平成21年度 大手前大学公開講座講義録 目 次 総合テーマ『時空をこえて~変貌する社会と文化~』 — — 第一回 (四月十八日) 章司 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森下 古墳の出現と社会の変化 ・ 宏海 考古学から見た日本の中世から近世への社会変貌 ・・・・・・・・・・・・・ 川口 5 ― 世紀の国際社会 憲一 富士山の文化史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上垣外 第四回 (七月十八日) コレラと情報 第三回 (六月二十日) 第二回 (五月十六日) 耕司 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 尾㟢 ・ ― 33 61 77 19 第五回 (九月十九日) 智 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 村瀬 インド社会の変ぼうと世捨て人の戦略 ・ 第六回 (十一月二十一日) (パネルディスカッション) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シャーリー・アンドウ 在住外国人が見た日本 ・ 第七回 (十二月十九日) 耕治郎 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 畑 インターネットで広がる学びの世界 ・ 121 151 169 第一回 平成二十一年四月十八日 古墳の出現と社会の変化 森下 章司 今、御紹介いただいたとおり、私の専門は、考古学という学問です。考古学から今回のテーマとなる社 会の変化をどのようにとらえるかということに関してお話をさせていただきたいと思います。タイトルは 「古墳の出現と社会の変化」としております。 考古学については、皆さん御存じの方も結構多いとは思うんですけれども、遺跡を調査して、そこから 歴史を研究するという学問になります。どうやって発掘したものから歴史を組み立てるのかというのは問 題で、学生さんが卒論を書くときにも一番にひっかかるところです。いろいろなやり方があるんですね。 私は今回のテーマの「変化」は、歴史を研究するときに、一つのポイントになる考えだと思っております。 歴史の研究、考古学の研究でも、「変化」という点に目をつけて説明するというのは、大変重要な方法に なっています。 考古学で見てゆきましても、この日本列島の歴史の中にはいろいろな変化があります。私たちはその一 番大きな変化のことを、「画期」と呼んでいます。歴史の歩みの中で大きな変化が起こるところ、それを「画 期」とし、その「画期」の状況を研究のテーマにするということがよく行われます。 日本列島の歴史、人間が住み始めてからの歴史は、大体今から少なくとも三万年以上前に遡ります。い つから日本列島に人が住んでいたか、非常に難しい問題になってるんですけれども、大陸から渡ってきた 人間が住み始めて以降、日本の歴史の中に非常に大きな画期がいくつかあります。 まず「定住の始まり」があげられます。これは縄文時代の始まりにあたります。それまで狩猟中心で、 獲物を追う移動生活をおくっていたのが、縄文時代の始まりとともに少し生活が安定して、そして一カ所 で長くとどまって生活をするという、定住が始まる、これは最初の大きな画期です。 その次の大きな変化というのは、「農耕社会の成立」であり、弥生時代の始まりですね。稲作文化が大 陸から入ってまいりまして、食糧生産の方法、社会の仕組みそのものが決定的な変化をとげました。今ま で、私たちも米を食べる生活をおくっているわけですけれども、その基礎がつくられたのが弥生時代です。 その次、きょうのテーマにしております「古墳の出現」というのも、これまた次の大きな変化です。弥 生時代から古墳時代への大きな変化、ひょっとするとこの変化というのは、今の日本の社会的基礎を形づ くったのかもしれません。三番目の大きな変化として、この「古墳の出現」という変化があげられます。 そこでは「出現」という言葉を使っておるんですけれども、これは「今までなかったことがあらわれて くる」という意味になります。この古墳の出現というのは、具体的には「前方後円墳の出現」と言いかえ ることもできます。 前方後円墳は御存じのとおりの形の墳墓です。きょう何度も出てきます有名な古墳、奈良県にあります 箸墓古墳をまず例にとりあげます(図一)。後で映像も見ていただこうと思っていますが、この箸墓古墳が、 ほとんどの研究者が一致して、一番古い段階の前方後円墳というふうに評価しています。古墳時代の一番 最初のところに位置づけられています。それは単に古いというだけではなくて、墳丘の長さが約二百八十 メートルの大変大きな古墳なんですね。 ですから、この前方後円墳というのは、 前の時代の墳墓がだんだん大きくなって きて、そして古墳時代になってさらに巨 大化するという、そういう段階的な変化 で は な く、「 出 現 」 と い う 言 葉 を 使 い ま したのはそこに理由があるんですけれど も、突然大きなものがどーんと出てくる ということになります。その「画期」と 図1 箸 墓古墳の復元(橿原考古学研究所『箸墓古 墳周辺の調査』奈良県文化財調査報告書 第 89 集 2002 年より改変) なるのがこの箸墓古墳ということになります。考古学でわかっているのは、それまでいろいろなお墓があ りますが、お墓という面から見ますと、ここには非常に大きな「画期」があるということです。 そうしますと、一体なぜ、どういう背景からこのような変化が発生したのかということがすぐ問題にな るわけなんですけれども、実はこの問題は、戦後もう五十~六十年間ずっと議論が続いてますし、いろん な研究者が興味を持ち、たくさんの研究がなされ、盛んに検討が行われていますが、まだ決着がついてい ません。たくさんの説明があります。その分、謎と言いますか、おもしろいというか、みんなが関心を持 っている分野です。私も興味を持っております。この間には単なる墓の変化だけではなくて、何かもっと 大きな変化があったんだというふうに多くの人は考えてはいますが、具体的にはわかっていないという状 態です。 「変化」の状況について、もう少し詳しく見ていこうと思います。弥生時代の終わりぐらいの時期の墓 と比べてみます。弥生時代にも大きい墓はあるんですね。例えば岡山県の楯築という墳墓、これちょっと 変った形をしてまして、双方中円墳という言い方をされています。二つの出っ張りがついてて、真ん中が 丸い形です。墳丘長が八十メートル前後に及ぶかなり大きな墓です。弥生時代の墳墓としてはかなり大き なものが、岡山県でつくられている。 島根県には、非常に奇妙な形の墓なんですけれども、糸巻きみたいな形をした墳墓があります。名前も 変ったものがついていまして、四隅突出型墳丘墓と呼んでおります。四つの隅が出っ張っているからとい うことなんですけれども、島根県をはじめとして、日本海側に多いのが特徴です。楯築墓ほどではありま せんが、これもなかなか大きい墳墓です。 それから、ちょっと前から話題になっているのですけれども、京都の赤坂今井墓という弥生時代の墳墓 があります。京都と言っても京都市の方ではなくて、丹後ですね。日本海側で山地の中にあります。まわ りに広い平野もないんです。これまた非常に大きな墳墓です。説明なしに見たら、古墳だろうと思うぐら い大きく立派な墓がつくられている。これは形は四角です。 こうやって見てゆくと、弥生時代の墳墓にも、結構大きなもののあることが分ります。もちろん、普通 の人が葬られている墓ではなくて、ある程度のクラス、特に岡山の楯築墓とか丹後の赤坂今井墓は、その 地域のトップクラスの人たちが葬られている墓ですが、弥生時代にはもう出現しています。弥生時代の後 半にはかなり身分の差というのがはっきりしてきており、その中でもリーダーになる人はこういった特別 な墓に入るという制度ができ上っているわけです。 しかし、一つ言えることは、墓の形がばらばらなんですね。日本海側では、糸巻きみたいな形をしてい る墓があるし、京都の北の方では四角い墓が流行するというふうに、墳丘の形に統一性が余りなくて、地 域ごとの特徴が強いのです。 古墳時代になると、前方後円墳という統一的な形ができ上がり、日本の広い地域でこの形がつくられま す。各種の特徴がまとめられ、南は鹿児島県から北は岩手県まで、ほぼ似たような形の墓がつくられ、と くにトップの人たちの墓がこの形に統一されることが一つの特色です。墳墓の形式に全国的な決まりごと ができ、そして同じような規格でつくっていくということが一般的になるのです。 さらに大きな特徴は、弥生時代の墳墓と箸墓古墳とでは、全然大きさが違うことですね。楯築墓も非常 に大きいのですけれども、この箸墓古墳はもうそれとは比較にならないほど巨大化しています。これも変 化のキーワードの一つです。 大きいというのは土盛りの量が大きいということなのですけれども、たくさんの巨大な墓がつくられる というのも大きな変化です。御存じの仁徳陵古墳とか、応神陵古墳というのは、箸墓古墳よりさらに大き いんですよね。 それから、これは都出比呂志先生という有名な考古学者がつくられた図なんですが、単に大きい墓があ るというだけではなくて、その中に順番と秩序があるということを示しています(図二)。一番左上のと ころに前方後円墳があり、そこに大きな前方後円墳が絵が示されています。日本で一番トップの人たちの 墓が、一番の大きさでつくられていることになります。 ところが、それよりちょっと一回り小さいものもある。さらに一回り小さいものもある。かなり小さい 10 図 2 古墳の形と規模による階層 ものもある。こういうふうに順番に大 きさが変わってゆく。こういう状態に 私たちは「階層性がある」という言い 方をしています。順番にランクがある ということですね。墓にランクづけと いう、そういうものが出てくるという の も、 古 墳 時 代 か ら の 変 化 な ん で す。 弥生時代は大きな墓はあるのですけれ ども、そういう順番に小さくなってい くという傾向は、あまりはっきりしな い。古墳時代になりますと、前方後円 墳の一番大きなものとそれ から小さな もの、もっと小さいもの、そういう差 がどんどん激しくなってゆくのです。 11 つ い て、 ち ょ っ と か た い 言 葉 で す が、 (都出比呂志編『古墳時代の王と民衆』古代史復元 6 講談社 1989 年より) 大きさだけではなくて、形にもそういう秩序があります。前方後円墳だけではなくて、円墳とか方墳と いう単純な形のものもあって、それぞれ大きい、小さい、やっぱり階層性がある。大きな円墳もあれば小 さな円墳もあるという、そういう順番が非常にはっきりしているというのも特徴です。 こういう秩序が出てくるということは、人間の社会そのものにも変化、階層性が出てきたと考えられま す。トップの人たち、その次の人たちという順番がかなりはっきりしてきた。そのトップの人たちはもう 格段に大きいというそういう特徴が出てきたのも古墳時代になります。 さらに、それが全国的に形が統一されているというところがミソでして、これは奈良県に、あるいは大 阪もそうなんですけれども、いわゆる後の大和の王権とか、大和朝廷とか、そういう大和を中心にこのよ うな仕組ができ上がっていったことを意味します。一番トップは奈良か大阪に墓をつくるという、そして 地域にゆくとやっぱり小さくなっていくというのがはっきりしています。それまでは地域ごとに特色があ って、岡山県にも大きなお墓があったりするわけなんですが、そういうことは薄れてしまう。 いろいろな要素を取り上げていくと、やっぱりこれはかなり大きな変化とみることができます。最後に あげました大和中心という特徴が一番はっきりしているのですけれども、その後、日本の歴史は近畿を中 心に都がつくられ、天皇中心の社会がつくられていくわけですが、その始まりもここにあるのです。この 画期における変化というのは、その後の時代の方向性を決定づけるような変化であったということがわか 12 るわけです。 こういう非常に大きな変化ですから、その背景に具体的に何があるのかということに関心が持たれるわ けですが、ここからはちょっとわかっていないこと等を幾つか上げてゆきます。 まず一番は、前方後円墳というこの奇妙な形、これが一体どこからどのように出てきて、一体どんな意 味を持っているのかということに関しましては、いろいろな意見はあるのですけれども、最終的な決着に は至っていません。トップの人のお墓であり、一番大きなお墓がこの形になるわけですから、当時の何か シンボル的な意味があったはずなのですけれども、じゃあ具体的にどんな意味があったのか、これがよく わからないんですね。 最近中国へ行って、中国の漢のお墓というのを見てきたんですけど、皇帝の墓には、四角いものと、丸 いものがあります。四角や円形の墳丘というのは、どこでもごく一般的な形ですね。日本の前方後円墳の 特色は、突起物がついていることです。この突起のルーツに関しましては、非常におもしろい説明があり ます。丸い墓の回りを溝というか、堀で囲っているものがあるのですが、ここに橋をつけた墓が弥生時代 に出てきます。橋と言っても、木でつくった橋を渡すわけではなくて、陸橋なんですけれども、その部分 だけ掘り残し、堀をとめてしまって、渡って出入りができるような形態が出てきます。この陸橋が突起・ 前方部へと発達していったのではないかという考え方もされています。 13 さっきの四隅突出型墳丘墓という形も、同じような説明ができるんですね。四角いお墓があって、隅だ け掘り残して陸橋をつくって、お墓の中に入れるようにした。 人間のつくるものとか、生物の器官にもよくあることですが、最初は意味があって、あることに使うた めにつくられていた形が、だんだん元の意味・役割を失って形式化してゆき、飾りとか装飾というか、そ ういうものになってしまう。そんな変化は、私たちの身の回りにもよくあります。もとは陸橋だったものが、 その意味を失って、前方部の形に変わったのではないかというのも同じ考え方です。四隅突出型も、最初 は橋として使ってたんだけれども、その意味を失って、この段階では橋という意味はあんまりなくて、出 入りに使われた形跡はないのですね。単なる突起で、飾りに近い形になってしまっている。 もともとは陸橋だったのが、その意味を失い、しかも大型化して、でき上がったのが前方後円墳ではな いかという説は有力です。ただ、これだけではまだ解決していません。 と申しますのは、まだ前方後円墳に至る間の変化が非常に大きいんですね。前方後円墳という形ではも う陸橋の面影はまったくなくて、全体が一つの形になってしまっています。 また、ほかにもいろいろな説がありまして、例えばこの形自体に何か意味があるんだと。ひっくり返す と土器の壺に似ているので、壺の形をかたどったのではないかという説明もあるんですけれども、私には 余りそうは見えません。まず前方後円の形は上から見えたわけではないんですね、当時の人には。ですか 14 ら意識の上でそういう壺を想定したのではないかという説明もあります。他にも説はありまして、例えば、 これは丸と四角が合体したものだという人もいます。円と方というのは、中国では天と地の象徴です。前 方後円墳という形は円と方が合体してでき上がったもので、それで一つの世界を表現しているんだという 説もありますけれども、どうでしょうかね。 方と言ってるんですが、実は前方部は単なる四角ではないんですね。箸墓古墳の形もそうなんですけれ ども、側面がカーブを描いて広がっています。むりに見れば四角なんですけれども、円と方という合体形 にはちょっと見えません。 ともかく、当時の人は何かこの形に強い意味を見出して、そしてこれを一番トップの人から、ある程度 の人たちまで広く採用、これをつくることに大変なエネルギーをかけていたのです。 古墳の形について、今、上から見た平面形だけを話してきたのですけれども、もう一つ特徴があります。 この近所の方でしたら、五色塚古墳を多分ごらんになったことがあると思うんですけれども、そうであれ ばすぐイメージがわくと思います。単に平面形だけが問題じゃないですね。 古墳の形というのは、横から見たときどうなっているかも問題です。つくられた当時には段になってい ることが重要です。決して丸い山ではありません。一定以上の大きさの古墳はみなそうなんですけれども、 段で墳丘を構成しています。私たちは「段築」と呼んでいるのですけれども、大型古墳では大体三段です 15 ね。これもランクによる違いがあって、ちょっとランクが落ちると二段になったり、段がないものとかい ろいろあるんですが、段築で古墳をつくっているというのも大きな特徴です。 長い年月の間に、この段はだんだん崩れてしまって、今見ると、そんな形には見えない状態のものが多 くあります。しかし本来の形では、大きな古墳というのは、段がつくられている。この段をどのようにつ くっているかというと、土盛りによるのですが、斜面には石を並べておりまして、これを私たちは「葺石」 と呼んでいます。 今、見える仁徳陵古墳などは、うっそうと木が生えてて、自然の山みたいに思えるんですけれども、あ の姿はできたときのイメージとは全然違いまして、復元された五色塚古墳の姿が当時のありさまなんです ね。ぱっと見たときには石で覆われた、石山みたいな状態です。 さらに、この段の平らなところには、埴輪が並んでおります。特に五色塚古墳では、びっしりと並んで います。石で覆われ、埴輪がずらっと並んで、かなり人工的な山という姿ですね。木はもちろん一本も生 えてません。完全に人がつくった構築物というイメージを持っていただいたらよいと思います。 こうした形状にも何か意味があるのですね。単なる山ではなくて、段をつくり、表面を石で覆って飾り 立てることにたくさんのエネルギーを使う。よく、前方後円という形だけが問題になるんですけれども、 そうじゃなくて、その他の要素もふくめて全体的な説明が要るんですね。私たちは古墳というと、山をつ 16 くろうとしたというふうに思いがちなんですけど、それよりも、石山をつくろうとしたのではないかと思 うこともあります。何を意味するのかというのは、これまた意見がいろいろ分かれるのですけれども、そ ういう外観を強く意識した墓が出てくるのも、古墳時代の特徴です。 この大きな変化の後、大和が中心になり、大和に一番大きな古墳があって、全国にその影響を及ぼすこ とになります。これについては多くの人の意見が一致しておりますが、問題は、その前の段階ではどうだ ったのかというところがまた謎であります。というのは、大和には、今の箸墓古墳、それから、ちょっと 前にも、最近報告書が出たホケノ山という墓があるのですけれども、その前の段階については、実は余り 大きな墓が奈良でも大阪でも見つかってません。ですから、墓だけからいいますと、弥生時代の大和に大 きな墓を生みだす下地があったとは見えないのです。 さらに研究者に衝撃を与えた発見というのがありました。箸墓古墳から出土しました特殊器台型埴輪と 呼ばれるものがそれです。これは、埴輪の先祖になります。ちょっとだけ説明しておきますと、埴輪とい うと馬の埴輪とか人物埴輪とかを思い浮かべる方が多いかもしれませんが、埴輪の中心となるのは円筒の 形をした埴輪なのですね。筒の形の埴輪がメインでして、埴輪を使ってる古墳でしたら、この円筒埴輪が 主となります。人物とか馬の埴輪というのは後から出てくる形式です。 17 この円筒埴輪の古いタイプが、箸墓古墳にありました。一体この形はどこからきたのかということが、 いろいろ議論になってたのですが、土器の器台からこの形ができてきたのだということが、研究の結果、 判明しました。器台とは何かというと、もともとはこういう壺などを乗せる台なのですね。「台」と呼ん でいるのはそのためです。この器台がどんどん大きくなってゆき、特殊という名前がついているように、 用途が特殊化し、最後には古墳に並べるようになるという、そういう変化があったことがわかっておりま す。 問題はそういう変化が起きたのが、大和ではないことです。そうした変化が起きたのは、吉備、岡山県 だと。埴輪の御先祖が岡山にあるんだということがわかって、研究者に大きな衝撃を与えました。それま では古墳というと、大和が中心だから、全部そのルーツは弥生時代の大和にあるのだろうと。それがだん だん変化してきて、大きな前方後円墳ができ上がっていったのだろうと考えられていたわけです。しかし、 とくに最近は、葺石という要素もそうですが、弥生時代の大和の墓にはそういう要素がそろってない。む しろ他の地方にそういうものがあるということがわかってまいりました。弥生時代から古墳時代への変化 というのは、大和にあった勢力というのがだんだん大きくなってきて、そして全国を支配するようになっ たんだというようなイメージだけでは説明が難しく、どうも地方からの色々な影響がある。大和の遺跡か ら地方の土器がたくさん出てるというのもそういうことなんですけれども、地方のいろんな勢力が集まっ 18 てきてつくられたのが、古墳のはじまりではないかという説明が有力になっています。ただ、具体的に地 方がどのようにかかわってきたのか、どんなところが中心になったのか、人によっては岡山県の人たちが 来てつくったんだという、極端な説もあるんですけれども、その辺に関してはまだ意見が分かれている状 態でして、決着がついていません。 以上が、一般的な変化説明なのですけれども、最近ちょっと私が考えておりますとかいうことを、少し お話ししていきたいと思います。そもそも日本の古墳、前方後円という形は非常に特殊なのですけれども、 他国の墳墓と比べてどんな特徴を持っているのかということをよく考えます。 偉い人のために、大きな墓をつくるという風習は、世界の各地にあります。一般には「王陵」と呼んで ます。中国では歴代の皇帝の王陵があります。日本でも王陵は古墳時代以降もつくられる場合がありまし て、御承知の方も多いかもしれませんけれども、明治天皇は桃山に大きな墳丘のお墓がありますよね。大正、 昭和天皇は東京の多摩に、古墳を参考にしたようですけれども、大きな墓があります。朝鮮半島の三国時 代~高麗時代にもありますし、非常に強い力を持った人たちが現れると大きな墓をつくるというのは、一 般的な風習だというふうにとらえられますけれども、実はそれを見てゆくと、結構違いがあるんですね。 日本の古墳がどういう特徴を持っているのかということを見るときに、世界のほかのお墓ですね、ほか の王陵と比べるというのは非常に重要な研究視角だと思います。王陵中の王陵という点で、秦の始皇帝陵、 19 行かれた方も多いかもしれませんけれども、世界遺産に指定されている秦の始皇帝陵というのはどんなも のなのかという話をさせていただきます(図三)。 高校・中学校の歴史の教科書にはよく出てくるのですけれども、日本の前方後円墳は大きいと、仁徳天 皇陵の墳丘の部分の大きさは世界のどの王陵よりも大きいだろうということで、比較としてピラミッドと 秦の始皇帝陵が出てきますが、ちょっとその説明は間違っているんですね。 秦の始皇帝陵の平面図を用意してあります。その真ん中にある四角い部分が墳丘です。結構大きな墳丘 があります。墳丘の長さだけを比べると、それは仁徳陵古墳の方が大きいのですけれども、秦の始皇帝陵 というのは、これだけがお墓というと、大間違いです。それは有名な兵馬俑坑の発見もふくめて明らかに なってきたことです。 どういうことかと申しますと、中央に四角い墳丘があるんですけれども、調査とか探査の結果、わかっ てきたのですが、この墳丘の回りにいろんな設備があるんですね。図には内城、外城と書いてありますけ れども、これを中心にして取り巻くような城壁があり、空間があります。これはもう宮殿と同じ形式とい うことです。本来の宮殿も皇帝のいる場所があって、その回りを内城、外城でくくって、皇帝に仕える人、 政治に従事する役人、それぞれの建物が回りに並んでるという仕組みと同じです。 兵馬俑坑は、何でこんなに離れてるかというと、宮殿の回りを守る軍隊を表したものと考えられます。 20 で す か ら、 全 部 が て、 墳 丘 だ け を 仁 徳陵古墳と比べて もしかたがないの ですね。始皇帝は、 死後も現世と同じ ような生活をした いという願いをも っ て お り、 い わ ば 死後の宮殿をつく ら れ た の で す。 墳 丘 を 中 心 に、 生 前 と 同 じ よ う に、 皇 帝に食べ物をささ 21 王陵の空間でし 図 3 秦始皇帝陵(稲畑耕一郎・鶴間和幸監修『始皇帝と彩色兵馬俑展』図録 2006 年より) げる人、着物を持っていく人、そういう人たちのいろんな設備が回りにありまして、さらにその回りを軍 隊が守っている。 北の方では池の跡が見つかっており、これは庭園でしょうね。宮殿に伴う庭園などが北の方には広がっ ています。回りには墓をつくるため、墓を整備するための工場の跡なんかも見つかっておりまして、とん でもない規模の墓です。これだけ広い地域を一つの「墓」としているわけです。 さらに最近びっくりしましたのは、この墳丘本体は発掘はしていないのですけれども、中身がどうなっ ているのかということで、科学的な探査の方法で検討した結果が発表されています。有名な司馬遷の『史 記』に記事があるのですけれども、中には水銀の川が流れてたとか、それから後からお墓を荒らす人が入 ってきたら弓が自動的に射るんだとかいう、すごい設備があったと書かれています。あるいは人魚の油で 灯をつけてるから、ずっと中は地上の世界と同じように明るかったなんていうことも書いてあって、本当 なのかという感じもありました。しかし探査の結果によって、この墳丘の地下の三十メートルの深さのと ころに東西八十メートル、南北五十メートル、高さ十五メートルの空間があることがわかりました。何か かたい物でつくられ、しかも中が空洞であるということがわかったんですね。 八十メートル、五十メートルの空間って、今ではつくるのはそう難しくないと思うんですけれども、当 時はそれをどうやって支えたかということが問題ですね。鉄筋コンクリートはありませんので、この空間 22 を支えるための壁と天井が必要なわけです。木では腐ってしまいますから、無理です。それから石を積ん でこういう空間はできません。天井が支えられません。何かで支えなきゃいけないんですけれども、銅で つくられているとも言われています。この空間に宮殿をつくり、皇帝の居所とした墓であろうとも考えら れます。 大変な「王陵」ですから、前方後円墳と比べてはいけないのですけれども、墓をつくることの根本的な 考え方の違いもあるのです。始皇帝は不死を願い、墓の中に入っても、生前と同じような生活をすること を想定したわけです。これは古代の中国の思想なんですけれども、亡くなった後もこの現世と同じような 生活を送るというのがあの世の世界。あの世へ行っても、子孫がおまつりをしてくれて、自分を代々ずっ と祭祀をしてくれることが何より重要なのです。 だから墓ではあるのですけれども、今の世界を基本的に向こうへも持っていこうという、そういう意識 の強い墓が、始皇帝陵だけじゃなくて、もっと下のクラスのお墓、あるいは漢代のお墓でもそういう形式 が続いています。墓の中というのは現世とつながっているんだと、そしてそれは祖先のいる空間で、それ を子孫がおまつりしてくれるんだという来世観がお墓の特徴にもあらわれています。 日本の古墳はどうもそういう気配がないんですね。前方後円墳の回りでは、祖先をまつるための空間と いうのは、今のところ見つかってません。墓だけなんですね。しかも造った後は、造りっ放しというと言 23 い過ぎなんですけれども、祖先を何かお祭りをしたりという跡は、今のところはあまり多くは見つかって いません。少なくとも大規模におこなったという例はないですね。そういう傾向が弱いことも、日本の古 墳の大きな特徴です。 さらに、前方後円墳の一番の中心は後円部でして、この真ん中に埋葬施設と呼ばれる死者をおさめる空 間があります。この埋葬施設には一つの特徴があります。時代によってちょっと違うのですけれども、何 と表現したらいいのかわかりませんが、呪術的な要素が大変強いというのが日本の古墳の埋葬施設の特色 です。 たとえば私が調査に行った滋賀県の定納古墳群というところでは、長い木の棺を使って死者をおさめて いました。身長よりもはるかに長い棺を使うのです。それに蓋をして埋めるというタイプの墓だったので すけれども、棺の中は全部まっ赤です。目にも鮮やかな赤の世界です。 奈良県の有名な藤ノ木古墳もそうですが、石棺の中も赤なのですね。あるいは奈良県の黒塚古墳という、 三角縁神獣鏡がたくさん出た古墳の埋葬施設も赤の世界です。大変な量の赤色顔料を使っていまして、と くに、水銀朱という顔料がたくさん使われています。 こうした赤色顔料を使った具体的な理由も、本当のところはよくわかっていません。人によっては血の 象徴だとか、あるいは、水銀の朱は防腐処置として入れたのではないかという人もいるのですけれども、 24 よくわかりません。ただこれも呪術的な性格を強く示しているとは思います。 もう一つ重要な特色としては、人を埋める際に密封しようという意識の強いことがあげられますね。 箸墓古墳の後円部にもあると思われますが、石を積んでつくった竪穴式石室と呼ばれる埋葬施設が古い 時期の古墳の特徴です。棺の回りをたくさんの石で囲んでいます。全部石で覆うような形で囲んでます。 何でそんな処置をしたのかというのも難しい問題なのですけれども、これには恐らく先ほどの埴輪とも 共通する性格があるようです。埴輪も古墳の周りを取り囲むような形に用いられています。囲む、ふさい へきじゃ でしまうという意識が見えるというふうに考えられます。それは何のためかというと、基本的には外から 何か悪いものが入ってこないようにする。私たちはこういう行為を、「辟邪」という言い方であらわします。 邪を避けるということですね。悪霊とか、悪いものとか、死者を傷つけるような、そういうものが入って くるのを払うような、防ぐような、そういう意識がこの日本の古墳の、特に古い段階の古墳には強いとい うように言われています。 先ほどの赤い顔料の使用もそうですが、やっぱり呪術的な特徴が強いというのが日本の古墳の大きな特 色だと思います。中国の墓とは意識が違ってまして、生前の世界を持っていくのではなくて、もう死の世 界へ入ると閉じ込めてしまってる。外から遮断するような、そういう非常に強い意識が働いています。 この古い段階の古墳のもう一つの面白い特徴として、北枕という法則もあります。日本全国全部そうと 25 いうわけではないのですが、特に奈良県を中心にして、遺骸の頭を北へ向けようという意識が強く働いて いたことが分っています。埋め方に一つの思想と言いますか、呪術的なことが影響したと考えられていま す。 北枕とか、それから先ほどの段築、あるいは朱の赤い顔料については別の説明もあります。都出先生の 説なんですけれども、やっぱり中国の影響ではないかという人もいるんですね。中国思想が埋葬の思想に 影響を与えてるのではないかと説明されています。よくはわからないのですけれども、前方後円墳の出現 のときには、宗教と言いますか、死生観念と言いますか、あの世への考え方とか、そういうところにも大 きな変化があったということも重要な点です。 都出先生はまた、古墳時代に登場した社会の仕組みについて「前方後円墳体制」というふうに名づけら こ ―ういった階層性と秩序がある社会、そしてそれが れました。古墳時代にあらわれた前方後円墳の仕組み ト ―ップが、明確であり、それから大きさの順に区 別があり、さらに古墳の形にもこういう区別がある お墓にあらわれた社会のことを前方後円墳体制と呼んで特色づけています。大和を中心に、前方後円墳と いう墓のつくり方で全国的なこの支配の体制をつくったのがこの時期であると説明されたのですね。ただ、 前方後円墳という要素の中には、そういう社会とか政治とかいう関係だけではなくて、呪術的な要素もあ りますし、何かよくわからない、いろいろな特徴もあります。それらの要素も先にみましたように、あち 26 こちの地域から寄せ集められてきた可能性もあるということで、実はまだまだよくわかっていないという ところが本当です。 最後に、ちょっと感想じみたことを申します。学会とかでは言えないことなのですけれども、日本の古 墳というのは墳丘があまりにも大きいと思っています。周囲に施設が伴わない分、やたらと墳丘が大きい というのが、他地域の王陵と比べて日本の古墳の最大の特徴ではないかと思います。 先ほど中国の皇帝の墓を見ましたが、墳丘も大きいのですけれど、一定の限度があるのです。朝鮮半島 にも大型の古墳があるのですが、日本の古墳とは比較になりません。一番トップの人のお墓でも、日本の 古墳から言うと中規模クラスから小規模クラスなんですね。 古墳時代の人たちは、この墳丘に一番のこだわりがあって、表面を大量の石で飾ったり、すごいエネル ギーをかけてるんですね。それと比べて中の埋葬施設はアンバランスで、宝物的なものも多くは入ってま せん。鏡など当時の人にとっては財宝なのかもしれませんけれども、副葬品には余り力を入れず、墳丘に 莫大なエネルギーをかけている。それがどういうふうに生まれてきたかというのは、ちょっとまだ余りは っきり結論はできてないんですけれども、私はこのあたりに非常に関心を持ってまして、やっぱりいろん な面から今後も検討を続けてゆきたいと思ってるんです。 つたない話ですけれども、ちょうど時間がまいりましたので、以上で終わらせていただきます。 27 (拍 手) ○司会 どうもありがとうございました。 それでは御質問があるようでございましたら、お受けさせていただきますので、どうぞ挙手していただ けますでしょうか。 はい、ちょっとお待ちください。 ○質問者A この古墳に埋葬される方は、偉い方だと思うんですけれども、一般人は普通の土地に埋葬さ れてたわけですか。 ○森下章司准教授 一般人というのは、本当の一番下のクラスについても、幾つかお墓が見つかっていま す。それは本当に穴だけです。穴がたくさん集まっていまして、そういうところに一緒に葬られている。 副葬品は何もないという状況ですね(図二の下段参照)。 ○質問者A 昔はそうだったんですけど、近年はみんな火葬になってるんですけど、いつ土葬から火葬に 変わったんですか。 ○森下章司准教授 火葬は、日本に初めて入ってきたのは奈良時代からですけれども、広くは普及しない のですね。最初は僧とかごく一部の人だけです。上層の人や都市以外で、本格的に火葬が普及してゆく のは明治以降で、もっと言えば昭和以降だそうですね。土葬は長い間、残っていたのですね。 28 ○質問者A そんな新しいんですか。 ○森下章司准教授 はい、新しいと思います。 ○質問者B ちょっと単純な質問なんですけれども、巨大な古墳が大和、奈良地方に大量に集中している とか、あるいは権力者が大和、奈良地方にたくさん出て、そしてやがては大和政権につながっていくん だということは、中学校の教科書にもそんなふうに書いてあるんですけれども、例えば巨大な古墳をつ くる上では、渡来人のやっぱり技術が、土木技術にしても、いろんな石積みの技術にしても絶対必要じ ゃなかったかなと思うんです。そうだとすれば、やはり便利な北九州であるとか、日本海側の出雲であ るとか、そちらの方にもっと、奈良より、大和よりも大量の巨大な古墳群がいっぱいあってもしかるべ きじゃないかなと思うんですけれども、なぜ巨大な古墳が大量にあるのは奈良か、あるいは権力者が出 てくるのは奈良か、ちょっと単純な質問なんです。 ○森下章司准教授 まず、なぜ奈良が中心になったのか。これは議論が分かれているところでして、今ま では奈良にもともとそういう勢力がいたからだと説明されていました。しかし、そうではないんだとい うことになってくると、なぜ奈良が選ばれたのかということになるんですけれども、奈良の独自性をの べる説があります。極端な説ですと、奈良の地に宗教的な意味があったんだという人もいるぐらいです。 これも証拠はありません。 29 それ以外に、奈良というのは東の日本の世界とつながるからだという説明とか、いろいろあるんですけ れども、どれも証拠があって言ってるわけではないんですね。だから、なぜ奈良が選ばれたかというこ とに関しては、今、研究者の間でも一致していません。 その渡来の人たちとの関係から言いますと、奈良を中心に、外からの人たちも集まってくるんですね。 箸墓古墳の時代はまだよくわからないのですけれども、もうちょっと後の時代、五世紀と呼ばれる時代 になりますと、たくさんの渡来の人たちの跡が、兵庫県でもたくさん見つかっております。大阪にも集 中しています。また九州の方でも、朝鮮半島とつながりのある遺跡が最近たくさん見つかっています。 この古墳をつくる技術には、確かに高度な技術が必要なんですけれども、それがこの段階でも渡来人の 力が必要だったかどうかというのは、ちょっとわかりません。土を盛るという、言ってみれば単純な作 業ですので、ここまではひょっとすると伝統的な技術でもできたのかもしれませんね。よろしいでしょ うか。 ○司会 よろしゅうございますか。ほかにはございませんでしょうか。 ないようでございますので、これで本日の講座を終わらせていただきたいと思います。 もう一度、先生に拍手をお願いしたいと思います。 (拍 手) 30 ○司会 どうもありがとうございました。 31 はじめに 第二回 平成二十一年五月十六日 ― 考古学からみた日本の中世から近世への社会変貌 研 ―究の現状と展望を中心として 川口 宏海 近世考古学の研究は、二〇数年を経て一定の成果をあげつつあります。特に、関西においては、中世か ら続く堺・京都・奈良町や豊臣秀吉が建設した大坂城下町などの都市遺跡の調査・研究が進んでいます。 