羽生 - 未来からの風

田坂広志 風の便り 特選 第48便
静寂を待つ
1994年の将棋・竜王戦、第六局、
羽生善治棋士と佐藤康光棋士の対戦でのことです。
開始の合図があったにもかかわらず、
先手である羽生棋士が、
なかなか第一手を指さない。
眼を閉じ、考え込んでいる風情のまま、
数分間が過ぎていきます。
そして、観戦の人々がざわめき始めたとき、
羽生棋士は、眼を開け、
ようやく第一手を指しました。
このときのことが、後日、
詩人の吉増剛造氏との対談で話題になりました。
吉増氏から、「あのとき、迷いが出たのですか」と問われ、
羽生棋士は、こう答えました。
いえ、そうではありません。
静寂がやってくるのを、待っていたのです。
この羽生棋士の言葉は、
一つの真実を、我々に教えてくれます。
最も大切な勝負の瞬間や、
最も重要な決断の瞬間には、
深い直観力が求められる。
しかし
深い直観力が働くためには、
深い静寂心が求められる。
羽生棋士が教えてくれたのは、
その真実でしょう。
そして、この真実から、
我々は、一つの逆説を学びます。
極限の意思決定を前にして、
最も大切なことは、
いかなる「選択肢」を選ぶか、ではない。
いかなる「心境」で選ぶか、なのです。