日時:2007年 9月 16日 主日2部説教

日時:2007年 7月 29日 主日説教
題名:その土台とはイエス・キリストです
説教:チョー・ヨンギ牧師
御言葉:コリント人への手紙 第一 3章 10~15節
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。
そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるか
についてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すで
に据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、
宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日
がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火
がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残
れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人
は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
<序論>
今日、私は皆さんと共に「その土台とはイエス・キリストです」という題名を
もって恵みの御言葉を分かち合おうと思います。
建物に火がつけば、木や草やわらで建てた家は灰に変わり何も残りません。し
かし鉄骨やセメントで建てた家は骨組みが残ります。私たちの信仰生活も同じ
です。後の日に主の報い、裁きを受ける時、世の中の物で信仰の家を建てた者
は、すべて失ってしまうのです。しかし金や銀や宝石で建てた家は裁きの火に
悠々と勝ち、永遠に立ち、報いを得るのです。私たちの人生はすべて家を建て
るものです。人生とは家を良く建てる者もいれば、良く建てれない者もいます。
世界的に有名な建物の中で、お互いに対照的なものとしてイタリアのトスカー
ナ州にあるピサの斜塔と、アメリカのニューヨーク・マンハッタンにあるエン
パイア・ステート・ビルディングがあります。この2つの建物を比較してみる
と、建物の基礎がどれ程重要なのかということを良く現しています。エンパイ
ア・ステート・ビルは大きな岩を基盤として基礎工事をしっかりしたために、
いくら強い風が吹いても揺れません。しかしピサの斜塔は基盤が弱い所に建て
られたために1174年度に着工されてから、現在5.2メートルが傾き崩壊の危険
にある状態です。ですから基礎をよく固めることは非常に重要です。私たちの
信仰も同じことです。丈夫で確実で揺れず崩れない基盤の上に信仰の家を建て
るべきで、揺れる基盤の上に信仰の家を建てるなら、基礎も崩れ、家も崩れて
しまうのです。
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<本論>
1. 家と土台作り
それゆえに私たちの信仰の家と土台作りは非常に重要です。人々は人本主義的
な土台を築いて、その上に自分の未来を建築しています。人本主義的な土台と
いうのは、人間の哲学や学問、修養、努力、苦行、宗教など、独りで成し遂げ
た土台の上に自分の人生の家を建てます。
聖書のコロサイ2章8節には「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれの
とりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この
世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」
人間の努力で土台を固めたものは、すべて崩れ、残りません。歴史的に古代国
家が旺盛だった首都が、石の山になり何も残っていないのは、人間が築いた土
台はすべてそのようになってしまうのです。また混合主義的な土台があるので
す。神様が築いた土台に人間が補わなければならない、すなわち神様と人間の
合作で土台を築かなければならないと言う人々がいます。いくら神様が恵みを
くださっても人間は律法を守ってこそ救われる。いくら恵みをくださっても私
たちが禁欲し苦行をしてこそ神様の恩寵を受けることができる。いくら神様の
恵みを受けると言っても、割礼を受けたり宗教儀式を行ってこそ、その恵みが
必要となる。と言う人々がいます。混合主義的な土台を築かなければならない
と言うのです。しかし皆さん、絶対に他の土台はあり得ません。私たちが人生
の家を建てる土台はイエス・キリストしかいないのです。
Ⅰコリント3章11節に「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほ
かに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリ
ストです。」と語られました。
イエス様の十字架の贖い、死とよみがえりの土台は、永遠で絶対に完全な土台
なのです。イエス様だけが全人類の罪を代わりに負われ、十字架で体を裂かれ、
血を流され、永遠に清算してしまい、どのような罪悪の風が吹いて来ても揺れ
ず崩れない土台になるのです。