一方、城郭や銭貨・墓・鋳造遺跡などの研究からも、近世移行期についての研究が進んできました。また、 輸入陶磁器や国産陶磁器、在地土器などの出土遺物からも編年や画期論が盛んとなってきています。 文献史学では、織田信長政権をもって近世ととらえる説や豊臣秀吉政権の成立をもって近世とする説な ど、さまざまな議論が交わされてきましたが、考古学からみたらどうなるのでしょうか。本報告は、これ までの研究成果を踏まえつつ、都市遺跡研究の立場から研究の現状を整理し、近世社会の成立についての 私の見解を示すと共に、今後の課題を展望します。 33 1.遺構論から見た画期(表1) (1)都市遺跡による画期論 遺構の中で、特に政治的な動きを直接反映していると考えられるのが、城郭、城下町を含む都市遺跡です。 中世後期~近世初頭の都市としては、まず古代より連綿と首都として機能した京都をあげることが出来 ます。京都は応仁の乱(一四六七~七七)以後荒廃しますが、戦国期の都市に姿を変えて継続します。永 禄一二年(一五六九)には織田信長が足利義昭を戴いて入京するとともに足利将軍邸を建設し、天正一九 34 年(一五九一)には、信長の後を継いだ豊臣秀吉が京都に天正地割を施し、御土居や寺町を建設して大改 造を行います(第3図)。これらの遺構が市内各地で発掘され、都市京都に大きな画期をもたらしたこと が堀内明博氏によって明らかにされています(参考文献 )。 半の大永七年(一五二七)から享禄五年(=天文元年・一五三二)にかけて「堺公方」と呼ばれた細川 明元年(一四六九)以来、守護大名細川氏方の遣明船の発着港となってから急速に発達し、一六世紀前 特に堺環濠都市遺跡(第9 図)は、応仁の乱(一四六七~七七)にまつわる政治的対立の影響で、文 て発達します。 また、中世後期からは、大阪府堺市の堺環濠都市遺跡や兵庫県神戸市の兵庫津遺跡などが港湾都市とし ₁₄ 山上雅弘 森村健一 1 14C 中頃~ △Ⅰ期中世都市 萌芽期 △出現 1 共同利用 共同利用 Ⅲ期 ○裏地占有化 ○Ⅳ期中世都市 隆盛期 16C 3 ◎個別利用確立 1 ◎Ⅴ期近世都市 萌芽期 2 ○Ⅵ期近世都市 発展期 3 4 個別都市論 近世城下町発展段階論 大坂 全国 鈴木秀典他 前川要 1 15C 2 3 4 △石山本願寺期 1 △戦国城下町 2 16C 3 ○信長将軍邸 永禄 12 年(1569) ◎東部開発 ◎秀吉天正地割 天正 14 年(1586) 天正 19 年(1591) ○普及 4 氏名 堀内明博 △裏地開発 2 ○個別利用成立 ○個別利用成立 △出現 項目 京都 續伸一郎 ○Ⅱ期中世都市 発展期 4 17C 堺 2 3 △出現 晴 元 の 拠 点 と な り、 一 六 世 個別都市論 竈 前川要 紀中頃には四国の有力戦国 川口宏海 大名として成長した三好氏 氏名 の 港 湾 拠 点 と も な り、 政 治 便所 的にも重要な存在となって △初源期 ○小画期 ◎大画期 個別遺構論 項目 15C き ま す。 そ し て、 天 正 一 四 年( 一 五 八 六 ) に 豊 臣 秀 吉 によって都市の象徴であっ た 環 濠 が 埋 め ら れ、 東 部 地 域が開発されたりする大き な変革が起こります。また、 豊臣氏が滅んだ慶長二〇年 (一六一五)の大坂夏の陣 に よ っ て 焼 亡 し た 後、 徳 川 氏の再興によって都市は一 表1 遺構論から見た画期論 4 ◎豊臣前期 天正8年(1580) ◎近世城下町初現期 ○豊臣後期 慶長3年(1598) 天正4年(1576) 1 ○徳川初期 慶長 20 年(1615) ○近世城下町完成期 慶長6年(1601) 17C 2 3 4 35 れんにょ 変します。この堺環濠都市遺跡の変化については、森村健一氏(参考文献 )らによる画期論が提唱されています。 場に移すなど、城下町を大改造します(第 )や續伸一郎氏(参考文献 図)。慶長一九年~二〇年(一六一四~一五)には、豊臣勢 )らによって明らかにされて 江三人衆らが拠った若江城(大阪府東大阪市)、池田氏の池田城(大阪府池田市)、伊丹氏の伊丹城(兵庫 このほか畿内の有力武士の拠点である畠山氏の高屋城(大阪府羽曳野市)、畠山氏、のち三好義継・若 います。 秀典氏(参考文献9)や森 毅氏(参考文献4)、松尾信裕氏(参考文献 下町建設が行われます。これらの出来事とともに大坂城下町も大きく変化し、画期となったことが故鈴木 力をつぶすべく徳川家康が大坂城を攻めて大坂冬の陣・夏の陣が起こり、以後徳川氏の江戸期大坂城、城 ₁₃ なります。秀吉晩年の慶長三年(一五九八)には、嫡男秀頼のことを考えてか、三の丸を構築し町屋を船 われ、顕如が退去して終わりを告げた後、跡地に豊臣秀吉が大坂城と城下町を築き、豊臣政権の本拠地と に成長します。元亀元年(一五七〇)から天正八年(一五八〇)まで、織田信長と対立して石山合戦が行 き討ちされて以後は、これに替わって、大坂の蓮如の坊舎跡に造られた石山本願寺が畿内の中心的寺内町 緒とします。天文元年(一五三二)に一向宗の本拠地であった京都の山科本願寺が法華宗徒らによって焼 大坂は、明応五年(一四九六)に一向宗(今日の浄土真宗)の蓮如がこの地に坊舎を建立したことを端 ₁₉ ₁₆ 36 ₁₀ 県伊丹市)などで一五世紀後半~一六世紀初頭以降に遺構が次第に濃密に検出されるようになり、一六世 紀中頃以降いわゆる戦国城下町として成長してきたことが明らかとなってきました。さらに織豊政権によ )、小長谷正治氏(参考文献1)、川口(参考文献2)ら って城主が追われ、城郭が破却されると、城下町の性格が大きく変化していくことが知られます。伊丹・ 有岡城下町については、藤本史子氏(参考文献 の研究が知られています。これらの城下町は、中世後期に経済的拠点であった宿場町や市の座を奪い、新 たな地域的拠点となったであろうと考えられます。 加えて、近世城下町の規範となった織田信長・豊臣秀吉ら織豊系大名が各地に築いた織豊系城郭と城下 町の発展過程が前川 要氏によって明らかにされ、天正四年(一五七六)前後の織田信長の安土城下町建 設を近世城下町の初現期としてとらえ、慶長六年(一六〇一)前後の姫路城下町建設をめどに近世城下町 の完成期となる、とされています(参考文献 、第1図、第2図)。 (2)個別遺構による画期論 都市遺跡の発掘、研究が進む中で、都市を横断して個別の遺構をもとにして発展過程を考察する研究も 進んでいます。これらは、次節の遺物による画期論とともに都市生活レベルでの生活様式の変化を反映し たものといえましょう。 37 ₁₃ ₁₅ 便所遺構は、糞尿を肥料として利用するために都市から農村へと買い取られていく近世的リサイクルシ ステムを象徴する遺構のひとつです。私の一五世紀第3四半期に出現し、一六世紀第2四半期以降各戸に 個別に設けられることをもって画期とする考え方(参考文献2b)や、これに加えて一七世紀第1四半期 かまど に確立する、とした前川 要氏(参考文献 b)の説があります。 )があり、一六世紀第4四半期に普及するとします。 年代(一五八二~九二)においています。 県の志野焼の成立を画期とする鈴木重治氏の説(参考文献8)があります。鈴木氏はこの時期を天正一〇 陶磁器による画期論としては、国産陶磁器のうち新規に成立した描画陶器である佐賀県の唐津焼、岐阜 (1)陶磁器による画期 2.遺物論から見た画期(表2) た山上雅弘氏の研究(参考文献 きます。都市生活の上から近世の成立をうかがえる遺構です。これには、城郭の資料を中心としてまとめ 竈 遺構は古くから寺院などで見られますが、近世には都市住宅に個別に造りつけ竈として定着してい ₁₅ )や大坂城下町の資料をもとにした森 毅 氏( 参 考 文 献4、 参 考 文 献 ) ₁₈ 38 ₂₀ 一方、消費地遺跡の出土陶磁器全体の組成変化から論じたものに、奈良町の資料をもとにした森下恵介・ 立 石 堅 志 氏 の 論( 参 考 文 献 ₁₇ の 論 な ど が あ り ま す。 前 者 は 奈 良 町 に「 伊 万 里系陶磁器」すなわち肥前陶磁器が普及する 39 一 七 世 紀 第 2 四 半 期 の 奈 良Ⅴ 期 を 近 世 へ の 画 4 期 と し ま す。 後 者 は、 豊 臣 後 期 す な わ ち 慶 長 3 三 年( 一 五 九 八 ) 以 後 と 徳 川 初 期 の 一 六 二 〇 じ しつ ◎土師質皿減少 土釜衰退・土鍋焙烙化 1 年代以降に大きな画期を見出しています。 (2)在地土器による画期 一 方、 各 遺 跡 の 近 在 で 生 産 さ れ た と 考 え ら れ る 素 焼 き の 在 地 土 器 か ら は、 中 世 に 一 般 的 が しつ であった瓦などと同様にいぶし焼きを施した 瓦質土器からいぶしをかけない土師質土器へ は の 変 化 を 一 五 世 紀 後 半 に 認 め、 一 七 世 紀 第 1 四 半 期 頃 の 土 師 質 土 器 皿 の 減 少、 土 釜 の 衰 退、 土 鍋 の 焙 烙 化 な ど を 画 期 と と ら え る 土 山 奈良Ⅳ -C 期 ◎唐津・志野出現 4 天正 10 年代 (1582 ~ 92) 奈良Ⅳ -B 期 16C 3 ○土師質化 ○奈良Ⅳ -A 期 4 ◎奈良Ⅴ期 肥前磁器出現 2 17C 2 3 15C 森下恵介・立石堅志 土山健史/森村健一 鈴木重治 氏名 在地土器 陶磁器 項目 ○小画期 ◎大画期 表 2 遺物論から見た画期論 1 1 2 健史氏(参考文献 きせる )や森村健一氏の説(参考文献 (3)その他の遺物による画期 )があります。 )などの考察があり、私も伊丹郷町遺跡についての論考を提示したことがあります(参 中世後期から連続して分析できる京都、堺環濠都市遺跡、奈良町です。 次に私なりに畿内の都市遺跡から出土した遺物をまとめてみたいと思います(表3)。取り上げた遺跡は、 3.都市遺跡の主な遺物の変遷と画期 鉄砲玉などが遺物として見られます。これについては、今後の課題だと思います。 (一五四三)(『鉄炮記』)などの説がありますが、これはまだ考古学的には不明確です。一六世紀後半には 鉄 砲 も 同 様 で す が、 文 献 か ら は 天 文 一 一 年( 一 五 四 二 )( イ エ ズ ス 会『 日 本 教 会 史 』) や 天 文 一 二 年 考文献2d)。 裕章氏(参考文献 されたもので、一六世紀第4四半期頃に伝来したと考えられています。古泉 弘氏(参考文献3)や豊田 その他には、近世を象徴する遺物である煙管があります。いわゆる「南蛮貿易」によって日本にもたら ₁₉ 用途別に見ると、供膳具の碗皿類では、中世に上層階級で用いられた中国製青磁は一六世紀第3四半期 40 ₁₂ ₁₁ を 境 に 衰 退 し、 元 代から生産が始ま った青花は一五世 紀以降上層階級に 普 及 し、 一 六 世 紀 後半には都市上層 民 に も 普 及 し ま す。 しかし、明末清初の 動乱のために一七 世紀第2四半期を 境に減少します。こ れに替わって豊臣 秀吉の朝鮮侵略に よって拘束された 朝鮮人陶工らによ 表 3 都市遺跡の主な遺物の変遷 項目 供膳具 調理具 器種 碗・皿 擂鉢 釜 種類 青磁 青花 唐津 志野 肥前 ○備前 ◇丹波 △信楽 □土器 土器 地域 15C 16C 17C 西日本 堺 煮炊具 堺 京都 奈良 1 ○ ◇ ○ ■瓦 ○ 京都 ■瓦 ●瓦 ●瓦 ○ 2 ○ ◇ ○ ■質 ○ ■質 ●質 ●質 ○ 3 ○ ◇ ○ ■ ○ ■ ● ● ○ 4 ○ ◇ ○ □土 ○ △ ■ ◎土 ● ○ ○ ● 1 ○ ◇ ○ □師 2 ○ ◇ ○ □質 3 ○ ◇ ○ □ ○ 奈良 ◇ △ ○ △ ■ ◎師 ◇ △ △ ■ ◎質 ◇ △ ○ △ ■ ◎ ○大 ◇ △ △ ■ ◎ ○和 ○ ◇ △ ○ △ ■ ◎ ○ I2 ○ 型 ○ 4 ◇ ◎ □ ○ □ 1 ◇ ◎ □ △ ○ □ 2 ◇ ◎ □ △ ◇ ◇ △ △ ■ 3 ◎ □ △ ◇ ◇ △ △ 4 ◎ □ △ ◇ ◇ △ △ ○ 項目 煮炊具 器種 鍋・焙烙 焼塩壺 風炉 種類 土器 土器 土器 地域 堺 1 15C 16C 17C ◆瓦 その他 京都 奈良 堺 京都 堺 ◆瓦 ◆瓦 2 ◆質 ◆質 ◆質 3 ◆ ◆ ◆ 4 ◆ ○ ◆ ◆ 1 ○ ◆ ◆ 2 ○ 3 ○ □大 □大 □ 4 ○ □和 □和 □ □ 土△ 1 ○ □型 □型 □ □ 師△ 2 焙● □ □ □ □ 質△ 3 烙● ■焙 ■焙 □ □ △ 4 ● ■烙 ■烙 □ □ △ ◆ ◆ 41 ○ ○ ○ って国産の肥前磁器が一七世紀第1四半期から生産され、一七世紀後半には農村にも普及していきます。 これよりやや早く、近世的描画陶器の唐津焼、志野焼などが一六世紀第4四半期に成立します。 調理具では、中世後期に西日本を中心に普及してきた岡山県の備前焼の擂鉢が一七世紀第1四半期以降 すりばち 減少し、替わって兵庫県の丹波焼擂鉢が普及します。堺環濠都市遺跡では、中世から陶器を補完してきた 瓦質土器擂鉢は、一五世紀後半に土師質化し、一七世紀第1四半期を境に減少します。京都では、丹波焼 擂鉢が滋賀県信楽焼擂鉢とともに一六世紀初頭から普及し始め、一七世紀第2四半期以降備前焼の衰退を 受けて中心となります。奈良町では、在地の瓦質土器擂鉢が一七世紀第2四半期まで続きますが、以後は 一五世紀末から普及する信楽焼擂鉢が主流となります。 煮炊具では、土釜は堺環濠都市遺跡では一五世紀後半に瓦質土器から土師質土器に変化し、一七世紀第 1四半期まで存在していますが衰退します。京都では瓦質土器が一六世紀第1四半期まで続き、以後は大 和型土釜が流通して一七世紀第1四半期まで残るが衰退します。奈良町では大和型土釜が一七世紀第2四 半期まで残るが、衰退します。以後はおそらく土釜を用いることが衰退し、鉄釜が中心となって用いられ ていくのであろうと考えられます。 また、土鍋は、堺環濠都市遺跡では瓦質土器が一五世紀末まであり、この頃に兵庫県の東播地域の土鍋 の系譜を引く土師質土器鍋が出土するようになります。これは一七世紀第2四半期以降、底の浅い焙烙と 42 なって続きます。京都では、瓦質土器が一六世紀第1四半期まであり、一六世紀後半から大和型土鍋が流 入します。そして、一七世紀第3四半期から底の浅い焙烙となります。奈良では、大和型土鍋が京都と同 時期に出現し、同様に一七世紀第3四半期から焙烙となります。これらも土釜同様、一七世紀前半以後は 用途を失い、副次的機能、すなわち炒る機能を主要な用途にするように器形が変化したのであろうと考え られます。本来の鍋の実用的機能は、やはり鉄製品が担っていったものと思われます。 その他の遺物としては、近世に続く焼塩壺があります。これは堺環濠都市遺跡で一六世紀第3四半期に 出現し、京都では、一六世紀の第4四半期に流通します。以後は江戸へも流通し、高級食卓塩として名声 を得ていきます。風炉は移動型の熱源です。中世には瓦質土器でしたが、堺環濠都市遺跡では一六世紀第 4四半期に土師質土器の新たな形式の風炉が生まれ、江戸期に続いていきます。 まとめ 遺構論からは、天正四年(一五七六)前後の織田信長の安土城下町建設を近世城下町の初現期としてと らえる説が年代的にもっとも古く位置づけられます。続いて、天正一一年(一五八三)の豊臣秀吉の大坂 城下町建設、天正一四年(一五八六)の堺の環濠を埋め都市改造することや、天正一九年(一五九一)の 京都の天正地割りなど豊臣秀吉の事業が続きます。前川氏の近世城下町発展段階論(第1図、第2図)で 43 は、慶長六年(一六〇一)前後の姫路城下町建設をめどに近世城下町完成期ととらえ、これと共に個別便 所の確立があるとして二段階でとらえています。最終的には、大坂城下町や堺環濠都市遺跡における慶長 二〇年(一六一五)以後の徳川氏による再興によって、江戸期の姿が確立します。 個別遺構からは、便所に見られるように、早いところでは一六世紀第2四半期に近世に続く要素が見ら れます。また、それをさかのぼれば、一五世紀後半に一つの画期が認められます。 一方、遺物論からは、天正一〇年代(一五八二~九二)の唐津・志野焼の登場(但し、大坂城下町の調 査成果では、豊臣後期=一五九八年以降に普及すると考えられています)、一六世紀末~一七世紀第1四 半期の土釜の衰退や土鍋の焙烙化、一七世紀第2四半期頃からの肥前磁器の普及などが出されています。 遺物組成を見ると、青磁から青花に移行したり焼塩壷が登場する一六世紀前半から中頃に、その初動を 見る事ができます。しかし、唐津・志野焼の普及、すなわち主要な碗皿類が国産陶器類によって占められ る日常雑器の近世的組成の成立が一七世紀第1四半期に見られます。さらに、国産陶器が肥前磁器に替わ り、土師質土器が衰退するなどして器種組成が落ちつくのは、一七世紀第2四半期までかかります。また、 瓦質土器の土師質土器化などの動きは、一五世紀後半~末から見られます。 巨視的にみれば、遺構・遺物の様相は、どちらも一五世紀後半~末からその下地が形成され、一六世紀 第2四半期頃から少しずつ近世的要素が芽生え、一七世紀中頃までかかって近世への移行が完成します。 44 従って、一六世紀第2四半期頃から一七世紀中頃までを移行期として大きくとらえてもいいのではないか と私は考えています。そのうち、大きな変化期として、 Ⅰ期 一六世紀第2四半期頃~一六世紀後半の織田期(天正四年(一五七六))まで Ⅱ期 一六世紀後半の織田期(天正四年(一五七六))~一六世紀末の豊臣期(天正一一年(一五八三)) Ⅲ期 一六世紀末以後の豊臣期(天正一一年(一五八三))~一七世紀初頭(一六〇〇年前後(豊臣氏 後期大坂城期) Ⅳ期 一七世紀初頭(一六〇〇年前後(豊臣氏後期大坂城期)~一七世紀第2四半期徳川初期) Ⅴ期 一七世紀第2四半期徳川初期~一七世紀中頃 があり、五段階でとらえてはどうかと提案したいと思います。 このうちⅠ期は、まだ顕著なものはほとんどなく、胎動期と呼ぶべき段階です。Ⅱ期は、織田信長により、 安土城下町が建設されます。近世を象徴する政治的遺跡の近世城郭・城下町の初現期であり、萌芽期とい えます。Ⅲ期は、豊臣秀吉によって大坂城下町が建設され、京都・堺の改造が行われます。近世城郭・城 下町の普及期であり、唐津・志野焼の出現、焼塩壺の普及などが見られ、成長期と呼べます。Ⅳ期は、近 45 世城下町の完成期であるとともに、唐津・志野焼の普及、土師質土器の衰退など前後にまたがる要素が数 多く現れます。タイ・ベトナムなど国際的で多彩な輸入陶磁器の出土を見るのも、特徴的です。発展期と することができます。Ⅴ期は、肥前磁器の出現・普及など以後の近世的要素が出そろう時期であり、完成 期と呼べます。ただ、このような動きは先進的大都市のものであり、地方の中小都市や農村の動向とは一 致しない可能性があります。調査・研究の遅れもあって今後の課題です。 主な参考文献 摂津国伊丹郷町を中心として ― 」『大手前 ― ⑴ 小長谷正治「有岡城大溝筋堀跡と地割」『地域研究いたみ三四』伊丹市立博物館 二〇〇五年 ⑵ a 川口宏海「近世在郷町における屋敷地利用の変遷 女子短期大学・大手前栄養文化学院・大手前ビジネス学院研究集録』第一一号大手前女子学園 一九九一年 b 川口宏海「中・近世都市における便所遺構の諸様相」『関西近世考古学研究Ⅲ』関西近世考古 学研究会 一九九二年 c 川 口 宏 海「 日 本 中 世 の 土 釜 に つ い て 」『 考 古 学 ジ ャ ー ナ ル 四 〇 九 』 ニ ュ ー サ イ エ ン ス 社 一九九六年 46 d 川口宏海「兵庫県伊丹郷町遺跡出土の煙管について」『大手前大学社会文化学部論集』第1号 大手前大学 二〇〇一年 e 川口宏海「兵庫県伊丹郷町遺跡出土近世遺物の様相」『摂河泉とその周辺の考古学 藤井直正 氏古稀記念論文集』藤井直正氏の古稀を祝う会 真陽社 二〇〇二年 f 川口宏海「一六・一七世紀における輸入陶磁器の受容と交流文化」『交流する文化の中で 平 成一六年度大手前大学公開講座講義録』大手前大学人文科学部総務課 二〇〇五年 g 川口宏海・赤松和佳「関西における陶磁器・土器の様相」『海なき国々のモノとヒトの動き』 内陸遺跡研究会 二〇〇五年 ⑶ 古泉 弘『江戸を掘る』柏書房 一九八三年他 ⑷ 財団法人大阪市文化財協会『難波宮址の研究 第九』一九九二年 ⑸ 財団法人京都市埋蔵文化財研究所『平安京左京北辺四坊』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第二二 冊 二〇〇四年 ⑹ 堺市教育委員会『堺 堺市文化財調査報告第一五集』一九八三年 ⑺ 佐久間貴士・鈴木秀典他『よみがえる中世二 本願寺から天下一へ大坂』平凡社 一九八九年 ⑻ 鈴木重治「近世都市遺跡出土陶磁器の諸問題」『東洋陶磁一九』東洋陶磁学会 一九九二年 47 ⑼ 鈴 木 秀 典「 大 坂 城 跡 の 豊 臣 前 期 と 豊 臣 後 期 」『 関 西 近 世 考 古 学 研 究Ⅰ 』 関 西 近 世 考 古 学 研 究 会 一九九一年 一 『関 ―七世紀代における京・大坂・堺の出土品を中心として 」 ― ⑽ 續伸一郎「中世都市 堺」『中世都市研究1都市空間』新人物往来社 一九九四年 ⑾ 豊田裕章「煙管と近世初期風俗画 西近世考古学研究Ⅲ』関西近世考古学研究会 一九九二年 ⑿ 土山健史「堺環濠都市遺跡における一五・一六世紀の在地土器」『中近世土器の基礎研究Ⅴ』日本中 世土器研究会 一九八九年 ⒀ 藤本史子「中世都市伊丹の考古学研究」『ヒストリア一八八』大阪歴史学会 二〇〇四年 ⒁ 堀内明博『ミヤコを掘る』淡交社一九九五年 ⒂ a 前川 要『都市考古学の研究』柏書房一九九一年 b 前川 要「関西地方における中世から近世への便所遺構」『月刊文化財 平成四年一一』第一 法規 一九九二年 ⒃ 松尾信裕「豊臣期大坂城下町の成立と展開」『ヒストリア二〇〇四年度大会特集号』第一九三号 大阪歴史学会 二〇〇五年 ⒄ 森下恵介・立石堅志「大和北部における中近世土器の様相」『奈良市埋蔵文化財調査センター紀要』 48 一九八六年 ⒅ 森 毅「一六・一七世紀における陶磁器の様相とその流通 一九九五年大会特集号』第一四九号 一九九六年 大坂の資料を中心に ― 」『ヒストリア ― ⒆ a 森村健一「八〇年代の研究成果と今後の展望一七世紀以後」『中近世土器の基礎研究Ⅵ 』日本 中世土器研究会 一九九〇年 b 森 村 健 一「 堺 環 濠 都 市 遺 跡 に お け る 中 近 世 陶 磁 器 余 録 」『 東 洋 陶 磁 一 九 』 東 洋 陶 磁 学 会 一九九二年 ⒇ 山上雅弘「竈について」『近世都市の構造』関西近世考古学研究会 一九九一年 49 第1図 織豊系城下町編年表(参考文献 15 aより) 第2図 織豊系城下町編年模式図(参考文献 15 aより改変) 50 公家町 第3図 京都 安土桃山から江戸時代初期(参考文献 14 より改変) 51 第4図 京都公家町の 16 世紀末~ 17 世紀初頭(上)と 17 世紀前半(下)の 遺物組成-1(参考文献5より) 52 第5図 京都公家町の 17 世紀中頃の遺物組成(参考文献5より) 第6図 京都公家町の 16 世紀末~ 17 世紀初頭の遺物(参考文献5より) 53 第7図 京都公家町の 17 世紀前半の遺物(参考文献5より) 第8図 京都公家町の 17 世紀中頃の遺物(参考文献5より) 54 第9図 堺の空間構造概念図(参考文献 10 より) 55 Ⅰ 土師質土器 瓦質土器 陶磁器 世紀後半〜 世紀後半 14 15 Ⅱ 世紀前半 16 第 10 図 堺環濠都市遺跡の 14 世紀後半~ 16 世紀前半の遺物 (参考文献6より改変 S =1/ 20) 瓦質土器 土師質土器 陶磁器 Ⅲ 世紀中頃 16 Ⅳ 世紀後半 16 第 11 図 堺環濠都市遺跡の 16 世紀中頃~後半の遺物 (参考文献6より改変 S =1/ 20) 56 Ⅴ 慶長 年 土師質土器 陶磁器 20 1615 Ⅵ 第 12 図 堺環濠都市遺跡の 17 世紀初頭~後半の遺物 (参考文献6より改変 S =1/ 20) 57 第 13 図 豊臣後期後半の大坂復元図(参考文献 16 より) 58 第 14 図 大阪城下町の 16 世紀後半~ 17 世紀前半の遺物編年表 59 (参考文献4より改変 S= 1/ 20) はじめに 十九世紀の国際社会 ― 第三回 平成二十一年六月二十日 コレラと情報 ― 尾㟢 耕司 今回は、市民講座のテーマ「時空を超えて」につきまして、私の専攻は、日本史、中でも近代史が専門 ですので、その立場からお話しをさせていただきます。 私は、自らの研究課題として、日本近代史の見直しを、つまり教科書的なものとはやや違った切り口 から、特に私の場合は個々人の生活に直接かかわるような問題を取り上げて、その視角から社会全体の仕 組みを考えることができないかなということでテーマ設定をしています。そこで、今回選んだのが、今日 は感染症と呼ばれます、一昔前まで「伝染病」という表現がなされていた現象について、なかでも十九世 紀に大きく問題となったコレラを取り上げて、コレラと情報というような内容で議論をさせていただきた いと思います。 61 1.コレラの日本来襲 コレラは、アジアコレラやエルトール小川型などがありますが、今回取り上げるのはアジアコレラにな ります。これは、ご存じの通り、そもそもインド、ベンガル地方の風土病であったものが、交通の発達と ともに世界にひろがりパンデミー化した急性伝染病(感染症)です。コレラ菌が口などをつたって体内に 入り、発症すると、高熱と脱水症状を起こします。今日では、重篤化する要因が脱水によるものなので、 適度に塩分と糖分をまぜた水を補給すれば死には至らないそうですが、当時はそのような治療法も、それ どころか、コレラがどんな病気かすら知られていませんでした。そのため、打つ手が無く重篤化を引き起 こして死にいたるケースが後を絶ちませんでした。細菌が身体中の水分を吸い取って、高熱にもかかわら ず顔が青くなるので「青い恐怖」と恐れられたものです。 日本では、コレラは世界中での第一次パンデミー(一八一七~二三年)の末期にあたる一八二二年(文 政五年)に上陸、以後ことあるごとに来襲しました。今、明治以降の全国の発症状況をあげてみると、ま ず、一八七七年(明治一〇)、これはコレラが長崎に上陸していたところを、ちょうど西南戦争が勃発し、 その帰還兵士が感染して全国に広げていったものといわれていますが、患者数一万三〇〇〇人余で、その うち死者が八〇〇〇人余ですから、死者の割合は六割近くに達しています。さらにこれが一八七九年(明 治一二)になると、全国で患者一六万人、死者一〇万人を超え、ついで一八八六年(明治一九)にも、患 62 者一五万人、死者一〇万人と、猛威をふるっています。 2 .検疫問題と万国衛生会議のはじまり さて、それでは以上のようなコレラの流行に対して、どんな対応がとられたのでしょうか。今回の議論 で注目をしてみたいのは、それでは、日本政府がそうしたコレラの問題に独自で対応ができただろうかと いう話です。実は、残念ながらきちんとした対応をとることができませんでした。後手後手に回らざるを 得ないところがあったのです。 コレラは、世界中にひろがる感染症ですので、その予防策も一国単位ではできず、国際ルールにのっと らなければなりませんでした。しかし、その国際ルールそのものにも大きな問題点があったのです。今回 のお話の中心課題としたいのが、その国際的なルールづくりの問題です。今日で言うならば、WHO(世 界保健機関)が中心に行うような感染症対策が、今から一〇〇年以上昔にどのようになされたのかという でありますから国際衛生会議と訳 International Sanitary Conferences ことで、その一つの例として今回は、検疫問題をめぐって開かれた万国衛生会議と当時呼ばれた国際会議 を取り上げてみようと思います。 万国衛生会議は、もちろん英語では せばよさそうなものですけれども、この時代、明治のころは日本人は「万国」という言葉が好きでした。 63 一八五〇年に万国博覧会というのがロンドンで始めて開かれるんですが、それ以来、万国という言葉を使 いますので、この時代の雰囲気を出すために、その万国という言葉を使わせていただこうと思います。 万国衛生会議は、一八五一年にフランスはパリで公衆衛生、特に感染症予防や検疫の問題を議論をした ことからはじまります。そこから、あわよくばその中でその感染症予防に関する国際標準ですとか、ある いは条約を結ぼうということで盛んに行われました。 検疫は、この当時であれば専ら船舶に対して、停船をして船内の感染者の有無を見ようというもので す。先日のインフルエンザで空港での検疫が行われたことは記憶に新しいところですが、当時の検疫は悲 )の語源がイタリア語で「四〇日間」を指したとおり、船を四〇 惨でした。すなわち、検疫( Quarantine 日間完全に密閉して検疫を行い、その間患者がでなければ、ようやく入港が許可されるというものでした。 四〇日間も、しかもこの当時は、患者とそれ以外の健康な人を分けるという概念がまだなく、一括して船 中に留め置かれたわけですから、阿鼻叫喚となったことは想像に難くありません。そこで、一九世紀も後 半に入りますと、このような検疫のあり方について、特に外国船の検疫について異論が出てくるようにな りました。フランスなど大陸諸国はあくまでもこの検疫を厳密に四〇日間行うべきだと主張したのに対し て、イギリスは、自由貿易が華やかなりし時でしたから、その短縮を求めました。そこで、かかるヨーロ ッパ諸国間の対立を調整すべく開催されたのが万国衛生会議でした。 64 開催年 1 1851 ~ 52 パリ 13 2 1859 パリ 11 3 1866 コンスタンチノープル 16 4 1874 ウィーン 20 5 1881 ワシントン 29 6 1885 ローマ 28 7 1892 ベニス 14 8 1893 ドレスデン 19 9 1894 パリ 16 10 1897 ベニス 20 11 1903 パリ 23 3.万国衛生会議の推移 今回の講座では、この万国衛生会議について、一八五一年 の第一回から一九〇三年までの一一回分を取り上げてみよう 参加国数 回数 開催地 と思います。一九〇三年のフランス、パリ大会に参加した国々 で話し合いがまとまり、結果として、一九〇七年にはおなじ 65 くパリに国際公衆衛生事務局という、国際連盟の下部組織に あたる常設の機関が設置されるのです。 それでは、この都合一一回の会議の中にどのような特徴が 見て取れるのでしょうか。表は、この万国衛生会議の開催の 模様を表した一覧です。ここからその特徴を考えてみましょ う。 まずは、開催地について。万国衛生会議の開催地は、第一 回と第二回がともにフランスのパリです。そして後半、九回 目と一一回目にもパリが出てきますように、この会議の主導 表 万国衛生会議一覧 尾㟢耕司「万国衛生会議と近代日本」(日本史研究会『日本史研究』第 439 号、1999 年)より 権を握っている国として、まずフランスが大きな役割を果たしています。パリに国際事務局ができること からしてもそうです。それに続いて開催数が多いのは、ローマやベニスですからイタリアですね。あるい は、ウィーンで開かれていますようにオーストリア、ドレスデンのドイツ、さらにはこの表には出てまい りませんが、オーストリアに対して開催を提案したロシアなどのように、ヨーロッパの中でも大陸の国々 が多いようです。それに対して、イギリスは、毎回代表団を送ってはいますが、自らが主催することはあ りません。イギリスは、少し距離を置いているようです。要するに、フランスやイタリアは地中海に面し、 この当時の交易ルートのうち、地中海ルートに非常に神経をとがらせている国です。オーストリアやロシ アは、黒海からドナウ川を通じてヨーロッパに交易が行われる際、利害関心を持つバルカン半島がその通 過点となることもあって無関心では居ることはできませんでした。こうしたことから、専ら大陸諸国が中 心となって万国衛生会議が開かれたのです。 さて、この万国衛生会議の動きを見ていくと、少し興味深いことが分かってきます。例えば、参加国を 見てみると、第一回目は一三ケ国で、これは、フランス、イギリスをはじめ、まだ一八五一年ですのでイ タリアとドイツは統一されていませんでしたが、その統一前のサルジニア、シチリアといった国々となり、 要するに、ヨーロッパの国々と、そしてトルコという構成になります。第二回もほぼ同様な傾向があり、 第三回、第四回ぐらいから少し広がってきます。第四回、一八七四年のウィーンでの会議には、一八六九 66 年にスエズ運河が開通しましたので、それにあわせてエジプトがこの会議に入ってきます。 その後、一番多いのは第六回目のローマの大会で、二八ケ国の参加をみ、その中には、アメリカ、ある いはそのアメリカ大陸に属するアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、あるいはインドも宗主国であるイギ リスとは別に代表者を送ります。そしてエジプトに、さらには当時の中国=清国そして日本と、世界のか なり広範囲から参加が見られるようになります。 一八八五年のローマ大会は、ロベルト・フォン・コッホがコレラ菌を発見した年ですが、それを受けて 開かれたものであり、このころ参加地域ががぜん広がったのです。 ところが、これが第七回以降になると、また参加数が減少します。第七回のベニスの大会(一八九二年) は、わずか一四ケ国の参加しか見られません。この時は、日本にも招請状が来ていません。結局、参加し たのは、再びヨーロッパとトルコだけでした。以下も同様の状況が続きます。 実は、この傾向は、単純に参加国数だけではなしに、話し合われている内容にも大きな変化が出てきま した。当初第一回から第三回目までこの会議は、そこで話されてる内容は、検疫をどうするか、それだけ でした。フランスは、検疫を強く望み、イギリスはこれを一〇日に短縮せよといった議論に終始しました。 それが、以後拡大し、まず第三回のコンスタンチノープルと、次の第四回ウィーン大会にかけてになると、 コレラとはそもそもどんな病気なのかといった病理論について、医師が代表として集まるようになります。 67 さらに第五回目や第六回になると、検疫をとってみても単なる停船日数だけでなく、隔離という概念を 確立し健康な人と患者とを分けることの必要性や、また消毒の重要性が唱えられ、さらに参加国個々の上 下水道の整備をはじめとする予防措置の実施といったことがら、そして、何よりも重要なのは、感染症を 防ぐために一番重要なのは情報である。どの国、どの地域でコレラ患者が起こっているかを、まず正確に 把握すれば、それでもってどういう対処をすればいいかが分かるので情報の共有をしよう、その情報の共 有のために国際機関を組織しよう、そんな議論までがでてきます。 要するに、今我々が知っているWHOのような考え方が既にあらわれる。これが、第六回目のローマの 大会だったのです。ところが、これが第七回になると、こういった議論も立ち消えになります。そして、 スエズ運河の検疫等、ヨーロッパへの物流の入り口の管理に話題が縮小され、一九〇三年に話し合いをま とめて、〇七年に先に述べたパリの国際公衆衛生事務局ができると言うようになります。 そうすると、これはどうしてでしょうか。ここに、その感染症の問題からみるこの当時の国際社会の一 つの問題点がみえるのではないと考えます。 4.ヨーロッパ諸国間の対立と妥協 結論から言うと、この第七回以降の会議は、ヨーロッパが国際的に果たすべき責任を放棄をしたのでは 68 ないかと考えられます。少し極端な言い方です。 西洋医学という言葉が定着しているように、この時代の医学や医療技術をリードしているのはヨーロッ パでした。そうした優れた医学や医療技術を持っていて、それを広めて世界中に感染症予防の体制を構築 することができるのは、唯一ヨーロッパの諸国、特に西ヨーロッパの諸国でした。ところが、その西ヨー ロッパの諸国は、そうした試みをあきらめてしまいます。 実は、こうした動きには背景がありました。先述の第六回ローマ大会は、日本も参加をしましたので、 その会議内容を記した文献が、日本国内にも日本語で残されています。その文献からは、この会議でなさ れた議論、特に当時あったヨーロッパ諸国間の対立が見えてきます。なかでも対立をしたのは、一方はイ ギリス、そして他方はフランスとイタリアです。 一八六九年にスエズ運河が開削されて、七〇年代に本格的に使われるようになると、インドをはじめア ジアの文物がヨーロッパにたどり着くスピードが、今まででより考えられないほどに短縮されました。す ると、スエズ運河で盛んに航行が行われると、コレラなどが発生した場合、船の行き来の途中、一旦船を 碇泊しますので、このスエズ運河界隈に人が大勢やって来て、その中で感染が進んだのです。スエズ運河 の北端にポートサイドという町がありますが、ここで患者が発生すると、このポートサイドからは船に乗 ればイタリアのナポリまで四日で、フランスのマルセーユでも六日でついてしまいます。当時、コレラの 69 潜伏期間は七日と言われていましたので、ポートサイドで感染する人がいても、船に乗ってしまえば発症 する前にイタリアやフランスに上陸をしてしまう。そして、上陸をした後に発症するので防ぎようがなく なります。そこで、フランスやイタリアなんかは、死活問題として検疫を強化すること、特にスエズ運河 でヨーロッパ諸国の合同での検疫所設置を求めるようになります。 他方、イギリスは少し事情が違います。イギリスの場合、スエズからは距離がありますから、仮にポー トサイドあたりで感染者が出ても、イギリスにたどり着く前に発症するというのです。イギリスはこの当 時、自由貿易主義を至上命題としておりましたから、貿易の支障になるような船の停船をすのは認められ ないという思惑もありました。そのため、フランスやイタリアとは相いれない立場となっていくのです。 