2015.10.25 礼拝 堅固な土台の上に 〇 この写真どこの写真だとおもいますか。 ハワイのホノルル、ワイキキビーチ、海辺にちかいところに高いビルが並んでいます。 皆さん不思議だと思いませんが、そのあたりは砂浜では無いかと思うのです。 砂浜の上に家を建てたら、土台がすぐ崩れてしまいそうです。 なぜ、あんなに高いビルが海辺に建つことができるか。その答えは建物のを支える杭が しっかりとした岩盤に届いているからでしょう。それは今横浜のマンションから始まって 日本中のマンションの基礎はどうかという関心が集まっている日本に生きている私たちに とって良く理解できることでしょう。 しっかりとした土台の上に建物がしっかりと建てられていけばその建物は安全です。 しっかりとしたた土台でなければ、どんなに丁寧に造ってもそれはいずれ不具合がでて きてしまいます。 またしっかりとした土台であるけれども、その上に建てられたものが良くなければ、そ れもいずれ不具合がでてきたりしまいます。 今日は堅固な土台の上にという題で、 土台とともに、その上にどのようなものをつくって行くことの大切さを語ります。 〇 私たちは新しい会堂が与えられました。 私は責任者ですから、できるだけ毎日教会に来て、建築の状況を見、またしばしば大工 さんや業者さんの休み時間に合わせて差し入れをもって教会に行きました。 地質を調査をする工事やさん、鳶さん、屋根屋さん、壁やさん、大工さんや左官屋さん、 電気屋さんなどともとても親しくなり、いろいろと教えていただきました。 教会が更地になったときに、写真のような地質調査の機械が入りました。 大間さんと私でそれを見ました。鉄の棒をつなげながら10ートルの深さまで調べてい きます。ゆっくり棒が下がって行くときに、コンピュタで堅いところに来た、柔らかい所 に来たというデーターが逐次入力されていきます。確か8箇所だったと思いますが検査を してくれました。その結果この場所は建物を建てるのに安全な場所であることがわかりま した。 教会の基礎ができる朝、教会に行って鳶の飯野さんと話をしました。 こんなにしっかりとした基礎はなかなかこの辺ではない。下は20㎝の厚さ、そして壁 は15㎝でしっかりとした鉄筋がはいっています。 -1- そんなことを教えてくださいました。 コンクリートが入るときに、お願いしたことがありました。 以前ビフォーアフターで 建物を建てる時に ら少しだけコンクリートをとって 匠が コンクリートミキサー車が入った 検査をしていました。 空気がどのくらいはいってい るのか、水はどのくらい入っているのか、塩分はどのくらいであるか。という検査です。 コンクリートの中に空気が沢山入っていたら、できたものはもろいでしょう。 コンクリートの中に水が沢山はいっていたら、これももろいでしょう。 コンクリートに入っている砂が海砂で塩分が高かったら、鉄骨はさびで内側からコンク リートをやがて破壊してしまいます。 再三者の業者さんが当日来て、コンクリートミキサー車が入るとすぐに検査をしてくれ ました。 結果は 合格でした。写真をご覧下さい。検査結果をボードに記してくださっています。 土台ができた後、既に加工された材木が届き、棟上げです。まるでプラモデルをつくる ように、1つ1つの柱には名前と番号が入っていて、それを合わせていかれました。 しっかりとした土台、その上を何人もの方が丁寧に建物をつくって行かれました。 さて、今日の箇所では神様はパウロを通してコリント教会の人達に何を言いたかったと も思いますか。それはしっかりとした共通の信仰土台の上に、それぞれが協力して信仰を もって建て上げられて行くことの大切さです。 1,共通の信仰の土台とは何でしょうか。 ・イエス・キリストです。 パウロでも、アポロでも、自分のこれと思うよ うな 先生でもありません。 イエス・キリストです。 ・神のことばを信じて行う信仰 互いに愛し愛なさい。 わたしがあなたがたを愛したように 互いに愛し愛なさい。 → 盛岡の先生 しおり Q このみことばを聞いてそれをおこなっていたら コリント教会のような反目する分派があるでしょうか。 A はい→ 分派はなくなる 信仰というのは神の言葉を聞くだけではなく,それを行うことが 幸いです。 イエスさまのたとえ マタイ7:24-27 二人の人が家を建てた 1人は砂の上に家を もう一人は岩の上に家を それぞれチームを作って 洪水、雨、風 色々言い合って作っていった。 違いはすぐに出た。 神の言葉を聞いて、それを行う人は岩の上に家を建てた -2- 賢い人のよう 2,その上に建てられるものとは何でしょうか。 ・私たち一人ひとり 真面目な信仰 毎日一行でも聖書を読みましょう。 慕わしくなって、聖書が楽しくなります。 みことばによって助けられる経験をなさるでし ょう。 3,教会に一番必要なのは 祈り です。 