母と娘のパリ・どたばた日記 中学2年 事始・プレゼント 期末テストの答案が戻ってきていよいよ夏休みだ、というその晩、母が、一学期に頑張 ったご褒美だと言って、私に一枚の紙切れを渡した。A4サイズの何の変哲もないその紙 には、成田・パリ往復便の離発着時刻が印刷してあった。そういえば一カ月ほど前に、「ど こか行きたいところある?」と聞かれて「パリ、かな」と答えた記憶がよみがえった。で も、それは「いつか行けたらいいな」くらいの夢に過ぎなかった。 「わあ、パリに行けるの?やったあ」と舞い上がった私は次の瞬間、ちょっと不安にな った。その紙に印字されているローマ字の名前が私だけだったからだ。私はあらためて「連 れて」の発音を強調して、「パリに連れて行ってくれるんだよね?」と念を押した。私は 海外旅行には何度も連れて行ってもらっている。でも、どこに行くときも、これまでは航 空券やパスポートは親が持ち、親にくっついて行くだけだった。しかし、中学時代から一 人で旅行に行っていたという母のことだ、私に一人旅をさせようとしてもおかしくない。 何度も念を押す私に母は苦笑し、もったいぶって、もう一枚の紙を見せた。そこには母 の名前があった。杞憂だった。そこで初めて、A4サイズの紙が「Eチケット」と呼ばれ る航空券の代わりのもので、航空券だから一枚に一人の名前しか書いてなくて当然である ことを教わった。「一人で行くのかと思って焦っちゃったよ」と責める私に、母は「その つもりで行ったほうが旅は楽しいわよ」と言った。 こうして、私と母は、パリへ四泊六日(といっても、初日は深夜に着いて、帰国する日 は朝一番にホテルを出なければならないので、正味はたったの三日間)の予定で旅立った。 夏休みシーズンだというのに、この旅行を直前に決めたので直行便は取れず、モスクワ経 由。日本からモスクワまで十時間。モスクワで四時間待ってモスクワからパリへ四時間。 成田を正午に離陸してから、飛んでも飛んでも(西方向に飛んでいるので)昼間が続いた。 シャルル・ド・ゴール空港へあと一時間で到着するというアナウンスがあった頃にようや く雲の向こうに陽が沈み、着陸した時(現地時間で二十三時)にはさすがに真っ暗だった。 空港が郊外にあるせいか、タクシーに乗って空港を後にしても、見えるのは照明に映える 高速道路だけ。「橋脚がずいぶん細いなあ、地震が無いせいか・・だから原発事故があっ ても平気なのかなあ・・」などと考えたものの、憧れのパリに到着した感慨はそれほどな かった。ホテルに着いて、日本時間のままの腕時計を見た私は、日本にいる友人たちはそ ろそろ起きる頃かな、と思いながらすぐ眠りについた。 街の靴屋さんは最高! 翌朝、部屋のカーテンを開け、ベランダに出てみて驚いた。ホテルと同じように、歴史 を感じさせる重厚な建物が通りの両側にずっと並んでいる。まるで絵葉書を見ているよう だ。朝食のレストランにはクロワッサンがうず高く積まれていた。英語でもなく日本語で もない言葉、初めて耳にするフランス語が聞こえてくる。ようやくパリに来た実感が沸い て来た。 母が切り出した。「今日はあなたが行きたいところに付き合うわよ。でも、夜はどうし ても連れて行きたいところがあるから昼間だけね」と。そういえば、行きたいところを決 めておくように母に言われていた。ガイドブックをいくつか見たけれど、頭の中にはパリ のイメージが膨らむだけで、具体的に行きたい場所は決まっていなかった。パリに行きた い理由を最初に尋ねられたときに、「おしゃれなカフェでお茶して、かわいい雑貨を買い たいから」と答えて笑われたことを思い出した。母は「それだけなら銀座で十分じゃない? 銀座の通りを歩けばパリと同じ店が目白押し。メルキュールホテルに泊まれば完璧」と言 われて、余計に悩んでしまい、その先の思考が停止していたのだ。初めてフランスに行く のだから、パックツアーの広告に載っているようにエッフェル塔とモンサンミッシェルと ルーブル美術館に行くのが無難なのかもしれないが、せっかくパリ九区(中心部)に泊ま っているのだから、やはり観光より買い物や街歩きのほうがそそられる。