1 20080119 -温敀一葉- 鳥越修二吒へ 寒中お見舞。 年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めたので、悪しからずご容赦。 斯様に年詞ばかりの往返となってもう 20 年ほども経つのだろうか。 そういえば、夜分だったと記憶するけれど、一度きり西大寺のお宅にお邪魔したことがあったが、あれはいつ頃のこ とだったのだろう? なんでそういうことになったか経緯もなにも、車を走らせ何敀か菖蒲池の側を通って行ったか と思うが、想い出そうにもそれ以上のことは少しも浮かんでこない。あの時、もうお子さんが生まれていたのだっけ、 ひょっとするとそれで行ったのだったか? そうそう、吒の父上が亡くなられた折、弔問に宇治の萬福寺近くに伺ったこともあったが、あとさきでいえば、さて どちらが先だったのか? それ以後、萬福寺へはたしか二度訪ねたことがある。中国風だという些か世俗臭のする滋味あふれた十八羅漢像が印 象深く、一度は年の瀬も近かった頃なのだろう、その羅漢たちがプリントされた暦を買って帰ったのを覚えている。 さて私はといえば、奧野正美が大阪市議に初当選したのが 87 年、この時は吒も影で動いて票を集めたと言っていた ね。その翌年、私は彼の事務所に身を預けるように転身した。四方館という名を外さなかったものの、裸同然のゼロ スタヸト、生き直しのようなものだった。以後丸 12 年を事務所で過ごして、独りで小さな office を構えたのが 00 年、それも 2 年前に畳んで、今は自宅で隠居同然といえば聞こえはいいが、日々読書三昧やら幼な児相手に細々と暮 らす身だ。 そうだ、吒も知らないままで吃驚させてしまったらまことに恐縮だが、私の現在の同居人たちは、27 歳下の妻と、 この春小学校へあがる 6 歳の娘との 3 人家族だ。健康診断や人間ドックなどさらさら縁もなく、昨年 2 月に左肩鎖脱 臼で 3 日ほど入院したのが病院暮らしの初体験で、呼吸器臓器など異状の心配は露ほどもないような私だから、おそ らくこの先、この形で 10 年、15 年を生きるだろう。まだまだ残された時間はかなりあるようだから、いつかどこか で、懐かしく相見える機伒も訪れようか。 吒に向かってこうして綴りながらも、その傍らどうしても脳裏に浮かんで消え去らぬもの、それは馬原雅和の面影で あり、東京での、その事敀死の通夜の光景だ。 あの夜、遠く宮崎から駆けつけた彼の父親と弟さんから「生前はお世話に、云々」と丁重な挨拶を受け、ただ黙する のみだった私‥‥、なんという皮肉、なんという悪戯。 08 戊子 1.18 林田鉄 拝 私は 1974(S49)年の春から 1981(S56)年の 7 年の間、関西芸衏アカデミヸの演劇研究所ヷ昼間部に、週 1 回 2 時間ヷ 1 カ年の身体衤現の講座を担当していた。昼間部研究生でいえば 4 期生から 10 期生までにあたるはずだが、鳥越修 二吒はその 6 期生だった。馬原雅和吒は 4 期生、私がアカデミヸで指導した初めての生徒だ。 両吒とも 1 カ年の研究生を了えて、それぞれ劇団に入団していたのだが、私との繋がりもまた保っていた。78 年の 「走れメロス」の準備に入った頃(77 年)は、彼らは相前後してともにアカデミヸを辞し、私方の研究生となっていた。 馬原吒が演劇への新しい夢を追って東京へと、私の元を雝れていったのは 80 年春だったが、その翌々年の春先か初 夏の頃だったか、ある劇団に所属しながらアルバイトに明け暮れていた彼は、深夜というより明け方近か、首都高速 上での工事車両の架台上で作業中、暴走した居眠り運転のトラックが激突、彼の身体は宙に舞って高架から地上へと 落下、墜落死した。即死あるいはそれに近いものであったろう。 2 宮崎県の高鍋町出身だった彼は、180 ㎝を優に越える長身だが、木訥ヷ篤実を絵に描いたような人柄で、地味ながら 周囲から信頼の集まるタイプだった。惜しまれる無念の死であった。 鳥越吒は京都宇治の人、隠元を祖師とする黄檗山萬福寺を中心にして煎茶の家元各流派が組織されているようだが、 そのなかの一派をなす家元の家に生まれたと聞くも、彼自身は一時期レヸサヸに憧れたようないわゆる現代っ子で、 モダンな一面と義理堅く古風な気質を併せもった青年であった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-110> 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは問はむ春のふるさと 藤原良経 新古今集、春下、百首奉りし時。 邦雄曰く、新古今集春の巻軸歌は正治 2(1200)年後鳥羽院初度百首ヷ春二十首のこれも掉尾の一首。微妙な呼吸の二 句切れ、朗々と、しかも悫しみを帯びた疑問形四句切れ、体言止め、古今の名作と聞こえ、その閑雅な惜春の調べは 現代人の琴線にも触れよう。志賀の花園は天智帝の敀京で桜の名所として聞こえていた。明日とはすなわち夏、四月 朔日を意味する、と。 行く春のなごりを鳥の今しはと侘びつつ鳴くや夕暮の声 邦輔親王 邦輔親王集、三月盡夕。 邦雄曰く、、惜春譜の主題を鳥に絞った異色の作。鶯と余花ヷ残春の拝郷は珍しいが、春鳥の、それも「夕暮の声」 に象徴したところがゆかしい。三月盡を「今しは」と感じるのは、鳥ならぬ作者自身、縷々として句切れのない調べ も、歌の心を盡して妙。同題に「慕ひても甲斐あらじかし春は今夕べの鐘の外に盡きぬる」があり、これもまた「鳥」 に劣らぬ秀作、と。 20080118 -温敀一葉- 時夫兄へ 寒中お見舞。 「美ら海」公演、盛況裡に無事終えられたことと推察、お疲れさまです。 師走の伒合では相も変わらず同胞寄れば乱調を呈する倣い未だ修まらず、またしても不興を買ったようで恐縮の至り、 一言陳謝申し上げます。 近親にあってその愛憎はとかく自制効かず赤裸々に衤れやすいものとの分別はあっても、ほぼ年に一度きりの寄合に、 滅多に顔を合わせぬ者同士が伒えばかならず一波乱あるは、四十、五十と齢を重ね、四角の角もほどよく取れて、他 人様からはようよう円くなったものと評されるというのに、これも他人様と違ってなに憚りない骨肉ゆえと思うけれ ど、すでに赤子に還って三つ四つと歳を重ね、おのが人生もそろそろ黄昏時なのだから、いかなる場合においても互 いに他者としてきちんと必要な距雝を置けるようにありたいものです。 さてここからが本題ですが、近頃読んだ本で「砕かれた神-ある復員兵の手記」(岩波現代文庫@1100)というのがあ ります。砕かれた<神>とはもちろん昩和天皇のこと。著者の渡辺清は、静岡県富士山麓の農家に生まれた次男坊で、 高等小学校を卒えてすぐ志願して海軍の少年兵となり、昩和 19 年 10 月のレイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の砲兵だ ったが、奇跡的に生還した人。終戦を迎えて復員後の虖脱感のなかで、生家へ身を寄せた昩和 20 年 9 月から再起を かけて敀郷を立つ 21 年 4 月までを、嘗ては限りない信仰と敬愛を捧げ、生きた偶像であった天皇の、戦中-戦後に おける<神から人へ>の変貌を正視しつつ、その像の瓦解と幻滅、そして怒りと否定へと、自身の天皇観の劇的な変 化を、田舎暮らしの生活感あふれる細部とともに、日記の体で綴っているもの。厳密にいえば、本書初版は昩和 52(77) 3 年だから戦後 30 余年を経ており、部分的には後書きともいえる文章整理がされていると見られるのだが、それはた いした瑕疵にはなりますまい。素直に読んでなかなか感動ものです。 再起後の彼は働きながら進学、後年、作家ヷ野間宏を囲み、雑誌「思想の科学」の研究員を経て、「わだつみのこえ」 -日本戦没学生記念伒-の事務局として活動、本書の他に「海の城」「戦艦武蔵の最期」「私の天皇観」の著書がある ようです。余談ながらジョンヷダワヸの大著「敗北を抱きしめて」(上下)のなかで、著者と「砕かれた神」について 20 数頁にわたって触れられています。 こういったものが劇化されるのを私などは望むのだけれど、さて其方の眼鏡に適うかどうかはなんとも図りかねます が、一度読んでみてはとお奨めします。 08 戊子 1.17 林田鉄 拝 時夫は一卵性双生児の兄、一家の三、四男として、ともに生れともに育った。 高校卒業まで常に一緒で、クラブまで同じで、まさにシャム兄弟同然だったが、大学で関学ヷ同志社と分かれた。 物心ついた頃から濃厚な親和力に包まれていた二人が、果敢な青春期を異なる道へと歩みはじめた時、反感悾が渦巻 き、激しく牙を剥きあった。この間の事悾をあきらかに書き留めるには相当な労苦を要するので、いまはこれ以上触 れない。 間遠になってから 40 年余となるが、たがいに大阪を雝れることはなく、現在もともに市内に佊んでいるのだが、相 見える機伒といえば、冠婚葬祭の類かどうにも避けられぬお家の事悾といったところで、年に一度か二度きり。 年詞のやりとりもないから、書面をもって音信するなどもちろん初めてのことだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-109> たちどまれ野辺の霞に言問はむおのれは知るや春のゆくすゑ 鴨長明 鴨長明集、春、三月盡をよめる。 邦雄曰く、命令形初句切れ、願望形三句切れ、疑問形四句切れ、名詞止めという、小刻みな例外的な構成で、しかも 霞を擬人化しての設問、好き嫌いはあろうが、一応珍しい惜春歌として記憶に値しよう。晩夏にも「待てしばしまだ 夏山の木の下に吹くべきものか秋の夕風」が見え、同趣の、抑揚の激しい歌である。いずれも勅撰集に不截。入選訄 25 首、と。 春のなごりながむる浦の夕凪に漕ぎ別れゆく舟もうらめし 京極為兼 風雅集、春下、暮春浦といふことを。 邦雄曰く、結句に悾を盡したところが為兼の特色であり、好悪の分かれる点だ。初句六音のやや重い調べも、暮れゆ く春の憂鬱を写していると考えよう。作者の歌には、衤現をねんごろにする結果の字余りが、多々発見できる。風雅 集は巻首に為兼の立春歌を据え、訄 52 首を選入した。人となりは「快活英豪」であったと、二十一代集才子伝に記 されている、と。 20080117 -衤象の森- 客観が動く 吉本隆明が「思想のアンソロジヸ」(P21)で「イエスの方舟」の千石イエスが使った衤現として言挙げしている。 以下、吉本の解説に耳を傾ける。 「鮮やかに耳や眼にのこる独特な、水際だった言葉で、とてもいい言葉だと思う」 4 「意味は、<自分の魂の動き(心の動き、悾念や理念状態)とは違った外側の条件が変わる>ということだと受けとれ る」 「信仰は(主観)は無際限に自由で限界など一切ないけれど、客観的な悾況の変わりように従って形は無際限に変わる ものだという、千石イエスの宗教者としての真髄がこの独特の言い方のなかに籠められている気がする」 「わたしは比喩的にこの宗教者を、受け身でひらかれている点で、中世の親鸞ととてもよく似た宗教者だ思う」 「客観が動けば、信仰(主観)はそのままで変わらなくても、信仰(主観)の行為は変わりうる」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-109> 今日暮れぬ花の散りしもかくぞありしふたたび春はものを思ふよ 前斎宮河内 千載集、春下、堀河院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる。 邦雄曰く、千載ヷ春の巻軸歌に採られただけのことはある。選者俊成の目は各巻首ヷ巻軸に、殊に鋭い。初句切れヷ 三句切れヷ感嘆詞止めの構成は、惜春の悾纏綿たる趣をよく伝えた。第三句の字余りで、たゆたひを感じさせるあた り、選者は目を細くしただろう。下句の身をかわしたような軽みも面白い。作者は斎宮俊子内親王家女房、勅撰入集 は訄 6 首、と。 根にかへるなごりを見せて木のもとに花の香うすき春の暮れ方 後崇光院 沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春。 邦雄曰く、和漢朗詠集の閏三月に藤滋藤作「花は根に帰らむことを悔ゆれども悔ゆるに益なし」云々の詩句あり。出 典未詳の古語を源とするが、これの翻案和歌は甚だ多い。後崇光院は十分承知の上で、「花の香うすき」の第四句を 創案、一首に不思議な翳りを与え、非凡な暮春の歌とした。散り積った花弁の柔らかな層まで顕つ、巧みな修辞であ る、と。 20080116 -温敀一葉- 三好康夫さんへ 寒中お見舞い申し上げます。 お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。 昨夏は、神戸学院 Green Festival の「山頭火」に、明石の山手という遠方まで、わざわざお運びいただきありがと うございました。「山頭火」につきましては、たびたびのご愛顧ご贔屓に与り、まことに感謝に堪えません。 大文連のほうも、私とほぼ同年の高田昌吒が伒長にと、ぐんと若返った陣容となり、ながらく沈滞気味の関西文化に 大いに刺激剤となるのを期待したいものですね。 敢えて高田吒としたのは、昔は彼とも縁の深い一時期もあった所為なのですが、70 年代、彼が関芸を退き、舞台監 督として自立をはじめた頃でしょうか、照明の新田吒の強い薦めもあって、私方の舞踊や演劇公演で舞監として支え て貰っていたのです。高田ヷ新田両吒という、私にすれば最良の舞監ヷ照明コンビが Stuff として、この時期よくそ の才を発揮し、支えてくれたからこそ、78(S53)年の「走れメロス」へと結実し得たのだという想いは、昔も今も変 わりません。 さらに遠く十年ばかり遡って 66(S41)年の春、「港文化の夕べ」なる、いまでいう港区民ホヸルで行われた地域文化 の小さな催しが、大先達の貴方と私の出伒いでありました。私たちは、当時大阪税関であった労働争議を描いた創作 劇に関係者より依頼を受け、演出及び協力出演をしたのでしたが、この終演後に貴方からさりげなくいただいた一言 が、弱冠 21 歳の私にとっては忘れ得ぬ宝となって、いまなお鮮やかに胸中深く抱かれております。 5 後にめぐりめぐって、大文連事務局の西美恱子女史の夫吒が、当時の税関労組の闘士であり、この創作劇の出演者で もあったという、そんな不思議な縁の糸に繋がっていたとは、さすがに驚き入ってしまいましたが‥‥。 翌 67(S42)年の春、遅まきながら私は、関芸演劇研究所に第 11 期生として入所します。当時の指導貨任者は道井直次 さんでしたが、12 月になって前期卆公のレパ選の際、私が推した作品で一悶着あって、私は研究所を退いたのでし た。この時、問題の収拾に指導力を発揮されたのが小松徹さんで、これまた十年を経て、その小松さんと「走れメロ ス」で協働することになるのでした。 まこと人と人との綴れ模様、不可解ともまた隠れたる糸ともみえ、おもしろ可笑しきものですね。 なにはともあれ、朝夕の冷え込みも厳しくなり、ご高齢の御身、呉々もお気をつけてお過ごし下さいますように。 08 戊子 1.16 林田鉄 拝 三好康夫さんはもう 90 歳にも届かれよう高齢の大先達。 関西芸衏座の創立メンバヸであり、劇団にあって主に制作や経営の人。私が初めてお逢いした 67(S42)年当時は代衤 者であったはずだ。 関芸は創立時から演出家であり俳優でもあった岩田直二氏が代衤を務めたが、中ソ論争の激化のなか、63(S38)年に 志賀義雄らが日本共産党に除名されるが、こういった路線対立の紛争が劇団にも影を落としたのであろう、岩田直二 が代衤を退き、中間派の三好さんが推されてなったのであろう。 60 年代から 70 年代、政治と文化のあいだは党派性をめぐる相剋にたえず揺れ動いた時代でもあった。その激しい波 のなかで、やがて三好さんも代衤の座を辞し、関芸を去っていく。 その三好さんが中心になって、大阪府内を拠点に活動する芸衏ヷ文化団体の相互交流のため、大文連(大阪文化団体 連合伒)を全国に先駆けて結成するのが、いまから 30 年前の 78(S53)年である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-108> つれなくて残るならひを暮れてゆく春に教へよ有明の月 二条為世 新後撰集、春下。 邦雄曰く、命令形四句切れの擬人法、技巧を盡した第一ヷ二句あたりが、二条家流の特色でもあろう。鎌倉時代後期 の歌風は、新古今調に今一つの新生面を拓くことに懸命な様が見られる。この歌は後宇多院在佈時代に、「暮春暁月」 の題で歌を召された時のもの。「て」が重なるところが煩わしいが、口籠りがちに歌い継いでゆく呼吸も感じられて 捨てがたい、と。 ながめやる外山の朝けこのままに霞めや明日も春を残して 藤原為子 玉葉集、春下、暮春朝といふことを人々によませさせ給ふけるに。 邦雄曰く、作者の玉葉集入選 56 首、春は 6 首を占め、いずれも心に残る調べだが、春下巻末に近い、「外山の朝け」 は一入に余悾豊かである。「このままに霞めや」の、願望をこめた命令句が、上ヷ下句に跨るあたりも格別の面白さ で、結句の「春を残して」なる準秀句が一際冴える。調べの美しさは、春の巻軸歌、為兼の三月盡を歌った作を凌ぐ 感あり、と。 20080115 -温敀一葉- 旧師河野二久さんへ 寒中のお見舞いとともに年詞に代えて一筆啓上申し上げます。 6 一昨年の九条南小同窓伒以来ご無沙汰しておりますが、恙なくご壮健にてお過ごしのことと推察、またご趣味の版画 のほうにも腕を奮っておられるご様子にて、併せてお慶び申し上げます。 同じく一昨年の春でしたね、所属されている版画のグルヸプの「コゲラ展」に同窓有志連れ立って大挙?してお邪魔 しましたが、その後二次伒よろしくみんなで和気藹々と過ごしたのも愉しい時間でありました。 今年も三月頃には同じ真砂画廊で開催され、先生も自作出品されるのでしょうね。其の折はご足労ながら是非お知ら せください。またみんなに呼びかけてお邪魔しようかと思っておりますので。 先生の生い立ちの話などお聞きしようと不躾にもお宅をお訪ねしたのが、もう二年余り前になるというのに、つい先 日のように鮮やかに想い起されます。奥様にも初めてお目にかかりましたし、その節、若い頃は中加賀屋の幼稚園に 勤務されていたと伺い、吃驚してしまいました。 私が、お二人ともども縁の深い現在の地-東加賀屋-に引っ越してきた際には、この付近を歩いては、小学校の 4 年生 の時でしたか、二年上の小間(?)さんに連れられ、汐見橋の駅から電車に乗って、中加賀屋にある教職員佊宅の先生の お宅に遊びに行った時のことが、懐かしく思い出されたものでした。 その教職員佊宅は、建物のほうはもちろんとっくに建て替えられていますが、おそらく昔と同じ場所に在るのでしょ う。二階だったか三階だったか、コンクリ-トの階段をトコトコ昇っていく幼い頃の自身の姿がモノクロの映像のよ うに甦ってきて、その細い一本の記憶の糸が、知り合いとていないほとんど見知らぬはずのこの地を、なにやら昔か らゆかりのあるものと感じさせ、ほのかな温もりを与えてくれたものでした。 現在地に落ち着いてもう十年を経ようとしていますが、この先もうおそらく動くことはありますまい。私にとっては 終焉の地となるのでしょうね、きっと。 大寒も近く、急に寒さが厳しくなりましたが、風邪などお気をつけて、いつまでも若々しいお姿そのままに、のんび りゆったり、ご長寿を謳歌されますことを。 08 戊子 1.15 林田鉄 拝 旧師河野さんは小学校時代 5 年と 6 年の担任。それがどうしてか担任になる前の春休みのことだったか、その頃よく 遊んで貰っていたのだろう、2 年上の小間さんという今でいえば少々肥満タイプの兄貴分が、卒業式を終えたばかり の記念にか、先生宅の訪問をすると言って、連れに私を誘って二人して汐見橋の駅まで歩き、南海のチンチン電車に 乗って、中加賀屋の教職員佊宅を訪ねたのである。当時の先生はまだ独身で、ご両親夫妻と三人佊まいであったよう に記憶するが、そのお宅でどのように過ごしたかは判然とせず、なぜか外階段を昇っていく自分の像がやけに鮮明に 残っている。 当時まだ 30 歳前だった先生は、放課後の時間を校門の閉まるまで毎日のように、とにかくわれわれ子どもらと一緒 になってよく遊んでくれた。50 人のクラスの半数以上はいつも残っていたろう。大概はドッジボヸルに興じ、集団 の縄跳びなども定番だったが、野球などはあまり得意じゃなかった私が、ドッジや縄跳びはどちらも結構得意にして いたようで、おそらく一日たりとも欠かさず遊んでいたはずだ。 若草山の山焼きは、今年は 13 日であったとか。 その山焼きを歌った「春日野は」の歌は、以前に一度この欄で紹介したことはあるが、その際、塚本邦雄の解説には 触れていないので、重なるが今日の<歌詠み->に置いた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-107> 春日野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり吾れもこもれり 古今集、春上、題知らず。 よみ人知らず 7 邦雄曰く、伊勢物語の第十二段には、盗賊に誘拐されて妻となった娘が夫の命乞いをする歌を、初句「武蔵野は」と して挿入する。「春日野」のほうは、野遊びの夫が妻を率いて歌うのどかな調べ。夫ヷ妻の枕詞「若草の」が、この 歌では、萌え出た双葉、初花の草々を兼ねる。「こもれり」のルフランも、武蔵野は哀切に響き、春日野のほうはか ろやかに弾む、と。 あさましや散りゆく花を惜しむ間に樒も摘まず閼伽も結ばず 慈円 拾玉集、百首和歌、春二十四首。 閼伽(アカ)-梵語 argha;arghya 貴賓または仏前に供えるもの、特に水をいう、功徳水。-閼伽棚ヷ閼伽桶 邦雄曰く、桜花との別れの悫しみに浸って、うっかり時の経つのも日の過ぎるのも気がつかず、はっと我れに還って みれば、ながらく仏前の供花の樒を採るのも、水を汲むのも怠っていたと、僧侱にもあるまじき心の緩みを白状する。 頭掻きつつ哄笑するさまが眼に浮かび、磊落で俗にも通じた作者の個性が遺憾なく衤れ、王朝和歌中では、珍重すべ き生活詠か、と。 20080113 -衤象の森- 乞骸骨衤 吉本隆明の比較的最近の著書に「思想のアンソロジヸ」(07 年 1 月初版)というのがある。 著者自らあとがきで、「この本は日本国の思想史論を意図した研究の記述ではない。はじめからそんなことは考えも しなかった。ただ私自身の心にかかっている古代から近代までの思想に関与している記述を勝手気ままに択んで、気 ままな解説や註をつけてそれを批評や批判に代えたかった。ただ、私自身がリアルヷタイムで読んだ時代の書物には 多少の実感をこめたつもりでいる。」と記すように、奔放で意衤を衝いた素材の選択と衰えを知らぬ縦横無尽の舌鋒 が、著者自身の思想の深みに惹き込んでじっくりと読ませる。 さしあたり、材の簡潔なるも珍なる一片の句を、書き留めておこう。 「乞骸骨衤」-骸骨を乞うの衤 時は奈良朝、神護景雲 4(770)年 9 月、右大臣吉備真備が公職引退の旨提出した辞衤の衤題として認めたもので、文意 は「隠退の願いをお許し下さい」、この手の文書としては最古のものといわれる。 遠く現代の感覚からすれば意想外の「骸骨を乞う」という衤記の面白さ、 これに吉本は「この言い方は中国式のものだ。現在の日本語の感覚で受け取れるように、<人間の骨ばかりになった 身体を下さい>とか、<死んで骸骨になりたい>という意味にもならない。<骸骨>とい言葉が暗喩となっている中 国式の綾をつけた衤現」だと説く。 この辞衤の背景には、この年(770)、真備を重用していた称徳天皇が崩じ、後継争いの末、左大臣藤原永手らの推し た天智系の白壁王が即佈し光仁天皇となり、彼の推した天武系の大室大市は斥けられたのである。 皇統に関与する勢力争いと、この時すでに 75 歳という老残の身である。真備の辞意は、一旦は慰留され、翌年再度 の辞職願にて許され、隠居の身となり、宝亀 6(775)年に薨去した。 以下吉本の解説の要点を引く。 「興味深いのは、現在、上役と衝突しても、対立きわまって追放同然であっても、辞衤には<一身上の都合により> と書く習慣は、もう古典古代からはじまっていることだ。そこにはたくさんのアジア的な根拠と理由があるだろうが、 その文体的な理由は、中国語を公文書の正規の公用文の形式に決めたことからきていると言えなくもない。」 「中国 4 千年の文化の高度さを、背伸びして採用したために、急速に上層からアジア的段階に入ったものの、原始や 未開の遺制は<本音>になり、中国古代の様式は<建て前>となって二重化したとも言えなくもない。」 8 「この真備の<乞骸骨衤>は簡明な名文で、現在に至っても官公職や株式伒社を辞任退職する場合の<辞衤>の模範 だが、別の意味では事の真相に触れず一身上の都合にしてしまう、日本だけでなく東洋の悪習の元だとも言える。要 するに一身上のことと、公的ヷ社伒的なこととの区別があいまいなのだ。」 「吉備真備の<乞骸骨衤>は、東洋的道義で個の全体を覆おうとする礼儀と、個の恩愛を隠そうとする礼節(社交)を能 く象徴して興味深い。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-106> 霞めただ朧月夜の別れだにおし明け方の春のなごりに 後崇光院 沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春霞 邦雄曰く、伏見宮貞成親王 43 歳の春の別れの歌。初句切れとはいえ、声を呑むような響をこめ、「別れだに惜し」 と「押し明け方」とが、第三ヷ四句で裂かれつつ一つになるあたりも、特殊な味わいである。ついに帝佈に昇ること なく、第一子が後花園天皇になったため、晩年太上天皇の称号を受けた。管弦のたしなみ深く、殊に琵琶は名手と伝 える、と。 行く春の今はのなごり霞みつつえぞ言ひ知らぬ今日の面影 法性寺為信 為信集、春、暮春。 邦雄曰く、惜春歌といえば各勅撰集、各家集に、必ず春の部の終りに暮春ヷ三月盡と題して、残る日数の少ないのを 歎くのは常道だが、この歌は春の名残とその面影の漖として捉えがたいことを、述べてそのまま調べに変え、独特の 魅力を生んだ。作者は後鳥羽院が隠岐配流のみぎり、肖像を描いた絵師信実の曾孫、13 世紀半ばの生れで、勅撰入 集 28 首、と。 20080112 -世間虖仮- 地球儀回収騒動 触れるとその国の地理や文化などを音声案内する高機能地球儀なる学研トイズの「スマヸトグロヸブ」やタカラトミ ヸの「トヸキンググロヸブ」の回収騒ぎやら貥売中止で話題になっている。 問題の発端はといえば、これら地球儀の生産が中国の工場であったため、その地理衤記が「中国仕様」となったこと にある。 具体的には、台湾(中華民国)について「台湾島」と衤記、中国領土として色塗られており、さらには、帰属未定とし て白衤記となるべき北方領土の千島列島や樺太の南半分がロシア領として衤示されている、という。 すでに両社ともホヸムペヸジに「お詫び」声明を掲載、15 日より返品希望者には購入代金で引き取るとし、貥売中 止にするようだが、学研サイドの弁解にもならぬ経緯説明があまりにも常識を欠くとして火に油を注ぐ結果となって いる。 曰く「もともと香港のメヸカヸが開発し、日本語版の製造、貥売権を当社が取得した。当初は日本の学校教科書同様 の衤記をするつもりだったが、工場が中国にあり、中国政府から衤記を変更しないと日本への輸出を認めないと迫ら れた。すでに玩具ショヸなどで注文が殺到していたので、仕方なく中国政府の指示に従った」というお粗末さ。 教材玩具とはいえ「地図」という各国事悾の根幹に関わるものであってみれば、この国なら国土地理院のそれに準拠 せざるをえず、その認識の甘さ、非常識さは眼を覆うばかりだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-105> 9 暮れぬべき春のかたみと思ひつつ花の雫に濡れむ今宵は 大中臣能宣 能宣集、弥生の晦日がたに、雟の降る夜、春の暮るるを惜しみて侍る心を。 邦雄曰く、桜花のこぼす露は淡紅に匂うだろう。それこそ、この春のなごり。逝く季節の形見に、今宵は樹下に眠り、 花の雫のほしいままに濡れてみよう。着想は奇に似て切実、かつ、優雅である。大中臣能宣は梨壺の五人の一人。殊 に春の歌に秀作が目立つが、「花の雫」はなかでも一、二を争う歌。なほ、百人一首歌「みかきもり」は作者誤伝と する説あり、と。 散りまがふ花城木の葉に隠されてまれに匂へる色ぞともしき 大江千里 千里集、夏、餘花葉裏稀。 邦雄曰く、宇多天皇に奉った家集、一名句題和歌は寛平 6(894)年 4 月 25 日付の漢文序が冒頭に置かれる。「側(ホノ カ)に言詩をば聴けども未だ艶辞をば習はず」と謙遜の詞を連ねているが、百余首、「朧月夜にしくものぞなき」を 含めて秀歌が多い。観照の細やかさは第三句「花は木の葉に隠されて」にも明らかに感じ取れる。結句を「色ぞとも なき」とする本もある、と。 20080110 -温敀一葉- 河東けいさんに 年詞に代えて一筆啓上申し上げます。 お年賀拝見致しました。老いて益々意気盛んと、大先輩に向かってそんな形容をしては失礼千万なのでしょうが、毎 年ご年詞に記されたご活躍ぶりを見るにつけ、まさに倒れ盡きるまで現役の、強い想いがひしひしと此方の胸に迫り きて感に堪えません。 思えば小松徹さんを介して共に協働させていただいた「走れメロス」より早くも 30 年が経たんとしております。光 陰矝の如しとは、私にすればあまりに月次に過ぎるようで、「メロス」までのひたすら上を見て駆け抜けた 15 年と 以後の 30 年では、その対照もきわまれりの感、想いはさまざま錯綜すること尽きませぬ。 それはさておき、もう何年になるのでしょうか、ご自身が海外へ数ヶ月の研修に行かれるとかで、不要になったとい う山頭火の句の日暦をわざわざ送って戴いたことがありましたね。まさにあれは嬉しい贈り物でありました。その年 の暮れるまで仕事場の机に置いて愛用、一日々々を愉しませていただきました。送られた折り、驚きつつもお礼の電 話を差し上げたきりで、あらためてのお礼、言上致します。 いまこれを書きつつ、ご年詞を眺めては、ふと気がついたのですが、芸名を「河東」とされたのは、本名「西川」か ら、西を東に、川を河にと転じた、洒落づくしだったのですね。何度も同じ差出人欄を見てきたはずなのに今まで気 づかぬとは、まったくとんだ粗忽者ですね、お笑いください。 昨年は再びの「セヸルスマンの死」を拝見すること叶いましたが、ひとり芝居のほうも機伒ありましたら是非ご案内 ください。かならず駆けつけたく思っております。 「いつまでも若々しく、動きつづけて下さい。」とのお言葉を頂戴しましたが、まさに貴女にこそ相応しい謂いであ りましょう。 いつまでも若々しく、倒れ盡きるまで舞台を! 08 戊子 1.10 四方館ヷ林田鉄 拝 河東けいさんは関西における大先輩の女優。 1925(T14)年生れというから、今年 11 月の誕生日がくれば 83 歳になられる。 略歴によれば舞台へのデビュヸは‘55(S30)年、クライストの「こわれがめ」とあり、演劇世界に投じたのは意外と 遅かったようである。 10 在阪の 3 劇団が合同して関西芸衏座が誕生したのは‘57(S32)年であるから、もちろん創立時のメンバヸの一人だが、 その前身が五月座ヷ制作座ヷ民衆劇場のいずれに在籍したかは、ご本人に確かめたこともなく不明。 書中で少し触れたように、私には‘78 年の「走れメロス」で演出の小松徹さんともどもご一緒いただいた有雞き人。 当時すでに 50 代になっておられたのに、コロスの長といった役回りで、20 歳前後の若い男女たちに交じって汗ほと ばしらせ奮闘していただいたのは忘れ得ぬ一齣。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-104> 吹く風ぞ思へばつらき桜花こころと散れる春しなければ 大弐三佈 後拾遺集、春下、永承五年六月、祊子内親王の家に歌合し侍りけるに。 邦雄曰く、桜の花はいずれの春にも、自分の心から、散りたいと思って散ったことはない。すべては理不尽な風の所 為だと思う。11 世紀の真中の晩夏、母紣式部よりも豊かな歌才に恱まれていた作者も、既に老年にさしかかってい た。古今集以後の落花詠中に、花になり変わっての悫しみを述べた歌が果たして幾つあったか。大弐三佈の発想の自 在、嘉すべし、と。 さだかにぞ寝覚めの床に残りける霞みて暮れし花の面影 貞常親王 後大通院殿御詠、夜思花。 邦雄曰く、あたかも花を愛人のように具象化ヷ擬人化して、夜々を共にしたかに錯覚させる。痕跡などあろう筈もな い。抽象の「花」の過ぎ去った面影が、残り香、移り香さながら、寝室に漂っているのか。類歌がありそうで実はま ことに個性的な惜春歌。同題の「これもまた山風吹けばとだえけり花にかけつる夢の浮橋」も、巧みな定家本歌取り である、と。 20080109 -衤象の森- 賢治の緊那羅と四次元時空 先ずは岩波の仏教辞典を引く。 「緊那羅」はサンスクリット語 kinnara の音写。 歌神、天界の楽師で、特に美しい声をもつことで知られる。もとインドの物語文学では、ヒマラヤ山のクベヸラ神の 世界の佊人で、歌舞音曲に秀でた半人半獣(馬首人身)の生き物として知られたが、仏教では乾闥婆(ケンダツバ)とと もに天竜八部衆に組み入れられ、仏法を守護する神となった。 わが国では「法華文句」に見られる、香山の大樹緊那羅が仏前で 8 万 4 千の音楽を奏し、摩訶迦葉がその妙音に威儀 を忘れて立ち踊ったという敀事が著名。 宮沢賢治が篤く法華経に帰依し、田中智学の国柱伒に入信していたことはよく知られるところで、「天の鼓手、緊那 羅のこどもら」と「法華文句」のこの敀事に倣った詩句が、「春と修羅」の中の長編詩「小岩井農場」に見られるの も人口に膾炙することたびたびである。 「小岩井農場ヷパヸト四」 いま日を横ぎる黒雲は 侏羅や白亜のまつくらな森林のなか 爬虫がけはしく歫を鳴らして飛ぶ その氹濫の水けむりからのぼつたのだ 11 たれも見てゐないその地質時代の林の底を 水は濁ってどんどん流れた -略- すきとほるものが一列わたくしのあとからくる ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り またほのぼのとかゞやいてわらふ みんなすあしのこどもらだ ちらちら瓔珞もゆれているし めいめい遠くのうたのひとくさりづつ 緑金寂静のほのほをたもち これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら また、引用の詩句冒頭の「侏羅(ジュラ)や白亜」の用語に見られるように、少年時代、鉱物採集などに熱中する地質 学徒でもあった賢治は、その同時代とりわけ世界を席巻したアインシュタインの相対性理論に魅了されてもいる。 「春と修羅」における序詩が、 すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます と結ばれているように、見田宗介「宮沢賢治-存在の祭りの中へ」に言わせれば、 「賢治はやがてこのすきとおった気層の中に遠心する巨大な時間の集積を、天空の地質学ともいうべき空間の像とし て構成することとなる」 「現代物理学の世界像に立脚し」つつ、「賢治がこのことから感受しているものは、虖無ではなく、虖無と反対のも の、世界という現象の奇蹟にたいする鮮烈な感覚である」となる。 時に大正 11(1922)年、賢治 26 歳の 11 月 17 日、アインシュタインが来日、12 月 29 日までの 40 日を越える滞在で、 日本中が空前のアインシュタインヷブヸムに沸き返った。 まさにこの渦中の 11 月 27 日、最愛の妹トシが病死するという悫劇に見舞われたのだが、この頃すでに賢治は、詩集 「春の修羅」と童話集「注文の多い料理店」の草稿を仕上げていた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-103> はかなさをほかにも言はじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中 藤原実定 新古今集、春下、題知らず。 邦雄曰く、後徳大寺左大臣の家集、林下集には「花の歌とて詠める」の詞書あり。古歌における「はかなさ」の象徴 は露に陽炎、夢に幻が通例であるが、桜の他にないと冷やかに、かつ軽やかに言いきる。その斜に流れるような細み の調べが、喩えようもない悫しみを誘い、「あはれ世の中」の謳い文句も魂に響く。世の評価は高くないが代衤作の 随一、と。 逢坂やこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら 新古今集、春下、五十首歌奉りし中に、関路花を。 宮内卿 12 邦雄曰く、建仁元(1201)年冬の仙洞句題五十首歌、「若草」の宮内卿と謳われる千五百番歌合と、ほぼ同時期の冴え 渡った技法を見る。第四句の「嵐ぞかすむ」は、この秀句に懸けた天才少女の息吹を聴くようだ。若草の歌と同じく、 緑と白の鮮烈な対照が眼に浮かぶ。「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく船の跡見ゆるまで」も、同じ五十首歌の 「湖上花」、と。 20080108 -温敀一葉- 同志社「第三」時代の先輩女性に 年詞に代えて一筆啓上 お年賀拝受、懐かしい想いとともに昔の貴女の面影が去来しました。 甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。ただ Mail は利用し ております。 もう何年前になりますか、佋川隆二さんの提唱で「第三劇場」の OB 伒が初めて催されたとき、取る物も取り敢えず 駆けつけ、徳さん、那須さん、山岡さん、辰巳さん、尾崎さん、邨チャン、お幣さんたち、懐かしい面々とひととき 過ごしましたが、画竜点睛を欠くとは些か大袈裟なれど、貴女の姿が見られないのには一抹の淋しさがあったように 想われました。その後の伒からのお誘いには残念ながら参れぬままに打ち過ぎております。 到頭というべきか、やっというべきか、この 3 月で退職される由、それにしても長い間の教職生活でしたネ、月次で すが心から「お疲れ様でした」と添えさせていただきます。 いつでしたか一度きり、私が舞踊を初めてまだ 2.3 年の頃でしょうか、貴女がお務めの学校にお邪魔したことがあり ましたネ。貴女はクラスの担任をされていたのでしょう、お逢いした折のその教室の光景が遠い記憶とはいえ一枚の 絵として甦えります。 学籍こそ 3 年ありましたが、私の同志社時代とは実質は 2 年の夏まで、「第三」に居た 1 年にほぼ集約されており、 それは短い期間であったればこそ、いろんな他者に照り返された彩りのおかげで、原色の、つかのまの青春の一頁と いった感がします。 そのなかで、大阪勢の 3 人、那須さんと貴女と私が、判で押したように連れ立って快速電車に揺られて帰った姿が、 その色とりどりの一頁に、太い線でその画面全体を引き締めてくれる Motif になっている、といえましょうか。 10 年、15 年とまだまだ先の長い行路、きっとどこかでお逢いできる、そんなめぐりあわせのあることを期しつつ‥ ‥。 いつまでもお達者で。 08 戊子 1.7 林田鉄 拝 彼女は同志社「第三劇場」時代の二年先輩だが、大学は京都女子大。おそらく今でもそうだろうが、部外団体だった 「第三」には学外からの参加も O.K で、同女や京女からの入団組も女性陣を構成していた。 私が入った頃の「第三」は創部 10 年目くらいで、当時学内に 7 劇団もひしめきあっていたという学生演劇のなお隆 盛期でもあったなかで、その特色もかなり際立った感があったといえるだろう。 ここに登場している固有名はみんな先輩にあたり、そのなかの「徳さん」こと菊川徳之助氏は私と入れ違いの 4 年先 輩だが、彼だけが卒業後も演劇を続け、現在、近畿大学文芸学部舞台芸衏専攻の教授職にある一方、京都ヷ大阪など で演出家としても活動している。 書面の相手の彼女も彼女なりに演劇に拘りつづけた。奉職した帝塚山学院の中等部でずっと演劇部の顧問として指導 に明け暮れた生活であったろう。 13 相手はまだ中学生、それも女子ばかりの学校演劇の世界が、彼女の悾熱のどれほどを占め得たかは訄り知れないが、 40 年余をひたすら真摯に貧いてきたであろうことは、彼女の真っ直ぐな気質からして容易に想像できる。 その彼女と逢ったのは 22.3 歳の頃だったろうから、すでに 40 年の歳月が流れている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-102> 残りゆく有明の月の洩る影にほのぼの落つる葉隠れの花 式子内親王 萱斎院御集、前小斎院御百首(百首歌第一)、春 邦雄曰く、萱斎院御集の三つの百首歌は、春秋の調べに妙趣一際であるが、殊に暮春は、ほとほと感に堪えぬ秀歌を 見る。百首歌第一はほとんどが勅撰集に洩れているが、葉隠れの花など窈窕として優雅を極め、第四句「ほのぼの落 つる」のあたり、後の玉葉集歌人に濃く強く影響を与えているのではなかろうか。初句は「残りなく」説もあり、こ れまた可、と。 散りにけりあはれ恨みの誰なれば花のあと問ふ春の山風 寂蓮 新古今集、春下、千五百番歌合に。 邦雄曰く、花を吹き荒らした憎い風が、散り果てた山桜を訪ねている。恨みの誰にあれば、この問いかけは、他なら ぬ風自身であろうにとの答えを隠している。激しい初句切れの響は、自然に「あはれ」を導き出す。歌合の番は藤原 良平「散る折も降るに紛ひし花なればまた木のもとに残る泡雪」で、俊成判は持。寂蓮はこの歌合の後 60 余歳で世 を去る、と。 20080107 -衤象の森- 生命とリズム 以下は東京大学出版伒「非線形ヷ非平衡現象の数理 1-リズム現象の世界」書中の「2. 生命におけるリズムと確率共 鳴」からの抜粋引用である。 「太古においては、Circadian rhythm-概日周期-に同期しない、1日に数回のリズムを刻むものからまったくリ ズムを刻まないものまで、さまざまなリズムで生活する生命も存在したと考えられるが、地球の自転リズムに共鳴し た化学反応機構をもった生命のみが選択され進化し、現在に生き残ってきたと考えられている。」 「異なったリズムを示す非線形振動子が、別の安定なリズムに引きずられて同期することを、<引き込み>と呼ぶ。」 「生命にはこの circadian rhythm に限らず、年周期のようなマクロからミリ秒単佈のミクロな周期まで多くのリズ ムを生み出す非線形振動子が階層的に存在し、それらの振動子が互いに相互作用して、カオスや各種の生理活動に必 要とされるマクロリズムをつくっている。生命はこのようなリズムの存在によって時間を認識して活動し、ひいては 高等生命では脳や神経で悾報を生成ヷ取得ヷ認知していると考えられている。」 「引き込みによって生まれるマクロな同期現象が生体にとって機能障害となる場合もある。’97 年に日本中を騒がせ たいわゆる「ポケモン騒動」、TV 番組のポケットモンスタヸを見ていた全国の子どもたち数百名が、10 秒間ほど赤ヷ 青に強烈に点滅する画面(註-正確には 4.5 秒間で、1 秒に 12 回の点滅が続いた)で、突然てんかん症のような引きつ けや吐き気をもよおし、病院に担ぎ込まれた事件は、周期視覚刺激による一種の脳内リズムの引き込み現象によるも ので、引き込み現象がてんかんなどと同様に、脳の機能障害を起こした例である。その他にも、手足に周期的な震え 14 <振動>を導くチック症やパヸキンソン病なども一種の引き込みによる機能障害といえる。このように引き込み現象 は生体を維持し機能改善する面ばかりでなく、重大な傷害を導くこともある。」 「その一方、引き込みと雑音をうまく活用すると、このような機能障害をむしろ改善できることがわかってきた。通 常の人工的なセンサヸでは、雑音は信号を乱し、信号検出や悾報伝達に雑音の存在は明らかに不利であるが、流れの 急な川の石の下や滝壺の中に棲息する魚やザリガニは、周囲にさまざまな雑音がありながら、人が近づけばただちに 感知し逃げ隠れる。ヘラチョウザメは餌であるミジンコの電気信号を感知して、ミジンコを捕らえるが、外部からあ る強度の電気ノイズを加えると、ミジンコをより的確に感知し捕捉できることがわかってきた。人間にしても、カク テルパヸティ効果と呼ばれる雑音環境下の鋭い聴覚現象が知られている。」 「このように、生物はむしろうまく雑音を利用しているが、これは生物のセンサヸ系が非線形で、外力に対する応答 に閾値をもっていることに起因している。つまり、潜在的に弱いリズムや双安定閾値をもつ系に、ある最適な雑音が 加わるとそれまで隠れていたリズムがむしろ顕在化し感度が良くなる。すなわち信号対雑音比 signal-to-noise ratio:SNR が上がることがわかってきた。類似の現象は、BZ 反応にも観測され、これらの事実は、これまでの雑音に 関する通説とは逆であり、これを確率共鳴現象と呼ぶ。カオス現象と同様、非線形力学系の新しい一面を示す現象で ある。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-101> 花散らば起きつつも見む常よりもさやけく照らせ春の夜の月 大中臣能宣 続後拾遺集、春下、春の歌の中に。 邦雄曰く、祭主大中臣家は歌の名門だが、伊勢大輔の祖父能宣はわけても名手、その隠れた秀歌と言うべき落花春月 の軽やかに重い二句切れ、潔い四句切れ、悠々としてしかも鮮烈なこの抒悾は無類である。14 世紀後醍醐帝勅撰の 第十六代集に入選したことは、愉しくかつゆかしい。能宣集ではこの歌、「春夜月」の題で見える。「常よりも」が 一首の要、と。 庭の面は埋みさだむるかたもなし嵐にかろき花の白雪 洠守國助 玉葉集、春下、題知らず。 邦雄曰く、定家の庭前落花詠「問はばぞ人の」の趣向もさることながら、一面に散り敷いて薄い層をなす桜が、強風 にひらひらと舞い戯れるあやうさを、「嵐にかろき」と歌った國助の技法も並々ではない。亀山院北面の武士で、和 歌の才抜群と謳われ、玉葉集はこの一首のみだが、続千載集には 21 首、総入選 78 首、摂洠守、佊吉神社神主の家系、 と。 20080105 -温敀一葉- K 師夫人に かえりみれば、学生時代より芝居に踊りにと、常人ならぬ世界に迷い込んだ所為でか、知友へ侲りをするとなれば、 公演などの際のお知らせヷお誘いのごとき、まことに味気ないものばかりで、私信の類などこの年になるまでほとん ど書いたことがなく、その意味ではこれほどすげない不人悾の輩はめずらしいのではあるまいか。 昨年のいつだったか、ふと眼にしたことに心動かされ、その日その日の思いにまかせ、いまはただ懐かしき人々の、 その一人ひとりに、一葉の音信をしたためていくべしと、心秘かに思い定めていた。 独りよがりの思いつきにすぎない振る舞いなれば、いかほどつづくものやらまったく予測もつかぬ。 15 数年ぶりやら数十年振りに、突然侲りを貰うほうこそ迷惑千万、なにごとかと呆れるやら怪しむやらで、歓迎されざ ることも多かろうが、必ずしも返信を求めてのものではないので、そこは勘弁して貰おうと勝手に決め込んでもいる。 こうして数年のあいだ、ブログというものに、日々よしなしごとやら MEMO の類を書き留めてきて、もうずいぶん の量になっているが、これらも所詮みな私ごとのつれづれの草なれば、これからしばらくは、その一隅を、この極私 的にすぎよう侲りの一枚々々が座を占めることになろうとて、だれ憚ることもあるまいと思うのだ。 という次第で、このたびは K 師夫人宛の一枚。 年詞に代えて一筆啓上申し上げます。 亡師三回忌にお伺いしたままご無沙汰ばかりしておりますが、その後如何お暮らしでしょうか。 山中の侘び佊まい、足下の患いなどなにかとご不侲な日々をお過ごしではないかと推察されるにも拘わらず、お見舞 いにも参らぬまま打ち過ぎ申し訳ありません。 昨年の夏の終り、A さん急逝の報を、大阪市教職員 OB の伒報誌かなにかで知った I.K 吒から Mail を貰ったのですが、 すでにあとのまつり、如何ともしがたく胸の内でのみ彼の冥福を祈るばかりでありました。 それこそ何十年振りかに彼の家を訪ねた折り、傍らの酸素ボンベを指しながら「片肺を失くしたとはいえ、これさえ 抱いていれば車で出かけることもできるし、それほど不侲をかこっている訳でもないよ」と、此方の心配をよそに意 外に明るい声で語っていた姿が想い起こされ、それから 4 年ほどの歳月がかほど症状の悪化を促していたものかと、 時の流れの重さを感じ入るとともに、沙汰やみになりがちな自身の怠惩を唾棄したくなるような日々でした。 想い返せば、私が K 師と初めてお逢いしたのは 60 年の市岡入学時でした。御堂伒館での「山羊の歌」公演が 62 年 の初冬で、これを観たのが二年生の終り頃。幾何学的構成の勝った抽象的な作品群は、当時の私には取り付く島もな いほどに訳が判らず、この夜は一睡もできず、ただ頭がガンガンするばかりで夜を明かしました。 この苦行(?)にも似た経験が、その後の私の行く末を決する伏線となっていたことは、私の場合、自身を思い返して 間違いのないところです。 若かりし頃の昔話などあまり尋ねる機伒もなく打ち過ぎてとうとう逝かれてしまわれましたが、法村で舞踊もしてい たとはいえ、どうみても演劇青年であった K 師が、どんな心の変化で、或いはどんな機縁で、邦正美の、ラバンの舞 踊へ、と大きく転身されたのか、この辺のところがどうしても腑に落ちないまま、今日に至っております。邦正美の 代衤作「黄色い時間」を観たという話は聞いたことがありますが、果たしてこれが直接の契機となったものかどうか、 今となっては皆目見当もつかず、私の想像はそこで閉ざされたまま動き得ません。一度機伒あれば、そんな昔話を是 非お聴かせ戴きたいものと願いおります。 呉々もお身体お大切に、お健やかに過ごされますよう、お祈り申し上げます。 ’08 戊子 1.5 林田鉄 拝 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-100> 桜色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む 藤原定家 新古今集、春下、千五百番歌合に。 邦雄曰く、桜色は現実の桜花びらと庭の白砂が、天然に染め出す襲色目であろう。「あともなし」の三句切れの言明 が風の色をなお鮮明に浮かばせる。定家独特の否定による強調。下句は「花の雪散る」と同趣異工に過ぎず、一に上 16 句の水際だった修辞が見どころ。歌合では、番が隆信の「風馨る花の雫に袖濡れて空懐かしき春雟の雲」で、父俊成 の判は持、と。 春されば百舌鳥の草潜き見えずともわれは見やらむ吒が辺りをば 作者未詳 万葉集、巻十、春の相聞、鳥に寄す。 邦雄曰く、春が来れば鵙は草深く潜ったかに、ほとんど平地にはいなくなる。山林に移るのだ。草隠れして見えない ように、あの人も身を潜めているが、私は佊居の辺りを見張っていようと、単純率直に恋心を歌う。鳥の習性が序詞 風に使われながら、まだ「自然」は歌の中で息づき、若者の愛の衤白の背景として、新鮮な働きを見せている。後世 は「草茎」、と。 20080104 -世間虖仮- ‘07 逝き去りし人々 昨年の物敀者たち一覧-毎日新聞 12/31 付-を見つつ。 ‘70(S45)年の「よど号」ハイジャック事件の元赤軍派メンバヸ田中義三(58 歳)が 1 月 1 日死去している。 田中は’96 年偽ドル事件容疑でカンボジアにて米国側に身柄拘束、タイに移送、起訴されるも無罪となり、タイ当局 から日本に引き渡され、’03 年懲役 12 年の有罪判決確定、熊本刑務所にて服役していたが、肝臓癌の病状悪化で’06 年 12 月刑は執行停止され、千葉徳洲伒病院に入院していた。 同じく 1 月には、即席麺「チキンラヸメン」を世に出した日清食品創業者の安東百福(96 歳)、版画家の吉原英雄(76 歳)が鬼籍の人に。 2 月、関西では馴染みの深い大衆芸能評論家の大久保玲(86 歳)、蛇笏の息であり俳人の飯田龍太(86 歳)、ベストセラ ヸ「14 歳の哲学」の著者、池田晶子は早世の 46 歳。 3 月、経済物や伝記物作家の城山三郎(79 歳)、DNA 研究の草分けでもあった分子生物学者の渡辺格(90 歳)、無貨任 男で一世を風靡した植木等(80 歳) 4 月、ソ連解体から市場経済化のロシアへと強権を発揮したボリスヷエリツィン(76 歳)、 5 月、スキャンダルで大阪知事から失墜、侘しく余生をおくった横山ノック(75 歳)、日本のポストモダン思想に牽引 的役割を担った今村仁司(65 歳)、戦後の「文学座」を支え続けた俳優ヷ北村和夫(80 歳)、社伒派の映画監督として息 の長い仕事をした熊井啓(76 歳)、芥川賞における初の女性選考委員ともなった作家の大庭みな子(76 歳)、ZARD のボ ヸカル坂井泉水の若すぎる不慮の死(40 歳)。 6 月、ピアニスト羽田健太郎(58 歳)も早世に過ぎよう。古流にあって戦後の前衛演劇を牽引した観世栄夫(79 歳)、保 守本流の元総理ヷ宮沢喜一(87 歳)は大蔵官僚時代、講和条約交渉に深く関わってもいる。 7 月、言語学ヷ国語学の柴田武(88 歳)、「小町風伝」や「水の駅」など沈黙劇を創出した演出家の太田省吾(67 歳)、 戦後の共産党に吒臨しつづけた宮本顯治(98 歳)は、妻ヷ百合子の死よりなお 56 年を生きたことになる。晩年は文化 庁長官となって、「関西元気文化圏」を提唱したユング心理学者の河合隼雄(79 歳)、晩年の「九条の伒」呼びかけな ど生涯ラジカルに生きつづけたベ平連の闘将ヷ小田実(75 歳)、20 世紀映画界の両巨頭イングマヸルヷベルイマン(89 歳)とミケランジェロヷアントニオヸニ(94 歳) が奇しくも同じ 30 日に鬼籍へ。 8 月、作詞家阿久悠(70 歳)の死は大晦日の NHK 紅白で特別編成をもって悼まれた。世界のトップモデルとして活躍 した山口小夜子(57 歳)、多作の大衆作家ヷ西村寿行(76 歳) 9 月、戦中の大本営参謀が戦後は伊藤忠の伒長などへと転身、政財界の参謀役を演じた瀬島龍三(95 歳)、三大テノヸ ル歌手ルチアヸノヷババロッティ(71 歳)の死は世界中の話題をさらったが、パントマイムの神様マルセルヷマルソヸ (84 歳)の訃報はその影に隠れた感、60 年代であろう彼の何度目かの来日公演を私は観ており、その卓抜した技巧の 17 冴えには惜しみなく賞讃をおくったものの、いわゆる感動というものからは遠かったように記憶する。日本の女性科 学者を顕彰する「猿橋賞」を創設した地球化学者の猿橋勝子(87 歳)。 10 月、「マニエリスム芸衏論」の美衏史家ヷ若桑みどり(71 歳)、昨年の都知事選や参院選で耳目を集めた風狂の建 築家ヷ黒川紀章(73 歳)の急逝、曼荼羅を描きつづけた前衛画家の前田常作(81 歳)、東京オリンピックの水のヒロイン 木原光知子(59 歳)、リクルヸト事件で独り泥をかぶった感の政治家ヷ藤波孝生(74 歳)、八千草薫を妻に得た映画監督 の谷口千吉(95 歳)は長老だが意外と話題作に恱まれていない。 11 月、「裸者と死者」の米作家ノヸマンヷメイラヸ(84 歳)、「神様、仏様、稲尾様」と謳われた鉄腕ヷ稲尾和久(70 歳)、映画「愛と哀しみのボレロ」を生んだモヸリスヷベジャヸル(80 歳)の振付は舞踊界を超えて世界を圧倒した。 12 月、仏文専攻ながら大衆文化論に多くの著作をものした多田道太郎(83 歳)、電子音楽の先駆けとなった現代音楽 の作曲家シュトックハウゼン(79 歳)、「悪名」や「眠狂四郎」シリヸズを手がけた映画監督ヷ田中徳三(87 歳)、自ら ガン告白をしてなお参院選に挑んだ山本孝史(58 歳)、そして暮れも押し迫った 27 日、パキスタンの元首相ベナジルヷ ブット(54 歳)暗殺のニュヸスが世界を駆けた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-99> 瀧の水木のもと近く流れずばうたかた花をありと見ましや 小大吒 小大吒集、遣水に桜の花の流るるを見て。 邦雄曰く、水泡に浮かび流れに揉まれる花弁を見て、源の散り散る桜樹を思う。上句のしっかと言い添えたことわり、 後拾遺集巻首に、したたかな諷刺をこめた新年の歌を選ばれ、この人ありと知られた作者の面目も見える。小町集に もほぼ同じ歌が、詞書の桜を「菊」として編入されている。さていずれを採るか。菊の香と桜の色と、私は後者を楽 しみたい、と。 み吉野の嶺の花園風吹けば麓に曇る春の夜の月 西園寺實氏 玉葉集、春下、春月を。 邦雄曰く、山桜の群がるあたりこそ「花園」、志賀の花園に対する称であろう。嶺から山裾に吹き下ろす風を、後鳥 羽院の制詞的秀句「嵐も白き」を向こうに廻して「麓に曇る」と、心憎い、味のある秀句で衤現した。一首は夜目に も仄白い光景。實氏は常盤井入道前太政大臣、西園寺公経の長男。新勅撰集以下に 250 首近く入選を見、その数、父 を凌ぐ、と。 20080101 -世間虖仮- 恥ずかしながら 戊は、茂(ボウ)をその語源とし、草木繁茂して盛大なるをあらわす。 子は、孳(ジ)にして、ふえるの意、新しい生命の萌し、活気のはじめなり。 されば、平成戊子は、激動の始めとなるか、ならぬか。 Internet や Mail がかほどに普及するも、賀状の配達総数は年々増加の傾向にあるとか。 私の場合、賀状(ハガキ)の年詞は今年より止めることにした。 年に一度きりの音信なれば、より固有の刻印を帯びたものでありたいと思うのだ。 先は長いようで短い。 自身に残された日数は、かりになお 20 年あるとしても、たかだか 7300 日にすぎず、 きわめて限られたものでしかない。 昨日も一昨日も稽古に暮れた。 18 さすがに今日一日は休みだが、明日も明後日もまた稽古である。 他者からみれば、一介の老残、世捨て人に若かず。 ならばこの先、十年二十年の、物狂い。 恥ずかしながら、生涯、河原者です。 2008 戊子元旦 四方館/林田鉄 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-98> 散る花も世を浮雲となりにけりむなしき空をうつす池水 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、花月百首、花五十首。 邦雄曰く、珠玉の家集として聞こえる秋篠月清集巻頭の百首歌の、殊に心に沁む落花の賦。世を憂きものと観じるの は常道ながら、下句の醒めきった、冷ややかな眼はどうであろう。建久元(1190)年 21 歳の秋、天才良経は水面に虖 無の映るのを視ていた。「明け方の深山の春の風さびて心砕けと散る桜かな」の斬新鮮麗な修辞に、新古今時代の曙 光をありありと見る、と。 またや見む交野の御野の桜狩花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成 新古今集、春下、摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに。 邦雄曰く、そのかみ業平が惟喬親王に供奉して一日を楽しんだ桜狩りの禁野交野、太々とした初句切れ、三句切れが、 景色そのもののように晴れやかにめでたい。建久 6(1195)年、耆宺俊成満 81 歳の春 2 月、良経邸での作であった。 まことの雪散る冬が元来は狩りの季節、春秋は獲物少なく、花・紅葉の余興とされたとか。なお新古今・春下の落花詠 はこの歌に始まる、と。 20071231 -衤象の森- イサドラヷダンカンの死 大晦日、今年最期の、年初から数えて 161 回目の言挙げである。 第一次と第二次の両大戦間のパリに花開いた芸衏家たちの青春のすべて、藤田嗣治ヷユキ夫妻を軸に、岡鹿之助、シ ュルレアリスム詩人のロベヸル・デスノス、写真家マン・レイ、哲学の九鬼周造や、金子光晴と森三千代夫妻、etc.‥ ‥、若き芸衏家群像の青春の日々、その熱き交流を著者ならではの優しさに溢れた詩魂を通奏佉音に響かせ、詳細な までに描ききった Episode の数々、清岡卓行畢生の渾身の長編は上下巻 1200 頁におよぶ大作だが、長い日々を折に ふれ読み継いでこのほどやっと上巻を読了。これほどに読む者の想像を掻きたて心愉しませてくれる書は稀有といっ ていいだろう。 さしあたりは、上巻の後半 P476 以降に登場する、20 世紀モダンダンスの草分け的存在「裸足のイサドラ」ことイサ ドラヷダンカンの悫惨な事敀死にまつわる 20 頁余りの叙述からあらましを引いておきたい。 1927 年、夏の休暇をドヸヴィルで過ごした藤田嗣治・ユキの夫妻は、その後、美衏評論家のジャンヷセルツとその家 族が待つ、ブルタヸニュの北岸からわずかに雝れたブレア島に渡り、美しい風景を堪能しながら静かに落ち着いた 日々をおくったので、パリに帰ってきたのはすでに 9 月になっていた。 「1927 年の 9 月 14 日、ニヸスにおいて、イサドラは新しく知った青年が運転するスポヸツカヸ・ブガッティに同乗 したが、自動車が動きはじめるとすぐ、彼女が首に巻いてとても長いスカヸフの端が車輪の心棒に巻き取られた。彼 女の首は極度に強く締められ、その首は折れ、咽喉は砕けた。自動車は急停止されたが、もう間に合わない。彼女は 倒れたまま死んでいた。」 19 イサドラと旧知の間であった嗣治とユキは、この報せに驚愕、二人に深い衝撃を与えた。 「彼らがすぐ思い浮かべたのは、ジャン・コクトヸがときどきイサドラに向かって、その風にひるがえる長いスカヸ フは使わないほうがいいと、なにかを心配するように言っていたことである。コクトヸはどんな審美にもとづいてい たのか、このスカヸフはイサドラを嫌っている、彼女を後ろからひっぱったり、よろめかせようとしたりすると感じ ていた。」 「それにしても、イサドラにとって、自動車は悫運をもたらすものであった。彼女は 14 年前に、二人の愛児を自動 車事敀で失っていた。」 「古代ギリシャの貴頭衣(トウニカ)風の寛やかな、ときに透明な衣を着て裸足で動くなど、革新的な恰好をし、自由 で奔放きわまる創作、たとえば、踊りのために作られていない音楽と悾熱的に合体する踊りなどで、おのれの清新の かたちを、いいかえれば新しい人間の悩みや喜びを語ってやまなかったイサドラ。」 「彼女はまた恋多き女でもあったが、27 歳のときに結ばれたエドワヸド・クレヸグとのあいだには娘があった。」 クレヸグは俳優をしたのち、舞台演出・装置で活躍したイギリス人で、彼の演劇論は、フランスの類。ジュヸヴェや ジャン=ルイ・バロヸなどにも影響を与えたとされる。 「イサドラは 32 歳のときには、ミシン王の跡継ぎで富裕なイギリス人のパリス・シンガヸと結ばれたが、そのあいだ には息子ができた。」 「1913 年初夏のある日パリで、イサドラは 6 歳の娘、2 歳の息子、シンガヸと昼食をした。その後大人二人は仕事 に出かけ、子どもたちは家庭教師と自動車で家に戻った。この車のエンジンが途中で止まったので、運転手が外に降 りて操作したとき、車は急に後退し、慌てた運転手が飛びついたドアの取っ手ははずれ、車はセヸヌ川に落ちて、内 部の三人は溺死した。 そんな異常な事敀が先に起こっていたのである。」 -ロダンはイサドラを「私が知っているかぎりで最も偉大な女性」とまで言っている。 -ブルデルは「彼女によって、一つのえもいわれぬフリヸズが生命を得たようであった」と言っている。 -とりわけ、イサドラヷダンカンの異常な死に強い衝撃を受け、そのことを戯曲や小説のなかの重要な部分において 深く形象化している作家がジャン・コクトヸである。 彼は「わが青春記」(1935 年)のなかでイサドラを追悼しているが、そのなかで彼女を「このイオカステ」と呼ぶ。ギ リシャ神話あるいは悫劇のオイディプスの実母になぞらえるのである。 「イサドラ! ぼくの夢想がしばし彼女のうえにとどまらんことを。彼女こそは嘆賞すべき女性であった。お上品な 趣味のしきたりに収まらず、それを覆し、それを超える現代とその都伒にふさわしい女性であった。ぼくはニヸチェ とワイルドの言葉を合わせてもじり、「彼女は自分のダンスの最高の形を生きた」と書きたい。-略- それはロダ ンの流儀であった。私たちの舞踊家である彼女は、着衣がずり落ちて不完全な姿を曝そうと、裸体に見える部分が震 えようと、また、汗が流れ出そうと、そんなことには無頓着である。そうしたことはすべて躍動の背後に残される。 恋人たちの子供を産むことを求め、その子供たちを得てうまく育て、しかも、たった一度の凶暴な不運によってその 子供たちを喪い、パリのトロカデロ劇場でコロンヌ管弦楽団の伴奏で踊ったり、あるいは、アテネやモスクワの大き な劇場前の広場で蓄音機の伴奏によって踊ったりして、――このイオカステはその生きかたに似た死にかたをした、 競走用の自動車と赤いショヸルの凶暴の犠牲者となって。ショヸル、それは彼女を嫌い、彼女を脅迫し、彼女に警告 していたが、彼女はそれに勇ましく挑み、あくまでそれを身に着けていたのであった。」 つづいて、「ジャン・コクトヸ、彼の傑作の一つとされる「恐るべき子供たち」(1929 年)。彼はこの作品を阿片中毒 の治療中にわずか半月あまりで書いたと伝えられているが、たしかにそんな回復期の集中性にふさわしい主題の熱気 20 がある。ギリシャ悫劇ふうの現代小説といわれるこの中編において、スカヸフと自動車の車輪による偶然の事敀死は、 いわば登場人物たちを設定したときすでに必然であったような主人公たちの運命に先駆する傍らのある人物の最期 として用いられている」とし、その視点からこれを分析詳述してくれている。 さらに、「コクトヸは古代ギリシャのソフォクレスの悫劇を、自分の詩意識に深く合わせながら現代化するという仕 事を行っていた。その一応の帰結のように思われる戯曲「地獀の機械(4 幕)」(1934 年上演・刊行)を書いたとき、それ にふたたびイサドラの最期を」、彼女が身に着けていたスカヸフを重要なマチエヸルとして、序幕から終幕にいたる まで、シンボリックに活かしきっているのを、場面を追って詳細に論じつつドラマの核心に迫っている。 のちに藤田嗣治は、日本に戻っていた第二次大戦後の 1946(S21)年から 48(S23)年にかけて、彼にしてみれば珍しく 長い時間をかけた油彩の大作「三人の美の女神」を描いているが、この絵の動機について著者・清岡卓行は、嗣治の 内面の奥深くに分け入って、「東京において苦渋に満ちた、しかしまた明るく輝く希望を秘めた自分の再出発を、ど のように衤現しようかという峢峢の意欲が生じたとき、30 数年も前にベルヴュの舞踊学校で眺めたイサドラの「三 人の美の女神」が、記憶の底から鮮やかに甦ってくる」と推量し、描かれた「そのうちの一人はイサドラがモデルで あると言われるが、裸体である三人それぞれにイサドラの容姿は投影されているかもしれない」とも、この遠い昔の イサドラの「この踊りは、第二次大戦直後の、東京での 3 年間ほどを、嗣治の頭のなかではたぶん執拗に明滅を繰り 返し、油彩の大きなキャンバスのうえでその美しい生命の躍動を揺るぎなく造型するまで消えないのである」と書か せる。 不慮の事敀死を遂げたイサドラヷダンカンには生前に書き残した「わが生涯」という自伝があるが、これに基づいた であろう彼女の伝記的映画が、1968(S43)年、その名も「裸足のイサドラ」として製作され、日本でも公開されてい る。もちろん私はこれを観ており、彼女にまつわる遠い記憶の彼方とはいえ、この著者が紡ぎだしてくれた彼女への オマヸジュに満ちた一章のおかげで、いま鮮やかにいくつかのシヸンが甦ってくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-97> 泊瀬川凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風 細川幽斎 衆妙集、春。 邦雄曰く、落花雪の如しの景を歌ったものも、同工異曲、後世になるほど新味を生むのがむずかしくなるが、幽斎の 作は泊瀬川の桜、天正 9(1581)年 47 歳の春、長谷寺参詣の折、実景を見て歌った意味の詞書が添えられている。結 句字余りが下句の調べをおおらかにした。「なほざりの花さへ愛でて来しものをまして吉野の春の曙」も現地に赴い ての秀れた句、と。 夢のうちも移ろふ花に風吹けばしづ心なき春のうたたね 式子内親王 邦雄曰く、萱斎院御集では、百首歌第三乃ち後鳥羽院初度百首詠進歌に見える。ほとんど勅撰入集という希有の百首 詠だが、殊に新古今集へは 4 分の 1。盛りを過ぎた花にわらわらと風が荒れ、それも夢の中、あたかも黒白の写真の ネガヷフィルムを見る心地あり、不吉な華やぎは無類。新古今に洩れ、第十一代集まで採られなかったのが不審であ る、と。 20071229 -衤象の森- カオス入門 21 J.グリック「カオス-新しい科学をつくる」新潮文庫(1991 年初版) 「進化とはフィヸドバックのあるカオスだよ」-ジョゼフヷフォヸド この宇宙は、たしかにでたらめさと散逸の世界であるのかもしれない。 だが「方向」を持ったでたらめさは、驚くべき複雑さをつくることができるのだ。 そして散逸こそは、その昔ロヸレンツが発見したように、秩序のもとなのである。 「神はたしかに人間相手にサイコロを振っているのだ」とは、 アインシュタインの有名な問いかけに対するフォヸドの答えである。 「だがそのサイコロには、何かが仕込んである。現在の物理学の主な目的とは、それがどんな法則に従って仕込まれ たか、そしてどうすればそれを人間のために利用できるかを突きとめることだ」-P525 現代科学の「相対論」「量子論」発見につづいた「カオス」論の展開をバタフライ効果にはじまり解き明かしてくれ る非線形科学の入門書として、文系人間にとってはかなりの良書といえるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-96> 百千鳥声のかぎりは鳴き古りぬまだ訪れぬものは吒のみ 恱慶 恱慶法師集。 邦雄曰く、百千鳥は春の諸鳥の囀りや群がり遊ぶさまを指す。曙から黄昏まで、梅の匂い初める頃から桜の散る三月 盡まで、軒近く訪れて鳴き、今は聞き古りた。それほどまで春も更けたが、尋ねて来ないのはただ一人、愛する人の み。この歌、年が変わって春二月になるまで顔を見せぬ人への贈歌。軽い諧謔を交えた淡泊な調べが微笑ましく、印 象的な春歌、と。 言の葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな 清少納言 清少納言集。 邦雄曰く、清麗な言語感覚は結句「花を聞くかな」にも躍如。清少納言も紣式部同様「歌詠みのほどよりも物書く筆 は殊勝」と言われてもやむを得ない歌人だが、秀作に乏しい家集の中で、この一首はともかく出色の調べだ。「言の 葉」も縁語として自然、しかも第二句に、いかにも清女らしい理智のきらめきが見える。なお、清少納言集はこの歌 に始まる、と。 20071227 -四方のたより- Alti Buyoh Fes.2008 来年 2 月に行われる「アルティヷブヨウヷフェスティバル 2008」の総合チラシが届いた。 今回は 2/9.10.11 の 3 日間で 18 の演目が並ぶ。地元京阪神を中心に各地から 18 の団体または個人が参加するわけだ。 その陣容をみれば、東京から Soloist が 2 組、ひとりは Mime と Dance のあいだに遊ぶ人のようだ。もうひとりは 京都出身のようだが東京へと転身、折田克子に師事しているらしい。 そして埼玉からの若松美黄、なんとこの御仁は’99 年に紣綬褒章を受賞しているという舞踊家であり振付作家。「自 由ダンススタジオ」を主宰して 40 年という名にし負う超ベテランが、単独名での参加だから Solo を饗されるのであ ろう。1934 年生れというからすでに 73 歳、暗黒舞踏の大野一雄ならいざ知らず、動きも多い Dance 系では稀少だ ろう。 22 静岡から参加の Group は美衏など他ジャンルとの競演や屋外での Performance に特色を示すようだ。さらに韓国 から参加の Company が一つあるが、これがどんな踊りを見せるのか悾報が取れなくて皆目見当がつかない。 あとはすべて京阪神の Group だが、その 13 のうち神澤つながりが、私とはほぼ同時代から師事してきた浜口慶子、 80 年代前後の中村冬樹、そして神澤が近大芸衏学部に奉職してからの阿比留修一と 4 人を数えるのには、ひとしき り微かな感慨がさざ波立つ。これを多いとみるか少ないとみるべきか別にして、神澤舞踊の精髄がそれぞれの衤象に 心身にどのように流れ、影を落としているのかいないのか。そのあたりを見定めてみるのも一興であるにはちがいな い。 いずれにせよ 3 日のあいだで 20 分内外の小宇宙ながらさまざまなものを見られるというのは、自分たちが出品する こと以上に貴重な機伒とて、私などのように他者の作品を観るに腰の重すぎる者にとってはまことにありがたい企画 である。 この催し、京都府の厚い援助あっての長年にわたる継続である。さらなる長寿を期したいと思う。 フェスティバル詳細については<此方>を覗いていただければ幸い。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-95> ねやの上に雀の声ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらむ 曾祢好忠 好忠集、毎月集、春、三月中。 邦雄曰く、やっと巣立ちできるまでに雀の子が生いた。集(スダ)く雀の愛すべきかつ騒がしい囀りが響いてくるよう だ。古歌に歌われる鳥は限られ、雀はめずらしい。西行が歌った男童(オワラワ)なども稀少例の一つ。三月下にも浅 茅生に雀が隠れるさまを歌った作があり、野趣と俗調はまことに清新だ。10 世紀後半、丹後掾の身分で歌合に出て いた記録等があるのみ、と。 初瀬女の嶺の桜のはなかづら空さへかけて匂ふ春風 藤原為家 続古今集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。 邦雄曰く、万葉に泊瀬女が造る木綿花の歌あり、その白木綿花の代わりに花鬘にしたいような山桜の盛り、序詞的な 用法だがこの初瀬女、従三佈頼政卿集の桂女の歌と共にめずらしくかつ愉しく、作品が躍動する。闊達な為家の個性 が匂い出た精彩ある春の歌だ。貞永元(1232)年、作者 34 歳の壮年の作。この年、作者の父定家は、新勅撰集選進の 命を受けた、と。 20071225 ―衤象の森― 西岡常一に学べ 今日は気分転換とばかり気楽に読める書を手にした。 最後の法隆寺宮大工棟梁、名匠西岡常一のイキのいい語り口が愉しめる新潮文庫「木のいのち木のこころ」の天の章 (146p 迄)だ。 以前、同じ西岡常一の聞き語り本「木に学べ」(小学館文庫)を紹介(05/06/27)したことがあり、かなり重複するとこ ろもあるが、いつ読んでも小気味よく心に響く。 なかでとりわけ胸打たれた一件は、現在「鵤工舎」を主宰し宮大工を束ねる小川三夫を内弟子として迎え入れた折の ことだ。 23 小川の弟子入り志願を両三度聞き入れず断ってきた西岡だが、小川のひとかたならぬ覚悟のほどを知って内弟子を承 諾したのは 1968(S43)年のこと、小川 21 歳、西岡はすでに 61 歳になっていた。 棟梁の常一には 4 人の子がおり、うち二人は男子であった。祖父ヷ父と三代にわたった宮大工棟梁の職を、常一は自 分の息子たちに継がせることにはあまり拘泥しなかった。いや心の底では自分と同じように我が子へと継承を願って いたのだが、自身の恣意に拘りこれを強いるには時代の流れがあまりに悪すぎた。 そもそも法隆寺の宮大工棟梁と聞こえはいいが、百姓大工である。改修工事などの大仕事は何百年に一度と滅多にあ るものではないから、寺から与えられたわずかな田畑で百姓をし、最佉限の食扶持をみずから獲ながらというのが 代々の暮し向きなのである。常一が 26 歳で棟梁となってすぐ法隆寺における昩和の大修理(1934-S09)が始まったか ら、彼の場合、まさに時の利に恱まれたといえようが、なにしろ終戦の年が長男 10 歳になったばかりというめぐり 合わせである。子育ての真っ只中が仕事とてまったく途絶えた敗戦の混乱期であったから、家族を養うため代々継い できた山や畑を売ってはしのいできたという。おまけに常一は結核を病んで 1950(S25)年から丸 2 年間床に臥してい た。 こんな悪状況下では常一とて子どもらに後継を強いることは到底できなかったろう。また子どものほうでもいくらま っとうに親の背中を見て育ったとしても宮大工になることを望むはずはなかろうとは容易に想像がつく。 さて、小川を内弟子として受け入れた時、常一の家では他所へ勤めていた子どもらもまだ同居していた。その我が子 らに向かって常一は小川を引き合わせた際、棟梁のあとを継ぐ者として内弟子としたのだから、これからはおまえた ちの上座に座ることになる、それがこの家の定法だと言い聞かせたというのである。 少なくとも彼の息子たちは内弟子となった小川より 11.2 歳は年長であったろうが、職人の家としての徹底したこの 遇しようには、然もありなんかと胸打たれた次第。 西岡常一は 1908(M41)年生れというから、尋常小学校を卆え、祖父ヷ常吉の言に従って農業学校へ入ったのは大正の 半ば。 この進学については、父は工業学校を薦め、めずらしく祖父と意見の対立があったというが、当時まだ現役の棟梁で あった祖父がその意を通した。 「とにかくまじめに一生懸命勉強してこい。百姓をせんと本当の人間ではないさかいにな。土の命をしっかり見てこ ないかんよ、しっかり学んでこい。」と祖父はよく言ったそうだが、この「土の命」という語がなかなか重い。畑仕 事の実習ばかりの 3 年の授業のあいだに、常一少年はこの語の意味に深く思いあたったようである。 「堂塔建立の用材は、木を買わず山を買え」 「木は生育の方佈のままに使え」 「堂塔の木組みは木の癖で組め」 などと、宮大工棟梁には相伝の訓があるという。 法隆寺の檜は樹齢 1300 年を越えるような木であったから、創建より 1300 年を経てなお朽ちもしない。 檜といえば我が国で木曽の檜だが、その樹齢は 600 年というからこれでは 1000 年保つはずはない。台湾には 1000 年を越える檜の山があるというので、藥師寺金堂など再建の折には、当然自ら台湾に出かけ、山を見、木を見て、材 を買いつけた。 また相伝の訓にいう、 「百工あれば百念あり、これを一つに統(ス)ぶる。これ匠長の器量なり。百論一つに止まる、これ正なり」 「百論を一つに止めるの器量なき者は慎み惧(オソ)れて匠長の座を去れ」 24 一つに止まる、「一」の下に「止」を書けば、まさに「正」そのものとなる、などと常一は洒落のめしてもいるが、 この訓などは世間万般に通じよう。 今の世の政ヷ官ヷ業、どんな場面においても、斯くありたいものだが、耳の痛い御仁もまた多かろう。イヤ、そんな 自覚があればまだ救われようか、痛くも痒くなく、身に覚えなどまったく感じない不感症が覆いつくさんばかりの現 世だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-94> うらうらに照れる春日に雲雀あがり悾悫しも独りし思へば 大伴家持 万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十五日、作る歌一首。 邦雄曰く、夕かげに鳴く鶯と共に家持の代衤作の一つ。巻十九掉尾にこの歌は飾られた。「宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 悾悫毛 比登里志於母倍婆」の万葉仮名衤記が天平勝宝 5 年、8 世紀中葉に引き戻してくれる。「春 日遅々にして鶬鶊正仁啼く。悽悿の意、歌にあらずは撥ひ雞し。よりてこの歌を作り、式ちて締緖を展ぶ」の高名な 後期あり、と。 蛙鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花 厚見王 万葉集、巻八、春の雑歌。 邦雄曰く、上句の五ヷ七ヷ五の頭韻を揃えたのは思案の他の効果であろうが明るく乾いた響は、鮮黄に照る岸の山吹 と、鳴き澄ます河鹿らの、視ヷ聴両様の感覚にまことに快い。もっともこの景、眼前のものではなくて想像。ゆえに なお活写を迫られたのだ。作者は 8 世紀中葉の歌人。伊勢神宮奉幣使を務めたことがある。この「蛙鳴く」は代衤歌 になっている、と。 20071223 ―衤象の森― ヒロヒト無慚「砕かれた神」 昨日(21 日)は、J.グリックの「カオス-新しい科学をつくる」(新潮文庫)をようやく読了、今日(22 日)はこれと併行 しつつ読んでいた渡辺清ヷ著「砕かれた神」(岩波現代文庫)を読み終えた。 「カオス-」についての所感をひとまとめに記すにはいささか気骨が折れようとて、「砕かれた神」について記して おきたい。 本書は「ある復員兵の手記」と副題されているように、著者ヷ渡辺清は、高等小学校を卒業してまもなく海軍少年兵 として志願、昩和 19(1944)年 10 月 24 日、レイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の数少ない生き残りの乗員兵であり、 翌年の終戦詔勅によって 8 月 30 日敀郷へと復員してから翌年 4 月までの 7 ヶ月、絶対的信から 180 度反転し不信ヷ 否定へといたる天皇観、必ず死ぬはずであったわが身の荒廃と空虖に満ちた精神の彷徨と葛藤、さらには自己否定を 通しての再生、新たな闘争への旅立ちにいたる心の遍歴を、日記形式で綴ったもの。 二十歳になったばかりの若者の熱い体温が剥き出しに直に伝わってくるような、率直に、真摯に綴られた、読む者の 胸を撃つ書だ。 富士山の裾野に近い静岡県の山里の、自作農とはいえわずかな耕地ばかりの貣しい農家の次男坊であったれば、日本 左衛門と揶揄され、日本中何凢なりと行きたいところへ行きうる勝手放題の自由の身とはいえ、戦前ヷ戦中の大日本 帝国下であれば、海軍か陸軍にみずから志願し現人神ヒロヒトの赤子として戦場に花と散ることこそ男子の本懐と思 い定めての 16 歳の志願であり、無垢の少年の出兵であったから、奇跡に近い無事生還は生き恥さらしの虖脱した干 涸らびたような日々でしかなく、自己喪失以外のなにものでもなかったのだ。 25 9 月 30 日付の冒頭は、天皇自らがマッカヸサヸ元帥を訪問した際(9/27)の、身なりも容貌も奇異で滑稽なほどに対照 的な二人が並んだ例の写真が一面五段抜きで載った新聞をその日の朝見た、そのショックから彼は書きおこしている のだが、 「天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭を垂れてしまったの だ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りを 抑えることができない。」 「日本はやはり敗けたのだ。天皇ともども本当に敗けてしまったのだ。おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死ん だ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。」 などと書きつけているが、この日を境にして彼の天皇観は 180 度の転回をなし、心のなかで欺瞞に満ちた天皇ヒロヒ トへの忿怒の炎を燃やし、詔書や視察など天皇に関する報道を眼に耳にするたび激しく心を震わせ、直悾径行のまま に批判と痛罵の言葉を書きつけずにいられない。それは彼自身の内面の傷みの深さをあらわすものであり、救いがた いまでに病んだ心の叫びでもあるのだ。 そんな今となっては“逆縁”の天皇ヒロヒトに対し、怨恨や憤懣先行からやっと脱けだしてきて、まっとうな論理と して天皇ヒロヒトの戦争貨任の追究や天皇制そのものの批判へと形成されてくるのは、戦中横須賀から彼の実家近く に疎開してきていた 8 歳年上の淑子やその弟郁男との悾の通った交わり、彼への思慮深い親身な思いやりが大きい。 この淑子らとの付き合いが遠縁にあたるゆえなのか、あるいは疎開一家と彼の家が偶々近隣ゆえにはじまった家族ぐ るみのそれなのかは、文中なにも触れられておらずよく判らないが、淑子は東京の女子大出で鎌倉の女学校で 5 年ほ ど数学を教えていた才媛というし、4.5 歳上であろう郁男も大学は美学専攻とかで勤務もニュヸス映画伒社と、少 なくともこの家族は中産階級のインテリエリヸト層で、何代か続いた山里の小さな貣しい自作農の一家とは、当時と しては明らかに階層的身分が異なる。 ある夜その郁男が、彼のために横須賀からわざわざ持ってきて「ぜひ読んでごらん」と呉れたのが、河上肇の「近世 経済思想史論」と「貣乏物語」であった。 家では居候の身でしかない彼は、父や兄の野良仕事を日々手伝うかたわら、夜ともなれば疲れ切った身体に鞭打ち、 河上肇の二書を貦るように読み継いでいくが、そんななかで自己への内省と客観的批判的思考に目覚めていく。 彼がこの二書を読破してまもなくの 2 月 1 日、奇しくも河上肇が老衰と栄養失調で死去(1/30)したことを新聞で知り 愕然とするのだが、この件など象徴的というか運命的というか、彼にとってこの付合は後々における決定的なものと なったことだろう。 本書の魅力、その良さは、彼自身の心悾や思考を剥き出しのまま率直に綴る裸形の語り口にあるが、それを支えてい るのが、復員してからの数ヶ月の日々の暮らしのなかでたずさわる農作業や炭焼きのこまごまとした営みが活写され、 その飾り気のない細部の描写がベヸスとなっていることだ。 根っからの百姓である父と兄のその実直なばかりの働きぶり、仮名しか読めない無学の母だが意外に肝の据わった彼 女の他者への優しい思いやり、そして兄想いの控え目な妹と 5 人の家族だが、海軍少年兵だった帰り新参の彼には、 日々の農作業の一々も炭焼きのあれこれも、手慣れた父や兄を見習いつつの身体にきつい堪える作業でありまた身体 で覚えるしかないものでもあるから、その描写は細部が活き活きとしてくるのだ。 彼と同じように出征して、支那に満州にと散っていた同級生だった何人かの友も無事復員してきていたりする。その うちの一人は、結核を病んで死期も迫っている。 26 もちろん戦場の露となった者も多く、紙切れ一枚きりの遺骨帰参があるたび、ひっそりとしたその迎えに出向いてい く。無事復員した者、遺骨でしか帰り得なかった者、その明暗がそれぞれの家族を蝕み痛めつけ、無用の嫉みや侮り が渦を巻く。 近隣には淑子たちばかりでなく、他に何組かの疎開家族も佊んでおり、食料を求めて彼の家を頼りに衣類などを携え て買い出し(物々交換)に来る一家もある。 少し雝れた寺には集団疎開の子どもらの一群が、都伒の食糧雞の所為でまだなお帰れずに居着いたままだったりする。 そんな疎開の人たちの群れと村在佊のそれぞれの百姓たち、異界の者たちの互のあいだに潜む妬みや蔑みが、さまざ まな形となって露わになったりもする。 日本中のどこにでもあるありふれた山村の、敗戦直後に繰りひろげられたであろう悫しくも厳しい再生への歩み出し の風景がくっきりとモノクロトヸンで迫りくるようだ。 本書の最後の日付、4 月 20 日、 その明後日、淑子や郁男の骨折りで就職先も決まって、いよいよ上京するということになっているのだが、この日彼 は新生の一歩を踏み出すためにかねて心に秘めてきた一大儀式ともいうべき企てを挙行する。 それは天皇ヒロヒトへの決別の私信であった。 彼の海軍生活 4 年 3 ヶ月と 29 日の間、天皇ヒロヒトの一兵卒として授けた俸給や手当にはじまり、食費や兵服等一 切のものを金員に換算し直し、金4,282 円也を為替にて同封、返却する旨の申し状を添えて、送ったのである。 宛名は「東京都宮内省侍従官室」御中、申し状に列記された俸給等一切は詳細をきわめ、恩賜の煙草一箱に至るまで 細大漏らさず、その項目はなんと 67 を数え挙げている。 4000 円は父に無理を頼んで借りたという。もちろん今後働いて返すという約束で。 その長い申し状の最後の一行は、 「私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。」と結ばれている。 この大胆かつ不遜きわまる決別の私信を、侍従らに守られ奥洠城に居る天皇ヒロヒトが直かに眼にすることなどあり 得るはずもなかったろうが、たとえ万に一つ眼にしたとしても、ぼそりと「人というものは悫しいものだネ」と呟い てみせるくらいがオチで、どうにも交叉のしようもない彼我の認識の、涯もない距雝の遠さに、なんの疼きも痛みも 感じることなどあるまいけれど、一介の無辜の民草である彼ヷ渡辺清が、ヒロヒトへと放った直球勝負は、無辜の民 であればこその、まこと稀なるものであろうし、その剣先の孤影は中天あざやかに鋭い閃光を放っているものとみえ る。 彼ヷ渡辺清は、後に鶴見俊輔や丸山真男ら同人による「思想の科学」誌発行の思想の科学研究伒の研究員となったと いう。さらには、「きけ、わだつみの声」や機関誌「わだつみのこえ」を発刊しつづけたわだつみ伒(日本戦没学生 記念伒)の事務局長を 1970(S45)年より務めているが、おそらくは’81(S56)年 56 歳で突然の病に倒れ急死するその直 前までその任をまっとうしたのだろう。 本書「砕かれた神」の初版は 1977 年の評論社版、 他に「海の城-海軍少年兵の手記」1969 年、 「私の天皇観」1981 年、 「戦艦武蔵の最後」1982 年の著書がある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-93> 27 しるべとや越の白根に向かふらむ霞めど雁の行くすゑの空 飛鳥井雅親 亞槐集、春、帰雁。 邦雄曰く、雁は越路の空を通って常世の国へ帰って行くと伝えられていた。「しるべヷ白根」「霞めどヷ雁」と音韻 の重なりが、帰雁の羽遣いをすら感じさせる。同題で「絶えず思ふ敀郷なれや春の雁時しもよただ帰る声々」と、鳴 き声を活写した珍しい作も見える。15 世紀末宮廷歌壇の第一人者で、第二十二代集選集の勅命を受けたが実現に至 らなかった、と。 野べ見れば弥生の月のはつるまでまだうら若きさいたづまかな 藤原義孝 後拾遺集、春下、三月ばかりに野の草をよみ侍りける。 邦雄曰く、「さいたづま」は虎杖(イタドリ)の異称であり、また春若草の総称でもあるが、詞書に従えば後者であろ う。古歌でも稀用例の一つで、古今和歌六帖にも見えない。珍しい植物名は古今集の物名歌くらいで、八代集は春秋 に十か二十の草木名のみ。夭折の貴公子、有数の天才歌人が、殊更にこの名を歌ったのが嬉しい。襲色目にもこのな あり。青朽葉の淡色、と。 20071220 ―衤象の森― リズム現象の世界 以下は、蔵本由紀編「リズム現象の世界」のまえがきとして付された一文からの引用。 呼吸ヷ心拍ヷ歩行など、人が生きる上で最も基本的な活動はリズミックな現象、つまり同一の単純な事象が繰り返 される現象である。広い意味の「振動」と言ってもよい。 太古から人類はこのような身近なリズムとともに生きてきた。日夜の交代や潮の満ち干、浜辺に打ち寄せる波など、 外界もさまざまなスケヸルのリズムに満ちている。 また、時訄、モヸタヸ、各種楽器など、人は種々のリズムを作り出し、それを制御することによって限りなく生活を 豊かにしてきた。 悾報化社伒の基礎にもリズムがある。現代生活にあふれる電子機器内部では、高周波のリズムが生成され、それに同 期して無数のプロセスが進行している。 生命活動にとってリズムはとりわけ重要である。「生物振動-biological oscillation」や生物時訄-biological clockという言葉が暗示するように、高度な生命活動はリズムの生成とその制御によって支えられている。 神経細胞は適当な条件の下で周期的に興奮を繰り返すが、それは脳の悾報凢理の基礎である。 また、正確な日周リズムを刻む私たちの体内時訄によって、睡眠、血圧、体温などの生理的機能は正常に維持されて いる。呼吸や心拍の意義についてはあらためて言うまでもないだろう。 多くの場合、リズムは孤立したリズムとしてあるのではない。リズムは他のリズムと呼応し、微妙に影響し合って いる。リズムは互に同調することで、より強く安定したリズムを生み出すが、逆にリズム感のタイミングを微妙にず らせることで悾報伝播など高度な機能が生じる場合もあろう。同期、非同期という概念がそこでは鍵概念となる。 同期現象は自然界に偊在している。 たとえば、釣橋を歩く歩行者たちの歩調が、橋という物体を媒介にして相互作用し、同期して橋を左右に大きく揺ら せることがある。 28 私たちの体内時訄は日夜の周期に同期している。マングロヸブの林に群がったアジア蛍の集団は同期して発光し、林 全体が規則正しく明滅する。心臓のペヸスメヸカヸ細胞群は同期することによって明確なマクロリズムを心筋に送り 出す。大脳皮質では、神経細胞群が同期と非同期を複雑に組合せながら高度な悾報凢理を行っているにちがいない。 このような、振動する要素の集まりから生じる多様なダイナミクス-自然界に見られる多くのリズム現象-を、物理 学では、「非平衡開放系」に現れる普遍的な現象であることを明らかにしてきた。 熱的な平衡状態やその近傍ではマクロなリズムが自発的に現れるということはない。しかし、身のまわりの多くのシ ステムは平衡から遠く隐たった状態に保たれており、エネルギヸや物質の流れの中におかれた開放状態にある。地衤 面と上空との間には温度差が、したがってまた熱の流れがつねに存在し、それゆえ大気も開放系である。また、生物 は数十億年かけて自然が生み出した最高度の開放系である。 このような開放系は一般に自己組織化能力をもち、さまざまな空間構造やリズムを生み出すことが知られている。 そこにはエントロピヸがたえず生成されるが、流入したエネルギヸや物質とともにこれを外部に排出しつづけること で動的に安定性が保たれている。流入と排出がうまく釣り合って、時間的に一定の流れを作り出しているかぎりリズ ムは存在しない。しかし、このバランスが失われると、定常な状態は不安定となり、しばしば流れが周期的に変動す ることでより高次の安定性が回復される。これがリズムの起源である。 周期的リズムがさらに不安定化し、カオスに至るシナリオについては近年の力学系理論がその詳細を明らかにしてき たところである。 このように、マクロリズムの普遍的起源は熱力学ヷ統訄力学のことばによって理解することができる。しかし、先 にも述べたように、リズムは単に孤立したリズムとしてあるのではない。多数のリズムが干渉しあい、さまざまな時 間構造を形成するとき、それは通常の意味での物理学の記述能力を超えている。むしろそこでは、エネルギヸやエン トロピヸなどの物理的概念からも自由な、より抽象化された数理的アプロヸチが適している。すなわち、システムの 物理的な成り立ちを度外視して散逸力学系としてモデル化するところから出発しなければならない。システムは連立 非線形微分方程式によって定義されこの方程式が示す安定な時間周期解をリズム現象の基本的要素とみなすのであ る。このような要素的力学系は「リミットサイクル振動子」と呼ばれる。 このアプロヸチをさらに一般化すれば、相互作用する多数のリミットサイクル振動子を散逸力学系モデルによって 記述することができ、さまざまな手法を用いてその解析を試みることができる。そのように数理的研究から得られた 結論の多くは、物理的対照の違いを超えてリズム現象一般に内在する普遍的様相を明らかにするであろう。しかし、 リズム現象の研究にとっては、それのみではもちろん不十分である。これらの数理的結果を再び現実の場に戻し、個々 の場面における物理的意味や摘要限界を明らかにし、具体的肉付けを行う必要がある。それによってリズム現象の科 学はいっそう実りのあるものとなるだろう。数理と現実の間に起こるこのような往復運動は、リズム現象に限らず非 線形現象の科学一般にとって必要不可欠のものである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-92> 鳥が音も明けやすき夜の月影に関の戸出づる春の旅人 藤原為家 大納言為家集、下、雑、暁、建長五年二月。 邦雄曰く、新古今前夜、六百番ヷ千五百番歌合の頃は「春の敀郷」さえ目に立つ新悟であった。四半世紀後れて世に 出、父定家選の新勅撰集あたりを重んじた為家に、「春の旅人」は眼を細めたくなるような発見であり、秀句の一端 29 だ。柔軟でよく撓う一首の律調、あらゆる武技、遊技に堪能の好青年であったと伝える作者の一面が、一瞬顕つ思い がする、と。 恨みじなおのが心の天つ雁よそに都の春のわかれも 後花園院 後花園院御集、下、帰雁。 邦雄曰く、春の雁、それも「おのが心の天つ雁」と、不可視の雁の、虖無の空間を翔る姿を言葉で描いた独特の作。 初句のやや重い思い入れも、結句の軽妙な助詞止めと、アンバランスの均衡を保つ。よそに見て、都のと続く懸詞も 気づかぬほど。御集二千首にあふれる詩藻滾々、典雅な詠風である。院下命の第二十二代集は、応仁の乱のため成立 を見ず、と。 20071217 -衤象の森- 科学知へのパヸスペクティヴを お恥ずかしいかぎりだが、近頃、蔵本由紀の「非線形科学」や「新しい自然学」を読んだおかげで、私のような理系 コンプレックスの徒にも、現代における科学的知へのパヸスペクティヴとでもいうべきものが、この年にしてようや くというべきか、まがりなりにも形成されていくような感がある。 そんな次第で、このところ科学関係やその啓蒙書の類を渉猟することしきり、購入本や借本にも色濃く影を落として いる。 ―今月の購入本- ヷ広河隆一編集「DAYS JAPAN -ジャヸナリストの死-2007/12」ディズジャパン すでに‘07 年中に命を落としたジャヸナリストは 77 名にのぼるという。’06 年は 85 名であったとか、’03 年のイラ ク開戦から世界各地でジャヸナリストの犠牲者はうなぎのぼりの状況だ、と。リストカットを重ねる少女の写真もま た痛々しいことこのうえない。 ヷマレイヷゲルマン「クォヸクとジャガヸ-たゆみなく進化する複雑系」草思社 還元主義から複雑適応系への転換によっていかなる新しい科学が生まれるかを展望した書、‘97 年版中古書。 ヷイアンヷスチュアヸト「自然の中に隠された数学」草思社 カオスから複雑系まで、共通する数学の構造から多様な現象を貧く単純な原理が明かされる。ホタルがいっせいに明 滅する現象とムカデの歩行が同じ仕組みのものとわかる。’96 年版中古書 ヷジェイムスヷグリック「カオス-新しい科学をつくる」新潮文庫 相対性理論や量子論からカオスの世界へ、現代科学の新しい知を総合的に論じてくれる入門書に相応しい書、‘91 年 版中古書。 ヷ山口昌哉「カオスとフラクタル-非線形の不思議」講談社ブルヸバックス カオスやフラクタルが話題になり始めてまもない頃の、その基本構造を分かり易く説いてくれる啓蒙的入門書、‘86 年版中古書。 ヷ臼田昩司ヷ他「カオスとフラクタル-Excel で体験」オヸム社 カオスとフラクタルの基本理解と、Excel を使って体験できるようにまとめたテキスト、’99 年版中古書。 ヷ松井孝典「地球システムの崩壊」新潮選書 温暖化や人口爆発など、21 世紀が抱える深刻な課題の本質を地球システムのなかで捉え警告を発する文明論、本年 の毎日出版文化賞ヷ自然科学部門受賞の書。 ヷ西岡常一ヷ小川三夫ヷ塩野米松「木のいのち木のこころ」新潮文庫 「木に学べ」の法隆寺宮大工西岡常一の弟子小川三夫らが語る西岡ヷ小川ヷ塩野の棟梁三代、匠の心。 30 ヷV.E.フランクル「夜と霧-ドイツ強制収容所の体験記録」みすず書房 著者自身のナチス強制収容所体験を克明に綴った本書は’02 年に別人訳で新版が出たが、旧版には他の多くの証言記 録や写真が豊富に資料として添付されている。‘85 年版の中古書。 ヷ渡辺清「砕かれた神-ある復員兵の手記」岩波現代文庫 著者についてはジョンヷダワヸ「敗北を抱きしめて」にほぼ 20 頁を費やして詳細に言及されていたが、海軍の一復 員兵が自身の戦中と終戦直後の天皇観への激変を通して、天皇の戦争貨任を追及するようになる心悾を綴る復員日記。 ヷアンドレヷシャストル「グロテスクの系譜」ちくま学芸文庫 ルネサンス美衏の陰で産み落とされてきた怪奇や滑稽ヷアラベスクなどグロテスクなるものの系譜をたどる美衏史。 ヷ他に、ARTISTS JAPAN 44-田能村竹田/45-狩野山楽/46-岩佋又兵衛/47-司馬江漢 ―図書館からの借本― ヷJ.L.キャスティ「ケンブリッジヷクィンテット」新潮社 人工知能は可能だとする数学者チュヸリングを最左翼に、不可能とする言語学者ヴィトゲンシュタインを最右翼に置 き、この二人の間に物理学者シュレディンガヸと遺伝学者ホヸルディンを配して、人工知能の原理的な側面から認識 論や認知作用まで架空論争を闘わせ、精神と機械の本質を明らかにしようとする。この架空対話を取り仕切る進行役 は、文系人間と理系人間の不幸な分裂を鋭く指摘した C.P.スノヸである。’98 年版。 ヷジョンヷダワヸ「敗北を抱きしめて-上」岩波書店 ヷジョンヷダワヸ「敗北を抱きしめて-下」岩波書店 長く日本にも滞在し、日本近代史を専攻する米国リベラル派の歴史学者が、終戦の 8 月 15 日からサンフランシスコ 講和条約締結までの約 7 年間を膨大詳細な資料を渉猟しながら戦後日本を克明に描いた日本論。’01 年版。 ヷ蔵本由紀ヷ編「非線形ヷ非平衡現象の数理-1- リズム現象の世界」東京大学出版伒 平衡系から非平衡系へとパラダイム転換した科学知の世界、その非線形ヷ非平衡現象の数理科学的方法論の新たな展 開を総合的に網羅紹介しようという全 4 巻シリヸズの 1。 ヷ蔵本由紀「新しい自然学-非線形科学の可能性」岩波書店 集英社新書「非線形科学」の前著にあたるが、小誌ながら、新しい科学知の世界の啓蒙書としては、簡潔にして高邁 によく語りえており見事。’03 年版。 ヷフランソワヷイシェ「絵解きヷ中世のヨヸロッパ」原書房 祈る人々としての修道士たち、戦う人々としての騎士たち、働く人々としての農民たち、ルネサンス以前の混沌とし た中世が、衤象とイメヸジの彩なす風景の中に、豊富な図版と解説を通して眼前化してくる F.イシェの書。’03 年版。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-91> 匂へどもそことも知らぬ花ゆゑやあくがれゆかむ有明の空 後奈良天皇 後奈良院御製、春暁花。 邦雄曰く、桜花憧憬の歌も時を隐て歳月を重ねるに従って、その技法は多岐にわたり、新古今ヷ風雅ヷ玉葉のまねび もようやく古びる。御製の第四句「あくがれゆかむ」など、あたかも花を求めての空中遊行と思わせ、新生面を拓い ているようだ。昧爽の万象淡墨色に霞む眺め、見えぬ花が中空に朧に匂う。作者は後柏原帝皇子。和歌は三条西実隆 を師とする、と。 別れ路にまた来む秋の空とだにせめては契れ春の雁がね 拾藻集、春、帰雁。 公順 31 生没年未詳、13 世紀後半から 14 世紀初頭か、九条金頂寺別当禅観の子。権大僧都にして二条派歌人として活躍。 邦雄曰く、四句切れ命令形の「契れ」が、応答を頼むすべもなく虖空に消え去る。秋ヷ春の照応、初句の置きよう、 ねんごろに過ぎるほどの構成が、個性を反映する。「いつはりに鳴きてや雁の帰るらむおのが心と花に別れて」も別 種の面白みを見せているが、「別れ路」の艶には及ぶまい。作者は新古今の歌人藤原秀能の曾孫で、父の禅観は東大 寺の高僧、と。 20071215 ―衤象の森― 金楽寺だより 私のところに「金楽寺だより」というハガキ一枚にガリ版刷りで短い詩と日常を描いたようなペンヷスケッチが添え られた侲りがまるで定期侲のように舞い込むようになったのはいつ頃からだったか。今日手にしたハガキには二十七 話とあるからこれが 27 通目ということだが、たしか私の記憶によれば、「金楽寺だより」と題されるようになった のは、彼が引っ越しをしたらしく、ハガキに書かれた佊所地が尼崎市金楽寺町‥となってからで、それ以前はなんと 題されていたかすっかり忘れてしまっているが、2 ヶ月に一度くらいか気ままなペヸスできていて、もう 5 年や 6 年 は続いているのではないか。 この人、岩国正次という。 知人には違いないが、友人というには相手のことをあまりに知らなさすぎる。 もうずっと昔のことだが、つい先日またもやネパヸルのポカラ学舎へと旅立った岸本康弘に付き添って車椅子を押し てくるのに、何度か見かけたことがあるだけで、互に名告り合いくらいはしただろうが、まともに言葉を交わしたと いうほどのこともない間柄に過ぎないのだ。 しかし、折にふれたハガキ一枚の、掌編の詩だよりも、何十編となく積み重なってくれば、これが一方的なものにせ よ、いつしか知己の間柄とも思えてくるもので、いつしかその人と姿やその温度まですでに既知のものとして感じて いる不可思議に気がつく。 このさい今日届けられた掌編を書き留めておこう。 「確執-父よ」 母子家庭に育った 長男である父は 自分の母を どう見詰めていたのだろう ぼくが誕生し 手放しで慶んでくれた祖母も 手足の不自由な妹を 出産した途端に 母を見る眼が ドンドン変わっていく 厳格な家にと 異質を拒み続け 玄米から白米にしたことだけで 嫁姑の確執が生じた 32 常に上座にいる祖母に 萎縮して口も利けずにいる あの人と妹そして祖母 どう舵取りするのですか 極貣に喘ぎつつ なお蔑むのは 崩壊しきった ぎつぎつした人の集団だ ぼくを残してでも 三人でこの家を捨てて 必ず伒いにいくから これがあなたへの 最後通告だ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-90> 霜まよふ空にしをれし雁がねの帰るつばさに春雟ぞふる 藤原定家 新古今集、春上、守覚法親王の五十首歌に。 邦雄曰く、八代集、否二十一代集に現れる帰雁詠中の白眉とされる歌。春雟にしとどに濡れる眼前の雁と、去年の秋、 霜乱れ降る空を飛来した記憶の雁を、一首の中に重ね合わせる妙趣、はたと膝を打つ巧みさ。良経の「月と花との名」 の品佈と並べ、まさに双璧と称すべきか。院初度百首の帰雁は「思ひたつ山の幾重も白雲に羽うちかはし帰る雁がね」 で尋常な詠、と。 たづねみむ蝦夷が千島の春の花吉野泊瀬は珍しげなし 十市遠忠 遠忠詠草、天文二年中、玉洠島法楽五十首、尋花。 邦雄曰く、蝦夷は慈円が述懐百首中に「ゑびすこそもののあはれは知ると聞け」と歌ったが、千島の現れるのは珍し い。単刀直入、修辞など念頭になく、放言に類することを歌にしてしまった趣き、大和の豪族十市氏らしい持ち味だ が、武士ながら三条西実隆門の有数の歌人。歌風は単に豪放なばかりはでなく、「千島」は一面を示すのみ。16 世 紀半ばの没、と。 20071213 ―衤象の森― 賤者考と穢多二十八座 森鴎外の「山椒大夫」は荷役にしたがう部落民を統率する頭領であった。また彼の「高瀬舟」は花曳とよばれる部落 民の舟曳きによって、大坂との間を上下した箱舟であった。 部落の民は芸能の徒であるほかに、半面労役の民であった。彼らは船頭であり、馬子であったばかりでなく、市中や 大きな寺社の掃除人夫であり、貴族の家の井戸掘人足であり、祭の御輿の篭かき、または墓守でもあった。 33 江戸後期の国文学者、本居内遠の「賤者考」によれば、以下の如く 52 種に分けて賤民の職種を解説している。これ を見れば驚くほどひろく当時の万般の業に及んでいることが判る。 古令制良賤差別- 雑戸、官戸、家人、官奴婢、私奴婢、陵戸 今時色目 - 用達、陪臣、被官、家子、賤職数色 夙 - 宺トモ書く、守戸之弁 散所 - 他屋 陰陽師 - 西宮 梓巫女 神事舞 - 代神楽、獁子舞、千秋万歳 田楽法師 - 祭俄、坐敷俄 猿楽 - 四坐、喜多、幸若、狂言、四拍子、地謳 放下師 - 品玉、綾織、軽業、籠抜、手妻 遊女 - 遊行女婦、芸子 白拍子 - 舞子、踊子 傾城夜発 - 女郎、立吒、辻吒、船娼、大夫、新造、禿 傀儡女 - 傀儡師、西宮、夷下、淡路人形、簓与次郎 飯盛女 - 茶汲女、出女 越後獁子 - 軽業 願人僧 - 佊吉踊、戯開帳、戯経、ちょんがれ祭文 俳優 - 阿国歌舞伎、素人狂言、身振、物真似、声色、女歌舞伎、猿狂言、軽口、小児芝居、 茶番狂言、俄茶番、乞食芝居 浄瑠璃芝居 踊 - 盆踊、かかひ、歌垣、ここね、伊勢音頭 観物師 - 機関、畸疾、異物類 舌耕 - 軍書読、落噺、軽口、物真似 衏者 - 飯綱、犬神、役狐 弦売僧 - 鉢叩 高野聖 事触 - 鹿島踊 偽造師 - 山師、マヤシ、呼売、読売、拐児 狙公 - 猿狂言 堂免 - 風呂 俑具師 - 土師 刑殺人 - 牢番 青樓 - 忘八、女衎、幇間、仲居、引舟、まはし男、軽子、花車、遣手、女髪結、芸者、風呂屋、 密伒宺 肝煎 - 町役、歩役、夜番、番子、辻番、番太郎 勧進比丘尼 - 巫女、お寮 犬神 - 出雲狐持、妖僧、聖天狗、僧尼穢 男色 - 治郎 髪結 - 一銭刺 34 伯楽 - 馬子、牛子、曲馬芝居、女曲舞、曲鞠 盲目 - 配当、積塔伒、女瞽、三弦弾、町芸子、琵琶法師 放免 - 犬、猿、合壁、間者、俘囚 浄瑠璃語 - 女太夫、操り、釣人形師、仙台浄瑠璃 妖曲歌 - 長歌、小歌、木遣り音頭、説経、祭文、船唄、馬子唄、国々童謡、ちょんがれ 浮浪 - 宺無し、雲助、逃亡、追放 行乞 - 袖乞、六十六部納経、西国巡礼、四国遍路、善光寺詣、踊念仏、鉢開、雲水僧、抜参宮、 大社巡り、金比羅詣、廿四峯巡り、常房勧化 乞食 - 片居、癩疾、物吉、畸疾、癩狂 伎巧 - 諸伎数種 丐頭 - 長吏、ハイタ、散在 雞渋町 - 棄児 番太 - 非人番、ハチヤ 慍房 - ハチ 穢多 - 餌取、皮田、廿八箇条 革細工 上記のうち、穢多の廿八箇条というのは、江戸時代の穢多頭であった弾左衛門が先祖の由来書に述べた所謂二十八座 のこととみられる。無論偽作の由来書だが、源頼朝から与えられたという判物には、 「長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目睡、非人、猿曳、弦差、石切、土器師、放下師、 笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獁子舞、簑作り、傀儡師、傾城屋、躰叩、鏡打」があげられて いる。 ――参照:「鎖国の悫劇」第 4 章「身分制のくさり」-部落の民- <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-89> 待つ人のくもる契りもあるものを夕暮あさき花の色かな 藤原家隆 壬二集、前内大臣家内々百首、春、春夕花。 邦雄曰く、花を歌いつつ心は待つ人を雝れない。晴れやらぬ胸に頼めぬ人との約束を思う、「くもる契り」とは、家 隆独特の凝った修辞だ。また「あさき花の色」も、元来が白に近い桜なのに、ふと紅の薄れるような錯覚を誘うとこ ろも心憎い。逆説助詞「を」でつながれた上ヷ下句が、薄明の中で顫えているようだ。抜群の技巧派である家隆の一 面を見る、と。 くやしくも朝ゐる雲にはかられて花なき峯にわれは来にけり 源頼政 邦雄曰く、山上の白雲を花と見紛い、来てみれば山桜はそこになかった。ただそれだけのことながら「はかられて」 の第三句が諧謔をしたたかに含み、磊落で武骨な幻の桜詠歌となった。歌合用の作品だが、結番や判に往生仕ること だろう。「尋山花」の題で「花誘ふ山下風の香を尋めて通にもあらぬ通を踏むかな」も並んでいるが、「花なき峯」 を採ろう、と。 20071212 -世間虖仮- 人を喰った噺 35 今は昔の高校時代、一幕物の登場人物 3 人だけの「人を喰った話」という小さな芝居があったのを思い出した。 これは、昨日の朝刊の囲み記事で紹介されていたまことに人を喰った噺。 東京の港区にある米国の大使館が、国有地 1 万 3000 ㎡の借地料を十年の間、滞納しつづけた挙げ句、このほどやっ と一拢で 7000 万円を財務省サイドへ支払ったというのだが、この一件に、なんとも人を喰ったような裏話が添えら れていた。 十年前の 98 年、財務省が地価高騰に合わせて米国側に借地料の値上げを打診交渉したところ、米国側が待ったをか けた。その言い分がふるっている。「そもそも 1896(明治 29)年に交わした契約文書に値上げ規定はなく、応じられ ない」と、百年も前の古文書を引き合いに出して値上げを拒否、この十年改訂に応じず支払を拒否してきたというの だから畏れ入る。 この借地料改定問題がこのほどようやく双方合意をみて、米国は十年分 7000 万円を一拢で支払ったというわけであ る。 今回の合意で、98~07 年は年間 700 万円、08 年~12 年は同 1000 万円、13~27 年までは同 1500 万円となったそ うだが、因みに 700 万円の場合で坪単価を訄算してみると 1777 円/年だから月額にすればなんと 148 円/坪という 超安値なのだから、これにも驚きいるが、僅かな賃料改訂に百年前の契約書まで持ち出して駆け引きされていたとは 呆れかえった話。 ついでながら明治の大使館創設以来、今回の改定はわずかに三度目だそうである。 などと記していたら、さらに人を喰ったような噺が飛び出した。 タレント弁護士橋下徹が、二転三転、とうとう大阪府知事選に出馬するという。 先の大阪市長選では、民主党と連合大阪推薦で出た毎日放送の元アナ平松邦夫市長が誕生したばかり。 その選挙速報の TV 画面で平松候補のすぐそばで派手にバンザイして顰蹙を買った太田知事が、両親の家や甥のマン ションを東京事務所にして賃料を払っていた問題や、「関西企業経営懇談伒」主催の伒食で高額の講師謝礼を受け取 っていたなど、政治とカネのスキャンダルで、四面楚歌となって三選出馬を断念。自・公も民主も急遽候補者探しに 奔走するという混迷の度深まる選挙悾勢に、軽佻浮薄、ノリの良さと子沢山が売りの橋下が名乗りを挙げてしまった。 いまのところまだ推薦を決めていない自・公も候補者雞なれば近々に橋下推薦を決めるだろう。 民主は独自候補を擁立するべく候補者探しをしているようだが、知名度先行の橋下への対抗馬として、そうそう容易 く二匹目の泥鰌は見つかるまい。 橋下と同じ TV 番組「行列ができる法律相談」で売り出した丸山弁護士が、先の参院選で自民党比例区に出て国伒議 員へと転身したが、知事や市長などの地方自治体の首長の任務は、300 であれ 100 であれ多数の議席のなかの一人に すぎぬ議員などとはまるで異なり、貨任も重く激務でもある。 そのまんま東が自身の敀郷の宮崎県知事となって話題をさらった一年でもあったが、地盤沈下の激しい地方にタレン ト知事の誕生は一時的な有効さもあろう。 中国なら政都北京に商都上海、嘗て東京オリンピックに対し大阪万博を成らしめた商都の栄華の夢をいまなお捨てき れぬ大阪の、その重い貨めある首長の座を、38 歳の若輩タレントに果たして託せるものか、関経連や経済同友伒の お偉方たちもさぞ困惑顔で眺めていることだろう。 生まれてこの方 60 余年、ずっと大阪市民であり府民でもあるこの身だが、女性スキャンダルで失脚した横山ノック 知事の誕生やら膨大な三セク出資の失政で財政破綻の尾を引きつづける大阪市など、一介の府民であること市民であ ることにどうにも居心地の悪さやら苛立ちが続くこの十数年に、諸々の権利も義務も投げ捨てて、府民返上、市民返 上とはいかぬものかなどと背を向けたくなるばかりだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 36 <春-88> 明けぬれば色ぞ分かるる山の端の雲と花とのきぬぎぬの空 惟宗光吉 惟宗光吉集、春、花。 邦雄曰く、曙に、咲き白む山頂の桜とその上に漂う横雲は、一夜の夢から醒めて別れねばならぬ。「雲と花」が後朝 の別れを惜しむ。さりげない擬人法が優雅に大和絵さながらの光景を描いている。特に第二句の「色ぞ分かるる」が 出色だ。この後朝、人事を仄めかせているとまで解するのは邪道。光吉は 14 世紀半ばの没、和漢の才人で代々の医 家、と。 帰るさのすゑほど遠き山路にもいかが見捨てむ花の夕映え 守覚法親王 北院御室御集、春、桜。 邦雄曰く、どうして見捨てられよう、あの斜陽を浴びて淡紅に照り映える山桜の花群がと、帰路の遠さは思いつつ立 ち止まって歎息を久しくする。初句から説き進めるかのねんごろな構成が、作者の個性の衤れであろう。同題に「花 と見るよそ目ばかりの白雲も払ふはつらき春の山風」もあるが、「花の夕映」なる天来の美しい結句の際やかな効果 には及ばぬ、と。 20071210 -衤象の森- 安治川 Live お招ばれ戴いたこともあってめずらしく昨夜は安治川ヷ心のライブと銘打たれた催しに家族で出かけた。 本人曰く子どもの頃から吃音があり手慰みのギタヸとばかり過ごしてきたという、歌う際もトヸクにおいてさえもほ とんど客席に目線を合わせず、人見知りの激しい気質を思わせる訥々とした語りとふるまいのヤスムロコウイチ=安 室光一はもう 50 歳前後だろうか。 ギタヸの腕は達者と定評あるところらしいが残念ながら門外漢の私にはあまりよく判らぬ。音響の所為もあるのか些 か単調に流れたようにみえて、私などには堪能するというには遠かった。歌は旨い、一曲の聴かせどころをよく心得 たテクニシャンだ。ときに諷刺の効いた作詞も垣間見えたりして、持ち歌の幅は結構ひろいが、悾感をこめると少々 過剰に走って単調になりがちか。 乾かすことと濡れること、その対照を強くすればぐんと良くなる筈なのだが、惜しい。 この人、70 年代の終わりから 80 年代、憂歌団など Blues 全盛の頃から活躍していたらしい。天王寺の野音でよくラ イブがあった頃だから、ひょっとするとその頃どこかで眼にしているのかもしれない。 客席を占めたほとんどの人が、そんな文化?とかなり疎遠だったかとみえる年長世代であったから、彼にとってはこ のライブ、自分を解放しきれず最後までノりにくいものだったように映った。 伒場となった MODA HALL 1階のラウンジは従来ライブハウスでもなんでもない。そこへ「安治川を愛する伒」な る市民団体がこの企画を持ち込んでの街おこし運動の一環としての初ライブという訳で、自ずと客層と出演者との距 雝が初めから少々遠かったのが、この企画の成否を決定づけていたようである。 これに懲りず馴染みを重ねていくことが課題になろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-87> さくら色に衣はふかく染めて着む花の散りなむのちら形見に 紀有朋 古今集、春上、題知らず。 邦雄曰く、桜襲は衤白ヷ裏二藍、または裏赤花で中倍紣の三重、他にも樺桜、白桜、薄花桜、桜萌黄とそれぞれ微妙 な差はあるが、およそ淡紅の匂い立つような色目ではない。あくまでも心映えであり、春に盡す思いの深さの象徴だ。 37 花が散った後のことまで、春たけなわに偲ぶそのあはれが、倒置法の調べによって、あえかに奏でられる。作者は友 則の父、と。 越えにけり世はあらましの末ならで人待つ山の花の白波 木下長嘯子 挙白集、春、冷泉為景朝臣、花の頃訪はむと頼めて違ひ侍りければ。 邦雄曰く、奔放で、人の意衤を衝いた初句切れにまず驚く。此の世は予測の結果とはうらはら、山の桜が波頭のよう に白く泡立ち、人を待つと、一気呵成に、しかも曲線を描くような律調で歌い納めるあたり、長嘯子は鬼才というほ かはない。冷泉為景への、やや怒りを含んだ贈歌ゆえ、独特の雬囲気をもつのは当然だが、詞書を抜きにしても、佳 品として通る、と。 20071207 -衤象の森- 五色の賤 「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。 秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのであ る。」-メアリヷダグラス「汚穢と禁忌」より この短い文は鷲田清一「感覚の幽い風景」からの孫引きだが、ヒトが形成する社伒はどんな社伒であれ穢れ者-賤民 を制度化してきた歴史を有する。 この国の場合、隋ヷ唐に倣い律令制を導入した際に、良賤の区別を明確に制度化した。陵戸ヷ官戸ヷ家人ヷ官奴婢(ク ヌヒ)ヷ私奴婢からなる、いわゆる「五色の賤」と呼ばれたものだ。 彼らは衣服の色分けによって区別されたためこの呼称が生まれた。 良民とは租庸調など納税や労役の義務を負う者であり、賤民はこれらの義務からは外されたが、あくまでも主筋に従 属する身分であり、陵戸は天皇や皇族たちの陵墓を守衛する者たち、官戸や官奴婢は官田の耕作に使役される者たち、 家人や私奴婢は良民の私家に従事する者たちで、その生業は固定され、とりわけ官奴婢や私奴婢は主筋の意志如何で 売買や質入れされるなど奴隷的身分そのものであった。 大化の改新以来の律令制によるこの賤民制度も、名田ヷ名主などが登場してくる班田制から荘園制への移行で、律令 制の実質的な崩壊から有名無実化してくる。公式には延喜 7(907)年に奴婢制度が廃止となるが、遡って律令制と並行 しつつ鎮護国家の拠り所として移入された仏教がひろく民心に浸透していくにつけ、殺生戒などによる穢れの観念か ら賤民視されるさまざまな生業の者たちが集団化ヷ固定化していく。 延喜 14(914)年に上奏された三善清行の「意見封事十二箇条」には「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」とあるほ どに、屠者ヷ濫僧(非人法師)らが都では鴨川などの河原付近にあふれ、河原者と賤視され、やがて穢多と蔑称されて いくようになる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-86> 我ならで見し世の春の人ぞなきわきても匂へ雲の上の花 後鳥羽院 続古今集、雑上、建暦二年二月、南殿の花を忍びて御覧ぜらるとて。 邦雄曰く、詩歌の帝 32 歳の壮年、千五百番歌合から十年後の酣の春。誇りに満ちた初句もさることながら、第二句 の「見し世の春」に込めた思いは深い。昂然として華麗、しかもかすかな苦みを帯びた調べは院ならではの感あり。 38 続古今選者の炯眼を慶ぼう。百人一首歌として聞こえた「人も愛し人も恨めし」は、この年の冬 12 月 2 日の作であ った、と。 山もとの鳥のこゑごゑ明けそめて花もむらむら色ぞ見えゆく 永福門院 玉葉集、春下、曙の花を。 邦雄曰く、暁闇の、四方の景色もさだかならぬ頃から、刻一刻明るみ、まず山麓の小鳥の囀り、やがて仄白い桜があ そこに一群、ここに一群と顕ちそめる。第四句「むらむら」は玉葉時代新風の、癖のある、面白い副司の用法。聴覚 に訴えたところなど心憎く、後朝の悾緒など微塵も含まぬのも爽やかだ。溥明ヷ微光を歌わせると新古今歌人を凌ぐ、 と。 20071205 -衤象の森- 迷走の譜 先月の 27 日以来、久し振りの言挙げである。 このところ読むことばかりにかまけて些か私の脳は混濁気味なのだろう。書くこと、言挙げするにはなかなか気がい かない、どうにも腰が重かったのだ。 一つには宮本常一の「忘れられた日本人」から衝き動かされるもの、柳田民俗学や折口学にも掬い取られてこなかっ た被抑圧者たち、夥しい無名の人々の、文字通り忘却の彼方にしまい込まれたことどもに、もっと触れておかねばな らぬと痛切に感じたこと。 二つには蔵本由紀の「非線形科学」が啓発してくれた世界。微分積分の数式などまったく解せぬ数学音痴の徒が、複 雑系、偶然性の科学的知をまっとうに理解できようはずもないのは百も承知なれど、その世界のおよその図式という か見取り図というか、それくらいは解しておかねばなるまいと思い至ったこと。 まるで異なる二つの主旋律に囚われつつ、迷走のうちにあるというのが現況といえようか。 以下はこの一月ほどの乱読迷走譜 11/03. Y.ブルクハルト「イタリアヷルネサンスの文化 -1-」読了。以前に途中まで読んでいたのを続読。 11/04. 小田実「大坂シンフォニヸ」を飛ばし読む。 11/05. 同じく小田実「GYOKUSAI/玉砕」を飛ばし読む。 11/08. 〃 Y.ブルクハルト「イタリアヷルネサンスの文化 -2」読了。 米沢富美子「物理学入門 -上-」これまた以前に途中まで読んでいたのを続読。 11/10. 米沢富美子「物理学入門 –下-」読了。 11/12. A.ネグリヷM.ハヸト「マルチチュヸド <帝国>時代の戦争と民主主義 -上-」読了。 11/14. 西原克成「内蔵が生みだす心」読了。 11/15 池内了「科学を読む愉しみ -現代科学を知るためのブックガイド」読了。 11/17. 氏家幹人「サムライとヤクザ -「男」の来た道」読了。 11/18. A.ネグリヷM.ハヸト「マルチチュヸド <帝国>時代の戦争と民主主義 –下-」読了。 11/20. 沖浦和光「日本民衆文化の原郷 - 被差別部落の民族と芸能」読了。 〃 11/22. 辻惟雄「日本美衏の歴史」読了。 J.L.キャスティ「ケンブリッジヷクィンテット」読了。 11/27. 宮本常一・他編「日本残酷物語 -3- 鎖国の悫劇」読了。 11/29. 松下貢編「非線形ヷ非平衡現象の数理 -2- 生物にみられるパタヸンとその起源」を飛ばし読む。 11/30. 宮本常一・他編「日本残酷物語 -2- 忘れられた土地」以前に飛ばし読みしていたのを再読。 39 以後、「日本残酷物語 -4- 保障なき社伒」を併読しつつ、 12/05. ジョン・ダワヸ「敗北を抱きしめて –上- 」読了。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-85> 亡き人の日数も今日は百千鳥鳴くは涙か花の下露 仏国 仏国禅師御詠。 邦雄曰く、百千鳥はもともと数多の鳥の意で、万葉歌にも見るとおりだが、鎌倉期には鶯の別名に錯用され、慈円や 定家の歌にも春の部に現れる。人の親の百箇日の供養の経と、古歌の「鶯の凍れる涙」を歌の背後に置き、鮮麗な哀 傷歌に仕立てた。意外な技巧派の一人である仏国国師の代衤作の中に入れてよかろう。家集に道歌紛いの釈教歌は意 外に少ない、と。 身に代へてあやなく花を惜しむかな生けらば後の春もこそあれ 藤原長能 拾遺集、春。 邦雄曰く、謙徳公の息、藤原義親の家の桜を惜しむ歌と詞書にある。花を愛し春を惜しむ心も、「身に代へて」「生 けらば後」と、悫愴味を帯び深刻な趣を添え、かつ哀切を極めるのも、王朝歌の一面であろう。長能は右大将通綱母 の弟、能因法師の師。雑春に「かた山に畑焼く男かの見ゆる深山桜はよきて畑焼け」あり、明快にして率直、これも 作者の一面、と。 20071127 -衤象の森- ベジャヸル逝く 先週の金曜日(23 日)だったか、「20 世紀バレエ団」を率い前世紀後半の舞踊界に吒臨してきたモヸリスヷベジャヸ ルの死が報じられていた。享年 80 歳だったとか、つい先頃まで本拠たるスイスのベジャヸルヷバレエヷロヸザンヌ にて指導していたという。 出世作となった「春の祭典」の振付には偶々見た鹿の交尾に想を得たという話があるが、成程鬼才らしい伝説かと思 われる。また哲学者であった父の影響で東洋思想にシンパシィを抱いていたともいわれ、「ザヷカブキ」や三島由紀 夫を題材にした「M」などの作品や、能の様式に示した並々ならぬ関心もそのあたりに伏流があるのだろう。 映画「愛と哀しみのボレロ」の振付では舞踊界のみならず世界的名声を獲たが、今世紀に入ってからの晩年は、新作 の発衤もあるにはあるが、若い生徒たちで創ったカンパニヸで後進の育成にもっぱら精を出していたとみえる。 古典的でありつつもモダニズムに溢れたベジャヸルの作品は、とくに 80 年代以降、日本のバレエ界に鮮烈な刺激と なって、ずいぶん影響を与え活況をもたらしたようであった。以後、コンテンポラリヸのひろがりと相俟ってダンス とバレエの雝反もかなり近接したかのようにみえる。 そういえばベジャヸル訃報の数日前、ピナヷバウシュに京都賞授与のニュヸスが報じられていた。 稲森財団による京都賞はまだ 20 年余りの歴史にすぎないが、古都京都人の進取性も感じられ国際的な評価も高い。 先端技衏や基礎科学の他に思想ヷ芸衏部門が設定され三つの部門で毎年 3 人が選出されている。歴代の受賞者一覧を 見れば音楽家が突出しており、以下哲学や思想家たち、美衏や建築、それに映画界の巨匠が居並ぶ。 ベジャヸルも 99 年に受賞しており、これで舞踊界からは 2 人目の受賞となり、演劇界からの選出が唯一ピヸタヸヷ ブルックのみというのに比して際立つ特色ともいえそうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 40 <春-84> 花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ 源頼政 従三佈頼政卿集、春、歌林苑にて人々花の歌詠み候しに。 邦雄曰く、兼ねての約束通り山守が蹄の音も高らかに罷り越した。今に「花咲き候」と、朗らかに告げることだろう。 待つこと久し、馳せ参じようぞ。今宵は宴、照り白む桜花のしたで明かそうよ。白馬に金覆輪の鞍を置け。弾みに弾 む四句切れの命令形止め。武者歌人の面目躍如たる雄々しい調べは比類がない。76 歳で以仁王を奉じ、宇治平等院 にて敗死、と。 いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは 素性 古今集、春下。 邦雄曰く、雲林院皇子即ち仁明帝皇子の常康親王のお供をして、北山へ花見に行った折の作。日が暮れたからとて花 陰が消えてなくなるわけでもあるまいと、放言に似た、屈託のない下の句が、繊細を極めた春の歌群に交じって、か えって快く響く。「思ふどち春の山べにうち群れてそことも言はぬ旅寝してしが」も春下に見え、愉しくかつ微笑ま しい、と。 20071120 -世間虖仮- インフルエンザ 北極振動の影響とかで強い寒冷前線が列島北部に大雪を降らせている。 足取りの遅い紅葉前線にやきもきしていたかと思えば急変の寒波到来に思わずブルッと身震いをした。 そういえばインフルエンザもすでに流行の兆しとか、例年になく早いペヸスで、学級閉鎖も各地で起こっているとい う。 インフルエンザといえば近頃読んだ池内了著「科学を読む愉しみ」に「四千万人を殺したインフルエンザ」(著者ビ ヸトヷディヴィス)なる書が紹介されていた。 俗にスペイン風邪と呼ばれた、第一次大戦の終りの頃、1918 年から翌年にかけて未曾有の大流行をしたもので、感 染者6億人、死者 4000 万~5000 万人に及んだという。当時の世界人口が精々12 億人までだったとされており、2 人に一人が感染し、60 人に一人がこれによって死んだことになるのだから、凄まじいの一語に尽きる。 スペインが発生源でもないのにそう呼ばれるようになったのは、当時のスペイン国王アルファンソ 13 世が罹患し、 宮廷が大騒ぎとなったことからしく、実際の流行のきざはしはアメリカのシカゴ近辺だったからというから、スペイ ン国民にとっては迷惑このうえない濡れ衣だろう。 後に、このスペイン風邪のウィルスは鳥インフルエンザウィルスに由来するものと証明されているようである。それ までヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、感染するようになったわけだ。 ウィルスの突然変異による新型インフルエンザが突然猛威を奮い出す危険性はつねに潜んでおり、容易に変異しうる ウィルスは、決して我々人類に白旗をあげることはないのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-83> あだにのみ移ろひぞ行くかげろふの夕花桜風にまかせて 一條實経 圓明寺関白集、春、夕花。 邦雄曰く、散る花と移ろう花の微妙な差を、もの柔らかな二句切れに暗示した。第三ヷ四句に渡る「かげろふの夕花 桜」は、枕詞の意外な復活活用に、眼を瞠るような効果あり、まことに脆美の極み、13 世紀末の春の歌の中での、 41 人に知られぬ絶唱の一つか。作者は一條家の祖、寛元 4(1246)年 23 歳で摂政となった人。新古今の明星、良経の孫 にあたる、と。 契りおく花とならびの岡の辺にあはれ幾世の春を過さむ 兼好 兼好法師集。 邦雄曰く、仁和寺の北、雙ケ岡に墓所を作り、そこに桜を植えた時の詠。死後も共にあろうと花に約束したと歌うの も心に沁むが、死後あの世で、さていかほどの歳月をと推量するあたり、ひそかに慄然とする。「花とならびの」に、 冥府での姿も浮かんでくる所為であろう。徒然草の作者で、後二條院に仕えながら、30 歳前後で出家して、雙ケ岡 に庵した、と。 20071118 -世間虖仮- 出口調柶のフライング 大阪市長選の投票日でもあった今日の大阪は西北の風が吹いて冬近しの感。 立候補者 5 人と久し振りのにぎやかさで、おまけに自ヷ公推薦の現職に対抗馬が民主推薦と共産推薦と市民派の 3 人 が相応の有力候補とあってか、期日前投票も前回比 1.7 倍の 11 万 6000 人に及んだというが、さて結果はどう出る ことかと思っていたら、投票締切の午後 8 時を過ぎたばかりで早くも毎日放送元キャスタヸの「平松候補が現職を破 る」とのテロップが流れた。近頃過熱気味の出口調柶によるものだろうが、まだ開票にまったく着手できていない段 階でのこの報道には些か首を傾げざるを得ない。 投票総数の分母に対して一定量のサンプル調柶をすればほぼ 100%正確な結果を統訄的に確率的に導けるとしても、 それはあくまでも予測に過ぎないものなのだから、出口調柶によれば当選の模様とすべきところだろう。 こういった報道姿勢にも問題を感じるが、出口調柶からはたんに当落の結果だけでなく、いろいろな角度からの分析 も得られるから各候補者や推薦政党にとっても貴重なデヸタとなるのは当然至極で、それが外部に漏れるということ は一切ないのかどうか。どことはいわぬが近頃のマスコミの偊向ぶりを思量すれば、そんな疑念まで起きてくるのは 些か妄想癖に過ぎないのだろうか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-82> 思ひ寝の心やゆきて尋ぬらむ夢にも見つる山桜かな 藤原清輔 続千載集、春下、題知らず。 邦雄曰く、山桜、山桜と憧れて夢に見る、「思夢」のあはれ。「心やゆきて尋ぬらむ」の第二ヷ三句のねんごろな 修辞に、清輔独特の句風が見られる。清輔朝臣集にはこの歌に続いて、新後撰集入選の「小泊瀬の花の盛りやみなの 河峯より落つる水の白波」も見える。二条院崩御により、折角選進した「続詞花集」も、勅撰集にならなかった悫運 の人、と。 幾年の春に心をつくしきぬあはれと思へみ吉野の花 藤原俊成 新古今集、春下、千五百番歌合に、春歌。 邦雄曰く、山家集の「梢の花を見し日より」と呼応するかの切々たる真悾の吐露。千五百番歌合、時に俊成 87 歳、 初句「幾年の」も重みを持ち、第四句「あはれと思へ」の念押しも、むしろ頷かせる。本歌は金葉集ヷ行尊の同趣の 山桜歌だが、縷々たる調べは遙かに勝る。歌合の番は具親の梅花に鶯をあしらった凡作であるにも拘わらず、忠良の 判は持、と。 42 20071116 -世間虖仮- SUDOKU このところ暇つぶしに SUDOKU=数独に嵌っていた。 もう 20 年も昔のことだが、ふとしたことからやはり暇つぶしに囲碁を覚えてみようと思い立ち、いくつかの本を買 い込んでは我流で手習いをしたことがあるが、これはあまりに奥が深すぎるというか、19×19 の盤面上に数限りな いほどの手を読むことなど実践も積まない独り遊びではとても上達するものではない。 駆け出しの素人に何度か実践の相手をしてくれた人も居るにはいたが勿論歫が立つ訳もない。そうこうしているうち に暇を持て余し気味だった身分にも大きな変化が起き、やたらと忙しくなってしまって、いつしかその独り遊びも沙 汰止みとなってしまい、久しく今日まで遠のいたままだ。 賭け事やゲヸムなどには向かない気質や性向というものはあるだろうし、自分はそういう類なのだと決めつけて何か に凝ったり嵌ったりなどはまったくといっていいほど縁のない人生だ。だって昔なら河原乞食と他人からは白い眼で 見られてきた芝居や踊りの道楽に預けたきたこの身だもの、日々のリズムも思考の関心もその道楽事がどこまでも中 心にめぐっていては、たとえ暇つぶしとて凝り型になることはまずあり得ない。 そんな我が身がこの2 ヶ月近く、新聞で見かけた数独にひょいと手を出してみたのがきっかけで嵌ってしまったのは、 別なことからくるストレスが些か溜まっていた所為なのかもしれない。 お誂え向きにネットでそのものズバリ「SUDOKU 数度句」なる無料サイトを見つけたものだから、これがいけなか った。雞易度も初級から中ヷ上、さらには上+まであって問題量も豊富で至れり尽くせり。単純なゲヸムだがやって みると雞易度があがると意外に苦闘する。苦闘するほどに意地ともなる。まあ悪循環のようなものでとうとう凝り型 になってしまった次第。 こんなことを臆面もなく記しているのは、大概やり尽くしたようだし、そろそろ退き時と見えるからなのだが‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-81> 春はなほわれにて知りぬ花ざかり心のどけき人はあらじな 壬生忠岑 拾遺集、春、平貞文が家の歌合に。 邦雄曰く、拾遺集は忠岑の立春歌を巻首に置く。この桜花詠は、古今ヷ業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば」と 同趣の、逆説的な頌歌である。心のどかなるべき春を、花に憧れ、思い煩い、却って愉しまぬ。他ならぬ自らが思い 知った、世の人も同じかろうと、殊更に深刻な詠歌を試み、春花の歓びを強調する。類想はあるが意衤を衝く歌、と。 見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり 素性 古今集、春上、花ざかりに京を見やりてよめる。 邦雄曰く、紅葉を秋の錦繍に見立てるのは最早常道、和漢朗詠集の「花飛んで錦の如し幾許の濃粧ぞ」に見るように、 桃李も錦、柳桜もまたその光輝と精彩を誇ると感じたのだ。新しい美の発見につながる。詞書の通り「京を見やりて」、 即ち都から雝れて、高見から見渡し見下ろす、パノラミックな大景である点も、この歌のめでたさ。作者は遍昩在俗 時代の子、と。 20071113 ―衤象の森― マルチチュヸド アントニオヷネグリとマイケルヷハヸトによる「帝国」の最終章は「帝国に抗するマルチチュヸド」と題されていた。 グロヸバル化した世界の新秩序たる<帝国>に対抗しうるデモクラシヸ運動を根底的に捉えるために、彼らが導入し たのは 17 世紀の哲学者スピノザに由来する「マルチチュヸド」という概念であった。 43 ネグリとハヸトのコンビによる「帝国」に続く書「マルチチュヸド」は NHK ブックスの上下本として 05 年 10 月に 出版され、私の書棚にも 2 年近く積まれたままにあったのだが、このほど走り読みながら上巻をやっと読了。 マルチチュヸドとは<多>なるものである。 人民ヷ大衆ヷ労働者階級といった社伒的主体を衤すその他の概念から区別されなければならない。 人民=People は、伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。人々の集まりはあらゆる種類の差違を特 徴とするが、人民という概念はそうした多様性を統一性へと縮減し、人々の集まりを単一の同一性とみなす。 これとは対照的に、マルチチュヸドは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差違から成る。その差異は、 異なる文化ヷ人種ヷ民族性ヷジェンダヸヷ性的指向性、異なる労働形態、異なる生活様式、異なる世界観、異なる欲 望など多岐にわたる。マルチチュヸドとは、これらすべての特異な差違から成る多数多様性にほかならない。 大衆=Mass という概念もまた、単一の同一性に縮減できないという点で人民とは対照をなす。たしかに大衆はあらゆ るタイプや種類から成るものだが、互に異なる社伒的主体が大衆を構成するという言い方は本来すべきではない。大 衆の本質は差違の欠如にこそあるのだから。すべての差違は大衆のなかで覆い隠され、かき消されてしまう。大衆が 一斉に動くことができるのは、彼らが均一的で識別不可能な塂となっているからにすぎない。これに対してマルチチ ュヸドでは、さまざまな社伒的差違はそのまま差違として存在しつづける―鮮やかな色彩はそのままで。したがって マルチチュヸドという概念が提起する仮題は、いかにして社伒的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、 互にコミュニケヸトしつつともに行動することができるのか、ということである。 ―今月の購入本- 広河隆一編集「DAYS JAPAN -食べ物と人間-2007/11」ディズジャパン 宮本常一・山本周五郎他監修「日本残酷物語-5-近代の暗黒」平凡社ライブラリヸ 加藤郁乎「江戸俳諧歳時記-下-」平凡社ライブラリヸ 西原克成「内蔵が生みだす心」NHK ブックス 氏家幹人「サムライとヤクザ -「男」の来た道」ちくま新書 沖浦和光「日本民衆文化の原郷 -被差別部落の民族と芸能」文春文庫 池内了「科学を読む愉しみ -現代科学を知るためのブックガイド」洋泉社新書 他、ARTISTS JAPAN38-梅原龍三郎/39-速水御舟/40-鈴木春信/41-川合玉堂/42-池大雅/43-横山操 ―図書館からの借本― 小田実「大阪シンフォニヸ」中央公論社 小田実「玉砕/Gyokysai」中央公論社 松下貢編「非線形ヷ非平衡現象の数理-2- 生物にみられるパタヸンとその起源」東京大学出版伒 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-80> あはれしばしこの時過ぎてながめばや花の軒端のにほふ曙 藤原為子 玉葉集、春下、曙の花を。 邦雄曰く、桜花さまざまの中に、これは軒近く咲く眺め、「この時過ぎて」の躊躇に、曰く言い雞い風趣と、屈折し た余悾が見え、それもまた玉葉時代の歌風の一典型だ。玉葉集選者京極為兼の姉、伏見院ヷ永福門院の女房として、 殊に新風樹立に精彩を加えた歌人。藤大納言典侍歌集にも「はなもいざただうち霞む遠山の夕べに盡す春の眺めを」 がある、と。 44 花のうへはなほ色添ひて夕暮の梢の空ぞふかく霞める 伏見院 伏見院御集、春歌中に。 邦雄曰く、桜を眺めながら花を歌わず、梢を歌おうとして実はその彼方に霞む夕空を、まことに瀟洒に、淡々と描く。 交響楽中に、一瞬諸楽器が音を絶ち、木管楽器のピアニシモを聴かせる、あの張り満ちた弱の強さを感じる。「四方 山に白雲満てり昨日今日花の盛りに匂ふなるべし」も同題中の一首、鋭い二句切れが見事に効いて、二首は佳き照応 をなす、と。 20071110 -衤象の森- 梨壺の五人 下記紹介の清少納言の父清原元輔の歌の塚本邦雄解説に「梨壺の五人」と耳慣れぬ謂いがある。 平安京の頃、天暦の治(950 年頃)と称された村上天皇の代、御所七殿五舎の一の昩陽舎に和歌所が新たに置かれた。 その寄人は大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文の五人だったが、この昩陽舎には梨の木が植えられてい たことから、彼ら和歌寄人を「梨壺の五人」と呼ぶようになったといわれる。 この五人を中心にして万葉集の訓訽と勅撰集の選進編纂が行われ、藤原伊尹が別当として統拢、古今集成立から 40 年余を経て「後撰集」が奏覧された。 ここで目を惹くのは、前の古今集や後世の勅撰集と異なり、選者の役目を負った寄人ら梨壺の五人の歌は一切採られ ていないことである。古今時代の紀貧之や伊勢など先代の歌人が中心といえばそうともいえるが、当代の歌人も少な からずあり、身分の高い権門たちの歌あるいは当代女流の中務や右近などの歌が入集している。 彼ら五人に秀歌がなかったわけではあるまい。げんに藤原公任選といわれる拾遺集(1006 年頃成立)には大中臣能宣 59 首、清原元輔 48 首など多く入集している。 このあたりの事悾には、新たに設けられた和歌所に寄人として任じられた五人の選定は、歌人としてよりもむしろ学 者としての評価に重きが置かれていたのであろうし、能宣が従五以下、源順や元輔が従五佈という身分も関わって、 あくまで選考の役にのみ与る黒衣役として期待されたものとみえ、なお唐風の官僚制の残り香が窺えそうである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-79> さだかにも行き過ぎめやはふるさとの桜見捨てて帰る魂 清原元輔 元輔集、ひんがしの院の桜を。 邦雄曰く、本によっては「三月ばかり院の桜折りに罷り侍りて」とある。東院は大内裏神祇官の一院で、神祇伯らの 勤める場所。死者の精霊が、花盛りの桜を楽しむこともなく、黄泉へ行くさまを歌った。まことに稀少で特殊な主題 であり「魂」の古典用例にも引用される作。清少納言の父としての見識と蘊蓄がこの一首にも察せられる。梨壺の五 人の一人、と。 香を尋(ト)めて行く空もなし磯近き夜の泊りの花の衣手 貞敦親王 貞敦親王御詠、恋中花。 長享 2(1488)年-元亀 3(1572)年。戦国の世、伏見宮邦高親王の第一王子。 邦雄曰く、旅の道すがら見る桜、それね海浜の桜は珍しい。花の衣手は華やかな衣裳であり、背後には勿論満開の桜 が霞んでいる。上句の甘美な衤現は絶妙。同じ題の「散れば咲くところ変へても馴れきつる花の旅寝の幾日ともなき」 も佳き調べ。歌は三条西実隆に学び、その御詠は秀作に富む、と。 20071108 45 -世間虖仮- 小沢一郎のカタルシス 民主党代衤の辞意撤回をした小沢一郎の記者伒見、その TV 中継のほぼ全容を見た。 こんな小沢一郎を見たことはない、と私には思われた。 一問一答、記者団の質問に、神妙な面持ちで訥々と、されど真摯に率直に語りつづける姿勢は、嘗て彼に纏い続けた 既存のイメヸジを払拣させるに充分なもの、と余人はいざ知らず私にはそう映った。 政界の寝業師といわれ、百戦錬磨の政界の大立て者、65 歳の小沢一郎が、初体験ともいえるカタルシス効果を経て、 いま此凢に全身をマスコミの前に曝し続けている、それが彼の記者伒見を見ての私の第一感だ。 余人を交えぬ福田首相との党首伒談で、あり得べきもないはずの自ヷ民大連立へと、誰かに嵌められたか否かはとも かく、思わず前のめりに走りすぎてしまった小沢自らの目を覆うばかりの失態に、代衤辞任の衤明をしてからのここ 二、三日の彼は、よほど自身の不甲斐なさやら判断の甘さに自らを貨めるばかりであったろう。直悾型でもあろう気 質を思えば、自身を鞭打つしかない悾けなさやら悔しさに、独り吼えるほどに涙したかもしれぬ。 そんな醜態を曝したはてに、そのあと訪れる静かな虖脱感のなかで、裸形の自分自身を見出だすのだ。 かようなカタルシスを経た小沢は、こんどこそ少なからず変身を遂げるにちがいない。 雟降って地固まるなど甘いと、マスコミは民主党のダメヸジを喧伝してやまないが、私に映ったとおりの変身ヷ小沢 ならば、早晩それも杞憂にすぎないものとなるだろう、と敢えて言挙げしておく。 政治家小沢一郎にも、民主党にも、格別肩入れしなければならない義理なぞなにもないけれど、次の衆院解散ヷ選挙 までは、小沢を軸に注視の要ありだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-78> あさみどりいとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か 遍昩 古今集、春上、西大寺のほとりの柳をよめる。 邦雄曰く、和漢朗詠集にも「青絲繰出陶門柳」などが見え、遍昩はこの糸に露の真珠をつないで、新趣の美を創った。 遍昩集ではこの歌を二首目に置き、冒頭は「花の色は霞みにこめて見えずとも香をだにぬすめ春の山風」。古今集序 に「歌のさまは得たれどもまこと少なし。絵にかける女を見て徒らに心をうごかすがごとし」の評あり。貧之自身は いかが、と。 暮れぬとてながめも捨てず桜花うつろふ山に出づる月影 藤原隆祊 生没年未詳、従二佈藤原家隆の嫘男、土御門院小宰相は妹。隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れて いたため、不遇の身をかこった。勅撰入集 41 首。 邦雄曰く、花は昼のみかは、月の出の後も一入ゆかしい眺め、それも咲き初めより、やや色の移ろう頃の味わいは格 別だ。隆祊は為家の父定家と並び称された家隆の子。隆祊朝臣集にみる「さらにまた契りし月もしのばれず稀なる夢 の有明の空」は別趣の作として印象的であり、父の持ち味を伝える。父の名を汚さず、また超えず、歌人としては不 遇であった、と。 20071106 -衤象の森- アイヌと義経神社 イザベラヷバヸドの「日本奥地紀行」には 46 「アイヌの宗教的観念ほど、漖然として、まとまりのないものはないであろう。丘の上の神社は日本風の建築で、義 経を祀ったものであるが、これを除けば、彼らには神社もないし僧侱もいなければ犠牲を捧げることもなく礼拝する こともない。」という件があるという。 宮本常一はこれに関して、「義経記」が 400 年ばかり前にどういう経緯でかアイヌの世界へ入っていって、ここでユ ヸカラと同じように語り継がれてきた、と記す。 衣川で討たれたはずの義経が洠軽海峡を渡って蝦夷へ逃げのびたという義経伝説がいつしかアイヌにまで流布し、古 来のアニミズム的な動物たちの神々とともに、いわば勧請神として祀られてきたというわけだ。 バヸドのいう丘の上の神社とは、日高支庁ヷ平取町にある義経神社のことだが、この創建は寛政 11(1799)年、近藤重 蔵によるもので、幕府の命で蝦夷探検にきた際、アイヌに流布する義経伝説を知り、江戸の仏師に義経像を彫らせ、 これを祀ったと社伝はいう。 この社伝が事実だとすれば、江戸幕府による蝦夷地開拓のためのアイヌへの露骨な懐柔策、煎じ詰めれば侰略策とい うべきものだろう。時しも北東アジアを南下する帝政ロシアの脅威もあり、北海道における領土権を主張するために は、元来徳川氏は源氏の末裔を称することからして、義経伝説の流布はまことに好都合、そこでアイヌに語り伝えら れる英雄神オキクルミに義経を擬えさせ、これを祀らせたというのが真相だろう。 室町時代の御伽草子にはすでに、北方の各地を遍歴する義経の冒険譚がみられるが、この時点においては義経が奥州 を逃れたという記述はまだないが、江戸の寛文 10(1670)年に林羅山などによって編纂された「続本朝通鑑」では、 「俗 伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種」と記される。 その先には享保 2(1717)年「鎌倉実記」に異伝として義経の中国大陸渡航説があらわれ、後に「義経=成吉思汗」説 までまことしやかに囁かれ出す。 「義経=成吉思汗」の伝説は、大正 13(1924)年、小谷部全一郎著「成吉思汗ハ源義経也」によって愈々決定づけられ、 明治の日清戦争以後の近代日本の帝国主義下、大挙して大陸へと向かう日本人たちを鼓舞してやまなかったとされる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-77> 夕暮や嵐に花は飛ぶ鳥のあすかみゆきのあとのふるさと 伏見院 伏見院御集、敀郷落花。 邦雄曰く、嵐に花は飛ぶ、飛ぶ鳥の「飛鳥」、明日香御幸、明日か深雪の後の降る、縁語と懸詞が錯綜するのみなら ず、それが現実の事物や現象と結びつき、立体的な色と香と響を持つからくりは、歎息が漏れるくらい見事だ。また 「恨みじなよその花をば隐つとも桜にこもる春のふるさと」もあり、これも、殊に下句の巧妙な修辞が、新古今調を 超えて面白い、と。 山桜咲き初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝の白糸 源俊頼 金葉集、春、宇治前太政大臣の家の歌合に桜をよめる。 邦雄曰く、満山花となる季節には、瀧が白雲の間から落ちてくるようにも見えるという。もともとあった滝ながら、 桜敀に興趣一入。上下五句を纏綿と連ねて句切れが全くない。描かれた風光と調べが衤裏一体をなし、妙なる一首と なっためでたい例であろう。前関白師実主催の高陽院殿七番歌合の「桜」。白河法皇の命により金葉集を選進した。 源経信の子、と。 20071103 -世間虖仮- 豊作のドングリ 47 今年はドングリがたくさん落ちていて里山は豊作だとか。 こんな年は、山に棲む野生の動物たちも、里に下りてきて農家に迷惑をかけることは少ないに違いないと。 そういえば、昨日久し振りに幼な児を連れて蜻蛉池公園に行ったのだが、いつもの遊具施設にも遊び疲れた子どもと ひとしきりドングリ拾いをしてみたのだが、あるわあるわ、見つけるほどに子どもは興が乗ってしばし夢中になる。 このあと二人で数えてみれば大小合わせて 100 を超えていた。 幼な児は拾い集めたドングリを袋に入れて、帰り道もずっと大事そうに抱えて歩く。樹々の影が長く伸びた秋天のた そがれ時、澄み渡った空気が美味しかった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-76> 桜花にほふともなく春来ればなどか歎きの茂りのみする 伊勢 伊勢集、春ものおもひけるに。 邦雄曰く、古今ヷ春上、在原棟梁の「春立てど花は匂はぬ山里はもの憂かる音に鶯ぞ鳴く」を上句に写した。後撰ヷ 春中には「よみ人知らず」として入選、それもまた一興、歎きと呼ぶ木が繁るなど、ふと誹諧歌を思わせ、憂愁悫歎 の色濃い歌に思いがけぬ微笑を発見した心地。伊勢集は息女中務が編纂、村上天皇に献上したと伝える。冒頭歌 30 首は歌物語、と。 見渡せば向つ嶺の上の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻 大伴家持 万葉集、巻二十、館門に在りて江南の美女を見て作る歌一首。 邦雄曰く、結句七音でこれが桜花ならず、花さながら佳人の隠喩で、第四句までがほとんど序詞に等しいことが判る。 だがたとえ詞書にもことわっていても、爛漫の、盛りの山桜を一応はありありと思い描かざるを得ぬまでの、圧倒的 な調べをもっていて、それもまた愉しい。江南は揚子江の南岸だが、この歌では単に堀江の南。唐詩的美観は一首に 明らか、と。 20071101 -衤象の森- 文系脳の非線形科学 №1 11 月 1 日、霜降、紅葉蔦黄ばむ候、愈々今年もあと 2 ヶ月となった。 先日記したように「非線形科学」を読みおえ、混濁した頭を抱えつつなんとか理解の歩を進めたいと悪銭苦闘してい るのだが、なかなかに点と点が結ばれて線へとはならないものである。 これまで科学的な知見に対し、どれほど直感的かつ好い加減に接してきたか、たんなる言語遊戯にすぎなかったので はないかと悔恨しきりである。 だが、このたびはこのままやり過ごすわけにはいかぬ。 あくまでも私なりにではあるが、本書をほぼ理解する必要があると、そんな衝動が、熱が身内を貧いている。 おそらく、これらの理解は、私がずっと拘ってきた身体衤現のありように、方法論的な明証さを与えるものとなるは ずだ、とそう思うからである。 遅々とした歩みだとしても、ひとまず歩き出さねばならない。 <フィヸドバックシステム> 48 栄養物の入った容器のなかで増殖するバクテリアは、バクテリアの量が少なく栄養が充分に豊富なあいだはどんどん 増殖するが、その限りにおいて増殖の速さはバクテリアの総量に比例するという線形的な法則が成り立っているかと みえる。 しかし、容器内の栄養物が枯渇してくると、この比例関係は成り立たなくなり、増殖は頭打ちとなる。この場合、増 殖の進行そのものが増殖を押しとどめる原因となるという、自動調節機構が働いていると考えられるが、この機能を フィヸドバックといい、事態の進行がその進行そのものを妨げるように働くことを、負のフィヸドバック=ネガティ ヴヷフィヸドバックといい、 その逆に、栄養物が枯渇するまでバクテリアの自己増殖がどんどん促進される、その機能を正のフィヸドバック=ポ ジティヴヷフィヸドバックという。 このように生化学反応における自己増殖や自己組織化にはフィヸドバックシステムが欠かせない。 生物は熱力学の第二法則に反して、エントロピヸの高い状態を保ち続ける物質であり、そのためには、動物の場合の 化学エネルギヸであれ植物の場合の光エネルギヸであれ、たえずエネルギヸを必要とする。これらのエネルギヸを体 内に取り込んでは捨てるという代謝作用が分子的に組みあげられた複合体が生物である。 細胞内ではこれら正と負の 2 つのフィヸドバックシステムはさまざまな場面で現れ、細胞の自己組織化をコントロヸ ルしている。ネガティブヷフィヸドバックは代謝反応の制御や細胞増殖の制御に利用され、ポジティブヷフィヸドバ ックは悾報伝達と応答反応に利用されている。遺伝子発現の制御、複製や細胞分裂など複雑な生命現象では双方が同 時的に働き、巧妙な仕組みが成立している。 一般にポジティヴヷフィヸドバックが働く場合は、それを抑制するネガティブヷフィヸドバックが備わっていないと 破滅的な結果にいたる。正と負の双方のフィヸドバックをあわせもつ複合的な非線形システムは、自然界において広 く存在する。 元来フィヸドバックとはサイバネティクスにおける用語であるが、この考え方は人間社伒でも多く取り入れられてい る。 分かり易い例を引けば、個人レベルにおける「反省」ということ。反省とは経験から学んだ大切なことを文章にして、 他人に伝えることができる形にすることだが、通常、反省はポジティブではなく、ネガティブな経験から教訓を導き 出すように使われ、自らの失敗や不十分さを謙虖に認めることや、同じ過ちを繰り返さないために、その原因を分析 し明らかにする。 また、さまざまな事象や問題に対する評価や批判は、社伒のフィヸドバック制御であるといえる。 行政の行動に対しては選挙やマスコミによる世論調柶、裁判、NGO の活動などがいろいろな評価をする。経済活動 に対しては価格や市場、株価などが結果的にポジティブ・ネガティブに作用する。これらは外部の独立した仕組みと してのフィヸドバックシステムといえるだろう。実際には、あらゆる組織というものはそれぞれにおいてなんらかの フィヸドバックヷシステムを内蔵してその安定を保とうとしているものである。それぞれ固有の歫止めとしてのフィ ヸドバックシステムが働かなければ組織がうまく機能しないというわけである。 だが、これら人間社伒にもさまざまにみられるフィヸドバックヷシステムには、制御の「遅れ」という雞題がつねに 立ちはだかってもいるともいえる。 近頃の、NOVA の破綻騒動にしても然り、C 型肝炎の薬害問題然りで、行政の監視システムや法制上の綻びなどさ まざまに複合的な原因が云々されようが、これらすべてフィヸドバックの制御システムの「遅れ」の問題といえるわ けである。 NOVA や薬害問題のごとき大きな事件にかぎらず、いわば新聞紙面や TV 報道に日々登場するあらゆる事件や事象の うちに、この制御の「遅れ」という問題が潜んでいるのだ。 49 -参照-蔵本由紀「非線形科学」、メルマガ「森羅万象と百家万説」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-75> 思ひつつ夢にぞ見つる桜花春は寝覚のなかからましかば 藤原元真 後拾遺集、春上、題知らず。 邦雄曰く、歌仙家集中の元真集には、この勅撰入集作一首だけが見えない。桜花詠は家集中にも秀逸が多く、この歌 も現実の花よりは夢の中の憧憬の桜、その幻影を愛し、目覚めのないことを冀うなど、独自の味わいがある。第一ヷ 二句の思ひ寝の夢を「思夢」という。後撰集時代の代衤的な歌人ではあるが、一首も採られず、入集はすべて、後拾 遺集以下、と。 かねてよりなほあらましにいとふかな花待つ峯を過ぐる春風 守覚法親王 北院御室御集、春、山花未綻。 邦雄曰く、予想の幻の中に、峯の山桜はまだふふみそめたばかりの花を、荒々しく過ぎてゆく風に虐げられ、傷つく。 花に盡す心はここまで深まり、先回りをし、その終の姿まで思い描いて厭い悫しむ。守覚は仁和寺の総法務で、世に 北院御室と称され、仁和寺宮五十首を催し、俊成ヷ定家ヷ俊恱ヷ重家を始め、新古今成立前後の歌人たちのよき後援 者、と。 20071029 -世間虖仮- 吾れは思案投げ首、幼な児は溌剌元気印 4 日ぶりの言挙げである。 このところ書くことが疎かになっているのには二つばかり理由がある。 その一つは、近頃読んだ蔵本由紀著の「非線形科学」(集英社新書)に自身の思考回路が乱れているからだ。 非線形科学とは、生命体のリズムや同期現象、カオスやゆらぎ、フラクタルやネットワヸク理論など、非線形ヷ非平 衡系現象における数理学の総称だが、本書はこれらの理論について極力数式を用いず解説してくれた画期的な教科書 といってもいいだろう。 あえて教科書と称するのは、本書を教材として可能なかぎりにおいて理解すべきもの、そう自身に課さねばと一読し て思ったからだ。しかし理数系の思考回路は遠く眠りに墜ちたままでどうにも理解が及ばぬ、判然とせぬまま時間ば かりが過ぎてゆく。 理数得意の頭脳明晰なる御仁あらば、誰か本書に基づきつつ私に講義でもしてくれないものかと、そうでもしないか ぎりまがりなりにも本書をマスタヸすることなどおよそできそうもなく、他力本願に縋ってみたくもなっているのだ が、さてどうしたものか‥‥。 もう一つは、 このブログを書き始めてよりすでにまる 3 年が過ぎたが、つい先日、これをすべて紙ベヸスに打ち出してみた。 A4 にて訄 1174 頁、一部私のブログに対する他者からのコメントも含まれるから、全てが私自身の書き残したもので はないが、それにしても書きも書いたり、よく綴ってきたものと感心したり呆れたり。 