愛と信頼で子どもは育つ

愛と信頼で子どもは育つ
坂本洋子
わたしは東京の八王子で里親をしています。
東京都では、里親のことを養育家庭制度といいますが、全国では養育里親と呼ばれてい
ます。
東京都の養育家庭制度とは、養子縁組を前提としないで、一定の期間(1か月〜2年)、
里親が委託を受けて実親の代わりに子育てをしていく制度です。短期委託といって数
か
月のこともありますが、長期委託で2年ごとに更新して、児童福祉法上の児童ではなくな
る18歳まで更新をつづける場合が大半です。
親の離婚、病気、虐待などのために、社会的養護が必要になった子どもたちの多くは、
乳児院や児童養護施設で生活することになるのですが、養育家庭制度は、心身ともに成長
期にある子どもたちを家庭で健全に育てたいとの考え方のもとにつくられた制度なのです。
施設養護と家庭的養護の2つを、家庭で育てられないお子さんを社会に代わって育ててい
くということで社会的養護ともいいます。
教員の方々、お母さま方たちなど、いろいろな方たちに、わたしたちの子どもがどのよ
うな思いで毎日暮らしているのか、どのような思いで学校に通っているのか、学校でどの
ようなことを味わっているのか、ぜひ知っていただきたいと思います。
19年間で10人の子どもを育てる
わたしは19年間、里親をしています。何もわからず20代で里親になってから47歳
になったいままで、10人の子どもを育ててきました。
1985年にわたしは里親として登録しました。当時20代での里親は東京ではいちば
ん若く、行政の方もこんな若くて里親ができるのだろうかと心配そうでした。
この19年間なだらかな道を歩んできたわけではありません。ほんとうに険しい道でし
た。里親をやめたいと思ったこと、涙したことは数えきれないほどありましたし、現在も、
子どもたちと格闘の毎日です。
現在わたしには6人の子どもがいます。19歳の専門学校に通っている女の子(元里子)
と5人の小学生です。この5人の小学生のうち、1人は養護学校の小学部に、もう1人は
心身障害児(心障)学級の併設されている小学校に通っています。残りの3人は地域の小
学校に通っていますが、そのうちの1人は近々心障学級に移る予定です。
この5人の小学生のなかで障害がないのは1人だけです。ADHD(注意欠陥多動性障
害)の子が2人おり、発作をおさえる薬を飲みながら暮らしている子どももいます。
6人の子どものなかで、親がはっきりわかっている子どもが3人で、親御さんとも面会
しています。残り3人の子どものうち1人の親は名前はわかっていますが所在不明で、あ
との2人の子どもの親は、子どもに会う気持ちもなく、子どもを虐待するような状況です。
わたしたち夫婦は、虐待されている子どもや知的障害の子どもなど、さまざまなハンデ
ィをもった子どもたちを育てています。
大きな反響を呼んだドラマ「ぶどうの木」
わたしの夫は、東京都の養護学校で校長をしています。本人が望んで校長になったわけ
ではありません。わたしが「ぜひ校長になってほしい。あの管理職とたたかうためには、
あなたが校長になるしかない」と頼みました。夫は現場に残りたいと言いましたが、なお
も「自分からなりたくてなる校長なんかいらない。ふさわしい人に校長になってほしい」
とわたしは夫を説得し、やっと夫は養護学校の校長になりました。
東京都と東京都教育委員会の教育現場にたいする締め付けが最近急に強くなってきてお
り、夫はほんとうにつらい毎日をすごしています。夫をこんなにつらい目にあわせている
原因をつくったのがわたしなので、申しわけなく思っています。夫は自分の思いを殺しな
がら毎日学校で生活しており、かわいそうなことをしてしまったと思っています。
わたしが「ぶどうの木」(幻冬舎刊)という本を書き、その後、その本がドラマ化され、
里親としての経験をみなさまにお話して、里親制度のことを広く伝えることができるきっ
かけをつくっていただいたのが石原慎太郎都知事です。
この19年間、わたしは行政にたいして、つねに物申してきました。「おかしいことは、
おかしい」と言いつづけることが、わたしのモットーでした。また、この子たちのために、
誰かが代弁者とならなければならないと承知していましたので、たたかれようが、つぶさ
