵 志願兵しか 率いたことのないビ いたことのないビヤは初 ヤは初めて、 めて、ポルフィリオ・デ ィリオ・ディアス時代 ィアス時代のような 時代のような手 のような手段に頼ることに 10 219 なった。 なった。前回のように脱走 のように脱走兵 脱走兵が出ることを畏 ることを畏れて、 れて、ビヤは攻 ヤは攻撃目標が 目標がアメリカであること を伏せた。 せた。彼は脱走すれ 脱走すれば すれば家族を全員木から 全員木から吊 から吊るすと兵士 るすと兵士を 兵士を脅した。 した。 2月24日 24日、ビヤはニュ ヤはニューメキシコ ニューメキシコ州 ーメキシコ州コロンバス攻 コロンバス攻撃に出発した。 した。各駅に 各駅に数千の志願兵 志願兵 が集まった北部師団 まった北部師団全盛時代 北部師団全盛時代に 全盛時代に比べると酷 ると酷い違いであった。 いであった。何時脱走するかもしれない 何時脱走するかもしれない、 するかもしれない、 戦意の全くない徴 くない徴兵を率いるのは始 いるのは始めてであった。 めてであった。約二週間、 週間、部隊はアメリカへ 部隊はアメリカへ向 はアメリカへ向かって 行進した。 した。カランサ軍 カランサ軍から察 から察知され、 され、コロンバスに通報 コロンバスに通報され 通報されるのを されるのを恐 るのを恐れ、夜間行軍 夜間行軍した 行軍した。 した。 遠征部隊 遠征部隊が 部隊が途中で 途中で出合った数 った数人の民間人 民間人は捕らえられた。 らえられた。メキシコ人 メキシコ人は二三日 二三日して、 して、馬や 所持品を 所持品を返して放免 して放免された 放免された。 された。国境に 国境に到達するまでに 到達するまでに出 するまでに出合ったアメリカ人 ったアメリカ人は残忍な 残忍な仕打ちを 仕打ちを 受けた。 けた。ビヤはそれまでアメリカ ヤはそれまでアメリカ人 でアメリカ人の財産を 財産を掠奪し 掠奪し、国外追放をした 追放をした事 をした事は数々あったが、 あったが、 無慈悲に殺した事 した事はなかった。 はなかった。途中で 途中で出会った三人 った三人のアメリカ 三人のアメリカ人 のアメリカ人カウボーイの ウボーイの一人 ーイの一人は 一人はビヤ と顔見知りであった 見知りであった。 りであった。一度友達になれ 度友達になれば になればビヤは決 ヤは決して害 して害を加えないことを知 えないことを知っていた彼 っていた彼は、 仲間と 仲間と一緒に、いとも簡単 いとも簡単に 簡単に殺されてしまった。 されてしまった。殺された一人 された一人のアメリカ 一人のアメリカ人 のアメリカ人妻はコロンバ スまで同 スまで同行させられてから放免 させられてから放免された 放免された。 された。 3月8日、ビヤの遠征 ヤの遠征隊 遠征隊はコロンバスから四 はコロンバスから四マイルの地点 マイルの地点に 地点に到着した 到着した。 した。コロンバスは住 コロンバスは住 民二百から三 から三百人が丸太小屋に 丸太小屋に住む、全く魅力に欠けた村 けた村で、六百人 六百人近いアメリカ軍 いアメリカ軍守備 隊が駐屯していた 駐屯していた。 していた。ビヤがコロンバスを襲撃 ヤがコロンバスを襲撃したのは 襲撃したのは、 したのは、サム・ラヴ サム・ラヴェルという男 ェルという男の家があ ったからと言 ったからと言われている。 われている。ビヤは武器 ヤは武器を 武器を購入するためラヴ するためラヴェルに金 ェルに金を渡していたが、 していたが、約束 を果たさず たさず、金も返さなかった事 さなかった事への仕返 への仕返しであると 仕返しであると。 しであると。しかし、 しかし、最初にオ 最初にオヒ にオヒナガの対岸、 対岸、 テキサス州 キサス州プログレ ログレソを攻 ソを攻撃しようと試 しようと試みたことを考慮 みたことを考慮に 考慮に入れると、 れると、この説 この説にはあまり説 にはあまり説 得力がない。 がない。ビヤは米 ヤは米軍守備隊 守備隊を簡単に 簡単に打ち破り、機関銃や 機関銃や最新の 最新の小銃を 小銃を易々と手に入れ ることが出 ることが出来る程度に 程度に考えていたのではないだろ えていたのではないだろうか。 決断を 決断を下す前にビヤは丘 ヤは丘の上からコロンバスを見 からコロンバスを見下ろし、守備隊 守備隊の数が斥候の 斥候の報告以上 報告以上に 以上に 多いことを確認 いことを確認し 確認し、逡巡した 逡巡した。 