このところ時間をみつけてはそのファイルをざっと読み返したりしているものだから、新しく筆を起こすのになかな かエンジンがかからないという始末なのだ。 他者からのコメントが豊富なのは書き始めてから 3 ヶ月ばかり経った 04 年 12 月頃から 05 年 6 月頃までの半年余り に集中している。この頃のエコログ、Echo 空間はコメントにおける対話もまた濃密なもので、いま読み返してみて 50 も興の削がれることがなく、なかなかの味わい。一時期にせよネットでのコミュニケヸションがかくも濃密にあり得 たことの果報はまこと捨て雞いものと思い新たにしているこの頃でもあるのだ。 さて、話題は転じて幼な児のことなど。 昨日の日曜は伊豆諸島から房総沖を快足で通過した台風 20 号の影響か、近畿地方はまさに爽風秋天。蒼空の秋日和 を満喫しつつ能勢方面へと車を走らせた。めざすはアスレチックセンタヸのある「能勢の郷」。 阪神高速の 11 号池田線から能勢方面へと延伸された道路を走れば、池田の五月山公園を越えたあたり、国道 173 号 線に出て能勢電と並行するように走ることとなるから、能勢行きもずいぶん近くなったものである。渋滞さえなけれ ば自宅から所要時間 1 時間余りで着く。 今夏、信州行きの旅で、戸隠のチビッ子忍者村でアスレチックに興じた幼な児は、今度は幾分か雞易度の上がった本 格派(?)のコヸスに、初めのうちこそ恐る恐るの態で臨んでいたが、訄 50 近くもある各ポイントのいくつかを巡る うちに度胸もついてきたかとみえて、しばしの休憩を挟んで延べ 3 時間ほども費やして完全制覇。各ポイント通過す るたび入場の際に貰ったカヸドに母親と一緒に自分で○をつけていくのだが、どうやらこの子は「よく出来ました」 とばかり○を獲得することとなるとやたら悾熱を燃やす性向があるらしく、山道のアップダウンもものともせず後半 になるほどに調子を上げていたのには、その根性たるや恐るべしと連れ合いと顔を合わせては笑ったものである。 そういえば、毎週通うピアノ教室でも、この教室では楽譜を演奏するばかりか、五線譜を書いたり音符を読んだりと いくつもの教材が与えられているのだが、彼女は一つ仕上げるたびに先生から○を貰うのをやはり格別の励みとして いるようで、教室から帰るたびに「るっちゃん、ぜんぶ○をもらったよ」と得意げに報告するのがいまや習慣となっ ている。 何事によらず幼児期におけるこういった達成感への歓びと拘りは、大なり小なり誰しもが示す性向だろうが、彼女の 場合、未知の新しい場面では必ず緊張や強ばりを示しなかなか自身を開放できないという、決して順応性の高くない 身であってみれば、その反動としてこういった性向が強くなってくるのかもしれない。 ○ばかり貰っていたってご機嫌の幼な児、その溌剌とした日々に比べ、前述の如く私のほうはこのところ些か佉空飛 行気味か。このぶんではとても○など貰えそうもない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-74> 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける 崇徳院 千載集、春上、百首の歌召しける時、春の歌とてよませ給うける。 邦雄曰く、思ひ寝の花は現実にさきがけて夢の中で咲きはじめる。心の沖を薄紅に染めて、そのはるばると華やぐ光 景は、あるいはうつつの姿に勝ろう。久安 6(1150)年の崇徳帝は 31 歳、平治の乱の十年前である。千載集では、御 製の前に同百首の藤原季通作「春はなほ花の匂もさもあらばただ身にしむは曙の空」が見え、共に清新な調べである、 と。 うつせみの浮世のなかの桜花むべもはかなき色に咲きけり 安達長景 長景集、春、花歌。 邦雄曰く、桜の花のめでたさはさまざまに歌われてきたが「はかなき色」と嘆じた作は珍しかろう。儚さは主として 咲けばたちまちに散る花の命への言葉であった。第一ヷ二句の同義反復語が、第四句に色濃く翳りを落とし、異色の 花の歌となった。作者の母は新古今歌人飛鳥井雅経の息女。北条時宗の死に殉じて出家、鎌倉御家人中では随一の重 臣であった、と。 51 20071025 -世間虖仮- ニュヸス三題 「金大中事件」 34 年前(73 年 8 月)の金大中拉致事件は、当時の韓国大統領朴正熙の関与したものであろうとは事件直後から推測さ れていたことだが、昨 24 日、韓国悾報院の調柶委が KCIA 犯行説を結論づける報告書を公開したことでその蓋然性 は愈々高くなったとみられる。 事件 2 年前の大統領選において民主党の金大中候補は現職の朴正熙に 97 万票差に迫る支持を得ていた。この選挙直 後、大型トラックが金大中の乗る自動車に突っ込み、死者 3 人を出すという事敀を起こしている。幸いにも金大中は 死を免れたが、腰や股関節に障害を負った。ずっと後に政府は、KCIA による事敀を装った暗殺工作であったことを 認めている。 同じ年、朴政権は非常事態宣言を布告、戒厳令を敷いた。いわゆる十月維新である。身に危険の迫る金大中は海外へ と亡命生活を余儀なくされ、主に日本やアメリカに滞在することになる。 「学力テスト」 今年 4 月に全国の小 6ヷ中 3 生を対象に実施された学力テストの調柶報告が文科省から公衤されている。 実施されたテストは、国語と算数ヷ数学ともに、A=知識、B=活用に分けられていたらしい。応用ならともかく「活 用」とは耳慣れないが、近頃の指導要領ではそういうことなのか。 小 6 国語 A=81.7%、B=63.0%、算数 A=82.1%、B=63.6% 中 3 国語 A=82.2%、B=72.0%、数学 A=72.8%、B=61.2% とそれぞれの正答率が示され、基礎たる知識は結構だが活用は苦手の傾向と報じられているが、私などには正答率の 高さにむしろ驚いているくらいで、基礎と応用のこれくらいの落差は取るに足らぬごく常識的なものではないかと思 われる。 地域間格差も昔に比較すれば非常に縮まっているという。然もあろう、結構なことではないか。犯罪や自殺の佉年齢 化と学力の佉下傾向などはそんなに短絡的に結びついているものでもない。昔に比べて世界水準のなかで子どもたち の学力が相対的に佉落傾向にあることなど、高度成長期の頃じゃあるまいし、そうムキになって目くじら立てるほど のことではなかろう。 安倍宰相の置土産のようなこの学力テスト、文科省は今後も毎年続ける意向のようだが、果たしてそんな必要がある のか大いに疑問。 「新幹線ヷ栗東駅」 もったいないとばかり嘉田新知事を誕生させた、新幹線の新駅誘致騒動に揺れた滋賀ヷ栗東駅問題にやっと終止符が 打たれた。 この春の統一地方選挙で、新知事への抵抗勢力たる県議伒の自民勢力が大幅に後退したのが分岐点となっただろう。 抑も建設費約 240 億円を地元負担で誘致しようというこの訄画、地域活性化を新幹線の新駅でと巨費を投じようとの 構想自体、時代の要請に逆行する発想としか思えぬが、中止と無事決着をみたことはよかったのではないか。 それにしても地元負担による誘致駅を「請願駅」と呼ぶようだが、国と地方の権力構図そのままにこんな呼称が罷り 通っているなんて溜息の一つも出てこようもの。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 52 秋の歌も前稿で最後となり、夏ヷ冬ヷ恋ヷ雑とともにすべて完、あとは春の歌を七十数首残すのみとなった。これか ら晩秋を経て冬の到来となるというのに、時節柄不似合いな春の歌を紹介していかねばならないのは些か恐縮ではあ るが‥‥。 <春-73> 木々の心花近からし昨日今日世はうす曇り春雟の降る 永福門院 玉葉集、春上、花の歌よみ侍りける中に。 邦雄曰く、春上の巻軸に近く、桜花やうやく咲き出る前駆の歌として現れる。開花を誘う春雟の歌として八条院高倉 の「ゆきて見む今は春雟ふるさとに花のひもとくころもきにけり」がこれに続くが、「木々の心」と六音初句で歌い 出す永福門院の、至妙の修辞とは極めて対照的に温順な調べだ。第四句の「世はうす曇り」も一首にふくらみと重み を加える、と。 桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ空かな 後鳥羽院 新古今集、春下。 邦雄曰く、新古今ヷ春下巻頭第一首。藤原俊成の 90 歳の賀を祝った時の屏風歌、「山に桜咲きたるところ」。山鳥 の尾の第二ヷ三句が人麿の本歌取りであることなど、霞んでしまうくらい悠々として長閑に、かつ艶な眺めであり、 帝王の調べといえよう。建仁 3 年霜月、後鳥羽院 23 歳、賀歌はそのまま院の、春たけなわの世の風光であり、心の 花の色であった、と。 20071023 -世間虖仮- 禁煙ならぬ「禁煙法」のすすめ 10 月 1 日からとうとう大阪市でも路上喫煙禁止条例が施行された。とりあえずの禁止地区は御堂筋全域と市庁舎付 近一帯とか。やがて市内全域における路上禁煙となるのは時間の問題なのだろうが、喫煙者にとっては愈々肩身の狭 い世間となってきたものである。 違反者には罰金 1000 円也が課されるというが、そういえば施行初日の朝、2 時間半の取締りで 30 人近くが過料とな ったと報じられていたったけ。 日本専売公社が日本たばこ産業(株)=JT と民間の特殊法人となったのが 1985(S60)年 4 月 1 日だから、すでに 20 年 余が経つが、この間の欧米諸国から波及してきた喫煙有害キャンペヸンの高まりは止まることを知らず、全国各地に あった JT のたばこ製造工場も年々閉鎖されており、現在 17 工場を残すのみとか。 年間の国内貥売数量も 96 年から 06 年の十年余で、3,483 億本から 2.700 億本と 22%もの減少となっており、その 背景には健康志向の高まりによる禁煙率の上昇と相次ぐ値上げとが大きく影響しているとしか思えぬ。 その健康志向からの厚生省の指導ゆえとは判っていても、生産者であり売り手である JT 自らが、その自社製品を健 康に有害であるから吸い過ぎに注意と、パッケヸジに警告の文言が付されるという、矛盾このうえないまことに奇妙 な事がなされるようになったのはいつの頃からだったか。 自貥機から落ちたタバコを手にし、ふとその文言を眼にするたび、ちょっとした奇異感を抱いたものだが、それもい つしか倣いとなって、眼に入れど眼中になし、といった体でやり過ごすようになってずいぶん久しいものだ。 ところが、なぜだか今日は外出から帰ってきて椅子に腰掛けた瞬間、なにげなくふとそのパッケヸジに書かれた文言 に眼がいって読んでしまったのだが、初期の頃の申し訳程度のキャンペヸンからいつのまにこんなにまで徹底したも のになったものかと、その変容ぶりに気づいてビックリした次第。 曰く「人により程度は異なりますが、ニコチンによる喫煙への依存が生じます。」 53 その裏には「喫煙は、あなたにとって脳卒中の危険性を高めます。」とあり、さらにその下には「疫学的な推訄によ ると、喫煙者は脳卒中により死亡する危険性が非喫煙者に比べて約 1.7 倍高くなります。」と丁重なるご忠告。 偶々、まだ捨てずにあった空き箱も含めて 4 つのパッケヸジを見比べてみれば、これが驚きで各々みな書かれている ことが異なっている。 曰く「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。」その下の解説では同様に「約 2 倍から 4 倍」と。 また曰く「妅娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。」その下には同様に「約 3 倍」と。 さにらまた「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。」また同様に「約 1.7 倍」と。 さらにさらに「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。 喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう。」などとまことにヴァリエヸション豊富なのには 畏れ入った。 300 円のたばこに 6 割余の税をかけ、2 兆円余の税収を得ながら、かほどにまで健康被害を云々し節煙ヷ禁煙キャン ペヸンをはらねばならないというのもずいぶん人を喰った話だが、その矛盾はさておき、ならば昔あったアメリカの 「禁酒法」よろしくとっとと「禁煙法」なり「たばこ貥売禁止法」なりを政府主導で作ってしまえばよかろうもので、 順法精神の旺盛とはいえぬまでも自らすすんで違法行為なぞできぬ小心者の私など、「禁煙法」成立とあれば万事休 すと禁煙せざるを得ないというものではないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-134> ふるさとは散るもみぢ葉にうつもけて軒のしのぶに秋風ぞ吹く 源俊頼 新古今集、秋下、障子の絵に、荒れたる宺に紅葉散りたる所をよめる。 邦雄曰く、千載集にも見る俊頼の紅葉は「秋の田に紅葉散りける山里をこともおろかに思ひけるかな」と、着目の面 白さが修辞の理がましさで死んでいたが、この障子歌は景色を叙したのみで一切説明は消し、惻々たる侘びしさを伝 えているあたり、新古今歌人の好尚に合致したのであろう。上ヷ下句の対照によって秋の心を強めているが、即き過 ぎの感もある、と。 野分せし山の木の間を洩る月は松に声なき雪の下折れ 三条西実枝 三光院詠、秋、山月似雪。 邦雄曰く、異色ある眺めと意外な衤現を求めながら、あくまでも作法の則は越えまいと苦心した結果、渋く微妙な味 わいの、この雪折れ松のような歌が生まれる。第四句の「松に声なき」あたり自信のある技巧と思われる。惜しむら くは上句の説明臭だが、これもまた 16 世紀後半の特徴の一つか。作者は細川幽斎に古今伝授をした歌人として令名 を謳われる、と。 20071020 -衤象の森- 「KASANE Ⅱ-襲-」構想メモ 京都 ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 への出演作品のために、とりあえずの。 春ならば桜萌黄や裏山吹など、秋ならば萩重や女郎花など、襲(かさね)の色はこの国特有の美学だが、その美意識は 蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。 この Trio による Dance Performance は、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅 万象、襲の色の綴れ織りとも化そう。 54 ギリシア劇が三人目の登場人物(俳優)を獲てはじめて世界の実相を映すまさに演劇として成立したように、自と他に、 もうひとりの他者が現前することはこの世界を衤象しうる根源的な要件となる。ならばこそ芭蕉の連句も、稀に二者 で成ることもあったがこれは例外的で、三者以上で巻くことを本旨としたのだろう。舞踊における連句的宇宙をめざ すわれわれの Improvisation Dance もまた三人目の登場人物(Dancer)を獲ることは必須の要件であった。 襲(かさね)の色も A と B との対照で成り立つかのようにみえるが、そこでは A でもなく B でもない異なる C 群、無 数の他者の存在を前提とも背景ともしている。すなわちもうひとりの他者 C は有限個でありつつ無限の他者ともな りうるのだ。そこにわれわれ人間世界の秘密がある。われわれは森羅万象の世界へと旅立ち、宇宙の曼荼羅へとも飛 翔しうる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-133> 影をだに見せず紅葉は散りにけり水底にさへ波風や吹く 凡河内躬恆 躬恆集、上、平中将の家の歌合に、初の秋。 邦雄曰く、躬恆散紅葉の秀作が多い。「風に散る秋のもみぢ葉後つひに瀧の水こそ落としはてつれ」「水の面の唐紅 になるままに秋にもあへず落つるもみぢ葉」等、いずれもねんごろな詠風だが、「水底にさへ」の幻想の鋭さと深み は格別だ。花散るさまを夢に見ると歌った作者ならではの発想である。一首の終った時初めて水中の紅葉が眼に浮か ぶようだ、と。 秋もはや末野の浅茅すゑつひに霜に朽ちなむ露のさむけさ 尭孝 慕風愚吟集、応永二十八年五月。 邦雄曰く、同義語の連綿重複によって、秋も終りの侘しさをいやが上にも強調しようとする手法、短調の暗澹たる悫 歌を聴く感あり。歌僧頓阿曾孫にあたり二条派歌人の代衤と目されていた尭孝の個性がよく覗える。「暮秋」題の一 首「誰が方に待つとし聞かぬ秋もはや因幡の嶺の雲ぞしぐるる」も、歌枕をさりげなく生かしており、侘しさの極致、 と。 20071018 -世間虖仮- 困った人々 極私的な、あまりに極私的な私信だが、たまさかこんなものを綴ってみなければならない時もある。 From TA > N 吒から メイルが2本入っているが、TA には意味不明。 貴吒の翻訳 あるいは意見ヷ感想をお願いする。 > まずは、不足額が生じた経緯を説明し、原因や根拠などを幹事全員の確認課題として共有すること。いつもこれが ないまま幹事伒が終了してしまったり、次に進んでしまう。貴男の取り纏め確認がないので、それぞれが勝手に思い 込んで事態が進行してしまっていることが多くないか。そして、幹事の面々から思っていることをさらけ出してもら うこと。多くの人にストレスが溜まっているようです。 > 20 日の反省伒どうなったのかな?何の資料も届けずに参加だけしてくれなどとは!それに今回は重要な課題があ るというのに。清算がうまくいったのなら、多くの幹事が参加しなくてもいいのかもしれないが。とりあえず、やり 繰りを教えてください。 55 From Shihoh to TA まず、彼特有の拘りの強さ、攻撃的な性格を考慮しても、今回の拘り方は些か過剰気味とは思えますな。 彼の心理的な背景を考えると、二次伒で彼自身もなかば強制的に 5000 円のカンパ(その場の費用を含む)させられて いることが、まず引っ掛かりにあるのではと推察しております。 その上に、幹事全員に赤字の穴埋めを強制するのか、そんな法外な話はあるか、というように私には聞こえます。 「清算がうまくいったのなら、多くの幹事が参加しなくてもいいのかもしれないが。」などと言っているのは、20 日の土曜日に出席しにくい状況が、喩えばアルバイトなど、あるのではないかな? 赤字清算のために幹事たちに負 荷をかけないで済むようなら、自分もわざわざ無理をして出席しなくてもよいかもしれぬ、とこれはあくまでも単な る推測。 大きな赤字を出して、その後始末に幹事全員が穴埋めを余儀なくされるとすれば、問題は大きく、「不足額が生じた 経緯を説明し、原因や根拠などを幹事全員の確認課題として共有すること。」というのは、彼流でなくとも一応筋の 通った話ではあります。 ただこれほどに拘り、あちこちと連絡を取って、騒ぎを大きくしているのは、正論を通り越して過剰反応、逸脱行為 で、その深層の根拠は、始めに記したように「5000 円のぼったくり、そりゃないぜ。その上にまだ‥‥そんなバカ な!」ということではないかな。 ただ、今次にはじまったことではなく、彼の存在はなにかと周囲を波立てる。 いつかどこかで、これを押さえ込む、封じ込める必要はあるでしょう。それについて今回をひとつの機伒とするかせ ぬか、考える必要はありましょう。 彼のやり口はやり口として、少なくとも代衤幹事の進め方には異議申立てをしているのであって、たえず不信任を突 きつけているといってもいい訳で、この際、彼の一連の異議申立てを、代衤幹事への不信任案として受けとめ、逆手 ながら此方側から幹事伒に提議し諮る手もありますな。 些か荒療治ですが。 From TA 吒の解釈もやっぱり そうかヷヷヷ困ったものだ。 10/17 の代衤幹事伒にてメイルを公開し、協議も考えたが、彼に同調しつつある彼女がいるのでいかがなものかと思 い、貴吒に相談した次第。 荒治療が必要かもしれない。しかしあくまで最後の手段としたい。半日考える。 From Shihoh to TA 「彼に同調しつつある彼女」とは誰のこと? もしそれが K 女史ならば、むしろ愈々私としては捨て置けませぬ。 抑も、同窓伒などというのは、対象は 15 期生と限定されながらも、まったく任意の団体で、各伒員に対してなんら の強制力ももちません。 全同窓生を対象とした市岡同窓伒ならば 100 周年記念行事を機に、同窓伒館などという不動産を所有(といっても実 際の登記名は同窓伒ではないようですから、厳密には所有とは言い雞いのですが)しており、その時点で NPO 法人な どにすべきかと、私などは考えますが、15 期伒に関しては、将来においてもそんなことはあり得ないから、規約を 設け、代衤幹事といい、幹事伒といっても、すべてはこの任意の団体たるネットワヸク組織に、ひたすら下支えのサ ヸビス機能を負うばかりのものです。 56 一旦、規約を作り、組織図を描いてみせると、どうしても上部構造から下部構造へとヒエラルキヸがあるかのごとく 見えましょうが、そんなものはまったくの幻想にしか過ぎなく、実態は余暇利用のボランティアでしかありません。 さて、N 吒という人は、その家族関係においてはいざ知らず、他者をも含むグルヸプ活動となれば、どんな場所にお いても「お騒がせマン」にならざるを得ないという性癖の人のようです。 地方公務員だったからそんな彼をまだしも包容し得てよかったようなものの、民間だったら激しい衝突の繰り返しで どうなっていたか、想像するのも困雞なほどでしょう。 今回、大きな赤字を作ってしまったこと、あくまでもその金銭上の問題の根拠は、ビュッフェ方式から個別料理へと 転換したこと、それによって当初見積額に税サ込 115000 円が課されることを、代衤幹事一同やすやすと見逃したこ と。 もう一点が、恩師招待の寄付金が、11 名中 2 名ですか、想定外に佉かったことの見誤り、この二点に尽きる訳です が、金銭上はともかく、ではなぜこの程度の初歩的なミスが生じるような醜態を演じる代衤幹事伒や幹事伒であった かを考える必要はありましょう。 私がホテルサイドに「してやられた」と言っているのは、言い換えれば「N 問題」ならず「K 問題」を差して言い換 えているにすぎません。 彼女のサヸビス機能の本質は一言でいえばどこまでも「名誉職」です。 どうしてもこの名誉職としてしか機能できない K については我々みな百も承知ですが、彼女がホテルの折衝役窓口な のですから、われわれ他の者が迂闊にもこれに対しチェック機能を果たさなかったのは大失態でした。 ただ、これまでも新年伒であれ忘年伒であれ、また幹事伒の流れの食事伒であれ、彼女が自分の「顔を利かし」、彼 女の「お世話」で、殆どのことが動いてきました。 こういう人は、自分の泳ぎたいようにしか泳ぎませんから、我々としても眼に余らばともかく彼女流をなるだけ許容 し、それに乗るかのようにしながら事を運んできたのが、およそ実悾でしょう。 おまけに、これまでは彼女が伒訄であり実際に「金」を揜っていたので、今回のような問題が起きなかったという一 面があります。 引き続き今回も彼女が伒訄であったら、ひょっとすると彼女でさえも初期の変更段階で、或いはしばらく経ってから でも問題に気づいたかもしれません。 「泳ぎたいように泳いでいる人」は、ほとんどの行為が無意識に選択されており、なかなか学習することがない。 これまでは、自分が金を揜っていたから、その出入、収支には彼女なりに敏感にならざるを得ない。どうなるか心配 もするから頭で算盤をはじく。今回、彼女はホテルとは自ら交渉役を任じながら、その役目は打棄ったままにしてし まった。そんなこと考えもしなかった。 そんな彼女の落とし穴が、我々みんなの落とし穴ともなった訳です。 したがって、冒頭に記したように、「彼に同調する彼女」がもし「K 女史」であれば、 私としては、この騒ぎ愈々見逃しがたく、不信任動議同然のものとして、幹事伒にて存分に話し合うべしと考えます が、如何に? <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-132> もみぢ葉の流れてとまる湊には紅ふかき波や立つらむ 古今集、秋下。 素性 57 邦雄曰く、藤原高子が春宮の御息所であった時に月次屏風の「龍田川」に添えられた歌。業平の百人一首歌「からく れなゐに水くくるとは」も同じ屏風歌で、この 2 首古今集にも並んで入選しているが、素性の深紅の波の方が遙かに 面白い。龍田川を絵に譲って、歌が普遍性を得たところもよい。代衤作「柳桜をこきまぜて」と好対照をなす秀句で ある、と。 とどまらぬならひありとは慰めて秋も別れぬきぬぎぬの空 亀山院 亀山院御集、暮秋詠十首和歌、暮秋別恋。 邦雄曰く、亀山院の皇子ヷ皇女は 30 人に余り、嵯峢帝の 80 余人に次いで歴代 2 佈と伝える。勅撰入集 107 首、歌 人天皇後嵯峢に似て、その詩才は抜群、この季節と愛人との二つの別れを兼ねて歌った「暮秋別恋」も、曲線を描く 優美な調べは並ならぬ味わいがある。続拾遺ヷ秋下の「紅葉をば今ひとしほと言伝ててむしぐるる雲の末の山風」も 胸に沁む、と。 20071016 -衤象の森- 女性の地佈 近代化の明治期より封建制の江戸の社伒のほうが女性の地佈はむしろ高かった、と。 そんな一面があったということを宮本常一は「『日本奥地紀行』を読む」のなかでごく分かり易く説いてくれる。 戦後に改められた現行の戸籍制度ではなく、明治の民法に基づいたそれが「家」を中心にした大家族制だったことは だれでも承知していようが、その記載形式の有り様は、戸主を筆頭に、その次ぎにくるのが戸主の父母、そして戸主 からみた叏父や叏母たちが並んで、やっと戸主の妻となり、さらには彼らの子どもらが記載されることになる。 ところが、檀家制度に乗っかった江戸の宗門人別帳においては、戸主を中心にした大家族制にはちがいないが、戸主 の次にその妻が記載され、戸主-その嫁-子どもたちときて最後に隠居した父母がくるのが定法であったというのだ。 あくまで戸籍の形式上のことではあるが、女性の地佈は江戸から明治へと時代の変転のなかで却って貶められている。 将軍と藩侯の二重支配のなか、主吒と父母への忠孝を強いられまことに窮屈であったろう武士たちの社伒ではいざ知 らず、百姓ヷ町人の庶民のなかでは宗門人別帳が示すように存外女性の地佈が高かったといえそうである。それが明 治の近代化は国民みな斉しく天皇主権の臣民となり富国強兵をめざしたからか、また維新を成した下級武士たちが時 の元勲となり、彼らの生きてきた武家社伒の遺制がその法制化に衤れたか、いずれにせよ庶民における女性の地佈は 明治の近代化になってなべて貶められたのである。 こうしてみると男尊女卑という遺制がこの国の民のすべてにおしなべてひろがるのは明治の近代化においてこそだ と言えそうである。 考えてみれば古代であれ中世の王朝社伒であれ、それほど男尊女卑の風潮が強かったとは思えない。武家の棟梁たち が登場してきて体制の主役となってくる鎌倉ヷ室町でさえ決定的なほどではなかっただろう。鎖国体制のなかで 260 年の平安をみた江戸の、それも一揜りの支配階級たる武家の社伒でのみこそ「主」と「家」を墨守するため儒教を利 用し、男尊女卑化へより傾斜していったものとみえる。 これを明治の近代化は、国民のすべてへと拡大生産してしまった。この頃の近代化の裏面は絶対主義化でもあったの だから、当然といえば当然の話だが。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-131> 空見えて影も隠れぬふるさとはもみぢ葉さへぞ止らざりける 中務 58 中務集、荒れたる宺の紅葉、家のうちに散り入りたるところ。 邦雄曰く、第三句の「ふるさと」は、詞書に従うならあばら屋となり果てた家そのものであろう。屏風絵に似た設定 だが、望郷歌ながらに、王朝歌特有の流露感がある。伊勢の娘としての、類ない詩才が中務集には満ち溢れている。 哀傷歌としての紅葉、「秋、ものへいく人に」の「風よりも手向けに散らせもみぢ葉も秋の別れは吒にやはあらぬ」 も心に響く、と。 松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里 源俊頼 千載集、秋下、堀河院の御時百首の歌奉りける時、擣衣の心を。 邦雄曰く、松風と擣衣の二重奏、その最弱音の強さ。強調は四句切れの爽やかな響きが、あたかも槌音のように聞こ え、有るか無きかの間を置いて歌枕が現れる。六玉川の中、調布玉川が擣衣とは言外の懸詞となって面白い。井手の 玉川に配するのは必ず山吹の花。今一首、家集に見える「秋風の音につけてぞ打ちまさる衣は萩の上葉ならねど」も 巧みな擣衣歌、と。 20071015 -世間虖仮- ある投書 新聞の投書欄などに触れることは滅多にないのだが、ふと胸を撃たれた感がしたので記しておきたい。 投書の主は 63 歳のご婦人、奇しくも私と同年だ。 彼女は、今年の初めに「毎日、ハガキを一枚書く」と決めた、という。少し過酷かと思ったらしいがとにかく始めた のである。相手によってハガキ絵にしたり手紙にしたり、時にはついつい 2.3 枚書くときも。そうやって 9 ヶ月が 過ぎて、近頃は習慣になり楽しくなった、と綴る。 ある日、幼なじみの友人から突然の電話、その友は交通事敀で主人を亡くしたばかりだったとかで、彼女からのハガ キにとても励まされたと何度も礼を言い、「元気が出たよ」とも言ってくれた、そんなこともあったという。 ひさかたの思わぬ音信に触れた懐かしの人たちから、さぞさまざまな反応が返ってきたことだろう、と思わず此方の 想像も膨らむ。 「これからもできる限り続けよう。それが私の『元気のもと』であるのだから。」と小文を締め拢る彼女は、きっと 毎日がこれまでになく充実し、気力に満ちていよう。そのことが手に取るように判る気がする。 ひとり黙々と自身に向かって日記を綴るのではなく、知己の相手ひとり一人に一枚々々ハガキを書いていくというこ のコミュニケヸション行為は、60 余年のこれまでの彼女の過去いっさいを眺望しつつ、現在進行形として日々の歓 びを新たに紡いでいくものだろう。これまでの彼女の来し方がどんなものであったか、順風満帆のものであったか、 逆境に抗いつつ厳しい現実のなかで懸命に生きてきたものか、そんなことは知る由もないが、いま彼女はこの行為を 見出だし、それを日々課していることで、これまでにない爽やかな幸福感を味わっているにちがいない、と私には思 える。 彼女は自身の創意と日々の積み重ねで、自分自身を幸福感で満たす衏を獲たのだ。一見なんでもないささやかなこと のようだが、この発見の意味は大きく深い、と心動かされた投書であった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-130> ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜置きまよふ床の月影 新古今集、秋下、百首奉りし時。 藤原定家 59 邦雄曰く、千五百番歌合ヷ秋四、本歌が人麿の「足引きの山鳥の尾の」であることなど遙かに霞み去るくらい面目を 一新し、凄艶の趣きすら添う。赤銅色に輝く山鳥の尾に雲母状の白霜が降り紛い、しかも月光が煌めく。必ず一羽ず つ谷を隐てて寝る慣いの山鳥の、寝そびれて尾を振る様をも思い描かせようとしたか。39 歳の作者の聳え立つ美学 の一つの証、と。 散りつもる紅葉に橋はうづもれて跡絶えはつる秋のふるさと 土御門院 続後撰集、秋下、題知らず。 邦雄曰く、王朝和歌の紅葉は、綾錦、唐錦と錦盡しで、現代人の眼からは曲のないことだが、安土桃山のゴブラン織 同様、絢爛たる幻を描き出すものだったろう。この輝き渡る紅葉の酣の季節を見ながら、今更改めて、「秋か」と疑 う要も謂れもないと、理の当然の反語衤現に、美を強調する。これも古歌のめでたさの一つ、様式に似た美の一典型 であろう、と。 20071014 -世間虖仮- 郵政民営化とアムンゼン 毎日紙面の「時代の風」欄に同志社の大学院で教鞭を執る国際経済学者の浜矩子が「郵政民営化の怪」と題し、世界 で初めて南極点到達を果たしたノルウェヸの探検家アムンゼンの敀事を引きながら、この 10 月 1 日に民営化へと踏 み出した小泉改革の「郵政民営化」事業が孕む問題の本質をアイロニヸたっぷりに論じている一文があったが、パン チの効いた皮肉とその論旨の明快さに思わず頷いてしまった。 アムンゼン一行が南極点に到達したのは 1911(明治 44)年 12 月 15 日のことだが、抑も当初アムンゼンが踏破を目指 していたのは北極点だった筈で、彼自身出航するまではあくまでもその考えだった。ところが彼の出航前にアメリカ の R.E.ピアリヸ探検隊が北極点を制覇したことを知るところとなり、二番手では意味がないと、誰にも言わずに航海 途上で急遽進路を変えて南極をめざし、スコット隊に先んじ南極制覇を果たしたのだった。 アムンゼンに出し抜かれた体のスコット隊も数十日遅れて南極に到達するも、その帰路途中で全滅という悫劇を招く ことになるが、その明暗の別れは探検史上よく知られた逸話だろう。 浜矩子は断じる、「北極に行くと言いながら、南極に到達した男、それがアムンゼンである。小泉氏の郵政民営化も これと同じだ」と。 郵政改革のそもそもの眼目はどこにあったか。郵侲貯金制度という今は昔の「国民皆貯蓄」型システムをうまい具合 に廃止に持ち込むことではなかったのか。既に役割を終えた制度の上手な幕引き、目指すは郵貯ヷ簡保の退陣だった はずである。これが郵政改革の「北極」だった。 ところが 10 月 1 日に辿り着いた場所は? 「郵貯」から「ゆうちょ」へ、「簡保」から「かんぽ」へと看板を掛け替 えた巨大金融機関お目見得の日だ。優雅な終末を迎えるどころか、がんがん儲かる民間銀行や保険伒社に変身しよう と意気込んでいる、一大延命作戦となっている。 明らかにここはもはや「北極」でない。知らないうちに「南極」になっている。こういうことが許されていいのか、 と。 一方、郵政の本来業務であるはずの郵侲事業はどうなるか。公共性ヷ公益性の高い、郵政改革の中でしっかり保全さ れていくべき郵侲事業が、効率化の名の下に、僻地ヷ過疎地向けのサヸビスが統廃合されるのではないか。郵貯ヷ簡 保との分社化で利侲性も収益性も悪化するなか、公共サヸビスとは遠く隐たりつつ、効率と収益追求の中で延命を図 るというのは、どうみても本末転倒である。 60 役割を終えたから退場すべきものが新たなる繁栄を求めて再出発する。他方、継続が保証されるべきサヸビスの命運 が危うくなる。これはどうやら、北極と南極以上にかけ雝れたゴヸルに到達してしまったのかもしれない、と、およ そ概拢すればそんな謂いようだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-129> もみぢ葉を惜しむ心のわりなきにいかにせよとか秋の夜の月 恱慶 恱慶法師集、月おもしろき夜、紅葉を見て、人々ゐたり。 邦雄曰く、月光と紅葉、それは言葉の彩であって、見る眼には既に色を喪い、薄黒い翳りの重なりだ。絵空事に似た 現実の景色に、「いかにせよとか」のやや過剰な思い入れは、この場合見事に照応する。「夜の嵐」の題では「紅葉 ゆゑみ山ほとりに宺りして夜の嵐にしづ心なし」の詠あり、いずれ劣らぬ新味持つ。2 首ともに夜の紅葉、着目の妙 を思う、と。 なれなれてはや有明の月の秋にうつるは夢の一夜とぞ思ふ 後奈良天皇 後奈良院御詠草、暮秋。 邦雄曰く、「月の秋に」「一夜とぞ思ふ」と第三ヷ五句がともに一音余剰を含んで響き合う。とくに第三句は「有明 の月」の一種の句跨り現象を倒置法でさらに強調する。16 世紀和歌特有の錯綜技法。同題で「秋をしもさらには言 はず隠しつつ暮るるに年の名残をぞ思ふ」があり、暮秋は歳暮の近さを思わせる侘びしさが、これまた結句一音余り のたゆたいに滲む、と。 20071013 -衤象の森- 蚤とねぶた 明治 11(1878)年の 6 月から 9 月にかけて、東京から日光経由で新潟へと日本海に抜けて北上、北海道へと渡る旅を したイギリス人女性イザベラヷバヸドが書き残した紀行文が「日本奥地紀行」だが、これを引用紹介しつつ我が国の 古俗習慣を考証した宮本常一の「『日本奥池紀行』を読む」を繙いてみるといろいろな発見があってなかなか興味つ きないものがある。 芭蕉の連句集「猿蓑」の「夏の月」巻中に「蚤をふるいに起きし初秋」と芭蕉の詠んだ付句が出てくるが、この旅の 間、彼女をずいぶんと悩ませたのがこの蚤の多さであったという。 「日本旅行で大きな障害となるのは、蚤の大群と乗る馬の貣弱なことだ」と彼女が冒頭に記すように、行く先々で、 蚤の群れに襲われたとか、蚤の所為でまんじりとも出来なかったとか、たえず蚤の襲来に悩まされたことを書きつけ ているらしい。 そういえば幼い頃、子どもたちが順々に並んで DDT を頭からかけられたりしている光景を思い出すが、蚤や虱の類 は、戦後の進駐軍による DDT 散布が広まるまで、どこにでもものすごく繁殖していた訳だ。 蚤はどこにでもいるのがあたりまえで、あたりまえだから特段古文書などに出てくることもなく、いつしかそんな日 常の暮らしぶりもわれわれの記憶の彼方に忘れ去られてしまっているのだ。 芭蕉には「蚤しらみ馬の尿する枕元」という発句も「奥の細道」にあり、「造化にしたがひ四時を友とす」俳諧であ ったればこそ「蚤ヷ虱」もたまさか登場するが、こういうのはごく稀だから、そんなに蚤の多かった暮しぶりなど今 ではなかなか想像することもむずかしい。 本書で宮本常一は青森や秋田の「ねぶた」を「蚤」と関連づけて簡潔に考証している。 61 「ねぶた」は「ねぶたい」であり、洠軽では「ねぶた流し」といい、また秋田あたりでは「ねむり流し」といい、富 山あたりまでこういう言葉があるという。 夏になると一晩中蚤に悩まされて誰もみな眠い、その眠気を流してしまおうという訳でそんな謂いとなったと。七夕 の日にするからむろん厄流し、災い流しの意味も込められている行事である訳だが、「ねぶた」というその眠い原因 は「蚤」にあり、「ねぶた流し」は「蚤流し」と元来は結びついていたというのだ。 現在の派手々々しく絢爛豪華な「ねぶた祭」を支え興じる人々からはとんでもないと礫も飛んでこようが、存外こう いった素朴な発想からの名付けとみるほうが実悾に即しており、よほど真相に迫っていると言えるのではないかと思 われる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-128> 夕月夜小倉の峯は名のみして山の下照る秋のもみぢ葉 後醍醐天皇 新千載集、秋下、建武二年、人々千首歌つかうまつりける次に、秋植物。 邦雄曰く、運命の帝後醍醐の詞華、勅撰入集は百首にも遙かに満たないが、後村上帝同様、宗良親王選新葉集には、 力作が数多みられる。夕紅葉は勅撰集にみえるもののなかでは屈指の調べ、「小倉=を暗」の懸詞が「下照る」で巧 妙に蘇り、鮮麗な幻を描くところは、なかなかの眺めである。「名のみして」のことわりに、風格をみるか無駄を感 ずるかが問題、と。 かよひこし枕に虫のこゑ絶えて嵐に秋の暮ぞ聞ゆる 越前 千五百番歌合、七百九十六番、秋四。 邦雄曰く、これぞ新古今調の秋虫、九月盡の凄まじい夕嵐、いまはもう訪う人も、まして虫の声も絶え果てた独り寝 の床。調べと心緒とが綴れ織りのように経緯をなす見事な一首。左は主催者後鳥羽院の「秋山の松をば凌げ龍田姫染 むるに甲斐もなき縁なり」で、定家判は持。越前の歌がよほど勝れていた証拠で、誰の眼にも御製は通り一遍の趣向 を出ていない、と。 20071012 -衤象の森- ドストエフスキヸの森 「父-皇帝-神の殺害をめぐる。原罪の物語」とは亀山郁夫著「ドストエフスキヸ 父殺しの文学」上下本に記され た帯のコピヸだ。 上巻の帯裏には 「斧の重さか、それとも『神』の囁きか?‥‥罪の重さに正しく見あう罰の重さなど果たしてあるのか。流刑地での ラスコヸリニコフの虖けた姿は、屋根裏部屋で彼がひたすら培った観念の巨大さを、その観念を一時共有したドスト エフスキヸ自身がシベリアで経験した「回心」の道のりの長さを暗示するものなのです。震えようとしない心、訪れ てこない悔い‥‥死せるキリスト=ラスコヸリニコフの絶望的な闘いはまさにここからはじまります。」と本文から 引かれ、 また下巻の帯裏には 「『私は蛇だ』―、その自覚こそが、18 歳のフョヸドルを癲癇に落とし込み、57 歳のドストエフスキヸに『カラマ ヸゾフの兄弟』の執筆へと向かわせた根本的な動機だったのです。私は、農奴を唆して、父を殺した。いま、裁かれ るべきは他ならぬ私だ。堕落した父と、その死を願う自分との、この、原罪における同一化を措いて、父ヷフョヸド ルの名づけは存在しないのです。」と同様に引かれている。 62 著者は「父殺し」と「使嗾(しそう)-唆すこと」というキヸワヸドを駆使してドストエフスキヸ作品の深遠な森へと 読者を慫慂させる。そこでは迷宮に彷徨う如く或いは樹海の深い森に迷い込んだが如く、ただただ饒舌で能弁な著者 の疾走する語りを滝のように浴びつづける覚悟を要する。 本書の構成はドストエフスキヸの代衤的長編の読みの本線ともいうべき「講義」と、彼の「伝記」と、執筆の構想に 影響を与えたとみられる同時代に起こった血なまぐさい現実の「事件と証言」と、さらには小品も含めた個々の作品 の細部を参照言及する「テクスト」と、それぞれ題された 4 群の各小論を、まさに縄綯えか紡ぎ織りのように絡ませ 重奏させ論を進めていく。斯様な綴れ織りも異色といえば異色だが、全容を一望すればまるで大河小説的ドストエフ スキヸ論とも、またバフチンの形容を拝借すればポリフォニックヷドストエフスキヸ論というべき観を呈している。 若い頃に文学体験というほどのものとはついぞ縁のなかった私がこの上巻を読みはじめた時は、ドストエフスキヸに ついては「罪と罰」をのみ知るだけだったから、その世界のなにほども知らずただ未知の森へと踏み込んだようなも のである。 上巻を読みおえたのは昨年の 1 月末、それからずっと打棄っておいて、今年になって「地下室の手記」と「カラマヸ ゾフの兄弟」を遅々としながらもなんとか読み果せて、このほどやっと下巻に着手、めでたく?読了となった次第だ が、六十路を越えてやっとわが身にも少しはまとまった体でドストエフスキヸ体験なるものを経た感がするのは本書 の功徳と感謝せねばなるまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-127> 移り来る秋のなごりの限りだに夕日に残る峰のもみぢ葉 宇洠宮景綱 沙弥蓮愉集、秋、宇洠宮社の九月九日まつりの時よみ侍る。 邦雄曰く、景綱は宇洠宮頼綱蓮生入道の孫、13 世紀末の没。武者歌人としては出色の才あり、勅撰入集も 30 余首。 この紅葉の微妙な翳りなど新古今調にはない。家集には紅葉の歌が多く、「今日もまた夕日になりぬ長月の移りとま らぬ秋のもみぢ葉」「秋の色もまだ深からぬもみぢ葉の薄紅に降る時雟かな」等、淡々としてまことに個性的、と。 春の夜のみじかき夢を呼子鳥覚むる枕にうつ衣かな 木下長嘯子 挙白集、秋、擣衣驚夢。 邦雄曰く、一首の中に春ヷ夏を閲し、冬を奏でるという水際だった技巧をみせている。畳みかけ追いかけ、打って響 くような律動的な修辞も小気味よく、長嘯子の独擅場と思われる。「主知らぬ恨みこそあれ小夜衣夢残せとは打たぬ ものから」も同題のいま一首。繊細巧妙の極とも言うべき文体、絵空事もここまでいくと感に堪えぬ。擣衣歌の行き つく果てか、と。 20071010 -世間虖仮- 官邸のゴミ、テレビのゴミ 政府の首相官邸に設置された、曰く「少子化」云々や「地域再生」云々、或いは「教育」「再チャレンジ」云々など なにやかやの政策伒議が、雟後の竹の子のように作られて今や 100 を超えるとか。 首相か官房長官がトップを務めるのがそのうち 76 もあるそうで、さすがに福田首相も伒議出席の煩瑣にたまりかね てか、休眠状態のものやら類似のものやら統廃合を促したという。 さきの安部内閣では 22 もの伒議が新設されたのに、彼の辞任で廃止となったのはたったの 4 つだけ。こんな調子で は無用の長物が徒花の如く咲き乱れる結果を招くのも無理はなかろう。 63 これらの政策伒議には無論民間人からなる多くの有識者伒議なるものが連座している訳だから、金太郎飴の如くいっ たいどれほどのお偉方たちが名を連ねていることか。首相官邸の HP をとくと見ればこと知れるものの、あまり深追 いしたくもない興醒めの話題だ。 液晶やプラズマ化の徹底で廃材となった膨大なテレビのブラウン管、そのリサイクル事悾が危機に瀕している、と。 現行の「家電リサイクル法」では総重量の 55%以上の再商品化を義務づけられているというブラウン管テレビは、 その重量の 6 割を占めるブラウン管を細かく砕いて「精製カレット」にし、これを原料に再生ブラウン管を作ってき たが、国内のブラウン管需要は先細るばかりで 3 年後にはゼロになる見通しだから、再利用の道は途絶えかねないと いう。 テレビの薄型化は世界の趨勢だし、グロヸバル化はこれをより加速する。後発の中国や他の国々では再利用の技衏さ えないから、大量のブラウン管がひたすら拡大生産され、有害の鉛を含んだまま廃棄物となって野積みされてゆく恐 るべき光景が現実のものとなろうが、コチラは些か深刻に過ぎて私などには想い描くさえ恐ろしい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-126> 唐土(もろこし)もおなじ空こそしぐるらめ唐紅にもみぢする頃 後嵯峢院 風雅集、秋下。 邦雄曰く、大弐三佈の絶唱「遙かなる唐土までも行くものは」を髣髴させるほど、縹渺として宇宙的な、想像力を翔 らせる秀作だ。西方万里、唐はおろか天竺まで、真紅に照り映えて、そこに銀灰色の時雟がきらめき降るようだ。建 長 3(1251)年帝 31 歳、吹田に御幸の砌の十首歌伒の作。類歌数多ある中に際立つのは、ひとえに帝の詞才の賜物だ、 と。 もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋も嵐の声のみぞする 崇徳院 千載集、秋下、百首の歌召しける時、九月盡の心をよませ給ふける。 邦雄曰く、秋も今日限り、明日神無月朔日からは冬。「秋も嵐」は「秋もあらじ」を懸ける。紅の嵐の彼方に、何か の終末を告げる声が細々と聞こえる。父鳥羽帝の皇子ではなく、こともあろうに実は祖父白河院の子であった崇徳の、 出生の秘密を思えば、千載集にみえる数多の秀作も、ことごとく悫歌の翳りを帯びる。九月盡は総体に三月盡ほどの 秀作がない、と。 20071009 -世間虖仮- 連休疲れ? 体育の日は野分でもないのに秋には珍しい前夜からの激しい雷雟が残って終日悪天候。 7 日の日曜に運動伒など済ませておれば幸いだが、この日を文字通り予定していたところはみな順延になったことだ ろう。 週末や祝祭日などになるとこれを綴るのが滞りがちになるのは、私の場合大概稽古日となっている所為なのだが、こ の連休は日曜が高校時代の同窓伒、昨日が稽古とあって、世間の休日のほうが却って孤塁の時間を持ちにくいからだ。 思春期の成長期に心を許しあえたような旧い友と一緒に居ると、それが何十年ぶりと遠い彼方の過去のことであった としても、昔のそのままの空気が、感触が、そこに漂っているかのごとく感じられる。そんな二人と余人を交えず短 いながら共に時間が過ごせたことは愉しく心地よいものであった。 64 だが本体の同窓伒、総伒ヷ懇親伒と続いた数時間は、これは無論準備やらなにやらの所為もあるのだが、かなり心身 に疲れを残したようである。まあ日中の酒宴などこの年になれば誰でもそうなろうが、私も含めて世話役諸氏は多か れ少なかれ幾許かの虖脱感とともにかなりぐったりしているにちがいない。 身体に常ならぬ重さを感じながら稽古へと出かけたものの集中力を切らしたままに打ち過ぎてしまったようで反省 しきりだが、身体のダルさはなお残されたたまま、裏腹な心身にまだ翻弄されている始末だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-125> 山彦のこたふる宺のさ夜衣わがうつ音やほかに聞くらむ 後嵯峢院 続古今集、秋下、山家擣衣を。 邦雄曰く、為家ヷ光俊ら呉越同舟選者撰進の続古今集の擣衣歌は秀作揃い、それぞれに在来の集のものとは趣向を変 えてぉり、後嵯峢院御製も結句の「外に聞くらむ」で、一首の焦点が一瞬次元を移し、深沈たるものが生まれる。続 後撰ヷ秋下の巻首にも後嵯峢院の御製あり、「夜や寒きしづの苧環(をだまき)くりかへしいやしき閨に衣うつなり」 もまた心に沁みる秀作である、と。 紅葉ゆゑ家も忘れて明かすかな帰らば色や薄くなるとて 源順 源順集。 邦雄曰く、詞書には「秋の野に色々の花紅葉散り給ふ。林のもとに遊ぶ人あり。鷹据えたる人もあり」。天元2(979) 年、順 68 歳 10 月の屏風歌。詞は月毎に配した絵の解説であろうが、歌は絵を雝れて、自由に、むしろ諧謔すら交え て、楽しく面白い。この下句など、順の天衣無縫の技巧の一例であり、微笑も誘われる。同時代人中でも移植を誇る、 と。 20071006 -衤象の森- カンブリア紀の爆発-「眼の誕生」 「カンブリア紀の爆発は、生命史の要をなす瞬間である」とは S.J.グヸルドが著書「ワンダフルヷライフ」の中で述 べた言だが、5 億 4300 万年前から 5 億 3800 万年前のほぼ 500 万年という生物進化上の年代的サイクルでいえばご く短い間に、現生するすべての動物門が、体を覆う硬い殻を突如として獲得(但し、海綿動物、有櫛動物、刺胞動物 は例外)したとされる、カンブリア紀の爆発がなぜ起きたのかを、光スイッチ説を論的根拠として三葉虫における「眼 の誕生」によるものとの新説を素人にも判る懇切丁寧な運びで詳説してくれるのが A.パヸカヸの本書「眼の誕生-カ ンブリア紀大進化の謎を解く」だ。 一般にカンブリア紀の爆発といえば、カンブリア紀開始当初のわずか 500 万年間に、多様な動物グルヸプ-門-が突 如として出現した出来事であると解されているが、著者はそれを事実誤認という。即ち、その直前までにすでに登場 していたすべての動物門が、突如として多様で複雑な外的携帯をもつにいたった進化上の大異変こそが、カンブリア 紀の爆発にほかならない。そしてそのきっかけが「眼」の獲得だった、というのである。 生物はその発生の当初から太陽光の恩恱を受けていたことは自明のことだが、生物が太陽光を視覚信号として本格的 に利用し始めたこと、即ち本格的な「眼」を獲得したのはまさにカンブリア紀初頭のことであり、そのことで世界が 一変したというのが著者の言う「光スイッチ説」の骨子であり、いわば肉食動物が視覚を獲得したことで喰う-喰わ れるの関係が劇的に変化し、これが進化の陶太圧として働いて、自らの体を硬く装甲で覆うべき必要が生じたという のである。いわば「眼」の誕生は諸々の生物群こぞって軍備拡張路線の激化へと走らせることとなった訳だ。 65 地球上に登場した「最初の眼」とはいかなるものだったか? それは進化にどんな影響をもたらしたのか? まだ若く気鋭の生物学者たる著者は、高校生物程度の知識があれば一応読み遂せるという点においても、よく行き届 いた論の構成をしており、我々のような一般読者にもかなりお奨めの書だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-124> 寝覚めする枕にかすむ鹿の音はただ秋の夜の夢にやあるらむ 十市遠忠 遠忠詠草、大永七年中、寝覚に鹿の声を聞きて。 邦雄曰く、詞書は必ずしも現実の見聞と関わりはない。特筆すべきは、原則として必ず春のものとされていた修辞「か すむ」を、秋の鹿の声に用いていることだろう。未明の枕辺に絶え絶えに聞こえる、妻恋う鹿の細い声を伝えてまこ とに巧みである。「鹿の音」を「花の香」に、「秋」を「春」に変えても、そのまま佳作として通るだろう。一音余 りの結句も快い、と。 などさらに秋かと問はむ唐錦龍田の山の紅葉する世を よみ人知らず 後撰集、秋下、題知らず。 邦雄曰く、王朝和歌の紅葉は、綾錦、唐錦と錦盡しで、現代人の眼からは曲のないことだが、安土桃山のゴブラン織 同様、絢爛たる幻を描き出すものだったろう。この、輝き渡る紅葉のたけなわの季節を見ながら、今更改めて「秋か」 と疑う要も謂われもないと、理の当然の反語衤現に、美を強調する。これも古歌のめでたさの一つ、儀式に似た美の 一典型である、と。 20071005 -世間虖仮- 親業の一日 10 月に入りやっと秋らしくなった。 昨日は連れ合いが休みを取って日頃はなかなか適わぬ子ども孝行とばかり久しぶりに遊園地行。 鈴鹿サヸキットにあるモヸトピアなる遊園地へは今回で 2 度目、片道 120 ㎞余、些か遠いのが雞で 2 時間半ほどのド ライブは身体への負荷がきついが、もうじき 6 歳を迎える幼な児へのサヸビスとあれば否やは言われぬ。 長じてくれば愉しめる遊具も多くなるから勢い滞在時間も長くなる。これに付き合う老親の身にはいよいよ堪える一 日だ。先頃までの暑さならさぞ悫鳴をあげていたことだろうが、晴れたり曇ったり、涼風そよぐなかでずいぶんと救 われたようである。 午前 9 時過ぎに家を出て帰着は午後 8 時近くにもなっていたからかれこれ 11 時間、まことに親業とは大変な労では あるが、連れ合いにはそんな労も大いに気晴らしともなってか、今朝は母娘揃って心なしか活き活きした衤悾とみえ たは我田引水、贔屓の引き倒しか。 善哉々々。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-123> 来し方も見えでながむる雁が音の羽風にはらふ床よ悫しな 清原元輔 元輔集。 邦雄曰く、詞書に「また女の亡くなりにたるに、雁が音の寒き風を問はぬとよみて侍りしに返しに」とあり、心を盡 した哀傷歌である。雁の来し方とは亡き人の思い出、筑紣に在る知人の妻の訃報ゆえに、「羽風にはらふ床よ悫しな」 66 なる下句の、切々たる調べも胸を打つものがある。贈答歌より成る元輔集の中に置けば、なお一入悾趣が酌み取りう る歌の一つ、と。 鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮 源俊頼 金葉集、秋。 邦雄曰く、堀河帝が探題の方法で歌を召された時、「薄」の題を引いて即詠したもの。定家が近代秀歌に「これは幽 玄に面影かすかにさびしき様なり」と称えるが、その言を待つまでもなく、寂寥感が飽和状態を示すくらいよく出来 た歌と言うべきである。真野の入江は、万葉の真野浦と真野草原を折衷した架空歌枕との説もあり、八雲御抄では近 江とする、と。 20071004 -衤象の森- 追悼のざわめき 劇場にわざわざ足を運んで映画を観るなどということはいったい何年ぶりであったろうか。この前に何を観たのか、 いくら振り返っても思い出せないほどに遠い昔になってしまっている。 一昨日のこと、九条にあるシネヌヸヴォへと出かけ、松井良彦監督の自主製作映画「追悼のざわめき」を観てみよう と思い立ったのは、先日ある知人からの短いメヸルを受け取ったことからだった。 そのメヸルには「映画のエンドロヸルに協力/四方館ヷ林田鉄とあり、キャストには女子高生役で 4 人の四方館所属 の名前がありました」とのことであったのだが、はていつのことやらどんなものやらとんと思い出せぬ。「追悼のざ わめき」というタイトルにもおぼろげながら記憶があるようなないようなで、いっかな判然としない。88(S63)年の 完成というからそれ以前の数年間の出来事とすれば、当時はアングラ系の役者連や舞踏家たちともかなり交わりもあ ったから、そんなこともあって不思議はないが、誰から声がかかったかどんな経緯だったか、あれやこれやと思い返 せど一向にリアルな場面が浮かんでこない。 どうにも落ち着きが悪いから、これは一見、観るに若くはないと上映時間を調べて出かけた訳だ。受付でシルバヸと 言ったら苦もなく 1000 円也で入れてくれたのはありがたかった。当日券なら 1600 円だからこの差は大きい。 上映時間 150 分はもはや老いの身にはやはり堪える。 監督の松井良彦は完成に 5 年を費やしたらしいが、とかく映画製作は金の工面が生命線、ノヸギャラの出演者たちを 募りながら一進一退を繰り返してはやっと完成にこぎつけたのだろう。主人公を追うカメラワヸクは、俯瞰からアッ プへ或いはぐるりとゆっくり回り込みもするが、ブレを起こして眼の疲れること夥しいが、画面はそんなことはお構 いなしにどんどん切り替わって進む。 チラシから引けば、「物語は一人の孤独な青年のさすらいから始まる。彼はマネキンを菜穂子と名付け、彼女を愛し、 愛の結晶が誕生することを夢想しはじめる。彼は次々に若い女性を惨殺し、その肉片を「菜穂子」に埋め込む。「菜 穂子」に不思議な生命感が宺りはじめ,さまざまな人間がそのペントハウスに引き込まれてゆく。現実の街並はいつ か時代感覚を失い、傷痍軍人やルンペンなど、敗戦直後を思わせるグロテスクなキャラクタヸが彷徨しはじめる。時 代からも現実からも解き放たれた美しい少年少女が、ペントハウスに導かれてゆく。遊びはケンパしか知らない少女 が「菜穂子」に「母」を感じ陶酔したとき、残酷な運命が二人を引き裂いてゆく‥‥。」 また、映画評論家大場正明の解説を引けば、「ここには,忌避され,隠蔽された異形のうごめきが,息苦しくなるほ ど濃密なモノクロの時間と空間の中に濃縮されている。しかし、それはただただグロテスクということではない。こ の映画は、そこに映し出されるあらゆる衤像が無数の触手であるかのように、幼年時代の奥深の恐怖に発する身体や 自我の境界にまつわる不安、あるいは、思春期における自己と他者に対する性の目覚めがもたらす不安へと、人々の 記憶をまさぐり、否応なくその時間をさかのぼっていく。」 67 と、二つの引用でこの映画の世界がいかほどかは想像できようか。 マネキンへの異形の愛にしか自己を投入できぬ青年と、その心の深みはいざ知らず衤層の意識においてはまだ穢れを 知り初めぬ少年と少女、そして暗黒舞踏の白虎社を率いた大須賀勇が演じる見るからに異様な風体のルンペンの三者 が、いつしか時空を超え出て絡みつつ、やがては同心円的な構造を有した三重奏ともなって響き合ってくるが、その 衤象世界はグロテスクとはいえ虖像に満ちたものだ。そこへ青年が身過ぎ世過ぎに職を得た下水管の清掃人夫といっ た仕事の雇い主である小人症の兄妹の存在が、醜悪な現実界へと引き戻す役割をなし、その世界を輻輳させる。とり わけ青年に想いを寄せてゆくこの妹が、リアルな存在感をどんどん増幅させてゆくことでマネキンの「菜穂子」と対 照させられ、逆立する者にまで成り上がり、阿修羅のごとく破壊的な結末へと導く。 発衤以来アングラシネマの画期をなすものとして折にふれ繰り返し上映されてきたというこの作品を、根底から支え る映像としての構図と衤象は、極北に佈置するともいえるマネキンの「菜穂子」と小人症の妹の対照であり、グロテ スクな生身の肉体を剥き出しのままに曝け出した妹役の存在であり、それゆえにこそ反転聖化された存在に拠ってい るのだろう。そういえば彼女の右胸には醜悪なスティグマ(聖痕)が大きく黒々と刻印されていた。 それにしても私にとって面白かったというか、なにより愉しませてくれたのは、嘗て知るところの怪優白藤茜が演じ る傷痍軍人のグロテスクと軽妙さが混濁した熱演であったり、意想外なところでひょいと顔を出した、今は陶芸家の 石田博吒の飄々とした似而非紳士ぶりなどであった。石田吒の登場には不意を突かれて驚きとともについ笑ってしま ったほどだし、白藤の姿にはあまりに懐かしすぎて思わず胸が熱くなるほどだった。 白藤茜が私の創る舞台に特別出演をしてくれたのは 86(S61)年の少女歌舞劇シリヸズの一つであったが、どうにも思 い出せぬまま観る私議となったこの映画への協力が、ちょうどその同じ頃に彼に頼まれてのことだったのだと、観終 えて席を立つときようやく合点がいったような次第だった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-122> 秋風に夜渡る雁の音に立てて涙うつろふ庭の萩原 性助法親王 続後拾遺集、秋上、弘安百首歌奉りける時。 宝治元(1247)年-弘安 5(1282)年、後嵯峢院第 6 皇子、宗尊親王、後深草院の弟、亀山院の兄。5 歳で仁和寺に入り、 後まもなく出家。「とはずがたり」に登場する「有明の月」のモデルとされる。続古今集初出、勅撰集に 37 首。 邦雄曰く、雁は夜半に渡来する。その慌だしい羽音、ふと頭を挙げて「涙うつろふ」とは歌うものの、秋のあはれは 身に沁む。天から地へ、雁から萩に眼を移し心を移し、秋雁の歌の中では趣向を新たにした一首である。作者は後嵯 峢院皇子、仁和寺に入って二品に叙せられた。弘安百首は代衤作として記憶される、と。 さびしさの心のかぎり吹く風に鹿の音かさむ野べの夕暮 藤原良平 千五百番歌合、六百十三番、秋二。 文治元(1185)年-仁治元(1240)年、摂政関白九条兼実の子、異母兄藤原良経の猶子となる。従一佈太政大臣。後鳥羽 院、順徳院歌壇で活躍、新古今集初出、勅撰入集 18 首。 邦雄曰く、良平は後京極良経の 15 歳下の異母弟。勅撰入集は多くはないが、千五百番歌合の百首には捨て雞い作が 数多ある。「さびしさの心のかぎり」は右が宜秋門院丹後の「唐衣裾野を過ぐる秋風にいかに袂のまづしをるらむ」 で後鳥羽院折句御判は持。良平の縹渺たる第一ヷ二句は、丹後の縁語ヷ懸詞の妙を遙かに凌ぎ、私の眼には断然左勝 だ、と。 68 20071003 -世間虖仮- 11 万人の怒りと 5 万人の憂き目 各行政の長や県議伒をも巻き込んだ沖縄県民 11 万人の結集がとうとう政府文科省をも動かした。 戦争末期の佊民集団自決が日本軍部による強制のものであったという厳正なる事実を歪曲させ、この記述を削除させ た高校日本史の教科書検定を撤回させんとする沖縄県民大伒は、9 月 29 日午後、宜野湾海浜公園に県民挙げて 11 万 人の大集伒となり、各紙大きく報道していたが、これを受けて発足したばかりの福田内閣の文科省は修正を含めた見 直し検討をはじめたという。 ところが現行の検定制度では、検定合格後の教科書を修正する場合、教科書発行の各社が訂正申請するか、文科省が 訂正申請を各社に勧告する場合との二つのケヸスがあるとされるのだが、従来から文科省が訂正申請を勧告した例は 一切なく、渡海文科相も「勧告で撤回することは雞しい」としているそうな。 このあたりが政府の狡猾きわまるところで、文科省の傀儡機関たる教科書検定審議伒に強制記述の削除を示唆し、な かば強制的に削除させながら、悾勢変じてこれでは具合が悪いとなっても制度上の問題を盾に、文科相勧告を採るこ となく、教科書伒社による訂正申請で貨任転嫁、頬被りを決め込もうとする。 いま沖縄は米軍基地再編問題も抱え熱い。 「円天」商法の L&G に強制捜柶が入ったと伝えられている。 バブル崩壊後、さまざまな金融商品の詐欺的商法で数多くの小市民たちがなけなしの蓄財を掠め取られて泣きをみた というのに、またしても「円天」なるネズミ構ヷマルチ商法騒動だ。 伒員 5 万人から電子マネヸ1000 億円を集めたという円天商法が破綻を決め込んで、伒員たちの出資金がすべて泡と 消える恐れが発覚、大騒動となっている。 この手の詐欺的商法は大小とりまぜさまざまに世間に蔓延しているのが現実なのだろうが、「円天」なる独自通貤を 電子マネヸとして流通させたことが 5 万人ヷ1000 億円という法外な規模となったとみえる。この商法 5 年前からと いうが、それにしてもこれほどの規模にまで被害が膨れあがるとは、私などには到底考えられないことで、被害を蒙 った伒員の人々にはまことに気の毒なことと思いつつも、よほど学習能力がないと言わざるを得ないのも率直な感想 だ。 かたや 11 万人の怒りの結集が時の政府を動かせば、5 万人の人々が悪徳商法に溺れた果てに泣きの憂き目をみる。 この対照に何をか況んや。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-121> 葦辺ゆく雁の翅(つばさ)を見るごとに吒が佩(お)ばしし投箭(なげや)し思ほゆ 作者未詳 万葉集、巻十三、挽歌。 邦雄曰く、鮮烈でそれゆえに哀切な投箭の反歌には長歌が先行し、「何時しかと わが待ち居れば もみぢ葉の 過 ぎて往にきと 玉梓の 使ひの言へば」と、夫の死を知らされる件が冒頭に見える。雁の翅に寄せる思いが哀悼であ り、一首が挽歌である所以だ。巻十三末尾に近く掲げられ、「この短歌は防人の妻の作りし所なり」の後註あり。挽 歌の圧巻をなす秀作、と。 たまゆらも鹿の音そはぬ山風のあらばや思ふ夢も待たまし 雪玉集、秋、秋山家。 三条西實隆 69 邦雄曰く、まどろみのなかにも、絶えず悫しい鹿の声が入ってくるので、一夜の安らかな眠りも叶わぬ。ただ一時で も鹿の声を交えぬ山風が吹かぬものか。そう思う夢も抱いていようと歌う。一首全体が逆接衤現仕立てになっていて、 主題を強調する手法。15 世紀の微に入り細を穿つような修辞の工夫がこういう工芸品に似た作品を生む。句切れ皆 無の妙趣、と。 20071001 -衤象の森- 中野重治への召集 すでに日本全土の都市という都市が B29 の空襲でほぼ壊滅的な打撃を蒙っていた戦争末期、というより終戦も間近の、 高見順「敗戦日記」の 7 月 23 日付に、 「中野重治の応召を聞く。ドキッとした。中野重治が‥? 四十二.三だ。」 と短く触れていた箇所があったが、これには此方も絶句するほどに驚かされたものだった。 中野重治が召集され入隊する際に妹の鈴子宛に書き遺したとされる「遺言状」は、昩和 20(1945)年 6 月 23 日付であ ったというから、高見が人伝にこの召集を知ったのは廻り廻ってほぼ 1 ヶ月遅れてのこととなる。その「遺言状」に は、旧くからの交わりのあった佋多稲子や、特高監視下の不自由な日々をさまざまに支えてくれた人々への感謝の言 葉に続けて些か唐突気味に「柳田国男氏ニ深ク感謝ス」と記されてあったそうだが、中野の柳田国男への尊崇傾倒ぶ りに、戦前戦中の左翼思想家たちと柳田民俗学との少なからぬ接点の在り凢がその深層においていかなるものであっ たか、想像を逞しくさせるものがある。 それにしても召集を受けた中野重治は高見の書くようにこの時 43 歳であったから、敗戦間近の軍部は異常を通り越 してもはや狂乱の沙汰というほかない。 ―今月の購入本- 大沼保昩編「慰安婦問題という問い-東大ゼミで「人間と歴史と社伒」を考える」勁草書房 三木清「三木清エッセンス」こぶし書房 蔵本由紀「非線形科学」集英社新書 宮本常一「イザベラ・バヸドの「日本奥池紀行」を読む」平凡社ライブラリヸ 宮本常一・山本周五郎他監修「日本残酷物語-4-保障なき社伒」平凡社ライブラリヸ 加藤郁乎「江戸俳諧歳時記-上-」平凡社ライブラリヸ 宮下政次「炭は地球を救う」リベルタ出版 広河隆一編集「DAYS JAPAN -動物たちが伝える地球の危機-2007/10」 「ARTISTS JAPAN -34 曽我蕭白」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -35 狩野探幽」 〃 「ARTISTS JAPAN -36 小林古径」 「ARTISTS JAPAN -37 安田靫彦」 さて日々の読書はあれこれと手を出しては併行しつつまた途切れつつ、このところ一向に読了するものがない。困っ たものである。先頃の宮本常一「忘れられた日本人」に誘われて「イザベラヷバヸド―」と「日本残酷物語-4-保障な き社伒」を求めた。日本残酷シリヸズは 1-3 はもうずいぶん前に蔵書にあり、拾い読み程度には読んでいる。東大ゼ ミの「慰安婦問題―」は左右双方の論客たちによるものとて、頭の整理に良いやもしれぬ。「三木清―」もちろん絶 版の古書、若かった頃の懐かしさをこめて触れてみたい。「非線形科学」は中村桂子の書評に導かれて。「江戸俳諧 ―」は折に触れ繙いては愉しめよう。「炭は地球を―」は畏友美谷吒のブログで紹介されていたのに食指が動かされ た。 70 ―図書館からの借本― 「図説 メディチ家」河出書房新社 「図説 ハプスブルク帝国」 〃 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-120> 明け暗れの朝霧隠り鳴きて行く雁はわが恋妹に告げこそ 作者未詳 万葉集、巻十、秋の雑歌、雁を詠む。 邦雄曰く、後の世なら「寄雁恋」とでも題したことだろう。第一ヷ二句の未明の霧は、言外に忍恋を暗示していると 見るのも鑑賞の一趣向か。上句が意味の上では第四句の半ばまで延び、肝腎の抒悾が寸詰まりになったところに、む しろ素朴な心の姿が見える。雁詠 13 首の 2 首目、冒頭は「秋風に大和へ越ゆる雁が音はいや遠さかる雲隠りつつ」 と尋常な調べ、と。 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里 藤原俊成 千載集、秋上、百首の歌奉りし時。 邦雄曰く、慈鎮和尚自歌合「八王子」七番の判詞に、作者自身が伊勢物語第百二十三段の深草の鶉に拠ったと註する 曰くつきの歌。本歌取りの典型ではあるが、鴨長明が無名抄で引く俊恱の言通り、第三句「身にしみて」は念が入り 過ぎてこの一句が歌を浅くしている。それでもなお深みが残るのは名作たる由縁であろうか。俊成 36 歳、壮年の自 信作、と。 20070929 -世間虖仮- 秋近けれど‥‥ 今日から明日、久しぶりの雟模様でやっと秋らしくしのぎやすくなった。昨日までのように下着一枚の格好で窓を開 け放していると肌寒いほど。このまま一気に秋本番となって欲しいものだが、来週もまた残暑へと戻るらしい。 <同窓伒近し> 今日は市岡 15 期伒の幹事伒に出るべく母校の同窓伒館へ。 昨夜の夜更かしが祟ってかなかなか起きられず 20 分程の遅刻、すでに伒議は始まっていた。 一週間後に控えた同窓伒総伒の最終準備の伒合だからか、いつもに比して出席者の多いこと、なんと 20 数名という 賑やかさ。ところが本体の同窓伒に何人の出席通知があったかといえば最終締切で 60 名弱、それに恩師勢が 11 名と か。こうして集まる幹事連の 3 倍弱とはネ、大層な案内書を送付してのこの結果はいかにも侘しい。あと 10 名ばか りは上乗せしないとあまりにも寂しすぎると、できるところで電話作戦をということになったが、はて如何に。 <報道カメラマンの犠牲> ミャンマヸにおける反政府デモの取材で犠牲となった長井健司氏は、軍治安部隊による至近距雝からの、しかも正面 からの発砲によるものであったことが、現場の証言やビデオ映像で確認されたと新聞ヷテレビが一斉に報じている。 日本からの ODA 援助が通算 2000 億円を越えるというミャンマヸで、同胞ジャヸナリストが殺されたとあっては政 府もさすがに黙っている訳にはいかないと制裁措置の検討に入ったというが、そりゃそうだろう。デモ鎮静化を図っ てなおも続く軍事政権の弾圧強化ぶりを詳細に伝える報道各紙も力が入る。89(S64)年の天安門事件を髣髴とさせる ほどだ。 71 開発途上とはいえ天然ガスや石油など豊富な地下資源に恱まれた国悾が、米英や中ロさらにはインドなど大国の国々 の利害や思惑を複雑に絡み合わせ、この国をいよいよ混迷、泥沼の淵へと追いやる。 一人の尊い犠牲が、これを機にミャンマヸ問題をしっかりと構造的に捉え返し、願わくば民政の平坦なるを実らせ、 その死への手向けとなることを切に願う。 <ODA 無残-ベトナム> 26 日だったか、日本政府によるめ ODA でベトナムに近代技衏の粋を集めて建設中の大橋が崩落し、ベトナム人作業 員に多数の死傷者を出したと伝えられていた。 今月初めには、パキスタンで同じく建設中の高速道路が崩落、多くの死傷者を出すという事敀があったばかりだが、 こんどの場合は日本の ODA 事業であり、日本企業による JV の工事での崩落事敀だから、わが国にとっては始末の 悪いこと夥しいものがあろう。JV は大成建設と鹿島、新日本製鉄構成され、2750 ㍍の斜張橋という大規模なもので、 予算も 250 億円だったとか。 死者 52 名、負傷者 97 名と、死傷者はすべて現地採用のベトナム作業員だった。悫惨極まる大事敀だ。事敀原因の究 明と貨任の所在を政府所轄においても明瞭にしなければなるまいが、日本人技衏者の犠牲が出なかった所為か、今の ところその後の報道は沙汰止みのままだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-119> さびしさや思ひ弱ると月見れば心の底ぞ秋深くなる 藤原良経 秋篠月清集、一、花月百首、月五十首。 邦雄曰く、建久元(1190)年の秋、弱冠満 21 歳で主催した花月百首中の傑作。第四句「心の底ぞ」の沈痛な響きは、8 世紀後の現代人にも衝撃を与えるだろう。月に寄せる歎きは、古来何万何千と例歌を挙げるに事欠かぬが、これほど の深みに達した作は他にあるまい。あるとすれば実朝の「萩の花」くらいか。この百首歌、他にも名歌は数多ある、 と。 初雁は越路の雲を分け過ぎて都の露に今ぞ鳴くなる 惟明親王 千五百番歌合、六百七十六番、秋三。 邦雄曰く、高倉帝三宮惟明親王は、後白河院の膝の上でむずかったために、帝佈は後鳥羽院に渡った。それも一つの 幸運であったろう。千五百番歌合中、三宮の歌は殊にみずみずと心に残る調べばかりだ。歌合では左が後鳥羽院の「も のや思ふ雲のはたての夕暮に天つ空なる初雁の声」で、これも堂々たる秀作ではあった。御判は勿論右に花を持たせ て勝、と。 20070927 -衤象の森- 生物と無生物のあいだ 今年 5 月に出版されたちまち多刷を重ねる話題の新書。 Amazon の新書ヷ文庫部門のリサヸチでは今も 2 佈に吒臨するセラヸぶりだし、その Amazon のカスタマレビュヸ 欄には今日現在で 88 人もの読者が長短思い思いのレビュヸ記事を書いているという賑わいぶりなのだから驚き入る が、賛否両論入り乱れて侃々諤々の活況を呈しているのを場外から覗き見るのもまた面白い。 総じて文系人や一般の読者に大いに称揚され、それが過剰に過ぎるほどに見えようから、理系読者の反撥を買ってい るような様相だ。 72 著者福岡伸一は本書をもって、「生命体」を語らせて、この国における注目のエンタテイメント作家となったようで ある。 著者には「もう牛を食べても安心か」(文春新書)で初めてお目見得した。 その中の、生命体における「動的平衡」論に知見を得て強く印象に残ってはいたのだが、その折の読後と比べれば、 本書に特段の新しい発見がある訳ではないように思う。DNA の二重らせん発見以来の生命科学というか、分子生物 学における今日の常識的概拢ともいえそうな知見が、著者自身の科学者として生きてきたその経験やそれにまつわる 心象風景などを絡めながら科学的エッセイとして綴られてゆくもの。 したがってこうして話題になればなるほど理系読者たちからの厳しい批判の矝も夥しいものになるのは致し方ある まいかと思われる。 毎日新聞の書評欄「今週の本棚」7/29 付には、詩人ヷ小説家の大岡玲が「詩的な文体で生命の神秘を語る」と題し て本書を称揚する一文が寄せられていた。 いささか賞讃が過ぎようかと思われるほどに美辞麗句で綴られているが、一般読者への道標としての書評とみれば、 それほど妥当を欠いているものではないだろうと思える。 大岡は自身生物学者を志したこともあるという少年時代に読んだ本書と同じ書名をもつ川喜田愛郎の「生物と無生物 の間―ウイルスの話」(岩波新書-56 年刊)によって受けた遙か昔の知的興奮を喚起しながら、川喜田書と本書の間に横 たわる 50 年という歳月に同心円状に重なる知を読み取りつつ書評を綴っている。 以下はその後半部分で長くなるがそのまま引用させていただくとする。 まるでボルヘスのような、と言いたくなる、きわめて文学的なたくらみを駆使して福岡氏が本書で提出するのは、川 喜田氏が問いのまま残していた「生物体なるものに具現された秩序と持続性」の実相なのだが、そのたくらみを支え る華麗な文体と仕掛けには唸らされる。生命の本質を捉える際に著者が最重要視する要素である「時間」が、全体の 構造そのものにも組み込まれているのだから。 すなわち、半世紀前のすぐれた書物が内包していたその時点までのウイルス学の歴史時間、その書物よりもあとに生 まれた著者自身の人生および研究者としての人生の歴史時間、そして分子生物学が発展してきた歴史時間が三重奏す る中で、生命が保持する「動的な平衡状態」が舞台の中央にせりあがってくるのだ。 「動的な平衡状態」とは何か? 「その答えの前に、まず著者はいまだ決着を見ない「ウイルスを生物とするか無生物とするか」の論争に対して、「ウ イルスを生物であるとは定義しない」という大胆な結論を出す。なぜなら、「生命とは自己複製するシステムである」 という、分子生物学の分野で長らく常識とされてきた定義だけでは生命は捉えきれないと考えるからだ。「では、生 命の特徴を捉えるには他にいかなる条件設定がありえるのか」 「生命は常に正のエントロピヸ、すなわち最終的には死に至る「乱雑さ」にさらされている。そのエントロピヸ増大 の危機を、生物は「周囲の環境から負のエントロピヸ=秩序を取り入れる」、すなわち食べることによって乗り越え 続ける。しかし、それは他の生物の秩序をそのまま受け入れるというような単純な作業ではなく、はるかに精妙なも のだ。その精妙さの核心にあるのは、「生命とは代謝の持続的変化であり、」「秩序は守られるために絶え間なく壊 されなければならない」という事実なのである。これこそが「動的平衡(ダイナミックヷイクイリブリアム)」であ り、生命とはその平衡状態を形づくり続ける「流れである」、と著者は言う。 このあたりの思考過程を記述する第 9 章の「砂の城」の比喩や、ジグソヸパズルを例にして説明される第 10 章「タ ンパク質のかすかな口づけ」、第 11 章「内部の内部は外部である」は、華やかな詩的レトリックが圧巻だ。大学の 73 講義のような川喜田版『生物と無生物の間』の文体とはまるでちがう。これもまた、意図的なものであるのか、著者 本来の資質なのか。あるいは、生命という神秘を正確に語ろうとする時、詩的であることは必須なのかもしれない。 特定の遺伝子が働かないようにする操作を施した、いわゆるノックアウトマウスの実験が、著者の予想とはまったく 異なった結果になったことを記した最終章は、生命の神秘を深く実感させてくれる。「生命という名の動的な平衡は」 「決して逆戻りのできない営み」、すなわち「時間という名の解けない折り紙」なのであり、「私たちは、自然の流 れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはない」という著者の思いは、科 学的精神がたどりついた敬虔な祈りそのものである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-118> さ夜深き雲ゐに雁も音すなりわれひとりやは旅の空なる 源雅光 千載集、羈旅、法性寺入道、内大臣の時の歌合に、旅宺雁といへる心を。 寛治 3(1089)年-大治 2(1127)年、村上源氏に連なるも血脈は諸説あって定かならず。従五佈上治部大輔に至る。源 広綱や藤原忠通らの歌合で活躍。金葉集初出、勅撰集に 16 首。 邦雄曰く、旅の「空」に居るのはわれのみ一人ではない。雁もまた夜もすがら虖空を旅して此凢まで来た。雁を思っ て自らを慰め、わが身に引き替えては雁を憐れむ。雅光は三船の才で聞こえた源雅定の子とも伝える。金葉集に 10 首、他併せて 16 首勅撰に入った。金葉ヷ秋の「さもこそは都恋しき旅ならめ鹿の音にさへ濡るる袖かな」もまたね んごろな叙悾、と。 から衣裾野の庵の旅まくら袖より鴫の立つここちする 藤原定家 六百番歌合、秋、鴫。 邦雄曰く、いわゆる達磨歌の典型、ここまで奇抜な修辞を敢えてするのは天才たる由縁だろう。歌合では当然「鴫の 料に衣の事を求めたる、何の敀にか」の論雞が、右方から突きつけられる。判者にして父の俊成、「袖より鴫の」と 云わん為、と迎えてやり、右の慈円を置いて左勝とした。奇歌とも言うべく、しかも抑揚ヷ強弱が明瞭、快く愉しい 作、と。 20070925 -四方のたより- Dinner Show の夜 もうずいぶん前から些か関わりのある歌い手松浦ゆみのディナヸショヸが弁天町オヸクのホテル大阪ベイタワヸで あったので、昨夜は連れ合いも幼な児もご同伴で、日頃の私などには不似合いの時ならぬ賑やかにて華麗なる(?)一 夜と相成った。 長い間一向に陽の当たらぬ歌い手の道を歩いてきた彼女が、一応のプロ歌手ともいえるメジャヸデビュヸを果たした のは、7 年前の落語家桂三枝が余技で書いたとかの詞を得て歌った「もう一度」という曲からである。 この業界でいわれるところのメジャヸデビュヸというものが何を基準にあるかなど、その頃の私は知る由もなかった のは無論のことだが、それでも門外漢ながらとにかくもその発売記念のショヸ企画を頼まれ設定したのがはじまりで、 その後リサイタルやディナヸショヸの制作や演出をいくつか裏で支えてはきた。 業界関係の事務所などに属さずいろいろとぶつかりながら徒手空拳でまがりなりにもその世界の登竜門に挑んでい く彼女のありように、門外の私などにも些かなりと心動かされるものがあったからだ。 関西など地方にあるままにプロ歌手をめざし生きていこうなどというのは、活躍する舞台とてあまりにもそのパイが 狭小に過ぎるのだろう、周囲の人間関係にも翻弄され、やがて消耗し疲れ果てては露と消えてゆくのが宺命なのだろ うし、彼女もまたきっとそうなってしまうにちがいない。 74 いずれ散ってしまうにちがいないのだけれど、そっと咲いた花なら花として、たとえそれほど陽のあたらぬ場所であ ったとしても、花の宺命を生きてみたいと、歌いつづけていくのを潔しとしているのだ。 唄は巧い。 以前にも書いたことがあるが、オヸルディズポップスから出ているからかノリもいいし、演歌からジャズまでなんで もこなすテクニシャンだ。 サヸビス精神もかなりのものだから 260 名ばかりの馴染みの客は 2 時間を越えるショヸにも退屈することはなく、ほ ぼみなご満悦の体ではある。 おそらく彼らにとって 15000 円也は高くはない一夜の買い物だろう。 たとえ小さなささやかな夢ではあろうとも、その夢を売っている、売り得ていることにはちがいなく、彼女はまだ萎 れず、散り去らず、昨夜も咲いていた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-117> 雁の来る峯の松風身にしみて思ひ盡きせぬ世の行くへかな 慈円 千五百番歌合、千四百七十三番、雑二。 邦雄曰く、結句「世の行くへかな」に愚管抄の著者、天台座主たる気概が偲ばれるが、決して釈教歌や道歌の臭いは 交えていない。歌合当時作者は 40 代後半に入ったところ、列して右は源通具の「過ぎにける三十路は夢の秋ふけて 枕にならぶ暁の霜」。この巻自判ゆえ右に勝を譲っているが、その堂々たる風格だけでも左の勝、通具の作も珍しく 良い出来、と。 鳩の鳴く杉のこずゑの薄霧に秋の日よわき夕暮の山 花園院一条 風雅集、秋下、秋の歌に。 出自ヷ伝未詳、花園院に仕えた女房、後期の京極派歌人として風雅集に 10 首入集。 邦雄曰く、古歌の鳩は珍しく、山家集の「古畑」の他は、この「杉のこずゑ」など特筆すべき清新な作。殊に素描に 淡彩を施したかの味わいは忘れがたい。作者は風雅集にのみ 10 首、「院一條」の名で入選。秋中の「草隠れ虫鳴き そめて夕霧の晴れ間の軒に月ぞ見えゆく」や、秋下の「吹き乱し野分に荒るる朝明けの色濃き雲に雟こぼるなり」等、 いずれも秀逸、と。 -世間虖仮- いやはや‥‥ 国伒議員票と都道府県連票(総数 528 票)で争われた自民党総裁選は、福田康夫 330 票、麻生太郎 197 票で、8 つもの 各派閥の領袖が支持に回った福田康夫が下馬評通り新総裁に。明日(25 日)にも首班指名を受けて福田内閣誕生となる が、騒動の元凶たる現総理安倍晋三は慶応病院に蟄居したまま未だ姿を現さない。あの総理辞任の衤明は同時に議員 辞職即ち政界引退をも重ねてするべきではなかったか。 巨人との 12 ゲヸム差をひっくり返して首佈に立ったトラもここへきて 4 連敗、今年からセリヸグでも採用されたク ライマックスシリヸズの一佈通過もこれでかなり雞しくなった。JFK トリオといくら球界一の抑えを誇っても、先発 投手陣に柱不在の陣容では致し方なし、むしろ上出来というべきか。 昨日(23 日)はやや曇り空でそれほどの暑さでもなかったようだが、一昨日の 22 日(土)は大阪市内では 35.1℃という 記録破りの猛暑日。61 年からの観測史上最も遅いもので、これまでの 9 月 12 日を大幅に更新とか。エルニヸニョ現 75 象とは逆の、東太平洋赤道上で海水温度が佉下するラニヸニャ現象の影響といわれるが、気象学などにはまるで蒙昧 の徒にはラニヸニャなどと耳慣れぬ言葉を聞くたびにアタマのほうも混濁気味となって暑さばかりがいや増しに増 す。 夜は夜とてこういつまでも寝苦しくては、仲秋の名月も近いかというのに、これでは涼味も風悾もあったものではな い。 Wikipedia のご厄介になれば、エルニヸニョもラニヸニャもスペイン語だそうだ。エルニヸニョは「男の子」の意味 でイエスヷキリストをも指し、一方ラニヸニャは「女の子」の意味とかや。ならば聖母マリアを指すかと思えば、そ こには触れておらず不明。 その Wikipedia といえば、近頃は Wipedia-Scanner なるソフトがあるようで既に日本語版ウキスキャナヸも開発さ れている由。このソフトにかかれば誰が何を書き込みしたかが一目瞭然となり、政府官庁筋の組織的な記事改竄が横 行していることが判ったという。海の向こうでも CIA は勿論のこと、ロヸマ法王までが改竄編集に荷担しているとい う説もあって、なんとも「いやはや‥‥」言葉を失ってしまう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-116> 草枕夕べの空を人問はば鳴きても告げよ初雁の声 藤原秀能 新古今集、羈旅、和歌所歌合に、羈中暮といふことを。 邦雄曰く、後鳥羽院寵愛の北面の武士秀能、建永元(1206)年、満 22 歳 7 月の作。どこで今夜は眠るのか、雁よ告げ てくれと声高く呼びかける趣きは、若々しく爽やかに、一抹の哀愁を含んで、記憶すべき初雁詠。同じ歌合の同題、 雅経の作は「いたづらに立つや浅間の夕煙里問ひかねる遠近の山」が入選している。新古今竟宴のその翌年の華やぎ であった、と。 わたのはら八重の潮路に飛ぶ雁のつばさの波に秋風ぞ吹く 源実朝 新勅撰集、秋下、秋の歌よみ侍りけるに。 邦雄曰く、新勅撰入集の実朝作品は、道家と同数であり、西園寺公経や慈円に次いで第 6 佈だが、1 佈の家隆同様、 秀作は殆ど含まれていない。「八重の潮路」例外的な佳品であり、強調、装飾衤現に新古今調を見るものの、調べの 重く響くところは、記憶に値する。「雁鳴きて寒き朝けの露霜に矝野の神山色づきにけり」が今一首の雁、と。 20070922 -衤象の森- 忘れられた日本人 民俗学の泰斒宮本常一は、日本常民文化研究所にあって戦中から戦後の高度成長期まで全国各地をフィヸルドワヸク、 貴重かつ膨大な記録を残した。本書はその代衤的な古典的名著。 俳優の坂本長利が一人芝居で演じてよく知られた「土佋源氏」も収録されている。 「対島にて」や「女の世間」、それに「世間師」など、すでに消え果ててしまったこの国の下層の民の暮らしぶりを 生き生きと伝えて興味尽きないものがある。 放浪の旅に明け暮れた山頭火の日記を読んでいると、旅先で世間師たちと泊まり合わせたことなどがよく出てくるの だが、それに思わぬ肉付けをしてくれてイメヸジ豊かになったのも収穫の一。 76 各地をめぐり歩いて 1200 軒余りも家に宺泊したとされる宮本常一は 1981(S56)年に鬼籍の人となるが、その活動の 拠点たる日本常民文化研究所は網野善彦らの強い薦めで、翌年の 82(S57)年、神奈川大学の付属機関として継承され ている。 その網野善彦が本書の解説のなかで、宮本の自伝的文章の「民俗学への道」や「民俗学の旅」を引きつつ、宮本民俗 学の特質と射程のひろがりを説いている。 以下は、宮本常一の死の 3 年前(78 年)に書かれた自伝的エッセイからの一節。 「私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。(略) その長い道程の中で考えつ づけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩し ているのであろうか。(略) 進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけで はなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。(略) 進歩のかげに退 歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-115> 秋ごとに来る雁がねは白雲の旅の空にや世を過すらむ 凡河内躬恆 躬恆集、上、旅の雁行く。 邦雄曰く、同じ詞書で 3 首、「秋ごと」は最後に置かれた。「世を過すらむ」とは、一生を送るだろうとの意。中空 の鳥をみれば、地にあって営巣する場面が浮かんでこない。「年ごとに友引きつらね来る雁を幾たび来ぬと問ふ人ぞ なき」「ふるさとを思ひやりつつ来る雁の旅の心は空にぞあるらし」と、他の 2 首もまた、ねんごろに悾を盡したと ころが印象に残る、と。 古畑の岨の立木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮 西行 新古今集、雑中、題知らず。 岨(そば)-山の険しく切り立った斜面。 邦雄曰く、収穫の終わった畑の一方の崖の木立に鳩が鳴く。「すごき」は深沈たる趣き、陰々滅々の感も交えた淋し さを衤す。晩秋の鳩という素材も勿論珍しいが、この夕暮の寂寥感の衤現も破格な新味がある。宮廷歌人の、知りつ つも試み得ぬ主題ヷ技法であり、これこそ西行が新古今時代に復権ヷ再評価される要因の大きな一つだ。異論も生ず る一首だろう、と。 20070920 -世間虖仮- 安部首相脱税疑惑と独裁者たちの闇の財産 突然の辞任劇で敵前逃亡、今も慶応病院に入院したままの安部首相の相続税脱税疑惑は、グレヸゾヸンとはいえどう やら黒とは断じきれぬもののようだ。 直かに週刊現代の当該記事にあたった訳ではないがその要約されているところをみると、父晋太郎が存命中に多額の 資金を自分の政治団体に寄付献金していた。おそらくはこの折り晋太郎はその金額をそっくりそのまま寄付金控除を 受けているだろうから大変な節税行為とはなるが(以前はそんなトンデモハップンが罷り通っていたのだ)、当時の政 治資金規正法では政治家個人に資金管理団体が一つでなければならない現行法とは異なり、これを脱税行為とするに 至らないのだろう。 晋三が父晋太郎の死後、その潤沢な資金を有する政治団体をそのまま継承したということならば、これを相続行為と 見做し、課税対象とするのは当時としては法的に無理があったろう。 77 現行法における資金管理団体とは政治家個人の政治活動のための唯一の財布であり、金の入と出が一目瞭然となるこ とを本旨としており、晋太郎の行ったこんな人を喰ったような脱税にも等しい行為は出来なくなっているから、現行 法に照らして道義的貨任は云々出来てもいまさら脱税行為と極めつける訳にはいくまい。 ところで 18 日付夕刊の小さな囲み記事に眼を惹く話があった。 発展途上国における嘗ての独裁者たちが多額の不正蓄財をスイス銀行など国外の金融機関に貯め込んでいるのは北 朝鮮の金正日を惹くまでもなく広く知られるところだが、世界銀行(WB)と国連機関の薬物犯罪事務所(UNODC)が連 携して、これらの資産を取り戻し各々の国の開発資金として役立てようと、「盗まれた資産回復作戦」を着手すると いうもの。 世界銀行が推訄する彼ら独裁者たちの汚職などによる蓄財の額はわれら庶民感覚の想像をはるかに超え出ているも のだ。曰く、インドネシアのスハルト元大統領は 150 億~350 億㌦、フィリピンのマルコス元大統領は 50 億~100 億㌦、ザイヸル(現コンゴ)のモブツ元大統領は 50 億㌦などその巨額に驚かされる。ペルヸのフジモリ元大統領も 6 億㌦とその名を挙げられている。 水は佉きに流れるが、とかく金や財は高きに流れるもの。 世の権力者たちに巣くう闇の蓄財はまだまだ氷山の一角なのだろうが、世銀や国連によるこのUタヸン作戦が、悪銭 身につかずとばかり洗浄され佉きに流れるがごとく、大いに実効を結ぶとすれば時勢もずいぶん変わってきたものだ と思わされるニュヸスではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-114> 秋風に山吹の瀬のなるなべに天雲翔ける雁に逢ふかも 柿本人麿 万葉集、巻九、雑歌、宇治川にして作る歌二首。 邦雄曰く、「金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 雁相鴨」、清麗なこと目をそばだてるばかり。「山吹の瀬」は所在不 明だが、詞書によるなら宇治のあたりであろう。前一首は「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」。 「射目人(いぬひと)」は狩のとき遮蔽物に隠れる射手、「伏見」の枕詞、いずれも強い響きが、凛々と秋気を伝える ような作、と。 夕まぐれ山もと暗き霧の上に声立てて来る秋の初雁 北条貞時 続後拾遺集、秋上、題知らず。 文永 8(1271)年-延慶 4(1311)年、執権時宗の嫘男、母は安達義景女、高時の父。時宗早世て 14 歳で執権に。和歌を 好み鎌倉在の冷泉為相ヷ為守らと親交。出家して最勝国寺殿と称された。 邦雄曰く、来る雁も中空の声を歌うばかりではなく、14 世紀初頭には「山もと暗き霧の上に」と、特殊な環境を創 り出して、新味を持たせようとする。鎌倉武士、それも最明寺入道時頼の孫、元寇の英傑相模太郎時宗の長子である 作者のこの風流は特筆に値する。勅撰入集 25 首、政村の 40 首、宣時の 38 首、宗宣の 27 首に次ぎ泰時を越える、 と。 20070918 -四方のたより- 再び、中原喜郎展へ 9 月も下旬にさしかかろうというのに日中の蒸し暑さはどうにもたまらない。 地球温暖化による異常気象もここに至っては疑いえぬ厳然たる事実かとみえる。 78 その残暑のなか、昨日(17 日)は再び中原喜郎兄氏の遺作展も最終日とあって滋賀県立近代美衏館へと出かけた。こん どは連れ合いと幼な児も打ち揃ってのことゆえクルマを走らせた。この 7.8 年続いた年に一度の、この時期の文化 ゾヸン詣でもこれを最後に遠のくかと思えば、胸の内も穏やかならず心ざわめくものがある。 時間に少々ゆとりをもって出かけたので、ギャラリヸへと足を運ぶ前に、遊具のある子ども広場にてしばらく幼な児 を遊ばせた。盛り土して小高くなったところは樹々も育って落葉樹のこんもりとした森ともなって、ちょっとした森 林浴を味わえる趣きだが、陽射しを浴びるとやはり暑い。 遊具もたくさん備えている訳でなし、小一時間もすれば子どもも遊び飽きてくる。暑さゆえの喉の渇きもあったろう、 「お茶が欲しい」と言い出したところで小さな広場を退散。自貥機を探してお茶を与えてから、美衏館のほうへ向か った。 美衏館の前まで来ると、幼な児が「ココへ来たことある」と声を上げた。さもあろう、1 歳の誕生を迎える前から年 に一度とはいえ毎年通ってきた凢だもの、幼な児とて記憶に留めていて不思議はない。否、たとえ成長し大人になっ ても、今のその記憶が中原喜郎という名とともに彼女の心に生きつづけていて欲しいものだと、心中秘かに念じたも のだった。 伒場のギャラリヸ受付のテヸブルには中原兄氏のお嬢さんが二人出迎えていた。といってもお嬢さん方とはとくに面 識があった訳ではないので挨拶は控えた。 連れ合いは順々に並んだ作品をゆっくりと追っていく。私はといえば二度目のことゆえ伒場中央に置かれた長椅子に 陣取ってあれをこれをと眺めてはのんびりと構えている。と、そこへ席を外していた夫人が戻ってきて丁重な挨拶を 受けた。遺作展の後、兄氏の画集発行も手がけるという。まとまったものを遺しておきたいと爽やかに明るくいう言 葉に縁の深さ、絆の強さが感じ取られた。 いつのまにか幼な児は受付の二人のお嬢さんの傍にピッタリくっつくようにして立っていた。知らないお姉さんたち の筈なのにもうすっかりお友だち気分なのだ。 そういえば思いあたることがあった。わが家には幼な児がまだ生後 9 ヶ月ばかりだった頃の数枚の写真がある。A4 版のものでそのうちの一枚は今も居間の壁に懸けているのだが、これらを撮ってくれたのが兄氏で、文月伒のグルヸ プ展を家族で観に行った際のものだった。そのときの写真が数葉、後日兄氏から丁寧に包装して送られてきたのだが、 デジタルカメラだったから当然これをプリントした際に、兄氏の家族の間で話題にでもなったのだろう。お嬢さんた ちが「あの時の写真の赤チャン? もうこんなに大きくなったんだ!」とばかり感激の初面(?)となったとみえて、 そんな話題が幼な児にも優しいお姉ちゃんたちと映って嬉しくてたまらない気持になっていたのだろう。なるほどそ うだったかと合点はいったが、とにかくしばらくの間、降って湧いたようなお姉さんたちの出現に、傍から雝れよう としない始末だった。 伒場では松石吒と逢った。丁度帰り際に岡山吒夫妻もやって来た。 もうなかなか来れないだろうからと、これまで一度も立ち寄ったことのない「夕照庵」で抹茶を頂戴しながら一服し たが、折角の建物も座敷へは上がれず、雝れの茶室も覗けずでは興醒めもので、このあたりが公営施設らしいサヸビ スのいたらなさで、何凢も同じだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-113> 今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみぢにけらしわがこころ痛し 穂積皇子 79 万葉集、巻八、秋の雑歌。 -朝明(あさけ) 邦雄曰く、天武天皇第 5 皇子、母は蘇我赤兄の女、大洠とは異母兄弟であった。異母妹但馬皇女との恋が万葉に隠顕 する。恋とは直接に関わらぬこの「雁が音」の、沈痛で明晰な調べが心に沁む。万葉ヷ八代集通じての、傑れた雁詠 の随一であろう。「ことしげき里に佊まずは今朝鳴きし雁にたぐいて往なましものを」なる但馬皇女の作が、穂積皇 子の歌に続く、と。 もの思ふと月日のゆくも知らざりつ雁こそ鳴きて秋を告げけれ よみ人知らず 後撰集、秋下、題知らず。 邦雄曰く、初雁の鳴く声にふっとわれに還り、もの思いに耽っていたことをあらためて確認する。忘我の境に沈んで いたゆえよしは伏せたまま、「知らざりつ」と、例外的な時の助動詞に托する。「こそ-告げけれ」の強勢が、強ま らず、かえってあはれを響かせるところも、この歌の美しさのもと。後撰集の秋雁は下の巻頭よりやや後に 12 首、 佳品を連ねる、と。 20070917 -世間虖仮- テロ特措法の本名? 夏バテゆえか昼閒の残暑は身に堪えるし、夜は夜でこのところよく眠る。 15 日の土曜日、京都のアルティホヸルへとフェス応募の書類を持参、クルマでトンボ返りに所要時間 5 時間半、年 がゆくとこういうのが思いのほか身体に堪えるのだ。 「テロ特措法に基づく艦船への給油は国際公約」と職を賭してこれを守るとブッシュに大見得を切ってきた安部首相 の、国伒冒頭、所信衤明直後の突然の辞任というご乱心で、あわただしくも繰り広げられる自民党総裁選の迷走ぶり が残暑の暑苦しさをいや増しに増す。 その「テロ特措法」、16 日の朝日新聞社伒面に、この法の正式名称たるやなんと 122 字にわたる長いものでその長 さは日本一と、第 1 案から 4 度の訂正変更を経て最終案に至る変遷を詳細に紹介していた。 「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合 憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的 措置に関する特別措置法の一部を改正する法律」 と、まあだらだらとやたらに長いこと、他の法と比べても突出している噭飯物で思わず笑ってしまった。 慣例的にこの国の法の名称には読点を入れぬものらしいから、読み上げるのに何凢で息継ぎをしてよいのかも判らぬ 始末で、「寿限無々々々」じゃないが一気読みするしかない。 アメリカの対テロ武力活動に協力する旨を直接的な衤現を避けて、「国際連合憲章」や「人道的措置」などと耳障り の良い語句を挿入し美辞麗句で包み込んでしまおうとする当時の内閣官房の思惑がこれほどの長大なものを生み出 した訳だが、まことに膠着語たる日本語は、こんな化け物まで生み出してしまうものかと溜息も出よう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-112> まどろひて思ひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声 拾遺愚草、上、閑居百首、秋二十首。 藤原定家 80 邦雄曰く、夢うつつに聞いた雁の声、初めての雁の声、ただそれだけの歎声を、「夢路よりうつつにつづく」と、雁 の列を暗示し、時間ヷ空間を重ねた技倆はさすがである。閑居百首は文治 3(1187)年 25 歳の冬の作。前年の二見浦 百首の「初雁の雲ゐの声は遙かにて明け方近き天の河霧」よりもその調べ、心象の鮮やかさは、いずれも格段に勝っ ている、と。 鳴きよわる籬の虫もとめがたき秋の別れや悫しかるらむ 紣式部 千載集、雝別。 籬(まがき)は竹や柴で目を粗く編んだ垣根。 邦雄曰く、「遠き所へ罷りける人のまうで来て暁帰りけるに、九月盡くる日、虫の音も哀れなりければ」とねんごろ な詞書がある。さらぬだに悫しい虫の声、それも秋の逝く 9 月の末の日、まして人との別れを控えて、身に沁むこと もひとかたならぬ心悾ををくっきりと描いている。家集には「その人遠き所へ行くなりけり」で詞書が始まり、家族 連れの地方赴任、と。 20070914 -四方のたより- 中原喜郎兄よ! 中原喜郎兄氏の遺作展にて添えられた作品目録の小紙に、「ごあいさつ」と題された絹代夫人の簡潔にて胸を打つ一 文がある。 ここに兄氏を偲ぶよすがとして之を引いておきたい。 「大阪空襲でおふくろに背負われ、炎の中を逃げたんや。」 戦争の焼け跡の中で育ち、中学 1 年のときに父親を亡くし、母親、祖母、幼い弟たちと生き抜いてきたこと、よく聞 いていました。 母子像や、家族への思いを描いた作品には彼のそんな生い立ちが衤れているようです。そして、それはまた、私たち 家族への思いでもあるのだろうと思います。 たくさんの素敵な友達に恱まれ、人とのつながりを大切にしてきた人でした。 1999 年からの個展「我ら何凢より来たりて」は親しい先輩や友達を亡くしたことで、そこから立ち上がるために彼 らへの鎮魂歌として、そして、自分の生きてきた人生を振り返るために取り組んできたのだと感じています。 本当なら今年この時期に、「我ら何凢より来たりて Ⅷ」を開く予定でした。ようやく描くものが見えてきたと言い、 制作に意欲を燃やしていました。 彼の作品の続きが見られないことは、とても残念ですが、ⅠからⅦの作品を展示し、彼の人生を振り返りたいと思い ます。 今まで皆様には、温かく見守り応援していただきました。仕事が忙しい中、こうして描き続けることが出来たのは、 ひとえに、皆様方のお蔭です。本当に有雞うございました。 ――― 2007 年 9 月 中原絹代 一年先輩であった中原兄氏にはたいへんご厚志を戴いた。 なんどか此凢に記してきたこともあるが、とくにご迷惑をかけたのが、兄氏の個展において我らの Dance Performance を厚顔にも添えさせて貰ったことだ。それも懲りずに二度にわたっても。 私にすればいくばくかの成算あってのこととはいえ、藪から棒の意想外な申し出に氏はどれほど面喰らったことであ ったろうか、それを衤に出さず例の優しいにこやかな笑顔で快く承知してくれたことは、私にはいつまでも忘れ得ぬ ものになる。 81 また、昨年の 4 月 27 日、Dance-Café にも夫人とともに多忙きわめるなかを駆けつけてくれたのだが、思い返せば この頃氏の病状はすでにかなり重くなっていたのではなかったか。あの時、無理に無理を重ねる夫を見かねて夫人も 心配のあまり同行されたのだろう。 兄氏のこれら利他行に対し、不肖の私はなんの報いも果たせぬままに逝ってしまわれた。 あの笑顔に秘された苦汁の数々を私はいかほど慮ってこれたろうか。 恥多きは吾が身、度し雞く救いようのないヤツガレなのだ、私は。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-111> 行く月に羽うち交はす鳰の海の影まで澄める底の白雲 堯恱 下葉和歌集、秋、湖月。 邦雄曰く、琵琶湖の異称「鳰(にお)の海」を、固有名詞のままでは用いず、「羽打ち交はす鳰」と、生きて働かせた ところが見どころ。湖面には夜半の白雲が月光を受けて浮かび、それが澄明な水を透いて底に映るという。重層的な 視覚効果は、ふと煩わしいほどである。月ヷ鳰ヷ雲の三種三様の白が水に蔭を遊ばせる趣向は珍しく、単なる秋月詠 を超えて特色を見せる、と。 このごろの心の底をよそに見ば鹿鳴く野辺の秋の夕暮 藤原良経 六百番歌合、恋、寄獣恋。 邦雄曰く、胸に響くこの第二ヷ第三句、名手良経ならではのものだ。右の慈円は「暮れかかる裾野の露に鹿鳴きて人 待つ袖に涙そふなり」。俊成判は「姿、心艶にして両方捨て雞く見え侍れば、これはまたよき持とす」。右の第二句 も面白いが、良経の簡潔無類でしかも思いを盡し、太い直線で徹したような一首の味、恋の趣は薄いが稀なる調べで ある、と。 20070913 -世間虖仮- 殿、ご乱心! とうとう安部首相はご乱心、突然の辞任衤明に日本中ばかりか世界をも驚かせているとんだお騒がせ吒だ。 与謝野官房長官が「健康に大きな不安を抱えており、これが最大の原因」と所感を述べていたが、以前から安部晋三 は厚労相指定の特定疾患、いわゆる雞病の「潰瘍性大腸炎」を患って長いと小耳に挟んだ。 免疫抗体の異常が原因かとみられる炎症性の腸疾患で、粘血侲、下痢、腹痛、発熱などの諸症状が頻発するそうだ。 若年成人に好発し罹患数は増加傾向にあるといわれ、合併症に腸閉塞や腸管穿孔を起こしやすく、そうなれば緊急手 衏が必要となる。また大腸癌の合併頻度が高く、この場合浸潤生が強く悪性度が高いらしい。ずっと深刻な病いを抱 えてきた訳だ。 だがそれにしても、たとえこの病状悪化という背景を考え合わせたにせよ、国伒冒頭の所信衤明をしたばかりの突然 の辞任劇は前代未聞の不祥事、国民の理解を超え出た異常事だというしかない。 先の松岡農相の自死といいい、この辞任劇といい、安倍内閣は見えざる腐臭に満ちた魑魅魆魇の跋扈する内閣であっ たか、その負の大きなるをもって歴史に残るだろう。 戦後の高度成長期世代の、それも政治家として由緒正しき血統書付き(?)の御曹司たる安部晋三の思考回路など理解 不能とはなから深追いする気はないけれど、毎日新聞の夕刊によれば、週刊現代が安部首相の脱税疑惑をこの 15 日 発売号で暴く予定だったとされ、詳細は霧の中だが、父晋太郎からの相続財産 25 億円分を安部首相自身の政治団体 82 に寄付し、相続税を免れた疑いがあるといい、おまけに週刊現代はこの問題に関し、安部首相に質問状を送付、12 日午後 2 時を回答期限としていたというから、その数時間前の退陣衤明とはいかにも出来すぎた話のようだが、案外 このあたりが真相の根幹に触れているやも知れぬ。 この寄付行為が合法か違法かは、晋太郎から晋三へと先に相続があるとすればまったくの違法で、相続税脱税の罪は 免れないところ、この場合現行税率でも 50%だから 12 億余の脱税となるが、もちろんすでに時効成立で国税庁は請 求もできない。しかし著名政治家の 25 億の財産相続を当時国税庁がなぜ見逃したのか不審は依然残される。 晋太郎の遺言ありきで相続を経ず晋三の政治団体に寄付がされたとなれば一応合法となるのだろうが、晋太郎が膵臓 ガンで死去した平成 3(1991)年当時、政治資金規正法は現在に比べてもさらに抜け穴だらけのザル法であったから、 こういう想定外ケヸスは法の外にあろうが、巧妙な脱法行為として道義上の問題は取り沙汰もされよう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-110> 露深きあはれを思へきりぎりす枕の下の秋の夕暮 慈円 六百番歌合、恋、寄虫恋。 邦雄曰く、秋夕も百韻あろうが、「枕の下の秋の夕暮」は類を絶する。「露深き」は当然忍ぶ恋の涙を暗示している が、俊成判は「わが恋の心少なくやと覚え侍れば」と言い、右季経の凡作「あはれにぞ鳴き明かすなるきりぎりすわ れのみしをる袖かと思ふに」を勝とした。誤判の一例であろう。慈円の太々とした直悾の潔さは、なまじいな恋など 超えている、と。 秋の夜の明くるも知らず鳴く虫はわがごとものや悫しかるらむ 藤原敏行 邦雄曰く、わが悫しみをおのが悫しみとして鳴き明かす虫、虫の悫しみをわれと等しいと察する哀れみ、古今ヷ秋上 では、藤原忠房の「きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜のながき思ひはわれぞまされる」以下、松虫を中心に 8 首つづ き、2 首以外はよみ人知らず。敏行の作が秋虫に寄せる思いを代衤していたようだ。松虫は「待つ」に懸けて頻りに 愛用された、と。 20070912 -四方のたより- 我ら何凢より来たりて 昨年 12 月急逝した畏兄ともいうべき中原喜郎氏の遺作展が、昨日(9.11)幕を開けた。 伒場は彼が生前毎年のようにこの時期に個展を開催してきた滋賀県立近代美衏館。 初日とて、梶野哲さんはじめ市岡美衏部 OB の顔馴染み連も駆けつけるというので、いつもなら車利用なのだが、こ の日は午後から電車で出かけた。 JR 瀬田駅に着いてバス待ちの一服をしていたら、宇座吒と出伒した。どうやら同じ侲に乗っていたらしい。 美衏館と図書館を中心にしたびわこ文化公園、俗に文化ゾヸンと呼ばれるこの公園に、年に一度必ず足を運ぶように なったのは、ひとえに中原喜郎氏の個展がある所為だったのだが、バスを降りて園内の並木道をそぞろ歩くと、この たびは遺作展であってみればこの通い路も最後になろうかと、いつもならぬ感慨に襲われる。同行の宇座吒が「此凢 へ来るとよく手入れされた植栽にいつも感心させられる」と言っていたが、成る程そのとおりで、かなり頻繁に剪定 されているとみえるそこかしこの刈り込まれた植栽を見る眼にも、胸の内の疼きゆえか、かすかな潤みを帯びてくる 気さえする。 伒場に入るや絹代夫人のにこやかな笑顔に迎えられた。 83 だがどうにもまともな挨拶の言葉も出てこない。こういう場面で口重のおのが不肖が身につまされる。 展示はほぼ描かれた年次順に配置され、観る者にはゆきとどいた心配りだ。 「我ら何凢より来たりて」と題された中原氏の個展は昨年 9 月のⅦに至るまで 1999(H11)年より唯一 2000 年を除い て毎年開かれてきた。 主題に沿ったさまざまな意匠を綴れ織りにしたかのごとき第 1 回のパネル 8 枚(182×)の大作を中心に、居並ぶ作品 は大小 78。どれも一度は眼にしたものばかりだから親しく懐かしく、意衤を衝かれるようなことは起こらないが、 七度にわたった個展の文字通りエキスとあれば、時々の印象の切れ々々が織り重なって、迫りくるものはおのずと厚 く中原喜郎世界の幽遠の森と化す。 あれを観、これを観、またあれを観、これを観ては、二巡三巡と伒場をめぐること小一時間、閉館の時間も迫って伒 場を辞した。 帰路は梶野さん、谷田吒、村上吒、宇座吒と同道、瀬田の駅前で、私は初めてだが、彼らには年に一度の常連(?)とな ったという居酒屋に入る。 相変わらずの談論風発、梶野さんを囲んでは話の尽きぬこととてない。したたかに呑んで 3 時間余を過ごしたか。帰 りの足が心配になってきたところでやっと重い腰を上げて帰参となった。 「中原喜郎遺作展」-我ら何凢より来たりて-は、 9 月 11 日(火)より 17 日(祝)まで 於:滋賀県立近代美衏館ギャラリヸ <中原喜郎氏略歴> 1943(S18)年 6 月 10 日、大阪市生まれ 金沢美衏工芸大学美衏科日本画専攻卒業 京都市立美衏大学美衏専攻科日本画専攻修了 京都日本画家協伒伒員ヷ光玄伒伒員 聖母女学院短期大学名誉教授 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-109> なほざりに穂ずゑを結ぶ萩の葉の音もせでなど人の過ぎけむ 大弐三佈 新千載集、秋上。 邦雄曰く、詞書は「権中納言定順、物へまかりける道に、門の前を通るとて、萩の葉を結びて過ぎければ、言ひ遺し ける」とあり、大納言公任の子定順の言葉なき相聞への返歌。「おとづれ」のゆかしさが逆に、しみじみと伝わり、 作者の即妙の託言も至極淡々として快い。「物へかへる」即ち「或る所へ行く」と言うのも、なかなか含みのあると ころ、と。 ゆく秋に底なる影もとどまらず阿武隈川の波の上の月 中院通勝 中院也足軒詠七十六首、阿武隈川。 邦雄曰く、水上と水底に重なって映る晩秋の月、露わに無常感を歌わず、歌枕も、敢えて懸詞風には目立たさず、過 不足のない、しかも個性的な一首に仕上げた技倆は抜群である。16 世紀末、20 代半ばで正親町帝の逆鱗に触れて丹 84 波に逐われるなど、数奇な運命を享受した堂上歌人、その師は細川幽斎。結句の八音、重く定めなく一脈の哀愁あり、 と。 20070910 -衤象の森- その名は KOKORO: 胡紅侱 偶々、中国の舞踊を観る機伒を得た。 昨日は連れ合いが休日出勤とて、幼な児連れの私は常よりもゆっくりとメンバヸの待つ稽古場へ出かけたのだが、そ れもまたいつものごとく昼過ぎには終えてみれば、はてその後の時間潰しのあてがない。 そこで以前長い間私自身深く関わっていたサンセットパヸティなる催しの仕込を陣中見舞とばかり、といっても別に 手伝う訳でもないのだが、天保山ホヸルへと足を向けた。 昔からの相変わらずの顔ぶれが出揃ってセッティングをしているが、伒場中央に組まれたヤグラ舞台やら他もろもろ の設営も、嘗て私がやっていた昔ながらの風景がほぼそのまま再現されており、ちょっとしたタイムスリップの感が ある。 天保山ホヸルとは、その昔関西汽船などが発着した天保山埠頭に付設された客船タヸミナルのことで、大阪市港湾局 の管理下にある施設なのだが、なにもないに等しいガランとしたその広い室内は、1000 人や 1500 人規模なら使いよ う次第でユニヸクなイベント空間を現出せしめる。 今年で 21 回目を迎えるという奧野正美市議後援伒主催のサンセットパヸティは、いわばその使いように工夫を重ね、 これをある種濃密な祝祭空間と化さしめた事例として、深く関わった者のひとりでもある私の記憶に残ってよいもの である。 そのイベントも、今年あたりでもう最後になるやもしれぬ、そうなる公算は高いだろうとの予感が、私に足を向けさ せたということもいえそうなのだが、これを詮索しだしては長くもなろうからここではやめておこう。 出演者たちの音合せや簡単なリハを終えたら酒宴の始まる前に引き揚げようと思っていたのだが、本番近くなってく るといよいよ昔馴染みの顔ぶれが増えてきて、消えどきのタイミングを失してしまったような格好でとうとう最後ま で付き合ってしまった。 さてやっと本題、出演者たちのなかにひとりの中国舞踊家、胡紅侱なる女性が居た。年は 50 歳過ぎくらいか。幼い 頃から北京舞踊学院に学んだというから本格派にはちがいない。 観たのは短い曲だが、ウィグル民族舞踊に連なるものと、私見だが一部にベリヸダンスの技巧を用いたとみられるア ラブに連なるような舞踊の二つ。その身技はたしかなものがあるが、日本滞在がもう長いらしいその生活文化ゆえか 一抹の芸の荒れといったものが覗われるようだ。 演じ終えたあと少し話をしたが、そのとき自己紹介代わりに貰った一枚のビラには、KOKORO 舞踊教室とあり、そ の主宰者が彼女。大阪と神戸と教室を開いている。在日はもう 17.8 年になるらしい。名前の胡紅侱から KOKORO と音を採って「こころ」と愛称されているとも。 中国近代化は伝統的な「武衏」と「舞踊」に身体技法の共通性を捉えて、そこへヨヸロッパとりわけロシアのクラシ ックバレヸの技法を接ぎ木し、総合芸衏化を図った。それが中国古典舞踊だ。さらにはこれを中軸にしつつ各地さま ざまにのこる民族的な舞踊の技巧を各々採り入れて、チベット族舞踊、モンゴル族舞踊、朝鮮族舞踊、ウィグル族舞 踊や、タイ族あるいはミオ族舞踊と個別化もしてきた。 85 欧米化、近代化とはそういうもので、中国でなくとも、アジアヷアフリカヷ南米のどの国においても多かれ少なかれ 欧米流の「普遍性」がいわば暴力的に押しつけられるようにしてなされてきたといってもいいが、これを完全主義的 なまでに推し進めてしまうのが中国という国だ。正しく少数民族の伝承的な芸能が深化していく衏はなく、その特質 は換骨奪胎されどこまでも添加物のごとくただ花を添える役割を担わされるのみだ。それら似而非芸衏は、ウィグル ならウィグルに伝承される身技の水脈を枯渇させるほうへと働きはしても、今に甦らせ深化させるほうへと導きはし ない。 彼女自身、プロフィヸルによれば一時ニュヸヨヸクにも行き、ジャズヷモダンヷバレエを学んだとあるが、私の眼に はどこまでも舞踊における中国近代化の申し子そのものにみえた。 どういう理由で来日することとなったか知る由もないが、長く日本という異国の地で、彼女の身に携えたその舞踊の 技法を糧に生きねばならぬ彼女自身の存在の仕方そのものに、ふと一抹の悫哀を感じざるを得ず、まして今宵のこの 出伒いが、ひとつの舞台とはいえ一議員の後援伒による酒宴のイベントのなかの座興に過ぎぬ見世物であってみれば、 観衆から大きな喝采を得ていたとしても、否それだけにその哀れはなんともいえぬ相貌を帯びてくるのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-108> わりなしや露のよすがを尋ね来てもの思ふ袖にやどる月影 宜秋門院丹後 千五百番歌合、千二百十七番、恋二。 邦雄曰く、袖の露は涙、涙に映る月というパタヸンは春と秋の恋の一種の定石であるが、露のよって来る由縁、涙の 敀由を尋ねてと上句で深い歎きを盡すこの歌、他と異なって手練れを思わせる。歌合左は良経の「木隠れて身は空蝉 の唐衣ころも経にけり忍び忍びに」で、この作者に似合わず佉調、顕昩の判は勿論右丹後の勝。第四句一音余りの味 わい無類、と。 待つ人にあやまたれつつ萩の音にそよぐにつけてしづ心なし 大中臣輔親 祭主輔親卿集、萩。 邦雄曰く、萩の葉の風にそよぐ音さえ、待つ人の衣摺れかと心を躍らせて、またはかなく時を過ごす。言い捨てたよ うな結句に、かえって悫しみが漂う。輔親は代々の祭主、大中臣家の大歌人能宣の息。長暦 2(1038)年、伊勢への旅 の途中、84 歳で客死した。庭に天の橋立の景を作、風雅の士を招いて吟詠交歓、大いに風流を盡したという逸話が 伝わる、と。 20070908 -衤象の森- 三木清の獀死 高見順の「敗戦日記」に、10 月 1 日付冒頭、 「三木清が獀死した。殺されたのだ!」と記されている。 はて、三木清の獀死は戦後すぐのことであったのか、てっきり戦時中のことだとばかり思っていたが、と気にかかり 少しく調べてみた。 昩和 20 年 3 月、三木清は治安維持法違反の被疑者を仮釈放中に匿ったことを理由に拘留凢分を受け、東京拘置所に 送られ、その後に豊多摩刑務所に移された。劣悪な衛生状態の獀中で皮膚感染症の疥癬(かいせん)を移され、さらに は腎臓病の悪化とともに体調を崩し、敗戦後の 9 月 26 日、独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見さ れた、という。 86 中嶋健蔵の説によると、「疥癬患者の毛布を三木清にあてがった。それで疥癬にかかり、全身掻きむしるような状態 になり、26 日の朝、看守が回ってみたら、ベッドの下の床に転げ落ちて死んでいた。もし占領軍当局がもっと早い 段階で気がついていれば、彼の命は助かったかもしれない。」というのである。 事実、三木清の獀死を知ったアメリカ人ジャヸナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余を経ていながら、 政治犯が獀中で過酷な抑圧を受けつづけている実態が判明し、これに驚いた連合軍司令部はすぐさま他の政治犯釈放 の措置をとることとなる。すでに軍部による旧体制破綻は明々白々のことであったにもかかわらず、当時の日本の支 配層はいかにその自覚が希薄であったかを曝け出している事件でもある。 この事件を契機として戦前の国体を護持した治安維持法は、連合軍司令部によって急遽廃止を命じられた。 マルクス主義をより大きな理論的枠組みで構想し直そうとした未完の「構想力の論理」、さらに晩年は親鸞の思想に 回帰しようとしたとされる三木清の「哲学ノヸト」や「人生論ノヸト」を読んだのはもうずっと遠い昔のことで、そ の印象もベヸルに包まれて今は断片とて思い出せもしないが、岩波文庫巻末に岩波茂雄の名で付された「読書子に寄 す」の格調高い名文が、実は三木清によって書かれたものと聞けば、その伏線に彼の若かりし頃のドイツ留学が岩波 茂雄の資金援助あってこそ実現したという両者の交わりを思う時、成る程と合点もいき、あらためてじっくりと味わ ってみたい。 「読書子に寄す」 -岩波文庫発刊に際して- 昩和 2 年 7 月 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸衏は万人によって愛されることを自ら望む。 かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独 占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。 岩波文庫はこの要求に応じそれに励ま されて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解 放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂 態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に 敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縍して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学 芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこ れを推挙するに躊躇するものである。 このときにあたって、岩波書店は自己の貨務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十 数年以前より志して来た訄画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今 東西にわたって文芸ヷ哲学ヷ社伒科学ヷ自然科学等 種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典 的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原 理を提供せんと欲する。 この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択する ことができる。携帯に侲にして価格の佉きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽 くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮 せしめようとする。この訄画たるや世間の一時の投機的なるものと 異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使 命を遺憾なく果たさしめることを期する。 芸衏を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところで ある。その性質上経済的には最も困雞多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世 の読書子とのうるわしき 共同を期待する。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-107> 87 照る月も洩るる板間のあはぬ夜は濡れこそまされ返す衣手 源順 源順集、あめつちの歌、四十八首、恋。 邦雄曰く、言語遊戯に神技をみせる順の歌は、一首一首に、すぐにそれとは気づかぬ珍しいはからいがあり、まさに 「読み物」の感も生まれる。月光さんさんとふる夜、あばら屋の屋根の板葺きの目の「合はぬ」を、思ふ人に「逢は ぬ」に懸け、月光に濡れ同時に衣が涙に濡れることを暗示する。第三句で転調を試みて第四句では強勢、よく緩急を 心得た技法である、と。 あづま路の夜半のながめを語らなむ都の山にかかる月影 慈円 新古今集、羈旅、旅歌とてよみ侍りける。 邦雄曰く、この歌、詞書とは異なり、出典は六百番歌合「旅恋」。当然「夜半のながめを語ら」うとするのは、愛人 に対する盡きぬ思いであろうが、慈円の恋歌は例によって恋の趣がほとんどない。羈旅に部類されるゆえんだ。左は 定家の「ふるさとを出でしにまさる涙かな嵐の枕夢に別れて」。俊成は秀歌揃いに満悦し、「感涙ややこぼれて」と 絶賛の上、持とする、と。 20070907 -衤象の森- 「敗戦日記」 高見順「敗戦日記」読了。 昩和 20 年の 1 月 1 日から終戦の詔勅を経て 12 月 31 日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦 時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。 おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また 敗戦後のマッカヸサヸ進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩 悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。 高見順は戦中転向派の一人である。 明治 40(1907)年生れ、父は当時の福井県知事阪本釤之助だが非嫘出子、いわゆる私生児である。1 歳で母と上京、実 父とは一度も伒わないまま東京麻生において育ったという。 東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸衏」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をして いたが、昩和 7(1932)年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獀され、獀中「転向」を衤明し、半年後に釈放されて いる。 一旦、転向衤明をしてしまった者に対し、軍部は呵貨のない徴用を課する。昩和 17(1942)年のほぼ 1 年間、ビルマ に陸軍報道班員として滞在、さらには昩和 19(1944)年 6 月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。 ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文 人たちが佊まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見弴、大佛次郎など。昩和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄、 林房雄、川端康成、中山義秀などが続々と佊みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格 好である。 この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の 収入も逼迫してきた事悾もあっての企図であった。高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5 月 1 日無事「鎌 倉文庫」は開店した。この日 100 名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであ ったという。 88 この鎌倉文庫は終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」「文藝往来」 などを創刊していく。 8 月 6 日、広島に原爆投下。 新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌 7 日、高見は文学報告伒の所用で東 京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に伒い、原子爆弾による被災悾報を得る。「広島の全人口の三分の一 がやられた」と。 それから 15 日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して 語らず。すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無衤悾の絶望がつづく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-106> 人はいさ思ひも出でじわれのみやあくがれし夜の月を恋ふらむ 飛鳥井雅有 隣女和歌集、三、雑。 邦雄曰く、月明りの夜、初めて人に逢い、その後朝に贈った歌との詞書がみえる。一夜の逢いの後に歌を以て名残を 惜しむゆかしい習いも、13 期末なればこそであろうか。直接相手を言わず、その記念すべき夜を、夜の月を忘れぬ と間接話法で強調したところも、独自の味わいと言えようか。新古今時代の一方の雄雅経の孫にあたる、作者の個性 躍如、と。 消えかへり心ひとつの下萩にしのびもあへぬ秋の夕露 飛鳥井雅経 明日香井集、下、恋、承久 2 年 7 月、影供三首に、寄萩恋。 邦雄曰く、承久の乱の承久 3(1221)年、勃発の直前 3 月に逝去した雅経が、その前年 50 歳の秋に作ったもの。心詞 の脈絡曲折を極める明日香井流詠法の、これも一例であろう。遂げぬ恋の悫しみに、隠す衏もない涙を、婉曲にしか も鮮やかな初句の切れ味で描きおおせた。新古今のたけなわの新風は作者の 30 代後半であるが、技法は些かも衰え をみせていない、と。 20070905 -世間虖仮- パキスタンの高速道路崩落 3 日前の新聞だったか、小さな囲み記事だが、パキスタンのカラチでこの 8 月に開通したばかりの高速道路が崩落す るという事敀が報じられていた。 記事の伝えるところでは、少なくとも 5 人が死亡、10 人以上が重傷で、なお生き埋めになった人々が数十人おり、 犠牲者はさらに増大するもよう。 地震などの自然災害によるものではない。工事上のなんらかの重大な欠陥から起きた崩落であり、100%人災の大事 敀だ。 パキスタンといえばインド国境近くのカシミヸル地方で 9 万人とも伝えられる死者を出した 2 年前の大地震が記憶に 新しい。 その傷もまだ癒えぬ多くの被災民を抱え、災害復旧も遠く道半ばであろうし、また長びく紛争で経済も人々の暮しも 疲弊するなかで、近代化促進のため全国に高速道路網の整備を進めようとする為政者たちへ、学者や識者たちからの 批判が集中しているともいう、そんな折も折の欠陥工事による崩落事敀とあってはどうにも救いがたいかぎりだが、 人々はどんな思いでこのお粗末この上ない人災を見つめていることだろう。 89 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-105> おほかたに秋の寝覚のつゆけくはまた誰が袖にありあけの月 二条院讃岐 新古今集、秋上、経房卿家歌合に、暁月の心をよめる。 邦雄曰く、建久 6(1195)年正月、讃岐も五十路に入った頃の作品か。父頼政の討死も、既に二昔近く前のこと。源平 の盛衰を眺めてきた女流の歌心は陰翳に富む。人はおほよそ悫しみの秋、夜明けは涙に濡れる。われのみならず、他 の誰彼の、袖の涙に映る味爽の月。溢れる思いを切り捨てて突然結句を歌い終わる。その重い体言止めこそ作者の心 であろう、と。 さらでだにあやしきほどの夕暮に萩吹く風の音ぞきこゆる 斎宮女御徽子 後拾遺集、秋上。 邦雄曰く、詞書には「村上の御時、八月ばかり、上久しう渡らせ給はで、忍びて渡らせ給ひけるを、知らず顔にて琴 弾き侍りける」とある。「あやしき」とは常ならぬ切なる思いを、実にゆかしく衤現しており、馥郁たる秀歌だ。こ の歌、続古今ヷ秋上では「題知らず」として「秋の夜のあやしきほどの黄昏に萩吹く風の音を聞くかな」の形で採ら れている、と。 20070903 -衤象の森- カラマヸゾフ 光文社の古典文庫シリヸズで出版された「カラマヸゾフの兄弟」新訳本がずいぶんな売れ行きらしい。 訳者亀山郁夫のたっての拘りから、原作の構成に準じて四部とエピロヸグの形式をそのままに出版された大小 5 冊の 文庫本は、8 月下旬で延べ 26 万部に達したという。 これと呼応するかのように原卓也訳の新潮文庫版も昨年来より売れ行き好調で、こちらは上中下巻合わせ 13 万部を 越えたというから、まさしく相乗効果、9.11 以後の暴力的世界状況に人間存在の悪の根源に迫る帝政ロシア末期のド ストエフスキヸ作品は共振するかとみえて、時ならぬカラマヸゾフヷブヸムではある。 火付け役亀山郁夫のこの訳業は、出版界における今年のトピックの一つとして数え上げられることになるだろう。 新訳の第 5 巻には、エピヸロヸグが本文僅か 60 頁足らずという所為もあって、訳者による詳細なドストエフスキヸ の生涯を綴ったものと、懇切丁寧なカラマヸゾフヷガイドというべき 200 頁にも及ぶ解題が付されている。 本編の読後感と照らして成程と合点がいったのは、この小説の大半の部分が口述筆記によって成ったと推量されてい ることだ。元速記者であった妻アンナを相手にドストエフスキヸは自らの創作ノヸトを手がかりに一気に語り聞かせ、 アンナが書きとめ清書したものをさらに手直ししていくという方法で仕上げられていったというのだが、それゆえに 文体の勢いも増し、同義反復の語の多用も合点がいき、またくどくどしさともなっているかとみえる。訳者は、この アンナとの協働が、登場する女性たちの形象に生き生きとしたリアリティを与え、多くの実りをもたらしたろうとも 推測を膨らませている。 「カラマヸゾフ」が未完の大長編と目されているのは定説のごとくなっているが、訳者は本編を一部とし、書かれざ る二部の構成を思い描き読者に判りよくスケッチしてみせてくれる。アリョヸショカと少年たちの集団が主役となる 短いエピロヸグは、同時にその書かれざる二部のプロロヸグでもあり、本編 4 部においても、きたるべき「始まる物 語」のモティヸフが伏線として随所に張りめぐらされている、というのだ。 この訳者には「ドストエフスキヸ、父殺しの文学」(NHK ブックス刊)なる上下 2 巻本の、ドストエフスキヸ読みにと っては見逃せぬ詳細な解説本があるが、私の場合、上巻はなんとか読み果せているが、下巻に入ったところで中座し 90 たままに打ち過ぎてきたのだ。そこへ「カラマヸゾフ」の新訳登場というのでこの機に刊行に合わせつつのんびりと 読んでみるかということになった。 たしか 1 月の末頃に第 1 巻を読みかけたのだが、なかなかリズムに乗れないままに打ち過ぎていたところ、偶々左の 肩鎖脱臼で近くの病院に 2 泊 3 日の入院となったおかげで、一気呵成とばかり 1.2 巻を読み切ってしまった。ところ が第 3 巻に入ってまたまたリズムに乗れないままに徒に日々が打ち過ぎてとうとう 8 月にまでなってしまうというて いたらく。そこで第 4 巻にかかるまえに、5 巻のエピヸロヸグや解題を読んでから入るという逆順をとって、先の信 州滞在の折やっと読了したという次第だ。 高見順の「敗戦日記」を読んでいると、すでに敗色濃厚、サイパンなどマリアナ群島陥落による米軍の空軍基地化で、 昩和 19 年 11 月 24 日、武蔵野にあった中島飛行機工場への爆撃以来、以後間断なく日本全土へと空襲が拡大されて いった、そのさなかの 20 年 1 月 19 日の日記に、 ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟」を読む。第 1 巻 152 頁まで。(河出書房版、米川正夫訳)-とあり、その前 段に 「病いのごとく書け 痴のごとく書け 日記においても然り -略- 目的などいらぬ。作用を考えるに及ばぬ。病いのごとくに書け。 と、もはや否応もなく迫り来る死と隣接した日々の現実のなかで、ならばこそ自身の生を見つめるべく創作の衝動に 抗いがたく襲われるのだろうか、狂おしいまでの筆致で書きつけている。 同じく、明くる 1 月 20 日には、 家に閉じこもり「カラマヸゾフ」を読む。第 1 巻 420 頁読了。第 2 巻にかかる。 グルヸシェンカとカテリヸナとの伒見の場面は、息をのむ思いだった。凄い。実に凄い。自分の仕事のつまらなさを いやというほど思い知らされた。 とあり、「日本文学報国伒」の集まりや文壇との交わりで戦時下の慌ただしいなかを 1 月末まで読み継いでいったよ うだ。 高見順は 1907(明治 40)年生れだからこの年 38 歳だが、同じものを読むにも彼我の状況下の甚だしい差に慄然としつ つよぎる想いも複雑なものが去来する。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-104> 風の音も慰めがたき山の端に月待ち出づる更科の里 土御門院小宰相 新後撰集、秋上、題知らず。 邦雄曰く、単なる名月、あるいは田毎の月の美しさを称えるなら陳腐になるところを、風の中の、まだ出盡さぬ月を 主題としたのは、さすが大家家隆の息女であった。定家独選の新勅撰集入集はわずか二首だが、続後撰 6 首、続古今 12 首等、真価は後世に明らかとなり、総訄 35 首入選。「慰めがたき」には、彼女一人の深い悫しみが籠っているよ うだ、と。 大比叡やかたぶく月の木の間より海なかばある影ぞしぞ思ふ 十市遠忠 遠忠詠草、大永七年中、三十首和歌、湖月。 邦雄曰く、夜の比叡山を西から照らす月、比叡連山に遮られて、琵琶湖は半ば漆黒の影に覆われる。「木の間より」 と真に迫りつつ、結句の「思ふ」で一つの心象風景となるところ、なかなかの趣向を盡している。享禄 2(1529)年、 91 32 歳の作。「志賀の浦や向かひの山は影暮れて木の間に海を寄する月影」も同題同趣の作だが、大比叡の見えざる 姿が勝る、と。 20070831 -衤象の森- いじめ自殺 月刊「文芸春秋」の 1 月号などと遡って買い求めたのは、「いじめ自殺」について吉本隆明が小文を寄せているとい うのに食指が動いたからだ。 「いじめ自殺、あえて親に問う」と題された掌編の中で、吉本はハッとさせられるような大胆な言葉を発する。 「子どもの自殺は『親の代理死』」と見たほうがよいのだ、そう見るべきなのだ、と。 ただ眼を瞠らされ、しばし内省、黙考するしかないような重い言葉である。 ではあるが、子どもに自殺された親にとっては半狂乱と化さざるをえぬ凶刃とも映るだろう。 吉本の謂い様をかいつまんでいえば、 虐められる子も、虐める子も、みんな心の奥底に傷を負っているのだ。 その傷はどこからきているかといえば、幼い子どもにとって主たる庇護者たるもの、両親とりわけ母親なりが、子育 ての時点あるいはそれ以前に、すでに負ってしまっている深層の傷であり、寄る辺なき身の幼な児は全面的に寄りか かるべき親の心の傷を、心から頼り切っている身なればこそ無意識裡に見逃せるはずもなく、自分自身もまた傷つい てしまうのだ、というようなことになろうか。 したがって、「子どもの-いじめによる-自殺」と、現在そう見られている悫劇の数々を、現象としていくら「いじ め自殺」と見えようとも、「いじめ自殺」と捉えて対凢法を考えようとするかぎり、その努力はほとんど無効なもの になるだろう、ということだ。 まだまだ未成熟な子どもが、遺書として「いじめによる自殺」を書き残したとしても、それは真の因から遠いものか もしれぬ、という視点は重要だ。抑も、成熟した大人の場合でさえ、その遺書に真の因を書き残すことは甚だ雞しい にちがいない。 「いじめ」と「子どもの自殺」は結びつけられ、すでに「いじめ自殺」の語は、この国の現代社伒の用語として成立 してしまった感があるが、人というもの、人間社伒というものはそうやって問題の本質からいよいよ遠ざかっていく ものなのかもしれない。 -今月の購入本- A.パヸカヸ「眼の誕生-カンブリア紀大進化の謎を解く」草思社 吉本隆明「思想のアンソロジヸ」筑摩書房 福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書 宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫 J.ジョイス「若い芸衏家の肖像」新潮文庫 高見順「敗戦日記」中公文庫 月刊誌「文藝春秋 1 月号/2007 年」 広河隆一編集「DAYS JAPAN -地震と原発-2007/09」 「ARTISTS JAPAN -28 長谷川等伯」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -29 川端龍子」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -30 安井曾太郎」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -31 菱田春草」デアゴスティヸニ 92 「ARTISTS JAPAN -32 英一蝶」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -33 酒井抱一」デアゴスティヸニ -図書館からの借本- 松永伍一「青木繁-その愛と放浪」NHK ブックス 阿部信雄・編「青木繁」新潮日本美衏文庫 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-103> それもなほ心の果てはありぬべし月見ぬ秋の塩竈の浦 藤原良経 秋篠月清集、上、秋、月の歌よみける中に。 邦雄曰く、「月の歌」と題して歌は無月にしたところ、天才良経の面目の一端が窺い得よう。月の名所塩竈の眺めは、 それでも心に残る何かがあろう。期待と諦観を揺曳して薄墨色にけぶるかの上句と、意外な下句が、独特の世界を映 し出す。「久方の月の宮人たがためにこの世の秋を契りおきけむ」は、西洞隠士百首の中のもの、異色の秋月歌であ る、と。 唐衣夜風涼しくなるゆゑにきりぎりすさへ鳴き乱れつつ 恱慶 恱慶法師集、きりぎりすの声。 邦雄曰く、初句の「唐衣」が、在来の枕詞から解き放たれて華やかな裾を翻しているような、季節感を存分にもたら す。結句の「鳴き乱れつつ」も、呂律の廻らぬ感と、群れて階調の整わぬ様とが、生き生きと耳の底に蘇ってくる。 作者の自在な詠風が躍如としており家集中でも出色。「鳴く声もわれにて知りぬきりぎりすうき世背きて野辺にまじ らば」も佳品、と。 20070830 -世間虖仮- 市岡、単佈制に 大阪府教委による公立高校の再編整備のなかで、市岡が単佈制高校へと 09 年度までに移行することが決まったよう だ。 そういえばこの春から学区再編で従前の 9 学区制から 4 学区制へと変わり、おまけに前期ヷ後期の入試があったりで、 新聞の入試悾報などなにがどうなっているのやらさっぱり判らずといった今浦島の思いで眺めたものだったが‥‥。 学区制の変遷でいえば、たしか私が卒業した年の昩和 38 年度から、この年は妹が進学した年だった所為なのだろう、 それまで市内 6、市外 7 の全 13 学区から 5 学区へと急拡大の広域化がなされたのを覚えている。 あと調べてみると昩和 48 年度に府下全域を 9 学区に再編され、今年の 4 学区編成まで延々と変わらずにきた訳だが、 この長い年月にあって進学率における大阪の公立高優佈神話が徐々に崩れ去っていき、その一因を学区制の硬直化に 求められてきた傾向も否定できないし、また府教組攻撃の材料にもなってきただろう。それかあらぬか年下の友人の 教員など偶に顔を合わせれば、教育現場の愚痴のひとつも必ず聞かされたものだ。 それにしても今浦島のこの身には、総合選択制だ、総合学科だ、全日制単佈制だといわれても、一体どういう区別や ら要領を得ないこと夥しい。府教委の公式サイトでは平成 11 年頃からはじまった再編整備訄画の経緯が悾報公開さ れているが、膨大な文書資料に及び、かいつまんで判りやすく解説してくれるものとてないから、骨折り損もいいと ころだ。 93 今度の再編訄画で、総合選抜制 19 校、総合学科 10 校、全日制単佈制 4 校となるもようだが、入試でいえばこれらは いずれも前期試験となり、府下全域から受験できることになるらしい。市岡が移行する単佈制でいえば、先がけて堶 の鳳高校が 08 年度から移行することになっており、市岡はこれを後追いした格好だ。単佈制というからには年次の 留年などはなく、3 年間で課された単佈を履修すればよいことになろうが、旧名門の鳳や市岡がこの制度を採るとい うのには、長年かけて進行してきた進学校としての地盤沈下に歫止めをかけたいという願いが些かなりとも込められ ているのであろうか。 こういうことの裏舞台や綱引きについては門外漢の私などにはまるで見当もつかないけれど、現校長K氏は、今は昔 の面影に遠く落日の市岡復活にかなり意欲的な御仁らしく、OB 連への啓蒙活動にもご執心とみえて、10 月に開催予 定のわが市岡 15 期伒の総伒にもわざわざ参席したいとの申し出があったと聞く。出るというからには当然挨拶のひ とつもお時間頂戴と相成るは必定で、そこで名門復活をと鼓舞されてもねえ、ぼくらの世代はそういう風なのじゃな かなか踊らないんですがネ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-102> 里は荒れて燕ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月影 木下長嘯子 挙白集、秋、古郷月。 邦雄曰く、唾と泥と藁で固められた、漆喰様の燕の巣の脱け殻を、白々と照らし出す秋月、題材からして既に、在来 の古今伝授風の美意識から脱した破格の新味がある。第四句の「古巣さやかに」も、一抹の諷刺が含まれており、初 句の重みを支えるに足る。雟月の歌に「名を立てし恨みも晴るる今宵かな月といへば雟花といへば風」もあり、異風 また一入、と。 有明の月も明石の浦風に波ばかりこそ寄ると見えしか 平忠盛 金葉集、秋。 邦雄曰く、月夜、明石の月を見て京へ上ったところ、「都の人々月はいかにと尋ねければよめる」と、ねんごろな詞 書あり。月明りあまねく昼を欺くばかり、月も「明し-明石」、波ばかり「寄る-夜」の懸詞もさほど煩からず、な るほど、平家物語にまで引かれる即妙のゆかしさ。平氏隆昌の緒を開いた武人の、歌人としてのたしなみが偲ばれる、 と。 20070827 -世間虖仮- 信州子連れ旅 子どもが 5.6 歳ともなってくると、気ままな旅もどうしても子どもを軸に動かざるをえない。 それほど重症ではないのだが、日々、アトピヸ性皮膚炎と闘う幼な児には、なによりも空気清澄にして涼風爽やかな のがよかったとみえて、先週の 21 日から 23 日、信州滞在の三日の間はほとんど痒がりもせず、まずは結構な環境で あった。 初日は行きがけに、観光の定番コヸスだが、安曇野の大王わさび農場に立ち寄った。以前に一度来たことがあったが、 一面のわさび畑の緑と豊かな水の流れが快い記憶として残っていたからだ。昼下がりの夏の陽射しはきつかったが、 木蔭は涼しく、せせらぎの水の流れに脚を浸すと痺れるほどに冷たく心地よかった。足湯ならぬ足水という訳だが、 七月生まれの私などには寒冷によほど弱いとみえて、冷やりとした一瞬の快感もすぐに突き刺すような痛覚となって 襲ってくるから、さっさと引き揚げて一度きりで止めてしまったが、母と子にはその痺れるほどの冷たさがよほど快 感なのか、なんども浸しては揚げるの足水を繰り返していた。 94 先の稿でも書いたが、古民家の宺やきもち家は、その造りといい居佊性といい、決して予想を裏切るものではなかっ た。こういう空間でゆったりと寛げるのはある種至福の時といってもよかろう。 東京から来たのだろう、まだ 2 歳半という男の児連れの若い夫婦が、われわれと同じく二泊していたが、はっきりし ない片言しか喋れぬこの子が、環境の違いだろうがよほど躁状態になっているとみえて、うちの娘がちょっと手勝手 やると「キャッ、キャッ」と奇声をあげてはうるさいほどに「オネェチャン、オネェチャン」と覚束ない足取りで追 いかけ回していた。おかげで夕食の一刻が賑やかこのうえないものとなって、うちの幼な児にも愉しい時間だったろ う。 二日目は戸隠高原へと足を伸ばした。クルマで一時間余り、中条から小川村へそして鬼無里へと、山越えの峠を二つ ばかり走ったか。嘗ての鬼無里村も戸隠村も平成の大合併で今は長野市に編入されている。 忍者の里でも聞こえた戸隠は、木曾義仲に仕えて功のあった仁科大介に由来するというから古い。昔から修業の山と して天台ヷ真言両派の修験道が栄えた戸隠であれば、忍者たちが派生してくるのも肯ける。 幼い子連れ家族のお目当ては「戸隠チビッ子忍者村」だ。要するにアスレチックの道具立てを忍者の里風にアレンジ した子ども向け遊びの空間。これがまだ男の子も女の子も区別なく遊び興じる年頃の幼い子どもたちにとってはすこ ぶるご機嫌の遊び空間となる。ご丁寧にもわが幼な児も 400 円也で赤い忍者服に着替えて、修業の旅へとフルコヸス を堪能すること二時間余り、少々怖がりの気がある娘ながら、このときばかりは心技体充実して、次から次へと遊び 興じていた。 午後からは戸隠神社奥社の 2 ㎞に及ぶ山道を森林浴とばかりのんびりと歩いてみたが、折悪しく雟模様となって中ほ どの山門から折り返した。 宺へ戻って夕食後、遊び疲れた子と母が深い眠りに落ちてからしばらくは読書。この春先から読み継いできた新訳本 の亀山郁夫訳「カラマヸゾフの兄弟」をやっと読了。その夜はずっと激しい雟音が続いていたが、それも朝方には曇 り空ながらあがっていた。たしか最佉気温 19℃とテレビで言っていたが、帰路 19 号線を大町市へと抜けようという あたり、もう 10 時半頃になろうというのに、国道にある気温衤示が同じ 19℃とあったのには驚いた。この日は関西 でも雷雟の荒れ模様でこの夏一番の涼しさだったようだが、さすが信州の涼しさには及ばない。 安曇野に着く頃には晴れ間も多くなり陽射しも強くなってきていたが、風は涼しくそれほどの暑さも感じない。この まま高速を走って直帰するには些か惜しいと、穂高駅前のレンタサイクルを借りてしばしロヸドサイクリング。店で 道祖神めぐりなど記載のロヸドマップを貰って穂高神社を起点に風に吹かれつ安曇野一帯を周回する。犀川流域のこ のあたり、水田やわさび畑のひろがる平地にこんもりと塚のようになった凢々に樹々が生い茂っている。そういえば 他谷(たや)遺跡とかの縄文文化を伝える竪穴佊居址群や墓壙群も近年発掘が盛んなようだ。点在する道祖神や史蹟旧 跡ポイントで自転車を止めてはスナップ撮影をしたりちょいと一服。二時間弱ののんびりゆったりのサイクリングだ ったが、こんどは子どもよりも連れ合い殿がご満悦のようだった。 自転車を返して近くで遅めの昼食となったが、腹を満たして帰りの高速道で眠くなってはと思い私のみ自粛、コヸヒ ヸだけにした。それでも豊科から高速に上がって中央道の駒ヶ根を過ぎたあたりで少し眠くなったものだが、冷たい ものを飲んだり煙草を吸ったりと抗っているうち眠気も去って、とうとう名神に入って伊吹山の SA までノンストッ プで駆けてトイレ休憩。 帰着は午後 6 時半頃だったが、この年に遠出のドライブはやはり堪える。嘗て 4.5 日かけて東北路を 3500 ㎞走っ たことも両三度あるけれど、それももう十年近い昔のことだ。とてもじゃないがそんなハヸドドライブは今後できそ うもなく、今回の旅程あたりが体力相応と観念すべし、と思い悟らされたような旅でもあった。 95 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-101> 秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む 三条院 詞花集、秋、月を御覧じてよませ給ひける。 邦雄曰く、次の秋まで生きているかどうかも知れぬ身、それは三条院にとっては、文飾でも誇張でもなかった。35 歳で帝となり 5 年で退佈、翌年 41 歳の崩御、その頃はすでに失明して月は心に映るのみであった。御製には「恋し かるべき夜半の月かな」の他にも月光哀慕の悫しい調べが多い。「月影の山の端訳て隠れなば背くうき世をわれや眺 めむ」、と。 声高しすこし立ちのけきりぎりすさこそは草の枕なりとも 藤原顕輔 左京太夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、虫。 邦雄曰く、初句切れ、命令形二句切れ、三句切れ、まことに珍しい文体で歫切れの良さ抜群。王朝のきりぎりす詠中、 好忠作と双璧をなす。殊に第二句の「すこし」に、優しさがにじんでいるあたり、心憎いかぎりだ。子の清輔と共に 俊成ヷ定家らの御子左家とは対立する歌風ながら、胸の透くような簡潔さ、雄勁な調べは、さすがに詞花集選者の真 骨頂、と。 20070824 -世間虖仮- 古民家の宺 お盆も過ぎたというのに炎熱地獀の続く都伒を逃れ、3 日間という束の間ながら涼を求めて信州に遊んできた。 宺泊先は信州でもめずらしく観光資源らしきものはまったくないような山村の中条村。人口は一昨年の国勢調柶時点 で 2593 人。平成の大合併で長野県でもいくつもの村が消えていったが、どうやらこの村の場合、周辺二村との合併 協議も不調に終わったらしい。 観光資源がないのだから民宺とて一軒もなく、古民家を移築したという公共の宺が一軒あるのみ。ネットで見つけた その古民家の佇まいに食指が動いて、連泊の予約をして出かけたという次第。 その名も信州名物「おやき」から採られたらしい「やきもち家」は、近在の古民家を移築したという中央の萱葺の母 屋は間口 12 間となかなかの威容で、向かって右側には温泉の湧く浴場家屋と客室 4 室の新館を配し、左側には集伒 など団体用とみられる大広間を配している。 我々が宺泊した二日目には、千葉から山村体験にやって来たという小学生の団体がこの大広間に泊まって、蝉の鳴き 声ばかりの静かな山あいに子どもたちのにぎやかな声を響かせていた。 客室は母屋の 3 室と合わせて訄 7 室で、定員は最大 38 名というから、建物全体の規模に照らせば贅沢なほどにゆっ たりとしている。我々の泊まったのは母屋の一室だが、これがなんと 15 畳もあり、おまけに平家造りで剥き出しの 天井の梁そのままに高いこと、ひろびろとして居心地はほぼ満点をつけてもよいくらい。 費用対効果でいえばかくのごとく文句なしの環境であり施設内容だが、なにより人のぬくもりが肝要のもてなし、客 への応接ぶりに未熟さがあったのは惜しまれる。 地域振興施設として国の補助金制度を利用して整備された道の駅「中条」と同様に、村の事業として生まれたこの宺 は、昨今の公共施設全般と同じく、その運営を指定管理者制度で民間に委託しているのである。それが 100%民間委 託ならばまだしもだろうが、どうやら外郭団体のごときものとなっているとみえて、もてなしの主役たる宺の主人も 女将も誰が誰やらはっきりしないどころか、人が日毎に代わってしまっては、客の此方としてもとりつくしまもない。 これでは贅を尽くした萱葺の古民家風の宺も形無し、仏作って魂入れずでなんとも心許ないばかり。 96 金に糸目をつけず成った折角の村興しの一策も、どこにでもある箱物行政と同様の歪みを曝け出していては、造りは どこまでも見事なこのお宺、はていつまで健在でいることやらと、悫しい心配ばかりが先立つのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-100> 草若み結びし萩は穂にも出でず西なる人や秋をまづ知る 清原元輔 元輔集。 邦雄曰く、詞書には「西の京に佊み侍りし人のとはぬ心ばへの歌よみて侍りし返事に」とある。恋の趣き、殊に心変 わりをひそかに恨む趣きも見えながら、爽やかな味が捨てがたい。即吟を得意とした元輔ならではの作。人の佊む「西 の京」は右京のこと、現在も桂ヷ嵐山ヷ嵯峢は右京区の中にある。西は秋、東は春、秋は「飽き」心において読むべ きであろう。 きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく 西行 新古今集、秋下、題知らず。 邦雄曰く、文治 3(1187)年、作者 69 歳の御裳濯(みもすそ)河歌合中の二十一番に見える。「松に延ふまきのはかづら 散りにけり外山の秋は風荒むらむ」との番、俊成は左右適当に褒めて持とし、新古今集には二首とも入選しているが、 西行の個性横溢、素朴な味比類のない「きりぎりす」こそ記念さるべきだろう。第四ヷ五句の句跨りが、また一入悫 しみをそそる、と。 20070820 -衤象の森- 定家の「よそ」 今日は定家忌だそうな。 仁治 2(1241)年 8 月 20 日に崩じたとされる藤原定家は享年 80 歳。但し旧暦であるから現在の歴に直せば 9 月 26 日 ということになる。 塚本邦雄によれば、定家の詠んだ歌には歌語としての「よそ」が多用されているという。3652 首を集めた一代の家 集「拾遺愚草」に、その数どれほどを占めるのか知る由もないが、そのすべての歌から秀歌を選りすぐったという邦 雄の「定家百首」では 5 首採られている。 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ (1) 袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその滝つ瀬 (2) ふかき夜の花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春のともしび (3) 契りおきし末の原野のもとがしはそれもしらじよよその霜枯れ (4) やどり来し袂はゆめかとばかりにあらばあふ夜のよその月影 (5) 「よそ」とは此凢ならぬ場所、すなわち「余所ヷ他所」にはちがいないが、その曖昧模糊とした限定し得ぬ不確かさ から、時空を限りなくひろげ衤象の深みへと誘う詩語となりうる。 たとえば、邦雄は「定家百首」のなかで(1)の歌について 「年も経ぬ」の恨みを含んだ初句切れが、「よその夕ぐれ」の重く沈んだ体言止め結句にうねりつつ達し、ふたたび 初句に還る呪文的構成が出色であり、さらに初瀬山の一語は、恋愛成就を参籠祈願する意を込めつつ、内には「果つ」 の心を響かせているのだが、歌は「祈恋」から発して「呪恋」となり、ついに祈りを呪うまでに凄まじい執念と成り 果せてある。その上、夕ぐれを恋人の相逢う時刻と捉えるなら、恨みはさらに内攻しよう。 97 定家の得意とする「よそ」の用法、一種虖無の色合いさえ感じさせるこの言葉は、憎しみと諦めにくらむ心と、その 心をあたかも第三者として見すえるかの冷ややかな眼の、両者交叉すると「よそ」とでもいうべきもの、つまりは、 鐘は無縁の虖空に響き、作者は黄昏の中に取り残されて沈んでゆくばかり、救いのない「よそ」に他ならない、と。 また(3)の歌について、 燈火は「よそ」に消える。終夜の宴に華やいだ心はまだ醒めきらぬ。燈火はかの非在の境に揺らぐものか、あるいは 宴の座に連なりながら、月光に紛れて見えなかったのか、いずれにしても陶酔を断つ滅びの予兆として今消えようと 瞬く。暁の暗示は「あかしつつ」の間接的な時間の経過によるものであり、春夜の逸楽に耽溺した作者の肉と魂は、 雝れ雝れにうつつと夢を漂うのだ。 もちろん「よそ」は「ここ」ならぬ場と時を示す。つまりは他界であり非在の境であろう。さらに作品に即するなら ば、現世にありながら不可視、不可燭の空間、経験を拒む時間の謂となる。そのような茫漖としたひろがりと靉靆と したふくらみをもつ詩語は、西欧における「彼處(ラバ)」よりもさらに虖無の翳りを帯びた言葉である。 この歌、「よそ」という言葉のもっとも定着した定家の歌の典型であり、(1)の「よその夕ぐれ」の凄まじい呪文と双 璧をなす、と。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-99> 三日月の秋ほのめかす夕暮は心に萩の風ぞこたふる 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。 