れそうになろうが、無視されようが、行政にたいして自分の意見を主張してきました。
そんなわたしのところに、いつしか東京都の職員が来るようになり、最後に石原都知事
が訪ねてこられました。そして里親として子どもを育てるなかで、経験したこと、感じた
こと、思っていることをお話したところ、都知事は涙をうかべて聞かれていました。
最後に都知事が、
「坂本さん、これは本にして残さなければならない。この制度を知らせ
ることがまず大事なことです」と言われて、出版社を紹介され「ぶどうの木」を発行する
ことになりました。
2003年11月に「ぶどうの木」がフジテレビでドラマ化され、わたしの役を松下由
樹さんが演じられました。ドラマの反響は非常に大きく、いまだに「ぶどうの木」のウェ
ブサイトがインターネット上にあります。
「ぶどうの木」のウェブサイトには、さまざまな人の書き込みがあります。
「高校の授業でこのドラマを見ました。わたしの学校は男子が非常に多い学校ですが、
たくさんの男子が泣いていました。ほんとうに感動的でした」
「わたしは小学校のときに親を交通事故で亡くしました。この世の中でこんなにつらい
思いをしているのは自分だけかと思っていましたが、そうではないということがわかりま
した」
「わたしも里子であるけれども、2人の子にいじめられていました。でもあのドラマを
見たためか、いじめをやめてくれました。ありがとう」
わたしは多くの方々の言葉に感謝しながらウェブサイトの書き込みを読みました。反面、
幼い小学生がインターネットに気軽に書き込みをする時代になったことに、別の意味で驚
異を感じています。
ドラマ「ぶどうの木」は、夜の9時から11時の放映でしたが、その時間にドラマを見
ていた小学生がいたということにも驚きました。ちなみにうちの5人の小学生は、8時に
は寝てしまいます。ですから、わたしの家では夜遅いドラマを見ることは考えられません。
まわりの無理解で荒れる子ども
19年前、最初にあずかった里子は男の子でした。この子どもの役をドラマのなかでは
人気俳優の山下智久さんが演じられました。
ドラマでは、彼は北海道でバイク事故にあい、死ぬようになっていましたが、実際は、
横浜のコンビニエンスストア前での事故で亡くなりました。ドラマは美しくつくってあり
ますが、わたしたちが日々営んでいる現実は、非常にすさまじく重いものがあります。
この子どもはお母さんは誰かわかっていましたが、彼が亡くなる前の年にお母さんは亡
くなったので、お父さんについては誰も知る人はいませんでした。
彼がうちに来たのは、3歳と2か月の頃です。わたしたち夫婦は彼を最初の子どもとし
て、とても大事にしました。彼にとっても初めての家庭であったので、とても幸せに感じ
てくれました。
3歳のときに、わたしたちが「これからずっとこの家にいていいんだからね」と言いま
したら、「じゃあ、お父さん、お母さんが、そう思わなくなったら、ぼくはどうなるの?」
と聞いてきました。彼はそれくらい繊細な感情をもっていたのです。
その繊細な子がだんだん大きくなるにつれて、自分と人との違いを感じるようになりま
した。そして、学校のなかで彼はだんだん荒れていくようになりました。彼が施設から来
たということは、ご近所の方も知っていますから、彼がちょっと何かしただけで、
「あの子
は施設から来たから、ああなんだ」と言われます。わたしたちにたいしても、
「ほんとうの
親ではないから、あの子はこうなったんだ」などと言われました。
人間というのは、いったん人から悪く言われ始めたら、坂道をころがっていくようにと
められなくなります。それがわたしたちのその当時の現実であり実感でした。
たとえば、給食のときに、1人の子どものまえでうちの子がおもしろいことを言ったた
め、その子どもがぷっと牛乳を吹いたということがありました。するとその子のお母さん
が、お怒りになるということがありました。ちょっと何かいたずらをしたというだけで、
親御さんはお怒りになり、逐一といっていいほど抗議されてきました。毎日が「施設から
来た子」というレッテルを貼ったすさまじい区別
・差別の嵐でした。
小学校1年生に上がって、すぐそのような状況でしたので、これから長く同じようなこ
とがつづくくらいならば、転校させようと夫と相談して引っ越しました。
