主日集会 2015.9.13 あなたのための十字架刑 かれ う と ヨハネ福音書19:17-27 じ ぶん じゆう じ か ったと思い起こさなければならない。これが私たち罪人の代わりにイエスが進んで耐えてくださったことである。 二人の強盗が主とともに「それぞれ両側に」はりつけにされた。これはイザヤ53章12節の彼は「そむいた人た ちとともに数えられた」という預言の成就であった。 お ち 19:17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で 十 字架を負って、「どくろの地」とい ば しよ ご い で い う場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。 かれ じゆう じ か もの 19:18 彼らはそこでイエスを 十 字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ りようがわ ま なか 両 側に、イエスを真ん中にしてであった。 ざいじよう が か じゆう じ か うえ かか じん おう じん 19:19 ピラトは罪 状 書きも書いて、十 字架の上に掲げた。 それには 「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」 か と書いてあった。 おお じん ざいじよう が よ じゆう じ か ば しよ みやこ 19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪 状 書きを読んだ。イエスが 十 字架につけられた場所は 都 ちか ご ご ご か に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。 じん さい し ちよう じん おう か かれ じん おう 19:21 そこで、 ユダヤ人の祭司 長 たちがピラトに、 「ユダヤ人の王、 と書かないで、 彼はユダヤ人の王 じ しよう か い と自 称 した、と書いてください」と言った。 こた わたし か わたし か 19:22 ピラトは答えた。 「 私 の書いたことは 私 が書いたのです。 」 き もの と へい し じゆう じ か へい し ひと 19:23 さて、兵士たちは、イエスを 十 字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つ し ぷん した ぎ と うえ ぜん ぶ ひと お ぬ め ずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしの ものであった。 かれ たが い さ もの ひ 19:24 かれ そこで彼らは互いに言った。 「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。 」それ き もの わ あ した ぎ ひ せいしよ じようじゆ は、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が 成 就す るためであった。 へい し じゆう じ か はは はは し まい 19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの 十 字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、 つま た クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 はは た あい で し み はは おんな かた むす こ 19:26 イエスは、 母と、 そばに立っている愛する弟子とを見て、 母に 「 女 の方。 そこに、 あなたの息子 い がいます」と言われた。 で し はは い とき で し かのじよ 19:27 それからその弟子に 「そこに、 あなたの母がいます」 と言われた。 その時から、 この弟子は彼女 じ ぶん いえ ひ と を自分の家に引き取った。 【祈りながら考えよう】 (1)主イエスはその両手、両足を十字架に釘づけられた。その肉体的な苦しみはどんなでしたか。 (2)罪状書きは「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれた。それは正しい表現ですか。 (3)千年も前に書かれた詩篇22篇18節の預言が成就されました。これから何が分かりますか。 【解 説】 (1)彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場 所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた(17節) ローマの慣例により、十字架刑を宣告された犯罪者は、自分の十字架を運ぶように強制された。主はこのように、 じゆうはんざいにん 最低の 重 犯罪人の扱いを受けた。 主はナザレで大工として働いておられた時、育ての父親を手助けして木材を快く運ばれたが、それに劣らない自 発性をもって、今や自分をいけにえとする祭壇を築くため、そして天の父の御旨を行うために、十字架用の木材を ゴルゴタへと背負って行かれた。イエスはご自分の十字架を、ある程度の距離まで運んで行かれた。それから、他 の福音書によると、十字架はクレネ人のシモンという名の男に渡され、シモンが運んだ。 (2)彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側 に、イエスを真ん中にしてであった(18節) 主イエスはその両手、両足を十字架に釘づけられた。それから十字架が起こされ、地面に掘ってあった穴に立て ち ち られた。そしてそれ以後は、受刑者を長く苦しい死にゆだねた。それは最大の苦痛と、最も遅々とした生命の破壊 とが結び合わされた死であった。両手両足のように神経や筋肉で満ちている部分が釘づけにされる苦痛というもの げきれつ は、激烈なものであったにちがいない。