私は即物的だが 「ブランドショップを覗いてみるとか?」と言った。 パリの七月は「solde」(セール)の季節だという。晃華学園でも、高校の先輩のなかに はフランスのブランドの財布を持っている人がいないわけではない。日本でこうしたブラ ンドの店に入ってみたいと思ったことは一度もなかったが、今、パリにいるのだと思うと、 本国のパリ本店はどんな感じなのか、日本にある店とは違うのか、ちょっと興味が沸いて きたのだ。でも、母は「パリに滞在する短い時間をブランド店巡りなんかに充てるのはも ったいない、商品は世界中同じだし、お客が日本人と中国人ばかりなのも銀座と同じだ」 と切り捨て、「買い物がしたいなら」と話を続けた。「靴はどう?あなたのように大きく て細い足に合う靴を日本で探すのは一苦労だけど、フランスならいくらでもあると思うな」 と。実際、足の長さが二十五センチの私はいつも、靴探しに大変な思いをしている。母の 提案に乗ってみることにした。 ホテルからタクシーで出かけるのかな?と思っていたら、母は当然のように地下鉄(シ ョセ・ダンタン・ラ・ファイエット駅)へ向かってまっしぐらに歩いていく。「カルネ」 と呼ばれる回数券を買った。単なる切符なのに、ちょっとした色使いやロゴがおしゃれ! 東京の地下鉄の切符とは大違いだ。最初、知らない土地で地下鉄なんて面倒くさいなとい う考えが頭をよぎったが、なんだかうれしくなってきた。たかが地下鉄、されど地下鉄。 「さすがパリだ!」と思い始めると、ホームに立っても、トンネルの形状そのままの曲面 に埋め込まれた駅名のタイル、駅ごとに異なったデザインのベンチ、東京の地下鉄に比べ たらレトロな車両、そのすべてがおしゃれに見えてくるから不思議だ(今思えば、丸の内 線だって十分レトロでいい味出している気がするが)。 出かけた先は、サン・ジェルマン・デ・プレ。大通りから一本裏に入ると、ウィンドゥ に「solde」の紙を貼りだした小さな、それでいて個性的な靴屋がいっぱいあった。どのお 店もセールだというのに客の姿はまばら。自分ひとりだったら店に入るのにとても勇気が いっただろう。母とウィンドゥ・ショッピングしてから、店を決めた。おそるおそるドア を開けるやいなや「Bonjour!」の声。慌てて「ボンジュール」と鸚鵡返しした後、目に留 まった革のサンダルに手を伸ばした。すると、店員が私にフランス語でなにやら話しかけ る。緊張は頂点に達した。そうか、日本の店と違って、商品を手に取っちゃいけないのだ った。ようやく店員は笑顔になって、私をすわらせて、まず採寸した。「君のサイズは三 十八」と英語で言ったように思う。店の奥から、私が手に取ろうとしていたサンダルの三 十八サイズを持ってきてくれた。確かにぴったりだ。しかも、日本の靴と違って横幅もぴ ったり。日本の店ではこんな経験はほとんどない。店員(一人しかいないので店長かもし れない)は、ほかも試すか?と言わんばかりに(フランス語も英語も聞き取れてないが、 身振り手振りを見る余裕ができたのだ)、同じサイズで別のデザインのサンダルを私の前 に置いた。こちらも、サイズ、デザインともに私にぴったりだった。 二足購入した。 値段を日本円に換算してみると、いわゆる有名ブランド品ではなく、solde で四割引になっていて、しかも空前の円高であるにもかかわらず、決して安くはない。で も靴底も紐もすべて革でできていて、とてもしっかりした造りだ。日本で安く売っている 靴の多くは中国製で、もともと雑な造りである場合が多い。それらとは出来が全然違う。 原価や工賃がまったく違うのではないだろうか。それでいて、フランスの法律では、solde の値札を付けるためには、今年のモデル限りで、かつ、実際に売っていた値段を併記する ことが義務付けられているという。テレビ番組で、日本のアウトレット専用に作った製品 に、ありもしない定価を書き加えて値引きを演出することがあると報道されていた。