キリスト者の聖霊性ーー神の子として生きる

キリスト者の霊性――神の子として生きる――
水草修治(日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師)
<アウトライン>
はじめに
第1章「霊性」運動の思想史的背景
1.近代合理主義とその反動
2.20 世紀の「理性からの逃走」
3.近年の「霊性」ブーム
第2章 この世の「霊性」と聖書の「霊性」の区別
1.
「霊性」という用語のあいまいさ、そして「聖霊に満たされた生」の提唱
2.汎神論的霊性とその存在論的背景
3.聖霊は御子の御霊である
4.アウグスティヌスの回心―――異教からキリスト教へ
5.祈りのことば
第3章 新約的霊性――神の子として、宣教に生きる
1.御子の受肉と「子とすること」
2.
「子とすること」は義認と聖化の矛盾を解決する
3.子とする御霊は世界の相続人としての責任を自覚させる
4.御霊のとりなし
5.父の摂理と、神の子どもの聖化
6.子とする御霊は神の家族の一員であることを自覚させる
7.宣教に生きる霊性
はじめに
「霊性(スピリチュアリティ)
」がブームである。しかも、キリスト教界だけでなく、他の諸
宗教や医学界でも霊性ということばが用いられている。ちなみに「霊性」ということばが書名に
含まれる本を、思いつくままあげてみると、鎌田 東二『神道とは何か―自然の霊性を感じて生
きる』
、中村雅彦『呪いの研究-拡張する意識と霊性』
、川上光正『潜在意識の解明―潜在意識か
ら超潜在意識へ 魂性意識と霊性意識を解く』
、野島芳明・エドワード野口『文明の大潮流―近代
的知性から宇宙的霊性へ』
、スワミヤティシュワラーナンダ『瞑想と霊性の生活』
、鈴木大拙『日
本的霊性』
、ジョン・ヒック『魂の探求―霊性に導かれる生き方』
、H.ナーウェン『いま,ここ
1
に生きる―生活の中の霊性』
、チャールズ・カミングス『エコロジーと霊性 』
、金子晴勇『ルタ
ーとドイツ神秘主義―ヨーロッパ的霊性の「根底」学説による研究』
、小田晋他『健康と霊性―
―WHO(世界保健機構)の問題提起に答えて』など。キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教、
新新宗教、超常現象、心理学、エコロジー、医療など諸方面で「霊性」ということばが流行して
いることが一目瞭然である。
本書で筆者は、まず、今日の霊性ブームの思想史的背景と本質についてあきらかにしたい。
次に、異教的霊性と聖書的霊性の識別について述べる。そして第三に、キリスト者の霊性につ
いて述べる。神の子どもとされ、御子の御霊に満たされて宣教に生きることこそ、新約におけ
るキリスト者の幸いな「霊性」である。
第1章「霊性」運動の思想史的背景
1.近代合理主義とその反動
今日、霊性が強調されるようになった背景には、近代合理主義のもたらした二つの悲惨があ
る。一つは、近代合理主義が人間と自然を機械と見なし、さらに近年の遺伝子工学の発達を背
景として人間と自然をDNA情報の束とみなすようになり、人間の生きる意味とか自然の神秘
を奪ってしまったことである。もう一つの悲惨は、近代合理主義が伝統的価値観や制度や共同
体を無意味なこととし、それに依拠してきた人間を孤立させたということである。
こうした近代合理主義の二つの問題性は、すでに近代合理主義の祖といわれる 17 世紀フラ
ンスの哲学者デカルトの思想に萌芽している。デカルトは、三つの実体が存在すると考えた。
つまり無限の精神としての神と、有限な精神と、有限な物体の三つである。そして、精神の本
性は思考であり、物体の本性はひろがりである。デカルトは、人間は精神と物体の総合体と考
え、身体は機械にすぎないとする。彼は動物と植物には精神はないと考えたので、動植物は機
械の一種にすぎないと見なした。まとめると、デカルトの世界観においては、無限の精神とし
ての神、有限の精神を有限の物体に宿す人間、そして有限の物体としてのその他の自然界のも
ろもろの生物・無生物がいるとされたわけである。
デカルトは自分の哲学のなかに一応、神を立ててはいるが、パスカルが見抜いていたように、
デカルトは実は有神論者ではなく理神論的思想の持ち主であった。理神論というのは神が世界
を造った後は、世界はあたかも自動巻きの時計のように、それ自体の法則で動いているので、
そこに神が介入することつまり奇跡や啓示が起る余地はないという考え方である。聖書の有神
論によれば、神は世界を造った後も、みこころに従って通常の自然法則を超えてこの世界に介
入し啓示を与え、奇跡を行なわれると教えている。実は、デカルトの哲学における神は彼の哲
学的世界観を成り立たせる大道具の張りぼてにすぎない。このことを、パスカルは見抜いて、
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次のように批判している。
「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、で
きれば神なしにすませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと
弾きをさせないわけにはいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない。
」
(
『パン
セ』B77)
デカルトの合理主義精神が、後の啓蒙主義思想家たちに受け継がれ、精神の働きも機械とし
ての身体の機能として説明しつくせるという無神論・唯物論に突き進んで行ったことはほぼ必
然的であった。フランス革命期の唯物論者ド・ラ・メトリの「人間機械論」はその典型である。
人間を単なる機械と見なし、自然を生産工場とみなす見方は、近代科学主義の基本思想となっ
てゆく。機械にとって重要な点は効率性や生産性であろう。したがって、近代合理主義の価値
観からすれば、効率性や生産性の高い人間や自然は価値があり、生産性の低い人間や自然は無
価値であることになってしまう。これがデカルト的合理主義のもたらした第一の問題点である。
また、デカルトは、学問の理想を幾何学に置き、学問における確かさとしては、「三角形の内
角の和は 180 度である」というような幾何学的・論理的な明晰判明な確かさ以外は認めようと
しなかった。きわめて狭い範囲の確かさ以外に認めないデカルトの目から見ると、歴史や伝統
などというものはほとんど無価値なであった。デカルトは『方法序説』第二部冒頭で民族国家
の形成について次のように述べている。
「むかしは反未開民族で、きわめてゆっくりと文明化し
てきて、犯罪や紛争などの不都合のために、法律を作るより仕方がなくなってくるに応じてそ
の法律を作った民族は、彼らが寄り集まった最初から思慮あるひとりの立法者の基本法に従っ
た民族と同様には開化されえないものであると想像した。」iデカルトの合理主義は、歴史のな
かで試行錯誤を繰り返しつつ築き上げられてきた伝統的価値を根本から否定する。はからずも
デカルトのことばは、諸問題に対処するかたちで徐々に法を整備していったイギリスの近代化
に対する否定的評価を意味することばとなっており、かつ、次の世紀、彼の祖国フランスで行
なわれる血生臭い急進的な革命を支持することばとなっていることは興味深い。
18 世紀のフランス革命は、イギリス風の試行錯誤しつつ前進する市民革命とは異なり、急進
的な革命であった。フランス革命は、国王をはじめとして同国人の数多の首をギロチンで切り
落として、おびただしい血を流し、教会や王制など伝統的諸価値いっさいをアンシャン・レジ
ーム(旧体制)として否定し去った。フランス革命の直接的な指導思想はジャン・ジャック・ルソ
ーの『社会契約論』であったが、もう一つの指導思想はデカルト的な合理主義精神であったか
らである。幾何学的な確かさのみを確かであるとするデカルト的合理主義によって、彼らは、
民族や教会が数百年も千年も試行錯誤しながら築き上げ、人々が心縛られ、あるいは憩ってき
た伝統、制度、共同体を、いっさい不合理なものとして破壊し去ることができたのであるii。そ
の結果、近代の人間ひとりひとりは孤立化していく。伝統・制度・共同体の破壊と人の孤立化、
これがデカルト的合理主義の第二の問題点である。
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こうした近代合理主義が、人間と自然をカサカサの無味無臭なものとしてしまうことに対し
て反発して、19 世紀は特にドイツでロマン主義が流行する。ロマン主義者は、歴史を重んじ、
神秘を探求する。ゲーテ、シラーがその代表者であり、シュライエルマッハーの宗教はこのロ
マン主義時代の神学版である。またニューエイジ・ムーブメントの祖といわれるロシア系アメ
リカ人ヘレナ・ペトローバ・ブラバツキーが「テオゾフィー(神智学)協会」を設立したのも
この時代のことであるiii。とはいえ、それで近代合理主義は終息したわけではなく、むしろ自然
科学が産業革命と結びつくことによって、世界と人間の具体的な生活を無意味化させていく強
大な力となっていくのである。
2.20 世紀の「理性からの逃走」
1970 年代、福音派のキリスト教界ではF.シェーファーの『理性からの逃走』ivが広く読ま
れていた。シェーファーはこの本の中で、近代合理主義に対する失望と反動が、現代の「理性
からの逃走」という現象を生んだことを指摘し、中世の神学者トマス・アクィナスに始まる聖
書啓示からの理性の自律がその問題の根源だと主張していた。
近代合理主義は、人間も自然も単なる物質に還元して無意味なものであるとしてしまった。
また、近代合理主義は伝統や歴史もそこで築かれてきた共同体の諸価値も無意味なものである
ことを暴露したと思われた。このようにして、結局、近代合理主義は、生きることにはどんな
意味や価値もないとするので、一人一人は孤立させてしまう。