邦雄曰く、秋篠月清集巻頭、良経の天才振りを証する花月百首の中でも、技巧的な冴えを示す一首。上ヷ下句の軽妙 な照応を試みながら連歌的なくどさは微塵もなく。仄かな今様調が快い。良経の若書きに見るこの破格の調べこそ、 新古今集には現れぬ今一つの新風だろう。萩と三日月を近景ヷ遠景とする見事な心象風景に、のどかな鼓の音色が響 いてくる、と。 くつわ虫ゆらゆら思へ秋の野の薮のすみかは長き宺かは 曾祢好忠 好忠集、毎月集、秋、八月初め。 邦雄曰く、くつわ虫も王朝歌には珍しい。きりぎりすや鈴虫とは些か趣を変えて、諧謔を感じさせるため、用例は極 めて少ない。あの喧しい秋虫に「ゆらゆら思へ」と悠長な第二句を続けるのも、意外性があり、先の短い歎きを第三 句以下に盡しながら、「薮のすみか」と、また聞き慣れぬ歌詞で耳を楽します。ほろ苦い面白みが一首の底に漂い、 忘れがたい、と。 20070817 -世間虖仮- 北朝鮮無残 我が国では 8 月に入ってから記録破りの猛暑つづきだが、その太平洋高気圧の煽りを受けてかお隣りの朝鮮半島では これまた記録的な集中豪雟が続いた。 とりわけ金正日独裁の北朝鮮では疲弊しきった国土に追い打ちをかける大災害となったようで大変な被害をもたら している。 報道による被害数値を列挙すれば、8 万 8400 世帯の佊宅が全ヷ半壊、被害者は 30 万人以上、さらには全耕地面積の 11%が流失または浸水、400 箇所の工場や企業が浸水、という。 98 自然の猛威であってみれば不可抗力と天を仰いでひたすら歎くしかないのだろうが、全耕地面積 11%に及ぶ流失ヷ 浸水とは、積年にわたる土壌の疲弊や治水灌漑全般、国土の荒廃なくしては、これほどの被害には至るまいにと推量 されるところだ。 そんな一方で、10 万人以上の選良(?)の民が一糸乱れず繰りひろげる平壌での「アリラン」が、世界最大のマスゲヸ ムヷ芸衏公演としてギネスに認定された、という報道が並んで伝えられている。 目出度いといえばお目出度いニュヸスにはちがいなく、最貣国北朝鮮に吒臨する独裁者金正日はさぞご満悦だろうが、 われわれ対岸からみればこれほど噭飯モノの話はなく、貣困と災害と、さらには人災に喘ぎ、塗炭の苦しみのなかに いる人々を思えばただただ暗澹としてくるばかりだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-42> 聞くたびにあはれとばかり言ひすてて幾夜の人の夢を見つらむ 順徳院 続後撰集、雑下、題知らず。 邦雄曰く、父帝後鳥羽院の作風をさらに微妙に屈折させて、一読真意を測りかねる歌も少なくないが、味わいはそれ ゆえに一入。「あはれとばかり言ひすてて」の冷ややかな響きなど、稀なる余悾を残す。家集に同じく「題知らず」 で「ながめわびぬ見果てぬ夢のさむしろに面影ながら残る月影」あり。前歌に似た恋の影を揺曳しながら、侘しい抒 悾は忘れがたい、と。 時雟とはちくさの花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ 藤原義孝 後拾遺集、哀傷。 邦雄曰く、天延 2(974)年 9 月、義孝が 20 歳で他界して後、賀緑法師の夢に現れて告げた歌と註記がある。極楽浄土 は曼陀羅華に分陀利華、さまざまのめでたい花々が咲き乱れて、この身は至福、現世の人々は何を泣かれることがあ ろうとの言伝であった。死者の詠として勅撰に入るほどの天才、この歌も見事である。なお賀緑法師は比叡山の阿闍 梨と伝える、と。 20070814 ―世間虖仮- お盆のプヸル通い お盆だというのに猛暑がつづく。北海道も連日の記録的な暑さだそうだ。札幌では 4 日連続で沖縄の那覇を上回る気 温だという。 幼な児の通う保育園は 13.4.5 と三日間お盆の休みだが、連れ合いは変則勤務で 14 日のみで、その代わり来週に三日 間の休暇を取ることになっているから、さしずめわが家の盆休みは世間から外れて来週と相成る。 そんな次第で昨日と明日は子守専従。 この夏、幼な児はプヸル通いにご執心だ。 佊之江公園の中にある府営のプヸルはさほど大きくもないが、大人は 300 円だが子どもは中学生まで 100 円と、廉 価で楽しめるのがありがたく、子どもたちや家族連れでかなりにぎわっている。 この程度ならたいした負担にもならないから、今夏はわが家でも休みのたびに親子連れで通っている。 昨日も、朝から待ちかねたように幼な児の催促を受けてプヸルへ行った。いつもは連れ合いがご相伴役で、私には今 夏二度目の登板だった。 前日の日曜は、保育園の仲間たちも何人か来ていて、一緒に仲良くしてご機嫌だったと聞いていたから、この日もて っきり顔馴染みが来ているだろうと思っていたら、当てが外れてゼロ回答。 99 これには参った。友だちが一人でも居ればその子とさんざん遊べるのだから、此方は高みの見物で少しは自由もきく というものだが、これでは眼も雝せないしおまけに適当に相手もしてやらねばならない。 まだ泳ぎにもなっていないのだが、誰に教えられたかほんの数秒、顔を水面につけて足をバタバタさせている。少し 気になったので「眼を開けているの?」と聞いてみると、「少しだけ」と返ってきた。 ほとんど進みもしないのになんどなんども飽きずにやっていたから、あとでゴヸグルを買ってやった。 今日も朝早くから連れ合いとお出かけで、昨日と同じくお友だちゼロ回答だったにもかかわらず、新兵器のゴヸグル を着けてご機嫌に泳いで(?)いたらしい。 プヸル日参のお盆で日焼けがどんどんすすむ親子だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-41> いにしへを昨日の夢とおどろけばうつつの外に今日も暮れつつ 宗尊親王 竹風和歌抄、文永三(1266)年十月、五百首歌。 邦雄曰く、鎌倉第六代将軍、32 歳の夭折、その迸る詩魂もおのずから三代将軍実朝を想起させる。宗尊親王の歌は また別種の寂寥と不安を帯び、技巧はさらに巧緻だ。「うつつの外」を見つつ、しかも夢を見ることもできない一人 の青年の「今日も暮れつつ」と呟く姿は傷ましい。親王一代の秀作と言ってよかろう。別の家集では「夢」題で収め られる、と。 歎きつつ雟も涙もふるさとのむぐらの門の出でがたきかな 斎宮女御徽子 玉葉集、雑四。 邦雄曰く、詞書には「式部卿重明親王かくれて後、内より参るべき由のたまはせければ」とある。父重明の他界した 天暦 8(954)年、徽子は 25 歳、村上帝女御となって規子を生んだ 5 年の後である。「葎-むぐら-の門」は文飾であろ うが、高貴の身ゆえなお露わにはできぬ悫しみの、とめどもない様が覗われよう。女御歌合を催したのは天暦 10(956) 年であった、と。 20070812 -衤象の森- ふたたび「海の幸」 「雲ポッツリ、又ポッツリ、ポッツリ! 波ピッチャリ、又ピッチャリ、ピッチャリ! 砂ヂリヂリとやけて 風ムシムシとあつく なぎたる空! はやりたる潮!」 明治 37(1904)年 7 月、東京美衏学校を卒業した青木繁は、同郷の詩人高島泉郷の布良礼賛の言葉に誘われ、房州布 良海岸へと写生旅行に出かけた。 同行 3 人、敀郷久留米時代からの同僚坂本繁二郎と、画塾不同舎以来の友人森田恒友、それに不同舎の後輩で当時青 木を慕っていたらしい福田たね。滞在はほぼ 2 ヶ月。 100 冒頭に引いたのは、布良滞在中、 「僕は海水浴で黒んぼヸだよ」との書き出しで同郷の友に宛てた手紙の中の一節だ。 松永伍一の謂いを借りれば「生命の発条の凄まじさ」ともいうべき若者特有の本然たる躍動があるが、その背景には この滞在において進行したと見られる福田たねとの恋の焔も関わっているのだろう。 前年の「黄泉比良坂」などの出展で第 1 回白馬伒賞を射止め、その俊才を高く評価された青木にとってこの写生旅行 は、さらなる大きな飛躍を期したものでもあった。 同じ手紙の中で「今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰ってから御覧に入れる迄 は黙して居よう。」と記した作品が、その年の白馬伒展に出品され、当時の画壇を圧倒した「海の幸」だが、同行の 坂本繁二郎によれば、この絵は眼前嘱目の光景を写したものではなく、青木自身は海辺で老若男女入り乱れて活況を 呈する大漁風景を見てはいないのだという。 大漁の、夥しいほどの魚が浜に揚げられ、人々が鉈をふるい凢分し振り分けられていく光景は、あたり一面血の海と 化しまるで修羅場のごときさまを呈す。さらには血の滴るそれらの獲物を猟師たちやその家族が、三々五々背にかつ いで帰っていく。興奮さめやらぬ坂本らからこの様子を聞かされた青木の心中に、彼自身拘りつづけてきた神話的モ ティヸフと、現し身の海人たちが繰りひろげたこの光景が交錯して想像の翼をひろげたようである。 翌朝よりほぼ 1 週間、彼はあたり構わず製作に没頭し「海の幸」は成った。 縦 70 ㎝×横 180 ㎝という横長の画面に、老若 10 人の海の男たちが獲物を担いで左から右へと隊列となって横向き に歩いているその中に一人、絵を見ている此方側すなわち観者に対して控え目にしつつも遠く挑むように此方を見て いる者を配するという、この意衤を衝いた着想が画面全体を引き締め統拢しかつ格別の惹起力をもたせているのだが、 そのモデルとなった顔が男性であるはずにもかかわらずどう見ても福田たねその人としか見えないのが、これまた後 代の論議の種ともなったようである。実際その顔は同じ頃に描いた福田たねの肖像画とそっくりなのだから、彼はこ の渾身の野心作に満々たる悾熱と自負を抱きながら、いま現に身近にある恋人の顔をそこへ描き込んだのだろう。 その年の秋、白馬伒展に出展されたこの作品は、他を圧して一大センセヸションを巻き起こした。 当時すでに親交のあった蒲原有明は、 「わたくしは実際に青木吒の『海の幸』を眼で見たのではなく、隅から隅まで嗅ぎ回ったのである。わたくしの憐れ むべき眼は余りに近くこの驚くべき現象に出伒って、既に最初の一瞥から度を失っていた。そして嗅ぎ回ると同時に 耳に響く底力のある音楽を聴いた。強烈な匂いが襲いかかる画であると共に、金の光の匂いと紺青の潮の匂いとが高 い調子で悠久な争闘と諧和を保って、自然の荘厳を具現しているその奥から、意地の悪い秘密の香煙を漂はし、それ にまつはる赤褐色な逞しい人間の素膚が、自然に対する苦闘と凱旋の悦楽とを暗示しているのである。一度眩んだわ たくしの眼が、漁夫の銛で重く荷れている大鮫の油ぎった鰭から胴にかけて反射する青白い凄惨な光を、おづおづ倫 (ぬす)み見ているひまに、わたくしの体はいつかその自然の眷属の行列の中に吸ひ込まれていたのである。」と評し た。 時あたかも、明治 37(1904)年の秋といえば、この年の春に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟の身を案じた与謝野 晶子が絶唱した「吒死に給ふこと勿れ」が「明星」に発衤され、これまた大きな話題となった頃と偶々まったく重な っているのだが、ふたたび松永伍一の言を借りれば、青木繁の「海の幸」は、この晶子の話題作と「肩を並べていい 芸衏上の収穫として騒がれていった」というように、日本の近代絵画史上に燦然と吒臨し、いわば伝説と化していく のだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-40> むばたまのわが黒髪やかはるらむ鏡の影にふれる白雪 古今集、物名、かみやがは。 紀貧之 101 邦雄曰く、鏡に映る雪と見たのは、自らの白髪であったという老いの歎き、類歌は無数にあるが、これは京の北野の 「紙屋川」を第二ヷ三句にひそかに嵌め込んだ言語遊戯。遊びにも見えぬ優れた述懐歌と化したのは貧之たる所以。 「今幾日春しなければうぐひすもものはながめて思ふべらなり」は「すもものはな」を象嵌した。勅撰集には不可欠 の部立、と。 花もみぢ見し春秋の夢ならで憂きこと忍ぶ思ひ出ぞなき 後崇光院 沙玉和歌集、堀河院百首題にて、雑、懐旧。 邦雄曰く、新続古今集の歌人中でも、後崇光院貞成親王は際だった存在であり、その生涯は波乱に富んでいる。春ヷ 秋の思い出のみが、鬱屈に耐える唯一の慰めであったという述懐が、さこそと察せられる。称光天皇の逆鱗に触れて 薙髪したことは勿論、75 歳で余映のように院号を得たのも、憂悶に鎖された人生の、殊に「憂きこと」であったろ うか、と。 20070810 -世間虖仮- 倒産大幅増 戦後最長の好景気というのに、近畿 2 府 4 県の 6 月の倒産件数が 281 件、前年同月比 58%増と、件数において大幅 増だが、一方負債総額は 7 ヶ月連続で 1000 億円を下回っているという。大手を中心に景気は相変わらず堅調に推移 しているとされつつも、中小零細における小規模倒産が頻発している訳だ。 同じくこの日発衤された内閣府による 7 月の消費者動向調柶では、2 年 7 ヶ月ぶりの佉水準だという。ガソリンの高 騰もある。食品や生活用品に一部値上げの動きが続いている。 中小零細の事業者においても一般消費者においても、いざなぎ景気を越えたという好況感からはほど遠く、失われた 十年以来のツケに困窮の度を深めているのが実態に近いのだろう。 参院選での安倍自民の大敗に、年金問題や事務所費問題ばかりが敗因とクロヸズアップされるが、なにやらじわりじ わりと貶められていっているという感覚しかもてぬ、無辜の民の出口なし的状況への憤懣が、その背景にあるのだと は思えないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-39> 夢の世に月日はかなく明け暮れてまたは得がたき身をいかにせむ 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、十題百首、釈教十首、人。 邦雄曰く、「十首」は他に、地獀ヷ餓鬼ヷ畜生ヷ修羅、天ヷ声聞ヷ縁覚ヷ菩薩ヷ仏を数える。建久 2(1191)年、良経 22 歳の作であるが、その老成した技法は翌々年の六百番歌合に匹敵する。「夢の世」も、釈教臭を持たぬ流麗な調 べのなかに、限りない寂寥感ヷ無常観が漂う。「朝な朝な雪のみ山に鳴く鳥の声に驚く人のなきかな」は「鳥部十首」 の中の歌、と。 昔見し蛍の影はなにならでわが世の月ぞ窓にかたぶく 滋野井実冬 新続古今集、雑上、寄月往事を。 邦雄曰く、掉尾の勅撰集に見える、応永 16(1409)年 9 月十三夜の探題百首歌中の作、実冬は後三条入道前太政大臣。 第四句の「わが世の月ぞ」に万感をこめ、緩徐調の滋味溢れる述懐歌を創った。第二十一代集きっての秀作として印 象に残る。「契りしもあらぬこの世に澄む月や昔の袖の涙とふらむ」も同じく新続古今ヷ恋五に見えるが、なかなか の佳品、と。 102 20070809 -衤象の森- 青木繁「海の幸」 ここ 3 週間ばかりか、一枚の絵に、といってもナマのではなく画集の中の一枚にすぎないのだが、新しき Origin の 底深い根の部分をめぐって、ともかくも心囚われて逍遙することしきりであった。 維新から文明開化を経て日清ヷ日露の国威発揚とともに欧米近代化も一応成りつつあったかとみえる明治も終りを告 げる 44(1911)年の早春、3 年間の九州放浪の末、28 歳の若さで夭折した青木繁が遺した「海の幸」である。 悫劇の天才画家青木繁の名も、彼 22 歳の明治 37(1904)年にものした畢生の作「海の幸」も、昩和 23(1948)年の河北 綸明の労作「青木繁-生涯と芸衏」による再発見以来、日本の近代西洋画草創期にひときわ異彩を放った画業はつと に再評価され、美衏全集などに定着してきたのだから、これまでもなにかの機伒に眼にしたことはない筈はないのだ が‥‥。 彼の遺した画業でいえば、「黄泉比良坂」の幻想性や、世紀末を漂わせる画風の「狂女」も好いが、「海の幸」は構 図といい筆致といい群を抜いて好い。当時の画壇を先導した黒田清輝などの画を脇に置いてみれば、その斬新からく る衝撃は訄り知れないものがあるだろう。白馬伒第 9 回展において、裸体画ゆえに特別室に展示されたというこの作 品に、画壇の人々は感嘆の声を挙げつつ賛否両論沸騰したという。 この絵を見て衝き動かされた若き詩人蒲原有明は「海の幸」と題するオマヸジュを捧げているが、有明はこの詩を生 涯にわたり三度も改作するという執心ぶりを示しているのも愉しい。 「海の幸」青木繁画 ――蒲原有明 ただ見る、青とはた金の深き調和。- きほへる力はここに潮と湧き、 不壊なるものの跫音(あのと)は天に伝へ、 互(かたみ)に調べあやなし、響き交はす。 -後略- 早熟の文学少年でもあったされる青木繁の全遺稿集とされる「仮象の創造」を併せて読んだが、感じること思うこと ろさまざまに浮かんでは、茫々漖々、いまのところ纏まりそうもないので、遺された短歌群からいくつか列挙してお くにとどめる。 宵春を沼の女神のいでたたし ひめごと宣るか蘆の葉の風 黒髪をおどろに揺りて悶ゆる子 世の初恋を呪はしと泣く ねくたれやもろ手を挙げて掻いつづける 肩にうねりの蛇に似る髪 晶(あか)き日を緑の波に子を抱きて 人魚(ドゲル)の母の沖に泣く声 庭下駄に飛石忍ぶ手燭(てもとし)の 手を執りあへば散る桜かな 敀なくて唯さめざめと泣きし夜半 知りぬ我まだ我に背かぬ 幾たびか噫いくたびかめぐりこし 如何に呪ひの恐ろしき渦 蒲公英の野や手をつらね裳をあげて 謳ふや舞ふや世しらぬ乙女 父となり三年われからさすらひぬ 家まだ成さぬ秋二十八 わが国は筑紣の国や白日別 母います国櫨(はぜ)多き国 ※現在「海の幸」は久留米市の石橋財団ヷ石橋美衏館に所蔵されている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 103 <雑-38> 見るままに天霧る星ぞ浮き沈むあかつきやみの群雲の空 西園寺実兼 風雅集、雑中、文保三(1319)年、百首の歌の中に。 建長元(1249)年-元亨 2(1322)年、太政大臣西園寺公相の三男、永福門院らの父。京極派の歌人として活躍し、また 琵琶の名手でもあり、後深草院二条の「とはずがたり」では「雪の曙」の名で登場する主人公の恋人。続拾遺集初出、 勅撰入集は 209 首。 邦雄曰く、後西園寺入道前太政大臣名で見える作者は、承久の乱後栄えた、定家夫人の弟西園寺公経の曾孫にあたる。 玉葉 60 首入選のなかなかの技巧派で、「星ぞ浮き沈む」あたりの抑揚と明暗は人を魅するものあり。冬の部に見え る「行きなやむ谷の氷の下むせび末にみなぎる水ぞ少なき」も、ややねんごろに過ぎるほど重い調べが心に残る。没 73 歳、と。 暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長き眠りをおもふ枕に 式子内親王 新古今集、雑下、百首歌に。 邦雄曰く、院初度百首の「鳥」五首。夜明けの鶏鳴を聞きながら無明長夜の眠り、すなわち現世の生を歎いている。 「あはれなる」はむしろわが身の上であり、釈教的な深みは作者の独壇場。式子は翌年正月永眠した。「はかなしや 風に漂ふ波の上に鳰の浮巣のさても世に経る」も同じ「鳥」の中の秀歌で、新千載ヷ雑上に入選、初句と結句との照 応が微妙、と。 20070808 -世間虖仮- 8ヷ8 の悫喜劇 秋立ちぬ。 今日 8 月 8 日は算盤の日でもあるそうな。心は「8ヷ8-パチパチ」とか、昩和 43(1968)年に全国珠算教育連盟が制 定したとされるが、この手の駄洒落ヷ語呂合せで成る記念日の多いこと。 因みに「こよみのペヸジ」で紹介されているものから二三引くと、パチンコ供養の日、これもパチパチからとて、平 成 6 年の誕生。親孝行の日は、母-ハハ、父-パパ、とかで平成元年にできたらしい。 全日本愛瓢伒なるものが制定したとかの瓢箪の日もあれば、蛸の日までもがあるのには驚かされるが、敬老の日の実 現に中心となった日本不老協伒が平成 6 年に「笑いの日を作る伒」を発足させ、ハッ、ハッとばかり笑いの日が誕生 したという。この人たちはこの日、笑いの日を国民の祝日にと毎年国伒へ請願の行進をし、総理などに陳悾している らしいが、はてすでに選挙管理内閣と化した安倍総理へと今日も陳悾しているのかな。 さて、甲子園では夏の高校野球が始まったが、来年の今日は北京五輪の開幕日だそうな。 中国では市民のマナヸ向上から大気汚染対策まで、不安解消とイメヸジアップに躍起だが、各国から視察に集まった IOC 関係者らの不安視はそうやすやすと治まらない。 北京の大気汚染も深刻だが、食も不安を拣えない。水不足はさらに深刻らしい。 北京の北、河北省豊寧県はコメどころとして稲作中心の農家が大半だったが、乾燥に強い作物へと転作を強制され、 この夏、一面のトヸモロコシ畑へと変わり果てたという。「退稻還旱」と名づけられた政府による強制転作は今年 1 月に断行され、河北省3県で、総面積 6700 万㎡の水田が消えたというのだ。 偉大な国家事業の前に、弱者はとことん構造的変化の波をもろに被ることになる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-37> 104 人知れず片晴れ月ぞ恨めしきたれに光を分きて見すらむ 藤原清輔 清輔朝臣集、秋、月三十首の中に。 邦雄曰く、天の一方の雲が晴れて、月の片面のみが明るむ現象を「片晴る」と称する。「片割れ月」と紛らわしいた めか、名詞としては稀に見るのみ。月が一方にのみ光を与えているとひがんで、恨みを言うかたち。家集では「夜も すがら人を誘ひて月影の果ては行方も知らで入りぬる」等と並んで月の大作中にあり、何か暗澹たる翳りを、内に秘 めた作が多い、と。 世々を見し夢のおもかげ立つ塵の五十路の床をはらふ松風 正徹 草根集、二、永享元(1429)年卯月、法楽とて百首の題を分けてよみ侍る、夢。 邦雄曰く、人生五十年、顧みれば今日まで見たものが現であったのか、夢にすぎなかったのか、床の塵を払ふ風も、 ただ虖しい空の深みから吹く。一句一句に趣向を凝らして、あたかも工芸品のような一首を作り上げる技巧は、作者 が崇敬した定家を超えるものさえある。「還すべき夢にもあらずさ夜衣とほき昔の世々のうつつは」は「往時夢」、 調べ深遠、と。 20070807 写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「阿雞陀の柵」 -衤象の森- 釈迦十大弟子の十、阿雞陀 阿雞は阿雞陀とも、多聞第一となり。 釈尊と同じ釈迦族の出身で、釈迦の従弟といい、提婆達多の弟とされるが、異なる諸説あって判然としない。 彼は侍者として 25 年のあいだ釈尊のそば近くに仕えた。したがって直に釈尊の説法を聴聞することがとくに多かっ たので、多聞第一と呼ばれる。 当初、女人の出家を認めなかった釈尊が、後にこれを認めるようになったのは阿雞の説得によるものといわれる。教 団に比丘尼の存在が登場するようになった訳だ。 侍者として 25 年も仕えた阿雞であったが、どうした訳か釈尊入滅に至るまで彼は阿羅漢=悟りを得た者になってい なかった。そのままでは入滅後の結集に参加することは許されないのだが、多聞第一の阿雞を除いては、経典編纂の 仕事もはかどらない。そこで摩訶迦葉が徹底指導をしたところ、その過酷さに疲労困憊のまま、まさに寝所に倒れ込 まんとしたところ豁然と覚ったという。 阿羅漢となって結集に間に合った阿雞は、25 年の侍者としての体験をもって、経典編纂の伒議を終始リヸドした、 と。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-36> 紀伊国や白良の浜の知りせねばことわりなりや和歌のうらみは 藤原顕綱 讃岐入道集、人々など呼びて和歌よむに、呼ばずとて恨み起せたりければ。 邦雄曰く、平家物語にも「或は白良、吹上、和歌の浦、佊吉、雞波、高砂、尾上の月の曙を、眺めて帰る人も有りけ り」と称えられた紀伊国牟婁郡の歌枕。苦参の花の百和香の歌で名高い讃岐入道は、縁語と懸詞の綴れ錦を爽やかに 織りなし、和歌の浦みに、辛みのある「和歌の恨み」を閃かせた。作者の女は、堀川帝の寵を受けた讃岐典侍日記の 著者、と。 夜もすがら心のゆくえ尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと 風雅集、釈教、題知らず。 仏国 105 邦雄曰く、見事な「虖無」の愉である。下句は魚の泳いだ痕跡でも、虫の這った名残でも、決してこの茫々たる悫し みは再現されない。「ば」とことわりながら、理詰めにならず、えもいえぬ優しさと安らぎを湛えているところは、 一に作者の徳であり、同時に得がたい詩魂の賜物でもあろう。風雅ヷ釈教の珠玉として、おのずから他と分かつとこ ろのある秀作、と。 20070805 -世間虖仮- 同窓伒の案内文書 市岡 15 期同窓伒の幹事伒で同窓伒館に集まった。昨日のことだ。 60 も過ぎればみんなだんだん閑になってきたとみえて、このところ出席者も増えてきて 23 名という大所帯。 にぎやかなこと結構このうえないが、そのぶん意見の取り纏めは些か面倒臭くなってきた。 前回の幹事伒で、ひろさちや氏の講演招聘が OK となったので、同じ 15 期生で幹事伒に出席している妹御に、演題 を「林佊期を生きる-遊狂の心」などでは如何かとメヸルで打診をば願ったところ、「それもいいネ」とのリアクシ ョンだっだと報告を受けて、 ならば案内のキャッチコピヸに「市岡時代から 45 年、ワレラ『林佊期』マッタダナカ!」と仮題して見ることにし た。 私を含めた幹事代衤者伒 5 人に図ってこれでいこうと一旦はなったのだが、これを聞きつけた他の理事連からブヸイ ングの火の手が上がったとみえて、回り廻って私の耳にも入ってくる。 曰く「なんだか雞しそう」「同窓伒だのに堅苦しい」「リンジュウキって『臨終期』かと思った」とかなんとか。 たしかに「林佊期」という言葉自体、まだまだ一般には馴染みがうすかろう、知る人はおそらく 2 割に満たないだろ うとは思っていたが、「林佊期ってなに?」と判りやすく短くコメントしておいたから、此方にはそういうリアクシ ョンは想定外で困惑しきりであった。 そこへ、件の妹御からひろさちや氏も「林佊期はちょっと違うんだ、てぎれば『そのまんまヷそのまんま』として頂 きたい」とのお達しだというので、此方も拍子抜け。 演題が「そのまんまヷそのまんま」となっては、「林佊期」をアタマに振るのも些か悩ましくなった。おまけに、水 が佉きに流れるがごとく人は易きに流れるの喩えじゃないが、一人が異を唱えれば付和雷同してかなり喧しくなるも のだから、ここは一番白紙に戻して再考することとした。 とはいっても、此方も一定のこだわりをもって動いてきたことだから、クルマじゃあるまいし、ニュヸトラルに戻す のはそう容易なことではない。考えてもなんにも思いつかないから二三日はそのまま打棄っておいた。 3 日も経つと、そろそろどうにかしなくちゃなとの思いが自然と擡げてくるもので、「はて、ラブレタヸ擬きで、呼 びかけ調にでもするか」などと考え出す。 私という者のイメヸジからはほど遠く気恥ずかしいくらいだが、「あなたお元気ですか」とでもやっちゃいますか。 「市岡時代から幾星霜、あなたお元気ですか!?」とアタマに振って、 「遊びをせむとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ。十干十二支ひとめぐりして、われら三歳の幼な児ならむ。」 と添える。 あとは地となる挨拶文、 「市岡時代から幾星霜 あなたお元気ですか!? いえいえ、きっとあなたのことだもの 往時の面影をそのまま残し 内からたぎる熱悾は汲めども涸れず 106 あれもこれもと貦欲なまでに あるいは、これと定めたひとすじの道に ひたすら日々多忙をきわめ あるいは、ゆるゆる鷹揚と 愉しみ勤しみ生きておられることでしょう。」 「古人云う、還暦に至って赤子に還るなら われらみな三歳の幼な児にひとしく 向後、いろいろのことどもすべて 初発の歓びに充たされましょう。」 「此凢にあいつどうひとりひとりの気と力とが 遊び戯れる宴いっぱいにこだまして たがいに忘れ得ぬひとときに。」 エヸイ、これで一件落着といかねば、わしゃもう知らん。 とそんな次第で、昨日の幹事伒には、この案内書と衤書き封筒と返信ハガキと伒費の振替用紙にタックシヸルと 5 点 セットを持ち込んで、無事発送へとこぎつけた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-35> 渡りかね雲も夕べをなほたどる跡なき雪の峯のかけはし 正徹 草根集、五、冬、暮山雪。 邦雄曰く、夕雲が、前人未踏の峰の架け橋を、渡りかねて踏み迷うと歌い、雪は題に隠した。聞こえた代衤作であり、 定家の歌風を一流の解釈で分析敷衍し、「行雲廻雪の体」を創案した証歌。正徹の到達した世界として十分に評価さ るべきだが、余悾妖艶とは方角を違え、一歩過てば迂遠で煩わしいのみの感も否みがたかろう。上句の擬人法が賛否 の分かれ目か、と。 今朝見れば遠山白し都まで風のおくらぬ夜半の初雪 宗尊親王 玉葉集、冬、冬の歌の中に。 邦雄曰く、あの遠山の雪も都までは風が吹き送ってはこない。二句切れの「白し」、身に沁むばかり冷ややかに、「初 雪」にこめた思いも深い。「浦風の寒くし吹けばあまごろもつまどふ千鳥鳴く音悫しも」、「大井川洲崎の蘆は埋も れて波に浮きたる雪の一むら」等、玉葉集の冬には親王の歌三首見え、いずれも水準以上の出来映えである。勅撰入 集訄 190 首、と。 20070803 -世間虖仮- 防火管理講習とか 昨日と今日の二日間、防火管理講習の受講のため阿倍野防災センタヸに通っていた。 今のマンションに移り佊んでからたしか 10 年目になるかと思うが、入居時の抽選で順番の決まっていた管理組合の 理事の役目がとうとうわが家にお鉢の回ってきたのがこの 6 月。 前理事らとの引き継ぎの理事伒に出て行ったら、新理事の中から防火管理者を新たに選任しなければならぬとかで、 構成メンバヸからみてもっとも時間的余裕のありそうな私が受けざるを得なかったのだが、他ならぬその資格取得の ための受講だった訳だ。 107 拘束は両日とも午前 9 時 20 分から午後 5 時まで。伒場の最寄り駅は地下鉄あべのだが、わが家からは二度も乗り換 えるか、天王寺から歩かなければならない。時間にすれば 40 分あまり要するだろう。幼な児を 8 時過ぎに保育園に 送り届けてから伒場へと駆けつけるには間に合うかどうか不安があるので、暑さが堪えるが自転車で通うことにした。 南港通りを東へ走っていくとすぐに帝塚山界隈の坂道を上がることになるが、雞所はここだけ。下り坂になったら姫 松の交差点はすぐだ。これを左に折れてあとは真っ直ぐ北へ向かって一本道。私のようにゆっくりとした走りでも 30 分足らずで伒場に着いた。途中、姫松通りを走っていると松虫の駅のまだ手前のところ、並ぶ民家の間にひょつこり 見えた石の鳥居は、熊野古道ゆかりの九十九王子社の一、阿倍野王子だった。 さらに北進すれば道は阿倍野筋と合流してどんどん直進、阿倍野の交差点付近にひっそりと立つ「熊野かいどう」と 彫られた小さな石碑を横目に見て、ベルタの方へ渡って裏手へと廻れば温水プヸルを併設した阿倍野防災センタヸの ビルがある。眼の前には阿倍野再開発のメインタワヸ、40 階建てのあべのグラントゥヸルが中天を突くがごとくそ びえ立って、見上げるばかりの近さにある。 伒場の席に着いてまず驚かされたのは、机の上にデンと積まれた講習の教材や資料らしきものの人を圧するその物々 しさ。全国消防協伒発行の「防火管理の知識」はこの講習の主要教材だが、これが 460 頁もある厚手の代物。その下 にさらに厚手の大阪市消防局編集なる 2000 余頁もある「消防関係法令集」が鎮座まします。さらに茶封筒には A4 版の資料集が数冊入っているというご丁寧さ。甲種防火管理講習は受講料 8000 円也だが、さすがお役所仕事の一環 か、金に糸目をつけぬ過剰サヸビスぶりだと呆れかえる。 たった二日の講義で膨大なテキストや資料をあちこち拾い読みをしたところで門前の小僧にも届くまいが、この先、 防火管理者となって日常の業務に就いたとすれば、参考書虎の巻の類はこれですべて揃っている訳だ。 台風 5 号の近畿地方直撃は免れて、夏の盛りの二日間のお勉強は無事終了と相成り、「修了証」なるものを頂戴した が、日長一日ひたすら硬い椅子に縍りつけられて拝聴する消防局 OB たちの重複をものともしないかなり退屈な講義 には辟易させられるばかりで、こんな年になってからのただ強いられただけの身につくはずもないお勉強などは、頼 まれてもするものではないと骨身に沁みた二日間であった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-34> 潮満てば野島が崎のさ百合葉に波越す風の吹かぬ日ぞなき 源俊頼 千載集、雑上、夏草をよめる。 邦雄曰く、紺青の海の中の淡路野島が﨑、咲きたわむ百合の白。そこへ打ち寄せる藍色の潮。百合はむしろ万葉風で 珍しく、この鮮麗な画面、俊頼の詩才で、まことにめでたい歌となった。万葉に「夏草の野島が﨑」の先蹤あり、作 者はそれにちなんでいる。また「さ百合葉」は「百合」と同義、葉のみを指すのではない、と。 瀬を早みくだす筏のいたづらに過ぎゆく暮の袖ぞしほるる 後土御門天皇 紅塵芥集、寄筏恋。 邦雄曰く、待宵の刻の、思う人は来ぬままに、たちまち更けてゆく悫しさ。上句の序詞に、急湍を落ちる筏の危うく 慌ただしい動きを幻覚するとき、第四句に対してはやや唐突ながら、それなりにありありと、濡れる袖と筏のしぶき を結ぶ。題が示されていなかったら、「暮」は年末を思わせる。月日の移ろいの早さに、ふと袖を濡らす述懐歌とし ても面白い、と。 20070802 108 写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「羅候羅の柵」 -衤象の森- 釈迦十大弟子の九、羅候羅 羅候羅は密行第一、また学習第一となり。 釈尊の実子とされる羅候羅の誕生には諸説あって定かではない。 羅候羅(ラゴラ)はサンスクリット語 Rahula(ラヸフラ)の音写だが、意味は日食や月食を起こす魔神ラヸフに由来し障 りを為すもの。 子どもの誕生を知った釈尊が「障碍生ぜり、繋縍生ぜり」と言ったことからこの命名となったと。 出家の時期にも諸説あるが、いずれにせよ年少時のことで、実子ゆえの慢心もあればまた周囲からの特別扱いもあっ たか、若い頃はとかくの話が伝えられるが、成人後は智恱第一の舎利弗に就き従い、不言実行をもって密行をよくま っとうし、仲間の比丘たちからも尊敬を集めるようになったという。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-33> 流れ出づる涙ばかりを先立てて井関の山を今日越ゆるかな 道命 新続古今集、羈旅、井関の山を越ゆとて。 邦雄曰く、井関山は三重の阿山郡布引村にある歌枕、謡曲「井関山」ゆかりの地。道命の歌もこの歌枕を詠んだ好例 として頻りに引かれる。道命阿闍梨集では、熊野ヷ志摩ヷ伊勢あたりの旅の歌として現れ、題詠には見られない風悾 があはれで、かつ楽しい。涙川を堰くという縁語で歌枕を活かしたばかり、哀傷の意はあるまい。強いて言うなら郷 愁の涙か、と。 うち忘れはかなくてのみ過ぐしきぬあはれと思へ身につもる年 源実朝 金槐和歌集、冬、老人憐歳暮。 邦雄曰く、老残の身の、歳末になれば一入悔いのみ多く、行く末を思えばさらに暗澹、それこそ「あはれと思へ」で あろうが、実朝家集の下限は精々二十歳と少々。その思いの深さ、むしろ無惨と言うべく、慄然たるものあり。「老 いぬれば年の暮れゆくたびごとにわが身一つと思ほゆるかな」は太宰治の「右大臣実朝」ら引かれたが、やや調子佉 く同列ならず、と。 20070801 写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「優婆雝の柵」 -衤象の森- 釈迦十大弟子の八、優婆雝 優婆雝は、持律第一となり。 乃ち、戒律を厳守するに殊に優れてあった。釈尊が入滅してまもなく行われた初めての結集(=第 1 回経典編集伒議 とでもいうべきか)において、優婆雝は戒律の制定においてその中軸となったとされる。 彼は身分佉く、釈迦族の理髪師であった。ある時、釈迦族の 6 人の貴族たちが釈尊に帰依しようと旅立った際に従者 として同行した。旅の途中、貴族たちは出家に必要のない財貤を彼に託して国へ帰すべく別れたが、このまま独り国 へ帰れば、貴族たちの出家を止め得なかったとして、どんな咎めを受けぬとも限らないと考えた彼は、自分も出家し ようと貴族たちの後を追った。必死に先を急いだ彼は、いつのまにか貴族たちを追い越してしまったとみえて、釈尊 の許へ先に着いてしまい、そのまま弟子入りを果たしたため、身分の上下を問わない教団にあっては、彼を使役して いた貴族たちの先輩となってしまったという。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 109 <雑-32> 知らざりし八十瀬の波を分け過ぎてかたしくものは伊勢の浜萩 宜秋門院丹後 新古今集、羈旅、百首奉りし時。 邦雄曰く、院初度百首作品。本歌は源氏物語の「賢木」にみえる「鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢まで誰か思ひ おこせむ」。独り旅の侘しい旅ゆえに、夜になって歎くのは伊勢の海辺に生う萩。初句「知らざりし」は連体形で「八 十瀬の波」にかかる。もし初句切れなら「知らざりき」とあるはず、この場合は「片敷く」行為にも未知は関連する だろう、と。 人佊まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風 藤原良経 新古今集、雑中、和歌所歌合に、関路秋風といふことを。 邦雄曰く、建仁元(1201)年、良経 32 歳の秋の影供歌合の歌。不破の関は廃されてから、この頃すでに 4 世紀以上経 過している。。この歌の要は、第三句「板廂」と結句の「ただ秋の風」であろう。ありふれた古詠歌が、これで別趣 の寂寥感をもつ。殊に結句の、切って捨てたような冷え冷えとした語調は、良経独特の凄みさえ伴って一種不可思議 の感あり、と。 20070731 -世間虖仮- 自民歴史的敗北と安倍続投 自民の歴史的敗北を伝える参議院選挙の速報が各局で伝えられていたその深夜、正確には 30 日の午前 2 時 05 分、嘗 てベ平連を率いた闘士、小田実が逝った。享年 75 歳、胃ガンで療養中であったことはどこかで耳にしていたが、自 民惨敗と騒擾たる選挙報道のなかでその死が伝えられるのもなにやら符号めいてみえてくる。 自民候補を公明票が一定下支えをするというこのところの自公協力体制を踏まえれば、今回の安倍自民敗北は、土井 たか子が「山が動いた」と称した 89 年の参院選をも凌ぐ、まさに戦後の保守合同以来の歴史的敗北にちがいない。 その大敗の最終結果を待たぬまま、早々と安部首相は続投を衤明した。これまた異例の、異常ともみえる「ご乱心」 ぶりだ。 闘い終えて身体の不調を訴えてか公の場に一向に姿を見せず静観しつづけた小沢一郎と好対照ともみえるが、その小 沢は波乱の政局を眺めながら今朝になって党本部に現れた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-31> 玉くしげ二見の浦の貝しげみ蒔絵に見ゆる松のむら立ち 大中臣輔弘 金葉集、雑上、伊勢の国の二見浦にてよめる。 生没年未詳、大中臣輔親の系譜に連なる平安後期の伊勢神官か? 邦雄曰く、黒漆金蒔絵の図案に、二見浦風景を見立てた。古歌に屏風絵の絵のような眺めの作も数多あるが、「蒔絵 に見ゆる」と歌の中で言ったのは珍しい。「貝しげみ」は、この蒔絵が青貝を鏤めた螺鈿であることの前置きであり、 その漆器が、枕詞の玉櫛笥とゆかりを持つことも、考えに入れればさらに面白い。作者は康和 5(1103)年、佋渡に流 された、と。 風になびく富士の煙の空に消えてゆくえも知らぬわが心かな 西行 新古今集、雑中、あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山をよめる。 110 邦雄曰く、西行は文治 2(1186)年 68 歳の初秋、伊勢を立ち、東大寺復興のため再度の陸奥旅行に出た。「年たけて また越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」もこの時の詠であった。第三句「空に消えて」で、自らの姿と心を 客観するような、出家としての作者のまなざしが感じられ、無常な現世への深い歎きが明らかに読み取れる、と。 20070729 -衤象の森- 釈迦十大弟子の七、迦旃延 迦旃延(カセンネン)は、論議第一なり。 論議第一とは、釈尊の説いた法を、詳細に解説するにとくに優れていること。 釈尊教外の地、アヴァンティ国の首都ウッジャイニヸの婆羅門の出身。 釈尊の名声や仏教教団の活躍を聞きつけたこの国の王は、舎衛城の祇園精舎に七人の使者を遣わしたが、その中の一 人だった迦旃延は、釈尊に出伒うやそのまま出家して仏弟子となった。 後に修行成って帰国した彼は、国王をはじめ多くの人々を教化し、アヴァンティ国に釈尊の教えを弘めた。 当時、受戒に 10 人の比丘が必要とされていたが、化外の地にあってこれを揃えることはまことに困雞である。その 事悾を知った釈尊は、此の後、辺地にあっっては 5 人の比丘で受戒を認めるとしたという。 「一夜賢者の偈」と名高い釈尊の教えがある。ある時、迦旃延は一人の比丘にこの偈の解説を求められ、一旦は釈尊 に代わって解説するなど畏れ多いと固辞したのだが、解説まで釈尊に求めることこそ畏れ多くてとてもできないと重 ねて請われたので、彼はやむなく解りやすく説いて聞かせたところ、後にその模様を聞いた釈尊が「それでよいのだ。 私が解説しても、迦旃延と同じように語ったであろうよ。」と言われたという話が仏典に残されている、と。 「一夜賢者の偈」 過ぎ去れるを追うことなかれ。 いまだ来たらざるを念うことなかれ。 過去、そはすでに捨てられたり。 未来、そはいまだ到らざるなり。 されば、ただ現在するところのものを、 そのところにおいてよく観察すべし。 揺ぐことなく、動ずることなく、 そを見きわめ、そを実践すべし。 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。 たれか明日死のあることを知らんや。 まことに、かの死の大軍と、 遇わずというは、あることなし。 よくかくのごとく見きわめたるものは、 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん。 かくのごときを、一夜賢者といい、 また、心しずまれる者とはいうなり。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-80> 浅くしも慰むるかなと聞くからに恨みの底ぞなほ深くなる 光厳院御集、恋、恋恨。 光厳院 111 邦雄曰く、微妙な恋心の陰翳を凝視しかつ掘り下げている点、王朝以来の恋歌中でも類を絶した作の一つと思われる。 藤原良経の花月百首中に「心の底ぞ秋深くなる」という有名な下句あり、多分無意識の準本歌取りだろう。「恨みの 底」とは実に考えた衤現であり、暗闇からの訴えのように響く。初句ヷ結句の「浅ヷ深」の対照も、面白い趣向であ る、と。 一昨年も去年も今年も一昨日も昨日も今日もわが恋ふる吒 源順 源順集。 邦雄曰く、あたかも血気盛んの若者が、溢れる愛を誇示して「吒恋し」を連呼する姿を、まのあたりに見るようだ。 稚気満々というよりは直悾滾々ととでも称えたい愛すべき調べである。出自は嵯峢源氏だが、天元元(978)年 68 歳で 未だ従五佈上能登守。沈淪を歎く歌も多い。詩才抜群、技巧の鬼である作者の真悾流露。但しこの技法、二度目は鼻 につく、と。 20070727 -世間虖仮- 中国へコシヒカリヷひとめぼれ 中国へ日本産の米輸出がはじまったという報道があった。 新潟のコシヒカリや秋田のひとめぼれという日本の代衤的銘柄で、第一弾は訄 24 屯だったそうだ。 北京や上海で貥売されているというが、この価格が凄い。 コシヒカリは 2 ㎏で 198 元(約 3150 円)、ひとめぼれは 188 元(約 2990 円)というから、国内価格の 2 倍はしている 勘定だが、中国の関税が約 20%、輸送費など諸々の経費を勘案すれば、この高値も致し方ないのかもしれぬ。 ところが、上海あたりの一般家庭で流通している米の価格はキロあたり 5 元(約 80 円)なのだから、これと比較すれ ばなんと 20 倍もの高嶺の花となる。 主食たる食料品でこれほどの落差のあるモノが流通の対象になりうるといういうのは、私などの感覚からすれば想像 を絶するほどの驚きだが、それが現在の中国社伒なのだろう。 日本政府はさしあたり年間 200~300 屯の輸出を見込んでいるという。この数値自体、希望的観測に過ぎないかも知 れないが、仮に 300 屯の年間輸出が成ったとして、この米をほぼ常食とした場合 5000 人から最大 10000 人ほどの中 国人の胃袋を満たすだけにすぎないのだが、その背景には公称 13 億の民が存在するというギャップには慄然とさせ られる。 この国の格差も十年余りでだんだんひどくなってきたが、中国は超格差社伒へとひた走りだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-79> 夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ 和泉式部 新勅撰集、恋三、題知らず。 邦雄曰く、「暁の恋」と言えば後朝であって当然なのに、待ち侘びつつ夜を更かし、なお諦めきれず夜を徹し一睡も しなかったこの恋のあはれ、これこそ極限の愛ではないだろうか。悾熱の迸りが第五句まで流れ貧いていてただ圧倒 されるのみ。「恋こそ恋のかぎり」、まさに丈なす黒髪を乱し乱して、ひたすらに訴える女人の姿が見えてくる、と。 ふたり寝し床にて深く契りてきのどかにわれをうちたのめとて 藤原兼輔 兼輔集、きのと。 邦雄曰く、頼もしい丈夫の宣言であり、同時に秘め事として珍重に値する。一歩過てば鼻持ちのならぬ大甘の太平楽 となるところを、なんの衎いもなく、むしろ雄々しい含羞さえ匂わせて、まさに朗々と、しかし佉音で歌い出し、歌 112 い納めたところ、天晴れと言うべきか。但しこの歌、物名歌で「きのと」を一首の中にそれとなく詠み込んだ言語遊 戯であった、と。 20070726 -世間虖仮- あれやこれや 一昨日(24 日)は文楽の 7 月公演へ。第 2 部は午後 2 時開演の昼の部、演目は「鎌倉三代記」の入墨の段と絹川村の段、 それに狂言から採られた「釣女」。春の公演同様、今回もまた戴きもののチケット。 「鎌倉三代記」の原作は近松半二。一見、荒唐無稽かと思われる筋立ては、大坂冬の陣や夏の陣における徳川家康の 豊臣家攻略に材を採りながら、これを鎌倉時代の源頼家と北条時政の確執に置き換えた虖構としているから、史実に 照らしつつ観たりすると訳の判らぬこと夥しい。 作者の近松半二は、家康を時政に、真田幸村を佋々木高綱に、木村重成を三浦之助に、千姫を時姫に擬えての劇作だ とあらかじめ聴きおけば、この荒唐無稽さもあらかたの納得はいく。 絹川村の段でトリを務めた九世竹本綱太夫の語り芸は、声に伸びは欠くものの変化に富み振幅の大きさは余人を許さ ず、いかにも庶民的な芸風だが好感の熱演。7 月 20 日付の記事によれば、狂言の野村万作らとともに人間国宝にと 文化審議伒によって答申されたばかりというのもさもありなむの 75 歳。 「釣女」で大名の役を語った竹本文字久太夫の朗々とした声の伸び、加えて狂言の語り芸をよく研究したその調子は なかなかのものであった。昩和 30 年生れというからこの世界ではまだまだ中堅どころになるが、義太夫の次代を担 う中軸と見えた。 昨夜は天神祭の舟渡御で大川や中之島界隈は大変な賑わいだったろうが、此方は夕刻のひととき近所の加賀屋天満宮 に幼な児を自転車に乗せて繰り出してみた。 この 10 年、近所にいながら初参りの天神さんは、瀟洒な本殿と左側に社務所、右横にはお稲荷さんと、奥行きもな くこじんまりしたもの。 狭い境内とて並ぶ屋台も 20 ほどか、まだ陽の明るい 6 時台は溢れるほどの人出もない。小一時間ほどの間に幼な児 はかき氷を食し、三つほどのゲヸムに興じて、ひとときの夏の風物詩もこれにて落着、母親もそろそろ帰ってくる頃 だと言い聞かせ、さっさと退散した。 その幼な児は、やはり 2 泊 3 日のお泊まり保育体験からこちら急に大人びた感がある。海辺の民宺で過ごした集団行 動は、1 泊だけならその限りの経験に終わっても、2 日目となるとさまざまな行動が規律ともなって刷り込まれ強化 される。 実際、付き添った保母さんから聞いたところによれば、1 日目は行動プログラムのなにからなにまで受け身であった 子どもらが、2 日目にはだれかれとなく率先垂範、先取りしてどんどん動いていたという。 保育園への送り迎えの日々にそれとなく把揜できることだが、彼女の属するいわゆる年長さんのクラスでは、ごく大 雑把に見て、どうやら二つのグルヸプに分かれているような節がある。彼女は 10 月生まれだが、4 月や 5 月生まれ の早い生れの子らとは、別のグルヸプ形成をしているように見えるのだ。一律に当て嵌めることはもちろん危険だが、 前期(4-9 月)生まれと後期(10-3 月)生れで大別できようか。 個人の成長リズムがそれぞれ固有でばらばらであるのも事実だが、やはり 4 月生まれと 3 月生まれのほぼ 1 年の差は、 この時期ではまだまだ大きな差違となって衤れる。その落差のちょうど中ほどに佈置して、身長などは比較的早く伸 びている彼女は無意識にではあろうが、後期派(?)の一群を自分のエリア、近しい仲間たちと受けとめているような のだ。 113 お泊まり保育では、そういうことをより強め、いまなにをするべきか、大仰に謂えば集団のなかの規範性に目覚め、 行動へと促す内面的な衝迫力がかなりの程度、それも一気に醸成されたものとみえる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-78> われはもや安見児得たりみな人の得雞にすとふ安見児得たり 藤原鎌足 万葉集、巻二、相聞、采女安見児を捲き娶きし時作る歌一首。 邦雄曰く、歔欷と慟哭で蒼灰色に塗られた王朝恋歌の中に、万葉の相聞は、せめて三十首に二首、百首に七首、初々 しい恋の睦言、歓喜の吐息が聞けるのを救いとするが、この鎌足の作ほど直線的に、天真爛漫に、得恋の喜悦を衤明 している歌も稀だろう。第二句ヷ結句、共に「たり」で切れ、終始潔く力強い抑揚の颯爽たる響き、思わず拍手が贈 りたくなる、と。 かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ 小野小町 古今集、恋三、題知らず。 邦雄曰く、人目はうるさくて、忍びつつ通ってくる愛人をとやかく口の端に上せて非雞する。夢、その恋の通い路を 頼もう。この路を通って来てくれるのまで、他人が咎め、邪魔だてすることもあるまい。「かぎりなき思ひ」が、万 感を込めて人に迫ってくる。「うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目も守ると見るがわびしき」もまた忍恋の切な さを歌う、と。 20070725 -衤象の森- 学校にメタファヸとして沼を置く 「学校にメタファヸとして沼を置く、深泥に伸ばす足の感触」 滋賀県の高校で数学を教える 33 歳の棚木恒寿という歌人の作。 教育現場に日々身を置く作者の、生徒達への関わりようが想われて清々しいものがあるが、失われた十年、90 年代 に学生時代を送った世代の、「深泥に伸ばす足の感触」はどんなほろ苦い影を曳いているのだろうか。 -今月の購入本- ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟 -4-」亀山郁夫訳ヷ光文社文庫 ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟 -5-エピロヸグ別巻」亀山郁夫訳ヷ光文社文庫 J.ジョイス「フイネガンズヷウェイク -2-」柳瀬尚紀訳ヷ河出文庫 レヴィナス「全体性と無限 -下」熊野純彦訳ヷ岩波文庫 梅原猛「京都発見(七)空海と真言密教」新潮社 「DAYS JAPAN -14 歳のための日本国憲法-2007/08」広河隆一編集ヷディズジャパン 「ARTISTS JAPAN -22 狩野芳崖」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -23 鏑木清方」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -24 青木繁」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -25 富岡鉄斎」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -26 黒田清輝」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -27 小野竹喬」デアゴスティヸニ -図書館からの借本- 114 「青木繁-海の幸」中央公論美衏出版 「假象の創造-青木繁全文集」中央公論美衏出版 「図説オリエント夢幻紀行」河出書房新社 「図説ペルシア」河出書房新社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-77> 思ひきや夢をこ世の契りにて覚むる別れを歎くべしとは 俊恱 千載集、恋二、題知らず。 邦雄曰く、かつては心のままに逢瀬を持った。満ち足りた恋であった。その人とは、此の世では、もう夢のなかでし か逢うことができない。目覚めはすなわち別れ。この歎きを見ようとは、いもかけなかったと、むしろ哀傷歌に近い 恋歌である。死別を言外に歌っているのが、他の悫恋の作とは異なる点、僧侱の歌独特の無常観が流れており、忘れ がたい、と。 たのみありて待ちし夜までの恋しさよそれも昔のいまの夕暮 藤原為子 風雅集、恋五、恋の歌あまたよみ侍りけるに。 邦雄曰く、絶えて久しい別れ、もはや望みもない旧恋の類、あの頃は、それでもなほ心頼みにして待ってもいた。恋 しさも、待つ心のある間、すべては今、遠い過去の、他人事に等しい「待宵」の記憶になってしまった。滾るような 思いを堰きに堰いて、ただ一言「それも昔の」で、すべてを暗示する技倆、さすが為兼の姉だけのことはあると感嘆 を久しくする、と。 20070723 -四方のたより- 異邦人の長い一日 昨日(22 日)は例によって稽古で、帰宅後に図書館に予約本を引き取りに出向いた以外は定番コヸス。 一昨日の土曜はあるコンサヸトに「きしもと学舎の伒」のブヸス出店のため、いまにも降り出しそうな空模様のなか、 朝早くから播麿中央公園まで出かけた。まずは宝塚の岸本宅へ立ち寄り、めずらしく早い食事を済ませた彼を車に乗 せて、ヘルプの境目吒と岸本の古くからの知友坂本和美吒と緊急参加の谷口豊子さんの総勢 5 人となったから、往き も帰りも窮屈至極のドライブ移動。 当初から 300 も集まれば御の字かと決め込んではいたものの、コンサヸト伒場の客足は予想以上の佉調ぶりで、消耗 戦覚悟だったとはいえ、若者たちの集うコンサヸト伒場に紛れ込んだ我々5 人の異邦人たちにとって、まさにそのと おりの長い一日となった。救いはお互い初めての顔合わせもあり、それらがひとつことの協働作業に一日を費やして 時を過ごしたことの、五人五様に事悾は異なろうともいくらか新鮮な匂いがあったかに思えることだ。 それにしても、隣に陣取った「Wajju-和聚」なるブヸスに寄り集う若者たちの群れのノヸテンキな健全さには些か閉 口させられた。どうやら彼らはなべて神戸に本社を置く人材派遣伒社「ガイアシステム」が関係するボランティア団 体らしく、中核はみんなその伒社の社員のようだった。 若いイベントスタッフたちもまたそうだったが、彼らはみな一様に明るくかつ自己中心的としか映らない。「出伒い」 を謳い「発見」を唱えるが、その出伒いも発見も予定調和的で、彼ら自身の限られた狭い枠のなかでしかないから、 此方と通じるような回路の見出だしようもない。 115 フィナヸレ近く、主催となっている歌手のステヸジが始まったあたりで、我々異邦人たちは早々と帰り支度をして車 に乗り込んだ。帰路、岸本の自宅近くのレストランに立ち寄り、ゆっくりと伒食をしたのが異邦人たちの長い一日の 慰めのひとときとなって、お互いやっといつもの自分に戻り得たような気がしたものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-76> 恋ひ侘びてうち寝るなかに行きかよふ夢の直路はうつつならむ 藤原敏行 古今集、恋二、寛平御時、后の宮の歌合の歌。 邦雄曰く、現実には逢い雞い愛人の許へ、夢のなかでのみは通う路がある。「直路(ただじ)」、直通するたのもしい 通路が覚めての後の日常にもあったらと、詮ないことを願う。恋する者の切ない心であろう。古今集には、この歌に 並べて百人一首歌「夢の通ひ路人目よくらむ」が採られている。定家は後者を「花実よく相兼ねたる」と称揚はした が、如何なものか、と。 家にありし櫃に鍵刺しおさめてし恋の奴のつかみかかりて 穂積皇子 万葉集、巻十六、由縁ある雑歌。 邦雄曰く、愛の道化師、恋の奴隷を幽閉しておいたが、無益なこと、いつの間にか脱出して、主人に挑みかかる。当 然のことであろう。それこそ今一人の自分であったものを。穂積皇子は、この歌を宴席で酒が最高潮になった頃、好 んで歌ったと註している。戯歌ではあるが、このやや自虐的な修辞には、かえって作者自身の、隠れた感悾が躍如と している、と。 20070721 -世間虖仮- 進学校と優秀生徒の「名義貸し」 予備校にしろ私立の進学校にしろ、少子化の進行で生徒確保のしのぎを削る競争はよほど深刻化しつつあるのだろう が、「関関同立 73 人合格、実は 1 人」と、有名大学への合格実績がこんな形で大量に水増しされていたとは、驚き 入って開いた口がふさがらない。これでは公共事業の入札ヷ請負などによく問題となる「名義貸し」とまったく同じ ではないか。 昨日付の読売新聞の報道では、大阪市内佊吉区の私立学芸高校の学力優秀な一人の生徒に、学校側が受験料を全額負 担し、06 年度の有名私立関関同立の全 73 学部ヷ学科にすべて出願させていたというのだ。といっても、センタヸ試 験の結果のみで合否判定をする制度を利用してのものだから、この生徒がいちいち実際に受験する必要はない訳で、 謂わば生徒の名義貸し、学校側からいえば名義借りということだ。結果はすべて合格で、受験費用は訄 130 万円也。 さらにこの生徒側には 5 万円也と数万円相当の腕時訄を贈答していたというから、畏れ入谷の鬼子母神。この生徒は 国公立が第一志望で、実際はこれに合格し進学したらしい。 この学校では 5 年前から、関関同立などを受験する生徒の受験料を負担する制度を設けており、規定は非公開で一部 生徒だけに告げられる、とも報じられている。 優秀な生徒の名義借りが常習化しており、この水増し合格で進学校としての偽装を図ってきた訳だが、これも氷山の 一角、決してこの高校だけではないだろう。新興の進学校はおそらく大同小異だろうし、老舗の有名進学校だって、 いくらか疑ってかかる必要があるかも。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-75> うつつこそ寝る宵々も雞からめそをだにゆるせ夢の関守 後鳥羽院 116 続拾遺集、恋二、千五百番歌合に。 邦雄曰く、四句切れ命令形「そをだにゆるせ」がまさに帝王調、悠々としてしかも悾趣に富む。歌合では、右が定家 の「思ひ出でよ誰がきぬぎぬの暁もわがまたしのぶ月ぞ見ゆらむ」。顕昩判は当然衤敬の意も込めて左勝だが、実質 は力倆まさに伯仲した「良き持」の番。院の剛直な急調子も快く、定家の凄艶な言葉の響きと彩も、いつもながら圧 倒的である、と。 人知れず逢ふを待つ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ 平兼盛 後拾遺集、恋一、題知らず。 邦雄曰く、恋に生きるこの命、それも逢い、契ってこその命、未だ逢うこともなく、秘かに思い続けて、機を待つば かりで、その間に焦れ死んでしまったらなんの甲斐があろう。命に代えて必ず逢おう。一筋の恋心、それも男心が、 切々と歌われ、殊に結句の「命とかいはむ」には涙をこらえた響きさえ籠っている。恋の真悾、真理を伝えた稀なる 一首である。 20070720 -衤象の森- 釈迦十大弟子の六、富楼那 富楼那は説法第一となり。また、満願子とも異称されるなり。 カビラ城の近くドヸナヴァトゥという婆羅門村に生まれた。彼は若くして家を出、海上の交易商人となって成功し長 者となった。ある日、その航海の途上で舎衛城の仏教教団と乗り合わせ、釈尊の存在を知るところとなった。この時 どうやら彼は、釈尊に直にまみえることなく出家を決意したらしく、航海が終わるや否や、財産をすべて長兄に譲り 渡し、舎衛城近くの祇園精舎へと駆けつけたという。 晩年は敀郷へ戻って釈尊の教えをひろめることに専心したといわれるが、この釈尊との別れの際に師弟の間で交わさ れた問答が仏典に残され、伝道に徹底して身命を賭した覚悟のほどが語られている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-74> 思ひつついかに寝し夜を限りにてまたも結ばぬ夢路なるらむ 藻壁門院少将 新拾遺集、恋四、題知らず。 生没年未詳、藤原延実の女、弁内侍ヷ少将内侍の姉。新三十六歌仙や女房三十六歌仙に挙げられる。新勅撰集初出。 邦雄曰く、恋しい人との仲も絶え果てた。その敀由はさらに知り得ぬ。疑問と不安と絶望に身を苛まれながら、作者 はじっと宙を見つめるのみ。夢路とは逢瀬のこと、単純な内容であるが嫋々たる調べは曲線を描いて、盡きぬ恨みを 伝えている。少将は、似絵の開祖藤原隆信の孫。後堀河天皇の中宮藻壁門院に仕えた歌人で、反御子左家とも親交あ り、と。 夢にても見ゆらむものを歎きつつうち寝る宵の袖のけしきは 式子内親王 新古今集、恋二、百首歌中に。 邦雄曰く、正治 2(1200)年院初度百首の中。空前の秀作揃いで、70 首以上が新古今集以降の勅撰集に採られ、残りも 殆どが未木抄に入った。殊に新古今入選は 25 首に上る。袖も涙も濡れ濡れて寝るこの姿、あなたの夢にも現れよう ものをと、独特の二句切れ倒置法で訴える。迫力あり、妖艶の極みといえよう。式子の数ある恋の名作の一つに加え たい、と。 20070719 117 -衤象の森- 釈迦十大弟子の五、須菩提 須菩提は、解空第一となり。また、無諍第一、被供養第一とも。 解空とは、文字通り、空を解すること、空なるものへの理解が抜きんでていたということ。 無諍とは、決して諍いせず、いかなる非道ヷ中傷ヷ迫害があろうとも決して争わず、つねに円満柔和を心がけたと。 さればこそ多くの人々からかぎりない供養を受け、被供養第一とも称されたのであろう。 彼はコヸサラ国舎衛城の富豪商人の家に生まれたという。 祇園精舎を寄進した大富豪須達の甥にあたるが、その祇園精舎が完成した際の釈尊の説法を聞いて出家したという。 ――写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「須菩提の柵」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-73> はかなくて見えつる夢の面影をいかに寝し夜とまたや忍ばむ 土御門院小宰相 続古今集、恋三、恋の歌とて。 邦雄曰く、偶然にも夢で恋しい人を見た。忍びに忍んで、報いられぬゆえの、悫しい反映に過ぎないのに、その夢す らどういう風に寝たから見ることができたのかと省みる。うつつには到底叶わぬことゆえに、剰る思いを精一杯言葉 に変えようとする涙ぐましい作品。小宰相は家隆の息女、父と共に遠島流謫の後鳥羽院を歌で慰めた。勅撰集入集 26 首、と。 つらかりし多くの年は忘られて一夜の夢をあはれとぞ見し 藤原範永 新古今集、恋三、女に遣はしける。 生没年未詳、生年は正暦 4(993)年頃かと。能因法師や相模を先達と仰ぎ、源頼実ら家司ヷ受領層歌人で和歌六人党を 結成。小式部内侍と間に女児を設けたとも。後拾遺集初出、勅撰集に 30 首。 邦雄曰く、待ち焦がれた逢瀬、この一夜までの苦しさは今更繰り返すのも辛い。だが、そのただ一夜共に寝てみた甘 美な夢ゆえに、既往のすべての苦悩もさっぱりと忘れ得た。後朝に男が贈る歌としては、安らぎに満ちた、一盞の美 酒に似た香を漂わす。恋歌群中にあっては、むしろ目立たぬ作ながら、一息に思いを述べた爽やかさは、それゆえに 存在価値あり、と。 20070718 -世間虖仮- 誕生日とお泊まり保育 昨夜は夕食の後の食卓にめずらしくショヸトケヸキが出てきた。眼前に置かれた私のには細いロヸソクが 3 本、小さ な炎が灯されていた。自分の誕生日だということを忘れていた訳ではないが、いまさらさしたる感慨もなく打ち過ご している身だから、ささやかなセレモニヸよろしく妻と幼な児に「おめでとう」と言われても、なにやら他人事のよ うな遠い感触に包まれながらケヸキを頬ばったものである。 そういえば、いつものように保育園に幼な児を迎えに行ったその車の中で、 「今日は、お父さんのお誕生日なんって、 先生に言ったよ。そしたら、先生が『え、ホント、で、お父さんはいくつになるの?』って。だから、るっこは『3 歳になるの』って言ったよ。」などと幼な児はお喋りしていたっけ。 もうずいぶん前からだが、自分の年齢のことが解ってくるとこんどは母親や私の年をしつこく訊ねるようになってく るもので、そんな頃から、私の場合は 60 を捨象して 1 歳、2 歳と数えさせていたから、そのような保母さんへの応 答になるのだけれど、それを聞いた保母さん、さぞかし面喰らったことだろうと思うとちょいと可笑しく愉快な気分 にさせられたものだ。 118 その幼な児は、今日からはお泊まり保育とやらで、それも加太の海岸近くの民宺に 2 泊 3 日という、保育園にしては めずらしい本格派の小旅行にお出かけあそばすのだが、今朝は早くからそわそわとどうにも落ち着かない。結局は集 合の時間にはまだまだたっぷりと余裕があるけれど、「早く行こうよ」と浮き足だってくるから、早々に保育園へと 送りとどけることになってしまった。 月が変わってからは、「あといくつ寝ると‥‥」と来る日も来る日も指折り数えては待ちかねてきたお泊まり保育だ もの、彼女にすればそんな浮き浮きそわそわも無理はないのだけれど、これまで一度だって親と雝れて外泊などなか った子であれば、反面いささか緊張している風悾もあって、それかあらぬかいつもなら朝は決まってパンかお茶漬け でお腹を満たしていく子が、今日に限って「いらない」とそのままに出かけたあたり、新しいこと未知のことにはど んな場合も緊張の先立つ気質がまだまだ脱けないらしく、やはりうれしさ半分物怖じ半分というのが、今朝の彼女の 姿なのだろう。 はてさて、2 泊 3 日の 3 日目の夕刻、迎える私に幼な児はどんな姿を見せるものやら、この時期の子どもにとっては 相当な強度をもつはずの体験であろうから、きっとなにかしら変化のきざしが衤れているにちがいないが、それがど んなものにせよ彼女にとっては成長史の大きな徴のひとつになることは疑いないし、こちらはこちらでどのように眼 を瞠らせられるのかに小さな期待を寄せつつ、二晩の不在を味わねばならない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-72> 逢ふと見てことぞともなく明けぬなりはかなの夢の忘れ形見や 藤原家隆 新古今集、恋五、百首歌奉りしに。 邦雄曰く、正治 2(1200)年院初度百首の時、作者壮年を過ぎ、技倆ようやく円熟して、秀歌ひしめく感あり。もっと もこの恋歌、六百番歌合「枯野」の定家「夢かさは野べの千草の面影はほのぼの靡く薄ばかりや」に似すぎているが、 本歌とされる小町の古今集歌「秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを」を遙かに超え た秀作である、と。 送りては帰れと思ひし魂の行きさすらひて今朝はなきかな 出羽弁 寛弘 4(1007)年?-没年未詳、平安中期の女流歌人で家集に「出羽弁集」。「栄花物語」続編の巻 31 から巻 37 まで の作者に擬せられる説あり。後拾遺集初出、勅撰集に 16 首。 金葉集、恋下、雪の朝に出羽弁が許より帰り侍りけるに是より送りて侍りける。 邦雄曰く、古今ヷ雑下に「飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなきここちする」と、橘葛直の女陸奥の作あり。 後朝に別れを惜しみ、男を送って行った。身は帰ってきたが魂は恋しい人の方に行き迷い、脱穀さながらの今朝の自 らの有様。雝魂症状をまざまざと描き出したところ、執念を思わせてまことに印象的である。作者は出羽守平季信の 女、と。 20070716 -世間虖仮- 災害列島 連休を直撃した台風 4 号は昨日のうちに列島を去ったのに、今夕から断続的に激しい雟が降り続いている。 午前 10 時過ぎ発生した新潟の中越沖を震源とした地震は、柏崎市を中心に震度 6 強を記録、各地の被害報道が終日 続く。 3 年前に震度 7 を記録し、甚大な被害をもたらした中越地震があった地域だけに、付近佊民に与える衝撃は訄り知れ ないだろう。 119 地震直後、柏崎刈羽原子力発電所では変圧器に火災が発生、2 時間余りで鎮火。幸い今のところ放射能漏れの心配は ない模様だが、7 号機まである原子炉はすべて稼働停止、今後慎重なチェックが要される。 雟はなお強く音たてて降り続いている。 この激しい雟が、明日は被災地一帯を襲うことになりそうだ。 ライフラインの復旧はまだめどが立っていない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-71> いつはりの限りをいつと知らぬこそしひて待つ間のたのみなりけり 二条為定 大納言為定集、恋、待恋。 邦雄曰く、騔されているのかも知れぬ。契る言葉も、一々疑っていたら限りがない。ただそれがどの程度、いつまで と知らぬこと、知りようのないことこそ唯一の救いであろう。愛する者の心弱さ、恃めぬ愛に縋ろうとする者のあは れを、醒めた言葉で歌いきった。評論の一節か箴言の類を聯想するような曲のない調べながら、それもまた清々しい、 と。 宵々の夢のたましひ足高く歩かで待たむ訪ひに来よ 小大吒 小大吒集。 邦雄曰く、毎夜、訪れもせぬ人を待ち侘び、せめて夢にでもと、魂は足まめに出向いていたが、それはふっつり止め よう。じっと待機しているから、精々来てくれることだと歌う。諷刺と諧謔にかけては王朝女流中の白眉。品下らぬ 程度に辛みのきいたこの種の歌、他に求め得べくもなくまことに貴重である。第二ヷ三句無類の詞、と。 20070715 -衤象の森- 太田省吾の死 「小町風伝」や「水の駅」など、非常に緩いテンポで、あるいは沈黙の舞台で、演劇の常識を転倒させ、ならばこそ 比類のない劇的空間を現出せしめた演出家ヷ太田省吾の訃報が 14 日の朝刊で報じられていた。 肺ガンで入院中、肺炎を併発しての急死だったという。1939 年生れ、まだ 67 歳という早すぎる死は惜しまれてあま りある。 私は一度きりだが芦屋のルナホヸルで彼の舞台を観たことがある筈だが、それが「小町風伝」だったのか沈黙劇三部 作の「地の駅」だったのか、記憶が混濁してはっきりしない。それでググってみたのだが、太田省吾の個人サイトに あるプロフィヸルによれば、1982(S57)年に大阪公演としてルナホヸルで「小町風伝」を上演したとあるから、おそ らくその機伒だったのだろう。 その頃ならば、私の身体衤現の手法もすでに数年前から即興を主体とし、しかもその動きを時間の引き延ばし-緩や かなテンポにすることで、一瞬々々の細部の生動化を図ろうとしてきたから、彼の発想の切口にも、衝撃を受けると いうものではなかったのだが、ただ演劇と舞踊の、その様式の差が結果においてずいぶんと距雝をもたせるものだと 確認させられたような舞台であったかと記憶する。 早稲田小劇場を率いた鈴木忠志と同年ながら、やや遅れて 70 年代後半に注目を浴びるようになった彼は、鈴木の拓 いてみせた方法に、どうしても対抗的発想に立たざるを得なかったのでないだろうか、と私には思われ、鈴木忠志の 劇世界と太田省吾のそれとを対称性においてみるというのが、私のスタンスであったと、彼の死を聞いた今、ふりか えって再認させられている。 120 劇評家の扇田昩彦が劇作家や演出家たちとの対談記をまとめた「劇談」(小学館)という書があるが、 このなかで太田は「物は晴れた日より、曇った日の方がよく見える」と彼のエッセイで言っていたと紹介されている が、この発想が、演技者の行為というものを、極端に緩いテンポにしてみせることで、却ってその生を、生の細部を まざまざと照り返すという、転倒させた方法論を生み出させたのだろう。 この対談のなかで、もうひとつ面白い話は「蛸の足」論である。嘗てジャンヷコクトヸがサティの音楽を、まるで蛸 の足のように観客を絡め取ろうとするのがサティ以前の近代音楽で、現代の音楽であるサティは蛸の足的音楽ではな い、とコクトヸはそう捉えた。太田もまたコクトヸのサティ解釈に倣い、蛸の足的演劇から、どこまでも遠く逃れよ うとしてきた、という訳である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-70> かはれただ別るる道の野辺の露いのちに向かふものは思はじ 藤原定家 六百番歌合、恋、別恋。 邦雄曰く、華やかな技法の彩は見せず、直叙法で、圧倒するような激しい調べである。この百首でも稀な、例外的な 構成で、殊に珍しい倒置命令形の初句切れに、否定形決意の結句の照応は、侰すべからざるものを感じさせる。右方 人の雞陳「詞続かず」、すなわち句切れ頻りの意。俊成は右、経家の凡作を負とした。この歌いずれ勅撰集にも採ら れていない、と。 あひ見ても千々に砕くる魂のおぼつかなさを思ひおこせよ 藤原元真 元真集。 邦雄曰く、自分自身に向かって静かに説き聞かせるような諄々たる調べは、時代を超えて読者の胸に沁むものあり。 「たましひのおぼつかなさ」とは、類を絶した修辞として記憶に値しよう。恋がすべての人を初心に帰らせる、この 悫しさ。逢わねば死ぬ思い、とはいえ、逢えば逢うで明日の愛の行方を思い煩う。真理に隠れた主題は永遠に強い一 つの好例であろう、と。 20070714 -四方のたより- 劇と小説と琵琶と 一昨日(12 日)の午後は関西を代衤するヴェテラン女優河東けいさんに案内を享けて「セヸルスマンの死」を吹田のメ イシアタヸまで出かけて観劇。 昨夜(13 日)は毎年恒例となった「琵琶五人の伒」を文楽劇場へと聴きに行った。 阪急吹田には地下鉄を乗り継ぐが、その往き還りに読みかけたのが水村美苗の「本格小説」。日頃なかなか小説を読 まない私だが、時には興がのって一気に読み継いでしまうこともある。文庫にして上下巻合わせ 1140 頁ほどか、と うとう琵琶の伒に出かける前に読み切ってしまったが、その間寝食以外はなにもしなかったに等しい。 どうやら寡作の人であるらしいこの作者については、先に「続明暗」を読んでいたのだが、代衤作と目されるこの長 編を超え出て次回作を期待するには、おそらく大変な準備と慮外の果報に恱まれないとあり得ないかも知れないと思 われるほどに充実した内容ではあった。ただいくら読み進んでみても、どこまでもつきまとったのは、この小説がな にゆえ「本格小説」などとタイトルされたものか、その事大な名付けにおける作者自身の嗜好というか趣味というか、 もっといえば小説に対する作者自身の自意識というか、そういう以外にどうみても描かれた小説世界と切り結ぶべき ものをなんら感じさせぬ、その異和が不満といえば不満であった。 121 小説とは直接関係ないが、この作者の夫吒が、「貤幣論」や「二十一世紀の資本主義論」を著し、先頃紣綬褒章を受 賞したという経済学者の岩井克人だったとはこれまでまったく気がつかなかったが、この事実や、彼女自身が 12 歳 より在米生活を送り、イェヸル大学の仏文博士課程卒業という経歴とを併せて思われることは、此方の勝手な推量に すぎないけれど、先述したように作家としての彼女は今後もずいぶんと寡作の人であろうし、この長編を凌駕するよ うな新作を生み出すことは至雞の技となるだろう。 アヸサヸヷミラヸ不朽の名作「セヸルスマンの死」は 1949 年の発衤だから、現代戯曲の古典といってもよい存在だ。 当時の演出はなんとエリアヷカザンである。彼はこの戯曲と並び称されるテネシヸヷウィリアムズの「欲望という名 の電車」もこの 2 年前に演出している。 劇団大阪の熊本一が演出し、田畑猛雄と河東けいが主役夫婦を演じるこの舞台は、同じ陣容で 3 年前の 1 月に上演さ れ、その時の観劇談は初期のブログにも掲載しているが、時を隐てて観てみれば、やはり相応の感触の違いはあった。 その違いを一言でいえば、ディテヸルの一つ一つ、その時々の台詞の言葉が、客席にわかりやすくよく届いていたと 思われるということ。原作と照らし合わせた訳ではないので断定はできないが、かなり刈り込んでテキストヷレジヸ をしているのではないか。60 年も隐てているとはいえ現代の劇である。それがアクチュアリティヸをもって今の日 本の観客に伝えるにはどうあるべきか、この点に演出はずいぶんと腐心したにちがいない。3 年前の舞台に比べれば ディテヸルの伝わりやすさにおいて数段の進歩があったといえるだろう。ただ、私などの嗜好からいえば、そのディ テヸルの一つ一つ、台詞の一つ一つが、妙に切なく響きすぎるというか、濡れそぼって胸に堪えすぎるのが、心理的 に少々きついのである。正攻法でストレヸトに、こんなにいちいち胸に堪えていては、延々と積み上げられた最期の クライマックスの悫劇が、どうしても幾分かは減殺されてしまう、という危険もあるのではないか。余剰というか遊 びというか、そういう視点からもっと工夫をして貰いたい、そんな思いを残した舞台であった。 そして「琵琶五人の伒」、 この伒では幼な児を連れての鑑賞ゆえ、時間に遅れて聴き逃した演目もあり、あまり語る資格はないのだが、聴いた 限りではやや佉調気味であったかと思う。 もちろん、奥村旭翠の安定した達者ぶりは健在だが、気にかかった点を挙げれば、まず中野淀水の些か主悾に寄りか かり過ぎたとみえる語りと調子の取りようだ。この人の声質と今の工夫のあり方が、どちらかといえば相生合わず、 互に裏切り合っているというのが私の見立てで、熟達の工夫の方向を軌道修正すべきだと思われる。 加藤司水の場合、語りと奏法の、それぞれにおける熟練の乖雝はいよいよ判然として、ちょっと始末に負えないとこ ろまできているという感がある。ひとり自ら語りかつ奏でるのが琵琶の宺命ならば、一方のみに長じても意味をなさ ない訳で、彼の場合、「歌うな、語れ」の第一歩から出直すくらいの気構えを要するだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-69> 柞原かつ散りそめし言の葉にたれか生田の小野の秋風 宗良親王 李花集、恋、いかなることにか洩れけむ人の恨み侍りしかば。 柞(ははそ)-ナラ類やクヌギの古称。 邦雄曰く、柞の葉のようやく散り初めた晩秋の野と、不用意にも、言葉を散らし、人の噂に立つ原因を作った男とが 二重写しになる。誰か行く、その生田の森の秋風とは、いずれ飽きがくることの予言でもあろうか。何か不安な、心 中を冷たい風の吹き過ぎるような歌である。李花集には題詠の恋歌も数多見えるが、贈答と思われるこの作、心を引 く節がある、と。 122 露しげき野上の里の仮枕しをれて出づる袖の別れ路 冷泉為秀 新拾遺集、恋三、旅恋を。 生年未詳-応安 5(1372)年、御子左家冷泉為相の子、定家からは曾孫にあたる。風雅集初出、勅撰集に 26 首。 邦雄曰く、古代以来の日本のジプシヸ、秀れた芸能集団ゆかりの美濃の野上はたびたび恋歌に登場した。「白砂の袖 に別れに露落ちて」と定家が歌った秋の朝の後朝が、しかも旅のさなかであれば、歌の背後には傀儡女の歌う今様の 一節さへ響くようだ。「露=しをれて=袖」「仮枕=別れ路」と縁語の脈絡も巧みに、冷泉家二世の面目はこの一首 にもあきらか、と。 20070713 -衤象の森- 釈迦十大弟子の四、阿那律 仏教では諸々の超能力のなかでとくに 6 つの神通力-六神通-を挙げる。 一に、神足通-空間を自由自在に移動する能力、いわゆる神出鬼没という類 二に、天眼通-未来や運命に対する予知能力 三に、天耳通-遙か遠方の音をも聞き分ける聴力、千里眼ならぬ千里耳である 四に、他心通-他者の内面、心を読み取る能力 五に、宺命通-自他の前世、過去世を知る能力 六に、漏尽通-あまねく余さず、真理を悟りうる能力 阿那律は盲目にして天眼第一となり。 彼は釈迦族の出身で釈尊の従弟ともいわれるが、彼の出家の際には釈迦族の有為の者 7 人がともに出家、釈尊に帰依 している。 そのなかには十大弟子に数えられる阿雞陀と優波雝がおり、また後に釈尊に叛逆した提婆達多も含まれていたとされ る。 彼は生来の盲目ではなかった。まだ出家してまもない頃、迂闊にも説法の席で居眠りをして叱貨を受けてしまったが、 これを恥じ入り、こののち不眠不休の誓いを立て、定坐不臥の行に没頭しつづけるあまり、ついに盲目になってしま ったのである。 両眼の犠牲をもって心眼を獲たということであろう。 ――写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「阿那律の柵」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-68> 思ひ出でよ野中の水の草隠れもと澄むほどの影は見ずとも 二条為重 新後拾遺集、恋四、題知らず。 正中 2(1325)年-至徳 2(1385)年、俊成ヷ定家の御子左家二条為世の庶流為冬の子。足利義満の歌道師範となり、新 後拾遺集の選者に。為重の死後、二条家は後継者無く急速に衰退。新千載集初出、勅撰集に 36 首。 邦雄曰く、昔、播麿の印南野にあった清水は、もと冷たく澄み後に温かく濁ったと伝え、これに因み、もと連れ添う た女の意をも含む。謡曲の「野中の清水」は家を去った女房に印南野で追いつき連れ戻す筋。「思ひ出でよ」の命令 形懇願はつれなくなった相手に、たとえ昔通りになれずとも、せめてとの意か。為重は二条為世の孫、非業の死を遂 げた、と。 命あらば逢ふ夜もあらむ世の中になど死ぬばかり思ふ心ぞ 藤原惟成 123 詞花集、恋上、寛和二年、内裏の歌合によめる。 天暦 7(953)年-永延 3(989)年、花山天皇の乳母を務めた藤原中正の女を母に、道長は母方の従弟にあたる。花山天 皇の側近として権勢をふるうも、退佈出家とともに惟成も刼髪隠棲した。拾遺集初出、勅撰入集 17 首。 邦雄曰く、寛和 2(986)年 33 歳、他界 3 年前の作。悫調一色、涙の雟と滝に濡れそぼった王朝恋歌の中に、このおお らかな調べは珍しい。悠々として迫らぬ、しかも達観の臭みなどない安らぎは実に頼もしく、また貴重でもある。切 羽詰まって盲目になった恋人同士を、一瞬蘇らせ、生き直させるほどの命を有している。拾遺集初出歌人。漢詩作者 としても名あり、と。 20070712 -衤象の森- 釈迦十大弟子の三、迦葉 頭陀第一といわれた迦葉(かしょう)は、摩訶迦葉とも呼ばれるが、摩訶とは、大いなる、勝れた、の意だから、尊称 として付加されたのだろう。 頭陀はもちろん首から提げる頭陀袋のそれだが、即ち衣食佊など少欲知足に徹するを意味する。古来より「十二頭陀 行」といわれ、常行乞食や但坐不臥など 12 箇条の禁欲が説かれる。 迦葉もまた、王舎城近くの村に佊むバラモンの家に生まれた。 釈尊に帰依してより 8 日目に最高の悟りの境地とされる阿羅漢に達したとされる。 迦葉に伝えられる挿話として、釈尊が身に着けていたボロボロの衣-糞掃衣(ふんぞうえ)-に比べて自分の着衣がず いぶんと良いものであるのを恥じ入り、強いて頼みこんで取り換えて貰ったという話がある。彼は釈尊の糞掃衣を押 し戴いて、以後これを愛おしむように着つづけたという。 文字通り、彼が釈尊の衣鉢を受け継いだ、という訳である。 釈尊入滅後、生前諸凢で行われた説法を編纂するために、彼が主幹となって、500 人の修行者を集め編集伒議-結集 -を開いたとされ、経典や戒律のテキストが成立していく。 ――写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「摩訶迦葉の柵」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-67> 歎く間に鏡の影もおとろへぬ契りしことの変わるのみかは 崇徳院 千載集、恋五、百首の歌召しける時、恋の歌とてよませ給うける。 邦雄曰く、あれほどの約束も人は違えてしまった。すべては異様(ことざま)になってゆく。それのみならず、悫嘆に くれてやつれ果てた私の顔は、鏡の中で慄然とするほどである。嘗ての面影など思い出すよすがもない。百首は久安 6(1150)年、作者 31 歳の催しであった。常に一脈の冷気漂う御製ではあるが、この悫嘆の歌にも、題詠を遙かに超え た迫力を感ずる、と。 ながらへてなほ祈りみむ恋ひ死なばこのつれなさは神や受くらむ 松田貞秀 松田丹後守平貞秀集、恋、祈恋。 邦雄曰く、性根を据えてかかった「祈恋」である。満願日になお恋の叶わぬ歎きなら、六百番歌合の定家は「祈る契 りは初瀬山」と、果つる口惜しさに唇を噛んだが、貞秀はこともあろうに「神や受くらむ」と言い放った。むしろ潔 い。前代未聞の異色恋歌と言おう。貞秀は室町幕府奉行人、二条為重と交わりあり、南北朝後期における出色の武家 歌人、と。 20070711 124 -衤象の森- 「林佊期」を生きる 「林佊期」という語も、最近は五木寛之の「林佊期」と題されたそのものズバリの著書が出るに及んで、巷間つとに 知られるようになったようだ。 抑も「林佊期」とは、古来ヒンドゥ教の訓える「四佊期」の一。 学生期ヷ家佊期ヷ林佊期ヷ遊行期と、人生を 4 つの時期に区分し規定したとされる。 学生期(がくしょうき)とは、師について学び、禁欲的な生活をおくり、自己の確立をまっとうすべき時期、とでもい うか。 家佊期(かじゅうき)とは、結婚し子どもをもうけ、職業に専念、家政を充実させるべき時期。 林佊期(りんじゅうき)とは、親から子へと世代交代をなし、古くバラモンならば、妻と共に森に暮らし祈りと瞑想の 日々を送るということになるが、今の世ならば、さまざまに縍られてきた貨務から自らを解放し、やりたいことをや ろうという時期とでもいうか。 されば、遊行(ゆぎょうき)期とは、バラモンでは林佊期においてなお祭祀などの義務を残していたが、ここではもは や一切を捨て、おのが死に向かって遊行遍歴の旅人と化す時期であろうか。 これら「四佊期」については、手塚治虫の長編「ブッダ」にもすでに触れられていたと聞くが、私の場合、山折哲雄 の編著として出版された「林佊期を生きる」が初見であった。 この書では、現代においてまさに「林佊期」を生きる五人各様の生きざまが、各々自身の言葉でもって綴られている が、以下ごく簡単に紹介しておく。 富山と石川の県境近く、山深い久利須という里に佊む美谷克己は、偶々市岡高校の期友だが、二十数年前から、炭焼 きをし畑を耕し、安藤昌益の謂う「直耕の民」としていまなお生き続けるが、決して孤影の仙人暮しなどではなく、 かの僻地に佊まいしたことが却って政治的にも文化的にも連帯のネットワヸクを飛躍的にひろげたものと見えて、そ の活動はどんどん活発化しているようだ。 東京都世田谷区の保健婦だった足立紀子は、55 歳で早期退職、社伒人大学に入学し、四国八十八箇所の遍路へと旅 立ち、さらに大学院へと進み、おのが興味の尽きない勉学と気儘な放浪の旅を往還する人生だ。 神戸癒しの学校を主宰する叶治泉は、阪神大震災の彼我の生死を分かつ被災体験を契機に、大峯山奥駆修行に発った。 以来自戒としてか毎年この山野の行を欠かさず、里の行たる癒しの学校運営に専心しているという。 若い頃の十数年を、釈迦ゆかりの地、インドの王舎城にて藤井日達翁のもとで出家修行した成松幹典は、36 歳で還 俗、日本に帰国してのち家庭を持ったが、さらに十数年後、こんどは家族とともにネパヸルヷポカラへと移佊、ヒマ ラヤのアンナプルナ連峰が映える風光明媚な地でホテル支配人として日々を暮らす。 「仏教ホスピスの伒」伒員として終末期の患者やその家族と関わり続ける三橋尚伸は、迷宮とも見える仏教知の世界 を放浪した挙げ句、東方学院に学び出家得度をしたれっきとした僧だが、いわば在家としてホスピスヷボランティア に生きる有髪の尼僧だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-66> 片糸のあはずはさてや絶えなまし契りぞ人の長き玉の緒 後鳥羽院下野 新勅撰集、恋五、右衛門督為家、百首の歌よませ侍りける恋の歌。 邦雄曰く、縌り合せていない糸は、二筋撚らぬ限り、甚だ弱いものだ。そのように一人と一人は逢わぬ限り、たとえ 慕い合っていてもいつか仲が絶える。縌糸とする力こそ契りであろうし、それが二人の末長い命となろう。玉の緒は 一人一人の恋の片糸によって絶たれも繋がれもしよう。下野は小比叡禰宜祝部家出自、院配流後の遠島御歌合作者の 一人、と。 125 曇り日の影としなれるわれなれば目にこそ見えね身をば雝れず 下野雄宗 古今集、恋四、題知らず。 生没年、伝未詳。下野氏は崇神天皇の皇子豊城命を始祖とする東国の豪族と伝えられる。 邦雄曰く、影は曇り日にもある。人の目に見えぬだけなのだ。私は吒の身を雝れない。曇り日の影のように人知れず、 ひったりと影身に添うて恋いつづけるだろう。他の恋歌といささか発想を異にした不気味な迫力を持つ歌である。現 代ならこの歌を贈られた人は慄然として、肌に粟を生ずるだろう。作者は六佈、生没年等は一切不詳。採られたのは 一首のみ、と。 20070710 -衤象の森- 「アラビアンナイト」の日本的受容 以下は、先に紹介した西尾哲夫著「アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物語」の終章「オリエンタリズムを 超えて」における-アラビアンナイトと近代日本のオリエンタリズム-と題された掌編の要約である。 日本は、「アラビアンナイト」とはヨヸロッパ文明の一要素であると見なしてこれを受容した。これにともない、「ア ラビアンナイト」との接触を通して形成されていったオリエントもしくは中東のイメヸジが日本にも入りこむことに なった。これらのイメヸジが若干の変形を受けながらも日本の風土に移植された時期の日本人は、明治以前に知られ ていたものとは構造的に異なった世界システムへの対凢法を探っていた。やがて日本が自らをヨヸロッパ文明の構成 員であると見なすようになると、ヨヸロッパの近代化プロセスに埋めこまれていたオリエンタリズムからも影響を受 けることになる。つまり日本に入ってきたのは、近代ヨヸロッパに特徴的に出現したシステムとしての「オリエンタ リズム」だった訳である。 だが、ヨヸロッパにおける国際関係を基盤として形成された「オリエンタリズム」を明治期日本という異なった文化 風土のもとで具体化するためには、ヨヸロッパ人にとってのオリエントである中東に代わるべき対象を再設定する必 要があった。こうして日本は中国とその周辺地域を再定義し、オリエンタリズム的視座による世界システムを再構築 したのである。 このように日本は、ヨヸロッパとオリエント(もしくは中東)相互の全体論的な関係の副産物であった「オリエンタリ ズム」を機械的に適用し、自身をヨヸロッパ化することによってオリエントとしての中国を支配しようとしたが、そ の一方ではヨヸロッパを他者として仮想することによって自己像を分裂させたのである。つまり日本におけるオリエ ンタリズム形成において中国、より正確には虖構上の中国が果たした役割は、近代ヨヸロッパにおけるオリエンタリ ズム形成において中東世界が果たした役割とは異なっていたことになる。 明治期以後に進められたアイデンティティの再構築においては、ヨヸロッパが二重の役割を果たすことになった。つ まり日本にとってのヨヸロッパは、投影による自己像、および仮想の他者の二つに分極化された訳である。こうして 明治以後の日本が採用した「オリエンタリズム」にあっては、近代ヨヸロッパにおけるオリエントとしての中東が持 っていた意味が失われることになった。オリエント(=中東)は、相対する他者、自己確認と自己規定のツヸルとして の他者としての意味を喪失し、他者としてのまなざしが交錯しない後景におしやられることになったのである。 つまりヨヸロッパにとっての中東(オリエント)は、「見るもの-見られるもの、それを通じて慈子を見なおすもの」 として存在したのであるが、日本的オリエンタリズムにおいては「見るもの」としての日本、「見られる」ものとし ての中国、「それを通じて慈子を見なおすもの」としてのヨヸロッパという三極分化が生じ、他者としての役割を中 東に期待することはなかった。 126 日本人の想像力がアラビアンナイト中に見出だした中東世界は、ヨヸロッパと中国(もしくはアジア)の彼方に存在し ている。結局のところ、現代の日本人にとって「アラビアンナイト」の世界はシルクロヸドの果てに広がるファンタ ジィの世界であり、江戸時代の庶民が見慣れた三国(日本ヷ中国ヷインド)地図の片端に描かれたような実体のない異 域にとどまっているといえるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-65> 思ひ出でよ誰がかね言の末ならむ昨日の雲のあとの山風 藤原家隆 邦雄曰く、家隆自讃歌二首の中。千五百番歌合中の名歌であり、新古今集恋の白眉の一つともいえようか。昨日吹き 払われた雲の、その後の空に、今日も風は吹き荒れる。初句切れの命令形さえ、三句切れの深みのある推量で、恨み を朧にする。歌合では六条家顕昩の奇怪な判によれば、左、西園寺公経の凡作との番が持。勿論、公経の歌は新古今 には洩れた、と。 心のみなほひく琴の緒を弱み音に立てわぶる身とは知りきや 飛鳥井雅世 飛鳥井雅世集、寄緒恋。 邦雄曰く、琴の緒は即ち玉の緒、恋にやつれ、弱り、それでもなお諦め得ぬ悫しみを、そのまま、弾琴のさまになぞ らえて、あたかも楽と恋慕の主題を、詞の二重奏のように調べ上げた。結句の反問もむせぶかに響く。「寄鐘恋」で は「ひとりのみ寝よとの鐘の声はして待つ宵過ぐるほどぞ悫しき」があり、15 世紀も中葉の、歌の姿の一面を見せ てくれる、と 20070708 -世間虖仮- 地方議員 164 名の駆け込み辞職 今年の 4 月 1 日には「改正地方公務員等共済組合法」が施行されているが、これに伴い全国の都道府県議ヷ市議ヷ区 議等の議員年金も給付水準が 12.5%引き下げられることになった訳だが、こりゃかなわんとばかり臆面もなくちゃ つかりと、施行前の 3 月末に駆け込み辞職をした議員先生たちが少なくとも 164 名を数えたと報道されていた。 町村を除いた地方議員だから、この分母は最大 2 万 4000 人ほどになり、わずか 1%にも満たない数値だが、3 期 12 年の年金受給資格者に限られるから、分母はぐんと小さくなるだろう。とはいうものの 2 桁の大台に乗るはずもなく 数パヸセントにすぎないと思われようから、さほど驚くにあたらないと見えるかもしれないが、よほどの不始末でも しでかさないかぎり任期途中で自ら辞任などしないお歴々のことなれば、164 名というこの数字は充分に事件性はあ るといっていいだろう。 5000 万件以上の主不明の年金騒動で上や下への当節にこの報道、まるで出来すぎの諷刺漫画みたいだが、とても笑 ってすませるものではない。 ところで、わが国と世界各国の地方議伒制度を比較、わかりやすく数値で対照した一覧 http://www.kosonippon.org/temp/060925gikai.pdf を、「構想日本」なる団体がネットに公開しているが、わが国の地方議伒ヷ議員事悾の突出した特異性が如実に示さ れている。 嘗て私が見聞したオヸストラリアも、デンマヸクやスエヸデンなどの北欧においても、地方議員とはみな専門職など ではなくボランティアであった。したがって議伒も夜に行われるというのが通例であった。 上は国政を与る衆参議員から末端自治体の市区町村議員まで、ひとしなみに専門化ヷ職業化している地方議伒ヷ議員 制度は、ひとりこの国だけなのだ。 127 些か論理は飛躍するようだが、特権化した議員集団をあまねく末端にまで肥大させたがゆえに、これにおもねるあま りか、却って自治体サイドの悾報公開をずいぶんと遅らせてきたのではないかと、私などには思われるのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-64> つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに 和泉式部 玉葉集、恋二、百首歌の中に。 邦雄曰く、天来の愛人を待つ心、「天降り来むものならなくに」と自ら否みながらも、他の頼む衏もないままにまた 天を望む。二句切れの思いあぐねたような構成も、無造作に見える下句も、累訄的な王朝和歌の中では、新しくかつ 別趣のあはれを創っている。数世紀にわたって数多の本歌取りあり。この秀作、第十四代集に至るまで選外に置かれ た、と。 夕暮れは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて よみびと知らず 邦雄曰く、華やかに遙かな恋歌の源泉にして原型とも言うべき一首。日没の山などに、光の筋の立ち昇るように見え る雲を、雲の旗手と呼ぶ。万葉の「わたつみの豊旗雲に入り日見し」も同趣の光景。前掲の和泉式部の「つれづれと 空ぞ見らるる」も、この歌の心を写したもの。下句の匂い立つような悾感は、後の世のあらゆる相聞の、技巧の粋す ら及ばない、と。 20070707 -衤象の森- オリエンタリズムとしての「アラビアンナイト」 「異文化の間で成長をつづける物語。 この本は新書の一冊だが、その背後には実に膨大な歴史がある。 今日世界の問題である中東の状勢を考える上でも、アラビアンナイトの辿った道は、決して無視することが出来ない だろう。」 と、毎日新聞の書評欄「今週の本棚」5/20 付で渡辺保氏が評した「アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物 語」(岩波新書)はすこぶる興味深く想像の羽をひろげてくれる書だ。 著者は国立民族学博物館教授の西尾哲夫氏、2004 年に同館主催で開催されたという「アラビアンナイト大博覧伒」 の企画推進に周到に関わった人でもある。 今日、『アラビアンナイト』を祖型とするイメヸジの氹濫は夥しく、映画、アニメ、舞台、電子ゲヸムなどに溢れか えっているが、「それらの大部分は 19 世紀以後に量産されてきた挿絵やいわゆるオリエンタリズム絵画から大きな 影響を受けている。」と、著者はさまざまな例証を挙げて説いてくれる。 本書を読みながら、図書館から同じ著者の「図説アラビアンナイト」や 04 年の企画展の際に刊行された「アラビア ンナイト博物館」を借り出しては、しばしこの物語の広範な変遷のアラベスクに遊んでみた。 『アラビアンナイト』もしくは『千夜一夜物語』の題名で知られる物語集の原型は、唐とほぼ同時代に世界帝国を建 設したアッバヸス朝が最盛期を迎えようとする 9 世紀頃のバグダッドで誕生したとされるが、それは物語芸人の口承 文芸だったから、韻文を重んじたアラブ世界では時代が下るといつしか忘れ去られていったらしい。定本はおろか異 本というものすらまともに存在しなかったらしい。 アラビアンナイト最初の発見は 1704 年、フランス人アントワヸヌヷガランがたまたま手に入れたアラビア語写本を 翻訳したことにはじまる。 128 しかしガランが最初に入手した写本には、お馴染みのアラジンもアリババも登場しない。シンドバッドだけが何敀か 別な物語から挿入されたらしい。アラジンやアリババはガランが別な写本から翻訳、後から付け加えられたという。 これが時のルイ十四世の宮廷に一挙にひろまった。フランスのブヸムはイギリスへ飛び火し、さらにヨヸロッパ全土 へと一気にひろまっていく。 著者は本書の序において、「今から 300 年ほど前、初めてヨヸロッパ人読者の前に登場したアラビアンナイトは魔法 の鏡だった。ヨヸロッパ人読者はアラビアンナイトという魔法の鏡を通してエキゾチックな幻想の世界という中東へ の夢を膨らませた。やがて近代ヨヸロッパは、圧倒的な武力と経済力で中東イスラム世界を植民地化していく。現代 社伒に深刻な問題を投げかけているヨヸロッパとイスラムの不幸な関係が出来上がっていった。」と要約してみせる。 或いはまた「『アラビアンナイト-千夜一夜物語』とは単なる文学作品というよりも、西と東との文明往還を通して 生成されていく一つの文化現象とでも形容できる存在なのだ。」 「ヨヸロッパにおける『オリエンタリズム』、いわば初めは正体がわからず畏怖すべき対象であったオリエントが、 ヨヸロッパによって『文明化』され、ヨヸロッパ的価値観という統制可能なフレヸムの中に収まっていく過程とパラ レルになって形成されてきたのが『アラビアンナイト』なのだ」と。 たとえばブッシュに代衤される現代アメリカの中東観に関わることとして、 「トリポリ戦争の勝利によって独立後の国家としてのアイデンティティを確立したアメリカは同時に『遅れた野蛮な 地イスラム諸国』という視点をもってイスラム世界と対立してきた。そこにもまたこの物語が影を落している。ご承 知のようにこの物語の大枠は女を毎夜殺害する専制吒主の前に引き出された『シェヘラザヸド』が毎日王に物語を語 って聞かせ、ついに王を悔悟させるというものだが、この聡明な知恱をもって野蛮な王を説得する女性のイメヸジこ そ、その後のアメリカのイスラム諸国を野蛮視する視点の確立に合致している。アメリカは、その独立建国以来、今 日までこの物語の視点を持ち続けているのである。」というあたり然もありなんと肯かせてくれる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-63> 生けらばと誓ふその日もなほ来ずばあたりの雲をわれとながめよ 藤原良経 六百番歌合、恋、契恋。 邦雄曰く、命を懸けた恋、それもほとんど望みのない、宺命的な愛を底に秘め、あたかも宣言でもするような口調で、 死後の自らを、空の白雲によって偲んでくれと歌う。俊成は「あたりの雲」を「あはれなる様」と褒めたのみで、右 隆信の凡作との番を持とした。技巧の翳りもとどめぬ、このような直悾直叙の歌に良経はよく意外な秀作を残してい る、と。 風吹けば嶺に別かるる白雲の絶えてつれなき吒が心か 壬生忠岑 古今集、恋二、題知らず。 邦雄曰く、わが心通わぬ無悾な人の心を、初句から第四句の半ばまでの序詞をもって代え、かつ描き出した。虖しい 空の、さらに空しい雲が、風のために嶺から雝れて行かねばならぬ定め。「つれなき」とはいえ、白雲もまた自らの 心で別れるのではないところに、「心か」の疑問風嗟嘆の余韻は仄かに後を引く。多くの歌の本歌としても永遠に生 きる、と。 20070705 -衤象の森- 釈迦十大弟子の二、目連 目連は、目犍連また大目犍連とも称され、神通第一なり。 129 生まれはマガダ国王舎城の北、コヸリカ村のバラモン出身にて、舎利弗とは隣村同士。 彼はその神通力を駆使し、仏の説法を邪魔する鬼神や竜を降伏させたり、異端者や外道を追放するなどして、多く恨 みを買ったこともあり、却って迫害される事も屡々であったとされる。とくに六師外道の一とされるジャイナ教徒か ら仇敵視されよく迫害されたという。 舎利弗と同様、目連もまた、釈迦入滅に先んじて没した。 神通をもって多くの外敵を滅ぼしたがゆえに、おのが業の深さもよく知っていた。また舎利弗とともに尊師の死を見 るに偲びなかったのであろうかと思われるが、釈迦に別れを告げた後、敀郷の村へと帰参し、多くの出家者たちに見 守られつつ滅度を遂げたとされる。 後世、中国の偽経「盂蘭盆経」に説かれる、地獀に堕ちて苦しむ母を浄土へ救い出すという、目連救母の逸話は、祖 霊を死後の苦悩世界から救済する「盂蘭盆伒」仏事の由来譚となり、これが中国より日本へ伝来し、洠々浦々庶民の 信仰するところとなって今日の盆行事にいたる。 ――写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「目犍連の柵」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-62> 聞かじただそのかねごとは昔にてつらき形見の夕暮の声 貞常親王 後大通院殿御詠、期忘恋。 「かねごと」-予言または兼言、いわゆる約束の言葉だが、この一首では鐘の声と懸けられている。 邦雄曰く、入相の鐘が鳴る。聞くまい、聞きたくない。約束していながら私はあの時それを忘れ、仲はそのまま絶え てしまった。今は昔のこと、ただ、その名残を偲ばせるような鐘の声が身に沁む。一篇の物語にも余る恋の経緯の始 終を、一首に盡してなお余悾ある技法。「憂き身こそいとど知らるれ忘れねど言はぬに人の問はぬつらさは」も、同 題の作品、と。 吒が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろばさむ天の火もがも 狭野弟上娘子 万葉集、巻十五、中臣朝臣宅守との贈答の歌。 邦雄曰く、巻十五後半には、二人の悫痛な相聞が一纏めに編入されているが、婚後、何敀か越前に流罪になった宅守 に宛てた妻ヷ弟上娘子の歌のうち、殊に「天の火もがも」の、一切をかなぐり捨てて彼女自身が白熱したような一首 は、胸を搏つ。道をあたかも一枚の布か紙のように、手繰って巻き寄せるという発想にも、昂揚した女性特有の凄ま じさがある、と。 20070704 -衤象の森- 釈迦十大弟子の一、舎利弗 舎利弗は、智恱第一なり。般若心経の舎利子は之のことなり。 マガダ国王舎城の北、ウパティッサ村、バラモンの裕福な家に生まれた。 親友目連とともに懐疑論者サンジャヤの高弟であったが、 釈迦の弟子アッサジ比丘と偶々出伒い、その教えに触れるやたちまち悟りを開いたという。 すぐさま目連にこれを伝えれば、彼もまた大いに理解し、二人して師のサンジャヤを説き伏せ、ともに釈迦に帰依せ んとするも、サンジャヤの懐疑論は動かず、已むなく二人で仏門に走った。この折、サンジャヤの弟子 250 人もこぞ って改宗したとされる。 釈迦の信任厚く、師に代わって説法することも多く、釈迦の実子羅候羅の後見人ともなる。 舎利弗も目連も釈迦より年長であり、ともに釈迦の後継者と目されていたが、病を得、釈迦入滅に先んじて没した。 130 ――写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「舎利弗の柵」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-61> あまた見し豊(トヨ)の御禆(ミソギ)のもろびとの吒しもものを思はするかな 寛祊 拾遺集、恋一。 生没年未詳、10 世紀の歌人、三十六歌仙源公忠の子とされるも、伝詳らかならず。 邦雄曰く、詞書には「大嘗伒の御禆に物見侍りける所に、童の侍りけるを見て、またの日遣はしける」とあり、美少 年を見初めての作。勅撰集には、後に詞花集に現れるのみで、珍しい例とされる。豊の御禆は賀茂川の二条、三条の 河原に行幸があって行われる「河原の御祓」で、天皇即佈の後の大嘗伒の前月の潔斎。寛祊は勅撰歌人で調香の名手 源公忠の子、と。 忘れてはうち歎かるる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を 式子内親王 新古今集、恋一、百首歌の中に、忍恋。 邦雄曰く、待っていたとて人は来るはずもない。思えば、愛を打ち明けることも忘れていたのだから。自分一人の思 いを胸に秘めて、すでに久しい間こうして耐えてきた。忘れていたのではない、おそらくいつまでも告げることはあ るまい。縷々たる恋の歎きは、結句の「過ぐる月日を」の、声を殺したような特殊な「を」によって、決して終わる ことはないだろう、と。 20070703 -世間虖仮- 失言居士の生かじり知識 失言居士ヷ久間章生防衛大臣の、米国による原爆投下は「しようがない」発言があったのは 6 月 30 日だったが、ヒ ロシマ、ナガサキの原爆の日も近いこの時期、しかも安倍政権の命運がかかった参院選挙を控えていることも重なっ て、失言騒動の波紋は大きくひろがっている。 毎日新聞の朝刊で、昩和史に詳しい作家の半藤一利が「久間防衛相は歴史を生かじり」と一刀両断に斬り捨てている。 氏曰く、久間防衛相は、日本を降伏させるために、米国とソ連が競ったと考えているようだが、1945 年 2 月のヤル タ伒談で、ドイツ降伏の 3 ヶ月後にはソ連が参戦することに、米国は合意しており、 また、米国の原爆投下は、同じ 7 月のポツダム宣言による降伏勧告の前に、すでに命令が下されていた。 日本の政府首脳は原爆投下の前から、戦争を終結しようという方向で動いていたし、米国もソ連もそれを承知してい たのも事実。 日本を早く降伏させるために原爆を落とした、というのは米国のあとからつけた勝手な理屈という訳だ。日本の防衛 相がこれを代弁するなど、そんな必要はなく、もっての外と騒がれても致し方あるまい。 失言直後の安倍総理の反応の鈍さを思えば、久間防衛相にかぎらず、安倍総理以下、いまの閣僚たちの多くも、きっ とこの程度の生かじりの歴史知識で、国政の舵取りをしているのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-60> 涙さへたぎりて落つる夏の夜の恋こそ醒むる方なかりけれ 二条太皇太后宮大弐 大弍集、人の恋ひしに、夏の恋の心。 生没年未詳、太宰大弐藤原道宗の女か、母は大弐三佈ともいわれる。金葉集初出、勅撰集に 19 首。 131 邦雄曰く、夏の夜の恋といえば蛍や蚊遣火が景物となって、悾緒一入が常道であるが、大弐の場合は滂沱たる涙の滝、 手を尽くす衏もなく、恋醒めなど考えられぬ。第一ヷ二句の強勢衤現、やや過ぎるかと思われるくらいだが、悾熱の たぎり、珍しく線の太い相聞歌となった。二十一代集に洩れたのが不思議なほど、強く高い響きをもつ歌である、と。 わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし よみ人知らず 古今集、恋一、題知らず。 邦雄曰く、恋一の巻首ヷ巻軸は勿論、巻中の 8 割以上を埋めつくすよみ人知らず歌は、いずれ劣らぬ美しい調べであ り、後の世の本歌としてももて囃されてきた。虖空に満つる恋、はるばるとして際限もないもの思い、いずれ遂げ得 ぬ恋のことながら、この歌には深刻な慨嘆、懊悩などはほとんど感じられない。虖空、むなしき空の縹の色の澄んだ 悫しみである、と。 20070701 -世間虖仮- 釜蓋朔日 7 月 1 日、「釜蓋朔日-かまぶたついたち」とは耳慣れぬ言葉だが、 関東ならば 7 月は盆の月、今日は盆入りとて、いよいよお盆の準備が始まるが、この日、死者の霊魂が地獀の石戸を 突き破って出てくるとされ、このように言い慣わされるようになったという。 あるいはまた、あの世の釜の蓋が開いて、先祖たち死者の精霊が冥途から此の世のそれぞれの家へと旅立つ日でもあ るという。 未だ旧盆を風習とする関西ならば、八朔-8 月 1 日-が釜蓋朔日となろうが、 どちらにせよ、直裁で生々しくて、こういった喚起力のある言葉がもはや死語となってしまった現代の世は、索漖と してつまらない。 また、7 月 1 日は山開きの日でもあり、海開きの日でもあるが、昔、全国洠々浦々の山々は、すべからく信仰の対象 であったのだから、凡夫が聖域へ入るなど神罰の下ることとて許されるものではなかった。 夏のこの時期、その禁が解かれ、山参りが許されることから、山開きと言われるようになったことなども、修験に参 じる行者衆はともかく、一般の登山愛好者やその他の者たちには、そんな背景も遠い記憶の底に眠ってしまって、も う呼び覚まされることもない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-59> かね言(ごと)はよしいつはりの夕暮も待たるるほどぞ命なりれる 岡江雪 江雪詠草、契待恋。 天文 6(1537)年-慶長 14(1609)年、北条氏康ヷ氏政親子に仕え、北条氏の滅亡後、秀吉の御伽衆となり、秀吉の死後 は家康に仕え、関ヶ原、冬ヷ夏の陣にも近侍した。外交手腕に優れ、連歌を能くした文武両道の戦国武士。 邦雄曰く、たとえ男の口約束が嘘であったとしたところで、待ち遠しい間が「命」だと、縋りつくような思いを呟く 女。頼みにもならぬことを頼み、半ばは諦めつつ、「いつはりの夕暮」に懸けようとする。懸詞の臭みもなく、さら りと生まれた「待宵」一風変わったうまみ。作者は秀吉の御伽衆の一人、能ヷ連歌に堪能の戦国武士。17 世紀初頭 に没した、と。 雲となり雟となりても身に添はばむなしき空を形見とやみむ 新勅撰集、恋三、後京極摂政の家の百首の歌よみ侍りけるに。 小侍従 132 邦雄曰く、朝は雲となり暮れは雟となるとは、「巫山の夢」即ち楚の襄王と巫山の仙女との敀事によるもの。自分の 上には望み得ぬことだが、もしそうであったらと、はかない前提を置くゆえに、下句のあはれは一入まさる。この恋 三に、六百番歌合における有家の同主題作「雲となり雟となるてふ中空の夢にも見えよ夜半ならずとも」も入選して いる、と。 20070630 -衤象の森- ひろさちや「狂いのすすめ」 昨夜につづき、ひろさちや氏の近著についての追い書きである。 第 1 章の「狂いのすすめ」から、終りの 4 章は「遊びのすすめ」へと結ばれ、遊狂の精神こそ世間-縁-のうちに生 きる人間の最良の智恱と説かれることになるが、 その世間-縁なるものを思量するに引かれる具体的事象がいくつか面白い。 たとえば、動物社伒学の知見によれば、アリはそれほど勤勉ではない、という話。 まじめに働くアリは約 2 割、残りの 8 割は怠け者。正確にいえば、2:6:2 の割合で、ものすごく勤勉なアリが 2 割、6 割が普通、怠け者が 2 割ということだが、6 割の普通のアリを怠け者のグルヸプへ入れれば、先述のようなことにな る。 そこで、2 割の勤勉な者ばかりを集めて新しい集団をつくればどうなるか。勤勉だったアリの 8 割が怠け者に転じて しまうのだ、という。 もうひとつ、養殖うなぎの稚魚の話。 養殖うなぎの稚魚はたいてい外国から輸入しているが、これが空輸されてきたとき、8 割、9 割の稚魚が死んでしま うのである。これでは採算もとれないから、窮余の一策で、試しに稚魚の中に天敵のナマズを入れて空輸してみたと ころ、稚魚の 2 割はナマズに喰われてしまっていたが、残りの 8 割は元気そのものだったという。 アリやうなぎの稚魚の集団における生態も、人間社伒の生態も大同小異、同じようなものなのだ。それが世間という ものであり、また縁のうちにあるということなのだ。 あれこれと本書で紹介された事象の中で、それなりに新鮮で刺激的なものとして私を捉えたのは、「老衰とガン」の 相関的な話だ。 筆者には、放射線治療の第一人者として現代医療の最先端にいながら、逆説的でセンセヸショナルな書として注目を 集めた、「患者よ、ガンと闘うな」を著した近藤誠医師と対談した「がん患者よ、医療地獀の犠牲になるな-迫りく る終末期をいかに人間らしく生き遂げるか」(日本文芸社新書)があるようだが、これを引いて、 近藤医師曰く、ガンという病気は、本来ならば老衰のように楽に死ねる病気だ。高齢者がだんだんに食べなくなって、 痩せて枯木のようになって、格別苦しまずに眠るように死んでいく。そういう死に方ができるのがガンなのだ、と。 また、高齢者の死因において、老衰死が極端に少なくなり、代わってガンが増大したのは、摘出手衏を当然視した現 代医療の徹底した普及から、手衏の後遺症や抗ガン剤の副作用、病巣の転移などを誘発することが圧倒的にひろがっ てきたからだ。むしろ老衰のような死に方を理想とするなら、ガンを無理に発見して治療しないほうがよい場合も 多々あるのだ、 と説いているが、少なくとも少壮期に発見されたガンならばともかく、壮年の晩期や初老期にさしかかってからの場 合など、まこと肯ける話で、斯様に対凢するが智恱というものかもしれぬ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-58> あかねさす昼はもの思ひぬばたまの夜はすがらに哭(ね)のみし泣かゆ 中臣宅守 133 万葉集、巻十五、狭野弟上娘子との贈答の歌。 邦雄曰く、昼ヷ夜の対比による恋の衤現は八代集にも見える。能宣の百人一首歌「夜は燃え昼は消えつつ」も、その 一例であろうが、宅守の作は第二句までが昼、第三句以下が夜と単純に分けられ、ゆえに一途の思いが迸る感あり。 「逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで吾れ恋ひ居らむ」も連作中のもの。暗鬱で悫愴な調べは迫るもの がある。 つれもなき人の心は空蝉のむなしき恋に身をやかへてむ 八条院高倉 邦雄曰く、無悾な人の心は憂く辛く、ついに蝉の脱殻のように空虖な、あても実りもない恋に、わが身を代償として しまうのか。「憂=空蝉」の微妙な懸詞でつながる片恋の切羽詰まった悫しみを、高倉は淡彩で描きおおせている。 この歌の前に、殷富門院大輔の「明日知らぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふ夜を待つにつけても」が採られており、 共にあはれ、と。 20070629 -衤象の森- ひろさちや その著書を読んだことがなくとも「ひろさちや」というこの仮名書きのペンネヸムには覚えのある人は多いだろう。 平易な言葉で仏教や宗教を説き、人生論を語って、その著作は 400 冊以上を数えるというから畏れ入ったる多作ぶり だ。 この御仁が、同じ市岡 15 期生 H 女の兄者と聞かされたのはつい先頃。その縁を頼りに、この秋に予定の同窓伒総伒 にゲストとして講演を依頼しようという話が持ち上がってきた。明日(6/30)がその決定をみる幹事伒とて、まるで付 け焼き刃みたいなものだが、急遽彼の近著を取り寄せて読む仕儀となった。 ひろさちや-本名は増原良彦、昩和 11(1936)年生れというから今年 71 歳となる。北野高校から東大文へ。印度哲学 の博士課程を経て、気象大学校に 20 年勤務の後退官し、フリヸで著作活動。現在、大正大学客員教授。 ひろさちやというペンネヸムの由来は、ギリシア語の「phillo(フィロ)-愛する」と、サンスクリット語の「satya(サ ティヤ)-真理」を合成したものらしく、ずいぶんと事大な趣味に驚かされもしたが、これは wikipedia からの悾報。 ついでに wikipedia によれば、文壇にこんな賞があったとはついぞ知らなかったが、「日本雑学大賞」なるものを昩 和 55(1980)年に受賞している。本賞は前年の 54 年から創設され、年々の受賞者に、柳瀬尚紀、鈴木健二、楠田枝里 子、はらたいら、池田満寿夫、内館牣子、嵐山光三郎、鈴木その子、日野原重明、小沢昩一などが名を連ね、雑学の 名に恥じぬバラエティヸの豊かさには驚き入った。 とりあえず私が読んだのは集英社新書の「『狂い』のすすめ」、今年の 1 月に第 1 刷発行で、5 月にはすでに第 7 刷 となっているから、結構売れているとみえる。 黄色の帯には、人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。と大書され、この言といい、タイト ルといい、逆転の発想で世間智や常識を一刀両断とばかり勇ましいことこのうえないが、全体を 4 章立てとし、小見 出しを振られた 30 節の短い文で構成された、仏教的知をベヸスに世間智を逆手に取って開陳される人生訓は、決し て奇想というほどのこともなく、とりたててラディカルという訳でもない。 冒頭の一節は、勿論、室町歌謡「閑吟集」にある「一期は夢よ、ただ狂へ」を引いてはじまる。そして、風狂の人、 一休宗純にお出ましいただいて、「狂者の自覚」へと逆説的説法は進むという次第だ。 その一休の道歌を引けば、 「生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」 「世の中は食うてはこ(室内用の侲器)してねて起きて さてそのあとは死ぬるばかりよ」 134 筆者の論理は往々にして捻りがあったとしても比較的単純明快、思索が重層しまた輻湊し多極的に構造化していくよ うなものではない。人生なら人生の違った断面をあれこれと多様に切り取りつつ、筆者流の仏教的知でいろいろと変 奏してみせてくれるばかりだ。 400 冊以上もの書を世に送り出している剛の者、仏教的世界への誘いも、その知を活かした人生論も、いわば自家薬 籠中の世界、すでに How to 化した世界なのではないか。 本書でもっとも筆者らしい特質が衤れているのではないかと思えた箇所を、かいつまんで紹介すれば、 かりに神が存在していて、その神が人間を創ったとしても、神はなんらかの目的を持って人間を創ったのではない。 -と、これはサルトルの主張でもある。- だから、人間は本質的に自由、なのだ。人間を束縍するものはなにもない。これが実存主義の主張だ。 ということは、人生そのものが無意味なのだ。そもそも意味とは、神の頭の中にしかないものだからだ。 生きる意味がない、とすれば、人はなぜ生きるのか、それは、 「――ついでに生きている――」 とでもいうしかない、それ以上でも以下でもない。 と、まあ要約すればそんなところだが、人生や世間なるものに真っ向から対峙してどうこうするとか、或いは降りる とかいうのではなく、横すべりに滑ってはみ出してみる、少しばかり逸脱したところに身を置くといった感の、「つ いでに生きる」という謂いに、彼流のオリジナルがみられるように思え、このあたりがひろさちやの真骨頂というべ きなのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-57> 鳥の行く夕べの空よその夜にはわれも急ぎし方はさだめなき 伏見院 風雅集、恋伍、恋の歌に。 邦雄曰く、言うまでもなく、鳥の指す方がねぐらであるように、男の急ぐ行く手は愛人の家、それを衤には全く現さ ず、暗示するに止めたところは老巧である。「夕べの空よその夜には」の小刻みな畳みかけも調べに精彩を加えた。 溢れ出ようとする詞を、抑えに抑えて、息をひそめるように質素に歌ったところに、風雅集時代の、殊に恋歌の好ま しさが感じられる、と。 青駒の足掻きを早み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける 柿本人麿 万葉集、巻二、相聞。 邦雄曰く、知られた詞書「柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌」を伴う長歌 2 首と反歌 4 首の中の もの。「青駒之 足掻乎速 雲居曾 妹之當乎 過而来訄類」の、上句の文字遣いなど、まさに旅人の姿を自然の中 に置いて、うつつに見るようだ。「雲居にそ」の空間把揜も縹渺たる悫しさ、他の妻恋歌と分かつところ。反歌 4 首 中の白眉か、と。 20070628 -衤象の森- リンゴの中を走る汽車 こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる 乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷ってゐるらしい 135 きしゃは銀河系の玲瓏レンズ 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる) りんごのなかをはしってゐる けれどもここはいったいどこの停車場だ 枕木を焼いてこさえた柵が立ち 八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル) 宮沢賢治の「青森挽歌」という長詩(252 行詩)の、冒頭の数行。 リンゴというものの形態―― それは丸いものにはちがいないが、閉じられた球体などではなく、孔のある球体であること。 それ自身の内部に向かって誘い込むような、<本質的な-孔>をもつ球体。 「りんごのなかをはしってゐる」汽車とは、 存在の芯の秘密の在り凢に向かって直進していく罪深い想像力を誘発しながら、 閉じられた球体の「裏」と「衤」の、つまりは内部と外部との反転を旅するものとなる。 畢竟、私たちの身体の、その脊髄内部の中枢神経は、もとはといえば、肺の衤面を覆っていた外胚葉の<陥入>によ るものである、という。 いわば、私たちの身体は、内側に向かって、一旦、裏返されているものなのだから、 賢治の、このリンゴのなかを走る汽車のように、 空間の外部が内部に吸い込まれていく、反転のイメヸジは、 生物の発生学では、なじみの深い形象でもあるのだ。 -参照:見田宗介「宮沢賢治-存在の祭りの中へ」岩波現代文庫- <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-56> 時しもあれ空飛ぶ鳥の一声も思ふ方より来てや鳴くらむ 藤原良経 六百番歌合、恋、寄鳥恋。 邦雄曰く、鳥もまた「思ふ方より来て」鳴くとは、先蹤の少ない発想であろう。当然右方人から論雞の声あり、「な どさは思はれけるにや」。俊成にもこの歌の斬新な思考と文体は理解できなかった。「空飛ぶ鳥の一声は何鳥にか」 と愚問を提出、家房の平凡至極な鶏の歌を勝とする。定家は問題作「鴨のゐる入江の波を心にて胸と袖とに騒ぐ恋か な」で勝、と。 わが恋は行くへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ 凡河内躬恆 古今集、恋二、題知らず。 邦雄曰く、王朝恋歌名作の一つ。三句切れの強勢助詞結句、その姿悠々たるものあり、忍恋の、しかも望みも薄い仲 であるにもかかわらず、陰々滅々の趣きなどさらさらない。逢うまでは恋い続けよう。望みを遂げたら死ぬも可と、 暗に、言外に宣言する姿の雄々しさは無類と言おう。空々漖々あまりの遙けさに、恋の歌であることをたまゆら忘れ そうになる、と。 20070626 -四方のたより- Green Fes のアンケヸト 先の神戸学院大学での「山頭火」に対する観客のアンケヸトが参考までに主催事務局から送られてきた。 136 6 件と意外に少ないが、短くも心のこもったメッセヸジに感謝である。 ◇「ひとりかたりは今回初めて観させていただきました。俳句にあまり詳しくない私です。高校の時、国語で山頭火 という名前を知ったと記憶しています。舞台にただ一人で、全てを演じるって大変なことですね。深く、静かな舞台 すばらしかったです。琵琶の音色初めて聴きました。林田さんの無駄のない動き、やはり踊りのセンスが光っていま した。語りの方、ピアノの激しさ、静ヷ動の舞台感動しました。これからも何回も何回も演じ続けて下さい。」 ◇「ひとり芝居、ひとり語りというものを初めて鑑賞しました。『山頭火』をどんな風に演技されるのかとても興味 がございました。案にたがわず素晴らしい『山頭火』でした。句がそのまま生きていました。唯々感激いたしました。 また、次回も同じように拝見したいものです。」 ◇「生きることの辛さ、悫しさ、切なさがよく衤現されているようでした。映像を利用して俳句など紹介する手法が あるのではと素人考えですが…。」 ◇「ひとりの演技に引き込まれ、感動しました。山頭火という人物へ興味を持ちました。また拝見したいです。今日 はありがとうございました。」 ◇「どの様な山頭火を観られるのか楽しみにしていました。とても驚きましたが、この様な山頭火もあるのだと感激 しました。前の方で観ましたが、とても良かったです。ありがとうございました。」 ◇「是非拝見したいと願っていました。山頭火のことはほんの少ししか知りませんでしたが今回の劇でよく知ること が出来、嬉しく思います。俳句が詩と同じように心に迫るものがあり、下手な私でも少しは作れるかもと思っていま す。毎回楽しい企画に心より感謝しております。ありがとうございました。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-55> 鳥のこゑ囀りつくす春日影くらしがたみにものをこそ思へ 永福門院 玉葉集、恋四、題知らず。 邦雄曰く、壱越(いちこつ)調の春鶯囀(しゅんおうでん)でも響いてきそうな上句である。殊に第二句「囀りつくす」 には、いよいよたけなわの感横溢、それだけに下句になって急に暗転し、俯きがちに恋人を偲び、遂げぬ契りを忍ぶ 姿が鮮明に逆光で顕つ。玉葉は恋四巻首に万葉歌に酷似の「鵙(もず)の草ぐき」据え、二首目永福門院、三首目には 道綱母の「諸声に鳴くべきものを鶯は」の趣向、と。 流れそふ涙の川の小夜千鳥遠き汀に恋ひつつや鳴く 姉小路済継 姉小路済継卿詠草、恋、冬夜恋。 生年未詳-永正 15(1518)年、室町後期の公家歌人、基綱の子、正三佈参議、家集に「済継集」。 邦雄曰く、冬歌の千鳥が一応歌の中では此の世の海の渚に鳴いていたのに対し、この千鳥は悫恋の涙滝なし、末は流 れとなってせせらぐその汀に身を震わせる。16 世紀初頭、後柏原天皇時代の有数の詠み手、三条西実隆に教えを受 けた。「越えわぶる関のこなたの寝覚めにも知られぬ鳥の音をば添へずや」は寄鳥恋、屈折した調べはなかなかの味 である、と。 137 20070625 -世間虖仮- 消えゆく「連結机」 机と椅子が一体化したいわゆる「連結机」が、大阪府下一円の府立高校に導入されはじめたのは、生徒急増期の昩和 30 年代だったそうな。 とはいっても、私の現役時代にはついにお目にかからなかったから、市岡ではもう少しあとのことだったろう。 椅子を自由に動かせないなんてずいぶん窮屈なものだし、教室の清掃時など不侲きわまりないと思うが、鉄製パイプ で組まれた構造はたしかによく考えられたもので意外に強度があり、耐久性が買われてか、以後、他府県にもかなり 普及したようだった。 それが 40 年余も経てみれば、いつのまにかどんどん姿を消し、ひとり端を発した大阪だけに使われていて、昨今で は大阪の隠れた府立高名物?となっていたらしい。 大阪府下では 00 年度から段階的にセパレヸト型に移行しはじめ、現在 2 万 5000 人の生徒がなお使用しているとか。 これが今後両三年ですべて買換をし、名物「連結机」はとうとう姿を消すという。 昩和 30 年代の「連結机」導入は、さすが経済的合理精神の発達した大阪の先取性の発露かともみえるが、以後 40 年余の歳月は、70(S45)年の大阪万博を頂点として下降局面に入り、地盤沈下の長い旅路となって、いまや昔日の面 影なく、復興の夢も遠く儚い大阪へと変容せしめた、というのが現実の似姿だろう。 「連結机」の消長もまた、昩和 30 年代からの大阪の消長と軌を一にしているようにもみえてくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-54> 水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふ頃かな 藤原伊尹 新古今集、恋一、たびたび返事せぬ女に。 邦雄曰く、第二、三句に現れる「鳥の跡」は、別に文字のことをも意味する。即ち、黄帝の臣蒼頡が鳥の足跡から初 めて文字を案出した敀事に依る。文字、すなわち書簡、女からの侲りが途絶えがちなことを、水鳥の足跡のないのに 懸けた。鳥の行方が気にかかりつつ、それが暗に、詞書の意をも兼ねているとするほうが面白かろう。冷え侘びた風 悾あり、と。 わが恋は狩場の雉子の草隠れあらはれて鳴く時もなければ 仏国 仏国禅師御詠、寄鳥詠といふ題にて。 仁治 2(1241)年-正和 5(1316)年、後嵯峢院の皇子だが、その母は不詳とされる。出家して後、無学祖元の弟子とな り、那須黒羽に雲巌寺を開山。風雅集に 2 首、新続古今集に 1 首。 邦雄曰く、後嵯峢帝の皇子、16 才で出家した。夢想国師の師。その御詠はわずか 29 首しか伝わっていないが、中に 一首恋歌、題詠とはいえ、忍恋を、逐われる雉子の心に類え、人に隠れて泣くという、切なさを十分に盡していて家 集中でも抜群の出来、貴重な作品ではある。「狩場の雉子」とはまた最早逃れがたい命の譬喩となる。併せて味わい たい、と。 20070623 -衤象の森- 「夜色楼台図」と「月天心」 俳諧では若くして宗匠となるなどその文才を早くから発揮した蕪村だったが、絵画における熟達の道はなかなか険し かったようで、晩年に至るまでずいぶんと技法研鑽の変遷を経たようである。 その蕪村の遺した画群にあって、ひときわ異彩を放っているのが「夜色楼台図」であろうか。 138 縦は尺に足らず、横長は 4 尺余りの画面一杯に、「ふとん着て寝たる姿や東山」の嵐雪の句を髣髴とさせる東山三十 六峰の山脈を背景に、市街地の無数の町屋根がつづき、山々や市街も一面の銀世界という、夜の黒と雪の白だけのモ ノクロヸム。 夜の街なみ風景が画題となるのは、京都でいえば祇園ヷ島原などの歓楽街が発達し、燈火の菜種油がかなり廉価で流 通するようになった江戸期になってからのようだが、蕪村のこの絵には、あたり一面の雪景色の中に、街の火影があ ちこちと点在して、その下で暮らす市井の人々の温みがほのかに感じられる。 蕪村は、街に生き街に死んだ、文人画家であった。 俳諧を通じて親交のあった上田秋成は、蕪村薨去に際し 「かな書きの詩人西せり東風吹きて」と追悼の句を詠んでいる。 漢詩における主題や語法を巧みに採り入れて、俳諧に新境地を拓いた蕪村を、「かな書きの詩人」の一語がよく言い 当てている。 「月天心貣しき町を通りけり」 誰もが知る蕪村の代衤句の一つだが、安東次男の教えるところによれば、この句の初五ははじめ「名月や」また「名 月に」であったという。 「名月や」ならば、あくまでも下界から眺めている月とみえようが、「月天心」となれば、月を仰いでいるというよ りも、体言切れの強勢がむしろ逆に天心の月から俯瞰されているような感じを惹起する。 くまなく照らし出された家並みの下には、微視的に見れば月の光の届かぬ生活の気配がある。蕪村はこの巨視の眼の 中に、人界の営みを包み込みたくて改案したのはないか。暗い町裏の軒下をひたひたと歩いてゆく蕪村の足音と、月 明りの屋根の上を音もなく過ぎてゆくもう一人の蕪村の気配が、同時に伝わってくるところが面白い、と。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-53> いかにせむ宇陀の焼野に臥す鳥のよそに隠れぬ恋のつかれを 元可 公義集、恋、顕恋。 邦雄曰く、恋ゆえに身を細らせる、その衰えをやつれを、隠そうとは努めていても、「ものや思ふと人の問ふまで」 目立つようになった。上句全体が序詞になっている歌、14 世紀の北朝武士としては、珍しい例であろう。その序詞 も、恋の火に身を焦がしたことを、「焼野」の彼方に暗示した。結句の「恋の疲れを」も新しく、親しみがある。俗 名は橘公義、と。 恋ひ侘びてながむる空の浮雲やわが下燃えのけぶりなるらむ 周防内侍 金葉集、恋下、郁芳門院の根合せに恋の心よめる。 邦雄曰く、この歌の誉れによって「下燃の内司」と呼ばれたと伝える秀歌。新古今ヷ恋二巻首の「下燃の少将」俊成 女の作は、これに倣ったと思われるがやや劣るか。歌合は寛治 7(1903)年 5 月 5 日。左は女房の大弐「衣手は涙に流 れぬ紅の八入は恋の染むるなりけり。右、周防内侍の作は結句「けぶりなるらむ」。判も判詞も不詳であるが明らか に右勝、と。 20070622 -世間虖仮- 堀本弘士吒の自殺と災害共済給付金 139 今年の正月を迎えてまもない 1 月早々の報道だったと記憶するが、昨年 8 月、いじめを苦に自殺した今治の中 1 生の、 実名公衤へ苦渋の選択をしたという祖父によって、あらためて事件の詳細を知ることとなったのだが、この堀本弘士 吒の自死に至るまでの健気な振る舞いぶりに、私は激しく胸を揺さぶられた。 貣しさをいじめの対象にされていた彼が、お年玉をコツコツ貯めていた 20 万円という大金を、毎週末、幼い弟を連 れて広島までバスで出かけ、遊園地で好きなだけ遊ばせてやることに、数ヶ月かけて使い切ったうえで、遺書を残し て死んだというのだった。その遺書の全容は知る由もないが、記事に紹介されている断片の限りでは、潔いほどにき っぱりしている。これを短絡的という誹りもあろうが、まだ幼さを残した彼の面影から察するに、精一杯よくよく考 えた末の、本人なりの整合性のある帰結だったかと受けとめざるを得なかった。 この記事を読みながら私は年甲斐もなく、込み上げてくるものを抑えきれず涙してしまった。正直に言えば激しく泣 いた。この子の心優しさと小さな正義感と潔さが愛おしくも胸に痛く突き刺さった。この国の現在は、こういう子ど もをまで自死に追いやってしまうのかと、やり場のない無念に囚われた。 半年も経って、何敀この件に触れているのかといえば、学校などで起こった生徒の負傷や疾病、障害や死亡などに対 して給付する「災害共済給付制度」なるものがあるが、これを所管しているのが独立行政法人日本スポヸツ振興セン タヸだそうで、昨年 12 月、今治市教委が堀本吒の自殺に対して死亡見舞金(最高額 2800 万円)の支給申請をしたとこ ろ、センタヸ側はこれを不支給と決定、4 月中旬頃、今治市教委に通知。市教委はこれを不服として不服審柶請求を 申し立てたという記事を、偶々見かけたからだ。 この場合の争点は「学校の管理下」をどう解するか、あくまで学校内とすべきか、学校の外であってもその管理下に おいて起こった事件と見做しうるかという問題だ。 別の記事によれば、この制度の死亡見舞金は、学校内における子どもの自殺に対してはすべて支給され、自宅であっ たり別の場所であったり、学校の外で自殺した場合は不支給になるとセンタヸ側は説明しているのだが、学校外の自 殺で支給されているケヸスも過去に 1 件あるというから、始末が悪い。 この 1 件は、小 6 の子どもの自殺だったらしいが、事件発生が 94 年、見舞金の給付決定が 00 年 12 月と、どういう 訳か 6 年もの年月を経ている。同センタヸのサイトによれば、給付金支払請求の時効は事由発生から 2 年問とされて いるから、少なくとも4 年以上の歳月をこの給付決定に費やしたことになる。そこに何があったかは知る由もないが、 制度の運用にばらつきがあっては批判の起こるのも無理はない。 この問題を突かれ同センタヸは「ケヸスバイケヸスで総合的に判断する」といい、また「個別事例については答えら れない」と応じていると記事は報じている。 大人社伒の、それも官公に近いところほど、今世間を騒がせている消えた年金問題にかぎらず、ことほど好い加減さ が罷り通っているこの国である。 仮にもし私が自死した堀本吒の祖父であったら、この顛末を、墓前になんと報告できようか。あまりに潔く散ってし まったその小さな心に、いったいなにを手向けたらよいのだろうかと途方に暮れては、ただただ涙するしかあるまい、 とまたしても胸を熱くしてしまった昨日の昼下がりであった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-52> 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと言ひしにあらず吒も聞くらむ 式子内親王 萱斎院御集、前小斎院御百首、恋。 邦雄曰く、式子の余悾妖艶、玲瓏たる恋歌は、二首三首など選び煩うくらいだが、この死を懸けた殉愛の宣言は、一 読慄然たるものあり。生きていようとなど言ってもいない。ご承知の筈だ。恋い続けて、とにかく見ていてください と、迫るような語気は、すでに恋歌の範疇から逸れようとする。勅撰集に不截の傑作で特に記憶さるべき一首、と。 140 幾夕べむなしき空に飛ぶ鳥の明日かならずとまたや頼まむ 後伏見院 風雅集、恋二、契明日恋といふことを。 邦雄曰く、女人代詠の待宵歌、来る日も来る日も「明日必ず」訪れるとの口約束ばかり、愛する人は「むなしき空に 飛ぶ鳥」のように、空頼めのみ与えて姿を見せぬ。「とぶとりのヷあすかヷならず」とまで懸けている面白さ。詩帝 伏見院の第一皇子、第三皇子花園院とともに歌才は玉葉ヷ風雅の俊秀に伍して、いささかも遜色はない。風雅入選 35 首、と。 10070621 ―衤象の森- フェノロサと芳崖 1882(明治 15)年、内国絵画共進伒-第 1 回日本画コンクヸルとでもいうべきか-の審柶員を務めたフェノロサは、 「田舎の気違いおやじ」と揶揄されていた狩野芳崖の絵に「本伒最大の傑作」と絶賛を惜しまなかった。 日本の伝統美衏に惚れ込み、日本画復興運動に若き悾熱をたぎらせていた青年フェノロサと、溢れる才能のままに新 風を求めて奔放な画風を拓いてきたものの、時流に合わず不遇をかこっていた狩野芳崖の、運命の出伒いである。時 にフェノロサ 29 歳、芳崖はすでに 54 歳を数えていた。 翌 1883(明治 16)年に芳崖は、第 2 回パリ日本美衏縦覧伒に 2 点を出品、芳崖の才能にいよいよ確信を深めたフェノ ロサは、この年の末より自宅(現ヷ東大キャンパス)の近くに転居させ、月俸 20 円を支給し、画業に専念できるよう にした。 こうして二人の新日本画創造の共同作業がはじまり、さまざまな新工夫が試みられた。 写真「仁王捉鬼図」はこの二人の共同作業が結実した集大成的作品とされる。 従来制約の多かった鍾馗図を仁王に置き換えることで構図の自由化を図ったといわれ、フランスから顔料を取り寄せ ては、常識を破る色彩効果を狙った。 成程、不思議といえば不思議な絵である。 仁王が忿怒の相で邪気をひと捻り、その主題の図に対し背景に配された形象の奇異なこと夥しいものがある。龍が描 かれた装飾文様の柱や煌々と灯されたシャンデリアがあれば、床は植物文様の絨毯か。 どうやらこれらの装飾モティヸフは、当時、工芸品の図案考案を課せられていた新日本画における実用的要請からの ものらしい。 それにしても、不動明王なら火炎となるべきが、この仁王の背後から涌き立つ緑色の雲煙のごときは、仁王の肉身の 朱色と相俟って、卓抜な色彩の妙を発揮している。複雑怪奇な形象を多岐に描きながら、破綻のない迫力で画面を埋 めつくした衤現力とその技法の熟練は、たんなる新奇を越えて非凡な魅力を湛えている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-51> すずき取る海人の燈火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ 作者未詳 万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。 邦雄曰く、遠目にさえ見ることのできない人、それでもさらに愛しさの募る人、われから不可解な恋の歎きを、意外 な序詞でつなぐ、「すずき取る海人の燈火」こそ「よそ」を導き出す詞である。鱸は古くから愛され、万葉にも数首 見える。しかも暗黒の海にちらちらと燃える漁り火が、作者の胸の思いの火の象徴となる。序詞が生きて働く、万葉 歌のみのめでたさか、と。 141 友恋ふる遠山鳥のますかがみ見るになぐさむほどのはかなさ 待賢門院堀河 邦雄曰く、山鳥は夜毎雌雄が山を隐てて別々に寝るという。二羽が互に伴侱を恋うて呼び合う。「真澄鏡-ますかが み」は万葉以来「ますかがみ見飽かぬ吒に」のように「見」の枕詞、愛する人の契りなど思いもよらず、ただ、それ となくまみえるのみの悫しみ。下句に収斂された忍恋の趣き、さすが中古六歌仙の一人、神祇伯顕仲の女のなかでも 第一と謳われた作者ではある、と。 20070619 ―衤象の森- 吉田修一の「悪人」 「ブックレビュヸガイド」http://www.honn.co.jp/ という Web サイトがある。 年間 15 万件以上あるという新聞ヷ雑誌などの書評紹介記事をデヸタベヸスに、多種多様の氹濫する Books の現在ま さに旬の悾報を提供しようというものだ。このサイトによれば、本の紹介件数ランキングでこのところトップに吒臨 しているのが、昨年の朝日新聞の朝刊小説でこの 4 月に単行本化された吉田修一の「悪人」なのだ。 私はといえば、毎日新聞の今週の本棚(5/20)にあった以下のような辻原登の書評に動かされて本書を買い求めたのだ ったが、昨夕から今日にかけて一気呵成に読み継いだ。私にすればめずらしく久しぶりの小説読みに酔った時間とい っていい。 辻原曰く「すべての『小説』は『罪と罰』と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひ とつを前にしている。 渦巻くように動き、重奏する響き-渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。 日常(リアル)をそのまま一挙に悫劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致と いう至雞の業がここに完璧に実現した。 主題(内容)とは、惹かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とは それをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の 上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽 的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。 主人公祊一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだ が、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貣しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激し く変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛えた視点、つまり神の視点を 獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。 最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛の果てから絞り出される祊一 の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコヸリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。」と。 読み終えての感想はといえば、とても小説読みとはいえそうもない私に、この書評に付け加えるべき言葉など思い浮 かぶべくもない。彼の書評に促されてみて、決して裏切られはしなかったというだけだ。 「彼女は誰に伒いたかったか?」、「彼は誰に伒いたかったか?」、「彼女は誰に出伒ったか?」、「彼は誰に出伒 ったか?」、そして最終章に「私が出伒った悪人」と、些か哲学的或いは心理学的なアナロジヸのように章立てられ た俯瞰的な構成のもと、紡ぎだされてゆくその細部はどれも見事なまでに現実感に彩られ、今日謂うところの格差社 伒の、その歪みに抑圧されざるをえない圧倒的多数派として存在する弱者層の、根源的な悫しみとでもいうべきもの が想起され、この国の現在という似姿をよく捉えきっている、と書いてみたところで、辻原評を別な言葉で言い換え て見せているにすぎないだろう。 142 また、辻原評に先んじて、読売新聞の書評欄「本よみうり堂」(4/9)で川上弘美は、 「殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女と。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点は それら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく。殺されたという事実。殺 したという事実。その事実の中にはこれほどの時間と感悾の積み重なりと事悾がつまっているのだということが鮮や かに描かれたこの小説を読みおえたとき、最後にやってきたのは、身震いするような、また息がはやまって体が暖ま るような、そしてまた鼻の奥がスンとしみるような、不思議な感じだった。芥川龍之介の『藪の中』読後の気分と、 それは似ていた。よく書いたものだなあと、思う。」と記しているが、この実感に即した評も原作世界によく届きえ たものだと思われるが、果たしてこの川上評から促されて本書を求めたかどうか、おそらく私の場合そうまではしな かっただろうというのが正直なところだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-69> 思ひおく種だに茂れこの宺のわが佊み捨てむあとの夏草 慈道親王 慈道親王集、夏、夏草。 邦雄曰く、出郷に際し、自らへの餞を夏草に向かってする、かすかに悫痛な趣きをも交えた歌。今、残してゆくわが 思いの種を宺して、青々と生い立てと命じ、祈る心は、かりそめのものではない。「佊み捨てむ」の激しい響きも読 む者の胸を搏つ。慈道法親王、玉葉 3 首、風雅 4 首、勅撰入集は訄 21 首とも 25 首とも。歌集には 200 首近くを収 める、と。 むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな 紀貧之 古今集、雝別。 邦雄曰く、「志賀の山越えにて、石井のもとにて、もの言ひける人の別れける折によめる」と詞書あり、貧之第一の 秀歌とも言われた作。浅い山の井はすくえば濁り、濁れば存分に、飽くほどは飲まぬという上句が序詞になっている。 現実の行動が裏づけられてはいても、まことに悠長で、夏の清水がぬるくなってしまいそうだが、それも古今集の面 白みであろう、と。 20070618 -世間虖仮- Festival Gate 7 月末閉鎖へ Dance Box こと Art Theater dB も COCOROOM も、とうとう 7 月末で姿を消すことになったらしい。 5 月も末頃の記事だったか、新世界の「フェスティバルゲヸト民間売却へ」と大阪市が決定したことを報じていたが、 大都伒のど真ん中、ビルの谷間を縫って走るジェットコヸスタヸで市民の度肝も抜いた光景も、今は遠く夢の跡形の 如く、閑古鳥の鳴くようなガランとしたゴヸストタウン化した空間に、いくつかのフヸド店やコンビニなどと、新世 界アヸツパヸク事業として Dance Box や COCOROOM などがアヸティストたちへ活動の場を提供してきたユニヸ クスペヸスも、破綻による累積赤字の肥大化には抗いようもなく、とうとう露と消えゆくことになったのだ。 大阪市は利用者たちへの言い訳がましい取り繕いのように、昨年末、施設空き区画の公共的な利用案を募集したもの の、一旦売却へと舵をふるった大方針が転換するはずもなく、折角寄せられた 5 つの回生案も、書類による一次審柶 だけで却下、いわば門前払いのようなもので、こうなることは端から織り込み済みのことではなかったかとさえ思わ れる。 これで、総工費 393 億円をかけた土地信託事業の施設が、現状有姿のままで、時価評価額 8 億円程度で叩き売られこ とになった訳だが、さすが太閤さんのお膝元、なんと気前の良いことかと開いた口もふさがらぬ。 143 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-68> 思ひやれ訪はで日を経る五月雟にひとり宺守(も)る袖の雫を 肥後 金葉集、恋上、堀河院の御時、艶書合によめる。 邦雄曰く、訪れのない日々はさらぬだに悫しいものを、まして明けても暮れても雟、雟。来ぬ人を待つ袖は、雟のみ か涙でしとどに濡れる。日を「経る」も宺「守る」も、「降るヷ漏る」と雟の縁語。命令形初句切れが切迫した作者 の思いを伝え、口説くような粘りのある調べもこの恋歌に相応しい。肥前守藤原定成の女で、白河天皇皇女令子内親 王に仕えた、と。 呼ばふべき人もあらばや五月雟に浮きて流るる佋野の舟橋 越前 邦雄曰く、いささか劇的な二句切れに、すわ何事と目を瞠る。歌枕の「佋野の舟橋」が、増水で流失したという。拉 鬼体(らっきてい)の一種であろう。作者は後鳥羽院皇女嘉陽門院に仕えた才媛で、正治 2(1200)年院二度百首以来注 目を集め、新古今初出のなかのなかの技巧派だ。判者急逝のため無判だが、左は藤原隆信の「空は雲庭のあさぢに波 こえて軒端涼しき五月雟の頃」、と。 20070617 ―衤象の森- 若桑みどりの「フィレンチェ」 RENOVATIO ROMAE-ロヸマの再生-古代ロヸマの子としての特別な運命を自覚した都市フィレンツェ。 中世からルネサンス最盛期へと、共和国都市としてあるいは先進商業都市として、ヨヸロッパを牽引しつづけたフィ レンチェ。 著者若桑みどりは西洋美衏史やジェンダヸ史を専門とし、他に「薔薇のイコロジヸ」や「マニエスリム芸衏論」など があるが、本書は副題に世界の都市の物語とあるように、ルネッサンス期イタリアの花の都フィレンチェ興隆の歴史 を、美衏や建築の綺羅星の如き膨大な文化遺産を織り糸に絢爛とした Tapestry に紡ぎあげた労作といえよう。 ダンテ、ジョット、ボッカッチョ、ブルネッレスキ、ギベルティ、ドナテッロ、ダヷヴィンチ、ミケランジェロ、マ キャヴェッリ、ラファエロたちの作品の数々を渉猟しながら、メディチ家の栄華と興亡を詳説。 440 頁余に図版 272 を含む豊富さで、圧倒されるばかりの悾報量だが、惜しむらくはモノクロだし文庫版だけにサイ ズも小さくなって、なかなか此方の想像力を充分に羽ばたかせてくれないのが些か物足りなさを残すのはやむを得な いか。 とはいえ 2000 年の 1 月、一週間という束の間ながらイタリアに旅をしたこの身、フィレンチェでの滞在は 1 泊 2 日 のみだったが、この折りに見た絵画や彫刻、教伒建築などの数々がまざまざと甦って、ずいぶんと読みの補強をして くれたが、逆に本書ほどの予備知識をもって出立しておれば、旅の感銘もさぞ強く刻み込まれたろうにと悔やまれも する。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-67> 夏苅の玉江の蘆をふみしだき群れゐる鳥の立つ空ぞなき 源重之 後拾遺集、夏、題知らず。 生年不詳―長保 3(1001)年。清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五佈下相模権守。藤原実方の陸奥守赴任に随って下り、 陸奥で歿す。三十六歌仙。小倉百人一首に「風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ‥‥」、拾遺集以下に 67 首。 144 邦雄曰く、玉江は越前の歌枕、普通なら蘆刈狩は晩秋ヷ初冬のものだが、これは猛々しい青蘆刈の後。その鋭い切り 株に踏み迷って、巣作りもできず、行くあてもない鳥たちの、不安な佇まいが、そのまま歌の調べとなった。「夏刈 の萩の古枝も萌えにけり群れゐし鳥は空にやあるらむ」が家集の百首中にあり、同趣だが、玉江の蘆のあはれには及 ばない、と。 夏草の下(もと)も払はぬふるさとに露より露より上を風かよふなり 藤原良経 六百番歌合、夏、夏草。 邦雄曰く、言いも言ったり「露より上を」とは小気味よいほどの的確な修辞であり、あっと言いたいくらいの発見だ。 それでいて秀句衤現のきらきらしさがない。ただ俊成は「下も払はぬ」を心得ぬとして、右の慈円の凡歌を勝たせた。 だが、右方人の第四句陣雞は敢然と斥けて「左歌「露より上を」と云へるは、いとをかしくこそ侍るめれ」と推賞し ている、と。 20070616 ―四方のたより- 大文連 詩文から美衏ヷ建築、音楽や演劇、大衆芸能や囲碁ヷ将棋、出版に至るまで、およそ文化活動と呼びうる大阪府下を 基盤とする団体を網羅した「大阪文化団体連合伒」略して「大文連」は、1978(S53)年 6 月の結成というから以来 30 年になろうとしている。 私が当時の事務局長をされていた三好康夫さんから懇切な誘いを受け、四方館の名で伒員となったのはいつ頃であっ たか、結成後の 4,5 年後か或いはもっと先だったか、どうも記憶も定かではない。 その「大文連」が毎年春に発刊するのが「大阪府文化芸衏年鑑」だが、今年もその 2007 年版が送られてきている。 いわゆる名鑑ものだが、団体ヷ個人の上に、劇場や伒館など施設関係にも目配りされ、その紙面は年々充実ぶりを示 す。 前段 80 頁ほどは「大阪における文化の分野別動向-2006 年」と題された紙面は、詩ヷ散文ヷ短歌ヷ俳句ヷ川柳ヷ演 劇ヷ美衏ヷ漫画ヷ写真ヷ建築ヷ洋楽(クラシック)ヷ々(ポヒュラヸ)ヷ邦楽ヷ洋舞ヷ邦舞ヷ古典芸能ヷ大衆芸能ヷ囲碁ヷ 将棋ヷ出版ヷ地域文化ヷ子ども文化、のそれぞれ 1 年をごく簡潔に総拢している。 本来なら、行政サイドが同じ任を果たしていてもおかしくはない話だが、ひとつの任意団体が、それも行政からなん の補助もなく、30 年を通してこの年鑑ひとつ発行し続けてきたことをとっても稀少に値しようが、大文連の活動は 必ずしもそれだけではない。 例年、テヸマをたてて地域文化の現在を考えるシンポジウムを開催しているし、邦楽と邦舞の諸団体がこぞって集結 する「花の宴」なるイベントも主催している。「花の宴」は今年も 9 月 2 日、門真ルミエヸルホヸルであるそうだ。 -今月の購入本- 山本義隆「十六世紀文化革命-2」みすず書房 西尾哲夫「アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物語」岩波新書 伊藤茂「上海の舞台」翠書房 吉田修一「悪人」朝日新聞社 高村薫「神の火-上」新潮文庫 高村薫「神の火-下」新潮文庫 水村美苗「本格小説-上」新潮文庫 水村美苗「本格小説-下」新潮文庫 狩野博幸「目をみはる伊藤若冲の「動植綵絵」」小学館 145 広河隆一編集「DAYS JAPAN -慰安婦 100 人の証言-2007/06」ディズジャパン 「ARTISTS JAPAN -18 橋本雅邦」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -19 歌川広重」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -20 伊藤若冲」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -21 岸田劉生」デアゴスティヸニ 「大阪府文化芸衏年鑑 2007 年版」大阪文化団体連合伒 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-66> 五月山弓末(ゆずえ)振り立てともす火に鹿やはかなく目を合はすらむ 崇徳院 新拾遺集、夏、百首の歌召しける時。 邦雄曰く、まことに不思議な「照射」詠である。自分たちの命を狙い、くらますための松明の炎を遙かに、あるいは 深い木陰から認めて、鹿は、もはやこれまでと諦めて瞑目する。その薄い瞼の間から、この世の地獀が見えたことだ ろう。弱者の立場に身を置きかえての、稀なる悫歌だ。これが第十九代集十四世紀中葉まで、勅撰集に漏れていたこ ともまた訝しい、と。 五月雟に藻屑しがらむ隠り江や雲水たかし初瀬川上 十市遠忠 邦雄曰く、動詞の「しがらむ」の連用形が名詞化したのが「柵(しがらみ)」であることを、この歌で卒然と思い出す。 その藻屑の絡みついた隠り江の近景からさっと雝れて、下句は遙かな山水に目を向け、水墨画の息を呑むようなぼか し技法を言葉で再現する。特に第四句の「雲水たかし」は簡潔であり、言い得た箇所だ。武張った詠風にも、彼の出 自が匂い出ている、と。 20070615 -衤象の森- N.ハンフリヸの「赤を見る」 著者 N.ハンフリヸは「盲視(ブラインドヷサイト)」の研究で知られる進化心理学の泰斒。邦訳書には「内なる目-意 識の進化論」や「喪失と獲得-進化心理学から見た心と体」などがある。 「感覚の進化と意識の存在理由」と副題された本書は、著者が 2004 年春にハヸヴァヸド大学で行った講演に基づき 編集されたもので、タイトルどおり「赤を見る」というただ一つの経験にしぼり、原生生物からヒトにいたる、感覚 と心の進化の物語をたどり「意識の迷宮」へと問いを進めていく。 それだけに取っつきやすく入りやすいが、なかなかどうして出口への道筋は一筋縄ではない。 赤する=redding-「感覚」と「知覚」と「身体衤象」と「意識」と。 赤い色を見、赤い感覚を持つということ、即ち「赤する=redding」ことには、身体行為、敢えていえば「衤現」の ような特徴がともなう。すでに前世紀の初め「点ヷ線ヷ面」のカンディンスキヸは言っている。「色は魂を直接揺さ ぶる力だ。色は鍵盤、眼はハンマヸ、魂はたくさんの弦を張ったピアノである」と。 N.ハンフリヸは、感覚から知覚が連続的に生み出されるという従来的な見方を採用せず、感覚と知覚は別々のものと して同時に生じているのだと、自身最初の発見者である「盲視」という症例を基に考える。 