引っ越した当初は、担任の先生が理解され、いろいろ問題はおこっても親身になってと
りくんでくださいました。
2年生になり担任の先生がかわって、彼にたいする理解がなくなると、まわりの子ども
たちも手のひらをかえすように、彼にたいする態度がかわってきました。
担任の先生から毎日のように、わたしにトラブルの連絡がありました。
ある日「いま、お友達を廊下に寝かせて、そのうえを歩いています」という電話があり
ました。わたしが、
「どうしてそんなことをしているのでしょうか?」と聞いても、
「さあ?」
とお答えになるだけなのです。
「さあ?」ではなくて、なんで子どもがそんなことをしたの
か、それをきちんと把握して指導するのが先生だと思います。それをしないで、ただ状況
を連絡してこられるというのは、非常におかしいことだと思いました。
その後も親御さんたちの苦情がだんだんエスカレートしていき、親御さんたちが教室の
なかにはいってくるようになり、自分の子どもとうちの子が接することができない状況に
なってきたのです。うちの子どももそれを敏感に感じましたので、ますます荒れていきま
した。
わたしはあまりにも状況がひどくなったので、
「お母さんが学校に行ってきて先生に言う
よ」と言ったところ、「お母さん、行かなくていいよ。あの人たちは、言ってわかる人たち
ではないから、つらい思いをするのは母さんだよ」。この子は、このように言いながら、わ
たしを守ろうとしました。
保護者会に行くと、かならず「坂本さん、ちょっと残ってください」と担任に言われ、そ
して担任から彼についての苦情がだされます。
それにたいしてわたしは、彼の生い立ちについて説明し、
「彼を特別にしてほしいとは言
いません。ただもっと彼にたいする理解をしてほしいと思います」と言いました。
「彼は生まれてから、一度もお母さんのおっぱいを吸ったことがありません。一度も抱
かれたことがありません。一度もいっしょに暮らしたことがありません。乳児院のベッド
に寝かされて大きくなりました。
保母さんたちも人数が少なく、子どもをずっと抱いて哺乳瓶をもってあやせる状況では
ありません。タオルを顔のところにおき、哺乳びんが倒れないようして乳首を赤ちゃんの
口にあて1人でミルクを飲むようにし、授乳が終わるころ、
哺乳びんを取りにくるのです。
そのように育った子どもたちは、自分の感情をだしたり、相手から愛情をうけたりする
経験がなかったことを理解していただきたいのです」。
浪花節なにわぶし的なところではわかってくださいますが、現実的にこの子のことを深
く理解し、彼のために具体的な方策をとるということはありませんでした。
先生方からいつも言われたのは、
「お宅のお子さんだけを特別にあつかうことはできませ
ん」ということでした。
そして校長先生は、
「この子が何か特別なことをおこしたときに、最終的な責任を誰がと
るのですか?」と発言をされました。またこの子の出自について質問がありました。しか
し、子どものプライバシーに関して、里親は口にすることはできません。
「それは、お答え
できません」と言っても、根掘り葉掘り聞かれるという状況でした。
とうとう最後にはうちの子どもは、学校に行ける状況ではなくなりました。登下校まで
親御さんがついてくるようになり、いろいろなことを直接子どもに言ってきたのです。子
どもはますます荒れていくしかありません。
わたしたちは、緊急避難として子どもを休ませるという方法をとりました。ところが十
数年前には子どもを休ませるというのは、わたしたち里親がしてはいけないことだったの
です。
いまは不登校の子どもがふえ、学校に行かないということも認められるようになってき
ましたが、その当時は、そうではありませんでした。
「保護者でもなく、ただのボランティ
アで育てているのに、あずかった子どもを学校に行かせないというのはなにごとだ」と言
われたのです。
わたしたちは、子どもを守るために、
「学校を少し休む」という最後の手段を選びました
が、それがわたしたちを攻撃する材料となって、結局行政に子どもを取り上げられてしま
ったのです。
わたしたち親子はほんとうに愛しあっていました。彼もこの家にいたい、わたしたちも
いさせてやりたかった。でも彼は「児童養護施設のようなプロのいるところで育てる」と
