Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved ほ そ き こえ Small Voice 細き聲 聖書研究 大いなる強き風山を裂き岩石を砕きしが風の中にはエホバ在さざりき、風の後に地震ありしが地震の中にはエホバ在さざりき。 又地震の後に火ありしが、火の中にはエホバ在さざりき、火の後に静なる細微き声ありき。 列王記略上19:11、12 明治元訳聖書 日本学生宣教会 マタイによる福音書 5章4節 † 日本語訳聖書 (ラゲ訳、バルバロ訳はマタイ5:5を4節に、5:4を5節に置く。本書では他の聖書に沿って、両聖書の位 置を入れかえた) 【漢訳聖書】 Matt. 5:4 哀慟者福矣、以其將受慰也。 【明治元訳】 Matt. 5:4 哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也 【大正文語訳】 Matt. 5:4 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。 【ラゲ訳】 Matt. 5:4 福なるかな泣く人、彼等は慰めらるべければなり。 【口語訳】 Matt. 5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 【新改訳改訂3】 Mat55. :4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。 【新共同訳】 Matt. 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 【バルバロ訳】 Matt. 5:4 悲しむ人は幸せである、彼らは慰めを受けるであろう。 【フランシスコ会訳】 Matt. 5:4 悲しむ人は幸いである、その人は慰められるであろう。 【日本正教会訳】 Matt. 5:4 泣く者は福(さいはひ)なり、彼等慰(なぐさめ)を得んとすればなり。 【塚本虎二訳】 Matt. 5:4 ああ幸いだ、 “悲しんでいる人たち、 ”、 (かの日に) “慰めていただく”のはその人たちだから。 【前田護郎訳】 Matt. 5:4 さいわいなのは悲しむ人々、彼らは慰められようから。 【永井直治訳】 Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved Matt. 5:4 福(さいはひ)なる者は悲しむ者[なり]。そは彼等は慰めらるべければなり。 【詳訳聖書】 Matt. 5:4 悲しむ者は祝福されている<うらやましいほど幸福である>[その幸福は神の愛顧の経験から生じた もの、特に神の比類のない恵みの啓示によって与えられたものである]。なぜなら、その人たちは慰められるから である。 † ギリシャ語聖書 Interlinear Matt. 5:4 maka,rioi oi` penqou/ntej( o[ti auvtoi. paraklhqh,sontaiÅ maka,rioi oi` penqou/ntej( Blessed[are] the mourning: † o[ti for auvtoi. they paraklhqh,sontaiÅ shall be comforted. 私訳(詳訳) 【私訳】 「泣き悲しむ(嘆く、悼む)人々は幸い(羨ましい、祝福されている)である、なぜなら、その人 たちは慰められる(傍に呼ばれる、[神に]招かれる)からである」 † 新約聖書ギリシャ語語句研究 【悲しむ人々は】 penqou/ntej penqe,w ペンテオー pentheō {pen-theh‘-o} (vppanm-p 分詞・現能主男 複) 1)泣き悲しむ、悲嘆する 2)嘆く 3)悼む 【幸いである】 Maka,rioi maka,rioj マカリオス makarios {mak-ar‘-ee-os} (a--nm-p 形容詞・主男複) < makari,zw 幸福と考える 幸福とみなす 1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)幸多き者(内 村鑑三) ヘブル語の「幸い」は「yrev]a' 'esher {eh'-sher} うまく行く、進む」である 「maka,rioj マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「makarith,j マカリテー ス」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。 