しかし、人間は自分が無意味であり自然も無意味であるということに耐えることができない。
現代人は、近代合理主義的な理性によってはいっさいが無意味であるとされてしまうので、も
はや理性によらず、別の方法で生きる意味や価値をつかもうと考えた。それがF.シェーファ
ーのいう現代人の「理性からの逃走」であり「非合理な飛躍」である。
実存哲学者たちは非合理的な飛躍をして生きる意味をさがし、若者たちはロック・ミュージ
ックや覚醒剤や東洋的瞑想によって生きる意味を求めて非合理な飛躍をしているのだとシェー
ファーは指摘した。そして新正統主義と呼ばれた神学者たちもまた、そうした非合理な飛躍を
しているということを指摘したのである。
シェーファーは、なぜ特にバルト、ブルトマン、ブルンナ―、ティリッヒらの新正統主義(実
存主義)神学に警戒感を示したか。それは、彼らの神学の構造が上述のような「非合理な飛躍」
と同じ構造を持っているからである。新正統主義者は聖書を分析するにあたっては無神論か理
神論を前提とする近代合理主義に立つ聖書高層批評を受け入れ、なおかつ、神学用語を用いて
「神」
「人間」「世界」について意味ありげなことばを語る。その神学の構造が問題であると考え
たのである。シェーファーは、理性的世界では「神は死んだ」としながら、非理性的世界では「神」
を語るのは、まさしく「理性からの逃走」であると喝破したのである。たとえば「キリストの処
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女降誕は事実ではないが、真実である」というように、合理主義的理性によれば処女降誕は「事
実」ではないが、非合理な飛躍によれば処女降誕は「真実」であるというのだ。いわば「鰯の
頭も信心」である。近代合理主義で分析すれば鰯の頭にすぎないものが、実存的飛躍によって
霊験あらたかなお守りとなるというように、新正統主義者においては、近代合理主義で分析す
れば聖書は単なる古代人の諸資料の集成にすぎないものが、実存的飛躍によってありがたい神
のことばになるというのである。
近代合理主義に対する失望が現代人の特徴であり、そこに非合理な飛躍が生じているという
指摘は必ずしもシェーファー独自のものではないであろう。いろいろな著述家が表現は違って
いても近代合理主義の問題性について同じことを言っている。我々が今もう一度シェーファー
に耳を傾けるべきであるのは、彼がこの近代合理主義のもたらした、理性に対する絶望と非合
理な飛躍という状況に対して、ただ一人処方箋を明確に提出した人であるからである。その処
方箋とは、神が聖書においてお与えになった意味ある命題的啓示にこそ解決があるのだという
主張にほかならない。
3.近年の「霊性」ブーム
17 世紀のフランスの思想家ブレーズ・パスカルは、認識はその対象によって方法がちがうと
いうことをよくわきまえた人であった。幾何学的真理は論理的演繹によって認識され、自然科
学的真理は実験によって認識され、宗教的真理は権威によって認識されると区別したのである。
そのパスカルから見れば、デカルトは自然現象を対象としながら、実験よりも論理的演繹を重
視するというあやまちを犯していた。一例をあげてみよう。当時、真空という状態はあるのか
ないのかということが議論の的になっていた。実験結果から見ると、真空という状態があるこ
とは明らかであった。しかし、デカルトは真空はないとした。なぜならば、真空というのは何
も物体が存在しないひろがりを意味しているが、デカルトの哲学によればひろがりというのは
物体の本性であるとされていたからである。物体があってこそ、そこにひろがりがあるべきで
あって、物体もないのにひろがりがあるということは論理的にありえないはずなので、真空は
ありえないとしたのである。
そんなわけでパスカルは「無益で不確実なデカルト」と喝破している。かつ、パスカルは均
質で無限な近代的宇宙観のうちに人間存在の無意味化を見て「無限の空間の永遠の沈黙」に戦
慄を覚えていたv。また 19 世紀人々が進歩の夢に酔っていたロマン主義の時代には、キルケゴ
ールは大衆社会の中に個が埋没していく近代の問題性を感じ取っていたvi。そして 20 世紀にな
って世界大戦があったとき、多くの思想家たちは近代合理主義のもたらす絶望を読み取った。
こういう先駆的な人々はたしかにいた。
しかし、世界中の一般人が近代合理主義の限界と地球的危機を感じ始めたのは、20 世紀も後
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半になってからというべきなのかもしれない。東西冷戦の時代、科学的合理主義の究極的作品
ともいうべき核兵器が、明日にも全人類を滅ぼしてしまうかもしれないという危機があった。
ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦は終わると、核技術者たちは失業して、あちこちの国々に再
就職し、かえって核兵器は世界にばらまかれてしまった。また、近年は近代合理主義がもたら
した人間疎外と環境破壊とが人類の存続をおびやかすものであることが、いよいよ誰の目にも
明らかになってきた。
またかつての「人間機械論」はさらに生物学とコンピューターによる情報処理技術が合体する
ことによってブラッシュアップされて、21 世紀は、遺伝子操作によって人間の遺伝までもコン
トロールすることが企てられるようになってきている。今後、親は産婦人科医でパソコンに遺
伝子情報を入力することによって、自分の好みの知能・体格・容姿・性別を持つこどもを得ら
れるようになると言われている。次の時代の人間観のモデルは、ロボットとしての人間ではな
く、遺伝子という情報の束としての人間となるだろうvii。ロボットや遺伝子の束としての人間
に生きる意味はあるのだろうか。科学的合理主義がもたらした性道徳の無意味化は伝統的な結
婚制度を崩壊し、未婚の母を増やし、安易な離婚を許し、家庭を崩壊させ、性病を蔓延させる。
そうした環境に育つ子どもたちはアイデンティティの問題で不安を抱えている。
また、近代合理主義は産業革命と資本主義と合体することによって破壊力を劇的に増して以
来、歴史と伝統が築き上げてきた地域共同体とその価値観を破壊してきた。イギリスで科学的
合理主義の結果としてもろもろの機械が発明され産業革命が起こると同時に、農村では農地の
囲い込みが始まり、畑を奪われた人々は職を求めて都市に労働力として流入し、農村共同体は
崩壊した。現代にいたって、世界中でいよいよその破壊は加速しつつある。企業の経済効率の
ために都市に人口が集中し、農村の伝統的な共同体はほぼ死滅してしまった。また合理主義は
企業の経済効率と成果がすべてという価値観を正当化して、企業に歯車として組み込まれてい
る人々の家族関係を破壊している。企業の経済効率のために当然のごとく単身赴任が行なわれ
家庭を壊し、当然のごとくリストラが行なわれることなどは、その例である。さらに近年、企
業の経済効率至上主義というかたちを取った近代合理主義は、IT革命と呼ばれる情報化社会
の到来によってさらにパワーアップし、企業の多国籍化をうながし、今や近代国家という枠組
みをもこわしつつあるviii。地域共同体はすでに破壊され、家庭も崩壊しつつあり、さらに近代
国民国家の枠までもが希薄化していくであろう。人はみなアイデンティティを失い、いよいよ
孤立していく。
ところで、近代合理主義のもたらした人と世界の無意味化、伝統・共同体の崩壊による人の
孤立化に対して、20 世紀後半の福音派キリスト教会は何をしてきたのだろうか。自戒を込めつ
つ手厳しい言い方をすれば、おおかたは迎合ではなかっただろうか。東西冷戦の時代には、米
国の福音派諸教会はベトナム戦争が共産主義に対する正義の戦争であるという保証をし、若者
たちを戦地に送り出した。あの時代の米国の反戦運動をする若者たちは、教会に平和運動の精
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神的なより所を見出すことができなかったので、ヒンドゥ教やインディアンの「霊性」に拠り所
を求めたのである。また、米国福音派は経済の拡大する時代の中では、プラグマティズム・成
功哲学・会社組織拡大方法論を教会風に焼きなおした教会成長論や富者の福音の類を提供して
きた。日本でもその後を追っていた。ところが、ここ二十年ほどの間に、教会にも心病む人々
が集まるようになって、伝道者も燃え尽き症候群に陥り、教会はもはや近代合理主義・成長主
義ではやっていけないことにようやく気づきはじめ、そして「霊性」ブームとなっているといえ
るのではなかろうか。
教会は本来、時代に先んじて、その時代の問題を見出して警告をし、救いを提供する預言者
としての任務を負っていると思うが、実際には時代の後を追い、時代の波をかぶってばかりい
たのではないか。その原因は、我々が神のことばに十分に耳を傾けてこなかったからかもしれ
ない。
今、筆者が懸念することは、またも教会が神のことばに十分に耳を傾けず、この世のいう「霊
性」によって惑わされてしまうのではなかろうかということである。傷ついたこの世が「霊性」
を唱えるからといって、教会も神のことばに十分に耳傾けることもなく「霊性」を唱えるとい
うのでは、また同じ轍を踏んでしまうであろう。むろん教会がこの世の必要や傷を知ることは
宣教のためにたいせつなことであるが、今、この世が「霊性」を必要としているからといって、
もし教会がこの世が提供するのと本質において変わらないような「霊性」を提供するならば、
愚かしいこと、いや神の御前に大きな罪を犯すことになるであろう。
第2章 この世の「霊性」と聖書の「霊性」の区別
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものか
どうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
」
1ヨハネ 4:1
1.