第六回ローマ大会でおこなわれた両者の論争は、さらには次のような問題にまで発展していきました。 すなわち、イギリスの側は、検疫はあくまで水際対策の一つに過ぎないのであって、万全に予防をできる ものではない。したがって、上下水道の整備や道路の舗装による水溜まりの除去等、総じて都市の改良を 求めます。 すると、これには、自国の都市計画がロンドンほどには進んでいないというところがありますので、フ ランス、イタリアの諸国は一言も反発できませんでした。そこで、両国はイギリスに対して、こう言い返 します。すなわち、感染症の予防は初発が肝心であって、そこで人や物の到着地点となるヨーロッパでは 70 なく、出発点であるアジアその他の改良が必要だというのです。フランスは、自らのトンキン(ベトナム) での衛生改革を例に挙げイギリスに迫りました。そうすると、これには逆にイギリスが口を閉じてしまい ます。イギリスは当時、世界一の植民地保有国であったので、その持っている膨大な植民地に全部衛生改 革を施すことにでもなれば土台不可能だからです。 以上のようにして、それぞれ自国内、あるいは植民地と、抜本的に衛生の改良をやろうという話になる と、会議を主導しているはずのヨーロッパ各国が、いずれも積極的には提言をできなくなってしまったの です。 この結果、第六回のローマ大会はほぼ物別れのママ終了となり、一八八五年から一八九二年まで七年間 も経た後、ようやく開かれた第七回のベニス大会では、内政にも関わる衛生改革の議論は沙汰止みとなり、 スエズ運河の検疫問題だけが妥協案として、最小限の日数の検疫と、そのための費用と人を関係諸国が出 し合うと言ったことのみを定めて決着がつけられ、これを条約として締結しました。続く九三年のドレス デン大会では、ヨーロッパへのコレラのもう一つの流入口であるスリナという町(ドナウ川が黒海に注ぎ こむ所)に関して、おなじように条約を結んで話し合いが終わります。 スエズをそしてスリナを共同で防衛して、あとは本国国内にせよ、植民地にせよ、各国に任せる、この ヨーロッパで定めた内容が、今後は国際基準となっていきました。ここから、他の国々ではおよそ感染症 71 への対処ができないという問題が出てくることになります。 5.日本への影響 日本は、もちろんヨーロッパの外にあるので、すなわち、スエズやスリナで検疫所をつくられても、コ レラ流入を防ぐ手だてには全くならなかったので、このようなヨーロッパ本位の取り決めが国際標準とな ると、たちまち困難に陥りました。検疫が空洞化したのです。 ヨーロッパ諸国が締結した条約は、検疫について、次の点でその他の国々を制約しました。それが、 「流 行地認定の原則」です。 すなわち、コレラが明らかに流行している場所を「流行地」とし、各国が他国の船舶に検疫をおこなえ るのは、「流行地」と認定された港から出たか、もしくはそこを通過したものに限定すること、流行地の 認定が解除されれば直ちに検疫を解かないといけないこと、といったように、極力検疫を制限する形が取 ⑴ そして、これを条約に加盟したヨーロッパ諸国以外にも、たとえば日本は、一八九九年に られました 。 ⑵ 海港検疫法を定めますが、その中にも同原則が盛り込まれていたように 、 他の諸国諸地域にも広めてい ったのです。 ここからは、次のような問題が起こりました。「流行地」を宣言するのは誰であったかです。 72 たとえば、コレラ菌を発見するコッホは、日本から派遣された石黒忠悳(陸軍軍医)に対して、そのイ ンタビューに答え、インドにおけるイギリスの流行地認定の緩慢さを難じています。イギリス領ボンベイ (現、ムンバイ)において、一日一〇人、一五人のコレラの患者が出るのは風土病に過ぎないのであって、 七〇人以上におよんで初めてコレラ流行を認めるというのです。ここからは、流行地認定が、植民地の場 ⑶ 合、その宗主国の出先機関であり、問題がどうしても後手後手に回るというのです 。 この「流行地認定の原則」の影響をうけたのが日本でした。一八九一年(明治二四)六月の『大日本私 立衛生会雑誌』が掲げた記事には、タイのバンコクでコレラの流行があり死亡者が沢山でているのに、タ イは東南アジアの中にあって独立を保った国であり、逆にヨーロッパ諸国のが手が届いていないこともあ って内部の事情が伝わってこず、近隣の在香港イギリス政庁がバンコクを流行地と認定しないので、バン コクや香港からやってくる船舶には、実際に患者や死者がいない以上検疫を実施できなかったとあります。 たまたまその時は、隣のシンガポールの政庁がバンコクを流行地認定したので、検疫を実施できるように なったのですが、みられるように、流行地の原則が存在するがために、日本はほぼ手も足も出せない状態 になってしまったのです 。 ヨーロッパの場合は、スエズ運河やスリナで共同の検疫所をつくり、体制を整えているので、アジアか ら入ってくるコレラをそれなりに抑える方法があるかも知れませんが、日本の場合はそれがなく、直接患 73 者が入ってくる可能性があるのに、その船に対しても手が出せないのです。検疫はこうして役に立たなく なってしまいます。こうして、日本の場合には、検疫が、そして感染症の予防自体が、一八九〇年代にな っても、なかなか進まなかったのです。 おわりに 以上のような現実を背景に、日本では、当時内務省衛生局などが感染症対策の中心を担っていましたが、 検疫に頼れない現状から、より強く国内の衛生改革に関心がもたれることになりました。たとえば、日清 戦後の衛生局長となる後藤新平(後に大正年間、内務大臣として関東大震災で倒壊をした首都圏の復興計 画を立てたことなどで知られる)などは、こうした問題に積極的に対処をしていきました。そこでは、水 道を引くことや、都市計画を行うこと、病院をつくること等々、様々な衛生手段を充実をさせる、そのた めの「大きな政府」の実現を目指していくのでした。神戸市など、この明治の二〇年代に上水道が引かれ るようになるのですが、それを可能にしたのは、中央で国の補助金を取ってくる後藤の政治力であったと も言われています。そのように、様々な日本の都市開発の問題が出てくることを指摘して今回の講座を終 了させていただこうと思います 。 74 ○司会 ありがとうございました。 皆様方、この際、先生の方にお尋ねしたいことがございましたら、どうぞ、挙手をお願いいたします。 ○・・・ 明治期のコレラ患者数の数なんですけども、一八七九年で十六万というところで、そう多 くはないなという感じなんですよね。ということは、これ流行地は限定的で、全国に蔓延してないか ら、これくらいの数なんでしょうか、その辺だけお願いします。 ○尾㟢耕司准教授 まずは、一八七九年ですので、日本人の人口が、日本の人口は明治維新の直後で 二五〇〇万人か三〇〇〇万人と、今より一億人少なかったわけですね。その後急増して、この時点だ と四〇〇〇万人位かと思います。そのうちの十六万ですから、今の数値と比べるとかなり割合は高い のではないかと考えます。 一八七九年のコレラに関しては、患者が集中したのは西日本、もしくはせいぜい東京から西だと言 われております。東北の方は、必ずしも強くは出なかったような話を聞いておりますけれども。 ○司会 よろしゅうございますでしょうか。 それでは、本日の公開講座を終了させていただきます。 どうもありがとうございました。 もう一度、先生に拍手をお願いいたします。 75 [注] 、明治二十六年十二月) No.127 ⑴「虎列刺(コレラ)流行時健康保護上共同処置ニ関スル一八九三年四月十五日附列国条約」 (『大日本私立衛生会雑誌』 ⑵「海港検疫法」(一八九九年、『法令全書』)。 、一八九一年六月)。 No.97 一八八八年十二月)。 No.67 「日本ノ虎列刺病予防ニ付独逸国大学教授コッホ氏トノ問答」 (『大日本私立衛生会雑誌』 ⑶「海港検疫の実施」(『大日本私立衛生会雑誌』 今回の講義内容は、尾㟢耕司「万国衛生会議と近代日本」(日本史研究会『日本史研究』第四三九号、 一九九九年)をもとに作成しました。本文中の数値や引用文は全てこの中に記したものを利用しています。 詳しくは、同論文をご覧下さい。 76 第四回 平成二十一年七月十八日 富士山の文化史 上垣外 憲一 今、紹介にあったように、私は長野県の生まれなんです。田舎に行くと、ちょっとこういう名前もあっ て、関西は、関西で姓は少ないと思いますけど、地名で似たものありますね。私、京都に十年間いました けど、京都の地図を見てると小さい地名で垣外というのがあります。それから奈良の方に行っても、昔は 垣内集落とかそういうものあったみたいですね。あれは垣の内というふうに書きますけども。私は、もう 先祖代々長野県人で、しかも長野県の木曽郡なんですね。それは多少はきょうお話しする富士山と関係が ないわけではなくて、ご存じのように長野県の木曽郡というのは御嶽山で知られているわけです、木曽の。 私自身の経験で言うと、私は日本の高い山に結構登りましたけど、生まれて初めて標高三千メートルの山 に登ったのは田舎の木曽御嶽山で、小学生のときだったんです。それでやっぱり山はすばらしいというふ うに思いました、やっぱりそのときは。 ちょうど今、大雪山で遭難したという話が大きいニュースになっていますよね。しかも、私も今六十歳 77 超えましたけど、こちらの講座に来てらっしゃる方も中高年と言っていいのかな、私と余り年は違わない と思うんですけど。そういう中高年の人がそろいもそろって十人も死にましたから、ちょっとショックで すね。私もこれからまた山に登ろうかとか思っていたところでこういうこともあるんだと。 山というのはそういう場所なんですね、特に高山というのは。夏であっても人が死ぬ可能性があるとこ ろです。僕が初めて御嶽山に登ったときも、最初の日は天気がよくて素晴らしかったんですけど、頂上の 山小屋で泊まって、朝になってみたら嵐なんですよね。全く前が見えないぐらいひどい霧で怖かったの覚 えてます。そんな中で非常に印象的だったのは、霧で何にも見えないところをひたすら下っていくわけだ けど、そうしたら雷鳥が出て来て前を歩いていくんです。これは向こうはどういうつもりで我々の前を歩 いていたかわかりませんけれども、すべてが怖いと思っているときに見ると、言ってみれば神様のお使い じゃないかとか思うんです。ついていくと危ないと僕は思うけれども、そう思ったりもしますね、そんな 状況だと。 どういうことかというと、山というのは日本では山岳信仰と言って、宗教と結びついて登山ということ も発達してきたわけです。木曽の御嶽山もそういう例で、私が登ったときは今から五十年も前のころです から、まだヘリコプターで荷物を運ぶなんてことはなかったですね。だから、強力というのがいてね、こ れは僕は今でも忘れられないです。ジュースだとか飲み物とかいろんな物を人が背負って登ってましたが、 78 大体百キロ背負うんですよ、あれは。山を歩かれる方いるでしょうか、三十キロで厳しいですよ、やっぱ りね、山歩くとき。若くないと、僕ももう今とても三十キロ背負えないと思います。 だから、百キロ背負ってね、三千メートル。あのころは途中まで自動車道路が下の方までしかなかった から、恐らく標高差二千メートルぐらいは一日で百キロ担いで登るんですよね。非常に感心しました、や っぱり。そういう世界があったんですね。 それから、まだ御嶽山に登る人は信仰登山で登る人が多かったので、白衣で登っている人が多かったし、 それから先達さんというのに連れられて、いわゆる講というグループで登っていく人がいます。僕らは普 通の登山だったんだけど。これもやっぱり非常に印象的に覚えてます。そうすると、夜、山小屋に泊まる と、行者というかそういう人がろうそくをともして、何かいろいろ祈っているんですね。何を祈っている のかよくわからないけれども、ともかくそういうのをやっている人がいて、今のいわゆるレジャーの登山 とは非常に違っていたので、とても印象的に覚えてます。 私、ことしの一月に「富士山」という本を中公新書から出して、きょうの話もそこからとることが多い と思いますが、その本の前書きに書いたんです。僕は実は富士山は頂上まで登ってないんです。日本の高 い山に僕はほとんど登りましたが、富士山は九合五勺ぐらいまで登って、それから上へ行ってないんです。 それはどうして行かなかったかというと、五月にスキーを担いで登ったんです。富士山でスキーと考えた 79 ことないと思いますが、滑れるんですね。富士山にも雪渓があって、五月だと頂上直下三千七百メートル ぐらいのところから二千五百メートルぐらいのところまではスキーで滑っておりることができるんです。 三千七百まで登って、頂上がすぐそこまで見えていたんですけど、雪がなくなってしまって、あと全部岩 ばっかりなんですよ。スキーを担いで登ったので、もうすっかりくたびれていて、上まで登る元気なくて、 それで滑っておりたので、結局頂上まで行ってないんです、私は。 富士山は、夏は物すごい人なので、普通の登山で僕は登りたくないと思っていたので、結局その後頂上 まで行かずじまい。でも、私は東京に住んでいましたから、東京からは富士山がかなり見えるんですよね、 特に冬の間。明治時代なんか、一年のうちでも、例えば夏でも富士山が見えたとか、そういう記録がある ようです。最近見えるのが減っているのは空気が濁ってきたためです。それでも、冬の風が強い日は、大 体富士山は西の方に東京からは見えます。私の家は世田谷区にあったんですけども、どちらかというと東 京の西の方です。だから、うちの二階の西向きの窓から富士山がよく見えました、遠いですけど。非常に 遠くに、小さいですけど見えることは見える。こちら関西なので、僕も京都に移ってから今は芦屋に住ん でますが、二十一年目なんですね。そうすると、やっぱり富士山を見る機会というのがぐっと減るんです よね。だから、やっぱり東京に出張だ何だで新幹線から見るか、あるいは飛行機から見るか。天気が悪け れば見えませんから、一年に二、三回見ればいい方かなという感じです。 80 関西で富士山の話をすると、あるいは東京なんかでお話しするときと、受けとめ方が違うんじゃないか なと思うんです。私、富士山の本を出したばかりなんで、講演で関西の人に富士山の話するのは、これが 初めてなんです。この間、実は静岡で富士山の話をしてきましたけど、あそこは地元ですから、何話して もというかね、割と興味持ってくれて楽です。 私を呼んでくれたのが川勝平太という、さきに国際日本文化研究センターという話が出てましたけど、 私が国際日本文化研究センターを出た後に、川勝さんはあそこの教授で京都に来ましてね、あの人はもと もと京都の人だけど。去年、静岡文化芸術大学という浜松にある大学の学長になって、だから静岡県に移 ったという形です。彼はもともと東京にいたときから軽井沢に住んでいて、京都の研究所にいたときにも 京都に住まなかったんだけどね、軽井沢から出てくるというか、そういう人で。ですから、静岡に家をつ くったとは思いませんけど。静岡の大学の学長になって、ついこの間、静岡県知事選挙に出て当選しまし たね。ちょっと僕は、しないだろうと思っていたからちょっと驚きました。彼が静岡文化芸術大学で呼ん でくれて、富士山の話をしないかということでした。僕が行ったのは知事選挙の十日前ぐらいでしたから、 ちょうど街頭演説が始まっているころで、だから本当は川勝平太が僕を迎えてくれるはずだったんですけ ど、夜も多分おごってくれたろうと思うんだけどいなくって、事務局の人が相手をしてくれました。 彼は選挙のTシャツというか、あれをブルーと白でつくってやってたんですよ。その色の意味には、富 81 士山だというわけ。だから、静岡ではそういうことで票が稼げるのかもしれないけど、果たして関西では 富士山の人気というのはどうかなというふうに思います。皆さんに聞いてみたいところだと思うけれど。 どうしてかというと、見えませんからね。それから、登りにいくといっても、東京から富士山に登りにい くような、こちらからたくさん人が行くとは思えないんですけど。 富士山に登ったことがあるという人いらっしゃいますか、この中に。でも、結構いますね。三分の一ぐ らいかしらね、今手を挙げられた方。そうですか。 みかど 何から話をしようかと思いますが、一つは、例えば皆さん、古典をお読みでしたらかぐや姫。かぐや姫 の一番最後のところに富士山が出てきますね。帝がかぐや姫に求婚するのだけれど、かぐや姫はそれを受 けないで月へ帰ってしまうわけです。その代わりに、みかどに不死の薬、死なない薬というのをプレゼント、 お土産で置いていって帰っちゃうわけだ。そうすると、帝は、でもかぐや姫と結婚できないんだから、不 死の薬を飲んで長生きしても意味がないと言って、富士山のてっぺんでこの薬を燃やさせるわけです。自 分で飲まないんだったら売ればいいだろうと僕なんかは思うけど、いいお金になったはず。帝だからお金 は要らないかもしれないですが。 富士山のてっぺんで燃やしたことになっている。だから、富士山は今でも頂上から煙が出ているんだと いう、これ、文学でいうと地名説話ですね。なぜ、富士山のてっぺんから煙が出ているのか、煙がつきな 82 いから不尽、ふじの山となぜ名前がついたかということを説明する、そういう地名説話というのか、そう いうものですよね。かぐや姫の終わりはそういって終わる。 ということは、かぐや姫の物語が、つまり竹取物語ができたときには、富士山は頂上から煙を出してた ということなんですよ。今はご承知のように、富士山は活火山じゃないですね。だから噴煙を上げてない んですけど、実は平安時代には、富士山は煙を上げる活火山でした。 例えば、更級日記ですね。更級日記なんかでは、煙どころか頂上のところが赤く光っていたというふう に書いてます。更科日記の著者、書いた人は菅原孝標女と言うんですね。中級貴族というのか、いわゆる 受領層。紫式部のお父さんもそうですけど、地方の国司を歴任するようなそういうタイプの。だから朝廷 に、京都で御殿で勤めるような、そういう上流の貴族じゃなくてね、その下の階層。庶民から見れば、そ れでもずっと上の方でしょうけど。 だから、お父さんは上総の国の国司だったわけですね。上総の国、つまり今の千葉県で、だから、この 菅原孝標女はもともと京都の貴族の家柄なのに、東の果ての方で育ったと、自分でも謙遜している。お父 さんの任期が満ちて京都に戻ることになりましたから、少女時代に、千葉から、その当時の上総国府は現 在の市原市だと言われているんですけど、そこから富士山のふもとを通って、つまり東海道を通って京都 へ上がってくるわけですが、その途中で富士山を見るわけです。 83 でも、そのとき夜、富士山の上が赤く燃えているのが見えたと、炎のように。本当に噴火していたんじ ゃなくて、溶岩なんかが、上の霧というか噴煙などに映ってそう見えたんだろうという説明がされます。 つまり、火山現象があったわけですね。今の活火山、つまり大島の三原山とか、あるいは阿蘇山とか、浅 間山とか、そういう山と同じような状態だったらしい。 それから、平安時代には、富士山は物すごい爆発をしています。これは日本紀略かな、続日本紀より後 ですが、その当時の歴史記録に載せられていて、大変な爆発があったことがわかります。その当時は、律 令制がまだ割としっかりしている時代です。最初の噴火の記録は続日本紀ですね。でも一番大きな噴火は、 この八百年と八百二年、つまり延暦年間の爆発なんです。 皆さん、富士五湖というのはご存じですか。富士五湖は、昔は五つあったんじゃないんですよ、実はこ の延暦のときの大噴火までは。富士山の北側には、 の海(せのうみ)というふうに呼ばれる大きな湖が あったんです。だから富士五湖のうち、四つか三つか、ともかく大きな湖があったんです、北側に。今で は河口湖から西湖、西の湖、それから精進湖という小さな湖がありますけど、これは大きなもとからあっ た の海という湖が、延暦のときの大噴火の溶岩流で寸断されて、そうして小さな湖に分かれたものなん です。そのときの様子が『三代実録』の中に入っています。これは地元の国司から中央に漢文で報告され たものですね、当然その当時ですから。それが歴史録記録に残っているわけです。ふもとにあった部落は、 84 ですからもう壊滅的な打撃を受けて、湖の魚が死んだのはもちろんですけど、家が皆焼けてしまって、人 がたくさん死んだようです。 こういうことがあると、その当時の朝廷は何をやっただろうか。ここが今の我々とちょっと違うところ。 今なら災害対策本部というのを政府がつくりますね。県でもやるかもしれないけど、これは大きいから国 でやろうとか。今度、じゃあこういう噴火が起こったときにはどういうことをしたらいいか。防ぐことは ね、とめることはできないけど、地震と一緒で。でも、起きたときに被害が少ないようにするにはどうす ればいいかということ。被害を復旧するのは大事だけど、それから、この次起きたときにはなるべく被害 が少ないようにと考えるでしょう。これが平安時代はちょっと違うんです。何を考えたかというと、これ は富士山の神様をちゃんとお祭りしてなかったためであると。まずどういうふうにお祭りのやり方が足り なかったかは歴史書には書いてないんですけどね。やっぱりちゃんとやらせなきゃいかんと、お祭りをね。 それから、平安時代は、ご存じですか、神社というのは位を持っているんですよね。従五位とかね。正 一位は本当に少ないんだけど、富士山はどうでしたかね。例えば、富士宮にある浅間神社は一の宮なんで す。その国の中では一番格が高い神社だから位は高かったと思いますけど、これを、だから正二位だった としたら従一位に、つまり、その神様の格を、位階を昇進させるんですね。これは我々が思ってたよりも 偉い神様なのでというわけで、神様の位を昇進させるということをやるんです。噴火の後は当然そういう 85 ことが起こってます。それは記録に残っているからわかる。 でも、噴火とかは今だって予知はできるけど予防はできないでしょう。地震だって一緒です。今度、地 震が起こりそうだから、対策本部は本当は地震をとめなきゃいけないんでしょう、起こらないように。で きないからね。できないでしょう、どうしても。噴火も一緒ですよ。だから、本当は噴火はやめてほしい と思っても、やめさせることができないという点では現在も一緒なんです。どうやったら逃げればいいか というそれだけなんで、本当は状況はちっとも変わってない、僕に言わせるとね。ですから、神様にお祈 りするのも意味はあるんじゃないか、現代においても、と思います。 大雪山の遭難のニュース、ちょっとこっちは忘れられたような感じがあるけど、富士山で人が死にまし たよね、三、四日前ですか。これもどうしようもないと思わないですか。五合目の駐車場に車をとめてい たんでしょう。そこに何トンもある石が何百メートルも滑り落ちてきて車を貫通して、それに当たって死 んだ。これも防げないですよ。金網突き破って飛び込んで来たんです。そんな五トンもある石が防げるか、 金網じゃ無理でしょう、よほどコンクリートの厚いのでも。そんな工事とてもできませんからね。これも 不可抗力に近い。 それから、登山をやった方はご存じでしょう。落石、あれはよけられないんだ。野球のピッチャーの球 より速いですから、雪渓なんか滑ってきたら。ですから、当たったら運が悪いとしか言えないね。あの人 86 は運が悪かったんです。これは、昔の人だったらそうは考えなかった。あそこは神聖な場所だから、夜に 車をとめるということがけしからんのですよ。今だってそういうふうに言えるかもしれないですね。管理 者だったら、夜間は駐車禁止にしていたのに、あの人がとめてまして死にましたと言いわけするかもしれ ないようなことです。ここが昔の人はそうじゃない。あそこは神様の場所だから、夜に泊まるのは不敬で あると。だから、神様の罰に当たって死んだんだと。死んだ人にはかわいそうだけどね。昔だったらそう 言っただろう。 つまり、山というのは昔の人は神様だと思ってましたから、神様は要するに基本的に人間と一緒なんで す。キリスト教の神様とかいうのは偉過ぎるから、怒ったり笑ったりしないと思うけれど、もっと原始的 な、日本の神様も原始的だと思いますけど、原始的な神様は怒ったり笑ったりできるんですよね、人間と 一緒だから、基本的に。そういうわけだから、怒れば人を殺すんですよね、この神様たちは。だからこそ、 お祭りをして鎮めないといけないわけね。 富 「 士山 の 」 本で ですから、山岳宗教というのは、山というのは何か怖いところだという恐れの感情というのがあると思 います。いろんな説明ができるだろう。例えば、僕は加賀の白山についてちょっとこの も書きましたけども、加賀の白山が高さは二千七百メートルぐらいで余り高くないですけど、あそこは。 結構人気のある山なのは幾つか理由がある。それは、ただ怖い山というだけの話ではない。白山は、日本 87 海に近いので物すごく雪が多いんです。だから、これは水田の耕作にとってはとても大事なことで、田植 えの時期というのはつまり雪解け水がたくさん流れる時期だ。それから、稲が育つ時期がそうなんです。 高い山は八月まで雪がありますから。つまり四月に雪解けで、それから、稲がずっと育つ時期というのは、 山の雪が、冬の間に何メートルも積もった雪が、だんだんだんだん解けていってなくなっていく時期なん です。 ですから、こういう雪が多い山のふもとの平野というのは、春から夏にかけて水の量が多いんですね。 これは日本の米どころと言われているところと一致するわけで、新潟にしろ、その向こうの北の山形、秋 田、この辺が日本で一番いい米がとれるところでしょう。これは明らかに冬にたくさん雪が降る地域です。 それだけが理由かどうかわかりませんけど、米のために適していることは確かで、だから山にたくさん雪 が降るというのは大事なことなんですね。 白山なんかについては、冬にもう大変な雪が降って真っ白になっている。それはつまり、農業が豊かに なるということを意味していますから、恐ればかりではないだろうというふうに思います。山の信仰はい ろんな形があると思う。ただ、富士山について言うと、富士山は静岡県、太平洋の方に偏っていて、雪は 降ることは降るけど少ないんです。大体富士山の周りはろくな平野がない。みんな火山灰の台地みたいな ところばかりで、たとえ雪が降っても米は大してできませんよ。静岡はミカンとお茶であって、米どころ 88 じゃないです。 それから、北側の甲州、山梨県だって山ばかりでろくな平野がないです、桃とかブドウはとれるけど。 だから、富士山というのは農業には全然役に立たない山なんだ。夏は、あの回りは結構富士山から風が吹 きおろして涼しいんです。稲のためには全然よくないんです、温度上がらない。だから農業の役には立た ない山で、信仰の形もおのずから変わってくるんですね。むしろ怖い山、厳しい山という、そういうイメ ージが富士山には強いと思います。 富士山に一体いつごろから人が登り始めたかという問題があります。今は、夏はずっと行列で登るんで すよね。大変な数の人が頂上まで登るんだけど、昔はそうじゃない。特に平安時代はまず人は登ってない です、たびたび噴火してましたから。ただでさえ大変なのに噴火までしますから、平安時代には余り人が 登った形跡はないです。これは日本のそういう山岳宗教の歴史からいうと、富士山の開発は遅いです。 関西地方で山岳宗教、修験道で代表的なのは大峰山でしょう。大峰山は世界遺産になりましたね。あそ こは今でも本当に信仰登山やってるんです。大峰山は今でも女人禁制です。女の人は入ってはいけないん です。私は「富士山」を書くから登ったわけではないけど、山そのものに興味があったので何年か前に登 りました。女性は登れませんという看板がありますよ。僕は泊まったので旅館で聞いたら、女が登れない とはけしからんと言って時々登らせろと言ってくる人がいるので困ってる。地元ではどうしたらいいのか。 89 つまり、もう千年も前から女は登ってはいけないことになっているのに、特に世界遺産になると問題なん ですね、本当は。なぜかというと、世界遺産になるためにはいろんな条件があるけど、人権は大事なんで すよ、あれは国連のユネスコのものですから。そうすると差別的なことは、非常に古いお祭りがあるとし ますね、だけど差別的なものが入っているとユネスコで絶対だめとは言わないけど通りにくいんですよ。 つまり、男女を差別しているではないかとか、そういうことで。 でも、幸いにしてというか、僕はなぜ通ったかなと思うんだけど、大峰山が女人禁制のままで、通った んですよ。だから、男女差別していても世界遺産にできるという前例にはなったかもしれません。だから 女にも登らせろという声がますます強くて、地元では大分困っているらしいです。皆さんも試しに行って みたらおもしろいだろうと思います。 その大峰山ですけど、あそこは開発は早いです、比較的。富士山などに比べると。修験道の山としては、 京都とか奈良から比較的行きやすいといっても結構大変です。歩いて行ったら随分あると思うけど、非常 に早い時期に開発されました。醍醐寺のお坊さんたちがあそこの開発に随分努力した。聖宝上人という人 がいますよね。醍醐寺というからあそこは醍醐年間に創設されています。山科の醍醐寺はご存じですよね、 桜の名所。あそこは、そもそもが修験道の山なんです。だから醍醐寺の開発の歴史でいうと、上醍醐と言 ってる、後ろの山の上にまたお堂がちゃんとあって、歩くと一時間ぐらい登りますけど、実は上の方のお 90 堂の方が古いと言ってもいいくらいなんです。古いかどうかともかく、山でいろいろ修行するのが醍醐寺 では中心だった。 醍醐寺のお坊さんが、主に大峰山を開発したといわれますけど、十世紀にはもうあそこは開発されてま す。有名なのは藤原道長です。道長が自分で登山をして、経筒、青銅でつくった経筒をあそこに埋めて、 それが後で発見されて、間違いなく藤原道長が登って、そしてこれを埋めたんだろうということで、発掘 されたときは大きな話題になったと思いますけど、そういうことがありましたね。 十世紀には京都の非常に位の高い貴族でも、そういう大峰山のような山に登るということがもう起きて るわけ。だけど、富士山は少なくとも江戸時代からずっとポピュラーな登山の山で、いまだにそうですけ れども、富士山は十世紀には開発された様子がありません。ただ、登った人がいたらしいことはわかりま す。年表のところにも書いておきましたけれど、都良香という漢学者がいるんですが、彼が自分の「富士 山の記」という漢文の文章なんですが、富士山の頂上の様子を非常に詳しく書いてあるんです。頂上の中 に噴火口があって、つまり、くぼ地があってそこに水があるというようなことまで書いてある。頂上の中 の噴火口の様子までちゃんと書いてあって、それが大体実際の風景に近いので、だれかが登って見たんだ ろうと言われてます。都良香がまさか自分で登ったとは思えないので、だれか勇気のある、若いでしょう が地元の人が登って報告があって、その国の国司が報告書を出したんでしょうね。当然、漢文で書かれて 91 ますから、駿河の国か甲斐の国に漢文の書ける学者がいて、国司も自分で書けますけど、そういう人が漢 文で書いて都に報告をして、それを見た都良香が記録に残したんでしょう。ほかの歴史記録には残ってな いんです。だけどだれかどうも登ったらしい。でもこれはどうも富士山が爆発した直後で一体どうなって いるのかと、探検してこいというような命令でやったんじゃないかと私は思ってます。だから、いわゆる 今で言うレジャー登山とはちょっと違う。恐らく地元の役所、国司が命令して富士山の上まで行ってこい と。本人は嫌だったかもしれないけど、そういう人がいたようですね。 登ることは登ったんですけど、これは例外的、調査登山ですね。富士山が本格的に人が登る山になって くるのは、結局富士山の噴火活動がおさまった後なんです。大体十二世紀の後半千百何年というところで、 どうやら富士山の噴火活動がおさまるんですね。そうすると登る人が出てきます。なぜかというと、十二 世紀というのは、例えば白河法皇とか熊野詣に行くんですよね。あれは本当に毎年のように行ってる。修 験道だというんだけれども、とにかく上皇だ、何とか門院だというような女性たちまでみんな熊野まで行 ったんですよ。そういう時代ですから修験道が大変に流行していた時期で、修験道の人たちは恐らく早く から富士山に目をつけていたと思うんです。あの辺ではもう目立つ山だからね。もともとは神様としての 格の高い山だから、当然宗教的な力はいっぱいある。霊威というのかな、それが非常に強い山ですから、 修行のために登りたいというのは前からあったと思うんで、噴火がおさまってきたらすぐに登り始めるん 92 ですね。 ですから、大体十二世紀の一番終わりのあたりで、富士山が修験道の山として開かれるようになります。 例えば白山ですけど、白山はずっと早いです。九世紀ぐらい。泰澄という人が登ったという伝説があるけ れども、別にそれでおかしくないと思います。泰澄の話は伝説ですけれども、大体九世紀には日光の男体 山、あれは二千五百メートルぐらいあって、北関東から東北にかけて有数の高い山ですね、登るのはそれ なりに大変です。初めて登ったという記録が空海の漢詩文集、性霊集に書かれてます。頂上から下の中禅 寺湖とか湖を見た風景が書いてあるんですよ、空海の文集にね。これも僕は男体山に登ったことがあるん だけど、性霊集に描かれた頂上からの展望は今見るのとほとんど変わらないです。だから、だれか確かに 登って、やはり漢文の記録にして、それが空海の手に入って、それをもとに空海が書いたと思われる。空 海は幾ら何でも日光までは行ってないと私は思います。都に来た学者に聞いたと書いてますしね。 ですけれども、九世紀には、だからそういう高い火山、上に登ってしまうと木がなくなってしまうよう なそういう火山に、修験道というかパイオニアのお坊さんたちは登っています。富士山は高さは高いけれ ども、上の方はもう砂ですからね。登って登れないことはないんですよ。だけれども、高さも高いことも あったかと思うけど、噴火がひどかったので登られてなかった。それが十二世紀の終わりに開発されます。 最初のうちは、素人にはやっぱり難しい大変な山だから、一般の人は登らなかったと思います。大体鎌 93 倉時代の終わりごろまで、つまり十四世紀までは修験道をやる山伏というか、そういう人たちの独壇場だ ったようです。ところが、大体鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけて、いわゆる修験者、山なんかに ついて登るという、いわゆる信仰登山の形が富士山でも出てきます。 そこでちょっと絵をお見せしようと思うんです。 この絵は、十五世紀あるいは十六世紀の絵だというふうに言われています。富士参詣曼荼羅と前は言わ れてたんですが、今は富士曼荼羅と呼んでくれというふうに、この絵の所蔵者である富士浅間神社では言 っているようです。 94 それはそれとして、曼荼羅というのは もちろん皆さんご存じですね。密教で宇 宙全体というのか、世界全体を仏様の集 合というのか、そういう集合体の図柄で つ く る の が 曼 荼 羅 で す ね。 で す け れ ど も、中世にはいろいろな種類の曼荼羅が つくられます。日本の場合は、ある山を、 全体を宇宙というか世界に見立てて、山 富士曼荼羅図(富士山本宮浅間大社蔵) 全体にいろいろな仏様がいたりするということで、普通の仏様だけの曼荼羅でなくて、山の絵が含まれて いるものがあります。さらに山の方が主役であるような、そういう曼荼羅がたくさんつくられるようにな ります。 立山もそうですね。富士山の曼荼羅もそういう新しいタイプの中世の現実の風景を入れた曼荼羅の仲間 に入ります。十五世紀、つまり室町時代の中期かあるいは応仁の乱の終わった後、駿河の国というのは今 川氏ですよね、織田信長に桶狭間で倒された今川義元の先祖がこの駿河を領しているわけで、戦国大名に なっていきます。その今川氏が駿河を治めているころの絵ではないかという話もあります。そうすると 十六世紀かもしれません。 これ富士山ですね。三つ峰というふうに言うんですけれども、実際に富士山は上の方が三つの峰に分か れているわけではないんです、写真を見ればわかるんですが。しかし、絵であらわすときは、必ずこの三 つの峰であらわすんですね。これが日本画の世界では決まりになっている。きょうはお見せしませんけど、 雪舟も富士山の絵をかいているんです。ほかのところは中国の漢画、山水画の書き方なんだけど、富士山 のところだけはさすがの雪舟も三つ峰でかいてます。つまり、もう日本では富士山は三つ峰だと、峰が三 つだというのが決まりになってたからなんだね。 ここに仏様がいるんですよ、その三つ峰に一つずつ。だから三尊。真ん中は普通には阿弥陀如来という 95 ふうに考えられています。横は地蔵菩薩だろうと私は思いますけれども、阿弥陀さんと組で地獄で救って くれる。右側はただ菩薩と伝えられていますが、あるいは大日如来かもしれないと言われています。 曼荼羅と言っているんですから、密教と関係が深いんです。富士山も修験道の山として開発されました が、京都に聖護院というお寺があるのをご存じですか。岡崎のあたりですね。あれは修験道の総本家の一 つ、一番中心になるお寺の一つで、京都の町の中にあるんだけど、いろんな全国の修験道の山とかかわり を持っている。天台宗系の修験道ですね。 この富士山の修験道は京都の聖護院の系統というか、管轄下にあったんです。富士山の本当の姿は神様 ですね。木花咲耶姫だと言っているんですが、神仏混交の時代には、だから富士山の本体は、最初は密教 の中心の仏である大日如来だったんです。ずっと後の時代、室町時代にも大日如来の像がつくられてます、 この富士山のふもとではね。中腹のお寺では、大日如来をお祭りしてたんです。 なぜ、真ん中が阿弥陀如来になったのか。これは、だから最初の姿とはちょっと違うんです。