阿波学会紀要 第48号(pp.195-199) 2002.3 佐那河内村における講中(講組) −その役割と葬送儀礼− ――――――――――――――――― 民俗班(徳島民俗学会)――――――――――――――――― 澤田 *1 順子 方を中心に、記憶に留めていることを聞き取り調査 1.はじめに し、記載することにした。ただし、紙面の都合によ 昭和42年に発行された『佐那河内村史』の「第3 章 り、細部は割愛した。 人情風俗習慣」を見ると、相互扶助組織の講中 が行き渡った村であったことが書かれている。特に 2.講・講中(組)とは 講中の結びつきは強く、責任を持って協力する集り 講は「宗教上の目的を達成するために信仰を同じ だったようだ。平成4年発行の『ふるさと佐那河内』 くするものが寄り集まって結成している信仰集団。 にも、相互扶助組織「講中」は時代の変遷と共に消 もう一つは村落の地域集団単位ごとに成立して、い えていったり形を変えていってはいるが、人びとの ちじるしく地縁性の濃厚なもの」と『民俗学辞典』 助け合いの良き風習であったと記されている。 に記載されている 。祭りの当屋や世話係とか、お 1) みょう じゅう 村内には現在46の常会組織(昔の 名 中 に似る) があり、その中に小さな組織の講中が組み込まれて たかつい 薬師さんへお供えするお膳を作るなどの講中の宗教 行事は佐那河内村内の各地区で現在も行われてい お さかい いる。例えば高樋地区内の尾 境 常会は、上・下2 る。だが、ここで取り上げるのは宗教的な信心講で つの講中があり、合わせて29戸で構成されているし、 はなく、後段の地縁性濃い講についてとしたい。 寺谷常会は寺谷東、寺谷西、菅沢、尾尻の4講中、 高樋常会は中津東10戸、中津西11戸の2講中で成り また講中とは、それらの講の構成員の集団のこと である。 立っている。各常会は毎月例会を開き、役場や農協 からの連絡の伝達、税金の徴収などの業務と会員相 互の親睦を図っている。講中は昔から存在していて、 3.講の種類と講中の役割 山に囲まれ農業中心の本村で、機械化されたり用 村民の一番身近な集団としての独自性を持ち続けて 水網が完成する以前、昭和20年ころまでにみられる いる。 講中の役割(仕事)について次に列記してみる。 これまで、聞き取り調査を行った県内の他町でも 1)共同で行う農作業 講中(組)の話は聞いている。大師講など宗教を基 a.農道の修理…3月の節句までに共同で修理 にしたもの、冠婚葬祭時に大切にされている本家・ b.用水路の修繕…井堰の修理 小家の株内、斎(徳)講組のこと、また助け合いの c.与内肥…肥草を刈り、労働力不足(病人など よ ないごえ 頼母子講などについてである。 上記2誌に書かれている村民の結束を保っていた で働けない)の家に分け与える d.傷病者の援助…耕作・種まきなどの援助 相互扶助組織の講中とは、どのようなものであった 2)傷病者への対応 のだろうか。本村の調査に当たって、大正生まれの a.病人介護の援助…医者迎え、病人を医者のも *1 徳島市丈六町長尾62-8 195 佐那河内村における講中(講組)ーその役割と葬送儀礼ー/民俗班 とに運ぶ 上げたり、米からみかんに転作したので、香水の必 b.百度参り…千遍詣 3) 恢復祈願 要が無くなった。」 c.千人講・万人講…広く金銭の寄付を仰ぎに行 く 2)用水路の補修 「川や谷から水を引く用水路の壁面に赤土をこね d.火災救助…住宅新築援助、什器等の寄贈 て張り付け、水の通りを良くした。一滴の水も無駄 3)出役(道路修理など無報酬で) にしないため、毎日のように作業を行った。用水は うわ ゆ 4)慶弔 a.出産 溝の掃除 なか ゆ 4) 上井、中井、松のくぼなど幾筋もあった。」 b.葬式 c.婚姻 d.家の新・改築 5)宗教行事 3)山の草刈り 肥の口開け 山神講 水田の肥料にする草を刈る。共有の山だったので 念仏講 伊勢講など 一斉に行った。