それ に、私の経験では、日本の店のセールでは、二年も三年も前の売れ残りがなんの表示もな く同列に売られていたこともある(女子学生御用達の有名雑貨店なので、すぐわかった)。 これらはフランスではご法度なのだ。 自分の買った靴と比較してみたくて、一流ブランドの店と、スーパーマーケットも覗い てみた。一流ブランドの店では値札さえ付いてない。一点一点尋ねるしかないというハー ドルの高さ。しかも、当たり前だが、私からするとべらぼうに高い値段だ。その店で買う 気がないのに居続けるのは苦痛でしかなく、逆に言うと、それが、単なる冷やかしの客が 入ってくるのを防いでいるのかもしれない。一方、スーパーは日本と同様、置いてある靴 を好き勝手に手に取り、レジに持っていく仕組みで気楽だ。しかし、見るからに安かろう 悪かろうの商品しか置いてなかった。両極端である。その点、日本ではほとんど見かけな い〝街の靴屋さん〟と呼べるような個人商店(店によっては工房も併設しているように見 えた)が、おそらく最も店数が多く、それぞれが独自の品揃えをしているのは驚くべきこ とだ。多くのパリ市民は自分のお気に入りの店を見つけて、行きつけにしているのだろう。 店員とお客が靴を選びながら、(フランス語だからわからないが、多分)世間話に花を咲 かせている姿を見かけて、ちょっぴり羨ましく感じた。 今日の目標を達成して、やれやれとサン・ジェルマン大通りに面した小さな教会に入っ てみた。サン・ジェルマン・デ・プレ教会。フランスで一番古い教会だというのに観光客 は見当たらない。一心に祈っている人がちらほらいるだけだ。観光客がたくさん訪れるフ ランスでは、多くの人を受け入れられるような大きな施設でないと観光名所に仕立てられ ないのかもしれない。 教会から出たところで、サン・ジェルマン大通りから南に延びたレンヌ通りのずっと先に、 超高層ビルが霞んで見えた。都内にはいくらでもあるような、全面ガラス張りの、ただ背 が高いだけのビルが一棟だけそびえている。ガイドブックを何冊も眺めてきたお陰でこれ が五十九階建てのモンパルナスタワーであることはすぐに想像できた。自分が今立ってい る地点からは遠く離れているのに、この違和感は何だろう。パリに来てからまだ、ホテル のあるオペラ座界隈とここ、サンジェルマン・デ・プレしか歩いてないが、白壁やたたず まいがいかにもヨーロッパだと思わせる、石造りの中層ビルが建ち並ぶ様子は、どの通り でもそれほど変わらない。ひと際高くそびえるタワービルは、そのようなパリの景色には 全く馴染んでいない。もっとも、エッフェル塔でさえ建設時には反対運動があったという のだから、そのうち無愛想なこのビルも愛されるようになるのだろうか。とてもそうとは 思えない。 いよいよ未体験ゾーンへ ほぼ一日かけてサンダルを二足買っただけと書いてしまうといかにも効率が悪いが、な んだか、やけに充実していた。ホテルにもどると午後七時を回っていたが、外はまだ昼間 の明るさだ。夜は、「クレイジーホース」という名のナイトクラブを予約したという。母 は、パリに来たら何を置いても必見、日本では絶対に見られない芸術性の高いショーを見 るのだと力説したが「女性が一糸纏わぬ姿で踊る」という点が私には引っかかっていた。 そんなところに自分のような子どもが行くこと自体が変な感じだし、観客が男性ばかりだ ったら嫌だなというのが正直な気持ちだった。 クレイジーホースはジョルジュ通り、アルマ・マルソー駅からすぐのところ。受付で予 約番号を言うと、発券係のお姉さんが、この子は何歳か?と尋ねる。やっぱり入れないの かなと不安になったのもつかの間、お姉さんが母に一枚の紙切れを渡してサインを求めた。 つまり、親の同意さえあれば、このような大人向けのショーであっても入場できるのだっ た。席は最前列だった。テーブルにはシャンパンのフルボトルが冷やしてある。周囲は年 配の品の良さそうなカップルが中心で、男性はスーツ、女性はドレスで決めていた。ほと んどの人がフランス語で話しているように聞こえる。