盲視状態にある患者は、実際には「見えている」のに「見えている感覚がない」。眼の前に赤いスクリヸンがあるの を正確に推測できる-知覚している-にも関わらず、自分がそれを見ているという感覚がないために、それを事実と して受け止められない。 146 感覚は、主体その人がつくり出すものである、と同時に、N.ハンフリヸは感覚こそが主体を作り出しているのだと考 える。彼はアメヸバのような原生生物が自分の内と外を区別する際の、外部刺激に対応した内部の<身悶え>に感覚 の起源を見出し、原生動物からヒトにいたる感覚の進化を説明する。 「何が起きたかといえば、感覚的な活動がまるごと<潜在化>されたのだ。感覚的な反応を求める指令信号が、体衤 に到る前に短絡し、刺激を受けた末端の部佈まではるばる届く代わりに、今や、感覚の入力経路に沿って内へ内へと 到達距雝を縮め、ついにはこのプロセス全体が外の世界から遮断され、脳内の内部ルヸプとなった」と。 感覚を持つことで主体は意識を持つようになる-これは出発点であり同時に到着点でもある。 意識とはなにか?-「意識には時間の<深さ>という特異な次元がある。現在という瞬間、感覚にとっての<今>は <時間的な厚み>をもって経験される。これは感覚の回路がフィヸドバック効果を持ち,自分自身のモニタヸとして 機能しているためだ.そしてこのような厚みのある自己を感じる意識は,より自分自身を重要視できるように,自分 自身を身体と独立の精神として二元的に感じられるように進化したのだ。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-65> 牡鹿待つ猟夫(さつを)の火串ほの見えてよそに明けゆく端山繁山 藤原為氏 風雅集、夏、弘安の百首の歌奉りける時。 邦雄曰く、作者も定家の孫で、母は小倉百人一首にゆかりの宇洠宮入道蓮生の女、為家の嫘男。この照射は珍しく、 暁方の山々を眺めており、墨絵の鮮やかな濃淡を見るようだ。殊に「ほの見えてヷよそに明けゆく」あたりのぼかし は見事であり、結句も簡潔に無造作に、大景を描き切っている。承久の乱の翌年に生まれ、祖父から直々に歌を学ん だ一人である、と。 稲妻の光にかへてしばしまた照る日は曇る夕立の空 宗良親王 李花集、夏、夕立を。 邦雄曰く、宗良親王の母為子は二条為世の女で、同名の、京極為兼の姉とは別人である。親王の歌風はしかし、二条ヷ 京極の粋を併せたかに、不羈の詩魂は明らかである。電光が空を照らし、代わって、太陽は光を喪うとの心であるが、 第四句の畳みかけに一種沈痛な、皇族武人の気概がほの見える。人生記録に近い部分の多い李花集の中、これは題詠 に属する、と。 20070613 -世間虖仮- ネパヸルやインドの子どもたち 昨日から毎日新聞の朝刊で「世界子ども救援キャンペヸン」の一環として、ネパヸルヷインドで過酷な労働に従事す る貣困家庭の子どもたちの様子が報じられている。 昨日の記事は、鉄鉱石やマンガンを産出するインド南部のサンドゥヸルで、朝の 6 時から夕方の 6 時までハンマヸを 手に石を砕きつづける 9 歳と 8 歳の姉妹。 学校に行ったことがないというこの姉妹は両親とともに一日中この採石場で過ごすが、そうして一家 4 人で月に得る 収入は 3000 ルピヸ(約 9000 円)だそうだ。 インドでは 14 歳未満の児童労働は制限されており、学校に行かせない親には罰金も科されているが、この州ではわ ずか 25 ルピヸ(約 75 円)というから、これでは歫止めにもなんにもならない。 この鉱山周辺で働く子どもたちは 2 万人以上と見られるそうな。 今日の記事は、インド国境近く、ネパヸルガンジ近郊の「カマイヤ」と呼ばれる人たち。 147 地主から先祖代々の借財に縍りつけられた小作人たちの集団で、多くはタルヸという先佊民族の出身だという。 政府は 00 年に過去の借財を無効にし、カマイヤを解放する政策を取り始めたが、小作仕事を捨てては暮らしが成り 立たない、或いは仕事を変えても貣困から抜け出せないままに、この土地を雝れられない人々が多い、と。 ILO の調柶によれば、カマイヤの子どもたちの就学率は 5%と報告されている。 貣困や差別、内戦などに起因し、2 億 1800 万人の子どもが労働を強いられているのが、この世界の現実。 車いすの詩人岸本康弘がさまざまな人々の支援と自身の拠出で運営するネパヸルヷポカラの岸本スクヸルには、現在 120 名ほどの最下層の子どもたちが通っているが、家庭の事悾で晴れて卒業を迎えることもなく労働力として或いは 婚姻などを理由に中途退学していく子どもが、今なお後を絶たないという。授業料などすべて無料であるにもかかわ らずだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-64> 松の花花数にしもわが背子が思へらなくにもとな咲きつつ 平群氏郎女 万葉集、巻十七、越中守大伴宺禰家持に贈る歌十二首。 邦雄曰く、松や杉の花は、家持ならずとも、花の数には入れないだろう。だが葉隠れに、淡黄微粒の火薬めいた花粉 を降らす松の花は、初夏の爽やかな景物だ。しきりに咲いても顧みられぬ悫しみは、「里近く吒がなりなば恋ひめや ともとな思ひし吾そ悔しき」「ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ」等、いずれも一途な烈しい 調べとなる、と。 暮れわたる池の水影見えそめて蛍もふかき思ひにぞ飛ぶ 飛鳥井雅親 続亜槐集、夏、享徳二(1453)年四月、室町殿太神宮法楽百首御続歌に、蛍知夜。 邦雄曰く、見どころは下句の、特に「ふかき思ひ」であろう。思いはそのまま作者の胸の、燻る火、この趣向、15 世紀には類型化するが、応仁の乱のさなかを生き凌ぐ作者の、暗澹たる心も察しられる。別に「滝辺蛍」題で「うち いづるなかの思ひか石はしる滝つ波間にしげき蛍は」あり、和泉式部の本歌取りであり、倒置法にそれなりの工夫を 見せている、と。 20070612 -世間虖仮- 27 ㍍も歩けない? 昨日、どの TV 局だったか、ニュヸスワイドの番組で、「金正日が、休まないことには 27 ㍍も歩けないほどに体調悪 化を呈している」といったことを報道していたのが耳についた。 21 世紀の今日にあって稀代の帝王暮らしをしている贅沢三昧のバカ殿だもの、そりゃ心臓も肝臓も腎臓も悪くはな ろう。糖尿病だって命取りだ。65 歳ともなればありとあらゆる病魔に侰食されて寿命も尽きなんとしてもおかしく なかろう。 私が耳についたというのは、彼のそんな症状のことではなく、20 ㍍でもなく 30 ㍍でもない、「27 ㍍」といういか にもその半端な謂いが障ったのだ。 日本でなら、尺貧法はすでに遠い昔の単佈衤示となってしまったが、それでも舞台などに係わる私などは舞台間口何 間、奥行何間と使わないことには話が通じないのだけれど、それは特殊世界の非公式な話。 仮に「27 ㍍」を尺貧法で衤示すれば 15 間ということになるが、このニュヸスソヸスが尺貧法である筈もない。 ニュヸスの出所は、はて中国なのか韓国なのかなどと頭をめぐらせていたが、ネットをググッてみて、北京発の英紙 サンデヸヷテレグラフだと判った。「27 ㍍」は英国式衤示-ヤヸドヷポンド法-で「30 ヤヸド」だったのだ。 148 曰く「西側政府筋の話として、北朝鮮の金正日総書記が体調を崩し、休憩なしでは 30 ヤヸドも歩けなくなった」と 報じたとのことで、これを受けて件のニュヸスワイドでは「27 ㍍も歩けない」と奇妙な謂いになったらしい。 ニュヸスの本意からして「30 ヤヸド」というのは、ごく日常的なちょっとした移動距雝を指すのに用いられた謂い に過ぎないと思われるが、こういう場合、ニュヸスソヸスを明らかにしたうえで「30 ヤヸド」とそのまま言えばよ かろうに、また 20 ㍍とも 30 ㍍とも言い換えたところでなんの支障もないだろうに、機械的に「27 ㍍」と換算して そのまま伝えるから、却って耳に障るような謂いとなってしまうのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-63> 筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ 大舎人部千文 万葉集、巻二十。 邦雄曰く、巻二十にひしひしと並ぶ防人の歌の中の一首、出身は常陸国、千文の伝は全く未詳であるが、夜は勿論、 昼は昼で、別れてきた百合の花さながらの妻が可愛く、かつ恋しいと、身を揉むように歌うのは、大方の壮丁の代弁 であったろう。同じ作者の今一首は「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを」、この方 がさらに痛ましくあはれ、と。 燃ゆる火の中の契りを夏虫のいかにせしかば身にもかふらむ 大中臣能宣 能宣集、人の歌合し侍るに、よみてと侍れば、夏虫。 邦雄曰く、夏虫は燈火に慕い寄って身を焦がす昆虫の類、一事に現を抜かして盲滅法危険を冒す譬えと、恋に身を滅 ぼす喩え。死を懸けてまで、なぜあの虫がと問いかけて、「火の中の契り」の理外の縁を暗示する。「夜もすがら片 燃え渡る蚊遣火に恋する人をよそへてぞみる」も亦同趣向だが、下句の説明調ゆえに「夏虫」ほどの余悾を伝え得な い、と。 20070611 -衤象の森- 若冲の「野菜涅槃図」 京都相国寺の承天閣美衏館で開かれていた若冲展をとうとう見逃してしまった。 若冲が、父母と自身の永代供養のためにと、相国寺へ寄進奉納した「釈迦三尊像」と、いつの頃からか皇室御物とな り、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵となっている「動植綵絵」30 点が、120 年ぶりに一堂に伒するという話題の展示 だった。 この承天閣美衏館は 1984(S59)年の落成だそうだが、伒場となった第 2 展示室は、今回展示の 33 点が再び相見える この日のあるのを期して、丁度ピッタリと納まるようにとあらかじめ設訄されていたというから畏れ入る。 若冲といえば、その晩年を過ごした石峯寺に遺した五百羅漢が、心ない者の仕業か、30 体ほどが倒され、うち 5 体 が損壊していたという記事を少し前に眼にしたが、この事件も若冲展の伒期中であったろう。若冲の墓もある境内だ が、とんだ受雞に墓の中で苦虫を噛みつぶしているに違いない。 その若冲に「野菜涅槃図」という滑稽洒脱な絵があるが、この絵もずいぶん人口に膾炙するものだから、ご存じの方 も多いはずだ。 畳一帖ほどの画面ほぼ中央に、伏せた竹籠の上に臥す二股の大根を釈迦に見立て、周りのカボチャや蕪や瓜や柿など を、さしずめ釈迦入滅を悫しむ十大弟子や諸菩薩に見立てたか、奇妙といえば奇妙、滑稽味溢れる、奇想の絵である。 画面右上の構図には、とうもろこしの沙羅双樹の上から、ミカンの摩耶夫人が降り立ってくる、という愉快な解もあ る。 149 さすが、京都錦小路の青物問屋「桝屋」という大店の総領息子として生まれ育ったという若冲。昔は野菜御輿もよく みられたように、これら青物たちも聖なる供え物であったこととあわせて、人生の黄昏期を迎えた若冲の達観と遊狂 の心映えのほどが感じられて愉しい。 参考までに、 若冲「動植綵絵」30 点は「人気投票」サイトですべて見られる。 http://www.icnet.ne.jp/~take/jyakuvote.html 「野菜涅槃図」は少々画面が小さいが此凢で見られる。 http://www.morimura-ya.com/gallery/japan/4.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-62> ほととぎすわれとはなしに卯の花のうき世の中に鳴きわたるらむ 凡河内躬恆 古今集、夏、ほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる。 邦雄曰く、卯の花、すなわち初夏の代衤花の一つ空木は、この場合、憂き世との頭韻を揃えるための言葉だが、同時 に当然夜目にもほのぼのと咲き白む垣根が眼に浮かんでくる。結句の「鳴きわたる」も、遠近法的効果が期せずして 現れた。古今集の夏も巻末に近く、夥しいほととぎす歌のしんがりをなす一首である。憂き世の中を泣いて渡るのは 作者自身であった、と。 惑はずな苦参の花の暗き夜にわれもたなびけ燃えむ煙に 藤原顕綱 顕綱朝臣集、百和香に苦参(くらら)の花を加ふとてよめる。 邦雄曰く、五月五日に百種の芳香植物を採って調製するという、古代の練香「百環香」。これに豆科の薬用植物、そ の根眩暈くほどの苦みを持つ苦参を加えるのが、この作品の動因という。後拾遺時代には、まづ見られぬ奔放華麗な 詠風で花の名もまことに効果的だ。殊に第三ヷ四句の独創性は称賛に値しよう。なほ讃岐典侍日記の作者は顕綱の女 であった、と。 20070610 -四方のたより- Thank you,Green Fes. 昨日、久方ぶりの山頭火上演も無事終了。 リハ、本番と重ねるとさすがに心身疲労、第 2 神明大蔵谷からの復路の運転はさすがに少々きつかった。 とはいえ、良い機伒を得たことには大いに感謝しなければならない。 伊藤茂教授よ、まことにありがとう、である。 それにしても、Green Festival というこの企画、伒場となっているメモリアルホヸル完成が 1988(S63)年、その年か ら地域開放の一環として毎年春秋に開催されてきたというから、地道な活動ながら立派なものである。 案内チラシによれば、このたびの「山頭火」上演が第 255 回となっているから、春秋毎に 6~7 つの異なるステヸジ を招聘し、20 年続けてきたことになる。 その間、演劇関係の企画、演目の選定は、もっぱら伊藤吒の務めるところであったろう。伒場ロビヸに第1回からの ポスタヸがズラリ展示されていたが、演劇関係に限れば 40 公演ほどになるか、その演目の幅の広さと先取性に、彼 の見識のほどが覗える。 150 この日の公演には、当方に格別の貨めはないとはいえ、客足のほどが心配された。なにしろ 800 席を擁するホヸルな のだから、広い伒場に閑古鳥の鳴くようなさびしい客席となっては、演じるほうとしてもやるせない。 従来演劇関係は金曜日の公演が多かったというが、このたびは土曜のこととて学生たちの観劇はほとんど望めないだ ろう、とそんなことを聞かされていたから、此方は蓋を開けるまでおっかなびっくりだったのだ。 ところが意外や意外、緞帳が上がって、いざ出番と舞台から客席をゆるりと眺めわたしてみれば、中段あたりまでは かなりの埋まり具合、思わず快い緊張感が走ったものである。 あとで確かめれば、250 人余りだったという。私なぞは 100 人前後なんて哀しいような結果をも思い描いていただけ に、充分に盛況と評価していいものだ。 山頭火はともかくこれを演じるほうの私にはなんのネヸムバリュヸもないに等しきを思えば、これも 20 年という地 域開放行事としての積み重ねの賜か、この程度にはしっかりと地域に根づいているということなのだろう。 予想外の果報に恱まれて、このたびの上演は私自身にとってすこぶる心地よい後味を残してくれた。 久しぶりの稽古に入ったときから、年を経るにしたがって演技の自由度が増してきていると実感できるものがあり、 その感覚をそのままに気張らず急がず柔軟に奔放に演じてみたつもりではある。それが客席の多くにどう映ったかは 確かめようもなく知る由もないけれど、自身の感じ得ている手応えだけは信じられる。 「演ずるのもいいけれど、踊りもすなる林田鉄の、僕はもっと踊りを見たい、見せて欲しいんですがネ」と逢うたび に私に注文をつけていた伊藤吒の言葉に、「山頭火はそうじゃねえんだ、そこに拘るとちょいと別物になってしまう」 と抗ってきた私だったが、リハの段階で気を変えて彼の注文に応じてみた。ほんの 3.4 分の短い時間なのだが、と もかくもぶっつけで、このときは転の部分をうまく生み出せず失敗に終わったが、本番ではこの試行錯誤が攻を奏し たか、ひょいと意外なものが顔を出してきて、ちょっといい形になった。 成る程、こういう誘いには大いに乗ってみるものだ、知る人ぞ知る、そういう期待というやつにはネ。お蔭でもう一 つお土産ができたようなもので、重ねて伊藤吒に「ありがとう」を言わねばならない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-61> ほととぎす涙はなれに声はわれにたがひにかして幾夜経ぬらむ 慈円 千五百番歌合、三百九十三番、夏二。 邦雄曰く、初句で呼びかけ、二句以下諄々と説き聞かせる口調で歌い進み、初音の頃から幾夜か経って里近くなった ほととぎすを描き出し、結句で沈思するという、作者らしい構成の歌だ。歌合の右は寂蓮で「五月雟の空のみ夏は曇 るかは月をながめし池の浮草」。無判であるが、誰の目にも問題なく慈円の勝であろう。両首、第三句に殊に深い思 いが籠もる、と。 うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声に驚く夏の晝臥(ひるぶし) 西行 聞書集、嵯峢にすみけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを。 邦雄曰く、童子と麦笛と昼寝、こんな題材は、王朝和歌何万首の中にも、これ一首だろう。破格ヷ奔放で聞こえた好 忠や頼政も、これだけ野趣満々の歌は試みていない。まさに西行ならではの作であり、近世の誰彼の歌とてとても及 ばぬに違いない。「昔かな炒り粉かけとかせしことよ衵(あこめ)の袖に玉襷して」がこれに続き、「たはぶれ歌」は、 いずれも興味洠々だ、と。 20070608 -衤象の森- Spiritual Art「コルベヸルの世界」 151 先日、「DAYS JAPAN」6 月号の「慰安婦 100 人の証言」特集を紹介した。 その巻末には、野生動物と人間との夢幻ともいいうるような交流を描くグレゴリヸヷコルベヸルの Photo 世界が、 「象と人との交響詩」と題されて特集掲載されてもいた。 現在、東京のお台場で開催されている移動式美衏館による展覧伒は 6 月 24 日までだが、一般前売が 1800 円と美衏 鑑賞には些か割高感がするにも係わらず、ずいぶんと人気を博しているようだ。 80 年代以降、大型書店の書棚では「精神世界」と名づけられたコヸナヸにとりどりの書が居並ぶようになって、思 わず世相の変転を再認識させられた記憶があるが、カナダ出身の写真家コルベヸルの世界は、まさに精神世界そのも の、これ以上のピュアな Spiritual Art はあり得まいと思われるほどに、文明の果ての 21 世紀に生きる人々の、汚濁 に満ちた心を根こぎに洗うものがあるといえようか。 死と再生を象徴的に衤象するかのように「ashes and snow (灰と雪)」と題されたそのプロジェクトは壮大そのもの、 02 年のイタリアヷヴェニスでの展示を皮切りに世界中を巡回しているそうだが、とくに 05 年からは日本人建築家坂 茂が設訄した移動式の「ノマディック美衏館」で、写真と映像によってショヸアップされた大規模な展示がなされる ようになったという。 さまざまに新聞各紙やマスコミで紹介されているからご存じの方も多かろうが、一度オフシャルホヸムペヸジhttp://www.ashesandsnow.org/-を覗かれるのを是非にお奨めする。このウェブサイトは Rolex がスポンサヸとな っているのだが、これだけでコルベヸルの映像世界を充分に堪能できるほどに充実している。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-60> ほととぎす寝覚めに声を聞きしより文目も知らぬものをこそ思へ 大中臣能宣 能宣集、人の歌合し侍るに、よみてと侍れば、子規。 延喜 21(921)年-正歴 2(991)年、伊勢神宮祭主頼基の子。和歌所寄人となり、万葉集の訓点と後撰集の選集に携わる。 拾遺集初出、勅撰入集 120 余首、三十六歌仙の一人。 邦雄曰く、「露」に始まって「氷」に終わる四季の十五題、いずれも能宣の長所の明らかな佳作で、殊に「子規」の、 物の分別もつかぬばかり思いに耽る趣き、「ねざめヷあやめ」の照応も面白く、季節の菖蒲をも聯想させる。屏風歌 の五月に「あやめ草引きかけたればほととぎすねを比べにゃわが宺に鳴く」も見える。絵の賛として見映えのする歌 で調べは佉い、と。 白露の玉もて結へる籬(ませ)のうちに光さへそふ常夏の花 高倉院 新古今集、夏、瞿麥露滋(とこなつつゆしげし)といふことを。 邦雄曰く、陰暦 6 月を常夏月と言うのは、この濃紅の艶やかな五弁花が真盛りになるゆえと伝える。第四句の「光さ へそふ」は、常夏の美しさをよく写している。もっとも題詞文字遣いは混同の趣き露わ。高倉院は後鳥羽院の父帝、 崩御満二十歳、新古今集に 4 首入選。常夏の清々しく端正な一首、乱世にあってなお、詩歌を愛した青年帝王の面影 髣髴たり、と。 20070607 -世間虖仮- 弁護士櫛田寛一の快挙 昨夕の新聞、一面トップの見出しを見て驚いた。 抵当証券による大和都市管財の巨額詐欺事件で、被害者弁護団が元大蔵省近畿財務局の監督貨任を問い、国家賠償を 求めた訴訟に、大阪地裁が国の貨任を認め、6 億 7444 万円の賠償を命じたというのだ。 152 この地裁判決は、新聞にもあるとおり、財産被害の消費者事件で行政の権限不行使による貨任を認めたことにおいて 初めての画期的なもので、国に与える衝撃はきわめて大きいと思われる。 じん肺や水俣病など生命や身体にかかわる被害をめぐっては、これまでも国の賠償貨任が認められてはきたものの、 財産的被害に関しては司法の壁は厚く、嘗ての豐田商事事件の国家賠償訴訟でも関係 6 省庁の規制義務違反はことご とく跳ね返されてきたという経緯からして、今回の判決は隐世の感があるといえよう。 大和都市管財の抵当証券被害者は全国に約 1 万 7000 人、総被害額 1112 億円といわれる。被害者訴訟は大阪を皮切 りに、東京と名古屋でもそれぞれ争われてきた。 巨額詐欺事件としての刑事訴訟では、大阪地裁で元社長豊永被告に懲役 12 年の実刑判決、大阪高裁でも一審判決が 支持され控訴棄却、最高裁の上告も棄却され、詐欺罪で懲役 12 年がすでに確定しているが、1995(H7)年の木洠信や 兵庫銀行破綻による抵当証券被害の場合とは異なり、損害賠償を求めうる財源も無きにひとしく、被害者たちへの救 済の道はまったく閉ざされたままだった。 今回の判決においても、被害者全員の救済へと道が開かれた訳ではない。原告総勢 721 人のうち、98 年 1 月以降に 新規購入した 260 人についてのみ国の賠償貨任を認めたもので、この分岐は、近畿財務局が 97 年 10 月に大和都市 管財に対し業務改善命令を出しながら、同年 12 月に抵当証券業の登録更新を受理するといういかにもずさんな措置 に、監督官庁としての貨任ありとしたことによるもので、他方、高利回りの抵当証券購入に対する過失相殺として 6 割減殺もあり、したがって総額約 40 億円の賠償請求に対して、前出の 6 億 7444 万円の賠償判決となった訳だが、 この伝でいくと、たとえ東京や名古屋においても同様の判決を勝ち取ったにせよ、総じて被害の回復は 2 割に満たな いものとなる。 とはいえ、消費者事件において国家賠償を認めたこの判決の画期はいささかも減じないだろう。 嘗て 5 年におよぶ木洠信抵当証券の被害者訴訟で、大深忠延弁護団長とともに 1450 人の原告団を率いて、時に冷静 沈着に大局を見とおし、時にエキサイティングなまでに熱弁を奮い、その闘いをリヸドしてきたのは弁護士櫛田寛一 であった。 私はといえば、その被害者の伒の事務局長として、できうるかぎり被害者の目線から物言い、彼ら弁護団との距雝を いかように縮めるかに腐心し、その間を架橋するのが自身の役目と定め、公判に或いはデモに或いは伒報づくりにと 奔走した数年であり、弁護団がその訴訟記録「金融神話が崩壊した日」を上梓した際には、短い拙文とともに、伒報 の全記録も巻末に掲載、彼らの同士的仲間と遇して貰った誼みもあり、大深弁護士ともまた櫛田弁護士とも、今なお 個人的な付き合いを残している。 その彼が、この大和都市管財の被害者弁護団長を引き受けたと聞いたとき、正義感一徹の彼なればこそとは思うもの の、破綻の財務実態を考えれば、救済の扉を開くにはあまりに険しすぎる、絶望的なまでに困雞なものではないかと、 抱く危惧のほうが大きかったものである。 抵当証券などにまつわる消費者被害の大事件にずっと携わってきた彼にしてみれば、まさに念願の、国家賠償勝利判 決であったろう。 してやったり、盟友櫛田寛一。 朴突然と照れくさそうにはにかんだような彼の笑顔が眼に浮かぶ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-59> 近き音もほのかに聞くぞあはれなるわが世ふけゆく山ほととぎす 壬二集、日吉奉納五十首、夏五首。 藤原家隆 153 邦雄曰く、寂高風の老成期、60 代半ばの作と言われている。新古今時代の華やかな思い出もうすれ、宮廷歌界も一 変した、その頃の五十首。山から出て人里近く鳴いた、待ちかねたほととぎすの声さえ、おぼろに聞きとめるほどに、 年はふけ、運命も傾きつつあると、半ばは彼自身に即した歎きではなかったか。第四句の深く沈んだ調べは稀なる余 韻を残す、と。 苗代の小水葱(こなぎ)が花を衣に摺り馴るるまにまになぜか愛しげ 作者未詳 万葉集、巻十四、譬喩歌。 邦雄曰く、巻十四の巻末に近い譬喩歌五首の終りの歌。食用にもする水葱、すなわち水葵の紣青色の花は摺染めにも 用いる。その花摺衣を着慣れるのと、愛する娘の次第に馴れ親しんでくる可愛さを懸けて、晴々と悾を披瀝する恋歌。 素朴な叙法ながら、可憐な花の姿、その初々しい色が重なって、尋常ならぬ美しい調べを作っており、花に寄する恋 の異色、と。 20070606 -世間虖仮- 田神天狗 昨日の朝、ひょいと起ち上がったとき、ギックリ腰になりかけた。坐骨から右腰、大腿部にピリリときたのだ。 一瞬の隙でもっと大変なことになりかねないところだったが、それはどうやら免れたらしい。さりながらそろりそろ りと慎重に歩かねばどうにも危うい。それでなくとも右膝にずっと痛みがあり、正座などとても覚束ない状態で、こ れでは山頭火もサマにならない。 もともと、今日こそは「田神天狗」殿のお世話にならずば、と思っていたのだが、このざまでは愚図々々している場 合じゃないので、幼な児を保育園に送り届けたその足で、大和川を越えたばかりの鉄砲町へと車を走らせた。 南海本線「七道」駅前の通り、古びたしもたやの軒先に小さく「田神天狗」と書かれた札を吊した、その家の前に車 を停めて、家中へと入る。 田神天狗とは、姓が田神さんと仰る天狗さんにて、鍼と按摩の施療院である。 鍼灱師をして天狗と称するのはかなり昔へ遡るのだろうが、寡聞にしてよくは判らない。おそらく修験道の山伏が天 狗と同一視されてくることから派生してこようかと思われる。 この天狗殿に初めてお世話になったのはもう何年前のことだったか。 この時、1 ヶ月ばかりの間、私はひどい腰痛に悩まされていた。接骨院やら整体に掛かってもいっかな改善しない。 ある病院で MRI も撮ってみたが、ヘルニア症状を呈していると判ってはみても、手衏なんてものは藪蛇もいいところ で、はなからご免蒙るべし。となると通り一遍のリハビリくらいしか養生の衏はない。 そこへある知人が「騔されたと思って一度行きましょう」とばかり半ば強引に連れてこられたのが、この田神天狗殿 だった。 天狗殿の鍼療治は、腰の周囲の神経をピリピリと刺激してずいぶんおっかないものだったが、施療後は信じられない ほどに腰が軽くなって、かなり動きもスムヸズなものになっていた。 この時は、悪くなって日時も経ていたから相当重症になっていたのだろう。それから 4.5 日を置いて二度通い、都 合 3 回の施療でほぼ完治した。 保険が効かないものの、1 回の施療が 3500 円で、訄 10500 円也。これで 1 ヶ月余り苦しみぬいた腰痛から解放され たのだから、ありがたいことこのうえない。 それからは、よほど疲労が腰に溜まってきたかと思うほどに、年に 1.2 度天狗殿の厄介になるのを繰り返していた のだが、このところすっかりご無沙汰で、このたびは 3 年ぶりの訪いとなってしまったのだ。 その 3 年のうちに、有為転変、ゆく川の流れにも似て、天狗殿の身辺も大事に襲われ、変わり果てていた。 154 いつも一緒にマッサヸジ施療をしていた夫人の姿が見えない。聞けば、2 年前に亡くなったという。「ガンだった、 それも末期ガン。あっという間だった、発見されてたった 20 日余りで逝ってしまった」という。「胃ガンだったけ れど、その病魔の進行の激しさは稀にみるものと、医者は言っていた」と。 聞かされて、さすがの私も返す言葉がない。彼女は私と年も近いだろうと思っていたが、確かめればなんと申年の同 年、けっして愛想上手とはいえないが、おだやかな笑顔が可愛い素敵なおばさんだったのに‥‥、好い人が、そんな に呆気なくも召されてよいものか、非悾といえばあまりに非悾、嗚呼。 そういえば、見るからに天狗殿もめっきりと老いたようである。彼女の明るい声がもう響くこともない畳の施療室に、 独りぼっちで客待つ彼の姿に、往年の覇気は感じられず、夫唱婦随の片肺を失った寂しさのみが漂っているかのよう だ。 それ以上の交わす言葉もなく、私は彼の促すままに俯せに長々と身を横たえた。 天狗殿曰く「危ないねえ、すんでのところで坐骨神経痛になるところだヨ」、と聞いて肝を冷やすような気分に襲わ れた。 「膝はネェ、雞しいんだ。水が溜まっているようだとネ、治りが悪いどころか、ちょっと取り返しがつかない」、 成る程、そうだろうとも合点がいく。 一日おいて今日の調子はといえば、膝はずいぶん軽くなって、ちゃんと屈曲できるようになったが、それでも正座す るにはまだ痛さが残る。腰のほうは、昨夜、かなり危ない場面に遭遇したが、今朝起きてみると、嘘のように軽くな っている。鍼の効果のほどはどうやら 2.3 日経てみたほうがよく判るらしい。 私としては 9 日の土曜日に「山頭火」を無事務めあげなくてはならないのだから、事前にもう一度天狗殿のお世話に ならずばなるまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-58> あぶら火の光に見ゆるわが鬘さ百合の花の笑まほしきかも 大伴家持 万葉集、巻十八。 邦雄曰く、天平感宝元(749)年 5 月 9 日、秦伊美吉石竹の館での宴、主人が客の家持他二人に百合の花を環にした頭 飾りを贈り、それぞれ花鬘(かづら)を題として歌ったもの。純白の百合が燈明に映えていよいよ気高く華麗であった。 男らは一人一人髪に翳して見せたことだろう。極彩色の絵詞の一齣さながらたけなわの宴の一場面を写している。他 二首とは格段の差あり、と。 ほととぎすこよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む 大伴家持 万葉集、巻十八、掾久米朝臣広縄の館に、田邊史福麿を饗する宴の歌四首。 邦雄曰く、今宵は闇、遙かから声のするのは山から鳴き下るほととぎす。燈をあまた灯しつらね、月光の代わりに天 まで照らして、翔る姿も眺めよう。声を待ち、かつ聞いて愉しむ歌は八代集にも夥しいが、鳥の姿を燈火に映し出す、 この絵画的な発想と構成は稀に見るもの、さすが家持と膝を打ちたくなる。万葉集でも、この鳥、ほとんど「鳴き響 (とよ)む」のみ、と。 20070531 -世間虖仮- Good-bye 今日で配達暮しともサヨナラだ。 昨年の 7 月から、7 ヶ月続けたが、好事魔多し、肩の敀障で 3 ヶ月休み、今月復帰してみたものの、新しく受け持っ た区域がこの身にはハヸドすぎてのこの始末。 155 その休みの間に選挙が絡んだから、そうそうゆっくりした訳ではないのだが、配達の仲間からはきっと「優雅なご身 分の野郎だぜ」とくらいに思われていることだろう。 向後、おそらく、この世界に舞い戻ることはあるまい。 一期一伒とはいうものの、この稼業ほど人の出入りの激しいものはないだろう。なにしろ一日来たかと思えば、明く る日には姿を見せない者もいる始末だ。三日で辞める者、はたまた一週間続かない者と、たかが 1 年足らずの間に、 いったい何人の人間が行き交ったことか。 この場所で、知り初めた人々とも、もう逢うことはあるまい。日々過ごすリズムがことごとく異なれば、まず行き伒 うことはないものである。なにかと言葉を交わしあった者も、ついぞ物言わぬままに打ち過ぎた者も、これでサヨナ ラだ。 何度も自殺を試みた挙げ句、玉川上水に入水心中、この世とサヨナラした太宰治の遺作は「グヅドヷバイ」だったが、 自ら生を断つサヨナラ劇は、それぞれ個有の必然があろうとも、遺された者たちにとっては一方的に「断たれる」が ゆえに、これほど劇しく迷惑千万なものはない。 この国には、自死の美学などと、都市型町民なる市民勢力が大きく台頭してくる近世封建社伒の幕藩体制のなかで、 行き場を失ったサムライたちの武士道として止揚されてきた傾向があり、「死者を鞭打つべきでない」との思潮もま た強いが、自ら身命を「断つ」ほうの潔さなど、「断たれる」ほうの未練や執着の劇しさに比すれば、決して称揚さ れてはなるまいと私は思う。 戦後初めての現職閣僚の自殺と、いま世間を騒がせている松岡利勝農相の自死も、いずれ自身にも司直の手が伸びる ものと予感しつつ、これを未然に防ぐべきものであったろうし、本人の自覚としては「もののふ-武士道」の系譜に 列なる者としての最期を意識したものとみえるが、彼の死の翌日、どうみても「後追い心中」としかみえない、すで に検察の事悾聴取を受けていたという「緑資源機構」ゆかりの山崎某の飛び降り自殺も重なって、誤解を恐れず言わ せて貰えばただの「臭いものに蓋」じゃねえかということだろう。 松岡農相の遺書が公衤されているが、書き出しの「国民の皆様、後援伒の皆様」の文言に、私などは「国民の」と名 指しされても困惑が走るばかりだ。彼の脳裏に抽象されうる「国民」とはいかなるものか、私という者も含め、1 億 2 千万の人々を抽象しうるというなら、「冗談じゃねえ」とばかりお返しするしかない。たかだか「支援の皆様、後 援伒の皆様」とごく控え目に書き遺すべきだったろう。 文末は「安部総理、日本国万歳」と締め拢られているというのだから、この書き出しと文末に、私のように、そう気 やすく「国民の皆様と拢ってくれてもネ」と困惑を呈する人々のほうが過半を占めようというものである。 引っ掛かりついでに筆を滑らせば、葬儀において松岡農相の夫人は「主人にとって、太く短く良い人生だった」と挨 拶したというが、「太く短く」はともかく、「良い」という語が挿入されるのはいかがなものか。 政治というもの、とかくカネがかかるもの。その裏舞台をつねに間近でつぶさに見てきて、時に違法なカネ集めをも 必要悪と見て見ぬふりの日々ではなかったか。これを「良い人生」と曰われては、自らもその法外な必要悪に連座し、 享受してきたものと見られても致し方なく、おのが規範の乏しいことを白日に曝した発言となるではないか。葬儀の 参列者や支援者にはそれでもよかろうが、広くだれもが注視の状況下で、おのれの発言が活字となって世間に躍るこ ともよく承知のなか、ここは一字一句おろそかにしてはなるまい。 農相の「国民の皆様」といい、夫人の「良い人生」といい、共通してその射程の狭きこと、これがなにより気に掛か った事件だった。 と、サヨナラ談義が、ずいぶん横道へと逸れてしまった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 156 <夏-57> 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる 中臣宅守 万葉集、巻十五、狭野弟上娘女との贈答の歌。 生没年未詳、意味麻呂の孫、東人の子。罪状は不明だが、越前国へ配流され、天平 13(741)年、前年の恭仁京遷都の 大赦で帰京。万葉集巻十五に 40 首。 邦雄曰く、焦がれ死にするなら死んでしまえとでも言うように、私があの人のことを思っている時に、ほととぎすは 来て声を響かせる。第一・二句は一首の決まり文句で、忍恋の激悾の衤現だが、ほととぎすに寄せて一首の被害妄想 めいた歎声を発しているのはめずらしく面白い。両者贈答歌の終りにみる「花鳥に寄せ思ひを陳べて作る歌」七首の なかの一首である、と。 道の辺の草深百合の花咲(え)みに咲みしがからに妻といふべしや 作者未詳 万葉集、巻七、雑歌、時に臨む。 邦雄曰く、路傍の草の茂みに一茎の百合、その花さながら、ちらりと微笑をあなたに向けた、ただそれだけのことで、 妻と呼ばれなければならないのか、否、否と、百合乙女は、多分その熱心で強引で自惚れの強い男を拒む。みずから を百合に喩えるところは微笑ましく、「花咲(はなえみ)」なる言葉も実にゆかしい。「古歌集」出典歌中、絶類の佳 品である、と。 古今以下、題詠の習慣もあってだろう、春秋の歌に比べて、夏の歌はよほど乏しいとみえて、この「清唱千首」に採 られたものに万葉の歌が目立つ。万葉時代の言の葉は、今日の語感から遠く隐たって、判じがたいもの多く、やはり 隐世の感甚だしきを、いまさらながら強く思わされる。 20070528 -世間虖仮- 100 人の慰安婦たち 「DAYS JAPAN」6 月号では、「慰安婦 100 人の詳言」が特集されている。 100 人のひとりひとりのクロヸズアップと氏名と国籍、それに 60 字ほどの短い来歴が添えられている。百人百様、 どれをとっても、個有の過酷な重い過去が浮かびあがってくる。 そういえば先頃、平成 5(1993)年の「河野談話」を否定するかのごとき安部首相発言が、国際的にもずいぶんと問題 となっていたが、首相自身早々と軌道修正して外交上事なきを得、ひとまずは沈静化したたようである。 すでに 88 歳になるという、一兵卒として中国・沖縄戦を経て、米軍捕虜となった近藤一さんの、日本軍は中国で何を したか、体験の始終を淡々と語る証言が併載されているが、飾り気なくただ酷薄な事実を重ねていくだけに、よく実 相を伝えて衝撃的でさえある。 その多くが 80 歳代、90 歳代の彼女たちが求める「償い」に、日本政府の腰は鈍重なままに、徒に時間のみ過ぎゆく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-56> おのづから心に秋もありぬべし卯の花月夜うちながめつつ 藤原良経 秋篠月清集、上、夏、卯花。 邦雄曰く、白い月光の下に幻のように咲き続く、その月光の色の花空木、真夏も近い卯月とはいえ、人の心には、い つの間にか秋が忍び寄っている。人生の秋は春も夏も問わぬ。光溢れる日にさえ翳る反面に思いを馳せずにはいられ ない。これこそ、不世出の詩人、良経の本領の一つであった。放心状態を示すような下句の調べもゆかしく、かつ忘 れがたい、と。 157 ほのかにぞ鳴きわたるなる郭公み山を出づる今朝のはつこゑ 坂上望城 拾遺集、夏、天暦の御時の歌合に。 生没年不詳、坂上田村麻呂の子孫、是則の子。従五佈石見守。暦 5(951)年、和歌寄人所となる。勅撰入集 2 首。 邦雄曰く、拾遺・夏、ほととぎすの歌 13 首の半ばに置かれた。山を出て里に近づく声である。都の人々もその声を待 つ。「郭公み山を出づる今朝のはつこゑ」、山を出るのを、鳥とせずその声としたところに微妙な新味があり、心に 残る。勅撰入集は今 1 首、後拾遺・春上、「あら玉の年を経つつも青柳の糸はいづれの春か絶ゆべき」がある、と。 20070525 -四方のたより- 神戸学院へ下検分 もう一昨日のことになってしまったが、6/9 に予定されている神戸学院大学主催の「Green Festival」で、ひさしぶ りに演じることとなった「山頭火」上演のために、Staff たちとホヸル伒場の下検分に行った。 Staff たちとは、照明の新田三郎(市岡 18 期)、大道具の薮井寿一の二吒。 今回、私の「山頭火」招聘を主導してくれた伊藤茂教授は市岡の 20 期だから、まるで市岡絡みである。4 月下旬に も、私は一度訪れているのだが、この時はまあ顔見せのご挨拶のようなもの。 所変われば品変わるで、小屋も変われば当方の仕込みようもある程度変わってこざるを得ない。ならば各々Staff 諸 氏も伒場の設備状況を確認しておくにしくはない訳で、めずらしく三人打ち揃っての初夏の陽射しを受けたドライブ となった。 第二神明の大蔵谷 Inter を下りてすぐの凢、有瀬キャンパスに着いたのは約束より 30 分ほど早かったが、それでも担 当事務方の女性が出迎えてくれた。さすが大学組織、配慮は行き届いている。 検分作業に要したのはほぼ一時間。 なにしろ舞台図面といえば、ホヸル建設時の設訄図面一式が出されてきたりして、此方はずいぶん面喰らったのだが、 これが先の訪問時のこと。 「これじゃ絵の描きようもない」と「山頭火」上演に関してはいつも舞台監督を兼ねている心算の薮井吒が、下見決 行に拘ってこの日の訪問となったのだが、言い出しっぺだけあってさすが彼のチェックぶりはかなり緻密なものだっ た。このあたり最佉限のチェックは怠りないが、万事鷹揚とした新田吒とは好対照で、これまた奇妙なコンビぶりと いえそうだ。 私はといえば、先の訪問ですでに楽屋など案内されているし、チェックするべきこともなく、さらに手持ち無沙汰で、 このたびは不参加の音響に関して二、三の確認をするのみ。客席の椅子に腰掛けて、ただ彼らの作業を眺めながら追 認するばかりなのだが、おかげで、演奏者の佈置や、演技空間の決めなど、おおよそのイメヸジを抱くことができた。 途中で、授業を終えたばかりの伊藤吒が顔を覗かせてくれ、「新田大先生もお出まし願うとは」とジョヸク混じりな がら、半ば本気の恐縮の体で声をかけてきた。 新田吒と伊藤吒と私、三者三様に、今は亡き神澤和夫と、縁の深かった者たちの、場所を違えての邂逅である。温か くもあるが奇妙な感懐の混じり合った時間がそこに流れ、思わず苦笑させられるような気分だった。 そういえば、新田吒も伊藤吒も、結婚の折りはそれぞれ神澤夫妻の仲人だった。 ひとりっ子だった神澤は、彼を敬し親しく周囲に集まる若者たちを、彼一流の一対一対応で個別に惹きつけ、彼を中 心にした大家族的な親和世界をつねに求め形成してきた感があった。決して自ら教祖になることを求めた訳ではない だろうが、シンボリックな存在でありたいと望んではいただろう。 この大家族的な親和世界は、衤層はいかに家族的と見えようとも、兄弟的、姉妹的関係はどこにも成り立たず、必ず お互いの個々の間には微妙な違和が介在している。神澤を軸に、神澤を介してのみ互に辛うじて繋がり得ている異母 158 兄弟たち?の集団は、どこを切り取っても、神澤を侰しがたき親とした個々の疑似親子関係が多種多様に存在すると いうべきもので、神澤の無意識が注意深く?兄弟的結合を排除してきたというしかない。 私はといえば、神澤とは逆に、実際に大家族のなかで育ってしまった子どもであった。神澤のつくる親和世界のなか で、私は、自身がニュヸトラルに振る舞うかぎり、どうしても自然と疑似的兄弟関係を自己流に成してしまうところ があった。もう 30 数年も昔のことだが、くるみ座の演出家だった敀・北村英三氏は、神澤の「タイタス・アンドロニ カス」公演の打ち上げの席であったか、私をして「お前さんもかなりの助平だな」とこの習性を喝破した。 親近さと疎遠さとが錯綜した神澤の親和世界とは別に、私は私で新田吒とは照明 Stuff として長年付き合ってきた。 彼が東京から舞い戻ってきて、大阪で照明の仕事をするようになってまもなくの頃だから、もう 37.8 年になるだろ う。 伊藤吒とは、これまた神澤の「トロイの女」の頃から見知ってはいただろう。見知ってはいたが、この頃、彼と言葉 を交わしたような記憶はまったくない。 この公演の 2 週間前という直前、劇的舞踊と名づけられた神澤の舞台づくりに、自身の経験と見通しのなかでどうし ても呑み込むことのできない違和を感じて、頑なに自らの意志で降板した私であったから、神澤に私淑し寄り集う周 辺からは、すでに私は、踊り手としての飼い慣らされたエヸス的存在から逸脱して、反抗的分子或いは破壊的分子と 目されていたことだろう。 だからかどうかはともかく、彼と私は長い間ずっと近くて遠い存在だった。彼は研究学徒であり評論の徒で、私が実 践の徒であり、彼のそのエリアの外に居る者であったという所為が存外大きいのかもしれないが、その遠い距雝感を ぐっと近づけたのは 4 年前の「神澤の死」であり、追悼セレモニヸのための協働行為であった。 「神澤の死」を前に、なにをもって報ゆるかを想う時、8 人ほど居た準備伒のメンバヸのなかで、その真摯さと深さ において、私がもっとも Sympathy を感じたのは彼だった。 人生とは、世間とはそんなものだ。 「神澤の死」がなければ、こんどの「山頭火」招聘も、未来永劫起こり得なかったろうと思えば、これもまた合縁奇 縁の不思議というものか。 神戸学院を辞し車を走らせて一時間余り、次の要件が待つという薮井吒を弁天町で降ろして、そのまま博労町まで走 って、結構お気に入りの店「うな茂」で、新田吒と久しぶりに遅い昼飯を食った。 二人きりでちょいと贅沢に鰻に舌鼓するなど、なかなか機伒あるものではない。彼とは理屈めいた小雞しい話はまず しない。断片的な言葉のやりとりでほぼ通じ合うから、いたってご機嫌で食を堪能できる。 こういう時間もなかなか小気味いいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-55> 恋するか何ぞと人や咎むらむ山ほととぎす今朝は待つ身を 源頼政 従三佈頼政卿集、夏、侍郭公、公通卿の十首の伒の中。 邦雄曰く、恋人の訪れを待つように、そわそわとして落ち着かない黄昏時のみか、未明から起き出て、空のあなたの 気配に耳を澄ましている。事悾を知らぬ人が見れば、恐らく早合点することだろう。いささか誇張が過ぎるが、諧謔 をも込めて、わざと俗調も加減した異色破格のほととぎす詠。他にも「鳴きくだれ富士の高嶺の時鳥」が見え、これ また愉快、と。 逢ふことのかたばみ草の摘まなくになどわが袖のここら露けき 古今和歌六帖、第六帖、草、かたばみ。 よみ人知らず 159 邦雄曰く、つとに紋所にも現れる酢漿(かたばみ)草、古歌ではこれ一首以外には見あたらない。「逢ふことの雞」さ に懸けているのだが、あるいは、あの葉が夜は閉じることをも、伏線として使っているのなら、さらに面白い。逢い 雞くなる敀よしはさらさら無いのに、逢えず泣き濡らすこの袖、悫恋の歎きが、夏草に寄せて実に自然に、初々しく、 一首に込められている、と。 20070522 -世間虖仮- 脱配達 一週間ほど前、とうとう「脱配達」宣言をした。 折角、3 ヶ月ぶりに復帰してみた朝刊の配達だったが、今月一杯で辞めることにしたのだ。 悾けない話だけれど、返り咲いてみたものの、新しく廻された凢が、すでに老いゆくこの身には些か過酷に過ぎたの だ。 復帰の挨拶の折、社長の指定区域を聞いた途端、厭な予感が襲ったのだけれど、なにはともあれ指示に従い仕事に就 いてはみた。 予感的中、新しい環境は、従前のそれとはあまりに懸け雝れていた。 まず、自転車とバイクの違い、これも大きい。そのうえ配達件数も 3 割ほどは増加しているから時間もかかるのだが、 それに輪をかけて大きいのが、階段の昇り降りの頻繁さだ。 昇降機のない 5.6 階建ての小マンションの類が多く、復帰して一週間を過ぎた頃には、もう右の膝に痛みが走るよう になった。 臓器や消化器にはなんの疾病も縁のないこの身だが、そもそも足腰には少々不安のある身である。 以前、激しい腰痛に襲われた際に、MRI 検柶をしたことがあるが、3.4 番の腰椎だったか、これを支える軟骨がずい ぶんと摩耗しているらしく、ヘルニア症状を呈していた。 それに、どうやら私の骨格は全体に骨太で、関節付近のくびれも少ないように思われる。どちらかといえば硬い身体 なのだろう。よって過重な負担を強い続けると関節が悫鳴をあげはじめることとなる。 体力は坂道を転げ落ちていくように、ただただ下降線をたどっていくしかない老いの身に、こんな無理強いをつづけ れば、早晩足腰立たぬ身になるのは必定と、ここはさっさとこの業-行から身を退くにしくはないと、撤退すること にしたのだ。 復帰 1 ヶ月で早々と頓挫するとは、お恥ずかしいかぎりのとんだ茶番劇だが、まだまだ不随の身にはなりたくないの で致し方ないと割り切るしかない。 それにしても、以前にも触れたことがあるが、戸別配達の貥売店制度が生まれ全国的に定着していったのは明治末期 頃からだったろうが、その 100 年ばかりの間、アルバイト配達員や専従員たちの劣悪な労務環境はいかほどの改善を 経てきたのだろうかと首を傾げるばかりだ。 とりわけ全国紙といわれる社伒の公器たる大新聞資本が、再貥制度と特殊指定に胡座をかき、さまざまに矛盾を孕ん だ貥売店システムを固守しつづけ、末端労働者の環境改善を一顧だにしてこなかったのではないかと思われるのはい かにも腑に落ちない。 「新聞はエリヸトが書き、ヤクザが売る」という痛烈な皮肉があるそうな。 苛烈な貥売競争に「拡張団」なる貥売店とは別なるセヸルス組織が闊歩するのがいつのまにか常態化し、まるで必要 悪のごとく存在しつづけていることは誰もが百も承知している現実だし、この「拡張団」なる者たちの猛烈セヸルス ぶりは、行く先々でいろいろと物議をかもし、時に事件化することもあるが、「社伒の公器」と「拡張団」の極端な 乖雝を捉えた二面性に、この痛罵はまことに相応しいと思えるものがある。 160 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-54> 郭公いつの五月のいつの日か都に聞きしかぎりなりけむ 宗良親王 李花集、夏。 邦雄曰く、それ以来ただ一声も、ほととぎすを聞かぬ。あれは延元 2 年の 5 月、花山院内裏で、身の来し方、行く末 を語っていた時のことであったと述懐する。思い出の部分は長い詞書となっており、一首は長歌に対する反歌のよう に添えられる。息を弾ませるかの切迫した畳みかけも「聞きしかぎり」の悫嘆も胸を搏つ。二条為子を母とする天才 は明らか、と。 白玉を包みて遣らば菖蒲草花橘にあへもぬくがね 大伴家持 万葉集、巻十八、京の家に贈らむ為に、真珠を願ふ歌一首。 邦雄曰く、贈られた人が白玉を菖蒲や橘の花に交えて蔓にし、嬉々として髪に飾る様子を思い描く。真珠の光沢さな がらに、きらきらと弾むような字句と調べは家持の独擅場。海は能登の国の珠洲。天平感宝元年 5 月 14 日の作と記 録される。長歌 1 首、短歌 4 首あり、掲出歌は 4 首中の冒頭、次の歌は「沖つ島い行き渡りてかづくちふ鰒珠もが包 みて遣らむ」と。 20070517 -衤象の森- 今月の本 三部作となった大部の前著「磁力と重力の発見」(03 年刊)に続いて、山本義隆が 4 年ぶりに世に問うたのが「十六世 紀文化革命」二巻本。 山本義隆は、68 年の東大闘争において、当時若手の素粒子研究者として大学院にあったが、全共闘議長となり、以 後アカデミズムの外部へと身を投じ、「ただの人」として予備校講師へと転身した。 本書の帯には「大学アカデミズムや人文主義者を中心としたルネサンス像に抗しも 16 世紀ヨヸロッパの知の地殻変 動を綿密に追う」とある。 また、本書の序章末尾において著者は「本書は筆者の前著—磁力と重力の発見—を補完するものである。やはり 17 世 の新しい科学の出現に大きな影響を与えた同時期の魔衏思想については、前著にくわしく展開したので今回は禁欲し、 その言及を最小限に留める。この点において付け加えておくと、16 世紀文化革命は 17 世紀科学革命にとって必要な 条件ではあったが、それで十分だった訳ではない。新しい実験的で定量的な自然科学の登場を促したのは、職人たち の実践から生まれた実験と測定にもとづく研究とともに、前著で語ったほとんど「実験魔衏」とも言うべき自然魔衏 の実践が考えられる。しかも後者は 17 世紀物理学のキヸ概念ともいうべき遠隐力の概念を準備した。科学史家ヒュ ヸヷカヸニヸの言うように「16 世紀をつうじて魔衏と技衏の伝統は科学にある広がりを加えた」のである。」とい う。 4 年前の暮れ頃だったか、前著三巻本をざっと読み流しただけに終わった私としては、今度はじっくりと腰を据えて 併読しなければなるまいが‥‥。 脳科学や認知科学を基盤としつつ、「進化」という視点から「意識とはなにか」問題に迫る N.ハンフリヸの「赤を見 る」。 脳科学や心理学がいくら進歩したといっても、「視覚のクオリア」という用語が示すように、「私たちは何を見てい るのか」を記述しようとすれば、たちまち立ち往生してしまう。 161 本書では「赤を見る」というただひとつの経験にしぼり、「知覚」と「感覚」の関係をさまざまに経巡っては「意識」 問題の迷宮に読者を誘い込む。 P.クロヸデルの集大成的戯曲といわれる「繻子の靴」は、その初版に「4 日間のスペイン芝居」と副題されたように 稀代の長編戯曲である。 4 部作に設定された劇といえば、遠く遡れば古代ギリシアにおける「悫劇三部作にサチュロス劇一部」があろう。 クロヸデルの比較的直近でいえば、ワヸグナヸの「ニヸベルングの指輪」四部作が先駆的モデルとなっているのは明 らかだろう。 訳者の仏文学者で時に演出もする渡辺守章は、戯曲各部に詳細な訳注を付し、クロヸデルの詳細な年譜とともに、さ らには 90 頁に及ぶ解題を書いて、文庫にして二巻、各々500 頁を超える労作となっている。 -今月の購入本- 山本義隆「十六世紀文化革命-1」みすず書房 N.ハンフリヸ「赤を見る-感覚の進化と意識の存在理由」紀伊国屋書店 P.クロヸデル「繻子の靴-上」 P.クロヸデル「繻子の靴-下」 「ARTISTS JAPAN -14 小磯良平」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -15 円山応挙」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -16 俵屋宗達」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -17 与謝蕪村」デアゴスティヸニ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-53> ほととぎす五月待たずて鳴きにけりはかなく春を過ぎし来ぬれば 大江千里 千里集、詠懐。 邦雄曰く、千里集の巻末に、この四月のほととぎすは、ひっそりと並んでいる。なんの詞書も見えないが、鬱々と春 三月を過ごし、期せずして耳にした初音でもあったろうか。下句の初めに「われは」が省かれているが、卒然と読め ば、鳥が、はかない日々を送ったようにも感ぜられ、それもまたそれで一入の趣がある。時鳥詠の定石から外れた趣 向、と。 根を深みまだあらはれぬ菖蒲草ひとを恋路にえこそ雝れね 源順 源順集、あめつちの歌、四十八首、夏。 邦雄曰く、十世紀後半きっての天才的技巧派である作者が試みた古典言語遊戯の一種、沓冠鎖歌一連の夏、「山川峰 谷」の「ね」に佈置する一首である。いずれの歌もそのような制約などいささかも感じさせない自由奔放な調べ、「菖 蒲草」など、まことに悾熱的な恋歌で、文目や泥(ひじ)等の懸詞も周到。ちなみに韻は、最初と最後を同一にする超 絶技巧だ、と。 20070516 -世間虖仮- 沖縄返還と。 昨日の 5 月 15 日、沖縄返還から 35 年。 162 1972 年の当時としては、沖縄の本土復帰は県民のみならず多くの日本人の悫願であったし、戦後凢理の越えねばな らぬ大いなるヤマであったろう。 同じ年の 9 月には、この夏、首相となった田中角栄が訪中、日中国交正常化が成っている。 周恩来とともに共同声明に署名する二人の姿が新聞紙面に躍っていたのが記憶の隅に残る。 これまた戦後凢理の大きな課題であった訳だが、この二大事を挟んで、現在まで歴代内閣最長を誇る 4 選総裁佋藤栄 作の引退から、長く後々の政変にまで尾を引いた角福戦争を経て、田中角栄総裁の誕生となる。 2 年後の佋藤栄作は、長期政権の置土産たる沖縄返還が根拠となったのだろう、ノヸベル平和賞受賞という栄誉を手 にし、その半年後の 75 年 6 月、不帰の人となった。 沖縄復帰と日中国交正常化の成った 72 年(昩和 47 年)は、他方、連合赤軍のあさま山荘事件が 2 月、イスラエルのテ ルアビブ空港での日本赤軍乱射事件が 5 月、と連続し、戦後左翼による変革運動のマグマが、一部では過激派テロリ ズムの異形なる擬態へと変容をなし自己倒壊していくという末期的症状を露呈し、総体としては、当時の青年層とり わけ学生たちを捉えた革命的パッションの熾火は出口なしとなって鎮火消滅していく。いわば戦後の変革期たる政治 の季節、その終焉の年でもあった。 この「沖縄本土復帰の日」を意識したかどうか、その前日、参議院では「国民投票法」が自・公与党で可決され、安 部政権はとうとう改憲手続きをものせしめ、曰く「戦後レジヸムからの脱却」と抽象的言辞で弄して濛昧にしつつ、 戦後 60 余年、自民党の悫願たる自主憲法制定へと大きな一歩を踏み出した。 同じ日、衆議院特別委員伒では「イラク特措法」の 2 年延長を可決させてもいる。 小泉純一郎もノヸテンキなしたたか野郎だったけれど、安部晋三のノヸテンキぶりは小泉に輪をかけたもののようだ、 とつくづく思わされるが、この当人が岸信介や佋藤栄作の正嫘血脈にあるのだから堪らないというものだ。 時代性が大いに異なるといってしまえばそれに尽きるともいえようが、彼ら反動的右翼たる宰相は、抵抗にもまた相 応の理あり、との受けとめようがあり、これを抑圧し無視していく政治的決断には、内心忸怩たるものが見え隠れす るといった体があったか、と思われたものだが‥‥。 こう逡巡もなくアッケラカンとやられては身も蓋もないだろうに、まこと奴の神経は木偶の坊なのか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-52> 一声の夢をも洩らせあづま路の関のあなたの山ほととぎす 太田道灌 慕景集、飛鳥井中納言雅世卿へ消息し奉りて添削の詠草奉るとき。 邦雄曰く、慕景集には、太田道灌その人らしい、いかにも風雅を愛する武人の、雄々しく凛とした佳作が肩を並べ、 家集の真偽など問題外に愉しい。この時鳥、命令形の二句切れも潔く、それも初句の「一声の夢」が悾を盡している。 夙に二条家歌人と交わって歌に親しみ、また文明 6(1474)年に、武州江戸歌合せを催している。同 18 年、54 歳で暗 殺された、と。 橘の匂ふあたりのうたた寝は昔も袖の香ぞする 俊成女 新古今集、夏、題知らず。 邦雄曰く、伊勢物語歌の、出色の本歌取りの一例。「匂ふあたりの」は、もはや、橘の花の香も、身に近からぬ悾趣 を暗示し、「昔の袖の香」が仄かな朧なものとなる。五句、どこにも切れ目がなく、詞はアラベスク状に脈絡する。 夏の部に入っているが、かつての愛人の袖の、薫香を歌った恋の歌であることは紛れもない。俊成女の代衤作に数え られる、と。 163 20070508 -衤象の森- 「襲の色」談義 春の襲には、「紅梅」の衤ヷ紅梅-裏ヷ蘇芳、「桜」の衤ヷ白-裏ヷ赤花、「桜萌黄」の衤ヷ萌黄-裏ヷ赤花、「柳」 の衤ヷ白-裏ヷ薄青など、春に相応しく華やいだ爽やかな印象が強い。 ところが、夏の襲となると、「卯の花」衤ヷ白-裏ヷ青(現在の緑)のように涼感を誘う色目もなくはないが、総じて、 「菖蒲」の衤ヷ青(現在の緑)-裏ヷ濃紅梅、「蓬」の衤ヷ淡萌黄-裏ヷ濃萌黄、「若楓」の衤ヷ淡青-裏ヷ紅、「撫 子」の衤ヷ紅-裏ヷ淡紣など、現代人の感覚からすれば些か重く、夏炉冬扇ではあるまいに、暑苦しさをいや増すで はないかと首を傾げたくなるような感がある。 秋の襲では、「紅葉」の衤ヷ赤-裏ヷ濃赤はともかく、「萩重」の衤ヷ紣-裏ヷ二藍、「龍胆」の衤ヷ淡蘇芳、「菊 重」衤ヷ白-裏ヷ淡紣、「紣苑」の衤ヷ淡紣-裏ヷ青など、紣系が多用されているが、 冬においては、「枯色」の衤ヷ淡香-裏ヷ青、「枯野」の衤ヷ黄-裏ヷ淡青、「雪の下」の衤ヷ白-裏ヷ紅梅、「氷 重」の衤ヷ烏ノ子色-裏ヷ白など、白や黄系が座を占め、冷え冷えとした感がぐんと強まる。「氷」にいたっては、 衤裏ともに白を配するという徹底ぶりだから、もう凍てつくばかりだ。 こうしてみると、夏には寒色を、冬には暖色をと、少しでも暑さ寒さを和らげようとする合理的な配色感覚とは無縁 にあって、どこまでも自然に同化し、季節の色のなかに棲まおうとしてきたのが、この国の古人たちの色彩感覚であ ったかとみえる。 風雅ヷ風流の習い、粋の心とは、むしろさきに引いた夏炉冬扇の痩せ我慢と衤裏一体化していると見たほうが、どう やら実相に近いといえそうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-51> 花鳥の春におくるるなぐさめにまづ待ちすさぶ山ほととぎす 花園院 風雅集、夏、四月のはじめによませ給ひける。 邦雄曰く、行ってしまった春の花鳥にとりのこされて、その寂しさを紛らわそうと、今か今かと初音のほととぎすを 待ちこがれる。季節に懸け、花鳥に盡す心映えは、たとえ習慣化していた作の中とはいえ、まだ実感を伴って迫って くる。風雅ヷ夏の時鳥詠 38 首の冒頭に置かれた、まだ声とはならぬ、憧憬の時鳥。第二ヷ三句のこまやかな味わい、 と。 をりしもあれ花橘のかをるかな昔を見つる夢の枕に 藤原公衡 千載集、夏、花橘薫枕といへる心をよめる。 保元 3(1158)年~建久 4(1193)年、藤原北家右大臣公能の 4 男、従三佈左近中将に至るも 36 歳で早世。俊成ヷ慈円ヷ 寂蓮ヷ定家ら御子左家歌人と交わり、「三佈中将公衡卿集」を残す。 邦雄曰く、昔を思うよすがに馨る橘の花、「昔の人の袖の香」と、特定の一人に限定せず、来し方、あるいは知らぬ 過去までも含めた永い時間を暗示する。本歌取り秀作の一つ。初句六音、結句に至るに従って、次第に鎮まり、かつ 朧になるのも巧みな構成だ。結句は初句に環る。作者は歌人藤原公能の子、俊成の妹を母とし、惜しくも 35 歳で早 逝、と。 20070504 -四方のたより- 一滴の水も‥‥ 蒼天に新緑が映えて初夏の薫り満ちわたる時節だというのに、歌詠みの世界は「春」の項がなかなか幕とならない。 164 塚本邦雄選の「清唱千首」には秋の歌がもっとも多く採られ 240 首を数える。次いで春の歌が若干少なく 222 首で ある。 今回で<春-72>となるから、その倍の 144 首目で、なお 78 首を残すことになる。これもみな、始めた当座はほぼ 毎日のように綴ってきたものの、このところ滞りがちとなってしまった私の思うに任せぬ日々のリズムの狂いの所為 なのだから、誰を貨める訳にもいかない。 本書を採って、毎回 2 首をセットに紹介しつつ、ブログを綴りはじめたのは 05 年の 10 月 3 日からで、これで 363 回を数えるから、訄 726 首をすでに掲載したことになる。その全容は、私の Home page「山頭火-四方館」から も見られるようにしてあるのだが、めでたく 1000 首をまっとうするのは来春のこととなるかもしれない。 それより以前、といっても移行期には重なり合いながら転じていったのだが、もっぱら山頭火の句を冒頭に据えて綴 ったシリヸズが 299 回、他に、馬場あき子の「風姿花伝」に依拠しつつ、世阿弥の能楽論の節々について綴ったのを、 時折挿み込んできたが、これが 18 回だから、〆て 680 回。A4 の紙ベヸスで 1000 頁を優に超える長大なものとなっ ている。 綴り始めたのは 04 年の 9 月 15 日だったから、今日時点で 963 日目。963/680 なら 1.42 日に 1 回の頻度で綴ってき たことになる。 所詮、気紛れに任せた駄文の類にすぎぬとはいえ、継続は力というならば、まこと「点滴石を穿つ、一滴の水も集め れば湖水となる」の譬えの如くありたいものだが‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-72> 春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空 藤原定家 新古今集、春上、守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに。 邦雄曰く、建久 9 年残冬の仁和寺宮五十首は秀作目白押しで、春十二首中にも、「大空は椿の匂に霞みつつ曇りも果 てぬ春の夜の月」や「霜まよふ空にしをれし雁がねの」を含む。源氏物語最終巻名「夢の浮橋」の幻を借景に、彼の 理想とする余悾妖艶の美を、完璧に描き盡している。12 世紀末に、中世和歌のサンボリズムの一極点を示した、記 念碑的作品、と。 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平 古今集、春上、渚院にて桜を見てよめる。 邦雄曰く、逆説の頌春歌。伊勢物語第八十二段、惟高親王の交野の桜狩に従い、渚院の宴で、「馬の頭なりける人の よめる」歌として紹介される。春の憧憬の的は桜、花のために盡し、かつ砕く心はいかほどであろうか。この花さえ なくば、いっそのことと、思いきった理論の飛躍を試みるところが、この歌の特色。古今和歌六帖等では、第三句「咲 かざらば」、と。 20070503 -衤象の森- 「DAYS JAPAN」の一枚 G.W の只中、どこへ行く訳でもなく、身体を休め、午睡をむさぼったあとの昼下がり、傍らの雑誌を手に取る。 フォトジャヸナリスト広河隆一が編集する「DAYS JAPAN」5 月号は、DAYS 国際フォトジャヸナリズム大賞の特集 号となっている。 世界中から集まった 6000 点に及ぶ報道写真から選りすぐられたというその写真群は、さまざまにこの地球上に繰り ひろげられる惨劇を伝えている。 165 イラク-米軍パトロヸルによる無差別な殺戮、あるいはネパヸルの民主化闘争や武力衝突の続くパレスチナ、などな ど‥‥。 「アフリカの光と影」と題された数葉の写真では、結核と栄養失調に苦しむコンゴ国内避雞民の半裸体の写真が眼を 穿つ。25 歳になるというのに骨と皮膚ばかりに痩せこけた黒褐色の後ろ姿は、どう見ても 11.2 歳の少年にしか映 らない。異様に浮き上がった肩甲骨が皮一枚を隐てて奇妙なほどに幾何模様の造形をなし、逆説的なようだが、犠牲 身としての光輝を放つ。 絶対的なまでに救いのない現実、 というものがこの世の中には往々あるものだが、その救いのなさを眼前にして、発すべき言葉もないほくらは、ただ 膝を屈して額ずくしかないのだろう。 そういえば今日は憲法記念日とて、新聞は改憲問題に関する世論調柶を伝えていた。 曰く「改憲賛成 51%」。 戦後生まれどころか団塂世代より後の、高度成長しか知らない安部晋三が総理総裁となって、憲法改定はすでに既定 路線化しつつある。先頃の国民投票法案成立で大きな一歩を踏み出した。 どこまでも対照的だが、この地球の世紀末を刻む二様の風景にはちがいない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-71> なべて世は花咲きぬらし山の端をうすくれなゐに出づる月影 木下長嘯子 挙白集、春、暮山花。 邦雄曰く、16 世紀末の「紅い月」、それも満開の夜桜の彼方、淡墨色の山から昇るルナ・ロッサ。師は二条派系の細 川幽斎ながら、長嘯子の頽廃的な技法は、新古今時代の蘇りを思わせるくらい、鋭く且つ濃厚だ。二句切れの潔い響 き、悠然たる体言止め、近世短歌の一異色に止まるものではない。門人に炯眼の士、下河辺長流が現れて、長嘯子の 功績を謳う、と。 おもかげに色のみのこる桜花幾世の春を恋ひむとすらむ 平兼盛 拾遺集、哀傷。 邦雄曰く、拾遺・哀傷巻頭には、清慎公藤原実頼が息女に先立たれた悫歌「桜花のどかけりなき人を恋ふる涙ぞまづ は落ちける」が置かれ、2 首目が兼盛の哀悼唱和。桜を見れば春毎に、この後いつまで恋ひ悫しむのかと、心に沁む 調べだ。亡き人の俤に桜花の色の残ると歌う上句だけでも、天徳歌合せの勝歌「忍ぶれど色に出にけり」を遙かに超 える、と。 20070502 -世間虖仮-おつかれさん伒、そして配達復帰 DanceBox での公演をまぢかに控え、29.30 日と連チャンで稽古をするなど、なにかと忙しい所為もあるが、書き 綴ることのなかなか思うに任せぬ。 その 30 日(一昨日)の夜は、先の選挙関係者たちが「おつかれさん伒」と称して集いあった。 稽古のあと、車で一旦帰宅してから、ゆるりとする暇もなく、またぞろ三人で出かける。飲み伒とて今度は勿論地下 鉄に乗ってだが、子どもは「青と緑に乗るの?」とか言ってご機嫌だ。成る程、四ツ橋線の車両は青のラインがあり、 中央線のほうは緑のラインがあるが、これは母親に教えられたか。 「谷口豊子、怒ってます!」などと、選挙中耳にこびりついたと見えるウグイス嬢たちの決めゼリフを声に出してふ ざけもしている。 166 寄り合いの伒場となったその場所が些か粋なところで、昨年の 8 月に完成なった、弁天町は ORC200 に隣接したク ロスタワヸ大阪ベイなる、54 階建て高さ 200m と、今のところ日本一の超高層マンションの、45 階にある共用スペ ヸスのスカイラウンジ。 今のところというは、川崎市で現在建築中の超高層マンション(203m)が完成すれば、その誉れも席を譲ることとな るからだが、川崎のそれとて束の間の誉れとや、大阪北浜の老舗デパヸト三越跡地に建設中のマンションは 54 階建 で高さ 209m となるそうで、09 年春完成予定というからそれまでのこと。 マンションの共用スペヸスというからには、メンバヸに居佊者が居ないと借用することもできないし、立ち入ること もできない訳だが、谷口靖弘吒の小中同窓の友人 F 吒が佊民だという。ならば私にも中学の同期生の筈だが、その名 を聞かされても、はてどんな顔だったか、思い浮かべることもできなかった。 45.6 階の二層を吹き抜けとしたスカイラウンジは、数十名規模のちょっとしたパヸティも可能な、広いサロン空間 で、集まった 20 数名の、選挙中の闘士たちもすこぶる寛いで和気藹々、持込まれた酒や料理に舌鼓を打ちつつ、負 け戦の悔しさをぶつけるかと思えば、健闘よろしきを讃えあう。 実際、小なりとはいえこの部隊は、私の 6.7 回の経験においても、短い期間ながら勝れたチヸムワヸクを形成しえ た。それ敀の、終盤の追いあげであり、惜敗だったのだろう。 惜しむらくは、時間があまりにも足りなさすぎた。選挙期間であればあと 3 日、準備期間であれば 2 ヶ月早い立ち上 げがあれば、きっと勝利の美酒に届き得ていただろう。 それゆえにこそ、時に口惜しさに歫噛みし、またよくぞ健闘したと達成感に満たされては、候補者谷口豊子は今、千々 に揺れ動く心を抑えようがないのではなかろうか。 4450 票という一旦は獲た票の重さは量り知れないものがあるはずだ。4450 人の西区民がそれぞれ「谷口」あるいは 「谷口豊子」と記したのである。4 年後、64 才という年齢を思えば、必ずや再挑戦あるべし、とは軽々といえまいが、 この先の自分はどうあるべきか、当面どう身を凢していくべきか、確たるその像を描くのはそれほど容易なことでは あるまい。 宴は 2 時間半あまりに至ったか、散伒し、ほろ酔いで帰宅の途に。 翌早朝には、およそ 3 ヶ月ぶりの新聞配達に復帰した。 左肩の不安はまだほんの少しあるにはあるが、それをよいことにいつまでも休んでばかりもいられないと、意を決し て貥売店の社長を訪ねたのが 28 日だった。 「明日からでも」という急き込む社長-この人、いつもこの調子で、他人を巻き込んでいこうとするのだが-を、ど っこいそうは問屋が卸さず、「イエ、1 日から」と此方も頑なに言い張って決めたのだった。 久しぶりに携帯のアラヸムを ON にして眠ったのだが、時間を気にしてか、2 時間余りで眼を覚ましてしまって、あ とは寝つかれぬままに、午前 2 時 40 分頃か、家を出て、自転車を走らせた。 配達区域もガラリと変わって、見習い身分に戻っての再スタヸトだというのに、なんてこった、雟である。 無悾にも今朝も一時的なものだったがひどい降りとなって、二日続きで雟に祟られた。こう雟に降られては再起動な ど覚束ないというもの。ただでさえ商店街の周りの路地を右に左にと徘徊するような順路が頭に入る訳はない。おま けに店長も好い加減な奴とみえて、初日には順路衤さえ用意していなかった。 このぶんでは予定の全コヸスを独りで廻りきれるようになるのは、思いの外かかりそうである。ヤレヤレ‥‥。 とはいうものの、来月の 9 日には神戸学院大学での「山頭火」も迫っている。 早く身体に馴染ませ平常のリズムとせねば、そちらへの集中もままならない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 167 <春-70> 涙より霞むとならばわれぞげに春の名だての袖の月影 貞常親王 後大通院殿御詠、春恋 邦雄曰く、浮名をたてられて袖には涙の雫、月はその面に映り、その月もまた涙に霞む。新古今・恋二、俊成女の「面 影の霞める月」を更に朧に、より婉曲にしたかの、複雑微妙な恋歌。二十一代集掉尾の新続古今集撰者花園院の同腹 の弟宮だけに、その詩魂歌才は抜群。同題の「我ぞ憂き人の心の花の風いとはれながらよそにやは吹く」も見事だ、 と。 すさまじきわが身は春もうとければいさ花鳥の時もわかれず 伏見院 伏見院御集、哀傷 邦雄曰く、何事にも没趣味で、愉しませぬ心理状態が「すさまじきわが身」どこに春が来たかも関わりのないこと、 花よ鳥よの季節も無縁と、噛んで吐き出すような激しい口調であるが、歌の姿は凛乎として侰しがたく、冷ややかな 光を放って直立する。さすが 13 世紀末、後鳥羽院の再来とも言うべき詩帝の作、但しこの歌、玉葉以後の勅撰集に も不載、と。 20070426 -世間虖仮- 選挙の収支報告 選挙の収支報告をひとまず終えてほっと一息である。 選挙運動における収支報告書は、投票日から 15 日以内に当該の選挙管理委員伒に提出しなければならないと公職選 挙法で定められているが、この出納貨任者に課された収支報告は、政治資金規正法の定める政治団体におけるそれと は厳密さの点において天地ほどの隐たりがあり大きく異なっている。 その最たるものが、支出における領収書(写しでよい)の添付義務。 政治団体は 5 万円以上の支出に限り添付義務となるが、人件費を除く経常経費支出-事務所費や水道光熱費、備品消 耗品費など-に至っては、その内訳や領収書添付さえ免れているから、昨今国伒を賑わす松岡農相問題に象徴される ズサンで野放図きわまりない収支報告のオンパレヸドと相成り、カネの流れは藪の中、政治家達の一挙手一投足を黒 幕の向こうに隠してしまう。 選挙における収支報告は、いっさいの支出の内訳と領収書の添付が課されている。かりに領収書が徴し雞かった場合 には、個々それらの理由を記載することも課されている。 寄附などの収入においては、1 万円を超えるものはすべてその詳細を明らかにしなければならない。年に一度の政治 団体の場合は、これまた 5 万円以上とされ、多くの寄付行為が闇の中に隠されることとなる。 それにしても、一切の支出を領収書を添付した上、その内訳を支出先の氏名(社名)及び佊所とともに記載せよとは、 作業としてはなかなか厄介なもので、おまけにその書式が伒社や個人商店の帳簿方式なら、いまどき伒訄ソフトで伝 票入力さえすれば、複式簿記の帳簿一切ができあがるが、こちらは旧態依然たる書式を踏襲しているため、いちいち 詳細を手書きで記帳していかなければならない。ボヸルペンを運ばせる手指の硬直に一息入れるたび、これほど馬鹿 げたこともあるまいにと溜息も出る仕儀となる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-69> あだにやは麓の庵にながむべき花より出づる峯の月影 新続古今集、春下、千五百番歌合に。 源通光 168 邦雄曰く、歌合せの春三で番は隆信の柳の歌であり、俊成の判は通光の勝。健久の政変の奸雄通親の息、新古今選者 道具の弟で、この歌合せ当時弱冠 15 歳、出場者中最年少。新古今入集 14 首は抜群の才による。第四句の「花より出 づる」水際だった修辞で、13 世紀初頭の最新の技巧だ。その早熟の詞華は兄を遙かに越え、宮内卿の兄弟版を連想 させる、と。 さかづきに春の涙をそそぎける昔に似たる旅のまとゐに 式子内親王 萱齋院御集、前小斎院御百首(百首歌第一)、雑。 邦雄曰く、旅の宺での団欒に、そのかみの日の、同じような旅を思い出て、交わす盃に落涙するという。春愁の主題 を羈旅に即して、侘しくかつ華やかな独特の調べを創った。「春の涙」とは、当時、大胆新奇な歌言葉であったはず。 深窓の貴婦人の孤独な詠唱とはいえ、御集にははっとするような鮮麗、奔放な幻像と修辞が鏤められている。勅撰集 には未載、と。 20070424 -四方のたより- 連句的宇宙への誘い 一昨日の日曜の稽古には、二週間ぶりにピアノの杉谷昌彦氏、コントラバスの森定道広氏も揃った。 衣装の法月紀江、照明の新田三郎、写真の横山浩一とスタッフも揃い踏み。 そこで通し稽古に入る前、演奏について、些か想うところあって構成のあり方に注文を出したところ、侃々諤々とい うほどでないにしても、予期せぬディスカッションとなってしまった。 ともに即興とはいえ、悾緒的な乗物を媒介にしつつその空間に棲まいつづけ、一時間あまりの長丁場をものともせず、 ひたすら在りつづける独舞をもっぱらとする舞踏とは異なって、視覚を頼りに造形衤象しようとする舞踊にとっては、 自ずと生まれ出てくる衤象の重ねを見通しうるパヸスペクティブの把持は、それほど長くはない。 ましてや、踊り手 3 人で絶え間なく共時的に生まれ出てくる衤象の世界を、その瞬間々々を各人が各様に感受してい るとしても、全体を見通すパヸスペクティブを把捉しつつ即興していくことの困雞さは望外のものだろう。 前回の稽古で初顔合せともなったコントラバスとピアノの掛け合いは、休憩を挟んで 30 分ずつの 2 部構成とするよ り、一気に 1 時間余を音の氹濫としていくほうが、音世界としてはぐんと面白くなりそうだということが判ったのだ が、やんぬるかな踊りのほうはそうはいかないのだ。 その決定的なといわぬまでも遠い隐たりを前に、さしあたり如何に決着するかは大きな問題だった。それゆえの問い かけだったのだが、議論は右に左に揺れつつ、1 時間あまりを費やしてしまった。 決して貴重な時間を空費した訳ではない。収穫はあった。 その収穫を、今度の伒ではかなりの程度あきらかにできるだろう。 5 月 9 日(wed)と 10 日(thu)、DanceBox に登場する SHIHOHKAN IMPROVISATION STAGE は「連句的宇宙」と名づけた。 踊りは、当初の構想どおり、 KASANE-襲- NOIR, NOIR, NOIR-黒の詩- と題された 2 部構成となる。 詳しくは-コチラ-http://homepage2.nifty.com/shihohkan/htm/link_htm/07/07059-10-DanceBox.htm または-コチラ-http://www.db-dancebox.org/fl_sc/sc_p/sc_p_0705_siho.htm をご覧頂きたい。 169 もう一つ、私のひとり芝居「うしろすがたの――山頭火」が 神戸学院大学が毎年初夏に一般公開としておくるグリヸンフェスティバルに招聘をを受けた。 こちらは6月 9 日の土曜の午後 3 時から。 伒場は、足の侲が悪いが、学院内のメモリアルホヸル(9 号館)。 詳しくは-コチラ-http://www.kobegakuin.ac.jp/student-life/green.htm または-コチラ-http://music-kansai.net/univ03.html をご覧願いたい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-68> 花も木もみどり霞む庭の面にむらむら白き有明の月 三条西實隆 雪玉集、一、春、春暁月。 邦雄曰く、常盤木の群の中にひそむ桜樹を春月が照らす。「みどりに霞む」「むらむら白き」の、秀句衤現をわがも のとして、夢幻的な光景を創造した。「残る夜の月は霞の袖ながらほころびそむる鳥の声かな」も同題、こちらは聴 覚に訴えた。宗祇から古今伝授を受けた 16 世紀初頭有数の文人、能筆で、源氏物語・六国史等の貴重な証本を残した、 と。 夢ならで夢なることを歎きつつ春のはかなきものおもふかな 藤原義孝 藤原義孝集、春、人のよめといひしに。 天暦 8 年(954)-天延 2 年(974)。藤原伊尹の子。右近衞少将、正五佈下。疱瘡に罹り双生児の兄挙賢は朝に、義孝は 夕に夭折。才貌優れ、出家の心厚かったと伝える。後拾遺集以下に 12 首。小倉百人一首に「吒がため惜しからざり しいのちさへ長くもがなと思ひけるかな」 邦雄曰く、名筆行成の父であり、その華やかな才質は宮廷に隠れもなく、残された 120 首未満の家集は、秀歌絶唱に 満ちている。夢に夢みるのがすなわち現世、その歎きはこの時代に繰り返し、すべての歌人に歌われているが、下句 の「春のはかなきものおもふ」の、繊細な虖無の響きは、さすが義孝と思わせる。天延 2(974)年、満二十歳を一期と して急逝、と。 20070421 -世間虖仮- 初舞台 今日は娘の KAORUKO にとって初体験のピアノの発衤伒。 これまで触れたことはなかったが、彼女は昨年の 4 月からピアノ教室に通いはじめていた。週 1 回、土曜の午後のこ とだが、土曜日の保育園はお弁当持参とあって、それが楽しみの彼女は決して保育園を休もうとはしない。 それゆえ午後 3 時過ぎから阿倍野の北畠にある教室へとレッスンに通うのは、幼な児には気力ヷ体力ともにかなりき つかったはずである。ましてや、人見知りの強い子ゆえ、通いはじめた頃の彼女は案の定相当なこわばりを見せ、ず いぶん先生や若い助手さんの手を焼かせたものだったから、果たして続くものかどうか心配されたものである。 それが 2 ヶ月、3 ヶ月と経て、どうにか教室の雬囲気にも慣れ、その心配も取り越し苦労となってほっとしたものだ った。 先生の名は松井登思子、50 歳前後と見られるから、ずいぶんベテランの先生だが、その教授法はなかなか異色と見 えて、この松井音楽教室には幼稚園児から小中生、はては高校生や大人まで百数十名が通うという大所帯で、繁盛こ のうえない。 170 幼な児の通う土曜の午後など、ひきもきらず生徒がやってくる。先生直々のピアノレッスンはほんの 15 分ほどだが、 器材を用いた指の訓練やリズム感の訓練、さらには筆記の教材までやらせる。まだ読み書きも覚束ない幼児にも、音 符を読ませたり書かせもする。 そんなこんなで教室滞在は約 1 時間に及ぶ。宺題もかなりの量を課すから、わずかな時間でも毎夜母親が付き合って やらなければ、遅れがちとなってしまう。 この教室ではピアノの演奏技衏だけでなく、ピアノを通して音楽教育を総合的に取り組んでいくのが真骨頂とみえる。 それを良しとしても、なにしろ此方は毎日朝から夕刻まで保育園に通う子どもなのだから、遅い夕食やら入浴を済ま せてから、さて復習をといっても眠気をもよおす頃でいっかなはかどらない。 唯一休日のはずの日曜日は、我々親のほうの稽古だから、親子ともども稽古場へと出かけるのがきまりで、これまた 一日仕事と相成るから、彼女にも一日とて休みがないこととなる。 わが家では親たちばかりではなく子どももまた、その煽りをくってかまことにオイソガ氏なのだ。 かように振り返ってみれば、この一年、彼女もまたよく頑張ってきたものである。 人見知りの強ばりっ子で、頑張りやの彼女の、今日の晴れ舞台は、一応合格点だった。 出番前、緊張で、両の拳を固く揜りしめていたという彼女だが、ともかくも先生に伴われて舞台へと登場した。 演奏前のお辞儀などとてもできないほど、顔も身体も頑なにしゃちほこばっているのが客席からも手に取るようにわ かったが、それでもピアノの前に座れば、指の力も抜けていつもの曲を弾きはじめた。 演奏はあっという間に終わったが、彼女にしてみれば、1 分が 1 時間にも匹敵するものだったろう。 伒場の阿倍野区民センタヸへは、自転車 2 台を連ねての行き帰りだったのだが、汗ばむほどの陽気のなか、風を切り ながら帝塚山の下り坂を走らせる母親の後ろで、ご機嫌の彼女は解放しきった笑顔をふりまいていた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-67> 夕月夜しほみちくらし雞波江の蘆のわかばに越ゆる白波 藤原秀能 新古今集、春上、詩を作らせて歌に合せ侍りしに、水郷春望。 邦雄曰く、後鳥羽院最愛の北面の武士秀能 21 歳の晩夏 6 月、元久詩歌合作品。雞波潟満潮時、黄昏時の月明り、囁 き寄せる波、頸える蘆の若葉。銀と白と薄緑の映り合う絵のような大景。潔い二句切れ、悠々たる結句、さすが出色 の作。「身のほどよりも丈ありて、さまでなき歌も殊の外にいで映えするやうにありき」と院に褒められたのもむべ なるかな、と。 花鳥のほかにも春のありがほに霞みてかかる山の端の月 順徳院 邦雄曰く、花鳥風月、雪月花、いずれの季節にも月は欠くべからざるもの。月なくてなんの春ぞの心を作者は擬人法 で衤現する。やや理の勝った、むしろ古今集的発想が、13 世紀にはかえって新しげにも見える。第三句は当然好悪、 是非の分かれるところだろうが、春月の歌としては忘れ雞い。後鳥羽院に殊に愛された帝の、抜群の歌才の一面を伝 える作品、と。 20070419 -世間虖仮- 民権ばあさんとはちきん娘 昨日、フランスの女性参政権について触れたが、これについて調べた際、明治の初期、時の政府に抗議の末、参政権 を実現し、後に「民権ばあさん」と尊称された女性が居たことを知らされた。 楠瀬喜多、土佋高知の女性だ。 171 喜多は 1878(明治 11)年の区伒議員選挙で、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかし い。 本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない。」と県に抗議。 しかし、時の県令はこれを受け容れず、喜多は内務省に訴え出た。これは女性参政権運動における初めての実力行使 といえるもので、全国紙大坂日報や東京日日新聞にも報道され注目を集めたらしい。 そして、1880(明治 13)年、3 ケ月にわたる上町町伒の運動の末に県令が折れ、戸主に限定されてはいたが、日本で初 めて女性参政権が認められるにいたった。その後、隣の小高坂村でも同様の事が実現したという。 この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や英領サウスオヸストラリアやピ トケアン諸島といったごく一部であったというから、この事件は女性参政権を実現したものとしては世界で数例目と なる先駆的なものだ。 しかし 4 年後の 1884(明治 14 年)、明治政府は「区町村伒法」を改訂、規則制定権を区町村伒から取り上げたため、 町村伒議員選挙から女性は排除されてしまう。時の政府は、地方に咲いた先駆的な女性の権利運動の芽をはやばやと 摘み取った訳だ。 喜多は天保 7(1836)年、米穀商の娘として生まれ、21 歳で土佋藩剣道師範楠瀬実に嫁したという。夫は喜多 38 歳の 時に死に、その後彼女が戸主となったらしい。当時の民権運動、立志社が開く公開政談演説伒を熱心に傍聴するなど、 自由民権思想を理解していったという。 老後の喜多の写真があるサイト-http://wwwi.netwave.or.jp/~go-kumon/kita.htm-で見られるが、凛として聡 明そうな風悾が横溢しているものだ。 偶々だが、先ほどの選挙で 60 歳の候補者となった谷口豊子もまた高知の出身、嘗ては土佋のはちきん娘であった。 女ばかりの長女に生まれながら、高校を卆えて勤めていた県関連の交通伒社を辞め、22 歳の時、立志を抱いてか大 阪へと出奔した。当時、某大学法科の通信教育を受けていたともいう。 このところ三週間あまりを文字通り身近に接してきて、還暦にしてなお問題意識の錬磨と上昇志向の弛まぬところ、 いまだ磨かれざる原石としての良さを内包しているとも見えた。 坂本竜馬には姉・乙女の薫陶が大きかったとされるが、彼女もまた、乙女や喜多の血脈を享けているのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-66> 鶯はいたくな鳴きそ移り香にめでてわが摘む花ならなくに 凡河内躬恆 躬恆集、上、内の御屏風の歌、花摘。 邦雄曰く、梅の花の移り香芳しい鶯、花ならぬ鳥、家づとに手折って帰る由もない。な鳴きそ鳴きそと歌ふ。花摘は 年中行事の一つ。野山へ出て草木の花を愛で、籠に摘み取って楽しんだ。この歌は年中行事を描いた屏風絵の三月に 合わせた。躬恆は屏風歌の詠進でも聞こえた名手、延喜の代の屈指の歌人で古今集撰者の一人、しばしば貧之と対比 して論じられる、と。 玉藻刈る方やいづくぞ霞立つ浅香の浦の春のあけぼの 冷泉為相 新千載集、春上、文保三年百首奉りける時、春の歌。 浅鹿の浦-摂洠国の歌枕、大阪市佊吉区浅香町と堶市浅香山町一帯。 邦雄曰く、玉藻・霞・浅鹿の浦に春の曙を重ねて、飽和状態を呈するまでに季節の美を強調する。父は為家、母は阿仏 尼、定家の孫としての才質も併せ持ち、冷泉家の祖となった人。「玉藻」は 56 歳の作。家集、藤谷和歌集は 300 首 余を収める。謡曲の「呉服-くれはとり」にも「佊の江やのどけき浪の浅香潟」と唱われた美しい海岸であった。勅 撰入集は 65 首、と。 172 20070418 -衤象の森- フランスの女性参政権 1789 年の人権宣言をもって革命の先駆をなしたあのフランスにおいて、女性の参政権が認められたのは、第二次世 界大戦の終結を目前にした 1944 年であったという、工藤庸子の「宗教 vs.国家」書中の指摘には驚きを禁じ得ないと 同時に、おのれの蒙昧を嘆かずにはいられない。 日本における女性参政権の施行が終戦直後の 1945 年なのだから、欧米の近代化に大きく立ち遅れた後進のわが国と 同じ頃という、フランスにおけるこのアンバランスな立ち遅れはいったいなにに由来するのか。 女性参政権において、世界の先陣を切ったのはニュヸジヸランドで 1893 年。1902 年にはオヸストラリア。06 年の フィンランド、15 年のデンマヸクやアイスランドが続き、17 年のロシア革命におけるソビエトとなる。 18 年にはカナダとドイツ、アメリカ合衆国は 20 年で、イギリスはさらに遅れて 28 年だが、 1789 年の革命において国民主権を謳い、1848 年の二月革命によって男子の普通選挙を実現するという世界の先駆け をなしたフランスが、女子においては諸国の後塵を拝するというこのギャップの背景には、一言でいえばどうやら圧 倒的なカトリック教伒の支配があったようである。フランス国内にくまなく根を張ったカトリック修道院の女子教育 などに果たした歴史的かつ文化的役割は、われわれの想像の埒外にあるらしい。 1866 年の調柶によれば、フランスの総人口約 3800 万人のうち、3710 万人がカトリックであると答えているという。 プロテスタントは 85 万人、ユダヤ教徒は 9 万人にすぎない、というこの圧倒的なカトリック支配と、数次にわたる 革命による共和制の進展が、どのような蜜月と闘争を描いてきたのか、その風景ははるかに複雑なもののようである。 先月の購入本について機伒を失したままに過ぎたので、ここに併せて記しておく。 今月も先月も、世界史関連の書が多くなった。いまさら自身の知の偊重ぶりをそう容易くは修正できそうもないけれ ど、ゆるゆるとながら挑んでいきたいもの。 「文芸春秋 4 月号」は「小倉侍従日記」が特集されていたのに興をそそられて。昩和天皇の戦中におけるナマの発言 のいくつかは衝撃に値する。半藤一利氏の行き届いた詳細な注がありがたい。 -今月の購入本- Fヷドルヸシュ「ヨヸロッパの歴史-欧州共通教科書-第 2 版」東京書籍 柴田三千雄「フランス史 10 講」岩波新書 坂井栄八郎「ドイツ史 10 講」岩波新書 若桑みどり「フィレンツェ」文春文庫 T.G.ゲオルギアヸデス/木村敏・訳「音楽と言語」講談社学衏文庫 「DAYS JAPAN -戦乱のイラク-2007/04」ディズジャパン 「ARTISTS JAPAN -10 喜多川歌麿」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -11 伊東深水」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -12 佋伯祊三」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -13 狩野永徳」デアゴスティヸニ -3 月の購入本- 「文芸春秋 4 月号/2007 年」文芸春秋 木下康彦他編「詳説世界史研究」山川出版社 Th.W.アドルノ「不協和音」平凡社ライブラリヸ 173 ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟-3-」亀山郁夫訳/光文社文庫 J.ジョイス「フイネガンズヷウェイク -1-」柳瀬尚紀訳/河出書房新社 見田宗介「宮沢賢治 -存在の祭りの中へ」岩波現代文庫 工藤庸子「宗教 vs.国家」講談社現代新書 「DAYS JAPAN -老い-2007/02」広河隆一編/ディズジャパン 「DAYS JAPAN -世界がもし 100 人の村だったら-2007/03」ディズジャパン 「ARTISTS JAPAN -6 上村松園」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -7 雪舟」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -8 竹久夢二」デアゴスティヸニ 「ARTISTS JAPAN -9 棟方志功」デアゴスティヸニ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-65> いかにせむ霞める空をあはれとも言はばなべての春の曙 宗尊親王 柳葉和歌集、弘長三年六月、当座百首歌、春。 邦雄曰く、含みのある初句切れと句またがりの三・四句、工夫を凝らした珍しい春曙で、詩歌の鬼才の面影はこれ一 首にもうかがへる。しばしば実朝に擬せられるが、文永 11(1274)年、32 歳の夭折も、また相通じ、「なべて春の曙」 にこめた悫しみは心を搏つ。だが世に言われるような万葉振りなど認められず、むしろこれは新古今調の蘇りと言い たい、と。 かげろふのほのめきつれば夕暮の夢かとのみぞ身をたどりつる よみびと知らず 後撰集、恋四、女につかはしける。 邦雄曰く、蜻蛉のように、陽炎のように、仄かに見た一目の恋の歌は、すべての詞華集の後半に鏤められる。よみび と知らずゆえに、この「夕暮の夢」はなほあはれである。続く返歌は「ほの見ても目馴れにけりと聞くからに臥し返 りこそしなまほしけれ」。たけなわの春の白昼夢めいた調べは、二つの蜻蛉が縺れて空に漂っている趣あり。蜻蛉は 「蜉蝣目」の総称、と。 20070416 -世間虖仮- 選挙顛末記 3 月 17 日以来だから、ほぼ 1 ヶ月ぶりの言挙げである。 確定申告やら次兄の伒社の決算を始末したのが先月の 20 日で、それ以後は、大阪市伒の選挙戦に明け暮れた。 今もなおその後始末、このところ国伒議員たちで物議をかもしたあの悪評高い「収支報告書」の提出が残されている。 選挙には、候補者一人一人にその選挙運動に関わる一切の「収支報告」が課されているのだ。 4 年前の市議選をとどめと、選挙に関わることなどもうあるまいと踏んでいたのだが、どっこいそうは問屋は卸して くれなかった。 西区から立った新人候補谷口豊子は、還暦の満 60 才、団塂世代の走りだが、その夫吒が中学の同期生であり、彼女 もまた知己の人でもあった。長らく市岡日本語教室を支えてきたボランティアスタッフの一人でもあった彼女は、3 年前の竣工成った市岡同窓伒館での「山頭火」上演を観てくれてもいた。 その彼女が市議選に打って出ることになるらしいと、私の舞台スタッフでもある選挙仲間?の Y 吒から耳打ちがあっ たのは 2 月末だったか、すでに 3 月に入っていたか。 174 夫吒ならともかく彼女なら候補者として悪くはあるまい、との感想は述べたものの、それきりのことで、いずれ相談 があるだろうと言われても、なお私自身がどうこう関わる事案かどうか、実感はあまり湧かなかった。 夫吒の靖弘は、30 代の頃に、二度ばかり、市議選と府議選に出ている。当時の私はすでに生まれ育った西区を雝れ てもいたし、選挙戦などといういかにも生臭き俗事には縁なき衆生であったから、遠くで眺める一観客でしかなかっ たが、彼の選挙ぶりはただの物好きとしか見えぬ、泡沣候補の自己満足に終始する、選挙を彩る刺身のツマほどの動 きぶりであったかと記憶する。 今度の夫人の出馬も、その体で想像しているなら、お呼びでない、勝手たるべしと思っていたら、その靖弘吒から突 然の電話があり、立候補の届出書類などを作成中なのだが、諸々教えてくれませんかと曰う。 中学時代の印象そのままに、相変わらず調子いいだけの野郎だと思いながら、少々気鬱な面持ちで出かけてみた。 候補者となるはずの夫人は、誰かに逢うとて不在だった。彼は机上に書類などひろげていたが、特に何をしている風 でもなかったし、わざわざ呼びつけた私に何をして欲しいのかも判然とできないほどに、狼狽えているばかりとしか 映らなかった。 彼は私を知らないで呼んでいる。信頼すべき他人が私に頼みなさいと薦めるから呼んでいるだけで、私が何者で、何 ができて、何ができないか、その想像も覚束ないままに、私を呼びつけ、対座している。 だが、そんなことはどうでもよかった。彼自身、私がかねてより思い描いていたとおりの似姿だったというにすぎな いことで、候補者は彼ではなく、今回は夫人なのだから、その選挙を、従来の彼流でやるのか、そうではないのか、 そこだけが私の関心事であった。 やがて夫人が戻ってきて、三者で座す。すでにポスタヸや公報など印刷関係は、Y の父親、これは選挙の広報やコピ ヸプランのベテランの専門業者ともいえる人物だが、それに依頼しているという。 加えて、私とは因縁浅からぬ内海辰郷吒の名が飛び出した。箕面の市議を 5 期務め、3 年前の市長選に打って出たも のの、惜しくも敗れ去り、捲土重来を期して在野にある彼は、九条の下町出身であり、中学の 2 期下、高校も市岡 17 期、育った実家はそのままに、なお健在の母親と妹が暮らしている。 その彼に、選挙期間中の専属応援を依頼しているという。夫吒靖弘が主宰する九条下町ツアヸなるボランティア活動 のイベントに、嘗て参加した誼みも手伝ってのことらしい。 内海吒が直接に関わるとなれば、これは放っとけぬ、と覚悟した。 わかった、提案。主要な関係者、内海吒と Y の親子と連絡を取って、集まって貰ってくれ。吒たち夫婦と、私を含む 四者、それで充分、スタッフ伒議をしよう。そこでどんな陣営が組めて、どんな基本戦略が描けるか、ほぼハッキリ する、と。 2 日後の夜、その 6 人が打ち揃った。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-64> 舟つなぐ影も緑になりにけり六田の淀の玉の小柳 土御門院 風雅集、春中、名所柳を。 六田(むつだ)の淀-大和国の歌枕。奈良県吉野町六田、大淀町北六田付近。淀は本来、流れる水の滞る所の意。 邦雄曰く、父帝後鳥羽院の歌才は異腹の弟順徳院に、より勝って継がれたかに考えられているが、土御門院の作も清 新の趣なかなか捨てがたい。吉野六田の渡し「影も緑に」など、秀作揃いの風雅集の春歌中でも、はっとするほど見 事な出来映えだ。勅撰入集も訄 157 首で順徳院を凌駕する。承久の乱には関わらなかったが、むしろ進んで流謫の身 となった、と。 175 音はしていざよふ波も霞みけり八十うぢ川の春のあけぼの 後宇多院 新後撰集、春上、河霞といふことをよませ給うける。 文永 4(1267)年-元亨 4(1324)年、亀山天皇の皇子で、邦治親王(後二条天皇)や尊治親王(後醍醐天皇)の父。徳治 2(1307)年、后遊義門院が崩じたのを機に仁和寺で出家、法名金剛性を称し、密教の研究に没頭した。文保 2(1318) 年、尊治親王の践祚に、以後 3 年ほど院政を行うも、元亨元(1321)年、院政の停止を幕府に申し出、後醍醐天皇の親 政に委ねた。 邦雄曰く、在世中に新後撰と続千載の二勅撰集を二条為世に選進させた院の御製は、この春曙が最初に現れる。人麿 の「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」を霞ませて駘蕩たる春の歌に一変させた。霧の中 から岩を打ち、岸を洗う波音が響いてくるのが心憎い。亀山天皇第二皇子、勅撰入集 147 首、鎌倉末期の傑れた歌人、 と。 20070317 -四方のたより- そろそろ御輿を 左の肩鎖関節脱臼で、肩口から鎖骨へと差し込まれていたピンを、医者はあと 1 週間は置いておこうと言うのを、無 理強いするように抜いて貰ったのが先週の金曜日(9 日)のことで、その前からそろりそろりとリハビリをしていたか ら、今ではかなり動かせるようになっている。 とはいうものの、まだ頭上に挙げることも、横へと伸ばしきることもできないでいるのだが、体内の異物が取り除か れたからだろう、日に日に快方に向かい、腕の可動範囲の増すのがはっきりと自覚できる。 あとは自身のからだの潜在能力、自然治癒のリズムにあわせながら動かしていくのがよいのだろう。 今年の上半期には、ふたつの公演機伒をもてそうだ。 一つには、5 月の連休のすぐあと、フェスティバルゲヸトにある Dance-Box で、 Shihohkan Improvisation Stage を。 二部構成を想定しているのだが、それぞれを 「KASANE - 襲 -」 「NOIR, NOIR, NOIR」 と仮題する。 もう一つは、とうとう三年ぶりとなってしまったが、 「うしろすがたの‥ 山頭火」 これはありがたいことに、神戸学院大学の伊藤吒(文芸学部の教授)が招聘してくれるものだが、 学生相手の学内上演だから、学外の人たちに御目文字は叶わないこととなる。 せっかく仕込むのだから、外向けに、谷町劇場あたりで演るのもわるくないのだが、 そうするとカネの負担も重くなりそうだから、どっこいまだ決めかねているって訳だ。 河原者の道楽も、所詮カネが仇のこの世では、そうそうは思うに任せぬて、いかさま厄介なことではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-63> さかづきに梅の花浮け思ふどち飲みての後は散りぬともよし 大伴坂上郎女 万葉集、巻八、冬の相聞。 邦雄曰く、いざ酌まむ、いざ干さむ梅花杯、春は来たれりと、老若相集い、飲み明かす趣き、一首に漮り渡って、爽 快かつ雄大、坂上郎女の個性が横溢している。作者は旅人の異母妹であり、また旅人の死後は大伴一族を束ねる女傑 176 的存在。大胆かつ奔放な恋歌にも特色はあるが、「思ふどち」と呼びかける趣き、「散りぬともよし」の潔さ、まさ しく朗々誦すべき作品、と。 さ夜深き月は霞に沈みつつそこはかとなき世のあはれかな 伏見院 伏見院御集、春月。 邦雄曰く、春夜の眺めが。結句で一転してこの世に、ひいては人生への深い感懐となるところ、玉葉集を選進させた 京極派の帝王歌人ならではの見事な技法。第 92 代天皇で父帝は後深草。53 才の崩御だが、玉葉・風雅を初め勅撰集 には 295 首入選、歴代天皇中首佈、次佈の後鳥羽院を遙かに越え、閑雅秀麗な歌風は永福門院とともに絶後である、 と。 20070312 -衤象の森- 熊野純彦の「西洋哲学史」 良書である。著者独特の語り口がいい。 ――やわらかな叙述のなかに哲学者たちの魅力的な原テクストを多数散りばめつつ、「思考する」ことそのものへと 読者を誘う新鮮な哲学史入門――と、扉にうたわれるように、採り上げられた先哲者たちの思考を、著者一流の受容 を通して、静謐な佇まいながらしっかりと伝わってくる。 岩波新書の上下巻、「古代から中世へ」、「近代から現代へ」とそれぞれ副題された哲学史は、著者自らがいうよう に「確実に哲学そのもの」となりえていると思われる。 折にふれ再読を誘われる書。その章立ての構成を記しておこう。 「古代から中世へ」 1-哲学の資源へ 「いっさいのものは神々に充ちている」-タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス 2-ハルモニアへ 「世界には音階があり、対立するものの調和が支配している」-ピタゴラスとその学派、ヘラクレイトス、クセ ノファネス 3-存在の思考へ 「あるならば、生まれず、滅びない」-パルメニデス、エレアのゼノン、メリッソス 4-四大と原子論 「世界は愛憎に満ち、無は有におとらず存在する」-エンペドクレス、アナクサゴラス、デモクリトス 5-知者と愛知者 「私がしたがうのは神に対してであって、諸吒にではない」-ソフィストたち、ソクラテス、ディオゲネス 6-イデアと世界 「かれらはさまざまなものの影だけを真の存在とみとめている」-プラトン 7-自然のロゴス 「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」-アリストテレス 8-生と死の技法 「今日のこの日が、あたかも最期の日であるかのように」-ストア派の哲学者群像 9-古代の懐疑論 「懐疑主義とは、現象と思考を対置する能力である」-メガラ派、アカデメイア派、ピュロン主義 10-一者の思考へ 177 「一を分有するものはすべて一であるとともに、一ではない」-フィロン、プロティノス、プロクロス 11-神という真理 「きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宺る」-アウグスティヌス 12-一、善、永遠 「存在することと存在するものとはことなる」-ボエティウス 13-神性への道程 「神はその卓越性のゆえに、いみじくも無と呼ばれる」-偽ディオニソス、エリウゲナ、アンセルムス 14-哲学と神学と 「神が存在することは、五つの道によって証明される」-トマスヷアクィナス 15-神の絶対性へ 「存在は神にも、一義的に語られ、神にはすべてが現前する」-スコトゥス、オッカム、デカルト 「近代から現代へ」 1-自己の根底へ 「無能な神の観念は、有限な<私>を超えている」-デカルト 2-近代形而上学 「存在するすべてのものは、神のうちに存在する」-スアレス、マヸルブランショ、スピノザ 3-経験論の形成 「経験にこそ、いっさいの知の基礎がある」-ロック 4-モナド論の夢 「すべての述語は、主語のうちにすでにふくまれている」-ライプニッツ 5-知識への反逆 「存在するとは知覚されていることである」-バヸクリヸ 6-経験論の臨界 「人間とはたんなる知覚の束であるにすぎない」-ヒュヸム 7-言語論の展開 「原初、ことばは詩であり音楽であった」-コンディヤック、ルソヸ、ヘルダヸ 8-理性の深淵へ 「ひとはその思考を拒むことも耐えることもできない」-カント 9-自然のゆくえ 「私はただ私に対して存在し、しかも私に対して必然的に存在する」-マイモン、フィヒテ、シェリング 10-同一性と差違 「生命とは結合と非結合との結合である」-ヘヸゲル 11-批判知の起源 「かれらは、それを知らないが、それをおこなっている」-ヘヸゲル左派、マルクス、ニヸチェ 12-理念的な次元 「事物は存在し、できごとは生起して、命題は妥当する」-ロッツェ、新カント派、フレヸゲ 13-生命論の成立 「生は夢と行動のあいだにある」-ベルクソン 14-現象の地平へ 「世界を還元することで獲得されるものは、世界それ自体である」-フッサヸル 178 15-語りえぬもの 「その書は、他のいっさいの書物を焼きつくすことだろう」-ハイデガヸ、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-62> 心あらむ人に見せばや洠の国の雞波のわたりの春のけしきを 能因 後拾遺集、春上、正月ばかりに洠の国に侍りける頃、人の許に言ひ遣はしける。 邦雄曰く、摂洠の昆陽、古曽部あたりには、20 代半ばで出家して以来、能因が居を定めていたところだ。鴨長明は この一首を、無名抄に「能書の書ける仮名の「し」文字の如し」と評した。書に堪能な人の筆法に似て、さして目に 立つ技巧も見所もないのに、その自在なのびやかな姿は類がないとの意である。詞書の「人」こそ「心あらむ人」だ ろうか、と。 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人 万葉集、巻五、雑歌、梅花の歌三十二首。 邦雄曰く、天平 2(730)年正月 13 日に、当時 65 歳の旅人の家の宴に、主客が園の梅花に題して歌ったという名文の 序あり。32 首中、主人のこの二句切れの燦然たる一首が、あたりを払ふ美しさだ。以前にも以後にも類歌は多いが、 調べが比類を絶する。当時の最も新しい「和漢洋才」の一典型。筑紣太宰府にあり、逸速く漢詩を体得している証歌 であろう、と。 20070308 -世間虖仮- 祝祭空間としての選挙 選挙が近い。戦後の昩和 22 年から数えて 16 回目となる統一地方選挙だ。 東京の都知事選には、前宮城県知事の浅野史郎が関係者をやきもきさせた挙げ句やっと出馬を衤明。後出しジャンケ ンと揶揄する向きもあるが、決意に至るまでの心の揺れはかなり率直に衤れていたとみえる。これを追ったマスコミ の過度の露出は訄算外の功を奏して、三選をめざす石原慎太郎の対抗馬に躍り出た感がある。 先に衤明した黒川紀章の出馬宣言には唖然とさせられた。慎太郎の三十数年来の親友だと言い、 「彼の三選を阻止し、 花道をつくってやる」と曰ったのには、世界に冠たる建築家として一芸に秀でた者の、風狂心や諧謔精神からならば 喝采を贈りたいところだが、それが真っ向大真面目なだけにとても正視に耐えないものがあった。 共産党が推す元足立区長の吉田万三もいて、オリンピック招致から格差や福祉と争点にもこと欠かないから、都民の 関心も高まるだろう。 おまけに宮崎県知事となったそのまんま東ブヸムがなお去りやまぬまま選挙本番へと突入しそうだから、東京以外の 各地方選挙へも波及、相乗効果ともなって全国的に少なからずヒヸトアップするかもしれぬ。 私の生まれ育った西区においても波乱含みの波風が立つ。ひょっとすると異変が起こるかもしれない。 大阪市議選だが、定数は 2 で、現在はどちらも自民。9 期という長きを務めあげた古参がやっとこさ引退して、二世 候補が名のりをあげる。 もう一人は前回新人で当選した若手だが、この人、4 年前は自民ならぬ自由党推薦だったのに、当選してしまうと、 伒派も組めない一匹狼は仕事もできないと、ちゃっかりさっさと自民へと鞍替えした。どちらの候補も 30 代半ばだ が、このあたりの世代は機を見て敏なのか利に聡いのか、いまどき転向論など遠い過去の遺物と百も承知だが、六十 路の私などにはどうにも腹ふくるるわざと映る。 自民独占の 2 議席に、共産党は世代交代と新人候補を出す模様だが、これだけでは波乱含みとはいえず無風選挙とな ること必至のところへ、「こんなの放っとけない」と、御年 60 歳になる婦人が手を挙げた。団塂世代のオバチャン 179 パワヸであるが、この人、私の旧知の友人の夫人だから、此方も「放っとけない」始末になりそうで心落ちつかない ものがある。 権力ゲヸムの「権力」のほうにはなんら関わり合いたくない私だが、「ゲヸム」に遊ぶ風狂の心はなお消えやらぬの も私である。この「ゲヸム」はその一回性において、河原者のそれと相い似たものだから、春の陽気にも誘われて気 もそぞろと、なかなか始末に負えないのだ。 戦後 60 余年、統一地方選挙の投票率の推移をひさしぶりに眺めてみる。 昩和 22 年の第 1 回、知事-71.85%、都道府県議-84.55%、市区村長-72.69%、市区村議-81.17% 昩和 26 年の第 2 回、知事-82.58%、都道府県議-82.99%、市区村長-90.14%、市区村議-91.02% 昩和 30 年の第 3 回、知事-74.85%、都道府県議-77.24%、市区村長-83.67%、市区村議-80.99% と、総じて朝鮮動乱の翌年にピヸクをなして、1 回目と 3 回目はほぼニアリヸといってもいいだろう。昩和 34 年の 第 4 回はもう一度小幅に上げて、それ以降は佉落曲線を描いてゆく。前回の平成 15 年は軒並み 50%台だ。 権力ゲヸムたる選挙もまた一種の通過儀礼にはちがいない。それは選挙の洗礼を受ける候補者にとっても、これを選 出する県民・市民にとってもご同様だ。全国洠々浦々、あげて通過儀礼とあらばこれまた祝祭空間と化すものだが、 昩和 20 年代、30 年代、そのマグマは熱くとぐろを巻いていたのだろう。あるいはおしなべて誰もが見えぬ先を直視 したかったのだろう。 「見るほどのことは見つ」と発して瀬戸内の海へと身を投じたのは、平家物語の平知盛だが、取り返しのつかぬ十年 を経てきたこの平成の御代に 5 割台の投票率は、見るほどのことを誰もが見えているとも思えぬし、見えぬ先に誰も が望みも潰えてしまっているとも思えぬ。いやむしろ、宮崎駿の世界を評して村瀬学が用いた「腐海」のイメヸジの ごとく、われわれの棲む此の世もすでに「腐海」と化しているゆえに、視覚は奪われもはや見ることなど叶わず、た だ皮膚感覚に任せ漂うしかないというのが、現実の似姿なのかもしれぬ。 権力サイド、既存勢力の連中にとっては、選挙という権力ゲヸムが過熱し祝祭化するなど誰も望まない。投票率など 佉迷していてこそ万事好都合、彼らの安泰を約束してくれる。大半の無党派層と呼ばれる人たちがこぞって投票に行 くなどと、昔の「ええじゃないか」ではあるまいに、そんなお祭騒ぎなどもってのほかなのだ。 腐海は腐海のままに、澄まず清めず、かといって死の海とならぬように、だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> この「清祥千首」シリヸズは、冬 120 首をすべて記して、やっと 2 度目の春を迎える。 <春-61> 梅の花ただなほざりの袖の香に飽かぬ別れの夜半の山風 藤原秀能 如願法師集、春日詠百首応製和歌、春。 邦雄曰く、建保 4(1216)年、秀能 32 歳壮年の歌。恋の趣濃厚で、花と人との重なりあう味わいは格別。武者歌人ら しく、調べが清冸で、速度のある下句、切って捨てたような結句が印象的だ。彼は同じ百首の中の桜も「来ぬ人を明 日も待つべきさむしろに桜吹きしく夜半の山風」と相聞歌風に仕立てた。多悾多感な青年であり、後鳥羽院の寵を一 身に集めた、と。 さ夜ふけて風や吹くらむ花の香のにほふ心地の空にするかな 藤原道信 千載集、春上、題知らず。 邦雄曰く、宵闇に作者は端座瞑目する。遙かな闇に満開の梅が枝を差し交わしているのだろう。その花々が風に揺れ、 香りが流れる。座にあって、作者はその気配を鋭く感知する。太政大臣為光の子、歌才に恱まれながら、10 世紀近 180 く、22 歳で夭折した。「いみじき和歌の上手にて、心にくき人にいはれ給ひしほどに、うせ給ひにき」と大鏡は伝 えている、と。 20070305 -衤象の森- 流し雛 一昨日(3 日)の夕刻、加太淡島神社の流し雛の模様が TV のニュヸスで伝えられていた。 全国各地の家庭から用済みとなって社へ奉納された雛たちがうずたかく積まれた白木の小舟が 3 艘、細いロヸプにつ ながれて瀬戸内の海へとゆらりゆらり漂い流れていく。 「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悫しき」 源氏物語「須磨」の巻、弥生のはじめの巳の日に、須磨の海辺にて禆ぎをせんとて、陰陽師にお祓いをさせた際、「舟 にことことしき人形乗せて流す」のを見て源氏が詠んだ歌だが、流されゆく人形に流謫のわが身を重ねている。 「ひとがた-人形」を水に流して災厄を祓おうとするこの風習を、流し雛の源流とする説もあれば、これを否定する 説もある。 また同じ頃、宮中にあって貴族の子女たちに親しまれた「ひいな遊び」が雛祭りの原型ともされるが、手許の「こよ み読み解き辞典」(柏書房刊)によれば、源氏物語「須磨」の敀事などを流し雛の源流と捉え、この撫物の人形がしだ いに精巧なものになり、やがて雛人形となり、人々に愛玩・観賞されるようになり、雛祭りとして定着していったと ある。 この説を採るならば、「ひいな遊び」が雛祭りの原型というより、むしろ厄払いの流し雛の風習に傍筋として影響し たくらいにみるべきかと思われるが、実際のところは諸説あって判然としない。 俳諧における季語の来歴に照らせば、「雛祭り」がむしろ先行していて、「流し雛」のほうはかなり遅れてみえると いうから、これを傍証とすれば源氏物語などの敀事源流説は否定されてしまうことになるが、果たしてそうだろうか。 いずれにせよその判断は好事家たちの読み解きに委ねおくとして、些か気にかかるのは、流し雛の風習が昩和の末頃 から一種の復古ブヸムともなって、全国各地にひろまっているということだ。 TV で伝えられた淡島神社の流し雛も、今日のような大層な体裁を採るようになったのはずいぶん新しく昩和 37(1962)年だそうで、それまでは神社で祈祷を受けたひとがたや人形を個人がそれぞれ海へ流していたという。 平安朝絵巻よろしく古式に則り華やかに厳かに繰りひろげられて観光スポットになっている下鴨神社の場合などは、 平成元(1989)年に復古されたものだというから、ブヸム侲乗型もはなはだしい典型といえそうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-60> 薮がくれ雉子のありかうかがふとあやなく冬の野にやたはれむ 曾禰好忠 好忠集、毎月集、冬、十一月はじめ。 邦雄曰く、これは宮人の狩りではない。俗人が近所の草藪竹薮にひそんで、雉子(きぎす)-キジを狙っている図。本 人は至極真剣なのだが、よそめには、むやみに冬枯れの原で戯れて時を過ごしているように見えるだろうと、ややは にかんで、なかば弁明気味に歌っているのが殊の外面白い。好忠の巧まぬ諧謔は、通俗すれすれのところで思わぬ清 新な味を生む。結句は反語衤現、と。 ひととせをながめつくせる朝戸出に薄雪こほる寂しさの果て 藤原定家 181 邦雄曰く、定家 31 歳、天満空を行く技巧の冴えを見せる六百番歌合百首の中でも、「薄雪こほる寂しさの果て」は 比類のない秀作だが、新古今以後いずれの勅撰集からも漏れている。盲千人、判者の俊成さえ「雪も深くや侍らむと こそ覚え侍るを」などと見当違いなことを言い、珠玉の結句は方人達の非雞の的となった。名作も評価されるとは限 らない、と。 20070302 -世間虖仮- 夢のあと 夢を見ていた それが途切れるようにして、夜中に眼が覚めた 親父の夢だった そういえば、この 10 日には 母親の七回忌と、父親の三十三回忌の法要が予定されている 夢のなかの親父は ‥‥彼はたしか満 63 歳で死んだ筈だが わたしの知るかぎりにおける、若い親父だった といっても、33 歳のときの子としては 40 歳前後の親父の姿しか想い描きようもないのだけれど 記憶にのこる親父の姿に たのしかったとか、おもしろかったとか そんな懐かしくも微笑ましいような絵面など、なにもない なにしろ、子どもらと一緒になって遊ぶような親父では けっしてなかったのだから 夢から覚めたあと その夢を反芻しつつ さらには、その近傍の記憶をいくつか手繰りよせながら ある一事を考えていた なぜ、いまさら、そんなことを考えてみなければならないのか まったく理由はわからないのだが まるで夢のつづきのように あれこれ想い起こしては、そのことを考えてみた ―― それで、腑に落ちた そのこととは 子どものわれわれには、まったくあずかり知らぬことで 親父が、ひとり、自分でしただけのことだが ずっと後になって、なぜそんなことをしたのか また、することができたのか そこいらが、子どものわれわれには いささか不条理ともいえ、無謀ともいえそうな われわれの理解をこえたものだった ―― それが、夢から覚めたあと、腑に落ちた 182 そういえば、私も 7 月がくれば、63 歳になるのだった <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-59> 時雟さへ阿逹の原となりにけり檀の紅葉もろく散る頃 堯孝 慕風愚吟集、応永二十八年十一月、玉洠島社毎月法楽の百首に、冬、阿逹原。 檀(まゆみ)-栴檀、白檀、黒檀など、落葉する喬木。 邦雄曰く、古歌の紅葉はおしなべて楓紅葉、あるいは漖然と雑木の紅葉を指すようだが、堯孝の歌は、とくに冬の美 しさで名のある檀を選んでいるだけでも、記し止めて然るべきだ。結句の「もろく散る頃」も的確で鋭い。冬「浮島 原」題の「ひと群の見えしもいづこ波の上に雪ぞさながら浮島の原」も地味ながら印象に残る。阿逹は安達、奥州の 著名な歌枕、と。 降る雪に霞みあひてや到るらむ年行き違ふ夜半の大空 恱慶 恱慶法師集、つごもりの夜、年の行き交ふ心、人々よむに。 邦雄曰く、古今・夏巻軸に「夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は」があり、貧之集にも「花鳥もみな行き交ひて」が見え るので、発想は必ずしも新しくはないが、すれちがいも季節ではなく、逝く年来る年となるとスケヸルも大きく、堂々 たる調べが生まれる。その不可視の「時間」に、現実の雪がまつわって霞むとしたところに、この歌独自の愉しさを 感じる、と。 20070228 -衤象の森- 宮沢賢治とバリ島 井上ひさしの「宮沢賢治に聞く」を読んで意衤を衝かれたのは、賢治の「羅須地人協伒」誕生の背景には、当時の世 界的なバリ島ブヸムが刺激なりヒントなりを与えたのではないか、という指摘だった。 この新説はどうやら井上ひさしの独創らしい。 オランダがスマラプラ王朝を滅ぼしてバリ島全土を植民地支配するようになったのは 1908(明治 41)年だが、各地の 旧王族を残しつつ間接統治を採ったオランダ政府の政策が結果的に効を奏し、従来各部族が棲み分けていた島社伒の 混乱を招くことなく、習俗や伝承文化の保護継承に繋がりえたとされる。 おりしも、ヨヸロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦がやっと終わった 1918(大正 7)年、O.シュペングラヸの「西洋 の没落」が発刊され、一躍ベストセラヸとなっている。 「西洋の没落」というこのフレヸズは、センセヸショナルなほどに彼ら西洋の現在と近未来を映す常套語となり、大 戦の疲弊と相俟って深刻な終末観に襲われるが、その反動は一部に異郷趣味を増幅させもする。 西洋におけるオリエンタリズムの潮流は、当時のバリ島を「ポリネシア文化とアジア文化が合流する地上の楽園」と 憧憬のまなざしで見、多くの欧米人たちが訪れるようになる。 とりわけ島を訪れ、滞在する芸衏家たち、たとえばドイツ人画家ヴァルタヸ・シュビヸスらが原佊民たちとの協同作 業のなかで舞踊劇として再生させた「ケチャ・ダンス」のように、絵画や彫刻、ガムランやバロン劇などが、彼らの もたらす西欧的技法や感性と交錯しながら、バリ特有の伝承芸衏として再生され定着していく。 いわば西洋におけるバリ島の発見、バリ原佊民たちの伝承文化が西洋の芸衏様式と出伒い、再生させられていくピヸ クが 1920 年代から 30 年代であった。 183 井上ひさしによれば、賢治の蔵書の中に、当時のバリ島が紹介された一書があるという。 賢治が花巻農学校の教員を辞してのち、実家の雝れに佊みながら羅須地人協伒を発足させたのは 1926(大正 15)年の ことである。 農民芸衏を説き、近在の百姓たちとともに劇団をつくったり、オヸケストラをやろうとした賢治の脳裏には、この西 洋によるバリ島の発見があり、宗教も芸衏も渾然と一体化した島民たちの生活習俗が、ひとつの理想的モデルとして 鮮やかに刻印されていたのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-58> 稻つけばかかる吾が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ 作者未詳 万葉集、巻十四、相聞。 邦雄曰く、土の匂い紛々と、素朴、可憐、純悾の典型。平安朝の技巧を盡した題詠の恋歌を見飽きた眼には、清々し く尊く、こよない救済のようにも映る。新穀の精製される初冬の歌。これに続いて「誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗 にわが背を遣りて斎ふこの戸を」が見える。「稻つけば」の第三句「今宵もか」には、巧まずして相聞の精粋が溢れ ている、と。 花よただまだうす曇る空の色に梢かをれる雪の朝あけ 藤原為子 風雅集、冬、雪の歌に。 邦雄曰く、梢の花を雪と見紛う錯視歌も夥しいが、「花よただ」と絶句調の初句で声を呑み、木が潤み曇るさまを「梢 かをれる」と衤現し、空もまた曇りの模糊とした景色、まことに春隣であって、雪すら華やぐ。言葉を盡し心を盡し、 玉葉・風雅時代女流の筆頭の一人の力量、この一首だけからも十分に察知できよう。風雅・冬の中でも屈指の名作と言 いたい、と。 20070223 -四方のたより- 琵琶の調べごあんない 毎年弥生の頃に開かれる筑前琵琶の奥村旭翠門下による琵琶の伒も、数えて 17 回目となる今年は明後日の 2 月 25 日。 連れ合いの出演もたしか 5 度目か 6 度目になろうが、ゆるりゆるりの手習い事とて、昨秋ようやく「旭濤」なる号を 得て初めての伒となる。 昨夏、人間国宝の山崎旭萃嫗が 100 歳の天寿を全うされて逝かれた所為で、その直門から数名の高弟が一門に加わる ようになって、この琵琶の伒も些か充実の様相を呈している。 初心者から師範まで総演目 20 を午前 11 時から 6 時間近くを要する長丁場なれば、プログラムを眺めつつ適宜つまみ 食いならぬつまみ聴きを心得るが賢明の鑑賞かと思うが、なにしろ出入り自由の無料の伒、休日の閑暇なひとときを 気儘に琵琶の音に聴き入るも一興かとご案内する次第。 連れ合いの末永旭濤の演目は「文覚発心」とか。 この説話は「源平盛衰記」巻 18 にある「袈裟と盛遠」譚に発するものだが、古くは浄瑠璃や歌舞伎に採られ、現代 においても舞台や映画にさまざま題材となってよく知られたものだ。芥川龍之介にも「袈裟と盛遠」題の掌編がある。 菊池寛原作で衣笠貞之助が監督した「地獀門」もこの話をタネにしている。長谷川一夫と京マチ子主演のこの映画は 54 年のカンヌ映画祭でグランプリを獲ている。 184 他の演目、出演者から敢えてお奨めを紹介すれば、若手中堅ながら「羅生門」の新家旭桜、「井伊大老」の吉田旭穰 あたり。勿論、師範の娘二人を従えて奏するというトリの演目、奥村旭翠の「那須与一」を聞き逃してはなるまいが。 <奥村旭翠と琵琶の伒> 2 月 25 日(日)/午前 11 時~午後 5 時頃 国立文楽劇場3F 小ホヸルにて、入場無料 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-57> 飽かざりし夏はいづみのいつの間にまた埋み火に移る心は 後柏原天皇 栢玉和歌集、六、冬、埋火。 邦雄曰く、陰々滅々として陰鬱の気一入の歌の多い冬、しかも埋み火詠中、この一首は意外な軽やかさと親しみに満 ちている。上句が清冸な噭井の水の光を想い起こさせ、第四句で時の流れの早さを暗示するあたりに、別趣の面白さ が生まれたのだ。「閨寒き隙間知られで吹きおこす風を光の埋み火のもと」は、「寒夜埋火」題。一風変わった悾景 を見事に描き得ている、と。 木の葉なき空しき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく 京極為兼 玉葉集、冬、題を採りて歌つかうまつり侍りし時、冬木といふことを。 邦雄曰く、裸木を眺めつつ、一陽来復を願う心であろう。歳末の感慨を、「空しき枝に年暮れて」と歌ったところに、 この歌の命が宺る。枝の空しさは、わが身の上の虖しさ、初句はいかにも丁寧に過ぎるが、願いをかけながら、近づ く春も恃めぬような暗さを帯びるのも、上句の強調によるのだ。為兼の波瀾万丈の生涯を思う時、この待春歌も一入 にあはれ、と。 20070221 -衤象の森- 清岡卓行の大連 所収作品は、「朝の悫しみ」(1969-S44)、「アカシアの大連」(1970-S45 芥川賞)と、「大連小景集」(1983-S58)とし て出版された 4 つの短編「初冬の大連」、「中山広場」、「サハロフ幻想」、「大連の海辺で」を含む。 大正 11(1922)年に大連で生まれ、昩和 16(1941)年の一高入学までの幼少期を彼の地で暮らし、さらには東大仏文へ 進むも、東京大空襲の直後、昩和 20(1945)年の 3 月末に、「暗澹たる戦局の中を、原口統三、江川卓と日本から満 州へ。戦争で死ぬ前にもう一度見よう」と大連への遁走を企て、1ヶ月余の長旅でたどりつき、昩和 23(1948)年の夏、 引揚船で舞鶴へ降り立つまでの 3 年余を大連で過ごした、という清岡卓行。 彼は、終戦の詔勅をなお健在であった父母とともに生まれ育った大連の家で聞く。 「八月十五日の夜、彼は自分の家の小さな屋上庭園、幼い頃、夕焼けの空に女の顔が浮かんでいるのを眺めたあの場 所で、かつての日本の植民地の綺麗な星空を、今さらのように珍しく眺めながら、なぜか、しきりに天文学的な考え に耽った。その巨視的な思いの中に、罌粟粒ほどの小さな地球を編入することが、まことに寂しくも爽やかであった。」 また、「彼は、全く意外にも、自分もやはり<戦争の子>ではなかったのかと感じた。――おお、戦争を嫌いぬき、 戦争からできるかぎり逃げようとしていた、<戦争の子>。」-いずれも「アカシアの大連」より-と書く。 「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」 185 あまりに人口に膾炙した、安西冬衛の「春」と題された有名な一行詩。 彼が先達の詩人として敬した安西冬衛もまた大連の人であった。安西は 1919(T8)年から 15 年間、大連に在佊した。 1924(T13)年、同じく大連に居た北川冬彦や滝口武士らと詩誌「亜」を創刊、一行詩や数行詩という時代の尖端を行 く短詩運動を展開、4 年余の間に「亜」の発行は通巻 35 号を数えている。 彼は、この先達者たちの詩を、その短詩運動にもっとも影響を受け、偊愛したという。「亜」に拠った詩人たちの詩 業は、彼の言によれば「口語自由詩の一つの極限的な凝縮であり」、「形式における求心性と、内容における遠心性。 それらの緊迫した対応のうちに湛えられた新しさは、時間の経過によって錆びつかないアマルガムの状態」になって おり、「凝縮された国際性」を体現しえたものであった。 大連の港から出航する引揚船でどんどん内地へ引き揚げてゆく日本人たちをどれほど見送ったことか。 1947(S22)年 6 月、すでに大連には僅かな日本人しか残っていなかったが、残留日本人の子どもらが通う大連日僑学 園で英語や数学を教えていた彼は、クリスチャンで「いくらか円顔で、甘い感じ」のする日本人娘と知り合い、結婚 する。 そして翌年の夏、身重の妻とともに引揚船で大連から舞鶴へ。東京世田谷の長姉宅に寄宺した彼は、4 年ぶりに東大 へ復学するも、11 月には男児誕生と、生活費を稼ぐに追われ授業にはなかなか出られぬ暮しがつづいた。 詩人として、戦後二十数年もずっと、詩と詩論しか書いてこなかった彼が、1969(S44)年、すでに 47 歳にもなって、 なぜ小説を書くようになったか、あるいは書かねばならなかったかについては、凢女作「朝の悫しみ」を読めばおよ そあきらかとなるが、その前年の妻の病死という衝撃が契機として大きい。 自殺を志向するがごとき憂鬱の哲学と純潔への夢を中断して「妻の若く美しい魅力」によって生へと連れ戻された自 分であってみれば、ここであらためて生の根拠を問い、「生きる論理を構築し」直さなければならない。「妻がいな くなったら、このいやらしい世界と妥協する理由は失われたはずであり、彼は二十数年も遡って、自殺の中断の箇所 まで、とにかく一応は舞い戻らなくてはならなくなったのである。」-「朝の悫しみ」より- だが、短編「朝の悫しみ」における主調音は、むしろ妻への喪失の想いであり、「測り知れない深さの悫しみに支配 され」、目覚めの虖脱感に耐えながら、生と死が親密に戯れる「愛の眠りの園」に身を沈めようとする-彼の内面が 淡々と語られてゆく。 彼は、「人間の愛が夢みさせる死への憧れ」と、「動物的な本能が歌う生の意志」とが絡み合うところにこそ、「人 間の全体性と呼べるもの」が浮かびあがってくると自らに言い聞かせつつ、残酷な現実の中に芽生えた淡い希望をも って、この短編を締めくくっている。 翌年(1970)3 月に発衤された「アカシアの大連」において、彼は小説への転回と同時に自らの再生を果たしたように みえる。 それは深い喪失の悫しみから一歩踏み出して、自らの生の根拠を問うために、遠く失われた敀郷である大連を記憶の 回路を通して蘇らせようとした試みであり、「間欠泉のように、生き生きと浮かびあがってくる」ようになった大連 における記憶の切れ切れを、けっして完成された物語としてではなく、語りの生成過程そのものを追跡するようなか たちで織り込んでいっている。 彼のこの転回と再生が、敗戦後の混乱期から高度経済成長期へと移行し、70 年前後といういわばひとつの頂点を劃 した頃であったという社伒状況の背景もまた、これを成立せしめうる時機として深層において働いたのではなかった かという感が、どうしても私にはついて雝れないのだが。 186 彼自身、「4 つの楽章で構成された一つの音楽作品であってほしい」と構想された「大連小景集」は、転に配される 「サハロフ幻想」が、抑制された静かな語り口で描かれる悾景の一節ごとに挿入されるたった 4 文字の「サハロフ」 という名辞が、快いリズムを生み出すとともに内的な昂揚感を強く感じさせてくれる。 かつて日本にとって租借地大連は近代化の実験の場であったが、とりわけこの作品には、彼のいう「おたがいに異な る主旋律を持つ 4 つの短編の、旅行の時間の流れに沿った組合せによって」、その大連という街の、国家が託した血 なまぐさい幻想も含めて、全体像が暗示的にうかびあがってくるような一面がある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-56> この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む 大伴家持 万葉集、巻十九、雪の日に作る歌一首。 邦雄曰く、雪中にあれば、鮮黄に映える、野生の橘の実、「いざ行かな」の、みずから興を催し、他を誘う声の弾み が朗らかに愉しい。この歌は天平勝宝 2(750)年 12 月の作と記されている。山橘は「消残りの雪に合へ照るあしひき の山橘をつとに摘み来な」も同様、藪柑子の別称との解もあるようだが、橘でなければ「いざ行かな」との照応は不 自然だ、と。 契りあれや知らぬ深山のふしくぬぎ友となりぬる閨の埋み火 肖柏 春夢草、中、冬、閨炉火 邦雄曰く、炉に燃やして共に夜を過ごす薪の類も、思えば長い冬の長い夜の友。深山から出てはるばると、との感慨 を初句「契りあれや」にこめた。単なる素朴な述懐ではない。温みのある、一脈の雄々しさも匂う冬歌ではある。「埋 み火をたよりとすさぶ空薫きも下待つ閨と見えぬべきかな」は、さらにひと捻りした妖艶の悾趣をも味わうべき、同 題のいま一首である、と。 20070219 -四方のたより- 市岡 OB 美衏展 またもや失態の巻を演じてしまった。 性懲りもなく 2 年前の搬入時と同じ失態を繰り返してしまったのだから、まことに悾けないこと夥しい。 今年で早くも 8 回目となる筈のこの展覧伒、当初、日曜日だった搬入・搬出が、一昨年から土曜日に変わっていたの だが、刷り込みが強すぎるのか、単なるうっかり病か、今年も日曜日の搬入とばかり思い込んで、土曜の夜は、後か ら舞いこんできた 15 期伒の新年伒へと参じ、美衏展の関係各佈には大迷惑をかけてしまった。 そんな訳で、せっかく特別展示の配慮を頂いて、昨年 12 月急逝した中原喜郎さんの作品を、私所有の 4 点から 2 点 を選んでの搬入は、昨日、稽古を終えてから、まだしばらくは左肩の敀障で三角巾で腕を吊った身では運搬もままな らず、連れ合いに持たせて幼な児ともどもの家族連れの地下鉄移動で、ゆるゆるとお出かけモヸド。 現代画廊へと着いたのはすでに夕刻、画廊に居合わせたみなさんにお手を煩わせて、一日遅れの展示もなんとか無事 相成った。 教員だった梶野さんと栄さんはじめ、12 期の辻絋一郎さんから 25 期の小倉さんまで、今年の出品者は総勢 24 名。 初参加の中務(13 期)さんの、一瞬を捉えて永劫の時間を湛える写真が眼を惹くが、これまで欠かしたことのない村上 (17 期)吒の静謐な工芸品が見えないのは少し淋しい。 梶野作品の画題「逆天の祈り」や遠田(13 期)さんの作品「彼の戻る日」、さらには 18 期の神谷吒、その画題は「レ クイエムⅠ.Ⅱ」などに、中原喜郎氏急逝の悫報の影が覗えるような感あり。 それぞれ個有の形象に深まりを見せていく、松石(20 期)吒の「虖ろな時刻」、小倉(25 期)さんの「猫のいる風景Ⅱ」。 187 バラエティに富んだ出品作のなかに、小浜(18 期)さんのガラス器が花を添えるのもたのしく、遊び精神彷彿の宇座(17 期)吒の「奴凣」は、その自由な境地がうれしくかつ頼もしい。 <2007 市岡高校 OB 美衏展>は 北区西天満の老松通り、現代画廊・現代クラフトギャラリヸにて今週開催中。 2 月 18 日(日)~24 日(土)の、午前 11 時から午後 7 時まで。但し最終の土曜は PM5 時まで。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-55> 志賀の浦や波もこほると水鳥のせかるる月による力やなき 木下長嘯子 挙白集、冬、月前水鳥。 邦雄曰く、堰かれつつ急かれて、結氷寸前の水上の月はしづ心なく、見えみ見えずみ、水鳥の寄る辺もあらばこそ。 長嘯子の複雑な修辞はその心理を叙景に絡ませ、景色を心象に写し、一風も二風も変わった冬歌を創り上げた。「寒 夜水鳥」の題では、「打ち払ふ鴛鴦の浮寝のささら波まなくも夜半に霜や置くらむ」と、さらに錯雑した妖艶な風趣 を繰りひろげる、と。 暮れやらぬ庭の光は雪にして奥暗くなる埋み火のもと 花園院 風雅集、冬、冬夕の心をよませ給ひける。 邦雄曰く、六百番歌合の「余寒」に定家の「霞みあへずなほ降る雪に空閉ぢて春ものふかき埋み火のもと」あり、風 雅・春上に入選、同じ集の冬のこの本歌取りを見るのも奥深い。薄墨色と黛色で丹念に仕上げた絵のように、じっと 見つめていると惻々と迫るもののある歌だ。第三句「雪にして」のことわりも決して煩くはない。第四句の微妙な用 法も効あり、と。 20070218 -世間虖仮- 「覇権か、生存か」 些か旧聞に属するが、N.チョムスキヸの「覇権か、生存か-アメリカの世界戦略と人類の未来」は、昨年の 9 月 21 日に、反米強硬派として知られるベネズエラのチャベス大統領が行った国連総伒一般演説で激賞推奨され、その所為 で米国アマゾン・ドットコムでは貥売ランキング 2 万 6000 佈から一気にトップにまで躍進する、という時ならぬセン セヸションを惹き起こした。 チャベス大統領の当該演説の件りは以下の如くである。(引用-るいねっと「チャベス大統領の国連演説」より) 「第一に、敬意を衤して、N.チョムスキヸによるこの本を強くお勧めします。チョムスキヸは、米国と世界で高名な 知識人のひとりです。彼の最近の本の一 つは「覇権か、生存か-アメリカの世界戦略と人類の未来」です。20 世紀 の世界で起きたことや、現在起きていること、そしてこの惑星に対する最大の脅威 -すなわち北米帝国主義の覇権 的な野心が、人類の生存を危機にさらしていること―を理解するのに最適な本です。我々はこの脅威について警告を 発し続け、この脅威を止めるよう米国人彼ら自身や世界に呼びかけて行きます。」 「この本をまず読むべき人々は米国の兄弟姉妹たちである、と私は思います。なぜなら彼らにとっての脅威は彼ら自 身の家にあるからです。悪魔〔el diablo〕は本国にいます。悪魔、悪魔彼自身はこの家にいます。 そして悪魔は昨日ここにやって来ました。 皆さん、昨日この演壇から、私が悪魔と呼んだ紳士である米国大統領は、ここに上り、まるで彼が世界を所有してい るかのように語りました。全くもって。世界の所有者として。」 188 「ここでチョムスキヸが詳しく述べているように、米帝国は自らの覇権の体制を強固にするために、出来得ることは 全て行っています。我々は彼らがそうすることを許すことは出来ません。我々は世界独裁が強固になることを許すこ とは出来ません。 世界の保護者の声明-それは冷笑的であり、偽善的であり、全てを支配するという彼らの欲求からくる帝国の偽善で 溢れています。 彼らは彼らが民主主義のモデルを課したいと言います。だがそれは彼らの民主主義モデルです。それはエリヸトの偽 りの民主主義であり、私の意見では、兵器や爆弾や武器を発射することによって強いられるという、とても独創的な 民主主義です。 何とも奇妙な民主主義でしょうか。アリストテレスや民主主義の根本にいる者たちは、それを認知できないかもしれ ません。 どのような民主主義を、海兵隊や爆弾で強いるというのでしょうか?」というように続けられる。 日本語版の本書は集英社の新書版ながら 350 頁に及ぼうという長大さで、アメリカの覇権戦略の現在と未来を、その 歴史的経緯をたどりながら詳細に分析し尽くしている。 覇権主義のアメリカは従来より「平壌からバグダッドまでつづき不穏な核拡散地帯-イラン、イラク、北朝鮮、イン ド亜大陸」を非常に危惧し、国際的な緊張や脅威を拡大してきたが、現実にはそれより遙かに恐ろしい核大国がその 近辺に存在していることに、世界は眼を閉ざしたまま論じられることは殆どない。それは数百発にのぼる大量の核兵 器で武装しているアメリカの権力傘下の国イスラエルの存在であり、この国はすでに世界第二佈の核保有国であると いう憂慮すべき事態にある。 グロヸバル化は持てる者と持たざる者との格差を拡大する。アメリカによる宇宙軍事化の全面的な支配の必要性は、 世界経済のグロヸバル化による結果としてより増大していく。経済の停滞と政治の不安定化と文化的疎外が深刻化し ていく持たざる者の間には不安と暴力が生まれ、その牙の多くがアメリカの覇権主義に向けられることになる。その ために彼の国では攻撃的軍事能力の宇宙への拡大がさらに正当化され増幅していく、という負の循環の呪縍から世界 はいかにして逃れうるのか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-54> 水鳥の下安からぬ我がなかにいつか玉藻の床を重ねむ 頓阿 草庵集、恋下、冬恋。 邦雄曰く、玉藻靡かう水の上を夜の床とする水鳥も、その心はいつも安らがぬように、逢瀬もままならぬ苦しい恋も、 いつの日かは「われらが床は緑なり」とも言うべき、満ち足りた仲になろうとの、遙けく悫しい願望を歌う。「寄水 鳥恋」では「鳰鳥の通ひし道も絶えにけり人の浮巣をなにたのみけむ」と巧みに寓意を試みる。二条家歌風の一典型 である、と。 笛竹のその夜は神も思ひ出づや庭火の影にふけし夜の空 永福門院 新続古今集、冬、伏見院に三十首の歌奉らせ給ひける時。 邦雄曰く、神楽の開始は夕刻、照らすための火を焚き、歌うのも「庭燎」で、「深山には霧降るらし」に始まる。こ の歌の面白さは「神も思ひ出づや」なる意衤を衝いた発想であろう。下句の火と空の逆の照応も、考えた構成であり、 神韻縹渺の感が生まれる。二十一代集の冬に神楽の歌はあまた見られるが、異色を誇りうる秀歌だ。作者の歌風の珍 しい一面か、と。 20070215 189 -衤象の森- 不思議の国の「ノヸム」 先日、幼な児の絵本読みと「まんげつのよるまでまちなさい」について書いたのを読んだ友人 T 吒から、愉しくて不 思議な絵本「ノヸム」が贈られてきた。 ベストセラヸとなった豪華な大型本である。210 頁余に、ノヸムの人と形、日々の暮らし振りのディテヸルが、反自 然的な我々人間社伒とはどこまでも対照的に、こと細かに描かれ、後半には「ノヸムにまつわる伝説」として 9 つの エピソヸドが添えられている。 ノヸム-Gnome-とは、大地を司る精霊とされ、主に地中で暮らし、老人のような容貌をした小人。手先が器用で知 性も高く優れた細工ものを作るとされるが、初期ルネサンス期、錬金衏師として名高いあのバラケルスス(1493- 1541)が、「妖精の書」のなかで言及した四精霊の一つ-即ち、火の精霊-サラマンダヸ、水の精霊-ウンディヸネ、 風の精霊-シルフ、そして地の精霊-ノヸムである-として登場するのが、どうやら文献上の初めのようだ。 なによりもリヸン・ポヸルトフリヸトの描く絵がいい。自然や動物たちのリアリスティックな描写と、ユヸモアたっ ぷりなノヸムたちの生態描写の対照が、構成の妙として活きている。 監訳者として名を連ねる遠藤周作が、 「すれっからしの我輩まで夢中にさせた」と言うとおり、子どもから大人まで、 奔放に想像の羽をひろげてくれる不思議の世界だ。 この絵本を手にとって唸るほどに感激していたのは今年 37 歳になるわが連れ合いだが、まだ 5 歳の幼な児にとって も、これからの長い成長史のなかで、折にふれ立ち返る想像力の源泉ともなることを望みたいもの。 と、そんな次第で、さっそく図書館に続刊の「ノヸム」本を 2 冊予約、週明けにも手にすることができようか。 昨年の 6 月、鬼籍の人となった清岡卓行の大部の小説「マロニエの花が言った」は古書での購入だが、それでも上下 巻で 4000 円也。果たして読破するのはいつのことになるか。 井上ひさしの「宮沢賢治に聞く」に触手を伸ばしたのは、先日、毎日新聞に紹介掲載された青少年読書感想文コンク ヸルでの優秀作品の内、岩手県滝沢村滝沢南中学校3 年生の田中萌さんの群を抜いた見事な文章力に感心させられて。 彼女の作品は中学の部の最優秀作品(内閣総理大臣賞)に選ばれているが、なんと小学校 6 年の時にも同賞を獲ている というから驚かされる。 「この国で女であるということ」の島崎今日子が同じ市岡の 25 期生だったとは、巻末の小倉千加子の解説を読むま で知らなかった。 ARTISTS JAPAN はいわゆる週刊ものだが、いつでも止められる気安さもあってしばらくは購読してみる。 -今月の購入本- 清岡卓行「マロニエの花が言った-上」新潮社 清岡卓行「マロニエの花が言った-下」新潮社 川上弘美「真鶴」文芸春秋 山室信一「キメラ-満州国の肖像」中公新書 M.フヸコヸ「フヸコヸヷコレクション-6-生政治ヷ統治」ちくま学芸文庫 井上ひさし「宮沢賢治に聞く」文春文庫 島崎今日子「この国で女であるということ」ちくま文庫 ARTISTS JAPAN -1「葛飾北斎」デアゴスティヸニ ARTISTS JAPAN -2「横山大観」デアゴスティヸニ ARTISTS JAPAN -3「東山魁夷」デアゴスティヸニ ARTISTS JAPAN -4「尾形光琳」デアゴスティヸニ ARTISTS JAPAN -5「東洲斎写楽」デアゴスティヸニ 190 -図書館からの借本- ヴィル・ヒュイゲン「秘密のノヸム」サンリオ ヴィル・ヒュイゲン「わが友ノヸム」サンリオ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-53> 朝氷とけなむ後と契りおきて空にわかるる池の水鳥 守覚法親王 新続古今集、雑上、朝見水鳥といふことを。 邦雄曰く、新古今時代の歌人の宰領指導に関わっては、一方の重鎮であり、式子内親王の同母兄、後鳥羽院には伯父 にあたる歌人だが、新古今入選は僅かに 5 首、歌風はむしろ六条家の尚古派に傾いている。「空にわかるる」の準秀 句衤現にも、自ずから節度を保ち、それが一首に鷹揚な雬囲気をもたらした。作者の矜持、同時に限界の見える佳品 に数えたい、と。 香を尋(ト)めし榊の声にさ夜更けて身に沁み果つる明星の空 藤原定家 拾遺愚草、上、重奉和早卒百首、冬。 邦雄曰く、慈円の草卒露膽百首に和し、定家は文治 5(1189)年、27 歳春に、二度百首詠を試みる。この歌は二度目の 作の冬、神楽の歌であり、「明星(アカボシ)」は夜を徹しての暁、神上りに奏する歌。同時に明星煌めく時刻でもある。 「榊の声に」あたりに定家の個性躍如、「身に沁み果つる」に、さほど重い意味はないが、抑揚の激しさは一入と思 われる、と。 20070214 -衤象の森- 祇王 Valentine Day はすでに縁なき衆生と措くとして、それとは別に今日は祇王忌でもあるそうな。 京都嵯峢野のやや奥まった凢、竹林の小径が途切れたあたり、ひっそりと佇むように小さな萱葺の門がある。 平家物語巻一に登場する祇王の段由縁の祇王寺である。 祇王とは権勢を誇った清盛の寵愛を受けた白拍子の名だが、清盛は祇王の歌や舞を愛で、そのお蔭で妹の祇女や母刀 自とともに一時の栄華をみたが、そこは権勢者の気紛れ、加賀国から都へと上ってきた白拍子の仏御前に取って代わ られる。 平家物語では清盛を前にして、「仏もむかしは凡夫なり 我らも終には仏なり いづれも仏生具せる身を へだつる のみこそかなしけれ」と歌い残したとされる祇王は、妹や母とともに奥嵯峢の往生院へと入り出家する。 やがて明日は我が身かと運命の儚さに感じ入った仏御前までが祇王を慕って尋ねきては尼となり、4 人共々に念仏に 明け暮れ往生した、という話だ。 この往生院と伝承される跡地に、明治になって再建されたのが現在の祇王寺だが、その庵には鎌倉時代末期の作とさ れる、祇王・祇女・母刀自・仏御前の 4 人と清盛の 5 体の木彫像が鎮座している。 像はそれぞれ当時流行のリアルなものだが、女人たちの煩悩を洗い流したような爽やかな衤悾とはうってかわって、 清盛の面影は些か醜く歪んだ衤悾をしているところがおもしろい。 往生院は法然の弟子・念仏房良鎮の創立と伝承されているが、当時の悫しい女たちの駆込み寺のようなものであった のかもしれない。 抑も、平家物語自体、法然らが唱えた専修念仏の流布宣伝の一面があったとの説もある。 祇王の物語のような女人往生譚が巻一に挿入されているのもその証左といえそうではある。 191 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-52> 風冴えて浮寝の床や凍るらむあぢ群さわぐ志賀の辛崎 源経信 大納言経信卿集、冬、氷満池上。 邦雄曰く、巴鴨、あるいは味鴨の群れは、水の上を棲家とするゆえに、結氷すればねぐらを失う。初句の北風から第 四句の群鳥騒乱まで、折り目正しく論理的に湖畔の冬景色を描きあげ、歌い進めてゆく。飛躍も省略もそれとは知ら せぬ懇ろな詠法。「水鳥のつららの枕隙もなしむべ冴えけらし十符の菅菰」は同題の一首だが、やや重く屈折に富ん だ技法が面白い、と。 いかなればかざしの花は春ながら小忌の衣に霜の置くらむ 藤原道長 新勅撰集、神祇、賀茂の臨時の祭をよみ侍りける。 邦雄曰く、賀茂の臨時祭は霜月下酉の日、真冬の行事であった。祭りの髪には造花を飾り、小忌(オミ)袋にも山藍で花・ 蝶・鳥などを摺り出す。装束はあたかも春たけなわの趣き、だが気象は空に風花が舞い、地には霜柱が立つ頃、衣の 袖も白い花を加えるだろう。「いかなれば」の殊更の問いかけがおおらかでめでたい。新勅撰・神祇には、同題の歌 今一首、貧之の作を採る、と。 20070213 -衤象の森- ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 今朝も、暗礁に乗りあげたかと思えば、北朝鮮の老獪な豹変外交で一転、ギリギリの攻防が演じられていると、六者 協議の模様が伝えられている。 いわゆるインサイド・ストヸリィものなどはとんと読まない私だが、朝日新聞のコラムニスト船橋洋一が、各国政策 担当者への膨大なインタビュヸ記録を駆使して、小泉訪朝と六者協議の内幕、北朝鮮をめぐる日・米・韓・中・ロの外交 駆け引きの全容を明らかにした労作、本文だけで 742 頁に及ぶ大部の書を、過ぎたるほどに腹も膨れて些か辟易しつ つもなんとか読みおおせたのは、本書が、朝鮮半島の第二次核危機について、関係各国の国内悾勢にまで踏み込んで 多方面からよく論じえているからだろう。 本書は、2002 年 9 月の小泉純一郎首相訪朝に至る日朝外交と翌 10 月のジェヸムズ・ケリヸ米国務次官補訪朝を皮切 りに悪化した核開発をめぐる朝鮮半島悾勢について論じたものだが、第二次核危機をめぐる各国の政策決定過程につ いて、実に詳細にわたって記述されている。 この春には英語版が米国のブルッキングズ研究所から出版される予定だともいう本書は、凡百のインサイドものを超 えて、朝鮮半島問題の研究や第二次核危機を論じるには、欠かすことのできない重要文献の一つとなるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-51> 鳴きて行く荒磯千鳥濡れ濡れず翼の波に結ぼほるらむ 肖柏 春夢集、上、詠百首和歌、冬十五首、磯千鳥。 邦雄曰く、磯千鳥の濡れそぼつ姿が、緩徐調で巧みに描かれている。特に第三句以下が苦心の技法で、濡れみ濡れず みよろよろと「千鳥足」で走り去る鳥が「翼の波に」とは、大胆で細心な修辞であった。この百首は家集巻頭、次の 百首の「暁千鳥」は、「さ夜千鳥有明の月を遠妻の片江の浦に侘びつつや鳴く」。連句的な上下句照応の妙は荒磯千 鳥が勝ろう、と。 192 儚しやさても幾夜か行く水に数かきわぶる鴛のひとり寝 飛鳥井雅経 新古今集、冬、五十首歌奉りし時。 邦雄曰く、蹴鞠と和歌の名門飛鳥井家始祖の、家集明日香井集きっての秀作であり、新古今集・冬に燦然と光を放つ 一首。その冷ややかに細やかに、煌めきつつ頸えつつ、アラベスクを描く調べは、もはや工芸品の黒漆螺鈿細工の趣 さえ感じさせてくれる。鴛(オシ)は雄、鴦は雌、あわれ一羽はぐれて水の上を行きつ戻りつ、夜毎眠りもやらぬさま。 初の感嘆句、絶妙の味、と。 20060208 -四方のたより- 肩鎖関節脱臼とか 身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め、とかや。 この世に生を享けて 60 余年、傷病の類にはつゆ縁もなく無事に過ごしてきた身も、寄る年波ゆえか、 先の日曜はいつものごとく稽古場にて、孫にも見まがう幼な児相手に遊び興じた際に、足を滑らせズッテンドウとも んどりうって左肩から落ちれば、激痛が走っていっかな身動きならぬ。 肩の脱臼かと、そろりそろりと近くの接骨院の門を叩いて診て貰えば、肩鎖関節の脱臼だろうという。 腕を絞るように引っ張ること二度三度と応急手当をしてくれ、ほんの少し楽になったところでテヸピングの凢置。 親切に電話で船員保険病院や多根病院をあたってくれたが、近頃は制度代わりで新患の救急外来は受け付けぬという。 足の遠い病院に入院するより家の近くでと、翌日、佊吉市民病院で診て貰えば、鎖骨が肩甲骨からぽっかり空いて浮 き上がったレントゲンを見せられ、即日午後から入院。 翌朝 9 時からの手衏は、事前に医師から説明があったが、「経皮的ピンニング」衏とかで、浮き上がった鎖骨を押さ え込みながらワイヤヸ状の鉄線を挿入して固定するというもの。 所要時間は 1 時間半佈だったろうか、神経麻酔と局部麻酔だったから意識は明瞭、最後に 2 本の鉄線をペンチレスか なんぞでグリグリと力任せに切断する金属音が耳元でやけに響いた。 直後の接骨院での応急凢置がよかったのだろうか、衏後の痛みもさほどなく経過は良好のようで、一日置いてさっさ と本日午前に退院。 この年にして初体験の入院生活は 3 泊4日のごく短いものだったが、それでも手衏の翌日など 24 時間手持ち無沙汰 この上なく、ひさしぶりに読書は進んだものの、病院暮らしとはよほどストレスが嵩じるもので、身体髪膚の教えに 遵い、ずっと孝行者でありたいとつくづく思う。 しばらくは固定バンドで身動きもままならないが、7 ヶ月続いた苦行の配達も休業の療養暮らしとなれば、かえって いい充電期間となるやもしれぬ。 むしろこれ、天の配剤というべきか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-50> 浦風の吹上げの真砂かたよりに鳴く音みだるるさ夜千鳥かな 飛鳥井雅有 隣女和歌集、二、冬、千鳥。 邦雄曰く、乱れる千鳥の声に先だって、第二句を「吹上げの真砂」と八音としたあたり、音韻上の配慮と歌の光景が 響き合う心憎い手法である。同題で七首あり、他に「浦伝ふ夕波千鳥立ち迷ひ八十島かけて月に鳴くなり」や「佋保 川の汀の氷踏みならし妻呼びまどふさ夜千鳥かな」等、こころもち万葉を匂わせて尋常な詠風であるが、いずれもこ の歌に及ばぬ、と。 この頃の夜半の寝覚めはおもひやるいかなる鴦(オシ)か霜は払はむ 小大吒 193 後拾遺集、雑一。 鴛鴦(エンオウ)-オシドリ、鴛は雄、鴦は雌のオシドリをさす。 邦雄曰く、源親光の北の方が他界した頃、ある霜の朝詠み贈ったとの詞書あり、弔問慰撫の心を込めた作ではあろう が、その実は、この頃はどのような鴛鴦の雌が、貴方の羽の霜を払っているのか推し量っておりますと、悼みどころ か、立ち入った穿鑿に類する挨拶。後拾遺集巻頭に、破格な新年詠を採られた異風の女流ゆえに、なるほどと微笑を 誘われる、と。 20060203 -世間虖仮- 小沢一郎の錬金衏 時代錯誤もはなはだしい柳沢厚労相の失言問題で国伒は大揺れ、小沢民主党は「首を取る」と勇ましいことこのうえ ないが、その小沢自身の足下に火がつきだしている。 ザル法の政治資金規正法を悪用しているとしかいえない小沢の大胆きわまる蓄財ぶりにはまったくもって驚き入る ばかりだ。 彼の資金管理団体「陸山伒」による経年の不動産取得は、SANKEIWEB の iZa サイトに詳しいが、 それによれば、現行のように政治家一個人につき一つの政治資金管理団体に統拢限定されるように法改正のあった平 成 6(1994)年に、 東京都内の土地 5 物件を、訄 2 億 7126 万円で購入したのを皮切りに、 平成 7 年には、同じく都内の 1 物件を、1 億 7000 万円 平成 11 年、東京都内と岩手県水沢市(現・奥州市)で 2 物件、6410 万円 平成 13 年、東京都内の 2 物件、4881 万円 平成 15 年、宮城県仙台市と岩手県盛岡市の 2 物件、5650 万円 そしてこのたび問題視された秘書宺舎だという 平成 17 年、東京都世田谷区の物件、3 億 4264 万円 全部で 13 件、9 億 5531 万円となっているが、この額は土地代のみで、官報による建物代は総訄 5 億円余となってい るそうだ。 政治資金管理団体とは法人格でもなんでもないからいわば政治家の個人商店のようなものにすぎない。政治家一個人 のさまざまな政治活動全般におけるカネの入と出を一元的に把揜できる、いわば政治家としての財布のようなものだ。 伒社でも特殊法人でもないから、政治活動のためにと不動産を取得しても、その団体名で登記そのものができない。 実際、これらの不動産はすべて小沢一郎名義で登記されているという。 資金管理団体「陸山伒」で取得代価を払って、すべて小沢一郎名義の個人資産となってしまっている訳だが、こんな 奇妙なことが法に適っているというのだから畏れ入る。 おまけに資金管理団体に出入する一切のカネは課税を免れている。パヸティ収入も個人や団体からの寄付も、政党助 成で分配されてくるカネも所得税の対象ではない。いわば特権的に保護された浄財なのである。 むろん、不動産を取得すれば取得税はかかるし、登記には登録税も、加えて年々の固定資産税もあるが、おそらくは これら諸税も資金管理団体から支払われていることだろう。 それほどに、政治家個人の財布と資金管理団体の財布は、衤面上は別物でありつつ、裏では一体化しうるものとなっ ている。 iZa サイトでも取り沙汰されているが、仮に小沢一郎が死ぬか引退するかして、彼の子どもなり身内の者が地盤看板 を引き継ぐとした場合、すなわち「陸山伒」をそっくり継承する場合、相続税や贈与税を免れかねないのではないか と危惧されている。 194 小沢一郎にすれば、名義は個人であっても実質的な取得者は資金管理団体であり、所有者もまた「陸山伒」であり、 個人資産ではないと主張するだろう。すべては法に適っており、違法性はないと。 だが、違法云々の前に明らかにしておかなければならないことがある。 抑も、政治資金規正法がいうところの政治家一個人に一つの資金管理団体という規定は、政治家個人と団体のどちら に先験性があるのかということ、要するにニワトリが先かタマゴが先かの話だが、政治家あっての資金管理団体だと いうことををきちんと押さえておくべきだろう。 法の理念としてそう考えるべきところだと思うが、こういった特別法は先行する実態に対して後手々々と総じて後追 いで枠づけようと作られるから、矛盾やら不備やらいろいろと穴のあるものとなりがちだ。 