「肥の口開け」と言った かやこう 6)頼母子講 4)萱講 下記の「5)頼母子講」に記載 大正初期まではほとんどの家が萱葺きの屋根であ 7)米講・金講 った。上嵯峨・中嵯峨地区を3つの講組(講中)に 明治初期まで講の財源を米としていたが、米価 分け、講組全体でカヤを刈り、古くなった屋根の家 に変動があるため金講となる。 から順番に葺きかえをした。その後トタンや瓦屋根 8)青年男女の貯蓄を目的とした講 に変わっていったので、この珍しい萱講の習俗もな 嫁入りの道具類購入資金のための、タンス講・ 布団講・蚊帳講・台所講・自転車講など、頼母子 講の一種。 くなった。 「下嵯峨でも大正の初期までは同様に屋根葺きを 行っていた。10月から11月にかけ、カヤ草が枯れ、固 く絞まってきたころ、共有山のカヤを一斉に刈り取 さ が 4.嵯峨で行われていた講 った。当番に当たった家へ持って行き積み上げてお 村内で講中についての話を聞くと、嵯峨の地名が 出てくる。それくらい嵯峨地区の講中はしっかりと く。日が永くなった春に講中が集まって1日で1戸 5) の屋根を葺き替えた。これもみな無報酬だった」 組織されていたようだ。嵯峨地区は嵯峨川の流れと 5)頼母子講 山に囲まれ、独自の風習を持つ地域である。住民の 農家救済策として生まれた講で、明治維新後一時 結束が固いのは山斜面の棚田に水を引くのが大変だ 衰退したが、必要に迫られ、大正10年代の信用組合 ったせいだろうという人もいる。実際、佐那河内米 や第二次大戦後の農業協同組合が出来るまでその役 (サガ米)の生産に頼るこの地域では、田に水が入 目を果たしていた。「お金の工面に賛同する人が25 るかどうかは死活問題であっただろうと思われる。 人〜30人くらい集まって、1年に1〜3回お金を集 みょう 明治32年、下嵯峨 名 53名で決めた「嵯峨の規約書」 めた。急ぐ人は満額の8割くらいで落とすこともあ が現存しており、それには住民の結束を固める内容 った。風水害の修理費用とか調度品の購入などに使 2) と、違反者への罰則規定が厳しく書かれている 。 6) うことが多かった。」 こうみず 1)水田の水引 香水 6)万人講 牛・馬の講 階段状に開発された棚田一枚の面積は小さい。ど 農家の大事な労働力の牛・馬は家族同様に大切に の田にも均等に水を分けるために用水の管理仲間 飼われていた。牛馬が病気になったり死んだりする ゆ ご (井子)の集団を作った。「管理人が田に水を入れる と、講中が総出で二人一組となり寄付を募って歩い こうばん 時間を計るのに香盤を使った。田の大きさに合わせ た。時には近隣の町村までも出掛けた。このお金は て抹香を盛り、香が燃え切るまで水を入れ、次の田 死んだ牛馬の供養と新しく購入するための資金の一 に移って行く。大切な水を平等に配分していた。香 部とした。こうして買い求めた牛馬は壮健であると を使って水を入れたので香水と言った。昭和20年こ 信じられていた。 ろまで行っていたが、その後はモーターで水を汲み 196 7)灰かき 阿波学会紀要 お ろ の 火災で家が焼失したとき、地区総出で後始末をす 第48号(pp.195-199) 2002.3 はちまんちょう 町鬼籠野や自転車で徳島市八万 町 まで行った。 る。家の再建に必要な材木は、元の家が建つだけの 葬式のための室内の準備 用材を地区全員に割り当て、山より切り出し復旧を *神棚…ヒ(忌み)を避けるため、神棚に紙を張 7) 助ける 。 る。 *死亡届と寺へ連絡…講中の代表者が役場に死亡 5.講中と葬式 届けを出し、寺へ連絡をして葬式の日取りを決 講中(講組)の果たした共同作業や助け合いを嵯 峨地区を例に概観してきたが、現在も続いている講 める。 *掛け軸…十三仏の掛け軸を寺で借り、祭壇に飾 中の大きな役割は葬式である。「講中の仕事は何か」 る。講中で保存している地域もある。 との質問に対し、異口同音に「葬式」という返事が *祭壇…葬儀社に頼むか簡単な物を作っていた。 