つまり密 教的な修験道が盛んだったその後に、こういう考え方が広まってきます。鎌倉時代というのは、浄土宗系 の信仰が非常に盛んになる時期ですよね。浄土真宗なんかも鎌倉時代に当然始まっているわけ。そうする と、浄土宗系統で何が大事か、大事かというか何が一番怖いかというと、地獄ですよね。浄土宗系統の信 仰が強くなってくると、あるいは山には地獄があると、山は地獄であるという、そういう考え方が非常に 96 強くなります。 例えば立山ね。地獄谷がありますね。温泉が沸いているところだけど、つまり噴気孔があったり、すご い酸性の、酸の強いお湯が沸いてたり、つまり、生き物が住めないから噴気孔があるようなところは植物 もなくなって、岩が焼けただれているとは言わないけれども、そういう状態になってむき出しになってい ますよね。これが地獄だというふうに中世の人たちは観念したんです。 富士山も中世にはまだそういう噴気孔みたいなのもあったみたいなんです。そういうことよりも富士山 の中腹から上ですが、要するに生き物がいない世界なんです。富士山の中腹から上の方は、全部森林がな くなってしまって、もう火山灰なんですね。だから生き物が生きられない場所、だから地獄だというふう に観念されるようになっていきます。 みんな信仰登山で苦しい思いをして登っていく。それが要するに地獄なんだ、地獄の責め苦なんですよ。 だから頂上まで行くと、当然地獄から救ってくれる仏様がいないといけない。だから真ん中に阿弥陀さん なんですね。 ついでに言うと、富士山の信仰登山を開いた人は末代上人いう名前で、その人の事跡は『地蔵菩薩霊験 記』という本に書かれてます、鎌倉時代のものです。地蔵菩薩の信仰、つまり地獄で救ってくれる仏様が 地蔵さんですね。末代さんのやったことは地蔵菩薩の信仰なんだという考え方がある。それはなぜかとい 97 うと、富士山が地獄だからなんです。だから死の世界ですね。それは確かに実際の風景とも合っている。 同時にそれは、人間は死んだら天国に行くんでしょう。だから死んだ、あるいは極楽に行くんですね。 死ぬことと極楽に行くことは、地獄に落ちちゃうかもしれないけれども、紙一重なんですね。だから、地 獄に落ちるような物すごい苦しい思いをして、てっぺんまで行くとすばらしい景色が見える。 それから僕の経験でも、あそこは空気が薄いですからちょっと一種、夢遊病状態というか、意識が薄れ てきますけれども、それで下界をはるかに眺めていると、考えようによっては極楽というふうにとれるか もしれない。半分死んだ状態ですよね、ともかく。だから、こういう地獄のような死の世界を通り抜けて、 富士山という山頂は極楽でもあるわけですよね、阿弥陀如来がいて救ってくれますから。そういう信仰の 形ですね。 ついでに、絵について説明しておくと、ここの白い円は多分月ですね。こっちの金色の円は、太陽だと 思いますけど、日(じつ)、月(げつ)です。どうして中腹あたりを日と月がめぐってるかというと、こ れも仏教の思想と関係がある。仏教で一番神聖な山は須弥山です。語源はシュメールだとも言われている けれども、サンスクリット語で仏教世界、世界の中心にある物すごく高い山です。二十何万キロメートル とか、インドというのは誇張がすごいから途方もない高さなんだけど。そういう巨大な山が海からそびえ 立っているんですね、あの須弥山というのは。余りに高いので太陽も月もその中腹をめぐっているんです。 98 だから、山の富士山の中腹を日(じつ)、月(げつ)がめぐっているという図像は、仏教の中でこれを 倶舎論というものに出て来る。これは世親というヴァスバンドゥという仏教哲学者、奈良の興福寺にある でしょう、世親の像。無著、世親像という有名な運慶がつくった肖蔵彫刻ありますね。世親が説いている『倶 舎論』という小乗仏教の概説書なんですが、その中で須弥山の説明をしています。その図像に合わさって いますね。 興福寺でその世親の像があるというのは、興福寺というお寺は唯識宗でしょう、中心になるのは。その 世親というのは唯識思想の元祖というか、唯識哲学をつくった人だからあそこにある。だけれども、倶舎 論という小乗仏教の概説書もつくっている大変な学者だったんですね。 倶舎論というのは、南都六宗というのはご存じですか。奈良の古い仏教の六宗派のうち、倶舎宗という のがあるんですね。だから奈良時代には実際一生懸命勉強されていた、今はだれも読まない。あれで読む のは大変。私も全部は読んでないというか須弥山のところだけ読みましたけど、それに出てきます。だか ら奈良時代から日本人は実は須弥山というのを知っているんです。いつの間にか富士山が須弥山だという 思想ができてきたようですね。 地図を御覧になって下さい。富士山は今は北側は富士吉田から登ります、山梨県の方から。東側はほぼ それの正反対ですね。真南から自動車道路が新五合目というところまで続いていて、そこからみんな歩 99 き 始 め る わ け な ん で す け れ ど も、 そ れ を 富 士 山 の 表 口 登 山 道 と 今 言 っ て い る。 一 番 人 が た く さ ん 登 る と こ ろ な ん で す が、 こ の 登 山 道 は、 実 は 今の静岡県側の表口登山道ではないんです。今、 ここの部分はほとんど道はわからなくなってる ぐ ら い の も の で す。 こ れ は 村 山 口 と い う ふ う に 呼ばれている登山道なんです。 もう一度「富士曼荼羅図」を見て下さい。 これは駿河湾にある三保の松原です。松の木が生えているでしょう。これは駿河湾の西岸です。それから、 富士宮の浅間神社というのは富士の周りの神社で一番格が高いお宮ですけれども、富士山の真南にはない んですよ。行って見ればわかりますけど、富士宮市というのは富士山の西南なんです。ここはだから本当 は真南じゃないんです。西南から見た富士山なんです。西側の三保の松原や、これは清見寺という禅寺で すけれども、西側から富士川を渡って富士宮神社に行きます。そこでお参りをして、ここで水ごりをとっ ている人がいますね、身を清めて、ここまでは女の人いるんです。その上に興法寺という密教のお寺があ ります。恐らく天台宗だったでしょう。ここを見るとちょっと小さくてわかりにくいんですけど男の姿だ 100 富士登山地図 けなんですね。女の人はいないんです。これを見てわかるのは、つまり室町時代でも富士山は基本的に女 人禁制だった。富士宮浅間神社、あそこは木花咲耶姫で、女の神様ですから行ってもいいんだけど、上は だめ。上の方は仏教寺院が管理していて女の人は入れなかった。大峰山と一緒だったんです。ついでに言 うと、明治時代まで、明治の初めまで富士山は女人禁制だったんです。江戸時代について言うと、辰年で すね。だから、十二年に一回だけ五合目まで登れたらしい。頂上はだめですけどね。だから、辰年には女 の人の登山が多かったそうです。というかその年しか登れないんですね。 これで見ると、ですからこっちは西南からの登山口が実は富士山の表口だったんです。一番重要な登山 口だったんです、室町時代には。それは当然でしょう。室町時代、東国、つまりここから東で多少人口が あるのは鎌倉だけです。あとは、関東は全然未開の地とまでは言いませんけれども、まるで人口が少ない んです。それから、経済力でも西と比べものにならない。だから全部関西からとまで言いませんけれども、 尾張とか、西側から登りに来る人が多かったということなんです。今の村山口は、東京から来ると一たん 富士山のふもとを通り過ぎたようになって戻る形になるんです。だから東京から来るようになったら登ら ないです。江戸時代に一番よく登られたのは、実は北側の富士吉田から登って御殿場の方、つまり東南の 方におりるのが一番使われました、江戸から来る人たちにはね。 なぜかというと、それが一番まず登るときに楽なんですね。なぜかというと、富士吉田のあたりは富士 101 五湖もそうですけど、標高が九百メートルあるんですよ。それまで、江戸からずっと、江戸は海岸にある でしょう、海抜ゼロから九百まで何日もかけてゆっくり登ってくるわけ。そこから登りますから九百メー トル分節約できる、一日の登りとしては。それを静岡側から登ると大変なんだ。ゼロから登らないといけ ないですからね。だから北から登って南は砂走りと言ってね、火山灰の道を走り下るんで、それも真南に おりるんじゃなくて東南の方に、つまり箱根の方に向かって降りるんです。そうすると江戸が帰りに近く なるから。 ですから、この図を見ると、だからまだこれだけ見ても、つまり西側から登っているというふうにこれ を読み取れば、つまりこれは江戸時代じゃないというのがわかるんです。つまり西からの登山者が多かっ た室町時代までのものだということが、それからでも言うことができる。 絵を幾つか用意してきているので、ほかのも少し見てみましょうか。 江戸時代にかけて富士山に登る庶民というか、修験道の専門の人じゃなくて一般の人の登山というのは 多かったんです。例えば、静岡に来ていたキリスト教の宣教師が、富士山に人々がたくさん登っていると いうようなことを、これは大体十七世紀の初め、つまり江戸時代始まったばかりのころのこととして記録 しています。だから、江戸時代になって初めて富士山にたくさん人が登るようになったんじゃないんです。 鎌倉時代の終わりごろから、実はたくさんの人が、さっきの絵、ずっと人が続いて登っていたのが見えま 102 したか。ずっとアリのように続いて登っているんですよ。つまり、室町時代でそうだったんです。でも江 戸時代になると、もっともっとたくさん人が登るようになります。それは江戸の人口が非常にふえたこと が関係している。富士山に登りたいと、日ごろもう忙し過ぎて、でも一生に一度は富士山に登りたいとか いう人がふえてくる。 もう一つ、富士山というものが日本の中で非常に人気が出るという現象があります。それは、私の専門 とちょっと関係があるんですけれど、江戸時代には朝鮮通信使というのがありました。つまり、江戸時代、 徳川幕府が正式の外交関係を持っていた国は隣の朝鮮だけだったんですね。中国とはいろいろな問題があ って、実は外交関係がないんです。だから唯一の外交関係のある国から、当然その国の大使というか使節 が日本を訪問するわけです。それが朝鮮通信使です。将軍がかわったときに、つまり前の将軍が亡くなっ て新しい将軍が就任したら、それをお祝いするという名目でやってくるから、大体二十年に一回です。だ から、江戸時代二百六十年間のうち朝鮮通信使は十二回だけです。大体二十年に一回でしょう。そのうち の最後の一回は松平定信のときですけれども、対馬で止まってるんです。そこでもう歓迎の行事をやって 帰ってもらうということをやってるので、最後の通信使は富士山を見てません。ですけれども、最初の方 の十一回は全部東海道を通って江戸まで行ってます。だから富士山のふもとを通るわけですね。 そうすると、朝鮮はいろいろ山はたくさんありますけど、富士山みたいに高いのはないですから。最高 103 峰のペクトゥ山、白頭山は火山だけど二千七百メートルぐらいでしょう。それから白頭山を見たことのあ る朝鮮の人は非常に少ないと思う。あれ北の端の山です。有名なのは金剛山ですけど金剛山は二千メート ルないです。あれは東洋の名山なんだけれども、高さは大したことないんです。だから、来れば富士山見 ると驚くんですね。それから普通の山は、大体、例えば木曽の御岳山もそうだけど、山の中にまた高い山 があって、だからその山のふもとが既に標高千メートルあるとかそういうところが多いんですよ。富士山 は海からそびえているから、もろに三千七百メートルなんですよね。海抜ゼロから見るからこれは高く見 える。 僕はヒマラヤのトレッキングというのも行ったことがあってヒマラヤの高い山も見ますけど、それは高 くて立派だけど、ただ自分が立っているところも四千メートル以上あるんですよ、既に。だから、そこか ら六千メートルの山を見たって富士山ほど高くは見えないですよ。そういう点からいうと、見た高さとい うのは特に静岡県側から、ふもとから見ると物すごく富士山は高く見えるんです。だから、朝鮮通信使も 驚くからたくさん記録に残しているし詩もつくっています。朝鮮通信使は皆、漢詩ができる知識人だから、 漢文が書ける人で詩もつくれるんで、富士山の詩をたくさんつくっている。そうすると、日本人も朝鮮人 があんなに褒めるんだから、富士山というのはすごい立派な山じゃないかというふうに考え始めるわけで すよね。もとから立派な山だと思ってたと思うけど。 104 こういう言い方が、だから江戸時代にたくさん言われます。つまり富士山というのは三国一の山である と。三国は、この場合は昔は天竺を入れて、インド、中国、本朝なんですけど、江戸時代だと恐らく日本、 朝鮮、中国の三国だと思います、私は。それにしても、朝鮮、中国入れてもこんな山はないんじゃないか ということなんですよね。つまり、朝鮮の人があれだけ褒めるんだから。これは別に理由のないことでは なくて、例えば中国で名山と言われているのね。どうですか、泰山というのは登られた方はありますか。 山東省にありますけど。 いますね。私も登ったことあるんですけど、あれは大したことないよね、高さは。名山でしょうけれど も、千五百メートルぐらいですよね。あれが中国一の名山なんだ。だから、日本人から見ると高さは大し たことないんじゃないという。中国で五岳、五つの一番の名山というのは、大体高くて標高二千ぐらいね。 それから我々が名前知っている山では蛾眉山、あれは標高三千ちょっとでしょう。富士山よりは低いんで すよね。 ただ、江戸時代でももっと高い山があるのは知っていた、日本人は。それはね、崑崙山なんですよ。こ れは今問題になってる新疆ウイグル自治区、あそこにある。あれは標高五千ぐらいあるから確かに富士山 よりは高いんですね。だけどよく考えてみると、あそこはもともとウイグル族の土地で、新疆と。新しい 領土という意味でしょう。つまり、もともと中国人が住んでいない場所なんだ、あそこは。ヒマラヤの山 105 もそう。チベット人が住んでいるんで、中国人が住んでいたわけでない。だから、もともとの漢民族の居 住地で見ると、高いのはせいぜい蛾眉山の三千五百メートルぐらいで、五岳はみんな二千五百メートル以 下です。 だから、そうしてみると富士山の方が高いではないかという話になるんですよね。つまり、中国を入れ ても富士山はどうやら高いらしい。これは江戸時代の百科事典、『和漢三才図絵』というのがあるんだけ ども、あれに載せられてますから、江戸時代からそういうことを気にしてたらしいのがわかる。だから日 本一どころじゃないと、これは三国一だと。つまり東アジアでナンバーワンの山じゃないかということが 江戸時代に非常に言われるようになったんです。それだから、なおさら富士山人気というのが上がること になります。 さて、この絵は江戸時代にかかれたものです。白隠という、この人は江戸時代で一番すぐれた仏教者で あると言われてますけれども、白隠という人が八十歳超えてから書いた、最晩年にかいた禅画です。富士 山のふもとを大名行列が歩いているが、この絵を見るとどうも大名行列が、何ていうのか、しょぼくれて るというのか、立派に見えないんです。大名行列というのは胸張って威張って歩くものでしょう。それが みんな前かがみというか、富士山に遠慮しているのかしていないのか、ともかく余り意気が上がらない感 じでみすぼらしく見えます。実はそこにこの絵の意味があるんです。富士山は白隠にとっては禅の悟りの 106 象 徴 な ん で す。 一 番 奥 深 く て 高 い も の で す ね。 人 間 か ら も 超 絶 し た 物 だ。 だ か ら そ う い う 人 間 か ら 超 絶 し た 富士山から見れば、つまり禅の悟りの境地から見れば、 威 張 っ て い る 大 名、 大 名 と い う の は 江 戸 時 代 で 一 番 偉 い 者 で し ょ う、 将 軍 を 除 け ば ね、 一 番 身 分 の 高 い 大 名 と い え ど も、 富 士 山 か ら 見 た ら 小 さ な も の だ と い う、 107 そういう考えなんですよ。 こ れ は、 白 隠 が 自 分 で 書 い た 本 の 中 で 大 名 行 列 の 批 判 を し て い る ん で す。 あ ん な も の は 必 要 な い と。 今 の 公 共 事 業 を 減 ら せ と い う の に 近 い ん だ け ど、 大 変 な 経 済 的 な 損 失 で あ る と い う こ と を 言 っ て ま す。 今 は 平 和 な ん だ か ら、 大 名 も 供 の 十 人 で も 連 れ て 歩 け ば い い だ ろ う と。 あ ん な 何 百 人 も 連 れ て 歩 く 必 要 は な い。 な ぜ そ ん な に 威 張 り 返 っ て や ら な き ゃ い け な い の か、 む だ な こ と を と い う の で、 非 常 に 厳 し く 批 判 し て い る ん で 白隠「富士大名行列図」白性寺大雅堂蔵、芳沢勝弘『白隠−禅画の世界』 すね。それを禅の境地から見れば、大名行列なんぞはつまらないもの。富士山から見れば、武士といえど も大名といえども、ずっと下の者なんだと、そういうことなんです。 江戸時代に、庶民が一生懸命富士山に登った理由もこの気持ちと多分つながるところがある。江戸時代 に富士講というものができて物すごくたくさん人が富士山に登るんです。それには一つの事件がかかわっ ている。享保時代、享保十七年、当然徳川吉宗の治下です。その年に食行身禄という人、これは行者の名 前です、富士山に何十回も登ったという。年表にも後の方に出てるかと思いますが、彼が富士山の七合目 の岩室、岩の洞窟で三十日間ぐらい断食をして死ぬんですよ。つまり自殺ですね。今風に言えば自殺で、 昔は入定とか、そういうこと言いました。生きながら即身成仏だ。この場合、富士山の行者だから必ずし も仏教とは言えませんけど、気持ちはそんなものですね。これを機に、江戸の庶民の間で物すごい富士登 山ブームが巻き起こる。それまでからたくさん登ってるんだけど、江戸の庶民がみんなとは言わないけど、 大変なブームが起こるんです。 ところがこの食行身禄は秘伝というか遺言の形で彼の思想を残していて、それは富士講、つまりグルー プを組んで富士に登る人たちの間で秘伝とされていて、つい最近まで、つまり戦争が終わった後にようや く表に出たんですけれども、その内容を見ると、なぜ死んだかという理由がはっきりと書いてある。 要するに、徳川吉宗の政治に対する抗議なんです。今だったら、選挙に行って民主党か共産党に入れれ 108 ばそれで政治批判したことになるんでしょう。徳川時代、そんなことできませんから。そんなことやった ら一遍で殺されちゃう。そのかわりに断食、ハンガー・ストライキで自殺したわけだね。でも表には出な かった。でも富士講、富士登山に参加する人たちには秘密に伝わっていたんでしょう、だからあんなに人 が集まったと思う。何を批判したか。要するに、徳川吉宗の政治は庶民をいじめているということなんで すね。徳川吉宗は、徳川幕府を立て直した中興の祖ですよね。名君だと言われてます。それは幕府や侍に とっては確かにそうだったけど、庶民にとっては必ずしもそうは言えないんですね。 まず第一に年貢を徹底的に厳しく取り立てた。それから米の値段をつり上げた。米の値段をつり上げる ということはどういうことか。日本史では今教えていると思いますけど、武士の給料は石高ですよね、米 の。だから、武士の給料は米で支払われているわけね、年貢で取り立てた、税金で取り立てた。だから、 それを武士は米を売ってお金にかえて、またほかの必要な物を買うわけですね。だから米の値段が上がれ ば、武士の給料は石高が上がらなくても現金で考えれば、お金で考えれば給料上がったことになるわけで す。逆に庶民から見ると米の値段が高いわけですから、年貢を同じ量とられても、現金で考えれば余計に とられていることになるわけです。 それから、当然米の値段が上がれば庶民の生活のもとですから、物価が上がったということになります。 だから、米の値段をつり上げると得をするのは武士で、損をするのは庶民。税金を払う側ですね。これを 109 痛烈に食行身録は批判している。なぜかというと、その前の年に大飢饉があったんです。たくさん人が死 んでいる。何十万人というふうに言われているんですよ、その年。さすがに、それで江戸の庶民も怒って、 米の買い占めを将軍から命令されてやっていると言われている米屋に押しかけて、「打ちこわし」をやる んです。これが江戸時代最初の打ちこわしで、食行身禄が富士山で自殺する三カ月ぐらい前ぐらいの話な んです。 私は十年間国立の研究所にいて、そのときはまだ独立行政法人じゃなくて国家公務員だったんですよ。 僕はその前私立大学で今も私立大学ですけど、国家公務員の給料をもらっているのを僕は非常に気分が悪 かったです。今、財政は大赤字でしょう。半分が国債で、つまり借金してやっているんですよね。だから、 そういう大赤字の財政の中で、人並みの給料をもらっているのを僕は非常に気分が悪かったです。そう思 う人は少ないかな。そこが、僕が公務員というものの不愉快なところだというふうに思っている。この中 で公務員のOBの方がいたらごめんなさいね。私はそう思っているんです。もらってもいいですよ、もら わないと生活できないから。ただ、申しわけないとどうして思わないかなというふうに私は思います。 私、この大学に移って来て、ここは一応財政は黒字です。私の給料のうちの三分の二は、恐らく学生さ んが払ってくれる授業料です。文部省の補助金もありますから三分の一ぐらいは。その三分の一が国から 来ているのが僕は今でもちょっと嫌なんだけど、でも給料三分の二にしてくださいと言う気もないけどね。 110 でも、気持ちは三分の二軽いですよ、正直言って。だから、国家公務員の待遇が良過ぎると思う、仕事に 対してね。というのが今の世論だろうと私は思うんですね。 それを思うと、江戸時代の食行身禄の断食自殺の話というのは非常によくわかる。政府に対する怒りで ね。武士というのは、税金を払わない人たちで、税金から全部給料が来ている人たちで、今の公務員はち ゃんと税金は払っているからね。今の公務員よりある意味で悪いです。その怒りなんだね、武士階級に対 する。それが実は、江戸時代に江戸の庶民が我も我もと富士山に登りにいった大きな動機なんですよ。そ れだけとは言いませんよ。山に登ればそれはそれで楽しいから。いろんな景色も見れるし、それはそうな んで観光ですけれども。江戸時代の富士登山というのは、そういう庶民の怒りの、でも打ちこわしをやる ほど勇気のあるやつは余りいないから。しかも後で死刑になるでしょう、それは。だから、そのかわりに みんな富士山に登りにいったんですよね。これはいわゆるガス抜きというか、そういううっぷんの発散の 方法としてはなかなかおもしろいというか、いい方法なのかもしれない。でも今はみんなが、特に中高年 の人が最近山によく登るのはなぜなんでしょうね。怒りからではないように思いますけども。 あと江戸時代、本当はいっぱい話したいことあるんですが、明治以降はそういうことはなくなります。 僕の思ったのは、江戸時代の終わりまでは富士山は庶民の山、特に江戸の庶民の山でした。大名なんか登 らないですよ、身分の高い人は。ですけれども、明治になってからは、日本の国家の象徴といいますか、 111 ナショナリズムの象徴に変わっていきます。それは、我々がよく知っていることだから、きょうは余りお 話ししないことにしようと思います。ですけれども、もともと宗教の山として開かれて、江戸時代には特 に庶民の山という趣が強かったということは、知っておいた方がいいと思います。 きょうはちょっと絵だけお見せしましょうか。葛飾北斎の冨嶽三十六景。庶民の姿と富士山が一緒に描 かれている図柄が多いんですよね。これなんか非常に有名なもので すけど、桶つくりが仕事をしているわけです。大きな桶をつくって 112 いて、富士山は遠くにあります。これはいろんな絵の見方はあると 思うけれども、江戸時代の富士山というのは、こういうしがない田 舎の桶つくり、そういう人でも頑張って働いてお金をためるという か、富士講という形で行くんですけど、ネズミ講とか無尽講とかい ろ ん な 言 い 方 が あ る で し ょ う、 み ん な で 集 ま っ て お 金 を 出 し 合 っ て、普通では事実上貯金と一緒ですけれども、普通ではやれないよ うなことをやるわけですね。 だから、富士講に参加すればこのぐらいの桶つくりだって、頑張 って毎日毎日桶をつくって何がしか稼いでいくと、ちりも積もれば 北斎「冨嶽三十六景」から尾州不二見原 山となるで、例えば五年間金をためれば、遠くの高い富士山でも登れるというのが、多分その心じゃない かなと私は思います。だから、桶屋のつくる桶の方がずっと富士山より大きいんですよ。つまり、桶をつ くっていれば富士山のてっぺんを踏むことができる。つまり、富士山より高い場所に行けるんだよね。頂 上に立てば自分の頭は富士山より高いでしょう。そういうことの象徴というふうに見れます。江戸時代の そういう社会状況とか文化状況とかを知っていると、『冨嶽三十六景』はもう世界的に有名な名画という ことになっていますけど、見方も多少変わってくるんじゃないかなと思います。 ちょっともう時間がなくなりそうなのでここまでにしますが、でも質問があれば受け付けます。 よろしいかな。 受講生 全く話が尽きないので、すべてはお聞きすることはできませんけど。 年表の最初に、六六三年、白村江の戦いというのが出てきまして、たまたま、この年表というのは日本 にとって非常に重要な時期だと思うんですけど、そういうのは富士山の文化史の中に出てくるというとこ ろを教えていただきたい。 上垣外憲一教授 白村江の戦いそのものというよりも、要するに日本が外国と非常に緊張関係にあっ た時代ということの代表で出したわけですね。だから、白村江の戦いは日本と百済の、百済は滅びている けども、百済の残党の連合軍と、唐と新羅の軍隊が衝突して日本が負けますね。その後日本というのは物 113 すごい緊張状態になるわけです。例えば太平洋戦争のときと比べてもいいかもしれないですよね。 そうすると、これから日本にも唐の軍隊が押し寄せてきて、日本が負けるかもしれないという、そうい うときです。そういうときには、非常に古い時代ですけど、やはり日本の国、これは駿河の国だとか甲斐 の国だとかそういう話じゃない。日本対新羅、日本対唐が対立しているというときになると、富士山がや っぱり日本で一番高い山でしょう、これが日本のやっぱり象徴というふうに思われた。奈良時代はかなり そういうことが言えると思います。 だから、山部赤人の有名な富士の歌がありますね。あれの調子は、実は明治時代の富士山に近い。なぜ か、大きな戦争を外国とやっている時代だから。だから奈良時代と明治時代は、例えば明治になって王政 復古だとか言って、奈良とか平安の初めの天皇中心の律令制に戻るんだということでしょう。そういう意 識があるということは、日本全体が国家として一つにまとまってないと外国にやられちゃうという海外に 対する危機意識なんですね。そうすると、そういうときには日本全体をまとめる象徴として、富士山とい うのがクローズアップされる。だから、実は奈良時代と明治時代は、時代は非常に離れているけど、その 点では富士山のイメージが近くなるんですよ。江戸時代みたいに余り外国と緊張関係がないと、そういう 意識は薄くなるんですね、というのが僕の考え。 山部赤人の富士山、あるいは高橋虫麻呂歌集の富士山のイメージは、だから非常にナショナリスティッ 114 クなものを含んでいます、民族主義的なものを。それは一番近い近代にむしろ似ている。つまり、中世と は非常に違う。富士山が地獄だというような考え方と非常に違いますね。 司会 ほかにどなたかございますでしょうか。 受講生 明治の直前に富士山艦という、これは軍艦のようですが、これは幕府が発注した船ですか。 上垣外憲一教授 そうです。 受講生 どんな装備、機器があるんですか。 上垣外憲一教授 富士山艦は幕府艦隊の旗艦でした。将軍家茂が大阪の方に行きますよね。あのとき の旗艦は富士山丸です。それから、長州征伐のときの旗艦もそうだったと思います。重さ、トン数でいう と千トンぐらいですけど、それが幕府海軍が持っていた最大の軍艦だったんです。発注はアメリカにして います。ニューヨークかどこかで建造されたアメリカの蒸気船ですけれども、幕府の艦隊の一番大きな船 で、その次に巨大なものをオランダに発注していますけど、開陽艦という船があって二千六百トンです。 これができるまでは、榎本武揚がオランダ留学しているでしょう、あの連中が操縦して日本に戻ってくる んだけど、もう慶応です。幕末の最末期だけど、その海洋艦がオランダから日本に着くまでは富士山艦が 日本最大の軍艦だったんです。長州征伐のときは高杉晋作のオテントサマ丸というのにやられるんですよ ね。そういうようなこともありますね。 115 やっぱり幕府は静岡が本拠地でしょう。徳川家康なんか駿府に住んでいたわけだし。それから、明治に なってからは沼津へ引っ込みますよね、徳川家は。そういうことで、静岡が一番の本拠地で、そこにある やっぱり富士山というのは、幕府にとっては、だから自分のおひざ元の山という考え方。幕府はつまり、 薩長や関西方のいわゆる勤王派と基本的に幕末には対立していたわけだから、やっぱり静岡にある、自分 の本拠地にある富士山の名前を最大の軍艦の名前にしたのはそういうことだと思う。自分ところの一番立 派な物だという、そういう意味が含まれているんじゃないでしょうか。その場合は関東と関西を対立させ て、富士山を関東の象徴にしているわけですね。というふうに僕は思っていますけど。 受講生 富士山に対するイメージと同様のものが世界じゅうでありますけど、金剛山と言われました けど、それ以外に例えばアメリカとかヨーロッパ。 上垣外憲一教授 僕はそれをこれからやりたいと思っているんですけどね。つまり世界の山岳信仰と か。ただ、今言えることは、キリスト教というのは山に対して非常に冷淡というか敵意さえ持ってる、持 っていたということですね。だから、キリスト教世界、キリスト教以前には山の崇拝があったと思うんで す、原始宗教で。日本の神道と同じようなね。ところが、キリスト教はそれは異教のもの、つまり自分か ら見れば邪教であるという考え方で、山岳信仰をつぶしたという感じを受けますね。だからキリスト教世 界では、登山はずっと行われないんですよ。山は悪魔が住むところなんだと。だから、魔女なんかも山の 116 中で集会を開いたりするわけですよね。 そういう場所だから、神様がいる場所でなくて悪魔がいる場所なんですよ。トーマス マ・ンに「魔の山」、 あれはツァウバーベルクで魔法の山ということだけど、でもそれも異教と関係していますよね。だから、 キリスト教世界では登山が、みんなが山に登ってなんてことは非常に最近の話で、中世には全くないと言 っていいんです。 だけれど、例えばネパール、それから須弥山という考え方がインドから来ているわけだし、やっぱりイ ンドはヒマラヤを崇拝する、ヒマラヤは神様ですからヒンズー教でも。それから、僕はネパールへ行った ことがありますけど、ネパールはやっぱり山岳信仰は非常にありますよね。 だから、今でも登山禁止の山がありますよ。登山の届けを出したって受け付けないんですよ、十かその くらいの山は。エベレストは登っていいけど、マチャプチャレという山がありますでしょう、ポカラにね。 あの山は今でも、登山禁止です。なぜかというと信仰の山だから。日本の場合、そこは微妙なんですよ。 だから、大峰山は女人禁制とかね、女はだめといういい方ではあるけれど、男も女も登ってはいけない山 はないんだね、日本は。 つまり人間が登ってはいけないという山はないんですよ。だから、山を神様として本当に崇拝するんだ ったら、実は神様の頭を土足で踏むのは非常に失礼な話であって、全然登れないという方が、本当は山岳 117 信仰の本当の姿かもしれないというふうには僕は思います。だから、庶民でもそういう神聖な山を土足で 踏んでいいというのは、ある意味で新しいことなんですけどね。 山伏という者は、昔は怖いものだったんですよ。なぜ怖いかというと、普通の人が行けば、行って遭難 して死んでしまうような山を何カ月も歩いててもちゃんと生きて帰ってくるわけだから。これは特別な人 間ではないかと思う方が正しいでしょう。だから、山伏は特別な霊力があるというふうに思うわけ、それ が山伏なんですね。それは山がとても神聖な場所で、また恐ろしい場所で、だからそういう場所を自由に 歩ける人は普通の人間とは違っていると。宗教的にすぐれた人だという、そういう考え方でしょう。 近代の考え方では、登山家というのは技術がすぐれて、技術と体力がすぐれているから我々より上なん だと。スポーツですね、これは。だけど中世や江戸時時代まではそうではなくて、やっぱり山が宗教的に 深くて神聖な場所だから、そこで修行をした人には霊力がある、宗教的な力があるというそういう感じ方 ではないでしょうか。 明治以降の日本政府は、そういう山、特に富士山に対するそういう宗教的な信仰をうまいことナショナ リズムに変えたというかね。不思議に思うのは、軍艦の名前に山の名前が多いでしょう。赤城とか、金剛 とか、山の名前どんどんつけてる。三笠なんて、あんな小さい山の名前をどうして一番大きい軍艦につけ たかと僕は思うけれども、三笠だって山ですよね。それはやっぱり山岳信仰と何らかのつながりがやっぱ 118 りあるのではないかと私は思いますけれど。 司会 興味深くお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 上垣外先生に拍手をお願いいたします。 (拍手) 119 第五回 平成二十一年九月十九日 インド社会の変ぼうと世捨て人の戦略 一 はじめに 村瀬 智 わたしがこの四半世紀にわたって追いかけている研究テーマは、インド文明の人類学的研究です。とく に、ベンガル地方の「バウル」とよばれる宗教的芸能集団に焦点をあてて研究をすすめています。 インドはいくつもの顔をもった不思議な国です。日本人にとってはとくにそうかもしれません。インド と聞いて、ある人は「お釈迦様と仏教のふるさと」を、またある人は「悠久のときの流れるところ」とい ったイメージを思い浮かべるかもしれない。団塊世代なら、ガンジーやネルーの姿を思いだすかもしれな い。若い人なら、カレーやサリーを思いつくかもしれない。あるいは、ターバンを巻いた蛇使いの大道芸 人が出てくるかもしれない。 それらのイメージは、どれもみな正しいのですが、インドに対して、もしそのひとつのイメージしかも てないとしたら、それは問題です。なぜなら、インド世界はいろいろな表情をもっているのに、ひとつの 121 表情だけを思い浮かべて、それがインドなのだと理解したら、それは間違いだからです。インドのおもし ろさや不思議さは、いろいろな顔をあわせもっているところにあります。インドは万華鏡に似ています。 その万華鏡の模様のような多様性のなかにこそ、インドがあるのです。そして、その万華鏡の模様のよう に、インドは一時も静止しない。インド社会は、歴史を通じて常に変化し動いているのです。 さて、平成二十一年度の大手前大学公開講座のテーマは、「時空を越えて 変ぼうする社会と文化」です。 時代や地域にとらわれず、「変わりゆくもの」に焦点をあてて、社会と文化を考えてみようということです。 現在のインドは、一九九一年の経済改革が功を奏し、急速な経済成長を実現しています。今日の講義で は、このインド社会の劇的な変ぼうに対して、世捨て人がどのように対応しているかを、ボルプール・シ ャンティニケータン地域のバウルを例に考えたいと思います。ビルブム県ボルプール市は、コルカタ(カ ルカッタ)の北西約一六〇キロ、急行列車で約三時間の距離の地方都市です。ボルブールに隣接するシャ ンティニケータンは、詩人タゴールが創設したヴィシュヴァ・バーラティ大学の所在地として有名です。 122 二 カースト制度と世捨て人 インドの社会をもっとも顕著に特徴づけているのは、カーストです。インド社会の近代化にともなって、 カースト制度はずいぶん緩んできたとはいえ、いまだにヒンドゥー教徒の職業や結婚、食事などの行動を 規制しています。ところが、世俗のヒンドゥー教徒の生活と密接にかかわりながら、「世捨て人」(現世放 棄者)が、インドの社会的景観の不可欠の部分として、何千年も存在しつづけているという事実は意外と みすごされてきました。 古代インドでは、「ダルマ」(社会的規範)を遵守すること、「アルタ」(実利)を追求すること、「カーマ」(愛、 とりわけ男女間の性愛)を交歓することが人生の三大目的とされ、この三つを充足しつつ家庭をいとなみ、 子孫をのこすのがひとつの理想とされてきました。また一方では、とくに業・輪廻の思想が明示されたウ パニシャッド思想以降、世俗の世界を放棄し、乞食遊行(こつじきゆぎょう)しつつ苦行や冥想によって 輪廻から脱却すること、すなわち「モークシャ」(解脱)を達成することが宗教的理想として立てられました。 相反する実践を要請するこの二つの理想を、実践の時期を区分することによって合理的に調和させるた めに設定されたのが、「四住期(アーシュラマ)」の制度です ⅰ。古代から現代にいたるインド人の大多数 の生き方を方向づけているゾルレンとしての生き方、人間の理想として「まさになすべきこと」「まさに あるべきこと」、それが四住期という考え方のなかに反映しています。 123 中世以降、神への絶対的な帰依を内容とする「バクティ」(信愛)の思想が展開し、ヒンドゥー教は大 きく変化しました ⅱ。しかし現代においても、カースト社会に生きる世俗の人びとにとって、世捨て人は 相反する生活様式を採用した人なのですが、「究極の理想を追求する人」として存在しているのです。