日本人や団体客は見当たらなかった。 緊張のなかで、ステージが始まった。〝かぶりつき〟で見ているというのに、これが生 身の人間なのかと疑いたくなるような陶器のような肌と、どんなマネキンよりも均整の取 れた美しいボディを持つ女性ダンサー七人が、次々と驚きを与えるような演出で、刻々と 変化していく強烈な照明を浴びて、パフォーマンスを繰り広げる。圧倒的な美しさは言う までもなく、踊りに込められたストーリーの面白さ、その表現に引き込まれた私は、一瞬 の瞬きさえもったいないかのように、二時間の舞台を食い入るように見つめた。女性が裸 で踊る、というだけでなんとなくぼんやり想像していたいやらしさとはまるで無縁。ミロ のヴィーナスをいやらしいと評する人がいないように、芸術としか言い表せない舞台だっ た。外に出ると午後十時だというのにまだほんのり明るい。シャンゼリゼのカフェはどこ もごった返していたが、私はショーの感激に浸ったまま、お腹が空いていることも忘れて 通り過ぎた。ホテルに帰って眠る段になっても、プログラムの一つだった 「Iamnotagoodgirl!」のメロディと踊り子の仕草が頭から離れなかった。 地下墓地とクレープ 二日目の朝。今日も、それぞれがどこへ行きたいか、希望を言い合った。私はエッフェ ル塔だ。さすがにそれだけは見て帰らねば。母は「ちょっと見てみたい遺跡がある。雨降 っても濡れないし」とだけ言った。不安になった。母が行きたいところ、濡れない場所、 遺跡・・・きっと私の感覚では到底受け入れ難いような場所、薄暗い場所とか怖い場所に 違いなかった。過去何度も痛い目に合っている。地下鉄マップで母が○印を付けている駅 名をチェックし、その辺りの「遺跡」を急いでガイドブックで調べた。 「カタコンブ」。母が目指しているのはここに間違いない。私は凍てついた。私は、そ の名前を知っていた。中学二年の(つまり今使っている)音楽の教科書に、組曲「展覧会 の絵」が紹介されており、そのうちの一曲がカタコンブだ。教科書には、ご丁寧に、暗闇 を進むおどろおどろしい挿絵が載っていて、それだけでも十分、怖い思いをしたのだ。ま してや、憧れのパリ旅行でカタコンブを見に行く羽目になるなんてまったく想定外だ。 地下鉄で母に何度も確認した。「奈彩は入口までついて行くけれど、中には入らなくて いいよね、出口か、そばのカフェでお茶して待っているから」と。ほとんど懇願に近いに もかかわらず、母は全然意に介さない。それどころか、この近くのモンパルナス墓地に、 いかに著名な人の墓があるかについて解説し始め、話をそらす。そうこうしているうちに カタコンブ最寄りのダンフェール・ロシェロー駅に到着してしまった。 外に出ると、雨の中に長い行列。それはまさしくカタコンブをひと目見ようと、開場前 から並んでいる人たちだった。フランス人旅行者のほか、おそらく地元の子どもたちと引 率の先生のグループ、英語のガイドブックを広げている夫婦、バックパッカー風のカップ ルなど。物好きだけが探して行くような超マイナーな場所だと考えていたので、日本人が 一人も見当たらないのはいいとしても、〝普通の人たち〟がこんなにいっぱい集まってい ることにはとても驚いた。だからといって、この、のどかな雰囲気に騙されてはいけない。 音楽の教科書の挿絵、ガイドブックの小さな写真は、紛れもなく、内部が薄暗くて恐ろし い場所であることを証明しているのだから。 カタコンブはローマ時代の採石場を利用した地下墓地のことで、十八世紀末に、人口増 加による墓不足から、約六〇〇万体の人骨が集められたという。その一部をこうして公開 しているらしい。一部といっても、地下道の長さは一・五キロ、〝墓地〟は五〇〇メート ルにもおよぶという。外で並んでいても恐怖は募るばかりだ。幸い、行列は遅々として進 まない。「ここから二時間以上待ちます」と英語とフランス語で書かれたプラカードを持 った係員が回ってきた。母はそれで諦める様子はまったくない。