した。ビヤはセ ヤはセルバンテスと彼 スと彼の追随者 追随者に説得され 説得され、 され、到着日 到着日の夜 攻撃する決 する決意を固めた。 めた。ビヤの作戦 ヤの作戦は 作戦は部隊を 部隊を二班に分け、一斑は町の南にある軍 にある軍の宿営地 キャンプ キャンプ・ファーロングの ファーロングの攻 ーロングの攻撃、第二班は町の中心にある銀 にある銀行を襲い、ラヴェルを撃 ェルを撃って 彼の家を焼き払うにことにした。 うにことにした。ビヤは少数 ヤは少数の 少数の予備部隊と 部隊と共にメキシコ側 にメキシコ側に残り、3月9 日朝4時45分、国境から 国境から三 から三マイル離 マイル離れたコロンバスへ突入 れたコロンバスへ突入を 突入を開始した 開始した。 した。奇襲攻撃は成功 した。 した。 11 12 13 14 コロンバスには コロンバスには第 バスには第十三騎 十三騎兵連隊が 兵連隊が駐屯していた 駐屯していた。 していた。守備隊 守備隊長は二日前 二日前、ビヤが国境 ヤが国境に 国境に接近 しコロンバスを攻 しコロンバスを攻撃する可能性 する可能性があることを 可能性があることを警告 があることを警告されていたにも 警告されていたにもか されていたにもかかわらず、無視した。 した。 カランサ軍 カランサ軍チワワ州 チワワ州最高指揮 最高指揮官 指揮官ジェネラル・ガ ジェネラル・ガブリエル・ガ ブリエル・ガビラがジェネラル・パーシン グに送 グに送った警告 った警告は 警告は守備隊 守備隊長ハーバート・スローカム少佐 ーバート・スローカム少佐に 少佐に伝えられていた。 えられていた。以前にも似 にも似た ような話 ような話があり、 があり、何事も起こらなかったので、 こらなかったので、司令官の 司令官の警告を 警告を無視した。 した。しかし今 しかし今回はア メリカの牧 メリカの牧場で働くアントニ くアントニオというメキシコ人 オというメキシコ人から、 から、武装したメキシコ 武装したメキシコ人 したメキシコ人の大きな集 きな集団 がコーベッ がコーベットというカウボ トというカウボーイ ウボーイ仲間 ーイ仲間の 仲間の一人を 一人を逮捕した 逮捕した、 した、との話 との話を聞いて少 いて少し驚いたスロー 220 カムはアントニ カムはアントニオに二十 オに二十ド 二十ドル渡して偵察 して偵察をさせた 偵察をさせた。 をさせた。部下をメキシコに潜 をメキシコに潜入させる事 させる事は禁じ られていたからである。 られていたからである。アントニ アントニオが実 オが実際に探したかど したかどうかは疑 うかは疑わしい。 わしい。アントニ アントニオは見 オは見 つけることが出 つけることが出来ず、コロンバスから離 コロンバスから離れていく二 れていく二つの縦 つの縦隊と思しき足 しき足跡があったことを 報告した 報告した。 した。スローカムは念 スローカムは念のため越境地点 のため越境地点と 越境地点と予想される 予想される二 される二箇所に 箇所に分遣隊二 分遣隊二百人を配置し 配置し、 残り三百五十 百五十人をコロンバスに置 をコロンバスに置いた。 いた。しかし警 しかし警戒態勢をとったわけではなく、 をとったわけではなく、部下の将 校はいつものように町 はいつものように町の北にある自宅 にある自宅に 自宅に帰っていた。 っていた。 1916年 1916年3月9日4時45分、守備兵 守備兵は眠っていた。 っていた。当直将校 当直将校は 将校は二人しかいなかった 二人しかいなかった。 しかいなかった。 ビヤ兵は兵舎に向かって一 かって一斉射撃を 射撃を加え、基地は大混乱に 混乱に陥ったが、 ったが、将校は 将校は素早く 素早く体勢を 体勢を 立て直した。 した。ビヤの過 ヤの過ちは、 ちは、守備兵 守備兵の数を少なく見 なく見込んで部隊 んで部隊の 部隊の半数しか基 しか基地攻撃 地攻撃に向け なかったことと、 なかったことと、最初に 最初に襲ったのが厩舎 ったのが厩舎で 厩舎で、宿舎でなかったことであった。 でなかったことであった。ビヤ兵が馬を 殺している間 している間に立て直した守備 した守備兵 守備兵が機関銃で 機関銃で応戦した。 した。