私の家は祈りの家 イザヤ56:7 (マダイ 21:13) 私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。 遜った者の祈り パリサイ人 と 収税人 ルカ 18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに 対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサ イ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神 よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者で はなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分 の一をささげております。』 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようと もせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私 をあわれんでください。 神様は遜った、悔いたこころを喜ばれます。 教会のわたしたちが神の前にも遜り、 祈り、知恵を出し、また祈り、話し合い、祈り そして神様が示して下さったことを行って行く 〇 -3- 教会の建物は しっかりとした土台の上に丁寧に作られていきました。 *1 丁寧に作るとうことを、考えていたときに、丁寧に生きるという事を書いた文章にで あいました。 渡辺和子さんの「面倒だからしよう」の中に 心をこめて、毎日をていねいに生きる。と言う項目があります。 私は最近、一つの言葉にであいました。「人のいのちも、ものも、両手でいただきなさ い」 卒業証書や小乗をいただく時、、綿イズ達は両手でいただきます。赤ちゃんを抱くと きも、両手で抱き上げることでしょう。そこには ていねいさ があります。スピード、 合理性を重んじる世の中で、私たちは、自分や他人のいのち、ものをぞんざいに扱いよう になってきてはいないでしょうか。両手で痛く心が失われ、片手でいのちを接し、ものを 受け渡しするのになれてしまったようです。 21世紀に入って、よのなかはますます機械化し、スピーディーになっています。 ・・・・ わたしたちは最近とかくぞんざいになり 片手で、人のいのちも、ものも扱いはじめて いるからです。 もし「現代版キリスト教問答」があり「神様の教えは何ですか」ととわれたとしたら、 「あたりまえのことを、心をこめて実行すること。与えられるひとつひとつのいのちも、 ものも両手でいただくこと」と答えるでしょう。*2 *1 11 月 23 日は献堂式、 小町兄に会堂建築の経緯のたたき台を書いて頂きました。 それを見ながら、主が本当に良くここまで私たちを導いてくださったという思いで 感謝しました。 富士見台教会の建設で、沢山の事を教えていただきました。 祈っては話を聞き、また話し合い、祈っては話を聞き、また話し合い 要望書を書いてもらって、それをまとめていただきました。それを 3 つの会社におく り、設計を書いてもらいました。 最終的な設計ができてきたときも、また祈り、意見を聞き、それを設計士に送り このように会堂の多くの部分が吹き抜けのものとなりました。 建築中も山坂がありましたが、そのときにも祈り、また祈り、 主の栄光が溢れる会堂となりますように。 不思議なことが何度もありました。いろいろな方が助けて知恵を授けてくださいまし た。また祈っていくと不思議な感動と助けが与えられて富士見台教会ができていきま した。祈りによってこの教会は建てられたのです。 そしてローマ12:1のみことばをしっかり握って歩まれた皆さんの信仰の祈りを 主は聞い *2 面倒だからしよう 渡辺和子 幻冬舎 p 33-36 -4- さて、10節をご覧下さい。パウロは言います。「賢い建築家のように土台を据えま した。」と、そのうえに丁寧にこころをこめて建て上げていくか、そうでないかとい うことがでてきます。 コリント教会という目には見えませんが、教会のしっかりとした土台を据えたのです。 もう一度言いますが、その土台とはなんでしょうか。 11 節 その土台とはイエス・キリストです。 コリントのクリスチャンは皆イエス・キリストによって救われたという経験を持って います。かたじけなくもイエスさまが、自分の為に十字架にかかって下さったという ことを知った人達です。 この土台であるイエス・キリストは変わりません。 ・建てる時の注意 10 節 土台 すでに据えられている土台の,その土台の他にほかのものを据えることはできない イエス・キリストだけでは不十分だからコリントにある偶像、不道徳、自分勝手な 傲慢さで、この世の神様が喜ばれない価値観、知恵、常識をもって来ようとする動 きも会ったと思います。