そ して世俗の人びとは、世捨て人に食べ物や金などを施与し、彼らの生存を保証しているのです。それは世 俗の人びとにとって、「スヴァ・ダルマ」(本分)とされているのです。 三 バウルの道 ベンガルのバウルは、農業労働や工業生産、手工芸作業、商業活動などにいっさい従事していません。 彼らは、一般のベンガル人に経済的に依存し、「マドゥコリ」をして生活しているのです。ベンガル語の 辞書は、「マドゥコリ」という語を、「蜂が花から花へと蜜を集めるように、一軒一軒物乞いをして歩くこと」 と説明しています。すなわちバウルとは、「みずからバウルと名のり、バウルの衣装を身にまとい、人家 の門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」 のことです。バウルは宗教的な乞食なのです。バウルは、世捨て人のようなゲルア色(黄土色)の衣装を 着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼いでいるのです。 マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、また「バウルである」ためにも不可 124 欠の要件です。これは彼らが選んだライフスタイルです。そしてこのライフスタイルそのものが、彼らが 主張する「バウルの道」(バウル・ポト)の基本なのです。バウルの道とは、「マドゥコリの生活にはじま り、神との合一という究極の目標にいたる道」です。それは「人間の肉体は、真理の容器」という彼らの 信仰にもとづいています。バウルの説明は実に明快です。「わたしたちは富をもたない乞食です。わたし たちの唯一の財産は、この肉体です。しかし、この肉体には神が住んでおられる。それ以上に何が必要で すか」と語るのです ⅲ。 おおくのバウルが説明してくれた「バウルの道」を要約すると、つぎのようになるかと思います。 ・・・人は、 もしバウルの道にしたがうならば、だれでもバウルになれる。ただし、バウルの道の第一歩では、(カー ストの義務を放棄し)マドゥコリの生活を採用しなければならない。バウルの道の究極の目標は、人間の 肉体に宿る神と合一し、神を実感することである。バウルと名のり、バウルの歌をうたい、マドゥコリの 生活をするだけでは、バウルの道の半分しかすすんでいない。バウルの道の究極目標に到達するには、バ ウルの歌を通じてバウルの宗教をまなび、ヨーガの修行を通じて自己の心身を鍛えなければならない。そ して、サドナとよばれる宗教儀礼を実践しなければならない。そのためにはグルの導きが必要である。 ・・・ 125 四 もうひとつのライフスタイル バウルに、なぜ彼らがバウルになったのかという質問をすると、十中八、九、「子どものころから歌や音 楽がすきだったからだ」という答がかえってきます。しかし、個々のバウルのライフヒストリーを詳細に 検討してみると、長期にわたる社会的・経済的・心理的な不満や不安を経験したのちに、バウルになった ようです ⅳ。 ベンガル社会の一群の人びとが、なぜバウルの道をえらんだのかを、ただひとつの要因をあげて説明す ることはできません。彼らがバウルになった動機には、いくつもの要因が複雑に絡みあっているのがふつ うです。それらは、低いカースト身分による抑圧、慢性的な貧困、本人の意思のはいりこむ余地のない結 婚に対する不安、世代間の反目、父母の別居による家庭崩壊、乳・幼児期における親の死の経験、そして 異母兄弟との土地所有権や相続権をめぐる争いなど、解決できない抑圧の具体的な経験です。 このように、バウルになる動機となった要因のおおくは、カースト社会に内在している特質や矛盾に由 来するようです。そして、結果として生じた社会的・経済的・心理的な不満や不安は、バウルには、「現実」 であるが「耐えがたい」と感じられていたようです。カーストの地位や身分による限界、インドの家族制 度や結婚制度の特性、経済的な不安定さなどに起因するこれらの社会的・経済的・心理的な問題に対する 解答は、「苛酷な現実に耐える」か「耐えがたい現実から自由になる」かの二者択一です。このような状 126 況のなかで、わたしがインタビューしたバウルのおおくは、自分の身に降りかかった問題に対する意味あ る解決策を、「文化的に是認された生活様式」、すなわち「世捨て人の生活」に見いだすことができたので す。彼らは、世捨て人の生活様式を採用することによって、人生の危機を切り抜けることができたのです。 世捨て人の生活は、個人の選択肢が制限されたカースト社会における、選択可能な「もうひとつのライ フスタイル」です。「バウルの道」(バウル・ポト)は、「サードゥー」(ヒンドゥー教の出家修行者)や「ヨ ーギー」 (ヨーガ行者)、「ボイラギ」 (ヴィシュヌ派の出家行者)、「ファッキール」 (イスラム神秘主義の行者) など、インド社会に存在するいくつかの「世捨ての道」(サンニャーシ・ポト)のひとつです。インド文 明には、カースト制度にともなって、それと矛盾する世捨ての制度が、文明の装置として組み込まれてい るのです。 五 プロの音楽家の出現 詩人タゴールが、二〇世紀初頭にバウルの歌の豊潤さを世に紹介して以来、それまで「奇妙な集団の風 変わりな歌」と思われていたバウルの歌が、再評価されるようになりました。タゴールの影響により、そ の後ベンガル人学者によって膨大な数のバウルの歌が採集され、なかには注釈つきのりっぱな歌集として 出版されるようになったのです。 127 一九五一年、タゴールが創設したヴィシュヴァ・バーラティ大学は、国立大学となりました。大学はそ れ以後、「ポウシュ月の祭典」(ポウシュ・ウトショブ)や「マーグ月の祭典」(マーグ・ウトショブ)を 主催するようになりました。大学は、祭典のプログラムのひとつとして、バウルの歌の音楽会を開催する ようになったのです。 このような、タゴールの影響やヴィシュヴァ・バーラティ大学の積極的な後援をきっかけに、一九五〇 年代後半には、バウルの歌と音楽は、「ベンガル民俗文化の不可欠の部分」と認識されるようになりました。 しかしこのことは、ベンガルのバウルの「宗教的求道者」という側面よりも、「民俗音楽家」という側面 を強調することになったのです。音楽的技量に卓越したバウルは、ベンガルの上流階級の邸宅での私的な 音楽会に招かれたり、大都会での祭典やラジオ・テレビにも出演するようになりました。また、バウルの 歌や音楽のレコードやカセットテープが商品として販売されるようになりました。さらに、外国公演にも 招聘されるバウルも出現するようになったのです。 ベンガル社会の急激な変化に呼応するように、一部のバウルは、マドゥコリの生活をやめ、プロの音楽 家としての道をあゆみはじめました。彼らは音楽チームを組織し、バウルの歌を演奏会でしか演奏しなく なりました。また、音楽教室を開設し、アマチュアの音楽愛好家にバウルの歌や音楽を教えるようになり ました。彼らは、契約による出演料や授業料によって生活費を稼ぐようになったのです。レコードやカセ 128 ットテープに録音を依頼されたバウルは、バウルの歌や音楽の商業的価値を知りました。また外国公演に 招聘されたバウルは、外国人の心をもひきつけるバウルの歌や音楽の魅力に気づきました。さらに、野心 のあるバウルは、プロの音楽家としての活動の機会のおおいコルカタに移住したのです。 ほとんどのバウルは、今日でもベンガルのいなかの村々をまわり、人家の門口で歌をうたったり、神の 御名を唱えたりしながら、一軒一軒マドゥコリをして生活しています。しかし彼らは、コルカタに移住し、 自宅には電気や水道はもちろんのこと、冷房装置や温水装置も完備し、テレビや電話、運転手つきの自家 用車まで所有するプールノ・チャンドロ・ダシュのような、プロの音楽家として成功した「スター」の生 活も知っています ⅴ。今日の若いバウルが、バウルの歌を一握りの米と交換するために人家の「門口」で うたうよりも、割に合う出演料や気前のよい祝儀が期待できる「舞台」でうたいたがるとしても、それは 当然です。そして彼らの関心が、宗教や儀礼に精通したバウルになることよりも、歌手として人気のある バウルになることだとしても、それは不思議なことではありません。 六 シャンティニケータンの観光地化 一九六一年、タゴールの生誕百年祭が、ヴィシュヴァ・バーラティ大学を中心に、ボルプール・シャン ティニケータン地域で盛大に行なわれました。それを記念して、タゴールが晩年を過ごした大学構内の邸 129 宅(ウッタラヤン)が一般公開されるようになりました。また、邸宅に保管されていた直筆の原稿、自身 が描いたデッサンや絵画、書簡、邸宅を訪問した客人との記念写真、受けとった贈り物など、すべての遺 品を展示するための博物館が、ウッタラヤンの敷地内に開設さました。さらに、大学から程近い場所に、 西ベンガル州政府直営の「シャンティニケータン・ツーリスト・ロッジ」が開設されました。それは、こ の地域で最初の一般観光客用の本格的な宿泊施設です。「タゴールのシャンティニケータン」は、重要な 観光資源だと考えられたのです。 シャンティニケータンの観光地化にともなって、ヴィシュヴァ・バーラティ大学周辺に、民間経営のロ ッジや土産物店がつぎつぎと開店しました。大学主催の「ポウシュ月の祭典」や「マーグ月の祭典」が開 催中でなくても、インド人観光客でにぎわうようになったからです。 「シャンティニケータン」という地名は、「平和の郷」という意味で、そのひびきのよい名前は、インド 人だけでなく、外国人にもアピールしたようです。一九六〇年代後半から、ヴィシュヴァ・バーラティ大 学に外国人留学生が増えてきました。また、自由な旅行を楽しむ外国人バックパッカーも増えてきました。 アメリカやヨーロッパで、英語版の「地球の歩き方」のようなガイドブックが、つぎつぎと出版されまし た。欧米や日本などの先進的産業社会では、体験型の海外旅行ブームがおこったのです。 インドは訪問国として若者に人気がありました。それには、ビートルズのジョージ・ハリソンがインド 130 のシタール奏者ラヴィ・シャンカールに弟子入りしたことや、シンガーソングライターのボブ・ディラン がプールノ・チャンドロ・ダシュとアメリカ各地で共演し大成功をおさめたことなどが、大きく報道され たことも影響を与えたのかもしれません。 七 マドゥコリのパターンの変化(その一) バウルは、人家の門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の御名を唱えて、マドゥコリをして生活 費を稼いでいます。それは、ベンガルの村の、「ベンガル人の家の門口」でのことでした。しかしバウル は、一九七〇年頃から、ヴィシュヴァ・バーラティ大学のホステルに住む外国人留学生や ⅵ、ツーリスト・ ロッジに滞在する外国人旅行者も訪問するようになったのです。彼らは、外国人にバウルの歌をうたって、 金銭を要求するようになったのです。 さらにバウルは、やはり一九七〇年頃から、人家の門口でマドゥコリをするだけなく、列車の中でも歌 をうたって稼ぐようになりました。乗客には、バウルの歌を求めるインド人観光客や外国人旅行者も少な からずいたからです。 列車のなかで歌をうたって稼ぐことの利点は、天候に左右されず、きびしい夏期や雨期にも容易に行え ることです。ベンガルの夏には、「ルー」とよばれる熱風が何日もつづきます。手に触れるものは、すべ 131 て熱く感じられます。雨期になれば、すこしは涼しくなります。しかし雨期には、ときには川があふれ、 道が流されます。夏期や雨期は、村にマドゥコリに行くのが困難な時期なのです。 しかし、この利点にもかかわらず、バウルのおおくは、列車のなかで歌をうたって稼ぐよりも、村での マドゥコリを好むようです。その理由のひとつは、列車のなかは、いつもざわざわした雰囲気にあるから です。バウルが歌をうたっていても、さまざまな物売りが大声をはりあげて、混んだ車内をとおりすぎて ゆきます。そこは、演奏者のバウルにとっても、聴衆の乗客にとっても、十分な環境ではありません。 もうひとつの理由は、そこでは、バウルが不特定多数の正体不明の乗客を相手に歌をうたわなければな らないことにあります。このことは、ボルプール駅裏手のS地区に住むBDBの証言によくあらわれてい ます。 「おおぜいの乗客のなかには喜捨をしたくない人もいるでしょう。それでもその人は人目を気にして、 二〇パイサか二五パイサの小銭を与えるでしょう。しかし、わたしがどこかの村のだれかの家の中庭でう たっている姿を想像してごらんなさい。そこには数人の聴衆しかいないけれど、彼らはわたしの歌をじっ と聴いてくれる。そして、わたしの歌に満足した村びとは、一握りの米をよろこんで与えてくれます。そ れは、列車のなかの不本意な小銭よりもはるかにうれしい」。 バウルは、列車の無賃乗車を黙認されています。しかし、無賃乗車を黙認されているのはバウルだけで 132 はありません。乞食や物売り、そして世捨て人も無賃乗車を黙認されているのです。 村でマドゥコリをするバウルは、経文を唱えて物乞いをするボイラギ(ヴィシュヌ派の出家修行者)や ファッキール(イスラム神秘主義の行者)などと同様に、世捨て人の範ちゅうの人間です。しかし、列車 のなかで歌をうたって稼ぐバウルを、一般の乗客はどのようにみているのだろうか。バウルは小銭を求め る乞食なのか。それとも、歌の押し売りをする物売りなのか。 八 インドの経済危機と経済政策の転換 一九九〇年八月のイラクのクウェート侵攻がきっかけとなり、九一年一月に湾岸戦争が始まりました。 この影響で原油価格が高騰しました。また、中東に出稼ぎに出ていたインド人労働者からの送金が止まり ました。この結果、インドは外貨準備が輸入の約二週間分にまで減少するという深刻な国際収支危機に陥 ったのです。 一九四七年の独立以降、社会主義型経済により国内産業の保護を優先してきたインド政府は、一九九一 年から経済自由化路線へ変更する経済改革を開始しました。具体的には、国内における産業規制の緩和や、 貿易・諸外国からの投資の自由化を進展させ、高い経済成長の実現を目ざす政策です。 一九九一年以降の経済改革が功を奏し、一九九二年以降のインドの国内総生産(GDP )は順調に伸 133 展 し て い ま す。 一 九 九 三 年 か ら 二 〇 〇 三 年 の イ ン ド の 平 均 経 済 成 長 率 は 五、九% で す が、 同 じ 時 期 の 日 本 の 成 長 率 は 一、二% で 表1 インドの所得別世帯構成の推移(単位は%) すので、インドが着実に経済成長を続けているのがわかります。 とくに経済改革の成果が明らかになってきたのは最近のことで、 過 去 五 年 間 の イ ン ド の 経 済 成 長 率 は 八% に お よ び、 近 年 さ ら に 九%台に加速しています。 134 つぎの「表1」は、NCAER(インド国立応用経済研究所) による、「インドの所得別世帯構成の推移」を示したものです。 「 表 1」 を み る と、 経 済 成 長 に と も な い 年 間 の 世 帯 収 入 が 四 万 五 〇 〇 〇 ル ピ ー 以 下 の 低 所 得 層 が 減 り、 年 間 の 世 帯 収 入 が 九 万 ル ピ ー 以 上 の 中 所 得 層 以 上 の 占 め る 割 合 が、 一 九 八 五 年 度 の九、五%から二〇〇一年度には二八%まで拡大しています。 「表 1」 に は あ り ま せ ん が、 中 所 得 層 以 上 の 割 合 は、 二 〇 〇 五 年 度 ではさらに三四、五%にまで拡大しており、いわゆる中間層が増 大 し て い る こ と が わ か り ま す。 イ ン ド と い う と、 物 乞 い を す る 1985 1989 1992 1995 1998 2001 低所得層 (~ 45,000 ルピー) 65.3 58.9 58.2 48.9 39.8 34.6 下位中所得層 (45,001 ~ 90,000 ルピー) 25.2 26.9 25.4 30.7 34.5 37.3 中所得層 (90,001 ~ 135,000 ルピー) 6.9 10.1 10.4 11.9 13.9 13.9 上位中所得層 (135,001 ~ 180,000 ルピー) 1.5 2.7 3.7 5.0 6.2 6.8 高所得層 (180,001 ルピー~) 1.1 1.4 2.3 3.5 5.7 7.3 子どもの姿がテレビ映像で流されることが多いため、「貧困」と い う イ メ ー ジ が 強 か っ た の で す が、 人 び と の 生 活 は 着 実 に 豊 か に な っ て い る の で す。 事 実、 自 動 車 や 二 輪 車、 家 電 製 品 な ど の 購 入 も 増 え て い ま す し、 携 帯 電 話、 パ ソ コ ン、 イ ン タ ー ネ ッ ト の利用も急速に伸びています。 135 九 急速な物価の上昇 急速な経済成長は、物価の上昇をともないます。つぎの「表2」 表2 インドの物価と流通貨幣の比較 50(paisa) 1,2,5(rupee) 5,10,20,25,50(paisa) 1(rupee) 流通硬貨の種類 (1 paisa = 1/100 rupee) は、 一 九 八 八 年 と 二 〇 〇 七 年 の 物 価 や 流 通 貨 幣 の 種 類 を 比 較 し 1,2,5,10,20,50,100 10,20,50,100,500,1000 (rupee) (rupee) 流通紙幣の種類 たものです。 関 西 空 港 か ら コ ル カ タ 行 き の 飛 行 機 は、 ど の 航 空 会 社 も 深 夜 着 で す。 ホ テ ル の 予 約 を す る 習 慣 の な い わ た し は、 空 港 か ら プ リ ペ イ ド・ タ ク シ ー を 利 用 し て、 市 内 の 安 ホ テ ル 街 サ ダ ル・ ス ト リ ー ト に 直 行 す る の が 常 で す。 空 港 の プ リ ペ イ ド・ タ ク シ ー な の で、 法 外 な 運 賃 を 請 求 さ れ る こ と は な い の で す が、 そ れ で コルカタ(空港-市内)の prepaid-taxi の運賃 Rs.60.00 Rs.250.00 鉄 道 運 賃 (Howrah–Bolpur, 159 ㎞ , Express, 2nd Class) Rs.18.00 Rs.48.00 (2002 年改定 ) Rs.4.00 Rs.22.00 米1キロの値段 2007 1988 も運賃は毎年確実に上がっているのを実感します。約一時間でサダル・ストリートに着きます。途中、運 転手との雑談のなかで、米一キロの値段を聞くことにしているのですが、一九八八年には四ルピーだった のが、二〇〇七年には二二ルピーということでした。米の値段を市場で確認しているので、運転手の言う ことは、毎年ほぼ間違いありません。それにしても、米一キロの値段が、二〇年間で五倍以上にもはね上 がっているのです。一九九一年の経済改革以降、人びとの生活は着実に豊かになったといわれています。 しかし、「表1」の年間の世帯収入が四万五〇〇〇ルピー以下の低所得層というのは、一日の収入が一ド ル未満の「絶対的貧困層」に当たる人びとで、二〇〇一年には、まだ全人口の三四、六%にも及んでいます。 急速な物価の上昇は、貧困層を直撃しているのです。 十 マドゥコリのパターンの変化(その二) バウルは、一九七〇年頃から村でマドゥコリをするだけでなく、列車のなかでも歌をうたって稼ぐよう になりました。しかし、一九九〇年代の中頃から、列車で稼ぐバウルがめっきり少なくなりました。そし て二〇〇二年から、車内で稼ぐバウルをまったく見かけなくなりました。 バウルが村でマドゥコリをする場合、喜捨として受けとるのは、米や季節の野菜などの「現物」です。 それに対し、列車内でうたって稼ぐバウルが受けとるのは、もっぱら「現金」です。 136 一九八〇年代まで、インドのローカル列車に乗ると、ポケットには二〇パイサや二五パイサの小銭がい くつも必要でした。つぎつぎと来るバウルや乞食、床を清掃する少年などに与えるために必要だったので す。ところが、一九九〇年代中頃から、流通する紙幣や硬貨が高額になってきました。一九八八年には流 通していた五パイサ、一〇パイサ、二〇パイサ、二五パイサの硬貨がなくなりました。五〇パイサ硬貨は まだ流通していますが、市場ではほとんど見かけなくなりました。物の値段の最低額は、現在では一ルピ ーです。しかし、乗客はバウルや乞食に「一ルピー硬貨」を与えるのはためらうようです。人びとは、ま だ、かつての「一ルピーの価値」を記憶しているのです。結果として、バウルや乞食を無視する乗客が増 えました。この傾向は、もっぱら列車で歌をうたって稼いでいたバウルには打撃だと思います バウルや物売りは、列車の無賃乗車を黙認されていました。しかし二〇〇二年から、車内の物売りには 営業許可証が必要となりました。そして、車内で歌をうたって稼ぐバウルの無賃乗車も黙認されなくなり ました。車内で歌をうたって稼ぐことは、「営業行為」とみなされるようになったのです。バウルは、イ ンド人観光客や外国人旅行者の利用する昼間の急行列車には乗らなくなりました。列車で稼ぐのは、割に 合わない仕事になったのです。結果として、バウルは村でマドゥコリをする回数が増えました。 村へマドゥコリに行くために列車を利用するバウルは、乞食や世捨て人と同様に、あいかわらず無賃乗 車を黙認されています。バウルが利用するのは早朝の普通列車です。検札官は、「チケットはもっているか」 137 と、一応は問い聞くようです。しかし、バウルが「マドゥコリをして食べているので、チケットを買うこ とができない」というと、黙認してくれるとのことです。 十一 別荘とリゾートホテルの建設ラッシュ 一九八八年当時、シャンティニケータンの北一キロ、プランティック駅の西側は、広々とした野原でし た。ところが、一九九〇年代後半になると、野原は宅地造成され、コルカタ在住の富裕層の別荘がつぎつ ぎと建てられました。いずれも豪邸です。また、大資本の開発による分譲邸宅もつぎつぎと売りだされま した。たとえば、二〇〇五年に第一期工事がはじまり、二〇〇七年に第二期工事が完了した一八〇棟から なる「ショナル・タリー」(「黄金の船」の意)の守衛によると、家主はコルカタ、デリー、ムンバイなど の大都市の富裕層で、なかには映画スターも入居しているようです。ただし、家主はこれらの邸宅を別荘 として使用しており、常時住んでいるわけではありません。しかし、邸宅の管理や手入れをする使用人や メイドが住む別棟の小屋があり、常駐しています。 また、一九九〇年代後半になると、シャンティニケータン地域には、高級リゾートホテルがつぎつぎ と建てられました。その数は二〇をこえます。一泊三〇〇〇~四五〇〇ルピーの超高級ホテルから、一 泊 一 〇 〇 〇 ~ 一 五 〇 〇 ル ピ ー の 高 級 ホ テ ル ま で、 種 類 は さ ま ざ ま で す。 こ れ ら の リ ゾ ー ト ホ テ ル は、 138 一九六〇年代から八〇年代に建てられた、一泊一〇〇ルピー前後の、宿泊だけのツーリスト・ロッジとは 性格が異なります。休日をシャンティニケータンの別荘や高級リゾートホテルですごす新興富裕層が増え ているのです。観光地シャンティニケータンが高級化しているのです。 十二 観光客相手の音楽チーム 一九五〇年代から六〇年代にかけて、いち早くプロの音楽家の道を歩むようになったのは、音楽的技量 に卓越した一部のバウルにかぎられていました。しかし、一九九〇年代の中頃から、ボルプール・シャン ティニケータン地域に住む「ごくふつうのバウル」も、気の合った仲間と音楽チームを編成するようにな りました。シャンティニケータン地域につぎつぎとできた新富裕層の別荘やリゾートホテルから、演奏を 依頼されることが増えたからです。バウルは、村にマドゥコリに出かけるときは単独行動なのですが、演 奏の依頼を受けると音楽チームを組むのです。 シャンティニケータンのSP地区のGDBも、そのような音楽チームに所属しています。音楽チームは 五人編成で、リーダーは、一九九〇年代にSP地区に移住してきたBDBです。メンバーは、BDBとG DBのほかに、タブラ(北インドの一対の太鼓)奏者、バーンシ(竹の横笛)奏者、そしてハルモニウム(箱 形の手押しオルガン)奏者です。このうちバウルは、BDBとGDBで、楽器演奏だけでなくボーカルも 139 担当します。あとの三名は音楽愛好者で、ほかに職をもっています。しかし、演奏依頼があると、全員が バウルの衣装を着用して出かけます。観光客相手の音楽チームには、しばしば「バウルもどき」が紛れ込 んでいるのです。 BDBとGDBは、詩人タゴールで有名なシャンティニケータンを訪れた外国人観光客や、遠来の客を もてなす金持ちのベンガル人に請われて、ときどきバウルの歌をうたうことがありました。また、ほかの 音楽チームのパートタイムのメンバーとして、別荘やリゾートホテルで演奏することもありました。しか し彼らは、二〇〇〇年頃から、別荘の管理人やリゾートホテルのマネージャーから、「自分の音楽チーム をもっていますか」とか、「全部込みで演奏料はいくらですか」とかの問い合わせを受けるようになった のです。たぶんBDBとGDBの人柄が好印象を与えたのでしょう。こうして、BDBの提案で、聴衆の リクエストに柔軟に対応できるように、タブラ、バーンシ、ハルモニウムの奏者を加えて、観光客相手の 五人編成の音楽チームが誕生したのです。彼らは、観光客相手の演奏の仕事のことを「プログラム」とよ んでいます。 リーダーのBDBは、自宅に看板を掲げ、名刺をつくり、シャンティニケータンのリゾートホテルのマ ネージャーや別荘の管理人に挨拶回りをしました。二〇〇五年には携帯電話にも加入しました。彼の営業 活動は功を奏し、演奏依頼も徐々に増えているようです。 140 BDBの音楽チームは、繁忙期の休日には一日に数カ所からの演奏依頼を受けることもありますが、閑 散期には月に二~三回のこともあるようです。それでも平均すると、週に一~二度の演奏依頼を受けると いいます。BDBの五人編成の音楽チームの出演料は、二時間の演奏で平均一〇〇〇ルピーです。出演料 は各メンバーに平等に分配されます。しかし、リーダーのBDBには、依頼者から一〇〇~三〇〇ルピー の祝儀が、別途に渡されることがあります。また個々のメンバーにも、演奏を気にいった聴衆から二〇~ 五〇ルピーの祝儀が渡されることがあります。それらの祝儀は、受けとった者のものになることは、メン バー全員の了解事項です。 十三 「一〇ルピー・バウル」の稼ぎ(一九八八年) シャンティニケータンのSP地区に住むGDBは、自分のことを「一〇ルピー・バウル」とよんでいま した。彼はわたしの隣人のひとりでした。GDBが自分のことを「一〇ルピー・バウル」とよぶように、 彼の稼ぎは、その日によって変動はあるものの、おおよそ一日に一〇ルピーでした。つぎの「表3」は、 一九八八年一月一日から一二月三一日までの、一年間の彼の稼ぎをまとめたものです ⅶ。喜捨として受け とった米や季節の野菜などの現物は、市場価格に換算しルピーで表示しました。また、マドゥコリをした 日の夕方に歌を要請された日などは、両方を一日と計算しました。 141 十四 バウルの二十年後の稼ぎ 142 (二〇〇七年、概算) 表3 GDB の経済活動(1988 年) さて、バウルの二十年後の稼ぎを、シャンティニケータン 615.70 村や町でのマドゥコリと列車での稼ぎ 13 215.00 祭りやメラへの参加 16 72.00 演奏会への参加 10 60.00 8 539.00 25 280.00 117 0 378 3227.50 要請によりうたう のGDBを例に概算してみましょう。 64 合 計 GDB は、現在でも週に三日は村にマドゥコリに出かける 列車でうたって稼ぐ 休日 といいます。これを概算すると、彼は年間に一六五日マドゥ 1445.80 その他 コリに出かけたことになります。そして、彼が村で一日マド ゥコリ をすると、村人からの喜捨として、米二~三キロ、季 節の野菜一~二キロを受けとるといいます。二〇〇七年の市 場価格では、米一キロの値段は二二ルピー、季節の野菜一キ ロの値段は、平均すると、おお よそ米の半額です。G DB の 一日のマドゥコリで得た喜捨を、市場価格に換算して概算す )ということにな る と、 七 一 ル ピ ー 五 〇 パ イ サ( Rs.71.50.ります。つまり彼は、マドゥコリで年間一万一七九七ルピー 五 〇 パ イ サ( Rs.11,797.50.) 稼 い だ こ と に な り ま す。 彼 が 村 125 村や町でのマドゥコリ 収入(ルピー) 日 数 方 法 人から喜捨として受ける米や季節の野菜などの「現物」の価値は、物価の上昇に影響されません。バウル は、村でマドゥコリをするかぎり、貧しいながらも何とか生活できるのです。 GDBは、週に一~二回、プログラムに出演するといいます。これを概算すると、彼は年間八三回のプ ログラムに出演したことになります。彼は一回のプログラムで、平均すると二〇〇ルピーの出演料を受け とります。したがって、年間のプログラムの出演料として、一万六六〇〇ルピー( Rs.16,600.00.)稼いだ ことになります。 バウルは、数年前から列車のなかで歌をうたって稼がなくなりました。その理由は、すでに述べたよう に、列車で稼ぐのは、割に合わない仕事になったからです。さらにバウルは、メラや祭りに参加しなくな りました。それは、ベンガルで主要なメラや祭が行われるのは、秋の稲の収穫がおわり、もっとも気候の おだやかな霜期と冬に集中しているからです。その時期は観光シーズンで、観光地となったシャンティニ ケータン地域の繁忙期です。したがって観光客相手の音楽チームを編成しているバウルには、割に合う仕 事が殺到する時期でもあるからです。 GDBが、村にマドゥコリに出かけなかった日や、プログラムに出演しなかった日を休日とみなすと、 それは年間一一七日となります。週休二日のペースは、二〇年前と変化していません。 G D B の マ ド ゥ コ リ と プ ロ グ ラ ム に よ る 稼 ぎ は、 不 確 定 要 素 の お お い 祝 儀 を 除 い て 概 算 す る と 年 間 143 二 万 八 三 九 七 ル ピ ー 五 〇 パ イ サ( ) と な り ま す。 こ れ ら の Rs.28,397.50.- 概算をまとめると、つぎの「表4」のようになります。「表4」は、 「表3」 表4 GDP の経済活動(2007 年、概算) のように、日々の稼ぎを集計した厳密なものではありません。あくまで も概算です。 144 十五 バウルの適応戦略 165 11,797.50 プログラムに出演 83 16,600.00 列車でうたって稼ぐ 0 0 メラや祭への参加 0 0 117 0 365 28,397.50 合 計 今までの議論を整理しながら、「表3」と「表4」を比較すると、イン ド社会の急速な経済成長にともなうシャンティニケータン地域の観光現 象に対する、バウルの適応戦略がうかびあがってきます まず気づくのは、バウルにとって、マドゥコリで生活することの重要 性です。マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、 また「バウルである」ためにも不可欠の要件です。これは彼らが選んだ ライフスタイルです。 バウルが村人から喜捨として受けとるのは、米や季節の野菜などの「現 物」です。「現物の価値」は、インド社会の急速な経済成長にともなう物 村でのマドゥコリ 休日 収入(ルピー) 日 数 方 法 ) が、 一 九 八 八 年 の 稼 ぎ Rs.28,397.50.- 価の上昇に影響されません。バウルは、村でマドゥコリをするかぎり、生活の基盤は脅かされないのです。 「 表 3」 と「 表 4」 を み る と、 G D B の 二 〇 〇 七 年 の 稼 ぎ( ( Rs.3,227.50.)に比べ、八、八倍になったことがわかります。この期間の米一キロの値段が、一九八八年 の四ルピーから二〇〇七年の二二ルピーへと五、五倍の上昇なので、彼の稼ぎは物価の上昇を上回ってい ます。これは、別荘やリゾートホテルで観光客相手のプログラムという、割に合う仕事が増えたからです。 観光客が求めているのは、シャンティニケータンの別荘やリゾートホテルで、バウルの歌や音楽を聴い たり、バウルの演奏で踊ったりして、家族や友人と楽しむことです。バウルもそのことを十分に承知して います。バウルは、観光客相手の音楽チームを組織するときに、聴衆のリクエストに柔軟に対応できるよ うに、バウルではないタブラ奏者やバーンシ奏者、ハルモニウム奏者を加えました。彼らが演奏するのは、 バウルの歌や音楽とはかぎらないのです。しかし、演奏依頼があると、メンバー全員がバウルの衣装を着 て出かけるようにしました。これは、一般のインド人が、「バウルの歌や音楽は、ベンガル民俗文化の不 可欠の部分」というイメージをもっているからです。観光客が求めているのは、私服を着たミュージシャ ンではないのです。バウルは、そのことを知っています。バウルは、インド社会の急速な経済成長にとも なうシャンティニケータン地域の観光現象に対して、「バウルの衣装を着た音楽チーム」を組織するとい う方法で適応しているのです。 145 十六 おわりに バウルは、マドゥコリの生活を採用し、「バウルになる」ことによって、人生の危機を乗りきることが できました。マドゥコリの生活は、個人の選択肢が制限されたカースト社会における、選択可能な「もう ひとつのライフスタイル」です。 一九五〇年代から六〇年代にかけて、いち早くプロの音楽家の道を歩むようになったのは、音楽的技量 に卓越した一部のバウルにかぎられていました。しかし、一九九〇年代の中頃から、ボルプール・シャン ティニケータン地域に住む「ごくふつうのバウル」も、気の合った仲間と音楽チームを編成するようにな りました。シャンティニケータン地域につぎつぎとできた新富裕層の別荘やリゾートホテルから、演奏を 依頼されることが増えたからです。バウルは、村にマドゥコリに出かけるときは単独行動ですが、演奏の 依頼を受けると音楽チームを組むのです。そして、バウルではないメンバーもバウルの衣装を着て出かけ るのです。 バウルは、インド社会の急速な経済成長にともなうシャンティニケータン地域の観光現象に対して、 「バ ウルの衣装を着た音楽チーム」を組織するという方法で適応しているのです。しかし、バウルにとって、 マドゥコリで生活することの重要性は変化していません。 146 注 ⅰ インド古代の法典では、上位三階級であるバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの生涯を、学生期、 家住期、林住期、遊行期の四住期に分け、これら四段階を順次に経るものとされ、各段階に厳格な 義務が定められている。ただ、この制度が実際にどの程度まで忠実に履行されたかは疑わしく、現 在では、特殊なバラモン階級をのぞき、家住期のみが実践されている。 ⅱ ヴェーダの祭式は、王侯や司祭階級バラモンの独占するところであり、ウパニシャッドに説かれる 「梵我一如」の思想は、知的エリートにのみ可能であった。しかしバクティの概念により、女性や 低カーストの男性も救済可能となった。その後、人間の努力の価値を否定し、ただひたすら神に身 をゆだねることこそが、バクティにほかならないとする考えがしだいにつよくなり、中世インドの いわゆるバクティ運動を濃厚に彩ることになった。 ⅲ 「人間の肉体は、真理の容器」というバウルの信仰を整理すると、ふたつの原理に分解できる。(一) 人間の肉体は、宇宙にあるひとつの「もの」であるだけでなく、宇宙の「縮図」である。(二)人 間の肉体は、神の「住処(すみか)」であるばかりでなく、神を実感するための唯一の「媒介物」 である。つまりバウルは、人間の肉体を小宇宙とみなし、みずからの肉体に宿る神と合一するため に、みずからの肉体を駆使して「サドナ」とよばれる宗教儀礼を実践するのである。 147 ]。 Takeuchi 1976: 28-36 GDBの一年間の稼ぎの分析については、拙稿[村瀬 二〇〇九]を参照。 然の訪問を受けたときの印象を報告している[ 一九七二~七四年に、ヴィシュヴァ・バーラティ大学に留学したタケウチ・ワクは、バウルの突 活動の場を広げ、ソ連(当時)、アメリカ、ヨーロッパ、日本など世界各地で公演を行っている。 に出演し、その傑出した歌唱力で一躍有名になった。彼はその後、インド国内だけでなく海外にも 。一九五四年、彼は「アカシバニ」(インド国営放送のベンガル語名) Purna Chandra Das (1935-) ⅳ ベンガルのバウルのライフヒストリーについては、拙稿[村瀬 一九九九、二〇〇〇]を参照。 ⅴ ⅵ ⅶ 参考文献 村瀬 智 一九九九 「バウル群像 ベンガルのバウルのライフヒストリーの研究(一)」 『大谷女子短期大学紀要』四三号、一一三︱一三七頁。 二〇〇〇 「バウル群像 ベンガルのバウルのライフヒストリーの研究(二)」 『大谷女子短期大学紀要』四四号、四五−九三頁。 二〇〇九 「ベンガルのバウルの文化人類学研究(三)」『大手前大学論集』第九号、二五三−二七三頁。 148 'Affected by the Wind: Meeting with the Bauls.' The Kyoto Review. No. 8, pp. 28-36. Takeuchi Waku 1976 149 第六回 平成二十一年十一月二十一日 (パネルディスカッション) 在住外国人が見た日本 講師:シャーリー・アンドウ パネリスト:ロバート・シェリダン ジョン・ジャクソン スゼット・バートン ゴードン・カールソン 【通訳】テランス・ヤング ○シャーリー・アンドウ 皆さま、こんにちは。