Moliendo Cafe

2. 寄稿
Moliendo Café
Yass
この唄と出逢ったのは、ずっと昔の事だった。記憶を辿ると、どうしても神戸の坂の上の病院のことを思い出してしま
う。あれは中学時代の事だった..
水泳に夢中になって、泳ぐのが楽しくて、ついつい無理をしてしまう事が多かった。泳ぐといっても、打ちっぱなし
のコンクリートの 25m プールでどれくらい長く潜っていられるか。いわゆる、素潜りの練習というか、どれだけ水の
中で我慢していられるかを、一人で試していた。
体力が弱ったまま、風邪をひいた。38 度以上の高熱が続き、3日ほどして熱がおさまったときには、体が全くコント
ロールできない状態になっていた。話し難い。歩けない。足が上がらない。手の指の間を開くことが出来ない。かかり
つけの医者は評判のやぶで、診断が下せない。思い余った両親に、生活範囲よりはやや遠くなるが、とにかくちゃんと
した医者に診てもらうんだということで、無理やり検査入院させられた。おくての自分は、祖父、両親や弟と初めて長
い間切り離された生活を余儀なくされた。既に熱はなく、体が動かない状態での入院生活は、相部屋の患者と、医者、
看護婦との共同生活に興味を抱いたとしても、おかしくは無い。(このテーマとはかけ離れるので詳細省略)
断っておくが、特に変わったことは無い生活だった。隣の足を骨折したいわゆる粋の良いおにいさんが、ラジオを持ち
込み、いつも大きな音で歌謡曲を聴いていた。案外自分をかわいがってくれた。そんな環境を、限られた範囲でひそか
に楽しんでいた。
夏の終わりの日が翳り、暑さがそろそろ退散する頃の坂の上の病院の屋上から、神戸の夜景が見え始めた。この病院に
きてからお気に入りになった、キリンレモンの単純な甘さを楽しみながら暮れなずむ町並みを眺めていたとき、西田佐
知子のうたうこの唄が聞こえてきた。コーヒーなどとはとんと縁のない田舎っ子に
モカ・マタリ の歌が新鮮に映っ
た。
アラブのお坊さんはコーヒーを飲むのか。えらいハイカラやねえ と感心したもんだった。
結局、骨髄液を無理やり抜き取られ、生体実験並みの検査をされたのだが、はっきりとした診断が下らなかった。人生
ではじめての謎の病気だったようだ。リハビリに通い、10代の強さが自分にもあったのか、徐々に体が回復に向かい、
学校に戻った。
翌年だったろうか、ザ・ピーナッツがこの唄を歌っていた。やはり 媚薬コーヒー
モカ・マタリが気になる年の瀬、
掘りごたつに足を突っ込み、この歌をぼんやり蜜柑を食べながら聴いていたような思い出がある。ただ、西田佐知子と
は微妙に異なる歌詞で歌っていたことを覚えている。あの独特の双子のハモリが妙に艶めかしかった。
年を経て、たまたま、神戸の大学に入り、スペイン語の授業を受けているときのこと、ドミニカ移民で、戦乱に巻き込
まれ苦労して帰国した年上の友人が、このスペイン語の歌詞をみせてくれた。
ちんぷんかんぷんであったが、モカ・マタリはどこにも出てこない。確かにコーヒーを挽くということは書いてある。
これまた人生で第2の謎 のまま、記憶の端に引っかかっていた。
大学の頃は勉強をするというよりも、学園紛争の真っ只中、そんなのいやだもんねと音楽に入り浸った。可也、程度の
悪い学生だった。
世の中の流れと共に、鹿児島から西日本を何箇所も自分たちの唄を歌いながら旅をするという、おそらく日本で始めて
のキャラバンを組んで旅を終えた。一風変わった仲間たちだった。東京、京都、大坂などから集まった将来は有名にな
ってゆくやつらとの交流は、面白かった。音響設備の非常に乏しい、地方の教会で、マイクも無しでギター1本で歌う
とか、今考えれば無茶な話だが、若気の至りというには、有能なマネージャーのおかげで、統制の取れたキャラバンだ
