35年前の夏、何が起きていたのか

2013 年 9 月 16 日国民大集会報告要旨
35年前の夏、何が起きていたのか
西岡 力(救う会会長、東京基督教大学教授)
◆拉致の3類型-遭遇拉致、人定拉致、条件拉致
今から35年前、1978年の夏に、多くの日本人が拉致されました。政府認定の17人のうち10人が6
月から8月にかけて拉致され、8月には、袋に入れられたまま逃げ出した拉致未遂事件も起きました。拉
致は全世界で起きていますが、1978年には日本以外にも10カ国29人が拉致されています。
一体、あの時何が起きていたのか。帰国した被害者の証言と現地調査などから、検証していきます。
拉致には3類型があることが、救う会拉致プロジェクトメンバーの惠谷治さんたちと進めてきたこれま
での調査で明らかになってきました。遭遇拉致、人定拉致、条件拉致です。第1の遭遇拉致は、拉致を
目的にせず潜入してきた工作員が、どうしても隠さなければならない秘密を知られてしまったことを理由
に行う拉致です。1963年の寺越事件は、工作員の上陸ポイントを隠すために行われたと思われる典型
的な遭遇拉致です。
第2の人定拉致は、あらかじめ拉致対象者を選定し、対象者を海岸や外国に引き出して、工作員に引
き渡す拉致です。1978年6月に拉致された田中実さんと田口八重子さんはこのケースです。
第3の条件拉致は、あらかじめ人定はせず「若い女性」
「若いカップル」などという条件に合う対象を
海岸近くで物色して行う拉致です。1978年夏にはこの条件拉致が頻発しました。
◆小浜事件
それでは個別の事件に即してみていきましょう。今回は、条件拉致を中心に検証します。
まず、1978年7月7日、福井県の事件です。
私はこの8月に小浜にいき、地村保志さん、富貴恵さんと会って、当時の状況をくわしく聞いてきました。
地村さんたちはその年の3月に知人に紹介され交際を始め、あの展望台でのデートはあの日が初めてでした。
富貴恵さんを車で自宅に送るとき、七夕だから星を見ていこうと思い立ち、偶然展望台に寄ったのです。
そのことは誰も知らなかった。展望台の屋上に座っていると、階段の下におかしな4人の男がいるのが見
え、少し嫌な気持ちになった。その中の一人が、原敕晁さん拉致実行犯の辛光洙でした。
後ろから襲われ、口をふさがれ、手を後ろに拘束され、頭から袋を被されました。そして肩に担がれて
斜面をおりた。一歩一歩下りるとき、犯人の肩がお腹にめり込んで痛かったと富貴恵さんは語っています。
海岸でゴムボートに乗せられ、工作子船に乗り換え、沖に出て工作母船に乗り換えた。保志さんは母
船の船室に入れられるときまで袋を被されたままだった。ゴムボートから子船に乗り換えるとき、たぶん
放られたのでしょう、海に捨てられて殺されると思ったと話しています。
富貴恵さんは、海岸で袋から出されています。しかし、保志さんを一回も見ていません。気配も感じ
–1–
ていない。北朝鮮についたとき、お互いに相手は日本にいると信じさせられていたと言います。ゴムボー
トは大きなものではありません。袋から出されていたのですから、同じボートに乗っていれば富貴恵さ
んは保志さんに気がついているはずです。ゴムボートが2隻あって、保志さんは一の浜、富貴恵さんは二
の浜に下ろされた可能性があります。
◆柏崎事件
次に7月31日新潟の事件です。
蓮池さんたちも4人の男に襲われています。そのうち1人が小住健蔵事件の犯人、崔スンチョルです。
崔ら4人は3日前に柏崎に潜入し、海岸で拉致対象者を探していた。崔以外の3人は慣れていなかったの
で度胸試しに食堂でカレーライスを食べたなどといいます。
蓮池さんは次のように証言しています。
「われわれは市内で待ち合わせて海岸に行ったわけなんですけど、海岸に行くということは、われわれ自
身も事前に決めていたわけでもないし、家族も知らないし。ですから、そこに入ってきた人間の誰かを
拉致して行こうという拉致だったと思います」
(NHKラジオ深夜便 平成25年2月17日午前4時台放送)、
「我々でなくとも、誰か適当な人であればよかった。これは、北朝鮮に行った後で聞いた話だが、先に適