いうことで、わたしたちの家からでていかざるをえなかったのです。
学校には子どもの荷物がたくさん残っていましたので、夫が取りに行きました。夫は玄
関のところで教頭先生から、
「そこで待っていてください」と言われ、なかにはいらせても
いただけませんでした。そして教頭先生が荷物を夫に渡しながら、
「どこの施設に行きまし
たか?」と聞くので、これこれのところだと言うと、
「ああ、近いなあ。半年くらいこのへ
んに近づけないように」と言ったのです。
あろうことか、この教頭先生がのちにわたしの学区の校長先生として赴任してきました。
そのとき、わたしは目の前がまっくらになりました。
何人目かの子どもがうちに来たときに、
「この子が新しくうちの里子になりました。よろ
しくお願いいたします」と子どもを連れて学校にあいさつに行きました。すると、その校
長先生は、
「この子は乱暴ではありませんか。施設から来た子どもは、乱暴な子が多いから」
と平気で言われるのです。ほんとうにため息がでます。
幸か不幸か、この子どもは礼儀正しく気持ちのいい子どもで、校長先生のご期待にそえ
ず、毎日元気に学校に通っています。
この校長先生は、この4月に異動して他の学校に移りました。
「親でもないくせに」「親のくせに」
最初にあずかった子どもは、わたしたちの家から施設に移り、プロのいる施設で育てる
ことになりましたが、この措置が正しくなかったことが、数日で明らかになりました。
わたしたちは早くから、彼がADHDだということはわかっていましたので、そのため
の服薬をさせてほしいと施設や東京都に申し入れていました。しかし当時、ADHDにつ
いての認識は、いまほど広まっていなかったので、
「親でもない人間が、子どもに薬を与え
ようというのはなにごとか」とはっきりと言われました。
あるときには「親でもないくせに」
、またあるときには「親のくせに」とよく言われます。
いったい里親であるわたしたちは何ものなのでしょうか。この言葉はわたしたち里親の社
会的地位のあやうさを示しています。同時にそれは、里子である子どもたちのあやうさで
もあるのです。わたしたちがそれだけの存在でしかないから、子どもたちもそのような存
在でしかないのです。
最初の子どもは、小学校4年生で、現在自立支援施設と呼ばれている教護院にはいり、
そこから中学校に通学しました。しかし、彼は中学校から高校に進学するとき、
「どうして
も教護院にいるまま、高校にすすみたくない。もうこれ以上ここにいるのはいやだ」と思
いました。
教護院というところは、一度逃げて実親のところに戻ってしまえば、そこから連れ戻さ
れることはないそうです。しかし、彼には逃げる場所もありません。どんなにわたしたち
のところに逃げてきても、それは他人の家なのです。その後、ご配慮によって、休みのと
きには、わたしたちの家には帰れるようになっていましたが、それでもほんとうの親では
ないということで、彼を引き取ることはできませんでした。
結局彼は教護院をでたいがために、高校進学をあきらめました。しかし、彼がその後幸
せに生活できたかというと、そうではありません。親がおらず、中学卒の15歳の子ども
を働かせてくれるようなところはそうそうありません。
教護院の先生がやっと見つけてくださった働き口も、1週間でやめてしまいました。そ
の後彼はティッシュ配りや、危ない仕事もいろいろしたようです。まじめに仕事を見つけ
ようと決心して、ハローワークに行っても誰も相手にしてくれません。
「俺はどうしたらい
いんだろう」と途方に暮れてしまいました。ほんとうにかわいそうなことです。
どうしてこんな子どもがいるのでしょう。この子たちに何の責任があるのでしょう。な
ぜこの子たちはこんな思いをしなくてはいけないのでしょうか。どうにもできないむなし
さに、わたしたち親子は苦しんでいました。
彼は何度も「この家に戻りたい」と言いました。そしてわたしたちは「定職について戻
っておいで」と、彼を励ますつもりで言っていました。
あるとき、彼は彼女とドライブに行った帰り、わたしが大好きな海の幸を、高価なもの
ばかりどっさり買って家に寄ったのです。彼女をクルマのなかに残したまま、どさっと海
の幸をわたしのまえにおいて、