使徒4章11節から12節に「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、
礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっ
ても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名
は人に与えられていないからです。」と聖書は語っているのです。
この土台は神様の恵みの贈り物であり、絶対に代価を払って買うことができま
せん。神様が主イエス・キリストを通して成された非常に大きな御働きなので
す。この大きな御働きの土台の上で、人は何を補うこともできず引き抜くこと
もできません。神様が造られた土台を私たちが恵みの贈り物として受け取り、
その上に人生の家を建てるのです。私たちが代価を支払って、神様が築かれた
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土台を譲り渡してもらうことは絶対にできないのです。神は、実に、そのひと
り子をお与えになったほどに世を愛され、イエス様は私たちをこのように愛し、
体を裂かれ、血を流され、この土台を築いておかれたのです。神様の永遠なる
御子が、御自身のいのちを捧げて築いておかれた土台を、人間のどのような手
段や方法においても代価を支払い、その土台を買うことはできないのです。神
様が築いてくださった恵みの贈り物を私たちが受け取るだけなのです。
エペソ2章8節から9節に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われ
たのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行い
によるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
ああ!私がこの土台を築くのに助けを与えた。私の力で土台を築いた。このよ
うに誇れないように神様はなさるのです。キリストという土台は神様が御ひと
りで永遠に築いておかれた土台であり、神様だけが栄光をお受け取られるので
あり、神様はこの土台を私たちにただでプレゼントしてくださったのです。信
仰でイエス・キリストを受け入れ、その上に私たちが人生の土台を築くのです。
2. 家を建てる
私たちが人生の土台の上に家を建てる時、聖書は金で建てる家があると言いま
す。金は神様の絶対主権を象徴するのです。神様の神殿を見れば聖所と至聖所
がありますが、聖所と至聖所はすべて金で飾られています。神様の臨在は金で
装飾されるのです。金は神様の神性を表すのです。ところで神様は愛です。金
はまさに愛を表すのです。私たちが金で家を建てるということは、イエス様を
信じ、私たちの信仰の中心が、愛を実践する信仰を持つということです。愛と
いうので、シュバイツァー博士のようにアフリカの奥地に行って、人生を捧げ
るような愛を施さなければならない。もしくはマザー・テレサのようにインド
の貧民窟に行って、貧しい人たちと人生を共にしなければならない。このよう
なことだけが愛ではありません。愛とは私たちに最も近い、私が今いる場所か
ら最も近くにいる人に愛を恵むことなのです。理解し、同情し、忍耐して愛す
る愛の生活が、金で建てた家なのです。ある夫婦が夜寝ている時、同時に夢を
見ました。夢に、夫と妻の夢にイエス様が現れて「明日、わたしがあなたがた
の家を訪問するからわたしを受け入れる準備をしなさい。」目覚めて夫がその
夢の話をすると、妻が驚きながら「私も同じ夢を見ました。明日イエス様が訪
れられるから、私たちはおもてなしの準備をしましょう。」家の掃除をし、整
理をし、おいしい料理を作って、その日一日待ったのですがいくら待っても誰
も来ないのですが、日が西に沈むころ誰かが門を叩きます。飛び出して見ると、
孤児が吹雪の中で足がむくみ腫れ上がって凍り、手に息を当てながら食べ物を
尐しくださいと言います。来ると言われたイエス様は来られずに、どうして孤
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児が来たのか。しかし来たので助けてあげようと家に入れてあげ、足を洗って
あげ、暖かい服を着せてあげ、食べ物をたくさん食べさせて、靴を履かせて送
り出しました。そして二人がうとうと居眠りをしていると、夜10時頃になって
誰かが門をたたきます。見ると一人の老人が雪のために行く道を見失い、お腹
を空かしてぶるぶる震えて立っています。それでその人を迎え入れて暖かい食
事を出し、服を着せてあげ、体を温めて送り出しました。ところがイエス様は
来ませんでした。それで二人は気落ちしてその日の夜寝たのですが、同じよう
に夢にイエス様が現れました。「今日、わたしはあなたがたの家を訪問したけ
れど、良くもてなしてくれて本当にありがとう。」「主よ、お見えにならなか
ったのに、いつ来られたのですか?」「わたしは孤児の姿であなたがたの家を
訪問したし、道を失った旅人の老人の姿であなたがたの家に訪問したけれど、
あなたがたがわたしをもてなすように、孤児と老人を良くもてなしてくれたの
で、わたしは満足した。ありがとう。あなたを祝福する。」と語られたという
ことです。皆さん、イエス様を他のところで探してはなりません。私の隣人か