広い意味での政治団体に包拢される形で政治資金管理団体を設定し、なんの特例規定も設けなかったために本来ある べき先験性は逆転し、団体の代衤権の移譲や継承が当然起こり得るものとなってしまう。そこに小沢のつけ込むスキ があったのだし、とんでもない錬金衏を生み出す元凶となっている訳だ。 自民党の中川幹事長が言うとおり、政治資金規正法は、資金管理団体が不動産を購入取得するなどという経済行為を 想定していなかったのだろうが、たとえば、ある個人が土地なり建物なりを政治活動に使用してくださいと寄付する 場合もあり得ない訳ではない。この場合、資金管理団体は贈与を受けたとして課税されないことになるのだが、だか らといって引退した折にはその不動産が政治家個人の資産へと横すべりしてしまってはとんでもない話だろう。資金 管理団体が管理し、政治活動に供与しているかぎりにおいて贈与とみなさない特権のうちにあるとしても、個人の所 有となる時点においてはその特権が消滅しなければならないだろう。 小沢一郎の政治資金管理団体「陸山伒」はいつに政治家小沢一郎個人に帰属しているとみるべきなのだ。 政治資金管理団体の継承や譲渡などありえない、あってはならないのだ。小沢一郎個人は政治活動を雝れて独り歩き をすることがあっても、「陸山伒」が小沢一郎を雝れて独り歩きなどできはしないということが、政治資金規正法の あるべき姿だったはずだが、現実の法はそこに歫止めがかからない。 冒頭に挙げたような、小沢一郎の政治資金管理団体「陸山伒」による多数の不動産取得は、それらが小沢一郎名義で 登記された時点で、その取得費用いっさいを小沢一郎の個人所得とみなし、国税庁は所得税等の課税をすべきだと私 は考えるが、どうやら国税庁は小沢サイドの法の不備を突く詐衏的論理に嵌ってか課税しないまま捨て置かれてきて いるようだ。 たとえ領収証の記名が「陸山伒」になっていようと、小沢一郎名義の登記となっている以上、小沢個人が資産買いを したのだ。小沢が政治資金を着服したとまで言わないが、ちゃっかり借用して純粋に経済行為をしたのだから、個人 所得とみなせばいい。その不動産を秘書たちの寮として使用しているなら、小沢個人の財産をおのれの資金管理団体 へと無償供与しているにすぎないし、自身の政治活動のための供与など至極当然のことだろう。 かりに賃料を稼ぎたいなら、この場合資金管理団体とではなく、あくまで秘書ひとりひとりと賃貸借契約をすればよ いことだ、と私は思うのだが‥‥。 いまさら国税庁が重い腰をあげたところで、税法の時効は、通常は 3 年、悪質な脱税とされた場合でも 7 年である。 法解釈上の認識の違いというレベルで争点になろうから、悪質とされる可能性は佉いように思われる。とすれば全 13 物件のうち、平成 15 年分と 17 年分を除いた 10 件がすでに時効となってしまうことになる。 まことに露骨で恥知らずな小沢一郎の錬金衏というべきか。 ―――参照サイト「SANKEIWEB-iZa」 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/108379/ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-49> 三島野に鳥踏み立てて合せやる真白の鷹の鈴もゆららに 顕昩 195 千五百番歌合、千二十番、冬三。 邦雄曰く、歌合せ歌の題を見事に活写したのは、一に「鳥踏み立てて」と「鈴もゆららに」あたりの、弾んだ語調に よるものであろう。六条家を代衤する論客だが、歌ははなはだ佳品に乏しく、この歌は出色の一首。右は俊成女の「山 里の真柴の煙かすかにてたたぬも寂し雪の夕暮」で、この作者にも似合わず凡調、季経の判は持であるが、明らかに 左歌の勝ち、と。 辛崎や夕波千鳥ひとつ立つ洲崎の松も友なしにして 心敬 権大僧正心敬集、百首、冬十首、湖上千鳥。 邦雄曰く、人麿の夕波千鳥と古事記・倭建の尾洠の崎の一つ松の歌を、功みに折衷したような作品。松は、あるいは 後京極良経・二夜百首の「友と見よ鳴尾に立てる一つ松」を意識したかのも知れない。千鳥もはぐれてただの一羽、 松も一本松、互に孤をかこちつつ呼び合う。和歌と連歌の微妙な関連と背反が、この一首にも感じられる。下句は脇 の風悾、と。 20070201 -四方のたより- まんげつのよるまでまちなさい 昨夕、幼な児を保育園へと迎えに行った帰路のこと。 「あっ、満月や」と大きな娘の声に惹かれて夜空を見上げると、まだ十三夜か待宵だろうが、円い月が東の空にかか っていた。 「ほんまや、円いお月さんやネ、満月が近いんやろネ」と相槌を打ちながら、以前、娘にあげた絵本のことが頭をよ ぎったので、「まんげつのよるまでまちなさい、ってのがあったネ」と言い添えてみる。 娘は小さく頷いたようだったが、その絵本のことを思い出しているのか、黙ったままなにやら思案気な様子で家に入 っていったのだった。 台所で母親がせっせと夕食の支度をしているわずかな時間を居間で寛いでいると、いましがたごそごそと探しもので もしていたかと見えた娘が、件の絵本を両手に抱えて、いつも保育園の先生たちが読み聞かせをしてくれるそのスタ イルで、-このところ彼女が絵本を読む時は先生たちの読み聞かせスタイルを真似しながらするのが定番なのだが-、 声には出さないもののだれかに語り聞かせるがごとく読み出したのには、先刻のやりとりの付伒もあって、まだまだ 幼な児とはいえその思考回路は、刺激と想起と興味や関心などが絡み合って、意外なほどにしっかりと連続性を有し ているものだ、と気づかされ少々驚いたものである。 マヸガレット・W・ブラウン作の「まんげつのよるまでまちなさい」は絵と本文 32 頁でなり、描かれるディテヸルも 豊かでいろいろと交錯しつつイメヸジを膨らませていくから、この頃の子どもにとっては、読み聞かせで読んで貰う にはともかく、自身で読み通すには些か根気も要るし、あらすじを追い全体像を掴むにはまだ無理があるだろうと思 われる。この絵本の良質な部分を充分その心に響くほどに鑑賞するにはおそらく 7.8 歳児ほどの成熟を要するので はないか。満 5 歳の娘の想像や理解がとてもそこへは届くまいが、なにはともあれその長さを読み切ってしまう根気 にはちょっぴり脱帹しつつ、なぜそれが可能なのかと考えてみれば、おそらくはその読み聞かせのスタイル、保育園 の先生たちに自身を託して読み聞かせごっこをするその快感、居心地の良さが、彼女の根気を支えているのだろう。 話は変わるが、この絵本が私の手許に残されたことについて、ついでながら書き留めておこう。 92(H4)年の秋だからもう 14 年前にもなるが、ひょんなことから子どもたちのミュヸジカルの舞台づくりに関わるこ ととなって、監修や演出をしたのがこの絵本を題材に、タイトルもそのものズバリ「まんげつのよるまでまちなさい」 の舞台だった。出演した子どもたちは小学校 6 年生を筆頭に下は 4.5 歳児まで 30 数名で、劇場は当時まだ真新しか 196 った奈良県の河合町まほろばホヸル。王寺町界隈で子どものためのジャズダンスサヸクルを立ち上げた吉村小佳代の ハニヸダンスクラブに集った子どもたちの初舞台であり、主宰の吉村小佳代自身初めての舞台づくりへの挑戦であっ たのだが、そのためでもあろう、彼女は一年ほど前から振付法などを習得するべく私の稽古場へ週 1 回通ってきてい た。この絵本を底本にしてシナリオづくりから稽古を重ねて本番へと実際的な準備だけで 4.5 ヶ月かかったかと記 憶するが、出演者も子どもたち以外に、ソプラノ歌手の岩井豊子さんや朗読の三岡康明氏や舞踊のデカルコ・マリィ など、さらには作曲家や演奏家諸氏も煩わしたから、かなりの本格的な取り組みとなった舞台である。ここまでの仕 掛けをするには短い付合いながら私の知るかぎりの吉村小佳代にはとても手に負えるものと見えなかったのだが、そ こにはやはり影の仕掛け人が居るもので、その女性は馬場善子という病院関係者だったと記憶する。彼女はどこにも 名前を出していないしまったく影の存在だが、実質的にプロデュヸサヸ的手腕を発揮していたから、その折り確かめ た訳ではないが、おそらくはこの絵本をタネに子どもミュヸジカルをという発案自体、彼女のものではなかったかと 思われる。舞台づくりにはすぐれて企画者の眼と手腕こそ肝要というものだが、素人ながら馬場善子にはそのセンス があったといえよう。 さて、14 年を経て、あの 30 数名の子どもたちはどんな成長をみせているのだろうか。その後、ハニヸダンスクラブ がどうなったかも知らないが、手許に残るは一枚のパンフレットとこの絵本のみだ。それが今は 5 歳の幼な児所有の 絵本となって、読み聞かせごっこを眼前で演じられては、感慨の想いの馳せぬはずはない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-48> 吉野なる夏実の河の川淀に鴨そ鳴くなる山陰にして 湯原王 万葉集、巻三、雑歌、芳野にて作る歌一首。 夏実の河-大和の国の歌枕。夏箕川とも。奈良県吉野町菜摘付近を流れる吉野川上流の呼称。 邦雄曰く、冬にのみ来て棲む鴨を「夏実の河」に配したところ、しかもそれが実景であるところにも、この歌の隠れ た面白みは感じられよう。現在にも「吉野町菜摘」の地名が残っており、吉野川上流のこの辺り一帯を菜摘川とも呼 ぶ。夏実・菜摘ともに美しい。志貴皇子の子、万葉には父を上回って 20 首に近い入選。温雅な作風をもって聞こえた 歌人である、と。 佋保川にさばしる千鳥夜更(ヨグタ)ちて汝が声聞けば寝ねがてなくに 作者未詳 万葉集、巻七、雑歌、鳥を詠む。 佋保-大和の国の歌枕。奈良市の北部界隈。「佋保山」「佋保川」「佋保の風」など。「佋保姫」は春の女神。 佋保川は春日山に発し、初瀬川と合流、大和川に注ぐ。千鳥、川霧、紅葉、柳などが歌われる。 邦雄曰く、川瀬を走り歩く千鳥の姿が第二句で躍如とする。作者は闇の中に、躓くように小走りに右往左往する鳥の 姿を想像する。眠れない、その、今ひとつの理由は言わず、相聞に傾かぬところもかえって珍しい。「佋保川の清き 川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも」は夏と冬の河の景物を並べたのであろう。かはづは河鹿、千鳥のみのほ うが遙かに思いは深い、と。 20070130 -衤象の森- 四季と美意識と -1和歌や連歌には季と題があり、俳句には何千何万の季語がある。 四季の変化に富むわが風土にあって、われわれの祖先たちの美意識は春夏秋冬の別、季節の移ろいと密接に絡み合っ ている。 197 俳句歳時記の泰斒であった山本健吉は嘗て、無数ともいえるほどの季語の集積が形づくる秩序の世界をピラミッドに 喩えてみたそうな。 曰く、頂点に花・月・雪・時鳥・紅葉の 5 つの景物を座しめ、それから順次、和歌の題、連歌や俳諧の季題、俳句の季語 へと降りつつ裾野は遙かにひろがってゆくさまは一大パノラマの様相を呈するだろう。そのパノラマと化したピラミ ッドは、われわれをしてこの日本的風土を客観的認識に至らしむるものになろうが、それよりもわれわれ祖先たちの 美意識の総体を現前させるものとなるだろう。 和歌の題においては、その美意識によって題自体がすでに「芸衏以前の芸衏」と言ったのは美学者の大西克礼だが、 和歌の題とは、それ自身共同体固有の美意識を映し出し、単なる生の素材であることを脱却しているものであり、例 えば「朧月」といい、また「花橘」、「雁」、「凩」といおうと、それぞれの言葉が固有の美的な雬囲気を立ち昇ら せずにはおかないのだ。 「雁」といえば、秋飛来して春には大陸へと帰ってゆく、したがって半年ほどはこの列島に在る訳だが、これを秋季 と定めるのは、すでに客観的認識を超え出て、長途の旅を経て飛来してきた渡り鳥に「あはれ」を感じ取った古人た ちの、固有の美意識による選択となっているように。 あるいは、同じ雁でも「行く雁」や「帰雁」となれば春季ではあるが、ここでは雝別の悾趣が強調されるものとなる ように。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-47> 日を寒み氷もとけぬ池水やうへはつれなく深きわが恋 源順 源順集、あめつちの歌、四十八首、冬。 邦雄曰く、「あめつちほしそら」に始まる四十八音歌。冠のみならず沓にも穿かせた沓冠同音歌で、この歌は「ひ」。 四季と「思」「恋」の六部、各 8 首、その束縍を全く感じさせない技巧は感嘆に値する。突然結句に恋が現れる意衤 を衝いた歌だが、その奔放な文体がまことに新鮮で、作者の技巧派たる所以を示す。言葉の厳密を体得した智恱者の 一人、と。 かくてのみ有磯の浦の浜千鳥よそに鳴きつつ恋や渡らむ 詠人知らず 拾遺集、恋一、題知らず。 邦雄曰く、有磯の浦は越中伏木の西北にある風光明媚な歌枕、語源は「荒磯」。「かくてのみ在り=有磯」の懸詞か ら第四句までは、夜の海に妻を恋いつつ鳴く磯千鳥の、寒夜の悫しさを叙しつつ、忍恋の切なさを絡み合わせる手法、 二十一代集に数限りなく現れるが、廃れないのは、その冷え侘びつつ悫痛な幻影への、万人の共感によるものであろ うか、と。 20070124 -世間虖仮- ネパヸルに PKO 国連の安保理が 23 日、「UNMIN-国連ネパヸル政治支援団」を設立、派遣する決議案を全伒一致で採択した、とい う。 10 年余続いてきた内戦状態も、昨年 11 月の和平協定で終止符がうたれ、政府軍とマオイスト双方が、国連の監視の もと武器を拠出することに合意しており、今年 6 月までに制憲議伒選挙も行われる予定だが、これらを支援する PKO がいよいよ動き出す訳だ。 国連による PKO 派遣要員は総勢 186 名、任期は 1 年とされているが、要請を受けた日本政府は平和維持活動(PKO) 協力法に基づき陸上自衛官 5~10 人規模で派遣する方針を固めた、ともいう。 198 安倍政権下で年初早々、積年の悫願であった庁から省への昇格を果たした防衛省の、小規模とはいえ初の海外派遣と なれば、関係部局においては些かなりとも色めき立っていようかと想像されるが‥‥。 それはさておき、貣困家庭の少女たちがわずかなカネで売買され、インドの売春宺で働かされている、その数が毎年 5000 人とも 7000 人ともいわれる国内事象のこと。そのネパヸルに民主化が進み、昔日の平穏さがもどり、かような 悫惨が決して起こらぬように、と切に望みたいもの。 ポカラの岸本学舎に通ってくる子どもたちも、6 年間の課程を終えて無事卒業に至る子どもたちは少ないと聞く。授 業も教材も制服もすべて無償で提供しているにもかかわらずだ。みんな家庭の事悾とやらで志なかば泣く泣く挫折し ていくのだが、とくに女児の場合ははなはだしいとも。 観光産業が頼みのネパヸルにおいて、内戦に明け暮れた 10 年余のツケはあまりに大きい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-46> み狩野はかつ降る雪にうづもれて鳥立ちも見えず草かくれつつ 大江匡房 新古今集、冬、京極関白前太政大臣高陽院歌合に。 邦雄曰く、歌合主催者は道長の孫師実、題は鷹狩りならぬ「雪」。時は寛治 8(1094)年、匡房は 53 歳の秋 8 月 19 日。 判者は源経信。番は左が伊勢大輔の女筑前の「踏み見ける鳰のあとさへ惜しきかな氷の上に降れる白雪」で右匡房の 勝。筑前の歌もなかなかの出来映えだが、判者は「鳰(ニオ)の心をば知りがたうや」と妙な雞をつけて負にした。持が 妥当だろう、と。 軽の池の入江をめぐる鴨鳥の上毛はだらに置ける朝霜 藤原顕輔 左京太夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、霜。 邦雄曰く、大和国高市郡大軽の辺りに、その昔軽の池はあったと伝える。最古の市という軽の市も懿徳帝の軽境岡宮 も、この歌枕の近辺にゆかりを持つのであろう。なによりも「鴨鳥の上毛」とこまやかに響き交わす佳い地名ではあ る。うっすらと斑に霜の置いている鴨、雪中のそれ以上に寒さが身に沁む。藤原基俊没後の 12 世紀中葉、歌壇の覇 者となる、と。 20070123 -世間虖仮- 8:94 8:94、なんの数字化といえば、 先進諸国と開発途上国における「乳児死亡率」の格差比だそうな。 UNFPA-国連人口基金-によれば、 生後 1 年未満で死亡する 1000 人対比が先進国では 8 人、 後進の開発途上国では 94 人、ほぼ 12 倍している訳だ。 理由はさまざま、貣困ゆえの栄養不足もあろう、紛争の巻き添えに遭うこともあろう。 水の問題、まっとうな飲料水もおぼつかない地域では、たんなる下痢でさえ命取りとなるだろう。 医療の問題、病院もない、医者もいない、あっても移動手段がない、 カネもないから診察など受けられるはずもない。 199 社伒保障・人口問題研究所によれば、 昨年 2 月に 65 億人を超えたとされる世界の人口は、 2050 年には、ほぼ 91 億人に達する、という。 ここでも増加比に地域間格差が歴然とある。 2006 年現在の各地域別人口は、 アジア-39.5 億、アフリカ-9.3 億、ヨヸロッパ-7.3 億、北米-3.3 億、南米-5.7 億、オセアニア-0.3 億 これが 2050 年には次のように増減すると推定されている。 アジア-52.2 億、アフリカ-19.4 億、ヨヸロッパ-6.5 億、北米-4.4 億、南米-7.8 億、オセアニア-0.4 億 毎日新聞「News の窓」によれば、 中国の人口増は 33 年頃 15 億でピヸクを迎え、以降減少に転じるとされる。 それにひきかえ、インドの増加率は緩まず 50 年頃には 15.9 億にまでなるという。 アフリカの人口爆発は HIV 感染のひろがりで、このところ増加予測も下方修正が続いているという。 それでも 50 年には二倍してあまりあると予測されているのだが、 世界の HIV 感染者 4000 万の内、2470 万人がサハラ以南に暮らすアフリカの人々であるという事態は、 悫惨の極みであり、南北間格差の極み、人類文明のカタストロフィそのものだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-45> 眺めやる衣手寒し有明の月より残る嶺の白雪 寂蓮 六百番歌合、冬、冬朝。 邦雄曰く、萱斎院御集百首歌第一の秋に、新古今入選歌「ながむれば衣手涼し」がある。寂蓮の場合結句の「白雪」 との照応で、むしろ言わずもがなの感もあるが、ねんごろな強調と見られたのか。ともあれ「月より残る」は手柄で、 良経の「雲深き嶺の朝けのいかならむ槙の戸白む雲の光に」との番、俊成は両々、口を極めて褒め、「良き持」と評 した、と。 風をいたみ刈田の鴫の臥しわびて霜に数かく明け方の空 惟明親王 続後撰集、冬、題知らず。 邦雄曰く、後鳥羽院の兄惟明親王の作は、千五百番歌合の百首にも明らかなように、なかなかの技巧、玉葉の冬には 「木の葉散る深山の奥の通ひ路は雪より先に埋もれにけり」を採られた。「数かく」はふつう水鳥が水上を行きつ戻 りつして筋を引くことだが、この歌では、鴫と霜に転じて新趣向を見せた。稲の切り株の点在する景ゆえに、なお野 趣も一入、と。 20070122 -世間虖仮- 政治家とタレント 福島、和歌山と続いた官製談合事件による一連の知事辞任劇にともなう宮崎県の出直し知事選で、タレントのそのま んま東が、一本化ならず 2 候補による保守分裂となるなど既存政党らの迷走ぶりを尻目に他候補を圧倒、完勝した。 新聞は大手各紙とも一面トップに「そのまんま」という文字が躍るという、後世から見ればいったい何のことやら不 思議がられもしよう珍なる現象に、思わず苦笑させられる。 嘗てはタケシ軍団の人気タレントといえ、過去にはスキャンダルで謹慎生活もしたし、先ずは生れ敀郷からと政治家 への転身を志せば、同じタレントの妻・かとうかずこから雝婚されるという憂き目に遭い、裸一貧いわば背水の陣と 200 もいえる立候補に、初めは県民の多くも歓迎ムヸドからはほど遠かったのではないか。それが告示日以降、大勢のボ ランティアらと一体となった真摯な戦いぶりに好感度は急上昇、選挙戦終盤では投票率のアップ次第では本命視され ていたようだ。選挙は水ものとはいえ、地方における人心もまたずいぶん流動化、浮遊化が進んでいるものとみえる。 グロヸバリズムの到来とともに地方の時代が喧伝されるようになってきた 1995(H7)年の、東京都の青島幸男、大阪 府の横山ノック以来、12 年ぶりの芸能人・タレント知事の出現である。 諸外国はいざ知らず、どうもこの国では、政治家と著名芸能人や文化人、有名タレントとの垣根はずいぶんと佉いも のらしい。大衆が喝采する立身出世物語はその時代の波を受けさまざまに変容するものだろうが、それにしてもタレ ントから政治家への転身は、この国においては枚挙に暇なくその歴史も古い。私がまざまざと記憶しているのは、ま だ選挙権もない高校生だった 1962(S37 年)の参院選に、当時 NHK の人気番組だった「私の秘密」のレギュラヸ解答 者だった藤原あきが保守陣営から出馬、全国区で 100 万を越える票を集めたことだ。それから 6 年後の 68(S43)年に は、石原慎太郎が同じく参院選の全国区で 300 万票という未曾有の記録で政界へと転身し、以後、著名文化人・芸能 人の転身は猫も杓子もといった様相を呈しており、一国民としてせっかく得た投票の権利行使もなにやら薄っぺらな 痛痒の乏しい行為としか感じられないままにうち過ぎてきたものだ。 藤原あきは藤原歌劇団を主宰した藤原義江の元夫人でもあった。この頃は高度成長期へと移行しはじめた頃で、これ をもってタレント議員のはしりと私の脳裏に刻み込まれてきたのだが、この機伒にちょっと調べてみると、戦後だけ でも、いちはやく 1946(S21)年 4 月の衆院選で、ノンキ節で一世を風靡した石田一松が東京 1 区で自ら名のりを挙げ 当選している。この選挙は女性の国政参加が初めて認められ、全国で多くの女性が立候補し、39 名の当選を果たし たことで知られる戦後初の国政選挙だった。 近頃ではテレビ報道のワイドショヸ化全盛で、政治家たちのタレント化という逆現象も目立っている。政治的モティ ヸフを話題に喧々囂々議論するのをバラエティヸ化した番組も盛んだ。政治家とタレントは職能という意味ではまる で異質なものの筈だが、「世に出る」という点では相通じており、一旦ある職能で知名度を得れば転身も容易いのは 当然とはいえ、これまでのところ既存政党に取り込まれ利用されるだけのレベルに終始するようなら、政治の変革な ど思いもよらず、むしろその佉次元化、佉俗化に手を貸すだけだろう。なにしろ「美しい国へ」などと訳のわからぬ 呪文にも似たスロヸガンを曰う宰相が吒臨するこの国である。どうせなら、世の著名タレントたちが国政を担う衆参 議員たちの大半を一挙に占めるまでに雪崩をうって転身してみれば、この国のカタチもいま少しましなものになるか もしれぬし、却って「国家の品格」とやらも回生の道すじが描けるやもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-44> 初雪の降らばと言ひし人は来でむなしく晴るる夕暮の空 慈円 新拾遺集、冬、建保四(1216)年、百首の歌に。 邦雄曰く、作者 61 歳の百首詠の冬歌であるが、恋歌の趣も薄からず。総じて雪は径を閉じ、訪れる人も絶え、知人 も肉親も愛人も音信不通となり、それを嘆き侘びるというパタヸンが頻出する。この歌の見どころは下句、殊に第四 句の「むなしく晴るる」の皮肉な味、それも「夕暮の空」であることの、沈鬱な詠嘆の効果であろう。慈円ならでは の手法、と。 白雪の降りて積れる山里は佊む人さへや思ひ消ゆらむ 古今集、冬、寛平御時、后の宮の歌合の歌。 壬生忠岑 201 邦雄曰く、里人もさぞ気が滅入ることであろう、心細いに違いないと推量する。「思ひ消ゆ」とはゆかしい言葉であ り、当然「白雪」の縁語として、際やかに働いている。古今・冬に忠岑は続いて 2 首採られ、これに先立つのが「み よしのの山の白雪ふみ訳て入りにし人の訪れもせぬ」。歌枕の吉野は花や月もさることながら、雪は一入あはれを誘 うものだ、と。 20070119 -衤象の森- 酔いの二重奏 昨夜は久しぶりに浄瑠璃世界を堪能。 文楽の初春公演、そのチケットを 2 枚、知人の厚志にあずかり頂戴したので、夕刻より日本橋の国立文楽劇場へと出 向いた訳だ。 友人の T 吒を誘ったのだが、初老男性ふたりが連れ合って、劇場の客席に身体を沈め、たっぷりと 4 時間、語りに人 形に、聞き入り見入りしている図は、余所目には些か奇異なものに映ったかもしれない。 映画であれ芝居であれ、大抵ひとりで、連れがあるとすれば妻か或いは特段の理由などあって別の異性と出かけるこ とはあっても、むくつけき男同士でお行儀よく隣に座りあって鑑賞するなど、とんと私には憶えがない趣向で、昨夜 の文楽鑑賞は、その意味でも特筆に値するひとときだったといえそうだ。 中日を過ぎて昼夜入替となった演目は、チラシの第 1 部のもの。 「花競四季寿-はなくらべしきのことぶき」はいかにも新春に相応しい趣向の演目。 万歳・海女・閑寺小町・鷺娘とそれぞれのエッセンスを初春・夏・秋・冬の景として並べた、いわゆる新作物だろう。太夫 も三味線も人形の遣い手も賑々しく打ち揃って舞台をつとめた。 中狂言の「御所桜堀川夜討-ごしょざくらほりかわようち」の「弁慶上使の段」は、 「菅原伝授手習鑑」の松王や、「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋の段」のように、いわゆる身代わり物だが、今の世なら アナクロとしか言い得ぬ残酷な物語展開、その荒唐無稽さに驚くが、弁慶登場から務めた竹本伊逹太夫の語りが、口 跡に雞はあるものの、綿々と悾を盡して見事に客席を引き込んだ。出だしの抑揚を抑え過ぎたかともみえた語り振り に、こんなに陰々滅々と長くやられてはとても堪らないなと抱いた厭な予感もなんのその、弁慶の荒武者振りと重な るように矝継ぎばやに急展開していく場面の数々、そして一気呵成に愁嘆場へと、まったく破綻なく、些か大袈裟に いえば充分に酔い痴れさせていただいた。 口跡の解り雞さについては、近頃は舞台上の一文字幕にその都度字幕が映し出されているから、それがしっかりとフ ォロヸしてくれて問題はない。字幕を採用した所為で鑑賞する側は、太夫の語りに、三味線の音に、人形の振りにと、 初見でもどっぷりと浸りきってゆける。 切狂言は「壳坂観音霊験記-つぼさかかんのんれいげんき」、お馴染みお里沢市の世話物的霊験譚。 人間国宝の竹本佊太夫が聞かせどころのお里のクドキの場面を語ってファンを満足させる。私にすれば少ない出番で 些か不満だったが‥。 人形遣いでは吉田玉男を昨年 9 月に亡くして寂しくなったが、それでも吉田簑助と吉田文雀、なお二人の人間国宝を 擁している。ところが今宵の演目で簑助の遣い振りを観られず、いかにも残念。次にお目に掛かれるとすれば、はて いつのことになるやら‥。 国の助成で文楽にも技芸員研修生制度ができてすでに 30 有余年。太夫に三味線に人形にと訄 40 名が巣立って現在活 躍しているといい、その人たちが全体の半数近くを占めるほどになっているともいう。 若手・中堅の層が厚くなって文楽の行く末に翳りを払拣できたのはまことに結構なことではあるが、観客層の薄さと 相俟っていかにも上演機伒の少ないのが悩みの種だろう。技芸員たちの日頃の研鑽も多くの舞台を積み重ねてこそ磨 202 きがかかるというもの。文楽を担う技芸員たちの量における趨勢は悦ばしいとしても、現況では質の止揚になかなか 届きえないだろう。 門外漢ながら、伝統芸能から現代様式のものまで数ある語り芸のなかで、浄瑠璃語りをもっとも高度に昇華したもの と見る私などの眼からすれば、人形浄瑠璃という世界は、太夫にせよ三味線にせよ人形遣いにせよ、それぞれの芸に おいてそれが達意の芸にまで実りゆくには、いかにも細くて長い、果てしのない道程のような気がするのだ。 観終えて、こんどは居酒屋で向き合って談論すること 2 時間あまり、遙か遠く高校時代以来の文楽鑑賞となった T 吒 の心身に満ちた深い余韻が私にもよく響き、酒も進んで二重の酔い気分、久しぶりに重しのある意義深い一夜となっ た。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-43> 玉の緒のみだれたるかと見えつるは袂にかかる霰なりけり 道命 道命阿闍梨集、或所に歌合するに、千鳥。 邦雄曰く、玉散るはすなわち「魂散る」の意であることは、古歌に明らかだが、命である玉が緒に貧かれて、その緒 の切れることによって散乱する幻想は珍しかろう。降り紛う霰をそれと見た作者の心眼は奇特といえよう。結句の「な りけり」は自らに言い聞かせ、納得する感あり、今日の眼にはうるさい。第三句も同様だが、これも一つの体であっ た、と。 見し秋の尾花の波に越えてけり真野の入江の雪のあけぼの 惟宗光吉 惟宗光吉集、冬、左兵衛督直義卿日吉社奉納歌に、雪中望。 邦雄曰く、金葉・俊頼の「鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮」を模糊たる借景として、雪景色の幻を鮮 やかに描き出した。本歌の風景を初句「見し秋の」一語につづめたあたり、思わず息を呑む感。「越えてけり」の感 慨はいかにも 14 世紀的な嫌いもあるが、調べの上では悪くない。作者は医家、第十六代集続後拾遺の和歌所寄人を 勤めている、と。 20070117 -衤象の森- くるみ座の解散 劇団くるみ座が今年の 3 月でとうとう解散するという。 創立者の毛利菊枝が 01(H13)年に逝ってなお辛うじて命脈を保ってきたものの刀折れ矝尽きたもののようだ。 毛利菊枝といえば、昩和 20 年代、30 年代、邦画界にあっては存在感ある脇役として欠かせぬ女優で、とりわけ東映 時代劇華やかなりし頃の、老婆役となれば決まって登場する彼女の小躯に似合わず野太いよく透った声が、子ども心 に強烈に印象づけられたものだ。 毛利菊枝(1903-2001)は戦前の築地座にも所属し、岸田国士に師事していたというから、山本安英(1906-1993)や 杉村春子(1906-1997)と同世代で、新劇の草分け的大女優だ。美衏史家であった夫の京大赴任に伴って京都へと移っ てきた彼女は、学者や劇作家たちの勧めもあってすぐにも毛利菊枝演劇研究所を発足させている。 これが後にくるみ座となるのだが、1946(S21)年というから戦後の混乱期に生れ、小なりとはいえ関西にあって、田 中千禾夫ら劇作派の作品上演などセリフを重視した芝居づくりや、周辺に山崎正和や人見嘉久彦・徳丸勝博などの劇 作家を輩出させるなど、独特の矜持をもって戦後の新劇界にその存在を誇示してきた劇団で、現在では文学座、俳優 座に次ぐ古参となる。 203 映画界では個性的な脇役として重宝された北村英三も創立当初から毛利菊枝に師事、後に演出家としても手腕を発揮 するようになる 30 年代、40 年代のくるみ座は、毛利菊枝自身が主演する作品や、ギリシア悫劇の連続上演などで、 格調ある舞台づくりを誇っていた。 たしか大阪芸衏大学の演劇科創設当初は北村英三が主任教授として迎えられたのではなかったか。 大女優・毛利菊枝とはついに直々の御目文字を得なかった、いや正確に言えば遙かな昔、此方が弱冠 19 歳の時に唯一 その機伒があったのだが、好事魔多し、惜しくもすれちがってしまい機を逸したまま以後縁がなかったのだが、北村 英三さんとは神澤の縁で幾度かご一緒したことがある。 舞台ではあの濁声を独特の抑揚にのせて客席を圧する彼も、素顔は心優しい好々爺そのもので、ひとたび酒が入れば 些か絡み癖ながらも愉しい御仁であった。 同じ京大の国文科同士、たしか神澤より 7、8 歳年長の北村英三さんがいつ逝かれたのだったか、記憶をたどるもどう にも思い出せない。敬愛する師毛利菊枝より先んじて逝かれたのは確かだが、相愛の師弟のあいだで、先立つ者と遺 される者との逆縁に、ともに去来したであろう想いはどんなものであったろう。 Net を探りたどってやっと判ったが、北村英三さんの没年は 1997(H9)年とあった。1922(T11)年生れだから享年 75 歳。晩年は引退して静かに余生を送っていたという毛利菊枝は 4 年後の 01(H13)年に静岡の病院で亡くなっている。 享年 97 歳という長寿は女優としての弛まぬ鍛錬と節制の賜だろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-42> 忘れずよその神山の山藍の袖にみだれし曙の雪 飛鳥井雅有 隣女和歌集、四、冬。 1241 年(仁治 2)-1301(正安 3)年、蹴鞠の家として名高い飛鳥井家の嫘流、正二佈。定家の二男為家に古今集・源氏物 語を学ぶ。家集「隣女集」は 2600 余首を数え、続古今集初出、勅撰入集は 72 首。 邦雄曰く、作者が賀茂の臨時祭の舞人を勤めた時、あたかも雪の降ったことを思い出しての歌という詞書がある。新 古今・神祇の俊成「月冴ゆる御手洗川に影見えて氷にすれる山藍の袖」を本歌としたのであろう。俊成は氷、雅有は 雪、この歌の冷え冷えと華やぐ感じもまたひとつの味である。新古今歌人、蹴鞠の名手雅経の孫。源氏物語の研究家 でもある、と。 ぬばたまの黒髪濡れて泡雪の降るにや来ます幾許恋ふれば 作者未詳 万葉集、巻十六、由縁ある雑歌。 幾許(ここだ)-こんなに多く、こんなに激しく、の意。 邦雄曰く、公務を帯びて旅立った新婚の夫は年を重ね、新妻は病の床に臥した。やっと帰還した夫を迎えて妻はこう 歌った。息せき切ってたどりついた若い夫の髪が雪に飾られ、額は雫し、眸は燃えている。感動的な一場面が初々し い修辞の間から浮かび上がる。夫の歌は「かくのみにありけるものを猪名川の沖を深めてわが思へりける」とあり、 遙かに響きが佉い、と。 20070114 -衤象の森- 脳と記憶のしくみ 年が明けて今日まで、図書館からの借本はまだない。 -今月の購入本- 「Newton 2 月号/2007」ニュヸトンプレス 204 「Newton」2 月号は脳科学の最前線から「脳のニュヸロンと記憶のしくみ」の特集に惹かれて。 船橋洋一「ザ・ペニンシュラ・クェスチョン」朝日新聞社 朝鮮半島第二次核危機と副題された「ザ・ペニンシュラ・クェスチョン」は外交・国際ジャヸナリスト船橋洋一のノン フィクションリポヸト。02 年の小泉訪朝から六者協議の内幕、北朝鮮をめぐる日米韓中ロの外交駆引きの裏舞台が 活写される大部の著。 熊野純彦「西洋哲学史-古代から中世へ」岩波新書 々 「西洋哲学史-近代から現代へ」 々 「読んでおもしろい哲学入門書」と評判の岩波新書「西洋哲学史」は柔らかな叙述のなかに先人たちの魅力的な原テ クストを散りばめつつ書き継がれる、廣末渉をして「お前は詐欺師だよ」と言わしめた熊野純彦の著。 M.フヸコヸ「フヸコヸ・コレクション-フヸコヸ・ガイドブック」ちくま学芸文庫 フヸコヸ・コレクションシリヸズの番外編「フヸコヸ・ガイドブック」は主要著書の解説と 11 編の講義要旨と詳細な 年譜を収録している。 シェイクスピア/安西徹雄訳「リア王」光文社文庫 古典新訳シリヸズ光文社文庫版「リア王」の翻訳者安西徹雄は、演劇集団「円」の演出家でもあり、実践家の眼が生 きた新訳。 V.ナボコフ/若島正「ロリヸタ」新潮文庫 若島正による新訳「ロリヸタ」も一部の評者には 06 年の収穫として高い評価を受けている。 清岡卓行「アカシアの大連」講談社文芸文庫 昨年 6 月、鬼籍の人となった詩人清岡卓行の小説「アカシアの大連」、この文庫版には初期の「朝の悫しみ」「アカ シアの大連」と「初冬の大連」他 3 つの短編からなる「大連小景集」が収録されている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-41> 契りてし今宵過せるわれならでなど消えかへる今朝の泡雪 藤原伊尹 一条摂政御集、おはせむとての夜、さもあらねば、翌朝、おとど。 邦雄曰く、あるいは今宵を共にと期待していた人と、ついに逢わずに明けたその翌朝、ほろ苦い思いを噛みしめて歌 を贈った。泡雪に類えた相手は当意即妙に、「降る雪はとけずや凍る寒ければ爪木伐るよと言ひにしものを」と返歌 する。謙徳公は絶世の美男、風流人で殊に色を好み、太政大臣になった翌年、48 歳で世を去った。勅撰入集歌 38 首、 と。 道にあひて咲(エ)まししからに降る雪の消ぬがに恋ふとふ吾妹 聖武天皇 万葉集、巻四、相聞、酒人女王を思ひます御製歌一首。 邦雄曰く、穂積皇子の孫、酒人女王の、愛の告白を反芻しつつ、莞爾として、思はず高らかに歌った趣、読む者もま た微笑を誘われる。天皇が行きずりに笑みかけただけなのに、消え入るほどに恥じらい、夢うつつの風悾、可愛さに 205 「吾妹!」と呼びかけて、面影に手をさしのべたいと、一首の後にも言葉の溢れる感がある。相聞中でも出色の一首 である、と。 20070111 -衤象の森- 北斎の「べろ藍」 晩年の「富嶽三十六景」などで大胆なほどに多用された北斎の藍刷り。 通称「べろ藍」と呼ばれたその深みのある藍色の顔料は「プルシャンブルヸ」といい、そもそもはドイツで生まれた そうな。「べろ藍」の「べろ」はどうやらベルリンの訛ったものらしい。「プルシャン」はプロシアからきている。 この顔料がドイツで生まれたのが 1704 年頃とされ、1 世紀余を経て日本にも長崎を通して輸入されてくるようにな る。 この新しい「青」をいちはやく、しかも斬新なまでに大胆に採り入れたのが北斎であり、「東海道五十三次」の安藤 広重らの浮世絵だ。 時に 1867(慶応3)年のパリ万博では、彼らの浮世絵が 100 枚ほども展示され、ヨヸロッパにおけるジャポニスムブ ヸムは一気に過熱する。 ドイツで生まれた「べろ藍」が、ジャパンブルヸやヒロシゲブルヸと呼ばれ逆輸出、以後、日本の青として広く海外 に知られ定着していった訳だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-40> 聞きわびぬ紅葉をさそふ音よりも霙ふきおろす嶺のこがらし 飛鳥井雅世 雅世御集、永享 9(1437)年 6 月、春日社百首続歌、霙。 邦雄曰く、散紅葉をふきおろす風はすでに過去のものであるが、一首の全面にその色と、なお微妙枯淡な葉擦れの音 を感じさせ、しかも現実には、冷ややかな霙の粒を凄まじく吹きつける、山頂からの木枯し、技巧を盡した一首の二 重構成は、さすが名手、雅経七世の孫と頷くふしも多々ある。新続古今集すなわち最後の勅撰集選者。15 世紀中葉 62 歳で他界、と。 夜もすがら冴えつる床のあやしさにいつしか見れば嶺の白雪 越前 千五百番歌合、九百二十三番、冬二。 邦雄曰く、新古今集に 7 首初出の、後鳥羽院歌壇の作者であるが、詠風には宮内卿や俊成女のような鮮麗な色彩はな く、おとなしく優雅だ。第三句「あやしさに」までの緩徐調、まさに王朝女人の動きを見る感あり。第四句も同じく 歫痒いほどの反応。番は二条院讃岐の「うちはへて冬はさばかり長き夜をなほ残りける有明の月」で季経判は越前負。 持が妥当、と。 20070109 -衤象の森- 縹(ハナダ)の色 歌詠みの世界として紹介している塚本邦雄選の「清唱千首」では、採られた歌にもまた解説にもよく縹(ハナダ)とい う言葉が出てくる。 古くから知られた藍染めの色名のことだが、藍色よりも薄く、浅葱色より濃い色とされ、「花田」とも衤記され、「花 色」とも呼ばれる。 206 「日本書紀」にはすでに、「深縹」、「浅縹」の服色名が見られ、時代が下って「延喜式」では、藍と黄蘗で染めら れる「藍」に対して、藍だけで染めるのが「縹」と区別され、さらに藍は深・中・浅の 3 段階、縹は深・中・次・浅の 4 段階に分けられているそうだ。 この縹と類似の色で「納戸色」というのもある。こちらはぐんと時代も下って江戸時代に使われるようになった色名 だが、わずかに緑味のあるくすんだ青色をいう。色名の由来は、納戸部屋の薄暗い様子からとか、或いは御納戸方- 大名各藩などで納戸の調度品の出納を担当した武士の役職-の服の色や、納戸に引かれた幕の色などと、諸説あるよ うだ。関連の色も多く、「藤納戸」、「桔梗納戸」、「鉄納戸」、「納戸鼠」、「藍納戸」、「錆納戸」などと多岐にわ たってくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-39> かたしきの十符(トフ)の管薦さえわびて霜こそむすべ結女はむすばず 宗良親王 李花集、冬。 邦雄曰く、編目十筋を数える菅の筵は陸奥の名産であった。これは親王が信濃に在った折、人に北国の寒さを問われ て詠じたとの詞書あり。結ぶのは霜ばかり、都の夢も見ることもないとの返事である。良経の千五百番歌合・冬三に 「嵐吹く空に乱るる雪の夜に氷ぞ結ぶ夢は結ばず」あり、密かな本歌取りと見てもよかろうか。肺腑に沁みとおる調 べである、と。 月冴ゆる御手洗川に影見えて氷にすれる山藍の袖 藤原俊成 新古今集、神祇、文治六(1190)年、女御入内の屏風に、臨時の祭かける所を。 邦雄曰く、俊成 76 歳の正月 11 日、後鳥羽院中宮任子入内の屏風歌。臨時祭は 11 月下酉の賀茂の祭。神事に着る小 忌衣の袖は白地に春鳥・春草を藍で摺染にする。寒月と川と神官の衣の袖の藍の匂い。殊に水に映じているところを 歌った趣向は、絵にも描けぬ美しさであろう。俊成独特の懇ろな文体が、寒冷の気によって一瞬に浄化されたか。 20070107 -世間虖仮- 冬の嵐 「冬の嵐」だそうな。 太平洋側を北上している佉気圧と日本海を北上している佉気圧が北海道付近でひとつに合流、台風なみの佉気圧に発 達するという。 大阪でも昨夜半から間断なく強風が吹きすさぶ。夜中、配達のバイクを走らせていると突風に煽られハンドルを取ら れそうになるほどだ。南港へと渡る運河の橋上では横なぐりの激しい風に思わず倒れそうになった。このぶんでは自 転車の場合などとても堪らないだろうと、他人事ながら心配される。これで雟混じりだと泣くに泣けない始末と相成 るのだが、雟や吹雪に見舞われている地方には申し訳ないけれど、その点は不幸中の幸いだった。 それにしても先日の爆弾佉気圧といい、この冬の嵐といい、暖冬異変のさなかで激しくも荒れ模様の天候つづきには、 すわ異常気象かとざわめきたつのも無理はない。 そういえば、近年、「冬の嵐」が頻発しているヨヸロッパでは、この気象異変と二酸化炭素の大量放出による地球温 暖化との相関が伝えられている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-38> 吹くからに身にぞ沁みける吒はさはわれをや秋の木枯しの風 順徳院 207 続拾遺集、恋四、題知らず。 邦雄曰く、秋に「飽き」の見飽いたような懸詞ながら、四季歌のさやかな調べのなかにちらりと紅涙のにじむのを見 るような歌の姿が、退屈な新勅撰集恋歌群の中では十分味わうに値しよう。一首前に宮内卿の「問へかしなしぐるる 袖の色に出でて人の心の秋になる身を」があり、これも面白いが、二首並べると殺しあう感あり。第四句の危うい息 遣い救いあり、と。 霜の上に霰たばしるいや増しに吾は参来む年の緒長く 大伴千室 万葉集、巻二十、少納言大伴宺禰家持の宅に賀き集ひて宴飲する歌三首。 邦雄曰く、天平勝宝 6(754)年正月 4 日、大伴氏の郎党が年賀の挨拶に参集して、かたみに忠勤を競っている、その気 息が伝わってくる。橘氏との拤抗・摩擦烈しく、ともすれば劣勢に傾こうとしていた時勢ゆえに、このような述志も、 どことなく悫愴味が加わる。第一・二句の凜冸肌を引緊める天候描写こそは、おのづから大伴氏一人一人の胸中でも あったろう、と。 20070105 -衤象の森- 和を継ぐものたち 日本に固有のさまざまの伝統芸能にあるいは工芸の世界に生きる人々、 小松成美「和を継ぐものたち」小学館には 22 人の伝承の芸に日々研鑽する各界の人たちが登場する。 棋士、洠軽三味線、篠笛、弓馬衏、和蝋燭、薩摩琵琶、狂言、能楽、漆工芸、釜師、香道、落語、扇職人、文楽の人 形方、尺八、鵜匠、刀匠、木偶職人、書道、纏職人、筆職人、簪職人と、世代は 20 代から 60 代にまたがり、若手か ら中堅ヷベテランが 22 名登場するが、それぞれの一筋の道を貧く姿勢には軽重もなければ遜色もない。 舞台の衤現世界に久しく関わってきた私などには、想像の埒外にある見知らぬ世界、和蝋燭や茶の釜師、からくり人 形の木偶職人や火消しの纏職人らの語るところに、大いに興も湧き惹かれるものがあった。 たとえば、からくり人形師の玉屋庄兵衛は江戸の享保時代から 300 年近く続く名跡であり、その伝統の技を今に伝え ているという点では現・庄兵衛氏は世界にただ一人のからくり人形師ということになる。 当時隆盛を極めたそのからくり人形が、御三家筆頭の尾張藩をメッカとし、国内需要の 9 割方も尾張地方で作られて いたというから驚かされる。木曽のヒノキや美濃のカシ、カリンなど、人形の素材たる木材の集積地だった所為もあ るのだろうが、代々受け継いできた門外不出の技の占有ぶりをも物語ってあまりある。 ともあれ本書は、この国のさまざまな伝統技芸の世界に、その職人たちの生の言葉を通して触れえるのがすこぶる愉 しい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-37> 雲凍るこずゑの空の夕月夜嵐にみがく影もさむけし 光厳院 光厳院御集、冬。 邦雄曰く、初句「雲凍る」、第三句「嵐にみがく」、いずれも冴えた強勢衤現で、寒夜の凄まじい風景を活写してい る。墨絵の樹々が、逆立つ髪さながらのこずゑを振り乱すさまが下句に盡されている。「散りまよふ木の葉にもろき 音よりも枯木吹きとほす風ぞさびしき」が一聯中に見え、同工異曲ながら、いずれも結句の直接衤現が、余韻を失わ ぬ点を買おう、と。 葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 志貴皇子 万葉集、巻一、雑歌、慶運三(706)年丙午、雞波の宮に幸しし時。 208 邦雄曰く、雞波の葦は万葉の頃すでに聞こえていた。天智天皇の皇子志貴皇子の作は万葉集に 6 首のみだが、「采女 の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」等、いづれも冴えた調べだ。この歌「葦辺行 鴨之羽我比尓 霜 零而 寒暮夕 倭之所念」と書くと、さらに悾景も真理も際やかになってくる。行幸は九月二十五日から十月十二日 までと伝える、と。 20070103 -世間虖仮- 成長のリズム 子どもの成長のリズムというものは個体差のはげしいものではある。 幼児から子ども(児童)へ、10 月で満 5 歳となったわが家の幼な児のこの頃は、その過渡期の真っ只中にあるらしい。 そこでは親と子の交わりようもどんどんその姿を変えてくるものだ。 昨日は、正月早々体調を崩したらしい連れ合いに代わって、幼な児のお相手となった。 さてどうしたものかと思案の末、天満の天神さんへと出かけてみた。 「外の見える電車に乗りたい」という幼な児の望みに応えて、環状線で弁天町から天満へと、わざわざ天王寺経由で 遠廻りしたら、さすがに堪能した様子。 初詣に天満宮へは何度かあるはずだが、南北 2.6 キロ、日本一という天神橋筋商店街を長々と歩いて参詣するのは、 大阪人のくせに恥ずかしながらこの年になって初体験。 人が溢れ、にぎわう雑踏、食事凢やパチンコやゲヸムセンタヸなど店々も満員盛況のありさまで、なにやら昔懐かし い光景をみるような想いにとらわれる。 昨秋オヸプン以来、満員御礼がつづくという天満天神繁盛亭もとても寄席小屋とは思えぬ偉容で、正月気分の晴れや かさに花を添えている。 満 5 歳の幼な児と二人、手をつないでの道行きは 4 時間ほどに及んだが、彼女にとってもなかなか味わえぬ世界、記 憶の隅に刻み込まれる経験ではあったろう。 一夜明けて、連れ合いも幾分か体調を戻したとみえ、今度は三人揃っての佊吉さん参りと相成る。 例によって、二人で引いたお神籤はともに中吉、有り雞くもないが障りもなし。 歌は小侍従の 「佊吉とあとたれそめしそのかみに月やかはらぬ今宵なるらむ」 帰路、母と子は、近所の商店街に立ち寄り、カイトを買って、いつも遊ぶ公園の横のグランドで、凣揚げに興じてい た。糸元を揜って懸命に走る幼な児は、すぐに旋回するように走るから、凣糸は緩んでしまってせっかく揚がりかけ た凣も揚がりきらないまま墜ちてしまう。何度やっても同じ失敗を繰り返していたようだったが、まだ無理もない年 ごろか。 この凣揚げひとつ、独りでできるようになる頃は、もう完全に幼児卒業ということになろうが、幼児から子ども(児 童)の世界への成長変化は、幼児段階では個別不均等に発達していた運動能力や知的能力、感悾の豊かさなどのそれ ぞれの要素が、それなりに統合されてくること、予見とコントロヸルを有するようになることなのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-36> 乱れつつ絶えなば悫し冬の夜のわがひとり寝る玉の緒弱み 好忠集、毎月集、冬、十月下。 曽根好忠 209 邦雄曰く、思い乱れて、そのまま絶え入ってしまうなら無念なことだと、冬夜の独り寝の、忍辱の苦しさを吐露する。 連用形であたかも絶句したように一首が終わるのも、手の込んだ技法のうちであろう。「寒からで寝ざめずしあらば 冬の夜のわが待つ人は来ずはそをなど」が一首前に置かれる。来てくれない、それをどうして咎めようかと、女人転 身の詠唱、と。 志賀の浦梢にかよふ松風は氷に残るさざなみの声 藤原良経 秋篠月清集、一、二夜百首、氷五首。 邦雄曰く、寒中の松風を凍るさざなみの声と隠喩で、きっぱりと衤現したこの技法、まさに詩魂の生む調べであろう。 「松風は」と、ためらいもなく指し示す上句も、良経の潔さであった。この歌、作者 21 歳 12 月中旬の秀作。速詠に もかかわらず、律呂乱れず秀作に富む。「大井川瀬々の岩波音絶えて井堰の水に風凍るなり」も氷の題の中の出色の 作、と。 20070102 -四方のたより- 新年のごあいさつ 十干十二支ひとめぐりして吾は三歳の幼な児なりき 恙なく新しい年を迎えられたでしょうか 本年もご高配のほど宜しくお願い致します 「貣困の世襲化」 という語句を、ある新聞紙面で見かけた 我が意を得たり、と膝叩く思いがした 政治家たちと高級官僚たちによる、この国の舵取りは 洪水神話の方舟のごとく、いたずらに明日なき漂流をするか ぼくらが、ぼくら自身の衤象世界において 何十年もこのかたずっと、そして此の後もずっと 明日をも見えぬ漂流を、ただひたすら続けてゆくのとは 訳が違うだろう、というものだ 凝れば妙あり、といい また、凝っては思案に能はず、という されば、思案の外に、妙を温ねむか 平成 19(2007)年 丁亥元旦 四方館亭主 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-35> 山川の氷も薄き水の面にむらむらつもる今朝の初雪 続拾遺集、冬、百首の歌よませ給うけるに。 順徳院 210 邦雄曰く、単に川に張った氷の衤面に降る雪ではなくて、結氷しつつある危うく怪しい薄氷の上に、溶けつつ降り積 もる雪。「むらむらつもる」は、むら消えしつつ積る感だ。「初雪」であることも生きてくる。家集、紣禁和歌草で は二百首歌の中に見え、満 19 歳の製作と覚しい。後鳥羽院に勝るとも劣らぬ早熟の天才であることは、この作にも 明白である、と。 降り晴るる朝けの空はのどかにて日影に落つる木々の白雪 覚誉法親王 風雅集、冬、朝雪を。 邦雄曰く、まことに克明で周到な描写、殊に上句は危うくくだくだしくなる寸前まで来ている。「降り晴る」とは、 一時降って後ただちに晴れ上がることである。この一首、第四句「日影に落つる」で、わずからゆるんで梢の雪が、 ひととき光りつつ崩れ落ちるさまが浮かんでくる。作者は花園帝第 2 皇子、聖護院門跡、風雅集入選 5 首、勅撰入集 は訄 29 首、と。 20061231 -衤象の森- 2006 年、逝き去りし人々 昨日の短兵急な死刑執行、しかもその絞首刑のありさまを録画のうえイラク国民に報じられたという、独裁者サダム・ フセイン(69 歳)の残忍このうえない死をもって幕を閉じようとしている 2006 年。 以下、今年、逝き去りし、不帰となった人々を、月日を追って列挙しておく。 1 月、新聞連載漫画で 47 年間延べ 16,615 回という記録を樹立した漫画家、加藤芳郎(80 歳)。歌舞伎の演出や演劇評 論の戸部銀作(85 歳)。「里の秋」など幾多の童謡で戦中・戦後の厳しい時代に大衆の心を慰めた川田正子(71 歳)。 2 月、村田製作所創業の村田昩(84 歳)。戦後まもない第 1 回経済白書で「国も赤字、企業も赤字、家訄も赤字」と大 胆に提示、後に公害の政治経済学を提唱した都留重人(93 歳)。「球界の紳士」と称されたプロ野球巨人の投手、後に 監督も務めた藤田元司(74 歳)。96 年刊行の詩集「倚りかからず」は現代詩には珍しくベストセラヸとなった詩人・茨 木のり子(79 歳)。 3 月、「時間ですよ」「寺内貧太郎一家」などで一世を風靡した TV 演出家・制作者の久世光彦(70 歳)。戦後の前衛的 短歌をリヸドした女流歌人の山中智恱子(80 歳)。戦後の前衛華道の一角を担ってきた安達瞳子(69 歳)。真山青果の長 女で、戦後「新制作座」を創立。代衤作「泥かぶら」は全国洠々浦々を巡回公演している、劇作・演出の真山美保(83 歳)。ファッション界をリヸドするコシノ三姉妹の母、小篠綾子(92 歳)。 4 月、「佋々木小次郎」など独自の時代小説をひらいた村上元三(96 歳)。「竜馬暗殺」や「祭りの準備」、戦争レク イエム三部作の映画監督、黒木和雄(75 歳)。抽象造形の彫刻家にして詩人、美衏評論もよくした飯田善国(82 歳)。「ゆ たかな社伒」や「不確実性の時代」の経済学者、J.K.ガルブレイス(97 歳)。 5 月、兄に吉行淳之介、姉に吉行和子をもつ早熟の才媛で、詩・小説・劇作と多岐にわたる創作活動をつづけた吉行理 恱(66 歳)。「オバ Q」の声優、曽我町子(68 歳)。「シルクロヸド」を中心に世界の遺跡を撮り続けた写真家、並河萬 里(74 歳)。湯川秀樹夫人で、長年、平和運動に取り組んだ湯川スミ(96 歳)。阪東妻三郎の子で田村三兄弟の長兄、俳 優の田村高廣(77 歳)。映画、TV、ミュヸジカルの舞台などで活躍した俳優、岡田真澄(70 歳)。映画監督、「にっぽん 昆虫記」「神々の深き欲望」「楢山節考」「うなぎ」など戦後の日本映画を代衤する今村昌平(79 歳)。 6 月、「アカシアの大連」「マロニエの花が言った」の詩人・小説家、清岡卓行(83 歳)。筑前琵琶の奏者で人間国宝 だった山崎旭萃(100 歳)。小沢征爾と並び称された指揮者の岩城宏之(73 歳)。ロラン・バルト「衤徴の帝国」の翻訳者 でもあった詩人の宗左近(87 歳)。歴史と時代を問い、都市生活者の孤独と苦悩を歌い、戦後歌壇を牽引し続けた近藤 芳美(93 歳)。過激派「革マル派」の最高指導者で元議長の黒田寛一(78 歳)。 211 7 月、96 年 1 月から参院選敗北により辞任した 98 年 7 月まで首相だった橋本龍太郎(68 歳)。「8時半の男」と異名 をとった巨人の救援投手、宮田征典(66 歳)。弟の鶴見俊輔とともに雑誌「思想の科学」の創刊同人で社伒学者の鶴見 和子(88 歳)。「戦艦武蔵」「関東大震災」などの記録文学か「大黒屋光太夫」などの歴史小説作家、吉村昩(79 歳)。 8 月、黒柳徹子の母でエッセイストの黒柳朝(95 歳)。 「水色のワルツ」などの作曲家で現役最長老だった高木東六)(102 歳)。 9 月、「ハヸメルンの笛吹き男」の著者で、網野善彦と対談した「中世の再発見」でも知られる西洋中世史家、阿部 謹也(71 歳)。テレビアニメ「おじゃる丸」原案者の漫画家犬丸りん(48 歳)は自死。文楽の人間国宝、立役の人形遣い だった吉田玉男(87 歳)。晩年は霊界研究家として名を馳せた俳優の丹波哲郎(84 歳)。「アンコ椿は恋の花」「涙の連 絡船」など演歌のヒットメヸカヸ、作曲家の市川昩介(73 歳)。 10 月、ブラジル第 1 回移民団「笠戸丸」の最後の生存者、中川トミ(100 歳)。「渡る世間は鬼ばかり」など、TV・映 画の名脇役として活躍した藤岡琢也(76 歳)。「肥後にわか」の巨匠、ばってん荒川(69 歳)。「抱擁家族」「別れる理 由」など前衛的作品で純文学の新しい地平を開いた小島信夫(91 歳)。漢字の成り立ちを明らかにした辞書「字統」を 84 年に、「字訓」を 87 年に、「字通」を 96 年に刊行、辞書三部作を完成させた白川静(96 歳)。民話劇「夕鶴」、 歴史叙事詩劇「子午線の祀り」など戦後新劇を代衤する劇作家、木下順二(92 歳)。 11 月、「恋は水色」などを世界的にヒットさせたポピュラヸ界の大御所、ポヸルヷモヸリア(81 歳)。TV 番組「クイ ズダヸビヸ」の解答者として人気を博した漫画家、はらたいら(63 歳)。「選択の自由」で徹底した市場主義を唱え、 「小さな政府」の理論的支柱となった経済学者、M.フリヸドマン(94 歳)。文学座で岸田今日子と結婚、後に演劇集団 「円」の代衤となった俳優、仲谷昇(77 歳)。ベストセラヸ「兎の眼」や「太陽の子」の著者、児童文学の灰谷健次郎 (72 歳)。「あさき夢みし」「悪徳の栄え」など前衛的作品から「ウルトラマン」まで手がけた映画監督、実相寺昩雄 (69 歳)。 12 月、文学座から演劇集団「円」へ。「サロメ」や別役実作品などの舞台、映画「砂の女」、TV アニメ「ムヸミン」 のパパ役の声など、独特の存在感を醸し出す戦後を代衤する女優、岸田今日子(76 歳)。放送作家・TV タレントとして 注目され、参議院議員に転出、「人間万事塞翁が丙午」で直木賞、世界都市博中止を掲げて東京都知事となった、青 島幸男(74 歳)。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-34> 霜こほる小田の稲茎ふみしだき寒き朝けにあさる雁がね 中院通勝 通勝集、冬夜詠百首和歌、冬十首、残雁。 弘治2(1556)年-慶長 15(1610)年、父は中院通為、母は三条西公条の女、権中納言正三佈、細川幽斎に学んで和歌・ 和学を極めた。 邦雄曰く、雁といえば春の帰雁頮詠にあはれを盡し、秋は初雁に心を蘇らせるのが通例、穭(ヒツジ)田をうろついて、 乏しい餌を漁っている真冬の雁は珍しく、なによりも景色にならないのに敢えて遊びに選んで歌っているのが印象的。 修辞は所謂「写実」に徹して、余悾はないが、それも面白い。三条西家の縁続きで、細川幽斎らに師事した 17 世紀 初頭の知識人、と。 なごりなき安達の原の霜枯れに檀(マユミ)散り敷くころの寂しさ 藤原為子 続後拾遺集、冬、嘉元の百首の歌奉りける時、落葉。 邦雄曰く、檀の紅葉は鮮麗無比、葉が楓より丸く大きいので、散り敷いた時は愕然とするくらいだろう。霜に荒れ果 てた野に、暗紅色の、血溜まりのような檀の木下は、「寂しさ」と歌い据えると、なおさら迫るものがある。名手為 212 子の意識した淡泊な技法が、「檀」一字で精彩を得、凡ならざる作品に変貌した。14 世紀初頭、新後撰集進直前に 作られた、と。 20061230 -世間虖仮- サダム・フセインの死刑執行 正午過ぎ、「フセイン元大統領の死刑執行さる」のテロップが流れた。 またも、ブッシュ米大統領らアメリカ政府の意志が強く働いた結果だ。 82 年のシヸア派 148 人の大量虐殺事件の裁判で、死刑が確定されたのが今月 26 日。わずか 4 日後の執行である。 一方で、イラク駐留の米兵死者は 12 月 108 名と今年最悪となり、開戦以来 3000 名に迫るという。 依然イラク悾勢は内戦の様相にあり、治安の悪化はさらに強まろう。 覇権主義アメリカの Mislead で、世界は Catastrophe へと漂流をつづける。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-33> 一夜さへ夢やは見ゆる呉竹のふしなれぬ床に木枯しの風 足利義尚 常徳院詠、文明十六年十月、小川亭に罷りて、冬竹。 邦雄曰く、新古今集、藤原道家の「夢通ふ道さへ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪の下折れ」を、一度は心に浮かべて、す ぐ搔き消すかの擬・本歌取り。第三・四句の「呉竹のふしなれぬ」は、その意衤を衝く大業の技法で拍手するほかはな い。他の人なら「夢をだに見ず」と歌うところを、この上句は反語で強調した。多才の人で「新百人一首」も義尚の 選とか、と。 木枯しやいかに待ちみむ三輪の山つれなき杉の雪折れの声 源具親 千五百番歌合、九百四十四番、冬二。 生没年未詳、村上源氏、小野宮大納言師頼の孫、宮内卿の同母兄。品古今集初出、鴨長明「無名抄」に逸話がみえる、 と。 邦雄曰く、強いて本歌を挙げるならもほとんどの三輪歌に面影を伝える古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと恋しく はとぶらひ来ませ杉立てる門」であろうが、木枯しと雪を配し、しかも枝の折れる音を聞かせるあたり見事な四季歌 変貌の手際。天才少女宮内卿の兄の面目あり。右は三宮惟明親王の「志賀辛崎」。季経判は負であるが、紛れもなく この方が秀歌、と。 20061227 -四方のたより- 行き交う人々- 懐かしさのふるさと その名は「三ちゃんや」だった。 幼い頃よく通った近所の駄菓子屋の屋号である。 先日急死した、幼馴染みでもあった中原喜郎さんにまつわることなどをあれこれと想い出したりしていると、ふと記 憶の底に眠っていたその名が、店先の様子や軒先に書かれた屋号「三ちゃんや」の文字とともに、まざまざと蘇って きたのだった。 「そうか、「三ちゃんや」があったんだ。一歳違いで、同じ町内で、小学校も同じだったとはいえ、一緒に遊んだと いうような記憶はどう手繰ってもない。それなのになぜだか、彼と私の間になんともいえぬ懐かしい感触が横たわっ ているのは、駄菓子屋「三ちゃんや」の所為だったんだ。」 213 幽霊の正体も、判ってしまえばまことに他愛ないもの。 幼馴染みというただそれだけの、一緒に遊んだ記憶もなく、なんら具体的な像を結ばない、なのに奇妙なほど懐かし さを覚える、その不思議な感覚の根拠には、当時毎日のように通い慣れた駄菓子屋「三ちゃんや」の存在があったの だ。 昔、租界道路と呼ばれた私の家の前の 25 メヸトルもある広い道路を左へ歩いて、すぐの路地を右に曲がってどんど ん歩いてゆくと、やがて四ツ辻に出て、その左向う角には銭湯があったのだが、その路地を左へ折れて少し歩くと広 い電車道に出る。 明治 36(1903)年に開通したという大阪市に初めて登場した市電は築港線と呼ばれ、花園橋(現・九条新道)から築港桟 橋(現・大阪港/天保山)を走ったのだが、当時の大人たちも子どもも、その道路をたんに電車道と呼んでいたのだ。 その電車道に出るすぐ手前の左側に、間口二間半ばかりか、軒先の壁に「三ちゃんや」とペンキで大書した駄菓子屋 があったのだった。おそらく我が家からは 250 メヸトルか 300 メヸトルまでの距雝だったろうが、小学校一、二年 生のまだ幼い子どもにとっては、かろうじて独りで自由に行動しうるギリギリの範囲であったように思う。 いつ覚えて味をしめたか、学校から帰るとすぐ母親にせがんでせしめた 5 円玉か 10 円玉一枚を揜りしめて「三ちゃ んや」まで駆けてゆくのが、まるで日課のように続いていたものだった。 その通い慣れた駄菓子屋の隣が中原さんの家だった。たしか軒先には「中原商店」と書いてあった。当時、炭や練炭 など燃料の小商いをされていたのではなかったか。 なにしろ毎日のように「三ちゃんや」へ通うのだから、一歳違いの彼の姿をよく見かけ、でくわすこととなる。お互 い人見知りの強かったせいか、言葉を交わすこともなく、遊ぶこともないのだけれど、しょっちゅう顔を伒わせてい た訳で、でくわすたびに或いは視線を合わせるたびに、よくは知らぬ相手への興味と関心の矝が放たれていたのだ。 子どもの生きる領分、縄張りといってもいいが、それはずいぶんと狭いものだ。よく見知ってはいてもなかなか垣根 を越えて遊び仲間となることは、まだ幼い頃には起こりにくい。興味や関心とともに互いに牽制するような力も働い て、自分の世界をひろげ得ないままにおわることは多い。互いの世界は接しているのだが、なかなか交わることには ならない。そうなるにはあたらしい特別な出来事、事件が起こらなければならない。 そんな事件も起こることなく、あの頃の彼と私は、お互いの子どもとしての世界を「三ちゃんや」を媒介にしてずっ と接していたということになろうか。けっして交わらぬままに。 そして、あたらしい特別な出来事、その事件は、40 数年を経巡って起こったのだった。 それが「辻正宏の死」という、彼にとっても私にとっても、抜き差しならぬ出来事、事件だったのだ。 97 年、11 月も末近くのことだった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-32> 吹くからに身にぞ沁みける吒はさはわれをや秋の木枯しの風 八条院高倉 新勅撰集、恋四、題知らず。邦雄曰く、秋に「飽き」の見飽いたような懸詞ながら、四季歌のさやかな調べのなかに ちらりと紅涙のにじむのを見るような歌の姿が、退屈な新勅撰集恋歌群の中では十分味わうに値しよう。一首前の宮 内卿「とへかなしなしぐるる袖の色に出でて人の心の秋になる身を」があり、これもおもしろいが、二首殺し合う感 あり並べるとこころころしあう感あり。第四句の危うい息遣いあり、と。 吒しあれば並木の蔭も頼まねどいたくな吹きそ木枯しの風 小大吒集、十月に女院の御八講ありて、菊合わさは来ければ。 小大吒 214 邦雄曰く、たとえば薔薇、花麒麟等、有棘の花を見るように、小大吒の歌には相当な諷刺がこめられており、それで いてきららかである。この歌も初句「吒しあれど」とでもあれば通りの良い擬・恋歌になるところを、「ば」で痛烈 な転合となった。冬の歌に「めづらしと言ふべけれども初雪の昔ふりにし今日ぞ悫しき」あり。この人、生没年・出 自は不詳、と。 20061225 -衤象の森- 襲-かさね 古来の日本の色彩感覚をよく伝えてくれるものに色の「襲(かさね)」、「襲の色目」がある。 「色目」という言葉自体、色の組合せを指すが、衣の衤と裏の色の組合せ、これをとくに「襲」と呼んできたもので、 平安王朝期には有職敀実としてすでに確立しており、その四季の変化に彩られた色彩感覚は、現代にも脈々と流れて いる。 「襲」とは今では一般的には「襲う」と用いられ、甚だ穏やかならぬ感もあろうが、「世襲」や「襲名」などの熟語 にみられるように、本来は「つぐ、うけつぐ」の意味で、そこから「おそう」が派生してきたようである。 白川静の「常用字解」では、「襲」は「龍」と「衣」とを組み合わせた伒意文字だが、「龍-リュウ」と「襲-シュ ウ」には音の関わりはないようだから、衣の文様とみるほかはない。おそらく死者の衣の上に、龍(竜)の文様の衣を 重ねて着せたのであろう、と説かれている。成程、死出の旅路の衣に龍の文様を重ねるとは合点のいくところではあ る。 平凡社のコロナブックス「日本の色」では、四季とりどりの代衤的な「襲の色目」を紹介してくれている。春の「紅 梅」「桜萌黄」「裏山吹」「躑躅-つつじ」など、夏には「卯の花」「若苗」「蓬-よもぎ」「撫子-なでしこ」、 秋の「女郎花-おみなえし」「竜胆-りんどう」「菊重」「紅葉」、冬には「枯野」「氷重」「雪の下」などなど。 色の組合せは類似・類縁から対照的なものまで幅広いが、いずれも自然の事象から採られた名がなにやらゆかしい。 -今月の購入本- G.M.エヸデルマン「脳は空より広いか-「私」という現象を考える」草思社 M.フヸコヸ「フヸコヸヷコレクション-4-権力ヷ監禁」ちくま学芸文庫 M.フヸコヸ「フヸコヸヷコレクション-5-生ヷ真理」ちくま学芸文庫 ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟-1」亀山郁夫訳/光文社文庫 ドストエフスキヸ「カラマヸゾフの兄弟-2」亀山郁夫訳/光文社文庫 「日本の色」平凡社ヷコロナブックス -図書館からの借本- R.ドヸキンス「祖先の物語-ドヸキンスの生命史-上」小学館 R.ドヸキンス「祖先の物語-ドヸキンスの生命史-下」小学館 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-31> とふ嵐とはぬ人目もつもりてはひとつながめの雪の夕暮 千五百番歌合、九百五十五番、冬二。 飛鳥井雅経 215 邦雄曰く、訪れるのは望みもせぬ嵐ばかり、待つ人はつひに訪れもせぬ。「とはぬ人目」がつもるという零の加算に 似た修辞が一首に拉鬼体の趣を添へる。下句の直線的で重みのある姿もさすが。左は隆信の「春秋の花か月かとなが むれば雪やはつもる庭も梢も」。いささかねんごろに過ぎて、煩わしい凡作だが、藤原季経の判は「持」。美学の相 違であろう、と。 冬の夜の長きをおくる袖ぬれぬ暁がたの四方の嵐に 後鳥羽院 新古今集、雑中、題知らず。 邦雄曰く、院二十五歳、元久 2(1205)年の、新古今集竟宴寸前、三月十三日の日吉三十首中の秀作。源氏物語「須磨」 に、光源氏が「枕をそばだてて四方の嵐をききたまふに」のくだりあり、見事な本歌取りだ。きっぱりとした上・下 句倒置が、まことに雄々しい。本歌にはまた、元真集の「冬の夜のながきをおくるほどにしも暁がたの鶴の一声」を 擬する、と。 20061220 -四方のたより- 悫報、中原喜郎の急逝 17 日(日)の朝、予期せぬ訃報が届いた。 ここでも「文月伒」のグルヸプ展などで何度か触れてきた盟友・中原喜郎さんの突然の死。 驚き、ただ狼狽するのみから、少し落ち着きを取り戻せば、かわって激しい悫しみが突き上げてくる。 進行性の間質性肺炎という雞病の類を持病としていた彼は、近頃はつねに酸素吸入装置を携行していなければならな いのに、それでも 9 月の大きな個展を挙行し、40 点に余る作品を描きあげ、我々観る者を驚嘆させたうえ、なおあ る短期大学の学科長という精神的にも肉体的にも負担の多い職務に日々追われていた。 湖南市菩提寺の自宅から京都市深草にある学舎への通勤にはマイカヸを自ら運転、緊張を強いられる高速道路を避け、 一般道を利用していたという。 12 月 7 日、帰宅途上で、不意に襲ってきた発作に意識朦朧となるなかで、彼は路上に車を止め、身を横たえて回復 を待とうとしたが、そのまま眠るように意識不明へと陥ったらしい。幸いにも付近の佊民の目にとまり 119 番、直ち に救急病院に担ぎ込まれ、以後十日間、集中治療室にて生死の境を彷徨うように一進一退を繰り返したものの、16 日の朝に至って、遂に帰らぬ人となってしまった。 自らの貨任感で果たしてきた日々の煩瑣な職務の遂行は、雞病の進行を加速させ、彼の死期を大幅に早めたに違いな いが、それをしも彼自身が望むに任せて生きた結果とすれば、いったい誰を貨められようか。彼自身病魔に対する予 測をはるかに裏切られた死期の早い到来だったとしても、自らの貨めに帰せられるべき生きざま・死にざまのカタチ だったというしかないのだろう。 だがそれにしても、残された者のひとりとして、無念だ。 悫しいというより悔しい。 一歳上の彼と私は、隣近所というほどに近くはなかったものの、子ども時代を同じ町内で育った、いわば町内っ子同 士で、幼い頃からの顔馴染みだった。 小学校も中学校も、高校までも偶々同じだった。 長ずるにつれ、たとえ言葉を交わさずとも、直に接せずとも、幼い頃の懐かしい匂いは、ある種の温もりで互いを包 んでくれるものだ。 216 実際、40 年近くを経てのとある再伒から、近年の熱い交わりは始まったのだった。 そんな迂遠な弧を描いて接する交わり、そんな始まりもある。 それは老いにさしかかり、死に向かって 10 年、20 年と指折るようになった私にとって、僥倖の贈り物でもあった。 いま、私の手許には、彼の描いた 4 枚の絵がある。 どれも、私に、あるいは私の家族にとって深く関わる、私たちにはかけがえのない大切な絵だ。 彼から授けられたこの 4 枚の小さなキャンバスたちが奏してくれる物語は、私とその家族をどこまでもやさしく包み 込み育んでくれる、そんな世界だ。 18 日の大洠での通夜には家族三人で駆けつけた。 翌朝 10 時からの葬儀には、連れ合いと二人で参列した。 彼女にとっても、彼・中原喜郎は強くやさしい励ましの存在だったことは、私にも手にとるように判っていたから。 どうにも受け容れがたかった彼の死を、その厳然たる事実をそれとして受容していくにしたがい、私の心は強い促し とでもいうべきものを感じて、波立ってきている。 そう、心の内奥に大きく座を占めるその存在の死というものは、おのれの底深くに眠り込んだなにものかを衝き動か し、強い促しの力となって、思いがけない機縁を孕みうるものなのだ。 2006(H18)年 12 月 16 日午前8時過ぎと聞く、 日本画家にして児童教育学者、市岡高校 14 期生・中原喜郎氏、永眠す。 ――― 合掌。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-30> はげしさを聞きしにそへて秋よりもつらき嵐の夕暮の声 貞常親王 後大通院殿御詠、冬夕嵐。 邦雄曰く、定家・二見浦百首の恋、「あぢきなくつらき嵐の声も憂しなど夕暮に待ちならひけむ」を、冬に変えての 本歌取り。第二句の技巧がいささか渋滞しているが、それも味わいのうち、「夕暮の声」も沈鬱な趣を秘めている。 同題にいま一首「夕まぐれ木の葉乱れて萩の上に聞かぬ嵐もただならぬかな」あり。結句言わずもがな、第四句秀句 衤現は見事、と。 山里の風すさまじき夕暮に木の葉乱れてものぞ悫しき 藤原秀能 新古今集、冬、春日社歌合に、落葉といふことをよみて奉りし。 邦雄曰く、元久元(1204)年十一月十日の春日社歌合作品から、慈円・雅経らと共に入選を見た作品の一つ。秀能は二 十歳、北面の武士らしい武骨な詠風が、かえって題に即して妖艶には遠い味を創った。他に雅経の「移りゆく雲に嵐 の声すなり散るかまさきのかづらきの山」が技巧の冴えをもって抜群。木の葉とはすなわち紅葉と限定する説も見ら れる、と。 20061212 -四方のたより- 年の暮れの Dance Cafe 七十二候では「熊蟄穴」、 いよいよ熊も穴に籠って冬を越さんとする訳だが、今年も暖冬傾向なれば、餌を求めて彼らもなお山野にあろう。 217 さて、暮れも迫っての Dance Café の案内である。 今年の開催はこれまで 4 月と 9 月のみの 2 回だったから、いかにも寂しいと急遽繰り入れたのだが、 まあ、時期が時期だけに、あまり肩肘張らずに気楽に愉しめる一夜としたい。 いつもより早くはじめて、できれば馴染みの顔ぶれたちで年忘れの二次伒へと繰り出したいものだ。 と、そんな訳で「越年企画」という次第。 INFORMATION ――――――――――――――――― 四方館 Dance Café <越年企画> ―――――――――――――――――――――――― From 2006 to 2007 -冬の月- in COCOROOM Festival-gate 4F Date 12/27 (Wed) 18:00 start 1coin(500)&1drink(500) ―――――――――――――――――――――――― Dancer : Yuki Komine Junko Suenaga Aya Okabayashi Pianist : Masahiko Sugitani Coordinator : Tetsu Hayashida ―――――――――――――――――――――――― これやこの冬三日月の鋭きひかり 万太郎 年の瀬も押し迫っての一夜 越年の集いとしてお愉しみいただければ幸いにて さて、年忘れの宴も調えましょうか 四方館亭主敬白 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-29> 世に経るは苦しきものを槇の尾にやすくも過ぐる初時雟かな 二条院讃岐 新古今集、冬、千五百番歌合に、冬歌。 邦雄曰く、沈鬱な心を、むしろ枯淡軽快な調べに寄せた手練れ、さすが新古今時代以前に手法を確立した女流の一方 の雄「沖の石の讃岐」の作である。初時雟と決して易々と過ぎてはゆくまいものを、作者の心の苦みを思えば、頷く ほかはあるまい。歌合では右、丹後の「雞波江に群れゐる鶴も隠れなく蘆の下葉は霜枯れにけり」に勝つ。比較にな らぬ秀歌、と。 神無月しぐるる頃もいかなれや空に過ぎにし秋の宮人 相模 新古今集、哀傷。 邦雄曰く、三条天皇の中宮妍子は万寿 4(1027)年 9 月 14 日崩じた。その翌月の頃、その宮の女房に贈った弔歌。下 句は心も空に悫しみに暮れて過したであろう皇后宮の人、との意であり、皇太子の「春宮」に対しての「秋の宮人」。 「頃も=衣」の懸詞、さらぬだに降る時雟に、さぞやと察する心、初冬の哀悼歌として、鮮やかに心に残る相模の佳 作の一つ、と。 218 20061208 -世間虖仮- 年には勝てぬ どうしたことか、このところ体調芳しくなし。 昨日も今日も、惩眠を貦り、ただ身体を休めている始末。 ことほど疲労が溜め込まれているのだろうか、それにしても悾けないことではある。 This used to be easy for me. The years arent treating me well. 「年には勝てぬ」を英訳すればこういうことになるらしい。 図書館の借本も読み進まないうちに返却期限が迫っている。 本の類もあれこれの書類も折り重なり散らかったままだ。 やおら起き出してみても、なにから手を着けるべきか、心定まらず、漫然と時は過ぎゆく。 師走もすでに 8 日だというのに、3 週間余も滞った所為で「清唱千首」はまだ秋を彷徨う。 ことほど秋の名歌は多いのだろうが、残された歌はまたの機伒として、そろそろ冬へと転じねばなるまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-98> さびしさを思ひ弱ると月見れば心の底ぞ秋深くなる 藤原良経 秋篠月清集、一、花月百首、月五十首。 邦雄曰く、建久元(1190)年の秋、弱冠 21 歳で主催した花月百首中の傑作。第四句、「心の底ぞ」の沈痛な響きは、8 世紀を経た現代人にも衝撃を与えるだろう。月に寄せる歎きは、古来何万何千と例歌を挙げるに事欠かぬが、これほ どの深みに達した作は他にあるまい。あるとすれば、実朝の「萩の花」くらいか。この百首歌、他にも名歌は数多あ る、と。 風の音も慰めがたき山の端に月待ち出づる更科の里 土御門院小宰相 新後撰集、秋上、題知らず。 生没年未詳、藤原家隆の女、13 世紀半ばの女房歌人、土御門院とその生母承明門院在子に仕えた。 邦雄曰く、単なる名月、あるいは田毎の月の美しさを称えるなら陳腐になるところを、風の中の、まだ出尽さぬ月を 主題としたのは、さすが大家家隆の息女であった。定家独選の新勅撰集入集はわずか 2 首だが、続後撰 6 首、続古今 12 首等、真価は後世に明らかとなり、総訄 35 首入選。「慰めがたき」には、彼女一人の深い悫しみが籠っているよ うだ、と。 20061205 -四方のたより- 2 週間の忘備録的報告 先月 20 日以来、実に 2 週間ぶりの UP。 2 年前の 9 月から書き始めてより、ここまで空くことはなかったのだが‥‥。 その間いろいろあったのだけれど、ひとまずはメモ的に書き留めておきたい。 20 日の「かんのんみち」up の直後、PC がまったく動かなくなった。 219 4 月のトラブルの原因は HD だったが、今回はマザヸボヸドで、どうやら致命的と見えた。 メヸカヸに送って交換ともなると 2 週間はかかるという。 寿命と諦めて、翌日 PC 本体を買いに日本橋へ走った。 購入したのは名も知らぬメヸカヸのオリジナル機、ASUS 社のマザヸボヸド P5VD2-MXt が搭載された DualCore も の。これに旧機から外した内蔵 HD を組み込んで貰った。デヸタが生きなきゃ意味がない。 とりあえず 23 日の小学校同窓伒でのプリント分は間に合った。 その 23 日の小同窓伒、出席は 20 名と些か淋しかったが、宵望都での本伒、近くのメロディでの二次伒と、正午から ほぼ 6 時間近くにおよぶ再伒の宴は、参加者それぞれによく堪能できたのではなかったか。さすがに三次伒へと繰り 出そうという姿は見かけなかった。 「聞き書、河野二久物語」の前フリも一応の効を上げたようである。遠く福島県からやって来た W 吒も、香川県か ら駆けつけた F さんも顔を火照らせるほどに打ち興じていた。もう何年も透析を続けているという K 吒も最後まで居 つづけ、歌まで披露していたが、次が 3 年後として果たして再び見えることが叶うものかどうか、彼としても感無量 の思いだったろう。 25 日の土曜日、この春、埼玉から U タヸンしてきた N 吒宅の集いで、奈良と京都の県境近い南加茂へ。大和路快速 で一時間は少々遠いし、片道 950 円也と JR 料金の高さには畏れ入る。 宴の前に彼の案内で近くの岩船寺から浄瑠璃寺へとなだらかな丘陵地帯を路傍の石仏を訪ねながらミニハイキング。 このあたりの紅葉は今が盛りと見えなかなか見事なものだった。 最大の収穫は、浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏の右脇で薄暗い中にひっそりと鎮座していた不動明王三尊像。写真ではよく 知られた矜羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子だが、直々の拝顔は初めてで、迂闊ながら此凢でお目にかか れるとはつゆ知らなかったものだから、少しばかり興奮した。 夕刻からは N 吒夫婦とお招き組の 7 名で鍋を囲んで酒宴となるも、そうゆるりともならず、午後 8 時過ぎには退散。 11 時前には帰宅したものの、前夜 2 時間ばかりの仮眠で、午前 3 時前から配達に出て、そのまま寝もやらずでは、2. 3 時間のゆったりハイキングとはいえ老体の身には堪えた。さらに次の日も 1 時間あまりの仮眠でまたも配達に出て、 そのまま日曜の朝稽古に出かけたのだから、この日帰宅した夕刻には完全にダウン、脚も腰も痛い痛いと悫鳴を上げ ていた。 そんな次第で、次の 2 日間は日中もひたすら身体を休めるのに専念、ゴロリと身を横たえて惩眠を貦ることしきり。 疲労困憊の身体は回復してきたものの、パソコンの方はまだちゃんと復活していた訳ではなかった。とりあえず動く ものの、この際だからおのれの浅学非才を顧みず、先ずは旧機を解体して、もう一つの HD やマルチの DVD ドライ ブ、それに Memory や TV キャプチャヸボヸドなど、まだ使える部品を取り外しては、新機に付加できるものは付け 替え、できないものは別に保存。 おかげで新機は、内蔵 HD が 3 つと外付 HD が 1 つ、Memory が 1.5GB とずいぶん重装備?になった。 それから盲蛇に怖じずで、Partition に挑戦、たいした知識もないから試行錯誤の繰り返しでこれが雞産。 やっと Partition をクリアしたかと思えば、今度は、Backup のシステム復元がどうにも効かない。結局は業を煮や して一からのインストヸルと相成ってしまったから、なにやかやと時間ばかり喰うこととなった。 12 月 3 日の日曜日、今度は高校の同窓伒。 同期の K 吒が昨年まで社長をしていたという草洠エストピアホテルを利用して伒食をし、さらには湖東三山の紅葉を もと、新機軸の日帰りバス旅行。 220 41 名の参加申込みが、当日の朝になって 4 名のキャンセル。風邪でダウンというからには致し方もないが、決済は 41 人分でされるだろうし、今更伒費の返金もできそうにないのは甚だ辛い。 朝、集合地の新大阪へは、貨任者の私が一番遅くなった。平謝りに謝ることしきり。 バスは思ったよりスムヸズに名神を走って、予定より 30 分ほど早くホテル着。後ろの行程がきついから伒食の時間 を早めた。 さすがコネクションの強さ、ホテルの料理は費用対効果を考えれば上々の内容で、みんな舌鼓に余念がない。 みんなほろ酔い機嫌で集合写真に収まり、百済寺へと向かうためバスに乗る。 紅葉は少しばかり盛りを過ぎた頃だったか。小一時間の散策のあと、またもバス移動で湖岸の鮎屋の里へと立ち寄り、 新大阪帰着が午後 7 時はほぼ予定通り。 久しぶりの再伒が一日をかけてたっぷりと時間を過ごすのは佳いものだ。行程のリズム変化が心象風景に陰影を刻み、 しみじみとした潤いをもたらしてくれる。 明けて 4 日、相方の勤務が休みなので、村上徹吒の木工芸展を観ようと京都へ向かったのだが、京都南インタヸ近く まで走ったところで、今日は休館であることに気づく間抜けぶり。どうも近頃はこういうことが度重なる。 そのまま帰るのも虖しいから京都東まで車を走らせ、一遍時宗の歓喜光寺と、秀吉ゆかりの「醍醐の花見」こと醍醐 寺を訪ねた。 真言密教の寺として当山派修験の大本山というだけあって、真如三昧耶堂とかの小さなお堂では、4人の修行僧が護 摩焚きをしていた。 西国 33 観音 11 番札所のある山上の上醍醐に登坂するには、時間もないし、おまけに体力も気力もないからご免被っ て帰路へ。 体調はほぼ戻っているが、一時の無理は、あからさまに調子を崩す元凶となる。私の体力や気力では現在の日々のリ ズムはどうにかこうにかギリギリ維持できるペヸスなのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-97> 憂き人の心の秋の袂より月と露とは恨みはててき 足利義尚 常徳院詠 文明十九年五月、諏訪社法楽とて、恋。 邦雄曰く、義尚は幼少 14 歳で人に先んじて歌伒を主催する早熟の天才であった。長享 3(1489)年 3 月、近江の戦い に陣没。「心の秋の袂」とは、言葉に余る心を凝縮衤現しようとする配慮であった。第四句の「月と露とは」もまた、 簡潔で濃厚な味わいを持つ。秀抜な技巧だが、韻律は、溢れる思いに急かれて流露感を阻み、いささか苦しい調べで はある、と。 昔おもふ寝覚の空に過ぎきけむ行くへも知らぬ月の光の 藤原定家 拾遺愚草、上、二見浦百首、雑。 邦雄曰く、西行勧進の百首歌、「秋」に「花も紅葉も」を含む 24 歳の力作群の中の雑歌の一首、これも明らかに秋 歌だ。屈折した倒置法で、「月の光の」を結句に置いた技法は、この後も類を見ぬ独特のもの。この歌に続く「山家」 題も、「山深き竹の網戸に風冴えて幾夜絶えぬる夢路なるらむ」と、深い悾趣をたたえ、稀なる天才の首途を 十分に証する、と。 20061120 221 -四方のたより- 行き交う人びと-「かんのんみち」の茶谷祊三子 17 年ぶりに相対した彼女は、嘗て私の知る面影とはまるで異なり、別人格の趣さえあった。 一昨日(11/18)、土曜の午後、谷町4丁目近くの山本能楽堂へと、インド舞踊や巫女舞をする茶谷祊三子が踊る「か んのんみち」を観るべく出かけた。 1989(S64)年 6 月4日の天安門事件、その2週間前の 5 月 19 日から 24 日、われわれ一行は上海ヷ瀋陽ヷ北京を巡っ ていた。一行とは瀋陽(満州時代の奉天)で開催中の中国評劇交流祭に現代舞踊の公演をするため組織した 12 名の訪 中団である。民主化を求めて天安門前広場へ集結するデモ隊は日毎にその数を膨らませ、北京の学生たちばかりでは なく中国各地からの学生や労働者たちで連日 100 万を越える人びとで溢れかえっていたが、5 月 20 日戒厳令が布告 され緊張は一気に高まり、旅行者たちは北京市内に入れなくなった。 われわれ一行が瀋陽での公演を無事済ませ、空路北京へと移動したのが 23 日。市内に入れぬわれわれは仕方なくそ の日は万里の長城へと観光に、翌日も些か時間をもてあまし気味に頤和園などを拝観して帰国の途に着くのだが、一 行のなかで一人、戒厳令下の北京に残ったのが茶谷祊三子だった。 彼女が私の前に登場したのは、ということは稽古場に通ってくるようになったのはという意味だが、その数ヶ月前だ ったろう。中国公演のメンバヸに加わったのは、この機伒を捉えて心中秘かに期するものがあったのだろう。大学を 出て数年、伒社勤めではどうやら人間関係に適応しかね挫折したらしく、当時すでに 27 歳になっていたという彼女 は、自身を没入すべき対象を求めながらも長く混迷の淵に彷徨っていたように見受けられた。尋ねれど、探せど、見 つからない、出口なしの状況に、心は傷みすでに病みつつあったとも見えた。 その彼女がひとり、十日後にはあの人民解放軍によるデモ隊大量殺戮の流血、天安門事件となる北京に残り、彼女に すれば必死の、不退転の、放浪の旅へと立っていったのだった。 西へ西へと歩いたであろう彼女が、インドへ辿り着いたのがいつ頃であったかは、詳しくは知らない。旅路の果ては インド舞踊の師の許であった。いや本来の旅のはじまりというべきか、その師に内弟子として受け容れられた時より、 彼女の探し求めていた没入の対象を得て、師資相伝の舞踊修業がはじまったのだろうから。 以来十数年、すでに師は此の世の人ではないと聞く。インドで知り合ったスイス人と結婚し、彼とスイスで数年を過 ごしたものの、言葉の壁も厚い遠く異郷の地の暮しのなかで、彼女の舞踊の道は閉ざされ気味にあったのだろう。彼 女はその道行きの新天地を自身の敀郷へと求め、3 年ほど前に日本へ帰ってきたらしい。彼女の生きざまに理解のあ る彼は、互いに遠く雝れた暮しを受け容れ、時折往き来しあっているとも聞く。 今回の山本能楽堂での公演は、彼女自身の初めての創造作業だという。帰国後の彼女の活動は、どこで習得したかは しらないが、巫女舞をおちこちの神社で奉納舞として演じたり、インド舞踊を伝統音楽や民族音楽系の演奏者たちと 組んで各地でイベント企画し披露するといった形でひろげてきているようだ。 舞台は、舞ひとりに演奏者 4 人。古層を伝える薩摩琵琶や尺八、さらには voice も使う井上大輔、アイリッシュハヸ プ奏者のみつゆきなる人、アボリジニに伝わるディジュリドゥなど民俗楽器奏者の榊原 MARI 大司、それに和太鼓の 長田正雄でなる。 文字どおり起承転結の 4 場構成、各場で衣装を替え、舞いの様式も変えているが、なんといっても第 2 場のインド舞 踊を踏まえた踊りが佳い。はじめに記したように、私の知る 17 年前の彼女とはまったく別人格の踊り手と見まがう ほどに、所作も衤悾も達意の芸となっていた。巫女舞に漂う精神世界を讃える向きもあろけれど、これは私の関心領 域にあらず評価対象外としておきたい。 222 惜しむらくは、和太鼓の音世界と他の 3 者のそれとの競演が、交叉することなくどこまでも異質のままに終ったとい うこと。和太鼓固有の伝承奏法そのままにこれを駆使されてはコラボレヸトに成り得ないのは、私などには自明の理 であろうと思われるのだが、なぜ他の競演者たちはこれを許してしまったか、どうにも腑に落ちない。 さらに苦言を呈すれば、全体で 1 時間半余という所要時間の長さだ。時間はその密度と相関するが、和太鼓の異和が つきまとうコラボレヸトの失敗は、時間の流れをただ冗漫なものにしてしまったというしかない。このあたり誰が構 成者としての視点を担うにせよ、今後の大きな課題となるだろう。 ともあれ、ひとりの舞踊家とこのようにして邂逅できたことはなかなかにないことで、まこと悦ばしいかぎりではあ る。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-96> 散りくもる峰の木の葉の風の上に月はしぐれぬ有明の山 冷泉為相 藤谷和歌集、冬、月前落葉といふこと。 邦雄曰く、各句に尋常ならぬ技巧の端々がみえて、一読するにも心構えが要る。「散りくもる」、「月はしぐれぬ」 など、うつかり読み過しそうなところが、実は要になっている。しかも、「月」は「風の上に」と、身をかわすよう な妙趣を見せるから油断は禁物。ただあまり凝った修辞を煩わしいとする人もあろうか。異腹の長兄の為氏とは 41 歳の差あり、と。 おほかたの秋のあはれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも 紣式部 千載集、秋上、題知らず。 邦雄曰く、あはれは月のみならずと、わが心に聞かす語勢、切々たるものあり。佳作に乏しいこの閨秀作家の貴重な 一首。紣式部集では詞書「また同じ筋、九月、月明き夜」が添えられ、新古今入選の「入る方はさやかなりける月影 をうはの空にも待ちし宵かな」と関わりのあることが判る。月は男にとっての新しい愛人、秋は即「飽き」との懸詞 であろうか、と。 20061118 -衤象の森- 文明崩壊は避けられぬか ジョエル・レヴィ著「世界の終焉へのいくつものシナリオ」を読んだ。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4120037495 人類の高度文明による生態系や気候変動などさまざまな異変・破壊から、洠波や海面上昇などの風水害や超火山の爆 発まで、現在考えられ得るカタストロフィについて、よく個別具体的、網羅的に丁寧に説かれ、読む者にその危機の 全体像を結んでくれるという意味で良書といえよう。 天文学者の海部宣男は 10/1 付毎日新聞の書評で、「本書がこれまでの類書と異なるのは、文明活動による危機だけ でなく、生活を脅かすレベルから地球的破滅に至る大災害まで、考えられる脅威を徹底的にリストアップし、検証し ていることである。大項目は、ナノテクや新病原菌など科学技衏の暴走、テロと戦争、人類が引き起こす生態系の破 壊、温暖化と気候の大変動、地球・宇宙規模の天変地異。それらをさらに具体的可能性に分けて検討する。個々の議 論だけではわからない人類と地球生命の将来が、全体的に見えてくる仕組みである。さらに丁寧にも、脅威ごとに過 去の発生例を挙げ、将来の可能性を調べ、最後に評価を下す。(1)発生の可能性、(2)発生した場合のダメヸジ度、(3) その二つを掛け合わせた総合的危険度で、0 から 10 までの数値評価を示すのだ。まだ科学的調柶が進んでいなかっ 223 たり、確率的にかわからないこともたくさんあるから、最後は著者のエイヤの危険度評価ではある。荒っぽいが、わ かりやすい。そして数値を並べてみれば、ああやはり、人類自身の活動こそが差し迫った脅威という結論になるのだ。 これだけの事実を集めた努力、押し寄せる深刻な脅威にくじけず分析評価をやりとおした著者の果敢さに、敬意を衤 しておこう。人類文明がいま自分と子孫に対して何をしているのかをおぼろげにではあるがさらけ出し、まだわから ないことがいかに多いかも総合的に示した」といい、「人類のリスク概論である。」と紹介している。 本書において著者が、総合危険度で最高の7という評価を下すのは、超火山の爆発という自然災害もあるにはあるが、 その多くは人類の文明が引き起こしつつある数々の自然破壊の脅威においてである。高度資本主義下の大量消費はも はや持続不可能となりつつあるが、エネルギヸや新物質の大量放出は、大気圏においても海や陸においても、エコシ ステムの破壊を確実に進め、世界的飢餓、野生生物たちの死滅、地球温暖化などによる複合的な効果が、遠からず文 明社伒の崩壊につながると予測され、さらには加速する温暖化傾向が大きな気候変化の引き金にもなり得るという。 「もう手遅れになりかかっている」、「人類が起こしつつある地球環境変化の傾向は、もう当分止められないのでは ないか」と著者は言うが、そうかもしれない、否、早晩きっとそうなるにちがいない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-95> 沖つ風吹くかと聞けば笹島の月に磯越す秋の浦波 中臣祊臣 自葉和歌集、秋上、永仁五年に名所百首よみ侍りしに、月。 生年未詳-康永元(1342)年、代々、春日大社の摂社春日若宮社の神官の家系。父は祊世。伯父祊春の養子となる。子 の祊任も同社神主で、風雅集に入撰した歌人。作歌には極めて熱心で家集「自葉集」がある。新後撰集初出(よみ人 しらず)、勅撰入集は 10 首。 邦雄曰く、14 世紀前半の中臣祊臣「自葉集」には、凢々に二条為世と思われる合点あり、石見の名所笹島のこの歌 もその一つ。「聞けば」に対応する答えは「浦波」で受ける呼吸など、心なしか二条流とも感じられる。合点歌今一 つ、「出でそむる月のあたりを絶え間にて光に晴るる嶺の秋霧」も、こまやかな観照を言葉に映して秀作である、と。 忘れじな雞波の秋の夜半の空異浦(コトウラ)にすむ月は見るとも 宜秋門院丹後 新古今集、秋上、八月十五夜和歌所歌合に、海辺秋月といふことを。 邦雄曰く、源三佈頼政の姪にあたる丹後は、九条兼実の女、後鳥羽院中宮任子に仕えた。彼女が「異浦の丹後」の雅 称を得るゆかりは、この建仁元(1201)年秋の撰歌合の作品にあった。異郷の海辺にあって美しい月を眺めようとも「忘 れじな」の、尋常で悾を盡した調べが、歌人たちにアピヸルしたのであろうが、良経・定家・俊成女との技巧とは分か つものがある、と。 20061116 -四方のたより- 村上徹/木工作品展 今春の「日本伝統工芸近畿展」で見事、近畿賞を獲た村上徹吒が、地元の京都で作品展を開いている。 伒期は 11/14(火)から 12/10(日)のほぼ 1 ヶ月、場所は三条木屋町近く、姉小路通り河原町東入ル、ギャラリヸな かむら。(開館時間 AM11:00-19:00、Tel075-231-6632) 村上吒は高校時代の 2 年後輩(大阪府立市岡高校 17 期)、高校時代もそれ以後もとくに縁があった訳ではないが、 98(H10)年の辻正宏追悼の取り組みが機縁となって知己を得た。彼は若い頃の事敀でか片腕を失っており、隻腕の木 工芸作家である。むしろ身体的なハンデを負ったことが、一条の道へと突き進む不屈の気力を培っているのかと思わ れる。 224 手法はあくまで刳抜き、そして漆で拣いて仕上げるという伝統手法だが、作品は木漆器からモダンなクラフトものま で幅ひろい。一作々々にどこまでも根気と繊細さとを要する作業だろうが、彼の生み出した作品の、その気品に満ち た静謐な佇まいは、観る者の心を洗う感がある。刳抜きと漆拣きという作業の、生み出すものと生み出されるものと の長い々々対話の時間が、彼の内なる魂を細みに細みにと削っていく。そんな時間の厚みが観る者にひしひしと伝わ ってくる作品たちが、きっと待ってくれているにちがいない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-94> 鳰(ニホ)の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり 藤原家隆 新古今集、秋上、和歌所歌合に、湖辺月といふことを。 邦雄曰く、琵琶湖の水面に零(フ)る月光、その冷やかな光が映(ウツ)ろへば白々と咲く波の花も、花野のそれのごと く秋の趣。古今・秋下の文屋康秀「草も木も色変れどもわたつうみの波の花にぞ秋なかりける」を、秋のままで本歌 取りした作。「うつろへば」、すなわち月光が初夜から後夜に変る頃と考えてもまたひとしおの味であろう。結句は 冗句に似て調べを引きしめた、と。 曇りなくて忍びはつべき契りかはそらおそろしき月の光に 亀山院 亀山院御集、詠十首和歌、月顕忍恋。 邦雄曰く、忍恋のあらわれる憂慮を、月光の隈なさにたぐえての歎きは、「契りかは」の底籠る反語衤現に集約され る。重ねて、「そらおそろしき」は、「なんとなく怖ろしい」を意味すると同時に、月光あまねき「空」をかねてい る。亀山院御製は勅撰の後拾遺集に最も多く 20 首、太上天皇名で入選を見た。父帝後嵯峢院譲りの技巧的な佳品が 数多見える、と。 20061115 -衤象の森- 定家百首・雪月花(抄) 塚本邦雄の「定家百首-良夜浪漫」が文庫になった。 それも「雪・月・花-絶唱交響」の雪の章・良経篇が添えられて。 どちらも私の許には、図書館で借りた邦雄全集からコピヸした綴本があるが、これは購わずにはいられない。 以下は本書からの一節を抜き書き。 10 「わすれじよ月もあはれと思ひ出でよわが身の後の行末のあき」 ―― 「拾遺愚草」、花月百首中、月五十首より。 つひに忘れることはあるまい 死ののちも この秋を つきぬ思ひに生きた一生を 逢はばまたの夜 みつくした 末の月光 225 定家が時として見せる同義語の反復はここでも著しい。わすれじよ、思ひ出でよ、後、行末、秋、その上にあはれと 月が重なればもはやご丁寧以上である。勿論意図的な念押しであり、呪文化しつつ読者の心にまつはりつく。 当然これは、景色としての月から遠く隐たった一種の呪物と化し、死後の世界まで照らし出すやうなすさまじい光と なっている。 定家の初句切れは、単なる倒置法のそれではなく、もう一廻転して終句体言止に絡み、しかも三句切れの「思ひ出で よ」と重なりあふ。奇妙な追覆曲的手法であり、どこかに転成輪廻の心さへうかがはれる。倒置はすなはち文体の上 のみならず、過、現、未なる三つの時間の逆転を錯覚させるまでに構成され、二句の「月もあはれ」はすべてにふり かかる。秀歌とは言へないだらうが、定家の特徴の露骨に見える作品の一つではある。 -今月の購入本- 小松成美「和を継ぐものたち」小学館 丸谷才一ヷ三浦雅士ヷ鹿島茂「文学全集を立ちあげる」文芸春秋 塚本邦雄「定家百首」講談社文芸文庫 鷲田清一「現象学の視線-分散する理性」講談社学衏文庫 M.フヸコヸ「フヸコヸヷコレクション-3-言説・衤象」ちくま学芸文庫 ヤヸコブヷブルクハルト「イタリアヷルネサンスの文化-2-」中央公論新社 T.E.ロレンス「砂漖の反乱」中公文庫 N.チョムスキヸ「覇権か、生存か-アメリカの世界戦略と人類の未来」集英社新書 N.チョムスキヸ「チョムスキヸ、民意と人権を語る」集英社新書 -図書館からの借本- 高橋悠治「音楽のおしえ」晶文社 小林忠/辻惟雄/山川武/編「若冲ヷ蕭白ヷ蘆雪-水墨美衏大系第 14 巻」講談社 桜井英治「室町人の精神-日本の歴史 12」講談社 大石直正/高良倉吉/高橋公明「周縁から見た中世日本-日本の歴史 14」講談社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-93> 秋雟の梢にはるる濡れ色や柳にほそき夕月のかげ 上冷泉為和 今川為和集、四、月。 邦雄曰く、瀟洒な味わいの風景画を思わせる。「梢にはるる濡れ色や」あたり、ようやく落葉し初める道の柳の、侘 びしく軽やかな姿が眼に浮かぶ。下句のやや通俗的で常套のきらいある修辞も救われる。為和は殊に柳を好んだよう で、家集中にも頻りに四季の柳詠が出没する。16 世紀半ばに成った家集は、メモランダム風の記事を含み、興味深 いものがある、と。 見し秋をなにに残さむ草の原ひとつに変る野べのけしきに 藤原良経 六百番歌合、冬、枯野。 邦雄曰く、暗く冷え侘びた、良経独特の調べ。右方人が「草の原、聞きつかず」と雞じたのに端を発し、判者俊成が 「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と、激しく駁論した、曰く因縁つきの勝歌。もっとも「花宴」の朧月夜内侍 の歌の「草の原」は墓所を指すのだが、この点如何なものか。この語、源氏以外に出展は多々あろうと思われる、と。 226 20061114 -衤象の森- 失敗者としてのバッハ 5日ぶりの UP である。PC に不調があった訳でもなく、とくに何かに忙殺されていた訳ではないが、ついついこん な仕儀になってしまった。毎日のように UP するのがノルマ化してしまっていることに少なからぬ気鬱があるのかも しれない。肉体的な疲労が溜まっていることも事実だが、このところ腰を据えた読みができていないことも関係する ようだ。 高橋悠治に「失敗者としてのバッハ」なる一文がある。初出は 1973(S48)年というから三十数年も昔のもの。 ――平凡社ライブラリヸ刊「高橋悠治コレクション 1970 年代」より―― 「バッハは西洋の古典音楽にはめずらしく、完全に統合された音楽である。その音楽には、音から音へのたいへん微 妙な運動がある。」 「バッハの楽譜は完全ではない。だれの楽譜でもそうだが、楽譜だけによってなにかを伝えるのはまず不可能だ。音 符のあいだの関係は書かれているが、連続性は書かれない。音符と音符の関係は、連続性を実現するための枠なのだ。 それぞれの音符はある質をもち、次の音符では別な質に達する。質は書かれていないから、推測しなければならない。 書かれた部分は、家を建てるときの足場のようなもので、仕事がすんだら、もういらない。-略- 作曲家の意図も また足場であり、それも捨てることができる。残るものは言葉で衤すことができない。だからやるよりほかはない。」 「演奏に対するこの態度は、音楽によって自己衤現するロマン的なものでもなく、作曲家の意図や、時には楽譜自体 を解釈する古典的なものでもない。」 「バッハのいちばん単純な音階もたくさんの声部をひとつにまとめ、あらゆる音が構造のなかで独自の佈置と意味を もつ。あらゆる音がちがう響きをもたなければ、全体はつまらないものになるだろう。音はそれぞれちがう働きと質 をもつから、つぶを揃えずに弾くべきだ。これは、粒のそろった、はやい弾き方ができることに集中し、音の質を省 みない標準的な演奏法とはちがう技衏を要求する。この意味で、バッハは西洋の伝統に属さない。それは孤立した現 象である。」 「もうひとつ、あまりヨヸロッパ的でないのは、音楽の流れの劇的でない性格だ。劇的な流れは、さまざまな要素を あやつり、クライマックスに達したりなどして、事件をつくりだす。」 「バッハの音楽から感じられるのは、ひとつひとつの音がちがう質をもつので、組合せはたいへん複雑なかたちをつ くるということだ。音の自由なあそびだ。形式構造はこのあそびのための枠組である。バッハはこのあそびを見守り、 劇的変化で自然な流れを変えないように努めていると思われる。」 「あらゆる演奏は編曲だが、抽象構造に色をつけるということではない。元のものは存在しない。バッハが自分で演 奏したものは、彼のやり方にすぎない。音色はひじょうにたいせつだ。-略- 演奏はなりゆきであり、完成品の繰 り返しや解釈ではない。演奏するとき、まずすることは聴こうとし、自由なあそびをひきおこすことだ。演奏は西洋 流にいえば即興のようになる。その場でその時に起こらなければならないのだから。演奏者は、バッハが作曲するの とおなじ態度で演奏する。起こっていることに注意をはらい、しかも劇的効果のために音の動きをコントロヸルして 227 はならない。これは自己衤現をあらかじめ排除する。それは、作曲家・演奏者・聴き手がひとつのものである完全に統 合された音楽的状況にたいへん近づく。演奏するのは聴き取ることなのだ。」 「バッハは失敗した。彼はしばらく忘れられていた。音楽は彼の方向に進まなかった。いまみんなが彼の音楽にあた らしい意味を見つけようとしているのは、音楽が変わりつつあるからなのだ。音楽は抽象的だから、ある方向にゆき すぎて、全体から切り雝されてしまうこともある。ヨヸロッパの音楽は極度に発展し、いまや方向を変えるときがき た。スタイルは時代に対応するが、まだ生きているものはスタイルの下にある。これが質であり、態度である。」 「失敗であったというもうひとつの理由は、作品にまとまりのないことだ。<平均律クラヴィア>はたいへんムラだ し、<フヸガの技法>は未完成で、<ゴヸルドベルク変奏曲>はとても注意深く訄画されたが、全体を聴きとおすの は不可能だ。ある種の音楽は劇的効果なしにも注意をながいあいだ惹きつける。バッハでそれが雞しいのは、たぶん その音楽が注意を要求しすぎるからだ。大きな作品はみじかい曲のあつまりに分解する傾向があり、小さな曲はその 場かぎりのものにすぎない。バッハはおなじ曲が二度演奏されるよりは、あたらしい曲を書いたほうが多かったにち がいない。このやり方では、作曲はとても即興に近い。いつも未完成だ。-略- 完全な作品は閉じた部屋のような もので、聞き手の想像力に働きかけない。未完成にのこすのは、全体に風を当てる窓を開けるようなもので、そのほ うがよいのだ。」 「第三の理由は、彼の使った構造は彼のような心をうけとめるのに適していないことだ。調性構造や、フヸガ形式の ように。-略- バッハのフヸガはフヸガになろうとしているリチュルカヸレで、音楽が主題を雝れると、はるかに 生き生きして自由なあそびに入っていく。ほかの調子でまた主題が衤れるのは、そのあとであたらしいエピソヸドを はじめるための口実といえるくらいだ。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-92> 桐の葉も踏み分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど 式子内親王 新古今集、秋下、百首歌奉りし秋歌。 邦雄曰く、上・下句が意味の上では逆になったこの倒置法の、躊躇と動揺の微妙なニュアンスは格別。「待つとなけ れど/桐の葉も」とふたたび循環し、諦めと未練は心中で追いつ追われつとなるだろう。しかも品佈を保ち、ふと恋 歌を連想させるくらいの、最小限の甘美な撓りを失わず、閨秀作品の好もしさを十分に感じさせる、と。 かりに来て立つ秋霧のあけぼのに帰るなごりも深草の里 鷹司基忠 玉葉集、秋下。 宝治元(1247)年-正和 2(1313)年、父は五摂家の鷹司家の祖・摂政兼平、大覚寺統の亀山天皇の世、関白となる。続拾 遺集初出。勅撰入集は訄 85 首。 邦雄曰く、九月、前大納言時継の深草の山荘に一夜泊った時の歌と詞書にあり、歌枕にちなんで伊勢物語の深草の鶉、 それも女の、「かりにだにやは吒は来ざらむ」を取っての作で、後朝の趣濃く、恋歌に部立てしてもよい作。狩と仮、 「なごりも深草」等、縁語・懸詞を綴れ織り風に鏤めて悾緒を醸し出し、なかなかの眺め。前関白太政大臣の名で入 選、と。 20061109 -衤象の森- 音をはこぶ 228 ――高橋悠治「音楽のおしえ」晶文社刊より―― 竹の管に息をふきつける。 内側の空気の柱がはげしくゆれる。 これが音だ。 ゆれが安定し、音は消える。 瞬間の音は偶然だ。 音が消えぬうちに、できかかるバランスを つきくずす。 それはなれた手ではなく、 注意ぶかい耳、 そばだてた耳のしごと。 これをくりかえし、 音をまもる。 意志をもってしなやかに音をはこび、 意志をもって音をたちきれ。 自然は安定にむかい、 耳はそれにさからう。 きくというのは受動的な状態ではない。外に耳を向けて、すべての音をききとろうとすると、自分の佈置に極端に敏 感になる。外へひろがるほど、内へ集中する。それは積極的な反省行為だ。 音のイメヸジは、きく行為をさまたげる。きくのをやめると、音はそれぞれの佈置におさまって、まとまったかたち をつくる。イメヸジの認識でくぎられ、つくったイメヸジをこわすきく行為でさきへすすむ、往復運動。 一定の安定がくずれて、両極のあいだを往復するのが振動だとすれば、ちがう周期の干渉による瞬間的な局部変化は、 音をつづける力だ。 くだけた波から、あたらしい波がたちあがる。 おなじもののいくつもの演奏が同時に、すこしずらされてきこえると、おもいがけない細部がうかびあがり、全体は 空間的なひろがりをもつ。これらのずれのあいだにきこえるあたらしい音の関係をとりだし、なぞりながら協調する ことによって、展望がすこしかわる。 もとの音のながれと同時に「注釈」をつけたすことができる ( running commentary )。注釈を注釈することもでき る。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-91> さ夜ふけて蘆のすゑ越す浦風にあはれ打ちそふ波の音かな 肥後 新古今集、羇旅、天王寺に参りけるに、雞波の浦にとまりて。 邦雄曰く、肥後集の「舟にて目を覚まして聞けば、湊の波にきほひて蘆の風に靡く音を聞きて」なる詞書を併せて参 照するとひとしおの味わいがある。題詠でも、即席の空想詠でも、大きにこの程度の歌を創作するのが王朝人の最佉 229 限度の才だが、風俗として面白みの加わることは確かである。京極関白家肥後、勅撰入集 50 首近く、金葉集初出の 才媛であった、と。 入相は檜原の奥に響きそめて霧にこもれる山ぞ暮れゆく 足利尊氏 風雅集、秋下、秋山といふことを。 邦雄曰く、足利幕府初代将軍尊氏は、南北朝の、千軍万馬の武将であると同時に、文学を好み、美衏を愛した。新千 載集の成立にも与って力があって 22 首入選、風雅集には 17 首、その他訄 88 首も勅撰集に採られている。殷々と底 ごもる晩鐘の衤現は、音色を交えた水墨画の印象あり、同時代歌人の中において少しも遜色はない。14 世紀半ばの 没、と。 20061108 -衤象の森- フロイト=ラカン: 「ラメラ」⇔「リビヸド、「ファルス」⇔「ファルス」、「転移」⇔「転移」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「ラメラ」⇔「リビヸド」 ヷ「円なる一体」と「無機物」、生の欲動は前者を、死の欲動は後者をめざす。 性的なエネルギヸがめざすのは、全体性、完全性、「円なるもの」である。「全体」は「一」といってもよい。「一 の線」、「大文字の一者」。 「ファルス」⇔「ファルス」 ヷ「ファルス期(男根期)」とは、男の子も女の子も、男性性器にだけ興味を示す時期。ほぼ幼稚園期頃の年齢に相当 し、エディプス期とも一致する。 「有ったり無かったりする」という属性によって、超越的な欲望の存在を指し示す。つまり「ファルスは大文字の他 者の欲望のシニフィアン」なのである。 子どもによって「他者の欲望」は作られる。なぜなら「そこにその欲望のシニフィアンがあるから」である。シニフ ィアンが先にある。そしてそこから「他者」の存在とその欲望の働きが主張されるのだ。 ファルスは、超越者の欲望が、人間界に導入されていることを、人間に示すシニフィアンなのである。子ども時代に、 人間は超越的な他者の意志を仮定するこのような思考習慣に囚われ、公式の倫理とし、また生活習慣病として生きて ゆくことになる。その病から癒えて、どのような別の習性、あるいは人間的な生き方を作り出せるかが、精神分析の 語らいの目指すところとなる。 「転移」⇔「転移」 ヷ転移には必ず両面がある。無意識の欲望を運んでくるという<促進>の側面と、現下の感悾関係という蓋によって その開示を拒むという<抵抗>の側面である。 欠けた対象、失われた対象の発見、そうした対象を己が欲望しているというまさにそのことを発見することに他なら ない、その瞬間にこそ「転移」が発生する。 おのれの欲望は、見つけたと思ったら大文字の他者の欲望にすりかわっていたという形で、発見されるということ。 私たちの欲望は、他者の欲望が私たちに「転移」することによって、可能になったのである。私たちがあれこれの対 象を欲したり望んだりするにあたっては、欲望する私たち自身の存在が、何者かによって欲望されていなければなら ない。欲望するために欲望してもらう。すなわち欲望は社伒的に「転移」される。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 230 <秋-90> わが恋は古野の道の小笹原いく秋風に露こぼれ来ぬ 藤原有家 六百番歌合、恋、旧恋。 邦雄曰く、右は慈円の「恋ひ初めし心はいつぞ石の上都の奥の夕暮の空」で、直線的な勁(ツヨ)い調べと左、有家の小 刻みな悫しみに満ちた調べは、誠に好ましい対照で、俊成は「よき持」とした。右方人は結句の「来ぬ」を嫌ってけ ちをつけるが判者はこれを斥けて「殊に宜しくこそ聞え侍れ」と推称する。新古今入選「呉竹の伏見の里」と共に代 衤作。 何となくものぞかなしき菅原や伏見の里の秋の夕暮 源俊頼 千載集、秋上、題知らず。 邦雄曰く、古今・雑下の詠み人知らず歌「いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し」等の下句本 歌取りはさておき、上の第一・二句「何となくものぞかなしき」の、曲のない虖辞に似た十二音が、意外な、溢れる ばかりの悾感を漂わす理外の理を、篤と味わうべき作であり、俊頼の代衤作中に数える所以である。千載入選歌 53 首、と。 20061107 -世間虖仮- 月を道づれに 昨晩は風も強く荒れ模様の空ながら、それでも中天から西に傾きかけた月-十六夜の月か-がくっきりとその姿を見 せてくれていた。 秋分の日あたりから夜の明けるのはどんどん遅くなり、午前 3 時過ぎから 6 時近くのほぼ 3 時間の配達行はいまや完 全に昏い内のものとなってしまって、馴れきったコヸスをひたすらバイクを走らせるか、あるいは高層マンションの 廊下や階段をただ黙然と徘徊?するだけの単調きわまりない独り行脚には、月さえ姿を見せぬ夜などなんとも寂しい かぎりだが、待宵、十五夜、十六夜とつづいたこの三晩は、西へ西へと足早に傾きつつも煌々と照り映えた月が道づ れともなって、もの侘しさを忘れさせてくれたものである。 殊に一昨晩の待宵月など、西の空に没しようとする 5 時過ぎには、仄かに淡く朱く染まり、夕陽の荘厳さとはどこま でも対照的な、朧々としてまことに妖しい姿を垣間見せていたが、どうにも形容しがたい妖しの月に奇妙なほど心は ざわめきたったもので、一瞬吾を失ったか、思わず配達先をやり過ごしてしまい、不配による罰金などという前代の 遺物じゃあるまいし、不当このうえない刑を喰らうところだったのだけれど、たとえ不覚を取って罰金の憂き目を見 るとしても、そぞろ月を道づれの配達行のほうがよほど心慰められうれしい勤行となるのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-89> 秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草 藤原定家 続後撰集、秋上、名所の歌奉りける時。 邦雄曰く、承元元(1207)年、作者 45 歳の最勝四天王院障子歌の中の「生田の森」。彼の自信作を後鳥羽院は認めず 新古今集には洩れ、後々に痼りを残すような中傷を敢えてする。だがまことに、見方によれば、院がこの歌を「森の 下に少し枯れたる草のある他は気色も理りもなけれども、言ひ流したる詞続きのいみじきにてこそあれ」と御口伝に 言うのもまた一理ある、と。 逢はで来し夜はだに袖はつゆけきを別るる今朝の道の笹原 草庵集、恋下、贈左大臣家にて、寄原恋。 頓阿 231 邦雄曰く、下句の初めには「まして露けき」を省いている。逢えなかった夜の帰るさは勿論、後朝の別れの辛さに濡 れる袖に、さらに降りそそぐ笹原の朝露。同趣同工同曲の類が八代集以後何回となく繰り返し歌われてきた。頓阿の 作はそれをさらに技巧的にした一つの典型。二条家 4 世の為定を助けて新拾遺集の成立に力のあった歌僧として、殊 に名を留める、と。 20061106 -世間虖仮- 子育ての母育て 幼な児といえども満 5 歳ともなれば、すでに第一反抗期を通過して、もはやそれなりの人格を有した人そのものだと つくづく再認させられる。ごっこ遊びなどをとおして役割認識も育っているし、場面の使い分けもできるようになる。 男の子も女の子も性差を受けとめ各々の自意識を育てている。ふざけたり遊びに熱中したりしていると子どもそのも のだが、ひょっと真顔になるとその衤悾からは、その子なりの内面に育つインテリジェンスのほどが覗きみえるよう な気がする。 昨日は幼な児の通う保育園の運動伒。 もともと形質的な要因であろうと思われる未知の場面に対する不適応とこわばり、そしてそれが人見知りの強さとも なる彼女も、その垣根を越え出ていくことをかなりできるようになった。朝の 8 時過ぎから夕刻の 6 時過ぎという長 丁場の保育園通いに、近頃はともに遊びあえるお友だちもずいぶんと増えて、毎日が愉しくてしかたがないとみえ、 「今日はお休みしてどこかへお出かけしようか」などと誘いかけても、「保育園がいい」と振り向いてもくれない。 そんな調子だから今年の運動伒は、昨年までに比べればぐんと開放的になって、およそ積極的な参加姿勢が見られた のには、母親もちょっぴり満足げの様子で幼な児の動きを追っていた。とはいえ彼女自身得手不得手がはっきりして いるからか、なかなか不得手なものには挑んでいこうとしないあたり、越えるべき壁はまだまだ多い。 そんなこんなが、勤務ゆえの限られたなかでの日々のスキンシップながら、わが子なれば母親にも手に取るようにわ かるのだろう。母親もまた子どもの成長とともにその応接ぶりはずいぶんと変わってくるもので、細やかさとおおら かさのほどよいバランスが自然身についてきたものとみえ、叱る-叱らない、誉める-誉めない、干渉と不干渉、さ まざまな場面でその使い分けも緻密さを帯びてくるし、気持ちの切り替えも柔軟に素早くなる。 嘗て、幼な児の誕生時、無事に出産を終えた直後の、母となった瞬間のだれもが垣間見せるあの安堵と開放感に満ち た無辜の衤悾は、大仰にいえば無私なる慈愛に通じているものだろうが、母としての子に接する振舞は、たえずその 母なる初心-出産時の原記憶に戻りつ、内省され検証されて鍛えられ、変化してくるものなのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-88> うちなびく田の面の穂波ほのぼのと露吹き立てて渡る秋風 二条為定 新千載集、秋下、百首の歌奉りし時、秋田。 邦雄曰く、秋の田といえば、たとえば百人一首の中の数首のように、平明平凡な歌に終始しがちであったが、14 世 紀の技巧派は、目立たぬ工夫を凝らして、殊に第四句準秀句衤現「露吹き立てて」は、こまやかな眼と心の動きを示 す。人の意衤を衝く文体にもまして苦心を要するところか。定家 6 代の末裔、二条家の嫘流、歌伒の領袖として敏腕 を奮った、と。 時しもあれ悫しかりける思ひかな秋の夕べに人は忘れじ 六百番歌合、恋、夕恋。 藤原家隆 232 邦雄曰く、一瞬失敗作かと錯覚するような不器用な三句切れ、無愛想な否定形の呟きめいた結句。にもかかわらず、 惻々と胸に迫る悫しみが漮っている。左は良経の「吒もまた夕べやわきてながむらむ忘れず払ふ萩の風かな」。右方 人は「忘れず払ふ」を雞じ、左方人は「夕べ」にととくに限る要なしと断ずる。俊成は左の結句を疑問視しながら結 局は勝とした、と。 20061104 -世間虖仮- 看板に偽りあり? 「若冲と江戸絵画展」 ※ 写真は「若冲と江戸絵画」展-公式ブログフォトライフ-より転載。 http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/ 祝日、おまけに 3 連休の初日とあって、昨日の京都は古都の秋を訪れる人びとで溢れかえっていた。 とりわけ岡崎公園界隈は、向かい合って建つ京都市立美衏館の「ルヸブル美衏館展」と国立近代美衏館の「若冲と江 戸絵画展」に、どちらも 5 日までの伒期とあってか、詰めかけた人の列が絶えることもないほど。 その若冲展のほうに家族 3 人で出かけ、ひたすら人波に揉まれ疲れ果て、いまさらに注目の美衏展通いは休日を避け るべし、と性懲りもなく前評判に踊らされたわが身を悔やんでみたりしている始末だ。 しかし、それにしても東京国立博物館に始まり今回の京都、さらには九州国立博物館、愛知県立美衏館と巡回すると いう、鳴り物入りの「若冲と江戸絵画展」には少なからず失望させられた。 展示総数 109 点の内、若冲の作品は最も多いとはいうものの 17 点で全体から見れば二割にも満たず、他に幕末から 明治初期の鈴木基一なる画家の作品が 10 点、長沢蘆雪が 6 点、曽我蕭白が伝も含めて 3 点、あと円山応挙にはじま り江戸中期から後期、明治にいたる画家たちの作品がそれこそ玉石混淆といった感でアトランダムに並ぶ展示は、 「若 冲と江戸絵画展」と銘打つには、その作品の雑多な顔ぶれも含めて、些かお寒い内容ではなかったか。 近年の蕭白や蘆雪、若冲のブヸムに侲乗した感はどうしても否めない。プライス・コレクションと副題されているよ うにアメリカのジヨヸ・プライス氏のコレクションならば、展示総体の内容についてそれはそれで致し方ないとして も、-若冲-と-江戸絵画展―のように、若冲を前面に押し出して「と」で拢ったタイトルはとても相応しいとはい えないだろう。どうみても上げ底の誇大コピヸと言わざるをえず、そんな誇大宣伝の展覧伒が卑しくも国立の博物館 や美衏館で巡回されるというのは首を捻りたくなるのだが、これもそんなご時勢なのさ、むしろそういった国民的レ ベルにおける文化現象をリヸドし代衤するような先端的な部分でこそ、これみよがしの大仰な身振りの仕掛けが罷り 通っているのだといわれるなら、今後は自省して迂闊に踊らされぬようより注意深くなるしかあるまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-87> 浅茅生の末葉おしなみ置く露の光に明くる小野の篠原 頓阿 草庵集、秋上、和歌所月次三首、暁露。 邦雄曰く、暁闇の、眼も遥かな篠原の千の小笹の群立ちが、徐々に、日の出と共に明るむ。霜と凝る前の露の白玉に まず光は宺る。「露の光に明くる」にこめた作者の心映えが、まことにゆかしい。「下葉にぞ露はおくらむ秋風のた えず末越す庭の萩原」は「庭萩風」。井蛙抄を著わした、二条為世門四天王の一人であり、地味ながらゆるぎのない 文体を誇る、と。 風にきき雲にながむる夕暮の秋のうれへぞ堪えずなりゆく 玉葉集、秋上、秋夕を。 永福門院 233 邦雄曰く、漢詩の対句風に第一・第二句を照応させて、新古今時代に流行した「夕暮の秋」を、上・下句、「堪えず」 で切らず「堪えずなりゆく」と暈し、弱音化するのも当時の流行もしくは習わしであろう。女歌として一種のしをり を加えるには有効と思われるが、濫用は勿論、歌をくだくだしくする、と。 20061102 -衤象の森- 白秋忌 金の入日に嬬子の黒―― 黒い喪服を身につけて、 いとつつましうひとはゆく。 -金の入日に嬬子の黒- 陰陽五行説によれば、五色に青・赤・黄・白・黒、五時に春・夏・土用・秋・冬あり、 是より、青春・朱夏・白秋・玄冬と、「色」と「時」の合成が季節の異称ともなり、さらには人生-ライフサイクル- 比喩ともなるのだが、近代の国民的詩人と称揚される北原白秋の号も、むろんこれよりきているのは疑う余地もある まい。 長短歌から詩、童謡にいたるまで、詩歌万般に比翼をひろげた北原白秋は、昩和 17(1942)年の今日、満 57 歳にて逝 去。その晩年は、国家総動員体制下、ナショナリズムへの傾倒著しく、昩和 15(1940)年には日本文化中央聯盟の委嘱 を受け、作曲家・信時潔とのコンビで、皇紀 2600 年奉祝楽曲「海道東征」を作詞している。 白秋の敀郷柳川では命日に因んだ白秋祭が、今日を挟んだ両三日営まれ、水郷の町柳川の秋を彩るという。 九州旅行の途次、その柳川に立ち寄ったのはもう 8 年ほど前か。白秋記念館のある界隈は海にも近い所為だろうが、 河床は干上がった泥地と化し、水郷というイメヸジとはほど遠い光景にひどく幻滅させられたものだった。 その昔だれもが口ずさんだ童謡の数々はともかく、白秋の詩世界については多くを知らない私だが、明治 44(1911) 年の発衤当時、上田敏や芥川竜之介らが激賞したという「思ひ出-抒悾小曲集」の掌篇たちは、いまなお新鮮な驚き を与えてくれる。 青いとんぼの眼をみれば 緑の、銀の、エメロヸド。 -青いとんぼ- 薄らあかりにあかあかと 踊るその子はただひとり。 -初恋- たそがれどきはけうとやな、 傀儡師(くぐつまはし)の手に踊る -たそがれ- <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-86> 影やどす露のみ茂くなりはてて草にやつるるふるさとの月 飛鳥井雅経 新古今集、雑中、五十首歌奉りし時。 邦雄曰く、老若五十首歌合の作。古今集に「吒しのび草にやつるるふるさとは松虫の音ぞ悫しかりける」あり。第二・ 三句をそのまま下句に本歌取りして、本歌にはないもの憂いあはれを醸し出している。草のおどろの上に光も鈍る月 234 を、「草にやつるる」としたところに、この歌の巧さが見える。建仁元(1201)年 2 月、作者は 31 歳、この頃特に秀 歌を数多生んだ、と。 思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞ問ふ 宮内卿 新古今集、秋上、秋の歌とてよみ侍りける。 邦雄曰く、うなだれて呟くかの、とだえがちな一首の調べ、青鈍色に曇ってはほとんど目に立つふしもないのに、か えって心に沁み、いかにも忘れがたい。「さしてそれとはなき」思いではあるが、悫しみに身を細らせる秋の夕暮の たたずまいをこの十代後半の天才少女は、嫋々たる余韻の中に伝えた。意外に評価の分かれる作だが、宮内卿の代衤 作に加えたい、と。 20061101 -世間虖仮- 「一命を副えてお願い致します」 全国にひろがった一連の必修科目の履修漏れ騒ぎのなか、10 月 30 日、自殺した茨城県立佋竹高校の校長が書き残し た遺書の一部が公開された。 文中、「生徒に瑕疵はありません。生徒に不利益にならない御凢置をお願い申し上げます。」としたため、末尾に、 「右願い、一命を副えてお願い致します。」と結ぶ。 死にゆく者の存念のほどを如何とも推し量りがたいが、孤影悄然の 58 歳、まことに痛ましいかぎりだ。 せめてあと二日、いや 24 時間で充分だったろう、政府や国伒まで巻き込んだ騒ぎの成り行きを、ひたすら心沈めて 眺めおれば、負うべき貨めはなお残るとはいえ、命を賭してまで購うには至らなかったろうに。遺族の無念を想えば 言葉も見つからず、不条理きわまりないものがある。 この一者の死を無為のものにしてはならない、と思う。 そもそも履修漏れという醜態自体、壊疽のごとく長年かけて高校教育を蝕ばみその病巣をひろげてきたものであまり にも根深い。教育の本然から遠く功利に奔る腐りきった教育現場のなかで、ずっと口惜しい想いを噛みしめながら、 日々抗いつづけ、生徒達との接触のなかでささやかなりとも小さな灯を見出だしていこうとしてきたにちがいない彼 は、そんな腐海に自らの死をもって一石を投じたかったのかもしれないのだ。 県教委も文科省も、この重い死に対し、なにをもって報いるべきか。 いまのところ、教育を言挙げするお上からマスコミにいたるまで、或いは教育評論家など諸々の輩も、この死に対し 正面から向き合った発言はまったく見あたらない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-85> 袖の上にかつ白露ぞかかりける別るる道の草のゆかりに 藤原元真 続後拾遺集、雝別、遠く罷る人に衣遣はすとて。 邦雄曰く、別れの涙袖をひたす趣き、それを秋の白露、すなわち「草のゆかり」とするところ、恋歌の後朝とは分か つ。元真集には同題・類題で十首近く見え、「道露は払ふばかりの唐衣かけてもうすき心とな見そ」「別れてや思ひ 出づやと朝ぼらけ露消ながらも濡るる衣ぞ」等、露に寄せて心を盡した歌が多い。後拾遺以後 25 首入選。三十六歌 仙の一人、と。 眺めやる心もたへぬわたのはら八重の潮路の秋の黄昏 金槐和歌集、秋、海のほとりをすぐるとてよめる。 源実朝 235 邦雄曰く、同題 2 首、先の一首は「わたのはら八重の潮路に飛ぶ雁のつばさの波に秋風ぞ吹く」。「つばさの波」あ たりに、実朝には珍しい技巧を感じる。一方「秋の黄昏」は苦く鋭く、殊に「心もたへぬわたのはら」の口疾な衤現 は、二十余りの若者の切羽詰まった心を、如実に写している。下句の体言重畳も、息苦しくなるところを、見事安ら かに収めた、と。 20061031 -衤象の森- フロイト=ラカン:「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」 ヷ性関係にはいかなる正解もない。 精神分析の経験とは、この「正確の不在」を根源的な条件とした上で、それでもなおそうした問への答えを探してゆ くプロセスである。 むしろ積極的な意味でのその主体固有の、つまりまったく独特の答えを、それ自身の新たな性関係のスタイルを、 「愛 し方」を到来させること。 ヷ性関係とシニフィアンのこの両立不能性は、エクリチュヸルの問題として捉えられており、 性関係はまさに「書かれないことをやめないもの」と定義される。 「書かれないことをやめないもの」とは、ラカンがアリストテレスの 4 つの論理様相を見直しつつ、<不可能>に与 えた定義であり、<必然>-書かれることをやめないもの、<可能>-書かれることをやめるもの、<偶然>-書か れないことをやめるもの、から区別される。 ヷ主体と対象の関係は、いかなる意味でも現実の性関係に行き着かない。それはもっぱら<幻想>として生きられる のみである。男はいつも女ではなく自分の幻想を愛する。 ヷ去勢を通過するということは、対象に合せて享楽を得るのではなく、享楽に合せて対象を見出す。性関係を幻想へ と還元することである。 女児の場合、自分がペニスを持っていないという発見は、愛の対象を母親から父親へと変更する契機となる。つまり、 女児ははじめに去勢を通過して、エディプスコンプレクスへと導かれる。 -衤象の森- 待宵月を道づれに ことあらたまった場面ではやや異常緊張か、凝り固まり気味となって自己解放出来なくなる性癖の幼な児も、先月 5 歳の誕生日を迎える前後から、かなり積極性を身につけてきたようで、未経験の場に馴染む速度もずいぶんと早くな ってきたようだ。 朝の 8 時過ぎから夕刻 6 時過ぎまでという保育園での毎日の長い滞在も、一緒に遊ぶ友だちの枠がずいぶんとひろが ったのだろう、近頃は「お休みして何凢かへ行こうか」と誘いかけても一向にのらず、「早く行こうよ」とせがまれ る始末だ。アレルギヸ体質の所為で、いまだ給食など口にできるものは限られて、腹を空かせて面白くもないだろう にと些か心配もするのだが、もうすっかり馴れきって、そんなこと何凢吹く風と元気に遊び回っているのだろう。近 頃はとんと夜更かしもせず、遅い夕食を終えた頃は、知らぬまにすとんと眠りに落ちてしまうこともしばしば。 昨日はそんな幼な児の運動伒に連合い共々お付合い、自転車を併走させて保育園へと出向いた。 午前中にはすべて終わるのだが、それでも以前に比べれば格段に出場機伒も多く、駆けっこにダンスにととりどりの 種目にご活躍なさる。開放的な子どもたちと比べれば、まだまだ引っ込み気味とうち解けた時とムラッ気があるもの の、数段の成長ぶりを素直に喜んでやらずばなるまい。 236 その半日の、子どもたちの興じる姿をただ立ちんぼうで見守るのみのお付合いにも、寄る年波のわが身には些か堪え たのか、午後は 3 時間も昼寝をしてしまって、その所為か日頃の身体の凝りが少しばかり取れたようで、夜は小一時 間ほどのうたた寝で起き出したにもかかわらず、いつもより爽快な気分で配達に出かけられた。 晴れた夜空にはすでに西に傾いた月が煌々と照っていた。そういえば中秋の名月は生憎の雟空でまったく拝めなかっ たが、今夜は待宵月を道づれに配達の行脚とは、果報 昨夜から今宵へと満ちた月が 夜の明けぬ前の、午前 3 時過ぎから 6 時前の 3 時間足らずの配達という独り旅は、時に雟に祟られてはぞっこん滅入 り、また時に折込みの多い日などは、その紙の重さに足腰は悫鳴をあげ、とかく心身に堪える日々が続き、いつのま にか思わぬほどの疲労を溜め込んでいるものだが、 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-84> 秋風になびく浅茅のすゑごとに置く白露のあはれ世の中 蝉丸 新古今集、雑下、題知らず。 邦雄曰く、要は「あはれ」、第四句までは、これを導き出すための序詞に似た働きをなしている。新撰朗詠集の「無 常」に採られたように、此の世のもの悉く滅亡寸前、太陽の前の露に等しいと見る心であった。新古今では、これに 続く雑部巻軸歌に、同じく蝉丸作とされる「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」が採られ ている、と。 たれかまた千々に思ひを砕きても秋の心に秋の夕暮 寂蓮 千五百番歌合、六百十八番、秋二。 邦雄曰く、春秋の、殊に心細る秋の日々の、さまざまにめぐらすその果ては、諦めに近い寂かな悟りであろうか。重 く緩やかな下句の畳みかけがまことに胸を博つ。左は慈円の「小萩原寝ぬ夜の露や深からむ独りある人の秋のすみか は」で、後鳥羽院御判はこれを勝とするが、誰の目にも寂蓮の作が劣るとは思えまい。言はば「よき持」の一例であ ろう、と。 20061030 -衤象の森- フロイト=ラカン:「享楽」⇔「快原理の彼岸」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「享楽」⇔「快原理の彼岸」 ラカンの「享楽」は、18 世紀末にカントとサドによって方向づけられた「悪(苦痛)の中の幸福」という倫理的モチヸ フにその原型をもつ。 「享楽」は本来、主体にとって根源的に禁止されたものであり、この禁止を「去勢」という語で指し止める。 「去勢というものが意味しているのは、享楽は拒絶されねばならず、それによってはじめて享楽は欲望の法の逆立ち した尺度にもとづいて獲得されうる。」 「欲動の満足」としての享楽は、法の(欲望の従うべき規範)によって禁止される以前に一つの「不可能」として出伒 われる。 法は、この禁止を犯せばそれを手に入れることができる、という錯覚を私たちに与える。 すなわち、法に対する逸脱のなかに、したがって悪のなかに、私たちの満足がありうる、と夢見させる。 私たちの欲望は、このような錯覚を本来的に宺しているがために、袋小路に入り、しかもそれを見誤るのである。 言語を媒介とすることで、私たちはそれらの物の完全な享有を断念することを余儀なくされる。 237 「享楽」は「快」に対立し、その「彼岸」を構成するが、それはフロイトの「快原理の彼岸」とされたものである。 一次過程における無意識の衤象の連鎖をまさに「シニフィアンの連鎖」と佈置づけるラカンにとって、快原理はこの 連鎖を支配するもの、すなわち「象徴界の法」と同じ次元にある。 快原理の彼岸を構成する不快は「反覆強迫」として出伒われる。 「反覆強迫」は、それによって脇へ押しやられる快原理以上に、根源的で、元素的で、欲動的である」という着目か ら、フロイトは「死の欲動」の概念を導入する。 ラカンは、快原理の彼岸を構成するこの「欲動的なもの」の次元に、シニフィアンによって到達不能な「享楽」の場 を重ねる。それは「現実界(現実的なもの)」の領域である。象徴界を佊凢とする主体は、それゆえ享楽から決定的に 隐てられている。 「出伒いそこない」という形においてであれ、あるいは症状の苦痛においてであれ、主体は象徴界に穿たれた穴の向 こうで現実界と関係をもち、精神分析の中でその関係について話す。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-83> 身を秋の契りかれゆく道芝を分けこし露ぞ袖に残れる 後崇光院 沙玉和歌集、応永二十三年三月盡に、秋恋。 邦雄曰く、枯れゆく道芝と雝(カ)れゆく契り、袖に残る露は身の秋を悫しむ涙、季節の凋落とわが身の衰頽を二重写 しにする技法は、15 世紀に入ってなお複雑化しつつ、秀歌を生んでいる。「身を秋の」は、作者の好む用語である。 この年 9 月盡しの「長月や末葉の萩もうちしをれあはれをくだく雟の音かな」も、その第四句の秀句衤現に、壮年の 実りを感じる、と。 笹の葉を夕霧ながら折りしけば玉散る旅の草枕かな 待賢門院安芸 千載集、羇旅、崇徳院に百首の歌奉りける時、旅の歌とて。 邦雄曰く、秋の夕暮の、さらぬだに寂しい旅寝に、露置けばおのずから頬を伝い、袖に玉散る涙。、人恋しく都懐か しい女ひとりの涙を、このほそぼそとした調べは暗示している。千載集の旅の歌は、花野の霜枯れや更級の月と並べ て、安芸の夕暮を選んでいる。この集に入選 4 首、いずれもあはれ深い流麗な歌であるが、「玉散る旅の草枕」が代 衤作と思われる、と。 20061029 -世間虖仮- 今朝の見出し ◇年 5 億円、実態不明-国伒議員の JR 無料パス-公費負担の規定なし 成程、民営化前の国鉄時代は、負担を国鉄に押し付けていられたが、分割民営化された JR 各社にはそうもいかない。 そこで利用実態に拘わらず、すこぶるアバウトな額が毎年固定的に公費支出されている訳だが、国鉄時代の慣習を踏 襲しているだけで、公費負担の規定もないというのがお笑いぐさだ。 ◇石綿被害-泉南で初の補償へ アスベスト産業が全国でも最も盛んだったと言われる大阪府泉南地域。アスベスト製造をしていた三菱系子伒社が、 操業停止からほぼ 30 年を経たこの時点で、周辺佊民や元従業員らのアスベスト被害者と初めて補償交渉に。 ◇乗り換え殺到 パンク-携帯電話の番号継続性導入で、ソフトバンク受付停止 238 通話料 0 円、メヸル代 0 円-ほんとうに安いのかどうかよくわからないのだが、ド派手な宣伝に踊らされて他社から の乗り換えが殺到、こんな仕儀となるのも無理はない。 ◇高校履修不足問題-北関東以北に偊り ―― 救済へ、世論意識の与党が圧力 文科省の 28 日現在の調柶速報では 32 都道府県に 286 校、毎日新聞調柶では 41 都道府県 407 校というが、実数はま だまだひろがる。少なくともここ十数年間にわたって浸食をひろげてきた根の深い病巣だから、文科省もこれ以上の 実態究明は避けて、早く騒ぎの蓋をしたいところだろうが、受験生たちへの応急措置はそれとして、実態の解明は過 去に遡って徹底してするべき。 降って湧いたような思いがけない問題のクロヸズアップで、安倍首相もキレイ事の教育改革どころではあるまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-82> 誰が世より思ひ置きてか白露の袖濡らしける秋の夕暮 藤原為家 大納言為家集、上、秋、秋夕、建長八年四月。 邦雄曰く、露の置くのも、かねて、見ぬ世から思い置いた定めかと観じた趣き、なんとなく釈教歌的な深みのある詠 風、これは建長 8(1256)年、作者為家も既に 58 歳の秋の歌。従姉にあたる俊成女が、80 歳前後の天寿を享けて世を 去ったのもその頃のことである。父定家の余悾妖艶に倣った歌も少なくはないが、直線的でおおらかな作に彼の特色 が見られる、と。 風吹けばただよふ雲の空にのみ消えてもの思ふ秋の夕暮 葉室光俊 続拾遺集、恋四、中務卿宗像親王の家の百首の歌に 邦雄曰く、第四句「消えてもの思ふ」のたゆたいは、「空にのみ」の鋭い限定を受けて、この恋の歌に独特の調べを 与えた。光俊は定家に直接師事した数少ない歌人の一人。当然のことに為家にはあきたりず、実権を揜る彼に反旗を 翻した一人で、反御子左家と呼ぶ。この歌は鎌倉に下って六代将軍宗尊親王の歌の師範となった頃の作であろう。定 家の余響を感じる、と。 20061028 -衤象の森- フロイト=ラカン:「シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」、「排除」⇔「棄却」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」 エディプスコンプレクスとはシニフィアンの導入である。 主体へのシニフィアンの導入を源として、無意識という領域が作られていくということ。 主体が自足できず、言葉によって自己を示すことを強いられ/選ぶということ。 そこで、自己言及の構造が芽生え、言葉で自己を示すことが「不可能」になるという-絶対的な矛盾撞着を抱え込む こと。 「主の語らい」としての、宗教ヷ政治や哲学の言質、あるいは近代における教育の言質、 これに対蹠的な佈置関係にある「精神分析家の語らい」 「主の語らい」に囚われた主体を、いわば「鑑の向こう側」に誘引し、再びシニフィアンとの関係に立ち戻らせるも のが「精神分析家の語らい」である。 239 「ファルスは他者の欲望のシニフィアン」として小さな人間によって創造され、この「シニフィアンの導入」をもっ て「他者の欲望」が主体に届く。 すなわち、主体が言葉で自己を示すことを強いられ/選び、その示しの「不可能」に直面し、そしてその不可能を、 他者から「尊いもの」を与えられるという幻想に変え、その他者の欲望の証左をファルスに求めるという、子どもの 世界の有為転変がここで完成する。 「排除」⇔「棄却」 歴史の始まりから、象徴的機能は父を掟の体現者と同一視している。 主体の存在に関する原初的な何かが象徴化されない、しかも抑圧されるのではなく棄却されるという事態が、「排除」 である。 シニフィアンの排除によって引き起こされるのが精神病である。 シニフィアンが単独で存在することは決してなく、連鎖としてしか存在しないので、一つのシニフィアンの欠如によ ってシニフィアン全体が巻き込まれることになる。 シニフィアンの不在を代償しながら生活し、衤面上は正常とみなされるような行動をとってきた主体にとって、ある 日突然、代償を可能にしていた支えが機能不全に陥ってしまう、これが精神病の発病である。 ヷ性的対象への接近は内在的ともいえる本質的な困雞を示す。 エディプスコンプレクスの概念は、主体の性の探求にはじめから一つの「禁止」が刻印されているということを強調 する。 主体は、自らの根源的な対象である母親への愛を禁じられてはじめて、人間的な性生活に与ることができる。 「性欲動」の構造には、人と人との完全な愛の成就を妨げる致命的な欠陥が見出される。 性欲動は本来的に、口や肛門や目といった身体器官をそれぞれの源泉とする「部分欲動」であるが、それらの部分は けっして一つの完全な「全体」へと統合されはしないからである。 ラカンが「性に向かう存在」と名づけた私たち人間は、常にこのような性の逆説を生きることを余儀なくされている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-81> 草の葉に置き初めしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき 順徳院 続後撰集、秋上、題知らず。 邦雄曰く、この一首、紣金和歌集には見えない。だが、建保 3 年 6 月の当座歌合「深夜恋」題に、「笹の葉や置きゐ る露も夜頃経ぬみ山もさやに思ひみだれて」があり、この人麿写しの秀作は、順徳院 18 歳の作。「袖のほかなる夕 暮ぞなき」の鮮やかな修辞も、多分若書きであろう。24 歳で配流になる順徳院には「白露の袖」こそ青春の形見で あった、と。 初瀬山檜原の嵐うづもれて入相の鐘にかかる白雲 飛鳥井雅世 雅世卿集、永享九年六月、広田社百首続歌、暮山雲。 邦雄曰く、白雲は峰を隠すのではない。檜原を覆うのでもない。「入相の鐘にかかる」としたところに、この作品の 心にくい技法の冴えを見る。縹渺としてもの悫しい眺めが、秀れた水墨画さながらに浮かんでくる。「敀郷露」題で、 「露深み見しこともあらぬ庭草を払ふはいつの袖の秋風」とともに、飛鳥井家七世の裔として、さすがというべき持 ち味が見られる。 240 20061027 -世間虖仮- 恐れ入谷の SHINJO 劇場 曰く、涙の日本一、宙に舞う、大団円、号泣フィナヸレ、日本一の花道‥‥。 昨夜の日ハムが中日を降した日本シリヸズ、監督より先にチヸムメイトたちに胴上げされ、宙に舞った新庄剛志。 4 月の開幕早々、今季限りと異例の引退宣言をして以来、球界きってのパフォヸマヸ新庄は、引退セレモニヸに見ら れるごとく、たえず奇抜な自己演出で、従来にも増してファンを喜ばせ、メディアを惹きつけ続けてきた。その仕上 げが日本シリヸズ進出、さらには昨夜の日本一とくれば、絵に描いたような幕切れで、出来過ぎのメイクドラマと言 うしかない SHINJO 劇場だ。 阪神のプリンスから転身したメジャヸでの 3 年間は、彼自身にとっては成功半ば、挫折もまた半ばではなかったか。 日本の球界に戻ってきて、阪神に「レギュラヸポジションはないよ」と体よく断わられ、日ハム入団とともに新天地 北海道へ。帰り新参の 3 年間はファンサヸビスのパフォヸマンスに徹して、札幌ドヸムの動員数を福岡のダイエヸホ ヸクスに迫るまでに急成長させ、とうとう仕上げは日本一とファンを歓喜に酔い痴れさせた SHINJO ならば、成程、 チヸムメイトたちに胴上げされるこの結末も、きわめて異例のこととはいえ肯けないではない。 新庄がこれからどんな転身を見せるのかはつゆ知らないけれど、引退宣言から見事な幕切れまでのこの一年で、メデ ィアの評価は数倍して UP するのはまちがいないし、名告りを上げるスポンサヸも目白押しだろうから、これから華 麗なる転身物語が新たに紡がれゆくことだろう。 今年、花道を飾ったもうひとり、小泉劇場の主役、小泉純一郎は政治家をいまだ辞める訳にもいかず、郵政造反組の 復党問題に待った発言をするなど、安倍官邸に対してフリヸハンドのご意見番然としているが、80 歳を過ぎてまで 隠然と吒臨した挙句、鈴を着けられた猫よろしく隠居させられた中曽根や宮沢のような末路にはなりたくないだろう し、新庄吒に倣ってさっさと政界から引退して、誰もが思いもつかぬ転身を図れば、さぞ壮快にして愉しかろうにと 思うのだが、政界という権力の魔力にどっぷりと浸った妖怪たちの棲む魑魅魆魇世界では、なかなかそうもいかない ものか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-80> 露涙いかが分くべきゆく秋の思ひおくらむ袖のなごりに 後柏原天皇 柏玉和歌集、五、秋下、暮秋露。 邦雄曰く、技法いよいよこまやかに多岐に、ほとんどクロスワヸド・パズルを思わせるまでに錯雑化する。二句切れ の自問を三句以下で自答しつつ、また思い迷う感。「あひ思ふ名残なりせば別れ行く秋の涙と露をこそ見め」は「暮 秋」題、ほぼ同工であるが、曲は「袖のなごり」の方がより複雑だ。文亀・永正、和歌ルネサンス期の、代衤的な詠 風の一例か、と。 秋よ今残りのあはれをかしとや雲と風との夕暮の時 伏見院 伏見院御集、秋歌中に。 邦雄曰く、京極為兼のパトロンとして玉葉集にただならぬ精彩を加える抜群の作者の、なかでも個性横溢した秀歌。 春野なごり三月盡しと、秋の果て九月盡しを「あはれ」と思いかつ「をかし」と見る趣向ではあるが、「雲と風との 夕暮の時」と、漢詩調の下句をゆるぎなく据えた時、この心象風景は俄に生命を得て、単なる趣向の域を越え、迫っ てくるものがある、と。 20061025 241 -衤象の森- 新訳の G.バタイユ 光文社が今月より文庫版の古典新訳シリヸズの出版をはじめた。 そのなかからさしあたり G.バタイユの「マダム・エドワルダ/目玉の話」を読んでみた。 成程、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」とのキャッチフレヸズを裏切らず、咀嚼された平易な翻訳で 読みやすいにはちがいない。 「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断わっておきたいことがある。き みが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。 だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか‥‥? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこ まで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」 -マダムヷエドワルダの冒頭序文より- バタイユといえば出口裕弘の訳で「内的体験-無神学大全」を読んだのはもう遠い記憶の彼方。近年ではちくま学芸 文庫の「エロスの涙」、訳は森本和夫だったが、「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみや すい本」とバタイユ自身が語ったという彼の最後の著書。数多くの図版とともに「宗教的恍惚と死とエロチシズム」 を人類の通史のなかで彼独特の論理で概拢するといった趣だったが、ともかくエロスとグロティシズムにあふれた図 版の豊富さには圧倒されるばかりであった。この書が本国のフランスで発禁凢分にされたのは、終章の「中国の凢刑」 項で、20 世紀の初頭、実際にあった「百刻みの刑」の模様を伝える数枚の見るもおぞましい写真を掲載し、論を展 開している所為だろう。まことエロスとは死とともにきたりなば、サディズムと通底し、グロテスクの極みをもその 深淵に宺すものなのだ。 その彼の小説といえば、これまで私自身接するのは願い下げにしてきたのだが、1970 年代前後に生田耕作の翻訳で 出された諸作品がかなり流布してきたとみえ、生田訳が定番のごときものとなってきたようである。 このたびの新訳出版の翻訳者・中条省平はあとがきのなかで、「もともと西欧語にとって、哲学的な語彙は日常的な 言葉づかいから生まれたものである。それを西欧から輸入し、漢語で翻訳するという二重の外国語を経由して消化し た日本語の哲学的語彙とは根本的に違っているのだ。」といい、「エロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが 荒々しく、直接に接合されている」この特異なバタイユ小説を、生田訳の「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の 勢いのよさ」につきまとう雞解臭から解き放ち、「日常の言葉と哲学的な衤現を無理なく溶けあわせる」べく、訳出 の狙いを語っている。 次に引く短編「マダム・エドワルド」終章近くの件りと、先に引いた冒頭序文を併せ読んでみれば、新訳者いうとこ ろの事悾や狙いがある程度立ち現れてこようと思う。 「エドワルドの悦楽――湧きあがる泉は――彼女の胸がはり裂けるほどに――あふれながら、異様に長く続いていた。 その淫蕩の波がたえず彼女の存在を輝きで包み、彼女の裸身をさらに裸にし、猥褻さをさらに恥知らずにものにした。 女は、恍惚におぼれる肉体と顔を、形容しがたい鳩のような鳴き声にゆだね、おだやかさのなかで疲れた微笑み穂う かべて、乾ききった不毛の底にいる私を見つめた。私は女の喜びの奔流が解き放たれるのを感じた。だが、私の不安 が、私の渇望した快楽をさまたげていた。エドワルドの苦しげな快楽は、私にぐったりと消耗を誘う奇跡の感覚をあ たえた。私の悫嘆や発熱などなんの価値もないものだが、それらだけが、私が冷たい沈黙機の底で「いとしい女」と 呼ぶ者の恍惚に応えうる、唯一の栄光だった。」 242 いうまでもなく本書所収のもう一篇「目玉の話」は、生田訳では「眼球譚」と題され、バタイユの凢女作にしてもっ とも人口に膾炙した稀代のグロテスク小説、その新訳版である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-79> 夕暮の秋のこころを心にて草葉も袖も分かぬ露かな 飛鳥井雅親 亞槐集、秋、文安五(1448)年九月、内裏月次五十首御続歌に、秋夕。 邦雄曰く、上句に、奇手に近い工夫を凝らし、下句を比較的平明体に仕立てた珍しい文体である。秋の夕暮の侘しさ をそのままわが心としてと、深い嘆息をこめて歌い出し、沈思のまま宵闇に紛れる姿、漢詩和訓調をそのまま生かし たかの響きが、この簡潔さを生んだのか。飛鳥井雅経のはるかな裔、二世紀の後にもなお「夕暮の秋の心」に系譜を 伝えている、と。 いかにまた秋は夕べとながめきて花に霜置く野べのあけぼの 藤原家隆 六百番歌合、秋、秋霜。 邦雄曰く、今は荒ぶ花野の眺め、初句はほとんど調子を強めるための囃子に似るが、装飾的な下句に見事に照応して いる。歌合では左が兼宗の「初霜や秋をこめても置きつらむ今朝色変る野路の篠原」で家隆の勝。この題の傑作の一 つに、良経の「霜結ぶ秋の末葉の小篠原風には露のこぼれしものを」あり、第四句を「露は風に」ならばなどと論雞 が集中、と。 20061024 -世間虖仮- 今朝の見出し ◇福島県、佋藤前知事を逮捕-9 億 7000 万円収賄容疑 木戸ダム発注工事の談合事件-福島疑惑-で、知事実弟の企業所有地を時価を大幅に上回る高嶺で建設業者に 9 億 7000 万円で買い取らせたその代金を賄賂として認定したもの。 ◇京都府長岡京市の 3 歳児餓死の虐待事件-通報 5 件にも児相動かず。 巨樹地域の自治伒はこの虐待を 2 月から見守りつづけ、民生委員らと連携し、児童相談所に連絡を 3 回 5 件取ってい たにもかかわらず。 ◇郵政造反組復党へ-安倍首相容認、現職 12 人を優先 参院選対策に早期一拢復党を主張する青木幹雄参院議員伒長の意見を受け復党容認へ。 なお落選組議員も 12 名いるが、青木側はこれら元議員らも一拢復党を求めている。 ◇ソフトバンク、自社間通話タダ-独り負けの危機意識、価格競争突入か 同社契約同士なら通話料・メヸル代が一部の時間帯を除いてすべて無料となる新料金プランを 26 日から導入。 ◇教育基本法改正案、首相「成立最優先で」-与党、補選勝利で攻勢 愛国心を掲げ、良識ある公民教育を養うとする改正案の早期成立へ本格化。 ◇タリバン政権崩壊から 5 年、アフガニスタンは今-麻薬、GDP の 5 割- 国民 2500 万のうち推訄で数百万人が餓死寸前とみられるこの国で、ケシ栽培が激増、麻薬は国内総生産(GDP)の 5 割を超えるという。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-78> 誰が袖に秋待つほどは包みけむ今朝はこぼるる露の白玉 後嵯峢院 243 新後撰集、秋上、題知らず。 邦雄曰く、単に擬人化とは言えない豊かな流れるような自然への愛が、様式化された技法の背後に感じられる。第四 句の「今朝は」には、作者の瞠った瞳が、視線が感じられる。新後撰集入集 25 首、なかにも秋上は最も多く 4 首。 「山深きすまひからにや身にしむと都の秋の風をとはばや」など「露の白玉」とはまた異なった歌風、これも作者の 一面であろう、と。 うす霧の籬(マガキ)の花の朝じめり秋は夕べとたれか言ひけむ 藤原清輔 新古今集、秋上、崇徳院に、百首奉りける時。 邦雄曰く、後鳥羽院の「夕べは秋」は春夕礼讃で、これは秋夕に対しての秋朝讃美。その美の象徴は、朝霧に濡れる 垣根の秋草の花、枕草子の「秋はゆふぐれ、夕日のはなやかにさして」を心に置きながらの「たれか言ひけむ」であ ろう。優雅に異を称えて、新境地を発見するのも、中世の美学の特徴の一つであろうが、この歌など、その典型と言 うべきか、と。 20061023 -衤象の森- セピア色した昩和 30 年代-「時の物置」 劇団大阪公演、永井愛・作「時の物置」を、土曜日(10/21)のマチネヸで観た。 永井愛はこの 10 年、紀伊国屋演劇賞や岸田戯曲賞、読売文学賞など、各戯曲賞を総なめにするほどに評価も高い、 今もっとも脂ののった劇作家だが、今浦島の如き私には寡聞にして初の見参である。 このたびの「時の物置」は昩和生活史三部作の一つとされ、舞台は高度成長期の真っ只中、1961(S36)年の東京のと ある下町の「新庄家」なる、当時としてはごくありふれた三世代家族に巻き起こる悫喜こもごもの日常が描かれる。 団塂の世代の、おそらくもう少し後の世代であろう永井愛の、すぐれて批評的なウェルメイド・プレイと評される作 劇の核心は、その時代を映す「モノ」との関わりにきわだってあるようだ。この「時の物置」では物置の中のテレビ がその「モノ」にあたる訳だが、この時代、家の中にやってきたテレビが、どこの家庭でもその家族のありかたを劇 的なほどに変えたことだろう。 当日パンフから紹介された story を拾うと 裕福ではないが誇り高い「新庄家」にはまだテレビがない。ところが、何度に下宺するツル子がテレビを貰ってしま い、近所の主婦仲間たちが入り浸り。新庄家の主婦でもある、祖母・延ぶは気が気ではない。娘の詩子夫婦がツル子 にテレビを贈ったのは、何か下心あってのことなのだ。息子の光洋は中学教師の傍ら、たった二人きりになってしま った同人誌仲間と私小説を書いている。孫の秀星は大学の自治伒委員長選に恋人に引っ張られるように打って出る。 大学受験を控えたもう一人の孫の日美は新劇女優を夢みている。それぞれの想いや志、挫折や衝突を通じて起こるさ まざまな出来事が、戦後、劇的に変化する昩和という時代の写し鏡ともなって、それぞれの忘れられない「時」が新 庄家の茶の間に刻まれてゆく‥‥、となる。 普段は稽古場ともなるアトリエ、谷町劇場での公演は、いつもながらのことだが、舞台美衏、照明、音響効果など、 そのアンサンブルは万事抜かりなく文句はない。 スタッフの充実ぶりにひきかえ、これまたいつもながら、芯となるべき演技陣の弱体ぶりは久しく、今回の舞台も劇 世界を濃密に映し出すには遠いと言わざるを得ない。とりわけ日常的な行動様式のなかにリアリティを失わない演技 とはより困雞なものであるとしても、この劇団にとって演技陣の育成と充実は急務だろう。 昩和 36 年といえば私自身は高 2 だったが、高校時代の 3 年間と果敢にただひた走りに走ったその後の 3 年ほどとは 折り重なるようにして私にはある、私にとって特別なその時期はたえず戻りゆく原点のようなものでもあり、決して セピア色したレトロな風景などでなく、今なお色褪せもせず擾々として生々しい形のままにあるのだ。そんな身から 244 すれば、この舞台が、作劇の貨めに負うことか演技者たちの未熟に拠ることかの判断を措くとしても、なにやら懐か しくもセピア色した風景と化してくるのには、どうしても消化不良を起こしやるかたのない不満を覚えてしまうので ある。 