ひだまりNo.20

ひだまり
せ か い じんけんせんげん
世界人権宣言
だいいちじょう
第一条
にんげん
うま
じゆう
そんげん
けんり
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて
びょうどう
にんげん
りせい
りょうしん
さず
たが
どうほう
人権センターだより
せいしん
平 等 である。人間は、理性と良 心 とを授けられており、互いに同胞の精神を
2014・5
こうどう
もって行動しなければならない。
№20
だいにじょう
第二条
ひと
じんしゅ
ひ ふ
いろ
せい
げんご
しゅうきょう
せいじじょう
た
いけん
こくみんてき
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗 教 、政治上その他の意見、国民的
も
しゃかいてきしゅっしん ざいさん
もんち
ほか
ち い また
るい
じゆう
若しくは社会的 出 身 、財産、
門地その他の地位又は、
これに類するいかなる事由
さべつ
う
せんげん
かか
けんり
じゆう
きょう
による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを 享
ゆう
有することができる。
こじん
ぞく
くにまた
ちいき
どくりつこく
また
ほか
しゅけんせいげん
もと
と
と、非自治地域であると、又は、他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わ
くにまた
ちいき
せいじじょう
かんかつじょうまた
こくさいじょう
ち い
もと
ず、その国又は地域の政治上、管 轄 上 又は国 際 上 の地位に基づくいかなる
さべつ
今、世界各地で戦争や、紛争が起こっています。
「幸せに生きる権利」を奪ってしまうのが戦争です。そして、今も、世界で戦争を
している国々では、罪のない人々がきずつけられ犠牲になっている現状がありま
真剣に考えなければならない。
第三条
ひと
せいめい
じ ゆ う およ
しんたい
あんぜん
たい
けんり
第33回全国中学生人権作文コンクール入選作品「平和のバトン」の中に「戦争
ゆう
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。
で幸せになった人は、誰もおらん」という言葉があります。その通りだと思います。
だいよんじょう
第四条
どれい
また
くえき
ふく
ど れ い せ い ど およ
ど れ い ばいばい
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、
かたち
きんし
いかなる 形 においても禁止する。
せ か い じんけんせんげん
だいいちじょう
なか
おも
だいさんじゅうじょう
ばっすい
戦争という大きな犠牲の上に、今の平和があります。私たちはその事を忘れてはい
けないし、風化させてはいけない。次の世代に引き継がなければいけない事だと思
います。平和と人権について考える機会になりますよう、人権センターより、
「ひだ
じょうぶん
な
※世界人権宣言は第 一 条 から第 三 十 条 までの条 文 から成っています。
こんかい
た。しかしいま、日本国憲法の解釈をめぐっていろいろな議論が巻き起こっていま
す。今の日本が戦争のない国として平和を守るためにはどうするべきか、みんなが
差別もしてはならない。
だいさんじょう
なんびと
日本は、戦後のおよそ70年間戦争もなく、そういう意味では平和に過ぎてきまし
す。
しんたく と う ち ち い き
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域である
ひ じ ち ちいき
ひとは誰でも「心穏やかに幸せに生きたい」と願っています。
まり」をお届けします。
「平和のバトン」は裏面に掲載しております。
けいさい
今回は、その中から主なものを抜粋して掲載しました。
発 行
小諸市人権センター(人権政策課)
電 話
23-5521
FAX 23-5554
だい
かいぜんこくちゅうがくせいじんけんさくぶん こ ん て す と
第33回 全 国 中 学生人権作文コンテスト
ぜんこくじんけん よ う ご い い ん れんごうかいちょうしょうじゅしょうさくひん
全国人権擁護委員連合 会 長 賞 受 賞 作品
へいわ
ば と ん
「平和のバトン」
おかやまけん
岡山県
おかやま し り つ いし い ちゅうがっこう
岡山市立石井 中 学 校
お お ぬ ま い い