「霊性」という用語のあいまいさ
「霊性」ということばはあいまいなことばである。そこでいう「霊」とはどんな霊であるか
が不明だからである。それは、神の霊なのであろうか?人の霊なのであろうか?それとも御使
いたちの霊なのであろうか?それともサタンと悪霊どもなのであろうか?はたまた動物や植物
の霊なのであろうか?そういうことを問わないままに、私たちが「霊性」ということばを用い
うるところに危険性がある。
インターネットの本屋アマゾンで検索したところ、「霊性」
「スピリチュアリティ」というこ
とばがつく本が 2005 年 3 月28日で106点も提供されていた。それらの書物で「霊性」と呼
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ばれているのは、キリスト教のいう聖霊の導きや祈りを意味している用語ばかりではなく、仏
教、神道、心理学、ヒンドゥ教、新宗教、社会学、超常現象、自然環境問題、健康に関する書
物のなかでの用語なのである。そこでいわれている「霊性」とは、聖霊だけでなく、人の霊・
民族の霊・自然の霊・サタン・悪霊などなんでも含みうることばであろう。基本的な区別をし
ていないと、私たちはいつのまにか、聖霊も悪霊もいっしょにして、知らずしてサタンの手伝
いをしていることにもなりかねない。実際、宗教多元主義に立つ神学者ジョン・ヒックは宇宙
創造主、神、ブラフマン、タオ、ダルマ等、各宗教の究極の存在は同じであるとして、これを
「第五次元」と呼んでいるix。
また、ローマ教会は第二バチカン公会議でエキュメニズムに関する教令とともに、諸宗教に
対する教会の態度についての宣言を出し、
「すでに古代から現代に至るまで、種種の民族のうち
には、自然界の移り変わりと人生の諸事件の中に現存する神秘的な力について、一種の知覚が
見られ、時には最高の神、あるいは父なる神についての認識さえも見られる。この知覚と認識
は深い宗教的情操となってその国民の生活に浸透している。
」xとまで言って諸宗教との対話路
線を打ち出している。こうした背景から、司祭たちのうちには諸宗教の研究は当然としても修
行にまで参加するものたちがいる。カトリック作家といわれた遠藤周作は『深い河』でさらに
踏み出して、いなむしろ踏み外して、作中人物に「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッ
パの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒も仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神
はおられると思います」と言わせ、清いものも汚れたものもすべてを呑み込んでたゆたいつつ
流れる土色の母なるガンジス河に「神」のイメージを重ねているxi。つまり彼にとってはガンジ
ス川が「第五次元」なのである。この主人公を見れば遠藤周作もジョン・ヒックと同じように宗
教的多元主義者であったとわかるだろう。彼らの宗教的多元主義とは、キリスト教の一形態で
はなく、汎神論という別の宗教である。
そこで筆者が提唱したいのは、キリスト教会では「霊性」ということばを使わないようにし
ようということである。かつてF.シェーファーの True Spirituality という書名を『真に霊的
なこと』xiiと訳した例があることを思えば、
「霊的であること」という翻訳語も考えられる。そ
れでも「霊的」ということばがわかりにくい。
「聖霊性」ということばはどうであろうか。
「霊的
な人」といわず「聖霊的な人」という表現を聞いたことがある。慣れるまで違和感がなくはな
いが、それは聖霊に満たされた人という意味であるから、霊的というよりも正確な表現という
べきであろう。「聖霊性」が今ひとつというならば、「聖霊に満たされた生」と意味を十分に表
現してはどうだろうか。キリスト教的な霊性という場合、そこ「聖霊に満たされる」という狭い
意味ではなく、祈り・断食・瞑想・奉仕を含み、さらに広く教会・世界観までも含む広い概念
として用いられるべきだとの主張もあるからである。教会がこの世にあって真理をはっきり認
識し、これに生き、かつ伝えるには、この世の霊と聖霊が混同されないための訳語が不可欠で
ある。
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2.汎神論的霊性とその存在論的背景
「霊性」ということばを用いている仏教・神道・新宗教・新新宗教・ヒンドゥ教・ニューエイ
ジにおける神観、世界観を汎神論という。汎神論の意味は、その名のとおり「すべては神であ
り、神はすべてである」ということである。いわば「神」は大海のごときものであり、個物は
その大海の表面にあらわれる波のごときものだというのである。
汎神論的霊性と聖霊に満たされた生とのちがいの根本は、その背景にある神と人との存在の
あり方についての枠組みのちがいにある。汎神論的霊性の背景にあるのは、
「すべては神である。
したがって私も本来は神の一部であり、神である。
」という世界観であるから、その救済の方法
は「私が苦しんでいるのは、自分が神であることを忘却していることによる。よって、自分が
神であることに気づく。
」ことである。
ウパニシャッド哲学における宇宙の唯一の真実在(梵、ブラフマン)と我(アートマン)の
合一いわゆる「梵我一如」つまり「アートマンはまさにブラフマンであります」という境地であ
れxiii、自己を絶対者に結びつけるためのヨーガの修法であれ、プロティノスにおける我と全存
在の根源であるト・ヘン(一者)との合一であれxiv、カール・ユングの心理学における自我と
集合的無意識の一体化であれxv、静寂な瞑想や悟りが霊性における基本的な営みとなる。ニュ
ーエイジ・ムーブメントの唱導者シャーリー・マクレーンはさまざまな霊媒から次のような同
じメッセージを聞いたと報告している。
「自分自身を見よ。自分自身の内を探れ。そうすれば、
自分が宇宙であることがわかるだろう。
」xviと。母なる地球ガイアとの一体化を説くニューエイ
ジ系のエコロジストたちもこの種の瞑想を実践している。
キリスト教神秘主義の伝統の中にも、汎神論的な雰囲気を濃厚に感じさせるものがある。た
とえば、エックハルトの説教の主題は神と人との一体化によって得られる平安と自由を説く新
プラトン的なものであったxvii。エックハルトの思想は、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルとい
った汎神論的なドイツ観念論に影響を与えている。ニューエイジ・ムーブメントの源流である神
智学から別れ出て人智学を唱えた汎神論者ルドルフ・シュタイナー、また、汎神論的心理学カ
ール・ユングはエックハルトを高く評価しているxviii。たとえキリスト教の伝統の中にあるもろ
もろの「霊性」であっても、我々はそれを聖書の光の下に再吟味しなければならない。
3.聖霊は御子の御霊である
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。
』と呼ぶ、御子の御霊を、私たち
の心に遣わしてくださいました。
」ガラテヤ 4:6
9
キリスト者の「霊性」における霊とは、神がキリスト者に賜った「
『アバ、父』と呼ぶ御子の
御霊」
(ガラテヤ4:6)すなわち「子とする御霊」(ローマ 8:15)である。それは歴史のな
かにただ一度、神の御子が、ナザレのイエスという人になられた、あのお方の御霊なのである。
キリスト者の霊性における霊とは、汎神論者がいうような諸宗教に共通し被造物世界を覆う「世
界的な霊」では決してない。
東方教会の伝統では、
「聖霊は御父より出た」と告白するが、西方教会の伝統では「聖霊は父
と子より出た」と告白してきた。ニカイア・コンスタンチノポリス信条の聖霊に関する告白に
おいて、最初のかたちは「また、我らは、聖霊、主にして生命を与え、御父より出で、御父と
御子とともに礼拝されあがめられ預言者らを通して語り給うお方を信ず。
」であったが、589 年
トレド会議で「と子より filioque」と加えられ、
「また、我らは、聖霊、主にして生命を与え、
御父と子より出で、御父と御子とともに礼拝されあがめられ預言者らを通して語り給うお方を
信ず。
」とされた。
「聖霊は御父から出た」という告白では、その霊を特定するのは困難で、汎神論者における
世界霊との区別があいまいになってしまうきらいがある。しかし、聖霊は御父のみならず御子
からも出たという告白をするならば、キリスト者が神から受けた御霊は二千年前、あのガリラ
ヤの地ナザレのイエスとなられた神の御子の御霊なのだということが特定され明瞭にされるで
あろう。
4.アウグスティヌスの回心―――異教からキリスト教へ
教父アウグスティヌスは、若い日にマニ教から新プラトン派へ、そして新プラトン派からキ
リスト教へと回心したという経験をしている。彼はその経験を著書『告白』の中で丁寧に記述
している。かつてマニ教の霊肉二元論の迷妄から自分を解放してくれたのが新プラトン派の哲
学であったので、アウグスティヌスは新プラトン派の哲学を生涯、他の哲学と区別して高く評
価している。高く評価しつつも、彼は新プラトン的な宗教哲学にはとどまりえず、キリストへ
の回心に至った。彼の回心の記述には、新プラトン的霊性とキリスト教的霊性の本質的な違い
が浮かび上がっているのである。
新プラトン派とは一者(ト・ヘン)から世界の万物が流出しているとする汎神論的な哲学で
ある。どのような点でアウグスティヌスの回心の経験は新プラトン派の神秘経験とどの点で類
似しており、どのような点で異なっているのだろうか。
プロティノスによれば、もともと神である一者から知性が生まれ、知性からたましいが生ま
れたのであるから(Ⅴ,1,7)、たましいは内的瞑想によって知性に立ち戻り、知性は一者にも
どってこれを見、これと一体化することができるという。その一者つまり神との合一の境地に
ついて、プロティノスは次のように述べている。
「かくて、そこに見ることができるのは、見る
10
ことが許されるかぎりの、かのものであり、また自己自身なのである。その自己自身は、知性
的な光明にみたされて、ひかり輝く自己自身であり、あるいはむしろ光そのものとなって、き
よらかに、軽やかに、何の重荷もなく、神と化したというよりは、むしろ神であるところの自
己自身なのであるxix。
」
(Ⅵ,9,9)
他方、アウグスティヌスの「光の体験」はどのようなものだろうか。少々丁寧に見ていきたい。
「そこで私は、それらの書物(筆者注:プラトン派の書物)から自分自身にたちかえるように
とすすめられ、あなたにみちびかれながら、心の内奥にはいってゆきました。それができたの
は、あなたが助け主になってくださったからです。私はそこにはいってゆき、何かしら魂の目
のようなものによって、まさにその魂の目をこえたところ、すなわち精神をこえたところに、
不変の光を見ました。・・・(中略)・・・それは、油が水の上にあり、天が地の上にあるようなしか
たで私の精神の上にあったのではなく、私を造ったがゆえに私の上にあり、造られたがゆえに
私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り、この光を知る者は永遠を知る。そ
れを知る者は愛です。xx」
(
『告白』Ⅶ10,16)
(傍線は筆者による)
ここに見るように、アウグスティヌスは「精神をこえたところに」
「不変の光」である神を見
る。光は精神の上にあって、精神は決して光と一体化してしまわないのである。なぜかと言え
ば、神は創造者であり、人は被造物であるゆえに、両者の間には画然たる区別があるからであ
る。形而上的な次元における、区別が神と人との間にはあるのである。
しかも、精神は神である「不変の光」を一瞥はするのであるが、これを享受することは出来な
いで、光に撃ち返されてしまう。
「おお、永遠の真理、真理なる愛、愛なる永遠よ!あなたこそはわが生命、あなたをもとめ