私はひたすら、ひとりで どうやってカフェに入ればいいのか、まず、いつこの列から逃げ出そうか、まるで誘拐さ れた子どものように時機を見計らっていた。そうこうしているうちに、二時間はあっとい う間に過ぎた。目の前に入口が迫ったと思ったら、係員に早く進むよう促されて、あっと いう間に私も中に押し込まれてしまった。 私は泣きそうになりながら目をつぶって母の腕にしがみついた。 「どれくらいの道のり? もうお墓は通り過ぎた?」とおそらく蚊の鳴くような声で尋ねても母はのん気な言葉しか 返さない。次のグループは子どもたちのようで、後方から、「きゃっきゃっ」とはしゃぐ 女の子たちの声が聞こえてくる。「後ろの子どもたちは、骨を外してみんなで回している わ」。もう私は母とも一緒にいられなくなった。ほとんど目をつぶったまま、半狂乱で狭 い地下道をひた走った。前のグループに追いついたが、その人たちは、私が脇を通ろうと していることにも気付かないほど一生懸命、写真を撮っている(薄目を開けたら、ガイド ブックに載っていた、骨を積み上げて作られているエンタシスを思いっきり太くしたよう な形状の円柱が間違いなくそこにあった。円柱には、骸骨がリボンでも巻くように埋め込 まれていた)。人々を追い越して、追い越して、階段を何百段も登って、外に出られたの はずいぶん先だった。そこから母が出てきたのはさらにずっと後だった。幼い頃どころか、 小学校の上級生になっても、(見学に訪れた中学校の)文化祭のお化け屋敷でさえ怖くて 泣いてしまった。とにかく、その手のものが一切だめなことは、母は百も承知のはずだ。 まったくひどい目に合った。生きた心地がしなかった。一方、母は、実に圧巻だったと満 足気だ。 蒼ざめた私を慰めるつもりなのか、母は急に「本場のクレープを食べたいと言っていた わよね」とその場を取り繕い、通りがかりのクレープ屋さんへ私を誘った。がちがちに硬 くなっていた全身の筋肉が少し解れた。気を取り直して、ショコラ・クレープを注文。母 は、そば粉で作る塩味のクレープ「ガレット」だ。店のオーナーと思しきおばちゃんが陽 気に振る舞う。クレープを一口食べたところでようやく、私の心臓の音が落ち着いてきた。 おばちゃんが、紅茶はどれにするかと言って、ティーバックの箱をいくつか持ってきた。 パリでは今のところどこへ行っても、高い店でも安い店でも紅茶がティーバックで出てく ることに驚く。イギリスやフランスなどの紅茶の本場では、一杯一杯、茶葉から抽出する に違いないと思い込んでいたからである。 工事中の損得勘定 クレープと紅茶で気を取り直して、午後はエッフェル塔へ向かった。再び地下鉄に乗り、 途中で RER(パリから郊外へ延びている鉄道)に乗り換えると、エッフェル塔に一番近い駅 に行ける。乗り換えさえ間違わなければ大丈夫だと、安心していた。乗り換え駅で降りる と、RER の方向が、通常の看板ではなく、ホーム上に、黄色い〝足跡〟で表示してあった。 足跡をたどって行くと RER のホームに出られるのだろう。それにしてもずいぶん粋なサイ ンだなと感心しながら、足跡を追って歩いていった。 ところが、足跡が途絶えた先は、ホームではなく屋外だった。どういうことなのか事情 が飲み込めない。見回すとバス停に、何か大きなポスターが貼ってある。理解するのに五 分くらいかかっただろうか。どうも、乗り換えるはずの RER が一部工事中なので、四駅分 は、巡回しているシャトルバスを利用しろ、ということのようだ。しかし、既存のバス停 を利用しているので、バスは次々来るものの、どれがそのシャトルバスなのかを一瞬にし て見分けるのは外国人には困難だ。乗車後も気が気ではない。バス停の名前を車内放送し てくれるわけではないので、外の風景と地図に首っ引きになりながら現在地を推し量る。 「右にセーヌ河が見えて、左に・・・あの建物の形はアラブ文化研究所。ということは今 この辺をこっち向きに走っている」という具合に。お陰で、図らずも市内観光ができてし まった。工事中で得したんだか損したんだか・・よくわからないけれど貴重な体験だった ことは間違いない。 