った。基地の町、岩国のあるカフェでは、blues をやった。未だ米兵でにぎわった町での戦争心待ちというやり場の無
い酒臭い喧騒。 これが、学生生活の事実上の終わりだった。
長い時間、本当に長い時間、この唄は封印されていた。
ニューヨークでこの唄に又出逢った。ニュージャージーのハドソン川沿いを少し下った、鬱蒼と茂った木に囲まれた二
階建ての家に住み、夜はニューヨークの端の田舎町のライブハウスに入り浸った生活だった。
夜に車を転がして、ターニングポイントというライブハウスに行く。ショーがはねると、真っ暗な道を一目散に帰るの
だが、夜の田舎道は恐ろしい。スカンクを轢いた車のそばをとおると、ごま油を濃くしたようなにおいがする。徐々に
強烈に鼻を突くにおいにかわってくる。
とにかく息を止めて、やり過ごす。小さな目が2個フロントライトの光を反
射して不気味に光る。ぎょっとして車を無理やり止めると、親子連れの鹿が家陰に悠々と入っていく。夜の動物園の様
であった。
世の中は
パソ通からインターネットの時代に変わり、CD を手に入れた、学生時代無茶苦茶に吹いていたハーモニカ
のことを引きずっていたので、Carlos del Junco という、あまり人の知らないハーモニカ吹きの CD をネットで買っ
た。
ここで、決して巧くないが、独特のけだるい声と、ブルースではないハーモニカを吹いているこの唄に出逢った。
けだるさでは負けることの無い憂歌団や、井上陽水のこの唄を聴いた。
やはり、昔聞いた歌詞と同じ歌詞を歌っているこれらの曲を、どうも納得できないでいた。
コロンビアでコーヒーの tasting を生業としている方から、コロンビアコーヒーの良質なものは、ほとんどが、関西以
西(含む四国)に輸出されているのが現状と聞いた。ついでにモカコーヒーはイエメン産ということも聞かされた。
頭に閃くものがあった。ベネズエラで作られたこの歌を、昔の訳者はアラブのコーヒーと置き換えたのだ。で、本気で
西語の歌詞を読んで見た。原曲の洗練された歌詞が、このままでは、可愛そう。不遜な考えが頭をかすめ、こいつがお
れにとりついた。
原曲を何とか日本語に訳して、歌ってみたい気になった。頭のフレーズの西語を日本語に訳してる間に、いつしか自分
の世界に入っていた。原曲とは解釈が根本的に異なるものの、原曲の雰囲気は壊していない(とおもう)、唄がうかんで
きた。私的なものだが、こいつをベネズエラで録音してみようと思い立った。歌詞は以下のようなものだ。
午後のまどろみ 長い影が落ちる
コーヒー園の静けさの中で
ほら聞こえるでしょ、年老いた女の
昔色した 甘く切ない 愛の唄
夢は今も この胸の中
とっても大事に とってある
夜更けに コーヒー挽きながら
夜の深さに何故か心が揺れる
遠い昔の おとぎ話も
私の心の小さな箱の中
そっと秘かに開いてみましょう
いつもみたいに
俺には未だに果たせぬ夢がある。
遺言状がわりに、自分の曲を残す、CD を作り上げたいとかねがね思っているのだが、当然ど素人の悲しさ、余り機会
には恵まれない。ベネズエラに来る前にたくさんの友人たちの協力で、6 曲程度、CD レベルの音質の曲を録音してい
た。どの曲も時間を気にしての綱渡り。時間に終われ、特に、ミキサールームで曲想をみんなにしらせる為に録音した
ボーカルを主体にミックスダウンしたので、満足のいく唄ではないが、それはそれ、友情がいっぱい詰まっているので、
記念にはなる ととっておいた。それほど、バックの演奏はすばらしい。
カラカスのホテル事情は極めて悪い。有名ホテルの客室の金庫に入れたパスポートを盗られた。これは定住できるホテ
