映画が描き出す「現実」とは何か-R・ブレッソンの映画(論)の周辺で-

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2008 年 7 月 16 日
一橋大学
映画が描き出す「現実」とは何か-R・ブレッソンの映画(論)の周辺で-
箭内
匡
1.映画・シネマトグラフ・ブレッソン
このワークショップは「映像と人類学 II」と銘打ってある。私自身は、もともとは人類学の出身であ
り、現在も人類学を教える立場にあるが、15 年ほど前から映画に強い関心を持って勉強を続け、それに
ついて文章を書いてきた。そこで、今回松波さんたちが提案されている「映像と人類学」という枠組に
従い、今週と来週、自分なりに映像ないし映画と人類学の関係について考えることを述べてみたい。も
ちろん、私が述べる映像と人類学の関係は、様々な関係のうちの一つに過ぎず、私が考える方向性の中
に皆さんを引き入れたいとは必ずしも思わない。むしろ私としては、願わくば、私の議論が、映画と人
類学のどちらか、あるいはその両方を深めてゆくための何らかの刺激になれば、と思う。
私の映画への関心の焦点は、イメージを通した思考とは何か、という点である。我々の世界は映像に
あふれており、もっと根本的には、我々自身は我々を取り巻く世界をイメージとして経験しているのに、
我々の知的考察は依然として、圧倒的に言葉の問題が中心である。映画学ないしフィルムスタディーズ
という、イメージそのものを扱う研究領域においてさえ、言語的に扱いやすい部分が優先的に取り扱わ
れる傾向は否めない。もちろん、制作する人々は手探りでイメージについて考え続けているわけだが(そ
してそれはそれで良いのだが)、しかし時にその実践が理論的抽象と向き合う機会を持つことは、もっ
とあって良いだろうと思う。
しかし、かつてジョン・バージャーは、
『イメージ』(Ways of Seeing)の冒頭で、見ることの経験、イ
メージ経験は言葉以前に存在し、言葉が出てきたあとも言葉によって完全に解消されることはないと述
べた。私がいつも考えるのは、このような、言葉によって解消されることのないイメージの次元であり、
ちょっと矛盾した言い方になるが、その「言葉にならない」次元を言葉に還元せず、それを「言葉にな
らないもの」として言葉にすること、ということである。幸い、哲学はこういうアクロバティックな考
察のための概念装置を提供してくれる(ドゥルーズの『シネマ』はその最も大きな成果だろう) 1 。
ところで、ここで同時に人類学者としての私が考えるのは、実は人類学の営みの根本的な部分にも、
この「言葉にならないもの」が確かにある、ということである。人類学者は、たいていの場合、自分が
慣れ親しんでいるわけではない世界に入り込み、その世界に自らの身体を預けながら、調査を行う。人
類学者が意識している部分では、言語の習得、言葉による会話、インタビューなどが「データ」として
1傍注として付言すれば、
「言葉にならない」次元はむしろ、イメージとして、映像によって表現するほうが早いのではな
いか、という考え方もありえよう。しかし、私自身は(現段階では)、「言葉にならない」次元を「言葉にならないもの」
として言葉にする、という作業も重要であると思っている。その一つの大きな理由は、そもそも映像自体、たいていの場
合その中に言葉を含んでいるのであり、「言葉にならないものを言葉にならないものとして言葉にする」という問題は、
映像制作の中にも存在し続けるからである。
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記録されてゆくわけだが、しかし、バージャーの言い方に倣えば、そうした言葉によって決して解消さ
れることのないイメージ経験の部分は存在するし、それこそが、人類学的フィールドワークの独自の特
徴だとさえ言えるように思われる。
***
さて、こうした映像ないし映画と人類学の関係については、来週より立ち入って考えることにして、
今日の講演につけたテーマは、「映画が描き出す「現実」とは何か」ということである。
いささか大風呂敷を敷いたと言われかねないので、すぐに注釈をつけておこう。いうまでもなく私は、
ここですべての映画ないし映像について語ろうとするのではない。映画ないし映像はそれ自体一つの表
現媒体であって、その用途は千差万別である。旅客機の酸素マスクや救命チョッキの装着方法を示すビ
デオのような純粋に機能的な使い方もあれば、テレビコマーシャルのように、ほぼ純粋に商業的目的を
持った使い方もある。より狭義の「映画」についていえば、それらの大部分がまず、エンターテインメ
ントという機能を持った映画であることは間違いないだろう(より細かくは、サスペンスやドラマの緊
張とその解消というカタルシス的効果、あるいは笑い、スターの魅力、スペクタクルの快感など、いろ
......
んなものが考えられるだろう)。基本的には、大部分の映像は何かのために作られるものである。
.....
しかし中には、何かのためという目的性ないし機能性が曖昧な映像もある。例えば、旅行に行った時
に撮影したビデオ(あるいは写真でもいい)について考えてみよう。その大部分は、この景色を記録し
ておきたい、とか、この景色の中の自分を撮っておきたい、とか、自分の人生の一ページを記録する、
という機能に従属したものであるだろう。しかし、中には、「記録する」という行為を忘れて思わず撮
...
ってしまったような映像(ないし写真)、思わず撮れてしまった映像(ないし写真)、それゆえにこそ、
後から見ても、何か心惹かれる写真もあるかもしれない。何の力がその映像を撮らせたのだろうか?