て私は日夜あえぐ。はじめてあなたを知ったとき、あなたは私をひきよせて、見るべきものが
ある、だがそれを見うるだけの者にまだ私はなっていない、ということをお示しになりました。
そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので、私は愛と恐れにわななきま
した。そしてあなたからはるかにへだたり、似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。
」
(同上)
なぜ、アウグスティヌスは不変の光を一瞥しながら、これを味わうことは出来ずに撃ち返さ
れてしまったのだろう。彼の表現によれば、それは彼の「不義のゆえ」であり(同上)
、
「自分自
身の重さ」「肉の習慣」ゆえに下界に転落したのであり(Ⅶ17,23)
、
「弱さのためにうちしりぞ
けられていつもの状態につきもどされ、いま一瞥したものにたいするなつかしい想い出と、香
をかいだだけで食べることのできなかったものへのやるせない思いだけが、私のもとにのこっ
た」
(同上)のである。
先には、アウグスティヌスは創造者と被造物という違いゆえに、神を彼の「魂の上」に見た
というのだが、ここではさらに、彼は自分の不義ゆえに神から突き放されなければならない状
11
態にあったというのである。つまり、倫理的次元における隔たりが神と人との間にあるという
ことである。
では、アウグスティヌスはどのようにして、あの「不変の光」である神を味わいうるように
なるのだろうか。それは永遠の神であられながら人となったキリストによる。
「そこで私は、あなたを味わいうるだけの力を身につけようと道を探しましたが、神と人と
の仲介者である人間イエス・キリストをいだくまでは、
ついに見いだすことができなかった。・・・
中略・・・じっさい私は、わが神である謙遜なイエスをまだ謙遜な態度をもってとらえておらず、
イエスの弱さが教えているものを悟りませんでした。
」(Ⅶ18,24)
光に撃ち返された後、キリストの受肉の意義を悟り得ないでいたアウグスティヌスは、なお
しばらくの間、古い罪の習慣のなかに相変わらず生活し、新プラトン派の哲学書によって新し
い知識を蓄え、撃ち返されたにせよ、神を一瞥したことを多弁を弄して誇るようになってしま
ったのである。
「じっさい私は、罰を身いっぱいにうけながら、知者と思われたいという欲望をいだきはじ
め、そのようなわが身を泣くことなく、かえっておのが知にふくれあがってゆきました。いっ
たいイエス・キリストという謙遜の土台の上に徳を建ててゆく愛は、どこにあったのでしょう
か。
」(Ⅶ20,26)
しかし、ついに転機が訪れる。彼は友人から聖アントニウスの生涯を著した書物を聞かされ
たとき、自分が真理を知りながら肉的な生活にしがみついて真理を行なおうとしないでいると
いう不義の現実を直視させられ、
「いったい、いつまで、いつまで、あした、また、あしたなの
でしょう。どうして、いま、でないのでしょう。なぜ、いまこのときに、醜い私が終わらない
のでしょう。
」といいながら、心打ち砕かれ、悔恨の涙にくれたのである。そのとき、あの有名
な「とりて読め、とりて読め」という子どもの声に促されて使徒パウロのローマ書を開いたの
である。そこには次のように書かれていた。
「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みとをすてよ。
主イエス・キリストを着よ。肉欲をみたすことに心を向けるな。」(ローマ13:13,14)
読み終わった瞬間、「安心の光とでもいったものが、心の中にそそぎこまれてきて、すべての疑
いの闇は消え失せてしまった」のである。アウグスティヌスの決定的回心の出来事である。
アウグスティヌスは、新プラトン派の書物と、新約聖書を比較して、両者の類似点と相違点
に触れている(告白Ⅶ9,13)
。プラトン派の書物と新約聖書における類似点として彼が挙げるの
は、ヨハネ福音書一章の冒頭の永遠のロゴス論である。他方、アウグスティヌスが新プラトン
派の書物には見出せず、聖書にのみ見出したことは、
「ことばが人となって私たちの間に住まわ
れた」という受肉の事実。そして、ピリピ 2:6−8「キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をと
り、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑
12
しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
」というキリストの受肉と服
従と贖罪の出来事である。
以上から、プロティノスとアウグスティヌスには、三つの点で決定的な違いがあることが分
かる。第一点は存在にかかわることである。プロティノスにおいては瞑想の結果、人間は神と
合一してしまうのであるが、アウグスティヌスのばあいは光(神)を一瞥したとはいえ、光と合
一したわけではなく「精神の上に」光を見たというのである。つまり、光はあくまでもアウグス
ティヌスにとってはどこまで行っても、上なる存在であり、超越者であるということである。
プロティノスにおいては、人は神に成りあがることができるが、聖書は人は神に成り上がるこ
とは出来ないのである。
プロティノスとアウグスティヌスの違いの第二点は罪に関することである。プロティノスの
場合には神と合一するにあたって罪の問題は存在しなかった。
「どの程度まで人間は自分の力だ
けで自らの救済を達成できると期待してよいか。プロティノスの答えは端的であった。彼の最
期の言葉はこうである。
『私は私自身の中の神的なものを全体の中の神的なものへの返却しよう
と努めている。
』
『この神的な自己は解放を待っているのではない。ただそれは発見されるのを
待っているのだ。
』xxi」
しかし、アウグスティヌスの場合には罪の問題の自覚があった。アウグスティヌスにおいて
は、神と人とは、創造主と被造物という存在の次元で違いがあるだけでなく、倫理的な次元で
罪というもう一つの隔たりがあった。そして、その罪の根本は傲慢である。己の分を捨てて、
神に成り上がろうとすることがその傲慢の根にある。
プロティノスとアウグスティヌスの違いの第三点は神の恵みに関することである。新プラト
ン派には神のことばの永遠性についての記述があるが、そこには、神のことばの受肉と贖罪は
ない。しかし、アウグスティヌスにとって、神のことばの受肉こそ、キリストにある救いの決
定的な真理であった。神は創造者と被造物という隔てを乗り越えて人となられたのである。異
教においては、人が神に成り上がろうとするが、聖書は神が人と成られたと告げる。そして、
人となられた神のことばは十字架の贖罪を成し遂げられた。
アウグスティヌスとプロティノスの三つの違いは、ひいては汎神論的霊性一般とキリスト教
的霊性との区別点でもある。汎神論的霊性においては人が神と合一すること、人が神に成り上
がることを理想とする。他方、聖書的霊性においては、人は存在としてはあくまで人であって
神には成ることはできないことをわきまえ、人としての分に安んじて止まるのである。かえっ
て、最初の人が「あなたは神のようになれる」というサタンの誘惑に敗れて、己の分を捨てて
神に成りあがろうとしたことこそ、罪の本質であり、その罪ゆえに、人と神との間には倫理的
な隔たりできてしまった。しかし、神の御子はご自身神でありながら、神のありかたを捨てる
13
ことができないとは考えないで、存在における隔たりを超えて人となってくださった。そして、
十字架と復活による贖罪によって神と人との間の罪の隔てを取り除いてくださったのである。
5.祈りのことば
「霊性」を考える上では、祈りについての考察は欠かすことはできない。信仰は単なる書物
の知識、机上の空論や学会の議論ではなく、生ける実践であるからである。
(1)異邦人の祈り
人が神に成りあがることは罪であり、神と人との間には創造主と被造物という違いがあると
いうこと、また、さらに神と人との間には罪という隔てがあることをも私たちは確認した。で
は、人はどのようにして神とかかわりを持つことができるだろうか。人から神に向かっての道
は閉ざされているが、神から人への道が開かれているのである。父のふところにおられる独り
子の神、イエス・キリストが人として私たちの間に住まわれ、異教徒の祈りと神の子どもたち
の祈りの違いについて教えてくださった。主イエスが「主の祈り」を教えるに先立っておっしゃ
った異教における祈りとの区別のことばから始めよう。
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはこと
ば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あな
たがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられ
るからです。
」マタイ 6:7−8
汎神論的霊性の最高境地、悟りにおいては、
「神」と「私」の区別を意識しなくなることが肝
要なことである。
「神」のうちに自分が溶け込み、自ら「神」になるというのが悟りである。だ
から、しばしば、汎神論的霊性においては、ことばを超えた意識に達することが求められる。
というのは、通常のコミュニケーションにおけることばというものは知性を働かせ、ものごと
を弁別する機能があるので、ことばは神と個我の合一にとってはむしろ邪魔だからである。コ
ミュニケーションにおいては我と汝、汝と我という対話者の区別がそこにある。そういうわけ
で、たとえば禅においても無我の境地(変性意識)に達するために「不立文字」ということが言
われるし、プロティノスの一者との合一の境地においても、一者なる神を見ることは「もはや
論理ではなく、むしろ論理以上に大いなるものであり、論理に先立ち、論理の上に君臨するも
の」(Ⅵ,9,10)といわれている
もっとも汎神論的宗教においては必ずしも静寂な瞑想でなく、カルメル山でエリヤが対決し
たバアルの祭司たちや日蓮正宗の題目のように熱狂的にマントラ(真言)が唱えられるばあい
14
もある。バラモンたちはマントラの字句そのものに神秘な力が宿っていると考え、祭式におい
てこれを唱えた。その目指すところは静寂な瞑想と同じく自己が究極的実在と合一したと妄想
する恍惚状態に至ることである。マントラが熱心に繰り返されると、意識からことばの論理の
統御が外れ、心が無防備な開かれた状態になってしまうのである。このようにマントラは通常
のコミュニケーションのためのことばではなく、むしろことばの論理を捨てるためのことばな
のである。
これは、ことばというものを神と人との間の知性による理解をともなう人格的コミュニケー
ションの方法としている主イエスの教えとは根本的に違う点である。汎神論的宗教のマントラ
は、一見するとことばを重要視しているように思われるが、内容的には、聖書におけることば
の機能とはまったく異なっていることに注意しておきたい。マントラにおけることばというの
は、それ自体神秘的な力を持つものとされている。悪霊との交信ということをリアルにとらえ
る立場からすれば、マントラは悪霊を呼び出すための信号のようなものということになるだろ
うし、脳の仕組みからこれを考えるひとは、マントラを繰り返すことは脳における思考の中枢
を麻痺させる手段であるということになるであろう。そういう意味では、呼吸の調整によって
脳を酸欠状態にもっていくヨーガの修法と同類の行為であると言えようxxii。
しかし、聖書におけることばは人格と人格とのコミュニケーションの手段である。神は理解
できることばをもって、我々に聖書における啓示を与えてくださった。また、主は私たちに同
じ言葉を繰り返すのではなく、意味あることばをもって祈りなさいとおっしゃって、そのサン
プルとして「主の祈り」を教えてくださった。それを思えば、
『主の祈り』を意味をよく理解も
せずに繰り返していうようなことがないように、私たちは注意したいものである。
(2)神と人との区別と関係