「トイレ貸してくれ」のなんのと言いながら、なんとなくこ
こにずっといたいという気配をただよわせていました。それでも彼女が外で待っているの
で、しばらくすると彼女といっしょに明るく去っていきました。
その後、携帯から5分おきくらいに何度も電話があるのです。
「食べたか?おいしかった
か?」「食べたか?おいしかったか?」って。魚をさばくまもありません。
最後に軽くうそをつきました。わたしが「おいしかったよ」と言うと、
「ああ、よかった」
と安心していました。
結局、彼の姿を見たのは、それが最後でした。
そんなことがあったあとも、電話では新しい子どもをひきとることになったという話を
彼にしました。
「今度ね、新しい子どもをひきとることになったんだよ。男の子なんだ」
「お父さん、お
母さん、身体だいじょうぶなの?」
、「うん。だいじょうぶよ。好きでやっていることだか
ら」「うーん。そうなんだ。じゃあ、がんばってね」というやりとりをしました。
新しい子がうちに来るというので、彼は少しさびしそうでした。結局これが、彼から聞
いた最後の言葉となりました。
わたしたちは夏休みに家族でバリ島に行きました。バリ島から帰って来ると、彼が事故
死したこと、すでに葬儀をおこなったことを知らせる留守番電話やファックスがたくさん
はいっていました。
彼の死に直面したわたしたちは、涙がかれることなく泣きつづけました。
愛情を注げば子どもは変わる
その涙がかわかないうちに、新しく子どもをひきとるために施設に行きました。その子
は4歳で虐待されている子どもでした。手足が細く、ひょろひょろで、わたしたちの家に
きたとき、こわれたラジオのようにしゃべりっぱなしでした。
この子どもはうちに来てから、彼がこれまでされてきた親をはじめ大人にたいするうら
みをわたしたちに向けました。
床に正座しているその子が、突然わたしの目をめがけて2つの指でついてきたりしまし
た。その攻撃性とすばやさ、わたしは人間というのはこんなに野性的なものなのかと感じ
ました。そして人間というものは、こんなに身に受けたものを他の人にやり返さないと、
いやされていかないんだろうかと思いました。
わたしはこの子を虐待したお母さんを責める気はありませんでした。お母さんも悲惨な
状態で妊娠し出産されたのでした。彼のもってきた母子手帳は子どもにたいする拒否の言
葉でうまっており、一生彼に見せられるものではありません。
彼のわたしたちにたいする攻撃の嵐はやむことなく、むしろエスカレートしてきました。
手足の細い小さな子が、ふすま1枚簡単にはずしてわたしに投げつける。大きなテーブル
を満身の力を込めてひっくり返す。物は手当たり次第、放り投げる。泣き叫んだら何時間
でもとまることをしらない。正座したままバンバンと何度も痛いのもかまわず飛び上がる。
それはすさまじいものでした。
わたしは、この子はこれからずっと育てていくことはできないだろうと思いました。い
つか限界を感じて、この子を専門家のところにお任せする日がくるだろうと思いました。
ただわたしは、それでもこの子を愛しつづけ、受け入れつづけました。
すると彼は少しずつ変わっていったのです。そしてある時期このように言いました。
「ぼ
くはこの家で幸せになりたい」と。
わたしは、この一言が忘れられません。その言葉を聞いたとき、
「この子のためには何で
もしてやろう。何でも聞いてやろう。何があってもこの子をこの家で育てよう」と決心し
たのです。
この子どもは虐待されつづけてきたので、すばらしい笑顔をしていました。笑っていれ
ば攻撃されないからです。
1年ちょっと前でしょうか、夫がふっと言いました。
「この子、ほんとうの笑顔になった
ね。ほんとうにやわらかい笑顔になったね」。ほんとうにそのとおり、素直ないい笑顔にな
りました。
だんだん変わっていく彼を見て、人間というのは誠心誠意、本気であたれば、変わって
いくものなのだということを感じました。
川の流れが上流から下流にいくように、愛情もかならず上流から下流に流れます。彼の
家庭では、お母さんがいっさい彼に愛情を注ぐことがありませんでした。彼はそのような
意味で枯れていたのです。枯れていた子どもに愛情をたくさん注いであげたら、こんなに
も変わるものかとあらためて感じました。