らイエス様を探さなければならないのです。私の隣人で貧しく飢えて疎外され
捨てられ苦しみに遭っているその方々が、まさにイエス・キリストの姿なので
す。私たちが愛を恵んで生きるということは、まさに私の隣人を、私以上に困
っている人、私以上に貧しく苦しみ、辛く、寂しく、捨てられた人々に愛と助
けを施す生活が、まさにイエス様をお迎えする人生であり、黄金で家を建てる
人生なのです。愛の実践ということは遠いところにあると考えないでください。
まさに皆さんの隣人に愛が必要なのです。夫に愛が必要であり、妻に愛が必要
であり、子供に愛が必要であり、隣人に愛が必要なのです。ですから偉大なこ
とで愛を実践し、金の家を建てるのではなく、極めて小さなことに忠誠を尽く
した者が大きなことにも忠誠を尽くすのです。愛するだけでなく、金で家を建
てるのは、絶対服従する人生なのです。神様の御言葉には人間の理論を差し出
さずに、絶対に服従することです。いくら私に地位、名誉、権力、お金の損失
があっても、神の国とその義とをまず第一に求めることが、金で建てる家なの
です。
中国の宣教師として一生を捧げたエリック・リデルは、イギリスの元陸上競技
選手でした。彼は1924年にパリオリンピックで金メダルを獲得したのですが、
こういうエピソードがあります。彼は100メートル選手として世界で最も良い
記録を持っていたため、必ずオリンピック100メートル競走で金メダルを獲得
するだろうと予想されていたのに、競技のあるその日が主日でした。それでエ
リック・リデルが「私は神様に仕えるために絶対に主日は走りません。礼拝を
捧げに行きます。」と言うので、オリンピック委員会と英国皇室までもが立ち
上がって説得してもびくともしません。「私は死に至っても主日は守らなけれ
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ばならないので走りません。」それでしかたなくイギリスは100メートル選手
を出場させることができませんでした。しかしその翌日、400メートルに出場
するのですが、100メートル選手が400メートルで勝つことはできません。しか
し仕方なく、オリンピック委員会がエリック・リデルを400メートルに出場さ
せたのですが、群衆の中で一人の人が大声を出しながら手を振るので見てみる
と、メモを一つ持っているのです。そのメモをこの人に伝えてきました。エリ
ック・リデルがそのメモを見るとⅠサムエル2章30節の御言葉が記されていま
した。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。」リデルはまるで空を飛ぶような
感激を受けてそのメモを読み、400メートルに出場して1位となり、金メダルを
イギリスに抱かせたのです。彼がまず神様に仕えたので、神様は自分の種目で
もない400メートルに翼を付けてくださって、1位になるようにしてくださった
のです。黄金のような信仰生活とは、愛を実践する生活であり、神様に絶対従
順し服従する生活は、金で人生を築く歩みなのです。
詩篇19篇9節から11節に「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの
純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それ
によって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」
と語られたのです。
その次にイエス様の土台に銀で一生の家を建てる人がいます。銀は贖いを言い
ます。聖書を見ると人を売り買いする時、銀で売り買いするのです。ユダヤ人
たちは一年に一度ずつ聖殿に半シェケルの銀を贖いの代金として捧げるのです。
銀というのはイエス様の十字架の血で贖いを受けたことを象徴するのです。銀
で家を建てるということは、イエス様の十字架を良く理解し、十字架の恵みを
深く受け入れて十字架の恵みで生きることを言うのです。イエス様の十字架を
見上げる時、イエス様はそこで体を裂かれ、血を流され、私たちの罪と不義と
醜さを負われました。十字架を通して赦しと義と栄光を受けることを覚えて実
践し、十字架を通して主はこの世の悪魔と世俗をすべて滅ぼし、聖さを清潔さ
を聖霊の満たしの生活をくださったので、それに従って聖く清潔で聖霊に満た
された生活を送り、十字架を通して主は私たちの心と肉体の病をすべて取り除
かれ、癒しと健康をくださったので、信仰で健康を得て生き、十字架を通して
呪いと狼狽と絶望に勝って、アブラハムの祝福と繁栄をくださったので、それ
を信じて人生の呪いと貧しさに勝って栄えて生きながら、十字架を通して死と
ハデスを滅ぼし、よみがえり、永遠のいのち、御国をくださったので、これを
信じて天国の民として生きるこのような贖いを受けた信仰をもって、徹底的に
自らの新しい身分、新しいアイデンティティー、新しい自分の地位をしっかり
と知って生きる人生は銀で建てた人生なのです。ただ教会に行ったり来たりす
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るのではありません。形式や儀式的に信じる信仰生活ではなく、十字架を通し
て私がイエス様を信じるアイデンティティーが確立され、私はイエス様によっ
て義人になった。聖なる人になった。癒された。祝福を受けた。御国の永遠の