聖書によれば、神と人とは存在としての質的な違いがある。両者は無限者と有限者、創造主
と被造物としてはっきりと区別される。しかし、同時に、聖書は、神は人を神の似姿として造
られ、かつ、自然を通しての啓示とことばによる命題的啓示を受けるように造ってくださった
と主張している。だから、堕落以前のエデンの園においても、無限の神が有限な人間に自らを
適合させ、人間の知性に理解可能なことばによる啓示をしてくださることによって、神と人間
との間にはコミュニケーションが成り立ったことを示している。
さて、もともとこのように神のへりくだりによってコミュニケーションが可能であったのに、
人は神に背いて堕落して「その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなっ」て「知性におい
ても暗くなって」
、人は神からの被造物を介しての啓示も命題的啓示も正しく理解し応答できな
くなってしまい、かえって被造物を神としてあがめる偶像崇拝に陥ってしまった(ローマ1:18
−25、エペソ 4:18)。ただキリストを信じ贖われ、知性を聖霊によって再生されることによっ
て、人は神の啓示を神をあがめる目的で正しく理解し応答できるようになる(1コリント 2:14
15
−16)xxiii。とはいえ、キリスト者とてまだ聖化の途上にある者にすぎないので、神の啓示を十
全な意味で正しく受け止めることは古代の銅鏡に顔を映すようにきわめて朦朧としたものであ
り、完全さは終末における栄化のときを待たねばならない(1コリント 13:12)。
このように、聖書によれば、神と人との交流について考える時、我々は二つの側面を考慮す
る必要があることがわかる。
第一は、神と人との区別性と関係性の双方を考慮にいれることである。神と人とは存在にお
ける区別、つまり、無限者と有限者、創造者と被造物という存在の質の違いとしての区別があ
るが、同時に、神は人をご自分の似姿として造ってくださり、かつ人に適合してコミュニケー
ション可能な命題的啓示と被造物を通しての啓示を与えたまうという事実である。
第二は、啓示の受領者である人間の側の知性には状態のちがいがあるということである。①
堕落前、②堕落後、③再生後の聖化途上と④完全に栄化された状態という四つの状態それぞれ
における知性の状態に応じて、知性が啓示を受領する機能が異なることを考慮する必要がある。
罪人は、神の恩寵による知性の再生があってはじめて、神のことばを神のことばとして信じか
つ理解できるようになる。現在、主イエスを信じ再臨を待望しつつ地上に住む我々が、神との
交わりという意味で霊性ということを考察するにあたっては、キリストにある恵みによって再
生され聖化の途上にある者として、神と人との間のコミュニケーションを取り上げることが適
切である。その実例をいくつか聖書から見てみよう。
アブラハムがソドム滅亡を前に主に対して弁じる場面、ヨブが神に叫び神と人との異質性を
徹底的に悟らされ嘆く場面、モーセが罪を犯したイスラエルの民のために執拗に取り成す祈り、
詩篇の各所に見られる神に対して叫ぶ祈り。そして、主イエスの叫ぶ祈りが御父に受け入れら
れたこと。ここには、強烈に神と人との対決が現われている。究極的な実在と個我との融合を
説く汎神論的な霊性における静寂主義とはまるで異質の祈りがある。たしかに、祈りの結末に
おいて人は神の主権のもとに服し、
「みこころがなりますように」という結論に至るべきなのだ
が、最初からそうではない。もし、アブラハムが「ソドムを滅ぼしたければどうぞ、ご随意に。
」
と祈ったなら、神のみこころにかなったであろうか。もしモーセが怒れる神に対して、
「どうぞ
仰せのとおりイスラエルを滅ぼして、私の子孫を神の民としてくださって結構ですよ。
」と祈っ
たならば、神のみこころにかなったであろうか。そういう祈りは敬虔ではなく霊的怠惰にすぎ
ない。単なる瞑想や交わりや、静寂主義者が理想とする従順な調子の祈りと区別して、こうし
た神と格闘するような聖書的な祈りの本性を見事に描き出したのは P.T.フォーサイスであ
ったxxiv。
こうした神と人との区別を前提とした上でなければ、神が人となられた受肉の不思議、聖霊
の内住という驚くべき恵みは決して正しく把握できないであろう。神と人とが同質である汎神
論の枠の中では、天孫降臨も憑依現象も当たり前のことであるし、人が神に成りあがることも
当たり前のことである。異教における霊性の目指す理想は<人が神となる>ことであり、他方、
16
聖書によれば、人が神となろうとすることこそ罪の本質なのである。
(3)理解可能なことば
このように創造主と被造物、無限者と有限者という区別はあるものの、神と人との間にはこ
とばによる対話・交流が可能であるということは、聖書が示すもう一方の重要な真理である。
アブラハムもヨブもモーセもダビデもイザヤもパウロもペテロも、みな、意味あることばをも
って神に叫び、祈った。そして、神は人に理解できる啓示をもって答え、また、
「来たれ、さあ
論じ合おう」とさえ我々に呼びかけたまうのである。そもそも対決が成り立つということは、
神と人との間に区別とともに、関係があることを意味している。関係が無いところに対決も成
り立たないであろう。
もちろん神との交わりは、対決ばかりではない。ただ聖書的な霊性においては、神と人との
区別がはっきりとあることをあきらかにしたかったので、先にそういう例をとりあげたにすぎ
ない。エリヤがバアルの預言者との戦いに疲れ果て、王妃イゼベルの脅かしにおののき逃げ出
したとき、主なる神は彼を肉体的にも癒し慰め、そして、激しい嵐や火や地震の中には現われ
ず、かすかな細い声をもって――しかしやはりことばをもって――お語りになった。そしてエ
リヤとの対話が始まる。静かな場面である。しかし、これはいわゆる汎神論的な神との融合や
一体化でないことは誰の目にもあきらかであろう。そこには、意味のあることばのやりとりが
あるからである。ここには、知性を超えたマントラではなく、不立文字でもなく、神との合一
でもなく、人格と人格との理解可能な対話がある。
神と人との間にことばによる人格的コミュニケーションが可能であるということは、聖書が
示すもう一つの非常に重要な点であり、かつ、汎神論と区別されるべき点である。神は、意味
あることばをもって「さあ論じ合おう」と我々に呼びかけられる。
そして、主イエスは「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけませ
ん。
」と警告し、むしろすべての必要を知っていてくださる御父に信頼して話しなさいと「主の
祈り」を教えてくださった。主イエスは、マントラ百回・千回を否定し、意味あることばでも
って祈れとおっしゃっていらっしゃるのである。神と人との関係は、非人格的な融合ではなく、
意味あることばを伴う人格的交流であることがよくわかるであろう。
ここでも新プラトン主義という汎神論的宗教哲学からキリストの福音に改宗したアウグステ
ィヌスの例を取り上げてみよう。P.ブラウンは次のように指摘している。
「一見すると、
『告白
録』を位置づけるのはたやすいように見える。それは明らかに新プラトン主義哲学者の作品で
ある。たとえば、それは宗教哲学の長い伝統に見られる神への祈りの形式で書かれている。(中
略)祈りは思弁的な探求のための誰もが認める道具であった。(中略)しかし、そのような祈り
は、哲学者が自己の精神を神へと高めるなかでは初歩的な段階であるとみなされるのが常であ
った。祈りはけっして神との生き生きとした会話を始めるために用いられることはなかった。
17
他方アウグスティヌスは『告白録』を通じてずっと祈りを用い続けている。
『アウグスティヌス
が「告白録」の中で神と談話するようには、プロティノスが一者と談話することは決してなか
った。
』xxv」
第3章 新約的霊性――神の子として、宣教に生きる
1.御子の受肉と「子とすること」
異教的な霊性の問題点は、
「あなたは神のようになれる」というサタンの誘惑に乗せられ、被
造物である人間でありながら人間として許された分を捨てて、神に成りあがろうとすることで
あることを先に学んだ。しかし、もう一方で新約聖書は、キリスト者の究極の希望としてキリ
ストの似姿、神の似姿にされることを述べている。
マタイ 5:48
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
第二コリント 3:18
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄
光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働
きによるのです。
第一ヨハネ 3:2
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていま
せん。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかってい
ます。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです
では、サタンがいう「人が神のようになれる」という誘惑と、新約聖書がいう「人がキリス
トの似姿、神の似姿になる」という希望とはどのように違うのだろうか。
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、
善悪を知るようになることを神は知っているのです。
」(創世記3:5)という蛇の誘惑に負け
て最初の夫婦が善悪の知識の木から取って食べた時、神も「見よ。人はわれわれのひとりのよう
になり、善悪を知るようになった。」
(創世記3:22)とおっしゃっているのだから、実際な
んらかの意味で人は神のようになったのである。無論、このとき「人が神のようになった」と
いうのは、人が全知全能になったという意味ではない。では、どういう意味なのだろうか。注
目すべきことは、「善悪を知るようになる」という表現と「神のようになる」という表現が繰り
返し並置されていることである。つまり、ここでは「善悪を知るようになること」と「神のよう
になること」は同じことを意味していると理解できる。その意味は、本来、神が被造物に関し
18
て何が善であり何が悪であるかをお定めになる権威をお持ちであるように、神に背を向けた人
間が自分をあたかも主権者であるかのように思い上がって、何が善である何が悪であるかを定
めうるのだと傲慢になってしまったという意味である。つまり、本来、神こそ万物の尺度であ
られるのだが、
「人間は万物の尺度である」と思い上がってしまったということである。理性は
何物にも制限されず自ら立ちうるのだという、近代思想における理性の自律というドグマの萌
芽がここにすでに見えているともいえよう。
では、新約聖書が繰り返し語っている、
「主と似た者になる」「キリストに似た者になる」「天
の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」というのはどういう意味なのだろ
うか。傲慢にも神に成りあがろうとするのでなく、
「神のようになる」ことはどのようにして可
能なのだろうか。
本来、聖書は、<人間は神のかたちとして創造された>と述べている。ところが、神に背い
た結果、その神のかたちを甚だしく毀損してしまった。その毀損した神のかたちがキリストに
あって再び回復されるという意味で「キリストに似た者」になるのである。本来、人間は「神の
かたち」であるゆえに尊いのだが、あくまでも「神のかたち」にすぎないゆえに、神の御前で
は小さな存在にすぎないことをわきまえるべきなのである。
「神のかたち」であること、それが
本来の人間のありかたなのである。ところが最初の人は、
「神のかたち」であることに満足でき
ず、神そのものに成ろうとしたところに罪があった。そのため人は、十分には「神のかたち」
でなくなってしまった。言い換えれば、堕落によって人間は、十分に人間でなくなってしまっ
たのである。