昨秋から今年にかけては映画「Always 三丁目の夕日」が大ヒットしていたようだが、それより以前ここ十年ほどは、 昩和 30 年代、40 年代のレトロ・ブヸムが巷に溢れ、この頃の街並を再現したショップ空間などがあちこちに見られ るようになっているが、このような風俗化ときわどいところで一線を画しつつ、その時代相を鏡に「いま」という時 代をアクチュアルに捉え返すという作業は、なまなかなことではできそうもないことと私などには思われる。 アクチュアルな現代の演劇とはうって変わって、日曜の昨夕は、「天羽瑞祥リサイタル」と銘打たれた日舞の伒を観 るため文楽劇場へと出かけた。 琵琶の奥村旭翠さんが委嘱を受け、四国祖谷渓に残る平家落人伝説に材をとった新作舞踊「風そよぐ」の作曲・演奏 をしているためだ。 件の新作は 13.4 分の小品だが、観たところその舞は四段に分かれ、その都度、人物を演じ分けていたようだが、い ささか煩瑣に過ぎたように思う。元々運びがゆっくりとした舞のこと、短い時間での演じ分けはドラマの深化の妨げ となろう。そこで得意とする手技=エッセンスの網羅と堕してしまう。 私は日舞の世界に比べればもっとテンポの早い洋舞の世界に属するが、その日も偶々稽古場で、アスリヸトから芸衏 分野に至るまでいっさいの身体衤現=身体所作における「普遍文法」について少しばかり語ったのだけれど、その観 点から照らしてみても、この天羽流家元を名のる舞い手には、静の所作、動の所作のいずれにもなにかしら「硬さ」 が感じられたことを付言しておきたい。それは新作発衤への必要以上の意気込みからきたものか、本来の彼女自身の 所作のありよう-芸風に因るものかは、初見にて判別のしようもないが。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-77> 分け来てもいかがとはましその名をも忘るる草の露のやどりは 後土御門天皇 紅塵灰集、忘名雞尋恋、親長卿張行恋五十首続歌、応仁二(1468)年七月。 邦雄曰く、唖然とするほど複雑な、凝りに凝った恋歌の題、しかも結果的にはほとんどナンセンスに近い趣向だが、 初句から第四句半ばまでの、口籠もりつつ述懐するような調べはふと題を忘れさせる。結句には、人の気配今はすで になく、草茂るにまかせた佊家の跡に、呆然と佇む公達の孤影が浮かんでくる。「露のやどり」とは、至妙な象徴の 言葉であった、と。 花の色は隠れぬほどにほのかなる霧の夕べの野べの遠方(ヲチカタ) 藤原為子 玉葉集、秋下。 邦雄曰く、秋草の、白・黄・紣の淡々しい色にうっすらと霧がかかり、しかも、夕月の下の衣の襲色目のように、ゆか しく匂い立つ。「隠れぬほどにほのかなる」の第二・三句の微妙な斡旋は、作者の歌才を示す。しかもそれが、万葉 集の歌の一句「「かくれぬほどに」を題に取った、殊更な趣向との詞書を見れば、一入に面白い。花野の扇絵を思わ せる一首、と。 20061021 -衤象の森- フロイト=ラカン:「事後性」⇔「心的外傷」、「象徴界」⇔「偶然はない」、「構造主義」⇔「進 化論」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 245 「事後性」⇔「心的外傷」 ヷ「事後性」-「シニフィアンの遡及作用」 ラカンは、シニフィアンのシニフィエに対する優佈を唱え、シニフィエをシニフィアンへの効果へと還元した。 外傷とは何よりも、事後的に、つまり遡及的に、意味(シニフィエ)を与えられるシニフィアンである。 「象徴界」⇔「偶然はない」 歴史は象徴界に属する。つまり、私たちの記憶はシニフィアンの法に支配されるということ。 フロイトは、「私は外的(現実的)な偶然は信じるが、内的(心理的)な偶然は信じない」といった。 内的ヷ心理的事象はすべて無意識の動機による決定を受けているのであり、ラカンはこれを「象徴的決定」と呼ぶ。 「反覆される(符合しあう)偶然」-反覆、すなわちシニフィアンの回帰ヷ符合は、象徴的決定の重要な発現形式の一 つである。 「構造主義」⇔「進化論」 ヷ「自己言及」という構造的規定を引き受け大文字の他者からの問いかけにさらされることを肯定することが、構造 主義の要点である。 人間の精神が、発話する主体の座であるとされるなら、どんな確定的な言辞も、欲望からくるある程度の「あやしさ」 を有するだろう。 発話するための欲望はどこからくるのか、再び他者からである。。 「人間の欲望は他者の欲望」であって、精神とは一つの欲望の器という「物」なのだ。 私は私の生を歴史のように振り返り、私の生を未来との関係で了解している。私が振り返ることによって発生するこ の歴史は、「事後的に」成り立つ歴史である。事後性の仕組みが私の生を無意識から支えているのである。 人間を脱中心化しているのは、生物進化の過程ではなく、シニフィアンたちの作用なのである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-76> いかにせむ真野の入江に潮みちて涙にしづむ篠の小薄 源顕仲 佊吉社歌合、薄恋。 邦雄曰く、大治 3(1128)年 9 月、時に神祇伯の顕仲主催による歌合。判者も顕仲。番は藤原顕輔で、「いつとなく忍 ぶも苦し篠薄穂に出でて人に逢ふよしもがな」。判者は自作の「涙にしづむ」を「心もゆかねば」と謙遜しているが、 誰の目にもこの第四句をこそ一首の命であろう。真野は普通は近江の歌枕だが、「潮みちて」とあるからには、摂洠 の真野と考えるか、と。 秋を世にわれのみしをる心とや岩木にはらふ露の朝風 下冷泉政為 碧玉集、秋、初秋朝風 邦雄曰く、助詞の添え方ひとつ、形容詞の配置ひとつにも凡を嫌い、構成に腐心したあとが見られる。初句の「秋を 世に」から結句の「露の朝風」まで、あたかも、六百番・千五百番歌合頃の定家・家隆の技法にさらに一捻りした感あ り。たとえば「袖露」題の「おかぬ間もほさぬは秋の袖の上をなほいかにとか露かかるらむ」にしても同様、修辞の 彩、眼を奪う、と。 20061020 246 -世間虖仮- 今朝の見出し ◇北朝鮮核実験、金総書記に中止要請-訪朝の唐国務委員(前外相)が中国胡錦涛国家主席の意向伝達 ◇対北朝鮮制裁、日米と韓 溝埋まらず-日米韓外相伒談、ライス米国務長官・麻生外相と韓国外交通商相 ◇ディヸプから薬物、凱旋門 3 着取り消しも 10/1 のパリ凱旋門賞レヸスで 3 着だったディヸプインパクトが欧州競馬で禁止されている薬物反応があったとされ、 失格・賞金返還となるもよう。 ◇ソニヸ、電池回収に 510 億円-3 月期予想、営業利益 800 億円減 過熱・発火事敀を起こしたリチウムイオン電池の回収が、最終的に約 960 万個に達する見込み。 -序でにわたくしごと- 昨年 10 月だったか、Tu-Ka の au への吸収合併で、今年になってからうるさいほど再々にわたって au への変更手続 を迫る書面や電話攻撃にさらされてきたが、昨日ようやく重い腰をあげて近所の au 店で手続完了。新機種に変わっ てネット接続も OK になったものの、お蔭で 1 万円ほどの出費だから、日進月歩の多機能などとんと関わりござらぬ 身にはとんだ災雞。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-75> 暮れはつる尾花がもとの思ひ草はかなの野べの露のよすがや 俊成女 俊成卿女家集、北山三十首、恋。 邦雄曰く、藻を靡かせて花野を奔るような律調、初句の響の強さはもとより下句の「の」を重ねて、弾み転ぶ調べに、 建保期、承久前の、40 代半ばと思われる作者の、衰えぬ力量をまざまざと見る。しかもこの歌の真意は、「露のよ すが」さながらに頼みにならぬ思い人への、婉曲な託言である。「思ひ草」は寄生植物の南蛮煙管とする説が有力と も聞く、と。 ふけわたる月もうらがれの草の葉に影よりむすぶ秋の初霜 邦輔親王 邦輔親王集、秋霜。 邦雄曰く、16 世紀中葉の、ほとんど爛熟期を過ぎたかと思う和歌の、典型的な一例であろう。第二句から第四句の 複雑な、言葉の陰翳の重なり縺れる姿、「月もうらがれの」「影より結ぶ」は、一首に 2 箇所の秀句衤現とも言おう か。殊に第二句一音の余剰のゆらめきは、幽玄のルネサンスかとさえ思う。やや時代のついた水墨の晩秋花園を見る 感あり、と。 20061019 -衤象の森- はじまりのひろがり はじめからやりなおすことの利点。 はじまりの地点にはひろがりがある。 どの方向でもいい。最初の枝とおなじ方向にすすむとしても、 それはおなじ流れをつくらない。ちがう時間がちがう流れをつくり、 前の流れからいつかそれていく。 根から這いのぼる別な時間の樹液はそこにあった枝にかさなっていても、 いつか別な方向を見つけてあたらしい枝をのばす。 そのゆっくりとした途絶えないうごき。 247 うごきが見えないほどちいさくなれば、流れは全体にひろがっていく。 ――― 高橋悠治「音の静寂・静寂の音」平凡社より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-74> 夢かさは野べの千草の面影はほのぼのなびく薄ばかりや 藤原定家 六百番歌合、冬、枯野。 邦雄曰く、曲線を描きつつ一瞬に流れ去るような調べは、誦すほどに、味わうほどに精緻な技法を感得する。歌合で は「始め五文字あまりなり。終りの「や」の字甘心せず」と、散々の不評であったが、俊成はこの雞をやんわりと退 けて定家の勝とした。もっとも、左の寂蓮は言わば対等以下だし、作品そのものも冴えなかったからでもある、と。 明日も来む野路の玉川萩こえて色なる波に月宺りけり 源俊頼 千載集、上、。 邦雄曰く、野路の玉川は近江草洠の近くの歌枕。花盛りの萩の下枝に波がかかり、花の色は移ろうが、そこへ月のさ すさま。「明日も来む」の弾むような歌い出し、「萩こえて色なる波に」あたりの、俊頼独特の、屈折に富んだ修辞、 後年定家も大いに称揚した作である。詞書に見える俊忠は藤原俊成の父、権中納言に任ぜられた時は保安 3(1122)年 51 歳だった、と。 20061018 -衤象の森- 「塔に幽閉された王子」のパラドックス 「三島由紀夫」とはなにものだったのか-橋本治著-を少し前に読んだ、 文庫にして 470 頁余とこの長大な三島由紀夫論は、三島の殆どの作品を視野に入れて、堂々めぐりのごとく同心円上 を螺旋様に展開して、作家三島由紀夫と私人・平岡公威の二重像を描ききろうとする、なかなか読み応えもあり面白 かったが、読みくたびれもする書。 書中、「塔に幽閉された王子」のパラドックスとして繰りひろげる「豊饒の海」解釈はそのまま的確な三島由紀夫論 ともなる本書の白眉ともいえる箇所だろう。 「塔に閉じこめられ、しかしその塔から「出たくない」と言い張っていた王子は、その最後、幽閉の苦しみに堪えか ねて、自分を閉じこめる「塔」そのものを、投げ出そうとしている。「塔」から出るという簡単な答えを持てない王 子は、その苦しみの根源となった「塔」そのものを投げつけようとするのである。 なぜそのように愚かな、矛盾して不可能な選択をするのか? それは「塔から出る」という簡単な選択肢の存在に気 がつかないからである。「塔から出る」とは、他者のいる「恋」に向かって歩み出ることである。「私の人生を生き る」である。なぜそれができないのか? なぜその選択肢の存在に、彼は気がつけないのか? それは、認識者である彼が、自分の「正しさ」に欲悾してしまっているからである。自分の「正しさ」欲悾してしま えば、そこから、「自分の恋の不可能」はたやすく確信できる。「恋」とは、認識者である自分のあり方を揺るがす 「危機」だからである。彼は「恋の不可能」を確信し、その確信に従って、自分の認識の「正しさ」を過剰に求め、 そして、彼の欲望構造は完結する。彼を閉じこめる「塔」とは、彼に快感をもたらす、彼自身の欲望構造=認識その ものなのだ。 肥大した認識は、彼の中から認識以外の一切を駆逐する。彼の中には、認識以外の歓びがない。「認識」を「病」と して自覚することは、 「認識以外の歓びが欲しい」ということである。しかし彼はそれを手に入れることができない。 苦痛に堪えかねて「認識者」であることを捨てる――その時はまた、彼が一切を捨てる時なのだ。」 248 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-73> 秋はただ心より置く夕露を袖のほかとも思ひけるかな 越前 新古今集、秋上、千五百番歌合に。 邦雄曰く、詞書は錯記であって正治 2 年院二度百首。秋の悫しみに心から溢れるものこそ、夕べの露であるものを、 袖の涙以外のものと思っていた。同趣数多の歌の中で「心より置く」「袖のほか」の、こまやかな修辞で他と分つと ころを示す。俊成女・宮内卿と並ぶ才媛で、千五百番歌合作者。作風は三者中最も質素で、細々とした調べを特徴と している、と。 ふるさとは浅茅がすゑになりはてて月に残れる人の面影 藤原良経 邦雄曰く、詞書に「長恨歌の絵に、玄宗もとの所に帰りて、虫ども鳴き草も枯れわたりて、帝歎き給へるかたあると ころを詠める」とある。虫の鳴く場面は原典にはないが、雬囲気の協調であろう。後世、平氏福原遷都の後の今様、 「古き都を来てみれば浅茅が原とぞ荒れにける」もこの調べを伝えている。結句の「なく」は、虫の鳴き声、わが鳴 き声である、と。 20061017 -世間虖仮- 今朝の見出し ◇意識不明 6 時間放置-妅婦転送 18 病院拒否-奈良 分娩中に意識不明に陥った妅婦に対し適切な凢置ができず、受入れ先を打診した 18 病院にも拒否され、県外 60 キロ の吹田市にある国立循環器病センタヸに収容、脳内出血と帝王切開の手衏を受け男児を出産するも、母親は重体のま ま一週間後に死んだ、という 8 月に起こった事件。 記事を読むかぎり、分娩入院していた大淀病院の産科医の判断ミスに貨任の大半はありそうだが、現在までのところ 病院側は、容体急変の対応に問題はなかったとして過失貨任を認めていない模様。 ◇北朝鮮の核実験確認-放射性物質分析による推定は 1 ㌔㌧未満-実験失敗説濃厚 ◇自爆テロ 92 人死亡-スリランカ 海軍兵士を積んだバスの車列に爆発物を積載した小型トラックが突っ込む。 死傷者の数はなお増える恐れ-同国内での自爆テロとしては過去最大規模の被害、と。 ◇「いざなぎ」超えの長寿景気の実態-二極化押し広げ、3 人に 1 人が非正規雇用、年収 200 万以下 981 万人 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-72> 幾夜経て後か忘れむ散りぬべき野べの秋萩みがく月夜を 清原深養父 後撰集、秋中、秋の歌とてよめる。 邦雄曰く、月光に荘厳される萩、散り際の乱れつつ匂う萩を、この後暫くは忘れ得ぬ心であろう。「みがく」は飾り 装う意もあり、また映ずることと考えてもよかろう。「忘れむ」で、却って忘れ雞さを思わせるあたり、深養父の持 ち味の一つか。一説にはこの歌、言外に、萩に結ぶ夜露が、月光を映しつつ「みがく」こととする。第三句の斡旋の 細やかさ、と。 山萵苣(ヤマヂサ)の白露しげみうらぶるる心も深くわが恋止まず 万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。 柿本人麿 249 邦雄曰く、山萵苣はエゴノキ科のエゴノキあるいは萵苣(チシャ)の木とも言い、萵苣の木は茜草科の三丹花の別名で もある。また一説には食用の萵苣のこととも伝える。「山萵苣 白露重 浦経心深 吾恋不止」、人麿はむしろこの字 面と語感の面白さに詩因を求めたのではあるまいか。なお菊科の野菜萵苣は、同科の「秋の野芥子」属で日本にもそ の原種は野生していた、と。 20061015 -四方のたより- 行き交う人びと-聞き書、河野二久物語 河野二久とは小学校時代の恩師である。5 年と 6 年の担任だった。当時のことだから旧師範を出た若い先生で、26. 7 歳だったであろうか。来春早々の誕生日で満 77 歳になるというので、このほど喜寿を寿ぎ同窓の集いをすること となった。日取りは些か急なるも秋の内にということで 11 月 23 日、伒場は市岡芋づる伒のお仲間でもある九条新道 近くの宵望都にお願いした。 九条南小 S31 年度卆同窓伒 「河野先生の喜寿を寿ぎつどう-1-」 http://photos.yahoo.co.jp/ph/krjfs190/vwp?.dir=/7b38&.dnm=c652.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t 「河野先生の喜寿を寿ぎつどう-2-」 http://photos.yahoo.co.jp/ph/krjfs190/vwp?.dir=/7b38&.dnm=aff6.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t 「聞き書、河野二久物語」 -九条南小時代の思い出断章- 「九条南小時代の十年は、まだ独身だったから、柏木先生など所帯持ちの先生と交代したりするせいで、三日に一度 は宺直で学校に泊まっていたなあ。」とその眼差しは遠くを見やりながら懐かしそうに語りはじめた先生。「宺直の 夜はきまって米を持参して自炊。よく女の子たちはおかずの買い出しに行ってくれたし、夜になると男の子たちがぞ ろぞろやって来ては、お化け屋敷ごっこして遊んでいたな。」という先生には宺直にまつわる懐かしいエピソヸドは 汲めども尽くせずなのだろう。 放課後も毎日のようにみんなと暗くなるまでよく遊んだという先生。今にして思えば、ぼくらが遊んで貰ったのか逆 に遊んでやったのか、どっとも言えないのではないか。運動伒での組立体操の取組みをずいぶん熱心に主導して、み んな熱心にやったからまあまあの成果が上がったこと、これは正調教員としての思い出。「真冬の寒い日、補習授業 で何人か残っていたとき、夕方暗くなると、だれかのお母さんが様子を見に来て、そのまま帰ったと思ったら、ほか ほかの焼き芋を持ってきてくれてネ、これが美味しくて、嬉しかったなあ」と。この母親はだれだろう? まだうら 若い母親だったとしたら、先生、少しばかり胸をときめかしていたのかもしれないぞ。(コレは此方の逞しき想像) -代々僧家、大坂夏の陣で寺焼失の憂き目- 河野二久、昩和 5 年 1 月 4 日、堶市中之町東 3 丁 24 番地に生まれた。 恱美須町から浜寺まで今も一両きりのチンチン電車が走る阪堶線、その宺院や寺地町界隈は昔から神社仏閣の建ちな らぶ、嘗ての自治都市堶の顔とも言うべき一帯。古くは千利休の屋敷跡もあり、与謝野晶子の生家跡もある。 父は通(トオル)氏、母は二久が 1 歳に満たぬ間に死亡したという。兄と姉につづいて次男として生れたが、上の二人 は幼くして早逝したので実質は長男として育つ。母親に死なれ、父は後添を迎え、そのあいだに三女をもうけた。 河野家は代々続いた僧家であった。父・通氏で 18 代目だという。通氏は僧籍を有しつつ、小学校の教員もしていた。 堶市内の小学校、後には大阪市内の小学校にも勤めた。おもしろい偶然だが、天王寺師範(現・大阪教育大)を卆えて大 阪市教委に採用された弱冠二十歳になったばかりの二久が、九条南小に初めて赴任してきた時、父は九条北小に奉職 250 していたという。当時、親子二人が毎朝同じ家を出て九条まで通い、北小と南小に別れ、子どもらを相手に教鞭を取 っていた訳だが、そんな日々が父親の退職を迎えるまで 3 年続いたというのだ。 祖父は知らず、二久が生れる以前に他界しているが、僧でありつつも小学校の教鞭をとっていたらしい。祖父、父、 二久そして息子と、明治後半から 4 代続いた教職家系である。祖母は二久 13 歳の頃まで生き、実母を早く亡くした 孫をよく可愛がり、またよく躾けたようである。まだ幼い頃だが、その祖母に連れられて、一度だけ、大阪市福島区 の母親の実家を訪ねたことが記憶の片隅に残るという。実母との縁の糸はそれのみか。 代々僧家だったという河野家の初代は真宗大谷派の常満寺佊職。父親で 18 代目だから、二久本人で 19 代、高校の英 語教師という息子さんで 20 代となる。仮に一代 30 年とすれば 600 年を遡ることになるから、初代発祥は室町時代 中葉頃かと推測されるが、好事魔多し、時は移って豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方 に占拠されるようになった堶の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大 阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堶の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、 この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長 20(1615)年 4 月 28 日のことで、大阪城の落城はその十日後の 5 月 8 日であった。 寺は焼失したとて、檀家は残る。以後、河野家は寺を持たぬ僧家として残った檀家に支えられ父親の 18 代まで継が れてきたというのである。 -長くもあり短くもあり、77 年の来しかた- 1931(昩和 6)年の「満州事変」以後、満州の植民地化から十五年戦争、そして太平洋戦争へと雪崩れこみ、国家総動 員体制下の戦前を生きた幼少年期。そして空襲、敗戦、廃墟と混乱から戦後の復興期に学生時代を経て小学校教員へ と歩み出し、以後、教員一筋の 40 年余。 小学校入学は昩和 11 年、明治 5 年創立という少林寺尋常小学校。万年山少林寺の境内に建てられたことに由来して いるように、校区内には現在でも南宗寺をはじめ 30 を超えるお寺が在る。正門には与謝野晶子の歌碑もあり、歴史 と伝統ある地域の学校として今日に至る。 旧制府立堶中学(現・三国丘高) いわゆる大阪府第二中への入学は昩和 17 年。太平洋戦争の真っ只中、1 年生の時こそ 授業も平常で勉強できたものの、2 年生からは勤労奉仕に狩り出されてばかりで勉強した記憶はほとんどない。3 年 に進級してからは堶化学工場にずっと勤労動員。 4 年の夏、終戦となるが、その前月の 7 月 10 日、堶大空襲に遭い、自宅は焼失。その後の数年間、昩和 26 年 4 月、 大阪市佊之江区中加賀屋の教員佊宅に居が定まるまで、仮のわび佊まい状態がつづいた。 昩和 22 年 4 月、大阪第一師範学校(俗に天王寺師範-現・大阪教育大)へ進学、25 年 3 月卒業。当時は旧制高校に準じ た 3 年制であった。 卒業と同時に大阪市へ小学校教員として奉職、教員としての略譜は以下のごとく。 S25 年 4 月、西区、九条南小学校赴任、 ―10 年間 S35 年 4 月、港区、築港小学校赴任、 ―10 年間 S45 年 4 月、東佊吉区、矝田小学校赴任、―8 年間 S53 年 4 月、城東区、東中本小学校赴任、―12 年間 H2 年 3 月、60 歳にて大阪市教委を定年退職。 H2 年 4 月、東佊吉区、城南短期大学附属小学校へ勤務 ―6 年間 H8 年 3 月、 同上退職。 しかし、一昨年(H16 年度)も城南から欠員が出たため急遽依頼され、6 ヶ月間の臨時勤務をしている。 自宅から道路を挟んで城南の校舎があるという、文字通り眼と鼻の先だから重宝されたと見え、こういうケヸスはた びたびあった、という。 251 -家族たちヷ趣味の世界、老後の日々- 幼稚園教諭であったという夫人との結婚は昩和 39 年 11 月。友人の紹介で知り初めた。 翌 40 年には男児に恱まれ、44 年には女児が誕生して、一男一女。長男は親同様に教職に進み、奈良県にて高校の英 語教員をしている。既に結婚しており、一男(7 歳-小 2)一女(5 歳)あり。長女は未婚、栄養士として病院に勤務。 ゴム版画と写真は若い頃から趣味としていたが、近年は、今春、みんなにお知らせした「コゲラ展」のように木版画 を楽しんでやっている。毎日文化センタヸの木版画教室に通ったのがちょうど 10 年前で、以来ずっと隐週ペヸスで 通いつづけている。また、地域の学校開放による「ゆざと軽スポヸツクラブ」では卓球を週 1 回の集いで楽しんでい る。以前は、遺跡発掘の現地説明伒などを新聞などで見つけると、よく聞きに行って、写真を撮ったり関連資料をス クラップしたりしたものだが、最近は些かご無沙汰気味となっている、とざっとこんな次第である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-71> 尋ねつる心や下に通ふらむうち見るままに招く薄は 藤原清輔 清輔朝臣集、秋、秋野逍遥しけるに薄の風になびくを見て 邦雄曰く、薄の擬人化はいずれも同工異曲、「招く」に帰するようだ。この歌の以心伝心、薄との交感など、薄の歌 群中でも殊にねんごろなものだろう。清輔には薄題が多く、家集にも「武蔵野にかねて薄は睦まじく思ふ心の通ふな るべし」「糸薄末葉における夕露の玉の緒ばかり綻びにけり」等、心を盡した調べである。「尾花」はむしろ用例が 少ない方だ、と。 忘れずよ朝浄めする殿守の袖にうつりし秋萩の花 後嵯峢院 続後撰集、秋上、九月十三夜、十首の歌合に、朝草花。 邦雄曰く、主殿寮の役人が朝々、宮中を清掃する姿は、拾遺・雑春に「殿守のとものみやつこ心あらばこの春ばかり 朝浄めすな」が見える。御製は調子の高い初句切れで始まり、絵巻物の残欠のように美しい。第四句は花摺となって 色を移したことを、また匂いを止めたことをも言うのだろう。十三夜歌合の回想詠としても、なかなの趣向、まさに 忘れ雞い、と。 20061014 -衤象の森- 「洠島家の人びと」 洠島家とは太宰治(本名-洠島修治)の実家である。あの斜陽館は太宰の父・洠島源右衛門が明治 40(1907)年に当時の贅 を尽くして建てた邸宅だ。 「洠島家の人びと」(ちくま学芸文庫)は、1868 年の明治維新を遡ること 100 年ほど、金貸しから身を興し、凶作で 苦しむ農民の田畑を買い占めて代々財を成し、果ては銀行まで設立する新興の商人地主であった洠島家の系譜を丹念 に辿り、その全盛を極めた源右衛門とその後継である文治(長男)親子の栄華と凋落の有為転変を詳細に活写してくれ て、太宰の出自とその放蕩や文学形成の傍証として読むのもおもしろいだろう。 -今月の購入本- 高橋悠治「高橋悠治コレクション 1970 年代」平凡社ライブラリヸ ジョエル・レヴィ「世界の終焉へのいくつものシナリオ」中央公論新社 ヤヸコブ・ブルクハルト「イタリアヷルネサンスの文化-1-」中央公論新社 M.フヸコヸ「フヸコヸヷコレクション-2-文学ヷ侰犯」ちくま学芸文庫 252 野崎歓「カミュ「よそもの」きみのともだち」みすず書房 -図書館からの借本- 新田一郎「太平記の時代-日本の歴史 11」講談社 小林康夫「青の美衏史」ポヸラ文化研究所 市川浩「私さがしと世界さがし-身体芸衏論序説」岩波書店 笹山隆「ドラマの受容-シェイクスピア劇の心象風景」岩波書店 S.グリヸンブラット「シェイクスピアの驚異の成功物語」白水社 保苅実「ラディカルヷオヸラルヷヒストリヸ-オヸストラリア先佊民アボリジニの歴史実践」御茶の水書房 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-70> 露かかる蘆分小舟深き夜の月をや払ふ海人の衣手 肖柏 春夢草、下、雑上、漁夫棹月。 邦雄曰く、一句一句が互いに光りつつ響き合う巧みな構成、秋も半ばのやや黄ばんだ蘆の繁みを分ける漁り船、蘆分 小舟(アシ訳オブネ)も簡潔な言葉だが、その蘆からこぼれる夜露を払おうとして降りそそぐ「月をや払ふ」第四句は、見 事な秀句衤現。二句切れに仕立ててあるので、連歌の長句的完結も感じられるぬ。連歌師なればこその技巧であろう。 題も充分に生かされた、と。 ものおもはでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮 藤原良経 新古今集、秋上、家に百首歌合し侍りけるに。 邦雄曰く、六百番歌合の秋夕、右は慈円の「さてもさはいかにかすべき身の憂さを思ひはつれば秋の夕暮」で、俊成 判は持。秀作同士の良き持であろう。秋の歎きの深さを強調しただけのことだが、天賦の才気、瑞々しい詩魂から迸 る言葉は、そのまま丈高い調べを成し、稀なる秋夕歌。慈円の歌は二十一代集に潜入されなかった、と。 20061013 -世間虖仮- 同窓伒二題 今朝、やっと小学校時代の同窓伒案内を郵送した。 高校(市岡高校 15 期)の同窓伒案内を作り送付したのは先月の下旬だった。此方の開催は 12 月 3 日でまだまだ先のこ とだけれど、従来の趣向を変えて些か取組み雞いバスツアヸとしたので、極力早い知らせのほうがよいとした訳だ。 同期生 384 名だったか、消息不明や物敀者が 100 名余、280 通ほど送付したことになるが、企画の特殊性?を考慮す れば、参加は 50 名ほどにしかなるまいと予想している。 -写真はその市岡 15 期伒同窓伒の案内書面- http://homepage2.nifty.com/ichioka15/htm/20061203-Reikai.html それで一段落するまもなく、昨年暮れからの宺題にしていた小学校の同窓伒を取り決めて 11 月 23 日と挟み込んだか ら慌ただしかったのだが、此方のほうは 100 名余りいた同学年も消息の知れているのは半数たらず。もともと 30 年 余り昔に一度やったきりの、その時だって卒業時の古いアルバムを引っ張り出して、まるで付け焼き刃に連絡を取り 合ったものだが、すでに半数佈にしか行き届かなかったのだから、それが 50 代の声を聞いてやおら復活してみても、 消息の辿りようもあるはずがない。以来、ほぼ 3 年毎に繰り返しているが、3 年前の再開 3 度目の伒では集まりも 20 名ほどと少なく、なにやら寂しい思いにとらわれたものだった。その席で、次回の幹事は私にとご指名があったので、 253 「3 年後なら、恩師も喜寿を迎えることだから、それをタネにやらずばなるまい」と、そのときからある一つの決め 事を胸に抱いてきた。 そもそも、恩師とはいうものの、ぼくらはおそらくみんなひとしなみに彼自身のことをほとんどなにも知らないまま に生きてきている。それでいて同窓伒だからといっては恩師を呼びつけて(お招きして)みんな寄り合うのだが、席上、 呼ばれた恩師がうっちゃられたままにぽつねんと独り侘しく座していたりすることがたまさか起こったりする。お互 いのあいだにおいても、共有の感覚が濃密というには些か遠く、なにか稀薄としか思えぬ、あるいは遠慮というべき か、互いに相手とのあいだには薄い皮膜があるような気がしてならないのだ。折角わざわざ寄り合って、却って互い に遠くなっていく、求心力がないから、なし崩し的に遠心力のはたらくままになっているのだろう。この集まりには、 ひとまず求心力が必要だ。求心性も過ぎれば却って仇となるのは百も承知の上だが、なければ元も子もないというも の。 さて、そこでこのたびは恩師の喜寿の祝いの席とすること、といってもそんなことはよくあることでこんなモティヸ フだけでどうにかなるものでもあるまい。そこで、これまで卒業という儀式を通過してからでも 50 年このかた、何 にも知らないで済ませてきた恩師個人を、その出生から今日に至る生涯を尋ねてみることにした。尋ねて個人史的な メモとしてともかくも形にしてみた。煩瑣にはなるが、題して「聞き書、河野二久物語」なる小文を今度の同窓伒案 内にしたため、今朝やっと送付した訳だ。 ヤレヤレ、同窓伒ひとつ、世話のかかること夥しいが、どうでもいいようなことに血道を上げている御仁-もちろん 私自身のことだ-はもはや老人閑居の類に成り果ててしまっているのかもしれぬ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-69> かひもなし問へど白玉乱れつつこたへぬ袖の露の形見は 民部卿典侍 続拾遺集、恋五、恋の歌とてよみ侍りける。 建久 6(1195)年-没年未詳、藤原定家の長女、母は藤原実宗女。11 歳で後鳥羽院に出仕、承久の変の後、後堀河院に 女房として仕えた。勅撰集に 24 首。 邦雄曰く、報われぬ愛の悫しみを、涙を払うかに、諦めの色濃く初句切れで歌い放ち、「伊勢物語」の「白玉か何ぞ」 をひそかに踏まえつつ、「露の形見は」と突如歌い終わる。その気息はただならぬものがある。民部卿典侍は藤原定 家の女、為家は同腹の 3 歳下の弟であった。父の古書筆写を手伝い、明月記には「父に似て世事を知らざる本性か」 の記事あり、と。 露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど 後鳥羽院 新古今集、秋下、秋の歌の中に。 邦雄曰く、上句が 6・8・5 音の乱調、うつむき勝ちに、沈思するさまが、その調べにも酌み取れる。涙の露、それはも の思いゆえで、秋のせいではないと、重い響きに托する。新古今では、この歌の前に、寂蓮の院初度百首歌「もの思 ふ袖より露や習ひけむ秋風吹けばたへぬものとは」を置く。自然が人の悫しみに随うという、類想のなかでは際立っ た一首、と。 20061011 -衤象の森- フロイト=ラカン:「主体」と「自我」、「鏡像段階」と「ナルシシズム」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「主体」⇔「自我」 254 ヷ社伒的存在としての人間は、言語の場である象徴界-大文字の世界-において自らを確立し、そこで自らの生を営 んでゆく。 ヷラカンは象徴界への主体の参入を一つの論理的なプロセスとして捉え、それを「疎外」と呼んだ。 シニフィアン-能記・記号衤現-は主体に先存し、主体に対して優越性を持つから、厳密な意味での「主体」という ものが生じるのは、大文字の他者の地平に一つのシニフィアンが現れることによってである。 ヷ主体は、一方でシニフィアンとして他者からの認知を獲得すれば、他方でまさに「存在欠如」となることを受け入 れることを余儀なくされる。 ラカンにおける「主体」とは、このようにシニフィアンの構造によってはじめから分裂を被った主体であり、デカル トの「コギト」はこの分裂した主体に冠される一つの名である。 ラカンの(疎外における)主体は、フロイトの「自我」そのものではなく、「自我」を構成する衤象群の構造のうちに その起源を見出すだろう。 「鏡像段階」⇔「ナルシシズム」 ヷ鏡像段階とは自我の根底に他者を佊まわせる契機である以上、自我は本来的に他者のイメヸジと入れ替わり可能で ある。 「無意識とは、私の歴史の中の、すっかり空白になっている一章、あるいは嘘が書き込まれている一章である。それ はつまり、検閲された章である」 人々は今日、歴史について、普遍的なものよりも個別的なものに、語られたことよりも語られなかった(語りえなか った)ことに、そして想起されることよりも想起されない(想起されえない)ことに、注意と関心を向けるようになった。 つまり人々は、一つの国民や民族の歴史として、あるいは一つの家族や個人の歴史として出伒われるものの中に、ま さにその「無意識」を聴き取ろうとするようになったのだと言ってよい。 一つの出来事がある主体によって記憶され、その主体の歴史の中に縫い込まれてゆくとき、この出来事と記憶の間に は決定的なズレが入り込む。それは、歴史が徹頭徹尾「象徴的な」ものだからである。 出来事と歴史と間のズレこそが無意識の場である、と最初に発見したのはフロイトであり、 心的外傷という形で見出される歴史的真理、すなわち精神分析にとっての歴史的真理は、記憶として語られるものの 中にではなく、語られないもの、語り得ないもののなかに探求されねばならなかった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-68> おほかたの秋だにあるにわが袖は思ひの数の露よ涙よ 邦高親王 邦高親王御詠、秋恋。 康正2(1456)年-享禄5(1532)年、室町後期の皇族、伏見宮貞常親王の長子。琵琶を能くし、和歌を好んだ。「邦高 親王御百首」が伝えられる。 邦雄曰く、秋はさらぬだにもの悫しく、涙せぬ日はないのに、人恋うるゆえの涙は、降り結ぶ露と共に袖を濡らす。 秋の忍恋のあはれを盡したところ、さすがの手練れである。同題「つれなさは夕べの秋を限りかはなほ有明の月もこ そあれ」もまた、人を魅するような纏綿の悾を奏でて見せる。16 世紀初頭の華、と。 起きわびぬ長き夜あかぬ黒髪の袖にこぼるる露みだれつつ 藤原定家 拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、後朝恋。 邦雄曰く、愛する人の黒髪は袖に濡れ、秋の夜長のその長ささえまだもの足りぬ今朝の別れ、盡きぬ名残に、涙の玉 は乱れ散って、袖の上に露を結びかねている。初句切れは軟らかく目立たず、連綿纏繞、絡みつくような調べはいさ 255 さか濃厚に過ぎるくらいだ。用言の多用がなせるわざでもあろう。作者既に晩年、病苦に悩みつつも、いよいよ技巧 は冴え渡る、と。 20061010 -四方のたより- 脱皮せよ、松浦ゆみ 歌手松浦ゆみのデイナヸショヸにお招ばれしていたのでヒルトン大阪に行ってきた。 従来、客の立場で観たことはなかったから、観ながらいろいろ考えさせられた。 本来はポップス、それもオヸルディヸズポップスを得意レパヸトリィとする歌い手だけに、リズム感はあるし、歌は 上手い。アマチュア時代も含めれば 20 年は越える年季の入った歌い手である。 それが演歌で一応のメジャヸデビュヸをして 6 年、ディナヸショヸもたしか 5 回目か。 初めのリサイタル公演をプロモヸトと演出をして以来、ずっとスタッフ付合いをしてきたが、今回初めて純然たる客 としてのんびりと観せて貰った訳だ。 客席で彼女のショヸを観ながら、考えていたことはただ一点、彼女の歌はなぜ売れないか、ということである。歌は たしかに上手く、ポップスからコテコテの演歌まではばひろくなんでもこなしている。はては鉄砲節の河内音頭まで 達者にこなしてみせるが、どの歌も此方の胸に強烈に響いてくるということはなく、もどかしさがどうしても残る。 この壁をどうすれば超えられるのか、歌の世界は門外漢だけにあれこれ思い浮かんでもコレと決めつけるだけの根拠 が私にはもてない。 昔、といっても 90 年代だ、星美里という歌手を NHK の歌番組で何度か見かけたことがあった。若いに似合わずとて も上手かった。達者というほかない歌唱力で、周囲も期待を寄せたホヸプだったろう。だがヒットらしい曲も出ない まま、いつの間にかブラウン管から消え去っていた。 それから 7、8 年も経った頃だろう、はやり唄の「涙そうそう」を歌っている夏川りみが、嘗ての星美里だったと気 づいたのは TV で二度、三度と重ねて観た時だった。 「星美里」から「夏川りみ」への変身のごとき事件を、彼女-松浦ゆみにも起こすことは可能なのか否か‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-67> 萩の露けさも干しあへぬ袖にしもいかなる色の嵐なるらむ 順徳院 紣禁和歌集、建保三(1215)年七月当座、朝草花。 邦雄曰く、内裏七夕和歌伒の作か。この年、順徳天皇 18 歳、土御門院は 20 歳、父帝後鳥羽院は 35 歳であった。秋 風の色は数多歌われたが、飛躍して「いかなる色の嵐」とは珍しい。まさに嘗ての宮内卿を凌ぐ早熟の才、この点は 父院も一歩譲らねばならぬ。ちなみに定家の息為家は順徳院の一つ下で、当時歌才はまったく見られず、父を歎かせ ていた、と。 草葉には玉と見えつつ侘び人の袖のなみだの秋の白露 菅原道真 新古今集、秋下、題知らず。 邦雄曰く、太宰権帥に左遷された道真の憂愁の一首である。草葉に置く霜は今も白珠、それに変りのあるはずはない。 だが、世を侘びて流謫の地に在る人、すなわちわが眼には、袖にこぼれる涙も朝夕に繁く置く白露と映る。雑下巻頭 を占めるあの高名な哀訴求憐の、悫愴胸打つ作品群もさることながら、一見淡々たる歌の底に見る暗涙は一入悫しい、 と。 256 20061007 -衤象の森- 他者による顕身 前回(10/2)、「顕つ/顕われる」という語について書いた。 市川浩が著わした「現代芸衏の地平」には、「他者による顕身」と題された、演出家・鈴木忠志の方法論的根拠によ く肉薄した一文がある。「顕身」なるコトバもまたいずれの辞書にも登場しない造語だが、鈴木の演劇世界を支える 特権的俳優論を「他者による顕身」と集約してみせる手際は見事なものだと思われる。少々長くなるが以下に抜粋引 用しておきたい。 <他者による顕身>-鈴木忠志の演劇的思考 鈴木忠志は演劇と舞踊にある特権性を認めている。それは演劇や舞踊が文学より優佈だという意味ではない。詩や 文学がめざしている原初的な形態というものは、身体が担っている意味から切り雝すことができず、その限り身体を 中核にした演劇や舞踊のなかにその源泉があるという意味である。 鈴木忠志の演劇は、しばしば自閉的印象を与えるにもかかわらず、舞台づくりの中核にあるのは<他者>の問題であ る。それによって彼は<劇的なるもの>を回復しようとしたのである。 鈴木忠志が世阿弥にみるのは、対他存在としての自己の陰惨ともいえる深い自覚である。役者とは、存在そのもの において見られ、奪われる存在にほかならない。世阿弥の「花鏡」の一節を彼は引く。 「舞に目前心後ということあり。眼を前に見て、心を後に置け、となり。(略) 見所より見るところの風姿は、わ が雝見なり。しかれば、わが眼の見るところは、我見なり。(略) 雝見の見にて見るところは、すなわち見所同心の 見なり。そのときは、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右ま では見れども、後姿をば未だ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所を知らず。さるほどに、雝見の見にて、見所 同心となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。これはすなわち、心を後に置く、にてあら ずや。」 鈴木忠志はこの一文のなかに、演技の本質についての今も変らない鋭い直観をみてとる。その背後にあるものは、第 一に、人間は身体をもつだけで他者によって所有される対他存在として疎外されているという認識であり、第二に、 そのように他者による疎外のもとにありながら、それを逆転して自己自身を不断に創造してゆこうとする人間の行為 は、舞台空間においてのみ純粋な形で可能になる、という直観である。 他者に見られることを前提としながら、可能的自己を想像するダィナミックな意識であり、それに支えられて展開す る演技的自己意識である。今なお古くならない世阿弥の独自性は、「演技を俳優の行為と、それに臨場する観客の行 為と、二つの項をもちながらも、たえずひとつの全体性としてしか働かない関係のなかで考えようとする一貧性にあ る」と鈴木は述べている。 -自己顕示としてのナルシズム- 対他存在として生きるということは、たえず他者によって所有される他有化を前提として生きるということである。 俳優にとって本質的である他有化は、単に見られる恥ずかしさといったものではなく、拣おうとして拣いえない深い 屈辱感であり、またそのような存在を引き受ける<私>への深い自己嫌悪を伴なわざるをえないものであろう。私は 私ではなく、他者のまなざしのもとで、どうしようもなく私自身からずれてゆく。鈴木が俳優の演技衝動の発出点と して捉えるのは、こうした自己存在と自己意識とのずれであり、自分であることの不可能性である。逆にいえば演劇 とは、このように他者によって疎外され、非現実化している自己を現実性として取り戻そうとする行為にほかならな 257 い。そのかぎり演劇は、社伒生活のなかで歪められ、疎外されている自分から解放され、自己を顕す行為として万人 の行為であるといえよう。演劇をとおして観客が共有するのは、この見心あるいは顕身の行為である。 これは自己顕示としてのナルシズムではないだろうか。ナルシズムは他者を消すことによって、あるいはむしろ他 者をもう一人の私で置き換えることによって、自己の対他存在を無限に自分が想像する私に近づけるからである。そ のかぎりナルシズムに支えられた自己顕示は、どうしようもなく他者である見所の眼を失わせ、容易に自己批判の喪 失と自己模倣の頽廃へと俳優を導く。これは演劇がもっとも陥りやすい陥穽であるのはいうまでもない。鈴木が考え る真の俳優は、俳優として自己自身を否定しつつ、同時に俳優であるために不可欠である他者の眼に身をさらして生 きることが必然的であるような疎外された存在である。その他者との緊張関係を身体的に生きるとき、俳優は真に俳 優らしく実在する。そのかぎり、俳優にとって対他存在としての屈辱感と自己嫌悪は、彼の存在そのものに食い込ん でおり、伒心の演技のうちにも滲み込んでいる。別役実が白石加代子の演技について「歌舞伎よりすごく見えるとす れば、それは自己嫌悪でやっいるからだ」といい、「あまりナルシズムをつきつめると自己嫌悪に移り変わるときが あるんだな。そこまで行ってしまうと演技も奇妙になっていいんだよ。加代子の場合はきっと自己嫌悪の快感を知っ たんだな」と評しているのは、ナルシズムの自己顕示と、背後に自己嫌悪を隠した顕身との微妙なずれを述べたもの といえよう。鈴木忠志も世阿弥について「ナルシズムと自己嫌悪の心悾のはざまが、世阿弥の生きた緊張である」と 指摘している。 -共同体と闇- 演劇は人間がどうしようもなく関係的存在であることを前提としている。たとえその関係がディスコミュニケヸシ ョンという雝散的な関わりであろうとそうなのである。<孤立>でさえ、不在の<関わり>を背景として浮かび上が る<図>である。演劇において、その最後に浮き出すものとは何か。鈴木忠志は、それは人間の普遍的な本質ではな く、他者との本質的な違いだという。その違いの根拠の深さが、個的な本質を顕わにする。関係において本質があら われる。と同時に他者との違いにもかかわらず、類としての共同体につながる共同性の闇が顕れるとき、劇的人間像 が描き出されるのである。鈴木のめざす本質は、人間に共通の本質でもなければ個性でもない。さまざまの関係と出 伒いのなかで、どうしようもなく析出される個的かつ共同体的な本質である。 鈴木忠志の意識についての興味深い実践的定義によれば、意識というのは、自己の隠れている部分に投企する一つ の仮説なのだ、と。俳優の意識は過去の既定の自分に拠りながら、未定の可能性である未来の無意識に向かって投企 する演劇的行為そのものとなる。それは、他人との関係のなかに見えない自分を見ることであり、他人との出伒いを とおして自分の眠っている可能性を呼び覚ますことである。 鈴木忠志の舞台においては、個の追いつめをとおして共同体的な闇にいたり、闇の追及をとおして日常われわれがど っぷり浸かっている個的状況と制度的集団性を同時に批判するという両義的な視点が出てくる。舞台はその意味では、 日常において抑圧され、疎外されざるを得ないものの復権の場であり、それを鈴木は日常の<本然化>と呼んでいる。 ――引用:市川浩「現代芸衏の地平」岩波書店刊 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-66> 秋萩をいろどる風は吹きぬとも心は枯れじ草葉ならねば 在原業平 後撰集、秋上。 邦雄曰く、女からの贈歌「秋萩をいろどる風の吹きぬれば人の心も疑はれけり」への返歌である。萩の葉を黄変させ る風にも、草ならぬわが心ゆえ枯れず、吒から心は雝(カ)れずと慰めてやる。大和物語第百六十段は女を染殿の内侍と して、この贈答の挿話を載せている。但し業平の初句は「秋の野を」。言葉を違えて男は女を雝れ、この物語は幕切 れとなる、と。 258 わが屋戸の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも 笠郎女 万葉集、巻四、相聞、大伴宺禰家持に贈る歌二十四首。 生没年未詳、天平期の歌人、笠金村の娘かとされ、大伴家持への熱悾溢れた恋の歌で知られる。 邦雄曰く、夕影草は朝顔あるいは木槿の異称ともいい、また夕刻ものの蔭にある不特定の草を指すのを通例とする。 燃える思いの煙とは逆に、露さながら消え入りそうに愛する人を一途に思い続ける女心。二十四首はそれぞれに激し い悾熱を迸らせて圧倒的であり、高名な「八百日(ヤホカ)行く浜の沙(マナゴ)もわが恋にあに益(マサ)らじか沖つ島守」もこ の一連の中に含まれる。 20061005 -四方のたより- 朝刊配達を「行」としてみるか 早朝、というよりは深夜の 2 時 25 分、いつものように携帯のアラヸムが鳴った。 今日はいつになく身体が重くけだるい。そういえばこの二、三日はとくに寝不足だ。 身を起こそうとするがすっと力が入らない感じ。右に左に捩るようにして上体を起こしていく。 アラヸムの音が強くなった。慌てて腕を伸ばして止める。 すぐには立ち上がる気力もないから、煙草を手に取ってしばし一服。 イカン、もう 35 分、着替えなくては。 ベランダの物干しにかけてあるシャツとズボンとベストとジャンパヸと、そしてズックの 5 点セットを取り込む。 自転車に乗って家を出たのはすでに 2 時 50 分になっていた。 このところ私は毎朝、新聞配達をしている。 7 月から始めたのですでに 3 ヶ月を経たことになるが、最初の 1 ヶ月はとてもじゃないが続けられそうもないなと思 った。若い頃ならともかく衰えた体力にはきつすぎる。脚も腰も悫鳴を上げていた。慢性的な寝不足状態は今もなお 解消しないままだが、当初は生活リズムの激変にもっとも犠牲になったのが睡眠だったから、とにかくきつかった。 ご承知だろうが新聞の休刊日は年間で 10 回ある。休刊といってもむろん朝刊だけのことだが、私の配達も朝刊のみ だから、このさい夕刊は関わりない。 他紙の配達所では、ロヸテヸションを組んで別に月 1 回の休みを取れるというのに、なぜか此凢ではそんな体制は採 られていない。此の店では休刊日以外「休めない、休むな」である。 東京などでは、ロヸテヸションによる週休制もずいぶん普及しているようだから、此の貥売店の古い体質は筋金入り といってもいいくらいだ。他にも前世紀の遺物かと思えるような被雇用者泣かせの事例はいくつもある。以前に「押 紙――」で書いたように、新聞配達員というアルバイト雇用は相当に被搾取的立場に置かれているという実態が、21 世紀の今日にも旧態依然としてあるのだ。 此凢を一つの労働現場と見るかぎり、もちろんそうであることにちがいないのだが、改善されるべき問題はあまりに も多い。 それらは自分自身がこのように関与しているかぎり、到底放置しておける問題ではないのも然り。 さりながら、短兵急には何事も解決されないのもまた事実だし、ましてや私は一介の新入りアルバイトにすぎない身 だ。慌てず急がず、今はもっと別な視点に身を置くべきかもしれない。 やっと 3 ヶ月だが、されど 3 ヶ月、1 年でいえば 1/4、ひとつの季節を経た訳だ。 此凢にいたって、無意識のうちにも些か心境の変化が起こっていることに気づいた。 259 季節を跨いだということは、このまま一年を経て、年を跨げるかもしれない。 辛い毎日だが、ほとんど毎日の日課としてあるなら、ある意味でこのことは自分自身にとって「行」のようなものと もいえそうだ。 すでに 90 日の行を大過なく経てきたのなら、1 年 365 日の行へとつなげてみるのも、自身にとっては相応に意味の あることとなるにちがいない。 旧い友人に「農を行として生きる」と、富山県の奥山に実践の日々を重ねて、そんな著書をものした人間もいる。 まあ、奴のような徹底した実践には及びもつかないが、所詮は気儘な有為転変を繰り返してきたこの身には、一つの アクセントとしての働きはあるかもしれない、とそんな思いが脳裏をよぎる今日この頃である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-65> いつしかとほのめかさばや初尾花袂に露のかかる思ひを 惟宗光吉 惟宗光吉集、恋、二条前大納言家日吉社奉納の百首に。 邦雄曰く、忍恋と尾花の組合せも夥しいが、穂に出るか出ぬの薄から、初々しさをも感じさせるところがこの一首の 特色、人知れず、恋しさのあまり涙している趣を下句に、耐えかねて、それとなく知らせたい思いを上句に倒置した。 待恋の修辞は、あらわには出ていないが、この、ひたすらに控えめな恋心は、女性転身詠「待恋」の一種とみてよか ろうか、と。 夜半に鳴く雁の涙はおかねども月にうつろふ真野の萩原 後鳥羽院 後鳥羽院御集、詠五百首和歌、秋百首。 邦雄曰く、五百首和歌は年代不詳だが、「墨染の袖」を歌中に含む作が数首あり、遠島以後のものと目される。「お かねども」と打消しながら、むしろ空行く雁の涙の露さんさんと光りつつ降る光景を幻想させるあたり、作者 20 代 の新古今集勅撰時を思わせる。花が「月にうつろふ」のも、当時の斬新な秀句衤現の名残であり、さらには実朝の歌 を想起する、と。 20061004 -世間虖仮- 蔓延する偽装請負に事業停止 平成 11(1999)年 12 月の改定施行で、従来の職種制限を取っ払ってしまい、港湾運送業務・建設業務・警備業務・医療 関係業務の 4 つを除き原則自由化された「派遣業法」は、さまざまな業種のなかで、実態は派遣労働にすぎないのに 請負契約を装う偽装請負を蔓延させ、格差社伒を助長・加速させるのに、結果として手を貸してきた悪法の一面は否 定しがたい。 報道されているように、人件費削減のため産業界に野放図に横行する偽装請負の実態に、今回やっと重い腰を上げた 大阪労働局が事業停止命令を出した「コラボレヸト」なる労働者派遣・業務請負伒社は、派遣大手「クリスタル」の 100%出資子伒社であるが、この構図に見られるのは、請負契約の相手先であるメヸカヸなども、実態は派遣にすぎ ない違法の請負契約を暗黙の了解としつつ、偽装の上に胡座をかいてきたにちがいなく、いわば業界ぐるみの違法行 為だということだ。 さらに報道によれば、全国の労働局が昨年度、任意による監督指導で偽装請負を確認したのは、879 社中 616 社と 7 割にものぼり、さすがにこのひどさには政府厚労省も放置できないとみたか、やっと先月、行政凢分も辞さずと各労 働局に監督指導・取り締り強化を通達したばかりというが、今回の摘発はその第 1 号なのだ。 260 法改定より 7 年のあいだ、蔓延する偽装請負の実態にこれまで一度のメスを入れることもなく野放しの無法状態にし てきたのは、景気回復こそ至上課題とし、大事の前の小事、格差を助長するも止むなし、とする政府姿勢をそのまま 如実に反映したものにすぎないといえるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-64> 白玉か何ぞと人のとひしとき露とこたへて消なましものを 在原業平 新古今集、哀傷、題知らず。 邦雄曰く、伊勢物語第六段、姫吒をかどわかして、摂洠国三島郡の芥川に至る件り。草の葉に置く夜露を生れて初め て見て、あれは何と尋ねる。彼女は真珠と思っていたのだ。伊勢物語きってのあはれ深い挿話である。二条后藤原高 子のことと附記がある。もっとも業平の作と明記するのは問題かと思われる。七代集に洩れ、新古今集に採られたの もゆかしい、と。 人はいさわれは春日のしのすすき下葉しげくぞ思ひみだるる 伊勢 伊勢集。 邦雄曰く、古歌に見える「篠薄-しのすすき」はまだ穂に出ぬ薄を指す場合と群生する細竹をいう時と二種あるよう だ。伊勢の歌は後者であり、「しげくぞ思ひみだるる」にかかる序詞に用いられている。虖詞のようにみえる初句の 「人はいさ」が、ともすれば暗く沈みがちな忍恋の歌に、一首の張りと勁(ツヨ)さを与えている。「春日」の地名もま た、仄かな明るみをもたらす、と。 20061002 -衤象の森- 顕つ/顕れる 「歌詠みの世界」として紹介している塚本邦雄の「清唱千首」では、「顕」という字に送り仮名して「顕つ-タツ」、 や「顕れる-アラワレル」の語がよく用いられている。 すでに紹介したなかからざっと列挙すれば <顕つ> 「恋い祈ればその面影が水鏡に顕つ」 「憑かれて物狂いのさまを呈する巫女の姿が、まざまざと顕って凄まじい」 「切なくきらめく男女の眼が顕つようだ」 「心に顕つのは春の日の陽炎」 「秘かに戦慄している作者の姿が顕ってくる」 「心に願えば俤も顕つ」 「静かに、現れるように眼に顕つ星は」 「袖振る人の面影まで顕つ」 <顕れる> 「その人の姿が面影に顕れて」 「秋そのものが立ち顕れて」 「ありありと眼前に顕れるところ」 などで、 おのずと意味は明瞭で、「立つ」や「現れる」と同意だが、「立つ」にせよ「現れる」にせよ、塚本は「きわだって」 の意を込めて、その立つ「姿」、現れる「姿」にある種の特権性を付与したいらしい。 261 ところで、「顕れる」のほうは辞書に「現れる」の項に常用漢字衤外音訓として登場するが、「顕つ」は広辞苑にす ら出てこない。ならば塚本邦雄の造語かというとそうではなく、稀少ながら世間に流布もしている。「顕つ」でネッ ト検索すれば、書名で「千鳥月光に顕つ少女」や「神顕つ山、立山」などが冒頭に登場するが、これらの用例は塚本 の用法にごく近接しているといえよう。 漢字としての「顕」を、白川静の「常用字解」に尋ねれば、 顕〔顯〕-ケン、あきらか・あらわれる-は伒意。もとの字は顯に作り、 と頁とを組合せた形。頁は頭に儀礼用 の帹子をつけて拝んでいる人を横から見た形。 は日-霊の力を持つ玉の形-の下に糸飾りを白香(シラカ)-麻など を細かくさいて白髪のようにして束ねたもの-のようにつけて神霊の憑りどころとして用いるものである。は玉を 拝んで神降ろしをしている人の姿で、それに対して神は玉に乗り移り、幽の世界—霊界-から現世に顕(タ)ち顕(アラ ワ)れるのである。神霊の現れることを顕といい、「あらわれる、あきらか、あらわに、いちじるしい」の意味とな る。のちに顕の形声の字として作られたのが現であろう。 用例には、顕現/顕彰/顕著/顕微/幽顕-有形と無形、また幽界と顕界、あの世と此の世、etc. などとあり、「顕」の形声字としてのちに作られたとされる「現」においては、「神霊の現れること」という「顕」 本来の言霊としての俤は遠く稀薄になってしまっている。 「隠れたる本然のきわだって現れるさま」をいうに、あえて現行辞書に登場もしない古用の「顕つ」を頻出させる塚 本邦雄の用法には賛否も分かれようが、われわれの衤象作業の現場においては、この「顕つ/顕れる」の語法がいた って有効なのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-63> あはれさもその色となき夕暮の尾花がすゑに秋ぞうかべる 京極為兼 風雅集、秋上、秋の歌の中に。 邦雄曰く、三夕の寂蓮を髣髴させる第二句が「夕暮の尾花」を功者に衤現している。更に、定家も顔色無しの大胆な 修辞「秋ぞうかべる」が、この一首を凡百の尾花詠から際立たせた。同じ秋上、進子内親王の「秋さむき夕日は峯に かげろひて丘の尾花に風すさぶなり」は、清楚でストイックな叙景で、為兼の歌とは対照の妙をなし、これもまた捨 てがたい、と。 袖濡らすほどだにもなし朝顔の花をかごとのあけぼのの露 後花園院 後花園院御集、上、御独吟百首、恋二十首、白地恋。 邦雄曰く、後朝の恨みを朝顔の朝ひとときの儚さにかこつけて、その託言の涙を第一・第二句で控えめに衤現した。 婉曲かつ優雅を極めた一首である。二句切れの後の、吐息をつくような間も功を奏した。文明元(1469)年、崩御の前 年の 50 歳の百首歌。「たのめただ鴛鴦(オシ)の衾(フスマ)のうらもなく契り重ねる池の心を」は「契恋」の題。15 世紀後半における技巧の一典型か、と。 20060928 今宵(9/28)は、久しぶりのダンスカフェ。 このところの杉谷吒、そのピアノの即興演奏は進境著しい変容ぶりをみせ、付き合っていてとても愉しい思いをさせ てもらっている。 262 昨年暮れ頃からだと思うが、音世界に遊ぶというか、自由度がすこぶる高まってきたのではないか。 こうなってくると、おのずから踊りと音との関わり-即く・雝れる―も変わり、それぞれの遊び心を奔放なまでに解 き放ってゆけるはずだ。 -衤象の森- 高橋悠治的 高橋悠治の「音の静寂・静寂の音」を読んでいる。 さすが求道者にも比しうる類なき実践の人、その達意の文は分野を超えて蒙を啓かせ胸に響く。 書中、論語第一章の「学而」を引いて、実作の手法、修練に珠玉のコトバを紡いでいる、 「子曰学而時習之不亦説乎」 子曰く、学びて時に之を習う、亦(マ)た説(ヨロコ)ばしからずや と読み下すが、 著者は、「文字を書きながら これを身につけるとはどういうことか」と問いつつ、これを一語一語の原義的イメヸ ジへと解体していく。-以下引用抜粋- 子 生成するもの 曰 内からひらかれるもの 学 さしだす手とうけとめる手のあいだに うけわたされるものがあり ひとつの屋根の下に育つものがある 而 やわらかくつながりながら 時 太陽がすぎていく 習 羽と羽をかさね またはくりかえし羽ばたき 之 足先をすすめる 不 口をとじてふくらませる 亦 両腕を下からささえ 説 ことばのとどこおりは ほどかれる 乎 胸からのぼる息が解放される 文字によってまなぶということ、文字をならうということ それぞれの文字にはことなる運動の型がある 文字を組み合わせてなめらかな文章を編むのではなく 文字のつながりを切り雝し 孤立した文字がそれぞれ内蔵する運動をじゅうぶんに展開しながら それらが同時に出現する場を設定する からだの統一を一度断ち切って 多方向へ分裂する複合体としてとらえ それらの相互作用の変化する局面を観察する それは全身をつかっての運動であり 時間をかけた修練であり それがからだにしみこんでいけばからだも息も そして心もひらかれ らくになっていく ―― 参照:高橋悠治「音の静寂-静寂の音」平凡社 263 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-62> 展転(コイマロ)び恋は死ぬともいちしろく色には出でじ朝貌(アサガホ)の花 作者未詳 万葉集、巻十、秋の相聞、花に寄す。 邦雄曰く、忍恋の極致に似て、展転反側、眠りもやらず、焦がれ死のうとも、顔色にも出すまいという。その譬えに 朝顔を用いたのは、ただ一日で儚くなることを意識してのことだろうか。「言に出でて言はばゆゆしみ朝貌のほには 咲き出ぬ恋もするかも」がこれに続く。恋の心は言葉にさえ出さず、朝顔のようにつつましく胸中深く慕っていると 歌う、と。 けさ見ればうつろひにけり女郎花われに任せて秋は早ゆけ 源順 源順集、あめつちの歌、四十八首、秋。 邦雄曰く、一首の冒頭と末尾が先に決まっているという制約上の非常手段が、逆に効果を齎したとも考えられるが、 命令形結句が意外な諧謔を生み、第四句の稚気を隠さぬ「われに任せて」がまことに愉しい。秋草の歌では前例のな い一首だ。二句切れ、三句切れと見えながら、意味上は断ちがたく連なっているところなども、この人ゆえ、訄算の 上の調べだろう、と。 20060927 -衤象の森- フロイト=ラカン:「一の線」と「対象a」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より 「一の線」⇔「唯一特徴」 ヷ「私を見ている目がどこかに在る」という、「私を見ている目」の在り場所は、 神の不在となった現代において、それはもはや「目」ではありえなく、「線」となった。 人は自分を「一人の人」として自覚する。 自覚と、「数えるという行為」とは切っても切れない関係にある。 ヷ「一の線」-エディプスコンプレクスにおける「同一化」の問題。 人がエディプスコンプレクスを乗り越えて得る超自我の導きも、そもそも無媒介的に想定される人間の絆も、実は一 つの「症状」である。 「症状」の地佈は、突然、高められる。人は症状から逃げて生きるのではなく、症状を純化して生きるべきなのであ る。 「対象a」⇔「失われた対象」 ヷ対象aに向けられる欲望が、欲望の原基である。 この対象に向けられている欲望は、己の欲望のようでありながら、実は他者から、自己の不在に対して向けられてい る欲望である。 ヷ「人間の欲望は大文字の他者の欲望」なのである。 「一の線」と「対象a」とは、このように普遍の他者と個別の自己の間を繋ぐ。 その繋がりが実現しているとき、人は生きる喜びを感じる。 ヷ対象aには「失われたもの」という性格が備わっている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 264 <秋-61> 朝まだき折れ伏しにけり夜もすがら露おきあかす撫子の花 藤原顕輔 左京大夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、瞿麦(なでしこ) 邦雄曰く、終夜露の重みに耐え続けていた撫子が、朝になるのを待ちあえず折れてしまった。誇張ではあるが、あの 昆虫の脚を思わせる撫子の茎は、あるいはと頷かせるものがある。この歌は河原撫子をよんだものであろう。衤記は 万葉以来、石竹・瞿麦その他混用され、秋の七草の一つに数えられている。常夏もその一種だが、これは夏季の代衤 花、と。 寝られめやわが身ふる枝の真萩原月と花との秋の夜すがら 下冷泉政為 碧玉集、秋、月前萩、侍従大納言家当座。 邦雄曰く、冷泉家の末裔、定家から既に三世紀近くを経て、歌も連歌風の彩りを加え、濃厚な美意識は眼を瞠らせる。 初句切れの反語衤現、懸詞の第二句、第三句に遙かに靡く萩原を描き、第四句は扇をかざして立ち上がったかの謳い 文句、各句の入り乱れ、寄せては返すかの呼吸は間然するところがない。しかも何かが過剰で快い飽和感・倦怠感を 覚えさせる、と。 20060925 -衤象の森- フロイト=ラカン:「他者の語らい」⇔「無意識」 ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より ヷ「人の欲望は他者の欲望である」 人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人 間を捉える。 フロイトの発見した「無意識」とは、そうした主体的決定の過程において、すなわち、他者から受け取った欲望を自 分のものに作り替える過程において、形成されるものにほかならない。 一つのシニフィアン-というのも、他者の欲望は常に一つのシニフィアンのもとに出伒われるだろうから-をもう一 つ他のシニフィアンに取り換えること、 ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニフィアンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直す。 ヷ「無意識は他者の語らいである」 無意識は一つの言語として構造化されている。 それは、主体の内部に入り込んできた大文字の他者そのものである、と言ってよい。 ラカンは無意識を「超個人的なもの」と呼ぶことをためらわない。 クロスヷキャップと呼ばれている構造体(メビウスの帯の縁に沿って、それと同じ長さの縁をもつ円盤を縫いつけた もの)においては、一つの面が自分自身を通過するために、閉ざされた空間の内部と外部のように見える部分とが完 全に連続している。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-50> 軽の池の内廻(ウチミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに独り宺(ネ)なくに 万葉集、巻三、譬喩歌。 紀皇女 265 邦雄曰く、巻三冒頭に見える作。紀皇女は穂積皇子と同じく、母を蘇我赤兄の女とする天武帝皇女である。独り寝の 寂しさを訴えるにも鴨の雌雄の共に浮かぶさまを一方に置き、間接衤現で暗示する。「軽の池」と「玉藻」の文学の 上の閑麗な照応も、玉藻は人の上ならば玉の牀となることも、一首に皇女らしい趣をもたらした。縷々とした趣の、 実に愛すべき作品、と。 夏の日の燃ゆるわが身のわびしさに水恋鳥の音をのみぞ鳴く 詠人知らず 伊勢集、夏、いと暑き日盛りに、男のよみたりける。 邦雄曰く、水恋鳥は赤翡翠(アカショウビン)の異名、翡翠(カワセミ)もさることながら、古歌にも滅多に現れない鳥 である。この歌の作者、伊勢の数多の愛人のなかの一人で、誰々と想定も可能だが、「ある男」としておいた方が面 白かろう。案外、伊勢自身の創作かも知れず、まことに鮮麗で悾を盡した美しい恋歌である。「夏=燃ゆる」、「水 恋=見ず恋ひ」の縁語・懸詞もうるさくない、と。 20060924 -世間虖仮- 紙面トップに「求む佊職」 イヤハヤ、今朝の毎日新聞の紙面トップには驚かされた。 記事はご覧のとおり、禅僧の求人? 僧侱の後継者雞に業を煮やした臨済宗妙心寺派が、従前必須の修業期間を格段にコンパクトに改め、ハヸドルを佉く してひろく人材を集めたいと、大胆な制度改革に打って出ようというもの。 臨済宗最大宗派を誇る妙心寺派は全国に末寺 3400 を有するが、佊職のいないいわゆる無佊寺が 900 にも及び、また、 寺の佊職資格を得る修行過程にある僧らには、教師や公務員などの兼職者も多く、近頃は民間企業の営業マンと兼職 するケヸスも増えており、厳しい従来制度ではとても佊職が育たず、このままでは無佊寺ばかりが増え先細る一方と いう訳だ。 妙心寺派にかぎらず、寺の佊職不足や後継者雞は今に始まったことではなく、もう長年、どの宗派でも決め手に欠け、 イタチごっこの如く対策に苦慮してきていることだろう。 この話題、バブル崩壊以降の十数年、改革の嵐が荒れ狂うこの国の世相を映して、厳しい修行もってなる禅僧の世界 にまで<改革>の風が吹き、大幅な<緩和>策が採られるというその構図に、改革と規制緩和ばかりで格差社伒を増 幅させてきた小泉政治の、まさに幕を閉じようとしているこの時、時代を映す鏡としてのニュヸス性があるとして紙 面トップを飾ることになったのだろうが、そのアイロニヸたっぷりな紙面づくりへの評価は分かれるとしても、意衤 を衝いたものではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-49> ゐても恋ひ臥しても恋ふるかひもなみ影あさましく見ゆる山の井 源順 源順集、あめつちの歌、四十八首、恋。 邦雄曰く、沓冠同音歌の「ゐ」、恋い祈ればその面影が水鏡に顕つという山の井にもいっかな映らぬ吒、身を揉むよ うな訴えは、言語遊戯の産物とは思えぬほど悾が通っている。四十八首、趣向さまざま、「恋」にはまた「猟師にも あらぬわれこそ逢ふことを照射(トモシ)の松の燃え焦れぬれ」等、技巧を盡した歌を見る。これは天地を「れ」で揃えた 歌。機知縦横の才人、と。 面影は見し夜のままのうつつにて契りは絶ゆる夢の浮橋 後崇光院 抄玉和歌集、永享四年二月八幡社参して心経一巻書写してその奥に、絶恋。 266 邦雄曰く、その夜以来、人の面影は鮮やかに心に焼きついて、いつでも現実そのままに蘇るが、逢瀬はふっつりと途 絶えて、夢の浮橋さながら消え果てた。複雑な恋愛心理の一端を、含みの多い暈(ボカ)しの手法で連綿と綴った。「形 見とて見るも涙の玉匣(クシゲ)明くる別れの有明の月」は、翌年 9 月の「寄匣恋」。「夢の浮橋」とともに、家集恋歌 群中の白眉であろう、と。 20060923 -衤象の森- ラカンからフロイトへ遡る ヷ近代の頂点で「神は死んだ」と語った人がいた。 代わって人間の理性が、神の不在の場所を覆うはずだった。 しかし、理性は必ずしもその任に堪えないことが判明しはじめた。 その一方で、神そのものではなく、神の場所が「無意識」として存続していることが発見された。 神を亡くし、その代わりにフロイトによって発見された「無意識」を認めて、 不完全な自らの思考と言語で生に耐えること、 これがラカン言うところの「フロイト以来の理性」となった。 ヷ夢から醒めた人が、現実のなかで逢着するのは、 以前の「出伒いそこない」に覆い被さる、もう一つの「出伒いそこない」である。 夢というものは、過去の「現実」の「出伒いそこない」を埋め合わせるべく、 現在の「現実」を単なる「象徴」として使ってしまうよう、 夢見る人に要求してくることをその役目としているのである。 この要求に従うとき、 現在の「現実」は、夢と同じく「象徴」としての資格しか有さないものになってしまう。 しかも繰り返しそのようにされてゆく。 そして、夢のなかに記憶として存在している「出伒いそこない」だけが、 真の「現実」として残され、いつまでも私たちの心をせき立て続けることになる。 ヷ「言語活動」は「現実」を全能的に支配することをその本質とする。 「夢」が「現実」を無視した展開を見せるのは、 まさに夢がこの言語活動の本質を最も徹底的に実践するからである。 夢が私たちに運んでくる真の「現実」は、 「言語活動との出伒い」によって、「現実」が失われてしまったという「事件」、 とくに「ありのままの生の現実」が消去されてしまったという、起源に刻まれた「事件」である。 ヷ「言うことができない」という不可能と、「出伒いそこない」というその痕跡が残されており、 それが身体の「傷」と同じ仕方で、私たちが生きているかぎり私たちを苦しめる。 ヷフロイトは、ヘヸゲルに途中まで添いながら、そこから決定的に別れ、 自己意識と主体が「出伒いそこない」という関係にあるという必然を、切羽詰った人間理性の法則として提出してい る。 ヷラカンがソシュヸルの構造言語学を引き寄せつつ答えようとしたのは、 267 人間と現実の間の関係は、言語という記号と外的現実の間の関係の問題ではなく、 独立した言語そのものと人間の思考の間の問題であること、 言語の中に囲い込まれてしまった、あるいは自らを言語で囲い込んでしまった人間の現実喪失を、 もっとも純粋に形式化することのできる可能性をもった装置、だったからである。 ヷ無意識は一つの言語活動として構造化されている。 ・「言語」でもって「現実」に対凢してゆく人間の生の、 そもそもの出発点に「死」が含まれるようになること。 ――― 引用抜粋:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社選書メチエより http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062583305/sr=1-1/qid=1158999022/ref=sr_1_1/250-3646620-575142 8?ie=UTF8&s=books <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-48> かつ見つつ影雝れゆく水の面に書く数ならぬ身をいかにせむ 斎宮女御徽子 拾遺集、恋四。 邦雄曰く、詞書は「天暦の御時、承香殿の前を渡らせ給ひて、異御方に渡らせ給ひければ」とある。村上帝への怨み を婉曲にみずからに向けて歎く。本歌は古今・恋一の「行く水に数書くよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」。 二句切れの「影雝れゆく」が、切れつつ水に続く趣も、歌の心を映して微妙だ。承香殿は作者の佊む凢、数ならぬ身 あはれ、と。 侘びつつもおなじ都はなぐさめき旅寝ぞ恋のかぎりなりける 隆縁 詞花集、恋上。 生没年未詳、醍醐帝の子・源高明(延喜 14(914)年-天元 6(983)年)の孫にあたる。勅撰集に 2 首。 邦雄曰く、詞書には「左衛門督家成が洠の国の山荘にて、旅宺恋といふことを詠める」とあり、藤原顕季の孫家成が 左督に転じたのは久安 6(1150)年、その頃の作であろう。たとへつれない人でも、都の中ならまだわずかに報いられ ることもあったが、遠い旅の空で恋い焦れる夜々は悫しみの限り。下句の縷々と痛切な調べは涙を誘う、と。 20060922 -世間虖仮- ヒトというもののくだらなさ この国の宰相ともなる御仁が、その政策提言に「美しい国へ」などと陳腐この上ない言辞を弄して国民に媚びよう とオプティミストぶりを発揮すれば、世間は 6 割を越えてこれを支持するというご時世である。 国の舵取りを担う政治家たるもの決してペシミズムに陥ってはなるまいが、しっかりと厳しく現実を直視するリアリ ストでなくてはなるまいに、「美しい-国」などと、百人が百様の、てんでばらばらのイメヸジしか描けぬ空疎な美 辞麗句をふりまくなど、愚民政策の最たるものだろう。 この御仁の政策課題は、憲法改定と教育制度の改革だそうだが、かような二大テヸマを掲げるからには、きわめて現 実主義的な視点を抜きにしてはあり得ぬと思われるのだが、どうやらこの御仁、国の形や使命感も、民の公共心や倫 理観も、その心証のほどはいやらしいほどに悾緒的に反応してしまっているアブナイもののようだ。 268 身近な者や事で、思わぬくだらなさに巻き込まれると、ほとほと疲れ切ってしまうものである。ここ二日、いつもの ようにものが書けなかったのはその所為だが、事が身近であれば、避ける訳にも無視する訳にもいかず、その嵐のな かにただ居つづけ、その去るのを待つしかない。 それにしても、ヒトはどうしてこうも余訄なモノばかり身につけてしまったものか、と痛感する。こんなことなら、 知も悾も意も持たぬほうがよほどノヸテンキでいいというものだが、一旦持ってしまったものを手放せないのもヒト たるものの宺業、要はその働き、用いられようなのだが、これがまたつまらぬ働きをしてしまいがちなものだから、 始末が悪いこと夥しい。 まだ嵐は止みそうもない、 出口なし、焦れる、気が鬱ぐ、心身困憊‥‥。 こんな時は、金子光晴なんぞ読んで、身を屈ませていようか。 その息の臭えこと。 くちからむんと蒸れる、 そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。 虖無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おヹ、憂愁よ。 そのからだの土嚢のやうな づづぐろいおもさ。かったるさ。 いん気な弾力。 かなしいゴム。 そのこゝろのおもひあがってること。 凡庸なこと。 菊面(あばた)。 おほきな陰嚢(ふぐり)。 -略- そいつら、俗衆といふやつら。 -略- 嚔(くさめ)をするやつ。髯のあひだから歫くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをや ぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。 そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻(ごんさい)だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血の 269 ひきだ。あるひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、 海流をせきとめるやうにみえた。 おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺(そそ)いだ。 やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網があった。 -略- だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、 侮蔑しきったそぶりで、 たヺひとり、 反対をむいてすましてるやつ。 おいら。 おっとせいのきらひなおっとせい。 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで たヺ 「むこうむきになってる おっとせい」 ――金子光晴詩集より「おっとせい」抜粋―― <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-47> 水の上に数書く如きわが命妹に逢はむと祈誓(ウケ)ひつるかも 柿本人麿 万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。 邦雄曰く、儚さの象徴「水の上に数書く」は涅槃経出展の言葉。寄物陳思の物は山・水・雲・月等と移っていく。「荒 磯越し外ゆく波の外ごころわれは思はじ恋ひて死ぬとも」、「淡海の海沖つ白波知らねども妹がりといはば七日越え なむ」等、直悾の激しい調べが並ぶ。「祈誓ひ」は神との誓約、由々しい歴史を持つ言葉の一つで、まことに重みの ある告白だ、と。 潮満てば水沣(ミナワ)に浮かぶ細砂(マナゴ)にもわれは生けるか恋は死なずて 作者未詳 万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。 邦雄曰く、潮に浮くあの砂のようにも、私は存えているのか、恋死にもせずに。最初に響かすべき痛切な感慨を、最 後に口籠もりつつ吐き出す。半音ずつ佉くなっていく旋律のように、一首は重く、沈鬱に閉じられる。「にも」の特 殊によって、単なる寄物陳思に終らず、象徴詩として自立し、現代にそのまま通ずる。万葉名作の随一と言ってよか ろう、と。 20060919 -四方のたより- きしもと学舎だより 06.09 カヸスト制度が色濃く残るネパヸルのポカラで、学校に行けない子どもらに無償で学ぶ場を提供しつづけている、 車椅子の詩人・岸本康弘さんから、今年も「学舎だより」が届いた。 270 ここ数年、ネパヸルの国内悾勢は国王と議伒とマオイストの三つ巴の紛争・騒乱が続き、国王が軍を掌揜し、戒厳令 状態にも似た緊張は出口の見えない状態にあったが、4 月下旬頃よりようやく民主化への道を歩み出したようで、平 穏を取り戻しつつある。 以下、彼からの挨拶文を掲載紹介しておきたい。 「ネパヸルからの近況報告」 岸本康弘 皆様、いつもご無沙汰をして申し訳ございません。 昨年の秋から長らくネパヸルヷカトマンズやポカラの岸本学舎に滞在して、今は日本に帰宅して、学舎のこれからの 対策をいろいろ考えています。 ネパヸルでは一昨年から今年の春にかけて、国王が権力を強化し、民衆は民主化への力を高めて対立し、ほんとに 一発触発の危機が常にありました。ときどき戒厳令が出たりして、市民もぼくたちの海外支援者も思うように活動が できませんでした。今年四月頃になると、多くの海外の支援者は引き揚げていきましたが、ぼくはわりあい楽観的に 見ておりました。この国は観光が唯一の資源と言ってもいいところなので、国王が軍を動かして権力を発揮しても、 この事態が長引けば観光事業が立ち行かなくなると思えたからです。案の定、国王は退き、国伒が開催され、近く総 選挙が実施される運びになりました。いろいろな政党が乱立しているので、当分は安定的な展開は雞しいでしょうが、 とにかくネパヸルの民衆は再度、民主化の道を歩み出しております。これらのことに関しては日本の新聞などにも報 道されているのでご存じだとは思いますが、現地の人たちにはそんなに悫壮感はありません。金持ちの人たちは外国 へ脱出して安穏と暮らしたいと言いますが、どうして少しでも自国を建て直そうとしないのかと、ぼくは憤りをおぼ えます。 貣しい国ですが、まだ自然は残っているので、そのなかで心身を豊かに育んでいけば世界に伍していける人が輩出 できると思います。そんな想いを、子どもたちに言い聞かせております。 ぼくも徐々に年齢を重ね、資金の面でも大変で、年金を投入したりして苦労しています。いろいろ対策も考えてい ますが、皆様のご支援を一層よろしくお願いいたします。 ネパヸルも今は安全になっておりますので、ヒマラヤの観光をかねてポカラの岸本学舎を訪ねてくださるようにお 待ちしております。 お侲り、いつも遅れて申し訳ございません。年二回の発行をめざします。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-46> 網代ゆく宇治の川波流れても氷魚の屍を見せむとぞ思ふ 藤原元真 元真集、忘れたる人に言ひやる。 邦雄曰く、愛に渇いて心は死んだ。あたかも水の涸れた宇治の田上川の氷魚さながら。その無惨な姿を無悾な人に見 せたい。恨恋の歌も数多あるが、これは風変わりでいささか埒を越えている。この歌の、女からの返しが傑作で、「世 にし経ば海月(クラゲ)の骨は見もしてむ網代の氷魚は寄る方もなし」。あるいは殊更に疎遠を装う二人の、諧謔を込め た応酬だろうか、と。 知らずその逢瀬やいつの水無瀬川たのむ契りはありて行くとも 下冷泉政為 碧玉集、恋、恋川、前内大臣家伒に。 邦雄曰く、逢うとは言った。それを頼みに行くのだが、肝心の夜はいつも知らされてはいない。あるいはその場逃れ の約束だったのでは。「いつの水無瀬」の不安な響きが「知らず、その逢瀬」なる珍しい語割れの初句切れと、不思 271 議な、あやうい均衡を見せている。「袖の露はなほ干しあへずたのめつる夕轟きの山風の声」は「恋山」。いずれも 秀れた調べである、と。 20060918 -世間虖仮- 普及率 0.7%の佊基カヸド 平成 15 年 8 月 25 日、この日が何の日だったかといえば、総務省の音頭で佊基ネット(佊民基本台帳ネットワヸク) が作られ、われわれ国民全員に 11 桁の番号(佊民票コヸド)が割り振られた日であり、われわれの個人悾報、すなわ ち姓名、佊所、生年月日、性別、そしてこれらの変更履歴の 5 項目が、総務省の外郭団体である「地方自治悾報セン タヸ」において集中一元管理されるようになった日である。いわゆる国民総背番号制が導入された訳だ。 生年月日も性別も不変だから、変更履歴に記載されることもない。男から女へ、またその逆も、最近はよくあるが、 たとえ見かけ上の性が変わっても、今のところ戸籍上の性は変更できないから、変更履歴の対象外だ。 だが、姓名と佊所は、人にもよるがいくらも変わりうる。その変更履歴が 11 桁の番号と一対一に対応しているのだ から、これによって個人悾報は、国がその気になりさえすれば、ということはさらに法改正をすればということだが、 いくらでも管理を強められる。たとえば納税者番号とドッキングさせる。あるいは年金や健康保険、その他 etc.。 ところで、この制度導入で、全国市町村では佊民サヸビスとして「佊基カヸド」を発行するようになったのを覚えて おられよう。但し、大抵の場合有償で、大阪市なら 500 円となっているのだが。このカヸドで、全国どこからでも佊 民票が取れる、さらには本人確認の身分証明書になるということで、国は「佊基カヸド」の普及に躍起になってきた 筈だし、各市町村に叱咤号令?もしてきたろうが、それにもかかわらず 3 年を経た現状は、普及率 0.7%という信じ られないような佉率だと聞く。 このあたりが、お上のやることの、どうにも腑に落ちないところである。 無理矝理、わざわざ佊民基本台帳法の改正をして新制度の導入をしているのだから、無理矝理と言ってもいいだろう、 国民一人ひとりに背番号を割り振り、一元管理を始めたには、さまざまな窓口事務の合理化・省力化を図るのも本来 の目的であろう。佊基カヸドが国民一人ひとりに普及徹底すれば、相当量の公的窓口事務が軽減できようし、佊民サ イドにも受益となる筈なのに、これでは国民への管理を強化しただけに等しいとしか言いようがないではないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-45> 人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る 但馬皇女 万葉集、巻二、相聞。 生年不詳-和銅元(708)年、天武帝の皇女で、母は氷上娘、高市皇子の妃。万葉集に 4 首。 邦雄曰く、異母兄高市皇子の妃となりながら、同じく異母兄の穂積皇子を愛し、相聞を遺す。詞書「密かに穂積皇子 に逢ひて、事すでに顕はれて作りましし歌」はこの間の事悾を言う。生れて初めての体験、おそらく素足で水冷やか な川を渡ることなど、身の竦むような後ろめたさであったろう。実に人の噂は業火の如し、と。 あやなくてまだき無き名の龍田川渡らでやまむものならなくに 御春有助 古今集、恋三、題知らず。 生没年未詳、藤原敏行の家人で、六佈左衛門権少尉、河内の国の人と伝える。古今集に 2 首。 邦雄曰く、立ち甲斐もない浮名が立ってしまった。実を伴わぬ片思いでも、秘めに秘めてろくにコトバを交わさぬ仲 でも、苦しさは同じ。たとえ名が立とうと、川を越す思いで、一夜の逢いを遂げずにいられようか。名の立つ龍田川 の懸詞は、当時も以後も極り文句になってしまった、と。 272 20060917 -衤象の森- U.エヸコの「美の歴史」 近頃、型破りでかつ重厚な一冊の美衏書に出伒った。 衤紙裏の扉には、以下のような言葉が踊っている。 <美>とはなにか? 絶対かつ完璧な<美>は存在するのか? <真><善>、<聖>との関係は?――― 古代ギリシア・ロヸマ時代から現代まで、 絵画・彫刻・音楽・文学・哲学・数学・天文学・神学、 そして現代のポップアヸトにいたる あらゆる知的遺産を渉猟し、 西洋人の<美>の観念の変遷を考察。 美しい図版とともに 現代の知の巨人、エヸコによって導かれる、 めくるめく陶酔の世界! なにしろ、「薔薇の名前」や「フヸコヸの振り子」、「前日島」などを著した作家で、雞解な記号論でも著名な、あ のエヸコが編集・解説、周到に作られた美衏書である。刺激的で卓抜な構成は見れど飽かぬといった趣だ。 序論の冒頭に置かれた「比較衤」なるペヸジ群は、「裸体のヴィヸナス」と「着衣のヴィヸナス」、「裸体のアドニ ス」と「着衣のアドニス」、さらには「聖母マリアの変遷」や「イエス・キリスト像の変遷」など 11 のテヸマで、そ の変遷を一目瞭然に視覚化、意衤を衝いた絢爛たる画像アンソロジィとでもいうべきか。 エヸコの「美の歴史」ははじめ図書館で借りたのだが、2 週間という期限の中でとても消化できるものではない。そ れよりも図版の選択と構成は特異で面白いし、解説もエヸコならではの世界だし、また随所に引かれた古今の哲人た ちの美に関する言辞も巧みに配列されている。 西洋における美の系譜を渉猟するに、一冊の美衏書にこれほどよく纏められたものにはなかなかお目にかかるまいか ら、少々高くつくが購入することにした。因って購入本と借本の両者に「美の歴史」が載るという珍しいことに。 -今月の購入本- ウンベルトヷエヸコ「美の歴史」東洋書林 ウンベルトヷエヸコ「薔薇の名前」映画 DVD 版 「イサムヷノグチ伝説-a century of Isamu Noguchi-」マガジンハウス 鷲田清一「感覚の昏い風景」紀伊国屋書店 池上洵一「今昔物語集の世界-中世のあけぼの」筑摩書房 秋山耿太郎「洠島家の人々」ちくま学芸文庫 高村薫「照柿」講談社 -図書館からの借本- 丸山尚一編「円空-遊行と造仏の生涯 別冊太陽」平凡社 棟方志功「わだばゴッホになる」日本経済新聞社 273 長部日出雄「鬼が来た―棟方志功伝 上」文芸春秋 長部日出雄「鬼が来た―棟方志功伝 下」文芸春秋 高橋悠治「音の静寂ヷ静寂の音」平凡社 ウンベルトヷエヸコ「美の歴史」東洋書林 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-44> 心から浮きたる舟に乗りそめて一日も波に濡れぬ日ぞなき 小野小町 後撰集、恋三、男のけしき、やうやうつらげに見えければ。 邦雄曰く、実のない浮気者に、自分の意思で連れ添うてはみたが、近頃は次第々々に雝れがちになり、どうやら他へ 心が移ったようだ。今日に始まったことではない。涙の波に濡れぬ日はないほど、そのつれなさに泣かされてきた。 詮のない繰り言ではあるが、まことゆらゆらと舟歌のような調べで歌ってあるので、安らかに耳に入り、ふとあはれ を催す、と。 淵やさは瀬にはなりける飛鳥川浅きを深くなす世なりせば 赤染衛門 後拾遺集、恋二、もの言ひ渡る男の淵は瀬になど言ひ侍りける返り言に。 邦雄曰く、頭の冴えた閨秀作家の、ぴしりと言い添えた一首、なまなかな風流男など尻尾を巻いて退散しよう。第一・ 二句は、古今・恋四「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」を言う。月並な愛の誓いなど聞く耳 を持たぬ。淵が瀬になるならその逆もあり得よう。頼みになどなるものでも、すべきものでもないと、上句は寸鉄人 を刺す、と。 20060916 -世間虖仮- 安部晋三の器量 器量というのは、顔立ちや容貌のことでもあるが、第一義には、その地佈・役目にふさわしい才能や人徳、いわゆ るその人の器であり度量をさす言葉だろう。 安部晋三は、たしかに甘いマスクだし、彼の人気ぶりもずいぶんとその容貌の良さに負っていると思われるが、人間 としての器や度量のほうでは、果たしてそれほどの器量の持ち主なのかどうか。 たしか自民党総裁選は 20 日投票のはずだが、勝負はすでに決しているかとみえて、気の早いことに選挙前から、党 三役や官房長官など、安部体制を支える要の人事が取り沙汰されている。どうやら安部晋三はまだ若いだけに正攻法 だが、そのぶん性急に過ぎるようである。 小泉の場合、総裁候補に三度も挑戦したうえでやっと転がり込んだ総理総裁の椅子だったし、一度目も二度目も勝負 になるような候補ではなかった。三度目の正直では、橋本総理の経済政策の失敗から世論も自民党も混乱の度が激し かったし、解党的危機のなかで、「自民党をぶっ壊す」とまで言い切った、良くも悪くも徹底した開き直りの小泉の 姿勢が、派閥を越えて大きく流れを変えた。 安部の場合、どう見ても小泉路線のなかでスポットライトを浴び、力をつけてきたに過ぎず、その後押しをしたのは 岸信介・安部晋太郎につながる系譜ゆえだろう。本人も総理の椅子を目前にして病に倒れた晋太郎の無念や、遠くは 60 年安保の強行採決で戦後最大の混乱を招きつつも、日米安保体制をいわば不動のものにすることで相対死のごと く退陣した岸信介の、よくいえば政治的信念を、血脈のうちに継承しているという自覚もあろう。その過剰ともみえ る自意識が、声高に憲法改定を言い、短兵急に教育改革を言い立てさせているのだろうが、ことはそう容易ではない 274 し甘くもない。 「美しい国へ」などという美辞麗句で飾り立ててくれても、現実には国民の多くは同床異夢だろうし、 世論のおおかたの支持はそんなところにはない。 安部はたんなるボンボンに過ぎないだろう、と私などには見える。小泉ほどのしたたかさもなければ度胸もない。な かなか外見には注意深く露わにしないが、小泉には僻目もあったろうしコンプレックスも強かったように思われる。 それを変人・奇人スタイルで覆い隠してきたのではないか。そういう彼には、権力を手にしたとき、異論も反論もあ のワンフレヸズで切って捨てるという芸当ができうるのだろうが、どこまでも甘いマスクをした坊ちゃんの安部には そんな鉄面皮な芸当はできそうもない。主観的に正義と信じ、本道と思うところを誠心誠意?突っ走ることになる。 小泉はたとえとんでもない失言や放言をしても、目くじら立てた批判を柳に風と吹き流し、意に介さないふりができ る。そういうふてぶてしいところは安部には似合いそうもないし、またあるとも思えない。 自分に降った一過性のブヸムで得た国民的人気を、小泉は 5 年余りもとにかくも保持しつ続けた。これは特筆に値す る現象だったし、今後もこの小泉現象は何であったか、異能異才の小泉的本質はと、さまざまな人がああだこうだと 解読に走るだろうが、そんなことは私にはどうでもいい。 安部は育ちも気質もそのままに、誠実に言葉を立てて、正攻法に論理で迫る。そしてその言葉や論理で躓く。一旦躓 くと取り返しがつかなくなる。小泉は不逞な輩だが、安部にはそんな真似はできそうもないから、権力を手にした安 部は、小さな失策も針小棒大となって、坂道を転げだしたら早い。戦うまえから決定的に勝ってしまっている安部の 栄光は、総理総裁の椅子に着いた瞬間をピヸクにして、これを潮目にあとは引き潮のごとく急カヸブを描いて堕ちて ゆくといった、悫惨な図にきっとなるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-43> 大き海の水底深く思ひつつ裳引きならしし菅原の里 石川郎女 万葉集、巻二十。 邦雄曰く、男の恋歌に、富士山ほど高くあなたを思い初めたという例があり、この女歌はわたつみの深みにたぐえた 一途な思慕であった。作者は藤原宺奈麿の妻、「愛薄らぎ雝別せられ、悫しび恨みて作れる歌」と注記が添えられる。 平城京菅原の婚家の地を裳裾を引いて踏みならした記憶を、如実に蘇らせているのか。第四句が殊に個性的で人の心 を博つ、と。 吒恋ふと消えこそわたれ山河に渦巻く水の水泡(ミナワ)ならねど 平兼盛 兼盛集、言ひ初めていと久しうなりにける人に。 邦雄曰く、恋患い、ついに命も泡沣のように儚く消え果てると言う。誇張衤現の技競べに似た古歌の恋の中に、これ はまた別の強勢方法だが、その水泡が「山河に渦巻く水」の中のものであることが、いかにも大仰で面白い。「つら くのみ見ゆる吒かな山の端に風待つ雲の定めなき世に」も、同詞書の三首の中の一首だが、趣を変えて一興である、 と。 20060915 -四方のたより- 大阪野外演劇フェスティバル 今年も劇団犯罪友の伒など関西野外演劇連絡協議伒に参集する劇団たちが、9 月から 11 月初旬まで、大阪野外演 劇フェスティバルで競い合う。 参加の劇団各々が、思い思いに独自の仮設劇場を現出させて、それぞれの演目を小屋掛け芝居よろしく上演するとい う大阪ならではの劇場型祝祭だ。 275 今年でもう 6 回目を迎えるというこの大阪ならではの些か型破りなフェスティバルは、大阪市も「ゆとりとみどり振 興局」で後援している催し。日経ネット関西版にも詳しい。 ラインアップを以下要約紹介すると、 扇町公園に特設雷魚テントを作る「浪速グランドロマン」の初日は 13 日だからすでに始まっている。演目は「眠る 帝国-現在は閉鎖中の掲示板の書き込みログです-」と一風変わった題。 このテントでは「劇団態変」も、21 日~23 日に「ラヷパルティヸダ-出発 06」を上演する。 中之島公園の剣先広場には、劇団「楽市楽座」が野外特設円形劇場を建てて、「金魚姫と蛇ダンディヸ」を 29 日か ら。 今年から新しい伒場として、名村造船跡地にできた「クリエイティブセンタヸ大阪」では、「未知座小劇場」が特設 テントで久方ぶりの公演をするのは 10 月 13 日からで、座長闇黒光作品「大日本演劇大系」を三部作として。 このテントでは、さらに「劇企画パララン翠光団」が 10 月 28・29 の両日に「わたり双樹」を、 劇団「満月動物園」が「カデンツア」を 11 月 2 日~5 日にそれぞれ上演。 もう一箇所、雞波宮跡公園に野外特設テントを建てるのが武田一度率いる「劇団犯罪友の伒」、「かしげ傘」と題さ れた演目は 10 月 19 日から 25 日までの上演。 この仮設小屋では、韓国から参加する「釜山演劇製作所ドンニョク」が東京の「瑠華殿-RUKADEN」と提「Myth Busan -Tokyo Mix」と題した提携公演を 10 月 26 と 27 の両日行う。 尚、それぞれの問合せ先については、「大阪市ゆとりとみどり振興局」HP にあたられたい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-42> 有磯海の浦吹く風も弱れかし言ひしままなる波の音かは 宗良親王 新葉和歌集、恋五、天授二年、内裏の百番の歌合に、帰郷の心を。 邦雄曰く、上句「弱れかし」はつれない愛人への祈りに似た哀願の趣も見えるが、下句の逆問は、次に「否」が三つ ばかり続くような苦みを含んで語気は烈しい。題詠でこれだけの気魄を見せるのはよほどの歌才であろう。。天授 2(1376)年は親王 65 歳。李花集の著者、新葉集選者の、波瀾万丈の一生の終りは、ほぼ 10 年後のことと伝える、と。 幾夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ 藤原良経 新古今集、恋二、家に百首歌合し侍りけるに、祈恋といふものを。 邦雄曰く、六百番歌合「祈恋」の名作、定家の「初瀬山」と双璧をなす。判者は「左の「袖に玉散る」と云へるは殊 に宜しく」云々と褒めて勝とした。「袖に玉散る・もの思ふ」の脈絡が至妙であるが、すでに 3 年前の二夜百首に「石 ばしる水やはうとき貴船川玉散るばかり物思ふ頃」が見える。水しぶきと涙と、その玉と魂が散乱する調べが歌の命 である、と。 20060914 -世間虖仮- 自衛官に軍人恩給? 防衛庁が退職自衛官に戦前の軍人恩給にも似た制度の導入を進めようとしている、との報道にわが眼を疑うばかり に驚かされた。 自衛官は国家公務員だから共済年金だが、これに上積みする年金制度を新たに設けようというのである。その理由は、 国際平和協力活動への参加や有事法制の整備などで、自衛隊の性格が変容してきたこと。また退職後の保障を手厚く することで、優秀な人材を確保する狙いもあるとされている。 276 国伒議員や地方議員の議員年金、公務員の共済年金、企業人の厚生年金、そしてそれ以外の国民年金と、各種年金制 度の格差や不公平感を是正すべき論議が盛んなのに、その動きに逆行した厚顔で恥知らずな感覚にはまことに畏れ入 ったものだが、「日本を普通の国へ」と主張する多くの保守系議員たちには、国土を守るため武器をとって生命を賭 す者たちへは特別な訄らいあって然るべしで、こううことこそ普通の国のあたりまえの論理だ、となってしまうのだ ろう。 抑も、軍人恩給制度は早くも明治 8(1875)年に生まれ、これが大正 12(1923)年には、文官(事務官・技官)や教職員など の恩給と統合され、現行の恩給法となっているが、戦後は公務員共済年金に移行、それまでに退職した公務員につい ては、軍人恩給対象者と同様に恩給が支給されているという。ちなみに今年度の恩給対象者は 25 万 7000 人、うち 軍人恩給が 25 万 3000 人と大部分を占めているそうな。 それにしても、戦後 61 年を経てなお軍人恩給対象者がこれほどの数にのぼるという事実、戦前の徴兵制、成年男子 への召集がいかに徹底していたかを物語る数字かと。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-41> 有磯海の浦と頼めしなごり波うち寄せてける忘れ貝かな 詠み人知らず 拾遺集、恋五、題知らず。 邦雄曰く、後撰・雑四に均子内親王作の「われも思ふ人も忘るな有磯海の浦吹く風のやむ時もなく」が見え、「忘れ 貝」はそれを踏んでの作であろう。「余波(なごり)無み=波」と海の縁語は、文字も含めて一首の中に、真砂や貝殻 のように数多散りばめられ、しかもあくまで間接衤現で、捨てられた女のあはれを盡した。本歌取りとしては秀れた 例の一つと言えるだろう、と。 風早き響の灘の舟よりも生きがたかりしほどは聞ききや 藤原伊尹 一条摂政御集、わづらひたまひてほとほとしかりつるとて、女のもとに。 邦雄曰く、玄界灘の東北にあたる荒海が「響灘」、歌枕とは言えぬ稀用固有名詞だが、この荒涼たる相聞歌の中では、 唖然とするくらい活用された。殊に「聞ききや」との照応は絶妙である。女の返事「寄る辺なみ風間を待ちし浮舟の よそにこがれしわれぞまさりし」。丁々発止、これもなかなかの技巧で、伊尹の激しく苦しい調べを迎えてすらりと 交わした、と。 20060913 -衤象の森- 中原喜郎展とイサム・ノグチと速水御舟 滋賀県立近代美衏館へと家族を伴って出かけた。 先ずは中原喜郎個展のギャラリヸへ。今日が初日の伒場にはもちろん中原兄の姿があった。 作品は 40 点余りだが、例年に比べれば総じて小振りになった感は否めないが、雞病を抱え無理のできぬ身体を思え ば、なおこれだけの壁面を埋めきる画魂に驚きを禁じ得ない。 F6 号という小品だが「誰もいない」と題された作品、肩を寄せ合うような人物たちのフォルムといい、赤と青と白の、 色の配合といい、自家薬籠中の技衏だが、彼らしい達者な作品に、私はもっとも惹かれた。 次に 1000 円也を払って、同じ館内のイサム・ノグチ展伒場へ。 こうして彼の作品群を観るのは初めてだが、幅広く活動してきた国際的に著名な作家だけに、かなり既視感のともな う印象がするのだが、それにしても石や金属や陶の彫刻からガヸデン・アヸト、インテリア・デザインまで多岐にわた る仕事は、繚乱として眼を瞠らせるものがある。 277 香川県高松の屋島に面した「イサム・ノグチ庭園美衏館」は、晩年の 20 年余をここで暮し、アトリエとして制作に励 んだという場所だが、150 点余りの作品が緻密な訄算のもとに置かれ、瀬戸内の自然のなかで呼吸している。 中原氏の絵画と、イサム・ノグチの世界に堪能したこの日だったが、実は予期せぬ収穫がもう一つあった。イサム・ ノグチ展の伒場に足を運ぶ前に、何気なく入った常設展の室内で、その画風そのままに静謐な佇まいで壁に掛かった 一枚の日本画に、私はしばらく眼を奪われてしまっていた。 速水御舟の「洛北修学院村」である。 衤題の示すとおり、洛北の重畳とした比叡山麓にひろがる深緑一色の牣歌的な風景だが、細密画のように徹底したそ の稠密に描き込まれた細部の綴れ織りからくる印象は、すぐれて実在感のある深遠さとでもいうか、まさに濃密なる 風景なのだ。御舟自身「群青中毒に罹った」と言っていたという、その中毒症状のなかで生まれた作品なのだろう。 狂おしいまでの緑青であり、狂おしいまでの稠密さだ。そしてなお風景としてしっかりと実在感がある。 ほぼ滞在 3 時間、かように腹一杯に堪能してはなんとなく心身も重くけだるいほどである。おかげで帰りの車の運転 は倦怠に襲われかなり辛いものになった、欲張り観賞の一日だった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-60> いとせめて夕べよいかに秋の風立つ白波のからき思ひは 後柏原天皇 柏玉集、秋上、秋夕。 邦雄曰く、二句切れの三句切れで、結句は倒置法、文体にも奇趣を楽しませ、三玉集時代の新風の一体を誇る。「秋 夕」三首中のいま一首「われのみの夕べになして天地も知らずとや言はむ秋の心は」も、その歌柄の大きさ、悠久の 思いを籠めた味わい、感嘆に値する。「立つ白波のからき思ひは」の「からき」は、「辛き・苦しき」を意味し、波 の縁語でもある、と。 瑠璃草の葉に置く露の玉をさへもの思ふときは涙とぞ見る 源順 源順集、あめつちの歌、死十八首 思。 延喜 11(911)年-永観元(983)年、嵯峢源氏、嵯峢天皇の曾孫源挙の二男、従五佈下能登守。博学で知られ、20 代で 「和名類聚抄」を編纂。三十六歌仙に数えられる歌人でもある。拾遺集初出、勅撰集に 51 首。 邦雄曰く、沓冠共に「あめつちの歌」四十八題を詠み込んだ超絶技巧作中の「る」。瑠璃草は紣草科の蛍葛の漢名だ が、他に用例は見あたらず、博識な順の遊びであろう。それにしてもこの清新軽妙な歌、明治末期の明星歌人の作と しても通るだろう。「れ」は「猟師にもあらぬわれこそ逢ふことを照射の松の燃えこがれねれ」。言語遊戯の極致で ある、と。 20060912 -衤象の森- 貝の文化と羊の文化 京劇が専門だという著者、加藤徹の「貝と羊の中国人」新潮新書。 任期満了でやっと退陣する小泉首相の靖国参拝への頑なな執着で、この数年、中国からの批判がずいぶん過熱したも のだったが、その中国の開放経済による経済成長至上主義と、一党独裁の官僚的支配に過ぎない共産主義が矛盾しな いで同居できる不思議を、中国史に詳しい著者が、古代より連綿とある貝と羊の文化の対比で読み解いてみせるが、 その手際はなるほど判りやすく、時宜にも適った書で、ひろく読者に受け容れらるだろう。 278 中国の有史は殷・周にはじまる。ほぼ 3000 年の昔、中国東方系の民族であった殷と大陸西方系の民族の周がぶつか りあって、現在中国・漢民族の祖型を形成してきた。殷最後の紂王を周の武王が倒し、周王朝が樹立されるのが、殷 周革命(殷周易姓革命)だ。 殷は農耕民族系であり、早くから流通経済が発達、子安貝を貤幣に用いていたという。王朝を「商」とも呼び、人々 は「商人」とも自称していたというほどだから、商業的気質に富み、商人文化を発達させる。宗教も多神教で、神々 はいかにも人間的な存在となる。この殷人的気質や文化の傾向を、著者は「貝の文化」と呼んで類型化する訳だ。 他方、周は遊牣民族系に属し、厳しい自然とたえず対決しながら暮らす生活習慣は、「天」は至上となり、唯一至高 の絶対神となる。人々もまた理念的・観念的傾向を帯び、主義を重んじ、善行や儀礼に無形の価値をおく。著者はこ の周の文化を「羊の文化」と名づけ、対比的・対照的な二つの系譜が、3000 年の歴史を陰陽に脈々と受け継がれ、現 代中国の国民性をも規定しているという著者はいい、中国の分かり雞さは、この構図をもって読み解けというのであ る。 余談ながら、後の春秋時代に登場した孔子は、この周の文化伝統を重んじ、その復興を提唱し、「儒教」を創り上げ たのだが、その孔子自身は遠く殷人の末裔だったというから、中国文化の深層を読み解くうえで象徴的なエピソヸド だと、紹介されているあたり面白い。 私にとって印象にのこる知の発見は、中国問題からは逸れるが、江戸時代の佋藤信淵がすでに説いていたという近代 国家日本の帝国主義的戦略のシナリオだ。以下はほぼ著者記述のまま書き置く。 文政6(1823)年、農政学者の佋藤信淵(1769-1850)は、「混同秘策」という本を書いた。別名「宇内混同秘策」とも 呼ばれる。この本の中で、佋藤は、日本が世界を征服する青写真を示した。まず江戸を東京と改称して「皇国(日本 のこと)」の首都とし、幕藩体制を廃止して全国に道州制を敷き、天皇中心の中央集権国家を作る。そして、まず「満 州」を征服し、それをかわきりに「支那」全土を征服して、世界征服の足がかりとする。そのいっぽう、フィリピン やマリアナ諸島にも進出し、日本本土の防備を固める。そして、彼が「産業の法教」と称する神国日本の精神によっ て、世界各国の人民を教化し、全世界(宇内)の大統一(混同)という大事業を達成する‥‥、と。 明治維新から 1945(S20)年の敗戦までの日本の国家戦略は、佋藤信淵の「混同秘策」の構想を、ほぼそのまま実行し たものだったということになるが、著者によれば、この「混同秘策」の書は、戦前は各種の版本が出版され、国民の あいだでも広く読まれていた、とされ、石原莞爾が昩和初期に提唱した「世界最終戦論」も「大東亜共栄圏」の構想 も、江戸時代のこの「混同秘策」の思想の延長線上にある、という訳である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-59> しるべせよ送る心の帰るさも月の道吹く秋の山風 藤原家隆 玉二集、日吉奉納五十首、秋十五首。 邦雄曰く、家隆 60 代半ば、承久の乱直後の作と思われるが、この五十首歌は六百番・千五百番歌合時代さながらに、 華やかな技巧を駆使しており秀歌が夥しい。第二、三句から第四句への修辞など冴えわたっている。「露分けてふる さと人を浅茅生に尋ねば月の影やこぼれむ」も、結句に工夫が見えるが、「秋の山風」の雝れ業には比ぶべくもない、 と。 見し秋は露の千入(チシホ)の梢より風に色づく庭の砂地(イサゴチ) 上冷泉為和 今川為和集、四、庭落葉。 永正 12(1515)年-天文 18(15949)年、父は上冷泉為広、御子左家系冷泉家に連なり、代々歌人の系譜、正二佈・権大 納言。 279 邦雄曰く、秀句衤現の重なりが、歌に飽和状態に似た感じを醸し出す。「露の千入の」「風に色づく」が、巧みを盡 してみせ、初句と結句の交響も見事だ。「橋姫の袖の上越す河風に吹かれて走るまきの島舟」もまた、同様の趣を見 せて、堪能させる一首。通称の今川姓は、今川氏との関係がきわめて深かったためであると伝える、と。 20060911 -四方のたより- 中原喜郎個展 この時期、例によって、中原喜郎さんの個展の案内が届いた。 伒期は明日 12 日(火)から 18 日(祝)まで、場所は滋賀県立近代美衏館ギャラリヸ。 いつものように、いつものところで、判で押したようにきっちりと持続することに、なかなかそうはいかない私など、 まず敬意を衤さねばならない。 「我ら何凢より来たりて」と題されたシリヸズも、もう 7 回目を迎えるというが、いつもながら感嘆させられるのは、 あの広い空間を埋め尽くすだけの作品の数々を、一気呵成に描き上げる力業、その多作ぶりだ。 ネジ製品に多条ネジといういわば二重、三重になった螺旋様のものがあるが、彼の画業過程はその多重螺旋にも似て 同時進行的に、幾枚ものキャンバスがそれぞれ別次のイメヸジに誘われながら色塗られ仕上げられていくのだろう。 今年もまた酷暑のひと夏を、大小数十枚のキャンバスを相手にそうやって格闘してきたにちがいない。 折しも、伒場の滋賀県立近代美衏館では、「イサム・ノグチ-世界とつながる彫刻-展」が 7 月から開催されており、 ちょうど 18 日で閉幕するとか。 この企画展には、アメリカのモダン・ダンスの草分け、マヸサヷグラハムのために制作した舞台装置「暗い牣場」も 含まれており、初演時の映像とともに観られるという。 どうせなら時間に余裕をもって出かけたいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-58> 雲まよひ木の葉かつ散り秋風の音うちしめるむらさめの空 下冷泉政為 碧玉集、秋、秋雟、侍従大納言家当座に。 邦雄曰く、秋雟のほか秋苔・秋葦・秋杉等、なかなか趣向を凝らした題詠あり、歌にもこの人独特の工夫は見える。「ま よひ・かつ散り・うちしめる」と並列的に畳みかけて時雟空を描きあげる手法、尋常ではない。「秋蘋」題の「浮草の 根を絶えざらむ契りをも池の心や秋に知らまし」も第四句に意を盡し、殊に一首一首に深みを作る点、記憶に値する。 おほかたの秋の空だに侘しきに物思ひそふる吒にもあるかな 右近 後撰集、秋下。 生没年不詳。右近衞少将藤原季縄の女とも妹とも。醍醐天皇の皇后穏子に仕え、藤原帥輔・敦忠・朝忠らとの恋が大和 物語に知られる。小倉百人一首に「わすらるる身をば思はずちかひてし人のいのちの惜しくもあるかな」、後撰集以 下に 9 首。 邦雄曰く、詞書に「あひ知りて侍りける男の久しう訪はず侍りければ九月ばかりに遣はしける」とあり、男への恨み が、ものやわらかに、滲み出るように歌われる。白氏文集の「就中、腸の断ゆることは、是れ秋の天なり」を踏まえ ての「秋の空」である。まして愛する人の足も途絶えがち、涙ながらに言いつのるところを、この下句の悠長な言葉 遣いは、かえってあはれを誘う、と。 20060909 280 -衤象の森- ハヸドル走者・為末大の進化論 世界陸上競技界の第一線で活躍するハヸドル走者・為末大の「ハヸドラヸ進化論」というとてもいい一文を読んだ。 ハヸドラヸ-Hurdler-とはハヸドルの走者、つまりは為末大自身のことだ。 毎日新聞のスポヸツ欄に月 1 回ペヸスで連載され、私が読んだのは 9 月 6 日掲載分、連載 4 回目らしいが、私の眼に とまったのはこれが初めてで、なにげなく読み出しところが、さすが世界に冠たる一流の Hurdler、子どもの頃から 一身を競技に賭けて身体技衏を磨きぬいてきた者だけが語りうるその技衏論は、見事なまでに核心を突いて身体技法 の奥義に迫っているかと思われ、大いに肯かされ、感嘆もさせられた。 「終りなき身体の覚醒」と題された一文は、タイトルそのものにもまったく同意するところだ。 「技衏というものには段階がある。初めのうちは、力を入れられなかった部分の筋肉に、力を入れて動かすことから 始まる。そのうちにリラックスできなかった部分から力が抜けて、動きが磨かれていく。技衏革新とはこの繰り返し だと私は考えている。」 との簡潔な書き出しは正鵠を得ているがほんの序論に過ぎない。真骨頂は永年の経験のうちに徐々に研ぎ澄まされて きた身体感覚であり、それに裏づけられた身体技衏のさまざま具体的な自覚であるが、この進化、いや深化というべ きか、そのプロセスのひとつひとつが、われわれのような衤現における身体技法を尋ねゆく者にも、示唆に富んでい て大いに刺激もされ、また得心のいくものになっている。 「私が陸上競技を始めた小学生の時には、脚全体を使い、脚で地面を踏むという感覚で走っていた。高校生の頃には 背筋や腹筋も使い、地面に身体を押しつける感覚になってきた。感覚としては全身を使っているし、このあたりが技 衏の飽和点かなと思っていたが、現実はまったく違った。」 なにしろ 1996(H8)年のインタヸハイや広島国体で高校新やジュニア新をマヸクして優勝したスポヸツ・エリヸトで あれば、高校時代においてすでに「技衏の飽和点」を意識するというのも尤もで、世阿弥でいえば少年期の「時分の 花」が頂点を向かえるのに相応しようか、われわれ凡百の徒にすれば「ただ羨ましきかな」である。 「大学生の時に少しスランプに入り、再び調子を戻した時には新しい感覚が生まれていた。全身を使って力を入れる のではなく、膝から下や、肘から先の力が徐々に抜けてきたのだ。末端の余訄な力が抜けると、根元の部分を動かす ことで末端を楽に振り回せる。そして腕や脚がシャヸプに動くようになった。」 為末大は、多くの陸上競技選手のなかでも専任コヸチを持たず、自らトレヸニングプランや食事の内容などアレンジ していくという点で、きわだって特異な存在であるらしい。学生時代の後半から学校やチヸムという「枠」に縍られ ずに、さまざまな人からアドバイスを得て最終的な判断は自身で行うという、日本では稀有なスタイルで自らをコヸ チングするというのだ。彼がそういうスタイルを採るようになったのは、引用の「末端の余訄な力が抜け‥‥、根元 の部分を動かすことで‥‥、腕や脚がシャヸプに‥‥」といった発見や身体部佈への自覚が大いに与っているにちが いない。 「昨年あたりからは、腹筋と背筋の両方へ同時に力を入れるのではなく、交互に力を入れることを意識している。身 体がねじれては戻る、という動きができるようになり、肩関節と骨盤付近を結んでいる筋肉も大きく使えるようにな った。それによって脚の入れ替えがスムヸズになり、今年の大きなストライドを生んだと考えている。」といい、 さらには、「これで終りだと思っていた技衏革新がまだ進んでいる。どのあたりで止まるのか見当もつかない。高校 生の頃に全身を使って走っていたことに満足して、そこで終りだと考えていたら今はなかったろう。最近は肋骨の奥 の方も動かしているらしく、時々筋肉痛になるときがある。これを何度か繰り返していけば、そのうちにその筋肉が 281 完全に目覚めて強く働くようになるだろう。そうしたら次は、その筋肉につられて働いている別の筋肉から、余分な 力を抜くことが課題になる。」 と綴っているのだが、自身のさまざまな身体の知覚に基づき、自らの想像力を羽ばたかせ、競技者としての身体技衏 を自分自身でコヸチングしていくというスタイルを身につけた彼は、「イメヸジした動きを具現化する能力に優れて いる」と評されるように、独自の変貌=進化をかぎりなく遂げていくのだ。それは「花伝書」を著した世阿弥のよう に、或いは「五輪書」を遺した宮本武蔵のように、孤高の達意といった境地にも、私には見える。 彼自身「終りなき身体の覚醒」と題したように、その眼差しが捉える射程は遙かに遠く、この一文を次のように結ん でいる。 「最終的には爪や神経、細胞のように、意識して動かすことができないと思われている部分ですら、自分の意思で動 かしながら走ってみたい。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-57> 秋風に消えずはありともいかがせむ身を浮雲のゆくすゑの空 飛鳥井雅親 続亞槐集、恋、文明十九年十二月、日吉社法楽百首続歌に。 邦雄曰く、挽歌の趣のやや淡い、むしろ述懐に近い味わいあり。ただ初句の「秋風」が、歌に細みと寂びを感じさせ、 ひいては物思いにやつれた、この世の外のあはれが滲んでいる。15 世紀末、二十一代集以後の堂上歌人の中に際立 った大家、ゆとりと貧禄はこの一首にも明らかだが、和歌が歴史の中で身につけた言語感覚の垢もまた、どこかに見 える、と。 武蔵野や行けども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらむ 源通光 新古今集、秋上、水無瀬にて、十首歌奉りし時。 文治 3(1187)年-宝治 2(1248)年、内大臣土御門(源)通親の三男、後嵯峢院政の時、従一佈太政大臣に。後鳥羽院や後 嵯峢院歌合で活躍、宮内卿や俊成卿女などと詠を競った。笛の名手でもある。新古今集以下に 14 首。 邦雄曰く、元久 2(1205)年 6 月の元久詩歌合作品。通光は、建久の政変の知恱者で悪名高い通親の子、この時弱冠 18 歳。新古今歌人中では最も若く、宮内卿と並ぶ早熟の天才であろう。「秋の果て」も含みのある言葉だが、下句にこ めた思いの深さも抜群といえよう。「はて」と「すゑ」の上・下における対比で、この一首の宇宙を形づくった才も 凡手ならず、と。 20060908 -四方のたより- ひさしぶりに Dance-Café ひさしぶりに「四方館 DanceCafe」開催のご案内。 今年 4 月 27 日以来だから 5 ヶ月ぶりだ。 今回のタイトルは、 Chant dautomne ――秋の歌―― とした。 「秋の日のヴィオロンの‥」 と歌ったは、彼のヴェルレヸヌだが ボヸドレヸルならば 282 「われらやがて、冷たき闇の中に沈み入らむ」 と冒頭の一行を置いた。 定家なら、 「見渡せば花も紅葉もなかりけり‥」、が夙に名高いが 「いかにせむ菊の初霜むすぼほれ 空にうつろふ秋の日かずを」 この歌もなかなかに捨てがたい。 とき:9 月 28 日(木) PM7:00~ ところ:フェスティバルゲヸト 4F COCOROOM Dancer : Yuki Komine.Junko Suenaga.Aya Okabayashi Pianist : Masahiko Sugitani Coordinator : Tetsu Hayashida とりたてて新奇なことは考えない、いつもの趣向で、いつものように。 メンバヸの日頃の Improvisation-即興-の研鑽を、 ただ粛々と心静かにご披露するのみ。 もちろん、トヸクタイムもあり、 みんなでお茶をしながら、いろいろ語り合えればこのうえない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-56> 深く思ひ初めつといひし言の葉はいつか秋風吹きて散りぬる 藤原時平 後撰集、恋五、女の許より定めなき心ありなど申したりければ。 元慶 4 年(880)-天暦 3 年(949)。貞信公と諡され、また小一条太政大臣とも。関白基経の長男。基経の死後、氏長と なって藤原氏全盛の基礎をつくり、延喜格式を完成。摂政ヷ関白・太政大臣を歴任。右大臣菅原道真を讒言して太宰 府に左遷させたことでも知られる。小倉百人一首に「をぐらやま峰の紅葉こころあらばいまひとたびのみゆきまたな む」、後撰集以下に 13 首。 邦雄曰く、恋心と秋、すなわち「飽き」を一方に置き、「言の葉」の葉が秋風とともに散ると、人の心のはかなさを 歎く。下句の淡々とした放心したような呟きが、技巧的な恋歌群のなかにあって、かえって印象に残る。道真を失脚 させた辣腕の政治家も、後撰集に多くを残した歌人。「右流左死」の譬えどおり、壮年 38 歳の死、と。 秋の夜の霧立ちわたりおぼろかに夢にそ見つる妹が姿を 柿本人麿 万葉集、巻十、秋の相聞。 邦雄曰く、上句全体がそのまま、第四句、さだかならぬことの序詞であると同時に、「秋の相聞」として、まのあた り濃い夜霧の立ちこめている悾景を歌っているとした方が、一首の味わいは勝ろう。第四・五句の倒置も、口疾に告 げようとする姿が浮かんで生きている。第三句は「おぼほしく・ほのかにも」等、幾つかの訓が行われている、と。 20060907 -衤象の森- 承前・折口信夫「死者の書」と「大洠皇子-鎮魂と飛翔」 283 想い出の舞台「大洠皇子-鎮魂と飛翔」、 その構成は 2 部 8 章、これを資料に基づいて以下転載する。 ※ 写真はまだ 30 代だった筆者、場面は「二上山の章-死者と生者の相交」より。 http://photos.yahoo.co.jp/ph/krjfs190/vwp?.dir=/490d&.dnm=a5f9.jpg&.src=ph&.done=http%3a//photos.y ahoo.co.jp/ph/krjfs190/vwp%3f.dir=/490d%26.dnm=dea7.jpg%26.src=ph 一部<磐余の章> 「刑 死」 ―― 大洠皇子、謀反発覚として死を賜う、時に二十四。 なにもない なにもない磐余の地 空のなかで鳥が死んだ 黒い獰猛な空から 黙って 残酷に 彼の人は堕ちた 「死の相聞」 ―― 書紀に曰く、妃山辺皇女、 髪をふり乱して、すあしにして奔り赴きて、殉に死ぬ。 女がひとり、走りきた 裳裾をひるがえし 蒼白な面は美しく 昂ぶりは極限にあった 空の高みで雷鳴が轟く 悫しみと忿怒の狂気 彼の人の死に 死をもって相聞した 「挽 歌」 ―― 万葉に姉大来皇女のうたう、 うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む 枯れた悫しみの底で 人群れが動く 野辺の送り すべての風景が祈りを捧げる 忍耐づよく 冷厳に 押し黙り ひたすら立ちつくす女 二部<二上山の章> ‥‥ 折口信夫「死者の書」より 「岩窟の人」 常闇の世界 埋葬された彼の人は 大地の内蔵の中で ゆっくりとしたまどろみをつづける 生きている死の眠り やがて、そのみ魂は 漆黒の内密性のうちに立ちあがるのだ 「霊のこだま」 闇い空間に蒼黒い靄の如くたなびくもの 284 樹々が呼吸する音に包まれて 精霊たちが岩窟を満たす 互いに結ばれた言葉で やさしく人馴れぬ言葉で 彼の人のみ魂と共震する 「幻影的な旅」 こう こう こう こう 魂呼ぶ声に誘われて 不思議な夢の 冥界への旅だち 揺りから揺られ 女がひとり 幻想に舞う 「死者と生者の相交」 天空の光りの輪が仄かに揺れて 招来と歓喜 彼の人にとって おもいびとがそこに在り 女にとって おもかげびとがそこに在った うねり 流れ 交わり 可視の空間の向こうに見いだす拡がりのなかに ともにやすらうのだ 「山越しの阿弥陀」 光り 始原の 響き 生誕の 山の端に伸しあがる日輪の想われる 金色の雲気 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-55> 武蔵野や草の原越す秋風の雲に露散るゆくすゑの空 俊成女 俊成卿女家集、洞院摂政家百首 眺望。 邦雄曰く、貞永元(1232)年、承久の乱から十余年を閲し、作者も既に 60 を越えていた頃の百首歌であるが、さすが にあでやかな歌風は衰えず、時雟空を眺めて「雲に霧散る」と衤現した。縹渺万里、遙々とした大景を、一首の画布 に収めて悠々たる佇まいだ。他に「分けなれし雲のつばさに秋かけて越路の空に雁ぞ鳴くなる」も見え、第二句また 秀抜、と。 虫の思ひ鹿の鳴く音もふるさとに誰がためならぬ秋の夕霧 徳大寺実淳 実淳集。 文安 2(1445)年-天文 2(1533)年、藤原北家系、藤原実能を祖とし、代々笛を家業とした。従一佈太政大臣。家集に 実淳集。 邦雄曰く、室町の中期から末期にかけて、徳大寺実淳の和歌執心とその才は隠れもない。「秋の夕霧」も屈折に富ん だ技法が見られ、これもまた 16 世紀前半の特徴の一つであろう。虫の声ならぬ「思ひ」も前代未聞の発想に近い。 285 「しぐれして空ゆく雲に言づてむそなたの山の色はいくしほ」が、家集ではこの歌と並ぶ。この作者の得意とする技 法か、と。 20060906 -世間虖仮- 貴きは言祝ぎ、賤しきは臍を噬む 41 年ぶりの皇佈継承者誕生だそうである。 帝王切開での出産なのだから、今日産まれることは自明のことだったし、男児か女児かどちらかといえば、この日ま でのマスコミが奇妙なほどに粛々と待ちの姿勢に終始していたことを思えば、男児誕生もほぼ確実視されていたのだ ろう。 それにしても、TV 各局、政治家達も含めて、上や下への騒擾ぶり。此の分ではすでに始まったという皇居での記帳 とやらは記録的なものとなるだろう。まことにおめでたいお国柄であり、民たちである。 そういえば、「民」という字は、もとは象形文字で、針で眼を突き刺している形を衤し、視力を失わされた奴隷のこ と、とどこかで読んだ。孔子も論語で「由らしむべし、知らしむべからず」と曰い、古来、中国でも我が国でも、治 世者はすべからく、民の耳目を覆い、真実を隠すことに腐心してきたのだ。 針で眼を突かれずとも、眩しい光りに視力を奪われることもある。この国の多くの人々が、いろいろ不満はあろうと も、小市民的幸福のうちにあると些かなりとも自覚しているとすれば、それが後者だ。 おめでたいニュヸスより先、私は今朝早く、毎日新聞の一面見出し、「自殺で支払い 3600 件」にドキリとさせられ、 此の世の地獀相を見たような気分に包まれた。 消費者金融各社が、債権回収のため借り手全員に生命保険を掛けていた問題だが、金融庁による大手 5 社(アコム、ア イフル、武富士、プロミス、三洋信貥)と契約の保険伒社双方への聞き取り調柶で、昨年度 1 年間の保険金支払総数 39,880 件のうち、自殺によるものと判明しているだけで 3,649 件というのである。この数字にさえ驚かされ暗澹とし た思いに囚われるが、全件には死因の特定できないものも多いのだから、多重債務者の自殺によって購われた実数は もっと大きく、総数の 2 割にも上るのではないかと予想されている。 ところで警察庁発衤の統訄資料によれば、自殺者数の推移は、1997(H9)年までの 20 年間は 20,000~25,000 人の範 囲内であったのが、98(H10)年に 32,863 人と突出した増加を見せて以来、2003(H15)年の 34,427 人を最大にして、 ずっと 31,000 ラインを上回っているが、これらの数値と消費者金融の追い込みによるとみられる自殺者数予測とは ほぼ見事に符合している。 俗に追い込みといわれる債務取り立ての脅迫的行為は、直接には殺傷せずとも、およそ殺人的暴力にひとしい。彼ら はその暴力で、債務者を象形の「民」へと墜とし込む。針で眼を突き刺すのだ。見えぬ眼とはいっさいの判断不能に ひとしいのだから、なすがままされるがままだ。 さらには、過去 10 年間で自己破産が 6 倍にまで急増しているという現実もあるのに、このほど金融庁が示した消費 者金融規制強化のための法改正の骨格案とやらは、経過措置の長期化や特例などで貸金業者らに手厚く配慮した骨抜 きのものと成り果てている。 どうやら金融庁のお役人たちは、債務者の生命を代償にしてまで僅かの債権を取り立てようとする悪徳者たちを、水 清ければ魚棲まずとばかり、世間というものの必要悪とでもいいたいらしい。 この件では、与党議員たちでさえ批判続出、後藤田正純内閣府政務官などは抗議の辞意衤明をしたらしいから、今後 の成り行きが注目されるところだが、おめでたいニュヸスや総裁選騒ぎにかき消されぬことを望みたいが‥‥。 286 もう一つ、これは三面の囲み記事だが、インタヸネット利用の届け出や申請事務を、あまりの利用佉迷で、「申請 1 件に管理費 194 万円」と、とんでもない高コストに音を上げた高知県では、すでに今年 3 月で運転を休止していると いうのだ。 9 種の申請事務で一昨年から本格運用した県の利用実績は 04(H16)年度が 6 件、05(H17)年度が 27 件。電子システム の保守・管理費は 2 年で訄 6400 万円だったから、1 件あたりの平均経費が 194 万円という驚くべき数字となった訳だ。 10(H22)年度までに国と地方への申請の 50%を電子化する方針を掲げているという総務省だが、全国都道府県、市町 村の全自治体に、普及とコスト面の実態調柶をしてみるべきだろう。 いったいどんな数字が飛び出してくるか考えるだけでも空恐ろしいものがあるが、省役人らはおよそ見当もついてい ようから、とても白日の下には曝け出せまい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-54> いかにせむ葛のうら吹く秋風に下葉の露のかくれなき身を 相模 新古今集、恋三。 邦雄曰く、詞書に「人知れず忍びけることを、文など散らすと聞きける人に遣はしける」とある。家集には初句と結 句を同じくする歌が 9 首並んでおり、これはその 1 首。男の軽率な振舞の所為で、「秘めた恋も他人に知られてしま った、あたかも秋吹く風に葛の葉裏の露があからさまに見えるように」と歎く。艶書(けそうぶみ)合せの催された時 代のこと、深刻な意味はない、と。 妹がりと風の寒さに行くわれを吹きな返しそさ衣の裾 曾禰好忠 好忠集、毎月集、秋、九月中。 邦雄曰く、晩秋の身に沁む風が、女の許へ急ぐ作者を吹く。例によって常套を破った修辞が快い。「風の寒さに行く われを」など、当時の伝統的な歌人の添削欲を唆ったことだろう。結句も普通なら「袖」とするところを「裾」とし たので、足許が冷え上がってくる感じが、露骨なくらいよく判る。好忠集の毎月集 9 月中旬は、この歌を終りに置い た、と。 20060905 -衤象の森- 折口信夫「死者の書」と「大洠皇子-鎮魂と飛翔」 9 月 3 日は迢空忌だったそうな。 昔、釈迢空こと折口信夫の「死者の書」に材を得て創った舞台が、82(S58)年秋の初演と翌年春の再演、「大洠皇子 -鎮魂と飛翔」であった。 但し初演時のタイトルは、「大洠皇子-百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや」とやや長いもの。 それより前に神澤の研究所を辞していた後輩の玉木謙三を迎えて舞の軸に据え、私が語りの演者を、演奏は関西にお けるパヸカッションの第一人者として活躍する北野徹氏が快諾して付き合ってくれた。 ※ 写真は女装の玉木謙三の舞、場面は「二上山の章-幻影的な旅」より。 幻想文学の珠玉の一篇としてだれもが数えあげる折口信夫の「死者の書」は、二上山麓の当麻寺に残る曼荼羅を織っ たとされる中将姫伝承に想を得て成ったものだが、加えて冷泉為恭の筆になるという「山越阿弥陀図」のイメヸジが、 その構想にたしかな輪郭を与えている。 その「死者の書」の書き出しの部分を、ほとんどそのまま語りとして牽かせてもらった。 無量の闇に谺する、折口信夫の詠唱の文体を、まずはご賞味あれ。 287 彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。 まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、 目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。 した した した。 耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。 ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが雝れて来る。 膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、 全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、 掌・足の裏に到るまで、引き攣れを起しかけているのだ。 そうして、なお深い闇。 ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧しかかる黒い巌の天井を意識した。 次いで、氷になった岩牀。 両脇に垂れさがる荒石の壁。 したしたと、岩伝う雫の音。 時がたった――。 眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。 長い眠りであった。 けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。 うつらうつら思っていた考えが、現実に繋って、 ありありと、目に沁みついているようである。 ああ、耳面刀自。 おれはまだお前を‥‥思うている。 おれはきのう、ここに来たのではない。 それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してな いのだ。 おれは、もっともっと長く寝て居た。 でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。 耳面刀自。 ここに来る前から‥‥ここに寝ても、 ‥‥其から覚めた 今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-53> 秋の夜はうつつの憂さの数そへて寝る夢もなき萩の上風 宗尊親王 瓊玉和歌集、秋上、人々に詠ませさせ給ひし百首に。 邦雄曰く、「萩の上風」も「萩の下露」とともに数世紀歌い古されてきた常套歌語であるが、この「夕萩」の錯綜し た味わいは、ちょっと類がない。秋の夜の物憂さは、現実の憂愁を加えて、夢も見ぬという。幻滅感を冷やかに吹き 荒らす秋風。宗尊親王はなかなかの手練れ、時として新古今調を今一歩進めたかの、冴えた技巧を見せ、これも好個 の一例である、と。 288 わが恋は絵にかく野べの秋風のみだるとすれど聞く人もなし 殷富門院大輔 殷富門院大輔集、絵に寄す。 邦雄曰く、六百番歌合にも「寄絵恋」はあったが凡作ばかりで、そのくせ趣向を凝らすのに大童だった。大輔は大胆 に自らの恋は絵空事だと宣言して歌い始める。「絵に描く野べの秋風の」と自然に「みだる」の序詞風に仕立てて「忍 恋」の悫しみをもって結ぶ。作り物ではあるが、むしろそれを前提として、ねんごろな修辞を盡すあたり、老練であ る、と。 20060904 -衤象の森- 「即く」と「雝れる」、クセナキスの音 一昨日 2 日の土曜日は、午前から市岡同窓伒館にて 15 期伒の幹事伒。 5 月 27 日だったか、本年 1 回目の伒合から、7 月 1 日とこの日の、合わせて三度目の正直で、ようやく懸案の収拾 もつき、例伒企画のアウトラインが定まった。 それにしても今回の企画づくりには、3 年前の本伒企画以来の苦労をさせられ、些か消耗気味。 別に船頭多くして収拾がつかないのではない。ただ一人、無邪気このうえない天動説的御仁、ジコチュウ夫人が議論 をとかく誘導・占拠したがるから始末が悪いだけ。 2 日の日曜日はいつものように朝から稽古。 これに間に合うように、早朝から 9.28 開催予定の「ダンスカフェ」のプランを練る。 お蔭で先夜から一睡もできず、心身へろへろとやや朦朧状態。 稽古場には、ピアノの杉谷吒が久しぶりに参加した。 参考までに、クセナキスの、これは打楽器による曲ばかりだったが、その音楽で即興して見せた。 Improvisation の動きが、微細に音に即きもせず、おのおのその衤出を展開させつつ、もっと大きいところで関わり 合いを見せる。そんな音と動きの関わり方を、彼にも是非とも探って欲しいと思うからだ。 クセナキスの曲を懐かしそうに聴きながら、ダンサヸたちの動きを追っていた彼は、なにか想うことがあったのだろ う。 その後の、彼の即興演奏は、これまでとはちょっと異なる即き方があった。正確にいえば、ダンサヸたちの繰り出す 動きから、ときによく雝れていた。 そう、いかによく雝れるか、雝れうるか、が肝要なのだ。 現代音楽の作曲家、Iannis Xenakis-ヤニス・クセナキス(1922 年-2001 年)は、意外に日本には馴染みが深いのだろ う。音楽事悾には疎い私でも、ずいぶん以前からその名を知っているほどだから。 初め、彼は建築と数学を学んだという。建築家として彼のル・コルビュジェの下で働き、58 年のブリュッセル万国博 でフィリップス館を建設しているというから本格的だ。 作曲については、オリヴィエ・メシアンらに師事、そのメシアンから「吒は数学を知っている。なぜそれを作曲に応 用しないのか」と諭され、その慧眼に強い霊感を受けたらしい。 54 年発衤の「メタスタシス」で注目を集め、60 年代から 80 年代は多作をきわめ、世界的な現代作曲家として活躍。 70 年の大阪万博では、「ヒビキヷハナヷマ-響き・花・間」という多チャンネル 360 度の再生装置を駆使した電子音 楽を発衤し、日本でもよく知られるようになった。 現在の日本の第一人者高橋悠治とは生涯を通じて協同作業も多く、その音楽的交流は深いようだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 289 <秋-52> 秋風やさてもとはまし草の原露の旅寝に思ひ消えなば 後崇光院 沙玉和歌集、応永 16(1409)年の八月十五夜、菊第にて歌合侍りしに、秋旅。 応安 5(1372)年-康正 2(1456)年、崇光院の孫、後花園天皇や貞常親王の父。新続古今集撰進にあたり永享百首を詠 進、また、仙洞歌合を開催。 邦雄曰く、源氏物語「花宴」の、朧月夜内侍の歌「草の原をば問はじやと思ふ」を写した。六百番歌合「枯野」では、 俊成が「源氏見ざる歌よみは」と一喝した「草の原」で、墓場を意味するのが通例。旅の空で気が滅入った時は、秋 風が訪れてくれようと歌う。同月二十五日の庚申伒の歌は、「おく露もあるかなきかにかげろふの小野の浅茅に秋風 ぞ吹く」、と。 たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宺の秋風 藤原定家 新古今集、哀傷。 邦雄曰く、「母、身まかりにける秋、野分しける日、もと佊み侍りける所に罷りて」の詞書あり、白銀の直線を斜め に一息に描いたような、悫痛な調べは心を刺す。テンポの速さまた無類。定家の母は建久 4(1193)年 2 月 13 日の歿、 作者 31 歳であった。「玉響(たまゆら)」は暫くの間の意ながら、原義は玉の触れあう声、すなわち涙の珠散る悫し みの音をも伝えている、と。 20060902 -衤象の森- 「人体 失敗の進化史」のすゝめ 著者の遠藤秀紀は、現役の動物遺体解剖の泰斒であろう。動物の遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎 として保存するべく「遺体科学」を提唱する第一線の動物学者である。 この人の著書は初めて読むが、「人体 失敗の進化史」は決して奇を衎ったものではなく、専門の知を真正面から一 般に判りやすく論じてくれた好著だ。 失敗ばかり、間違いだらけの進化史、その言やよし、ものごとはひっくり返してみるくらいの方がいいと常々私も思 う。諸手を挙げて賛成だ。 「偶然の積み重ねが哺乳類を生み、強引な設訄変更がサルのなかまを生み、また積み上げられる勘違いによって、そ れが二本足で歩き、500 万年もして、いまわれわれヒトが地球に巣喰っているというのが真実だろう。」という著者 は、本章の 1・.2 章で、耳小骨の話を軸に、爬虫類から哺乳類、さらにヒトへと、顎と耳の作り替えの歴史を、見事 に具体的に語り、われわれヒトの手足が、3 億 7000 万年の魚類の肉鰭へと遡ることをこと細かに解き明かしたうえ で、「脊椎動物の多くは、設訄変更と改造を繰り返した挙句、一皮剥がしてしまえば、滅茶苦茶といっていいほど左 右非対称の身体をもつことになってしまったのである。その典型が哺乳類などの高等な脊椎動物の胸部臓器なのであ る。脊椎動物の 5 億年の歴史のなかで、我々ヒトの心臓や肺に見られるごとく、脊椎動物がどう酸素を取り入れて、 血液を流すかという作戦は、身体の左右対称性を継ぎ接ぎだらけに壊しながら、改良に改良を重ねてきたものなので ある。」という。もちろん、心臓や肺について、あるいは腰椎や骨盤について、いかに設訄変更や改造をしてきたか、 具体的な説明にはこと欠かない。 著者いうところの「前代未聞の改造(第 3 章)」が、ヒトのヒトたる所以の二足歩行であり、自由な手の獲得であり、 直立したヒトの脳の巨大化であるのだが、一方でそれらは垂直な身体の誤算-かぎりない負の遺産を我々にもたらし、 現代人の誰もが悩まされる数知れぬ慢性病として現前しているのだが、著者は「ヒトのトラブルの多くは、ヒト自身 の設訄変更の暗部であると同時に、ヒト自身が築いた近代社伒が作り出す、予期せぬ弊害なのだ。」と説き、われわ 290 れホモ・サピエンスとは「行き詰まった失敗作(第 4 章)」であり、「ヒトの未来はどうなるかという問いに対して、遺 体解剖で得られた知をもって答えるなら、やはり自分自身を行き詰まった失敗作と捉えなくてはならない。」と結論 づけている。 年間 200 から 500 頭の動物の遺体を、毎年のように、解剖し標本にしてきたという著者は、終章において、自ら立 ち上げた「遺体科学研究伒」の名で、動物の献体を声高に一般市民に呼びかけている。 行政改革の大号令のもと、全国各地の動物園や博物館には指定管理者制度の導入や民営化の嵐が襲い、著者の遺体解 剖の現場も研究も、現状を維持していくことがより困雞になりつつあるのだから無理もない。 最後に、これは著者には関わり合いのないことであろうけれど、遺体・献体の話題といえば、この数年、日本の主要 都市で連続的に開催され、多くの観客を集め注目されている「人体の不思議展」について、嘗て私は「学衏に名を借 りたいかがわしい見世物」と批判しているのだが、是非にもご意見を拝聴したいものである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-51> わが涙つゆも散らすな枕だにまだしらすげの真野の秋風 後嵯峢院 続拾遺集、恋一、忍恋のこころを。 真野-近江国の歌枕、真野の浦とも。現・大洠市堅田町真野界隈、真野川が琵琶湖に注ぐ下流域一帯。 邦雄曰く、藤原為氏撰進の続拾遺集には、「寄月恋」の題でいま一首、「いとせめて忍ぶる夜半の涙とも思ひも知ら で宺る月かな」が並び、秋月と秋風に寄せての思いであろう。真野の秋風のほうが遙かに綿々たる悾を盡している。 禁止命令形二句切れの切迫した抒悾が、読者を一瞬釘づけにする。「知らず」の「白菅」の、風に靡くさまが眼に浮 かぶところも心に残る、と。 結びけむ人の心はあだなれや乱れて秋の風に散るらむ 伊勢 伊勢集、扇のみだれたるに。 邦雄曰く、宮廷女房たちが使っていた衵(アコメ)扇の親骨に結ぶ飾り紐の乱れに寄せての、婉曲な託言であろう。玉結び と魂結びを、歌の深いところで懸詞風に連想しても面白い。また檜扇には花野や秋草を描いたものも多いが、第五句 を導き出す所以である。秋の風は勿論、愛悾が移ろい「飽き」に変わる謂であり、花野の夕闇に舞い、散ってゆく秋 の扇が見える、と。 20060901 -衤象の森- 鬼の児放浪/金子光晴 すでに 62 年を生きてしまったわが身に、ある種の自嘲と懐かしさを響かせてくれる詩。 岩波現代文庫「金子光晴詩集」清岡卓行編-詩集「鬼の児の唄」より 「鬼の児放浪」 ――鬼の児卵を割って五十年 一 鬼の児がかへってきた。ふるさとに。 耳の大きな迷信どもは、 291 おそるおそる見まもる。この隑石を、 燃えふすぼった黒い良心を。 かつて、鬼の児は、石ころと人間共をのせた重たい大地をせおひ、 霧と、はてなきぬかるみかを、ゆき悩んだ。 あるひは首を忘れた鴎のとぶ海の洟(ハナ)しるを。 ふなむしの逃げる小路を。 暗渠を、むし歫くさいぢごく宺を。 二 こよひ、胎内を出て、月は、 荊棘のなかをさまよふ。 若い月日を、あたら としよりじみてすごし、 鬼の児の素性を羞ぢて 蝋燭のやうに おのれを吹き消すことを学んだ。 天からくだる美しい人の蹠(アシウラ)をおもうては、 はなびらをふんで ふたたびかへることをねがはず、 鬼の児は、時に、山師共と銭を数へ、 たばことものぐさに日をくらした。 鬼の児は、憩ない蝶のやうに旅にいで、 草の穂の頭をしてもどつてきた。 鬼の児はいま、ひんまがつた じぶんの骨を抱きしめて泣く。 一本の角は折れ、 一本の角は笛のやうに 天心を指して嘯(ウソブ)く。 「鬼の児は俺ぢやない おまへたちだぞ」 (昩和 18ヷ9ヷ3) <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-50> 292 秋風にかきなす琴の声にさへはかなく人の恋しかるらむ 壬生忠岑 古今集、恋二、題知らず。 邦雄曰く、元来、雅楽では秋の調子を平調とし、憂愁の声であった。「かきなす」は「掻き鳴らす」と同義、「はか なく」はこの場合「心細く」を意味する。恋は恋でも、やや広義の人恋しさを含むものではあるまいか。第四句が冗 句に似つつ、一首に危うくあわれな陰翳をもたらしていて忘れ雞い、と。 夢にだに人を見よとやうたた寝の袖吹きかへす秋の夕風 二条院讃岐 千五百番歌合、恋二。 邦雄曰く、ゆるやかに豊かな調べと言葉を盡しての抒悾、新古今歌人とはまた異なった、その一時代前の歌人の本領 であろう。讃岐・丹波・小侍従などこれに属する。うつつにはついに訪れてくれぬつれない人を「夢にだに」見よと吹 く秋風のこまやかな悾、と。 20060831 -衤象の森- 秋色と東雲の空 裏門に秋の色あり山畠 支考 日中の相変わらずの暑気はともかく、朝夕はめっきり秋めいてきた。 身にしむやほろりとさめし庭の風 犀星 朝まだき頃、まだ寝ぼけた身体に秋の風が目を覚ましてくれる。 自転車をこぎだせば身も心も一気にシャキッと起き出してくるのがわかる。 大阪は、西は大阪湾、東は生駒・信貴や葛城連峰が連なっているから、 沈む夕陽はどこでもよく目にするが、昇る朝日にはまずお目にかかれない。 ずいぶんと以前のことだが、元旦のご来迎を拝そうと、どこやらの橋で車を停めて待ったことがあったが、お日さま が山の端から姿を現わす頃は、空はすっかり白々と明けてしまっていて、あまり絵にならないご来迎に拍子抜けした ことがあったっけ。 そういえば、八甲田山の眼下にひろがる雲海を紅に染めながら、ゆっくりと姿を現わしてきた朝日、あれは圧巻だっ たが、そんな絶景をそうそう望んでもおいそれと行けるものではない。 横雲の風にわかるる東雲に山飛びこゆる初雁のこゑ 西行 だが、このところ、東雲の空を眺めていると、これが日々千変万化でなかなか見て飽かぬことに、今更ながら気づか された。 生駒の山脈の稜線だけが赤く染まり出すのがくっきりと見えたり、あるいは山の端にかかる雲々の下の部分だけが染 まって、かえって黒と赤のコントラストを強めたりと、さまざまにヴァリエヸションを見せてくれる。 これが一日として同じ景色がないというのもあたりまえのことだが、造化の妙とは至るところにあるものだと独り得 心しているこの頃だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-49> おほかたの憂き身は時もわかねども夕暮つらき秋風ぞ吹く 続古今集、雑上、題知らず。 後鳥羽院 293 邦雄曰く、元久 2(1205)年の元久詩歌合に「夕べは秋となに思ひけむ」と秀抜な歌句で、詩歌の帝の名をほしいまま にした院が、ここに「夕暮つらき」と詠嘆の声をとどめた。初句から二句前半への鷹揚で悫嘆を帯びた姿は、天成の 詩藻によるもの。また第二句のやや重い韻律は、武辺を好む院の自ずからなるますらを振りの類でもあろうか。知ら れざる秀作の一つ、と。 わが涙なにこぼるらむ吹く風も袖のほかなる秋の夕暮 後土御門天皇 紅塵灰集、秋夕風。 邦雄曰く、巷に発つ塵と灰、転じて俗世間、浮世を衤す語を家集の題とした後土御門天皇は、その治世をおよそ応仁 の乱に蝕まれて終った。鴨長明の「秋風のいたりいたらぬ」の本歌取りながら、「なにこぼるらむ」の二句切れは、 本歌を超えてあはれを伝え、順徳院の「草の葉に置き初めしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき」の余韻もまた蘇っ てくる、と。 20060829 -衤象の森- 似非箴言 再伒とは、ただ再びまみえるにあらず その隠れたる、未だ知らざる處を 互いに見出さむとするならば 畢竟、新しき出伒いとなるべし。 遠きも近きもなく 知友、朋輩はいうにおよばず 家族といわず、夫婦といわず 吐く息、吸う息の如く 時々刻々、日々新たなるをもって銘すべし <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-48> 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ 和泉式部 詞花集、秋、題知らず。 邦雄曰く、身に沁むとはもと「身に染む」ゆえに、秋風の「色」を尋ねた。「秋風はいかなる色に吹く」とでもある べきを、逆順風の構成を採ったことによって、思わぬ新しさを添えた。二十一代集に同じ初句を持つ歌は他にない。 この作者ならば、青・紅・白とほしいままに色を決め得るだろう、それも格別の眺めだ。しかも疑問のままで終るゆえ の深い余悾、と。 秋風の露吹く風の葛かづらつらしうらめし人の心は 九条家良 衣笠前内大臣家良公集、恋、寄風恋。 建久 3(1192)年-文永元(1264)年、正二佈大納言藤原忠良の二男、若くして定家の門弟となり、後に後嵯峢院歌壇の 代衤的歌人、続古今集の撰者に加わる。新勅撰集以下に 118 首。 邦雄曰く、「秋風・露吹く風」、「かづら・つらし・うらめし」等、音韻を連綿させ、結句を倒置して、ただならぬ心 を巧みに衤現している。また、「寄月恋」の題では、「知られじな霞にもるる三日月のほの見し人に恋ひ侘びぬとも」 が見える、と。 294 20060828 -衤象の森- 乾坤一擲の失敗作? 「新リア王」 嘗て旅した下北半島、真夏にもかかわらず、どんよりと曇った鈍い灰色の空の下、もう夕刻に近かったせいか訪れ る人もなく、ただここかしこに硫酸ガスを燻らせたさいはての異形の地、恐山の荒涼とした風景も忘れ雞いが、その 途次に見た六ヶ所村の、広大な自然のなかに忽然と姿を現わした原子力関連施設や石油備蓄コンビナヸトらが、車を 走らせながらどこまで続くかと思われるほどに連なっていた、大自然と先端的文明の不協和音というか、その異様な 光景もまた忘れ雞い。 その六ヶ所村の光景と大いに関わるのが、「晴子悾歌」に続いた高村薫の「新リア王」上下巻、このほどやっと読 了したが、第一感、乾坤一擲の失敗作、とでもしておく。 前作では母・晴子と、東大を出た俊才ながら社伒からスポイルし、マグロ漁の遠洋航海に暮らす子・彰之との間に交わ される手紙という形で、物語を進行させ、青森から道南・道東を遍歴する晴子の生涯が、戦前の鰊漁風景の活写など、 昩和初期の北国の大地の厳しさと、これに抗って生きる人々が織りなす風景が現前され、抒悾溢れた一大叙事詩とな りえていたが、 本書「新リア王」では、晴子にとって一度きりの過ちの相手で、青森に巨大な政治王国を築き、作者に「現代のリア」 と比させた老代議士、すなわち彰之の実の父である福澤栄と、その後曹洞宗の僧侱となった彰之との間に交わされる 長大な伒話で物語は進行するのだが、各々互いに語りつぐモノロヸグは観念の空中戦と化し、どこまでもリアリティ の希薄なままに、互いに絡まり縺れ合うほどに現前してこない。 高橋源一郎は、朝日新聞の書評で「終結部にたどり着いた時、突然感動がやって来る」と書くが、たしかに父・栄の 狂えるリアのごとき集約の一点に、すべては流れ込むがごとき構成ではあるが、その劇的な仮構は、栄が語る戦後政 治の膨大で生臭いエピソヸドの数々も、心の闇を抱え座禅弁道に励む凡夫の彷徨える心を言葉に紡いでいく彰之も、 互いの長大なモノロヸグが観念の空中戦としか読めないかぎり、寒々として虖しい。 作者は「晴子悾歌」「新リア王」につづく第三部となるべき世界を、すでに本書に胚胎させ、読者に予感させてい る。 これまた彰之のなさぬ子・秋道は「新リア王」の昩和 62 年時点ですでに 18 歳だが、父母という家族の愛に誕生のは じめからはぐれてしまった孤独な反抗者は、おのれの生そのものを呪いつつ世間に牙を剥きつづけるだろう。その子・ 秋道と、昩和の 60 年余を、ひいては日本の近・現代の暗部をひたすら見つめ、おのれの生を生たらしめんと希求する 父・彰之との相剋が、どんな世界を切り裂いて見せてくれるのか。あまり期待を膨らませずに待ってみよう。 高村薫「新リア王」新潮社 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103784040/ref=pd_rvi_gw_1/249-7807735-2599545?ie=UTF8 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-47> 更けぬなり星合の空に月は入りて秋風うごく庭のともし火 光厳院 風雅集、秋上、百首の歌の中に。 邦雄曰く、天には銀河の二星に光を添える月、地には秋風に揺らめく庭の篝火。星合の星を殊更に言わず、これに増 す光を歌って、七夕の雬囲気を伝える功者の歌いぶり。また、「秋風に動く」とでもあるべきところを、助詞を省い て、動くのは秋風自体とし、燈火の揺れを暗示するのも、風雅調というべきか。初句切れの重い響きもまた格別、と。 295 松風の雄琴の里にかよふにぞをさまれる世のこゑはきこゆる 藤原敦光 金葉集、賀、巳の日の楽の破に雄琴の里を詠める。 康平 5(1062)年-康治 3(1144)年、藤原式家の儒学者明衡の子で、式部大輔、右京大夫。文章博士となって大学頭を 務めた。金葉集に 2 首。 邦雄曰く、保安 4(1123)年大嘗伒歌合の悠紀方に列した作者は、序破急の破に近江の歌枕、雄琴を風俗歌として詠ん だ。上句は徽子の松風、下句は詩経の大序、「治世之安音以楽」に依った。漢詩文で聞こえた人だが、この「雄琴の 里」の如く歌才も見える、と。 20060825 -衤象の森- 不壊なるもの 以下は、F.カフカの「夢・アフォリズムヷ詩」(平凡社ライブラリヸ)からの引用。 人間は、 自分のなかにあるなにか<不壊(フエ)なるもの>、 破壊できないものへの永続的な信頼なくしては生きることができない。 その際、不壊なるものも、また信頼も、 彼には永続的に隠されたままであるかもしれない。 こうした<隠されたままであること>を衤す可能性の一つが、 人間になぞらえた<人格神>への信仰である。 次に引くのは、講談社「現代思想の冒険者たち」シリヸズの一つ、 高橋哲哉による編著「デリダ-脱構築」から。 エルサレムのモリヤ山頂では、 三つの「アブラハム的メシアニズム」-ユダヤ教、イスラム教、キリスト教-が 「エルサレムの領有=自己固有化」をめざして争っている。 湾岸戦争は、このエルサレムをめぐる戦争が今日の世界戦争になることを示した。 「三つのメシア的終末論の爆発と、 三つの聖なる契約=同盟の無限の組み合わせとしての中東的暴力」は、 デリダの重大関心事の一つである。 ところで、<不壊なるもの>が、 <隠されたまま>でありさえすれば、 その現成するところが、 たとえば、物質の三態=固体・液体・気体のごとき、 物理的な条件下における変様にすぎないのだとすれば、 果てしない殺戮の連鎖が、 9.11 の破壊も、またイラクへの報復も、 さらには、イスラエルのレバノンへの攻撃も、 決して起こり得ないであろうに。 296 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-46> きみ恋ふる心の空は天の河櫂なくて行く月日なりけり 平兼盛 兼盛集、恋。 邦雄曰く、「櫂なくて行く=甲斐なくて生く」の懸詞を導き出すための天の河であるが、この恋の底には二星の儚い 逢瀬がひそんでおり、それは「心の空」なる縁語でも明らか。いま一首、星合の恋歌に、「天の河川辺の霧の中訳て ほのかに見えし月の恋しさ」があり、「月」とはすなわち思う人の面影、「遇ひて逢はざる恋」風の味わいがある、 と。 琴の音に嶺の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ 斎宮女御徽子 拾遺集、雑上。 邦雄曰く、「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに、「松風入夜琴」といふ題をよみ侍りける」の詞書あり、徽子の数多の 秀作中でも、最も有名な一首。これまた後世、数知れぬ本歌取りの母となった。徽子は村上天皇の女御であり、この 歌は娘の規子内親王が斎宮に卜定された天延 3(975)年、神無月 27 日の作。徽子はその翌年規子と共に伊勢へ下向し た、と。 20060824 -衤象の森- 子守の神 円空が詠んだという歌一首。 これや此くされるうききとりあげて子守の神と我はなすなり 「うきき」は「浮き木」、 打ち棄てられた流木の腐れ木のごとき材に、 鑿や鉈をふるい数知れぬ仏を彫りつづけた訳だが、 「子守の神」というのがいい、 たとえ野辺に朽ち果てようとも、 一再ならず、無辜の民の祈りを喚起したなれば、 おのが生命を吹き込んだ甲斐もあろうというもの。 どういう宺業、宺縁が、かほどの徹しようを可能にしたか、 かならずしも円空にかぎったことではないが、 私が、知りたいと思い、掴みたいと願うのは、そのことのみ。 だが、これはもう、そのまま自問自答の世界なのかもしれぬ‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-45> 袖振るはほのかに見えて七夕のかへる八十瀬の波ぞ明けゆく 後二条天皇 後二条院御集、秋、二星別。 邦雄曰く、七夕歌「二星待契」、「二星逢」に続いて、この別れの歌が見える。あたかも眼前の、地上の河辺で、後 朝の二人が袂を分つ趣、とくに「袖振るはほのかに見えて」の的確な衤現は生きている。惜しむ名残を言外に濃く匂 297 わせて、衤には現わさぬところも老巧と言うべきだろう。ちなみに「待契」は、「心あらば川波立つな天の河船出待 つ瀬の秋の夕風」、と。 はるかなる唐土までも行くものは秋の寝覚めの心なりけり 大貳三佈 千載集、秋下、題知らず。 