しかしともかく、その映像は、あるいは写真は、何の機能にも従属せず、それ自体として存在する。誰
の目にも面白い映像かどうかは分からないけれど、何か同定できない外的な力が働いて撮影されたこと
は事実である。それは、どんな機能にも従属せずに撮られた、という意味で、「映像でしかない映像」、
とでも呼ぶことができるのではないだろうか。
ところで、面白いことは、こうした「映像でしかない映像」は、リュミエール兄弟が 1895 年に映画
(原語ではシネマトグラフ)を発明した当初の映像に似ていなくもないことである。工場を出てくる
人々、列車が駅に到着する様子、ホースの水を踏んでいたずらする子供の姿、といった他愛無い映像。
リュミエール兄弟は映画を発明したものの、それが何に用いられるかを知らなかった。彼らは、ただ単
に面白いと思ったものを撮影し、それを上映したのだと考えられる。そこでは、つかの間、映画がまだ
特定の機能に従属する以前の、ほとんど純粋に近い形での「撮影」が実践されたのかもしれない。
***
もちろん、リュミエール兄弟のフィルムは、それぞれ 1 分に満たないショットであって、何かそれが
意味深い内容を伝えているとは言いがたい。さきほど言った、旅行中思わず撮ってしまった写真やビデ
オにしても、多くの場合、他のものに紛れてそのまま放置されるだけだろう。映像は、ストーリーやメ
ッセージ伝達、あるいはイメージそのものの消費(スターの映像のような)といった一定の機能に従属
させられなければ、意味ある全体をなさないのだろうか? 「映画が映画でしかない瞬間」を歪曲する
ことなく、それを発展させて、「映画でしかない映画」でありながら、芸術作品のようなひとつの全体
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を持つような映画を作ることは可能だろうか。
今日、ロベール・ブレッソンの映画に言及するのは、おそらく彼が、映画史の中で、それまで誰もが
考えなかったほど厳密にこの問いを立て、それを実践した人だからである。彼の著書『シネマトグラフ
覚書』を紐解けばわかるように、彼は自らの実践の中で、映画が他の目的に従属する瞬間を徹底的に排
除して、「映画でしかないような映画」の創作を探究した。そして、フランス語で「シネマ」と呼ばれ
る、他の映画と区別するために、そうした「映画でしかないような映画」を、リュミエール兄弟になら
って「シネマトグラフ」と呼んだ(ただし、ここでは、煩雑になるので、シネマトグラフという言葉は
使わず、ただ「映画」と呼ぶことにする)。今日は、このブレッソンの仕事――とりわけ、彼が自らの
スタイルを確立した 1956 年の作品『抵抗』――を手がかりにしつつ、こうした「映画でしかない映画」
の意味について考えてみたい。だから目的はブレッソン映画を理解することではなくて(そのような部
分もあるが)
、ブレッソン映画がその目覚しい例となっているところの、
「映画でしかないものとしての
映画」が、いったい我々にとって何を意味しているのか、を考えることである。
ところで、既にブレッソンの映画を見たことがある人の中には、彼の映画がリュミエール兄弟の映画
を継承しているということ(シネマトグラフという言葉からそれは明らかなのだが)を奇妙に思う人も
いるかもしれない。実際、ブレッソンの映画は、リュミエール兄弟の映画の素朴さとは正反対の、奇を
衒っているようにさえ見える部分を持っている。俳優を写すにあたっても、彼は非常にしばしば全身や
半身を見せることなく、手先とか脚とか、体の一部分だけを見せる。アクションの中心はめったに見せ
ず、たとえば音だけにして画面外に追い出してしまい、あとで結果だけを見せる。登場人物は、一般に
言葉少なで控えめな喋り方をすることが多いし、セリフを(あたかも自分に言い聞かせるように)繰り
返すことも少なくない(“Merci, merci”とか、”Je le jure, je le jure”とか)。今日取り上げる 1956 年の
『抵抗』についていえば、タイトルも奇妙きわまりない。第二次大戦中のフランスの捕虜収容所から主
人公が脱出する話だが、原題では、
「一死刑囚が脱走した、あるいは、風は思うがままに吹く」という、
妙に長たらしいタイトルがついている。
しかし、見方を変えて、「映画が映画でしかない」=「映画を特定の機能(例えばエンターテインメ
ントとか、スター崇拝とか、物語のカタルシスとか)に従属しないものとして作る」という意味だと考
えれば、すぐに納得のいく点は少なくないだろう。ブレッソンがアクションの中心(例えば殺人の場面)
を見せないのは、殺人している映像は、それ自体が強烈であるために、自己目的化してしまって、映画
が映画として流れていくことを妨げるからでもある。カメラのフレームを好んで体の一部分に絞り、映
像が非中心化するのは、観客の関心が人物そのものに固着する(そして人物が展開するドラマに関心を
集中してしまう)ことが避けるためだとも言える。人物たちが控えめに喋るのは、言葉に必要最小限以
上のアクセントが置かれると、映像がその言葉に従属してしまい、その言葉のメッセージを表現する媒
体となるからだろう。最後に、
「一死刑囚が脱走した」、という『抵抗』の原題について言えば、そのよ
うに映画の内容をタイトルで一言で説明しきってしまえば、この映画は「サスペンス」という機能、あ
るいは「ストーリー」という機能への従属から解放される。観客は、結末がどうなるかの不安に怯える
ことなく、映像をただ映像ととして眺めることになる。
ブレッソンがいかに明快に映画の主題を導入するか、という点を見るために、『抵抗』のタイトルの
部分を見ていただきたい。捕虜収容所のロングショットのあと、「ここで、ドイツ軍の占領のもと、1
万人が捕らえられ、そのうち 7 千人が死んだ」という碑文が映される。そのあとカメラはパンして収容
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所のいかにも分厚そうな壁が写され、そのうえにタイトルとクレジットタイトルが示される。ここでブ
レッソンは、モーツァルトのハ短調ミサ曲キリエを音楽として使う。
(→映像1 タイトル)
作品のこの冒頭では、
「1 万人のうち 7 千人が死んだ」という絶望的な状況、刑務所の厚い壁、そして
タイトルの「死刑囚、脱走す」という言葉によって、主人公がその絶望的状況から脱出したことが端的
..........