したがって、私たちが「キリストに似た者になる」「天の父のように完全になる」ということ
は、失われた「神のかたち」
、すなわち、本来の人間性を回復していただくということに他なら
ない。神に成り上がることでは決してない。だから、聖化を神化などと呼ぶことは大きなまち
がいである。人が本来の人になるために、神の御子がまことの人となって地上に来てくださっ
た。ガラテヤ書は次のように述べている。ガラテヤ 4:4−6
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、
また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、
私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、
神は『アバ、父。
』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
」
ここに、神は二つの面で私たちを子としてくださったと書かれている。一つは法的に身分と
して養子として迎えてくださったということであり、もう一つは神を「アバ父」と慕わしく呼ぶ
御子の御霊を私たちに与えてくださることにより、霊的に神の子どもとしての性質をお与えく
ださったということである。神の子どもとしての性質とは、神を「おとうさん」と慕わしく感
じ、愛し、従いたく願う性質にほかならない。
19
神の子どもとされたということ、聖なる神を「アバ父」と心から呼ぶ者となったという恵み
は、ヘンリー・ナウエンや坂野慧吉が、その聖書的「霊性」の核心的体験として語っているこ
とであるxxvi。またJ.I.パッカーも著書『神について』において神の子とされるという祝福
こそ新約聖書が語る祝福の核心であると指摘している。
2.
「子とすること」は義認と聖化の矛盾を解決する
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくだ
さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、
『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子
どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
」
(ローマ
8:15,16)
罪を悔い改めてイエスを信じ、義認の恵みにあずかって信仰生活が始まっても、ときに、信
仰生活においてくたびれてしまう人がしばしばいる。その一因は、聖化をむやみに強調するこ
とによる。 聖化をむやみに強調すると、その人は恵みによる救いから得た平安を失い、律法主
義に逆行して、己の行ないを誇る傲慢に陥ってしまったり、逆にきよめの実が見えないときに
は救いの確信を失って恐怖に陥ったりしてしまうのである。宗教的な行ないというよりも、さ
らに外面的な成果を強調する今風の律法主義のことばに置き換えて言えば、たとえば牧師がデ
ラックスな会堂が建ったということで傲慢になったり、逆に、そういう種類の成果が上がらな
いと自分はダメ牧師だと卑下してしまうというような問題である。
元来、義認と聖化のあいだには矛盾が生じがちなのである。なぜならば、義認とは<罪人が
罪人であるままで神の前に義と宣言される>という法的概念であるのに対して、聖化が<罪人
の罪性が実質的に減じていくということ>を意味しているとすれば、聖化が進むほどに義認が
実質的に意味を失っていくということになるからである。
また、義認が、<罪人が罪人であるままで義と宣言されること>であるゆえに、義認は、聖
化をうながすものとなりにくい。罪人が罪人のまま義とされることがすばらしい恵みであると
すれば、聖化を求める必要を感じないどころか、聖化を求めることに危険すら見出すであろう。
ではどうすればよいのか。ウェストミンスター信条は、キリスト者がこの世にあって受ける
主な三つの祝福として、
「義とすること」
、
「子とすること」
、
「聖とすること」の三つを挙げてい
るが、そのうちの一つ「子とすること」を聖書から正しく理解して適用することである。ウェス
トミンスター信条を奉じながら、残念ながら改革派神学においてはこれまで「子とすること」
は十分に論じられ明確にされて来なかったきらいがある。その理由は、改革派神学の特徴の一
つである旧約と新約の一貫性を重んじるということと関連していると思われる。「子とするこ
と」という恵みは新約に特徴的な恵みなので、いきおい視野から外されるということになった
のであろう。しかし、新約における恵みは旧約における恵みに勝っている。
「私たちはみな、こ
20
の方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律
法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
」
(ヨハネ福音書 1:16,17)
。
旧約時代において聖徒たちの神への呼びかけは「主よ」が一般的であったが、神の御子イエス
は、私たちに「父よ」と呼ぶようにと教えてくださり、私たちに「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊
を賜ったのである(ガラテヤ4:6)
。
「子とすること」には、神の子として一回的に決定されたという法的側面と、
「子としてくだ
さる御霊」を受けて実質的に神の子として新生し、その性質を受けるという実質的霊的側面と
の両面がある。ゆえに、
「子とすること」は、義認と聖化の矛盾を解決しうるのである。どのよ
うに解決するだろうか。
さて、ローマ書 8 章 15 節を見れば、キリスト者は、すでに義認の恵みに与かりながら、「再
び恐怖に陥る」ような奴隷的な自己認識を持つ場合があることがわかる。それは 聖化が律法主
義的意識に陥った結果である。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてく
ださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、
『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の
子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
」
(ロー
マ 8:15、16)
奴隷的な自己認識とは、神はそれほど自分のことを愛してはおられないと考え、自分には価
値がないと見限った意識である。放蕩息子が帰還にあたって「もう私は、あなたの子と呼ばれ
る資格はありません。雇い人のひとりにしてください。
」
(ルカ 15:19)と言おうと準備したあ
のせりふに表わされている意識である。また、それは神の愛を疑い、自分は働きの如何によっ
て神から捨てられるのではないかと恐れていることを意味する。奴隷的意識にとどまっている
キリスト者は、一度は罪が赦されたと喜びながら、信仰生活に歩むうちに、なかなか実を結ば
ない自己を見ては、がっかりして、たとえ神でもこんな自分のことは愛してはくださるまいと
恐怖を抱いてしまうのである。それでなんとか懸命に奉仕し成果を挙げることで主に認められ
ようとして律法主義に逆行する。律法主義における恐怖は傲慢の裏返しである。 成果をあげら
れたと満足するときには傲慢になり、成果があがらないと恐怖に陥る。
奴隷的自己認識のもたらすこの問題を解決するためは、神は、単に私の罪を赦すにとどまら
ず、私を子どもとして愛していてくださるという恵みの事実を十分に認識し、信じることが必
要であるとローマ書は告げているのである。神は、主人として奴隷である私をその成果によっ
て評価するのではなく、あるいは、いやいや雇っていてくださるのではなく、父として、子で
ある私の存在を喜んでいてくださるという認識が、恐怖とその裏返しとしての傲慢から人を解
放する。このように「子とされた」恵みの認識は、聖化における律法主義的な罠から、奴隷的な
信者を救い出すのである。
21
しかも、父の子に対する期待は、主人の奴隷に対する期待よりもはるかに大きいであろう。
そして健全な親子関係であれば、子は罰に対する恐怖からではなく、むしろ父の愛に対する感
謝と喜びからその期待に応えようとするであろう。新約において、父なる神のご自分の子ども
たちに対する期待は、旧約における主なる神の、ご自分の奴隷たちに対する期待よりもはるか
に大きい。旧約の十戒が禁止命令を基調とするのに対して、新約の命令が積極的内容を基調と
しているのはそのせいである。旧約が「殺すな」といえば、新約は兄弟に向かって「腹を立て
るな、罵るな」と命じ、旧約が「姦淫するな」といえば、新約は「情欲をもって女を見る者は心
のなかですでに姦淫を犯したのである」と言い、旧約が「盗むな」といえば、新約は「困ってい
る人々に施しをするために自分の手でもって働きなさい」と命じ、旧約が「偽証をするな」とい
えば、新約は「真実を語れ」と命じる。
(十戒とマタイ 5:21−48、エペソ 4:25−30 を比較せ
よ)
。いわば、旧約が 1 ミリオン行けと命じるならば、新約は 2 ミリオン行けと命じるのであ
る。奴隷たちは叱られまいとしてしぶしぶ 1 ミリオン行くのだが、子どもたちは、喜び勇んで
2 ミリオン行く。その胸に、父の愛への感謝があふれているからである。
「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
」(エペソ5:1)
このように、「子とされた」恵みの認識は、霊的怠惰という罠からも、怠け者の奴隷を救い出
すのである。
3.子とする御霊は世界の相続人としての責任を自覚させる
霊性に関心が集中することで、現世否定・厭世主義・禁欲主義に陥るということが過去のキリ
スト者の人々にあった。そうした考え方の背景には、霊的なものはきよく、物質的なものは汚
れているという霊肉二元論があるのであろう。霊肉二元論は古代教会におけるグノーシス主義
の異端であって、決して聖書的なものではない。「神は天と地を創造した。
」天のみならず地も
また神の作品なのであるxxvii。キリスト者が「地」をないがしろにしてよいわけがない。
「子とする御霊」によるキリスト者の霊性は、厭世主義には陥らない。なぜなら、父なる神
は、その子どもたちに地の相続人としての責任を与えておられることを知っているからである。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受ける
ために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であ
ります。
」ローマ 8:17
「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
」
ガラテヤ 4:7
神の子どもすなわち世界の相続人ということは、神の二つのご命令に応答する任務があると
22
いうことである。一つは文化命令であり、一つは宣教命令である。子とする御霊によって、我々
はこの二つの命令に応答することができる。
(1)文化命令への応答
聖書によればアダムの堕落以降、被造物は本来の状態ではなくなって虚無に服している(ローマ
8:20−22)。そして、この世にはサタンの影響がおよんでおり、サタンはこの世の神、この世の君とさ
え呼ばれていることも事実である(2 コリント4:4、ヨハネ12:31)。サタンの影響下にある諸価値という
意味では、世と世の欲は滅ぶべきものである(1ヨハネ2:15−17)。サタンはあなどりえないし、サタン
の影響下にあるこの世に対しても警戒をしなければならない。
しかし、それでもなお被造物は神のものであり、神はこれが徹底的には滅び去ってしまわぬように、
保持しておられ、神の子たちにこの世界を委ねておられることももう一方の事実なのである。さればこ
そ、主イエスは、「あなたがたは天の光である」「天の塩である」とはおっしゃらずに、「あなたがたは世