アメリカ軍 アメリカ軍の火力に圧倒された 圧倒されたビ されたビ ヤ兵は多くの犠牲 くの犠牲者 犠牲者を出し、町の中央部へ移動した 移動した。 した。第二班が突入した 突入した町 した町では市 では市民がパニ がパニ ック状態になっていた。 なっていた。「ビバ・ ビバ・ビヤ、ビバ・メ ビバ・メヒ ・メヒコ」と叫んで民 んで民家を狙い、飛び出した市 した市 民に向かって発 かって発砲した。 した。 彼等はサム・ラ 彼等はサム・ラヴ はサム・ラヴェルのホテ ェルのホテルに押 ルに押し入り、四人の客を殺した。 した。ラヴェルはエルパソへ 歯の治療に行って不 って不在であった。 であった。アメリカ兵 アメリカ兵は既に反撃に出ていた。 ていた。未だ暗く、逃げ惑う 市民とメキシコ兵 とメキシコ兵の区別は 区別は付かなかった。 かなかった。暫くするとビ くするとビヤ兵がホテ がホテルに火を放ち、辺りが 炎に照らし出 らし出されると、 されると、ビヤ兵は次々と倒れた。 れた。やがて鳴 がて鳴った喇叭 った喇叭の 喇叭の合図でビヤ軍は撤退 した。 した。アメリカ軍 アメリカ軍は容赦なく 容赦なく後 なく後を追ってメキシコへ五 ってメキシコへ五マイルも攻 マイルも攻め込み、ビヤ軍後衛 軍後衛部隊 と激しい撃 しい撃ち合いをしてコロンバスへ引 いをしてコロンバスへ引き上げた。 アメリカ人 アメリカ人の犠牲者 犠牲者は十七人、殆どが市民であった。 であった。命を落としたビ としたビヤ兵は百人以上、 人以上、 しかも銀 しかも銀行の金やアメリカ軍 アメリカ軍の武器な 武器など何一つ得る事は出来なかった。 なかった。しかし、 しかし、ビヤは心 ヤは心 理的には大成功 には大成功を 大成功を収めた。 めた。国境地帯 国境地帯のアメリカ人 のアメリカ人を恐怖に落し入れ、少なくとも北 なくとも北東部に おいてカランサ政府 いてカランサ政府は 政府は無力であることを 無力であることを証 であることを証明した。 した。怒り心頭に達したアメリカ兵 したアメリカ兵は捕虜を 虐待し、町に住むメキシコ人 メキシコ人七人ほどを共謀者として逮捕 として逮捕し 逮捕し、法廷で 法廷で裁いて半 いて半数を木に吊 るした。 るした。 15 16 17 たまたま、 たまたま、コロンバスのホテ コロンバスのホテルに泊 ルに泊まっていたAP まっていたAP通 AP通信社員 信社員の電報で、ウイルソン大統 イルソン大統 領はビヤが引 ヤが引き揚げてから僅 てから僅か三時間後 時間後に事件を知ったが、 ったが、直ぐには動 には動かなかった。 かなかった。ジェ ネラル・フ ネラル・フンストンとファ ンストンとファー ファーガソンは直 ソンは直ちに反応 ちに反応し 反応し、国境へ 国境へ援軍を送ると共にパニッ にパニックに ニックに なった市 なった市民のコントロールにあたった。 のコントロールにあたった。コロンバスではビ コロンバスではビヤが再 ヤが再び襲ってくるとの噂 ってくるとの噂が広 まり、 まり、スローカム大佐 スローカム大佐は 大佐は女子供を基地の中に受け入れた。 れた。 翌日3月10日 10日、ワシントンでは閣僚 ワシントンでは閣僚会 閣僚会議が開かれ、 かれ、その午 その午後大統領令が 大統領令が発せられた。 せられた。 ビヤを逮捕 ヤを逮捕し 逮捕し、彼の一団が 一団が再び攻撃するのを防 するのを防ぐため、 ため、メキシコの主 メキシコの主権を犯さないよう細 さないよう細 心の注意を払って、 って、メキシコ国 メキシコ国内へ軍隊を 軍隊を送る、と言う内容であった。 であった。ウイルソンはヤン キーの侵略 ーの侵略と 侵略と受け止めるカランサの反応 めるカランサの反応が 反応が気がかりであったが がかりであったが、国民が 国民が交戦を要求してい 要求してい 18 221 た。カランサは個 カランサは個人的にはアメリカの 人的にはアメリカの援助 にはアメリカの援助を 援助を求めていたが めていたが、国民からアメリカに 国民からアメリカに屈 からアメリカに屈したと 見られることは避 られることは避けなくてはならなかった。 けなくてはならなかった。カランサはこれまでもアメリカに主 カランサはこれまでもアメリカに主権が侵さ れることに関 れることに関しては常 しては常に敏感であった。 であった。 