いのちの人になった。イエス様によってたましいに幸いを得ているようにすべ
ての点でも幸いを得、また健康で、いのちを得て、豊かに得る人になった。選
ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民になったことを
確実に知って、これを信じてこの中で勝利し、この福音を全て人に伝えて、罪
悪と絶望と悲しみに陥った人を救い出す人生を送ることは、銀で家を建てた人
生を生きる人なのです。
Ⅰペテロ1章18節から19節に「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむな
しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も
なく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
イエス・キリストの血潮で贖われた贖いの恵みを伝えることは、銀で家を建て
ることです。その次に、宝石で家を建てたことは、宝石は麗しい飾りを意味し
ているのです。
イザヤ61章10節に「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、
わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまと
わせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるから
だ。」
麗しい信仰を鮮やかな美しい宝石で装ったことは、宝石で家を建てることです。
その宝石は何でしょうか。勝利の賜物がある信仰生活なのです。私たちが新し
く生まれ変わり、一生懸命教会に来て神様に仕えても、聖霊の賜物がなければ
宝石のない生活なのです。もちろん私たちが服をきちんと着れば綺麗で良いで
す。しかし女性たちはイヤリングもして、金の指輪、ダイヤモンドの指輪、ブ
レスレット、アンクレット、様々な宝石で飾りませんか。そうすれば更に綺麗
に見えて、麗しく見えます。信仰生活はイエス様を信じて救いを得て生きます
が、聖霊の賜物があれば、私たちの生活が宝石のように輝き始めるのです。私
たちが聖霊に満たされ、知恵のことばがあり、知識のことばがあり、霊を見分
け、異言を語り、異言を解き明かし、預言を語り、信仰の働きも起き、権能の
働きも起き、病の癒しの働きも起き、聖霊によって愛と喜び、平安、寛容、親
切、善意、誠実、柔和、自制の麗しい実を結べば、宝石で着飾った信仰の人に
なるのです。今日、神様の御前でキリストの土台の上に宝石で家を建てた者は、
聖霊に満たされ、聖霊の賜物と実が豊かで、聖霊で実践する人は宝石で家を建
てた人になるのです。
Ⅰコリント12章7節にも「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の
現れが与えられているのです。」と語られました。11節には、同一の御霊がこ
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れらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞ
れの賜物を分け与えてくださるのですと語られました。
賜物を受けて分かち合い、賜物を通して神様に栄光をお帰しする人生は、宝石
で家を建てる生活なのです。しかし木や草やわらで建てた家はどのような家で
すか。木や草やわらは薪にしかなりません。木や草やわらは苦労しなくても地
にいくらでもあるのです。木や草やわらは、皆さん私たちがイエス様を信じる
と、この世で生きながらもこの世の欲望や名誉や地位や権威や富貴や快楽に従
って生き、主を中心として立つことができません。主とこの世に同時に仕えて
生きようとするこのような人は、木や草やわらで家を建てる人なのです。イエ
ス様を信じないのではありません。キリストの土台の上で人生を生きていくの
は生きていきます。主日には教会へ来て、什分の一献金も捧げ、神様に感謝も
するのです。賛美もし、祈りもしながら、教会の外に出ると直ちに世の中の欲
に従って、名誉、地位、権威、富貴、快楽に従って生きる肉に属した聖徒の生
活なのです。
Ⅰテモテ6章17節から19節に「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶ
らないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、
私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるよ
うに。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身
のために築き上げるように。」と語られました。
ところがこのように主を中心として生きずに、世の中の欲や名誉、地位、権威、
富、快楽に従って人生を生きるなら、イエス様を信じるには信じたのですが、
木や草やわらで建てた人生となり、後に主が裁かれる時、主の火にすべて焼か
れ、自らは命拾いし、火からつかみ出された木の塊のように救いを得ることに
なるのです。報いは一つもなく恥と侮辱を受けるのです。
3. 何が金、銀、宝石と木、草、わらとに異なるものにするのか?