界の光である」「地の塩である」とおっしゃった。
たしかに、この虚無に服した被造物が、最終的に滅びの束縛から解放されて栄光に入れられるのは、
主イエスの再臨を待たなければならないけれども(ローマ 8:18、21)、今、この時にも、御父は子ども
であるキリスト者たちに、うめいている被造物の管理を委ねておられる。
このように、御父はたしかに我々に世界の相続人として任務をお与えになっている。ただし
世界の相続人としての責任を果たすにあたって、忘れてはならない格別重要な点がある。それ
は、キリストの「子とする御霊」のたまわる謙遜という実である。
サタンはいつも神のまねをしたがるもので、世界の相続についても、人間に対して「世界の
栄華をおまえにやろう」という(マタイ 4:8,9 参照)。それは世界の傲慢な権力者となれという
誘惑である。自ら神のごとくなろうとする傲慢を原理とするサタン的な世界の相続者は、他者
を支配し、収奪し、破壊する。アウグスティヌスは、自己愛こそはカイン―レメク―バベル・・・
そして、
「獣」
(黙示録 13:1,2)と連なる「地の国」の支配原理であるといった。過去の歴史
を振り返ればいわゆるキリスト教国の、自らキリスト者を名乗る王や大統領であっても、しば
しばこのサタンの罠に落ちたことはあきらかである。
しかし、神の子どもたちは、十字架にいたるまで謙遜のかぎりを尽くされた御子の御霊を受
けたことを忘れてはならない。だから、キリストの御霊に満たされた神の子どもたちは、この
傷つき苦しむ世界に愛をもって仕えるためにこそ、これを相続するのである。その謙遜な愛こ
そアベル―セツ―ノア・・・と連なる「神の国」の特質であり、アウグスティヌスはそれを「神
への愛」と表現したxxviii。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
」(マタイ 5:5)
23
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、
偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で
人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるた
めではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分
のいのちを与えるためなのです。
」(マルコ 10:42−45)
しかし、この点で、キリスト者は十分にその相続人としての役割を果たしてきただろうか。
傲慢になって、被造物から収奪をしてきたのではないか。また自称キリスト教国が帝国主義的
権力を振り回してきたのではなかろうか。
(2)宣教命令への応答
神の子ども、つまり世界の相続人として、我々には世界に福音を宣べ伝える任務が託されて
いる。世界は単に文化的に神のみこころにかなったものとして管理されれば十分なのではない。
アダムの堕落以来、神に背いている世界が、悔い改めて神の支配の下に立ち返るように働くこ
とが、神の子ども、世界の相続人としての任務であることは当然のことといえよう。そのため
に、神は教会に聖霊を注ぎたまうた。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エ
ルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使
徒 1:8
したがって、新約的な神の子どもとしての霊性とはダイナミックな宣教的霊性ということも
できる。神の子どもとしての霊性という表現には、御父のふところに抱かれていやされる子供
のイメージがあり、どちらかというと静的な印象を受けるが、聖書は必ずしもそうした面のみ
を述べているわけではない。傷ついた者が神のふところで癒されて、力を受けて大胆に福音を
宣べ伝えて行くというダイナミズムをも語っているのではなかろうか。
4.御霊のとりなし
ローマ書 8 章 26 節から 30 節には、神の子どもとされた私たちを、御父がどのようにしてキ
リストの似姿へと導いてくださるのか、つまり、聖化について語られている。第一に御霊のと
りなし。第二に神の摂理。第三に神の家族。この三つがここで教えられている、聖化における
神の方法である。
まず、26−27 節で、御霊のとりなしの働きが教えられている。キリストの似姿を目指して歩
24
みつつも、私たちはしばしば自分の肉とサタンの誘惑とこの世の力に直面して弱り果ててしま
うことがある。特に、ローマ書 7 章にパウロが述べたような、己の罪の現実に打ちひしがれる
とき、御霊のとりなしはどれほどありがたいことだろうか。
「私には、自分のしていることがわ
かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なって
いるからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを
認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住
みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを
知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないか
らです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なってい
ます。
」
(ローマ 7:15−19)というような、自分の肉との葛藤のなかにあるとき、もはや神に
向かって祈ることばさえ失うことがあるだろう。何度も何度も同じような罪を犯して、罪を告
白することも申し訳ないような思いにとらわれてしまうことがあるだろう。しかし、そのよう
な時、御霊は弱い私たちを助けてくださる。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈った
らよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちの
ためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知って
おられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださ
るからです。
」ローマ8:26.27
5.御父の摂理と神の子どもの聖化
神が私たちを聖化するにあたって、もう一つのたいせつなわざは摂理である。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての
ことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定
められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々に
はさらに栄光をお与えになりました。
」ローマ 8:28−30
この三節は平行関係にある。すなわち、28 節「神のご計画」と 29 節「あらかじめ知ってお
られる人々」と 30 節「あらかじめ定めた人々」が平行して同じことを意味している。28 節「召
された」と 30 節「召し」が平行して同じことを意味している。そして、28 節「神がすべての
ことを働かせて益とする」と 29 節「御子のかたちと同じ姿に」すること、そして 30 節「義と認
25
め、義と認めた人々にさらに栄光を与える」ことが同じことを意味している。
筆者がここで特に指摘したいのは、「神がすべてのことを働かせて」もたらしてくださる「益」
とは、義と認め、栄光ある御子の似姿にまで導いてくださることを意味しているということで
ある。すべてのことを働かせるとは、神の摂理を意味しているから、<神は、ご自分の子たち
を、摂理によって、義と認め、キリストの似姿にまで導いてくださるのである>と使徒パウロ
は言っているのである。
摂理ということばはプロヴィデンチアの訳語であるが、このことばは他に配慮・配剤とも訳
されうる。神はご自分の子どもを長子キリストの似姿にまで育てるために、さまざまな配剤を
してくださる。配剤とは医者が、患者の病状に応じて、さまざまな成分を調合してぴったりの
薬を用意することを意味している。そのように御父は、子どものたましいの病のいやしのため
に、嬉しいこと、悲しいこと、恐ろしいこと、すばらしいこと、平凡な日々、時に劇的な出来
事など、さまざまな出来事を人生のうちにお与えになることによって、それぞれにピッタリの
薬をお与え下さる。特に、
「良薬口に苦し」というが、聖書を読むと神はしばしば苦い薬でもっ
て、その愛する子どもをご自分と御子イエスに似た者、聖なる者へと成長させてくださるのだ
ということがわかる。試練と聖化とはきっても切れない関係にあることを、旧約聖書も、新約
聖書も繰り返し述べている。ヘブル書12章5節から試練の配剤について三つのことを学んで
おきたい。
第一に学ぶべきことは、試練は神の愛の証だということである。神様が私たちに試練をお与
えになるのは、私たちを憎んでいるからではなく、逆に、私たちをご自分の子として愛してお
られるからである。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧め
を忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果て
てはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるか
らである。
』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らし
めを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」ヘブル 12:5
−8
第二に知るべきことは、父から試練を受けたときは逃げ出さないで服従べきだということで
ある。良薬が苦いからといって呑まないで捨ててはいけない。これを与えてくださる父を敬い、
服従してごっくんと飲むべきである。父なる神のご愛を疑って捨ててはいけない、逃避してはい
けない。「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私た
ちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべ
きではないでしょうか。
」ヘブル 12:9
第三に、試練の目的は 聖化であるということである。つまり、父なる神様が摂理のうちに、
試練をくださるには目的がある。その目的は、私たちを父なる神様ご自身のきよさに与からせ
26
るためであり、平安な義の実を結ばせるためなのである。神様に似た者として作り変えるため
にこそ、試練はあたえられる。「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに
私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずか
らせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の
実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなた
がたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、
いやむしろ、いやされるためです。
」ヘブル 12:10−13
『ハイデルベルク信仰問答』の神の摂理の問答を味読しておきたい。
「問 27 神の摂理とは何であると思いますか。
答え それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、その
すべての被造物をも、御手をもってするごとくに、保ちまた支配してくださり、木の葉も草も、
