翻訳もまた楽し

FUN STORY #3 (JUL . 2003)
「エダヒロ流翻訳術誕生秘話」
翻訳もまた楽し
私は通訳も大好きだけど、翻訳も好きである。いま自分のHPを見たら、これまで
8 冊翻訳書を出している(終わったらすぐに忘れるタチなので、自分で数えると必ず
足りなくなる……。
『朝2時(2)』にも書いたけど、通訳と翻訳は、同じ英語の仕事ながら、使う筋肉が
違う。また向いている性格も違うようだ。そのせいだろうか、両方を同じぐらいの比
重でやっている人はあまりいない。でも私は両方楽しいと思う。通訳の限られた時
間の即興性も、翻訳の時間をかけて練り上げていく作業も。
通訳者はよく「翻訳は割に合わないよー」という。かかる時間あたりの単価を計算
すれば、確かにそうかもしれない。でも私が最初に翻訳した『人生に必要な荷物い
らない荷物』は 10 万部を超えているから、モノによってはそうでもないかもしれない
(この 1 冊以外は、確かに時間あたりの収入は、通訳料金に比べれば限りなくゼロ
に近いが)。もっとも私が両方やるのは、やりたいからであって、「割」は関係ないの
だけど。
ところで私はとてもヘンなやり方で翻訳をする。(同じやり方で翻訳している人に
お目にかかったことがないので、稀少種である。突然変異種というべきか。
コトのはじめは、アメリカでの 2 年間の生活から帰国し、通訳学校に通いたいな
ぁ、と思っていた 10 年ほどまえのこと。ところが通訳学校の学費は高くて、家計か
ら出し続けるのは無理だと思ったので、アルバイトをして稼がなくちゃ、と思った。
どうせだったら英語の勉強も兼ねて、と翻訳のバイトを探すことにした。たまたま
新聞の求人欄で見つけた翻訳会社のトライアルに合格し、仕事をもらえるようにな
った。
あるとき、まとまった量の翻訳の仕事がきた。「これで数ヶ月分の学費になる~」
と一生懸命英文を見ながら、ワープロに向かって翻訳文をタイピングしていたのだ
が、非常に時間がかかる。翻訳をやっている人はわかると思うけど、翻訳って、本
当に時間がかかるのである。これでは、通訳の勉強に時間がとれないではない
か。「う~ん。どうしてこんなに時間がかかるのだろう?」私は翻訳の手を止めて考
え込んだ。そしてはたと気がついた。「目があちこち移動するからだ」。
まず英文の当該箇所を読む。頭の中で和文を作って、ワープロを打つ。ワープロ
を打つときは、画面を見ている。ちゃんと入力できているか、漢字変換は正しいか
を見なくてはならないからだ。そのときに、「あれ、これでよかったかな。英語では何
て書いてあったかな?」と思うと、英語の原文に戻るのだが、そのときに、「いまど
こをやっていたか」を目で探さなくてはならない。このように、英語の原稿とワープロ
の画面との間を目が行ったり来たりしている時間、特に、「先ほどの続き」を探して
いる時間が長い、ということに気づいたのであった。
「う~む。どうしたらこの時間を短縮できるだろう?」この視線の移動時間は、翻
訳をしている時間ではないので、できればゼロにしたいものだ、と私は考えた。そ
の結果、「あ、そうだ! 通訳学校で習った、サイトラでやってみよう」と思いついた
のだった。
最強の翻訳術――それはサイトラ翻訳
「サイトラ」とは、「サイとトラの合いの子」ではなくて、「サイト・トランスレーション」
の略。通訳の勉強をしている人はやっていると思うけど、「目でざっと見ながら通訳
する」ことである。
実際の通訳の場面で、「今からこのスピーチ原稿を読みますから」と、直前になっ
て通訳ブースに原稿が投げ込まれることがよくある。せめて前日にもらえれば、ち
ゃんと読み込んで臨めるのにー、と私たちのアドレナリンレベルは急上昇するのだ
が、そうしているあいだにも、スピーカーは原稿を読み始める。
スピーチもその場で考えながら話してくれれば、繰り返しや無駄な言葉も多いの
で、通訳者も時間稼ぎができるのだが、原稿をただ読み上げられると、無駄な言葉
も言いよどみもなく、テンポよくスピーディーに進んでしまうので、それに同時通訳
をつけていくのはなかなか大変なのだ。
そういう事態になってもちゃんとついていけるように、通訳者は「サイトラ」のトレー
ニングをする。英語のスピーチ原稿を、内容の区切りごとにボールペンでスラッシ
ュ(/)を入れながら、即座に日本語にして口から出していくのである。通訳学校の
「体験レッスン」(無料。^^;)で、この訓練法を学んだのだった。
そこで、私はサイトラで翻訳をしてみた。英語の原文だけをにらみながら、声に出
して日本語に翻訳(通訳?)し、テープに録音する。最後までサイトラをすると、テー
プを巻き戻して、今度はひたすらテープを聞きながらワープロ入力。最後に、英語
の原文と入力した和文を照らし合わせてチェックし、表現や言い回しを調整してで
きあがり!