当な人がいたが、作戦を起こそうという時に、一升瓶を持ったおじさんが近付いてきて、断念せざるを
得なかった。それで、この日はダメかと思っていた時にお前たちが来たんだ」
(越後ジャーナル社 ホー
ムページ掲載の蓮池薫さん加茂市で講演要旨)
地村さんたちと同じように口をふさがれ、手足を縛られ、袋を被せられています。ただ、祐木子さんは
目隠しをされただけで袋は被されていない。ゴムボートでお互いの存在は分からないように移送されて
います。
◆佐渡事件
8月12日に新潟県佐渡で拉致があった。曽我ひとみさんがその時の様子を2012年10月の東京集会で
詳しく語ってくれました。
〈私は、1978年北朝鮮に拉致されました。ちょうどお盆の前の8月12日の土曜日でした。私は看護師
の仕事をしながら、決まって土曜日には家に帰り、日曜日の午後にまた寮に帰るという生活が続いてい
ました。
ちょうどその日も土曜日で、午後家に帰りました。お盆前ということで、母が少し足りないものがある
ので買い物に出かけようということになりました。その時、6つ違いの妹がいたんですが、妹も母と一緒
にでかけたい、私も1週間会えなかったので1週間にあったことを色々話をしたかったので、一緒に行く
より母親と二人きりで行きたいなという気持がありまして、妹とちょっとだけけんかをした覚えがありま
す。
それで結局、私と母と一緒に買い物にでかけることになりました。
行きは病院であった話などを色々しながら、楽しく店まで着きまして、店で買い物を終えてまた家に
帰る途中のことでした。
歩道を歩いていたんですが、もう薄暗くなっている時間帯で7時は過ぎていたと思います。夏場ですの
–2–
で、7時を過ぎてもまだぼんやりと明るいくらいの時間帯でした。母と話をしながら歩いていましたら、
何かちょっと後ろの方から人の気配を感じまして、一度後ろを振り向きました。
そうしたところ、男の人が3人、縦並びじゃなく、横並びで、私たちのあとをゆっくりとついてくるのが
見えました。
「なんか変な男の人たちが後ろから付いてくるね」と母と話しながら、
「気味が悪いから早く
帰ろう」と、少し足早に歩き始めた時でした。
後ろから3人の男の人が急に駆け寄ってきまして、道端にある植え込みの中に私と母親を引きずりこみ
ました。その時私は口をふさがれて、袋をかぶされました。一緒にいた母親は、そのとき以来一度も声
を聞くこともなく、姿を見ることも今までありません。本当に夢のような話で、自分自身もよく分からな
いところがいっぱいあります。
その後ですが、私は袋に入れられたまま小さな船のところまで行きました。その船の上にしばらくいま
したが、ちょっと離れた所で日本語を話している声が聞こえてきました。その日本語は佐渡の人が話して
いる佐渡弁ではなく、日本人でもない、ちょっと発音が違う、そんな印象を受けています。
私も袋をかぶされたままの状態だったので、話している内容というのはよく分かりません。その後、し
ばらくしてから大きな船に乗せられて、次の日の夕方北朝鮮の清津というところに着きました。〉
(救う会
全国協議会ニュース2012.10.30)
この日、曽我ひとみさんがお母さんと買い物に出かけたのも偶然でした。実は妹さんとどちらが一緒
に行くか兄弟げんかをしていた。
彼女たちは3人の男に襲われ、口をふさがれ、手足を縛られ、袋を被せられて、川岸の船に乗せられた。
そのとき、母国語でないような日本語が自分に対して語られたのでないが近くで聞こえたと言います。
その日本語は曽我さんを拉致して平壌まで一緒に連れて行った女工作員金ミョンスクの声だった。つま
り、ここでも3人の男と1人の工作員の4人組が犯人です。
曽我さんは道で襲われた後、お母さんのことは一切分からないと語っていますが、これも他の事件と
同じ管理法です。曽我さんは最初に乗せられた船は感触が木だったと語っています。また乗り換えは1回
だけとも語っています。
◆吹上浜事件
同じ8月12日に鹿児島でも拉致がありました。市川修一、増元るみ子さん拉致事件です。被害者がま
だ北朝鮮で抑留されているため詳しい様子は分かりません。ただ、この日二人は初のドライブデートでし