雨もひでりも、実り豊かな都市も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も
貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としての御手によって、我々に来るのであ
ります。
」
「問28 神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。
答え
わ れ われ は 、 あ らゆ る 不 遇の 中 に も 、忍耐 深 く 、 幸 福の 中 に は 、感 謝 し 、
未来のことについては、われわれのより頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、い
かなる被造物も、われわれを神の愛から、離れさせることはできないようになるのであります。
それは、すべての被造物は、まったく御手の中にあるのですから、みこころによらないでは、
揺るぐことも動くこともできないからであります。
」
6.子とする御霊は神の家族の一員であることを自覚させる
義認というとき、キリスト者はただ独り被告として、聖なる審判者の前に立つという意識を
持つし、また持つべきである。「あの人が悪い、この人が・・・」と言っているかぎり、聖なる
審判者の前に立っていることにはならないし、それでは聖なる審判者がたまわる「あなたはキ
リストにあって義である」という宣告のすばらしさはわからない。
また聖化においても、それが汚れから解放されていくという理解をするならば、やはり個人
として自分の内面に意識が集中する傾向は避けられまい。このように義認も聖化も神の前に独
り立つという信仰における個人的・内的な側面に意識を集中させる作用がある。だから、義認と
聖化の教えだけでは、教会や社会におけるキリスト者の責任を自覚させ、喜ばしい奉仕に促す
ことは難しいのである。
27
特に聖化において内的生活としての「きよさ」を求めるとき、教会における時に複雑な人間
関係はわずらわしく聖化のさまたげと感じられることがあるであろう。むしろそうした交わり
を絶ち、一人で修行するほうが自己完成のためには有益と感じられるかもしれない。しかし、
それは悪魔の罠である。「私は彼らよりもきよくなった」と思う時、人は傲慢というわなに陥っ
ている。主にある兄弟姉妹との関係を厭い、これを捨てて、自己完成を目指すというのは、聖
書的な霊性ではなく、先に述べたように異教的な霊性なのである。むしろ、神を愛するととも
に、兄弟姉妹を愛することを喜び、時には、愛しえない己の罪、愛のなさに涙を流し悔い改めつ
つ歩むところにこそ、聖書的な聖化の前進があるといえるのではなかろうか。聖化の実とは、
煎じ詰めていえば、全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分自身のように愛すること
であるからである。
御子の御霊を受け、神の子とされたという恵みは、御子イエスを長子とし神を父とあおぐ神の
家族に加えられたことを意味している。「子とすること」とは家族的・共同体的・教会的な祝福な
のである。次のみことばは、御子のかたちを目指す聖化が、神の家族のうちでこそ進められる
ことを指摘している。
ローマ 8:28、29
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのこ
とを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ
知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御
子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
7.宣教に生きる「霊性」
今日キリスト教会で「霊性」ということばが用いられる時、それは「癒し」というキーワード
とともに用いられる場合が多い。H.ナウエンの著書名『傷ついた癒し人』というのは、その典
型であろう。おそらく「霊性」ということばを宣教ということばと共に用いることに違和感を
抱く向きが多いのではなかろうか。なぜかといえば、
「宣教」にエネルギーを使い果たして、疲
れ果て傷ついてしまった人が「癒し」を求めて「霊性」に関心を抱くというのが、一般的なパタ
ーンであると思われるからである。百人教会、千人教会を作り上げることが最大の関心事であ
るような宣教に全身全霊を注ぎ込んできた結果、燃え尽きて、
「癒し」を求めるというぐあいで
ある。そういう場合、宣教と霊性とは対義語として認識されるであろう。
しかし、新約聖書においてはどうであろうか。新約聖書においては、宣教と霊性とは対義語
ではなく、むしろ重なり合う部分の大きなことばであると思われる。聖霊は旧約時代・新約時
代を一貫して働いてこられたのであるが、旧約時代に対して新約時代の聖霊のお働きには二つ
28
の特徴がある。一つは先に学んだように、旧約時代においては聖徒たちの神に対する基本的ス
タンスはしもべとしてのものであり彼らにとって神とはまず主なるお方であったということで
あるが、新約時代になって聖徒たちは御子の御霊が与えられて神の子どもとされ、神は我々に
とってまず父なるお方となってくださったということである。
新約時代における聖霊のお働きのもう一つの著しい特徴は、世界宣教の原動力を注いでくだ
さるということである。主イエスは言われた。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、
あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果て
にまで、わたしの証人となります。
」(使徒1:8)旧約時代に原則的にイスラエル民族の中に
かぎられていた救いは、新約の教会に聖霊が豊かに注がれることによって、民族国語を超えて
世界に拡張されたのである。ということは、新約的な霊性は、神の子としての霊性であると同
時に、宣教に生きる霊性であるということができる。
現代において不幸なことは、
「宣教」と「癒し」とが矛盾しているかのような様相を呈してい
ることである。無論、ここでいう「癒し」とはカリスマ派のそれではない。本来、宣教の霊性と
癒してきな霊性とは矛盾などしていないはずである。同じ聖霊のお働きなのである。どこがお
かしいのであろうか。宣教が成果主義というこの世的な原理を取り入れたせいではなかろうか。
i
デカルト『方法序説』小場瀬卓三訳(新潮文庫)p21
中川八洋『正統の哲学、異端の思想』
(徳間書店)p31「この間違ったというより狂ったデカ
ルトの『理性』観は、デカルトが歴史は数学的(幾何学的)な明証性がないからとして考慮す
べき一片の価値なきものとする倒錯的な思想から生じている。
」
iii レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』
(角川選書、1993 年)pp19−20
iv F.シェーファー『理性からの逃走』有賀寿訳(いのちのことば社、1971 年)
v B.パスカル『パンセ』B72,B693 参照。
vi S.キルケゴール『現代の批判』
(岩波文庫)参照。
vii ジェレミー・リフキン『バイテク・センチュリー』
(集英社、1999 年)p291 参照。
viii 「二十世紀も末のぎりぎりの時期になって、IT革命と呼ばれるような情報技術の途方もな
い発達が見られ、それが他の諸要因と結びついて国民国家の存在を根底から揺るがし始めてい
る。いわゆる経済のグローバル化が伸展し、ますます経済活動の大きな部分が国境を意に介す
ることなく繰り広げられている。国境を越えての企業同士の合同や提携は全く日常茶飯事とな
り、金融取引も国民国家の国境を無視して、文字通りグローバルな規模で昼夜を問わず展開さ
れている。つまりは、近代を通じて当然視されてきた国家と経済の密接不可分な関係が、急速
に弱まってきている。
」野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』
(PHP)2000 年、p29
ix ジョン・ヒック『魂の探求―霊性に導かれる生き方』(徳間書店)
x 『第二バチカン公会議公文書全集』南山大学監修(中央出版社)p197
xi 遠藤周作『深い河』講談社文庫 1996 年、p196
xii 中島守訳、いのちのことば社、1976 年
xiii 『ブリム・ド・アーラヌカ・ウパニシャッド』4:4:5、
(中央公論社世界の名著『バラ
モン経典・原始仏典』所収)
xiv プロティノス「自然、観照、一者について」
『エネアデス』第三論集第八論文(中央公論社
世界の名著『プロティノス、ポルピュリオス、プロクロス』1980 年、所収)参照。
ii
29
xv
「我々の自我意識は無意識的領域、特に集合的無意識の力を馴化し統合することによって、
真に価値あるものを手に入れることができる。
」湯浅康雄『ユングとキリスト教』
(講談社学術
文庫 1996)p90
xvi シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』
(地湧社、1986 年)p172
xvii 「魂はキリストとの合一をたのしむばかりでなく、神性とひとつになる。キリストは歴史的
な存在というよりも、むしろ神のロゴスである。この<沙漠>であり<無>である神性との合
一をめざす神秘思想は、キリスト教的というより、新プラトン的である。
」南原実「エックハル
ト」の項目(
『キリスト教大事典』教文館 1963 年)
xviii 『エックハルト説教集』田島照久編訳(岩波文庫)pp298-299 参照
xix プロティノス『エネアデス』第六論集第九論文「善なるもの一なるもの」(世界の名著、田
中美知太郎、水地宗明、田之頭康彦訳 1980 年)
xx 以下、
『告白』はすべて、アウグスティヌス『告白』山田晶訳、世界の名著 1968 年より。
xxi P.ブラウン『アウグスティヌス伝 上』出村和彦訳(教文館 2004 年)p108
xxii ちなみに、これはことばの問題ではないが、禅僧は何十年と修行し、ヨーガでは呼吸法の修
練によって変性意識に達するといわれるが、大脳生理学者によれば、これは脳が酸欠状態に陥
ったときの意識状態であるという。ある種の薬物をもちいれば、だれでも簡単に脳を酸欠状態
に類した状態にすることにより変性意識なるものに達するのだそうである。
xxiii 近現代思想において、理性の自律性は犯すべからざるドグマとされて来たが、理性もまた
堕落腐敗し、キリストにある再生が必要であることをきわめて明らかにしてきたのは、A.カイ
パーと C・ヴァン・ティルそして H.ドーイウェールトである。春名純人「キリスト者と非キリ
スト者の学的思惟における『対立の原理』
」
「福音主義神学」第 11 号(1980 年)所収を参照せ
よ。
xxiv P.T.フォーサイス『祈りの精神』
(ヨルダン社、1969 年)Ⅱ「ねばり強い祈り」参照。
xxv P.ブラウン『アウグスティヌス伝 上』出村和彦訳、教文館 2004 年 pp172−173
xxvi H.ナウエン『放蕩息子の帰郷』片岡晃訳(あめんどう)2003 年(原著は 1992 年)
、坂野
慧吉『スピリチュアル・ジャーニー』いのちのことば社 1999 年pp22−25
xxvii A.ファン・リューラー『キリスト者は何を信じているか』教文館、2000 年、p68 参照。
xxviii アウグスティヌス『神の国』14:28「このようにして、二種の愛が二つの国をつくったの
であった。すなわち、この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国
をつくったのは自己を侮るまでになった神の愛である。一言でいえば、前者は自己自身におい
て誇り、後者は主において誇るのである。前者は人間からほまれを求めるが、後者では、良心
の証人であられる神においてもっとも高いほまれを見出すのである。云々」(岩波文庫、服部英
次郎訳)
30