私たちがこの世の中で生きながら、何が私たちの信仰を金や銀や宝石、木や草
やわらを作りますか。金や銀や宝石は、皆さん、土の中の深い所にあります。
土地を掘り、岩を削っていってこそ金や銀や宝石を採取することができるので
す。私たち人々は、私たちの中に潜在的に金や銀や宝石が入っています。しか
し金や銀や宝石のような信仰生活をしようとするなら、私たちが砕かれ、掘り
起こされ、私たちの中の金や銀や宝石を掘り起こさなければなりません。それ
でその掘り起こされた鉱物を製錬をするために、火のような精錬を通して不純
物を取り除き、純粋な金や銀や宝石を探し出すのです。私たちの信仰生活は苦
難のトンネルを通して、火のような試練を通して、自らが砕かれ、悔い改めを
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通して変化してこそ金や銀や宝石になるのです。金や銀や宝石のような信仰生
活は、いつの間にかそうなるのではありません。イエス様を信じた後に、主が
私たちを掘り起こされるのです。私たちの中の金を掘り起こし、銀を掘り起こ
し、宝石を掘り起こすのです。金を掘り起こそうとするなら、更に深く掘らね
ばならず、銀はそれほど深くない所を掘り、宝石は更にそれほど深くない所を
掘りますが、私たちを掘り起こし、砕いてこそ宝石を掘り起こします。私たち
の信仰生活が平坦ならば、決して金や銀や宝石のような信仰にならないのです。
信仰生活に様々な試練と患難と苦しみが近づいてくるのは、神様が皆さんの生
涯の中に金を掘り、銀を掘り、宝石を掘ろうとしてそうされるのです。皆さん
がこれを我慢し耐えて変えられれば、金のような信仰になり、銀のような信仰
になり、宝石のような信仰になるのです。なぜならば、私が砕かれ火の中を通
る時には、悔い改め、叫び祈らなければならないからです。砕かれて悔い改め、
叫び祈れば、愛せない人が愛の人に変わり、まことに主を中心として、主の贖
いの働きを信じ、恵みの人になり、聖霊に満たされ、宝石のような賜物を受け
る人々になれるのです。
Ⅰペテロ1章7節に「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて
行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になる
ことがわかります。」と語られたのです。立派な業績を残した人々は、大部分、
苦難との戦いに勝った人々なのです。この世で主を信じる人で、偉大なことを
なした人は、大きな苦しみを通して砕かれ、掘り起こされ、変えられ、金や銀
や宝石のようになった人々なのです。『宝島』の作家スティーヴンソンは、結
核末期の苦痛の中で名作を執筆し、マザー・テレサは、生涯彼女を苦しめた慢
性頭痛をこらえながら愛を施しました。パスカルは、青年時代から苦しんだ全
身のひどい痛みに勝ち『パンセ』を残し、ベートーベンは、聴覚障害の苦しみ
の中で不朽の名曲を作りました。宣教師マーティンは、肺結核と悪戦苦闘しな
がらインディアンに福音を伝え、フランスの画家ルノワールは、リューマチの
痛みに勝ちながら絵を描きました。救世軍の運動を主導したウィリアム・ブー
スは「私の人生において一日も苦しみのない日はなかった。」と告白しました。
偉大な人は、決して苦難なしに生まれません。信仰生活もこれと同じで、木や
草は小さな火種でも容易く燃えてしまいますが、金と銀はどんなに大きな火で
も簡単に燃えません。苦難のトンネルを通して火のような試練を通して自我が
砕かれ、悔い改めて、真心から悔い改めて、変えられる金のような人、銀のよ
うな人、宝石のような人を通してこの世は麗しくなり、変化し、生き甲斐のあ
る所になり、神様の栄光が満ちるのです。
皆さん、ウノアシ貝は、岩や船底にくっ付いています。このウノアシ貝はあま
りにも執着力が強くて、岩を砕いてもそこに付いているウノアシ貝を外すこと
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はできません。科学者たちはウノアシ貝がこのように強くくっ付いている理由
の中の一つに、長い間、波と戦ったという点を挙げます。波の力は時速500km
の非常に強い風と同じような力で貝にぶつかります。このような強い波の中で