こんなトラブルを乗り越えて、エッフェル塔に着いたのだから感慨一入・・・のはずだ ったが、シャン・ド・マルス・ツール・エッフェル駅から歩いて行くうちに大粒の雨が落 ちてきた。ちょっと写真を撮ろうにも、傘を差せば背景となるエッフェル塔が台無しだし、 差さなければ、アフリカからの難民と思しき人たちが寄ってきてエッフェル塔の図柄が入 った傘やキーホルダーを買えという。まずは近くまで行ってしまうしかない。 エッフェル塔に近づくと、塔全体の造形美よりも、塔を構成している「鉄の刺繍」が繊 細できれいだ。これは、塔の真下から見上げて初めてわかること。来た甲斐があるという ものだ。ただ、残念なことに、塔の下は二基のエレベータの順番を待つ人たちでごった返 し、二~三時間待ちだという。塔内のレストランを予約すれば、専用エレベータで上れる のだが、それもずっと前からネット予約しないと無理だという。私は、階段で上ることを 考えた。しかし、下から透けて見える階段も、前がつかえて動けない状態であることが見 てわかる。それに、母は「じゃあ先に帰っているから」と言うではないか。それでは階段 で上ったと自慢しても信じてもらえないかもしれない。別に自慢するために上るわけじゃ ないけど、そんなこんなで萎えてしまって、私もすごすごと帰ることにした。 はとバスかアラブか 二日間で、母が望んだクレイジーホースとカタコンブ見学、私が望んだ靴(サンダル) の購入とエッフェル塔見学は終了。三日目の最終日はどうするか?母は初心者必見の観光 名所を、ほとんど私が訪れてないことを心配して、パリの〝はとバス〟(パリ発のツアー バスを出している会社がいくつもある)に乗って、ベルサイユ宮殿や美術館、郊外のお城 などに行く手があることを明かした。個人で行くと何時間も並ばなくてはいけない名所で も、日本からのパック・ツアーなどと同様、ひとたび〝はとバス〟で訪れれば、団体専用 口から待たずに入れるのだという。 一応、ホテルに用意してあるその手のパンフレットに目を通したが、例えばルーブル美 術館半日、というツアーでは、バスに乗るわけではなく、バス会社の前に集合して徒歩、 と書いてある。それで五〇ユーロだ。個人の入館料が九・五ユーロなので、ツアー料金は バス代ではなく、待ち時間ナシと引き換えの対価と考えたほうが正確なのである。実に変 なシステムだと思う。パンフレットには、このツアーのお勧めポイントとして「丸一日か けても見終わらない規模のルーブル美術館。このツアーなら、日本人好みの必見の作品だ けピックアップして効率的にご案内します」とある。どこか変だ。日本人好みはこれとこ れ、という具合に決まっているらしい。日本人が日本では見たことのない隠れた作品を案 内してくれるのなら話は別だが・・・。 ということで最終日もまた、地下鉄を乗りこなし、パリの街歩きを楽しむことにした。 カタコンブでは目論見が外れたが、今日こそ知る人ぞ知る穴場を見つけたいものだ。昨日、 地下鉄工事のおかげで、図らずもバスの中から発見したアラブ文化研究所こそ穴場に違い ない、と私たちは踏んだ。日本の雑誌「ブルータス」の記事で、ここで世界的な建築家の 展示会が開かれていることを母は知っていたし、私も研究所の建物自体がとても興味深い と思った。最近のニュースを見ていて、アラブと名がつくところは危険なのでは、との考 えが頭を一瞬よぎったが、母は、政治と文化は別で、標的になるキーワードは米国なのだ から、逆に心配は少ないはずだと言う。なるほど、そういう考えもあるのか。シュリーモ ルラン駅からセーヌ河を渡って、ひと目でわかる個性的な研究所に向かった。 今度こそ間違いなく穴場だった。アラブの衣装を纏った人たちや、ここのライブラリー が目的と思われる学生らしき人がちらほらいるだけで、研究所内は静寂だった。ガイドブ ックの説明ではよく理解できなかったが、窓という窓が、レンズの絞りのような構造にな っていて、丸く大きく開いていたり、半分絞られていたりする。