に示される。
「死刑囚脱走す、あるいは、風は思うがままに吹く」というタイトルの後半、
「風は思うが
ままに吹く」は、あとでも触れるように聖書の中の文句だが、キリスト教的解釈を超えて、とりあえず
は、物事の背後には人間がコントロールできない力が働いている、という程度に理解しておけばだろう。
いずれにせよ、この言葉は、この映画が単に「生存のための脱出」を扱ったものではなく、何か人間の
力を超えた、大きな力と関わっていることを暗示している。このような暗示は、背後に流れる、モーツ
ァルトのハ短調ミサ曲(Kv. 427)の第 1 曲キリエ(「主よ、憐れみたまえ」)からも同時に与えられるだろ
う。いずれにせよ、ブレッソンはこうして、クレジットタイトルの部分を利用して、きわめて簡潔かつ
的確にこの映画を位置づけてしまうのである。
2.『シネマトグラフ覚書』から
さて、クレジットタイトルが終わったあと、
「リヨン、1943 年」という字幕で場所と時が示され、最
初のシークエンスが始まる。主人公が車で護送されている最中、脱走を試み、取り押さえられる場面で
ある。
(→映像2
冒頭の逃走の場面)
この2分ほどの、言葉をほとんど含まない映像は、『抵抗』という映画全体を要約するような、非常
に濃密なシークエンスである。実際、護送車の閉鎖的空間は、収容所の閉鎖的空間の前触れにほかなら
ない。しかし、作品そのものについて触れる前に、この映像を頭に置きながら、
『シネマトグラフ覚書』
におけるブレッソンの言葉を拾っておこう。ブレッソンは最初の非常に複雑なショットでは、主人公の
手が、ドアのレバーに躊躇いながら伸び、また引っ込めるところから始め、主人公と隣に乗っている捕
虜の顔のツーショットのあと、もう一人の捕虜の、手錠をかけられた手が映される。僅かながら自由へ
の可能性をはらんだ手と、既に手錠をかけられた手。この最初のショットで、死と生、束縛と自由、地
獄への転落と救済、といった対立、そしてその分かれ目が、ある意味では一つのレバーにかかっている
ことが、一気に、力強く表現される。
「人は、手で、頭で、肩で、どれほど多くのことを表現しうることか!
……
そうすれば、どんな
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にたくさんの無駄で疎ましい言葉の数々が消えうせることだろう!
何という倹約!」(p.174)
、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、
ここで、「モンテーニュ――魂の運動は、肉体のそれと同じ進み方で生まれる。」(p. 52)を思い起こし
てもよい。なぜなら、主人公たちの内面の問題の本質は、肉体によって完璧に表現されているからであ
る。
しかし、もし「同じ進み方」ならば、ブレッソンはなぜ言葉よりも身体、特に身体の部分を通して表
現することを優先するのだろうか。これは、ブレッソン映画の核心にあるアイデアであり、いくつかの
問題と絡まっている。彼の有名な言葉を引こう。
「われわれの動作はその九割までが習慣や自動現象に従っている。それらを意志や思考に従属させる
のは、反=自然的なことだ。」 (p.32)
「君のモデルたちが抱いている意図を根こそぎ抹殺せよ。
」(p.21)
モデルとは、いわゆる俳優を指すためにブレッソンが用いる言葉である。しかし、「われわれの動作
はその九割までが習慣や自動現象に従っている」のは良いとして、なぜ、「意図を根こそぎ抹殺せよ」
とまで言うのだろうか。
ブレッソンは、意志や思考を介さない身体の動きだけが、映像において、他の事物とのあいだに「正
しい」関係を作り出すと考える。おそらく問題は、ブレッソン自身は明確に語ってはいないが、意図・
意志・思考といったものが物事の意味を一義的に決定しがちであることにあるのではないだろうか(物
は静かに自分自身のみを意味するのに、言葉は常に「行き過ぎて」しまう)。主人公の脱走の意志は、
主役の俳優が「逃げるなら、最後のチャンスだ」と思いながら演技し、それをアップで映せば、さらに
オフの音声を入れればなおさら、レバーに向かっての手の動きともう一人の捕虜の手錠を繰り返し映す
という複雑な手続きを経ないでも表現できたかもしれない。しかし、ブレッソンにしてみれば、この場
面をそうした言葉に還元してしまうのは、あまりにもったいないのだ。
実際、人物の内面を大部分そぎ落とし、躊躇いながら動く手と、手錠をかけられた静止した手だけを
対比することによって、まったく別の表現の次元を開かれる。フロントガラスを通して道の前方を映す
次のショットで、白い犬が道路を横切る。この無邪気な犬の自由な動きは、外部の世界に動きがあるこ
と、そこで何かが起こるかもしれないことを予告する。外部の世界の些細な動きは、運転手のギアシフ
トとダイレクトに連動し、またレバーに向かう手の動きとダイレクトに連動する(これに対して、もし
「逃げるなら、最後のチャンスだ」という言葉が先にあったとしたら、白い犬の動きは「チャンスかな?」
という言葉に翻訳され、「逃げられるかな」という言葉に翻訳される。すべてが翻訳される。物と物の
間の、ほとんど脊髄反射のような、ダイレクトな関係、素早さが完全に失われてしまうのだ。そして、
ブレッソンがいうように、我々自身はほとんどの部分をそのようなダイレクトな関係の中で、素早さの
中で、生きているのである)。手に表現のすべてを賭けてしまうことで、車の中の閉鎖的空間と、外の
世界との、物質的で直接的な反響関係が鮮やかに示されるのだ。
「軀が、オブジェが、通りが、樹が、野原が喋っている「目に見える言葉」(parlures visible)。」 (p.20)
身体に、オブジェに、「目に見える言葉」を喋らせることによって、人物は周囲の事物との――必ず
しも主観に還元されないような――関係の全体の中で捉えられるのである。
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『シネマトグラフ覚書』全体において最も重要なキーワードはおそらく、