しかも両手両足の傷では致命傷とはならず、主要な血管をそこなうという せいらいがんきよう とうほう こともない。十字架につけられた人物が、生来頑 強 で健康な状態であるならば、東方の気候の中で太陽にさらされ ても、死による救いを得られないまま極度の苦痛を忍びながら二、三日は生き続けたであろう。 私たちは「彼らは…イエスを十字架につけた」と記された個所を読む時に、主が体験されたのは、このことであ -1- (3)ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあっ た。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かった からである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった(19-20節) たつけい 磔刑に処せられる者の頭上には、「罪状書き」を書いた札を掲げることが慣習となっていた。それは罪状を示すた めであった。ピラトは、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書きを中央の十字架につけるように命じた。 罪状書きがヘブル語で書かれた理由は、それがユダヤ人がみな知っていた旧約聖書のことばであった。ギリシャ とうほう 語で書かれた理由は、それが当時の東方のすべての国々で最も知られたことばであり、文学のことば、教養人のこ とばであったからである。ラテン語で書かれた理由は、それが当時の世界の支配者ローマ人のことばであったから である。ローマの兵士はみなラテン語が理解できた。ギリシャ人のユダヤ教改宗者や、ギリシャ化したユダヤ人は きつすい みな、ギリシャ語が理解できた。そして過越の祭りのために、ガリラヤ、ユダヤ、諸国から集まって来た生粋のユ ダヤ人たちはみな、ヘブル語が理解できたであろう。 これらの人々はみな、過越の祭りにイエスという人物がユダヤ人の王として十字架の刑を受けたという知らせを 広めたことであろう。「場所は都に近かった」。主イエスは、エルサレムの町の外で十字架につけられた。 (4)そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、 と書いてください」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」(21-22節) 祭司長たちはこの言い回しが気に入らなかった。イエスの主張として書いてほしかったのであって、事実として 書かれるのは望まなかったのである(実は、事実であったのだが)。 だ ピラトは書いたものを変える気はさらさらなかった。彼はユダヤ人たちに対していら立っていた。彼らにはこれ じよう ほ 以上 譲 歩するつもりは全くなかった。 (5)さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつ あたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのもの であった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」 それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就 するためであった(23-24節) このような処刑が行われる時には、死者の個人的持ち物は兵士たちが分配してよいことになっていた。ここでは、 彼らが、キリストの着物を分け合っている。全部で5枚あったようである。4枚は分け合ったものの、まだ下着が残 った。しかし、縫い目なしのもので、裁断してしまうと無価値になってしまうものであった。 兵士たちはその下着をめぐって「くじを引いた」 。名前の分からない勝者にその下着が渡った。彼らは、このよう なことをしながら、自分たちが千年も前に書かれた預言を成就しているとは夢にも思わなかった(詩篇22:18)。こ のように成就した預言を見ると、聖書とは神の霊感を受けたことばであること、そして、イエス・キリストは間違 いなく約束のメシヤである、と改めて思わないわけにはいかない。 (6)兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、ク ロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた(25節) 聖書を研究する者の多くは、この節に記されている4人の女性を以下のように考えている。①イエスの母マリヤ、 ②マリヤの姉妹であり、ヨハネの母でもあったサロメ、③クロパの妻のマリヤ、④マグダラのマリヤ。 (7)イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子 がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時 から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った(26-27節) ご自分が苦しんでおられるにもかかわらず、主は他の人々のために愛情のこもった心遣いをされた。母と弟子の ヨハネを見て、主は、以後、マリヤの息子に代わる者として、ヨハネを彼女に紹介された。 ご自分の母マリヤに対して「女の方」と言われたのは、肉の親子として語っておられるのではなく、救い主であ り主であるお方として語っておられることが分かる。イエスには、弟たちがいた。もしもご自分の死後、母のこと い と こ を頼むとすれば、弟たちに頼むのが筋である。それをわざわざ、たとい従兄弟であったとしても、そのヨハネに頼 むというのはおかしい。本来なら弟たちに頼むべきところ、弟たちはまだ信仰を持っていなかったからであろう。 い と こ そこで、従兄弟でもあり、信頼できる弟子ヨハネに頼んだと考えられる。 -2- -3-
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