た。やはり偶然海岸にきたことになります。
注目すべきことは、警 察当局が事件発生の前後に怪電波を傍受していた事実です。南日本新聞が
2002年10月19日にスクープ報道しています。同紙によると、
「警察当局は、事件発生の12日前後約1
週間にわたって怪電波を傍受していた。…怪電波は、笠沙町の野間池の沖合[現場から近い海上]から
発信されていたという」
「
、怪電波は、日本の漁船などが発信する無線とは明らかに周波数が異なっていた」
といいます。
なお、読売新聞2002年12月20日夕刊の「『北』の犯行、24年前確信」という記事に登場する当時
の警察庁幹部によると、地村さん拉致、蓮池さん拉致、富山の拉致未遂事件の時も、やはり現場近くの
海上から怪電波が発信されていることを警察当局が傍受し、各県警に「沿岸警戒活動」を指令していた
そうです。ただ、曽我さんの事件に関して電波傍受ができていたかについては明らかになっていません。
–3–
◆富山未遂事件
曽我さん事件の3日後の8月15日、富山で拉致未遂事件がありました。海岸をデート中のカップルが4
人の男に襲われ、口をゴム製の猿ぐつわでふさがれ、手足を拘束され、袋を被せられました。
夕日の時間だったからか、暗くなるまで近くの林の中に袋のまま置かれていた。ゴムボートを取りに行っ
ていたのではないかと思われます。
2人はかなり距離をとって置かれていた。つまりお互いの存在を知らせないようにされていた。
ところが、犬の鳴き声が聞こえたら周囲から人の気配がなくなり、2人は別々に、違う民家に逃げ込ん
で助かった。
現場には、ゴム製猿ぐつわ、真ちゅうの手錠、袋、手ぬぐいが遺留品として残された。読売新聞のイ
ンタビューに答えた当時の警察庁幹部によると、
〈沿岸を高速で走る不審な船が目撃されていた。猿ぐつ
わを、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて韓国当局に照会すると、
「我が国に不法侵入し、死亡した北
朝鮮工作員が所持していたものと極めて似ている」という回答が返ってきた〉
(読売新聞2002年12月
20日夕刊)といいます。
◆5件の共通点
以上、35年前の夏、七夕から終戦記念日までの約1か月に4件8人が拉致され、1件2人の拉致未遂事
件がありました。蓮池さん拉致の犯人、崔スンチョルは対外情報調査部の姜海龍副部長から「早急に日
本人を連れてこい」と指令を受けたと言います(産経新聞2012年10月14日)。その指令を受けて急ぎ
行われたのが、これらの拉致だったと思われます。
5件の拉致の共通点を見ていきます。
対象は「海岸近くに偶然居合わせたカップル」
実行犯は「4人組、工作員1人と戦闘員3人」
手口は「口をふさぎ、手足を縛り、袋詰め」
管理は「互いの存在を知らせず隔離」
最後に移送「1、2回乗り換えさせて工作母船へ」
通常工作員が潜入してくる場合は、いわゆる3段階、工作母船、工作子船、ゴムボートか水中スクーター
が一般的です。
35年前の夏、多くの日本人が、展望台、海岸、道路などで突然襲われ、口をふさがれ、手足を縛られ、
袋を被せられたまま、ゴムボート、工作子船、工作母船で無理矢理、拉致されていきました。横田早紀
江さんがよくおっしゃる「畑から大根を次々抜いていくような拉致」です。
地村さんはゴムボートから子船に乗り換えるとき、
「海に捨てられて殺される」と戦慄したと言います。
被害者は思い出すのも嫌なことです。
それでも曽我ひとみさんは繰り返し、拉致された状況を語り続けています。お母さんが心配だからです。
拉致は外交問題、政治課題であるよりも、まず犯罪です。許しがたい国家犯罪です。被害者が味わっ
た怖さを思い、いまだに彼らを救い出せない悔しさで一杯になります。なぜ、わが国がこのようなこと
を防げなかったのか、どうしてその後、今に至るまで被害者を助けられないのかと強く思います。
その悔しさを共有しつつ、報告を終わります。
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