「自然」(nature)という言葉
である。すでに「反=自然的」という言葉も出てきたが、次の言葉もある。
「人間の自然(la nature de l’homme)を尊重すること。それを実際以上に露骨たらしめることなく。」
(p.12)
邦訳では意味を通じやすくするためか、「人間の自然を、本性を、尊重すること」と説明的に訳され
ているが、原文は、ただ「人間の自然を尊重すること」であって、つまり、人間がその根本において身
体であり、つまり自然であり、そしてそれが周囲の自然と交流しあっているという様子を尊重すること
である。そして、ブレッソンにしてみれば、そのような自然としての人間の身体と周囲との交流が真実
なのであり、人間の知性によるそうした関係の解釈は、反=自然的なのである。とりわけ、自然の一部
としての人間と周囲の事物との関係を、一義的な意味の中に封じ込めることなく、視覚的な言葉(「目
に見える言葉」)の多義性の中にとどめておくこと、これこそ、
「映画でしかないもの」としての映画が、
それのみが、表現可能なものなのだ。
、、、、、、、、、、
「あらゆる事物の平等性。果物鉢も、自分の息子も、サント・ヴィクトワール山も、同じ眼と同じ魂
で描くセザンヌ。」(p.191)
ブレッソンは、世界の中で起こっている出来事を、その出来事についての我々自身の主観的解釈から
救い出そうとする。そのためには、できるだけ意志・意図・思考といったものを排除することが必要で
ある。ブレッソンが、自分の映画で役を演じる俳優を「モデル」という奇妙な言葉で呼ぶのもの、それ
と無関係ではないだろう。
「モデルたちが自動的に動くようになり(すべてを計測し、重さを量り、時間をきっちり定め、十回
も二十回も繰り返しリハーサルすることによって)、そのうえで君の映画の諸事件のただなかに放たれ
、、、
るならば、彼らを取り巻いている様々な人物やオブジェと彼らとの関係は正しいものとなるだろう、と
、、、、、
いうのも、それらの関係は思考を経たものではないからだ。」(pp. 32-33)
いずれにせよ、ブレッソンが考えるのは、人物から内面を大部分抜き取ってしまうことで、我々の身
体の底にある「人間の自然」そのものが自由に語り始めるということである。彼は、ちょうどピアノを
繰り返し繰り返し弾き、動作が完全に自動化する中で、突如として真に創造的なものが出てくる、とい
っている。ある意味でそれによって映像は貧しく、説明不足で平板なものになるかもしれないが、ブレ
ッソンの賭けは、まさにそれによって映像が別の豊かさを獲得する、ということである 2 。
、、、、、、、、、、
「自分の映像を平たくする(ちょうどアイロンを当てるように)こと、ただしそれを弱めることなし
、
に。」(p.16)
「平衡を失わせること。新たな平衡を得るために。」(p.51)
個々のショットは、貧しくなって、平衡を失ってしまうかもしれない。しかし、だからこそ、その平
衡を失ったショットは他のショットを求め、他のショットとの間に新しい関係を取り結んでゆくのだ。
ちなみに、リハーサルを繰り返し行って、演技から生気が失われたようなところで OK を出す、というの
は、小津安二郎も行っていたことだ。助監督をしていた今村昌平は、
「小津は俳優を人形のようにしてしまっ
ている」ことを不満に、小津組から外れたというエピソードは有名である(佐藤忠男『小津安二郎の芸術』
)
。
2
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ショットの断片化もまた、そうした手段の一つであろう。
「もし表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。// 存在や事物をその分離可能な諸部分において
見ること。それら諸部分を一つ一つ切り離すこと。それらのあいだに新たな依存関係を樹立するために、
まずそれらを相互に独立したものとすること。
」(p.126)
しかし、そのような映像を編み上げた作品としての映画は、何を表現するのだろうか。何のためにそ
うした平たくした映像を編み合わせるのだろうか。いうまでもなく、それは通常の意味での「ストーリ
ーを語ること」ではありえない。ストーリーとは、人間の主観によって解釈された出来事の連鎖であり、
そうした主観を大部分抜き取って、事物と事物を直接対話させる映像においては、ストーリーは大幅に
弱められた形でしか存在し得ない。
ところで、ここで参考になるのは、ブレッソンが音声を非常に重視することである。彼にとって、音
声は映像に対して優先権を持つのである。
「或る音が或る映像に取って代わることができるときには、映像を抹消するか弱めること。耳はより
多く内へ向かい、眼は外に向かう。
」(pp.78-79)
先ほどの『抵抗』の冒頭のシークエンスでも、路面電車が出てきて車が停車し、逃走のチャンスが生
まれる場面は、ギアチェンジの音がし、エンジン音が低くなり(つまり速度が下がり)、路面電車のベ
ルの音がするという音声面によって主に表現される(そして、主人公の顔の表情のわずかな輝きが、そ
れを補完する)。また、そのあとの主人公が取り押さえられる場面は画面の外で起こり、足音や銃声に
よってだけ表現される。この場面で重要なのは、主人公による「脱走の失敗、そして逮捕という事実」
、、
の、ほとんど音響的な意味に近い「響き」、我々の内面への反響である(「耳はより多く内に向かい、眼
は外に向かう」)。もし画面内で逮捕されていれば、我々はかなりの部分、「ああ、逮捕された!」とい
う言葉にイメージを還元して終わってしまうだろう。これに対して、銃声は、潜在的に、死のイメージ、
戦争のイメージ、銃殺刑のイメージなど、様々なイメージと潜在的に結びつきうる。音はそれ自体が抽
象的であるがゆえに、我々の想像力を刺激して、より豊かな思考へと誘う。だから、音声で表現できる
なら、映像で表現するよりも望ましいのである。