彼は、わたしたちの家に来たときIQが 45 といわれていました。これは非常に低い数字
です。IQが 45、非常に複雑な生い立ち、そして親から虐待されてきた彼は、どなたも引
き受け手がありませんでした。その状況を知ったとき、わたしはその子どもをぜひひきと
らせてくださいとお願いしたのです。いまこの子のIQは、正常域にはいっています。
彼は小学校三年生になりましたけれど、すばらしくいい字が書けます。自分に自信をも
っています。彼は電車が好きです。温泉が好きです。ニュースが好きです。自分が好きな
ことをたくさんもっています。
彼は午後5時からのニュースを欠かさず見ています。世の中のことは彼に聞けばだいた
いわかります。三菱自動車のこと、イラク戦争のこと、いろいろなことを彼は知っていま
す。
新聞も読みます。わたしは後ろから新聞を読みますが、彼は一面から読んでいます。夜
寝るときには、天気予報を見て、翌日の天気や温度をチェックして、翌日の服はどうする
かと自分で考えて、用意して寝ています。ほかの子どもたちも、彼に「あした長袖がよい
か、半袖がよいか」と聞いて準備しています。
いやな宿題をだされて
そんな彼がある日学校から帰ってきたとき、玄関から暗い顔をして部屋にはいってきま
した。「どうしたの?」って聞くと、
「心のノート」をそっとさしだしました。
「心のノート」には、お母さんのおっぱいを含んでいる人間の赤ちゃんや動物の赤ちゃ
んの写真が載っていて、
「みんな、みんな生きているよ。生まれたばかりの命がいっぱい。
元気に大きくなれますように」と書いてあります。そして右下のところに、
「あなたが生ま
れたときの話を、家の人に聞いてみましょう」と書いてありました。これがその日の宿題
だったのです。
彼はほんとうにつらそうに、
「この宿題がでちゃったんだよ。お母さん、わからないよね」
とわたしに言うのです。
「いや、わかるよ」と一応答えました。彼にはとても見せられない
母子手帳だけれども、母子手帳には生まれたときの日時や体重が書いてありますから、そ
れは伝えることができると思ったのです。
回答を書く部分は非常に小さかったので、そのくらいのことでも彼の大きい字だと簡単
にうまるだろうと思いました。生まれたときのグラム数をわたしが言ったとき、彼は目を
輝かせて、
「知らないと思ったのに、お母さん知ってたんだ」と言いました。そしてつづけ
て、
「でも先生は、書くところが足りなかったら紙を貼って書いてもいいよといってたけれ
どね」と言うのでした。
これは困ったと思いました。とても紙を貼って書くだけの資料はわたしはもっていませ
ん。わたしは「もうこれだけ書いたからいいじゃない。これでいこうよ。この宿題がいや
だったら、『あの宿題はいやだった』って、先生に言っていいのよ」と彼に言いました。
その翌日、彼は実際に先生に話したようです。
先生の方も彼が言う前に気がついていらしたようで、わたしが何も言わないのに、先生
は連絡帳にこのように書いてくださいました。
「いつもご協力いただきありがとうございます。生活科の宿題で、坂本君のことをうっ
かり忘れていて、配慮が足りなかったことに後で気がつきました。申しわけありません。
今日、
『生まれたときからいままでで、とくに驚いたことやうれしかったことを聞いてきて
ください』と言いました。
すでに『心のノート』にはしっかりと書かれており、坂本君や保護者の方に悲しい思い
をさせてしまったと思っております。配慮が足りずほんとうにすみません。ごめんなさい。
これからはこのようなことがないように気をつけます」
わたしはこのようにお返事をしました。
「気がついていただきありがとうございます。金曜日には帰るなり、悲しそうな顔で『心
のノート』のことをわたしたちに訴えました。あそこまでしかわたしたちにはわからずに
困っていると、
『先生は書ききれなかったら紙を貼ってもいい』と言っていたと申しました。
何も知らないだろうと思っていたのに書けたので、彼は安心して週末をすごすことができ
ました。いまさらながら、このようなことは、深い心の傷なのだと思い知らされました。
今日は靴を脱ぎながら、
『先生が連絡帳に書いてくれた』と理解していただけたことが嬉し
そうでした。