長い歳月を生きるためにはウノアシ貝は非常に強い肋を育てて岩にピタッとく
っ付きました。波があまりにも強いので流されてしまうなら死んでしまいます。
力の限り岩にくっ付いていたので徐々に貝の肉が強くなって、後には岩を砕い
ても貝が外れなくなりました。私たちの信仰も同じなのです。多くの荒波と試
練を通せばイエス様にしっかりとくっ付いて、更にしっかりとくっ付いて、更
にぴったりとくっ付いて、後にはどのようになってもイエス様から離れません。
まことに金や銀や宝石のような信仰でキリストにしっかりとくっ付いて、キリ
ストと運命を共にする人になるのです。火のような試練が多いが恐れるな。そ
の試練が皆さんと私をキリストの懐に深く抱かせるようにするのです。ですか
ら金や銀や宝石のような信仰になることはどれ程良いことか分かりません。
Ⅰペテロ4章12節から13節に「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあな
たがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのよ
うに驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、
喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者と
なるためです。」と語られたのです。
一般的に人々が宝石の中で宝石だと思うのはダイヤモンドです。このダイヤモ
ンドを人為的に作る方法を見ると驚きます。自然のダイヤモンドではなく、人
工ダイヤモンドが最近たくさんあります。人工ダイヤモンドを作る過程は、原
料が炭素の炭を1,700℃の高熱で加熱した後、50,000気圧をかけて圧縮します。
50,000気圧といえば、ドングリを一棟の家ほどの鉄の塊で圧することと同じで
す。このような極限状態で美しく透き通った光り輝くダイヤモンドが生まれる
のです。見てください。1,700℃の火で炭を焼き、そこに50,000気圧、ドング
リを一棟の家ほどの鉄の塊で押え付ける気圧で押さえると、黒い炭がキラキラ
するダイヤモンドに変わるのです。罪が多く、不義で、醜く、捨てられて当然
の私たちも、イエス・キリストを救い主として信じ救われた私たちに試練と患
難が近づいて、火のような試みと患難の苦しみが押し付ければダイヤモンドに
なってしまうのです。私たちが消えてしまいそうですが、苦しみに遭えば遭う
ほど、私たちは更に強くなり麗しくなり変えられ栄光に満ちた私たちになるの
です。ですからイエス様を信じる信仰生活に付いてくる試みと患難と苦難を避
けようと思わないでください。その中でむしろ神様に感謝し、賛美し、信仰で
更に主の懐に抱かれるウノアシ貝やダイヤモンドになられることを主の御名に
よってお祈りします。そうすれば皆さんが主が来られる日に火で試されても、
焼けてなくならない金や銀や宝石のような信仰の家を建てて、そこで神様の報
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いを受けるのです。
しかし木や草やわらは地上にあります。砕く必要がありません。掘り起こす必
要がありません。ただ足で蹴飛ばせる物が木や草やわらなのです。この世の地
位や名誉、権威、お金、快楽、放蕩は鍛錬する必要がありません。放っておけ
ば野の草のように育つのです。大多数の人は、抵抗なくこの世の中でこのよう
な物に混じって生きているのです。これは全部、火で燃えたり、腐るものでし
かありません。世的で情欲的であり、一時的な物を追いかけて生き、自我が砕
かれず悔い改めない人生は、木や草やわらと同じ人生なのです。このような人
生は報いがありません。他の人に変化をもたらさず、幸せももたらさず、助け
ももたらさず、福音のために栄光も現すことができず、自分自身が辛うじて、
どうにか救いを得て天に引き上げられても、神様が報いの裁きの火を通される
なら、この世の人生史というものは全て火で焼かれてしまい、自らは火の穴の
中からどうにか命だけが救い出される人のように救いを得ることになり、恥ず
かしくなってしまうのです。
「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身
は、火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:15)と聖書は語