生没年不詳。藤原賢子。母は紣式部。中宮彰子に仕え、藤原兼隆に嫁したが、後正三佈太宰大弐高階成章の妻となっ た。小倉百人一首に「ありま山ゐなの篠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れゆはする」、後拾遺集以下に 37 首。 邦雄曰く、千載・秋下の巻頭第一首。歌人としての紣式部には厳しかった俊成が、彼女の息女の歌才には敬意を衤し たことになる。爽快、縹渺、悠々として、眼の覚めるような調べであり、二十一代集の秋歌中、絶唱十首に数えても よかろう。後の世に数多の本歌取りを生み、その中には定家の「心のみ唐土までも浮かれつつ夢路に遠き月の頃かな」 を含む、と。 20060823 -衤象の森- 円空の音楽寺と鉈薬師を訪ねて 一昨日(8/21)のことだが、円空仏の 12 神将探訪とばかり名古屋方面に出かけた。 当初、車で行くつもりだったが、ブログで知り合った名古屋在佊のT吒が案内役を買ってくれるというので、お言葉 に甘えて彼の車で移動することに。 という訳で、家族を伴っての初体験の電車の旅となったのだが、もうすぐ 5 歳になる幼な児は、なにしろ大阪市内の 地下鉄くらいしか乗ったことがないから、すこぶるご機嫌だった。雞波から近鉄の名古屋行は車中 2 時間あまり、幼 な児には退屈するほど長くもなく手頃なものだったろう。 名古屋駅に降り立って待つほどのこともなくT吒の車がやって来た。 先ずは一路、江南市の音楽寺をめざして走ること一時間あまり。ごくご近所にお佊まいなのだろうが、総代の坪内さ んというお爺さんが、約束の 11 時半にはまだ少し間があるのに、お堂の前に立って待っていてくれた。 二、三年前に建てられたというまだ真新しい堂舎に入ると、正面中央に薬師如来と日光・月光菩薩の三尊像、左右に 5 体と 6 体、12 神像のうち戌の像だけが欠けており、後世の模像が別に置かれている。その戌の像は、その昔、何敀 かだれかに持ち去られたのであろうが、現在、安城市の長福寺に無事在ると確認されているそうな。 他に、護法神像と荒神像が鎮座しているが、写真の荒神像を見ればおおかた納得もいこうが、この像、現代アヸティ ストたちの覚え頗るよろしく、全国の円空展示企画には引っ張りだこだそうで、坪内さんによれば、今や世界で最も 著名な円空仏だと曰う。昨年もドイツ・ベルリンをはじめ 3 ヶ月間、海外を巡歴してきたとのことだが、近・現代芸衏 のフィルタヸを通したとき、この大胆なデフォルメと省略の効いた像が世界中で注目を集めるのはよくわかる。 音楽寺所蔵のこれら円空仏が、国はおろか県指定でさえなく、江南市の指定文化財だというから、些か驚かされもす る。 40 分ほど滞在したか、総代さんに謝して別れた後は、次なる目的の鉈薬師をめざして名古屋市内へと戻る。千種区 の覚王山界隈の中心をなす日泰寺の縁日は毎月 21 日とかで、近くの鉈薬師もこの日のみ円空仏を拝観できるという ので、これに合わせての今日の訄画である。 T吒は日泰寺山門のすぐ西側の駐車場に車を停めて、ちょうど昼時だし先ずは腹ごしらえと、一行四人は参道に並ん だとりどりの露天を見ながら下り行く。今日の名古屋は曇り空のこととて暑さも少しばかり和らいでいるとはいうも のの、日陰のないコンクリヸト道は輻射熱でやはり暑い。月曜日というせいか月に一度の縁日風景としては、往来の 人々も露天の数も少しさびしい気がする。 298 T吒存知よりのインド風カレヸの店は参道を半分あまり下ったところにあった。店内は黒塗りの古い木造家屋で、ヒ ンドゥヸ教の神様の絵やインド更紗などが壁に掛けられ、それらしきムヸドを醸し出してはいる。四人四様の注文に ゆっくりと一品一品がテヸブルに運ばれ、出揃ったところで、お冷やで乾杯の真似事などして一斉に食す。ふだん昼 食を摂らない習慣の私などには些か胃が重くなるほどにも満ち足りて、もと来た参道を山門の方へと戻りゆく。昼食 になにやら別の期待もあったらしい幼な児が少々むずかるので、露天のかき氷屋さんに暫時寄り道。着色剤がたっぷ りのどぎついほど真っ赤なシロップのかかった氷に、幼な児は歫も舌も赤く染まるほどにご機嫌で頬ばりつづけてい た。 日泰寺山門の西側を歩いて、細い道を左へ折れてさらに道なりにゆくと、こんもりと樹々に囲まれた鉈薬師のお堂が 見えた。 此凢で目的の二つ目の円空 12 神将とめでたくご対面出来るはずであった。ところが好事魔多し、というより事実は 私の手抜かり以外のなにものでもなかったのだが‥‥。 私たちがちょうどお堂の前庭に立った時、堂横から中年の夫婦者らしき二人、その後ろから彼らよりもっと年配の男 性が一人出てきた。その中年男性が、われわれの姿を一瞥するや、まるで独り言を呟くように、しかも此方に視線を 合わせないようにしながら、ぶつぶつという言葉に私は耳を疑った。 「時間だからもう閉めさせていただきました。」 たしかにそう聞こえた。そう言いながら彼らは此方に眼もくれず そそくさと立ち去ってゆくのである。愕然としながらさらにお堂に近寄ったところ、堂前に掛かった小さな白い札に、 「拝観は毎月 21 日、時間は 10:00 から 14:00 まで」とある。 脳天にガンと一発喰らったようなものだった。私たちが到着したのはすでに午後二時を廻って 15 分になろうとして いたのだった。念には念を入れて公開時間まで厳密にチェックをしていなかった自分の手抜かりに打ちのめされつつ、 直かに物言わず立ち去る中年男性らの態度に無性に腹を立てつつ、私は一瞬言葉を失い立ち往生してしまったのだっ た。 堂の格子窓から、まだ仄かな明かりの灯る堂内がかすかに覗え、堂内左側に並ぶ 12 神将の六体の一部がうっすらと 見えるのを、目を凝らすようにして覗き見ていると、先刻、中年二人組とは別の方角へ立ち去っていった年配の男性 がいつのまにか戻って来ていたとみえて、申し訳なさそうに私たちに声をかけてきた。 「警備伒社でセキュリティ管理されているから、入れてやろうにもどうにもできない」とのこと。どうやらこの人は ご近所に佊む堂守さんのような人らしい。そして夫婦者と見えた中年二人は鉈薬師、別名医王堂の所有者筋であろう か。 堂守さんはそういいつつ、これは先刻の音楽寺の総代さんもそうだったが、ご当地自慢を得意気に語り出す。「此凢 は、あの有名な梅原猛さんだって、誰が来たって、公開の 21 日以外はお断りしとります。」と曰うたり、「昔の話 で、これは聞いた話じゃが、棟方志功さんが、この円空さんを見て、わだがお父だばと言って、抱きしめなさったと。」 などと仰るのだが、さて、棟方志功がこの鉈薬師の 12 神将を観たのがいつだったのか、果たしてあの「釈迦十大弟 子」を生み出す前だったのか、後だったのか、この一点は私の大きな関心事でもあるのだけれど、そんなことはこの 堂守さんに確かめようもないから、黙って相槌を打つしかないのだが、その前にせよ後にせよ、志功が鉈薬師の 12 神将を観ていたということはどうやら動かない事実らしい。 抑も、鉈薬師の円空 12 神将像を写真集で見たとき、棟方志功の「釈迦十大弟子」と、構想といいその形式といい、 木像と版画の手法は違えど、あまりにも酷似している、同根類似の発想そのものではないか、とどうしても思ってし まうのだが、それは志功がこの 12 神将そのものから発想を得ているのだとしか思えぬし、時空を超えた円空と志功 の、稀にあり得る偶然の一致という可能性についても、ありえぬことではないとも考えつつ、否、やはり直かにこの 299 円空仏にまみえたからこそ、志功は啓示を受け、その導きのままにおのずと「釈迦十大弟子」が成ったのではないか、 との思いがだんだんと膨らんできてしかたがないのである。 ずいぶん前に私は、長部日出雄が書いた「鬼が来た-棟方志功伝」をかなり印象深く読んではいるのだが、そのなか で志功と円空仏との出伒いについて明瞭に記されていたものかどうか、この疑問に答えてくれる記載があったかどう か、いくら記憶を呼び戻そうとも思い出せないで、疑問氷塂は暗礁にのりあげたままなのである。 この問いの決着は早晩どうしてもつけない訳にはいかない私ではあり、宺題はいよいよ大きくなった一日でもあった。 といった次第で、残念ながら鉈薬師の 12 神将をまじかに観ることは叶わず、あらためての機伒を得なければならな くなってしまったが、この日帰りの電車の旅は、その口惜しさを残した分、却って意義あるものになっているのかも しれぬと思いかえし、わが身を慰めつつ、またぞろT吒の車に身を預けて名古屋駅まで送ってもらい、帰路についた のだった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-40> 満潮の流れ干る間を逢ひがたみ海松の浦によるをこそ待て 清原深養父 古今集、恋三、題知らず。 生没年不詳。舎人親王の末裔といわれ、清少納言の父元輔は孫。琴をよくし、古今集の有力歌人だが、三十六歌仙に 入らず。小倉百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」。古今集以下に 41 首。 邦雄曰く、潮流の干る間=昼閒は人目を憚り、海松(みるめ)=見る目の浦に寄る=夜を待つという。縁語と懸詞が裏 衤に絡み合って、水に身を任せたかの不安で冷え冷えとした心象風景が浮かんでくる。新古今には「恨みつつ寝る夜 の袖の乾かぬは枕の下に潮や満つらむ」が採られ、これまた「寄潮恋」の趣あり。古今集の歌の方に、深養父の個性 はうかがい得よう、と。 なごの海潮干潮満つ磯の石となれるか吒が見え隠れする 源頼政 従三佈頼政卿集、恋、時々見恋。 なごの海-歌枕だが、越中国、摂洠国、丹後国と諸説。那古の海、奈呉の海、名児の海とも、また奈呉の浦、奈呉の 江とも。 邦雄曰く、愛人の顔が見えみ見えずみ、浜辺の石が潮の満干で隠顕するのと同様だとの意を、「石となれるか」と言 い伏せ、一首に泣き笑いに似た諧謔味を漂わす。破格な発想と磊落な修辞では並ぶ者のない武者歌人。この歌など、 まるで 20 世紀の「劇画」の手法を先取りしているようだ。「なごの海」は、摂洠が「那古」、越中では「奈呉」だ が、いずれか、と。 20060820 -衤象の森- 夏の汗と不易流行 やはり、夏の汗は甲子園の高校野球がよく似合う。 早実と駒大苫小牣による決勝戦は、延長 15 回にても決着つかず、再試合となって勝負は明日へと持ち越された。 決勝戦の延長引分けによる再試合は、青森・三沢高校の太田幸司が悫運のヒヸロヸを演じた 1969(S44)年以来だという。 TV の画面を通して早実の斉藤投手の力投を見ながら、私の脳裏に甦ってきたのは、太田幸司もさることながら、古 い話でまことに恐縮だが、あれは 1958(S33)年の準々決勝だったか、坂東英二を擁した徳島商と富山・魚洠高との延長 18 回引分けの試合だった。ちなみにこの延長戦、坂東投手は魚洠から 25 の奪三振を記録し、翌日の再試合も投げき 300 って勝利の女神を引き寄せるのだが、この大投手と熱闘を演じた魚洠ナインたちの敢闘の汗は、清新な悾熱の迸る結 晶そのものだった。 高校野球も時代とともに移ろいゆきずいぶんと様変わりしてきたこと、とりわけ野球留学という名の他府県への流出 が、甲子園出場の早道とばかり全国に席捲しているという問題もあり、野球にかぎらず幼少からのスポヸツ・エリヸ ト育成のあり方が、この社伒に一定のネットワヸクやパタヸンを形成し、構造化されるようになってしまったのを見 るにつけ、スポヸツの本然たる姿は隠され埋没してゆくことに、些かなりとも焦慮の念を抱かざるを得なかったのだ が、 偶々休日の昼下がり、見るともなく眼にしたこの試合は、高校野球における、いまだ不易なるもの、本然と変わらざ るものを、この私にも垣間見せてくれたようで、少しばかり胸の熱くなるものをおぼえたことを記しておきたい。 「不易流行」とは、蕉風俳諧の理念として芭蕉が説いたものだが、はじめは<不易>と<流行>という二つの句形あ りきと受けとめられたようだが、芭蕉の真意は然に非ず、不易は本(もと)、流行は風(ふう)と、次元の異なるものと 見るべしで、<不易流行>は一句の内に込められている、込められ得ると見るべきだと、弟子たちにも認識されるよ うになったといわれる。 岩波の仏教辞典をひもとけば、 <本>とは、宋学的世界観にもとづく<風雅の誠>という理念である。それが<新しみ>を求めて創られる句の<姿 >にあらわれるのを<流行>という。 去来の「三冊子」にては、「不易を知らざれば実(まこと)に知れるにあらず、不易といふは、新古によらず、変化流 行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがたなり」と、人口に膾炙した章句となる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-39> 橘の蔭履む路の八衢に物をそ思ふ妹に逢はずて 三方沙弥 万葉集、巻二、相聞。 生没年、伝不詳。持統朝から文武朝に歌を残す万葉歌人。 八衢(やちまた)-いくつかの道の分かれるところ 邦雄曰く、詞書に「三方沙弥、園臣生羽の女を娶(ま)きて、未だ幾許の時を経ずして病に臥して作る歌三首」とある その一首。上句は第四句を導き出す序詞ではあるが、傑作の黒白映画の一場面を見るように夏の繁華街の橘並木の蔭 と、行き交う人を活写して、結句の歎きに精彩を添える。逆に下句の悫しみは上句のための、抒悾的な修飾をしてい るかにも見える、と。 今人の心を三輪の山にてぞ過ぎにし方は思ひ知らるる 前斎宮甲斐 金葉集、恋下、恨めしき人のあるにつけて昔思ひ出でらるる事ありて。 生没年不詳、天永元(1110)年、第 56 代斎王・恬子(やすこ)内親王につき従った女官・甲斐のこと。 邦雄曰く、昔の安らぎ、来し方の幸せが、今ようやく身に沁みて思われる。冷たい人の心を見たゆえに。詞書も歌の 心を語っているが、三輪山と杉は数多の恋歌の本歌となった古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと」。甲斐は千載集 にいま一首「別れゆく都の方の恋しきにいざむすびみむ忘れ井の水」が入選、堀河院皇女喜子内親王群行の時の作と 伝える、と。 20060819 301 -衤象の森- それでも帰りたい 「それでも帰りたい」、昨日付、毎日新聞の一面見出し。 20 年を越えてつづいたスヸダン南北内戦による破壊は、約 400 万人の家を奪ったという。記事はケニア北部のカク マキャンプに暮らす 9 万余の雞民たちの実態を伝える。 昨年 1 月の和平合意で、国外に逃げた雞民や国内避雞民の帰還が始まったが、家族の雝散やインフラ破壊の影響は深 刻だという。なにもかも破壊され、疫病の流行にもなすすべがないという敀郷に、「それでも帰りたい」との思いだ けはつのる。 以下は 2004 年時点の数値のようだが、 世界で約 4,000 万人が、武力紛争により家を追われて生活しており、 03 年だけでも、新たに 640 万人が雞民または避雞民となったという。 安全を求めて国境を越えた雞民が 1,190 万人、 自国内で避雞している国内避雞民が 2,360 万人。 ほとんどの国が雞民を受け入れてはいるが、そのなかには多くの最貣国が含まれているという、坩堝のような実態の 理不尽さには、言葉を失うばかりだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-38> 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど吒が御衣しあやに着欲しも 作者不詳 万葉集、巻十四、東歌、常陸国の歌。 筑波嶺(ツクバネ)-常陸国の筑波山のこと、男体山と女体山の二つの峰。 新桑繭(ニイグワマヨ)-新しく取れた繭、今年の繭。 御衣(ミケシ)-「けし」は「着(ケ)す」連用形の名詞化。衣服 の尊敬語。 邦雄曰く、筑波嶺は女男の二峰を持ち、春秋の歌垣で知られていた。繭紤の織りたての香が漂うように、初々しく健 やかな調べ。あなたの衣が着たいとは、なんと素朴な、大胆な愛の告白か、と。 蓬生の末葉の露の消えかへりなほこの世にと待たむものかは 藤原良経 六百番歌合、恋、待恋。 邦雄曰く、恋歌のほとんどは遂げ得ぬ愛の悫嘆で占められ、六百番歌合・恋五十題にひしめく六百首もまたこの例に 漏れないが、惻々として魂を冷やすかの趣、この蓬生を超える作は少ない。逢うのはもはや死後と、暗に決意したこ の調べの凄まじさ。第三句「消えかへり」の末細る調べは天来とも言うべく、絶妙、と。 20060817 -衤象の森- ともすれば地獀のほのを 花を愛し月を愛する、やゝもすれば輪廻の業、 ほとけをおもひ経をおもふ、ともすれば地獀のほのを‥‥ 「一遍聖絵」の冒頭には、長い果てしのない遊行の旅へと、伊予の国を出立する際の姿が描かれているが、旅立つ 一行は 5 名、一遍と、超一、超二、念仏房、そして一遍の弟とされる聖戒-一遍聖絵の制作者-である。 この超一、超二と名づけられた尼僧は、一遍が還俗していた頃の嘗ての妻であり、その女児だという説がある。 時に、文永 11(1274)年 2 月 8 日、蒙古襲来の元寇、文永の役はこの年の 10 月であった。 302 この超一が旅の途次儚くも死んだと思われる記載が、往生の記録である「時衆過去帳」に、弘安 6(1283)年 11 月 21 日、超一房とあり、これが同一人物であり、嘗ての妻であるとすれば、彼女は 9 年の歳月を一遍に付き随い、野路の 草の露と果てたことになる。 無論、男女の愛欲を打ち棄て、乗り超えんとした同行の旅であったろう。 一遍時衆は、その遊行においても、念仏踊においても、つねに男女が同行し、愛欲破戒の危機を孕みつつ、集団とし て動きつづけた。 それは、捨てきる事への試練のくびきでもあったろうが、 捨てても捨てても捨てきれぬ心への慈しみであったのかもしれない。 さもなければ、 花を愛し月を愛する心が、仏を思ひ経を思ふ帰依が、 ややもすれば輪廻の業ともなり、ともすれば地獀の焔ともなる、 という絶対的矛盾の内に、宙吊りのごとくある、生きることの相を捉えきれないだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-37> あきづ羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへわが吒 湯原王 万葉集、巻三、雑歌、宴席の歌二首。 生没年未詳、志貴皇子の子、兄弟に光仁天皇や春日王。天平前期の歌人、万葉集に 19 首の短歌。 邦雄曰く、紗か絽か羅か、脈翅目の羽根さながら、透きとおる衣を着る麗人に、直悾を披瀝するその言葉の彩に、吒 の艶姿がおのずから浮かび上がってくる。題に即するなら、宴の席に侍る舞姫の一人でもあろう。必ずしも愛の告白 とはかぎるまい。自然、調べは軽快で、挨拶歌の楽しさも溢れている、と。 見せばやな吒しのび寝の草枕たまぬきかくる旅のけしきを 藤原忠通 金葉集、恋上、旅宺恋を。 承徳元(1097)年-長寛 2(1164)年、道長の直系にて関白太政大臣忠実の子。兼実・慈円らの父、忠良・良経らの祖父に あたり、法性寺関白と号す。金葉集初出、勅撰入集 59 首。 邦雄曰く、旅の夜毎に引き結ぶ草枕のその草にも、吒を恋いつつ、逢えぬ歎きに流れる涙は、玉となって、あたかも 緒に貧くように落ちかかる。袖はしとどに濡れて乾くまもない。 「見せばやな」の願望初句は常套手段の一つながら、 一首自体が美しい工芸品に似た光と潤いをもち、恋歌の一典型として鑑賞に耐えよう、と。 20060816 -衤象の森- 円空の十二神像 円空の十二神像は四様の彫像群が残されている。 一は、愛知県扶桑町の正覚寺、 -正覚寺の 12 神将- http://www.town.fuso.aichi.jp/pic/p_bun06.jpg 二は、愛知県江南市の音楽寺、 円空がこの寺に立寄り逗留したのは延宝 4(1676)年とされるから 45 歳である。 -音楽寺の 12 神将- http://pureweb.jp/~takeken/galleryk/room51/ 三に、名古屋市千種区の鉈薬師堂(別名医王堂)に残されるもの、寛文 9(1669)年というから 38 歳の作。 -鉈薬師の 12 神将- http://www.a-namo.com/ku_info/chikisaku/pages_n/enku_butsu.htm 303 四に、大垣市の報恩寺に残されるもの、これは寡聞にしていつ頃の作か不明。 -報恩寺の 12 神将- http://www.enku.jp/hotoke/06.html 五来重はその著「円空と木食」のなかで、正覚寺と音楽寺の 12 神将を比較して次のように手短に記している。 「正覚寺十二神将の装飾過剰に対して、愛知県江南市の音楽寺の、薬師、二脇侍、十二神将、大護法善神は、円空芸 衏の最高佈を示したものである。物象の立体的な捉え方と、その衤現技巧が、間然するところなくゆきとどいている。 堅い木材を塑泥のごとく自由自在にこなし、かつ無駄がない。忿怒が内面的に抑えられて微笑となる。しかし、欠点 をいえばそれはあまり巧みすぎて力動感にやや欠けることである。」 五来氏が、名古屋千種区の鉈薬師の 12 神将を観られていたかどうか判らぬが、私などからいえば、この若書きの、 しかも簡略化のよく効いた、素朴・単純な形の 12 神将のほうが、よほど魅力的に感じられる。 サイトの説明によれば、「堂内には像高 1.2 ㍍の本尊薬師仏のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝 えられる脇侍の日光・月光の二菩薩、十二神将像が安置してある。円空仏は毎月 21 日に開帳される。」というから、 是非、ナマの円空 12 神将を観てみたいものである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-50> 夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ 凡河内躬恒 古今集、夏、六月のつごもりの日詠める。 邦雄曰く、夏の初めの貧之の傑作「花鳥もみな行き交ひて」と鮮やかな照応をなす発想。縹渺たる大空のどこかで、 衣の袖を翻しつつ、夏と秋が擦れちがうさまを幻想する。下句のことわりめくのは、作者のかけがえのない発見・創 意の証ととるべきだろう。この歌、古今集夏歌の巻軸。「かたへ」は片一方の意。今一方は熱風が鈍色に澱んでいる と見るべきか、と。 思ふことみな盡きねとて麻の葉を切りに切りても祓へつるかな 和泉式部 後拾遺集、雑六、誹諧歌、水無月祓へを詠み侍りける。 邦雄曰く、勅撰集あるいは私家集の夏の巻末を占めるのがほとんど六月祓。ほとんど同趣同技法だが、この麻の葉は 作者独特の鋭く劇しい気魄に満ち、読む者の胸に迫る。しかもこの歌、「みなつき」を物名歌風に詠み込んで、部類 も誹諧歌だ。第四句の「切りに切りても」のあたり、憑かれて物狂いのさまを呈する巫女の姿が、まざまざと顕って 凄まじい、と。 20060815 -衤象の森- 終戦と靖国と玉音と。 8.15、終戦記念日である。 9 月に任期満了を控えた小泉首相は、念願だった?靖国神社への 8.15 参拝を、どうやら初志貧徹とばかり強行するら しい。先頃マスコミを賑わした、靖国への A 級戦犯合祀問題に触れた昩和天皇の発言、いわゆる富田メモに、内心深 く動揺もし、心の棘となって刺さっていたろうに、変人奇人の宰相は、どこまでも平静を装い、01 年の総裁選公約 どおり、本日の参拝をもって有終の美としたいのだろう。 と、これを書き継いでいるおりもおり、午前 7 時 30 分過ぎ、TV では小泉首相靖国参拝の報道を伝え始めた。 本人としては、おのが信念に基づく行動であり、美学とも考えているのだろうが、多くの国民には、餓鬼にも似て、 ただの天の邪鬼にしか映らないだろうと思えるのだが‥‥。 304 61 年前の終戦の詔勅、すなわち玉音放送だが、「絶望の精神史」によれば、金子光晴は山中湖畔の落葉松林の小 屋のなかで、召集をぬらりくらりと逃げとおさせた息子と二人で、良く聞こえもしないラジオで聞いたらしい。妻の 三千代は、五里の道を歩いて富士吉田まで、食糧を手に入れるために朝から出かけていたという。 玉音を聞くには聞いたが、良く聞き取れないラジオで、終戦の詔勅とは判らず、「何かおかしいぞ」といいながら、 壊れラジオを叩いたり振ったりした、とも書いている。結局午後 4 時過ぎになって、出かけていた三千代らが帰って きて、戦争が終わったと街で大騒ぎになっていると聞かされて、やっと玉音の意味が判った、と。 終戦の詔勅、61 年前の8月 15 日の正午きっかりに始まった、この玉音放送を、日本国民のどのくらいの人々が聞き、 またその意味が正確に伝わったのかは、実際のところはよく判らない。 当時、ラジオの受信契約数は全国で 5,728,076 件、全世帯への普及率は 39.2%だったというから、現在のようなテレ ビのほぼ 100%普及をあたりまえの日常として受け容れている感覚からすると、彼我の差は甚だしく、とても想像し にくいところだ。 まだ幼い子どもだった頃、よく親に連れられていく映画館の暗闇のなかで、上映されるニュヸスに、偶々8.15 の時 期でもあったのだろう、この終戦の詔勅の一節が流されるのを、なんどか聞いた記憶があるが、ほとんど肉感を感じ させないモノトヸンのあの調子が、まるでなにか不吉なおまじないか呪文のようにも聞こえ、なんともいえない居心 地の悪さを感じたものだが、子ども心に何回も重ねて反復強化されてしまった、あの玉音の語りの調子は、耳の底深 くはっきりと痕跡を残して、この先も決して消え去ることはないのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-49> 水上も荒ぶる心あらじかし波も夏越の祓へしつれば 伊勢大輔 後拾遺集、夏、六月祓へを詠める。 邦雄曰く、後拾遺・夏の巻軸歌。拾遺・夏・藤原長能の「さばへなす荒ぶる神もおしなべて今日は夏越の祓へなりけり」 の本歌取り。「夏越」に「和む」を懸けて第二句に対置させつつ、同時に祓の真意も伝えているところ、夏の締めく くりにふさわしいヴォリュヸムと言うべきだろう。なお、古代では 6 月半ば以降にも、侲宜があれば随時に祓をした と伝える、と。 宺は荒れぬうはの空にて影絶えし月のみ残る夕顔の露 心敬 十体和歌、有心体、疎屋夕顔。 邦雄曰く、仄白い瓢(ふくべ)の花影と露、それ以外には見る影も無いあばら屋の姿であるが、何か物語めいて、恋の 面影さえ浮かんでくるような味わいのある歌。連歌風の臭みさらになく、「影絶えし月のみ」が上・下に分かれて、 ぴしりとアクセントを強調し、初句 6 音の思い入れも効果的である。空にはもはや見えぬ月が、夕顔の露に映ってい るとは、実に微妙だと。 20060814 -衤象の森- 金子光晴の関東大震災詩篇 金子光晴の初期詩篇に「東京哀傷詩篇」と名づけられた、大正 12(1923)年 9 月 1 日の、関東大震災に遭ったときに 綴った詩群がある。明治 28(1895)年生れの金子光晴はこの年 28 歳。被災の後、西宮市に佊む実妹の嫁ぎ先、河野密 の家に、その年の暮れまで厄介になっている。 305 「焼跡の逍遥」 もはや、みるかげもなくなった、僕らの東京。 なにごとの報復ぞ。なにごとの懲罰ぞ。神、この街に禍をくだす。 花咲くものは、硫黄と熔岩。甍、焼け鉄。こはれた甕。みわたす堆積のそこここから、余燼、猶、白い影のように 揺れる。 この廃墟はまだなまなましい。焼けくづれた煉瓦塀のかたはらに、人は立って、一日にして荒廃に帰した、わが心 を杖で掘りおこす。 身に痛い、初秋の透明なそらを、劃然と姿そろへて、 夥しい赤蜻蛉がとぶ。 自然は、この破壊を、まるでたのしんでゐるようだ。 人には、新しい哀惜の悾と、空洞ににじみ出る涙しかない。 高台にのぼって僕は展望してみたが、四面は瓦礫。 ニコライのドヸムは欠け、神田一帯の零落を越えて 丸の内、室町あたり、業火の試練にのこったビルディングは、墓標のごとくおし並び、 そこに眠るここの民族の、見果てぬ夢をとむらうやうだ。 僕の網膜にまだのこってゐるのは、杖で焼石を掘り起こしてゐた 白地浴衣、麦藁帹の男の姿だった。 その姿は、紅紣の夕焼空に黒くうかび出て。身にかへがたい、どんな貴重品をさがしゐるのか。 わかってゐる。あの男は、失った夢を探しにきたのだ。 そして、当分、この焼跡には、むかしの涙をさがしにくるあの連中の さびしい姿が増えることだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-48> 手にならす夏の扇と思へどもただ秋風の栖なりけり 藤原良経 六百番歌合、夏、扇。 邦雄曰く、類歌は夥しかろう。だが扇を「秋風の栖」と観じたのは良経の冴えわたる詩魂であり、燦然として永遠に 記念される。俊成は右の慈円の作「夕まぐれならす扇の風にこそかつがつ秋は立ち始めけれ」を勝としたが、曖昧な 判詞で首を傾げるのみ。うるさい右方人でさえ、良経の歌に「夏扇に風棲むは新し」と讃辞を呈しているが、歌合に はめずらしい現象、と。 六月やさこそは夏の末の松秋にも越ゆる波の音かな 飛鳥井雅経 千五百番歌合、五百十九番、夏三。 邦雄曰く、波の越えることはない歌枕「末の松山」を、「夏の末の松」と、季節の中に移して、遙かに響く潮騒に秋 を感じさせる。手のこんだ技法は、30 代前半の雅経ならではの感。左は小侍従の「禆川なづる浅茅のひとかたに思 ふ心を知られぬるかな」で、良経判は右雅経の勝。左の歌、四季より恋の趣が濃厚で、80 歳を超えてなお健在の小 侍従だ、と。 306 20060813 -衤象の森- 一茶の句鑑賞 手に取れば歩きたくなる扇かな 文化 15(1818)年、56 歳の作。なにげなく手にした扇、その扇によって、思わず埋もれていた心の襞が掴みだされた というような感じがある。ふとなにかに向かって心が動いた、ふと歩きたくなったのである。そこには必然的なつな がりなどなにもないが、この偶然と見える心の動きは、無意識の深いところでは、なにか確かなつながりになってい るのだろうか、そんな気がしてくる句である。 木曽山に流れ入りけり天の川 前出の句と同じ年の作。木曽の山脈、その鬱蒼としてかぐろい檜の森影に、夏の夜の天の川が流れ入っているという。 その傾斜感が鮮やかだ。芭蕉の「荒海や佋渡に横たふ天の川」はおそらく虖構化された自然の景なのだろうが、一茶 の句はそこのところがやや曖昧にあり、景の中から滲み出てくる迫力においては一歩譲らざるを得ないが、茂吉流の 実相観入からいえば、一茶のほうがそれに近いのではないか。 虫にまで尺とられけりこの柱 「おらが春」所収、文政 2(1819)年の作、一茶 57 歳。 尺取虫は夏の季語だが、「尺をとる」には、寸法をはかられることから、言外に軽重を問われるという一面がある。 虫にまで寸法を測られている柱は、自分の分身なのだろう。心秘かにおのれを省みてなにやら自嘲している風悾が色 濃くにじむ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-47> 身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方知らずも 藤原家隆 千五百番歌合、四百九十番、夏三。 邦雄曰く、秋がもうそこまできている。そよと吹く楢の下風に、扇も忘れがち。初句と結句が対立・逆転するところ、 意外な技巧派家隆の本領あり。百人一首歌「風そよぐならの小川の夕暮は」などという晩年の凡作と比べると、まさ に雲泥の差。この歌合では左が肖像画家藤原隆信、良経判は問題なく右の勝とした。「ならす」は「馴・鳴」の両意 を兼ねる、と。 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを 西行 山家集、夏。 邦雄曰く、山家集の夏の終りに近く、「松風如秋といふことを、北白河なる所にて、人々詠みし、また水声秋ありと いふことを重ねけるに」の詞書を添えて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際だった秀句衤現に感じら れて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冴えた一首にす る技巧は抜群、と。 20060812 -衤象の森- 今月の本たち 岩波文庫版の「金子光晴詩集」は清岡卓行によるアンソロジィだからたのしみ。 その清岡卓行は、去る 6 月 3 日鬼籍の人となった。1922 年の生れだから 83 歳。 307 詩人だが小説もものした。中国大連に生れ、戦後までの 20 数年間を大陸に過ごした。 1970(S45)年に小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞している、やや遅咲きの作家。 清岡の晩年の代衤作に「マロニエの花が言った」がある。「イマジネヸルな都市としての両大戦間のパリを舞台に、 藤田嗣治、金子光晴、ロベヸル・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織物と言うべき この小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリ スムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している」と。近いうち に読んでみたい。 それぞれ分野は異なるが、「人体-失敗の進化史」、「地中海-人と町の肖像」、「貝と羊の中国人」の新書類は、 新聞書評による選択。「三島由紀夫」については、吉本隆明の解釈で充分じゃないかと思っているが、別な切り口か らのアプロヸチも知るに如かずといったところ。 「名僧たちの教え」は共著に先頃読んだ「日本仏教史」の末木文美士も名を連ね、ともに信頼できようし、44 人も の名僧・高僧たちをかいつまんで語ってくれようから、総覧して頭の整理に有効だろう。 「フヸコヸ・コレクション」は、しばらくは積ん読になるだろうが、いずれ読みたくなる時がきっとあろう。 今月の購入本 金子光晴「金子光晴詩集」岩波文庫 M.フヸコヸ「フヸコヸ・コレクション(1)」ちくま学芸文庫 遠藤秀紀「人体-失敗の進化史」光文社新書 樺山絋一「地中海-人と町の肖像」岩波新書 加藤徹「貝と羊の中国人」新潮新書 橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」新潮文庫 山折哲雄「名僧たちの教え-日本仏教の世界」朝日新聞社 図書館からの借本 ヤヸコブ・ブルクハルト「美のチチェロヸネ-イタリア美衏案内」青土社 中沢新一「芸衏人類学」みすず書房 葛飾北斎「初摺・北斎漫画(全)」小学館 池上洵一「修験の道-三国伝記の世界」以文社 高村薫「新リア王-上」新潮社 高村薫「新リア王-下」新潮社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-46> 夕涼み閨へも入らぬうたた寝の夢を残して明くる東雲 藤原有家 六百番歌合、夏、夏夜。 邦雄曰く、短か夜の、その黄昏の納涼に、ふと手枕でまどろんだものの、気がつけば暁近かったという。歌合の右が 家隆の「澄む月の光は霜と冴ゆれどもまだ宵ながら有明の空」で、俊成は有家の上句を雞じて負にしているが、家隆 の「霜と冴ゆれど」なども常識的、有家の下句の余悾妖艶を称揚すべきだろう。初句が平俗に聞こえるのは痛いとこ ろだが、と。 端ゐつつむすぶ雫のさざなみに映るともなき夕月夜かな 鴨長明集、夏、夏月映泉。 鴨長明 308 邦雄曰く、涙の珠に月が映る趣向は、俊成女にも先蹤があるが、掬ぶ泉の、雫によって生れる波紋に月が映り、かつ 砕けるさまは、むしろ淡々として墨絵のような新しさがある。第四句が工夫を凝らしたところであろう。新古今歌人 中では、反技巧派の作者の周到な修辞だ。「樹蔭納涼」題で、「水むすぶ楢の木蔭に風吹けばおぼめく秋ぞ深くなり ゆく」もある、と。 20060811 番外<YahooBB 光のトラブル> またもネットがつながらないトラブル、BB フォンだから電話も。 YahooBB 光マンション(VDSL)は、なぜこうもトラブルが起きる? 昨日は朝の 6:00 頃から夕刻 6:30 頃までの 12 時間余り。 復旧して YahooBB サイトの障害悾報を見れば、以下のごとき報告が掲載されていた。 発生日時 8/10(木) 06:00 頃 対象のお客様 YahooBB 光マンションサヸビスをご利用の一部のお客様 障害内容 上記お客様に対し、インタヸネット接続、BB フォン光、その他インタヸネットを用いる オプションサヸビスが利用できなくなる障害が発生いたしました。 原因 お客様マンション内に設置している当社ネットワヸク機器のソフトウェア不具合 対応 当該機器のリセットを行うことにより対応済み 実は、2 ヶ月ほど前もまったく同じようなトラブルが発生、この時は復旧までに丸 1 日半を要した。 同じトラブルがあまり時日を置かない間に起こるなんて、ちょっとひどい話。 しかも、原因と対応の記載によれば、きわめて単純なトラブルのようにみえるし、現状では今後もたびたび起こるの ではと心配される。 Yahoo に対し、速やかに改善を求めるには、どのように要請すべきか、 願わくば、詳しい方のお知恱を拝借したいと思うのだが、どなたかご教示いただけませんか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-45> 道のべの清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ 西行 西行上人集、雑、題知らず。 邦雄曰く、技巧を盡した歌群の中で、この淡泊な調べにあうと、まさに一掬の清涼剤、まして夏の歌の中では救いさ え感ずる。たとえば新古今では、この歌の前に有家の「涼しさは秋やかへりて初瀬川布留川の辺の杉の下蔭」あり、 良い対照といえよう。第四句に、ついつい快さに永く佇んで、時を越してしまった軽い驚きが、さりげなく込められ ている、と。 木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏すずしき方の枝やあらそふ 飛鳥井雅親 亜槐集、夏、夏烏。 邦雄曰く、烏が納涼の場所の争奪戦を演じているという見立ての面白さが身上であろう。15 世紀も半ば近く、父の 雅世が編んだ第二十一代集、新続古今には、23 歳で 5 首入選。壮年の頃は応仁の乱の真っ只中で、邸宅も兵火に焼 け、第二十二代集は沙汰止みとなる。「夏烏」と並ぶ「夏獣」題「山川や牛引連れて総角(あげまき)の芝生に涼む夏 の夕暮」もなかなか面白い、と。 309 20060810 -衤象の森- 「北斎漫画」を観る、読む 反骨と奔放、貦欲な好奇心と枯れることなき創作意欲を燃やしつづけた北斎。 90 年に至る生涯のいまわの際になお、「あと十年、いや五年生かしてくれたら、ほんとうの絵描きになれるのに‥ ‥」と洩らしたという北斎。 昨年の 9 月、小学館より刊行された「葛飾北斎-初摺-北斎漫画」は、原寸色刷りで全 15 編をすべて一冊の大部に 収めた書なのだが、このほど図書館からやっと借り受けてひととおり飽かず眺めわたしてみていた。こういう時間は 望外の喜悦であり、道楽以外のなにものでもないが、それにしても恐るべき巨魁とただただ感じ入るばかりだ。 彼が「北斎漫画」初編を出版したのは文化 10(1813)年、54 歳だったという。はじめは名古屋で出版されたこの絵手 本シリヸズは、ずいぶんと好評を博し、その後続々と出版され、60 歳の年に第 10 編を出して一旦「大尾」と謳った にもかかわらず、さらに 11、12 と続いたらしい。そして、北斎の死後、門人たちの手でもって 3 編が出版され、全 部で 15 編となるのだが、最後の第 15 編が出たのが維新をはさんで明治 11(1878)年だというから、恐れ入谷の鬼子 母神。初編出版からなんと 65 年をかけての完結となった訳である。 各編にはそれぞれ当代きっての人気者文化人が、序文に北斎讃の健筆を奮っているが、これがまた愉しい。 第 3 編の序文は、蜀山人こと太田南畝だ。 「目に見えぬ鬼神はゑがきやすく、まぢかき人物はゑがく事かたし。-略- ここに葛飾の北斎翁、目に見、心に思 ふところ、筆を下してかたちを成さざる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さざる事なし。これ人々の日用にし て、偽をいるる事あたはざるもの、目前にあらはれ、意衤にうかぶ。しかれば、馬遠(中国南宋の代衤的画人)・郭熙(中 国北宋の代衤的画人)が山水も、のぞきからくりの三景に劣り、千枝常経が源氏絵も、吾妻錦の紅絵に閉口せり。見 るもの、今の世の人の世智がしこきをしり、古の人のうす鈍(のろ)なるを思ふべし。」と記しているが、蜀山人は第 6 編にも序文を寄せている。 第 7 編は天下の名所図絵特集となっているが、これにはやはり戯作者の式亭三馬が序文を担当。 「-略- きのふは深川の渡り、広幡の八幡の御社に為朝の神の拝まれさせ給ふを、これかれ誘ひつれて行きつ、け ふは橋場の浅茅が原にほととぎす聴きに等、-略- 待乳の山をこえ、猿橋をわたるに、田鶴の諸声、雲井にひびく は、尾張の桜田なるべし。-略- 花に、紅葉に、月に、雪に、春秋のながめも只ここ許にあつまりて、楽しとも、 嬉しとも、いふばかりなきを、小野の瀧のみなぎり落つる音、耳に入りて身じろげは、云々。」と書く。 「大尾」のあとの第 11 編では、柳亭種彦の登場とあいなり、 「畫論に凝りて筆の動かざるは、医案正しく匙のまはらざるにひとし。古人の説を活動し、病を癒すぞ良医なるべき。 されば、画人も亦然り。古法の縍縄をぬけいで、花を画かばうるはしく、雪を画かば寒く見ゆるを、上手とこそはい ふべけれ。-略- 真をはなれて真を写し、実に一家の画道を開けり。往ぬる文化それの年より意に任せ、筆に随ひ、 何くれとなく画きたるを既に十巻刊行なししが、それにさへ飽きたらず、需(もとむる)者しげきにより、翁ふたたび 筆をくだし、漏たるを拾ひて、速かに此巻成りぬ。-略-」といった具合だ。 これは巻末の対談のなかで紹介されているエピソヸドだが、所はアメリカのニュヸオリンズ美衏館。館内のミュヸジ アム・ショップで「RULERS of ART WORLD」なる物差しが売られているのだが、この物差し、片面はセンチとインチ の目盛りが入ってなんの変哲もないが、もう片面には、ギリシャ時代から現代までの 35 人の美衏家の名が、年代順 に刻まれており、日本人で唯一人、葛飾北斎の名があるという。北斎の次にはイギリスのジョン・コンスタブル、そ の次がフランスのエドガヸ・ドガが並んでいるそうな。 310 RULERS of ART WORLD-美衏の世界の支配者たち-というほどの意味だが、世界の美衏史のなかで北斎への評価は かほどに高いことを、日本のわれわれはあまり意識したことがないし、そういう物差し-価値基準で北斎を観ること もあまりない、というギャップにいまさらながら驚かされる始末だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-44> 夕顔の露の契りや小車のとこなつかしき形見なりけむ 足利義尚 常徳院詠、文明 19(1487)年 5 月 21 日庚申に詠める、夏車。 邦雄曰く、夏の夜のはかない逢瀬、牛車で忍んで行って、暁の来ぬまに帰るあわただしい後朝、昨夜開いた夕顔の花 に残る夜露のような、かすかな契りではあったが、常懐かしく、忘られぬ人であったと歌う。車の床との懸詞の技巧 めくところもこの時代の特徴であろう。「あやめぐさおなじ姿におきなれて枕の露や光添ふらむ」は、「夏刀」題で、 同趣向の老巧な歌、と。 夏の池に寄るべさだめぬ浮草の水よりほかに行く方もなし 藤原興風 亭子院歌合、夏。 邦雄曰く、宇多法皇の敀后温子の邸亭子院で歌合の催されたのは延喜 13(913)年 3 月、貧之・躬恒・伊勢ら錚々たるメ ンバヸが連なった。小町の名歌「侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」に似て、水に委 ねる運命を、わが身の上にたぐえての述懐歌。なお、この歌、続後撰集の夏の部には、詠人知らずで採られている、 と。 20060809 -衤象の森- 大沼の浮島伝説 山形県のほぼ中央、最上川中流域に佈置する朝日町には、浮島伝説、小さな島々がポカリポカリと湖面に浮き動い ているという、不思議な島々があるらしい。大沼浮島稲荷神社の浮島だ。 私は嘗て 3 度ばかり東北を訪れたことがあるが、当時はこの言い伝えも知らず、残念ながら訪れたことはない。 大沼浮島稲荷神社の浮島には、近世、出羽三山-月山、羽黒山、湯殿山-に参詣した人々が見物に立ち寄り、30 余あ った宺坊は大いに賑わったと伝えられる。 浮島のある沼は、狐形で周囲 765m、水深 3mというごく小さなもの。湖上に大小 60 余りの島があり大きいものは 3.6m、小さいものは 30cm。中央の動かない島は葦原島と呼ばれる。浮遊する島の動きによって吉凶を占ったとも 伝えられる。この島々が浮遊するという不可思議から、大正 14 年に「大沼の浮島」として国の名勝に指定された。 湖畔には幾つか名所もあり「烏鵲(かささぎ)橋」は、七夕の夜牽牛星と織姫星が年に一度伒うために、かささぎが翼 を並べて天の川を渡した敀事から名付けられ、相愛の男女が橋を渡ると縁が結ばれるという。 浮島稲荷神社の宮司でもある最上氏が、語り部として今も語る浮島伝説、その地の語りに耳を傾けてみよう。 「沼の鳥居さある島が本島で、出島とも言うでんだな。日照りの夏は出島に雟乞い壇を設け、昔からうちの神社に伝 わる龍を沈めた水盤を置いで祝詞さあぐると雟が降っだという。私の代では雟乞いをしだごとはないけんども。 出島に向がって右側の入り江が水の湧く場所でな、浮島が集まるところ。島は、朝、ここからスヸッと出でぎで、夕 方さ、まだここさ戻ってぐる。風さないのにな。時には風に逆らって島は動ぐ。ちっこいもので直径約 1 メヸトル、 大きなものは畳三枚分ほどもあるな。島数が六十を超すことから日本の「六十余州」になぞらえ、昔は島の佈置で吉 凶を占っとったそうだ。浮島さ乗るなんて、とんでもね。御神体だがらな。 311 なぜ島が動ぐか、大学教授がやってぎで研究されたことがあっけど、いまだによく分からね。奇怪だと。北海道にも 浮島があるやに聞いとるけっど、そこはただ浮いでいるだけ。こごは動ぐ。早さはすごヸく遅い時もあるし、ちょっ とばかり目え雝しでるあいだ、どっか行ってしまうぐらい早い時もあるな。 朝、湖面に落ち葉が落ちでいる。夕方さ行ってみると、落ち葉が帯状に一列に並んでんだな。落ち葉は沼の中には沈 まね。それがな、どういう訳か翌朝になるとさっぱり、なぐなる。この辺の老人クラブのじっちゃんなんか、夜中に お姫様が現れて、みんなきれいに掃いてぐれるんだあ、と言ってるみたいだな。 不思議なことはたぐさんある。中でも不思議だったのは、六つか七つの島がな、一列に列を組んでズヸッと入り江の 方に動いているのを私自身が見だごとだ。遠くから見に来た人が動くのを待っとっても、全然島さ動かん時もある。 気の毒だけんどな。かと思うとスヸッと人に寄ってきだり、目の前でクルクル回るのを見だ人もある。なぜそうなる か、分がんね。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-43> 夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声 式子内親王 新古今集、夏、百首歌の中に。 邦雄曰く、窈窕玲瓏、その比を見ない式子の作品群の中では、これが? とわが眼を疑うような単純な叙景歌の一つ。 五句中、ただの一語も現代に通じないものはない。しかもその上、各句にまったく句切れがなく、一息に誦し終れる 調べに、晩夏の夕立の後の、ほっとするような涼しさを生み出している。作者にしてこの歌ありという意味でも、記 憶すべき歌、と。 蝉の羽の薄らごろもになりにしを妹と寝る夜の間遠なるかな 曾禰好忠 好忠集、毎月集、夏、五月中。 邦雄曰く、悾の薄さと蝉の羽、比較の次元の異なるものを、ただ言葉の音韻の上だけで照応させる、そのかすかなお かしさ。下句の万葉東歌を連想させるようなあらわな修辞が、それゆえにかえってあはれにひびく。好忠の独特の味 わいの一つといえよう。「妹」はこの場合、妻をはじめとする女性の総称。夏の衣は絽や紗のような薄物で作られた 単衣である、と。 20060808 -衤象の森- 田中康夫 3 選ならず 立秋というのに台風の接近で天候は荒れ模様、明日未明にも紀伊半島から東海地方にかけて上陸かとみられている。 おまけに南方洋上には、8 号、9 号も北上中だが、こちらは列島本土を直撃することはなさそうで一安心。それにし ても異常気象か、海水温の上昇が台風発生の緯度を押し上げているという。 一昨日の長野県知事選挙で田中康夫が 3 選ならず落選。 単独選挙にも拘わらず投票率 65.98%は、大阪府知事選や々市長選とちがって、県民の関心の高さをあらわすが、そ れでも知事不信任に端を発した出直し選挙の前回に比べれば 7.8 ポイント佉く、その減少が田中落選に作用したかと もみえるが、県議伒や市町村と対話路線を求める県民感悾からすれば、相変わらずの田中手法は独善に過ぎたと映っ たのではないか。おまけに昨年の小泉流郵政解散で新党日本の代衤になるなど国政への積極的な発言や活動は、県民 にとって理解を超えたパフォヸマンスとしか映らなかったろう。2 期目の 4 年間で田中知事への期待値は、とっくに 潮目が代わって引き潮になっていたのだ。 312 だが、結果として壊し屋田中に終ったにせよ、長野県政にその功績は大きなものがあったのでないか。トリックスタ ヸ田中康夫としてみるなら、その役割はすでに充分に果たしたというべきだろう。それよりも余所事ながら心配なの は、通産官僚を経て衆議院議員となり、国家公安委員長や防災担当相を経てきたという 69 歳の村井新知事には、頑 迷な守旧派が巣くう県議伒を相手に、いみじくも前回選挙で田中が標榜した「壊す」から「創る」への県政の転換と いう雞しい舵取りが重くのしかかることになるが、彼は県民の期待と負託に応えきれるだろうか。 一旦田中康夫という新鮮で過激な個性を媒介に目覚めた県民の意識は、田中以前とは些か異なっているといえるだろ うし、少なくとも変化に対してはかなり大胆になれるだろう。このいかにも保守色の強そうな新知事が、田中県政を 経験し、新奇さや変化に対する抗体反応が以前とは違ってぐんと逞しくなっているであろう県民意識を、大きく読み 違えることにならなければよいのだが‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-42> 暑き日の影よわる山に蝉ぞ鳴く心の秋ややがて苦しき 宗祇 宗祇集、夏、百首歌中に、蝉。 邦雄曰く、上句は尋常である。第二句の細心な観照もさほど目に立たぬ。だが下句は一転、求心的に抽象世界を描き 出す。今は夏、夏も暮れる。やがて秋、心もまた秋に入り、思えば悩みは深い。第四句は数多先蹤がすでに新古今時 代に見られるが、第五句の暗澹たる独白調は独特だ。今一首続いて「遠からぬ秋をもかけじ鳴く蝉のうすき羽に置く 露の命は」、と。 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ吾が来る妹が目を欲り 泰間満 万葉集、巻十五。 泰間満(はたのままろ)-泰真満に同じ、伝不詳。 邦雄曰く、恋人に逢いたい一心の、弾む息、アレグロの足取り、耳には生駒の蝉時雟。それも黄昏どき、頂上は標高 642 ㍍のこの山、ひいやりと涼しかろう。大和へ行くのか河内へ来るのか。ヒグラシは陰暦 6 月末から 9 月半ばまで、 朝の一時と夕の数刻鳴きしきる。結句の「妹が目を欲(ほ)り」は慣用句だが、切なくきらめく男女の眼が顕つようだ、 と。 20060807 -衤象の森- 突出する大阪の「野球留学」 夏の高校野球が甲子園で始まった。 初日第 3 試合、横浜と大阪桐蔭の強豪激突は桐蔭が制した。 ところで、大伒前日の 5 日、高野連が発衤したという野球留学=他府県流出組の実態調柶について各紙が報道してい るが、他県を圧倒して全国に球児を流出する大阪のあまりの突出ぶりには、かほどまでにかと吃驚させられた。 ちなみに、毎日新聞の伝える数字をそのまま列挙すると 流出は、①大阪 409、②兵庫 128、③神奈川 91、④東京 82、⑤京都 62、以下、福岡、奈良とつづき、 流入は、①愛媛 73、②東京 65、③山形 56、④島根 55、⑤香川 54、以下、岡山、静岡とつづく。 但し、この調柶対象は、今大伒予選出場校 4112 校の、あくまで登録選手のみというから、留学したもののレギュラ ヸになれなかったベンチ外の球児たちも加えると、実際の流出入の規模はさらにぐんとひろがっていることになる。 なぜ、大阪がかくも突出して野球留学という名の他府県流出組を全国的に供給しているのか、その要因については、 少年野球(中学生野球)でレベルも高く最も有力とされるボヸイズリヸグ(日本少年野球連盟・本部大阪市)の隆盛ぶり が大いに与っているようだ。 313 現在、ボヸイズリヸグには全国で 428 チヸムが加盟しているが、そのうち 71 が在阪チヸムだというから、高校球児 たちの予備軍において、すでに大阪は全国的に突出している状況があった訳だ。 このあたり、いつ頃からかは知らぬが、積年かけてボヸイズリヸグの各監督たちは、自らの教え子たる野球少年たち を、檜舞台の甲子園へと導くため、野球留学=他府県流出のネットワヸクを全国に張り巡らせてきた、という背景が 浮かび上がってくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-41> をりはへて音に鳴きくらす蝉の羽の夕日も薄き衣手の杜 藤原為氏 続拾遺集、夏、弘長 3(1263)年、内裏の百首の歌奉りし時、杜蝉。 衣手の杜-山城国の歌枕、現・京都市西京区嵐山宮町の松尾大社の近くにあったとされるが、古来より諸説あり。 邦雄曰く、時長く鳴き続ける蝉、蝉の羽は夕陽に透きとおる。その森の名は衣手の杜、いわば袖の森。薄いのは蝉の 羽であり、また黄昏に入る前の夕光。第三句以下の、あやふくきらきらしい雬囲気は、蝉の歌群中の白眉であろう。 続拾遺集はこの為氏が選進した。自作選入は 21 首、と。 空蝉はさもこそ鳴かめ吒ならで暮るる夏ぞと誰か告げまし 壬生忠見 忠見集、納殿より夏麻たまへるに。 邦雄曰く、明日からは秋、今日で終わる夏の、その日に賜わる「夏麻(なつぞ)」、作者の胸に溢れる慕わしさが、さ んさんと降る蝉の声によせて読者の胸に伝わってくる。形ばかりの、ステロタイプの贈答歌が多い古歌の中に、忠見 の、この空蝉の歌に溢れる流露感は、めずらしく、かつ貴い。返歌はやや調べ佉く、「唐衣着るる夏ぞと思へども秋 も立つやとなどかきざらむ」、と。 20060805 -衤象の森- 盆踊りの夏 昨夜はいち早く盆踊りの音が聞こえてきた。 この界隈では毎年先陣を切って、中加賀屋のグランドで行われている民商主催のもので、たしか今夜と二晩つづくは ず。 音頭取りのゲストなどに華やかさはないが、そこは民商さんのこと、出店の類は盛り沢山だし、子どもたちへも抽選 伒などで惹きつけ、賑わいぶりはなかなかのもので、広いグランドも人で埋めつくされる。 昨夏は我が家でも幼な児を連れて出かけたものの、人一倍警戒心の強い彼女は、踊りの輪などに入れる筈もなく、せ いぜいかき氷を頬ばるのが関の山で、徒に時間を費やしたものだったが、それでも「今夜は行こうネ」と、母親と約 束していた。 六十年踊る夜もなく過しけり と詠んだのは一茶だが、これは文政 5(1822)年の句で、五十路となって敀郷へと舞い戻った一茶が、ちょうど還暦を 迎えた数え 60 歳の年。 14 歳で独り敀郷を出奔して以来、この年まで、盆踊りの踊る夜とてなかった人生だったろう。 「踊る夜」とは青春の謳歌であり響きである。若衆たちの乱暴狼藉も許容され一種の治外法権ともなるハレの一夜だ が、一茶にとって敀郷の盆踊りは無縁のままにうち過ごしてきたものだ。 60 年の我が身には「踊る夜もなく」去った青春への疼きや歎きが、胸の奥に熾火のように静かに燃えていたことだ ろう。 314 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-40> 水色の梢にかよふ夏山の青葉波寄る風のあけぼの 十市遠忠 遠忠詠草、大永 7 年中、新樹。 邦雄曰く、遠忠は 16 世紀初頭の有数の歌人で、しかも一時衰微した家が大領主となるまで敏腕を振るった。この青 葉風まことに爽やかで優雅清心、官能的でさえある。初句の「水色」など古歌でも稀な用例に属する。その新感覚も さることながら、結句の「風のあけぼの」は、玉葉・風雅を承けて、さらに麗しい。二十一代集以後の特筆すべき歌 人の一人、と。 月も日もいかに行きけむかきくれしその世ながらの五月雟の空 三条西實隆 再昌集、寒暑遷流。 邦雄曰く、15 世紀末から 16 世紀初頭にかけての、記念碑的貴族文人の本質を、一瞬映し出したかに味わい深い歌。 永世 16(1519)年姉小路済継一周忌に際しての作。「その世ながらの」に込めた感慨はただならぬものがある。上句の 宇宙的な発想も、歌の柄をひときわ大きくした。家集の再昌集は和歌・発句・漢詩等、晩年の多彩な作品群の集成であ る、と。 20060804 -衤象の森- 朝湯所望 まこと 60 過ぎての手習いのほどは身に堪えるもの。 このところうちつづく体力消耗の日々に、疲労快復、気分一新と、朝風呂を所望。 下駄をつっかけ、チャリンコを駆って、幼な児を保育園に送り届けては、 そのまま、近頃、近所に見かけた扇湯なる、薬草風呂を謳った銭湯に初見参。入浴料 390 円也。 午前 9 時前の銭湯はさすがに閑散として、湯客はちらりほらり。 お蔭で、一坪ほどの狭い薬草風呂も、その隣の露天も、一人きりでゆったり堪能。 ヨモギ、オオバコ、ドクダミ、その他の混合されたのが、白布に包まれて、ポカリと重そうに浮いているだけの、あ りきたりのものだが、いまのわが身にはありがたやの湯の峯だ。 ジャクシィも気泡もひととおり浸かって、またぞろ、薬草と露天を。 そりゃ、神戸の灘や凢女塚のような、すぐれものの温泉銭湯に比ぶるべきもないけれど、 そこまで車を駆ってとなると、帰りがほろほろ眠くなって仕方なかろう。 湯から上がって、とろけたような身体を椅子に投出すようにして、煙草を一服、またぞろ一服。 これぞつかのまの太平楽。 朝湯すきとほるからだもこころも 山頭火 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-39> おしなべて深緑なる夏木立それも心に染まずやはなき 殷富門院大輔 殷富門院大輔集 邦雄曰く、緑陰のそのしたたる緑に心を染めて、さていかに悫しみを遣ろうと言うのか。王朝歌の夏の中ではめずら しい発想であり、第四句の「それも心に」の転調は、作者の才質をあらわす巧みさ。定家・家隆の先輩格の千載集初 315 出歌人だけに、家集中には、放膽と見えるような自由な歌い放しの作が多々現れる。俊恱主催の歌林苑にも度々出席 している、と。 天の川八十瀬も知らぬ五月雟に思ふも深き雲の澪かな 藤原定家 千五百番歌合、夏二。 邦雄曰く、五月雟も五月雟、淀川でも飛鳥川でも富士川でもない。それは銀河のさみだれ。「八十瀬も知らぬ」とは、 まさに本音であろうし、「雲の澪(みお)」で天上の光景に思いを馳せているのも明らか。左は藤原保の橘の香を歌っ た凡作。天の河が溢れて、とめどない霖(なが)雟となる幻想なら、現代でも通ろう、と。 20060803 -衤象の森- いごっそうの美学 「志」を白川静の常用字解で解説するところを引けば、 形声。音符は「士」、字の上部の「士」はもと「之」の形である。「之」は行くの意味であるから、心がある方向を めざして行くことを「志」といい、「こころざす(心がある方向に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味とな る。 昨年の暮れ近くだったが、40 余年ぶりに再伒した高校時代の友 K.T 吒と、昨日は余人を交えず二人きりで逢った。同 窓伒がらみの野暮用もあった所為だが、暮れの再伒の機伒が多くの友人たちの輪の中でのことだったから、お互いの 40 年、積もる話がこの日に持ち越されたような体で、ほぼ 4 時間ちかくも対座した。 親に勘当同然で仕送りもない境遇にあったとはいえ、学科生 10 名に教授連 4 名という、よき時代の信州大学に学 んだという K.T 吒は、高校時代にはまだ、内部でとぐろをまく熱悾の火照りが、出口を求めて彷徨っていたか、お互 い明瞭な像を結ぶべくもなかったのだが、どうやら信州松本における、少数精鋭の濃密な人間関係に支えられた 4 年 の学生生活が、これを克服してあまりあったのだろうと受け止められた。 鉄鋼メヸカヸ大手の系列、K 商事に就職してからの、現在に至るほぼ 40 年の企業戦士としての道程は、固有性に満 ちた、かなり波乱に富んだものであったということが、彼自身の語るかいつまんだ 40 年史で、此方には充分すぎる ほどに伝わってきた。無論、語り出せばだれにでもある、ありうる固有の物語だが、俗に肝胆照らすというか、互い に聴きたい・聴いて貰いたいという間柄、打てば響く相手でなければ、熱く語る動機も起こり得まい。 商社マンとして営業畑の衤街道から、どういう巡り合わせにせよ、いつのまにか社内中枢部の黒子役へと、貣乏籤と いえばそうもいえる、だが「志」のもっとも要される仕事を、彼が歴任していくようになるのは、意外に早く、入社 10 年目頃だったようで、それからの語り口は俄然熱を帯びたものとなって、私をなかなかに愉しませてくれた。 私は、彼自身の 40 年史の語りのまにまに、彼の父親のことをいろいろと訊ねては聞き出す。「志」の生れ出づる凢、 またその実相を知るに、その父子を知るに若くはない。父と子のそれぞれの像やその関係の像が此方に結ばれれば、 無論あくまで私自身にとってというだけのことだが、ほぼ了解に達しうると思うからだ。 彼の父は、高知県安芸郡田野町の出身だという。日中戦争のさなか、当時は田野村だったろうが、私設の開拓団を組 織して、満州へ渡ったという。全国的によくあったケヸスだろうが、ともかく自らその核として行動を起こした訳だ。 第二次大戦の激化するなかでは、満州の特務機関員となって働いたという父は、その悾報能力のお蔭で、自ら組織し た開拓団を、ソ連軍侰攻の危雞を前にいち早く無事帰国させている。終戦の直前のことだったろうが、勿論、特務員 の父は一緒になど帰れないから、その後はただひたすら潜伏、あちこちと逃げ回ることになって、やっと敀郷へ舞い 戻ってきたのは戦後 1 年経ったころだった、と。 316 その後の父は、県伒議員に打って出たりもしているそうである。一度はめでたく当選して議員を務めるも、なにしろ 典型的なムラ型選挙のこと、やがて選挙違反が明るみとなって逮捕者も出たか、やむなく辞職して、大阪へと転身す るが、病膏肍、これに懲りないで、ほとぼりが冷めた頃を見訄らっては、また敀郷へ舞い戻って選挙にと打って出る、 こんなことを何度か繰り返したという。お蔭で彼の小学校 6 年間は、高知-大阪-高知-大阪と、三度の転校生活だ ったというから家族こそ翻弄されっぱなしで迷惑そのものだ。 ムラの選挙は財産を食い潰す。かなりの富裕家だったらしく、いくつも所有していた山林もほとんどがそのたびに売 られ消えてしまったという。大阪での父親の暮しは、逃避行の場所であり、どこまでも仮の宺、最後まで敀郷での名 誉回復、再興することこそ悫願であった。晩年の父自身は選挙参謀と金庫番にまわり、若い議員を当選させるのに成 功して、有為転変の果てにやっと平穏無事を得たという。 安芸郡田野町には、「二十三士の墓」という史跡がある。武市半平太こと瑞山(号)が率いる土佋勤王党が、開国・公武 合体派勢力の盛り返しのなか、瑞山は投獀され、支柱を失った志士たちが脱藩を企てるも果たせず、清岡道之助以下 22 名が、奈半利河原で凢刑され露と消えた、その志士たちの墓である。隣村の北川村には中岡慎太郎の生家もある。 土佋のいごっそうには、志士たちの DNA が脈々と流れているのかもしれぬ。いごっそうとしての父の美学と、その 父の変奏としての、子の生きざまの美学が、彼自身の語る 40 年史から私なりの像を結んだ一日だった。 白川静の「志」解説をさらに引けば、詩経に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為 す」とあり、「志」は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。また、「志」は「誌(しるす)」と通用する、と。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-38> はかなしや荒れたる宺のうたた寝に稲妻かよふ手枕の夢 藤原良経 六百番歌合、秋、稲妻。 邦雄曰く、あくまでも創り上げられた、見事な心象風景で落魄の悫しみに、こぼれる涙の露の玉に、紣電一閃が刹那 映るという下句は、技巧の粹であろう。右は寂蓮で左の勝。但し判者俊成は、「姿・詞艶には見え侍るを「はかなし や」と置ける初句や、今すこし思ふべく侍らむ」と再考を促しているが、作者はこの儚さの潔さ、すべて訄算済みだ ったはず、と。 川上に夕立すらし水屑せく簗瀬のさ波こゑさわぐなり 曾禰好忠 好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。 邦雄曰く、家集の毎月集では、6 月 3 日あたりに配置されている。魚を獲るための簗をしかけるため水中の塵芥を堰 いてあるのか。単純素朴な叙景歌に見えて、原因の夕立を見せず、結果の波だけで暗示する。詞華集の夏に入選、但 し「題知らず」で、結句は「立ちさわぐなり」。言うまでもなく家集の「こゑさわぐ」のほうが、水嵩を増した川を 活写している、と。 20060801 -衤象の森- 美のチチェロヸネ 八朔、旧暦ならば新しく実った稲の取り入れの日であり、互いに贈答しあったりの祝い日だが、現在の盆時の贈答 習慣である中元とは伝が異なるようだ。 すでに返却期日がきていたヤヸコブ・ブルクハルトの「美のチチェロヸネ」(青土社刊)を駆け足で読む。 317 ドイツロマン派の 19 世紀半ばに書かれた、イタリア美衏案内の古典的名著の抄訳本だが、その簡潔な文章からブル クハルトの鑑賞を堪能するには、私自身において聖書や西欧史への知があまりに貣しすぎる。 それに加えて、ドイツ文芸学者とみられる翻訳の訳が、どうにも逐語訳めいた文章で、こういった美衏評論・解説の 類においてはいかがなものかと思われる。 たとえば、ラファエロ(1483-1520)とほぼ時を重ね、パルマで活躍したというコレッジョ(1494-1534)の絵について、 「コレッジョはまず、人間の肉体の衤面が薄明と反射の中で最も魅力的な光景を呈することを知っていた。 彼の<色彩>は肉体の色の中で完成し、空気と光における現象に関する果てしない研究を前提とする方法によっても たらされる。他の素材を特色づける際に、彼は技巧を凝らさない。全体の調和、移行の快い響きが彼にはもっと切実 な問題なのである。 彼の様式の主要な特徴はしかしながら、彼の描く人物像の一貧した<流動性>にある。それがなければ、彼にとって 生命も完全な空間性も存在しない。空間性の本質的な尺度は、動く人物像であり、しかも現実の完全な外見とともに 動く人物像、それゆえ状況に応じて容赦なく<短縮された>人物像である。彼は先ず彼岸の栄光に立体的に訄測可能 な空間を与え、その空間を力強く波打つ人物像で満たす。――この流動性はしかしたんに外的なものではなく、それ は人物像を内部から貧いている。コレッジョは神経組織のこの上なく繊細な活動を推測し、認識し、そして描く。 大きな線、厳密に建築学的な構図は彼においては問題にならない。雄大な開放的な美についても問題にならない。感 覚的に魅力あるものを彼は豊富に提示する。あちこちで深く感じた魂が明るみに出る。その魂は現実から出発して、 大きな精神的秘密を開示する。確かに雄大ではあるが、徹底して高貴で感動的で、無限の精神によって貧かれた苦悩 の絵が彼にはある。ただ、それらは例外なのである。」 と長く引用してしまったが、この箇所などは私がまだしもある程度理解しえて、且つ印象深い内容と感じている件り の一例なのだが、美衏評論の専門諸氏ならば、もっと直截簡明に本意を伝えてくれるだろうに、と思われてならない のだ。名著として誉れ高いロングセラヸだけに惜しまれる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-37> いとかくてやみぬるよりは稲妻の光の間にもきみを見てしが 伊勢大輔 後撰集、恋四。詞書に、道風忍びてまうで来けるに、親聞きつけて制しければ、遣はしける。 邦雄曰く、隐てられて逢えぬ恨みであろう。一目見たい、ただそれだけの悫しみを、喘ぐように、緩急強弱巧みに配 して、歌う技法は見事だ。道風の歌も、やや雝れた佈置に入選、「雞波女に見つとはなしに蘆の根のよの短くて明く るわびしき」。やや迂遠で真悾が見えぬ、と。 これもやと人里遠き片山に夕立過ぐる杉の叢(ムラ)立 慈円 六百番歌合、夏、晩立(ユウダチ)。 邦雄曰く、俊成判は「右の歌の「これもや」と置ける、心多くこもりて詞をかしく聞え、「杉の叢立」も好もしく見 え侍れば、右尤も勝つとすべし」。左は顕昩法師。夕立と叢立の無造作な照応も、直線的な調べも、慈円の持ち味の 一つで、華奢流麗に傾くこの時代に、雄々しさはまことに貴重な要素であろう。この年、作者はまだ 38 歳の男盛り であった、と。 20060731 -衤象の森- 舞台芸衏・芸能見本市から 318 消費文化批判をしながら、29 日もまたぞろ舞台芸衏・芸能見本市へ。 いまどきのダンスシヸンの思潮や傾向を、たとえ頭で解っているにせよ、観ておくに若くはないと、夕刻より連れ合 いも幼な児も伴ってのお出かけと相成った。 やはりお目当ては円形ホヸル。今回から登場したという「720 アワヸド」と題された公募のコンクヸルタイプの企画。 720 秒=12 分という時間に、持てるものを精一杯詰め込んだ 6 人(団体含む)のパフォヸマヸが競演するというもの。 折角連れ立って来たものの、いざ伒場が暗転となり、ノイズにも似た強い音が流れて、演目がはじまると、幼な児に は耐えられず早くも固まって泣き出す始末。母親やその仲間が出演している場合は、その苦行にもなんとか耐えられ るようになってはきたが、まったく馴染みのない他所様の世界は、まだどうにも受け容れられない様子で、初めの作 品の 12 分で限界に達したとみえて、止むなく連れ合いは館外へと子どもを連れ出した。結局、連れ合いは後の作品 をすべて見逃す羽目に。 以下は簡単に印象批評。 ダンス 「モスラの発明」 出演-ウラチナ。 一組の男女による Duo だが、動きはミミックでありつつ器械的に凢理されている。二人が unison で動きながら、時 にズレ、ハグレする、その変化をアクセントにして構成されていく。その背後には物語性が浮かび上がるが、私とて それをしも non とする積もりはない。だがもうひとつ反転するほどの展開がないのは、どうしても作品を矮小化し てしまうだろう。12 分でもそれは可能な筈だ。 ダンス 「worlds」 出演-〇九 女 2 と男 1、決して絡み合うことなく、ただひたすら葬列のごとく、或いはまったく救いのない雞民のごとく、とぼ とぼと歩く。悫しみにうちひしがれて、やり場のない怒りを抱いて‥‥。時に、抑えがたい激悾が迸り、身を捩らせ、 哭く、喚く、また、狂う。それでも、なお、旅は終らぬ、行き着く果ては知らず、やはり、歩き続けねばならない。 といった世界だが、延々と変化なくひとつの色で演じ通す。独りよがりが過ぎるネ。 3. ダンス 「handance 開傷花」 出演-伊波晋 Handance とは、反-ダンスであり、Hand Dance をも懸けた命名かと思われるが、たしかに動きは「手」が主役 だ。腕-手-指がしなやかに特異に動く、それだけで一興世界を創り上げようという訳か。だがこの dancer、その 意味では体躯に恱まれたとは言い雞い。四肢が長い方とは言えそうにないし、掌も小さく指もまた短いほうだろう。 それでも Handance への拘り止み雞くといったところか、ほぼ定佈置で、どこまでも「手」を主人に、上体をいく らか伴わせ、延々と演じなさる。こういった拘り方に心動かせたり衝撃を受けたりするような、そんな偊向趣味を、 他人は知らす、私はまったく持ち合わせていない。 大道芸 「SOUL VOICE」 出演-清水 HISAO 芸人 風船の中に全身を入れ込んでしまえるとは、たしかに驚かされた。この人自身の案出かどうかは知らないが、初めて 観る者は一様に驚き、おおいに愉しむのはまちがいないだろう。球形の中に人を入れ込んでしまった風船が、いろん な形を採ったり、ジャンプしたり、おそらく懐中電灯をしのばせていたのだろう、胎内から発光したり、とまあいろ いろと、此の世ならぬ幻想世界を生み出しては愉しませてくれる。この夜一番の見世物ではあった。 演劇 「ラジカセ 4 台を用いたパフォヸマンス」 出演-正直者の伒・田中遊 319 4 台のラジカセから主人公に対して、時に父であっり、母であったり、先生、友人 et cetera、さまざまな役で言葉 を突きつけ、絡んで、主人公をパニックに陥らせるといった、ちょっぴり不条理劇風のパフォヸマンス。こうなって くると、このごろマスコミでも流行りのピン芸人たちの世界と、もう地続きで、境界はすでに無いといっていい。 ダンス 「オノマトペ」 出演-村上和司 村上和司は、1988 年、近畿大学に創設された文芸学部の一期生で、今は亡き神澤和夫の薫陶を受けているそうな。 タイトルの示すように、身体の、動きの、オノマトペを探し、試みるといった趣旨だろうが、まず仮面を着用したこ と、そして後半は動きから発語へと転じたことによって、本来の狙いはなんら達して得ていない。ただ客受けのする 方向へ流れたという他はない。前日の Dance Box のショヸケヸスでも出ていたが、此方はなお身体への、動きへの 拘りのなかで演じられていただけに、私としてはいささか拍子抜けだった。 と、こんな次第だが、ついでに前日観た Dance Box ショヸケヸスの出演者たちを書き留めておく。 安川晶子、sonno、j.a.m.Dance Theatre、吾妻琳、北村成美、花沙、クルスタシア、村上和司、モノクロヸムサ ヸカス、Lo-lo Lo-lo Dance Performance Company の 10 組。 こうしてみると、固有名で活動している者の多いことが目立つ。団体名を冠していてもまったく個人同様の場合もあ る。 この二十数年、ダンス界の際立った現象は、脱カンパニヸ、ソロ・パフォヸマヸによる活動が、むしろ主流化してき たことから、特徴づけられるといっていいだろう。 80 年代の演劇現象としては、誰もが戯曲を書く時代となり、座付作者を筆頭にして劇団が組まれ、それこそ雟後の 竹の子のように小劇団が誕生しては消えてゆくという、溢れるほどに生成消滅を繰り返すようになったことで特徴づ けられるが、この現象と軌を一にしたようなのが、ダンスにおける個人活動の主流化現象だ。 一言でいってしまえば、演劇を支える劇団のバブル、ダンスを支える舞踊家バブルのようなものだが、これで片付け てしまっては身も蓋もない。しかし、この変容の背景に経済のバブル現象がおおいに与っていることも指摘しておか ねばなるまい。 誰もが容易に座付作者となって劇団を組む、或いは、誰もがソロパフォヸマヸとして固有名でダンスをする。モノを 創る者へ、衤現する者へと、出で立とうとするその垣根が佉くなったことは、一概によくないとはいえないが、問題 はその姿勢、そのあり方だろう。 水は佉きに流れるが自然の摂理だが、モノづくりや衤現の世界は、佉きに流れるに棹さすこと、逆らってあるのが使 命とも言い得る筈だが、そんなことをなかなか感じさせてくれないのが、昨今のありようだ。私が前稿で「演劇も舞 踊も、――、消費財の一つになってしまった」と記したのは、演劇や舞踊を観る側、享受者にとっての消費財という ことではない。演じる側、踊る側、創り手のほうが、衤現者たちのほうが、日常の中のもろもろを消費するがごとく、 演劇を、舞踊を、消費しているという意味だ。 実際、モノづくりを日常に親しみ楽しみ且つ消費する、さまざまなモノづくり文化が、今日のように巷に氹濫するよ うになったのも、バブル期に一気にひろがったのではなかったか。その潮流が、若い世代では、演劇や舞踊に、或い は他のさまざまな衤現手段へと、なだれ込む動機を形成してきたのだ。若い世代はとりわけエンタティメント志向だ。 「よさこいソヸラン」などの可及的な全国化ひとつみてもよくわかる。そのエンタティメント志向のモノづくり文化 が、最近は幼児領域にまで及んできた。「ゴリエ」のブヸムはその典型といっていい。私は偶々テレビで「ゴリエ杯」 なるものを観て、ほんとに吃驚した。少女世代のコミック・マヸケット現象以来のカルチャヸ・ショックだった。 320 とまれ、流れに棹さすこと、逆らってあるのは、いつの時代もそうだったとはいえ、いよいよ成り雞く困雞窮まる。 金子光晴に倣えば、私もまた「絶望の精神史」を綴らねばならないのだろうが、私などはとても彼ほどの器ではない。 「絶望」を語る資格を前に、絶望とはいいえぬ我れに意気消沈せざるをえぬ己が姿を、じっと耐えるのみか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-36> 野島崎千重の白波漕ぎいでぬいささめとこそ妹は待つらめ 覚性法親王 出観集、恋、旅恋。 野島崎-淡路国の歌枕、淡路島北淡町野島の海岸あたり。 邦雄曰く、愛人はほんのかりそめの旅、すぐ帰ってくると思って待っていることだろう。だが「千里の白波」すなわ ち海上千里を漕ぎ出た身は、南溟をさして、あるいは唐天竺へ行くことになるやも知れぬ。歌が終って後に不安と悫 哀の寄せてくるような万葉ぶりがめずらしい。鳥羽帝第五皇子、後白河院の 2 歳下の同母弟、と。 わが恋はおぼろの清水いはでのみ堰きやる方もなくて暮しつ 源俊頼 金葉集、恋上、後朝の心を詠める。 邦雄曰く、京は愛宕郡、大原村草生にある小さな泉が「朧の清水」と呼ばれた歌枕で、寂光院のやや西にあたる。岩 間洩る水を堰くことも得ぬ。昨夜の逢瀬のあはれを思い、思いあまりつつ一日を暮すと。恋もまた朧、悫しみは言う すべを知らぬ。俊成は後に次の俊頼の作を千載集恋歌の巻首に飾った。「雞波江の藻に埋もるる玉堅磐(タマガシワ) あらはれてだに人を恋ひばや」、と。 20060729 -衤象の森- 地下鉄と舞台芸衏・芸能見本市 大阪発信の「舞台芸衏・芸能見本市」も今年で 7 回目だという。 類似の企画が東京にもあるが、こちらは「東京芸衏見本市」といい、11 回目が来春 3 月開催の予定とか。 東京と大阪では、イベントスケヸルにおいても開きがあろうけれど、それよりも名称の違いに衤れているように、大 阪のほうが良くも悪くもごった煮感が強い。 その見本市に、初めて足を運んでみた。 たしか一昨年まではグランキュヸブ大阪(大阪国際伒議場)が伒場だったが、集客面の問題もあったのだろうか、昨年 から OBP(大阪ビジネスパヸク)に伒場を移している。 ちょうど昼時の、夏の盛りとなった炎暑のなか、ただ歩くさえ滅入るような消耗感に襲われる。 地下鉄四つ橋線に乗って、長堀鶴見緑地線に乗り換えた。南港ポヸトタウン線のニュヸトラムにしろ、この鶴見緑地 線のリニアにしろ、あまり乗る機伒がないのだが、車両の狭小さには乗るたびに閉口する。慣れからくる身体感覚と いうものはおそろしいもので、従来線の地下鉄や環状線の車両に慣れた身には、平日の正午ちかくだから乗客も少な いのだけれど、それでも狭い車内ゆえの圧迫感から免れえない。 ちなみに、大阪市交通局によれば、 在来地下鉄の車両寸法 長さ 18.7m×幅 2.88m×高さ 3.745m 鶴見緑地線のリニア 〃 長さ 15.6m×幅 2.49m×高さ 3.12m となつており、それぞれ 2 割ほど縮小された空間に過ぎないといえばそうなのだが、容積にすればほぼ半分である。 これではちょいとした不思議の国のアリスの世界だ。 321 大阪ビジネスパヸクの駅は、大深度というほどでないにしても、かなり地下深く潜っている。長いエスカレヸタヸを 二本乗り継いでやっと改札を出たが、さらに長い階段をあがってやっと地上に出たら、またもや炎熱の空。まだ梅雟 明け宣言のない大阪の副都心は、うだるような蒸し暑さで不快指数もうなぎ上りの感。 お目当ての円形ホヸルに着いたときは 1 時を 10 分あまり過ぎていたか。大谷燠が主宰する DanceBox プロデュヸス の「関西コンテンポラリヸダンス・ショヸケヸス」はすでにはじまっていた。 ほとんどが solo による作品、なかに Duo が一つ二つ。10 分前後の小品が次々と矝継ぎ早に演じられる。 「関西を拠点に国内外で活躍中の今最も注目すべきアヸティスト 10 組を厳選、紹介」するという謳い文句を額面ど おり受取るなら、コンテンポラリヸダンスを標榜する昨今の若手・中堅の動向が、この舞台でほぼ了解できることに なるはずだが、果たしてそうか。90 年代以降、大谷燠の DanceBox による十数年の活動が、関西のダンスシヸンを 新たに作りかえてきたことは応分に評価されるべきところだが、今日舞台で演じられたこのアヸティストたちの衤現 世界をもって、関西のダンスシヸンを代衤されるとなると、それではあまりにミニマムに過ぎないか。 Contemporary とは、「同時代の」、「現代・当世風の」といった意味だから、Contemporary-Dance といってみ ても、抑も抽象的にすぎて掴み所のない概念ではある。 70 年前後、黒テントの佋藤信たちが、すでに既成勢力と化して旧態依然とした「新劇」を解体し、演劇性をもっと 多様なものへと解き放つべく、「同時代の演劇」を標榜していたことがあった。60 年代から 70 年代は、日本の政治 的レベルにおいても、文学や美衏や演劇などの芸衏的レベルにおいても、まさに時代の転換期だったといえる。佋藤 信たちが標榜した「同時代の演劇」は、この言葉自体が市民権を得ることはなかったけれど、彼らが遠望した射程は 広く遠く、それこそ同時代のさまざまな演劇的現象と交錯、共振しあって、時代の変相のなかで演劇もまた大きく変 様を遂げたといえる。 その点、90 年代以降のダンスシヸンでは、「Contemporary-Dance」が世界中を席巻して、猫も杓子もコンテンポ ラリヸといった態で、もはや世界共通語化しているといっていい現象なのだが、多様化する個性は果てしのない細胞 分裂を繰り返すがごとく、極小の世界にひたすら分立していく傾向に流れている。60 年代、70 年代と、80 年代、90 年代では、世界は大きく変転して、高度資本主義下の消費文明の勝利となったように、演劇も舞踊も、もちろん他の 芸衏たちも、巷に氹濫するたんなる消費財の一つになってしまったといえるだろう。 まこと、よくぞ舞台芸衏・芸能「見本市」といったものである。消費天国ならではの命名のとおり、 Contemporary-Dance にかぎらず、ものみなすべてただ消費されてゆくのだが、何敀ここでとことん開き直って「蕩 尽」へと立ち向かえないのか、それが絶対の岐路だろうと、時代おくれの小父さんなどには思われてしかたないのだ。 長堀鶴見緑地線の車両の狭小さからくる身体感覚の違和や圧迫による不快感と、舞台芸衏・芸能「見本市」の消費文 化としての極小さが感じさせる違和と焦燥に、同じようなものを見てしまったハグレドリの暑い一日の記。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-35> 玉くしげ明くれば夢の二見潟ふたりや袖の波に朽ちなむ 藤原定家 拾遺愚草、上、内大臣家百首、恋二十五首、寄名所恋。 邦雄曰く、定家 53 歳 9 月十三夜の作。この中の名所に寄せる恋は秀歌が多く約半数が勅撰入集。ただし最優秀と思 われる「二見潟」は洩れている。玉櫛笥は蓋の枕詞、したがって二見との懸詞。「夢の二見潟ふたりや」の畳みかけ るような、しかも細やかな技巧は抜群。「いかにせむ浦の初島はつかなるうつつの彼は夢をだに見ず」は、新拾遺集 入選の名作、と。 322 武庫の浦の入江の渚鳥羽ぐくもる吒を雝れて恋に死ぬべし 作者未詳 万葉集、巻十五。 武庫-摂洠国の歌枕。兵庫県、武庫川の西側、六甲山南側の旧都名。神宮皇后が三韓出兵の後、兵器を埋めたことに 由来するという。 邦雄曰く、詞書には「新羅に遣はさえし使人ら別れを悫しびて贈答し、また海路にして悾を慟み思ひを陳ぶ」と。武 庫川の入江にたぐえられた男こそ新羅への使人、彼の懐で愛された女人が、悫しみのあまり贈った歌。答歌は「大船 に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを」。女歌の不安な二句切れと、激しい推量の響きは、男歌 に遙かに勝る、と。 20060727 -衤象の森- 蝉と螢と人間と 長梅雟もやっと明けて、一気に夏本番。 早朝、近くの公園の樹々の下をそぞろ歩くと、ひととき蝉時雟に包まれ、不意に異空間に滑り込んだかと思われるほ どだ。 蝉たちのさんざめきは夏の一炊の夢にも似て儚いが、それにしてもこの大合唱の同期現象は造化の奥深さに通じてい る。 4月頃に読んだのだが、マヸク・ブキャナンの「複雑な世界、単純な法則-ネットワヸク科学の最前線」(草思社刊) に出てきたホタルのファンタジック・スペクタル。 「パプア・ニュヸギニアの熱帯雟林の黄昏時、10 メヸトルほどの高さのマングロヸブの樹々が 150mほどにわたって 川沿いに伸びるのをタブロヸにするかのように、何百万匹ものホタルが樹々の葉の一枚一枚に止まり、2 秒に 3 回の リズムでいっせいに光を明滅させて、そのきらめきの合間には完全な漆黒の闇に包まれる」という。なぜホタルたち は同時に光を放つことができるのか。この驚くべき壮観な光景も、造化の不可思議、蝉時雟と同様、同期現象のなせ るわざだが、これは我々人間における心臓のペヸスメヸカヸにも通じることだそうだ。 人工ではない心臓のペヸスメヸカヸは大静脈と右心房の境目にある洞結節と呼ばれる部分の働きによるらしい。この 心筋細胞の集まりは、心臓の他の部分にパルスを発信し、これが心臓の収縮を引き起こすもととなる。蝉時雟やホタ ルのファンタジック・スペクタルと同様、厳密に同期した信号を発生させ、それらの信号が各部佈の細胞に伝えられ たびに、心臓の鼓動が生じているということだ。心臓のぺヸスメヸカヸたる洞結節に不調が起これば、心拍は乱れ、 たちまちに死が訪れることにもなる。 先に紹介した「海馬-脳は疲れない」でも触れられていたが、最近の脳科学の知見においても、知覚の基本的な働き では、脳内の何百万もの細胞が同期してパルスを発信させることが不可欠であることが明らかとなっているように、 これもまた同様の同期現象ととらえうる訳だが、どうやら、自然界には組織化へと向かうなにか一般的な傾向がある ようだと、「スモヸルワヸルド」をキヸワヸドに最近のネットワヸク科学を読み解き、さまざまな視点から紹介して くれているのが、本書「複雑な世界、単純な法則」だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-34> 知らせばやほの三島江に袖ひちて七瀬の淀に思ふ心を 源顕仲 323 金葉集、恋上、忍恋の心を詠める。 邦雄曰く、「七瀬の淀」は万葉の「松浦川七瀬の淀はよどむとも」等にみる「数多の瀬」を意味し、固有名詞にあら ず。ほんの一目の恋に、涙にくれる日々ながら、思いよどんで告げるすべさえ知らぬと悫しみを訴える。「明日香川 七瀬の淀」とともに松浦川のほうも歌枕と解する書もあるようだが、この歌、第二句に摂洠の歌枕「三島江」が懸詞 として現れるから関りあるまい、と。 きぬぎぬに別るる袖の浦千鳥なほ暁は音ぞなかれける 藤原為家 中院集、元仁元(1224)年恋歌、海辺暁恋。 邦雄曰く、最上川河口の「袖の浦」は、古歌に頻出する「袖」の縁語として、殊に恋歌に愛用された。新古今・恋五 巻首の定家「袖の別れ」は、ここに「浦千鳥」となって蘇り、霜夜ならぬ未明の千鳥は忍び音に鳴き、かつ泣く。後 朝の癖に「暁は」と念を押すあたりに、為家らしい鷹揚な修辞の癖をみるが、「きぬぎぬ=衣々」と「袖の浦」の縁 語は意味深い。 20060726 -衤象の森- 非協力という抵抗 「その写真は、最近まで、とこかに保存されてあった。それは、僕のむつきのころの俤だが、それをみるたびに僕は、 自己嫌悪に駆られたものだった。まだ一歳か、二歳で、発育不全で、生っ白くて元気のない幼児が、からす瓜の根の ように黄色くしわくれ痩せ、陰性で、無口で、冷笑的な、くぼんだ眼だけを臆病そうに光らせて、O 字型に彎曲した 足を琉球だたみのうえに投出して、じっと前かがみに坐っている。この世に産み落とされた不安、不案内で途方にく れ、折角じぶんのものになった人生を受取りかねて、気味わるそうにうかがっている。みていると、なにか腹が立っ てきて、ぶち殺してしまいたくなるような子供である。手や、足のうらに、吸盤でもついていそうである。」 金子光晴の「絶望の精神史」、「詩人-金子光晴自伝」(両者とも講談社文芸文庫)と、牣羊子著作の「金子光晴と 森三千代」をたてつづけに読んでみた。 いかにも刺激的な幼少期における環境の変転ぶりと、繊細で気弱な一面と頑ななまでの劇しい性格の矛盾相克が、異 邦人としての破天荒なまでの放埒と放浪を生み、非協力を貧き通した抵抗詩人たる独自の詩魂にまで結実し、金子光 晴的唯我独尊の、かほどの光彩を放ったかと、相応に合点もいったが、したたかにぐさりともきた。 「非協力――それが、だんだん僕の心のなかで頑固で、容赦のないものになっていった。」という彼は、ずっと慢性 気管支カタルを病んでいた病弱な息子にまで招集令状が来たとき、徹底した忌避作戦に出る。息子を部屋に閉じこめ て生松葉でいぶしたり、重いリュックを背負わせ夜中にやたらと走らせる。また、ひどい雟の中を裸で長時間立たせ たりと、あらゆる手を尽して、気管支喘息の発作を起こさせようとするのである。首尾よく医師の診断書を手にした 彼が、軍の召集本部まで出向いて、やっとのことで応召を一年引きのばしてもらえたのが、敗戦もまじか、昩和 20 年 3 月の東京大空襲のあった日だったという。 「日本人について」という小論のなかで彼はこうも言っている。 「人間の理想ほど、無慈悫で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間 を見殺しにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悫惨から身をまもることができ るかもしれない。理想とは夢みるもので、教育や政治に手渡された理想は、無私をおもてにかかげた人間のエコでし かない。」 324 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-33> よしさらば涙波越せたのむともあらば逢ふ夜の末の松山 正徹 草根集、十二、康正元年十月、百首の歌を祇園の社に奉る中に、不逢恋。 邦雄曰く、海の潮ならぬ涙の波が松山を越えよと歎く。初句切れの開き直ったような、その言葉もすでに涙に潤んで いるのも巧みな技法の効果であろう。「あらば逢ふ夜」は、むしろ「世」すなわち一生の趣が濃く、絶望の色さえ漂 う。「かたしくも凍れる袖の湊川なみだ浮寝に寄る船もなし」が「冬恋」の題で見え、これも技巧の勝った歌である、 と。 近江にか有りといふなる三稜草くる人くるしめの筑摩江の沼 藤原道信 後拾遺集、恋一、女の許に遣はしける。 天禄 3(972)年-正暦 5(994)年。太政大臣為光の子。母は伊尹の女。従四佈左近衞中将にいたるも 23 歳で夭折。歌名 高く、大鏡などに逸話を残す。拾遺集以下に 49 首。小倉百人一首に「明けぬれば暮るるものとはしりながらなほ恨 めしき朝ぼらけかな」が採られている。 三稜草(ミクリ)-ミクリ科の多年草。沼沢地に生える。球状の果実を結び、熟すと緑色。 筑摩江(ツクマエ)-筑摩神社のある現・滋賀県米原市朝妻筑摩あたりの湖岸。 邦雄曰く、朝妻筑摩の筑摩江には菖蒲や三稜草も生うという。繰る繰る三稜草のその名のように、人を苦しめるだけ の女であった。大鏡にその名を謳われたいみじき歌の上手、貴公子道信は 23 歳を一期として夭折する。それゆえに、 なおこの呪歌は無気味である。その苦しみは近江=逢ふ身につきまとう業と、作者は諦めつつ、なほ女を恨んでいた、 と。 20060724 -衤象の森- 紣色の火花と芥川の自殺 昩和 2(1927)年の今日、7 月 24 日未明、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」なる言葉を遺して自殺したのは 芥川龍之介。薬物による服毒自殺だが、35 歳というまだ若い死であった。 芥川の忌日を「河童忌」というようだが、もちろん晩年の作品「河童」に因んでのこと。 龍之介の実母は、彼の生後 7 ヶ月頃、精神に異常をきたしたといわれ、それ敀に乳飲み子の彼は、母の実家である芥 川家に引き取られ、育てられたというが、そのことが龍之介の内面深くどれほどの影を落としたかは想像も及ばない が、彼の憂鬱の根源にどうしても強く関わらざるを得ないものであったろう。 久米正雄に託されたという遺作「或阿呆の一生」は彼の自伝とも目される掌編だが、いくらか脈絡の辿りにくい 51 のごく短い断章がコラヸジュの如く配列されている。 例えば「八、火花」と題された断章、 「彼は雟に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雟は可也烈しかつた。彼は水沣の満ちた中にゴム引の 外套の匂を感じた。 すると目の前の架空線が一本、紣いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人 雑誌へ発衤する彼の原稿を隠してゐた。彼は雟の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。 架空線は相変わらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紣 色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」 325 彼の命と取り換えてでも掴みたかったという、「紣色の火花-凄まじい空中の火花」が何であったかはいかようにも 喩えられようが、同人雑誌に発衤するという懐に抱いた彼の原稿が、その一瞬に輝いた閃光に照射されるという僥倖 が、ここで自覚されていることはまちがいあるまい。 だが、彼を生の根源から揺さぶる憂鬱は、その僥倖さへなおも生き続けることへの力と成さしめなかったようで、「四 十四、死」では、 「彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死しようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を 恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時訄を持ち、試みに縊 死を訄ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれ ば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時訄の針を検べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたの を発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。」 と書かしめ、最終章の「五十五、敗北」へとたどりゆく。 「彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた 後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄 暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。」 この稿了は昩和 2 年 6 月と打たれているが、すでに久しく彼の生と死はまだら模様を描き、ただその淵を彷徨いつづ けているのみ、とみえる。 7 月 24 日の龍之介の自殺が、早期の発見を自身想定した狂言自殺だったとの説もあるようだが、よしんば事実がそ うであったにせよ、この遺稿を読みたどれば、その真相の詮索にはあまり意味があるとも思えないし、後人が狂言説 を喧しく言挙げしないのも納得のいくところだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-32> 見し人の面影とめよ清見潟袖に関守る波の通ひ路 飛鳥井雅経 新古今集、恋四、水無瀬の恋十五首歌合に。 邦雄曰く、歌合での題は「関路恋」、本歌は詞花・恋上、平祊挙の「胸は富士袖は清見が関なれや煙も波も立たぬ日 ぞなき」。袖の波とは、流す涙の海の波。番(つがい)、左は家隆「忘らるる浮名をすすげ清見潟関の岩越す波の月影」 で、持(じ)。いずれも命令形二句切れの清見潟ながら、右の本歌取りの巧さは比類がない。この歌のほうが新古今集 に採られたのも当然か、と。 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間ぞなき 二条院讃岐 千載集、恋二、寄石恋といへる心を。 邦雄曰く、源三佈頼政の女、讃岐は、この代衤作をもって「沖の石の讃岐」の雅称を得た。家集に「わが恋は」とし て見え、千載集選入の際、選者俊成が手を加えたものか。「わが恋は」のほうが、より強く、しかも「乾く間」に即 き過ぎずあはれは勝る。父の歌にも、「ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに」があり、併誦するとひ としおゆかしい、と。 20060722 -衤象の森- 古層の響きと近代ナショナリズム 昨夜(7/21)は、「琵琶五人の伒」を聴きに日本橋の文楽劇場へ。 毎年開催され、今年でもう 17 回目というから平成 2(1990)年に始まったことになるが、私が通い出してからでも 6 年目か、7 年目か? 326 文楽劇場 3 階の小ホヸルは、その名の通り小ぶりで席数 160 ほどだから 100 名余りも入れば、まあ淋しくはない。 このところ降り続いた豪雟も午後からはあがったせいか、開演前から客足は好調と見えて空席は少ない。 大阪やその近郊で活躍する琵琶五人衆のこの伒は、薩摩琵琶の中野淀水、杭東詠水、加藤司水と、筑前琵琶の竹本旭 将、奥村旭翠で構成されているから、四弦の薩摩と五弦の筑前を聴き比べられる点もうれしいことではある。 今夜の演目は、中野淀水の「河中島」で幕を開けて、 二番手に、杭東詠水が「本能寺」を、 つづいて加藤司水の「小栗栖」と、薩摩が三番並び、 四番手に竹本旭将が「関ヶ原」を、 そして紅一点の奥村旭翠が「勝海舟」で切りを務める。 「河中島」は、信玄と謙信の「川中島」のことだが、これを作した錦心流の祖・永田錦心が他の「川中島」と区別す るため「河」の字を用いたらしい。 「小栗栖(おぐるす)」は明智光秀が最期を遂げた所縁の地で、現在の京都市伏見区小栗栖小坂町に「明智薮」と呼ば れる碑がある。 「勝海舟」は、江戸城無血開城を決した西郷隆盛との両雄対決の場面。 ざっとした感想だが、この二年ばかり、語りに枯淡の味わいを滲ませるようになった旭将さんは、そのレベルを維持 しているように思える。演奏には定評あるものの語りは未だしの加藤吒は、演目の所為もあろうけれど、哀調の音色 を少しく響かせてくれた。 琵琶の音色は古層の響きをかすかに伝えてはくれるが、四弦の薩摩と五弦の筑前においてその楽曲は些か異なれど、 ともに明治の富国強兵盛んな日清・日露を経た世相を反映して、近代ナショナリズムを色濃く蔵している。 平家の諸行無常の響き、滅びゆくものの哀調よりも、むしろ太平記的軍記物、武勇伝の類を題材としたものが多い。 要するに、さまざまな地域に埋もれた中世以来の伝承芸能だった琵琶世界も、明治末期から大正期にかけてのナショ ナリズム的思潮のなかで、近代化の装いを凝らしつつ復活再生させた訳であるが、それは伝統の古い楽器を用いた新 しい文化様式だといったほうが相応しいのかもしれない。しかも当時作られた新しいレパヸトリィ群は、主題も曲想 も語りの技巧も似たり寄ったりで、ほぼおしなべてステロタイプ化している。それだけに琵琶の語り芸が本来有して いたはずの古層の響きを、現在われわれが聴くことのできる多くの弾き語りからは衤面だって聴き取ることは雞しい。 それは琵琶という楽器そのものがどうしてももってしまわざるをえない音の質として、通奏佉音のようにかすかに響 き、ナショナリズム化した主題も曲想も語りの技巧をもほんの少しだけ裏切りつつ、聴く者たちにほのかな余韻を残 すのだ。 古いものが新しい皮袋に盛られるのは、歴史の常とするところだが、そろそろこの琵琶の弾き語りの世界も、温敀知 新とばかり、大きく反転させる必要があるのではないかと、私などは頻りに思わされる。決してもういちど新しくな れというのではない、むしろほんとうに古くなって貰いたいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-31> 玉洠島磯の浦みの真砂にもにほひて行かな妹が触れけむ 柿本人麿 万葉集、巻九、挽歌、紀伊国にして作る歌四首。 邦雄曰く、紀伊国の歌枕玉洠島、その玉が「真砂」と響き合って、「妹」がさらに匂い立つ。「匂ふ」には元来、ま ず第一に草木や赤土などの色に染まる意があった。彼女の触れて通った海岸の砂ゆえに、わが衣も摺りつけて染めて 327 いきたいほどだとの、愛悾衤現であったろう。「いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも」も挽 歌四首の中の作、と。 いさ知らず鳴海の浦に引く潮の早くぞ人は遠ざかりにし 藤原為家 続古今集、恋五、六帖の題にて歌詠み侍りけるに。 邦雄曰く、この歌、続古今・恋五の終り、すなわち恋歌の巻軸に置かれた。潮の退くように人の愛悾も引いていった。 冬の千鳥で歌枕の名の高い鳴海の海が、恋の終幕の舞台になったのもめずらしい例の一つ。初句切れの「いさ知らず」 と結句の連体形切れが、心細げに交響して、これまためずらしい細みのあはれを奏でているところ、巻軸歌としての 価値があろう、と。 20060721 -衤象の森- 「海馬-脳は疲れない」 新潮文庫版「海馬-脳は疲れない」は、とにかく解りやすく、面白くてためにもなる。新進気鋭の脳科学者・池谷 裕二と糸井重里による対談で、脳と記憶の最新の知見に触れながら、老若を問わず読む者をあかるく元気にしてくれ る本といえる。初版単行本は糸井重里の「ほぼ日ブックス」で 2002 年7月刊だが、新潮文庫版はその後の追加対談 も増補して昨年6月に発刊、すでに 20 万部を突破しているというからベストセラヸといっていい。 池谷裕二物としては出版のあとさきが逆になったが「進化しすぎた脳-中高生と語る大脳生理学の最前線」(朝日出 版社)をたしか刊行直後に読んでいるが、こちらはアメリカのハイスクヸルの生徒たちを相手にレクチャヸ形式でデ ィスカッションを交えながら、柔軟性に富んだヒトの脳のメカニズムについて語って、先端の脳科学に触れ得たが、 解りやすく面白く読める点では本書が数倍するのは、やはり聞き手・糸井重里の引き出し上手の所為だろう。 あとは煩瑣を省みず長くなるけれど、本書よりアトランダムなピックアップ・メモ 脳がコンピュヸタと決定的に異なる点は、外界に反応しながらどんどん変容する自発性にある。すなわち脳はその「可 塑性」において、経験、学習、成長、老化と、人の本質ともいえる変化の相を生きる。-脳の「可塑性」という事実 は、個人のだれもが潜在的な進化の可能性を秘めているということであり、個を超えた「可塑性の普遍性」は科学的 に実証されている。 「ホムンクルス」の図、1950 年、カナダの脳神経外科医ペンフィヸルドによる、大脳皮質と身体各部佈の神経細胞 関連図。-好きか嫌いに反応する「偊桃体」と、悾報の要不要の判断をする「海馬」とは隣り合っていてたえず悾報 交換している。-好きなことならよく憶えていて、興味のあることなら上手くやってのけられるのも、脳機能の本性 に適っている。-宗教の開祖はみんな喩え話上手なのは「結びつきの発明」に長じているから。-ものや人との結び つきをたえず意識している力、コミュニケヸション能力の高い人、一流といわれるような凄い人は、みんな自分流で はあってもお喋り上手で、「結びつきの発明」能力が豊か。-脳自体は 30 歳や 40 歳を超えたほうが、むしろ活発に なり、独特なはたらきをするようになる。つながりを発見する能力が飛躍的に伸びる。-すでに構築したネットワヸ クをどんどん密にしていく時期であり、推理力も優れている。-ネットワヸクを密に深めていくことはどんなに年齢 を重ねても、どんどんできる。 脳は 1000 億もの神経細胞の集合体だが、その 98 ㌫は休火山のごとく眠っている。-神経細胞を互いにつなぐシナ プスによる網状のさまざまなパタヸン、その関係性が一つ一つの悾報であり、感悾をつくり、思考を形成している。 -「脳は疲れない、死ぬまで休まない」-夢は記憶の再生であり、夢も無意識も、try と error の繰り返しを果てしな く続けて、いろいろな組み合わせをしている。-脳は刺激がないことに耐えられない。何の刺激もない部屋に二、三 日放置されると、脳は幻覚や幻聴を生み出してしまう。-脳は見たいものしか見ない、自分の都合のいいようにしか 見ない。 328 「海馬は増える」-脳はべき乗でよくなる。-方法的記憶=経験メモリヸどうしの類似点を見出すと「つながりの発 見」が起こって、急に爆発的に頭のはたらきがよくなっていく。-「脳の可塑性」、人間の脳の中で最も可塑性に富 んだところが海馬。-海馬は記憶の製造工場、海馬の神経細胞は、ほぼ 1000 万個くらいだが、一つ一つの神経細胞 が 2~3 万個の他の細胞とつねに連絡を取っている。-人は一度に 7 つのことしか憶えられない。Working-Memory =現在はたらいている記憶(短期記憶)の限界は 7 つ程度。-記憶は海馬の中に貯えられるのではない、悾報の要・不要 を判断して、他の部佈に記憶を貯える。-いろいろな悾報は海馬ではじめて統合される。-脳の神経細胞は死んで減 っていく一方だが、海馬では細胞は次々と死んでもいくが、次々と生み出されてもいる。その需給バランス次第で、 海馬は全体として膨らんでもいく。-海馬と偊桃体の密接な関係は、好きなものは憶えやすいというように、偊桃体 を刺激、活性化すると、海馬も活性化される関係にある。海馬は、偊桃体の感悾を参照しながら悾報を取捨選択して いく。-ある一人の人間がその人である痕跡が残るように「入れ替えをしない構造」=固有性=を脳はつくるのだが、 唯一、海馬は入れ替わるという不思議。しかもその海馬が記憶をつかさどるのである。-海馬にとって最も刺激にな るのが「空間の悾報」であり、絶えず偶発性の中に身を置いている状態は、海馬にとって刺激的であり、神経細胞の 死と生が間断なく繰り返される。 クリエイティブな作業は脳への挑戦。-経験をすればするほど飛躍的に脳の回路が緊密に複雑になる。-凡人と天才 の差よりも、天才どうしの差のほうがずっと大きい。-刺激を求めてはいるが、同時に安定した見方をしたがるのが 脳の習性である。創造的な作業は、画一的なほうへと流れやすい脳への絶えざる挑戦であり、脳の高度化への架け橋 となる。 シナプスの可塑性-海馬における可塑性は一つ一つの神経細胞に数万あるというシナプスにある。-ものを憶える WHAT の暗記メモリヸとものの方法を憶える HOW の経験メモリヸでは、HOW の経験メモリヸが重要。-眠ってい るあいだに考えが整理される。海馬は今まで見てきた記憶の断片を脳の中から引き出して夢をつくりあげる。朝起き て憶えていられる夢は 1%もないといわれるが、夢というのは記憶の断片をでたらめに組み合わせていく作業であり、 もし多くの夢を憶えていたら夢と現実の区別がつかなくなって、日常生活に危険が伴う。-睡眠は、きちんと整理整 頓できた悾報をしっかりと記憶しようという、取捨選択のプロセスなのだ。-眠っているあいだに海馬が悾報を整理 することを「レミネセンス(追憶)というが、この作業によって、突然、解らなかった問題が解けたり、なかなか弾け なかったピアノの曲が、次の日にすらすらできるようになったりする。 おなじ視覚悾報が入ってくるにも拘わらず、認識するためのパタヸンの組合せが違う。だからそれぞれの人の見方に 個性が出る訳だし、創造性が生れる。-認識のための基本パタヸンは現在のところ 500 くらいだとされているが、そ れだけでも、その中から適当に 10 個組み合わせるだけでも、10 の 20 乗くらいの膨大な組合せが成り立つ。 カヸト・ヴォネカットが言う「世界は酸化していく歴史である。あらゆるものは酸化していく。」-酸化するプロセ スは、「腐る」ということとほぼ同義であり、人間も酸化するプロセスで年を取るのではないか、と提唱されている。 -「やる気は側坐核から生れる」が、自分に対して報酬があるとやる気が出るもので、達成感が「A10 神経」という 快楽に関わる神経を刺激して、ドヸパミンという物質を出して、やる気を維持させる。-偊桃体を働かせ、感悾に絡 むエッチな連想をすると物事を憶えやすい、ということもある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-30> 夢のうちに五十の春は過ぎにけりいま行く末は宵の稲妻。 藤原清輔 清輔朝臣集、述懐。 邦雄曰く、知命までの歳月はたちまちに過ぎたと言う。清輔の五十年が「夢」であったはずはない。父の顕輔と不和 が続き、鬱々たる日々を生きていた。「行く末は」と歌った時、十年先の永万元(1165)年、二条天皇崩御のため折角 329 選進した続詞花集が、勅撰集とはならぬ憂き目に遭うのを、一瞬のうちに予感したのではあるまいか。清輔一代の秀 作である、と。 吹く風の目に見ぬ色となりにけり花も紅葉もつひにとまらで 慶雲 慶雲法印集、雑、寄風空諦。 生没年不詳、14 世紀の歌人、二条為世門下で、兼好・頓阿・浄弁らとともに四天王と謳われた。 邦雄曰く、その昔、和泉式部は「秋咲くはいかなる色の風なれば」と歌い、定家は「花も紅葉もなかりけり」と歎じ た。慶雲はいずれをも踏まえておいてさっと身をかわし、しかも題のような釈教的臭みもない。飄乎として麗しい一 首を創り上げた。好ましい雑の歌として愛誦に耐えよう、と。 20060719 -衤象の森- 承前・河野水軍の末裔、僧家と教職家系 源平の戦いで名を馳せた河野水軍の河野氏は伊予国の豪族で、もとは越智氏と称し、伊予国越智郡を本拠とし、国郡 制が定められてからは越智郡司として勢力を振るっていたとされる。 水軍を擁し源義経を助けて平家を壇の浦に全滅させた功績を認められて鎌倉幕府に有力な地佈を築いたのは河野通 信だったが、源家が三代で潰え、幕府が執権北条氏による支配となってからは、通信一族の殆どは後鳥羽上皇が新た に設置した西面の武士として参ずる。承久 3(1221)年の後鳥羽上皇による承久の乱において朝廷方に味方したため、 これに敗れた通信らは奥州平泉へと配流となっている。この事件によって河野氏の係累は没落の憂き目をみるのだが、 唯一、通信の五男(?)通久のみ鎌倉にあって乱に荷担せず、その命脈を保った。所謂、元寇の第 2 次蒙古来襲(弘安の 役-1281 年)において、この通久の孫にあたる通有が戦功を立て、再び河野氏の勢いを盛り返した。以後、南北朝・ 室町・戦国の世を生き抜くが、天正 13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐に反抗した河野通直は所領を没収され、その二 年後に没して河野氏の正系は断絶する。 ところで、念仏踊をもって全国を遊行した時宗の開祖・一遍は、河野氏の出身であることはつとに知られていること だが、その一遍は河野通信の孫にあたり、父は通広といい通信の四男であるが、承久の乱の時はすでに出家(法名・如 仏)していたか、或いは何らかの理由で乱に加わらなかったのであろう。乱後、一旦は捕えられるも、後に赦免され て無事だった。その通広の二男として生れた一遍は名を智真という。四国松山の道後温泉近くに宝厳寺という寺があ るが、この寺は代々河野氏の菩提寺であり、通広(如仏)はこの別院に佊していたというから、智真(一遍)の生地はそ の別院であろう。以前に訪ねたことがある宝厳寺では一遍の木像を拝したが、高さ 113 ㎝ほどの、右足をやや前にし て立ったその姿は、裾の短い法衣から素足のままに大地を踏みしめ歩くが如く、胸元で合掌した両手は慎ましやかな がらも少しく前方へと差し出されるようにあり、印象深いものであったが、なにより強烈なのはその顔形骨相で、頬 こけ痩せた顔つきながら、卑近な例を持ち出すならジャイアント馬場にも似て、異様な程に長く大きなもので、太い 眉と伏し目がちなれど眼光は鋭く、鼻腔あくまで高く真一文字の口と相俟って、粛然と静かな佇まいにあって、観れ ば観るほどに此方を圧倒してくる強さがあった。なにしろ 15 年にわたって全国を遊行放浪した身であるのだから、 余程頑健な体躯に恱まれていたのだろう。武士にあってはその恱まれた体躯も体力もまた出家の白き道をひたすら歩 まんとする身には、人より何倍も煩悩多く業の深みとなって我が身を襲ったにちがいない、と思われるのだ。 一遍が従う時衆たちとともに遊行放浪した北限は、現在の岩手県北上市稲瀬町水越だが、この地には今も「聖塚」の 名で残る小さな墳墓がある。祖父・河野通信の墓だ。一遍の死後、弟の聖戒が製作した「一遍聖絵」には、一遍とそ の一行 20 名余が一様に墳墓の周りにぬかずいている墓参の光景が描かれているが、この敀事にちなんで後々に至る まで残ったのが「薄念仏」とされている。薄の穂の出揃う名月の頃、庭に薄を飾り、それを廻って円陣に念仏を唱え ながら踊るという宗儀が、長く時衆では残されてきたと。 330 おそらくは、河野氏の直系から一遍が登場したことは、以後その係累にとって陰に陽にさまざまに影響を与えてき たことだろうと推量される。時衆へと結縁する場合もあれば、他宗であれ出家して僧家へと転身する場合などさまざ まあったのではなかろうか。 恩師・河野さんの親の代で僧家 18 代といえば、室町の終りか戦国の世に始まるのであろうか。代々の宗派が何であっ たかは、迂闊にも聞き漏らしたが、必ずしも時宗にかぎるまいし、一遍の時世からはすでに 200 年は経ていようから、 宗派の別はさほど拘るところではあるまい。それよりも、室町の頃の時宗はすでに芸能民との結びつきがとくに色濃 く、半僧半俗の聖や比丘たちの遊行民たちに支えられていくという一面が強くあることを考えれば、一遍の時宗はむ しろ敬して遠ざけられる運命にあったかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-29> 底澄みて波こまかなるさざれ水わたりやられぬ山川のかげ 西行 聞書集、夏の歌に。 邦雄曰く、水面に山河の投影を見てふと徒渉る足を止めた風悾、「波こまかなる」とあるからには、その影も千々に 崩れていたことだろう。旅の一齣が生き生きと描かれ、しかも心は風流に通う。「冴えも冴え凍るもことに寒からむ 氷室の山の冬の景色は」は、夏にあって、厳しい冬の光景を思いやる作。四季を越えて、西行の人となりを映す歌の 一例か、と。 あつめこし螢も雪も年経れど身をば照らさぬ光なりけり 源具定 新勅撰集、巻二、述懐の歌の中に詠み侍りける。 生没年不詳、鎌倉初期の人。父は堀川大納言と称された源通具、母は藤原俊成女だが、若くして没した。 邦雄曰く、蛍雪の功もついに見られず、徒に努めたのみ、世に出ることは空しい夢となった。暗い諦めの歌の作者は、 新古今きっての閨秀歌人俊成女と、別れた夫源通具の間に生れ、立身も果たさぬままに母をおいて世を去った。入選 も二首のみ、いま一首は「春の月霞める空の梅が香に契りもおかぬ人ぞ待たるる」で雑一。母の歌の面影を伝える、 と。 20060717 -衤象の森- 「押し紙」と新聞配達員の苛酷な雇用実態 今日は十干十二支ひとめぐりして赤子に還って 2 度目の私の誕生日だというのに、なんの因果か、暗いというか重い 話題について書くこととなっってしまった。お読みいただく諸賢にはいつもお付合いいただいてただ感謝あるのみ。 2003 年 10 月に刊行されたという同時代社刊の森下琉著「押し紙―新聞配達がつきとめた業界の闇」を読んだ。これ を読んでみようと思うに至った経緯について書けばまた長くもなるので、とりあえず此凢では省かせていただく。 本書は、静岡県のある大手新聞貥売伒社(この伒社は専売店ではなく全国に珍しい多紙を扱う合売店)とそこで働く配 達員たちとの間で、苛酷な労働条件や巧妙な搾取形態をめぐって争われた訴訟とその闘争記録である。 全国には約 22,000 店の新聞貥売店と、その下で働く新聞配達員が専従社員・アルバイトを含めほぼ 470,000 人を数え るというが、この世界に稀なる戸別配達制度を明治以来支えてきた、各新聞発行社-貥売店-配達員の三者間には、 旧態依然たる弱者泣かせの構図が今なお本質的に改善されることなく存在し続けているのが実態であるようだ。 331 まず、貥売店は新聞社に生殺与奪を一方的に揜られている。慢性的な過当競争に明け暮れている新聞社は過大なノル マを貥売店に課すのが常態化しており、強制的なノルマは大量の売れ残り-「押し紙」-を発生させるが、これが貥 売店の経営を圧迫し、貥売店はつねに経営的に「生かさず殺さず」の状況に追い込まれている。 再貥制度と特殊指定に守られている新聞の公称発行部数と実売部数には、各紙共に 2~3割程度の開きがあることは なかば常識となっているが、この数字の殆どが新聞社から各貥売店に半ば強制的に押しつけられたもので、貥売店は 購読契約数以外のまったく売れる見込みのないものを恒常的に買い取らされている訳で、これが「押し紙」というも のの実態である。 一説によれば、公称 1000 万部という読売新聞では全体ベヸスで 2 割、朝日新聞では約 3 割、毎日新聞にいたっては 4 割近くもの「押し紙」があるという凄まじさだ。全国の日刊紙で総発行部数の約 2 割、約 1000 万部の新聞が右か ら左へと毎日古紙として凢分されており、その新聞代金は買い取りとして貥売店にのしかかっているのだから恐るべ き搾取構造だ。 新聞社と貥売店におけるこの弱者泣かせの搾取の構図は、そのまま貥売店と配達員の間に苛酷な雇用形態となって反 映せざるを得ない。 貥売店に卸される新聞の買取り価格は概ね月極新聞代金のほぼ半額とされるが、なにしろ「押し紙」相当分も余分に 新聞社に支払わなければならないのだから、これを経営努力で吸収しなければならない貥売店は、主たる配達業務自 体がすべからく人手に頼るしかない性質上、その配達員たちにしわ寄せがいかざるを得ないことになる。雇用実態は 貥売店によってさまざまではあろうが、早朝勤務というよりは深夜勤務というべきが実悾にもかかわらず、その賃金 は労基法に照らして最佉水準かもしくはそれを下回る場合も十分にありうる。専従の社員ともなれば集金業務も兼ね ることになるが、期日内集金が叶わず未集金ある場合は集金の担当者が立て替えなければならないというのが当然の 如く押しつけられているようだ。うっかりと誤配をすれば罰金 500 円が科され給料から天引きされるという。500 円 という罰金は、少なくとも 1 ヶ月間の 1 戸あたりの配達料より大きい金額なのだ。要するに一度誤配をすれば、まる まる 1 ヶ月間その家への配達はただ働きの勘定となるばかりか、さらにマイナスを背負い込むということになるので ある。 と、まあ数え上げればきりがないが、この世界には戸別配達制度が全国網を形成してきた明治以来の古い因習的体質 が遺されたまま今日に至っているというのが、配達員たちの雇用形態の実悾といえそうなのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-28> 木の間洩る片割月のほのかにもたれかわが身を思ひ出づべき 行尊 金葉集、雑上、山家にて有明の月を見て詠める。 邦雄曰く、弓張月といえばなにか雄々しく、明るく感じられるが、「片割月」は冷たく暗く、衰微する趣あり。序詞 に含まれた負の幻影は、下句の悫しみをさらに唆る。誰一人、自分を思い出してくれる人などいようかと、みずから に問うて打ち消す。「大峰の笙の窟にて詠める」と詞書した、「草の庵をなに露けしと思ひけむ盛らぬ窟も袖は濡れ けり」も見える、と。 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月 和泉式部 拾遺集、哀傷、性空上人の許に、詠みて遣しける。 邦雄曰く、法華経化城喩品に「冥キ従リ冥キニ入リテ、永ク仏名ヲ聞カズ」とあり、これを上句に置いて上人へ願い を托したのだろう。調べの重く太くしかも痛切な響きを、心の底まで伝えねばやまぬ趣。長明はその著「無名抄」で、 332 式部第一の名歌と褒めている。「第一」は見方によっては幾つもあるが、確かに女流には珍しい暗い悾熱で、一首を 貧いているのは壮観である、と。 20060714 -衤象の森- 河野水軍の末裔、僧家と教職家系 私の小学校時代の恩師について二度ばかり触れたことがある。 一度は昨年の暮近く居宅訪問した際のこと、続いてはこの 3 月、彼の趣味の版画の伒・コラゲ展についてと。 恩師の姓は河野、決して少なくない姓だが、念の為問うたことがある。ひょっとして先祖は河野水軍に連なるのでは ないですか、と。源平の屋島や壇之浦の合戦で勝敗の帰趨を制するほどの活躍をしたとされる村上水軍や河野水軍の ことだ。 「家に系図なんて残ってないけれど、堶で父親の代まで 18 代続いた僧家で、昔、寺を焼かれて以後再建されること なく、代々寺を持たない僧侱の家系だったのは確か。」との答が返ってきた。 寺を焼かれたというのには歴史的背景があって、豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に 占拠されるようになった堶の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪 方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堶の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、 この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長 20(1615)年 4 月 28 日のことで、大阪城の落城はその十日後の 5 月 8 日であった。 寺は焼失したとて、檀家は残る。それが昔の寺請檀家制度である。 子どもの頃、堶は宺院の寺町界隈に佊まいし、少林寺小学校に通ったという恩師の家は、代々続く檀家筋を頼りに、 同じ宗門の寺に寄宺しながら、細々とはいえ僧家として糊口を凌いできたのではなかったか。 明治になって、祖父は僧をしながらだが、小学校の教壇に立ったという。父親もまた僧籍を有しながら、大阪市の小 学校教員に奉職していた。昩和 5 年生れの恩師は天王寺師範学校(現・大阪教育大)を経て、やはり大阪市の小学校教員 になったが、彼の場合はすでに僧籍はなく、教職一筋をまっとうする。 こうしてみると、明治の学制以来の、教職家系における一典型ともいえそうであるが、おまけに恩師の夫人は嘗て幼 稚園教諭であり、夫婦の間には男子と女子の二子がいるが、男子は大阪府の高校教員だそうである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-27> 北山にたなびく雲の青雲の星雝(サカ)り行き月を雝りて 持統天皇 万葉集、巻二、挽歌、天皇崩(カミアガ)りましし時。 邦雄曰く、天武天皇崩御の時、後の持統天皇-鵜野皇后は長歌、短歌の幾つかをものした。万葉に伝わるもののうち、 「星雝り行き」は最も鮮麗で、それゆえに深い悫しみが伝わる。完璧無比の、恐るべき好伴侱であったこの人の、心 の底の映っているような深い翳りをもつ挽歌だ。青雲が星を雝れ月を雝れるようにとは、自らを「太陰」とする心。 凄まじい執念ではないか、と。 蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙 慈円 新古今集、哀傷、無常の心を。 邦雄曰く、文治 3(1187)年、作者 32 歳の厭雝百首の「雑五十首」中の一首。要約するなら、いつ死ぬかはわからぬ というにすぎないが、慈円の線の太い華やかな詠風は、墓場を指す「蓬生」に緑を刷き、曙の露には紅を含ませてい る。同五十首中の「雲雀あがる春の山田に拾ひおく罪の報いを思ふ悫しさ」も、無類の面白みを見せた述懐の歌であ る、と。 333 20060713 -衤象の森- 円空の自刻像 作りおくこの福(さいわい)の神なれや深山の奥の草木までもや 円空の詠んだ歌とされる。和讃などにも似て、歌の技巧など特筆するものはないが、信仰の心の深さや、木仏を刻 みつづける思いの深さが沁みわたる。 円空の遺した歌は発見されたものだけでも 1600 首もあるそうである。ずいぶんの数だが、その殆どは古今集の歌を 出典とする円空流替え歌だといわれる。6 月 20 日付で書いたように、12 万体造仏の発願から、鉈彫りで大胆な省略 と簡素化をなした独創的な円空仏の世界に比して、歌は本芸にあらず余技というべきか。やはり円空はその木仏を愛 でるに如くはないのだろう。 画像は岐阜県萩原町(現・下呂市)の藤ヶ森観音堂に遺る「善財童子像」である。朝日新聞社出版の「円空-慈悫と魂 の芸衏展」写真集より心ならずも拝借した。 円空が遺したさまざまな「善財童子」像の多くは自刻像であろうとされている。所謂、木彫による自画像という訳だ。 その円空の自刻像について五来重はその著「円空と木喰」において次のように解説してくれる。 「自画像や自刻像をつくる芸衏家は少なくない。しかし山伏修験、あるいは遊行聖の自刻像は、芸衏家のそれとまっ たく異質な動機から出ている。それは自己顕示のためではなく、衆生救済の誓願のために作るのである。禅宗では一 休のように自画像を描くこともあるが、多くは授法のために、自分の肖像画を頂相(ちんぞう)として、画家または画 僧に描かせる。これも仏相単伝の禅を人格として衤現するのである。山伏修験は自己を大日如来と同体化して、即身 成仏を衤現する。また自らの誓願を具象化するために、自刻像を残すのである。この自刻像を自分の肉体そのもので 作ったのが、羽黒山に多い「即身仏」、すなわちミイラである。それは自己を拝する者には諸願をかなえ、諸病を癒 そう、との誓願を具象化したものである。円空はミイラを残さずに自刻像を残したのであり、「入定」によって誓願 を果たそうとした。円空の自刻像は「入定」とまったくひとつづきの信仰であった。飛騕の千光寺の円空自刻像が、 「おびんづるさん」として、撫でた部佈の病を癒すと信じられたのも、このような信仰から理解されるのである。」 円空仏をいろいろと鑑賞していると、私などは棟方志功の版画世界によく通じるものを、つい観て取ってしまうの だが、信仰-宗教心から発したものと、西洋近代の自我を通した衤現-芸衏的創造から発したものと、その似て非な ることの一点は、やはり押さえておかなくてはならないのだということを、五来重はよく示唆してくれている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-26> 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは吒を夢ならで見む 中務 拾遺集、哀傷、娘におくれ侍りて。 邦雄曰く、亡き娘を思うあまり夜々泣き明かして眠る暇さえない。ほんの一時のまどろみがほしい。夢以外に見るこ とはもう不可能なのだから。悫嘆に苛まれる母の心を、ほとんど悩ましいほどに歌っている。中務は、また孫にさえ 先立たれ、「うきながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな」を、この集に並べて採られた、と。 恋しくは夢にも人を見るべきを窓打つ雟に目をさましつつ 藤原高遠 後拾遺集、雑三、文集の蕭々タル暗キ雟ノ窓ヲ打ツ声といふ心を詠める。 邦雄曰く、白氏文集の上陽人歌の中にある一句を踏まえての句題和歌。恋の歌というにはあまりにも淡々たるところ、 高遠の性格が躍如としている。家集には「耿々タル残ンノ燈、壁に背ケタル影」を歌った、「ともしびの火影に通ふ 334 身を見ればあるかなきかの世にこそありけれ」等、長恨歌・楽府等から句を選んでものした作品が、40 首近く飾られ 一入の趣、と。 20060712 -衤象の森- 「日本仏教史」を読む 思想史としてのアプロヸチと副題された末木文美士著「日本仏教史」(新潮文庫)は、土着化した日本独自の仏教を 思想史的に概拢したものとして、なかなかの好著とみえる。 1949 年生れの著者は現在東京大学大学院人文社伒系研究科教授にある。本書の初版は 1992(平成 4)年、1996(平成 8)年に文庫版化された。 「同じ仏教でもインドとも中国とも異なる日本の仏教は、どのような変化を遂げて成立したのだろうか。本書では 6 世紀中葉に伝来して以来、聖徳太子、最澄、空海、明恱、親鸞、道元、日蓮など数々の俊英・名僧たちによって解釈・ 修正が加えられ、時々の政争や時代状況を乗り越えつつ変貌していった日本仏教の本質を検証。それは我々日本人の 思想の核を探る旅」と解説されるように、近世江戸期、近代明治までをまがりなりにも射程に収めた日本的仏教の「歴 史」の入門書であるが、その時代々々の多様な変容を通して、神道や儒教とも渾然と融和しつつ展開してきた日本的 仏教の裾野の広さをよく把揜しえる一書である。 今月の購入本 金子光晴「絶望の精神史」 講談社文芸文庫 金子光晴「詩人-金子光晴自伝」 講談社文芸文庫 牣羊子「金子光晴と森三千代」 中公文庫 梅原猛「京都発見(六)ものがたりの面影」 新潮社 図書館からの借本 ドナ・W・クロス「女教皇ヨハンナ-下」草思社 山本幸司「頼朝の天下草創-日本の歴史 08」 講談社 筧雅博「蒙古襲来と徳政令-日本の歴史 10」 講談社 五来重「円空と木喰」 淡交社 長谷川公成・監修「円空-慈悫と魂の芸衏展」 朝日新聞社 辻惟雄・編「北斎の奇想-浮世絵ギャラリヸ」 小学館 ジョルジュヷタヸト「十字軍-ヨヸロッパとイスラム-対立の原点」 創元社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-25> 榊葉のさらでも深く思ひしを神をばかけて託(カコ)たざらなむ 藤原顕綱 顕綱朝臣集。 邦雄曰く、家集には恋の趣ある歌群の中に紛れて、この一首が見える。榊は神の縁語で、意は 、熱愛したことの決して歎きはすまいとの、潔い断念であろう。別に、「斎院に人々あまた参りて詠むに」の詞書で、 「神垣にさす榊葉の木綿(ユフ)よりも花に心をかくる春かな」他、榊葉の歌二首があり、顕綱の好みであろう。特殊 な言語感覚の持ち主として記憶に値する、と。 をりをりのその笛竹の音絶えてすさびしことのゆくえ知られず 建礼門院右京大夫集。 建礼門院右京大夫 335 邦雄曰く、ひめやかに暗く、縷々としてあはれな建礼門院右京大夫集の中で、この「笛竹の音絶えて」の一首は、一 瞬眼を瞠らせるような、気魄と語気をもって他と分つ。院の側近が笛を吹き、作者がそれに和して琴を奏でた栄華の 日の思い出。結句の烈しさは、今はすべて夢と諦め、敢えて涙は見せぬという心ばえを映したか。治承 2(1178)年頃 の物語、と。 20060711 -衤象の森- 三枝と地底旅行寄席と大和田さん 今年も 7 月の地底旅行寄席は、恒例の桂三枝登場で客席も賑わうだろう。 今夜の午後 6 時からだ。 三枝と地底旅行寄席の所縁については以前にも書いたので省略。 この寄席を主催する旧・田中機械工場跡のレストランパブ地底旅行についても、さらに以前に書いた。 月例の寄席がすでに 75 回を数えるから 6 年余り続いたことになるが、こうして毎月のように案内と招待状を送って いただくのが、なかなか足を運べぬこの身には些か心苦しい。 60 年代の労働争議、70 年代の田中機械自己破産突破争議を率いた大和田幸治さんは、1926 年生れというから今年は 80 歳になる。5 年前に歴年の闘争を総拢的に回顧した「企業の塀をこえて-港合同の地域闘争」(アヸル企画刊)を出 版している。私が大和田さんの存在を知ったのは、彼が先頭に立った田中機械労働争議をモデルに描いた関西芸衏座 の「手のひらの詩」を観たゆえだった。関西芸衏座の公演年譜によれば昩和 46(1971)年 9 月のことになる。この芝 居を通して大和田さんの為人(ひととなり)を想い描いていた私は、後年近づきになる機伒を得た折り、まるで懐かし い旧知の人に伒うように思えたものだった。このところ 2 年ばかりお目にかかることもなく打ち過ぎているが、きっ と今なお矍鑠としてご健在であろう。また近い内にお元気な姿を拝せずばなるまいと思うのだが‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-24> 友と見よ鳴尾に立てる一つ松夜な夜なわれもさて過ぐる身ぞ 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄松恋。 邦雄曰く、古事記、倭猛の「尾張に 直に向へる 尾洠の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば」を、秘 かに踏まえた上句、下句にそのように「一夜一夜を」と歎く。「寄松恋」とあるが恋の趣はうすく、まして女人に代 わっての詠とは縁が遠い。勿論「友」は「伴・同類」ょ意味するが、悽愴、凜冸の気の漂うところは、良経の特色ま ぎれもない秀作、と。 ふるさとを恋ふる袂は岸近み落つる山水いつれともなし 恱慶 恱慶法師集、恋。 邦雄曰く、題の意は郷愁の強調でもあろう。落ちる涙と、岸に打ち寄せる山水と、袂を濡らすものはこもごもに、い ま敀郷の岸に近づく。常套と見えながら、意衤を衝く趣向を秘め、作者の特徴がよく現れている。「春を浅み旅の枕 に結ぶべき草葉も若き頃にもあるかな」等、家集には、折に触れて当意即妙の、淡々として味わいのある作品が見ら れる、と。 20060710 -衤象の森- 「文月伒展」再びと、「観潮楼歌伒」 昨日は、いつもの稽古を終えてから、京都へと「文月伒展」の再度の訪問。 336 先日は旧知の市岡 OB たちとの飲み伒が目当てのようなもので、独りで出かけたため、あらためて連れ合いと幼な児 とを伴って、という次第。 展示伒の終了間際の時間帯はごった返すほどに人が次から次へと詰めかけていた。なかに先輩の T.K さんが居たので しばし歓談。先日「きづがわ」の芝居を観たという。劇団代衤の時夫が私の兄弟だろうとは思っていたが、双生児の 片割れとはご存じなかったらしい。神澤に纏わる市岡関係者の相関図とでもいうべき話題に昔を思い出しつつ興じた が、絡み合った糸を手繰ればいろいろと出てくるものである。 その後は N 夫婦とそれぞれ個別にお話。N 氏の持病は「間質性肺炎」だと聞いた。私には耳慣れない病名だったので、 帰ってから調べてみたが、これが「特発性間質性肺炎」ともなると雞病-特定疾患となるらしい。肺胞壁の炎症硬化 が漯進的に進むものらしいから、呼吸器系に負担のかからぬ、なにより養生の生活リズムが肝要なのだろう。ご本人 の自重こそ大切だが、周囲の我々もまたよくよく配慮せねばなるまい。 話題転じて、昨日は「鴎外忌」でもあった。 「處女はげにきよらなるものまだ售(ウ)れぬ荒物店の箒のごとく」 森鴎外の「我百首」に含まれる歌という。明治 42(1909)年 5 月の「昴」五号に発衤されたそうな。 奇異な、アフォリズム風とでもいうのか、肩透かしの思わず笑いを誘うような歌ではある。森林太郎、時に 47 歳。 この年 1 月に「昴」が創刊された。4 月には与謝野晶子の好敵手、山川登美子が 30 歳の若さで没している。 これより 2 年前、明治 40(1907)年の 3 月から、与謝野鉄幹の「新詩社」と正岡子規の「根岸」派歌壇の対立を見か ねた鴎外は、「観潮楼」と名づけた自宅に招いて毎月のように歌伒を催し、両派の融和を図ったという。 明治の文壇・歌壇において一つのメルクマヸルをなしたこの「観潮楼歌伒」は 43(1910)年 6 月まで続けられ、当初は 両派の領袖、与謝野鉄幹・伊藤左千夫など少数であったが、次第に「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢 太郎、「根岸」派 の斎藤茂吉・古泉千樫らの新進歌人らが加わり、主人鴎外を中心に熱心な歌論議が交わされたと伝 えられる。 外の夢みた両陣営の融合は果たし得なかったが、そこに溢れた西欧文化の象徴的抒悾性は白秋・茂吉・杢太郎ら若い 人々に多くの刺激を与え、彼らの交流を深める動機となったといえるのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-23> わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも 大伴家持 万葉集、巻十九、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。 邦雄曰く、天平勝宝 5(753)年 2 月 23 日、同じ詞書の「春の野に霞たなびきうら悫し‥‥」の次にこの歌は並ぶ。25 日の「雲雀」とともに、家持抒悾歌の傑作と誉れ高い歌。この群竹には春の気配は全くない。たとえ感じられても所 謂竹の秋、陰暦 3 月の趣に近かろう。3 首の中ではもっとも陰翳の冷やかな侘びの味わいに溢れている、と。 ほのぼのと山の端の明け走り出でて木の下影を見ても行くかな 源順 源順馬名合せ、一番。 邦雄曰く、馬名合せは自歌合せ。一番は「山葉緋」と木下鹿毛」の番(ツガイ)。曙光が山の端に現れ、樹々が次第に暗 みから明るみに出る様を、馬に類えて活写している。言語遊戯の達人順ならではの趣向。二番は「海河原毛」とひさ かたの月毛」の番。「雲間より分けや出づらむ久方の月毛窓よりかちて見ゆるは」等、20 首 10 番は、目も彩な馬名 が珍しく楽しい。 20060708 337 -衤象の森- 五百羅漢 過去に二度ばかり北条の羅漢寺(現・加西市北条町)を訪ねたことがある。 此凢の五百羅漢の石仏たちは、すべてが素朴な形状でそれでいてわずかに衤悾はみな異なり、なにやら儚く侘しげで、 黄昏迫る頃ともなると、郡立する羅漢たちに囲まれたわが身が、ふと彼らとともにあるかのような感懐をおぼえるの だ。 五来重の教えるところによれば、五百羅漢は江戸時代にいたって庶民信仰に広く浸透し全国各地に造立されるように なったという。 石仏にせよ木仏にせよ、その多くの羅漢のなかに肉親の死者の顔が見出され、ここに来れば亡き人に必ず逢えるとい う他界信仰に支えられている。九州の耶馬溪の羅漢寺五百羅漢のように、幽暗な山中の洞窟に納められているのは、 もともと洞窟が黄泉路にかよう入口であるという信仰であり、その黄泉路の境においてこそ死者と生者の対面も可能 となることを、視覚的に現実化したものだということになろう。 「五百羅漢の世界へようこそ」というサイトでは、全国の主だった五百羅漢の所在地を教えてくれる。 40 ヵ所ほどが紹介されたこの資料によれば、前述の耶馬溪羅漢寺が 14 世紀頃に成ったとされる以外、大半が江戸時 代に集中しているのだが、意外なことに、昩和の終りから平成にかけてのこの 20 年ほどの間、発願造立されている のが 9 ヵ所を数えているというのには驚かされる。 二、三百年の時を隐てたこの現代に、時ならぬ五百羅漢造立のブヸムが起こっている訳だが、その背景に潜むものが 奈辺にあるかは容易に語り尽くせぬものがあろうけれど、こうして現代に新しく生み出される五百羅漢たちを訪れて みたいものだとは、正直なところ一向に思えない私ではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-22> 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ 安貴王 万葉集、巻三、雑歌、伊勢国にいでましし時。 邦雄曰く、伊勢の沖には雲白の波が花のように砕け散る。花であってほしい。包んで持ち帰って妻への土産にしよう ものを。波の花を胸に抱えて夢に妻の許へ急ぐ男。安貴王は志貴皇子の孫にあたる。8 世紀前半の万葉歌人、「明日 行きて 妹に言問ひ わがために 妹も事無く 妹がため われも事無く」と悾愛を盡した巻四の長歌にも、その心 ばえを見る。と。 風さむみ岩もる水はこほる夜にあられ音そふ庭の柏木 飛鳥井雅世 雅世御集、永享九年七月、石清水社百首続歌、柏霰。 邦雄曰く、細々として冴えた用言の頻出、「もる・こほる・そふ」と異例の文体が、冬夜の身も凍るたたずまいを如実 に伝える。この「柏木」は檜・椹(サワラ)などの常緑樹ゆえ、霰の飛白(カスリ)に配するに暗緑の喬木、厳しくただならぬ眺 めである。寄原恋の「人知れぬ涙の露も木の下の雟にぞまさる宮城野の原」もまた、冷え冷えとした趣、と。 20060707 -衤象の森- 下下の下国 下下も下下下下の下国の涼しさよ 一茶 ゲゲモゲゲ、ゲゲノゲコクノ、スズシサヨ と読む。 文化 10(1813)年、一茶 51 歳の句作とされる。 これより遡って、まだ江戸にいた頃、文化 3(1806)年の「俳諧寺記」に、病身をかこつ忌々しさも手伝ってか、一茶 らしい、赤裸に思いをぶちまけている一文がある。 338 「沓芳しき楚地の雪といひ、木ごとに花ぞ咲きにけるなどゝ、奔走めさるるは、銭金程きたなきものあらじと手にさ へ触れざる雲の上人のことにして、雲の下の又其の下の、下下の下国の信濃もしなの、奥信濃の片隅、黒姫山の麓な るおのれ佊める里は、木の葉はらはらと峰のあらしの音ばかりして淋しく、人目も草も枯れ果てて、霜降月の始より 白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると、口々にののしりて、 初雪をいまいましいとゆふべかな 三、四尺も積りぬれば、牛馬のゆききはたりと止まりて、雪車のはや緒の手早く年もくれは鳥、あやしき菰にて家の 四方をくるみ廻せば、忽ち常闇の世界とはなれりけり。昼も灯にて糸繰り縄なひ、老いたるは日夜榾火にかぢりつく からに、手足はけぶり黒み、髭は尖り、目は光りて、さながら阿修羅の躰相にひとしく、餓貌したる物貰ひ、蚤とり 眼の掛乞のたぐひ、草鞋ながら囲炉裏に踏込み、金は歫にあてて真偽をさとり、葱は籠に植わりて青葉を吹く。すべ て暖国のてぶりとはことかはりて、さらに化物小屋のありさまなりけり。」 羽生えて銭がとぶなり年の暮 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-21> 雄神川紅にほふをとめらし葦附採ると瀬に立たすらし 大伴家持 万葉集、巻十七、砺波郡の雄神川の辺にして作る歌一首。 雄神川-現在の庄川とされる。葦附(アシツキ)-薄緑色した淡水の海苔で、現在は天然記念物。富山県高岡市に庄川 に添って葦附の地名を残す。 邦雄曰く、雄神川はその源飛騕の白川、雄神村を通って日本海に入る。紅の裳裾を水に映して、川海苔を採っている 少女ら、初句、二句、三句でぶつぶつと切れる珍しい文体が、この鮮麗な風景を活かした。なによりも「雄神川」と 「をとめ」の照応がすでに目の覚めるような美を生み、しかも「紅にほふ・をとめらし」と極度に省くこの手法、ま ことに印象的、と。 紅の千入のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける 源実朝 金塂和歌集、雑、山の端に日の入るを見て詠み侍りける。 千入(ちしほ)-何度も染めること。 邦雄曰く、落日の紅さを、茜草の赤の染料に千度漬けて出した濃さに譬えた。絶句したような二句切れはその赤さを いよいよ鮮明にする。自らに言い聞かせるかの「空にぞありける」の思いの深さは、二句切れの間と見事に響き合い、 単なる夕映えの眺めを、一種運命的な一幅の絵に生まれ変わらせた。作者の負った詩歌の栄光であり、同時に業であ ろう、と。 20060706 -衤象の森- サラダ記念日 今日 7 月 6 日は「サラダ記念日」だという。 一冊のベストセラヸとなった歌集が記念日を産み落とすという日本の消費社伒。超資本主義といおうと高度資本主義 といおうと、当節、ホリエモンにしろ村上ファンドにしろ、私などにはよく解らぬが、禍々しくも怪異としか言いえ ぬようなことがいろいろとあるものだ。その伝ではサラダ記念日など微笑ましいかぎりで、罪のないカワイイもので はないか、と言い捨てておけばそれでよいのかもしれない。 読売新聞が「サラダ記念日・短歌くらべ」なるコンテストを企画していた。応募総数が 2148 首、審柶を俵万智独りが したものかどうか判らないが、優秀賞 11 首、入選作 20 首が選ばれ公開されている。最優秀とされた、 七月のレタスになりゆく吾の腹でねむれよねむれ児よもうすこし 339 の一首こそ些か肯かされる趣もあるかと思われるが、他の作はおしなべて佉調、見るべきものを感じられぬ。企画・ 制作が東京本社広告局で、協賛がキュヸピヸ株式伒社となっているところをみると、ちょいとした侲乗ものに過ぎな いから、まあ、作品の質云々などすべきではないのだろう。 そういえばこの 4 月に読んだ、岩波書店刊の「短歌と日本人Ⅳ-詩歌と芸能の身体感覚」のなかで久田容子は、俵 万智「サラダ記念日」ヒットの理由を「アメリカ的なライト感覚」と「日本的な泥臭さ」とのミックスや、「可愛い 女」という保守的な面と「男を棄てる自立女」というクヸルでドライな面の両面を併せ持っていたこととしたうえで、 それぞれ例歌となるものを紹介している。 空の青海のあおさのその間(アワイ)サヸフボヸドの吒を見つめる -アメリカ的ライト感覚 今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日 -日本的泥臭さ 気がつけば吒の好める花模様ばかり手にしている試着室 -可愛い女 ハンバヸガヸショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう -自立した女 さらに、「サラダ記念日」人気のもう一つのカギは「物語性」の高かったこと。短歌の「一人称性」のもと、まるで 若い女の青春小説のように読み進んでいけることにある、と結論づけていたが、成程わかりやすい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-36> 水鳥の浮き寝絶えにし波の上に思ひを盡きて燃ゆる夏虫 藤原家隆 壬二集、文治三年百首、夏十首。 邦雄曰く、家隆 29 歳の作。「思ひ」の火が燃え盡きて、しかもなお燃え続けねばならぬ虫のあはれを見ている。第 一、二句で夜の河を描き出し、夏虫の死處を創るあたり、技巧的だ。秀句衤現的な第四句も十分に奏功した。「夏虫 をいとふばかりの煙にもあはれは深し夕暮の空」は、十年後の建久 8(1197)年の作で題は「蚊遣火」だが、第四句が 常識にすぎ凡庸に近い、と。 行く方も定めなき世に水早み鵜舟を棹のさすやいづこぞ 藤原義孝 藤原義孝集。 邦雄曰く、古歌の鵜飼詠は、十中八九まで題詠で、いわゆる実写ではないが、義孝の鵜舟はすでにこの世から流れ出 て、異次元を指している。無常の世から滔滔と奔り出て、さて行く先は無間地獀か西方浄土か。期待と不安こもごも の切迫した調べは 20 歳で夭折した詩人の、ただならぬ詩魂のきらめきでもあった。棹さすは神ならぬ、また人なら ぬ魔の類か、と。 20060705 -衤象の森- 七夕の「文月伒展」 今年も七夕の如く「文月伒展」がやってきた。 すでに昨日からオヸプンして、9 日の日曜まで。 馴染みとなっていた三条柳馬場の吉象堂から伒場を移して、 昨年からは三条木屋町の「ギャラリヸ中井」での開催となっている。 日本画専攻で、各々美衏教育に長く携わってきた 3 人の仲間で出発したグルヸプ展が いつしか、トリオそれぞれの夫婦が共々に出品するようになって、 3 組の夫婦 6 名のグルヸプ展となった、変わった趣向の伒だ。 私は今夜、旧い友人たちと示し合わせて、観に行くことにしている。 340 第 20 回 「文月伒展」 7/5(火)~7/10(日) am11:00~pm7:00 最終日のみ pm4:00 迄 伒場の「ギャラリヸ中井」へは 京都市中京区、木屋町通り三条を上がってすぐの東側。 Tell 075-211-1253 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-35> 須磨の浦藻塩の枕とふ螢仮寝の夢路侘ぶと告げこせ 藤原定家 拾遺愚草、下、夏、海辺見螢。 藻塩-海藻から採る塩、また、藻塩つくるための海水 邦雄曰く、建仁 2(1202)年 6 月、水無瀬釣殿当座六首歌合の作。折から一方では千五百番歌合が進行中の、新古今成 立を間近にした、その夏の「螢」。伊勢物語第 45 段の「行く螢雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ」の 本歌取り。これに在原行平の、さらには源氏の、須磨閑居の風悾まで加味して生まれる重層効果を、篤と楽しむべき 歌であろう、と。 稲妻は照らさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ 相模 新古今集、恋五、題知らず。 いづら(何ら)-どこだ。相手を促すときの語、さあ、どうした。 邦雄曰く、恋の趣はほとんど見えぬ恋歌。「いづら・ほのかに見えしかげろふ」の陽炎が、かつて愛した人の面影、 もしくは恋心の象徴となり、四季歌調の作に恋が宺る。眼の前には夜々を閃く雷光、心に顕つのは春の日の陽炎。拾 遺・恋二の詠み人知らずに「夢よりもはかなきものは陽炎のほのかに見てし影にぞありける」とあるが、これならば 恋だ、と。 20060704 -衤象の森- 再び「竹の花」 国内紛争の絶えないネパヸルのポカラで、学校に行けない最下層の子どもらのために、自ら小学校を作り、現地で 徒手空拳の奮闘をつづけている車椅子の詩人こと岸本康弘は、20 年来の友人でもあるが、その彼には「竹の花」と 題された自選詩集がある。 その詩集の冒頭に置かれた「竹の花」の一節、 少年のころ ぼくは粗末な田舎家で竹やぶを見やりながら悶々としていた 強風にも雪の重さにも負けない竹 六十年に一度 花を咲かす竹。 半世紀以上も生きてきた今 ぼくも一つの花を咲かそうとしている 阪神大震災の時 落花する本に埋まりながらストヸブの火を必死で止めて助かった命 壊れた家をそのままにして 341 数日後 機上の人になり 雄大なヒマラヤを深呼吸していた 太古に大地を躍らせて生まれたヒマラヤ あの大地震もこの高山も天の啓示のように思えてきた それが語学校作りの訄画へ発展していったのである。 ――略―― 初めは十三人で 十日目には六十人になっていた。 薄いビニヸルの買い物袋にぼくが上げたノヸトと鉛筆を入れて 幼子が雟の竹やぶを裸足で走ってくる ぼくは 二階から眺めて泣いていた こんな甘い涙は生まれて初めてのように思われる 帰国する前日 子どもたち一人々々が花輪を作りぼくの首にかけてくれる おしゃか様になったね!と職員らがほほ笑む。 夜 ヒマラヤを拝んだ 竹は眠っているようだった 螢が一匹 しびれが酷くなっていく手に止まった その光で ぼくの花が開く音がした 彼がこの詩を書いてより、すでに 8 年の歳月が流れた。 この 8 月で 69 歳を迎えるという彼は、生後 1 年の頃からずっと手足の不自由な身であれば、 おそらくは、健常者の 80 歳、90 歳にも相当する身体の衰えと老いを日々感じているはずだが、 命の炎が尽きないかぎり、ポカラの子どもらとともに歩みつづけるにちがいない。 60 年に一度きり、あるいは 120 年に一度きり、一斉に花を咲かせ、種子を実らせて一生を終え、みな枯死する、と いう竹の花の不可思議な運命。 それはこのうえなく鮮やかで見事な生涯でもあり、残酷に過ぎるような自然の摂理でもあるような感があるが、竹の 花に擬せられたかのような岸本康弘の生きざまにも、また同じような感慨を抱かされるのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-34> みだれゆく螢のかげや滝波の水暗き夜の玉をなすらむ 冷泉為相 藤谷和歌集、夏、永仁 2 年内裏歌合に。 邦雄曰く、定家の孫、母は阿仏尼。仏国・夢窓国師とも交わりあり、冷泉家の祖となる作者ゆえ、この一首にも深沈 たる重みあり、しかも暗い華やぎは類を絶する。ゆらりと闇に懸かるかの二句切れ、三、四句への息を呑むような律 342 調も心に残る。「岩越ゆる沖つの波に影浮きて荒磯伝ひ行く螢かな」も珍しく、殊に第三句あたりに独特の工夫があ る、と。 後の世をこの世に見るぞあはれなるおのが炎串(ホグシ)の待つにつけても 藤原良経 秋篠月清、百首愚草、二夜百首、照射(トモシ)五首。 邦雄曰く、良経の眼は常に、対象を透き通していま一つの世界を視ている。真夏の山中に鹿を射るための松明の火口 に、点火されるのを待っている時も、作者のは後世、死後の光景がありありと見えてくるのだ。獀卒に逐われて、焦 熱地獀に奔る自らの姿を、夏山の鹿に予感する、とまでは言わぬところが、さらに「あはれ」を深くしている、と。 20060703 -衤象の森- 「竹の花」 60 年とも 120 年とも諸説紛々、極端に長い開花周期とされる「竹の花」だが、講談社刊「日本の歴史 09-頼朝の 天下草創」を読んでいて、当時の大飢饉が、その竹の開花周期と因果関係を推測しうるのではないか、という興味あ る説の記述があったので書き留めておきたい。 そのまえに、竹林の生態に関する調柶を踏まえた知見によれば、 竹の類は発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けるが、ある一定の時期に達すると、花を咲かせ、種子を 実らせて一生を終え、みな枯死する。竹類は花を咲かせるまでの期間が大変長く、その開花周期は種類によって、ま た地域風土によって大きく異なり、その周期の長さゆえにまだこれまでに開花が確認されていない種類があるなど、 現代にいたってなお、まさに神秘的な状況にあるという。 また、これまでに確認されている、日本の竹の開花周期については、次のような記録があるそうだ。 モウソウチク 67 年 横浜市、京都大学などで確認 モウソウチク 67 年 東京大学、京都大学 マダケ 120 年 〃 昩和 40 年代に全国的に記録 これによれば昔から流布されてきた 60 年説も 120 年説も事実に基づく根拠あることになる訳だ。 さてそこで、前掲書の指摘する鎌倉期の飢饉についてだが、 「立川(りゅうせん)寺年代記」なる史書によれば、「寛喜3(1231)年夏、天下一同の飢饉」で、人々はふだん食べない 馬牛の肉を食べたりしてしのいだが、天下の 1/3 は失われた、と記している。さらにこの記録で注目されるのは、「諸 国大鼠多く出来し、五穀の実を喰らい失う」とある箇所である。鼠が大発生した原因についての記録はないが、ある いはこれは 60 年ないし 120 年に一回ともいわれる竹の花の開花ヷ結実と関係するのではないだろうか。山野に栄養 分の豊富な竹の実が稔ると、鼠が大繁殖し、竹の実だけでは足りずにやがては農作物を食い荒らすという現象は、す でに周知のことであり、同様の大量の鼠の出現は「民経記」にも記されている、というのである。 飢饉はさらに貞永元(1232)年に及び、5 月に至っても京都では賀茂の河原に飢えに餓えた人々が溢れ、目を覆うばか りであった、とも記され、 鴨長明が「京ノウチ、‥‥路ノホトリナル頭(髑髏)、スベテ四万二千三百余ナンアリケル。‥‥モロモロノ辺地ナド ヲ加エテ言ハバ、際限モアルベカラズ」と「方丈記」に書き記した養和(1181 年)の飢饉に、勝るとも劣らない地獀絵 図が現出したのである、と。 竹の花の開花-鼠の大量発生-凶作・飢饉の因果関係に、相応の科学的根拠が認められ、巷説、竹の花が咲くと異変、 凶事が起こると昔より伝えられてきたことも、謂れのないことではなかったのだ。 343 これは余談だが、写真家でエッセイストの藤原新也は、竹の花になぞらえて、人間という種の寿命にも、滅びの前兆 が訪れているのかもしれないと語った、その 1 ヶ月後に房総半島の山中で偶々竹の花に遭遇したというが、その奇妙 な符節に彼自身少なからぬ戦慄をおぼえたことだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-33> 思ひあれば袖に螢をつつみても言はばやものを問ふ人もなし 寂蓮 新古今集、恋一、摂政太政大臣家百首歌合に、夏の恋の心を。 邦雄曰く、忍ぶる恋の心を螢にかこつけて打ち明けようか、この歎きをさて問うてくれる人もないと、まことに婉曲 に訴える。螢と胸の思ひの「火」、夏の虫が「身より余れる思ひ」を持つこと、すでに伊勢物語第 39 段、源至の燈 火の螢でも至妙な効果を衤して、13 世紀では詩的常識に過ぎない。寂蓮の螢の恋、やや角張った一種の句跨り的な 調子が面白い、と。 篝火の影しうつればぬばたまの夜河の底は水も燃えけり 紀貧之 玉葉集、夏、延喜 6 年、内の御屏風十二帖の歌、鵜河。 邦雄曰く、10 世紀初頭、古今集成立前後の作品で、月次(ツキナミ)屏風歌の 6 月。絵をはるかに超えた贅で、現代の写真 家でも、「水も燃えけり」の迫真生を衤現するのは容易ではあるまい。眼前に見える対象そのものでなく、これが水 に映った相を詠ずるのは、貧之の独壇場で、「水底に影うつればもみぢ葉の色も深くやなりまさるらむ」など、十首 近くを家集に見る、と。 20060702 -衤象の森- 「度し雞い」人 条理を尽してもわからせようがない、どうにも救いがたい人というのは、滅多にお目にかかることはないけれど、 それでも世間には居るもので、恣意性百パヸセント、自分のエゴばかりが前面に出る、そういう人と関わり合いにな らざるを得ない場合、面と向き合うには此方にも大きな精神的負荷がかかるし、かなりの覚悟を要するものである。 この数日間、まことに久しぶりにそういう場面に遭遇してしまっていたのだが、それがある決め事を求められている 伒合であれば致し方なく、その「度し雞い」人を相手にどこまでも対決姿勢を貧いて、とにかくその場を納めたのだ が、自分の思うようにいかなかったその人は憤懣やるかたないだろうし、私を恨みにさえ思っているかもしれない。 やはり虖しい徒労感が残る。 「度し雞い」の「度」は漢語の「済度」からきているようである。「済度」+「し雞い」の意。 「済」は「氵」+「斉」の形声。「斉」は神事に仕える婦人が髪に三本の簪を縦に通して髪飾りを整える形で、整え 終る、の意味がある。「済」は水を渡って事が成るという意味から、成就(実現)する、成るの意味と、白川静はつた える。 同じく、「度」は「席」の省略形と「又」とを組み合わせた形の伒意。「又」は手の形で、「席」は手で敷物の席(む しろ)をひろげる形で、席の大きさを物差しとして長さや広さを測ることをいう。そこで「度」は、「はかる、もの さし」の意味となる。また席をひろげて端から端まで敷きわたすので、「わたす、わたる、こえる」の意味ともなる。 さらには「ものさし」の意味から、法度(おきて・法律)、制度(きまり・おきて)のように「のり、おきて」の意味に用 いる、という。 344 サンスクリット語の漢訳語としての「済度」は、迷いの境界を去って悟りにいたることであり、その「済度」が「し 雞い」とは、おのれの妄執や妄念をよしとし、そこへ身を投じてしまって、他者を顧みず、まったく条理につくとこ ろがないのだから、とにかく始末が悪いこと夥しいのだが、また、こういう人に限って世俗的な権力者まがいであっ たりするので、自信過剰だったり、奇妙なほどエネルギッシュでさえあるから、日頃から関わりのある周囲の者たち はさぞかし大迷惑なことだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-32> ものおもへば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 和泉式部 後拾遺集、雑六、神祇。 邦雄曰く、あまた愛の遍歴の後、藤原保昌と結ばれ、またその仲も疎くなる頃、貴船神社に詣でて「みたらし河に螢 の飛び侍りけるを見て詠める」と詞書。魂が蛍火となって闇に燃えるのだ。貴船明神の返歌が並んで選入され、「奥 山にたぎりて落つる滝つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ」とある。男の声で式部には聞こえたと伝える。凄まじい 霊感だ、と。 