本日はお忙しい中、ようこそおいでくださいました。 ありがとうございます。本日の講座は、パネルディスカッションという形で、「在住外国人の見た日本」 というテーマで進めたいと思いますが、まずスライドの写真を見ていただきたいと思います。 本日来てもらったパネリストは全員、大手前大学のLEOという英語プログラムで教えている先生です。 このスライドは、先生一人一人を個人的な「顔」もみていただいたいと作成したものです。 151 まず、ゴードン先生、私たちはゴーディーと呼んでいますので、本日もそのように呼ばせてもらいたい と思いますが、彼は英語の先生のほかにプロのミュージシャンとしても活躍しています。これは彼のバン ドです、そしてこちらは先生の子どもたちですね。和歌山の水族館でしょうか。 こちらはジョン・ジャクソン先生の、とても「カッコいい」時代の、今もとても素敵ですが、十七歳の 時の写真ですね。これは、JJ の息子のレオン君の七五三のお祝いですね。 そして、これは、宝塚音楽学校の生徒さんたちですね。 ところで、ロバート先生、私たちはロブと呼んでいますが、彼は今日仕事の都合で少し遅れてきますの で、彼のスライドも紹介しておきたいと思います。こちらは、たぶんロブ先生の婚約者ですね。あ、今ロ ブが到着しましたので、正式に一人ひとりに自己紹介をしてもらいたいと思います。 ○ゴードン・カールソン こんにちは、ゴーディーです。この先生たちと一緒に働くのはとても楽し くて、今日ここに一緒に参加できたことを感謝しています。ほんとうに、みんな仲よくやってます。 ○ジョン・ジャクソン 私はジョン・ジャクソンです。でもみんなにJJ と呼ばれています。オース トラリア出身で、きょう参加できてとてもうれしいです。 ○ロバート・シェリダン 私はロバート・シェリダンです。ロブと呼んでください。カナダ出身で、 バーリントンというトロントとナイアガラの滝のちょうど中間のところですね、そこで生まれ育ちました。 152 きょうは遅れてすみませんでした。 ○テラス・ヤング(通訳 ) 私はテラス・ヤングと申します。つたない通訳ですみません。私もアメ リカのシアトル出身です。実は母が日本人で、日本の方が長いんですけど、国籍はアメリカです。 ○シャーリー テリーは、大学院で研究活動を続けていますね。 ○テラス(通訳 ) はい、私は今、神戸大学博士課程国際協力研究課で政治政策、ことに日本の政治に ついて勉強しています。 質問1[日本に来た理由] ○シャーリー 今からパネリストに質問をして答えてもらうという形で話を進めますが、会場の皆さ んも何か質問があれば自由に手をあげて気軽に質問してください。 さて、一問目は、日本に来た理由、そして滞在期間について聞きたいと思います。 ○ロバート 初めて日本に来たのは九年半前です。カナダのブリティシュコロンビア大学の教育学部 を卒業した後、すぐに仕事に就くのではなく、何かをしたいと考えていました。ちょうどその頃、大学で 出あった日本人の友達に日本に行くことを勧められて、しかも絶対関西ですよって、大阪に行くことに決 めたんです。友達と一緒でしたからバックパッカーの形で日本にやって来ました。その後ずっと、なぜか 153 まだ日本で暮らしています。日本で、すてきな女性に出会いました。スライド写真で出てきたと思います が九年間交際しています。 ○ジョン 私はオーストラリアの一番西の方にあるバースという町で、海外から来る人たちに英語を 教えていいました。日本人の生徒もたくさんいて、やはり大阪を勧められて、しかも大阪出身の日本人女 性と出会ったんです。そして、彼女が帰国した後、私はスーツ一着と片道の切符でここに来ました。 ○ゴードン 僕が日本に来たきっかけは、前の二人のような出会いではありません。 一 歳 の と き に 家 族 と 一 緒 に 引 っ 越 し た ん で す け ど、 両 親 が キ リ ス ト 教 プ ロ テ ス タ ン ト 派 の 宣 教 師 で、 一九五〇年代でした。まだ日本が貧しかった時代で、父は、大工をしたり英語を教えたり、いわゆるボラ ンティア活動をしていたようです。父はアメリカ人ですが、母はカナダ出身、そして私は日本で育ちまし た。そういう意味では自分に関わり深い国は三つもあることになります。 ○テランス(通訳 ) ゴーディーは以前、確か四カ国、自分に関係ある国があると言っていたと思いま す。もう一国については、もしかしたらあとで話してくれると思います。 ○シャーリー 私は二〇〇〇年に来日して、まず大手前で非常勤講師として英語を教えていました。 三年前から専任の教員になったんですけど、夫が日本人で、彼と一緒に日本に来ました。もともと私たち 夫婦はアメリカで出会い、結婚し二十年以上アメリカに住んでいました。彼は大学教員、私も大学のリサ 154 ーチャーでしたが、彼のお父さんが病気になったことをきっかけに日本にやってきました。私はフィリピ ンで生まれましたが、子供の時に家族と共に移住しアメリカで成長しました。 ○テランス(通訳 ) 先ほどお話ししましたように、母が日本人、山形の方なんですけれど、父は米海 軍の軍人です。彼は、アメリカのミシシッピ州、南部の出身です。海軍として日本にやって来て、うちの 母と出会い、僕は日本の神奈川県の座間の陸軍基地で生まれました。父の仕事の関係で日本とアメリカ双 方を転々としました。日本では、横須賀や佐世保の海軍基地にも住んだ経験があって、関西に来たのは十 年前ぐらいです。初めは、アメリカからの交換留学生としてやってきましたが、それからずっと神戸に住 んでいます。 質問2 [日本での生活は快適ですか?] ○シャーリー さて第二の質問ですが、日本の生活には慣れましたか、日本で暮らすのは快適ですか。 ちょっと顔を見るとみんな幸せそうですけど、どうですか。 ○ロバート カナダにいる両親はこれを聞くことはあまりうれしくないのでしょうが、私は日本に住 んでいて、とてもとても幸せです。最初はもちろんいろいろ戸惑うこととかトラブルとかもありましたけ ど、今はもう母国のカナダではなく日本の方が自分の国と思っているし、多分一生ここに暮らすと思いま 155 す。 ○ゴードン 豊中に住んでるんですけど、ご近所さんたちはみんな親切で、そこでの暮らしには何の 不安もなく、ただ、人生のほとんどを日本で暮らしているにもかかわらず、やっぱり「慣れた」とは言え ないように思います。今でも電車に乗るとじろじろ見られるし、そういう面ではまだ慣れていないんでし ょうね。 ○ジョン 私も幸せで、ほとんどロブの経験に近いのですが、ゴーディーの気持ちもよくわかります。 寝屋川市に住んでいるんですけど、近所がとても親切で面倒を見てもらっていますし、よくお土産とかい ろいろもらい物もしています。電車に乗ると、やはりよくじろじろ見られます。でも、それは日本の皆さ んが悪気があってではなく好奇心から見てるんではないかとそう受け取っています。最近は、冗談でロブ と一緒に沖縄で余生を送ろうなどと話しているのです。たぶん、私もずっと日本に住むことになると思い ます。 質問3[母国にはよく帰りますか?帰国した時に日本のどんなことを話しますか?] ○シャーリー どれぐらいの頻度で国に帰国しますか。そして、日本のことを聞かれたときに何が一 番最初に思い浮かびますか。 156 ○ロバート 毎年帰ります。カトリックの家庭なので、クリスマスの時期がとても大切で、大体十二 月に帰国します。父、母、姉と弟、そして親戚や友達と会ったりして過ごします。日本の事を聞かれると、 日本での家族、婚約者、彼女の母親、猫二匹、犬のことを主に話します。次に話すのは、自分の居場所と いうか自分の住んで暮らしている大阪の八尾のことです。 ○テランス(通訳 ) これ勝手に言うと怒られるかもしれませんが、まだロブと会ってそんなに長くな かったときに彼女の話をしてもらったんですが、とても幸せな顔でね、もう何か一目ぼれというか、そう いう感じでとても幸せそうですね。 ○ジョン 私も大体年に一回、主にクリスマスですけど、今年は幸い夏も、日本の八月ですね、オー ストラリアでは冬なんですけどパースに帰れて、また今度のクリスマス休みにも帰る予定です。ともかく、 今年は、大阪のこの湿気を逃れることができてとてもハッピーでした。 よく聞かれる質問は、日本の物価についてです。オーストラリアと比べたら実はそれほどでもないし、 日本は、実はちょっと工夫すればそんなに高くもないし、とても見るものもいっぱいあるので、いつも友 達にぜひ日本にくるように誘っています。 六年、ときには七年に一回ぐらいの頻度でしか帰らないのですが、さっきも言ったとおり、 ― ○ゴードン 私の場合はあんまり帰ることはありません。経済的な理由もあり、家族サービスで忙し いので、五 157 私の両親は、三十八年間も日本に住んでいましたので、とうぜんですが、彼らから日本の事を聞かれるこ とはありません。ただ、私たちの会話が英語と日本語のチャンポンによくなりますので、日本の影響は相 当強いと思います。なぜか、友達に日本のことを聞かれることはほとんどなく、たとえ聞かれても、「侍、 忍者、柔道」といった、いわばステレオタイプ的な、そういうことしか聞かれないのです。 質問4[日本で最も興味をひかれることは?] ○シャーリー 何が一番日本で興味深い、おもしろいことでしょうか。あるいは、これはちょっとお かしいというか、変わっているなと感じることはありますか。 ○ジョン 私が好きなのは、日本の町並みというか古いコミュニティですね。小さい店があったり商 店街があったり、小ぢんまりとしているところがとても好きです。オーストラリアでは、どうしても大き なショッピングセンターとか郊外型のストアですね、車でしか行かれないようなところが多いんです。日 本には、昭和時代というか、いわば「過去」との繋がりがまだまだたくさん残っていて、そんなところに とても惹かれます。「いらっしゃいませ。」と店の人がお客さんに呼びかけたり、何か個人的な関係を持て るような、やさしい気持ちになれるというところが好きですね。 そうですね、「ちょっと変だな」と感じるところは、若者のコスプレというファッション現象と、もう 158 一つはなぜか小さい犬を連れまわっている人が多いんですけど、ピンクの服を着させたりして、お人形プ レイをしているようなところでしょうか。 ○ロバート 僕もその点は同感です。でも、日本という国は、いい意味でとても不思議な国でいろん な魅力があるんです。日本語を学んでいくうちに、日本の文化とか社会のありかたをもっと理解できるよ うになると同時に、この国がどれだけ奥深くて不思議なのかその魅力がどんどん増していく、そんな実感 を持っています。 やっぱり言葉ができるようになれば、人は自分の心を許したり開いてくれたりするので、そこで、更に 日本人との交流が深められるということもあるように思います。 私はこの四年間、日本の家族、婚約者の家族と一緒に住んでいて、とても幸せで、しかも貴重ですてき な時間を過ごしているので、それがとても良い経験になっています。 さて、「ちょっと変だな」というところですが、たとえば、歩いていると子どもに「外人、外人」とか 指をさされたりすることでしょうか。ある面、自分は「セレブ」みたいな扱いをされているんではないか と思う時もあります。お店に入るときなども、困った顔で「外人が来た、外人が来た、どうすればいい。」 みたいな顔をされることもあります。もう慣れましたけど、やっぱり、カナダという多文化主義というか 多人種・多民族の国からやってきた自分としては、それがいまだにちょっと驚く部分ですね。 159 ○ゴードン 私は日本に長く住んでいても、毎日何か新しいことを発見します。よく日本人は個性が ないとか、みんな同じだとかそういう話を聞きますけど、私はそれは違うと思います。皆さんいろんなふ うに自分らしさを出していると思うし、それがとてもおもしろい。きょうここに来ている方たちも、それ なりに自分なりに自分のアイデンティティーというか個性を出しておられると思います。 質問5 「日本で遭遇した一番たいへんな出来事あるいはトラブルは」 ○シャーリー 今まで何が一番、日本に住んでいて大変な出来事、トラブルでしたか?また、それを どう乗り越えたのか、あるいはどう対処したか、について教えてください。 ○ロバート 先ほども言いましたが、やはり自分をすぐに「受け入れてもらえない」という日常的な 体験でしょうか。たとえば、普通に駅員さんに何か尋ねるときでさえ、やっぱりちょっと怖がられる、と いうか驚いた顔をされると「何でだろう?」と思うし、なぜもっと普通に受け入れてもらえないのかって いう疑問とか気持ちは、いつもありますね。 ○ジョン 当時の彼女だった奥さんを追って日本に来たんですけど、関西空港に着いて迎えに来ても らったときに、お母さんの方はにこにこ笑顔で迎えてくれたけど、お父さんは目を合わせない、明らかに 怒っている感じで、寝屋川市の家に帰るまでの車の中はシーンとしてて、とても気まずい感じだったんで 160 すね。でも、それを何とか乗り越えて八ヵ月後には結婚したんです。私はまだそんなに日本語が理解でき なかったのですが、結婚式で、お父さんのスピーチを聞いていたら、 「外人」という言葉が何度か出てきて、 まだ自分の娘が外国の方と結婚したのを許していないという感じがしました。それを会場に来ている人た ちがみんな知っていて、ずいぶん落ち込みました。でも、今となったらお父さんと大の仲よしで、ベスト フレンドとお互い呼び合っているぐらいなので、逆にそういう経験があったからこそ今があるんだろうな と思います。 ○ゴードン やっぱり、外国人として、最初はみんなにちやほやされたり特別扱いされるけど、結局 私の悩みは、皆の中に本当には溶け込めない、いつまでも「よそもの」みたいな感じがするんです。 そ れが、子どもにも影響を及ぼしているのではないか、彼らがどう見られているのかなどと考えると不安に なることもあります。あともう一つお話ししておきたいことは、日本の戸籍制度において、日本人と結婚 すると、外国人は「備考」に載るんですよね。まるで、メモのように載ってるんですよ。正式に戸籍に入 ってないという意味なんでしょうけど、とても気になりますね。結局、自分の子どもが、日本の法律上で は「自分の子どもではない」ということなんですよね。親権に関することなのだと思いますが、問題だと 感じています。 161 ○テランス(通訳 ) 僕のところは、父はアメリカ人で母が日本人なので、それと似たような話があり ます。うちの父はミシシッピ州出身の黒人なんですね。母と出合い、結婚することになったときに、山形 のおじいちゃんが反対していたんですが、僕が一歳のときにがんで亡くなりました。母には、兄が二人い るんですけど、そのおじさんたちは子供が全員娘なんですね。僕が初の男の孫なんですけど、それでもお じいちゃんは会おうとはしないんです。僕の写真だけは持っていたようですけれど、うちのお父さんとお 母さんにも会わずに亡くなってしまったんです。 おじいちゃんが亡くなった後で、おばあちゃんはやっぱり娘と会いたいし孫にも会いたいということで、 初めて僕たちと会うことになったんです。おばあちゃんは、相手がアメリカ人なのでとにかく握手しよう かなと思っていたらしいんですが、うちのお父さんはおばあちゃんをハグ、つまりだきしめたそうです。 その後、おばあちゃんと行ったり来たりするようになって、とても仲よくやっているので今はとても幸 せです。うちのお父さんは余り日本語ができないし、おばあちゃんは英語がさっぱりできないんですけど、 「ヤングさん」と、「おばあちゃん」とお互いを呼び合って、会話にはなってないのに、とにかく楽しくや ってる感じが、とってもいいんです。今の話を聞いてそんなことを思い出しました。 162 ○司会者 それでは、どなたか会場から、ご質問がありましたらどうぞ挙手をお願いいたします。 ○会場参加者 今までのお話と全く関係ないんですけれども、私ども日本人は、少なくとも私の年代 ではですね、食事の前に必ず「いただきます。」と言って、それから食事を始めます。これは食事を作っ てくれた人、あるいはさかのぼってその材料をつくってくれたお百姓さんやら漁師の方々とか、そういう 人たちに対する感謝の気持ちを込めて言うんだというふうに我々は子供の頃から教えられて、今でもそれ をやっておりますが、この「いただきます。」という言葉に相当する英語はあるのでしょうか。あるいは、 そういった類の、食事の前のあいさつは、欧米の国々、たとえばアメリカ、オーストラリア、カナダ等々 にはあるんでしょうか。 ○ロバート 私の家庭はカソリックなので、食べる前にお祈りをするんですね。「いただきます。」と いった言葉はありませんが、お祈りして神様に感謝することがそれにあたるのかもしれませんね。 もう一つは、食事に対して、あるいはそれを作ってくれた人に対して「おいしい」とか「作ってくれて ありがとう。」とか必ず言いますね。それは、結構大事なことで、そういう意味では似たようなことをし ていると思います。 ○ゴードン うちも、お祈りをしてから食べます。ただ、家庭以外の場では、まずその食事のホストか、 その席で一番偉い人が食べ始めてから、はじめて自分も食べるというマナーは教えられましたね。 163 ○ジョン そういう話を聞くと、オーストラリアは、少なくとも私の家庭はそんなに宗教心が強くな いみたいですね。私たちはお祈りもせずに、本当にただ「おいしそう」と言って食べて、終わったら「お いしかった。」というコメントを言うだけのことが多いですね。 ○司会者 ほかの方、何かございませんでしょうか。 ○会場参加者 皆さん日本の方とご結婚なさってるんですけれども、そのご結婚の際に招待状なんか はどういう形でお出しになったのかなと。と、言いますのが、この間、日本の男性とイギリスの女性が婚 約して、その招待状が私の友人のところにメールできたと言うんですね。しかも、お祝い何にしようと言 ったら、リストを送ってくれたらそこで私が選ぶと花嫁さんになる方がおっしゃったそうで、それは何か おかしいんじゃないかなと、私などは思うんですが。皆さんのお国では、普通のパターンとしては、どう いうふうな形をとるのか質問をさせていただきたいと思います。 ○ロバート 私たちも、もうすぐ結婚する予定なのですけど、私がメールで招待状に換えたとしたら、 まず母も許さないでしょうし、マナー違反という感じはしますね。 ○ジョン 私 の 場 合 は、 義 理 の 母 が ウ エ デ ィ ン グ コ ー デ ィ ネ ー タ ー な の で、 私 は ほ と ん ど 関 わ ら ず、 日本式にやりました。基本的にオーストラリアでは、もちろんEメールじゃなく、郵便で招待状を送りま す。もちろんお祝いの贈り物は、それを登録して置いておく場所があり、あとでそれが全部新郎新婦の家 164 に送られてくるんです。 ○テランス(通訳 ) これは僕の個人的な答えかもしれないけれど、最近はアメリカなどでは、招待状 は絶対手紙でしょうという人もいれば、幅広くいろんな人に送れるからメールでもいいんじゃないか、と いう人もいます。結論から言えば、多様な方法があっていいんじゃないでしょうか。 ○会場参加者 外国の人というのは毎週日曜日に教会に行くじゃないですか。子どもの頃から、いつ も神が身近にいるという感じなんですけど、日本では、そういうことをほとんどしませんし、特別なとき にしか神社やお寺にお参りしたりしないのですが、日本の学生をみて、何か大きなギャップみたいなもの は感じませんか。 ○ゴードン まず、自分は親として、家庭内では、子どもたちに宗教心とか彼らの生き方のことを教 えています。自分の家が子どもたちにとって、一つの教会のような感じですね。大学で教えている時には、 当然のことですが、自分の宗教について話すこともないし、もちろん、自分の信条を押しつけることはあ りません。 ○会場参加者 そういうふうに宗教的環境の中で育ってきた先生方に比べて、そういうことに全然関 係なく、今の日本の若者たちは育ってるじゃないですか。単純に思うのは、外国の人というのはいつも神 を越えたらいけないみたいな感覚があると思うんですよ。ところが、今の若い日本人は度を越えた行動が 165 結構多いように思うんで質問させてもらったんです。 ○ロバート まず、私は、学校がカソリック系だったので、悪いことをしたときには神が見ているか らあとで罰が当たるよ、みたいなことは教えられました。日本の若者についてお話がありましたが、私の 経験では、特に度を過ぎた問題行動は目立ちませんし、すくなくとも大手前を含めて私の教えている大学 では、基本的にマナーのいい学生が多いと感じています。 ○会場参加者 今のお話しと少し違うんですけど、皆さんのお話を聞いていると、ことに強く感じる のですが、やっぱり人間というのは自然環境によって物すごく左右されると思うんです。私は、日本とい うのは、非常に水が豊かで季節感がはっきりしているし、非常に生き物としては住みやすい土地だなと思 うんです。日本人というのは、自然とともに季節感を常に味わいながら、生きていると思うんです。たと えば、日本の和菓子というのは季節によってその中身が変わるんです。和服も、季節によって柄や模様が みんな違う。季節に合わせて生きてるという思想が日本人の根底にある。私はそう思ってるんですが、皆 さんも日本に長く住んでおられて、私が言っているようなそういう感覚を味わっておられるかどうか一度 お聞きしたいんです。 ○ジョン オーストラリアについて言えば、四季はあります。ただ、日本ほどはっきりはしていないし、 例えば日本だったら秋は秋刀魚を食べるとか、はまちは冬に食べるとか、そういうことがはっきりしてい 166 ますね。オーストラリアでは、そうしたことは余りなく、自然も九割以上ユーカリの木なので、もみじの ように紅葉する木は余りないですし、服装も寒ければ厚着で、暑ければ薄着みたいな感じですね。そうい う面では、日本は私の経験では一番季節感が感じられる国だと思います。 質問6「日本は単一民族国家だと考えられていることについてどう思いますか?」 ○シャーリー 日本はよく「単一民族」で、日本人としてのアイデンティティーがとても強いとよく 言われます。そういう見方についてどう思いますか。 ○ロバート もちろん日本人としてのアイデンティティは強いだろうし、江戸時代には鎖国もありま したね。何よりも、日本人同士の距離感がすごく近いと感じます。食べる、住む、寝る場所が狭いという か近い。そういう面では外国と比べたらやっぱり生活が身近な感じがしますね。 ○ジョン 自分の国への誇りと文化的なアイデンティティ、とても大事なものだと思います。誰もそ れは否定しません、とても大事なことですけど、やっぱりこれから、この国が更に発展していくためには、 多文化的な要素を受け入れていかないといけないのではないかと思います。もちろん日本人だけがアイデ ンティティを守りたいんじゃなくて、海外から来る人たちも自分たちのアイデンティティを守りたいんで す。そこでどう調整していくかが大事なポイントで、それがうまくいけば、より良い日本につながってい 167 くんではないかと私は思っています。 ○ゴードン 同意見で、愛国心とか自分の国のアイデンティティを持つのはとてもいいことだし、日 本はとてもそれがはっきりしていて、それはいいことだと思います。 何よりも、今日ここに来てくださった参加者の皆さんが、私たちの話を聞いてくれて、私たちを受け入 れようとしている、一緒に考えようとしようとしてくれている。それがとても大切だと私は感じます。 ○シャーリー そうですね。現代という時代は、インターネットをはじめとしたテクノロジーの急速 な進歩で国境を越えた「一つの世界」が現実のものになりつつあるように思います。それにもかかわらず、 まだまだ自分と異なった人々に対する偏見が一向になくならないという現実があることも事実です。本日 のパネルディスカッションが、こうした理解のギャップをうめるために、ほんの少しでも役立つことがで きたとしたら、ほんとうにうれしく思います。たとえ、互いに違う言葉を話し、異なった文化や考え方を もっているにしても、話しを聞いていただいておわかりのように、結局のところ、皆「同じ人間」なのだ という強い思いをもつことができたのではないでしょうか。 そろそろ時間のようです。本日は、貴重なお時間を私たちと共に過ごしていただきまして、本当にあり がとうございました。 168 第七回 平成二十一年十二月十九日 インターネットで広がる学びの世界 畑 耕治郎 これまで、一回目から七回目までの講座というのは文学に関するお話が多かったかとは思いますが、本 日は一転して、情報系と申しますか、若者向けと申しますか、インターネットって何ぞやというお話をさ せていただきたいと思います。 限られた時間ですけれども、本日はいろんなものを皆さんに見ていただき、ま た体験していただきたいと考えております。 本日の講座の目標は、インターネットのおもしろさや魅力を知っていただき、 家に帰ってからちょっと挑戦してやろうと皆さんが思っていただければ本日の講 座は成功かなと思っております。 まず、御自宅でインターネットを使っている方と、全くインターネットを使っ たことがない方では、これからの説明も随分変わってくるので講義に先立ち質問 169 させていただきます。ご自宅や職場などでインターネットを使っていますよという方はどの程度いらっし ゃいますか、挙手していただけますか。(挙手) ちょうど半分ぐらいですかね、ありがとうございます。 では、全くインターネットを使ったことがないという方はどの程度いらっしゃいます。(挙手)若干名 いらっしゃいますね。わかりました。 早速、講義に入りたいと思いますが、本日の講義の流れとしましては、まず一番目は、「インターネッ トは知識の宝庫!」というテーマです。インターネットには、いろいろなサービスや情報がありますが特 に「学び」に活用できそうなサービスをいくつか御紹介していきます。二番目は、 「e ラーニングって何?」というテーマです。頭に“e ”が付くラーニングって どんなものだろうか?ということ御紹介いたします。三番目は、「学び場として のサードプレイス!」というテーマで私の思いなども含めて少しお話させていた だこうと思っております。 本日はこの三つの大きな流れでお話をしていきたいと思います。本日は、何か ノートに控えていただいて学んでいただくというより、実際に見ていただき、感 170 じていただきたいと思っていますので本日、ご紹介するホームページやサービスの一覧はお配りしている 資料にすべて記載しております。御自宅でインターネットができるようであればこちらのアドレスを参考 に一度チャレンジしていただければ幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。 では、一番目、「インターネットは知識の宝庫」というテーマで、インターネットの特徴的なところを 御説明しながら、その象徴的なサービスを幾つか御紹介したいと思います。 インターネットっていうのは非常にさまざまなサービス等々がございまして、すごく便利だよという、 いわゆるインターネットの光の部分と、有害サイトや信頼性の乏しいサイトなどに見られるインターネッ トの影の部分が共存していまして、よく言えばいくらでもよく言えるし、悪く言 おうと思ったらいくらでも悪く言えるというのがインターネットです。本日は、 スライドにあげたようなインターネットの特徴を生かし、かつ「学び」に活用で きそうなサービスをピックアップしました。 それぞれの特徴を簡単に説明しておきますとまず、「豊富な情報量」というこ とですが、インターネットには世界中のパソコンや情報端末がつながっています。 パソコンがつながっているということは、実質的に人がつながっているというこ 171 とです。現在、世界のインターネット利用者数は約十七億人といわれ、世界の人口の約五人に一人が利用 している計算になります。このように多くの人々を対象に発信される情報、また多くの人々から寄せられ る情報量はこれまでのメディアに比べ圧倒的な多さになります。 次の「即時性」というのは、後ほど具体的に説明しますけど、情報の伝達スピードがこれまでのメディ アと比べて物すごく早いということですね。「情報共有」というのは、文字どおりですけども、自分が有 している知識を他の人達にも分け与える、あるいは、他人が持っている知識を自分にも教えてねっていう やり取りをインターネット上でうまく活用しましょうということです。「多彩な表現力」というのは、コ ンピュータの世界ですから、非常にグラフィカルに表現してくれるということです。本の活字を見るより かはアニメーションで見たり、映像で見たりする方がすごく理解しやすい情報もたくさんありますね。最 後の「双方向性」というのは、テレビやラジオ、新聞のように放送局や出版社から一方的に情報が届けら れるのではなく、こちらからも情報を要求したり、提供したりできるようなサービスのことです。こちら については、後ほど体験していただきますがインターネットを使って遠方にいる人とリアルタイムに会話 をしてみようと思います。 では、どんどん紹介していこうと思いますが、まず豊富な情報量の象徴するようなサービスとして、 「ウ 172 ィキペディア」を紹介します。 ウィキペディアというのは、インターネット上に展開する百科事典のことです。 この百科事典は、どこかの専門家が集まって製作したわけでも、専門の企業の方 が製作したわけでもありません。じゃあ誰が製作したかというと、ネットに参加 している世界中の人たちが自分の持っている知識を集結して作っています。つま り、世界中の人々が一つの百科事典をいっしょに作り上げていることですね。い ろいろなキーワードごとに一つのページが作られていますがその情報量っていう のは物すごいものなんです。ウィキペディアには、日本語版とか英語版とかがありまして、英語版は世界 共通で使われていますので登録情報件数は約三百十八万件に及びます。一方、日本語版は残念ながら日本 人しか見ませんので主に日本人の方が自由に書き込んで事典をつくり上げていくということをやっていま す。日本語版だけもで既に約六十四万件のデータ量があるそうです。私が子供のころにはジャポニカ百科 事典一巻から三十巻とか、昔そういう分厚い事典をよく見かけましたけど、そういった紙媒体のものがす べてネット上にあると考えてください。しかも、膨大な情報の中から呼び出したいキーワードをもとに検 索をすれば、すぐにほしい情報を見つけることができるのですごく便利なものになっています。当然、無 料で活用できます。 173 では、ちょっと、ウィキペディアを実際に立ち上げてみましょう。これがウィキペディアのホームペー ジですね、例えば、ここの検索欄というところに“環境問題”と入れて「記事を表示」のボタンをクリッ クしますと、瞬時に“環境問題”というページが表示しまして、環境問題に関する写真や解説がこのよう にずらずらと出てきます。非常に多くの解説がされていますね。この記事を書いている人というのが、先 ほど私が申しました特定の専門家や企業の人が書いているわけではなく、ネットに参加してるみなさんが 書いているわけですね。従って、ここに書かれている記事の内容が一〇〇%正しいかどうかっていうのは また別問題ですね。そういう意味では、ウィキペディアっていうのはこの情報量の多さが魅力で、とりわ け何か知らない言葉が出てきたときに、ぱっと検索するには非常におもしろい百科事典だと思います。余 談ですが、いとも簡単に何十万件の中からすばやくほしい情報が検索できるので 非常に便利ですけども、大学の教員としましては困ったこともあって、“じゃあ 環境問題について明日までにレポートを出しましょう。”と宿題を出しますとウ ィキペディアの文章がそのままずらずらと書かれたレポートもよく見かけます。 こ う い う の を「 コ ピ ー」「 ペ ー ス ト 」 を 略 し て コ ピ ペ っ て 言 っ て い る の で す が、 要するに、ここにある記事をコピーしてこっちの課題のレポートに張りつけて、 ぴょんと出してくるわけです。これはこれでまた大きな問題になっているのです 174 けど・・。ウィキペディアって言うのは、それぐらい当たり前のように学生の皆さんには利用されている サービスと言えるでしょう。 似たようなサービスでヤフー辞書というのがあります。こちらも辞典や辞書でして、漢和辞典、英和辞 典などたくさんの種類の辞典・辞書がデジタル化されています。こちらは専門家や専門の企業から出版さ れている辞書の電子版ですので内容について信頼性には全く問題がありません。最近では携帯電話からも 簡単に利用できますので分厚い本を抱えなくてもネットで調べれば一瞬で辞書を引くことができわるわけ です。 次に紹介する「Goog le マップ(グーグルマップ)」も非常におもしろい サービスです。今、世界で最も注目されているIT企業といっても過言ではない と思いますがグーグルという会社があります。この会社では、新しいさまざまな インターネットサービスを次から次へと考案し、提供している会社です。このグ ーグルマップというサービスは、いわゆる地図サービスです。通常の地図と同じ ように道を調べたり、建物の場所を調べたりすることができます。いくつか特徴 175 をあげるとまず地図の範囲が世界規模だということです。世界全域を対象とした地図ですが検索は一瞬で 行えるのがネットサービスの良いところです。また、航空写真と言いましてこれは説明するより見ていた だいた方がいいんですけども、空から地上を撮った写真がすぐに見られるということで、リアルな風景を 見ることができます。 例えば、この検索欄に“大手前大学”と入れて、検索ボタンをクリックします。そうしますと、大手前 大学に関連した場所にマークがつきます。本学はキャンパスが二つございますので二か所にマークが付き ましたね。このマークの付近をどんどんこのように拡大していきますとキャンパスが見えてきまして、ち ょうど皆さんがいらっしゃるのがこの建物ですね。このように航空写真で見ますと町の様子が非常によく わかりますよね。気になるところを見だすときりがないのですが本当におもしろいので是非、御自宅に戻 られましたら、御自分のお家を探してみてください。もちろん、世界規模の地図なので、エジプト付近に 行ったらピラミッドの様子も見られますし、ニューヨークに行けば自由の女神の様子も見られますよ。世 界中丸見えということですね。 Goog le マップのもう一つの面白さは、ストーリービューというサービスです。ストーリービュー とは、上空から見た様子だけでなく、地図のその周り三六〇度の様子がこういう写真で全部見えるサービ スです。実際にやってみましょう。ここに本学のアートセンターという建物がありますが、このようにマ 176 ウスを動かすだけでアートセンターの周辺の建物まではっきりと写真で見えるわけです。これが今、皆さ んがいる教室ですね。ここがJRの踏み切りですね。さらにキーボードを動かしていきますとどんどんこ の周辺の写真が見えてくるというように地図の中を歩いているような感じがしてきますよね。ストーリー ビューという地図はこういう地図なんです。こういう角度からの写真を用いた地図ってこれまでになくて、 従来型の記号だらけの地図じゃなくて、本当の写真を用いることで得られる情報が場所だけでなく、建物 の色や大きさの情報、町の様子なども併せて得られるところが付加価値として新しいですよね。初めて訪 問したり、旅行したりするところって様子がわからないのもですがこれを使うと現地に行く前にいろいろ と分かるので便利な一方、リアルな情報が入手しすぎて楽しみが減るような感じもしますね。この地図は パソコンでプリントアウトできますので持ち歩くときには、印刷しておくといい ですね。 次に紹介するのは、こちらもGoog le 社が提供しているサービスで「Go og le Ea r t h( グ ー グ ル ア ー ス )」 と い う 地 球 儀 型 の 地 図 サ ー ビ ス で す。 こちらもインターネットを使うんですが専用のソフトウエアをGoog le 社の ホームページからダウンロードする必要があります。では、実際にGoog le 177 アースを見てみましょう。例えば、“大手前大学”と入力し、検索してみますとこのように地球上の中か ら大手前大学の場所を探してくれます。こちらにあらかじめ地球上の著名な観光地が登録されていますの でこちらを利用してみましょう。例えば、“紫禁城”をクリックすると中国の紫禁城までこのように勝手 に飛んで行って、中国の紫禁城の写真を見せてくれます。“エッフェル塔”をクリックしますとこのよう にエッフェル塔まで飛んで行ってくれるんです。これがエッフェル塔ですね。こうやってパリを上空から 見ると京都の町が碁盤の目になっていると言いますけど、パリはこういうふうに星型のきれいな街だって いうこともすぐわかりますよね、後、エジプトにビューっと飛んで行きまして、ピラミッドやスフィンク スに行きましょう。これがエジプトのスフィンクスですね。こちらがピラミッドですね。 このように、世界中を丸ごとリアルな写真で作った地球儀がGoog le Ear t hです。Goog l e Ear t hは3Dの技術を駆使して、建物を立体的に地図上で表現することができるのでビルの高さも 知ることができます。このような表現は紙の地図では不可能なことですよね。また、Goog le Ear t hのさらに面白いところは、地球だけでなく、月や火星までも地球儀のように表面を見られるところで す。月や火星はどこを見ても一緒のようにしか見えませんが・・。我々が子供のときに見ていた地球儀と はもう比べものにならない、非常に豊富な情報量で多彩な表現を実現していますね。