、、
だからブレッソンが映像について最終的に重視するのも、映像が我々の内面に引き起こす「響き」で
あると言って誤りではないだろう。さきの、
「軀が、オブジェが、通りが、樹が、野原が喋っている「目
、、
に見える言葉」(parlures visible)」という文でも、
「目に見える言葉」の「言葉」とは「話し言葉」(parlure)
、、
なのであり、つまり体やオブジェや通りや樹や野原の、いうなれば「映像的な囁き」なのである。そし
て、この「囁き」の連鎖、その音楽的反復こそが映像を構成して行くのだ 3 。
「反復(或る映像の、或る音の)から君が引き出すことのできるあれらすべての効果。」(p.73)
「リズム。// リズムの持つ絶大な力。// 持続しうるのは、リズムの中にはまりこんでいるものだけだ。
内容を形式に、意味をリズムに従わせること。
」(p.89)
3
ブレッソンが『シネマトグラフ覚書』で繰り返し音楽や音楽家(モーツァルト、バッハ、ドビュッシーな
ど)に言及していることもこの点で見落とせない。さらに、映画の中での音楽の使用について、ブレッソン
が非常に慎重な態度をとることもまた、そもそも映画自体が一種の(非常に精妙な)音楽であるということ
を前提にすれば、容易に納得のいくものとなる。
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ブレッソンの映画も、ある意味では「ストーリーを語る」ものと言っていいかもしれない。しかし、
それは「物たちが物のレベルで、物の多義性を失わずに語るストーリー」なのであり、その意味の広が
り、反響関係において、その(カッコつきの)ストーリーは、言葉による語りよりも、音楽に近いもの
なのである。ちょうど音楽が(ブレッソンは西洋音楽を念頭に置いているが)、抽象化された「楽音」
という音を用いることによって、非常に自由度の大きい形で(しかしながら非常に強い力を持って)、
人々に感情的経験を与えるのと同じように、映画は、徹底的に平面化された「物の音楽」になればなる
ほど、自由でかつ強力な経験を与えうる、そのようにブレッソンは考えるのであろう。
ここで、もう一度さきほどのシークエンスを見ておこう。ブレッソンの様々なアイデアを、この 2 分
ほどの映像の中に凝縮した形で見出すことができると思う。ブレッソンは、通常の犯罪映画であれば単
なる脱走未遂のシーンを、人間を取り巻く世界全体と関わり、さらには(すべてが、偶然の物事の布置
に関わり、それによって決定される)その背後で作用すると考えられる一種の人間の力を越えた秩序と
も関わるようなシーンに仕立て上げている。画面の右側は、自由へ、光へ、天国へと向かい、画面の左
側は牢獄へ、暗闇へ、地獄へと向かうという意味で、これは一つの形而上学的ドラマなのだ。
(→映像2
冒頭の逃走の場面)
まとめよう。さきに、「映画が映画でしかない瞬間」の真実を汲み取って、そこから何か意味のある
全体を作ることができるのだろうか、という問いを立てた。これに対するブレッソンの答えは、次の三
つの点に要約できると思われる。
1)人物を「モデル」化し、自動化し、断片化し、映像を「平ら」にして(貧しくして)、映像が他
の映像と交流するようにすること。
2)そうした映像と映像の交流(その中の事物や音の反復や差異、対立など)を通して、映画全体を
一種の音楽として編み上げること。
、、、、、、、、
、、
3)そうやって作り出される「映像と音声の音楽」によって表現されるものとは、自然(そして、そ
、、、、、、、、、、
こに内包される人間の力を越えた秩序)にほかならない。
こうしたことは、ある意味では、ブレッソンよりも先に小津安二郎やカール・ドライヤーがそれぞれ
の形で実践していたことでもあるし、ブレッソンに影響を受けた多くの優れた映画監督たち、最近の顕
著な例としては、例えばキアロスタミが、実践していることでもある。さらにいえば、例えばチャップ
リンの映画やヒッチコックの映画にも、そのような部分を見出すことができるだろう。その意味では、
この「映画でしかない映画」のプログラムは決して何か特殊な考え方ではないのである。
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3.映画『抵抗』
、、、、、
今、「映画でしかない映画」が最終的に表現するものは自然(そして、そこに内包される人間の力を
、、、、、
越えた秩序)である、と言った。しかし、その例証として『抵抗』の冒頭のシークエンスを出すだけで
は、すこし物足りないだろう。映画『抵抗』の全体に眼を向けつつ、さらに具体的に考えてみよう。
ブレッソンは、彼自身、第二次大戦中に捕虜になって収容所で生活する経験をしたと言われる。それ
もあってか、独房の中の、マット・毛布・便器用のバケツしかない殺伐とした空間で、主人公がいかに、
ほんのちょっとの素材、ほんのわずかな音、他の捕虜たちとのほんのわずかのコミュニケーションをも
とに、主人公がいかに自らの世界、いわば自らのテリトリーを築いてゆくかが、見事に描写されている。
映画の前半から抜粋した映像を2つほど見てみよう。最初のものは、脱走の失敗後、独房にぶち込ま
れ、ほとんど絶望状態にあった主人公が、他の囚人たちとの交流の中でかすかな希望の火を灯されてゆ
く場面である。
(→映像3
独房での生活)
マットと毛布、バケツと戸棚しかない独房。極限にまで事物を剥ぎ取られた独房の空間の中で、主人
公はほんのわずかなものを手がかりに、少しずつ自分の世界、いわば自分のテリトリーを拡大していく。
ハンカチはヒモと組み合わされて、物を受け渡しする道具となる。安全ピンは、手錠を外す道具となる。
手元にある非常に限られた物を、さまざまに転用することによって、世界が違うように見えてくる。
もう一つは、前の場面の数分後だが、収容所での生活に慣れてゆく中で、突然、脱出への最初のステ
ップを思いつく場面である。主人公は新しい独房に移動させられる。
(→映像4
ドア板)