やってみてわかったのが、これは本当によい方法だった。サイトラしている間は、
目は英文から離れないので、視線を移動する時間もゼロ。頭の中も「英語→日本
語」「日本語の変換、漢字のチェック」「英語→日本語」……と 2 つのことを順番にや
っていたのが、「英語→日本語」だけをまとめてやることになるので、勢いがついて
速く進む。
テープを聞きながらワープロ入力するときは、入力と漢字変換という日本語作業
だけをやればよい。これで翻訳スピードがかなりアップしたのであった。
サイトラは、目に入った部分から即座に日本語に変換していくので、「英文の頭か
らどんどん訳し下ろす」ことになる。高校で習った「英文解釈」のように、後ろから戻
って訳し上げる、ということはしている時間はないのである。そのため、話し言葉に
近い、わかりやすい日本語の翻訳文になった、といううれしいおまけ付き。
こうして、約 10 年前に「エダヒロ流通訳式翻訳術」が誕生したのであった。
サイトラは波頭を飛ぶ水上スキー
それからよほど短いモノ・よほど難解なモノ以外は、すべて「サイトラ翻訳」してい
る。他人とは違うヘンなやり方だろうけど、翻訳は納品する訳の質が問われるので
あって、やり方は関係ないもん。逆立ちしながら翻訳したって、質さえよければ OK
なのである。
私の場合は、この読み上げ式が時間的にも翻訳の質の点でもいちばんよい。サ
イトラしているときは、通訳と同じぐらい神経を集中しているので、やはり 15~20 分
しか続けてはできないのだけど。
先日、仲の良い通訳者と組んで、同時通訳をやったときに、やはり「サイトラ合戦」
になった。事前に出ていない原稿が魔法のように次々と直前に出現するという、通
訳泣かせの状況をこう呼ぶのである。
くたくたの帰り道、彼女がしみじみと「アナタはサイトラ、じょうずね。翻訳をサイトラ
でやっているっていっていたから、その訓練の賜物かな?」といった。
そうかー、自分でもよく考えたことはなかったけど、8 冊の本も、いま仕上げている
9 冊目も、すべてサイトラでの翻訳である。数千ページもサイトラしてきた計算にな
る。確かにかなりの訓練量である。
私にとってサイトラは生活の一部(大げさ?)になっているので、もちろん苦手意識
はないし、淡々とサイトラしているのだろう。
これは伝わるかわからないけど、猛スピードで原稿を読み上げるスピーカーにぴ
ったりついてじょうずにサイトラで通訳をつけられているときは、波頭をツンツンと飛
んでいく、水上スキーヤーの気分なのだ。これはとてもスリルがあって、やみつき
になる楽しさである。そして、「うふ、私って」と思った瞬間に転覆するのも、水上ス
キーと同じである。