【なぜなら】 o[ti o[ti 1)~ということ ホティ hoti {hot‘-ee} (cs 接続詞・従) 2)なぜなら 3)~であるから 【その人々は】 auvtoi. auvto,j アウトス autos {ow-tos‘} (npnm3p 代名詞・主男3) 1) 彼・それ(三人称の代名詞) 2)自身(強調用法) 3)同じ 4)まさに 【慰められる】 paraklhqh,sontai parakale,w パラカレオー parakaleō {par-ak-al-eh‘-o} (vifp--3p 動 詞・直・未来・受・3) < para 傍らに + kale,w 呼ぶ 1)傍らに招く、側に呼ぶ、側へ呼び寄せる、呼び求める、呼び掛ける 2)さとす、慰める、励ます、 力づける、なだめる 3)要求する、必要とする 4)懇願する、嘆願する、願う † 英語訳聖書 Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved Latin Vulgate 5:4 beati mites quoniam ipsi possidebunt terram 5である) (Latin Vulgate マタイ5:4は通常聖書ではマタイ5: King James Version 5:4 Blessed [are] they that mourn: for they shall be comforted. American Standard Version 5:4 Blessed are they that mourn: for they shall be comforted. New International Version 5:4 Blessed are those who mourn, for they will be comforted. Bible in Basic English 5:4 Happy are those who are sad: for they will be comforted. Darby's English Translation 5:4 Blessed they that mourn, for they shall be comforted. Douay Rheims 5:4 Blessed are the meek: for they shall possess the land. Noah Webster Bible 5:4 Blessed are they that mourn: for they shall be comforted. Weymouth New Testament 5:4 'Blessed are the mourners, for they shall be comforted. World English Bible 5:4 'Blessed are those who mourn, for they shall be comforted. Young's Literal Translation 5:4 'Happy the mourning -- because they shall be comforted. † 細き聲 聖書研究ノート <悲しむ人々> 「悲しむ人々」は「penqw,ntej ペンソーンテス」で 「penqe,w する人、悼み、悲嘆する者」のこと。親しい人の 死に泣き、嘆き、悼む人々である。 山浦玄嗣氏は「ただ悲しいとか泣いているというのではなく、親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いてい る人々」だという(「イエスの言葉」)。 <悲しむ人々> 「悲しむ人々 penqe,w ペンテオー pentheō {pen-theh‘-o}」のラテン語は で、最愛の人を失い、喪に服する者の悲しみをさす。 lugent 「悼む、悲しむ、嘆く」 <心を何かに噛まれている人> 「さいわいなのは、悲しむ人だ。悲しんで泣いている人だ。心を何かに噛まれている人、その痛みのために呻い ている、嘆きのために疲れている人、瞼は涙の為にただれ、心臓は熱の為に破れようとしている人、たましいが 石のように重たくうなだれている人、そういう人は幸いです」(藤井武『信仰生活』) Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved <その人はいま泣くべし> 「損失をかなしみ、失敗をかなしみ、死別をかなしみ、堕落をかなしむ者、悲境を自覚するもの、悲哀の身に臨 みし道徳的原因をたずねて、改悔の憂いに沈むもの、かかるものは幸いなり」「その人はいま泣くべし。されど ものちにその涙をぬぐわるべし」「悲哀を知るにあらざれば、キリストを知るあたわず」(内村鑑三『聖書注解 全集8』) † 心のデボーション 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書 「心の底から泣く者は、そのとき不思議と、どこかに助けがあるように感じます」 「心より泣くことは、それだけ ですてに慰めであります」(ホイヴェルス神父『日本人への贈り物』) † 心のデボーション 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書 ラテン語の格言に「Difficile est tristi fingere mente jocum 悲しみの心で冗談を作ることは困難である」という。 「悲しみの心から冗談は生まれない」くらいの意味か。 V・Eフランクルはアウシュビッツで一緒に働いていた外科医の友人と、少なくとも一日に一つ愉快な話をみつけ ることをお互いの義務にしようと提案した。それをフランクルは「ユーモアへの意志」と呼んでいる。(V・Eフ ランクル『夜と霧』) 悲しみの心で冗談を作ることは困難であるが、不可能ではない。 † 心のデボーション 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書 悲しみを表わす英語の「sad」の語源は「satiate =飽食する」である。 「十分に満たされると飽きた(sated) 気持ちになり、少し物悲しく(sad)なることである」(『シップリー英語語源辞典) 「飽食の時代」とは「悲しみの時代」でもあるのだろうか。 † 心のデボーション 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書 人の「涙」は 98.0%が水で,その他,約 1.5%のナトリウム・カリウム・アルブミン・グロブリンなどに加えて 0.5%のたん白質がふくまれている。 涙にはナトリウムが含まれているため塩辛く感じるが、それだけではなく、うれしいときや悲しいときに出る涙 ストレス反応により分泌されるホルモンの一種である副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が含まれている。 そのため、怒ったときに出る涙は、涙の量は少なくナトリウムの多い塩辛い涙になり、それにくらべて悲しみの 涙はいくらか水っぽいという。 涙は体内にあるストレス物質を排出し、泣いた後はすっきりするのはそのためである。 「涙」も出ない悲しみが最もつらいかもしれない。 Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved † 心のデボーション 「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 書 マタイ5:4 明治元訳聖 モンテーニュによれば、エジプト王プサムメニトゥスは戦いに負け、自分の娘が下女の装いで水汲みをさせられ ているのを見て友人が悲しんでも一声も洩らさなかった。彼の息子が死刑の場に連れて行かれたときも同じ態度 をくずさなかった。 しかし、親しい友人の一人が囚人の間に交じっているのを見て頭を打ち叩いて悲しんだという。わけを聞かれて、 「最後の悲しみだけが、どうやら涙の中に表現できたが、前の二つはどんな表現の道もこえていた」と答えたと いう。 (モンテーニュ『エセー』) 表現を超えた悲しみというものがある。 「聲をたてずして哀け」エゼキエル24:17 † 心のデボーション 「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり」 マタイ5:4 明治元訳聖書 「哀」は「口」+「衣」で口を衣で隠してむせぶこと、せつない思いである。「哀」は「愛」であり、「愛 いと おしむ」でその人を深く思うこと。 「悲しみ」を表現にはいくつかある。 「戚 せき」は憂いて悲しむこと、 「哀」 「悲」はあわれみ同情すること、 「悼」 は死者への沈痛の悲しみである。 人はさまざまに悲しむ。だが、悲しむことのできる人は幸いである。慰めの懐に抱かれるからだ。 † 細き聲 説教 「激しく嘆き悲しむ声」 マタイ5:4 ラマで聞こえたのは「悲しむ人 penqw,ntej」の声だった。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、 子供たちがもういないから」(マタイ2:18) ラケルはヨセフを生んだ後、さらにもう一人の子を求めたが、陣痛で苦しみベニヤミンを出産して後死亡し、「ラ マ」に葬られた。 バビロンの王ネブカデザルがエルサレムを占領したとき、「ラマ」でイスラエル人の殺害が行なわれ、捕囚とな ってバビロンに連行される人々は、墓からイスラエルの母ラケルの子を失って泣く声を聞いた。(1サムエル1 0:2) そして、イエスの誕生によって、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子が殺害され、人々は再びラマで母ラ ケルの激しく泣く声を聞いた。 ラケルは「慰められる parakale,w パラカレオー」ことを拒む。 「慰められる parakale,w パラカレオー 側に呼び寄せる」ことを強く拒む者を、どうして「傍らに招く」こ とができようか。親しき者の死を悼み、側に呼び寄せられることを拒む人に、私たちは力なくうなだれるしかな い。 しかし、イエスは「慰められる parakale,w パラカレオー」ことを拒む「悲しむ人」は「幸い リオス 祝福されるべき、羨むべき者、幸福者」だと言われる。 maka,rioj マカ Copyright (c) 2014 Makoto Minagawa All Rights Reserved なぜなら、誰一人「側に呼び寄せることのできない」悲しむ人をこそ、神は「パラカレオー 呼び求め、傍らに 呼ばれる」からである。「悲しむ人」は神に呼び求められた人、神が傍らに呼び給う人である。神は「悲しむ人」 を「悲しむまま」に抱かれる。 「悲しむ人」よ、神の中で泣け。「泣く人」よ、神の傍らにて慰めあれ。あなたはもう「慰めを拒む人」であっ てはならない。神が「傍らに呼び寄せられた」「マカリオス 祝福されるべき、羨むべき、幸福な人」なのだか ら。神に呼ばれて「魂」を見出し、自分を抱きしめたのだから。(皆川誠)
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