旅にしあれば

旅にしあれば
大野内科 小笠原 望
今、羽田空港の喫茶店にいる。神経学会総会の帰り道なのだ。
ぼくはものぐさで、20年間高松で暮らして家族を栗林公園以外の観光地に
連れて行ったことがない。妻は文句を言う性格ではないのだが、このことは中
村に帰ってからも何度も口にする。そんなぼくでも、学会では否応なしに出か
けなくてはいけない。
学会にはあいた時間がある。東京だと、時間があると上野の鈴本演芸場に行
く。寄席の生の話術にいつも感激する。平日の昼間は客が数えるほどなのだが、
客の少なさを嘆きながら、だんだんに乗ってくる噺家の芸にほれぼれする。名
前の知られていない人の素晴らしい話に、「世の中にはすごい人がいっぱいい
るんだ」と、改めて感じてしまう。
東京で好きなのはもう1ヵ所、銀座の文房具店、「伊東屋」。七階か八階建
てのビル全部が文房具という都会ならではの店。何時間でも飽きない、少女の
ようにいっぱい小物を買ってこころが満ちてくる。
このごろは大丈夫になったが、ぼくは高所恐怖症で飛行機に乗れなかった。
高松から東京に行くにも、連れは飛行機、ぼくは前日の寝台特急列車「瀬戸」
に乗って、東京で合流していた。十年前くらいだろうか、ドイツのミュンヘン
で学会があった。これはもう、寝台特急列車というわけにはいかず、17時間
飛行機に乗った。目が覚めれば、「ビア(ビール)、プリーズ」と、ひたすら
飲み続けていた。このときに、飛行機への気持ちが変わった。ミュンヘンもよ
かったし、リューベックの街がきれいだった。旅の2週間、本当に夢を見た。
それにしても、知人が来て案内する四万十川の屋形船に乗るといつもほっと
する。折々の川の風景にため息がでる。素晴らしいところに住んでいるのだと、
ものぐさなぼくはいつもいつも改めて感じている。
羽田空港の雑踏に長くいると、それだけで疲れてくる。ちょっとくらくらす
る。