今まで見たことがないこ の不思議な構造は、建物の内側から詳細に観察できた。展示を楽しんだ後は、屋上のカフ ェへ。ここも穴場!穴場!パリの街が見渡せるテラスがあり、待たされることなくアフタ ヌーンティーを楽しめる。ここでもティーバック紅茶(ただし、ティーカップはアラブ風 の金属製のもので熱くて持つのも飲むのも大変だった)と、おそらくアラブのレシピで作 られたと思われるお菓子でくつろいだ。 研究所を後にして、古本市を眺めながらセーヌ河のほとりを歩き、セーヌ河に浮かぶシ テ島へ。するとまた、急に観光客で込み始めた。今度は、ノートルダム大聖堂に入るため に並んでいる人たちである。母と私はもう、口に出さなくても、「名所だからといって並 んでまで入らなくていいや」という合意が自然とできていたのか、正面で一枚写真を撮っ ただけで通り過ぎた。 最後の夜は、私の希望でショッピングだ。自分のためというより、友人たちのお土産を 買わなくては。こればかりは、観光客が集まるデパートが一番だ。ホテルから歩いてすぐ のギャルリー・ラ・ファイエット。でも、私がパリへ来る前に期待していた「日本にはな いようなかわいい雑貨」が溢れているというほどではなく、結構、選ぶのに悩んでしまっ た。 〆はマカロン?そして「地産地消」を考える パリの締めくくりは、人気カフェでのディナーと、ホテルに戻ってマカロンの味比べを することだ。夕飯では水をこぼされたり、給仕の女性に(フランス語がわからないのをい いことに)嘘をつかれたりと最後の夜を飾るには怒り爆発だったけれど、それもパリの良 い思い出になるのだろうか。いつか、フランス語でやり返せるようになりたいものだ。 フランス語ということで、話が少しそれるが、晃華学園のフランス語の課外授業はどう なったのだろう。実は、入学前にそれを楽しみにしていたのだが、入学してこれまでに一 度も開講されていなくて、とても残念だ。そして残念といえば、フランスで創立されたと いう汚れなきマリア修道会はどこにあったのだろう。もしパリにその痕跡があり、その場 所を確かめてあったなら、その地を訪れることだってできたのに。 夜遅くホテルに戻り、荷造りしながら紅茶を入れ、買ってきたばかりのマカロンを頬張 った。マカロンは日本でも珍しくないので、どうせ、日本のものとさほど変わらないだろ うと考えていたのだが、一口食べて、二人で顔を見合わせた。食べてびっくり、とてもお いしい。外側のメレンゲ状の部分が薄い一方、中身(具)の量が多くて、ジューシーなの だ。あれ、こんなにおいしいものだったっけ?というわけである。マカロンのお陰でレス トランでの嫌な出来事を忘れ、パリの最後に再び幸せな気分に浸った。 後日談だが、日本人に一番人気という「ラデュレ」のマカロンをお土産に買って、大事 に手で持って帰ったきたのだが、帰国後に確かめると見るも無残に砕けていた。母のお友 達に差し上げる予定があったので、しかたなく、帰国した日の夜、同店の銀座三越店へ同 じマカロンを買いに行き、万全を期して配送してもらおうと考えた。ところが、「マカロ ンはとてもデリケートなので、こわれ物扱いにしても、クール便にしても配送できません」 とのこと。それでマカロンのおいしさの秘密が少し理解できた気がする。このお店ではな いが、マカロンを宅配便で取り寄せたことがある。個別包装されていて崩れてもいなかっ た。でも、おいしくなかった記憶がある。壊れないことを第一にレシピが作られていなけ ればならない。そうだとすれば、おいしさは二の次になっているに違いない、と納得した。 やはりおいしいものはその地で食べるに限る。 「地産地消」は農作物に用いられる言葉だが、この言葉は、お菓子にも当てはまるのでは ないかと私は思った。またいつか、遠くない日に、マカロンを食べに、そして、フランス 語の実力を試しに(そう言えたらかっこいいな)、再びパリを訪れたい。 (終わり)
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