排泄物を捨てる時間だけが外に出られる時間であるという皮肉。人間が排泄をするという行為が、通
常とはまったく違った意味合いを帯びてくる。
映画の残りの部分について述べれば、そこでは2つのテーマが絡まって展開する。
一方では、極端な物質的貧困の中での、主人公と周囲の「物」との関係である。主人公は慎重に、し
かし辛抱強く、ゆっくりと脱走を準備し、そのための道具を作っていく(ドア板を外し、ベッドの針金
を外して布に巻き、強靭なロープを作り、さらに窓枠を使って、壁に引っ掛けるための鉤を作っていく)。
ブレッソンはこのプロセスを、手工芸の民族誌映画か何かのように、淡々と映像で描写してゆく。
もう一方で、極端に厳しい統制の中での、周囲の「人々」との、つまり他の囚人たちとの人間関係が
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ある。もちろん、囚人たちの間にもスパイがいるかもしれず、また誰がいつ処刑されるかわからないと
いう状況の中で、その関係は「連帯」というような甘い言葉で片付けられるようなものではない。隣の
独房にいる初老のブランシェは、最初はおびえ切っていて、誰とも話したがらないが、やがて主人公と
脱走計画について話し合ううちに、彼と心を深く通い合わせる友人となる。向かいの独房にいるオルシ
ーニは、主人公と一緒に脱出計画を練るが、しびれを切らして独自の脱走計画を立て、そして脱走に失
敗して銃殺刑にされる。しかし、主人公はこのオルシーニから、鉤を作る必要がある、という決定的に
重要なアイデアを教えてもらう。最後に、主人公が脱走を決意したその日に、彼の独房に連れてこられ
たジョストという若者。主人公は、スパイかもしれないこの若者を殺すか、それとも一緒に脱走するか、
迷いに迷うが、結局彼を信頼する方を選ぶ。そして、実際の脱走の場面で、もし一人で来ていれば逃げ
られなかったことを知るのである。
こうした「物」たちとの関係、周囲の「人間たち」との関係が、パースペクティブが極限にまで限定
された空間の中で営まれる。手洗いと排泄のために外に出るわずかの時間を除けば、外界との関係は、
ドアの覗き穴、壁越しのノックによる交信、そして鉄格子を介した交信に限られる。この極端に狭めら
れたパースペクティブの中で(一言脱線して付け加えれば、この「狭いパースペクティブ」というテー
マは、おそらくキアロスタミがブレッソンから引継ぎ、発展させてゆくテーマである)、しかし、まさ
にそれゆえにこそ、主人公はほんのわずかな物音を聴き分け、ほんのわずかの物から予想もしなかった
可能性を引き出してゆく。それは過度に敏感なくらいであり、主人公は庭を歩くテリーからほんのわず
かの希望をもらってそれを膨らませ、その希望は彼の隣人のブランシェを勇気付け、さらに向かいのオ
ルシーニに過剰な希望を与えて、オルシーニは脱走を早まってしまう。
このような「物」たちとの関係、周囲の「人間たち」との関係を、ブレッソンが説明的な台詞やオフ
のナレーションを最小限に切り詰め、平面化・断片化したショットを重ねることによって描いている。
そのために、我々は映像の中で展開する世界を、過剰な心理的同一化をすることなく眺めることになる。
画面にあるのは、「主人公」フォンテーヌというより、とりわけ収容所の中で脱出を思い描きつつ行為
を積み重ねるフォンテーヌの身体、そして彼と収容所生活を共にする囚人たちの身体なのであり、そし
てそれらの身体と関係を営む、収容所の事物である。そういった映像が、他方できわめて入念に準備さ
れた台詞やオフナレーションと組み合わされて、
「イメージの音楽(物の音楽)」ともいうべき、映画全
体の映像を作り上げてゆく。
そうした中で、
「風は思うがままに吹く」、どんな小さな過ちでも致命的な結果を招くかもしれないが、
同時に、否定的に思える出来事が時に決定的な形で自分を助けてくれるかもしれない。ブレッソンのカ
メラは、身体や事物の自然を捉えると同時に、そうした自然の背後でひそかに作用している力の働き(そ
れをただの「運」だといってもよいが、しかし「運」というだけでは何の説明にもならないことも事実
である)を淡々と示す。そうした中で、主人公は、まさにその力が見えないがゆえに、待ちすぎている
のではないかと思われるほど慎重に一つ一つの決断を行い、脱走に成功する。もちろん、この成功は、
その時に「思いのままに吹いた」風が彼にとって追い風だった、ということに本質的に拠っているので
はあるが。(これも付け加えるなら、この手続きはブレッソンの映画制作そのものの手続きにも類似し
ている点は興味深い。過剰なものをすべて取り除き、入念に準備した上で、しかし、最後は「風は思い
のままに吹く」ことに任せながら、つまり即興性を重視しながら、撮影すること、これは、『シネマト
グラフ覚書』で何度か触れられる、彼の制作姿勢である。
)
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いずれにせよ、「切り詰められたパースペクティブ」と「待つこと」という、この映画の映像の基本
的な二つの特徴は、決定的な意味を持っているだろう。なぜなら、パースペクティブが切り詰められる
ことで、はじめてその中での物たちとの関係が濃密なもの、さらには啓示的なものになりうるからであ
り、そして、そうした濃密な関係、啓示的な関係は、「待つこと」によってはじめて可能になるからで
ある。
『抵抗』についてのコメントの最後として、最後に見た映像にも出てきた、この映画で唯一用いられ
ている音楽、モーツァルトのハ短調ミサ曲(Kv. 427)キリエについて触れておきたい。映画の中で8回用
いられる。ブレッソンはこの曲をいつも、主人公が独房の生活から異なった場面へと抜け出てゆく可能
性を含み、しかもその場を他の囚人たちと共有しているような場面で用いている(皆で階段を下りてゆ
く場面から、脱出後にジョストと二人で歩いてゆく結末の場面まで)。高音のドから中音のレまでの速