これが、Goog l e Ear t hというサービスです。是非一度、これを期にお使いください。一点気をつけていただきたい 178 のは、Goog le Ear t hには幾つかバージョンがありまして、お金のかか るものもありますのでお使いの際には無料版というのを使ってください。 では、次のサービスを見てみましょう。次は「即時性」ということで、新聞や テレビなどのメディアより即時性の高いネットニュースを紹介します。例えば、 新聞というのは、一般的に朝と夕方に情報が届けられるものですけれども、ネッ トニュースというのは分単位で情報が提供されます。何か事件が起こったらすぐ にネットに掲載されるわけで、新聞やテレビのニュースよりも先にネットで情報を入手することのほうが 多くなってきています。ですから今の若い人たちは、あまり新聞を取っていないようですね。 また、新聞というのはどうしても誌面の大きさが決まっているので、掲載できる情報量が決まっている んですね。それに対してインターネットの世界は情報が限りなく無限に表現できるので、一つ一つの記事 も詳細に解説したり、写真を多めに添付したりすることができるというメリットもネットニュースにはあ ります。 これはちょっと皆さんには、難しいところがあるかもわかりませんが今、最先端のコミュニケーション 179 ツールです。ツイッターと言って今世界中で一番旬なコミュニケーションツール です。お子さまとかお孫さんに“ツイッター知ってるよ”と言って自慢できるぐ らい旬なものです。 では、ツイッターがどのようなものかと申しますと、いわゆるショートメッセ ージなんですね、日本では「つぶやき」なんて言われていますが、携帯電話など を使って、日常の出来事を文字でつぶやくわけです。“ああ、暇だなあ”とか、 “こ の講義つまらんなあ”とか、“おなか減ったなあ”とか。非常に短い言葉で今の 自分をつぶやくわけです。つぶやいた文字は瞬時にインターネットをかけわまり、友達とかに伝達されま す。ブログやホームページはリアルタイム性に欠けますが、ツイッターはリアルタイムに情報が伝達され ますので情報の伝達をものすごく速めたツールと言えますね。ツイッターはオバマ大統領も使っていると いうことで注目を浴びた物ですけども、日本でも選挙のときに使われたとか、使われていないとか物議が ありました。ツイッターも無料のサービスです。私自身もまだまだ、ツイッターの世界に入り込めていま せんが言葉ぐらいは知ってるとちょっと自慢できるかなと思います。 次に「オーケーWEB」とか「はてな」とか「ヤフー知恵袋」を挙げました。これは、Q &Aサイトと 180 呼ばれるもので、例えば、私が風邪を引いていて、風邪によく効く薬を知らない ですかとホームページで質問すると、いろんな人がこの薬は効いたよとか、この 薬は効かなかったよとか、ここの病院はよかったよとか、回答してくれるサービ スです。こういうQ &Aサイトも非常に人気があり、日常生活のことから学術的 なことまで質問の内容は幅広いようです。一部、お金がかかるサービスもあるよ うですがほとんど無料でやっています。昔は何て言うでしょう、おばあちゃんの 知恵って言うのがいろいろと生活に役立つみたいな話もありましたけど、今やこ ういうネットで問いかければ、それを知っている人がちゃんと答えてくれるとい うギブアンドテイクのサービスというのも既に確立しています。 最後にこれも非常に旬なサービスですが「ユーチューブ」という動画投稿サー ビスです。これは、世界中から自分で撮影した映像が投稿されましてお互いに見 せ合いっこできるサービスです。なかには、いかがわしい映像もあるのですが例 えば、“大学”とか“講義”で検索すると大学で行われている公開講座などが検 索されてきます。ちょっと、やってみましょうか、例えば、“京都大学講義”で 181 検索しますとこのようにいろいろと講義のビデオが検索されるわけです。例えば、この講義を見ようと思 えばここをクリックするとこんな感じで京都大学で公開されてる授業が御自宅で見ることができるわけで す。ユーチューブには、本当にさまざまな映像が投稿されているので一度、見てみてはいかがでしょうか。 ざっと、いろいろなサービスを見ていただきましたけども、最後に見たユーチューブは今、私が話して いる様子をビデオで撮影し、ユーチューブに投稿すれば、本日、来られなかった人でも見ることができま すし、あるいは夙川に来られない遠方の人に提供するような使い方もできます。このようにコンピュータ やインターネットを活用した学習のことを「e ラーニング」と呼んでいます。 本日はこのe ラーニングを皆さんに体験していただきたいと思っています。e ラーニングの概念は非常に幅広く、実際にはさまざまな形態があります。本学で も、e ラーニング授業という授業形態がありまして、数科目を用意しています。 現在、のべ約千四百名の学生さんがe ラーニングで学習を行っています。今年は 夏ぐらいにインフルエンザで学校が休みになった時期がありましたけども、e ラ ーニングの授業は休むことなく続いていました。要するに、学生は自宅のパソコ ンを使って学習できるので休講することなく学習することができたわけです。 182 e ラーニングには、多彩なデジタル教材が用いられるわけですが、先ほどユー チューブで見ていただいたように先生がお話されている映像を閲覧して学習する ものとか、アニメーションやスライドを使って学習するようなものもあります。 また、○× のクイズでスキルを確認したりするのもe ラーニングの代表的なもの です。このようなデジタル教材を用いて学習を提供しているサービスはたくさん あります。例えば、日経ビジネススクールではいろいろな講座が用意されていま す。もちろん、受講料は必要になりますが東京に行かなくても著名な先生の話を 聞くことができたり、梅田に出なくても自宅で学習できるので便利です。また、こちらは最近できたサー ビスですが「Nアカデミー」という非常におもしろいネットスクーリングのサイトです。この講師の方は よくテレビで見ますよね、ミスターマリックさんという有名な手品師ですね。マリックさんの講座は、も ちろんマジックを教えてくれるそうです。自宅にいながら、マリックさんにマジックを教えてもらえると 宴会の時などに役立ちそうですね。このスクールでは、非常に有名な方々が講師をされているのが特徴で す。 本日は、本学で行っているe ラーニング授業の中から「大手前学入門」という授業をちょっと体験して いただこうかと思っています。本来は、全五回ですべての授業を受けますと五時間ぐらいかかってしまう 183 ので本日は途中からですけど、第二回の一部だけを見ていただこうと思います。(視聴) このように、デジタル教材を閲覧しながら、メモを取ったりして学習するというのがe ラーニングの一 番典型的なタイプです。次に見ていただくのが本学のe ラーニング授業のなかで最も受講生に人気のある 「色彩学」という色について勉強する講座について見てもらおうと思います。これはまたちょっと趣向が 違っています。(視聴・実演) この教材の特徴は、単に先生の話を聞くだけではなく、実際にマウスを使って洋服の着せ替えをしてみ たり、色と色の組み合わせを行ってその違いを感じたりすることができる体感型の教材となっています。 e ラーニングの良いところというのは、場所にとらわれることなくパソコンが あれば学習できるという点、また、自分の好きなときに閲覧できる、例えば、N HK などの教養番組とかと違って放映時間が決まっているわけではないのでいつ でも、自分が見たいときにデジタル教材にアクセスすれば講義が始まるわけです。 さらに、先ほど見ていただきましたけど、アニメーションや映像を用いて非常に 多彩な表現をされているので、わかりやすく学習を進めることができます。この ことはデジタル教材の最大の特徴であると思います。本学では、このe ラーニン 184 グを積極的に活用して、よりよい学習ができるように努めております。 さて、本日はもう一つのタイプのe ラーニングを体験して頂こうと思います。 もう一つのタイプとは、ライブ型e ラーニングのことで本日の目玉でもあります。 ライブ型とは、遠方の方とテレビ電話などを使ってリアルタイムに学習をするタ イプの授業です。例えば、今、東京で行っている授業を大阪の自宅で閲覧したり、 先生に質問したりするような授業です。本日はこれから韓国の大学とつなぎます。 実際に韓国とテレビ電話をつないでちょっとしたプチ韓国語講座を皆さんに体験 していただこうと思っています。スライドにちょっと事例が載っていましたね。このように、双方のパソ コンにこんな小さなカメラとマイクをつけます。このカメラを通じて韓国にいる学生さんとちょっと会話 をしてみたいなと思います。多分待機してくれているはずなんですけど、ちょっと、待ってくださいね。 では、韓国とつないでみましょう。 (テレビ電話) ○畑耕治郎講師 もしもし、アンニョンハセヨ。 ○パクさん アンニョンハセヨ、先生こんにちは、 ○畑耕治郎講師 こんにちは、パクさんよろしくお願いします。パクさんちょっとカメラをパブリッシ 185 ュしてもらっていいですか。キムさんこんにちは、 ○パクさん カメラですか。 ○畑耕治郎講師 カメラで、パブリッシュボタンを押してもらっていいですか、大きな画面にしてもら っていいですか。はい、写りました。じゃあこちらに今日はイケメンがいっぱいいま すので、こちらの映像を送ります。 ○パクさん はい。 ○畑耕治郎講師 お好みの人がいたらカメラ止めますからストップと言っていただいてもいいですよ。 彼女は日本語がとても上手ですけど、決して隣の部屋にいるわけじゃありません、本 当に韓国の釜山というところにある釜山情報大学にいるんですよ。 ○畑耕治郎講師 聞こえますか。 ○パクさん はい、聞こえます。 ○畑耕治郎講師 ちょっとタイムラグありますけども、ほとんどリアルタイムに話できていますよね。 じゃあ、パクさん、ちょっと釜山の様子とかそちらの大学を紹介していただいていい ですか。 ○パクさん はい、わかりました。本日はすごく寒いですね、後、風が冷たくて、みんな風邪引か 186 ないようにしてください。釜山も日本と同じに、日本は今冬休みのところですか。 ○畑耕治郎講師 まだ、冬休みではないよ。もう少しですね。 ○パクさん こちらはもう冬休みになって学生はもう学校にはいないんです。 ○畑耕治郎講師 パクさんは、現在、釜山情報大学の職員さんですね。 ○パクさん はい、そうです。 ○畑耕治郎講師 つい最近まで学生でしたが最近働き出したんですね。 ○パクさん こちらのキムさんはまだ学生です。 ○畑耕治郎講師 そうですか、はい。はじめましてキムさん。 ○キムさん はじめまして。 ○畑耕治郎講師 皆さん非常に日本語が達者ですけども、日本人じゃないですよ。本当に韓国の方です。 じゃあ、ちょっとパクさんこちらの映像映します。 ○パクさん はい、わかりました。 ○畑耕治郎講師 今、映しましたので、皆さんの映像が向こうに大きく表示されていると思います。今 日は三十名ぐらいの方が来られています。 ○パクさん 皆さん、こんにちは。 187 ○畑耕治郎講師 若干、年齢層高く見えますけども、カメラのせいですかね。 ○パクさん そうですか(笑)。 ○畑耕治郎講師 非常に良好に聞こえていますよ。 では、せっかくなので韓国語をちょっと教えてもらおうかなと思います。 ○キムさん はい、わかりました。 ○畑耕治郎講師 実は今日は何を教えてもらおうかなと思って、季節がら、クリスマスなので“メリー クリスマス”を皆さんで覚えようかなと思ったんですけど、よく考えたら“メリーク リスマス”は韓国も“メリークリスマス”なんですよね。なので、本日は、“あけま しておめでとうございます”をキムさんに教えていただこうと思います。キムさんち ょっとこの、“あけましておめでとうございます”を韓国語でどのように話すのか解 説していただいていいですか。 ○キムさん はい、わかりました。あけましておめでとうございますは、韓国語でセヘ ボン マニ バトゥセヨです。 ○畑耕治郎講師 難しいですね、もう一回ゆっくり言ってもらっていいですか。 ○キムさん もう一回、セヘ ボン マニ バトゥセヨ。 188 ○畑耕治郎講師 じゃあ、もう一度皆さんでいきましょうか。セヘ ボン マニ バトゥセヨ。 ○キムさん 発音いいですね先生。 ○畑耕治郎講師 どうもありがとうございます。ちょっと、パクサンとキムさん待ってね。 ○パクさん はい。 ○畑耕治郎講師 今ちょっと教室の環境で音がうるさいですね。はい、ちょっと待ってくださいね。も しもし、韓国ではクリスマスはどんな感じで過ごしますか。 ○パクさん 釜山はあまり雪が降らないので、恋人と過ごすとか友達と過ごします。食事をしたり、 お酒を飲んだりします。 ○畑耕治郎講師 そうですか、楽しそうですね。今、パクさんお仕事中ですよね。 ○パクさん そうですね。 ○畑耕治郎講師 ごめんなさいね、忙しいときに邪魔して。 ○パクさん いえ、いい経験です。 ○畑耕治郎講師 じゃあ、授業に戻りますのでどうもありがとうございました。 ○パクさん ありがとうございました。じゃあ、皆さんさようなら。 ○畑耕治郎講師 はい、ありがとう。 189 ほんの短いプチ韓国語講座でしたけれども、こういったライブ型の授業もイン ターネットを活用した学習としては非常に効果的といわれています。今回は学習 というテーマなのでプチ講座ということでやりましたけども、例えば遠くにいる お孫さんだとか御家族とか友人とかとこういうビデオチャットというのを使って コミュニケーションを取るなんていうことも今は簡単に行うことができます。こ ういったビデオチャットのサービスはたいてい、無料のサービスを使って行いま す。今、韓国とつないで会話しましたけども、携帯電話を使って会話すると当然 通話料がかかりますけど、インターネットで通話する分には実はお金がかからないんですね。もともとイ ンターネットに接続するための費用は別に払っていますので、二十四時間ずっとつなぎっ放しで会話して も通話料はかからないのでいいですよね。ですから、学習だけではなくて、ご家族とか友人とのコミュニ ケーションにも使えるので是非、チャレンジしていただければと思います。ちなみにこの小さなカメラは 電気屋さんで二千円とか三千円ぐらいで売っています。また、一番有名なサービスは「スカイプ」という 会社のサービスです。 我々としては、こうした新しいテクノロジーを学習に効果的に活用しようということを日々勉強したり 190 研究したりしています。ご覧頂いたように先生の話を聞くようなデジタル教材が あったり、韓国とリアルタイムにインターネットを使って会話をしたりする学習 もありますけども、その他にもいろんなコミュニケーションツールというのがイ ンターネットにはありまして、学習を支援してくれるものとして活用しています。 例えば、掲示板と呼ばれるものでこういう記事を書いてお互いの意見交換をする とか、あるいは電子メールと呼ばれるものであるとか、その他にSNSやブログ、 先ほど説明したツイッターなどコミュニケーションするツールというものがいっ ぱいありますのでこういったサービスを活用して多くの仲間と励ましあったり、 情報を交換したりしながら楽しく学習することができると考えています。 先ほどe ラーニングの良いところを幾つか挙げましたがさらに今の韓国とのや りとりを見ていただいてお分かりのように、一つはインタラクティブな環境で学 べるということ、インタラクティブというのは、こういう双方向のやりとりがあ る環境ですね、単に家でテレビ番組を黙って見ているだけとか、本買ってきて読 んでいるだけというのではなく、相手がいて相互にやり取りをしながら学習でき 191 る環境のことですけど、こういったものも実はe ラーニングの良いところかなと思います。もう一つは、 これをe ラーニングの良いところと言うと何か誤解を受けやすいんですけども、他の受講者と学びを共有 することができるということです。例えば、もしかしたら今日お隣に座っている方と一言も会話せずにこ のまま御自宅に戻られてしまう方もいますよね。だから、こういう集合型で一同に介して授業をしている からと言って必ずしも多くの人と会話して帰るわけじゃないという講座もたくさんあります。授業の進め 方にもよりますが。その点、e ラーニングというのは、非常に多彩なコミュニケーションツールがあるの で結構書きやすい、意見が述べやすいという利点もあるようです。これまでe ラーニングの良いところば かりを挙げてますけれどもe ラーニングは非常に刺激のある学習ツールであるというふうに私は考えてい ます。 早いものでもう残り三十分ぐらいですけども、三番目のテーマとしまして「学 び場としてのサードプレイス」というお話をさせていただきたいと思います。 このサードプレイスというのは何かというお話ですけども、サードプレイスと いうのは、アメリカの社会学者のオルデンバーグという人が一九八九年に発表し た新しい都市の居場所のことで、まだインターネットとか全然ない時代ですね。 192 この方はどういうふうに言ったかと言うと、ファーストプレイスというのは、一番の居場所である家でし ょう。二番目のセカンドプレイスというのは、職場であったり、学生であれば学校でしょうと言いました。 これから時代はファーストプレイスでもなく、セカンドプレイスでもないサードプレイスという新たな居 場所も我々には必要ではないでしょうかということを提唱したわけですね。サードプレイスの定義という のは、いろいろとあるようですが、人々が気軽に集うことができる場所ということで一応サードプレイス という物を定義している人が多いです。 では、人々が気軽に集うことができる場所を何とか我々大学人としましては、そこを学びの楽しい場所 に持っていけないかなということを考えているわけですね。一九八九年ですから約二十年前に提唱された ことが最近、またちょっと注目されています。サードプレイスというキーワードで検索していただくとい ろんな解説が見つかると思います。 ここでサードプレイスで成功した事例があるので紹介します。サードプレイスという概念で成功した会 社としてスターバックスという会社があります。スターバックスは御存じですかね、通称、スタバってい うカフェですね。梅田とか行くとスターバックスという喫茶店の大きなやつですかね、マクドナルドの喫 茶店版というのでしょうかね、ここが実は数年前にサードプレイスという概念に基づいていろんな試みを したそうです。これはスターバックスのホームページに書いてあったものを抜粋したものですが、ちょっ 193 と読んでみます。 「家庭や職場から離れ、家族や恋人友人と語りあったりときには、一人で夢を膨らませたり感傷的な気 分に浸ったりと、そんな場所があるとすてきですよね。私たちは家庭と職場や学校の間ある日常を忘れ、 くつろげるような第三の場所、サードプレイスを人々に提供することを目指しています。」 これがスターバックスのホームページに書かれていた文章ですけれども、要するに、一言で言うと、た まり場にしてくださいねと、我々のお店をたまり場にして、何かあったらうちの場所を提供しますからこ こでみんな語り合ってよというようなスタンスで我々はお客さんを待っていますよということです。ちょ っとビジネス的じゃなく、開放しますよ、自由に使ってくださいというスタンスでスターバックスという のは、いろんな試みをしたんですね、これが成功の直接の要因かどうかはわかりませんが、急速に日本で スターバックスというのがブームになって、今や全国に多くの店舗を展開しています。 我々というか、私としましては、こういうサードプレイス的な考え方を何とか学びにつなげて、みんな が気軽に集まってきて、気軽に文学についてお話したり、今日みたいにインターネットについて学んだり できる空間を大学として提供していきたいなあと考えているわけです。実際にいろんな人たちが学びのサ ードプレイスについて研究したり挑戦したりしているようですが、まだ大きな成功事例はなく試行錯誤が 194 行われている段階かなと思いますが、その中で私がちょっとお気に入りのところ を御紹介します。 ネットに広がる学び場ということで、まさに本日のテーマですけども、ここに、 京都烏丸大学とか渋谷大学とありますが京都烏丸大学って聞いたことないよなと 思われると思いますが、これはいわゆるバーチャルな大学です。つまり、大手前 大学のような文部科学省に認められた本当の大学ではなくて、インターネット上 につくられた仮想のキャンパスというか、バーチャルな大学ですね。渋谷大学っ て言うのは東京を中心に、大名古屋大学っていうのは名古屋を中心に、京都烏丸大学っていうのは京都を 中心に活動しているようです。確か、何とか札幌大学というのもあるようです。この仮想大学ってじゃあ どんなことをやるのかということですがこちらのホームページで紹介してみたいと思います。 こちらが、京都烏丸大学のホームページです。一番上にちょっと書いてありますよね、小さいですけど、 “京都烏丸大学には校舎がありません。この町が丸ごとキャンパスです”ということで、京都に住んでい る方々が互いに集まって一緒にいろんな勉強をしましょうよというコンセプトなんですね。ですから実際 に本学のように教室とかを持っているわけではなく、大学というものがあるわけでもないんですね。ただ、 こういうネット上に烏丸大学という集まる場所をつくって、ここを起点にしていろいろな学習だとか集ま 195 りをしましょうというバーチャルな大学です。私も個人的に会員です、といいますか登録すればだれでも 無料で会員になれるようで実際には一度も参加したことがないんです。私がおもしろいなと思うのは、一 つは教える先生ですよね、今日は私が先生として立っていますけども、この京都烏丸大学では教える先生 は自分で立候補できるんです。私はこんなことについて専門家だから教えたいっていうふうに大学に申請 して許可されるとその人は今日から先生なんですね。その先生が講座をつくって、募集をかけてそれを学 びたいという人はまた自由に入ってこられるというふうにとても自由でフレキシブルなカリキュラムなん ですね。教えたい人がいる、学びたい人がいる、それを結びましょうというのがこのコンセプトなんです ね。ですから、講師の一覧を見ると今、五十九人いるようですがこの先生は京都大学の先生ですけども、 船大工さんとか住職さんとかデザイナーだとか占い師さんとか録音技師さんとか多様な人が先生になって います。パティシエといってケーキを作る職人さんであるとか、これ何かおもしろいですよね、豊島のお じいちゃんおばあちゃん、あるいは、元議会委員さんとか、園芸家とか写真家とか歴史研究家とかいろん な人たちが先生になっていますよね。当然、講座も多様な内容で展開されています。ちょっと読みますけ ど、太陽観測と宇宙天気予報ということで、東山天文台に行ってみんなで天文学について学びませんかと いう講座がありますね。こちらは満員御礼になっていますから皆さん集まったのでしょうね。ここの講座 というのは、こういった感じで九十分授業を受けるというスタイルのものよりも、京都の神社や地域に行 196 って、そこに集まっていろいろ一緒に回りましょうねというフィールド学習というか、課外授業が中心の ようです。もちろん、こういった公開講座みたいに人が集まってお話を聞くということもあるようです。 興味のある者同士で集まって一緒に学ぶ、インフォーマルな学習形態。僕はこういった試みというのは 今後もっと増えてくるではないかなと思っています。できれば私も参加したいなあと思いながら必ず土曜 日なんですね、基本的に社会人を対象としているようなので仕方ないですね。 これらの試みでは、本当の大学ではできそうにないことを非常にうまく実施しているなと思います。こ れは決してe ラーニングではないんですね。ネットで学習をするとかではなくて、やっぱりリアルに人と 人が会って学習する。ただ、人の集まりを束ねるところだけをネット上につくっているということですが、 これはこれですごくおもしろい試みだなというふうに私は思っていますのでちょっと紹介させていただき ました。もし、興味あるようであればこの京都烏丸大学のアドレスも配布資料に記載していますので検索 していただければなあと思います。できれば私も兵庫×× 大学とか立ち上げられたらいいなと思っていま す。 サードプレイスって言うとちょっと難しそうですけど、要するに気軽に語り合えて、人が集まってそこ から学びが始まる、芽生えるという場がネットに限らず、いろいろな場所や空間にできてくるのではない でしょうか。大学は基本的にセカンドプレイスとされているわけですが、これからの大学は二番目の場所 197 もしっかりと提供するが三番目の場所としても機能も果たす必要があるのではないかと個人的には思って います。もしかしたら今後はこういう三番目の場所こそが、本日のような社会人講座を受講する人たちの 学びの場じゃないかなあと思っています。 かなり、大詰めに来ていますがどうして八回目まで文学系の講座が続いてきて、急に私が登場したかと いいますとこれを宣伝しろということで多分私が担当することになったのではないかと思いますので、最 後に宣伝をさせていただいて、終わろうと思います。大手前大学はこれまでは通学制と言いましてこちら のキャンパスに来てみんなで学習するというスタンスで約四千名近く学生が毎日こちらに来て学習して います。そこに加えまして来年の四月から通信教育課程を設置します。これは京 都烏丸大学と違って、正式に文部科学省にこの秋に認可を得まして、正式な大学 として来年開校いたします。もう一度大学に入ってみたいという方には、卒業す ればちゃんと大学の卒業資格をもらえる正規の大学です。また、今回皆さんに来 ていただいたように好きな科目だけ取ることもできます。科目数としましては、 百六十八科目あります。この百六十八科目の中から好きな科目だけを学習するこ ともできますし、もう一度大学生として頑張ってやろうという人は入学していた 198 だいて、学習することもできます。 この通信教育課程で百六十八科目というのは他大学に比べて豊富な学習内容になってまして、私も来年 から三科目コンピュータ関係の授業を担当することになっておりますので、これを縁にぜひ履修していた だくとありがたいと思います。 本学の通信教育の特徴ですけども、一つはこれまでいろいろご紹介しましたe ラーニングを積極的に活 用していることです。また自宅で学習するだけじゃなくて、本日のようにこのキャンパスに来ていただい て学ぶ学習方法も多数用意しております。本日の講義概要にも「学び」を継続するのは難しいですよねと 書かせていただいたと思います。私は英語が苦手なもので、何とか英語を学習したいなあと思っていまし て、本屋さんへ行って三分で話せる英語とか見つけるとすぐに買ってしまうのですが、それだけでは学習 が続かないんですよね。e ラーニングというのもコンピュータの前でずっと座っているというのはなかな かしんどいもので継続が難しいと言われています。そのような状況の中で本学の学生さんに提供している e ラーニングでは、約九割近い学生さんがちゃんと最後まで学習を行い修了しています。というのは、本 学が培ってきた通学制での教育方法であるとか、e ラーニングのノウハウがデジタル教材には詰まってい て、飽きがこず学習しつづけられるような工夫がたくさんちりばめられています。また、本学が特に力を 入れていることの一つに学習支援があります。TAとかSA、メンターとか言いますがこういった先生以 199 外にも学習支援を行う専門のスタッフを充実させておりますので途中で挫折する ことなく学習できるわけです。ここに関しては他校に負けないぐらい充実させた いと力を入れているところでございます。ですから、パソコンが苦手な方に対し ても十分な支援をさせていただきますので安心してご参加ください。 最後になりますけども、前半はインターネットの楽しさについて、いくつかの サービスをご紹介させていただきました。最後の方では、私の日頃考えているこ とをお話させていただきましたが、最新の技術を使った学習もあれば、こうやっ て対面で集まって直接会話をしながらお話しする、こういうリアルのキャンパス ですね、こういったものが今後は融合して、その融合した中から大手前流の学び のサードプレイスというものをつくりあげられたら、きっと皆さんにもハッピー なものを提供できるでしょうし、大学人としましてもきっとハッピーになるんじ ゃないかなというふうに考えております。そのような試みをしている大手前大学 に今後も期待してください。 かなり凝縮した講義になってしまいましたが韓国とビデオチャットやGoog 200 le マップなど面白いと感じていただけたようですのでこれを機にちょっとインターネットにチャレンジ してみようかと思っていただけましたら私としては成功かなと思っております。もう時間が来たようなの で本日はこのあたりで終わりたいと思います。 最後にもう一枚スライドがあるんです。 御清聴ありがとうございました。ぜひ、このセヘ ボン マニ バトゥセヨを覚えて帰っていただければと 思います。 どうもありがとうございました。 201 巻 第1号、二〇〇五年、日本考古学会)など。古墳発掘調査(南所3号墳[兵庫県]定納古墳群[滋賀県]、 総合文化学部 准教授(日本近代の社会と政治)一九六三年生まれ ( おざきこうじ) (単著、『貿易陶磁研究』№8、一九八八年、日本貿易陶磁研究会)など。 一九九四年、文英堂)、『江戸考古学研究事典』(共著、二〇〇一年、柏書房)など。論文「有岡城跡出土の中国陶磁」 会、 大 手 前 女 子 大 学 史 学 研 究 所 )、「 中 世 の ト イ レ は ど の よ う な も の か 」( 共 著、『 日 本 の 歴 史 を 解 く 一〇 〇 話』、 会員。著書『有岡城跡・伊丹郷町発掘調査報告書』Ⅰ ~Ⅶ、(共著、一九九二年~一九九五年、伊丹市教育委員 仏教大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。日本考古学協会、東洋陶磁学会、関西近世考古学研究会 現代社会学部 教授(中世・近世考古学)一九五五年生まれ (かわぐちひろうみ) 東之宮古墳[愛知県]など。) 第 第5巻「弥生・古墳時代 鏡」、二〇〇二年、小学館)など。論文「前期古墳副葬品の組合せ」(単著、 『考古学雑誌』 『大古墳展 ヤマト王権と古墳の鏡』(共著、二〇〇〇年、東京新聞社)、 「古墳時代倭鏡」(単著、考古学資料大観 京都大学大学院文学研究科修士課程修了。文学修士。日本考古学協会、文化財科学会、考古学研究会会員。著書 総合文化学部 准教授(考古学)一九六三年生まれ (もりしたしょうじ) 講 師 紹 介 (講演年月日順) 森 下 章 司 川 口 宏 海 尾 﨑 耕 司 神戸大学大学院文化学研究科博士課程単位取得退学。文学修士。日本史研究会、大阪歴史学会、神戸大学史学研 究会会員。著書『日本史講座』第8巻(共著、二〇〇五年、東京大学出版会)、 『史料集 公と私の構造4後藤新平 と帝国と自治』 (共著、二〇〇三年、ゆまに書房)など。論文「万国衛生会議と近代日本」 (『日本史研究』四三八号、 一九九九年 日本史研究会)など。 202 89 (かみがいとけんいち) メディア・芸術学部 教授(文化人類学)一九四四年生まれ (むらせさとる) 『空海と霊界めぐり伝説』(単著、二〇〇二年、角川書店)など。 二〇〇二年、筑摩書房)、 『文禄慶長の役』(単著、二〇〇二年、講談社)『倭人と韓人』(単著、二〇〇三年、講談社)、 一 九 七 八 年、 主 婦 の 友 社 )、『 鎖 国 の 比 較 文 明 論 』( 単 著、 一 九 九 四 年、 講 談 社 )、『 花 と 山 水 の 文 化 誌 』( 単 著、 会会員。第1回金素雲賞(一九八三年)、サントリー学芸賞(一九九〇年)受賞。著書『維新の留学生』(単著、 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。学術博士(東京大学)。日本比較文学会、国際比較文学 総合文化学部 教授(比較文化)一九四八年生まれ。 上 垣 外 憲 一 村 瀬 智 イ リ ノ イ 大 学 大 学 院 人 類 学 研 究 科 博 士 課 程 修 了。 人 類 学 博 士。 日 本 文 化 人 類 学 会、 比 較 文 明 学 会 会 員。 著 書 「 Patchwork Jacket and Loincloth: An Ethnographic Study of the Bauls of Bengal 」(単著、一九九一年、UMI)、 『「貧困の文化」再考』(共著、有斐閣、一九九八年)、『生活世界としての「スラム」』 ) Shirley Ando (共著、古今書院、二〇〇一年)など。 ( 現代社会学部 講師(教育学)一九五七年生まれ シ ャ ー リ ー ・ ア ン ド ウ ウェスタンオレゴン州立大学大学院情報教育研究科修士課程修了。教育学修士。 日本語学教育学会神戸地区委員長 [パネリスト]ロバート・シェリダン( )〔カナダ〕大手前大学LEO英語プログラム講師 Robert Sheridan ジョン・ジャクソン( John Jackson )〔オーストラリア〕大手前大学LEO英語プログラム講師 ゴードン・カールソン( Gordon Carlson )〔アメリカ〕大手前大学LEO英語プログラム講師 [兼 通訳]テランス・ヤング( )〔アメリカ〕大手前大学LEO英語プログラム講師 Terrance Young LEO( Language Education of Otemae ) 203 (はたこうじろう) 現代社会学部 准教授(情報工学)一九六九年生まれ 畑 耕治郎 通信容量の評価に関する研究」(博士学位論文 二〇〇八 AIS 大阪大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学。工学博士(大阪大学)。日本教育工学会、システム制御学会、 日本船舶海洋工学会会員。論文「輻輳海域における 年)、「 WBT 型学習支援システムの実現と形成的評価」(共著、二〇〇六年、『大手前大学人文科学部論集』第5号)、 シュミレーター」(共著、二〇〇七年、『日本船舶海洋工学会論文集』第6号)など。 AIS 「 204 ︱ これまで(第一回〜第十回)の講義 ︱ 総合テーマ『生活の中の文化』 教授 木 下 政 雄 九月一八日(土) 古筆のなりたち 先人たちの遺墨から様々の事柄を学ぼうとする姿勢から「古筆」という概念が成立した。単に書かれた内 は中国伝来の陰陽五行説で説明がつく。日本人の生活にとけこんだ中国文化を探る。 助教授 丹 羽 博 之 七月一七日(土) 生活の中の干支 青春は何故青いのか?丙午生まれの女性は悪いという迷信のルーツは?甲子園、甲陽園の由来は?これら はじめた。数々の名物を遺した数奇の心とその表現の特質を探る。 講師 岡 佳子 六月一九日(土) 茶の湯とやきもの文化 中国の影響のもとに生まれた日本のやきものは、茶の湯の道具をつくることから、新しい創造の道を歩み 違いがあるのか。食の文化人類学の視座から、この問題を解明する。 教授 山 昶 五月一五日(土) 食具の日欧文化比較 内 日本人は箸を使うが、西洋人はナイフ・フォーク・スプーンを使う。一体その背景にはどういう世界観の どういう表現をとり、人々を感動させるのか、近世文学や演劇から典型的な例を取り上げて検討する。 教授 文学部長 鈴 木 亨 四月一七日(土) 粋の基盤 ︱ 生活の美学 ︱ 粋は多様な表現を持つ美的理念であるが、その根元は意外に素朴な美意識である。それがどういう場合に 平成十一年度 容に止まらず、その字すがた(書体・書風)や書のかたち(品質・形状)に注目したい。 205 教授 宮 下 美 智 子 十月一六日(土) 江戸時代婚礼習俗にみる女性の生活 今日の結婚式は多様化しているが、女性(新婦)中心のイベントの感が強い。本講では嫁入式が庶民の間 でも行われるようになった江戸時代を中心に、婚礼習俗の変化と女性の生活を考える。 教授 切 畑 健 世界各国には各々固有の特色ある衣服が存在し、それらを民族服などとよんでいる。日本では「キモノ」 十一月二十日(土) 日 本の着物 ︱ 芸術を着る伝統 ︱ 学長 米 山俊直 がそれにあたるのであるが、他の民族服とは一線を画する性格を持つ、すなわちそれを芸術と考え、その 意義と伝統をうかがいたい。 十二月一八日(土)「生活の中の文化」の研究史 考現学(モデルノロジオ)で知られる今和次郎を中心に、社会調査、参加観察、長期フィールドワークな ど、「生活文化」の研究史とその方法の変遷をみる。 総合テーマ『歴史の散歩道』 教授 熱 公 四月一五日(土) 楠木正成と足利尊氏 田 楠木正成と足利尊氏は、南北朝時代を代表し摂津地域にも縁の深い人物であるが、研究史の上でも、なお 平成十二年度 多くのナゾをのこしている。湊川の戦いを中心に二人の行動を追いながら人間像のナゾにもせまりたい。 206 教授 秋 五月二十日(土) ハンコいろいろ ︱ 金印をめぐって ︱ 山進午 ハンコはかなりいらなくなってきたとはいえ、今でもやはり大事でかかすことの出来ない必需品の一つで ある。ハンコは東アジアで最も早く文字を創り出した中国が起源で、中国との国交に伴って東アジア各地 に広まった。わが国へは後漢から与えられた金印が最古のもので、いまは国宝になっているこの金印が長 い間、昭和二〇年代まで偽物ではないかと疑われていたこともあった。そのことを中心に当時のいろいろ なハンコのことを話したい。 教授 藤 井 直 正 六月一七日(土) 都市遺跡へのまなざし ︱ 大手前考古学のあゆみ ︱ 昨今、都市遺跡への関心が高まっている。大坂にはじまり伊丹郷町の発掘をつづけてきた軌跡をたどりな がら、近世考古学の成果と課題を展望したい。 