返って来るくらいだ。地区によって多少の違いはあ *穴掘り…棺桶を入れる穴を掘る。一番きつい作 るが、村内ほとんどの家が真言宗であり、葬式・仏 業であった。若者三人くらいで掘る。 まつりも似通っている。手作りで執り行っていた葬 *石取り…墓を作るための石で、囲い石4枚、蓋 式も今では葬儀社や農協婦人部が所有している祭壇 石1枚を川原から取って来る。蓋にする1m四 を借り、既製の飾り物を使用したり、大仕事であっ 方くらいの大きな石は、石目(割れ易い方向) た死者を葬るための穴掘りと石取りも、火葬、累代 をよく知っている経験者が、予め火薬を仕掛け 墓へと変わってきて、講中の仕事は減った。女性が て割り川原に置いていた。 てんがい 担当していた炊事全般も、仕出し屋に料理を注文す とうろう のぼり す るなどで軽減されている。 つえ *飾り物造り…天蓋・燈篭・ 幟 ・竹の杖・ぞうり しゃく (トンボぞうり)・竹の簀、 竹の杓(ユカワに使 かつての葬式は太陽の光を避け、日がかげってか う)など。飾り物作りは年配者の仕事であった。 だ び ら行われていた。徳島市川内町の火葬場で荼毘に付 *買い物…葬式に必要な物品を買い出しに行く。 すようになって以来、佐那河内村は市外であるため 棺桶・カメなどは徳島で買う。戦時中、寝棺を 火葬場の使用は午前中と決められた。このことでも 板で作ったこともあった。 葬式の手順にも変化が生じている。とはいえ、死者 *会場準備・受付など を送る儀礼に今も講中が大きく係わっている。 盪 以下では、激しく変化する以前、第2次大戦時ま での葬送儀礼について紹介することにする。 女性の役割 女性の仕事は炊事が主である。死家の人はヒ(忌 み)があり、台所・カマドには神様がいるので、野 辺送りが済み、浄めて貰うまで炊事はしない。講中 6.シンダン(葬式) の女性が新仏用のお膳、ベントウ・家族・親族・手 病人の病状が思わしくない時、百度参りをする。 死者が出た家は一の隣の家に頼み、常会長・講中 伝い人の食事の準備をした。 *マクラメシ(枕飯)…マクラ弁当 の家に連絡してもらう。隣の家に常会、講中(各戸 家の外にカマドを築くか七輪を置き、鍋で2 から男女二名)が集まり葬式の段取りを決める。各 合の米を洗わずに炊く。4個の丸いおにぎりを ちょう まい しせん 戸から米1升か2升くらいの 弔 米 (死米 とか死 作り、八寸のお膳の四隅に置く。これは死者の 撰・掛米という)を死家の人に渡し、そこから講中 旅立ちの弁当になる 。この時に使った鍋など の賄い用の米を貰っていた。 は捨てるか、7日間外に出したままにする。 1)葬式の準備と役割 盧 男性の役割 ヒキャク(飛脚) 8) *食事の用意…死者の家族や集まった近親者の食 事、手伝いの人の食事も作る。カキマゼズシな 飛脚が親類縁者に死亡の連絡 ど。親戚の人も通夜見舞いといっておすし、ぼ をした。足の達者な者二人が一組となり、炊き立て た餅などすぐに食べられる物を持ってきた。 のご飯のヒキャクメシ(弁当)を持ち、徒歩で神山 *カドイデの膳…仏さんの御料具。出棺の朝に作 197 佐那河内村における講中(講組)ーその役割と葬送儀礼ー/民俗班 った。ご飯、汁物、おひら、煮しめ、おつぼを この火葬場はなくなった。飾り物、竹の杖、ゾ 白木のお膳に載せ供える。 オリは墓地に捨ててきた。 *出棺後…祭壇を片づけ、掃除をする。葬式が終 *シオ払い・キヨメ…外庭の土の上に塩を置き、 むい か わった後「お六日」の供養が始まるので、お六 またいで家に入る。 日用の祭壇を設え、だんごを作る。講中が念仏 をあげることもあった。死家の人は赤飯を振る 全ての行事が済むと、死家の人は常会場を借り、 酒や煮しめなどで世話になった人を慰労する。 舞う(お豆腐1箱とお酒3本とか、お酒だけを 7.おわりに 渡すこともあった)。 蘯 家族の役割 佐那河内村における講中の役割を見てきた。