い下降(西洋音楽ではこうした音の連続的下降は死を意味するというニュアンスがある)のあと、上下
を繰り返しつつ粘り強く上昇し、最後に高音のドに落ち着く。このあと、ソプラノ、アルト、テノール、
バスの声部が加わり、全パートの力強い合唱となる。ミサとは、まさに、周囲の人々と一緒に、祈りな
がら天上の世界を眺める場面にほかならないのであり、この音楽は、映画における主人公の絶望から脱
出に向かっての魂の高揚、他の捕虜たち(オルシーニ、牧師、ブランシェなど)の、救済への祈りにも
似た感情と、見事に反響しあっていると思われる。
(→映像5
ハ短調ミサ曲キリエ+総譜(冒頭))
ブレッソンの映画は、どこか、1940 年代末のハイデガーの有名な「物」という講演(邦訳はハイデ
ッガー全集 79 巻『ブレーメン講演とフライブルク講演』に収められている。英訳 « The Thing »も入手
しやすい。)を思い起こさせる部分がある。そこで彼は、
「物」の本質を考えるために、四方界(das Geviert)
という概念を提起する。ハイデガーによれば、「物」とは、「天空」と「大地」、そして「神的なものど
も」と「死すべきものども」(人間)という、四つのものを集めるものである。我々は今日、物事をそ
の用途によって考え、物を物自体として考えることを忘れているが、もし我々が本当に考えるとするな
らば、我々は「物」を通してこの四つのものを常に考えている、その中の一つだけを考えているようで
も、同時に他の三つも考えている。とハイデガーは主張する。(このように、天空と大地、神的なるも
のと死すべきものが一つになっているために、四方界と呼ばれる)。
『抵抗』という映画は、確かにこの四方界に関わっていると思われる。死すべきもの、すなわち人間
は、この捕虜収容所において、これ以上明確ではありえない形で、「死すべきもの」として存在する。
そして、そこにおける人間は、ともに「死すべきもの」として――つまり「死すべきものども」として
――相互に結びついている。そして、収容所の様々な事物、ハイデガー的に言えば「大地」に由来する
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ものは、それ自体が持つ様々な潜在力において「死すべきものども」と結びついている(つまりスプー
ンは食べるためだけでなくノミにもなり、壁は囚人を隔てるだけでなく、ノックして交信するための媒
体となる)。もちろん、収容所は上から「天空」によって包まれており、天空を動く太陽のリズムにし
たがって収容所の生活が営まれる。そして最後に、ハイデガーによれば、
「神的なものども」とは、
「神
聖な合図を送ってくる使者のものである」という。これはまさに、「風は思うがままに吹く」とブレッ
ソンが言う、その「風」にほかならないだろう(実際、原典である『ヨハネによる福音書』(3 :8)でも、
キリストは「精霊」を言い換えて「風」と言っているのだが)。
ハイデガーは、
「死すべきものどもとしての人間だけが、世界としての世界に住まう」と述べた。
『抵
抗』という映画を通じてブレッソンは、ハイデガーがそこで捉えたような存在論的問題を、映画的な方
法によって、まさに「映画でしかないものとしての映画」を通じて提示することに成功している。それ
は、主人公の生存に焦点を当てた脱獄のアクション映画ではまったくない。まさに、人物をモデルに、
映像を平面的にすることを通じて、主人公のドラマは、彼の横にいる「死すべきものたち」と、彼のま
わりにある「大地」と、彼を上から覆う「天空」と、そして彼に合図を送ってくる「神的なものども」
と、結びついてゆくのである。モーツァルトのハ短調ミサ曲は、そうした結びつきを音楽を通じて象徴
的に表現するものでもあるだろう。
4.おわりに
同じことを別の言い方で言えば、『抵抗』は「映画でしかないものとしての映画」を編み上げてゆく
ことで、三つのレベルで同時に語ることが可能になっていると言えるだろう。第一に主人公の脱走とい
う個人的問題、第二に占領軍に対するレジスタンスという社会的問題、第三に絶望的な状況からの救済
という神学的あるいは存在論的問題。捕虜の人々は、同時にこの3つのレベルでもがいているのであり、
映画がこの3つのレベルを同時に横切っているという点は、決定的に重要である。しかし、この例に限
ることなく、我々はおそらく、いつもこの3つのレベルを同時に考えるべきなのではないだろうか。個
人の生存の問題に還元する視点も、政治に還元する視点も同時に貧困であり、また神学的・存在論的問
題が個人的・社会的次元を欠いたとしたら、それもまた貧困である。
このように見るなら、半世紀も前の映画である『抵抗』は、我々にとって依然として意味深長な作品
である。確かに我々の多くは戦争状態で捕虜となっているわけではないが、今日の世界を支配している
政治経済的体制によるコントロールはますます強く、ますます圧制的である(cf. 晩年のブレッソン。
『た
ぶん悪魔が』(1977)、
『ラルジャン』(1983))。
『抵抗』というこの映画の邦題は、先ほど指摘した3つの
レベルの第二のレベル、つまり政治的・社会的闘争に焦点を当てたものであるが、それはそれで興味深
い。ただ、
「抵抗」は、この映画の世界においても、また今日のグローバル資本主義の世界においても、
同時に個人の生存の問題であり、また存在論的問題でもある、という点は、つねに考えるに値するだろ
う4。
4
よく指摘されるように、ブレッソンの映画は、ある意味でいつも監獄をテーマとしていると言えなくもな
い。『抵抗』、
『スリ』、
『ジャンヌダルク裁判』
、そして遺作の『ラルジャン』は文字通り監獄の内側と外側の
間で展開する。『田舎司祭の日記』、
『ムシェット』
、『たぶん悪魔が』の主人公、また、
『バルタザールよどこ
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さて、全体を振り返るなら、この講演では、映画というものが実際上、様々な目的・用途・機能に振