っているのです。
マルクス・アントニウスは、ローマの政治家で強力な指導者であり、たくまし
い軍人で容貌も頭も秀でていました。その上、当時彼は「銀色の声音をもった
ローマの雄弁家」で知られていました。しかし彼は肉体的で末梢的な欲望に従
って生きる習慣を直すことができませんでした。ローマにとって最も重要な時
期にエジプトに遠征した彼は、帝国にとって重要な時にクレオパトラを見てク
レオパトラに一目惚れし、肉の情欲に引きずられて瞬間の快楽のために彼女と
不倫関係を結び、自らと世の中の指導者として持っていた権力と命まで失って
しまったのです。ローマの皇帝になることができた人が、一時的な世の中の木
と草とわらのような快楽に陥って、一生を燃やしてしまい失ってしまったので
す。私たちがこの世的で情欲的で、一時的なことに従って生きながら、自我が
砕かれず悔い改めない人生は、木や草やわらが小さな火種でも燃えるように、
腐ってなくなる悲惨な人生を生きることになってしまうのです。ゆえに私たち
はいつも警戒しなければならないのです。
<結論>
人間はイエス様によって救いを得ますが、その生活がその身分を金のように、
銀のように、宝石のように、木のように、わらくずのように、わらのようにす
るのです。土台は誰も作ることができません。イエス様だけが永遠なる土台で
すが、その上に建てる私の人生の家は、金のように建てることもできるし、銀
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のように建てることもできるし、宝石のように建てることもできるし、木やわ
らやわらくずで建てることもできるのです。霊の目で見れば、すでに私たちは
金、銀、宝石、木、わらくず、わらに見えるでしょう。肉の幕屋の家を脱いで、
主の御国に行く時どのような身分で行きますか。最後の裁きの日に、火の穴か
ら救い出された木の塊のように、救いを得て恥を見ないようにしなければなら
ないのです。皆さんは、皆さんの心の中に手を置いて、皆さんを振り返ってみ
てください。イエス様を救い主として信じることは、私たち信仰人は皆同じで
す。同じ永遠の土台の上に私たちは生きているのです。私が金のように愛と従
順で生きるのか、銀のように福音の中で私のアイデンティティーを持って福音
を伝えながら生きるのか、宝石のように聖霊に満たされて聖霊の賜物で人々を
助けながら生きるのか、そうでなければこの世の富貴、栄華、功名と快楽を追
い、木やわらやわらくずのように風が吹くままに波が打つままに生きていくの
か。私たち自らを悟って知らなければならないのです。数日後、数日後、私た
ちは全て神様のお呼びを受けて、神様の御前に立たなければならないのです。
私たちが体を離れようが、主が降臨されようが、いつか主の御前に私たちは立
つことになるのです。キリストの土台の上に建てない家は、土台もないのでま
るごと燃え落ち灰の中に落ちてしまうのです。しかしイエス様を救い主として
迎え入れたにもかかわらず、この世の中で木やわらやわらくずのように世的な
ことを追い求めて生きるなら、燃えてしまった自らの人生を見て、神様の御前
で恥ずかしく困惑した救いを受けることになるのです。胸を張って堂々と救い
を得て生きる人は、金で人生の家を建て、銀で家を建て、宝石で人生を建てた
人は、賞賛と賛美と拍手の中で、天使の喝采を受けながら、永遠なる栄光の中
に入ることになるでしょう。
<祈り>
父なる神様、神様が私たちの主イエス・キリストの土台の上に私たちを呼んで
くださったことを感謝します。この土台はいかなる他の土台とも換えることが
できませんが、土台の上に私たちが人生の家を建てる時、神様、金で、銀で、
宝石で家を建てることができるように助けてください。金のような信仰、銀の
ような信仰、宝石のような信仰をもって、信仰生活をすることができるように
助けてくださり、この世に従って肉の情欲、目に見える情欲、この世の誇りの
捕虜になって木やわらやわらくずとして生きて人生を終えることがないように
助けてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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