それに対してパウロははっきりと 土台はイエス・キリストと言 っています。人を救うのはイエスさまだけです。神々は情欲、神様を抜きにして、私の考 えが一番という傲慢な知恵、価値観で人は救われないのです。 土台はイエス・キリストです。 ・次に その上に建てられるもの 富士見台教会の土台ができてから、完全にコンクリートが乾燥するまで数週間、そし てその上に一気に棟上げがされました。そして丁寧に壁の内側、そして壁、屋根、窓が作 られていきました。いろいろな業者さんが入っていましたが、それぞれ順願をまって、最 高の知恵をもって作っていってくださいました。 12 節 もしだれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら 各人の働きは明瞭で明らかになります。 その次です。 その日がそれを明らかにするのです。 この「その日」とはなんでしょうか。 12 節の後半にあります。 その日は火とともに現れ、この日がその力で各人の真価を 試すからです。「その日」というのは1:8のキリストの日と関係して、主イエスさま が再び来られる日を示すと註解書に記されていました。 12-15は 12 節の 分かりにくいところです。 もしだれかがこの上の土台の上に、金銀、宝石、木、草、わらなどで家を建 てるなら このもし誰かがという 13 節を 誰かというのは 三人称の単数形です。 各人の働きは明瞭になります。 つまり「ある人」というのは 一人の人が自分の家を金銀、宝石、木、草、わらなどの 素材で作ったというのではなく、 -5- 前半の 尊いもの 金 銀、宝石 取るに足らないもの、どこにでもあるものの例で 木、草、わら を分けて考えて、 ある人は、尊い価値、純粋な教え、愛をもって建てていった ある人は、とるにたらない木、草、わらでいいやと思って建ててい ったとうことです。 リビングバイブルを見てみますね。 3:11 私たちがすでに持っている本物の土台―― イエス・キリスト――以外に、土台を すえることなど、だれにもできないからです。 3:12 しかし、この土台の上には、いろいろの材料で建てることができます。 金や銀や 宝石を使う人もいれば、また、木や草、あるいは、わらなどを用いる人もあります。 3:13 やがて、すべてがテストされる、キリストのさばきの日が来ます。 その時には、 建築家が各自どんな材料で建てたか明白になります。 それぞれの仕事は火でテストされ、 なお、価値が変わらないかどうか、ほんとうに完璧な建物かどうかが、だれの目にも明ら かになります。 3:14 そして、その土台の上に適切な材料を使って建てた人は、建物があとに残るので、 報酬を受けます。 3:15 しかし、家が焼けてしまった人は、大損害をこうむります。 ただその人自身は、 炎の中をくぐり抜けるように、命からがら救われるでしょう。 コリントの教会でも、純粋な信仰、愛、神の恵みをもって信仰を建て上げていく人もい ました。 ある人は、純粋な信仰では無く党派心をもって、同調者を作って、価値の無い世的な判 断で他者を裁きながら信仰を建てていったのです。 その日 主の再臨の日が来たときに、 神様の火によってその人の信仰者の姿がどうで あるかためされるのです。 純粋だったら、神様の火 は あなたは純粋な信仰ですよという合格のしるしになりま す。ところが不純でしたら、神様の火によって燃えてしまいます。しかし今まで価値のな いもので信仰を培っていたとうことが分かって、15「火の中をくぐるようにして助かる」 というのは、神様の憐れみによって、信仰が純化されて行くという回復の道があるという ことを聖書は語っています。 〇 私たちの堅固な土台、それはイエス・キリストです。 その上に 純粋な信仰、神様の愛をもって丁寧に私たちの信仰を建てていきましょう。 大切なのは 神様の恵みによって助けていただき、自分を捨て からはじまります。じぶんが、じぶんが キリストに生きること とおもっているといつのまにかぞんざいになり 喜びがなくなってしまいます。 これは自分だけではできないことです。聖霊の助けによって、私たちは恵みの中を成長 していけます。 私たちの信仰の堅固な土台はイエス・キリストです。 -6- その上に私たちは心を込めて、丁寧にを建てていきましょう。 最期に 10 節、11 節の一部をいっしょに読みましょう。 どのようにたてるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 その土台とはイエス・キリストです。 -7-
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