今で ね や お *ユカン(湯潅)・寝屋起こし…畳を上げ、先に はお料理も仕出し屋に頼む家の方が多くなり、カド 飾り物の所で作った竹の簀の上に死者を裸で寝 イデの膳も講中が作らなくなってきている。そして かせ竹の杓でお湯を逆手で注ぎ洗い浄める。毛 各常会で取り決めたお供え料(地区によっては葬儀 かたびら 剃りを行う。帷子を着せ納棺する。出里の甥か 費用を分担する)を持って告別式に参列するように 死者の長男が行う大役である。 なってきている。しかし、結束の強い嵯峨地区の助 あら せ *ジゴクナワ…棺桶に入れるとき、死者の首に紐 け合いは今も残っている。例えば荒瀬講中では、葬 を掛け足を結んで固定させた。桶(カメ)はワ 式一切を整えた上に火葬料・霊柩車代・帰途のタク ラを敷きお茶の葉を詰めた。 シー代1台分を負担するなどの行為が続いているそ *死者の衣類…死者の着ていた着物をコモで巻き うだ。社会の変化により、講中の役割は少なくなっ シブト(定められた場所)にユカワをした人 たものの、村民の心の中には、かつての村の気風が ふんどし が褌だけの裸で捨てにいく。死者の持ち物の衣 残っていると感じた。 類を北側の軒下に49日の間吊るしておく。死人 の布団や身に付けていた物は焼く。 *魔除け…通夜に部屋の隅にホウキを立てて魔除 本調査にあたり、快くご協力いただいた日下常子 公民館長、井上郁代教育次長補佐を初め、次の方々 に紙面を借り心よりお礼を申し上げる。 けとする。猫が死者をまたぐと成仏できないとの 宮前地区:上府能・井上貞香氏(大正9年生) いわれがあり、猫よけに置くとも言われている。 仁井田・賀川文子氏(大正14年生) *仏さんの装束…死装束は近親者が白木綿1反を 谷・安芸武子氏(昭和3年生) 手で裂き(刃物を使わない)作った。ベントウ 高樋地区:尾境・森スエ子氏(大正12年) や六道銭、死者が大切にしていた物を入れるサ 中辺・西村笑子氏(大正15年生) ンヤ袋も作り、首に掛けさせる。「ぜんこう寺 滝ノ宮・日下常子氏(昭和8年生) さんにお詣りせんならんけん、はよ、ベントウ 嵯峨地区:中溝・佐々木幹雄氏(大正9年生) したげる」と言いながら、ベントウを入れた 丸田・岩佐純代氏(昭和14年生) (マクラ飯やダンゴなど)。そしてコメ・ムギ・ 舟戸・丸野ユキヱ氏(昭和7年生) アワ・マメ・ヒエ・キビ・ソバなど穀物のタネ 荒瀬・加藤清氏(大正4年生) 七種も紙に包み「向こうへ行っても作るんやか 調査期日 ら」と中に入れた。 7月25日、7月30日、8月6日、10月 19日。その他電話で聞き取り調査 みなみ うら *埋葬…土葬が行われていたが、 南 浦の山の上 調査会場 佐那河内村役場 (現在の農村公園の辺り)に昭和10年代、火葬 場が出来た。日暮れに血の濃い近親者の男性が トンボゾオリを履いて棺桶を担ぎ、講中が割木 注 1)『民俗学辞典』「講」の項参照。 2)『佐那河内村史』P.1165〜1166に全文記載。 を5ワくらいとお酒を1本持って焼き場に行っ 3)佐々木幹雄氏談 7月25日、丸野ユキヱ氏談。 た。次の日が骨上げとなった。40年くらい前に 4)丸野ユキヱ氏談 10月19日。 198 阿波学会紀要 5)・6)加藤清氏談 電話で採集。 8)『ふるさと佐那河内』p.226「米三合を家の外でワラ火で炊 き、3個の握り飯を作る」とあり、地域により異なる。 徳島県老人クラブ連合会編(1988):『阿波の語りべ』 ふるさと佐那河内編集委員会編(1992):『ふるさと佐那河内 民俗と民話』佐那河内村。 柳田国男監修・民俗学研究所編(1997):『民俗学辞典』東京 堂。 献 赤田光男編(1997):『日本の民俗学3 2002.3 佐那河内村史編集委員会編(1967):『佐那河内村史』佐那河 内村役場。 7)『ふるさと佐那河内』P.93参照。 文 第48号(pp.195-199) 社会の民俗』雄山閣。 199
© Copyright 2024 Paperzz