り向けられ、様々な形をとっている現実に対して、「映画でしかないものとしての映画」とは何かとい
う問題を立て、こうした問いを最も明確に追求したロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』と、
彼の『抵抗』
(ちょうど『シネマトグラフ覚書』の大部分の文章が書かれた 1950 年代に制作された)を
手がかりに、そうした映画が何を描写し、あるいは何を表現するかについて考えた。
それを考える過程で重視したのは、「ブレッソン映画とは何か」という問題意識ではなくて、ブレッ
ソンが実際に作ってみせたような「映画でしかないものとしての映画」とは何かという問題である。私
としては、ここでブレッソンについて述べたような特徴、例えば映像の平面化や、映像の音楽性、「自
然」という根本的テーマ、あるいはハイデガーが四方界という言葉で表現したような存在論的問題は、
映画作家が「映画でしかないものとしての映画」に立ち向かうとき、つねに多かれ少なかれ出現するこ
とになる、と考える。それは『映画的思考の冒険』
(箭内(編)2006)や「映像・光・スピノザ」
(箭内
2007)で書いたことと多かれ少なかれ重なっている。その意味では、今日の述べたことは、直接にはブ
レッソンに言及しつつも、「映画が映画でしかないものとしてあるときに表現されるもの」を、ブレッ
ソン映画以外のものをも念頭に置きつつ、考えた結果のものである。
「映画とは何か?」という問いには、無数の答えがありうるし、おそらくそれぞれの答えがそれなり
の妥当性を持っているだろう。
「映画はエンターテインメントである」
「映画はカタルシスである」とい
う答えも、それはそれで構わない(映画とどのような関係を営むかは個人の自由だから)。ただ、その
ことを言った上で、「映画とは映画以外の何ものではないものであり、映画が他の機能・用途・目的に
従属することから絶えず逃げるものである」という答え方が、ある特別の場所を占めうることも確かだ
と思う 5 。そして、この問いを徹底的に純粋な形で追求したロベール・ブレッソンの映画もまた、ある
特別の場所を占めるように思われる 6 。
ところで、「映画が他の機能・用途・目的に従属することから絶えず逃げるものである」という答え
はまた、映画の問題をそのまま我々自身の問題と結びつけることになるだろう。ブレッソンの『抵抗』
という映画、またブレッソンが作った一連の(広い意味での)「抵抗」の映画、そして、ブレッソンに
に行く』の主人公のロバは、彼らをとりまく世界自体が監獄のようであり、彼らは自らを取り巻く世界の悪
を自らの身に吸い取ってゆき(ちょうどキリストがそうであったように)
、映画は主人公の死によって終わる。
資本主義社会という監獄の中で、その害悪をスポンジのように吸収していく主人公――二つは全く異なった
仕方ではあるが――を描いた晩年の二作品(『たぶん悪魔が』、
『ラルジャン』)では、もはや個人的救済も、
社会的救済も、存在論的救済もなしに個人が潰えてゆく状況が、淡々と、しかし美しく描写される。これは
一方でおそらく、1970 年代以降のブレッソンのいくぶん悲観的な――しかし現実の明晰な把握である――ヴ
ィジョンの反映であるだろうが、同時に、「風は思うがままに吹く」ことの確認であるのだろう。
5私自身はといえば、ブレッソンのような純粋さがいつも必要だとは必ずしも思わない(実際、ブレッソンが
あのような映画を作り続けられたのは、フランスという国の特殊性を抜きにしては考えにくい。むしろ、多
くの優れた映画監督・映画作家たちは、産業的な必要から映画を一定の機能に従属させながら、そうした必
要と戦いながら「映画でしかない映画」を制作することに強い情熱を燃やし、それを実現したのだと思う(例
えば小津の映画は、松竹のスタジオシステムの制約と切り離すことができない)
。今日、提供したいと思った
のは、そうした営みを我々の側から読み取るために、一つの参照枠である。
6
ドゥルーズとガタリは『哲学とは何か』で、哲学史の中でスピノザが、それ以前およびそれ以後のほとん
ど誰もがおこなわなかったような徹底した形で彼の哲学を実践したことを指摘して、幾分冗談交じりに、
「不
可能なものの可能性」を示した「哲学者の中のキリスト」だと言っているが、ブレッソンは「映画監督の中
のキリスト」
、あるいは「映画監督の中のスピノザ」と言えるかもしれない。
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限らず、映画制作者が「映画が他の機能・用途・目的に従属することから絶えず逃げる」ようにして制
作した映像は、我々自身の「世界を見る」という行為を、それをあらかじめ何かの機能・用途・目的に
従属させてしまうことに抵抗し、我々自身を解放する。「世界を見る」という行為を、それが現出する
がままに捉えるほうへと我々をいざなってくれる。ところでこの、「世界が現出するがままに世界を捉
える」という方向性はまた、このワークショップ全体の枠組から言えば、マリノフスキー以来の人類学
が持ってきた一つの決定的に重要な方向性ではないだろか。これについては、次回に掘り下げて考えて
みたい。
主要文献
Berger, John. 1977[1972] Ways of Seeing. Penguin Books. (J・バージャー『イメージ――視覚とイ
メージ』Parco 出版)。
ブレッソン、R.
1987[1975] 『シネマトグラフ覚書――映画監督のノート』筑摩書房
ハイデッガー、M. 2003「有るといえるものへの観入」
(1949 年ブレーメン連続講演) 『ブレーメン講
演とフライブルク講演』
(ハイデッガー全集 79 巻)
創文社
***
箭内
匡(編) 2006 『映画的思考の冒険――生・現実・可能性』世界思想社
箭内
匡 2007 「映像・光・スピノザ――「内在性の映画」が示すもの」『思想』999: 143-165