追伸。夫にことの顛末てんまつを話しました。『先生が気がつかないで宿題をだすほど、
彼は普通の子どもだということだね』と申しました。わたしも同じ感想をもちました…」
そうしたら先生は、
「ご家庭にも、お子様にも悲しい思いをさせてしまいすみません。ほ
んとうに申しわけなくて、これ以上言葉がありません。ごめんなさい」というていねいな
お返事をくださいました。
ところがそれだけでなく子どもが帰宅した後、子どもの後を追うようにうちにいらした
のです。外を見ると、先生が立っていらっしゃるのでわたしは驚きました。
先生に「どうしたのですか?」と聞くと先生はこのように言われました。
「電話をしてぼくが来ると言ったら、坂本さんはきっと『そんなことしなくてもいいで
すよ』と言われるので、電話しないで来ました。どうしても一言会ってお詫びをしないと
ぼくの気がすみません。ぼくも長い人生、いろんなことがありました。小さい頃いじめら
れたこともありました。いやな思いもたくさんしてきました。
それなのに配慮が足りなかった。してはいけないことをしました。会ってお詫びがした
かったのです」
先生は、子どもにも学校で何度もあやまったにもかかわらず、もう一度宿題をしている
子どものところにまでいき、
「いやな思いさせちゃったな。ごめんな」と言ってあやまって
くださったのです。
40代の男の先生ですけれど、こんな先生の姿にほんとうに子どもは嬉しそうでした。
わたしはつぎの日の連絡帳に、このように書きました。
「本日はわざわざの来訪、恐縮でございました。先生のお話や人柄を十分に理解してお
りますので、あそこまでご心労いただきますと、かえって申し訳ない思いです。
あれから彼はおもしろいことを始めました。突然、
『生まれてからこの日まで楽しかった
こと』と題して書き始めました。先生の来宅でふっきれたようです。連絡帳にはさんで、
先生に見てもらってほしいというのではさみました。自分で手渡すのがはずかしいようで
す」
「生まれてからこの日まで楽しかったこと」
・小田急ロマンスカーに乗せてもらったこと
・東海道新幹線に乗せてもらったこと
・スキー場に連れて行ってもらったこと
・渋谷の児童館に行って西遊記を見たこと
・東京ドームで野球を見たこと
・ボリショイサーカスを見に行ったこと…。
こうしたことが日付とともに列挙されていました。
そして最後にこう書いてありました。
「この家の家族と出会い、楽しいときも嬉しいときも、いじめられたときも、転んだと
きも、家族のみんなが助け合ってくれるのがとっても嬉しい」
このノートはわたしの宝です。
お母さんのようになりたい
うちには軽い知恵遅れの女の子がいます。その女の子は現在小学校5年生です。
この子が3歳半でうちにきたとき、
「ちょうだい」とか「いく」とか、そんな言葉しかで
ませんでした。当時、しもの失敗もたくさんありました。この子どもはいまだに寝るとき
には指しゃぶりをしなければ寝られませんし、去年まで夜尿がずっとあり、毎晩おむつで
した。
この子が4年生のときに、
「10歳を祝おう」という国語の授業がありました。それは「2
分の1成人式(20歳の半分の10歳を祝う会)
」と銘打った授業参観の1つでした。子ど
もたちが横に並び、1人ひとりがいろいろなスピーチをしていきました。
「自分は生まれてからこうだった」「小さい頃はこんなことをしていた」「将来の夢はサ
ッカー選手になりたい」
「アナウンサーになりたい」「まんが家になりたい」など、みんな
それぞれりっぱに話していました。4年生ともなると、こんなにむずかしい言葉を使うの
かと、人のお子さんながら感動しながら聞いていました。そしてうちの子どもの番になり
ました。
うちの子どもが話すのはほんとうにたどたどしく、
「2分の1成人式」という言葉もよく
口がまわらず、
「2分の成人式」くらいにしか言えません。その子どもがこのように言った
のです(本人の言ったまま)。
「2分の1成人式になりました。わたしの誕生日は2月11日に成人式になります。3
年生のとき頭がきれてお母さんが病院に連れて行ってくれました。怖かったけれど、お母
さんがいたから怖くなかった。
4年生のとき楽しいキャンプでした。お料理をして食べました。だんだんお料理がうま
くなりました。わたしの将来の夢は、お母さんみたいな人になることです。