事件の当日午後3時、チワワのジェネラル・ルイス・グテ チワワのジェネラル・ルイス・グティエレ ィエレスは、 スは、アメリカの領 アメリカの領 事に、盗賊捕 盗賊捕獲の命令が出ていることを告 ていることを告げ、更に三時間後 時間後には追 には追討部隊二 部隊二百五十 百五十人と、 さらにオヒ さらにオヒナガに向けて三 けて三百五十 百五十人が既に出発したことを報告 したことを報告した 報告した。 した。アメリカ、 アメリカ、特に国境 沿いの市 いの市民はそのような対 はそのような対応には満 には満足せず、メキシコからの謝罪 メキシコからの謝罪と 謝罪とビヤへの報 ヤへの報復を要求し 要求し た。 ランシング国 ランシング国務長官はメキシコ 長官はメキシコ市 はメキシコ市の特別捜査 特別捜査官 捜査官ジョン・ベルトに厳 ジョン・ベルトに厳しい内 しい内容の書簡を送 り、自ら直接カランサに手 カランサに手渡すことを命 すことを命じた。 じた。カランサからの回 カランサからの回答はその日 はその日のうちに届 のうちに届け られた。 られた。1880 880年代には両 には両国の間に似たような問題 たような問題が 問題が発生していた。 していた。アメリカのインデ アメリカのインデ ィアン保 ィアン保留地からアパッ からアパッチがメキシコを頻繁 チがメキシコを頻繁に 頻繁に襲っていた。 っていた。この時 この時両国はお互いに武装 いに武装し 武装し た軍隊を 軍隊を自由に、国境を 国境を超えて盗賊 えて盗賊を 盗賊を追跡し 追跡し懲らしめることに合意 らしめることに合意していた 合意していた。 していた。カランサの 回答にはウ にはウイルソンの意向 イルソンの意向を 意向を保証するだけではなく 保証するだけではなく、 するだけではなく、この故 この故事に則った新 った新しい取 しい取り決めを する重 する重要な提案も 提案も含まれていた。 まれていた。 ウイルソンとランシングが安 イルソンとランシングが安堵したのも束 したのも束の間、次の日カランサは考 カランサは考えを改 えを改め、もしア メリカ政府 メリカ政府が 政府が軍隊をメキシコの 軍隊をメキシコの領 をメキシコの領土に送り込むなら、 なら、メキシコ政府 メキシコ政府はその 政府はその行 はその行為をメキシコ への侵略 への侵略と 侵略と見做す、と通告した 通告した。 した。ウイルソンはカランサの警告 イルソンはカランサの警告を 警告を無視した。 した。その理由 その理由は 理由は二 つあった。 つあった。一つはカランサにはチワワを警 つはカランサにはチワワを警護し、ビヤを追跡 ヤを追跡する 追跡する力 する力がないと判断 がないと判断したこと 判断したこと、 したこと、 もう一 もう一つは、 つは、アメリカ国民 アメリカ国民が 国民が騒然となっていて、 となっていて、何か手を打つ必要があった 必要があった。 があった。ウイルソン が再選をかけた選 をかけた選挙は数ヵ月後に迫っていた。 っていた。このまま放 このまま放置すると議 すると議会がメキシコに対 がメキシコに対す る全面戦争を強制することになりかね することになりかねなかった。 なかった。ドイツへの宣 への宣戦布告が重くのしかかり、 くのしかかり、 それだけは避 それだけは避けねばならなかった。 ならなかった。 19 20 222 8. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa” Villa”, Stanford University Press, 1998, P550 9. Ibid. P557 10. Ibid. P560 11. Ibid. P561 12. Ibid. P562 13. Ibid. P563 14. Ibid. P564 15. Ibid. P565 16. Ibid. P566 17. John S. Eisenhower, “Intervention! The United States and the Mexican Revolution, W. W. Norton & Co., Inc., 19131913-1917, P227 18. Ibid. P228 19. Ibid. P230 20. Ibid. P232
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