ルを本気で見つけようと、探し回った挙句、Avenida Francisco Miranda 沿いの Embassy Suites に投宿することと
なった。長い間此処にいた。
朝食は宿泊費に含まれている。朝1番のコーヒーを飲むときに、いつもそれらしい良い音で様々な曲を聞かせてくれる
Harpa の Duo がいる。 フランクとジョサイラ。いつの間にか友達になり、彼らの協力を得て、この曲を録音するこ
とになった。
この猥雑な町の隠れた街角に録音スタジオはひそやかに存在する。
大きなハープを防弾車に載せて運び込み、録音は開始となる。打ち合わせも糞もあったもんではない。その場の雰囲気
で、友人を呼び、このひとたちに play させる。電話を貰ったみんなは急いで飛んでくるから不思議だ。コンガ、ティ
ンバルは心地良いリズムを刻む。リズムに乗ったクアトロのエリック・エレラの
インプロビゼーションが過ぎて止
まらなくなる。ジョサイラのハープがきな臭いジャネロの音を紡ぐ。 これらの音を一人づつ録音しながら重ねてゆく。
東京の時間貸しのスタジオで、音の質と時間と資金の兼ね合いを図りながらの録音と根本的に異なるウエーブがこの国
にはある。東京の録音のやり方が悪いなどというわけではない。日本人の統制の取れた録音風景に比べて、環境の違い
と血の違いを思い切り感じさせられる、それでいて、妙に気楽な時間が過ぎる。
ボーカルの録音には苦労した。8ビートか16ビートにしかなれていない自分にはこの人たちの複雑なリズムが捉え難
かった。ウエーブに乗りながら、かつ、リズムに乗って。何回か録りなおした。
即席で、バックコーラス隊を編成した。ベースのホルヘ・ルイス・ベニーテス
と、コンガの通称エル・カバジョ、
字は自分の名前と電話番号を苦労して書いてくれたが、天性のリズム感は息を呑むほどの感動をいやおう無く人に与え
る。数少ない日本からの駐在員の奥様 Rumi さんもこれに加わり、天下無敵。ボーカルをはるかに凌ぐ、良いバックコ
ーラスを作ってくれた。
録音が終了するまでに通算 13 時間を要した。なんと3分弱の曲である。録音スタジオも2箇所になった。結局3ヶ月
を超えたこの録音は、自分にとっては楽しい思い出となる。両スタジオ共、良い風が吹いていた。
この記事を読んで、出来上がった曲がどんなもんか、聞いてやっても良いという本当に奇特な方は、
[email protected] まで。Mp3 で差し上げる算段をしましょう。
ということで、これが7曲目の CD 用の曲として、ちゃっかりとデモ CD に収まった。
因みに、原曲
Moliendo Café はベネズエラ人のホセ・マンソー・ペブラニ
作。甥の Hugo blanco のハー
プ演奏で一躍有名になり、ラテンブームに乗って日本に流れ着いた。Hugo Blanco の創作リズムのオルキーデス に
よって奏でられる。だから、コーヒールンバという題名にはやはり違和感があると同窓会で話していると、ギター弾き
の先輩に、たかが歌詞。なんでもええんとちゃうのと一笑された。そんなもんかもしれません。
西田佐知子の歌詞の訳者は 中沢清二。ザ・ピーナッツの訳者はあらかはひろし、両方に共通したモカ・マタリが登場す
ることからザ・ピーナッツの唄は西田佐知子の歌詞を参考に編纂したのかもしれない。
録音はカラカス市内の2スタジオで行った。
Audio Place と
Estudio Pequena 。どちらも日本のように豪華なスタジオを想像すれば、全く当て外れの答えが
返ってくるはずだが、それはそれなりに趣がある。今年の5月から8月にかけての出来事だった。
この曲はいろんな歌手がうたっている。
にこの文を読んでくれたあなたに salud!
フリオ・イグレシアス、ミーナ。みんなが親しみを持つこの曲と飽きもせず
(了)