お母さんになるためには、健康ですごしたいです」
わたしはこの子の発表を聞きながら涙をこらえるのがたいへんでした。
うちに来たころは、あんなに遅れがあって、不安が強くって、くまのプーさんのことし
か考えられず、ちょっとお買い物につれていってもすぐに「おうち帰る。プーさん見る」
と言っていた子が、
「お母さんのようになりたい」と言ってくれたのです。ほんとうに育て
てよかったと思いました。里親冥みょう利りにつきます。
この子は、
「お料理アンドお裁縫さいほうクラブ」にはいり、将来に向けてお料理の勉強
を始めたようです。先日は自分で針に糸をとおして雑巾ぞうきんを縫ぬいました。初めて
ですから、決して上手とはいえませんが、わたしはたくさんほめてあげました。
わたしたちの家にはこのようにいろいろな子どもがいます。学校との関係では過去にお
いてはとてもつらい思いをしましたが、いまは基本的にうまくいっています。
わたしの隣の市で里親をされておられる方が、このように話されていました。
担任の先生が「小さいときの写真を持ってきてください」
と子どもたちに言われました。
そしてつづけて「このなかで、写真を持ってこれない人、手をあげて」と言ったそうです。
彼女の子どもは「わたしは持ってこれない」と思ったけれど、みんなの前で手をあげるの
がいやだったので、手をあげなかったそうです。そうしたら先生はこうおっしゃったそう
です。「おかしいな。1人だけいるはずなんだが、なぜ手をあげない」
わたしたちのまわりには、まだまだこのような現実がたくさんあります。わたしたち里
親は、子どもを育てるだけでなく、このような差別や偏見、区別とたたかっていかなくて
はなりません。そうしないと子どもを守ることができないのです。
普通の家庭生活でさえ味わえないという子どもたちが、この世の中にはたくさんいるこ
とを知っていただきたいと思います。イギリスでは、家庭のない子どもたちの60%が里
親の家で暮らしているにもかかわらず、日本ではたった7%の子どもたちしか里子になっ
ていない貧しい福祉の現実を、ぜひ知っていただきたいと思います。
里親になりませんか?
うちに1人だけ知恵の遅れのない小学生がいますが、この子は小学校1年生のときにう
ちに来ました。うちに来たときに、彼はこう言ったのです。
「ぼくは1人でお風呂にはいり
たい」
子どもというのは、たくさんの子どもたちとわいわい言いながら、ふざけあいながらお
風呂にはいるのが好きなのだとわたしは思っていました。
ですから、
「ぼくは1人でお風呂にはいりたいんだ」と言われたときは驚きました。その
子はつづけてこう言いました。
「施設ではいつも誰かといっしょだった。かならずほかの人といっしょだった。だから
お風呂だけは、1人でゆっくりとはいりたいんだよ。ぼく」
わたしはそのことに気がつきませんでした。愕がく然ぜんとしました。それを聞いたと
きから、わたしの子どもにはお風呂は1人で入れようと思いました。
この子はいちばん先にお風呂にはいります。はいるまえにかならずお風呂を洗ってくれ
ます。この子がいるので、あとは順番に1人ずつお風呂にはいればよいということになり
ます。
わたしたちは、養子縁組ではありませんから、子どもたちを籍に入れることはできませ
ん。でも通称名を使うことはできます。それで「通称にしますか」
「それともあなたの本名
にしますか」ということを子どもたちに聞きます。
この子は迷うことなく「坂本にしたい」と言いました。そのとき彼は、
「ぼくはこうやっ
て1つの家で、1つの名前を名乗って暮らすのが夢だったんだよ」と言ったのです。
彼の夢は里親制度によってかなえられました。もし養育家庭制度、里親制度というもの
がなければ、彼は一生その願いをもちながらもかなえることができませんでした。
あるときその子のクラスで大きな地図を何枚も貼り合わせて、自分たちの地域を知ろう
という授業参観がありました。彼はみんなのまえで大きな地図のうえに自分の家の形を書
いた絵を置き、わたしの顔を見て幸せそうににっこり笑っていました。
彼のにっこりさ、幸せさは、そのなかにいた子どもたちのなかでいちばんのものだった
のではないかと思います。
みなさんも里親になりませんか。
(東京都養育家庭里親)