教授 芝 川 治 七月一五日(土) ギリシア人の「愛」 古代ギリシア人の恋愛というと主流をなすのは、実は、少年愛である。それはギリシア特有の国家形態た るポリスの盛衰とも不可分の関係にあり、歴史的にも極めて重要である。今回はそうした側面を主に考え ていく。 教授 舟 尾 好 正 九月一六日(土) 奈良時代の税について ︱ 役人の不正は古代から ︱ 奈良時代には公的な稲をひろく貸し付けて利息をとり、その利息で地方財政をまかなっていたが、その制 度の運営の実態と役人のかかわり方を正倉院に残る天平時代の財政帳簿の分析から具体的に検証したい。 講師 尾 﨑 耕 司 十月二一日(土) 神戸・公衆衛生からみた近代都市 明治以降、貿易港として急速に発展していった都市神戸。しかし、そこでは、あまりにも急激な発展のた めに、逆に様々な社会問題が同時に発生した。今回は、このうち感染症の問題をとりあげ、そこから都市 207 神戸のもつ光と影を展望したい。 教授 高 橋 正 明 十一月一八日(土) ト イレから世界の歴史をみる 近年トイレに関心が高まり、快適空間をめざした町づくりの主役となっている所もある。しかし水洗トイ 教授・人文科学部長 鈴 木利章 レのシステムには大きな問題もある。トイレットペーパー、水利用などにも言及しながらトイレの近代化 と問題点について考えてみたい。 歴史学は、ほぼ半世紀前までは、為政者の為のものであった。その為の前提として事実は事実以外の何物 十二月一六日(土) 歴 史を生活に活かそう ︱ 生活の知恵としての歴史学 ︱ でもないという神話を創り上げた。この様な歴史学の本質を考えつつ、歴史学とは何かを検討したい。こ 208 の中で、大は、歴史は遠い昔の、自分とは全く無関係なものではないこと、小は、史料批判の方法を修得 すること等々、生活の知恵としての歴史学を考える。歴史学を通して豊かな生活を! 五月一九日(土) 幕末イギリス外交官の描いた〈ハラキリ〉の美学 ︱「神戸事件」と関連して ︱ 教授 松 村昌家 ここにいうイギリス外交官とは、 ・ ミットフォード、日本通としても注目されるべき人物である。 りか南北の対話を真剣に必要としている。この世界で日本は何ができるか、考えてみたい。 学長 米 山 俊 直 四月二一日(土) 東洋と西洋の出会い ︱ 南北も含めて ︱ 「東は東、西は西」というキプリングの詩句のテーマはなお健在ともいえるが、現実の世界は、東西ばか 平成十三年度 総合テーマ『東洋と西洋の出会い』 B 彼は一八六八年に起こった神戸事件に絡んで、外国側の代表の一人として、備前藩士滝善三郎の切腹の場 A 教授 勝 部章人 に立ち会いその様子を克明に描いた手記を残している。武士道と〈ハラキリ〉に対して、この生粋の英国 ジェントルマンは、どのように反応し、どのような美学を感じたのだろうか。 東洋と西洋の出会いにもいろいろあるが、我々にとって六〇年代のアメリカ・ポップ・カルチャーとの出 六月一六日(土) アメリカン・ポップスと日本文化 会いはまさにショックであった。一見日本文化とは無縁なこの文化は当時の若者の心を捉え、やがて体の 一部となり我々の体に染みついている。今、日本の中核をなすジェネレーションが織りなす現代の日本文 教授 ロ ーラ・ハラニ 福 井秀加 化は、能や茶道など一般的に言われる伝統的なものだけではなく、こういうものの延長上にもある。具体 的にポップ・ミュージックの歌詞などを通してそれを例証したい。 (通訳)教授 教授 (通訳)教授 リ サ・タレル 森 道 子 アメリカ、イギリス両国から招聘した本学客員教授が、それぞれの滞日体験を通して、西洋人からみた日 七月二一日(土) 西洋(アメリカ)から見た東洋(日本)について 本の教育、文化、生活などの印象を語る。(通訳あり) アメリカ、イギリス両国から招聘した本学客員教授が、それぞれの滞日体験を通して、西洋人からみた日 九月二二日(土) 西洋(イギリス)から見た東洋(日本)について 本の教育、文化、生活などの印象を語る。(通訳あり) 助教授 田 中 紀 子 十月二〇日(土) 過渡期の日本人達 ︱ 津田梅子の自覚とジレンマ ︱ 時代が大きく様変わりし、日本政府が近代化へと邁進していた明治四年、進歩的な父親の方針により数え 年八歳の少女が渡米した。開拓使が派遣した女子留学生のうち最年少の彼女は、教養高いアメリカ人家庭 209 での生活を体験しながら、個性を尊重するアメリカの教育を受ける。精神的な自立を果たした近代女性と して帰朝した津田梅子の、西洋との出会いと日本との再会を探る。 教授 常 松 正 雄 十一月一七日(土) ラ フカディオ・ハーン(小泉八雲)のアメリカと日本 一九歳のときに、孤児同然の形で、単身でアメリカに渡り、職を転々として厳しい生活をしたハーンは、 一八九〇年(明治二三年)にハーパー社の通信記者として日本に派遣され、間もなく英語教師に転身し、 日本人女性と結婚し、遂には日本に帰化して小泉八雲となった。このギリシャ生まれの特異な存在、ラフ カディオ・ハーンのアメリカ時代の生活と、来日後特に松江に来てからの彼の経験とを検討して、彼の人 物像のいくつかの面を見ていく。 教授 鈴 木 亨 十二月一五日(土) キ リシタン伝来の頃 一五・一六世紀の戦国乱世(一四六七応仁の乱〜一六〇〇関が原合戦)の真っ只中、一五四九、シャヴィ ェルによるキリシタンの伝来があった。民族の激動期、思想の大躍動・混乱期に、この西洋思想の精粋と 遭遇したわが民衆が猛然と迎え討ち、受け入れ、獲ち取ったものは何か。その世界に類を見ない激突の様 相を検証して見たい。 総合テーマ『東西文化の比較』 教授 松 村 昌 家 四月二〇日(土) 夏目漱石における東西文化 ︱「草枕」を中心にして︱ 漱石は近代日本人として西洋文化の衝撃を最も切実に感じた文人であった。「草枕」における東西の悲恋 平成十四年度 の女性像の喚起から「憐れ」の発見に至る行程を通じて、彼の中における東西文化の相克と調和の諸相を 共に考えてみたい。 210 教授 辻 一郎 五月一八日(土) 放送と文化「TVニュースキャスター」についての一考案 日本のテレビにニュースキャスターが導入されたのは、一九六〇年代のなかばである。以来、三〇余年。 いまどのテレビでも、ニュースキャスターが活躍している。しかし、その実態を子細に眺めると、アメリ カのアンカーマンとはかなり違っていることが見えてくる。ニュースキャスターとは本来どのような存在 であることが望ましいのか。日米のキャスター誕生の歴史に溯って、そのあり方を考案する。 教授 山 昶 六月一五日(土) あべこべの国ジパング 内 青い目に日本は「さかしま世界」と映った。フロイスの『日欧文化比較』から面白い話題を選んで、文化 の不思議を楽しもう。 教授 多 淵 敏 樹 七月一三日(土) 建築と文化 建築そのものが文化の表現である。建築は気候風土によって異なった形状をとるが、それ以上に政治経済 をはじめとして社会のあらゆる状況に対応して変化していく。ここでは日本の建築の歴史を中心として、 西洋や東洋の建築との比較を交えて、文化としての建築を考えることにしたい。 教授 辻 九月二一日(土) 東西文明の接点としてのトルコ 成 史 現在のトルコ共和国は古代にはペルシャ、ギリシャ、ローマと慌しく支配者が変わり、中世にはアラブ、 イスラム勢力の支配するところとなった。そのため、まるで深い地層を見るように、さまざまな文明の痕 跡を見ることが出来る。残された考古・美術の遺品をたどりながら各文明の特色を探り比較したい。 教授 溝 口 正 十月一九日(土) 食と文化「元気がでる食、幸せな食」 「食」は人々のライフサイクルを評価する上でもっとも基本的な課題である。ライフサイクルの良好なひ とは生活習慣病にならず、高齢時においても活動的に過ごす。物を口に放り込む食ではなく、食を通じて 211 深い充足感を伴うものでありたい。仲間たちと集まって眺望の素晴らしい部屋でゴージャスな雰囲気に浸 りながら摂る幸せな食がある。そして幸福ホルモンが分泌される食こそ元気が出る食である。日本ならび に世界各地で摂った食事などの写真を交えて「元気が出る食、幸せな食」を講述してみたい。 とも実感できる。またバスク人 ザヴィエルの聖体は、焼失前の山口のザヴィエル堂にあるかれの遺骨 教授・人文科学部長 鈴 木 利 章 (試論) 十一月一六日(土) 歴 史と文化「身を切り刻む論」 わが国の『蘭学事始』を読めば、蘭学への情熱に目をみはるが、身体を切り刻むことへの反発の大きいこ 教授 長 谷川一郎 からみれば、五体が満足ではないことがわかる。これらを比較し、両洋の身体に対する考え方の差を考え てみたい。 十二月二一日(土) 天 文学と文化「星の光と宇宙の構造」 古代の人々は、夜空の星を見て、彼らの想像力を大いに発揮した。そして惑星の運動に注目して太陽系を 「発見」し、引力の法則が発見された。さらに宇宙の原理が理解されるようになり、望遠鏡などの観測機 器の発展によって宇宙の構造がわかるようになって来た。この宇宙観の変遷について考えてみたい。 教授 小 室 豊 允 世紀は"こころ"の世紀 二〇世紀は革命と戦争の世紀であった。二一世紀は愛と平和の世紀にしなければならない。 その背景にある、宗教、文明、文化などの“こころ”の対立を越えて、調和と自己充足をどのように得て いくのだろうか。 212 F. 総合テーマ『 世紀の"生"を切り拓く』 四月一九日(土) 平成十五年度 21 しかし、九・一一のテロからアフガニスタンに続いてイラクでも戦争が行われようとしている。 21 教授 多 五月一七日(土) 狭心症・心筋梗塞の発症メカニズム 田道彦 心臓の栄養血管である冠動脈の狭窄・閉塞などにより起こる狭心症・心筋梗塞は、冠動脈硬化の結果とし て発症し、一部の例外を除いて、生活習慣病の一種と考えられる。冠動脈硬化とその発生予防は、現在、 病理医学の主たる命題となっている。狭心症・心筋梗塞の発生・発症メカニズムについて解説し、その予 防・治療についても言及したい。 教授 仲 野 好 重 六月二一日(土) 発達心理学における世代性 人間の誕生から死にいたるまでの、さまざまな心の変化を探求するのが、発達心理学の主要なテーマであ る。他の国々に比較して、わが国では少子高齢化が著しいスピードで進んでいる。そのような状況の中、 加齢の持つ意味をいま一度問い直すことは、有意義な老年期への精神的準備につながる。また、人生にお け る 世 代 性 の 役 割 を ラ イ フ サ イ ク ル の 観 点 か ら 論 じ、 二 一 世 紀 の 社 会 に お け る 人 類 の 調 和 を 参 加 者 と 共 に 考えたい。 教授 武 衛 孝 雄 七月一九日(土) 対話のこころ ︱よりよい人間関係を目指して︱ 家庭・勤め先・学校や自分を取り囲む環境の中で、いつも求められるものは、良い人間関係である。この 人間関係を築くには、自分と他者とが互いに心を開いての「対話」が不可欠である。 では、心と心の触れ合う対話は、どうすれば実現できるであろうか。対話に必要な心構えとは何か。真の 対話の基本的精神をみつめながら、その具体的方法について考えてみたい。 教授 藤 田 道 代 九月二〇日(土) 女、男、そして家族 二一世紀に入り、やっとと言おうか、とうとうと言おうか、政府の社会保証政策の家族モデルが、「共働 き家族」へ変化しようとしている。 女と男の関係はどうだろう。変わったようでいて変わらない、変わらないようでいて変わりつつある諸相 213 を観ながら、何とはなくザワザワしい世の中だからこそ、広がりを持った柔らかな関係としての、女、男、 そして家族について、一度考えて見ませんか。 教授 村 瀬 智 十月一八日(土) 民族紛争を考える 冷戦構造が終結して以来、世界各地で地域紛争が続発している。それらの多くは、国家と国家の紛争では なく、国家と民族の紛争、あるいは民族と民族の紛争である。 「文化」をキーワードに、国家と民族の関係などを検討しながら、民族紛争や民族問題を考えてみたい。 史的時間を共有する民族グループである。百年以上の歴史を数え既に三世四世の時代を迎えている人々が、 助教授 安 藤 幸 一 十一月一五日(土) 日 系アメリカ人の歴史から見た多文化共生社会の可能性 「日系アメリカ人」と「在日コリアン」 、この二つは、それぞれアメリカと日本と場所こそ違え、ほぼ同じ歴 自らをコリア系「日本人」と呼ぼうとしない日本の社会を考える時、その民族差別の重さを実感させられる。 それでは、日系米人が自らを「アメリカ人」と呼ぶ社会にはそうした差別がないのかといえば、日本以上に 厳しい現実があることはその歴史が証明している。しかし、それでもこうした民族グループが、まず自らを を感じることができる。この講演では、日系アメリカ人の歴史をたどる中で、自らの民族的ルーツに誇り 「アメリカ人」として発想するところに、異なった民族や文化的背景を持った人々が共生できる社会の息吹 学長 米 山俊直 を持った様々な人々による " 調和 ある "社会はどのようにしたら実現可能なのか考えていきたいと思う。 十二月二〇日(土) 文 明の調和に向けて 諸民族間、諸文化間の対立、摩擦、緊張、紛争が続き、テロとその報復にはじまった二一世紀であるが、 この世紀は地球環境問題をはじめ、貧困、飢餓、飢饉、諸文明全体の諸問題を、国家の枠組みを越えて解 決すべき課題が山積している。西欧中心の世界秩序が、諸文明の存在を前提にした、新しい枠組みで調和 を追及することが必要である。それにはどのような道筋があるだろうか。比較文明学の視点からこの点を 考えてみたい。 214 教授 川 口 宏 海 六月一九日(土) 一六・一七世紀における輸入陶磁器の受容と交流文化 一六・一七世紀の日本にもたらされた輸入陶磁器は、日本の生活様式にあわせて輸入されている傾向にあ います。 作 品 を 具 体 的 に 見 て ゆ き な が ら 一 九 世 紀 後 半 と い う 転 換 期 の ヨ ー ロ ッ パ と 日 本 の 関わ り を 考 察 し た い と 思 だしたのか、その真相を考える必要があります。今回の講座では、モネやゴーガン、ファン・ゴッホらの しかし影響という言葉はきわめて曖昧です。彼らがどのような時代に生き、日本の美術や思想に何を見い 教授 六 五月一五日(土) ジャポニズムの真相︱転換期のヨーロッパと日本︱ 人部昭典 印象派の画家や印象主義以後の画家たちは、浮世絵などの日本の美術から影響を受けたといわれています。 を考えるためのいい手本になるでしょう。 仮名、和歌、物語、能、俳句など、日本の誇る伝統文化はすべて熱心な異文化摂取の産物で、今後の日本 すぎません。むしろさまざまな異文化との交流や衝突のなかでこそ、文化の活気や魅力が生まれてきます。 り栄養分を吸収して育った「雑種文化」です。自給自足の「純粋文化」などというのはうぬぼれか錯覚に 学長 川 本 皓 嗣 四月一七日(土) 交流する文化の中で︱仮名から俳句まで︱ ひとくちにフランス文化、中国文化、日本文化などと言いますが、それらはどれも、外の世界からたっぷ 平成十六年度 総合テーマ『 交流する文化の中で 』 (本年度から講義録を発行) るが、文物を通じて中国文化や東南アジアの影響も受け、伊万里焼きの誕生にも繋がっている。また一方 では海外の遺跡で伊万里焼きが発掘されたり、寛永通宝が見つかるなどしている。これらのことにふれな がら、中国陶磁器及び東南アジア陶磁器の日本への流入の様相とその影響を探ってみたい。 215 教授 村 岡 健 次 七月一七日(土) 日本におけるキリスト教 幕末の開国と明治維新以後、日本の近代化は文明開化の名の下に西洋を範として進められた。そのさい有 力なスローガンとなったのが和魂洋才で、実際にもそのような形で多くの西洋の文物がわが国に移植され た。だがそのいっぽうで、西洋文化の魂ともいえるキリスト教も各教団の努力によって伝えられ、それな りに根づいていった。本講では日本の近代化という日本と西洋の文化交流を、和魂洋才の流れも念頭に置 きながら、むしろキリスト教伝播という側面から見てみようと思う。 九月一八日(土) スタンダード和英大辞典と編著者竹原常太 ︱ 米英文化の受容と日本 ︱ 教授 稲 積包昭 明治一二年岡山生まれの少年常太は小学校卒業後、神戸の私塾乾行義塾で英語を学び、旧外国人居留地の 商社での勤めを通し当時の和英事典の不備を痛感。二度のアメリカ留学で広く現地の文化を体験し、和英 事典編纂のため新聞・雑誌からの膨大な切り抜き、教科書を持ち帰った。これが後の大著、スタンダード 和英大辞典と旧制中学、女学校用の英語教科書となり実を結ぶ。本講座では、旧制神戸高等商業学校教授 竹原常太の英米文化の受容と日本文化、特に古典芸能への傾倒の過程を観察しながら異文化接触の一つの 例を探る。 教授 鈴 木 亨 十月一六日(土) 憂き世と浮き世︱価値観の対立と融合︱ 中世末期から近世初頭にかけて、日本は激動から安定への意識改革をなしとげた。その底流には、極めて 躍動的な人生観・世界観の交流があった。この世を「憂き世」と見るか、「浮き世」と見るか、それぞれ がどういう文化を創出し、どういう精神で時代をリードして行ったのか。その果てに望見されたのはどう いう世界であったのか。その様なことを、当時の文学・宗教の側面から推察して見たい。 講師 平 川 大 作 十一月二十日(土) 翻 訳/劇 演劇は文化を交流させる理想的な装置です。特に翻訳劇の実践において、世代的/民族的諸文化の交流が、 216 舞台の上と外でどのように発生するのか、拙訳の戯曲をとりあげて具体的に紹介いたします。また、演劇 大学院文学研究科長 松 村 昌 家 の歴史を振り返りつつ、翻訳という文化的行為と演劇という表現が本質において分かちがたい関係にある ことを示したいと思います。 十二月一八日(土) ロ ンドン万国博覧会場の幕末使節団 ︱ 日英交流の幕開き ︱ 一八六二年五月一日に行われた第二回ロンドン万国博覧会開会式には、欧米諸国からの貴賓列席者の群に 混じって、七人のサムライの姿があった。幕府から派遣された日本最初の訪欧使節団の代表者たちであっ た。髷をつけた頭と紋付羽織袴に大小といった彼らのいでたちが、ひときわ異彩を放って注目の的になっ たことは容易に想像されるが、西欧貴賓たちの正装姿もまた、彼らの眼には奇異に映ったに違いない。万 博開会式という晴の舞台における東西の異文化交流の一幕であったのである…。 日本側の資料ばかりでなく、イギリス側の資料を幅広く活用することにより、イラスト入り幕末遣欧使節 団のイギリス往還記の一説をまとめてみたいと思うのである。 教授 切 畑 健 四月一六日(土) おかしみ=ゆとりの表現 ︱ 中世の絵巻に見る日本人︱ 一般の日本人はまことに「融通」のきかない、 「謹厳」をもって最上最高とし、 「自己表現」の不得手な、むし 平成十七年度 総合テーマ『笑いと文化』 ろそれをあえて控える民族であると、現在でも国際的に信じられているのに出くわし、驚くのである。い かにも大声をあげて笑うことや笑いとばすことはまれでも、しかし生活や芸術の基本の部分に、豊な「おか しみ」を感受し表現する、きわめて繊細な感覚の存在を無視することはできない。それをまた「ゆとりの 表現」と考え、本講では特に中世の絵巻の中にその片鱗をうかがい、日本人の本質にせまることを試みる。 217 五月二一日(土) 笑い ≠マンガ 教授 加 藤一彦 (モンキー・パンチ) 風刺漫画、四コママンガなど読者を「笑わせる」マンガもある。かつてはそれが主流を占めていた時代も あった。今も、笑えるものがマンガである、と知らずに知らずに定義してしまっていることはないだろう か。じつは日本文化を代表する「マンガ」には「笑い」だけが描かれているわけではない。むしろ、その 世界にはヒューマニティ溢れるストーリーが展開している。あらためて現代マンガ文化を探訪していただ きたい。 六月一八日(土) 「お笑い」の文化経済学 ︱ コンテンツ・プロデュースとしての「吉本興業」研究︱ 教授 吉 田順一 「お笑い産業」の成長を、既存の経済理論の枠組み(ソフト産業論)から実証するのではなく、情報消費 と文化生産、経済の文化化という文脈の中で、「情報コンテンツとしてのお笑い」の意味を分析します。 「大衆性」という鍵概念は、例えばP・ブルデューの説く「文化資本」と、どのように関係するのか。あ るいは、お笑いコンテンツは、デジタル技術を使って大量複製が可能なのか。「人がヒトを笑わせる」こ との経済・市場価値を再考してみましょう。 教授 鈴 木 亨 七月一六日(土) 茶化し ︱ 複眼の文化 ︱ 日本人は、俗にテンション民族と言われる程、ひたすらに全身全霊を傾注して目的を追求し、所期の成果 をあげることを好む。そのために脇見、手ぬき、遊び、不誠実を嫌い、注意の散漫を憎む。しかし、そう いう単眼文化に対し、豊かな複眼文化も存在する。特に近世文学はその宝庫である。 通常不まじめで低俗、非生産的なものとして軽視されている「茶化し」も、その重要なひとつ。実例を通 じてその効用を探る。 218 講師 平 川 大 作 九月一七日(土) 喜劇「破壊と結合、あるいは、笑う文化と笑われる文化」 明くる年の話に耽れば鬼が笑うとは世に知られた金言なれど、客席を埋める鬼の破顔こそ、まさに古今東 西喜劇作家の見果てぬ夢と言うべし。何となれば計算とまぐれの子にして、あるときは世間を束ねる帯、 あ る と き は 権 威 と 実 存 の す べ て を な ぎ 倒 す 暴れん 坊 た る 笑 い の 鬼 神 を 幕 開 き の 前 年 に と ら ま え る の は 至 難 の業であるがゆえなり。解説者たる小生も先達の実作者に倣いて、まずは演名のみにてご容赦を乞うとこ ろ(平成一六年秋に記す)。 助教授 松 浦 典 弘 十月一五日(土) 中国明代後期の世相と笑話 中国の明という時代(一三六八︱一六四四)は、その初期においては強い皇帝権力のもと厳しい思想統制 が行われたが、中期以降は政治体制が著しく弛緩する一方で多様な文化が花開いた。特に都市の庶民の間 における世俗的な文学の発展には目覚しいものがあり、儒教的思想に基づく伝統的な価値観を嘲笑するよ うな現象さえ見られる。本講では明朝の政治史を概観した上で、いくつかの笑話を紹介し、それが生み出 された時代背景について考えてみたい。 助教授 久 木 一 直 「笑い」を彫刻にする 十一月一九日(土) 彫 刻された「笑い」と、 カルポー作のパリオペラ座の有名な彫刻「ダンス」に見られる「笑い」の意味を検証し、何故に「歓喜の 笑い」の彫刻表現が、一般市民に非道徳的だと非難され、顰蹙と怒りをかったのかを明らかにしたい。さ らにウードン作の肖像彫刻、思想家ヴォルテールの「理性の微笑」とは何か?古代ギリシア彫刻の所謂 を彫刻にした体験から、形態の意外な事実についてもお話ししたい。 学長 川 本皓嗣 「アルカイック・スマイル」の意味するところは何か?スライドを見て頂きながら示したい。また「笑い」 江戸中期、一八世紀半ばに興った川柳が、高度に洗練された諷刺文芸・ユーモア文芸として、世界でも類 十二月一七日(土) 川 柳は何をどう笑ったか 219 のない高みに達していることは、どれほどよく認識されているだろうか。川柳は大衆向けの懸賞文芸、匿 名の町人・武士による素人芸に過ぎないが、ひと月の応募句が時に一万を越えた。江戸人の人間観察と句 作の圧倒的なエネルギーを想起しながら、とびきりの秀句を楽しんでみよう。 についても検討の対象とする。 キ グォン 教授 張 六月一七日(土) 韓国を愛し、韓国人から愛された日本人︱浅川巧の生涯︱ 起 權 植民地支配下の韓国で、韓国の自然と文化を敬愛し、韓国人の心の中に生きた日本人がいる。厳しい時代 チャン いての研究動向なども紹介したい。また、その後の日本仏教の展開に多大な影響を及ぼした入唐僧の事跡 本講座では遣唐使の派遣をめぐる問題を中心に取り上げ、一昨年発見された遣唐留学生井真成の墓誌につ 助教授 松 五月二〇日(土) 唐代における日中交流 ︱海を渡った人々︱ 浦典弘 古代の日本は国家建設に当たって、制度や文化など多方面にわたって唐代中国の影響を強く受けてきた。 はたまた『昼寝』のチャーチルか。二〇世紀文化の中でのかれの活躍を活写する。 者歴史家としてのかれか。チャーチル会の主人画家としてのかれか。葉巻を銜える貴族としてのかれか。 魅力は何か。ヒトラーに勝利した政治家としてのかれか。ノーベル賞受賞作品『第二次大戦回顧録』の著 教授 鈴 木 利 章 四月一五日(土) 宰相ウィンストン・チャーチルと二〇世紀英国文化 英国で行なわれる歴史上の人物の人気投票で、常に上位を占める偉大な宰相ウィンストン・チャーチルの 平成十八年度 総合テーマ『人と文化』 背景の中で理不尽に虐げられた韓国の人々と心の交流を育み、韓国人から最も愛された日本人、浅川巧。 林業の仕事で韓国に渡った彼は、森林の回復に尽力する傍ら、韓国の陶磁器や膳の美に魅せられ、韓国の 220 風土と民族をこよなく愛した。この知られざる偉人の生涯をたどりながら、真の日韓友好と文化交流につ いて考える。 翠 七月一五日(土) モダンデザインのパイオニア今竹七郎 ︱ 文明開化・二〇世紀文化・デザイン ︱ 教授 今 竹 港町神戸は横浜と並び明治期から西洋文明の影響を強く受けた。日常生活環境にもそれは顕著で、外国人 向けに東遊園地が設置され、今日の公園の原型を形作っている。このまちに一九〇五年生を受けた七郎は 幼少期から青年期までを神戸の中心地で過ごした。それは七郎の生活文化の基盤となっただけでなく芸術 活動への始点となったことは明らかである。未開拓であったデザインと画業の両方に生涯全力を傾けたそ の軌跡をたどる。 助教授 小 林 基 伸 九月一六日(土) 戦国時代の女性像 戦国時代の女性と聞いて思い浮かべるのは、政略結婚の犠牲となって迎える悲劇的な最期だろうか。しか し、いったん史料をひもとけば、この時代を主体的に生きた女性達が姿を現す。この講座では、「鬼瓦」 と呼ばれた女性守護洞松院尼を中心に、戦国時代の女性の実像を探ることにする。あわせて、「山内一豊 の妻」など、現在の私たちが思い描く戦国女性像がなにに由来するのかも考えてみたい。 教授 厳 十月二一日(土) 魯迅「藤野先生」を再読する 安 生 日本の一部国語教科書にも採られたりする表題の作家作品をご存知の方も多いと思うが、この一文に極め て豊富な示唆が含まれる。清朝末期に興った日本学習ブームに生れた中国近代きっての文豪・思想家であ る魯迅は、しかしブームとはおよそ無関係の冷徹さで以てこの過程に現れた中日双方の文明史から国民精 神上の問題性を突き、上述位相の彼の出発点たらしめたばかりでなく、教訓が今日にも及んでいることを 説いて皆様と交流したい。 221 教授 水 口 薫 十一月一八日(土)「映画監督 伊藤大輔の美意識」 日本映画の黎明期、東京の現代もの「新劇」が女優を使う等新しい試みをするのに対して、京都は男性役 者女形が演じ、立ち回りは舞台のままの時代もの「旧劇」映画が作られていた。築地小劇場の小山内薫に 師事、脚本家から映画監督になった伊藤大輔は、時代ものに女優を起用、映画にリアルな演技と思想を持 教授 平 川 弘 ち込み、「時代劇」という新しいジャンルを築き、サイレント映画に変革をおこした。その変革と美意識 について述べる。 十二月一六日(土) ハ ーンとお地蔵様 アイルランド人の父親に捨てられ、ギリシャ人の瞼の母とも別れたラフカディオ・ハーン (1850-1904) は、 合いの子としてダブリンで辛酸を嘗めて育った、来日して日本には子供を大切にする文化があり、子供を 護ってくれるお地蔵様がいることに気づき、それがハーンの日本文化論の通奏低音となった。小泉八雲と して日本人に愛されるハーンの心根をお地蔵様との関係で解き明かす。 教授 鈴 木 利 章 四月二一日(土) 巡礼に見る人・歴史・文化︱熊野古道とサンチャゴへの道︱ 道で世界遺産に指定されているのは、現在では、わが国の熊野古道と、スペインのサンチャゴ巡礼路しか 平成十九年度 総合テーマ『旅 ︱ 人・文化・歴史を求めて︱』 ない。最近とみに整備され、復活してきた熊野古道と、中世より現在まで連綿と続いているサンチャゴ巡 礼路を例にとり、鎌倉初期の歌人藤原定家の『熊野御幸記』と足利義満側室北野殿の『熊野詣日記』と、 一二世紀の『サンチャゴ巡礼案内記』を基礎に両者の比較も視野に入れ、人・歴史・文化にまつわる様々 な物語をお伝えしたい。 222 准教授 松 五月一九日(土) 入元僧邵元の事跡 浦典弘 モンゴル支配期(元代)の日中関係に関しては、二度にわたる元寇のイメージが強く、疎遠であったと考 えられがちであるが、実際には盛に貿易が行われ、また留学や巡礼を目的に多くの僧が中国へ渡った。今 キ グォン 回は、元朝支配下の中国を訪れ、名刹少林寺・霊巖寺に撰文した石碑を残す留学僧邵元の事跡を中心に、 日本と元の関係について述べてみたい。 チャン 教授 張 六月一六日(土) 韓国の放浪芸人と伝統芸能の世界 起 權 広大(クァンデ)、男寺堂(ナムサダン)といった韓国の旅芸人をご存知でしょうか。韓国の代表的な伝 統芸能、タルチュムやパンソリなどは、これら放浪芸人によって演じられ、伝授されてきました。笑いと 恨(ハン)に満ちた放浪芸人の哀歓に触れながら、韓国の伝統芸能の世界を旅してみませんか。話題の韓 国映画、「王の男」や「風の丘を越えて」のワンシーンを交えながら、ご案内します。 教授 高 橋 正 明 七月二一日(土) 路地裏観光の楽しみ ︱ 中国・チベットの場合 ︱ 世界遺産、名所旧跡などその土地の有名な観光地を巡るのも、旅の大きな楽しみである。一方で生活のエ ネルギィーあふれる市場、庶民の行く食堂、住まい、迷路のような裏通りを歩くのも心が躍るものである。 このような、案内書では得られない裏の観光は知的好奇心を刺激する旅の醍醐味であろう。この講義では 中国・チベットのトイレ、住宅、物価など庶民生活に焦点を当てながら路地裏をめぐりの観光の扉を開い てみたい。 教授 貝 柄 徹 九月一五日(土) エコツーリズムの歴史と現状 一九八〇年代初頭、リサイクル、自然保護運動、地球環境や生態系の保全といった環境を重視するなかで 観光形態が多様化し、新たな観光旅行の形が生まれた。それまでの団体旅行型、主要観光地を巡るマスツ ーリズムから、「秘境」探訪、動植物の観察を中心としたスタディーツアー、ネイチャーツアー、植林・ 223 井戸掘削などのボランティアツアーなどが創出されてきた。こうしたエコツーリズムの歴史的変遷と現状 の検討を試みる。 教授 小 林 宣 之 十月二〇日(土) 一九世紀のパリを歩く ︱『パリの悪魔』を素材に ︱ フランスの首都パリは今なお観光スポットとして衰えぬ人気を誇っていますが、今回は少し趣向を変えて、 まだエッフェル塔もなく、凱旋門も出来たてホヤホヤだった、今から一六〇年ほど前の花の都をご案内し ます。ガイドをつとめる『パリの悪魔』(一八四五︱一八四六)は当代一流の作家と版画家の合作になる 挿絵本ですが、パリ風俗を文章と映像の両面から再構成しようという野心的な意図で制作されました。つ 教授 森 道子 224 かの間のタイム・トラベルをどうぞ。 教授 村 瀬 智 十一月一七日(土) フ ィールドワークとわたし 文化人類学は人間の文化、つまり人間の考え方、行動の様式を深く研究することをめざす。そのため研究 者自身が、ある特定の地域、社会、状況のなかで生活する人びとを訪れ、フィールド(現場)のまっただ なかに自分の身を置きながら、人びとの生きざまをじかに学びとって記録し、まるごと理解しようとつと ・フォースターと川端康成 ︱ める。この作業が、文化人類学でいうフィールドワークである。フィールドワークの実際がどのようなも ・ のか、私自身の経験をもとに話したいと思う。 人であった。 説『天使も踏むを恐れるところ』と『雪国』を取り上げる。その作者フォースターも川端康成も生粋の旅 普及によって、旅が大衆化された二〇世紀初頭の、異郷・異文化との出会いを描く、イギリスと日本の小 旅行記として、あるいは、文学作品として、古今東西、数多くのものが残されている。ここでは、鉄道の 旅の目的は多種多様であり、その形式も変化に富む。旅人もさまざまである。その記録は、歴史書として、 十二月一五日(土) 旅 の小説 ︱ M E 准教授 六月二一日(土) 仁清の茶壺 岡 佳子 仁清は江戸時代前期の京焼の名工である。現在、仁清の作品のうち、二点が国宝、一九点が重要文化財に りまえの使用の中に、その魅力を再発見していきます。 しの中でとくに意識されることなく用いられている日本語について考えたいと思います。日常言語のあた す。しかし、これらは日本語のほんの一側面にすぎません。ここでは、外国人の視点を借り、日々のくら ど、日本語を母語とする人たちでも難しいと思うような規範的なことば遣いに注目が集まっているようで 准教授 木 五月一七日(土) 外国人の目からみた日本語 下りか 書店に足を運ぶと、日本語に対する関心が近年とみに高まっているように見うけられます。とくに敬語な に、私たちが日々の生活においてできることを共に考えてみたいと思います。 びながら、日本において多様な文化が共に存在し、互いから学びあうことができるような社会を目指す為 まれた時代を迎えているのだろうと思います。この講座では、アメリカの多民族・多文化社会の実例を学 つ人々が日本に住み、異なった文化が目に見える存在として私たちの前に現れてきたという意味では、恵 教授 安 藤 幸 一 四月一九日(土) 多文化共生社会を考える ︱ アメリカという国から見た日本 ︱ 私たちは自分と異なった人々を「鏡」として「自分」を発見していきます。今、多くの外国にルーツをも 平成二十年度 総合テーマ『くらし ︱ ことば・文化・環境 ︱」 指定されている。うち九点が丸亀藩京極家に伝来し、大半は華麗な色絵茶壺である。この茶壺が、どのよ うな経緯で制作され、どう大名家で使われたのか。そして美術品としてなぜ高い評価を受けるようになっ たのか。王朝の雅の京文化のなかに生まれた仁清の色絵茶壺の謎を解き明かす。 225 准教授 尾 﨑 耕 司 七月一九日(土) 神戸の財界人金子直吉の手紙を読む 戦前、神戸には鈴木商店という、全盛期には三井や三菱と「天下三分」の形勢をなしたとまでいわれる商 社があった。その支配人で実質的に経営の切り盛りをした金子直吉は、同時代の政治家・後藤新平に宛て て多くの手紙を残している。なかでも大正期に書かれたものの中には、孫文や袁世凱のような時代を彩る 人物が登場し、当時の政治状況をリアルに伝えてくれるものもある。本講座では、この手紙を読みながら、 当時の都市神戸をめぐる政治文化について考える。 教授 稲 積 包 昭 九月二〇日(土) 『とんがり樅の国』が予言した人々の生活 一九世紀後半に活躍したアメリカの作家の中に、「地方色作家」と呼ばれた一群がいます。大陸横断鉄道 ・ジュエットの作品を手がかりに、く 226 の完成や電信・電話の開設、都市の発達によって、一九世紀後半のアメリカはめまぐるしいほどの社会変 ・ 化を遂げました。ニューイングランドに暮らし、この急激な変化の中での人々の暮らしぶりや物質文明に よって破壊されていく自然の保護に人々の目を向けた作家、 らしと環境問題の原点を考えていきます。 准教授 川 窪 広 明 十一月一五日(土) 住 まう文化・住まう環境 私たちが暮らす関西には、歴史ある町並みや建物が数多く残されているため、まちなみ保存活動、まちづ ワードになる。一九六〇〜七〇年代の現代美術の展開とその思考を、作品画像を観ながらたどりましょう。 況を設定して、そこに相対的な価値を認識せしめるのである。この講座では美術の純粋化とことばがキー コンセプチュアルアートはことばを介した問いかけである。ものとしての作品を造るのではなく、ある状 ばから遠ざかる。一九六〇年代のモダニズムが最たるものであろう。一方、一九六〇年代後半に起こった 教授 山 田 信 義 十月一八日(土) 美術の中のことば 一般に造形美術は日常のことばとは違う造形言語で語るといわれている。美術は純粋化がすすむほどこと O S くり活動が各地で盛んに行われています。しかし、活動というほど気合いを入れなくても、散歩の時にち ょっと目線を変えるだけで、今まで気づかなかったまちの一面や人々の暮らしのにおいを発見できます。 教授 二 階堂達郎 本講座では、関西におけるまちづくり活動や「気楽なぶらぶら歩き」を通して、住まう文化と住まう環境 について考えてみたいと思います。 ︱ 消費社会の過去、現在、そして未来 ︱ わたしたちの消費生活は、戦後の経済成長を経て大きく変貌してきた。衣服に始まり家電製品や自動車な 十二月二〇日(土) わ たしたちの消費生活と消費文化を考える どに至る消費財や、宅配・外食・コンビニなど消費者向けサービスのめざましい普及を経て、成熟した消 費社会が出現したと言われるようになって久しい。こうした消費生活の変化がいかなる社会的背景の下で 起こり、どのような消費文化を生み出してきたのかを振り返るとともに、その現状と行方について考える。 227 平成二十一年度 社会連携委員会委員 委員長 平 川 大 作 (メディア・芸術学部 准教授) 島崎千江子 (大手前短期大学 准教授) 尾 﨑 耕 司 (総合文化学部 准教授) 今 福 章 代 (メディア・芸術学部 准教授) 教授) 仲 野 好 重 (現代社会学部 蘆 田 秀 昭 (現代社会学部 教授) 委 員 (五十音順) 編集 大手前大学 総合企画室(公開講座担当) 228 時空をこえて −変貌する社会と文化− 発 行 日: 2010年3月31日 編 集: 大手前大学 総合企画室(公開講座担当) 発 行: 大手前大学 〒662‐8552西宮市御茶家所町6‐42 電話 0798‐34‐6331(代表) 表紙デザイン: 廣田政生 印刷・製本: 株式会社 興正社
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