に ねん
ひらい ま ゆ
二年 平井万裕
み
大沼逸美
初めて訪れた広島平和記念資料館で、私はこれまで感じたことがないほどの激し
い恐怖と深い悲しみに包まれていた。写真や遺品の一つ一つが、六十八年という時
を超えて原子爆弾の恐ろしさと、傷つき、命や家族を失った人々の悲しみを訴えてく
るようだった。学徒動員の遺品は、同世代の人の最後を物語っているようで、自分も
その場にいるような息苦しさを覚えた。女学生が身につけていた制服は、原爆の熱線
によって焼け焦げていた。全身に大やけどを負った少女は、どんなに苦しんだことだ
ろう。「水、水。」と必死に水を求めながら亡くなったのだろうか。
中でも、今だに私の頭から離れないのは、中身が真っ黒に焦げた一つの弁当箱だ。
弁当箱の持ち主の滋くんは、出征中の父と兄に代わって山や竹やぶを開墾し、一家
を支えて畑を作っていたそうだ。その日の弁当は、自分が初めて収穫したものを使っ
て、母親が作ってくれたものだったそうだ。心のこもった弁当を持ち、喜んで出かけた
滋くんは、その弁当を食べることなく、たった十三歳で原爆の犠牲となった。母親のシ
ゲコさんは、破壊された街を必死で捜索し、ようやく滋くんの遺体と、遺体に抱き抱え
られた弁当箱と水筒を発見したそうだ。私には、黒焦げの弁当箱と、それを抱いて倒
れている滋くんの姿が重なって見え、戦争が身近な恐怖として迫ってきた。
家に帰ってからも、滋くんの弁当箱は私の心から離れなかった。そんな私に祖母は、
「これを見てごらん。」
と一枚の写真を見せてくれた。七十六歳になる祖母は、折に触れて私に戦争の話を
してくれるのだ。色あせた写真には、セーラー服姿で気をつけをしている小柄な少年
が写っていた。祖母から、
「おばあちゃんの一番上の兄ちゃんが、中学三年で海軍に志願した時の写真なんよ。」
と聞いて驚いた。祖母の兄は、自ら志願して海軍に入隊したそうだ。兄の決意を聞い
時、父親はだまって何も言わなくなってしまい、母親は「畳の上で死なせてやりたい。」
と言って兄にたくさんのびわを食べさせたそうだ。びわを食べて腹をこわせば、入隊
できなくなると考えたらしい。当時六歳だった祖母には、兄の姿がただ立派に見えた
そうだが、出征前の記念写真には、家族全員の泣きはらした 顔が映っているそうだ。
最後の写真かもしれないと考えながら家族写真を撮ることは、親としてどんなにつら
いことだっただろう。自分が思いだす家族写真といえば、七五三の着物姿や、ディズ
ニーランドやハワイでの楽しい思い出写真ばかりだというのに。
その後、祖母の兄は、自分の小指を切って血判状を書き、自らが爆弾となる人間魚
雷に志願したそうだ。祖母は、
「兄ちゃんが、呉から横須賀に向かうという連絡を受けた時、母ちゃんは、一郎の姿を
一目見ようと、岡山駅に行ったんじゃって。でも近づけずに踏み切りで待っとったら、
シャッターが下りた列車の窓から、兄ちゃんの手だけが見えたんじゃって。」
と教えてくれた。たった一つ見えた手が、息子の手に見えたという曾祖母の言葉は、
「弁当を食べることなく死んだ息子が不憫でならなかった。」という滋くんの母の言葉と
重なって、戦争中の母の悲しみを教えてくれた。幸いにも出撃前に終戦を迎えたそう
だが、自分と同じ中学生で原爆の犠牲となった滋くんと、国のために自分の命を捧げ
ようとした祖母の兄の生き方があまりにも悲しかった。そして、平和な時代に生まれ
た自分は、何をすればいいのかと考えるようになった。
原爆投下から六十八年目の今年、広島の平和記念式典を伝えるテレビには、私が
訪れた平和記念公園が映っていた。こども代表は「平和の誓い」の中で、「あの日から
目をそむけません。もっと知りたいのです。被爆の事実を。被爆者の思いを。もっと伝
えたいのです。世界の人々に、未来に。」と訴えていた。思えば祖母も七十六歳。私
はおそらく、祖母から直接戦争の話を聞くことのできる最後の世代になるだろう。祖母
の戦争の話はいつも決まってこう締めくくられる。
「戦争で幸せになった人は誰もおらん。」
この言葉に込められた意味を真剣に考え、二度と戦争を繰り返さないのだという強い
意志を受け継ぐことが、今の私にできることなのかもしれない。「いってきます」と言っ
て母さんが作ってくれた弁当を持ち、大好きなバスケットボールをし、からっぽの弁当
箱を持って「ただいま」と帰宅する、このあたりまえのことができる幸せに心から感謝
したい。
私はこれからも、戦争のことをもっと知りたい。もっと伝えたい。滋くんや、祖母達の世
代が命をかけて手渡してくれた「平和のバトン」を、必ず次の世代に引き継ぐために。