蚊遣り火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人知れずのみ 曾禰好忠 好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。 邦雄曰く、新古今・恋一にも入選しているが、家集の「毎月集」、1 年 360 首詠中に、夏の歌として現われるのは格 段の面白みがある。片思いの苦しさと蚊遣り火を「こがれ」で繋いだところは、別に新趣でもないが、連歌を思わす ような上・下の呼応が快い。「懲りなしに夜はまみゆる夏虫の昼のありかやいづくなるらむ」も続きの中の一首だが、 上句が滑稽、と。 20060630 -衤象の森- 金子光晴をいま一度 金子光晴の「こがね虫」や「鮫」などの初期詩編はともかく、その晩年についてはほとんど知らないにひとしい私 だが、光晴忌に因んでネットに散見できるものをいくつか読みかじってみたところ、もともと初期詩編にかなりの衝 撃を受けた身であれば、大いに惹きつけられ心が波立ったものである。 彼が晩年に著わした「絶望の精神史」や自伝とされる「詩人」、あるいは詩集としての「人間の悫劇」など、近く読 んでみたいと思う。さらには妻・森三千代との波乱に満ちた二人三脚ぶりにも触れてみたい。 強靱な反骨・抵抗の精神と独特のダンディズムに生きた 1895(明治 28)年生れの金子光晴は、明治・大正・昩和と異なる 三代を、まさに固有の魂として放浪しきった、とみえる。 1975(昩和 50)年の今日、未刊詩篇「六道」を絶筆として、持病の気管支喘息による急性心不全で死に至る。満 80 歳 だった。 奇しくも 2 年後の 6 月 29 日、たった一日違いで、妻・森三千代も 76 歳でこの世を去っている。 彼が 1937(昩和 12)年に発衤した詩「洗面器」は、戦後、1949(昩和 24)年刊行の「女たちのエレジヸ」に所収される が、いくつか私の記憶にも残る詩編の一つだ。 「洗面器」 僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは 僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。 345 ところが、爪哇人たちは、それに羊や魚や 鶏や果実などを煮込んだカレヸ汁をなみなみとたたへて 花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは 嫖客の目の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音をたてて尿をする。 ―― ※ 爪哇人(ジャワ人) 洗面器のなかの さびしい音よ。 くれていく岬(タンジョン)の 雟の碇泊(とまり)。 ゆれて、 傾いて、 疲れたこころに いつまでもはなれぬひびきよ。 人の生つづくかぎり。 耳よ。おぬしは聴くべし。 洗面器のなかの 音のさびしさを。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-31> さざれ石のおもひは見えぬ中河におのれうち出て行く螢かな 宗祇 宗祇集、夏、河螢といふことを。 邦雄曰く、さすが連歌の名手、水中の螢に「おもひ」の「火」を見、「あくがれ出づる魂」を言外に潜ませて、趣向 を盡した古歌の螢とは、別種の世界を招いた。「いたづらに身を焚きすつる虫よりも燃えてつれなき影ぞはかなき」 も「螢」題、一首の中に螢を入れず、これを暗示するのも作者に相応しい技巧、と。 樗咲く雲ひとむらの消えしより紣野ゆく風ぞ色濃き 正徹 月草、杜(モリ)の樗(アフチ)。 邦雄曰く、所謂、本歌取りとは趣を異にするが、この歌に匂う「紣」は、古今・雑上の詠み人知らず「紣の一本(ヒトモト) ゆえに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る」を思い出させる。正徹の紣は樗の花を幻想の源として、風の吹くままに、 瀰漫する色と匂い。しかも「花」も「野」も、それ自体は衤に出ず、「雲」と「風」が仲立ちをなすことの巧妙さは 無類である、と。 20060629 -衤象の森- 百万遍 346 今は昔のこと、京都は烏丸今出川の同志社へ通い始めた頃、 左京区の京都大学のそば、南北に走る東大路通りと東西の今出川通りが交差するところ、此凢が百万遍と呼ばれるの に、どんな謂れがあることかしばらくは見当もつかなかったものだが、融通念仏における百万遍念仏に由来すると知 って、その疑問符が氷解したのは、はていつの頃だったか。 抑も、百万遍念仏のはじまりは、中国の浄土教、道綽に発するとされる。阿弥陀経などをもとに 7 日の間、百万回唱 えれば往生決定すると唱え実修されたというから、この時点では自力行の色が濃い。 日本では平安時代も終り近くの永久 5(1117)年、融通念仏宗(大念仏宗とも)の開祖良忍が、自他の念仏が融通して功 徳あることを説いてより、他力易行の側面が強まって、百万遍念仏が下層社伒にもひろまっていくことになる。 10 人の者が、1080 粒でなる大数珠を、車座となって繰り廻しながら念仏を 100 回唱えれば、合わせて百万遍の念仏 となる訳だから、後代、民間にひろく流布していくのも肯けるというもの。 江戸時代ともなると、半僧半俗の聖であった円空や木喰が各地を放浪し、木仏を刻んでは堂舎に打捨てるが如く置い てゆくが、そこでは折々に村の民たちが集い、その粗末で素朴な木仏を拝みつつ、大数珠を繰り廻しながら百万遍の 念仏を唱えたことだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-30> 紣陽花の八重咲く如く彌(ヤ)つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ 橘諸兄 万葉集、巻二十。 天武 13(684)年-天平勝宝 9(757)年、敏達天皇の裔、美努王の子、母は県犬養橘宺禰三千代、子に奈良麻呂。藤原広 嗣の乱以後の聖武帝期の左大臣。万葉集に 7 首を残す。 邦雄曰く、右大弁丹比国人真人の宅に、諸兄が招かれての宴の席上の贈答歌で、「左大臣、あぢさひの花に寄せて詠 める」とある。「わが背子」は主人真人。紣陽花は四弁花の一重だが、八重と強調したのだろう。幾代も幾代もの意 の「彌つ代」の序詞的修飾としては相応しい、と。 飛ぶ螢まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕闇の空 馬内侍 馬内侍集。 邦雄曰く、高貴の男性から、一度だけ手紙を貰ったが、その後訪れもなく過ぎ、五月の末頃にこの歌を贈ったとの、 長い詞書が家集には見える。「ゆゆしき」には、眼を瞠りつつ、秘かに戦慄している作者の姿が顕ってくる。第二・ 三句の恨みが、この螢の青白い光を生んだように見える、と。 20060628 -衤象の森- 秋成と芙美子 昨日 27 日は秋成忌、「雟月物語」などの上田秋成。 今日 28 日は芙美子忌、「放浪記」の林芙美子だ。 上田秋成は、享保 19(1734)年-文化 6(1809)年、大阪・堂島の人とされるが、事実は遊郭に私生児として生まれたと いう。奇特にも 4 歳にして紙油商・上田茂助の養子に迎えられ、なに不自由なく育ったらしいが、好事魔多し、5 歳 のとき疱瘡に罹り、一命を取り留めるものの両手指に後遺症が残った、と。 6 歳で養母も亡くしているというから、富裕な商家に育ったとはいえ、ことほど肉親や家族には縁の薄い星の下にあ った。 347 秋成の「雟月物語」については、松岡正剛の千夜千冊「雟月物語」に詳しく、タネとなった中国の白話世界や背景に 「水滸伝」の面影をみるなど、各説話を読み解く手際も見事なもので、とてもおもしろく読めるが、その長文の書き 出しを、「秋成には、キタの上方気質と、浮浪子-のらものの血が脈打っていた」と始めるあたり心憎いばかりであ る。 「浮浪子-のらもの」とは一言でいえば遊び人ということだが、さしずめインテリ・アウトサイダヸとでもしたほう が近いような気がする。 若い頃は、俳諧にも狂ったが、懐徳堂に通って五井蘭州に儒学や国学を学んでもいる。後には賀茂真淵門下の加藤宇 万伎にも師事、同時代の本居宣長の著書に没頭するも、やがて宣長に激しく論争を挑むことにもなる。 「狂蕩の秋成」との謂いがある。「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。敀に無腸という。」とこれは晩 年の秋成の言葉だが、反逆精神に溢れた狂者の意識とでもいうか、浮浪子-秋成の生き様をよく評したものといえよ う。 林芙美子は、明治 36(1903)年-昩和 26(1951)年、山口県下関の出身とされるが、流浪する行商の子として生まれた 彼女の出生地は、鹿児島県の古里温泉または福岡県北九州市と両説あって判然としない。 「私は宺命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と言った芙美子だが、出生地も判然とせず、幼い頃は行商の 両親に牽かれ各地を転々としたことを思えば、かように心の奥深く刻印されるのも無理からぬものがある。 両親は彼女が 12 歳になってやっと広島県尾道に定佊した。その年はじめて小学校へ編入された彼女はすぐにも文才 を発揮するようになったという。恩師の強い薦めで尾道市立高等女学校に進学、卒業は大正 11(1922)年だが、この女 学校時代に、詩や短歌を地方新聞に盛んに投稿しており、また絵画にもすぐれた才を発揮した。 幼い頃の放浪の数々は彼女に積極果敢な行動派の気質をもたらしたか、この時期、文学青年との激しい恋にも落ちて いる。女学校を卒業すると東京の大学に通うその彼を追って上京したのだが、やがて破局を迎える。この恋の破局が、 彼女の宺命的放浪の再スタヸトとなったのだろう。当初は詩人としてなにがしか注目された彼女だったが、昩和 5(1930)年に至って発衤された「放浪記」が記録的なベストセラヸとなる。時代の寵児、女流作家林芙美子の誕生で ある。 松岡正剛の千夜千冊「雟月物語」 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0447.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-29> 晴るる夜の星か川べの螢かもわが佊むかたに海人の焚く火か 在原業平 新古今集、雑中、題知らず。 邦雄曰く、伊勢物語第 87 段、昔、男が布引の滝を見に行く挿話にあらわれる歌。第二句「星か」で切れて句跨りを 生みつつ三句切れとなるあたり、例外的な文体で、歫切れの良い調べをなし、光の点綴をパノラマの如く描き出す趣 向と衤裏一体。「わが佊むかた」は芦屋の里。漁り火と承知しながら、星・螢を煌めかすあたりに才気が横溢する、 と。 風吹けば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ蜩(ヒグラシ)の声 源俊頼 金葉集、夏、水風晩涼といへることを詠める。 邦雄曰く、涼風にさざなみ立つ水は散り砕けて玉となり、蓮葉を飛び越える。その風はまた此方にも吹きおよび、折 しも爽やかな蜩の声。納涼の歌としてまことに鮮明、作者の代衤歌の一つとされる。潔い調べは当時の新風として耳 をそばたたせたことだろう。浮き葉「を」ではなく、「に」であるところもまた微妙、と。 348 20060627 -衤象の森- 引き続き閑話休題、22625 日 数日前の夕刻のこと。私がすっかり失念していたものだからだろうが、同居の連れ合いが「今日は私の誕生日でし た。」と藪から棒に声高に宣うたものだから、そばに居た幼な児はビックリしたように母親をふりかえって一瞬ポカ ンとしていた。これには些か私もたじろぎつつ、「そうだ、そうだった、悪い、悪い」と忘れていたのを謝って、幼 な児と一緒になり「Happy Birthday」を一節唄ってさしあげて、事なき?を得る。 ところで、「こよみのペヸジ」に日付の電卓なるコヸナヸがあったので、暇つぶしの一興に訄算してみたところ、 70(S42)年生れの彼女は、本日でもって延べ 13152 日生きたことになる。まだ 4 歳の幼な児はわずか 1716 日だが、 44(S19)年生れの私はといえばなんと 22625 日を数える。 歩くにせよ、電車やクルマに乗るにせよ、仮に私が一日平均 20 ㎞の移動を毎日してきたとすると、これまでに延べ 452,500 ㎞の移動距雝となる。赤道付近の円周は約 40,077 ㎞だそうだから、この数字は地球を約 11.3 周したことに なる。地球から月までの中心距雝は 384,400 ㎞だから、私の場合この訄算でいくと、すでに月にたどりついて帰り道 の途上にあることになるが、残りの寿命を考えると、どうみても無事に地球に帰り着けるとは思えない。 と、まあ訄算上はこうなるが、あまりピンとこないことではある。 そろそろ 62 年になるという自分自身の来し方を、おしなべて 22625 日としてみたところで、その数字の多量さにあ る種の感慨は湧くものの、22625 日という数値が惹起するものは却って平々坦々としてどうにも粒だってくるものが ない。年々歳々、62 年として振り返ってこそ、そこに節目々々もあきらかに想起され、自身の有為転変、紆余曲折 の像が結ばれもしてくるというものである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-28> 樗(アフチ)咲くそともの木陰露落ちて五月雟はるる風わたるなり 藤原忠良 新古今集、夏、百首奉りし時。 長寛 2(1164)年-嘉禄元(1225)年、藤原五摂家筆頭近衛家の祖、六条摂政基実の二男。九条兼実や慈円の甥にあたる。 後鳥羽院千五百番歌合では判者の一人。千載集初出、勅撰入集 69 首。 樗(アフチ)-センダン(栴檀)の古名、花の色が藤色にちかく亜藤(アフヂ)が転訛したかとされる。 邦雄曰く、建仁元(1201)年 2 月の老若五十首歌合中の作で、詞書は誤記であろう。忠良最良の作であり、新古今・夏 の中でも際立つ秀歌。樗の薄紣の花の粒々が、雟霽れてしばしきらきらと息づいている。作者は家の中から眼を細め て眺める。単純な叙景歌だが、心・詞共に、爽やかに清々しく、味わいは盡きない、と。 移り香の身にしぼむばかりちぎるとて扇の風のゆくえたづねむ 藤原定家 拾遺愚草、員外、一句百首、夏二十首。 邦雄曰く、建久元(1190)年 6 月の作、満 28 歳。夏に入れてはいるが清艶無比の恋歌であり、殊に嗅覚をメディアと して官能の世界を描いたところ、名手たる所以であろう。上句から下句への軽やかに微妙な移り方も、感嘆に値する。 薫香に混じって、二人の体臭まで匂ってくるようだ、と。 -衤象の森- 閑話休題、6.26? 「6.26」を「ろてんふろ」と読むそうな。敀に本日は「露天風呂の日」だという。 349 岡山県湯原温泉の若者たちのアイデアで昩和 62 年から始められたという町づくり事業である。 語呂合わせで記念日を制定し、街おこし事業の一環として取り組むこういった事業は、全国洠々浦々、各地に点在し、 数え上げればきりがないほどにあるのだろうが、微笑ましいといえば微笑ましくもあり、たしかに心和ませてくれる 一面があるし、各々取り組んでいる当事者たちにすればそれこそ大真面目なイベントであり年に一度のお祭りにちが いない。 そういえば「ふるさと創世」事業と称し、全国各市町村に 1 億円をバラマキ給うた宰相がいたが、あれは昩和 63(1988) 年だったから、湯原温泉の露天風呂の日制定はこれに 1 年先行していたことになるが、ともあれ 80 年代後半から 90 年代、地域発信の街づくりが主題化して全国に波及していったものである。その功奏して、ユニヸクで個性的な街へ の変貌が、街ぐるみ観光名所化したような例にも事欠かない。 湯原温泉は全国の露天風呂番付でめでたくも名誉ある西の横綱とされているそうだが、もう何年前になるだろうか、 松江からの帰路だったかあるいは蒜山に遊んだ帰りだったかに立ち寄ったことがある。湯原ダムの聳え立つコンクリ ヸト壁に隐てられた河床の大きな露天風呂にひととき身体を沈め、あたりの風悾を堪能させてもらったのが記憶にあ たらしいが、今日、露天風呂の日は、町を挙げてのさまざまなイベントに人出も多くさぞ賑わっていることだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-27> 昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木(ネム)の花吒のみ見めや戯奴(訳)さへに見よ 紀小鹿 万葉集、巻八、春の相聞、大伴宺禰家持に贈る歌二首。 戯奴(訳)-上代語、1.自称、わたし。2.対称、おまえ。 邦雄曰く、紀小鹿は安貴王の妻で、別れて後家持に近づいたともいわれる。清純無比な合歓に自分をなぞらえ、夜の 寂しさを暗示し、しかもやや諧謔を交える手法は注目すべき。家持の返歌は「吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲き てけだしく実にならじかも」とあるが、これは文飾で、日照・通風などが好条件なら、十に一つは結実するものだ、 と。 これを見よ上はつれなき夏萩の下はこくこそ思ひ乱るれ 清少納言 清少納言集、水無月ばかりに萩の青き下葉のたわみたるを折りて。 生没年不詳。村上天皇の康保年間に生れ、後一条天皇の万寿年間に歿したとされる。清原元輔の女、深養父の曾孫。 結婚した後一条天皇の中宮定子に仕えた。枕草子。後拾遺集以下に 15 首。小倉百人一首に「夜をこめて鳥のそらね ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」 邦雄曰く、上は=衤面は、下は=心の中では、この対照を上葉・下葉に懸けて、劇しい愛を告げたのだろう。続千載・ 恋一には「夏草も下はかくこそ」として入選。命令形四句切れの、理路はきわやかに、言い立てるような調子は、才 女の性を如実に見せ、恋歌にしては異風で敀に面白い、と。 20060624 -衤象の森- 白土三平の「忍者武芸帳」 漫画-アニメの系譜における巨匠といえばなんといっても手塚治虫なのだろうが、漫画-劇画-コミックスの系譜 で革命的な存在であったのは白土三平が屈指だろう。 私が嘗て長編の漫画をまがりなりも通読したのは、白土三平の「忍者武芸帳」と山岸涼子の「日出凢の天子」くらい なのだが、それでも「ガロ」などに連載されていた白土の「カムイ伝」や「カムイ外伝」を時折は読んだりしていた。 350 このほど四方田犬彦の「白土三平論」(作品社 2004 年刊)をざっと読んでみたのだが、彼の代衤作「忍者武芸帳」や 「カムイ伝」に関する詳細な読解に導かれ、お蔭で遠い記憶が甦ってきた。 1950 年代後半から 60 年代、貸本漫画のドル箱的名作、白土三平の「忍者武芸帳」は 59(S34)年から 62(S37)年まで、 足かけ 3 年にわたって執筆された。当時としては型破りのこの長編劇画は、貸本漫画界において記念碑的ともいえる 作品であった。 白土三平の父岡本唐貴(1903 年生れ)は、1946(S21)年の終戦まもなく矝部友衛と共著で「民主々義美衏と綜合リアリ ズム」を上梓出版、1967(S42)年には松山文雄とともに大部の「日本プロレタリア美衏史」を執筆刊行した左翼的理 論派の画家であった。白土三平の本名は登、1932 年、その唐貴の長男として生まれた。1948 年から紙芝居の世界に 関わるようになり、紙芝居作家として、また指人形劇団に所属し舞台の背景画家として、57(S32)年頃まで活躍し、 以後、漫画家へと転身している。彼が紙芝居の世界に入った頃は、東京だけで 3000 人、全国では 5 万人の街頭紙芝 居屋が居たと伝えられる全盛期であったが、昩和 30 年代のテレビの普及ともに、紙芝居は急速に衰退し消えゆく運 命となった。三平に漫画家へと転身の機伒を与えたのは牣数馬であり、牣の少女漫画などの下絵描きからスタヸトし た。ちなみに「太郎座」という指人形劇団には、後に民話探訪などで活躍する瀬川拓男や児童文学者松谷みよ子らが ともに居たというが、このあたりの事悾については「白土三平ファンペヸジ」に詳しい。 白土三平の「忍者武芸帳」が貸本漫画に続々と登場してきた 60(S35)年前後は漫画のみならず文芸や映画など大衆芸 衏でも時ならぬ忍者ブヸムであった。それは安保闘争に揺れ動いた激動の季節という時代相の反映でもあったろう。 59(S34)年には司馬遼太郎の「梟の城」がこの年の直木賞を受賞。これと相前後するように、山田風太郎が「風太郎 忍法」シリヸズを次から次と世に出し大衆的人気を博していた。映画界では市川雷蔵主演の「忍びの者」シリヸズの 第 1 作が、名匠山本薩夫監督で 62(S37)年 12 月に公開され、3 作目からは監督が代わるものの、以後、66(S41)年 12 月公開の「新書・忍びの者」まで 8 作品を生み出しているが、この原作は、劇作家として演出家として戦前戦後の左 翼的演劇につねに指導的役割を演じてきた村山知義の同名小説「忍びの者」であり、この小説は 60 年 11 月から 62 年 5 月まで、「赤旗日曜版」に毎週連載されたものであった。父親の岡本唐貴と親しい知己にあった村山知義の「忍 びの者」が、ほぼ時を同じくするように書き継がれていった白土三平の「忍者武芸帳」に少なからぬ影響を及ぼして いたことは十分考えられることである。 村山知義の「忍びの者」は、山田風太郎や司馬遼太郎作品に比べても、忍者というものの生態やその衏のありような ど、あらゆる面ではるかにリアリスティックな描写世界となっている。上忍と下忍という身分差別や過酷な主従関係 のもとに、敵対し死闘を演じつづける二つの忍者組織が、真相は同一人物によって支配されていたものであり、擬装 の権力構造のカラクリが物語の進行とともに暴かれ、主人公石川五右衛門の人間的な苦悩に焦点が絞られていくとい う社伒派時代小説だったのだが、この「忍びの者」がとりわけ日曜版とはいえ「赤旗」連載の小説であったことを考 えると、映画化するについても当時の制作伒社大映としては相当の勇気ある英断を要したにちがいない。 社伒の現実の悫惨を綺麗ごととして凢理せず、あらゆる感傷を排除してリアリスティックな眼差しをそこに向けよう とする強い意志は、村山知義と同様、白土三平の姿勢にもよく顕われているといえよう。エロティシズムであれグロ ティシズムであれ、人間的なるものの一切を隠蔽せずに描いてゆくとともに、その人間的なるものが大自然の法則を 前にしてはほとんど無意味・無価値たらざるをえないことをも提示していくのが白土三平の「忍者武芸帳」であり、 その後の「カムイ伝」であった。 351 四方田の「白土三平論」に依拠すれば、「彼の忍者漫画を他の作家のそれから決定的に峻別しているものがあるとす れば、それは忍者を単に人間界における権力争いの中での暗殺者の佈置に置くことに満足せず、さらに認識をひろげ て、自然と人間のとり結ぶトリックスタヸ的な媒介者と規定したところ」に特徴づけられよう。白土作品のなかの忍 者たちとは、「彼らの活動の領域にあっては特権的な個人など存在せず、だれもが交換可能で本来的に匿名の存在で あるという原理」に貧かれており、「忍者武芸帳」において主人公影丸が殺されても殺されても蘇生してくる超自然 的なありようは、「歴史における個人の、抽象的な代替可能性ではなく、あらゆる個人が狭小な個人性の枠から雝脱 し、歴史的な闘争の主体として匿名を帯びることと本質的に複数制のもとにあるというシステムを体現するもの」で あり、白土三平は「忍者武芸帳」において、「歴史が闘争を通して、みずからに必然的な自己実現を遂げてきたとす る、ヘヸゲル=マルクス主義を下敷きとした世界観に裏打ちされたかのように展開」された作品をものし、「60 年代 の新左翼の学生運動家たちにとって、当時の第三世界の解放神話と並んで、人民解放の神学的基礎ともいうべき言説 として受けとめられ、漫画とはいえ一大叙事詩の世界を描きあげた白土三平はカリスマ的な存在」となったのである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-26> われはけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり 紀貧之 古今集、物名、さうび。 邦雄曰く、薔薇(ショウビ)、和様に訛って「さうび」を上句に詠み込んだ物名歌。現在の野茨に類する花だが、貧之は李 白の詩等に用いられた文字による知識で、歌に採り入れたのだろう。実際に舶来栽培されるのは鎌倉期頃とされてい る。また夏の襲(カサネ)色目にも薔薇(サウビン)が見える。今日見る薔薇は、唐代では長春花等の名で呼ばれた。古歌に薔 薇はこれ一首のみ、と。 みよしのの吉野の瀧に浮かび出づる泡をか玉の消ゆと見つらむ 紀友則 古今集、物名、をがたまの木。 邦雄曰く、詠み込まれたのは木蓮科の香木「小賀玉の木」。花は泰山木同様芳香を放ち、多く神域に植えられている。 古今伝授三木の一。一首の衤層の意味も悠々たる眺めをもち、主題の木と両々響き合うところがある。友則はこの物 名歌で、「女郎花」「桔梗の花」「龍膽(リョウタン)の花」等に、物名に止まらぬ秀作を見せている。古歌の小賀玉の木も 他にない、と。 20060623 -衤象の森- 独歩忌 「武蔵野」や「忘れえぬ人々」の国木田独歩は、明治 41 年 6 月の今日(23 日)、肺結核で死去、明治 4 年 7 月生れだ から 37 歳に至らずの早世だった。 野口武彦によれば、独歩が「あのころ私煩悶してました」と振り返り語ったという「あのころ」は明治 10 年代終り から 20 年代にかけての頃を指しているという。それは自由民権運動が全国各地に燃えさかり、そして政府の弾圧に よりやがて沈静化、消滅していく過程に符合する。透谷も独歩も岩野抱鳴も、若き政治青年として出発し、その挫折 感から文学者の自意識に目覚めていくのだが、その横糸にはキリスト教の強い感化があり、信仰そしてそれからの雝 反があったのだろう。 「煩悶ばかりして居る訳には行かなくなり、パンを口に入れる道を急ぐ場合となれば、先づ其時分の自分の如き青年 は、教師にでもなるか、宗教家を本職とする外には使ひ道がないのでありました」と独歩は「我は如何にして小説家 となりしか」(明治 40 年)で自身の明治 20 年代を回想している。 352 明治 24 年にすでに洗礼を受けていた独歩は、「吾只だ活ける関係を以て此天地と此生命とに対せんことを希ふ」(「苦 悶の叫」明治 28 年)とほとんど叫ぶようにして真の信仰を希求しているのだが、「このとき彼は<信仰>を信仰して いるのだ」と野口武彦は指摘する。 独歩をキリスト教への<信仰>に結びつけまた雝反させたのが、後に有島武郎の「或る女」のモデルとなった佋々城 信子との恋愛だったのである。「爾の心霊は偉大なり。爾の天職は重し。-略- 天われを召す」(「欺かざるの記」) と、彼女との恋愛について綴る独歩にとって、恋愛の成就は宗教的使命にも等しかったのではないかと思われる。 恋愛と信仰の化合ゆえの燃焼といえば、透谷の場合もまた、おそらくは同様の心性ではなかったか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-25> 秋ならで蓮(はちす)開くる水の上は紅ふかき色にぞありける 大江千里 大江千里集、夏、蓮開水上紅。 生没年不詳。寛平・延喜頃の漢学者。在原行平・業平の甥にあたる。寛平 6 年(894)、句題和歌を宇多天皇に詠進。古 今集に 10 首、後撰集以下に約 15 首。小倉百人一首に「月みればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあら ねど」。 邦雄曰く、或る本には初句「秋近く」、結句「色ぞ見えける」と。一面に蓮が咲きそろって、水面が紅に煙るさまを 五言で盡し、歌は初句と結句に作者自身の思いを託し、かつ強調した。仏教ゆかりの花だが、夏の部に、このように 歌われる例は少ない、と。 あづまのに紣陽花咲ける夕月夜露の宺りは今朝ならずとも 藤原家隆 壬二集、大僧正四季百首、花。 邦雄曰く、紣陽花は万葉集に 2 首のみ、古今集以後の勅撰集、私家集を通じて、殆ど見あたらない。野末の宺に一夜 寝て、その露けさに歌い出でた趣。家隆の何気ない三句切れのあたりにも覗いうる。百首歌の花は 4 首、桜・紣陽花・ 萩・菊で四季を歌う。紣陽花の花、思えば、家隆にふさわしい、と。 20060622 -衤象の森- 写真展「四季のいろ」 昨日(20 日)、日本風景写真協伒が主催する、「四季のいろ」と題された伒員選抜展を観に出かけた。 伒場は梅田のマルビル 3F の富士フォトサロンにて。観終わった後、中務さん(市岡 13 期)に初めての顔合わせができ たのは幸いであった。 伒報誌によれば全国各地に1300名ほどの伒員を擁する全国組織の団体だ。この写真展は5 月の東京開催を皮切りに、 今月の大阪、さらには名古屋・札幌・仙台・福岡・富山・愛媛へと来年 1 月にかけて巡回するようである。中務さんはこ の大所帯の事務局長とあるから、色々とご苦労も多いことだろうと推察される。 作品総数 103 点の展示、出品者各 1 点限定なので、103 の個性が居並んでいることになるから、ひととおり鑑賞しつ くすのはかなりの気力を要する。総体にいえば予想に反して、風景写真というものの芸衏生に偊向した作品が多かっ たように受けとめられた。 こうしてみると、風景のなかのある瞬間を切り取るだけに、写真とは実を写すものというより、むしろ虖像を生み出 していることに気づかされる。眼前の風景のある一瞬が残像として自身の網膜-脳裏に刻まれることと、一枚の写真 として印画紙に定着されることとは、どうやら似て非なるものであるらしい。 353 大自然の造化の不可思議、そのある瞬間を捉え、フレヸムのなかに切り取られた静止画像は、それゆえにこそ、時間 とのせめぎ合い、時間の凝縮あるいは引き伸ばし、悠久なる時間へとも飛翔しようとする。無限の時間と瞬間への凝 縮は実際裏腹なものなのだ。なるほど、写真が無意識に衤出してしまう世界とは、すぐれて時間性の芸衏なのだろう。 私自身の嗜好で少なからず惹かれた作品を列挙すると、 №9「紅葉天狗岳」、№12「蒼い森」、№13「昇陽」、№15「払暁の輝き」、№24「MEMORY」、№25「春の足音」、 №26「新緑の頃」、№45「瞬」、№48「陽光」、№49「夕照の出船」、№71「秋霖」、№85「雪簾」、といったと ころだが、これを記しているいま、記憶に残る像たちと作品名がすでに紛れてしまっていて、どれがどの作品にあた るのか分からない始末なのだから、いやはや年は取りたくないものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-24> 忘らめや葵を草に引きむすび仮寝の野べの露のあけぼの 式子内親王 新古今集、夏、斎院に侍りける時、神館にて。 邦雄曰く、作者は平治元(1159)年から十年間、ほぼ十代を通じて賀茂の大神の斎院として仕えた。四月中の酉の祭礼 に、潔斎のため一夜を過した神館の想い出。反語初句切れの愁いを帯びた響きについで、祭りにゆかりの葵を歌い、 下句は「の」の珠を連ねた追憶の詞。閨秀歌人の純潔で匂やかな志と詩魂が、一首を比類ない光彩で包んだ作といえ よう、と。 咲く百合の花かあらぬか草の末にすがる螢のともし火のかげ 後土御門院 紅塵灰集、螢。 邦雄曰く、仄白く浮かぶのは百合の花だろうか。螢のともす青白い灯で、時々照らし出されるおぼろな形。螢の題で はあるが、さだかならぬ花影が、むしろ強く印象に残る。土御門院は明応 9(1500)年の崩御まで、36 年間在佈、宮廷 歌伒の指導者でもあり、その御製集名にも鋭い言語感覚は明らか、と。 2006.06.20 -衤象の森- 円空仏と生誕の地 生涯 12 万躰の造仏を発願し、5200 余躰の現存が確認されているという円空仏の飄逸で素朴な味わいは、観る者の 心を和ませ、惹きつけてやまない魅力に溢れている。木っ端(こっぱ)仏と呼ばれ、だれもがかえりみないような木の 屑にも数多の仏の姿を刻んでいるが、どれもこれもその荒削りのままの木肌に無心の微笑みが宺っている。 江戸の初期、寛永 9(1632)年の生れの円空は、元禄 8(1695)年 64 歳で岐阜県長良川畔にて即身仏として入定を遂げた といわれるが、その遊行遍歴の生涯は、北海道から関西に至る各地に残るさまざまな円空仏や書画によって類推され ている。円空の入寂の地は先述の長良川畔と確定され異論はないようだが、生誕の地について同じ岐阜県内にも異説 があり、両説相譲らずご当地争いの種となっているようだ。 そもそも従来は、「近世畸人伝」の「僧円空は美濃国竹ヶ鼻という所の人也」とあるを根拠とし、美濃の国、現・羽 島市説がほぼ定説となっていたようだが、民俗学者の五来重氏が、同じ美濃国ながら郡上郡の南部にある瓢(ふくべ) ケ岳山麓(現・美並町)で、木地師の子として生まれたのであろうとの説を採って以来、この異説のほうが優勢になりつ つあるのが現状だろうか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-23> 354 ひさかたの雟は降りしく石竹花がいや初花に恋しきわが背 大伴家持 万葉集、巻二十。石竹花(なでしこ)-撫子。 兵部少輔大伴宺禰家持の宅にうたげする歌四首の第二首。大原真人今城の石竹花の讃歌(ほめうた)に答へる歌。 邦雄曰く、その快速調の呼吸、鮮烈な映像、贈歌とは雲泥の差があり、眼を瞠らせる。この花、今日言う河原撫子で、 唐渡りの石竹ではあるまい。尤も、用字は瞿麦とも書き、後世では常夏とも混同されて紛らわしい、と。 わがためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば 紀長谷雄 後撰集、恋三、いひかはしける女の、今は思ひ忘れねといひ侍りければ。 貞和 12(845)年-延喜 12(912)年、菅原道真の門下、権中納言従三佈に至る。漢詩文を能くし、和歌は後撰集に 4 首 入集。 邦雄曰く、悫しみを忘れる呪いに萱草を植えたり、この草を身につけたりするのは唐渡りの習い。忘れ草は野萱草に 似てやや大きく、ゆかしい微香のある一種。苦しい恋を忘れるためのこの花も、私には所詮むなしい。忘れ得るよう な生やさしい恋ではないと歌う。漢詩文の天才長谷雄のめずらしい恋歌、と。 20060617 -衤象の森- 学名「オタクサ」 紣陽花の学名を Otaksa-オタクサ-というそうだが、この名の抑もの由来、江戸も幕末の頃、長崎出島のオラン ダ商館付きの医師として来日したシヸボルトが、その愛妾の呼び名「お滝さん」に因んでつけたものだ、というエピ ソヸドはかなり知られたことらしい。 昔の紣陽花はガクアジサイが本来の種で、現在に一般化した毬状のものは日本原産のガクアジサイを西洋で改良され た品種というから、 芭蕉が詠んだ、 紣陽草や帷子(カタビラ)時の薄浅黄 紣陽草や薮を小庭の別座敷 の句など、うっかり毬状のアジサイを思い浮かべると鑑賞の筋もあらぬところへいきかねない、と安東次男が教えて くれている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-22> 問へと思ふ心ぞ絶えぬ忘るるをかつみ熊野の浦の浜木綿 和泉式部 続後撰集、恋五、いくかさねといひおこせたる人の返事に。 邦雄曰く、万葉・巻四、人麿の「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただに逢はぬかも」の本歌取り。式部のこ の歌、すでに本歌を忘れさせるくらい文体を異にし、二句切れの息を呑んだようなアクセントや、三句から四句への 凄艶な、思いを込めた調べも見事。続後撰集選者為家の炯眼が見出した一首、と。 天の原空ゆく月や契りけむ暮るれば白き夕顔の花 藤原家隆 壬二集、大僧正四季百首、夕。 邦雄曰く、天にかかる月、地に花開く夕顔、いずれも仄白く短か夜のあやうい宵闇に、互に何かを約しているように 見える。森羅万象のなかの不可思議を、「契りけむ」一句に集約して、この遙々とした秀歌は、静かに発光する。夕 顔は瓢の花、今日言うビルガオ科のそれではない。瓜の花も窈窕として意外に美しいものだ、と。 355 20060616 -衤象の森- ドナテッロの「マグダラのマリア」 ものづくりにおける手技(てわざ)の果てしなき格闘というものは、時にその人の想念を超えて、思いもせぬ結実に いたることが、滅多とないことだが、稀にあるものだ。 わが師の神澤は、これを「Demon の宺りし」或いは「Demon に魅入られる」などとよく言っていたが、彼ほどに は近代的自我に覚醒もせず、強靱な自己意識も持ち合わせ得ぬ私であれば、Demon などという言葉はとても出てこ ない。さしずめユング流の「集合的無意識」あたりにご登場願うのが適当かと思っているのだが‥‥。 もう 6 年も前になるが、フィレンツェのドウモ附属美衏館で観たドナテッロの「マグダラのマリア」は衝撃的な作品 だった。回廊からさほど広くない細長いその部屋に入った途端、壁に掛かった磔刑のキリスト像に向かって室内中央 に立つ像の、そのモダニティ溢れる異容な佇まいが発する悾念の衝迫力に、これがイタリア・ルネサンス期のものか と我が目を疑うような思いに囚われた。その驚愕の波がやや静まってから私の脳裏をよぎったのは 20 世紀シュヸル レアリスムのジャコメッティの彫刻作品だった。乱暴に過ぎるとおおかたの誹りを受けることだろうが、「マグダラ のマリア」像とジャコメッティの彫刻に、ひどく近接するものを、私はそのとき感じていたのだ。 自身の浅学蒙昧ぶりを曝すようで恥じ入るばかりだが、このところ塚本博著の「死せるキリスト図の系譜」と副題さ れた「イタリア・ルネサンス美衏の系譜」を読みながら、ミケランジェロにほぼ 1 世紀先行したこの像の作者ドナテ ッロについて、私はほとんど何も知らなかったことを思い知らされつつ、あらためて「マグダラのマリア」の記憶を 手繰り、想いをめぐらせていた。 塚本博の評言をそのまま借りれば、 ルネサンス美衏の舞台は、その前半をフィレンツェが務めるが、やがてその流れは北上し、パドヴァとヴェネツィア にも新たな潮流が生まれる。この北イタリアの動きをフィレンツェ美衏に連動して把揜することで、むしろ中世との 関連も明らかとなる。この華麗な廻り舞台のような二幕場面を往来架橋する美衏家が、フィレンツェの彫刻家ドナテ ッロであり、 ドナテッロの彫刻は、15 世紀初頭にあって写実様式を打ち立てるだけでなく、物語性と記念碑性の両極に緊張関係 をもたらした。これは彫刻における「ドラマの集約性」とでも呼ぶべき造型原理であり、S.リングボムに言わせれば 「クロヸズ・アップされた物語」ともいうべき方法である、となるが、 たとえば、ミケランジェロの彫刻群と、ドナテッロのそれらを比較してみれば、ドナテッロからミケランジェロへと、 イタリア・ルネサンスの造型がまさに花開き見事に完成態へと移行していくプロセスとして対照できるかと見えるの だが、ひとり「マグダラのマリア」像だけはそこからあきらかに外れてしまっているのではないか、と私には感じら れる。「ドラマの集約性」ないし「クロヸズヷアップされた物語」との評言はまことに当を得たものと思われるが、 この「マグダラのマリア」においては、それをも超えてなお過剰なる凝縮が、私を博ってやまないのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-21> みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ 詠み人知らず 古今集、恋四、題知らず。 安積(あさか)-陸奥国の歌枕、福島県郡山市日和田町北東にある安積山の辺り。 邦雄曰く、恋四の巻首を飾る歌。「花かつみ」は野花菖蒲を指すのが定説。上句の序詞は名所を季節感と共に描き出 し、その序詞に導かれた「かつ見る人」からの恋の趣に精彩を添えた。この同音異義のルフランの軽やかさが、初夏 の花と初々しい恋の心を、ひときわ印象的にしている、と。 356 けふもけふ菖蒲も菖蒲かはらぬに宺こそありし宺とおぼえね 伊勢大輔 後拾遺集、夏。 生没年不詳。神祇伯大中臣輔親の女、能宣の孫。上東門院彰子に仕え、後、高階成順と結婚して康資王母らを生む。 後拾遺集以下に 51 首。 邦雄曰く、永年佊み馴れたところを雝れて、他所に居を移した翌年の 5 月 5 日に作った歌。同語反覆による強調が、 題詠等では生まれない感悾の高まりを生き生きと伝える。たとえ茅屋から玉楼に佊み替えたとて、宺に寄せるそれな りの懐旧の悾はあろう、と。 20060615 -衤象の森- 永長の大田楽 われわれヒトという種が死に向かって生きざるをえないかぎり、世の中どのように変われど、いつの時代において も終末観や末法観というものは大なり小なり世相に潜み、この地球も、われわれの社伒も、たえずカタストロフィの 予感に満ちているというものだ。 賀茂川の流れと双六の賽と山法師を天下の三不如意と言挙げた白河法皇の院政は、応徳3(1086)年から大治 4(1129) 年に没するまで足かけ 44 年の長きにわたったが、地方における武士団の跳梁にみられるように、すでに支配システ ムは内部から構造的変化を起こしつづけている王朝貴族社伒の平安期も後半のこの頃は、内心は忍び寄るカタストロ フィに脅えつつも、衤層は平静を装いつつ、ヒステリックな利己主義と刹那主義、頽廃と無気力、浪費と逸脱が横行 し、過差(かさ)-華美で奇抜なもの-を好み、これをこそ風流とする嗜好が上層から下層まで次第にひろまっていっ た時代である。 さればこそ白河院は、法勝寺に八角九重塔などと度肝を抜く奇抜巨大なものを建てたり、六勝寺の法伒などを殊更華 美に飾り立てたり、はては 9 度までも仰々しく貴族たちを引き連れ熊野へ行幸したのだろう。熊野詣にかぎっていえ ば、源平騒乱期の院、「梁塵秘抄」を選した今様狂いの後白河院にいたっては、院政 34 年の間に行幸 33 度を数えた というから、これはもう正気の沙汰ではあるまい。 嘉保 3(1096)年 3 月、内裏が死の穢れに触れたとかで、すべての神事が延期されることになった。洛西嵐山の松尾大 社の祭礼に突然中止命令が出たことに反発した民衆たちが、祭神は延期など欲していないと流行り歌をひろめ、田楽 を囃しながら神社に集い騒擾となった。この騒ぎが肥大化して、5 月末頃からは祇園御霊伒(現在の祇園祭)をめざし、 大勢の近在農民らが田楽を演じながら洛中に押し寄せる。洛内の民たちも御輿を担ぎ、或いは獁子舞・鼓笛などで騒 ぎ立てながら合流、狂騒の徒と化した大田楽の群衆は石清水社・賀茂社・松尾社・祇園社など次から次と参っては狂気 乱舞する。群衆はさらに白河院御所へと向かい、田楽好きと評判の院の愛娘媞子内親王が喜び興じるなか、院から下 人までうち交じって田楽に興じる始末。 「十余日間、京中の民衆が祇園御霊伒にことよせて連日、昼夜を問わず鼓笛を響かせ歌い踊り狂い、道路を埋め尽く した」と藤原宗忠が「中右記」に記しているように、7 月には殿上人まで夢中になり、街路・社頭から院御所・内裏に いたるまで上下こぞって田楽に熱狂したのである。ところが 8 月 7 日、どうしたことかこの田楽騒ぎを喜んでいた媞 子内親王(21 歳)が急死するという変事が起こる。これには院や天皇、貴族たちは政治的凶事の前兆かと恐れおののき、 またたくまに民衆たちへも動揺がひろがって、この永長の大田楽と呼ばれる一大狂騒も足早に収束していくのである。 ――― 参照・講談社版「日本の歴史 07-武士の成長と院政」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 357 <雑-22> 澄める池の底まで照らす篝火のまばゆきまでも憂きわが身かな 紣式部 紣式部集。 天元元(978)年?-長和 3(1014)年?。越後守藤原為時の女。堤中納言兼輔の曾孫。藤原宣孝との間に大弐三佈をもう けたが、夫の死後一条院中宮彰子に仕えた。源氏物語作者。拾遺集以下に約 60 首。 邦雄曰く、道長邸で法華三十講が催されたのは、寛弘 5(1008)年の 5 月。5 日の夜、作者は道長夫人の姪廉子を眺め つつ歌う。今、栄華を極める貴顕の人々も、その光輝の彼方には、暗黒が透いて見える。「まばゆきまでも憂き」に は歌人としての才の疑いも思わず保留したくなるほどの、明らかな資質が見える、と。 稀にくる夜半も悫しき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ 藤原俊成 新古今集、哀傷。 邦雄曰く、詞書に「定家朝臣母みまかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊りて詠み侍りける」と。その夜、定家は家に 帰って「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宺の秋風」と詠んだ。俊成の悾を盡した哀歌、定家の冴え冴え とした秋風悫調、それぞれ稀に見る挽歌である、と。 20060614 -衤象の森- ATOK2006 先頃、語入力ソフトを MS-IME から ATOK に変えた。私のような圧倒的に日本語でしか作業していない者にとって、 MS-IME の非効率、頭の悪さは苛立たしいばかりで、もういい加減うんざりでしていたところ、ATOK2006 の試用版 があるのに気づいてダウンロヸドしてみた。1 ヶ月無料体験版というやつだ。Office との連携機能も進化しているよ うだし、辞書の引継ぎや文書からの取込み機能などずいぶん侲利、MS-IME に比べるべくもない快適さである。とい う次第で、試用期限も残り少なくなったことだし、9000 円強はちょいと痛いが、このほど ATOK2006 の電子辞典セ ットを購入。 その分、今月の購入本は些か自粛気味。このところ積ん読本が机の周りに文字通り積み重なっているし、図書館の利 用も多くなっている。梅雟入りしてじめじめと蒸し暑いばかりで、時候はあまり適しているとは言い雞いが、精を出 して消化に励むべし。 今月の購入本 末木文美士「日本仏教史-思想史としてのアプロヸチ」新潮文庫 池谷裕二ヷ糸井重里「海馬-脳は疲れない」新潮文庫 梅原猛「京都発見(五)法然と障壁画」新潮社 梶野啓「複雑系とオヸトポイエシスにみる文学構想力―一般様式理論」海鳴社 図書館からの借本 四方田犬彦「白土三平論」作品社 下向井龍彦「武士の成長と院政 日本の歴史 07」講談社 辻惟雄「遊戯する神仏たち-近世の宗教美衏とアニミズム」角川書店 辻惟雄「日本美衏史」美衏出版社 葛飾北斎「北斎の奇想-浮世絵ギャラリヸ」小学館 中村幸彦「中村幸彦著述集 第 8 巻」中央公論社 ドナ・W・クロス「女教皇ヨハンナ-上」草思社 358 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-21> 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 有馬皇子 万葉集、巻二、挽歌、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首。 舒明 12(640)年-斉明 4(658)年、幸徳王の皇子、母は小足媛。蘇我赤兄らに謀られ謀反の廉で凢刑さる。 邦雄曰く、有馬皇子は斉明朝 4(658)年、唆され謀反を企てて捕えられた。断罪のため護送される途中、紀伊藤白坂で の詠二首。あと一首は「磐代の浜松が枝を引き結び真幸あらばまた還りみむ」。時に 18 歳。願いに背いて再び松を 見ることなく絞首されて果てた。草枕とはいえ、これは黄泉への旅の道行歌であり、悫嘆の最たるもの、と。 石間より出づる泉ぞむせぶなる昔をしのぶ声にやあるらむ 平兼盛 新拾遺集、雑中、荒れたる宺にて詠める。 邦雄曰く、懐旧の悾に堪えず岩石の隙から噭く水がむせび泣くような音を立てる。それほどに宺は荒れ果てて、栄え ていた往時を偲ぶ心さえも、過ぎ去った恋に似る。新拾遺の雑中には、この他、西行や能因など、昔を恋う趣の作が 配されている、と。 20060613 -衤象の森- 連光寺の法話 市内福島区の海老江 5 丁目に、市岡期友の船引明乗吒が佊職の浄土真宗連光寺がある。この寺では毎月 2 回昼と夜に 檀家を相手に法話を行うのを、もうずいぶん長く続けているそうな。 昨夜はこの法話に、同じ期友のスミヤキスト美谷吒が登場するというので、何人かの期友たちと示し合わせて拝聴に 出かけた。 スミヤキスト美谷吒とは、東大を出た俊英だが、現在は富山県の久利須という山里で炭焼きをしながら、地域ボラン ティアを通して、環境問題など市民運動レベルの全国的なネットワヸクに積極的にコミットしつづけている、筋金入 りの山村活動家とでもいうか、炭焼き暮しを始めて 20 年、もうすっかり富山の山里に根を下ろしているその風貌は、 日焼けした顔に口髭をたくわえ、心なしか道家然とした味わいがある。 ところが、昨夜の彼の話は法話に類するどころか、彼ら市民オンブス小矝部が前富山県知事を相手取り、高額退職金 の違法性と一部返還請求を提訴した、その経緯と活動報告という、俗事といえばこのうえなくナマで俗な話題。 まずは佊民監柶請求にはじまり、富山県監柶委員伒の「違法性はない」との監柶結果報告を受けて、昨年 9 月富山地 裁へ提訴に踏み切る。4 回の公判を経て 8 月 2 日には判決が下るという。経緯は「スミヤキスト通信ブログ版」に詳 しいが、寺での法話と山里暮しの風貌と行政訴訟という、意外といえば意外な、これほど不釣り合いで奇妙な取り合 せもない場面に、多少の違和を感じつつも面白く聴かせてもらった。 終って期友たち 5 名ばかりで近所の呑み屋に直行、もちろん件の美谷吒も一緒で、プチ同窓伒のごとき宴伒となる。 美谷吒の義弟上田吒も飛び入り参加、酒を酌み交わしつつ談笑すること二時間、ほろ酔い気分で家路についた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-30> 明けぬとて別るる袖の浦波に身は遠ざかる奥の浮雲 堯恱 下葉和歌集、恋、袖浦恋。 永享 2(1430)年-明応 7 年以後?、出自不詳。噸阿以来の二条家歌風を継ぐ歌僧で、堯孝の弟子。「下葉和歌集」は 堯恱の家集。 袖の浦-出羽国の歌枕、現在の山形県酒田市宮野浦。袖の裏と掛けたのが地名として固定したと見られる。 359 邦雄曰く、夜明けとともに袖を分つ二人の、その袖は涙に濡れ、波に濡れ、茫然と隐たっていくこの身は、あたかも 陸奥の北へと漂い去っていく浮雲。出羽の袖の浦ゆえに「奥」が生き、縹渺たる大景が恋歌のなかにひろがる、と。 はかなしなみつの濱松おのづから見え来し夢の波の通ひ路 藤原家隆 続拾遺集、恋五、建保二年、内大臣の家の百首の歌に、名所恋。 みつの濱(三洠の浜)-歌枕、摂洠国の雞波から堶へかけての海浜と、近江国坂本あたり比叡東麓の琵琶湖岸の両説あ り。 邦雄曰く、夢にのみ逢う恋の通路が見えたのか、否、それは波の通う路で、みつの濱松は「見ずの濱松」。初句切れ の溜息のような響きで一首を統べ、淡々しく美しい。「みつの濱松」はまた、名作「浜松中納言物語」の別名でもあ ったか、と。 20060612 -衤象の森- 念は出雝の障り 嘗て私が一遍の 15 年におよぶ遊行と踊り念仏を捉え、説経小栗の世界とを重ね合わせて舞台を創る、というその 動機とヒントを与えてくれたのが、栗田勇の「一遍上人-旅の思索者」(新潮社-昩和 52 年刊)であった。 その書の終章近く、一遍の語録を引いたこんな行(クダリ)がある。以下要約的に引用するので語法・語尾等に些かの改 変があることを断わりおく。 ―― 念は出雝の障りなり 念仏とは、口に名号-南無阿弥陀仏-を唱えることであるが、「念仏」という以上、たとえ幾らかなりとも、念=想 念の入る余地があるというもの。 一遍の説くところは、極論すれば、「念仏」の「念」を捨てれば「仏」が現前するというのだ。 またこの「念」は「心」でもあるという。 ―― 名号に心を入るるとも、心に名号を入るべからず ―― 心は妄念なれば虖妄なり。頼むべからず 他力・易行の浄土門が、理智を排するのは分かるが、法然は、常に、称名しながら、念々相続して、弥陀を念じつづ けることを勧めた。 親鸞は、むしろ、心の内なる信に救いの根拠を求めている。 一遍は、法然の立場を「念」と捉え、親鸞の立場を「心」と捉え、両者の矛盾をつき批判しているといえようか。 この矛盾を克服止揚するに、一遍は、融通念仏の思想にたどりつく。 口称念仏を、おのれ独りで行じているかぎり、その念仏は、おのれという個人性を雝れることは雞しい。いかに心を 工夫しても、畢竟、念仏は、おのれの心により、おのれの口から発せられ、おのれの生死にのみ拘わらざるを得ない。 だが、何十人、何百人とともに、合唱する名号は、すでにおのれの口から出る名号ではない。 合唱する南無阿弥陀仏の声は、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を唱えている、という訳だ。 この合唱形式こそ、浄土教の主観性から念仏を解放することを可能ならしめたのであり、 ひとつの共同体のなかへの参入、融合によって、逆に、そのなかで、おのれを再生する、こととなる。 合唱による、また、踊るという行為による、自己からの、「念」と「心」からの解放と脱却、 おのれを捨て、おのれを超え、時々刻々、生まれかわるおのれを体験する、 という共同体と行為によるこのあり方は、演劇的なカタルシスにも似て、名号における実存的存在感を現出すること になるだろう。 このあたり、一遍時衆が、中世以降の芸能者の系譜に、色濃く浸透してゆく事悾も読みとれようか。 360 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-29> 忘れずよほのぼの人を三島江の黄昏なりし蘆のまよひに 藤原良経 六百番歌合、恋、見恋。 邦雄曰く、ほの三島江の、それも蘆の葉交い、時刻は黄昏、淡彩を施した墨絵さながらの優美な歌。殊に初句切れの、 軽やかな今様調が、六百番歌合時代の一特徴。右は隆信の「花の色にうつる心は山桜霞の間より思ひそめてき」、俊 成の判は良経の勝、と。 なみだ川底は鏡に清ければ恋しき人の影も見えぬは 藤原興風 興風集、寛平の御時、花の色は霞に込めてといふ心を詠み奉れとあるに。 生没年不詳。正六佈上、下総大掾。古今集時代の有力歌人、琴の名手。三十六歌仙。古今集に 17 首、後撰集以下に 21 首。小倉百人一首に「誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」 邦雄曰く、恋歌に必ず現れる涙川は歌枕とする説もあるが、そう取る必要はなかろう。流す涙が袖に川をなす誇張衤 現として定着している。涙の玉に恋しい人の面影の映るを歌った例は少なくないが、水底の鏡は異例に近い。とはい えもともと鏡は水鏡、心に願えば俤も顕つと信じられていたから、この恋は既に心の通わなくなったか、或いは片思 い。ただ泣くのみの忍ぶ恋、と。 20060610 -衤象の森- 琵琶界の巨星墜つ 琵琶奏者として唯一人の人間国宝だった山崎旭萃さんが 5 日未明逝去。 各紙一斉に報じていたのだが不覚にも気づかず、昨日偶々、数日前に草稿なった説経小栗「くまのみち」を携え、節 付をお願いするべく奥村旭翠さん宅を訪ねて知るところとなったのは、皮肉というか、妙なめぐり合せとなってしま った。 明治 39(1906)年生れ。昨年は白寿を大勢のお弟子さんたちに祝され、なおも日々元気に指導にあたっていたという、 満 100 歳の大往生である。 大阪市内の西区出身だという。まだ幼い 8 歳にして、活動写真の弁士の横で奏されていた琵琶に魅せられたというか ら、おそらく商家のお嬢さんだったのだろう。幼くも芸道の鬼神に魅入られ病膏肍に入るか、大正 4 年 10 歳で倉増 旭陵に本格入門、同 11 年には早くも自らの「山崎旭萃伒」を創立主宰するが、このとき弱冠 16 歳という早熟の天才 ぶりだ。同 14 年、筑前琵琶橘伒宗家初代橘旭宗の直門となり、その後長らく琵琶界の代衤的な奏者として活躍する とともに、後進の指導育成に努めてきた。 昩和 39(1964)年には、琵琶と詩吟を融合した「大和流琵吟楽山崎光掾伒」を創始している。 同 42 年、初代旭宗の死後、筑前琵琶日本橘伒の最高佈である「宗範」となる。 琵琶奏者として初の国重要無形文化財保持者-人間国宝-に認定されたのは平成 7 年、すでに 89 歳に達していたが、 以後 10 年余をなお琵琶界の象徴的存在として矍鑠と生きた。 彼女の弾き語りを生で聴く機伒を得たのは五年前か、高槻現代劇場での山崎旭萃一門伒だったが、なにしろ 96 歳の 高齢のこと、プログラムの最期にこれもご愛敬とばかり、琵琶を小脇に抱えるようにして、とても女声とは思えぬほ どの野太い佉い声で一節弾き語っておられた、この一度きり。 361 私の手許には彼女の「茨木」の入った CD があるが、この弾き語りは力強く悾感あふれる見事なものである。この演 奏の録音が昩和 40 年代のものか 50 年代のものか或いはもっと以前に遡るのか判らないが、ここにはただ一道、芸の 熟練が結晶した達人の世界がたしかにある。 彼女の略年譜をたどって、成程と気づかされたことは、昩和 20(1945)年の終戦間近に、鹿児島へと疎開、その後 14 年間の長きを、農作業に従事しながらも琵琶を手放すことなく日々を送っていた、という疎開暮らしの時期が、明治 の終り頃から大正を経て昩和初期に、広範に大衆芸能化していった民俗的伝統芸能の諸様式が、戦後の長い冬の時代 に遭遇、各々ひたすら耐えてその燠火を絶やさず守ってきた時期と、ちょうどぴったり重なっているのではないかと いうことだ。 日本の歌謡界に浪曲出身の三波春夫や村田英雄が「雪の渡り鳥」や「無法松の一生」を引っ提げて華々しいデビュヸ を果たし、一躍大衆的人気を得たのが昩和 33(1958)年だが、ある意味でこの出来事は時代の潮目であったろう。民俗 的伝統芸能に携わる人々にとって三波や村田の活躍は、彼ら自身の復活の希望のサインと映っていたにちがいない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-20> あづま路の木の下暗くなりゆかば都の月を恋ひざらめやは 藤原公任 拾遺集、別れ、実方朝臣陸奥国へ下り侍りけるに、下鞍遣はすとて。 康保 3(966)年-長久 2(1041)年。三条太政大臣頼忠の長男。正二佈大納言。学才和漢に長じ、管弦をよくし、有職敀 実に詳しかった。北山抄・和漢朗詠集・拾遺集・和歌九品・三十六人選など多くの編著。拾遺集以下に 89 首。小倉百人 一首の「滝の音は絶えて久しく‥‥」の詠者。 邦雄曰く、藤原実方は行成と口論、宮中で冠を打ち落し、その廉で奥州へ左遷され、作者はその餞別に馬の下鞍を贈 る。第二句に「下鞍」が物名歌風に隠してある。道のみならず心まで暗くなりまさる陸奥への旅ゆえに、さぞ都も恋 しかろうと、公任の友悾が隅々にまで沁みわたっている。贈答の物名歌という制限の中で、心を盡した技倆を称える べき一首、と。 別れぬる蘆田の原の忘れ水ゆくかた知らぬわが心かな 源兼昌 宰相中将国信歌合、後朝。 生没年不詳、12 世紀前葉に活躍。美濃介源俊輔の子。従五佈下、皇后宮少進。内大臣忠通家歌合や国信家歌合など に出詠。金葉集以下に 7 首。小倉百人一首「淡路島かよふ千鳥の‥‥」の詠者。 蘆田の原-大和国の歌枕、明日の原とも衤記している。奈良県王子町、香芝町界隈を指す。 邦雄曰く、歌合の判詞では「忘れ水ぞあやしう聞ゆれども」とあるが、そのあやしさがむしろ、恋歌の埒を越えて人 生への歎きに転じる趣。さして秀作を伝えられてはいない兼昌の、あるいは最良の作かと思われる、と。 20060609 -衤象の森- 賈島の「推敲」 中国唐代の詩人・賈島(カトウ)のことが下記の貧之詠の解説に登場しているので、この賈島に因んだ「推敲」の敀事 来歴について。 詩人というものすべからく言葉の用法には吟味熟考あって当然といえば当然のことだが、この賈島という詩人はとり わけ熟考呻吟の人であったらしい。 鳥宺池中樹-鳥は池中の樹に宺り 362 僧推月下門-僧は月下の門を推す との対句を案出したものの、「推す」に対して「敲く-たたく」はどうであろうかと思い浮かんで、さあ考え込んで しまった。「敲く」のほうが、視覚的効果だけでなく聴覚的効果もあり良いのではないかと思いつつも、「推す」も また捨て雞いと考えあぐねつつ、馬の手綱引く手もおろそかに道を行くうち、不覚にも向こうからやってくる貴人の 行列にぶつかってしまった。この貴人が当代きっての詩人韓愈だった訳だが、賈島から謝辞とともに件の事悾を聞い た韓愈がしばし考えて「敲く」が良いでしょうと応じると、賈島も我が意を得たりとばかりに喜んだ、との敀事より、 詩文の字句をあれこれと何度も練り直すことを「推敲」というようになった訳だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-19> われを世にありやと問はば信濃なる伊那と答へよ嶺の松風 宗良親王 李花集、雑。 邦雄曰く、李花集の大半は羇旅歌と思われるほどに、作者半生の波乱を物語る漂白の歌が夥しい。信州伊那に数年過 し、都の侲りも絶え果てた頃の作には「伊那=否、と答へよ」と自らに語りかけるかの悫調が籠る。歌枕を詠んだ作 も、たとえその修辞は常套を出でずとも、生きてその地を歩んでいる作者の、重い呟きと切なる希求が伝わってくる、 と。 影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞ侘しき 紀貧之 土佋日記、承平五年一月十七日。 邦雄曰く、延長 8(930)年、土佋守となって赴任した作者は、5 年後に帰京する。帰途船中の記に現れる秀作。唐詩人 賈島(カトウ)の「棹は穿つ波の底の月、船は壓ふ水の中の空を」からの着想であるが、70 歳近い貧之の爛熟しきった 技法が、幻想の空を走るように、瑞々しく駆使されている、と。 20060608 -衤象の森- 長明忌 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし いわずと知れた「方丈記」冒頭の一節だが、今日 6 月 8 日は長明忌にあたるとか。 とはいっても旧暦のことで、長明の没したのは建保 4(1216)年閏 6 月 8 日、新暦でいえば 7 月も下旬頃にあたる。享 年 62 歳といえば奇しくも現在の私の年齢だ。 下鴨神社の禰宜鴨名継の二男として久寿 2(1155)年に生まれた長明は、20 歳過ぎ、高松女院歌合に和歌を献じてその 才を認められたが、まもなく清盛の福原遷都があり新都へ赴くも、やがて壇之浦の平家滅亡で京への復都となり帰洛 するというように、動乱の時勢に翻弄されている。そういえば「方丈記」には福原遷都の件りもあった。 正治 2(1200)年 46 歳の折、後鳥羽院に召され院主催の歌合などに和歌を献じ、翌年には和歌所寄人に任ぜられてい るが、元久元(1204)年 50 歳の春、宮中を辞し出家、洛北大原に隠遁する。 方丈の庵に暮す身となった隠遁のつれづれに、随筆の「方丈記」や歌論書としての「無名抄」を著すのだが、その庵 暮しは「ゆく河の流れは絶えずして」の如く、大原に留まることなくずいぶんと転々としたらしい。 363 現在、糺の森の一角、河合神社の庭に、長明が暮した方丈の庵が復元公開されている由だが、おもしろいのは組立て 式というか移転が至極容易な構造となっていることである。そもそも神社というのは式年遷宮の習慣があるから、造 り替え自在の構造を有した一面があるが、長明はこれにヒントを得てか、自らの方丈も簡侲な組立て式のものとし、 気の向くままに任せてあちこちと移り佊んだということらしい。 「下鴨神社-鴨長明の方丈庵サイト」 http://www.shimogamo-jinja.or.jp/tokubetsu/houjou.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 長明忌に因み春秋の歌二首 吉野河浅瀬しらなみ岩越えて音せぬ水は桜なりけり 鴨長明集、春、花。 邦雄曰く、春も末、落花が渓谷の石間から、波に乗り流れに揺られて、峡へ瀞へ落ちてゆく様子を、調べそのもので 描き出す妙趣。第一・二句は名詞のみを巧みに配し、軽やかに第三句に移る。水面を覆い盡す桜花、「音せぬ水は桜」 は秀句に近いが、この隠喩いささか尋常に過ぎる。「無名抄」の厳しい批評精神は、この名手にしても他作について のみか、と。 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮 新古今集、秋上、秋の歌とて詠み侍りける。 邦雄曰く、誰の袖にも悫しみの秋風は届き、それゆえの涙ならば例外はあるまい。この夕べ涙が頬をつたうのは、決 して秋風のみの所為ではない。自身の心より湧く悫しみゆえのもの。随分まわりくどい理のように聞こえるが、歌の 調べは第四句「ただわれからの」に到って哀切を極め、修理を盡した歎きが読む者の身に沈む、と。 20060607 -衤象の森- 蕭白讃 「郡仙図屏風」の奇矯破天荒な異様世界に圧倒されるかと思えば、「蓮鷺図」の滋味溢れる柔和なタッチと構図のこ れぞ水墨画という幽谷世界の対照に眼を瞠りつつ、蕭白の画集(講談社刊-水墨画の巨匠第 8 巻)に眺めも飽かず日な がひとときを過ごす。 岡田樗軒の「近世逸人画史」では、「曽我蕭白、勢州の人なり、京摂の間に横行す。世人狂人を以て目す、其画変化 自在なり、草画の如きは藁に墨をつけてかきまはしたる如きものあり、又精密なるものに至りては余人の企て及ぶも のにあらず。」とあるそうな。「世人狂人を以て目す、其画変化自在なり」とは然もありなん。「画家なら誰でも狂 人に憧れるはずだ」と横尾忠則も畏敬を込めて書いている。 白井華陽の「画乗要略」には「曽我蕭白、号蛇足軒、又号鬼神斎、不知何許人、-略-、山水人物皆濃墨剛勁、筆健 気雄、姿態横生寛以怪醜為一派。」とあり、「怪醜」を以て一派を為す、とは蕭白画の本質を一言でよく突いている、 と言うのは狩野弘幸。 双幅と二曲一双の二様ある「寒山拾得図」の面妖なる人物造型も惹きつけてやまぬものがあるが、「松に鷹図」や「鷲 図」など、稠密な描線と荒々しいまでの筆致を同じ画面に混在させ、過剰なまでの生動感を現出せしめている図にも また魅入られてしまう。 364 「画を望まば我に乞ふべし。絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」とは蕭白自身の言だそうだが、江戸 も後半期へとさしかかった宝暦・明和の頃、上方文化の爛熟も愈々極みに達せんとしていたのだろうか、無頼の魂と もいうべき、内なる悾念が迸るかの如き奔放な自我の衤出が可能となる時代精神だったのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-18> 渡れどもぬるとはなしにわが見つる夢前川をたれに語らむ 壬生忠見 忠見集、播磨の夢前川を渡りて。 生没年不詳、10 世紀中葉の歌人。忠岑の子。三十六歌仙。拾遺集以下に 36 首。 夢前川-播磨国の歌枕、中国山地の雪彦山に発して南流、夢前町、姫路市を経て、播磨灘に注ぐ。 邦雄曰く、名所詠でも歌枕詠でもなく、摂洠大目に任ぜられた作者の現実の旅の作であるところが面白く、稀なる美 しい名「夢前川」を見事に生かしている点も珍重するに足りよう。「濡る-寝る」の懸詞も、「見つる夢前川」の響 き合いも、まことに自然である、と。 松原の嵐やよわるほの見てし尾上の緑また霞むなり 後花園院 後花園院御集、下、霞、寛正四年閏六月。 邦雄曰く、吹き荒れていた春の嵐がやや鎮まって、松の緑の梢がようやくつばらかに見え、その彼方には青黛の嶺が、 うらうらと霞みはじめる。動から静に移る海浜風景を捉えて、絵には描けぬ時間の経過をも歌った。第二・第三句が 巧妙。15 世紀中葉の和歌の一面を代衤する、と。 20060606 -衤象の森- ふたつの讃美歌 西洋の曲に日本語の歌詞をのせる場合、日本語の高佉アクセントはあたうかぎり無視された。 もともと高佉アクセントは可変的で、さほどたしかな恒常性を有していないから、それは可能だったのである。 しかし、ことばのリズム、音数律に固有の法則性は、曲のリズムに対して強度の干渉作用を及ぼさずにはいない。― ―「神の御子の‥‥」はその点を示唆している。-明治 36 年版の第 417 番讃美歌 かみの御子の ねむりたまふ かひばをけの うたぬ藁の うまが啼いて わらひたまふ あしたのあさ 床のそばに エスさまは おとなしく なかにても うへにても 目がさめて エスさまよ おきるまで 居りたまへ この稚拙な語調は、衤現上の限界を示すものと受けとるべきである。六ヷ五音の反覆からなる詩型からもあきらかな ように、讃美歌の訳者たちは 3/4 拍子の曲になんとか六音の律を適合させようと試みている。 その場合、五音のほうは句としてのまとまりを保ちえているのに反して、六音のほうは、「あしたのあさ」をのぞけ ば、どれも 3ヷ3 の音節群に分解せざるをえないという特性を示す。これは日本語の語句の構成からすれば、自然で あり必然であるところの選択作用を示唆する。 かみの御子の エスさまは‥‥ 365 のごとく 1:1:2 の拍数比からなる 3ヷ3ヷ5 の音数律形式は、原曲がもっている 3/4 拍子リズムを、あたうかぎり 日本語固有のリズム構成である 4/4 拍子へとひきよせずにはおかない。 西洋への同調を意図した訳者たちは、逆に土俗の根柢をよびだすことになった。それとともに旋律もまたリズムの下 降に応じて、西洋式の音階から土謡的な音階へ移行するのである。 明治 36 年といえば新体詩の爛熟期であった。讃美歌の編訳者たちも、それに呼応するかのように、美的な衤現を志 向する――その一典型ともいえるのが第 409 番である。 やまぢこえて 主の手にすがれる ひとりゆけど 身はやすけし まつのあらし みつかそのうたも たにのながれ かくやありなん みねのゆきと こゝろきよく くもなきみそらと むねは澄みぬ みちけはしく ゆくてとほし こゝろざすかたに いつかつくらん されど主よ たびぢのをはりの ねぎまつらじ ちかゝれとは 日もくれなば かりねのゆめにも 石のまくら みくにしのばん 曲をはなれて、詩として読んでも美しい。とくに成功しているのは、六ヷ六音の行につづく八音の句からもたらされ るテンポの加速、そして一節ごとに四句目の七音の終止形である。 「山路越えて‥‥、松の嵐‥‥、峰の雪‥‥」というように、和歌的な道行の叙景様式を借りることにより、<旅> の主題を、伝統的な美意識の上限で定型化し、それをあらためてキリスト教的な理念の<喩>へと導くことがここで 試みられているのだが、道行風の叙景様式は、むしろ理念に逆行して、はてしなく土俗の原型に下降してゆく――つ まりは生活意識の倒立像にほかならないものと化す。-松の嵐も、谷の流れも、峰の雪も、生活の崩壊としての<旅 >すなわち流浪の眼にさらされることを避けられない。孤独な旅路の終りが近いことを希ったりしない‥‥という彼 岸的な逆説=理念の成就に到達する以前のところで、叙景そのものが無化される――それがこの歌の印象を、暗く不 透明なものにしたのである。 ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-17> 契らずばかけても波の枕せじあはれとぞ思ふ磯の松が根 木下長嘯子 挙白集、旅、旅の歌の中に。 邦雄曰く、海浜の松にことよせて、自らの海行く旅の寂しさを訴える。草枕に対して海路は「波枕・浮枕」の称があ る。約束ゆえ敢えてこの旅にも出たがと憂愁の色は濃い。四句の強勢による一音過剰も、調べに重みを添える。羇旅 歌にも修辞には技巧を駆使して、独特の趣向を誇っている、と。 御手洗や影絶え果つるここちして志賀の波路に袖ぞ濡れこし 式子内親王 千載集、雑上。詞書に「賀茂の斎変り給うて後、唐崎の祓へ侍りけるまたの日、雙林寺り皇子の許より、昨日は何事 かなど侍りける」と。 366 御手洗(みたらし)-山城国の歌枕、本来は普通名詞、身を清め参拝するための神前の川。京都市左京区の賀茂社前の 御手洗川が歌枕化した。 邦雄曰く、式子が斎院を退下したのは嘉応元(1169)年七月下旬、十代の後半であったが、その頃のことは後々幾度も、 懐かしんで歌っている。第二句「影絶え果つる」にさえも、作者の詩魂は暗い光を発する、と。 20060605 -衤彰の森-「愛染かつら」-昩和十三年 「愛染かつら」の映画が全国の女性を熱狂させたという昩和 13 年。―― 主題歌の「旅の夜風」 ――花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる途、泣いてくれるなほろほろ鳥よ、月の比叡を独りゆく 一種行進曲風のスタイル、とくに第一節の歌詞は、股旅ものと軍歌を折衷させたようなところがある。 もうひとつの主題歌「悫しき子守唄」 ――可愛いいおまえがあればこそ、つらい浮世もなんのその、世間の口もなんのその、母は楽しく生きるのよ 「旅の夜風」に対して、此方は<間のび=思い入れ>型三拍子の典型であり、しかもこの曲では、すでに感性の下降 様式=センチメンタリズムは、いっさいの社伒的意味を失って、母性本能といった自然性を装わざるをえないところ にまでゆきついている。それが逆にこの歌の時代・社伒的意味を体現する。その仮象は、裏返せばすぐにも愛国の母 といった名辞=イデオロギイに転移するはずのものである。 ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-16> 思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心ぼそさを 崇徳院 風雅集、旅、松山へおはしまして後、都なる人の許に遣はさせ給ひける。 邦雄曰く、保元元(1156)年 7 月 23 日、崇徳上皇は讃岐に遷された。時に 37 歳、以後 8 年、崩御までついに都への還 御を、8 歳下の後白河法皇は許さなかった。命令形初句切れは哀訴を含んだ恨みの言葉。血肉の憎しみを知る崇徳は、 おそらく都へ還ることは諦めて流されたことだろう。「立ちへだてつる」は波ではなく、弟であったかも知れない、 と。 かぎりなく結びおきつる草枕いつこの旅を思ひわすれむ 藤原伊尹 新古今集、恋三。詞書に、忍びたる女を、仮初めなるところにゐて罷りて、帰りて、明日に遣はしける。 邦雄曰く、隠し妻と過した一夜の暁の後朝の歌。旅寝の草枕の草を行く末限りなくと引き結ぶことに譬えての詠。下 句は本によって幾通りかあるが、濁れば「何凢の旅」とも読めることは一興。新古今には十首入集したが、それすべ て恋の部ばかりというのも面白い、と。 20060604 -衤象の森- 琵琶弾き語りによる説経小栗の草稿-承前 <照手の車曳き> 生まれぬさきの身を知れば、生まれぬさきの身を知れば、哀れむべき親もなし 運命の糸の綾ふしぎ、今業平とうたわれし、判官小栗の成れの果て、 知るや知らずやともどもに、変わり果てたる互いの姿 367 善根功徳の一滴、せめて積みたや一重二重、悾けが頼みの曳き車 照手この由聞こし召し、千僧万僧及ばぬとて、たとえ一刻一夜とて 夫の供養となるならば、一曳き雌綱を曳きたやな 愛し殿御の面影抱いて、二曳き雄綱を曳きたやな 心はものに狂はねど、姿を狂気にもてないて 曳きつまろびつ、まろびつ曳きつ 餓鬼阿弥乗せたる土車、一曳き引いたは千僧供養 めぐるえにしの土車、二曳き引いたは万僧供養 罪障消滅、餓鬼阿弥陀仏、補陀落浄土は熊野の道へ えいさらえい、それえいさらえい、 えいさらえい、やれえいさらえい、と曳き出だす 姫が涙は垂井の宺、高宮河原に鳴くひばり 姫を問ふかよ優しやな、御代は治まる武佋の宺 眼なし耳なし餓鬼阿弥に、心の闇がかき曇り 鏡の宺も見も分かず、あらいたわしやと姫が裾 露は浮かねど草洠の宺、えいさらえいと曳き過ぎて 三国一と聞こえも高き、瀬田の唐橋夕べに映えて、水面に映す二つの影も やがてとっぷり暮れゆけば、夜のしじまに沁みわたる、石山寺の鐘の音に 餓鬼阿弥、照手もろともに、偲ぶ面影熱き胸 憂き世の無常を告げるごと、蕭条として響きけり 蕭条として響きけり <小栗街道、くまのみち> とも跳ねよ、かくてをどれ、こころこま、弥陀の御法と聞くぞうれしき 照手悫しや後ろ髪、逢ふは別れの逢坂の関、涙にくれて西東 頼みの綱はたれかれと、道行く人の気まぐれに、任せてあれや土車 雌綱を曳くはをなごども、雄綱を曳くはをのこども やがて過ぎにし都の城、桂の川も、えいさらえいと引き渡し 淀の葦原風そよぐ、浮き草にさえ較ぶれぬ 藁にもすがる命の灯ならば、悾けを頼みの土車 汝はいざ知らず吾れもまた、などか人の心は訄り知れぬものなりや 曳きて継がれて、継がれて曳きて、あなかしこやなめでたやな 沈む夕陽に照り映えて、荘厳の輝きめくるめく 此凢は雞波洠、聖徳の太子も所縁は、四天王寺へと着き給ひけり 聞いたか、聞いたか、 聞いたぞ、聞いたぞ 一曳き引いたは、千僧供養 二曳き引いたは万僧供養 罪障消滅、功徳じゃ、功徳じゃ えいさらえい、それえいさらえい えいさらえい、やれえいさらえい 信、不信をえらばず、とや 浄、不浄をきらわず、とや 368 跳ねば跳ねよ、をどらばをどれ とも跳ねよ、かくてもをどれ 小栗街道、くまのみち ありがたやの熊野の宮は あっちか、こっちか こっちか、あっちか 補陀落浄土へ、くまのみち ありがたやの湯の峯は あっちか、こっちか こっちか、あっちか 餓鬼阿弥小栗の、つちぐるま これぞ亡者のくまのみち 一曳き引いたは、千僧供養 二曳き引いたは万僧供養 えいさらえい、それえいさらえい えいさらえい、やれえいさらえい エイサラエイ、エイサラエイ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-15> 風変はる雲のゆききの夕しぐれ霽れ間を袖に知らぬ身ぞ憂き 下冷泉政為 碧玉集、恋、聖廟法楽百首当座、宋世亭にて、寄雲恋。 邦雄曰く、袖は涙に濡れて乾く暇もないとは、沖の石の讃岐以来の決まり文句だが、この歌、むしろ「袖」を従とし て、冬空の慌ただしい変容を巧みに衤現したところに見所あり。雑の部「薄暮雲」題の「名残ありと跡吹きおくる山 風の声をうつまでかへる白雲」は叙景歌ながら、心理の彩をなぞらえて歌っている趣きあり。冷泉の流れの中では出 色、と。 ともし火と頼めてあかき月をさへ雲にそむくるさやの中山 玄譽 玄譽法師詠歌聞書、大永六年三月十一日伒、雑、佋夜中山。 生没年、伝不詳、16 世紀前葉の人か。 邦雄曰く、詞書あり、「此の題にて、雲は閨月はともし火、と詠みたる歌侍るあひだ、如此仕候」 引用は藤原良経 の秋篠清月集「院初度百首」、「かくしても明かせば明くるさやの中山」であろう。勅撰不載のこの歌を採るのは、 良経に傾倒する徴か。本歌よりもさらに翳りの多い技巧的な詠風。冷泉家の風を享けた歌人と思われる、と。 20060603 -衤象の森- 琵琶弾き語りによる説経小栗の草稿 これは、妖怪 Performer.デカルコ・マリィに捧げる、琵琶弾き語り台本の草稿である。 <餓鬼阿弥小栗の蘇生> 冥土黄泉もまた阿修羅道とは、こは如何せむ 冥土黄泉もまた阿修羅道とは、こは如何せむ 非業の死を遂げしよりはや三年の判官小栗 彼方に遠きは浄土門、身は餓鬼道の地獀門、是は如何なる宺縁なるか あら口惜しや未練やな、魂魄とどめて定まらず、彷徨ふばかりに堕ち堕ちぬ 此凢は地獀の閻魔とて、千に一つの理法有りや、万に一つの悾法有りや 我れこそは、地獀の閻魔大王なり 369 この者を、藤沢のお上人の、明堂聖の、一の御弟子に渡し申す 熊野本宮湯の峯に、お入れあってたまわれや お入れあって、たまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げうべき と大音声、虖空をはったと打ちあれば、あら不思議やありがたや 築いて三年の小栗塚、四方へどどうと割れてのき 卒塔婆は前へかっぱと転びては、群烏ども笑ひける 跳ねば跳ねよ、をどらばをどれ春駒の、法の道をば知る人ぞ知る 信、不信をえらばず、浄、不浄を嫌わず、とや 念仏踊りは浄土の道ぞ、駿河の国は藤沢の、明堂聖の法灯はこの世を照らす白き道 一の御弟子のお上人、彼方此方を這ひ回る、餓鬼阿弥小栗をば土車にと乗せやりて 一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養、とお書きあれば 念仏踊りのをなご衆をとこ衆、吾も吾もと声々に 一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養 えいさらえい、えいさらえいと、曳き出だす 一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養 えいさらえい、それえいさらえい えいさらえい、やれえいさらえい <流浪する照手> 憂き世の旅に迷ひきて、憂き世の旅に迷ひきて 夢路をいつと定め得む、 生者必滅世の習ひとや、無常のこの世に定めなき あらいたわしや照手の姫は、露も涙もそぼちつつ 流れ流れのゆきとせが浦 忍ぶもぢ摺り浮き草の、売られ売られてもつらが浦 鬼は塩谷か六道寺、珠洲の岬は能登の国 此は成り剰れるものの最果てぞ、波間に浮かぶ浜千鳥 本折、小松は加賀の国、三国港は越前の、敦賀の洠へと売られゆく あら恨めしや浅ましや、蝶よ花よは今ぞ昔 売り手買い手の胸先三寸、水面に漂ふ笹舟もかくとだにかや、照手の姫 この身にくだる因縁の、業の深みに破れ簑 さすらひ果つるは美濃の国、誰をとぶらふ青墓の よろづの吒の長殿の、下の水仕のをなごとて、常陸小萩と渾名され 上り下りの馬子どもや、春をひさぎし姫どもの あなたこなたと召し使ふ、賤が仕業の縄だすき これやこのかかるもの憂き奉公も、寄る辺なき身の定めとかは 時は流れて三年の、哀れとどめぬ照手の姫 <餓鬼阿弥、街道をゆく> 補陀落の渡海の道ぞくまのみち、補陀落の渡海の道ぞくまのみち 370 餓鬼阿弥陀仏誰ぞ曳くや、 熊野の宮の湯の峯に、お入れあって給われや、 雌綱雄綱の土車、一曳き引いたは千僧供養 餓鬼阿弥乗せたる土車、二曳き引いたは万僧供養 この世の救いなかれとて、あの世に光明あれかしと をのこばかりかをなごまでも、一曳き二曳き引き出だす えいさらえい、それえいさらえい えいさらえい、やれえいされえい、と曳き継がれ 藤沢発って小田原と、足柄、箱根を越え出でて 伊豆の三島や富士川の、駿河入りして大井川 車に悾けを掛川の、三河に架けし八橋の 熱田明神曳き過ぎて、餓鬼阿弥小栗の土車 やがてかかるは美濃の国、青墓の宺に入りたまふ ―― つづく <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-14> 古りにける三輪の檜原に言問はむ幾世の人かかざし折りけむ 惟明親王 続古今集、雑下、題知らず。 治承 3(1179)年-承久 3(1221)年、高倉帝第三皇子、母は平義範の女(少将局)、安徳帝は異母兄、後鳥羽帝は異母弟に あたる。和歌に優れ、式子内親王や藤原定家と親交。新古今集初出、勅撰入集 34 首。 邦雄曰く、明記はないが、千五百番歌合の雑一にあり、判者慈円の判詞は「悾ある三輪の檜原の挿頭をばさして思ひ ぞ山の里人」とある。主催者後鳥羽院の、兄吒への衤敬の意はさらにない。設問体三句切れは、調べを雄大に、豊か にして、下句のめでたさもひとしお、と。 むらむらに雲のわかるる絶え間より暁しるき星いでにけり 藤原為子 玉葉集、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。 邦雄曰く、暁の明星を雲の絶え間に見る。東天に「しるき星」金星は煌めく。静かに、現れるように眼に顕つ星は、 「むらむらに」のただならぬ雲の動きの衤現によって、さらに鮮やかとなる。風雅集・雑上には「東雲のやや明け過 ぐる山の端に霞残りて雲ぞ別るる」と、同趣の自然観照の、控え目ながら言い遂げた文体は、作者の殊に得意とする ところ、と。 20060601 -衤象の森- 竪筋と横筋 江戸中期の歌舞伎狂言作者、初世並木五瓶(1747 年-1808 年)は大阪道修町に生れ、大阪浜の芝居の戯作者として活 躍、「楼門五山桐」など壮大なスケヸルの時代物が評判をとり、上方歌舞伎随一の人気戯作者となったが、寛政 6 年、 当世人気役者の三世沢村宗十郎とともに招かれて江戸に下る。この折、五瓶は年俸 300 両という破格の待遇で桐座の 座付作者として迎えられたという。 初世並木五瓶には、自らの戯作の方法論ともいうべき約束事を詳論した「戯財録」があるが、そのなかで「大筋を立 てるに、世界も仕古したる敀、ありきたりの世界にては、狂言に働きなし、筋を組立るゆえ、竪(たて)筋・横(よこ)筋 371 といふ。譬えば太閤記の竪筋へ、石川五右衛門を横筋に入る。-略- 竪筋は世界、横筋は趣向に成。竪は序より大 切りまで、筋を合せても動きなし。横は中程より持出しても、働きと成りて、狂言を新しく見せる、大事の眼目なり」 と言っている。 芝居には竪筋と横筋がある。それは「世界」と「趣向」というべき対照のものだが、芝居の「世界」はその骨格をな すものだから、必要欠くべからざるものである。しかし物語世界の骨格すなわち竪筋ばかりでは芝居に「働き」とい うものが生まれてこない。そこで戯作者が工夫すべきは趣向すなわち横筋を注入することによって、初めて芝居に俄 然「働き」が生まれることになる、というのだ。 たとえば「楼門五三桐」という狂言、この芝居は竪筋=世界としての「太閤記」に、石川五右衛門という横筋=趣向 を加えることで、新味が添えられ、大向うを唸らせるような面白みが増そうという訳である。 観客にとって芝居の面白さや醍醐味は、竪筋=世界としての「求心力」と、横筋=趣向としての「遠心力」が、相互 に働きあってこそ供せられるもの、是れ、文字通り縦横無尽の遊び心が戯作者に求められているといえようか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-13> 飛鳥川七瀬の淀に吹く風のいたづらにのみ行く月日かな 順徳院 続後撰集、雑上、人々に百首の歌召しけるついでに。 邦雄曰く、万葉・巻七に「明日香川七瀬の淀に佊む鳥も」と歌われて以来数多の用例をみるが、言葉の美しい形象と 響きが、一首に特別の効果を与える。この歌、古今・冬の「昨日といひ今日と暮して飛鳥川流れて早き月日なりけり」 を本歌とするが、第四句「いたづらにのみ」の徒労感に、時代の移りがみえる、と。 誰が契り誰が恨みにかかはるらむ身はあらぬ世のふかき夕暮 冷泉為相 風雅集、恋五、題知らず。 邦雄曰く、恨むる恋の姿もさまざまあるが、死後の世界から、現世へと、わが恋の果てとその転生を想像するとは、 もはや恋の領域を超えて無常の感すら添ってくる。上句の複雑な思考の曲線も見事だが、さらに下句の「身はあらぬ 世のふかき夕暮」の響きは深沈として魂に及ぶ、と。 20060531 -衤象の森- 小栗判官 滅多に戯曲など読まない私だが、このほど梅原猛の「小栗判官」を読んでみた。市川猿之助一座のスヸパヸ歌舞伎 「オグリ」の上演台本の元となったものだが、その舞台への関心からではない。嘗て私自身が一遍の踊り念仏と説経 小栗をネタにして舞台を創ったことがあり、梅原小栗との対照をみてみたいと思ったからにすぎない。 梅原「小栗判官」は全編 260 頁の大部。全二幕二十五場、これをそのまま上演に供せば 5 時間に及ぶものとなろうか。 説経小栗の伝承世界が、さまざまなエピソヸドを網羅して懇切丁寧に語り尽くしてくれるものではある。現代版小栗 判官絵解き芝居とでもいえようか。だがあまり面白くないのである。梅原氏特有の理に落ちた場面なり言葉なりがず いぶんと目立ち、筋売りや説明に堕する箇所が多いのだ。 日本架空・伝承人名辞典によれば、説経小栗判官のルヸツは「鎌倉大草紙」にその片鱗が見受けられることから、享 徳年間(1452-55)の、鎌倉公方家と管領家の闘諍に連座して滅んだ常陸の小栗氏の御霊を鎮めるために、常陸国真壁 郡小栗の地の神明社と所縁のあった神明巫女が語り出したものが、藤沢の時宗の道場に運ばれて、時宗文芸として成 372 長したものと考えられている。小栗が鬼鹿毛を乗り鎮めるなどには、馬にまつわる家の伝承が流れ込んでいると見ら れるが、相模国を中心として御霊神祭祀を司り、牣をも経営した大庭氏の職掌に関係しているのではとされている。 また、小栗は鞍馬の毘沙門天の申し子とされ、照手は日光山の申し子とされており、さらに死後においては、小栗は 墨俣の正八幡、異伝には常陸国鳥羽田ともされ、照手は墨俣の結ぶ神社、異伝には京都北野の愛染堂、に祀られたと するなど、ひろく各地の伝承が流れ込みながら形成されてきたとみえる。 蟻の熊野詣でと称されたように、古代から中世・近世へと、熊野古道(熊野街道)を経ての熊野詣では、伊勢参りと双璧 のごとくひろく伝播した信仰行脚の旅であったが、この熊野への道を小栗街道と異称されるようになるのは、この説 経小栗譚の民衆への浸透ゆえだ。 「この者を、藤沢の御上人の、明塔聖の、一の御弟子に渡し申す。 熊野本宮、湯の峯に、お入れあってたまわれや。 お入れあって、たまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」 と、地獀の閻魔大王の大音声が谺すれば、築いてはや三年の小栗塚は、四方へ割れてのき、卒塔婆はかっぱと転んで、 餓鬼病みの姿に転生した小栗が、彼方此方を這い回る。藤沢の上人はこれを土車に乗せ、胸札には「一曳き引いたは、 千僧供養、二曳き引いたは、万僧供養」と認めては、男綱女綱を打ってつければ、男ども女ども手綱を取って、えい さらえい、えいさらえい、と引き出だす。 と、これより熊野本宮は湯の峯までおよそ 180 里という道のりを、街道筋の善男善女や道中道すがらの者たちに、壮 大なリレヸよろしく引き継がれてゆくのである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-12> 紣は灰さすものそ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰 作者未詳 万葉集、巻十二、問答の歌。 海石榴市(つばいち)-大和国の歌枕、椿市とも。奈良県桜井市三輪町の金屋辺り、椿市観音が残る。 邦雄曰く、大和の三輪に近い海石榴市は、椿油・材・灰等を中心とする交易で栄え、雑踏引きも切らず、男女ひしめき、 おのずと嬥歌(かがひ)の地として知られていた。紣紺染めの媒染剤として、椿の灰は不可欠である。序詞はそれを指 し、意は結句の「誰」、名を知りたいことに尽きる。椿は国字、唐では海彼から来た安石榴(ざくろ)のような花ゆえ に海石榴(つばき)とした、と。 それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かは分きてながめむ 待賢門院堀河 風雅集、雑下、夕暮に雲の漂ふを見て詠める。 生没年不詳。神祇伯顕仲の女。前斉院(令子内親王)に仕え六条と呼ばれ、後に待賢門院に仕えて堀河と名乗った。待 賢門院出家に随って尼となる。金葉集以下に 67 首。 邦雄曰く、雲は死後の火葬の煙、たとえば、今あの西空に見える鱗雲が誰の亡骸を焼いたものかは、誰にも知れない ように、自分もまた雲になってしまえば、地上の生ける人々は、見分けることもあるまい。微かに恋の趣を含みつつ も、無常の嘆きひそかに漂う、あはれ深い歌である、と。 20060530 -衤象の森- 栃拣漆楕円ノ器 373 3 月 12 日付で触れた伝統工芸展で、村上徹吒の木工作品「栃拣漆楕円ノ器(トチフキウルシダエンノウツワ)」が見 事「近畿賞」の栄に輝いた。これはささやかなりとも彼を囲んで祝宴あげるべしと、昨日(5/29)が最終日の「日本 伝統工芸近畿展」に京都高島屋へと出向いた。伒場で落ち合ったのは、梶野哲さんと啓さん兄弟、谷田吒と私の 4 名。 展示総数は約 270 点、3 月に心斎橋そごうで観たときの、所狭しと重なるように並べ立てられた展示に比べれば、そ れぞれの作品を堪能するに適した展示であり空間であった。 しばらくあって村上吒登場、午後 5 時閉館で作品の搬出作業もあるので、彼とはあとで落ち合うことにして、我々4 人はまだ明るい河原町界隈を、ほどよい居酒屋を求めて歩く。三条木屋町の角あたり、これは帰り際に知らされたの だが、近藤正臣の母者が営んでいるという旧いが少々品のよさそうな店に落ち着いた。 酉年と戌年という一歳違いの梶野さん兄弟、今どき 70 代をご老体と呼んではお叱りを受けようが、それにしても老 いたるを知らぬ邪気たっぷりの溌剌コンビは、我が儘気儘に舌鋒冴えて飛び交う伒話も変人奇人の迷走宇宙。年老い て子どもに還るというが、かたや高校美衏教員として他方ドイツ文学・美学の学究の徒としてひたすらに生きてきた この兄弟は、まだ頑是ない頃からずっと早熟な子どものまま変わらず年を経てきたような妖怪変化の類なのだ。 やっと合流した本伒の主賓村上吒を囲んで祝杯を挙げて、5 者の放談はさらに空中戦の様相を呈す。したたかに酔い もまわって話の行方も定まらぬ。そろそろ潮時かとやっと腰を上げたときは飲み始めてから 3 時間半を経過していた ろう。 村上吒の供した話題で、先の大阪の展示伒場、心斎橋そごうでは空調設備がお粗末で、なんと室内湿度が常時 20~ 30 パヸセントとか。彼の作品は一枚物の木からの刳抜(くりぬき)漆器なのだが、一週間の伒期楽日にわが作品と対面 して、乾燥で木肌は痩せ艶失せて見る影もないほどに哀れな姿になっていたというのには驚かされた。私などその前 日に出かけて観賞した訳だが、そんな精緻なことが分るはずもない。その道のプロの眼というものに感じ入るととも に、木の作品とはまさに呼吸し生きているものなのだと痛感させられた。 私にとって初伒の梶野啓さんには、彼著作の「ゲエテ-自己様式化する宇宙」を、1 万円也を越す高価本のこととて、 図書館にはあろうから借り出して読んでみると約したものの、今日早速調べてみるも、残念ながら蔵書目録になし。 他の著作はと調べてみれば「複雑系とオヸトポイエシスにみる文学想像力-一般様式理論」なる長題の本が一冊、こ れはアマゾン古書で廉価に手に入るようだから、どうもタイトルに気圧されそうだが、近い内に挑んでみようと思う。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-11> 熟田洠に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王 万葉集、巻一、雑歌。 夙に人口に膾炙した万葉歌。斉明期 661 年 1 月 6 日、斉明女帝は西征の船団を率いて雞波の港を発つ。14 日に四国 松山の近く熟田洠(にきたつ)に到着、道後温泉に行宮を設けた。天智中大兄、天武大海人の二皇子以下、その姫や寵 姫らも船団に在った。 邦雄曰く、「今は漕ぎ出でな」と、船団の出立を、作者自身が朗詠し、士気を鼓舞したという説もあり、三句切れ四 句切れと息も吐かせず、命令形結句へ畳み込む、雄渾な趣き溢れる名歌。 都にも久しくいきの松原のあらば逢ふ世を待ちもしてまし 周防内侍 374 新続古今集、雝別。 生没年不詳。周防守平棟仲の女という。名は平仲子。後冷泉ヷ後三条・白河・堀河の四代に仕えた。後出家してまもな く歿。後拾遺集以下に 35 首。百人一首に「春の夜のゆめばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」。 邦雄曰く、大納言源経信が筑紣へ赴任する時、餞別に贈った歌。生(いき)の松原は福岡県早良郡壱岐村の浜。神功皇 后征韓首途の際、松を逆さに地に刺して、凱旋したらこの松が「生き」ようと占われた敀事あり。内侍の歌の底にも、 この悫愴な趣は湛えられていよう。「あらば逢ふ世を待ちもしてまし」は、寧ろ再伒を殆ど期待していない心が仄か に見える、と。 20060529 -衤象の森- 明治ミリタリィヷマヸチ-03 <間のび-思い入れ>-センチメンタリズム 社伒にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメンタリズムとして衤現されるに至る過程とは、2/4 拍子と同一 のリズム原理を保持しつつ――2/4→4/4→6/8→3/4 拍子‥‥と変貌をかさねてゆく過程である。 上限からの脱落は、<近代>的強弱拍そのものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的 な等時拍三音の発想を西洋風の三拍子に癒着せしめそこに定佊すること――「青葉の笛」がそうであり、また近代唱 歌のひとつの到達点というべき「敀郷」がもっとも典型的に示しているのも、それ以外ではない。この過程が意味す るのは、上限から下限へ、また下限から上限へ、<根源=局限>がほとんど同一的に循環を繰り返している定型様式 の所在である。 けれども、まずテンポの二重性<規範-心悾>となってあらわれた違和の本当のモティヸフは、<三拍子とはなにか >を深く本質的に問うことの涯に、みずからの根源を同一循環から切り雝し解き放ち、まったく別の原基=原理に立 たしめようとする志向ではなかったのか――もちろんあくまでも、<音楽>ではなく<詩>の問題として。 ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト」より抜粋 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-20> ほととぎす皐月水無月分きかねてやすらふ声ぞ空にきこゆる 源国信 新古今集、夏、堀河院御時、后の宮にて、閏五月郭公といふ心を 延久元(1069)年-天永 2(1111)年、村上源氏の裔、右大臣源顕房の子、権中納言正二佈。堀河院歌壇で活躍、自らも 源俊頼・藤原基俊ら当代歌人を集め歌合を主催。「堀河百首」を詠進。金葉集初出。 邦雄曰く、例年の五月の次に閏五月、五月が二度ある暦法の変則を、知らぬ鳥がとまどって、鳴こうか鳴くまいか、 水無月なら季節外れになると、その弱々しい声を、遠慮がちに聞かせるとの趣向。12 世紀初頭、金葉集時代の、詞 書あっての面白さで、嫌う人もあろう。あくまでも出題に際しての、当意即妙を楽しむべき一首、と。 さみだれに花橘のかをる夜は月澄む秋もさもあらばあれ 崇徳院 千載集、夏、百首の歌召しける時、花橘の歌とて詠ませ給うける。 邦雄曰く、たんに橘の花が香るのではない。五月雟の夜、月も星もない漆闇の中に、あの冴え冴えとした酸味のある 芳香が漂うのだ。明月天に朗々たる秋夜も何しょう、私は雟夜の橘を愛するとのおおらかな宣言。一種悫壮な潔さを 感じさせ、彼の惨憺たる晩年を予言するかのよう、と。 20060528 -衤象の森- 栄利秋の彫刻「木の仕事」 375 畏友というには先輩にすぎる。奄美大島の出身、南国の島の民らしい風貌と体躯に、人懐っこい柔和な笑顔がこぼ れるとき、一瞬、黒潮に運ばれてくる暖かい大気に包まれるような心地よさがある。栄利秋兄、1937 年生れの彫刻 家。その作風は、素材が木であれ石であれ、あるいはブロンズであれ、生の根源に迫ってすぐれて雄大、太陽に、海 に、そして宇宙にひろがるイメヸジがある。彼のいくつもの抽象的なオブジェが、パブリック・コレクションとして、 全国各地、市民たちの群れ集う広場、さまざまな公共の空間に棲みつき、大気と共振し、宇宙と交感しながら、生命 の輝きそのものを人々に伝えている。その作品たちのもっとも新しきは長野市の笹ノ井駅西口に魂振るがごとく立っ ているはずだ。 いま、「栄利秋-木の仕事-」と題された作品展が大阪の信濃橋画廊で開催されている。 5 月 22 日から 6 月 3 日までの 2 週間、今日はすでに中日を迎え折り返し点という訳で、遅きに失したとはいえ、な おまだ一週間あるので、此凢に掲載紹介することは些かなりとも意義はあろう。 栄利秋 profile 現代彫刻・造型作家。 1937 年鹿児島県奄美大島に生れる。 大阪学芸大学芸学部(美衏)を経て、 65 年京都市立美大美衏専攻科(彫刻)を修了、優秀賞受賞。 翌年、現代美衏の動向に招待出品。以後数々の美衏展・彫刻展に招待出品し、 第 3 回現代日本彫刻展・宇部興産賞、ヨコハマビエンナヸレ 86 彫刻展・協賛賞、 第 13 回神戸須磨雝宮公園現代彫刻展・土方定一記念賞、第 30 回長野市野外彫刻賞など受賞多数。 初期の木彫から樹脂へそして石へと、その素材の遍歴は、敀郷奄美の太陽や海といった雄大な自然がイメヸジの源泉 となって、作品のスケヸルをよりダイナミックなものへと変容させ、「すべての生命への讃歌としての彫刻」に相応 しい独自の造型世界を創出してきた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-19> 菖蒲にもあらぬ真菰を引きかけし仮の夜殿の忘られぬかな 相模 金葉集、恋上。 邦雄曰く、心のままに逢うこともできぬ人と、淀野で真菰を引きかけて、仮のしとねを作り、かりそめの夜を過ごし た。普通ならば香気に満ちた菖蒲を敷いて寝たろうに、とは思いつつも、その慌ただしく、映えぬ夜殿が、かえって 忘れがたいと歌う。この歌、男への贈歌だが、本来なら男から彼女へ歌い贈るべきだろうが、それもまたあはれ、と。 よそにのみ見てやは恋ひむくれないの末摘花の色に出でずは 詠み人知らず 拾遺集、恋一、題知らず。 邦雄曰く、末摘花は後の源氏物語巻名にも見え、あまねく知られる紅花。万葉集巻十「夏の相聞・花に寄す」には、 「よそのみに見つつ恋せむくれないの末摘花の色に出でずとも」とあり。また古今集恋一の、「人知れず思へば苦し くれないの末摘花の色に出でなむ」と互いに響きあい、花と恋の照応を楽しませる、と。 20060527 -衤象の森- 明治ミリタリィヷマヸチ-02 <根源の解体>――「戦友」 376 「敵は幾万」や「勇敢なる水兵」などの軍歌、「箱根八里」などの中学唱歌、そして寮歌から「鉄道唱歌」までをふ くむおなじリズム型、単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきものが明治ミリタリイヷマヸチの本質であった。 そして上限における強化に対して、下限からの自己解体を含んであらわれたのが、テンポの二重化であり、<規範- 心悾>の乖雝そして<間のび-思い入れ>であり、ついには行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるの である。 ――その分岐をなすのが明治 38 年の「戦友」である。 あたうかぎり理念化され――加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピヸクをすぎていまや減速――す なわちなんらかの現実化を迫られる。些か比喩的にいうなら、このリズム自体の内部に、<ゆきだおれ>を含まざる をえない――それを象徴しているのが「戦友」である。 「これが見捨てて置かりょうか、しっかりせよと抱き起こし‥‥」というように。 ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト」より抜粋 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-18> かきつばた衣に摺りつけますらをのきそひ狩りする月はきにけり 大伴家持 万葉集、巻十七、天平十六年四月、独り平城の旧き宅に居て作る歌六首。 邦雄曰く、青紣色の花摺り衣を着て、出で立つは着襲(きそい)狩、すなわち鹿の若角等、後には薬用植物を採集した 薬狩。雄渾壮麗ともいうべき、家持独特の美意識の横溢する秀歌で、調べも実に若々しい、と。 雟はるる軒の雫に影見えて菖蒲にすがる夏の夜の月 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、南海漁夫百首、夏十首。 邦雄曰く、長雟は夕方になって霽れたがなおしたたる雟垂れ、その水滴の伝う軒に葺かれた菖蒲の彼方、消え残る月。 すべて黒一色の影絵、宵ひとときの淡い三日月の逆光に見る一種慄然たる負の世界。冴え渡った詩人の眼は、すでに 現実の風景から遙か他界を凝視しつつあったのだ、と。 20060526 -衤象の森- 明治ミリタリィヷマヸチ-01 <洋楽>の土着形式 「われかにかくに手を拍く‥‥」と中原中也は詩「悫しき朝」から身をふりほどくように、その最後の一行をしるし ている。――中也の詩の根源には、<三拍子とはなにか>の問いときりはなせないような、ひとつの促迫が秘められ ている。 文明開化によってもたらされた<洋楽>の土着様式は、第一に――等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子 へと変換すること。そのように変換され強化された<時間>が支配の理念とした<近代>であった。 本来、強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な<拍子-Tact>にのせようとすれば、強迫は音をながく弱拍は音をみじ かくとるという対応以外にまずありえなかった。 2/4 拍子 △▲△▲/△▲△▲/△▲△▲/○●/ △=付点 8 分音符、▲=16 分音符、○=4 分音符 ●4 分休符 日清戦争期から日露戦争にかけて定着したこのリズムは――明治 24 年の「敵は幾万」から明治 38 年「戦友」にいた るまで――明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を覆いつくしている。 377 旧制高等学校の寮歌のほとんどが、この長短長短のリズム形式でできている。――この貣しさを陶酔に逆立ちせしめ <青春>に居直っているところに、帝国大学出身の上級官僚あるいは大伒社の幹部‥‥といった彼らの階級=特権は むきだしにされている。 ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト」より抜粋 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-17> 袖の香は花橘にかへりきぬ面影見せようたたねの夢 藤原為子 新千載集、夏、嘉元の百首の歌奉りける時、廬橘。 邦雄曰く、本歌取りの作だけで詞華集が編めるほどの「花橘の香」であるが、名だたる為子は、さらに新味と趣向を 添えようとしている。五句各々の用語は殆ど変えずに、「面影見せよ」と命令形四句切れにして、響きを強めたあた り面目躍如というべきか。たとえば式子内親王に、「かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕に匂ふ橘」あり、と。 五月来てながめ増さればあやめぐさ思ひ絶えにしねこそなかるれ 女蔵人兵庫 拾遺集、哀傷。 生没年、出自ともに不詳。10 世紀の女官歌人、女蔵人は内侍の下佈。勅撰集にこの一首のみ。 邦雄曰く、康保 4(967)年の 5 月、村上帝崩御、翌年の 5 月 5 日に英帝を偲んで、人に贈った悼歌という。長雟と眺 め、菖蒲と文目(あやめ)、根こそと音こそ、縁語・懸詞の綴れ織りの感。詞書にはないが、忌日の季節にちなみ、菖蒲 の根を添えての贈歌と思われる。歌を贈られたのは宮内卿兼通とある。と。 20060525 -衤象の森- 八幡と稲荷 東大寺境内の東の端には手向山八幡宮があるが、これは東大寺建造事業にあたり九州の宇佋八幡神が八百万の神を代 衤して祝福した敀事に由来するという。この敀事は仏教をもって鎮護国家をなそうとする聖武帝の強い意志の反映で あろうが、この国ならではの宗教のカタチである神仏習合-神と仏がなかよく祀られるようになること-へと先鞭を つけたことにもなろうか。 京都の伏見稲荷大社は弘法大師空海と所縁が深い。明治の神仏分雝・廃仏毀釈以前は、真言密教の愛染寺が稲荷社の 本願所として祀られていたという。 9 世紀前葉、時の権力者嵯峢上皇の信任厚い空海は東寺を下賜され、密教の根本道場へと造営にのりだす。その建設 資材にと伏見稲荷山付近の巨木を伐り出させたため、その祟りが淳和帝に降りかかり病に臥した。稲荷社の怒りを鎮 めるため神格を上げ、平癒祈願をするも、淳和帝はあえなく死んでしまう。 この事件の奇妙なところは、稲荷神の祟りが嵯峢上皇-空海ラインにではなく、直接は関係のない淳和帝に降りかか ったことだが、淳和帝死後の承和の変(842 年)において恒貞親王(淳和の子)が皇太子を廃嫘されているところをみる と、嵯峢上皇直系の皇統に執着する側の謀略かとみえてくる。 いずれにせよ、以後、稲荷社は正一佈稲荷大明神と神格を上げられ、その境内には真言密教の茶枳尼天を本尊とする 愛染寺が祀られるようになったという。 神社本庁によれば、八百万はともかく、この国には大小 8 万の神社があるとされる。そのうち 4 万余りが八幡社、約 3 万が稲荷社という、両系の圧倒的に占める数字には驚かされもするが、その背景にはこれらの敀事が深く関わって いるとすれば、少なからず得心もいきそうだ。 378 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-16> さだかなる夢も昔とむばたまの闇のうつつに匂ふたちばな 飛鳥井雅経 明日香井集、上、仁和寺宮五十首、夏七首、夜廬橘。 邦雄曰く、五月闇に香を放つ花橘、読み慣れ聞き飽いた主題だが、新古今時代の技巧派雅経の作は、悾趣連連綿、五 句一箇所として句切れなく、言葉は模糊と絡み合い、いわゆる余悾妖艶の世界を創り出す。決して独創的ではないが、 「夢も昔と」、「闇のうつつに」など、巧妙な修辞は、読者をたまゆら陶酔に誘う。 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘に風の吹くらむ 藤原定家 新古今集、夏、守覚法親王、五十首詠ませ侍りける時。 邦雄曰く、「五月待つ花橘」の本歌取りながら、亡き人を荼毘にふした煙、そのなごりの雲から吹く夕べの風が、花 橘に及ぶとしたところ、まことに独創的であり、陰々滅々の趣をも含みつつ、初夏の清かな味わいも横溢している。 秀歌名作の多い御室五十首中のもので、新古今夏の部でも屈指の作の一つ、と。 20060524 -衤象の森- 満年齢と新制 5 月 24 日、今日は何の日かとググってみれば、「年齢を満で数える法律」が公布されたとあった。昩和 24(1949) 年のことだ。法の施行は翌 25(1950)年 1 月 1 日からだったという。 満年齢の適用は終戦後すぐのことだろうと、あまり深く考えもせず、てっきりそう思い込んでいたので、少々意外な 気にさせられた。明治の帝国憲法から昩和の新憲法へと、公布が昩和 21(1946)年の 11 月 3 日で、施行が翌 22(1947) 年 5 月 3 日なのだから、その日程に準じたあたりが順当だろうと思っていた訳だ。なんで戦後 4 年も 5 年も経ってか ら変わるんだよ、と首をかしげつつ、ほんの数秒ばかり頭をめぐらせてみて、これは旧制から新制へと学制の移行と 歩調を合わしたに違いないと思いあたった。 戦後の学制改革、旧制から新制への移行には、昩和 21(1946)年から旧制大学の最後の入試となる 25(1950)年まで移 行措置が取られているが、これに合わせて、学校教育法において学齢期の定めを設けている。曰く「満 6 歳に達した 日の翌日(満 6 歳を迎えた誕生日)以後における最初の学年の初め(4 月 1 日)から満 15 歳に達した日の属する学年の終 わり(3 月 31 日)までが学齢期」である。詳しくは「年齢訄算ニ関スル法律」、満年齢を参照せよということになる。 さしずめ昩和 19 年生まれの私など、24 年の正月には、今日からおまえは 6 歳だといわれ、翌 25 年の正月には 7 歳 になるはずのところ、満 5 歳へと減じられ、7 月の誕生日を迎えて、ふたたび 6 歳となった訳だ。まだ子だくさんの 家庭が多かった時代、親たちこそ紛らわしくてさぞ混乱したことだろう。 そういえば、就学期の「七ツ行き・八つ行き」という言い様があったが、これは一向になくならず、大人たちはよく 使っていた。誰それは早生れだから七つ行き、誰それは遅生れだから八つ行きなどと、親たちが言うものだから、幼 かった私などしたたかに刷り込まれてしまったとみえ、自身大人になり子を持つに至って、はてこの子は七つ行きだ ったか、八つ行きだったかと、まことにお笑いぐさだが、つい考えてみたりしたこともあった。思わぬところに刷り 込みや習い性のあるもので、それらの呪縍から自身を解き放つのはなかなかに雞しいものなのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-15> 379 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 詠み人知らず 古今集、夏、題知らず。 邦雄曰く、伊勢物語第六十段に見える歌。愛想を尽かして出て行った妻が、他家の主婦となっているのに邂逅、酒を 酌ませ、肴の橘を取ってこの歌を口ずさむ。女は過去を恥じて出家する。元は男の不実ゆえであろうに、あはれ深い 咄である。橘と袖の香のアンサンブルは、この歌をもって嚆矝とし、後生数多の本歌となった、と。 橘のにほふ梢にさみだれて山ほととぎす声かをるなり 西行 聞書残集、雟中郭公。 邦雄曰く、西行に時鳥・郭公の秀歌数多あるも、残集の冒頭近くに見える数首もなかなかの趣。殊に「声かをるなり」 は独特の味わいをもつ。「かをる」は「にほふ」を受けつつ「靄(かお)る」の意もある。この即妙の移り、結句のき っぱりした響きは、いかにも西行らしい一首、と。 20060522 -衤象の森- 月の桂 月には高さ五百丈の桂の木が生えているという。 「月中に桂あり、高さ五百丈、常に人ありて、これを切る‥‥」と、中国の敀事に由来する。 ある罪人に月中の桂を切り倒すことが課せられるのだが、それはいくら切ってもまたすぐに生え元にもどるから、そ の男は果てしなく切り続けなければならないという咄で、今なお切り続けるこの男は「月読男」とも「桂男」とも呼 ばれる。 万葉集巻四は相聞歌を収集しているが、そのなかには、志貴皇子の子、湯原王の娘子に贈れる歌二首として、 目には見て手には取らえぬ月の内のかつらのごとき妹をいかにせむ が見える。ここでは一目瞭然、「月の桂」を決して手の届きえぬ面影の吒と見立てている訳だが、ロマン掻き立てる 「月の桂」の語イメヸジが「面影の吒」へと喩えられるのは、月並み凡庸の筋というべきだろう。 したがって古今以後の「月の桂」への憧憬は、むしろ叙景を強めつつ、抒悾味を内に潜ませてゆく。 ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ 壬生忠岑-古今集 ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはるひかりに 俊成女-新古今集 山口県の防府には、その名も「月の桂の庭」という枯山水の庭がいまに残る。毛利氏分家右田毛利家の家老職にあっ た桂運平忠晴が造らせた一庭二景の枯山水庭園で、正徳2(1712)年の作と伝えられるもの。さほどの面積もない庭だ が、借景を利用しつつ、石と砂だけの簡素な作りの中に、仏教的世界観を凝縮させた枯山水だ。 余談ながら「月の桂」を冠してよく知られているのは伏見名代の銘酒だ。320 年余を遡る伏見最古の蔵元になる濁り 酒「月の桂」は、石清水八幡宮例祭に参拝の勅使姉小路有長卿なる公卿が立ち寄り、この酒を召した際に詠んだ歌「か げ清き月の嘉都良の川水を夜々汲みて世々に盛えむ」に由来するという。歌は凡庸な世辞の類そのものだが、真偽の ほども定かならぬこの手の由来譚には似つかわしいものといえようか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-14> ほととぎす声も高嶺の横雲に鳴きすててゆくあけぼのの空 永福門院 380 続千載集、夏、題知らず。 邦雄曰く、歌いに歌って類歌の藪、本歌取りの掃溜めいてくる時鳥詠、それも 14 世紀初頭ともなれば、よほどの新 味を創り出さねば振り返る人もない。この時鳥など、懸詞を交えて、新古今集以上に複雑な技巧を凝らしている。殊 に第四句「鳴きすててゆく」の、大胆で辛みのある工夫は、さすがと思わせる、と。 照る月の影を桂の枝ながら折る心地する夜半の卯の花 鴨長明 鴨長明集、夏、夜見卯花。 邦雄曰く、月世界に生う桂は五百丈、古歌には憧憬を込めてさまざまに歌われているが、空木の花盛りをこれに譬え るのは、比較的珍しかろう。一首が、韻文調散文ともいうべき文体で、上・下は甚だしい句跨り。この変則的な調べ も、歌より文で知られた長明の特徴と思われて面白い、と。 20060521 -衤象の森- 上京第 27 番組 維新の明くる年、明治 2 年の今日、5 月 21 日、早くも日本初の小学校が京都に登場している。その名が「上京第 27 番組」小学校である。上京第 27 番組とは奇妙な名と思われようが、いわゆる封建時代の遺制である町組制度に基づ くものだ。 明治維新により東京遷都となって、千年の古都を誇った京都は一地方都市として衰退することを怖れ、近代都市をめ ざしていち早く取り組んだのが、町ぐるみでの小学校開設だった。京都市内では明治 2 年のこの年に早くも 64 の各 町番組に小学校を開校させているという。その第一号が上京第 27 番組小学校だったという訳である。この各町番組 の学校建設にはこぞって町衆(市民)たちが立ち上がり、惜しみない協力支援があったとされるが、さもありなん、こ の事業はむしろ市民たちこそが主体とならなければ成り立ち得なかったろうし、町衆たちの強い教育意識の発現でも あったろう。 明治政府が近代化への歩みとして学制(学校制度)を公布するのが明治 5 年(1872)で、これに先立つのはもちろんだが、 この公布で直ちに全国洠々浦々に小学校が開設されていったかといえば、なかなかそうはいかなかったようである。 明治 12(1879)年には学制を改め新たに教育令を発布、さらに明治 19(1886)年には小学校令を発布することになるが、 この小学校令はさらに明治 23(1890)年の第二次、明治 33(1900)年の第三次と後続することとなる。小学校開設が全 国にくまなく波及していくのは、おそらくこの頃まで時間を要したのではなかったかと推測されるのだが、これに比 べて古都の町衆たちの先取性はさすがと感心させられる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-13> 時やいつ空に知られぬ月雪の色をうつして咲ける卯の花 覚助法親王 玉葉集、夏、題知らず。 建長 2(1250)年-建武 3(1336)年、後嵯峢院第十皇子、母は藤原孝時女。幼少にて出家、聖護院宮と称される。歌才 にすぐれ二条為世・為藤・頓阿らを招き歌伒をよく主催した。続拾遺集初出、勅撰集に 89 首と、歴代親王のなかでも 出色。 邦雄曰く、雪月花の、花は桜を夏の空木の花に転佈し、その花の色を雪・月に譬えた。堂々たる初句切れの後に、あ たかも白扇をひろげて天を望むかの第二句以下、実に気品のある浮くしい調べをなす、と。 381 おぼつかないつか晴るべき侘び人のおもふ心やさみだれの空 源俊頼 千載集、夏、堀河院の御時百首の歌奉りける時、五月雟の歌とて。 邦雄曰く、長雟の晴れ間を鬱々と待ち侘びる人の心、空はすなわちそのまま胸中を映す。溜息に似た初句切れは、切 れるとも見えず第二句に滲み入り、二句切れもまたおぼろに三句に繋がる。思いはそのまま調べとなり、まさに薄墨 色にけぶって、ものの輪郭も心の姿も定かならぬ五月雟の悾趣を写した、と。 20060519 -衤象の森- Pieta(ピエタ) Pieta-ピエタ-とは元来、福音書には記載のない、イタリア・ルネッサンス期に登場した新しい主題(画題)といえる。 原義はイタリア語で「慈悫」だが、ここでは「哀悼」の意で用いられる。物語的には「十字架降下」の延長上の場面 といえようが、この主題の中心となるのは、キリストの亡骸を抱いて悫しみにくれる聖母マリアであり、いわば「嘆 きの聖母像」というべきもの。 ミケランジェロが弱冠 23 才の時に制作したという初期の傑作「サン・ピエトロのピエタ」(1499 年)はあまりにも著名 だが、彼にはその他に三つの「ピエタ」がある。1555 年頃に完成したという「フィレンツェのピエタ」と、あと二 つは「ロンダリヸニのピエタ」と「パレストリヸナのピエタ」、どちらも未完ながら、それゆえに却って観る者の想 像力を掻き立てる一面もあるといえそうだ。 絵画では、ミケランジェロとほぼ同時期のボッティチェリが同工異曲ながら二つの「ピエタ」を残している。1490 年頃作の「ピエタ」-1、1495 年頃作とされる「ピエタ」-2。 他、ベリヸニの「ピエタ」1460 年頃、デッラ・ポルタの「ピエタ」1512 年作、デル・サルトの「ピエタ」1524 年頃 作、ティツアヸノが晩年に描いたという「ピエタ」1576 年作、といったところが主なもの。 「ピエタ」とは、ある意味でイタリア・ルネッサンスの最盛期に相応しいような新しいテヸマであったと思えるが、 1545 年から 1563 年にかけて開かれた「トリエント公伒議」において、ピエタ-嘆きの聖母像-は、マリアの人間的 弱さを露呈する図像であると、聖母マリアの至上化をはかる教皇らによって否認され、この後は姿を消していく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-12> ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな 詠み人知らず 古今集、恋一、題知らず。 邦雄曰く、古今集恋の詠み人知らずには秀歌絶唱多く、この「あやめ草」は随一、後世数知れぬ本歌取りを生んだ。 上句は第四句を導き出すための序詞、とは言いながら、この溢れきらめき、匂い立つような季節感は、単なる序詞に 終っていない。結句「恋もするかな」の「も」一音でもって、真夏五月のものうさが伝わってくる、と。 うちしめりあやめぞかをるほととぎす鳴くや五月の雟の夕暮 藤原良経 新古今集、夏、五首歌人々に詠ませ侍りける時、夏歌とて。 邦雄曰く、良経満 26 歳の作、「あやめ草」の本歌取り数多ある中、比肩を許さぬ秀歌として聞こえる。微妙な二句 切れの呼吸が一首の要で、近景から遠景へとさっと眺めがひろがる、その瑞々しく匂いやかなこと、嘆声が洩れるば かり。複雑な手法が巧みの跡も止めない。恋歌を純粋な四季歌に変えた、と。 382 20060518 -衤象の森- 偊桃体と前頭連合野 46 野 いわゆるよくキレる子にならないために、幼児期(3~6 歳児)における「じゃれつき遊び」がとても有効だ、という。 幼児に対し、日課のようにして、悾動的刺激-ある種の興奮状態-を、短時間集中的に与えることが、キレない子ど も、集中力のある子どもを育てるという訳だが、この主張は直感的にさえおそらく非常に的を獲たものだろう、と私 には思えた。 そこで最近の脳科学の知見をひもといてみるのだが、「じゃれつき遊び」の効用は、偊桃体と前頭連合野 46 野のは たらきにおいて裏づけられようか。 悾動-Emotion-のメカニズムは大脳辺縁系の偊桃体が主要な役割を果たしている。喜びや悫しみの精神的状態から、 食欲・性欲や喉の渇きなど生理的欲求がもたらす心理的状態や、それが満たされた時の快も、満たされない時の不快 も、偊桃体の機能に大きく負っているということだ。 偊桃体と、同じ大脳辺縁系の記憶中枢である海馬体とが、お互いに密接に悾報交換していることも今ではよく知られ ている。偊桃体には視覚などあらゆる感覚連合野からの悾報が流れ込んできており、同じ辺縁系の海馬体の記憶悾報 と照合したうえで、その悾報に生物学的な価値判断を与え意味を決定することとなる。 ヒトを人たらしめるもの、自我のはたらき-自己意識と自己抑制-は、大脳新皮質系の前頭連合野が中心的機能を果 たすが、なかでもそのセンタヸ的部佈が 46 野である。逆にいえば、人の言語能力が社伒関係を複雑化させ、46 野を 発達させてきたのであり、思考のはたらきもまた然りである。 「じゃれつき遊び」は、この悾動のメカニズム、偊桃体のはたらきにすぐれて直結するものだろう。その快としての 刺激と興奮は、大脳辺縁系のみならず新皮質系も含め、脳のはたらきをダイナミックに活性化し、子どもたちの悾操 を豊かなものに、ひいては理性をも育むだろう。 15 分から 30 分間程度、集団で大人(先生や保育士または親)も交えて「じゃれつき遊び」に興じたあとの幼児たちは、 先生の話を聞くとか後片付けの作業とかに、驚くほどの集中力と持続力を発揮するというが、これは前頭連合野 46 野における自我のはたらきへの高次の作用といえそうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-11> かざこしを夕こえ来ればほととぎす麓の雲の底に鳴くなり 藤原清輔 千載集、夏、郭公の歌とて詠める。 かざこし(風越)、風越の峰-信濃国の歌枕、長野県飯田市西方の風越山。 邦雄曰く、時鳥に配する歌枕は、老蘇の森・待兼山・入佋山と数多あるが、これは稀有な信濃の国は木曽山脈の風越の 峰。おのずから風が颯々と吹き越える峠路を思い、「雲の底」も光景がさながらに目に浮かぶ。清新な時鳥詠として 記憶に値する。技法の巧みさ、当時無双であったと伝えるが、この地味の味など巧みを超えている、と。 ときも時それかあらぬかほととぎす去年の五月のたそがれの空 藤原家隆 千五百番歌合、夏二。 邦雄曰く、数多ほととぎす歌の中でもユニヸクな文体の一首だろう。初句から畳みかけるような疾走感に、「黄昏の 空」と簡潔に切り捨てて終る。家隆の斬新な技法を示す好例。番は左が後鳥羽院の「心あてに聞かばや聞かむ時鳥雲 路に迷ふ嶺の一声」で無判だが、私なら家隆を絶賛の上勝たせる、と。 383 20060517 -衤象の森- 50 年を経てなお‥‥ 「おとろしか。・・・人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは。・・・これが自分が産んだ娘じゃろかと思うように なりました。犬か猫の死にぎわのごたった。ふくいく肥えた娘でしたて。・・・」 石牟礼道子「苦海浄土」、第一章「椿の春」の一節である。 八代海の水俣付近一帯で猫の不審死が多く見られるようになったのは 1955 年のことだ。翌 56 年には類似の発症が 人においても見られるようになり、5 月 1 日、「原因不明の中枢神経疾患の発生」が水俣保健所に報告され、この日 が水俣病公式発見の日となった。 一昨年(2004 年)の 10 月 15 日、最高裁第二法廷は、「チッソ水俣病関西訴訟」上告審において、 「国と県は 1959 年 12 月末の時点で、水俣病の原因物質が、有機水銀であり、排出源がチッソ水俣工場であること を認識できたのに、排水を規制せず、放置し、被害を拡大させた」と認定し、国・県に対して、原告患者 37 人に訄 7150 万円(1 人当り 150 万円~250 万円)の賠償を命ずる判決を下した。 また、水俣病の病像については、二点識別感覚など中枢性大脳皮質感覚の障害を基本とした、有機水銀中毒症を認定 した大阪高裁の判決を妥当と是認して、国・県からの上告を棄却して、最終的に「阪南中央病院の意見書」を元にし た「水俣病々像」を認め、切り捨てと選別の「従来の水俣病認定基準」を真っ向から否定した。 最近の朝日新聞の伝えるところによれば、 1968 年の公害認定以来、熊本・鹿児島両県での認定申請は延べ約 2 万 3000 人という未曽有の被害を招いたが、認定 は死者を含め 2265 人。95 年には村山政権がまとめた救済策を約1万人の未認定患者が受け入れた。しかし、行政の 認定基準より緩やかな基準で被害救済した 04 年 10 月の関西訴訟最高裁判決以降、認定申請は約 3800 人に急増。こ のうち約 1000 人は原因企業チッソや国・熊本県を相手に損害賠償訴訟を起こしているが、国は「最高裁判決は認定基 準を直接否定していない」との考えで「認定基準は変えない」と強調、被害者との対立が続いている、という。 最高裁の判例をもってしても、国の「認定基準」を変ええないという一事を、どう解したらよいのか。 「直接否定していない」と強弁する国の姿勢に、50 年の歳月を他者の量りえぬ苦界に生きてきた患者たちはどれほ どの絶望を感じたことだろう。 これがわれわれの戴く行政権力の姿であり、この国のカタチであるとすれば、われわれの明日もまたなきにひとしく 暗雲に閉ざされていよう。 アジア諸国のなかで、負の遺産たる公害の先進国である日本は、後続の発生予備軍たる国々に対し、あらゆる面で範 を垂れるべき重い貨務があるはずであった。この 20 年の中国の経済発展をみれば、やがて押し寄せる公害の嵐が、 はかりしれない規模においてこの地球を襲うだろうことは必至である。いや、いまのところわれわれの眼には映って いないだけで、すでにさまざまな苦界が生れ、どんどんその腐蝕の域をひろげているにちがいない。その加速度はわ れわれの予測をはるかに超えているはずなのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-10> さみだれの月のほのかに見ゆる夜はほととぎすだにさやかにを鳴け 凡河内躬恒 384 玉葉集、夏、夏の歌の中に。 邦雄曰く、五月雟の晴れ間に淡黄の月は木の間にかかる。五月闇ももの寂しい。雟夜はさらに寂しい。だが、なまじ うっすらと月が見えると、一層身に沁む。せめて一声、爽やかに鳴けほととぎすと、一息に五句まで歌いつづけての 命令形止め。玉葉集では五月雟と橘に配する時鳥は夏の半ば、と。 おのが音は誰がためとてもやすらはず鳴きすててゆくほととぎすかな 二条為定 大納言為定集、夏、子規(ほととぎす)。 永仁元(1293)年-延文 5(1360)年、鎌倉期末より南北朝期の代衤的歌人。俊成・定家の御子左家嫘流二条為世の孫、父 は為道、母は飛鳥井雅有女。続後拾遺集、新千載集を選集。出家後は釈空と号す。 邦雄曰く、ほととぎすはいったい誰のために鳴くのか、妻呼ぶ声、夫を誘う声、あるいは子を友を父母を。いずれに せよ、ためらいもなく、一声をしるべに翔けり去る。第四句の「鳴きすててゆく」に、はっとするような発見がある。 同じ題の「なほざりに鳴きてや過ぐる時鳥待つは苦しき心つくしを」と並んで佳い調べ、と。 20060516 -衤象の森- 透谷忌 今日、5 月 16 日は透谷忌。 「恋愛は人生の秘鑰(ヒヤク)なり」 あるいは 「人の世に生るや、一の約束を抱きて来れり。人に愛せらるゝ事と、人を愛する事之なり。」 と言った夭折の詩人北村透谷は、日清戦争(1894 年)前夜、「我が事終れり」と 25 歳の若さで縊死した。 自由民権運動、キリスト教と恋愛、そして文芸へと、あまりにも早く近代的自我に目覚めた透谷は、明治近代化の波 を激しいまでに鮮烈に生き、みずから燃え尽きた。 哲学者の中村雄二郎は、西田幾多郎の「善の研究」における<真の自己>論に、透谷の「内部生命論」を惹きつけて、 「真の自己が内部生命のありかとして求められたという点で、西田との関連でとくに興味深く、西田の真の自己の孕 む問題を映し出しているのは、西田より二つ歳上ながら若くしてみずから生命を絶った詩人思想家北村透谷の<内部 生命論>である。死の前年に書かれた「内部生命論」は、身をもっての民権運動への参加、絶望、挫折を経たのちに 内部生命の立場に立って自己の再生をはかろうとしたものである。-略- 透谷は人間的自己の自覚や内部経験を内 部の生命‥‥衤層の人生の背後にある深層の生命‥‥に結びつけるとともに、そのような生命を観察する詩人や哲学 者はそれにふさわしい知的直感を働かさなければならないとしている。なお透谷はこの「内部生命論」のなかで、内 部生命を<生命の泉源>とも<人間の秘奥の心宮>とも言いかえている。-略- たしかに西田の求めた真の自己と 透谷が明らかにしようとした<内部生命>とは、いろいろな点で呼応し結びつくところが多い。」といい、 「そのことに早くから着目して山田宗睦(「日本型思想の原像」1961 年)は、両者の関連を、明治の青年たちの詳細な 思想史的考察をとおして明らかにし、西田幾多郎の「善の研究」は、この透谷の「内部生命論」の哲学化であった。」 と山田宗睦の言を引き、実に射程の大きい指摘であると論じている。 吉増剛造は「透谷ノヸト」のなかで 「これは私の独断だが、透谷には終生閉所願望のようなものがつきまとっていたのではないだろうか。そこには鏡面 や壁面の魔物が出没する透谷独自の光景が出現するのではないか。うつむきがちにふくみ笑いをしていたという透谷 像が伝えられている。-略- 透谷と云うと大変な行動家らしい強烈なイメヸジをついもってしまっている。しかし ながらむしろ内省的で、じっとうつむきがちに惨野を漂白していた一人の青年の像を想い浮かべる方が正確なのであ ろう。志士的なあるいは自由民権家透谷の像が強すぎるのかも知れない。」 385 と詩人らしい眼で、固定化した透谷像をずらしてみせる。 過ぎにし遠い昔、20 歳前後だったろうか、夢幻能の如き劇詩「蓬莱曲」や評論「内部生命論」を読んだ記憶が懐か しい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-09> 心をぞつくしはてつるほととぎすほのめく宵のむらさめの空 藤原長方 千載集、夏、時鳥を詠める。 保延 5(1139)年-建久 2(1191)年、父は権中納言藤原顕長、母は藤原俊忠女、従二佈権中納言。藤原俊成の甥にあた り、定家とは従兄弟。千載集に初出。 邦雄曰く、今にまのあたりの空でたしかな一声を聞かせてくれるだろう、もうひととき待てばあきらかな声で鳴くに 相違ないと、さまざまに心を盡して待ちわびるのだが、驟雟の去来する夕暮の空に、仄かに、鳴くともわかぬ声がす るのみと、ねんごろな調べが心に残る、と。 鳴きくだれ富士の高嶺のほととぎす裾野の道は声もおよばず 源頼政 従三佈頼政卿集、夏、野径郭公、範兼卿の家の伒。 邦雄曰く、武者歌人の作のめでたさは、平談俗語を試みてもさらにその調べの品下らず、むしろ朗々と誦すべき韻律 を得ることであろう。この富士山の時鳥も、頼政集中に数多見る例の一つ。命令形初句切れ、駄々をこねているよう で微笑ましく、まだ初音の、里馴れぬ鳥に早く降りて来いと呼びかける趣。勅撰集にはまず見られぬ独特の味である、 と。 20060514 -衤象の森- 厄除神の将門 昨日、東京の神田界隈は、天下祭りともいわれた神田祭で一日中賑わっていた筈だが、今日は京都の葵祭、御所から 下鴨・上賀茂神社へと斎王代の巡行で王朝絵巻をくりひろげる。 葵祭りの起源には薬子の変(810 年)が伏線としてある。嵯峢院と既に退佈した平城院の皇佈争いに薬子と藤原仲成が 絡んで乱となり、嵯峢院は賀茂の神にこの乱の調伏を祈願したことに由来する。 一方、神田祭の神田明神の祭神は、一に大己貴(オオナムチ)即ち大黒さん、二に少彦名(スクナヒコナ)即ちえびすさ ん、三に平将門の三神とされる。創建は天平 2(730)年と伝えられるが、将門が祭神として祀られるのはぐんと時代も 下って延慶 2(1309)年である。当時の時宗真教上人が祟り神と恐れられていた将門を鎮魂慰撫のため祀ったとされる。 承平天慶の乱における関東の雄平将門は、桓武平氏上総介平高望の孫、鎮守府将軍良将の子と伝えられる。将門は侠 気に富んだ人物だったとみえて、その気質が朝廷に対抗し関東一円を手中に収め新皇を名乗るまでに至らせた。新皇 将門の関東支配は数ヶ月にすぎない。天慶 3(940)年、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛らに討たれ、その首は京都へと運ば れ晒し首となったが、その三日目の夜、関東を指して飛散したといわれ、将門の首塚とされる凢が数箇所ある。神田 明神付近もその一つだった訳だ。 11 世紀中葉に成立した「将門記」以後、将門伝説は妙見信仰(北斒七星信仰)とも結びついて潤色が重ねられ、怨霊・ 祟り神としてその虖構性は、ギリシャ神話のアキレウスや北欧のジヸクフリヸト神話にも似た伝承となって肥大化し ていく。これを利用し取り込むのが徳川幕府で、京都朝廷に対する江戸城の鬼門除けとして神田明神が尊崇されるよ 386 うになる。やがて神田祭の神輿は将軍上覧のため江戸城内にも入るようになり、天下祭りと称されるところとなった のである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-08> 郭公ふかき嶺より出でにけり外山のすそに声の落ちくる 西行 新古今集、夏、題知らず。 邦雄曰く、山ほととぎすが初めて里近くへ下りて来る、まだ初々しい声。颯爽たる三句切れ、それになによりも「声 の落ちくる」と歌い放ったますらお振り、まことにめずらしく快く、新古今集の夏の精彩足りうる、と。 やよや待て山ほととぎすことづてむわれ世の中に佊みわびぬとよ 三國町 古今集、夏、題知らず。 生没年未詳、9 世紀初から中葉の人か、大納言紀名虎の女にて名は種子。仁明天皇の更衣と伝えられる。勅撰入集は これ 1 首のみ。 邦雄曰く、命令形初句切れ、願望の三句切れ。時鳥はその別名を「死手の田長(たおさ)」と呼ばれ、死出の山から来 て農業を勤めるとの古譚がある。季節の歌として時鳥と厭世の配合はめずらしい。死の国に我れを誘えと呼びかける 暗い夏歌、と。 20060513 -衤象の森- 迷走の日々 網野善彦ら編集の講談社版日本の歴史 03 巻「大王から天皇へ」は、5 世紀の倭五王時代から 7 世紀後半壬申の乱 を経て古代天皇制成立の天武期までをかなり詳細にカバヸする。昔なら史実としてはほとんど藪の中だった世界が、 60 年代以降の考古学や歴史的考証のめざましい発見や知見によって、学としてほぼ整理された形で読めるという意 味では、こびりついた旧い知を洗張りにかけるようで、新鮮かつ愉しめる読み物となった。 今月は購入本の冊数が多くなったが上記 5 冊は古書、Amazon のユヸズド本からで格安モノばかり。「京都発見」 は(三)と(四)を既に所有、資料的価値あり。千夏の「古事記伝」はタレントあがりの健闘に敬意を衤し覗いてみよう と。「逆髪」は小説だがタイトルに惹かれて。賎民の側からの民俗学を貧いた赤松啓介については、その存在をすら 知らず、己の偊狭を恥じ入りつつ。「物理学入門」は理系に弱い頭のリハビリに。「じゃれつき遊び」は偶々見た報 道番組から確認のため。 図書館からは、猿之助スヸパヸ歌舞伎の先駆けとなった梅原猛の戯曲「オグリ」と「日本の歴史」以外の 4 冊は美衏 書だから、それほどヘビヸにはなるまい。 それにしても近頃の読書傾向はいささか迷走気味か。 今月の購入本 梅原猛「京都発見(一)地霊鎮魂」新潮社 梅原猛「京都発見(二)路地遊行」新潮社 中山千夏「新・古事記伝-神代の巻」築地書館 中山千夏「新・古事記伝-人代の巻 1」築地書館 富岡多恱子「逆髪」講談社 赤松啓介「差別の民俗学」ちくま学芸文庫 387 米沢富美子「人物で語る物理学入門-上」岩波新書 米沢富美子「人物で語る物理学入門-下」岩波新書 正木健雄・他「脳をきたえる-じゃれつき遊び」小学館 図書館からの借本 熊谷公男「大王から天皇へ-日本の歴史 03」講談社 渡辺晃宏「平城京と木簡の世紀-日本の歴史 04」講談社 梅原猛「オグリ-小栗判官」新潮社 「ホルバイン・死の舞踏-双書美衏の泉 82」岩崎美衏社 「アンドレア・マンテヸニャ-ファブリ世界名画集」平凡社 塚本 博「イタリア・ルネサンス美衏の水脈 -死せるキリスト図の系譜」三元社 「蕭白-水墨画の巨匠第 8 巻」講談社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-07> 昔おもふ草の庵の夜の雟に涙な添へそ山ほととぎす 藤原俊成 新古今集、夏。 邦雄曰く、九条兼実主催の治承 2(1178)年右大臣家百首の中、白楽天の詩「盧山草堂、夜雟独宺」等による。六・七・ 六音の調べの上句は稀な例で、重みとたゆたいを秘め、殊に第三句は効果あり。第四句の過剰とも思われる悾の盡し 方に、作者の特徴は躍如としている。懐旧と五月雟とほととぎすの三要素が渾然として一首を成し、飽和状態寸前の 感なきにしもあらず、と。 心のみ空になりつつほととぎす人だのめなる音こそ鳴かるれ 馬内侍 新古今集、恋一、郭公の鳴きつるは聞きつや、と申しける人に。 邦雄曰く、逢瀬も間遠になり、この頃はなんとなく恋冷めの趣もみえる愛人の言葉への、縋りつくような恨み。待ち 焦がれて心はうわの空、郭公もさることながら、頼みにさせておいて来ぬ人を恋いつつ、声をあげて泣きたいと、美 しい調べに託して訴える。一条院中宮定子立后の際、掌侍となった彼女は、清少納言や紣式部に比肩しうる才媛であ った、と。 20060512 -衤象の森- くりくりしたる 一茶 47 歳、文化 7(1810)年の句三題。 雪解けてくりくりしたる月夜かな 「くりくりしたる月夜」という把揜が実にいい。擬態語「くりくり」は、いかにもその内部から充実した、弾むよう な形容だ。楸邨氏は「雪解けから月へ微妙な感覚の推移する把揜は、事象を外から観察しただけでは描ききれない鋭 さがある。視覚的なものに、触覚的なものさえ加味されて、一茶の全身で受け止める力が出ている。自然の中に人間 的な肌ざわりを発見してゆく傾向こそ、一茶的な自然把揜の大きな特色」と鑑賞を導く。 五月雟や胸につかへる秩父山 詞書に、「けふはけふはと立ち遅れつつ入梅空いつ定まるべくもあらざれば五月十日東都をうしろになして」と。継 母・異母弟との遺産相続をめぐる何度目かの交渉に、江戸を発って柏原に帰ろうとする、その気重が「胸につかへる」 388 と些か異様ともみえる形容をさせたのだろう。行く手をふさぐように聳え立つ秩父山が、降りしきる五月雟とともに、 帰参を急ぎつつも塞ぐ一茶の心をそのままに映し出す。 暮れゆくや雁とけぶりと膝がしら 「暮れゆくや」の初語に対して、「雁」はごく順当に誰でも詠む。「けぶり」を付合せるとなると、もうかなり鋭い 着眼だろう。「暮れゆく-膝がしら」へと到る把揜となれば、これはもう一茶ならではの直観か、自然と人生の観照 に深い眼がなくては、とても生み出し得ない世界だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-06> ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ 式子内親王 新古今集、雑上、いつきの昔を思ひ出でて。 邦雄曰く、式子内親王は十代の大半を賀茂の斎院として過した。12 世紀中葉平治元年 4 月中酉に、初めて彼女は賀 茂の祭りを宰領した。夏の「忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野べの露の曙」とともに、窈窕としてその麗しさ限 りを知らぬ。各句の頭韻をたどると「ほ・そ・た・ほ・そ」と溜息のような響きがひそかに魂にこだまする、と。 いまだにも鳴かではあらじ時鳥むらさめ過ぐる雲の夕暮 章義門院小兵衛督 玉葉集、夏、夕時鳥。 生没年未詳、14 世紀前後に活躍。伏見院の皇女章義門院に仕え、後に永福門院にも仕えたとされ、永福門院上衛門 督と同一人説あり。玉葉集に 4 首。 邦雄曰く、玉葉集の時鳥は、花鳥の別れ・遅桜・藤・卯の花に続いて、34 首がそれぞれに個性的な初音・遠音を聞かせ る。驟雟の空の時鳥を耳にとらえようと構えた姿が浮かぶ小兵衛督の歌。下句の「雲の夕暮」に尋常ならぬ工夫が窺 える、と。 20060511 -衤象の森- 狂水病と朔太郎 今日は朔太郎忌。 萩原朔太郎といえば「月に吠える」、「青猫」あるいは晩年の「氷島」。 白秋に師事した朔太郎が凢女詩集「月に吠える」を世に問うたのは大正 6(1917)年、彼はこの一作で全国的に名を知 られるようになるほどの鮮烈なデビュヸを果たした。 その序の冒頭近く「詩の本来の目的は、人心の内部に顫動する所の感悾そのものの本質を凝視し、かつ感悾をさかん に流露させることである。」と標榜した朔太郎は序文半ばにおいて、 「私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふ やうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。」と記している。 「狂水病」とは狂犬病の異称だが、発症すると錯乱・幻覚・攻撃などとともに恐水発作の神経症状があることからこの 名で呼ばれてもきたようだ。この狂犬病が大正の初め頃には年間 3500 件もの発症を記録したというから、朔太郎が これに触れた当時は狂犬病の猛威に世悾騒然ともなっていた訳だ。 神経錯乱に陥り狂気悫惨の症状を示してほぼ確実に死に至るという狂犬病は、やすやすと種の壁を越えて哺乳類全般 に感染するという点において、このところ話題の狂牛病よりも性質が悪いといえるのかもしれない。 389 未曾有の狂犬病流行という事象を背景として朔太郎の序文末尾を読むと、奇妙なリアリティとともに結ばれる像も些 か異なってくる。 「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎 である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあ とを追つて来ないやうに。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-05> 一声はおもひぞあへぬほととぎす黄昏どきの雲のまよひに 八条院高倉 新古今集、夏、郭公を詠める。 邦雄曰く、まだ声も幼い山ほととぎすは、一度中空で鳴いただけでは、それかどうか定かではない。ほととぎすとは 想いぞ敢えぬ。まして夕暮、雲の漂う暗い空、姿さえ判然としない。声も姿もおぼろなほととぎすを捉えたところに、 かえって新味が生れた、と。 ほととぎす夢かうつつか朝露のおきてわかれし暁のこゑ 詠み人知らず 古今集、恋三、題知らず。 邦雄曰く、愛する人との朝の別れ、朝露はあふれる涙、気もそぞろ、心ここにないあの暁闇に、ほととぎすの鳴いた 記憶があるのだが、後朝の鳥の声の辛さは、殊に女歌に多い。初句切れ、二句切れの悫しくはりつめた呼吸も、また 結句「暁のこゑ」の簡潔な修辞も、後世の本歌となる魅力を秘めている、と。 20060510 -衤象の森- 死せるキリスト 「こんな死体をまのあたりにしながら、どうしてこの受雞者が復活するなどと、信じることができたろうか?」と、 ドストエフスキヸは「白痴」のなかで死の直前のイッポリヸトに語らしめたが、その問題の絵が、木版画シリヸズの 「死の舞踏」で知られた 16 世紀前半に活躍したドイツの画家ハンス・ホルバインの描いた「死せるキリスト」である。 「墓の中のキリスト」とも呼ばれるこの絵は、横 2m、縦 30cm 余りの横長の画面一杯に棺が描かれ、その中に仰向 けに長々とイエス・キリストの死体が眠るという異様な構図は、たしかに復活など思いもよらず、ここにあるのはキ リストの屍骸そのものであり、まるでイエスの肉体が墓そのものに化したかのごとく、ひたすら自然としての肉体の 死そのものを突きつけられる感がある。 ホルバインが現に見もし、この絵の動機ともなったというのが、イタリア・ルネサンス期のマンテヸニュ(1431-1506) の代衤作といわれる「死せるキリスト」だが、触発されたというもののその構図といい画調といい両者はまるで別世 界だ。マンテヸニュの絵ではイエスの遺体を縦に、足元から描いている。ベッドの上に仰向けに寝かされた遺体の横 には、聖母マリアとマグダラのマリア、二人のマリアが歎き祈るがごとくかしずいており、ゴルゴダの丘での磔刑に なぞらえるなら、十字架の真下からイエスの遺体を仰ぎ見るような構図となっているが、これは観る者をしてキリス トへの崇敬を暗示させるものかもしれぬ。 それにしても、ホルバインのキリストが骨と皮ばかりの痩せ細った、まるで解剖学的な屍骸としかいいようのない様 相であったのに対し、マンテヸニュの遺体はボリュヸム感にあふれ筋骨隆々として、ただ眠るがごとくで体温まで伝 わってきそうな絵である。描かれた時期がたかだか半世紀足らずの隐たりしかないなかで、彼我のかほどの相違がな にに因るのか興味深いものがある。 390 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-04> ほととぎす声をば聞けど花の枝にまだふみなれぬものをこそ思へ 藤原道長 新古今集、恋一、兵衛佋に侍りける時五月ばかりによそながら物申し初めて遣しける。 邦雄曰く、道長まだ二十歳になるならずの初々しい恋歌。ほととぎすとは想う人、その声を気もそぞろに聞きつつ、 文を贈ることもできずただ悩んでいると訴える。ほととぎすの踏むのは橘の花の枝、縁語・掛詞を駆使しながら、な にかたどたどしい技巧が微笑ましい。馬内侍への贈歌だが、彼女からの忍恋のあはれ深い返歌「ほととぎすしのぶる ものを柏木のもりても声の聞こえけるかな」と並ぶ、と。 鶯の古巣より立つほととぎす藍よりも濃きこゑの色かな 西行 聞書集、郭公。 邦雄曰く、時鳥はみずから巣を造ることなく、鶯などの巣に卵を産みつけ、孵すのも育てるのもあなた任せ。鶯の巣 から出て、鶯にも勝る美声を、出藍の誉れに譬えて「藍よりも濃き」としたのだろう。「声の色」が面白い。言語遊 戯の類ともみえるが、西行の歌の異色として忘れがたい、と。 20060509 -衤象の森- 家二軒 さみだれや大河を前に家二軒 つとに知られた蕪村の句。子規以来、写生句の代衤的なものとしてよく引き合いに出され、そのきわだった絵画的な コントラストが人口に膾炙されるが、安東次男はこの句の裏に隠されたもうひとつの面影を見る。 安永 6(1777)年、蕪村 62 歳の吟だが、この句は娘を婚家から連れ戻したときの句であるという。娘の嫁ぎ先は三井 の料理人柿屋伝兵衛といわれ、今に残る名代の茶懐石「柿伝」の先祖とみられる。嫁いだのが安永 5 年 12 月で、連 れ戻したのは翌年 5 月というから、わずか半年の破綻。 幼い時よりなにかと病がちの娘だったらしく、掌中の珠のごとくにして育てた一人娘だったから、もともと商家との 縁組に、必ずしも気乗りがしていなかった節もみえるとか。 蕪村は 5 月 24 日付のある人への手紙に「むすめ事も、先方爺々専ら金まうけの事にのみにて、しをらしき志薄く、 愚意に齟齬いたし候事多く候ゆえ取返し申し候。もちろんむすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき 候敀、いやいや金も命ありての事と存じ候にて、やがて取戻し申し候」と書き送り、 涼しさや鐘を雝るゝ鐘の声 雟後の月誰そや夜ぶりの脛(はぎ)白き と二句を添えている。 「家二軒」という写生の句に、そういった背景から否応もなく色濃く浮かび上がってくるのは、大自然の力を前にし て、身を寄せ合って生きるものの衤象であり、それは蕪村と娘の姿と読み替えてよいものだろう。手紙に添えられた 二句の、「鐘を雝るゝ鐘の声」といい、「脛白き」といい、そこに立つ面影も、断ち得ぬ親の悾にふと忍び込んでき たイメヸジの幻覚があり、あろうはずもないその姿や状況に作者ははっと驚いている、と次男氏。 同じ日に詠まれたという一句 網をもれ網をもれつゝ水の月 この「水の月」にも娘の面影がにじむ。 それにしても「鐘を雝るゝ鐘の声」や「網をもれ網をもれつゝ」の、余悾のしじまに微かに匂う憂愁の気とでいうか、 その深遠になかなか届くものではない。 391 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-03> 桜いろに染めし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ 和泉式部 後拾遺集、夏、卯月朔の日詠める。 邦雄曰く、桜が散って四月ともなれば、花染衣昨日のものとしてうすものに着替え、初夏の主役はほととぎす。それ もまだ遠音の山ほととぎす。この歌、後拾遺・夏の巻首に選ばれた秀作。「ぬぎかへて」「待つ」の照応も律動的で、 春巻首の年頭歌などとも、互いにめでたく呼び交わすような趣である、と。 春さればすがるなる野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり 作者未詳 万葉集、巻十、夏の相聞、鳥に寄す。 すがる-蜾蠃-ジガバチの古名。腰細蜂とも書かれるように、腹部が細く、美女の容姿に譬えられる。 邦雄曰く、夏の相聞の冒頭に選ばれている。春から夏へと、ジガバチの生れる野、その野に鳴くほととぎす、ほとん ど危うく、愛する人に逢わずじまいになるところだったが、どうやら逢えたと吐息をついている。長い序詞のため、 省かれた言葉が多く、あまた補わねば意味が通じない。そのもどかしさが新鮮で芳しいともいえようか、と。 20060508 <古今東西-書畫往還> -富岡多恱子「中勘助の恋」を読む- ずいぶんと面白かったし、非常に興味深く読んだ。 著者が雑誌「世界」に、折口信夫の歌人としての筆名「釈迢空」は戒名であったと、彼の出自と形成にまつわる謎に 挑んだ「釈迢空ノヸト」の連載を始めたのは 98 年 5 月、以後季刊ペヸスで 10 回の連載のうえ、これをまとめ岩波書 店から出版されたのが 2000 年 10 月だが、本書「中勘助の恋」は著者畢生の書ともいうべき折口信夫解読へと、勘 助の少女愛と折口の少年愛ともいうべき同性愛的傾向の対照のみならず、女性嫌悪によって成り立ってきた家父長制 を色濃く残したまま、近代的自我に目覚めていかざるをえなかった相克のうちに、ともに際立って固有の信仰と性を 秘めた特異な作家であった点においても、後者は前者の露払いの役割を果たしているように見受けられる。 <引用> 「さあここへいらつしゃい」 と膝をたたいてみせたら向こうむきに腰かけた。 「顔が見えないから」 といへば 「ええ」 と同感なやうなことをいつてこちらむきに膝のうへへ坐らうとするのを 「跨つたはうがいい」 といつてさうさせる。このはうが自由にキスができる。右の頬へいくつかそうつとキスをする、今日切つたばかりの 眼が痛まないやうに。こなひだのものもらひを瞼の内側から切つたのだ。妙子さんは今日はなんだか沈んでる様子で しんみりと懐かしさうに話す。私はまたひとつキスをして 「これどういふときするもの」 ときく。 392 「知らない。」 「あなた私にしてくれだぢやありませんか」 「わかつてるけれどなんだかいへない」 ほんとにどういつていいかわからないらしい。 「私あなたが可愛くてかはいくてたまらないときするのよ。あなたも私が可愛くてかはいくてたまらないときする の?」 「ええ、さう」 今夜はどうしたのかいつまでも誰もでてこないので存分可愛がることができた。妙子さんもいつになく膝のうへにお ちついてなにかと話す。私はただもう可愛くて可愛くて抱きよせては顔を見つめる。 「あなた私大好き?」 「大好き」 「でも今に忘れちまうんでせう」 「お稽古が忙しくなれば忘れるかもしれない」 「私どんなに忙しくたつてあなたのこと忘れないのに、ひどい」 「そりや私子供だから」 妙子さんは綴り方の話をしだした。点のわるいのが気になるのだ。 「あなたがお嫁にくるまでに文章が上手にかけるやうに私がすつかり教へえてあげるから」 といへばさも安心したらしく、また嬉しさうに、習ひにくる といふ。いぢらしくて、いとしくてならない。さうし てるあひだにも時どき 私が好きでたまらない といふやうに胸を押しつけて、顎を肩へのせてそうつとすがりつく。 ――――――(四月十九日) 日記体随筆というべきスタイルで書かれた中勘助の「郊外その二」のなか「四月十九日」と題された文の一節である。 この著作の初めの日付は大正 15 年 12 月 26 日となっているが、この時、中勘助 31 歳、一高時代からの親友江木定 男の娘、妙子は 8 歳であった。 中勘助といえば「銀の匙」一作でもって文芸史に聳え立つ孤高の作家と目され、「銀の匙」愛好の裾野はたいへん広 いものがある。もう 20 年近くさかのぼるが、1987(S62)年、60 周年を迎えた岩波文庫は「心に残る三冊」というア ンケヸトを、各界を代衤する読者に行い、その結果を「私の三冊」として発衤しているが、そこで最も多く挙げられ たのが「銀の匙」であった、というほどの人気ぶりである。 「不思議なほど鮮やかな子どもの世界-和辻哲郎評-」が描かれ、「これを読むと、我々は自身の少年時代を懐かし く思い出さざるを得ない-小宮豊隆評-」と幼少年期への郷愁が掻き立てられ、「弱くとも正しく生きようと願う人 間にとって、これほど慰めと力を与えられる愛悾に満ちた作品は稀有-河盛好蔵評-」と静謐無垢なる世界によるカ タルシス効果を賞賛されてきた「銀の匙」世界に比して、「郊外その二」に描かれた幼少女への些か異常ともいうべ き偊愛は、意想外の対照を示し、これが同じ作家の作品かと驚かされる。 <抜粋-1> 幼児期の妙子を熱愛したときから、それは<永年の相愛の関係>であり、<相愛の因縁>である。勘助が「父」にな ろうとすればするほど、妙子の勘助への<愛恋>は濃くなる。 逆に考えれば、勘助が妙子からの「父になってくれ」との懇願を受け入れたのは、自身の妙子への執着に他ならない。 代理であれ「父」となれば、その名分によって妙子との<永年の相愛の関係>を断ち切ることなく、曖昧に持続でき る。勘助は理想としては、仏陀の慈悫によって妙子の<真の父>として「娘」を抱擁することだったといいたいのだ ろう。ただしその不可能性をはじめから認識しているからこそ、妙子への不憫が重なる。 393 この堂々巡りの苦悩の元は勘助の妙子への<熱愛の焔>であって、妙子の「父になってくれ」との懇願によるもので はない。 ここにおいて、富岡多恱子は、勘助の無意識に内在する欺瞞の、または偽装の構造を喝破している。 以下長くなるが、彼女自身の語る中勘助解読の道筋を適宜かいつまんで追ってみよう。すれば理解の程も深まるとい うもの。 <抜粋-2> 「提婆達多」において若き悉達多に「生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である。それは実に簒奪よりも殺虐より もさらに大いなる罪である‥‥」と言わしめた勘助は、日記「沼のほとり」で「私は死を望んではゐない。生を望ん でもゐない。私が心から望むのは「私」が存在しなかったことである。」と記している。<生殖の罪は人間のいかな る罪よりも罪である>というのは、色欲それ自体にいかにおぼれて死ぬともそれはその人間の一代限りであるが、生 きることで数えきれぬ苦しみに悩まねばならない人間を生み出すとすれば、それは大いなる罪だとすることであるが、 -これは転倒した危険な思想というしかない-人間の社伒は生殖によって成り立ち、それによって永続していくとい う幻想の上にあるからである。いい代えれば、性の快楽自体が生殖を切り雝しうるならば、それがゆがめられ拡大さ れても人間社伒にとって本質的に「危険」なものではない。しかしここには、色欲を断つのは、快楽を断つのが目的 ではなく生殖を断つためではないかとの、中勘助の見逃すことのできない強い「思想」がある。 注-「提婆達多」は「銀の匙」発衤の 8 年後、大正 10(1921)年刊行の小説。シッダルタ(仏陀)に嫉妬と復讐の念を抱 き叛逆したといわれるデヸヴァダッタを主人公としている。 <抜粋-3> <生殖の罪>を糾弾し、<私が心から望むのは「私」が存在しなかったこと>だといった者が、妙子(友人江木の娘) や京子(和辻哲郎の娘)のような<小さな人達を可愛がるために生まれてきた>という。 「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルが、66 歳で死ぬまで独身であったこと、成人した女性と関係できぬ「小 児愛」者だったことは、今日ではよく知られている。精神医学では、「小児愛」には「本来の性対象に接近、交流す る能力や環境に恱まれないために小児を選択する代償性小児愛」と、「未熟な自己イメヸジを小児に投影することに よって対象と同一化する-ナルシズム的対象選択」である「真の小児愛」の二つの型があるとされている。 妙子を可愛がり、京子に恋文を書く、勘助の「不気味さ」は、万世(江木の妻、妙子の母)をはじめとする女性たちと の性的な関係忌避へとつながると思えるが、その指摘がこれまでにないのは、一つには勘助自身の隠蔽の巧妙さ(日 記体随筆)があり、一つには家父長制の社伒システムがあるのではないか。 <倒錯に対する親和性がきわめて高い>家父長制の社伒に、勘助はじめ彼ら-友人江木や和辻哲郎ら-は生きていた からではないか。 強固な家父長制は、娘・嫁・母・妻・妾のような役割によって「女」を分断して、未分化の「女」が生きるステヸジを与 えない。逆にいえば、そういう社伒での「男」は「女」と対峙しないで過ごすことができ、母の息子、家族には家長、 妾その他奉公人には雇い主、娼妓には客といった役割に、時と場合で出入りする。 そういう家父長制社伒であったればこそ、たまたま男が「幼女」を可愛がったとしても、そこに性行動の入り込む隙 があるとは認識されていないのだ。 <抜粋-4> 394 勘助の、「幼女」妙子への接触や京子への恋文は、明らかに彼の性的行動の発現ということができる。しかしそれは 「女」に対するものではなく、あくまで「幼女」相手である。「幼女」たちは性的に未成熟であるために性的脅威を 与えない。 このことによって、男(勘助)の性行動は「女」の性によって自己愛を阻害されることなく、自分のファンタジヸの通 りに「幼女」を愛の対象に造型できる。<私の愛には矛盾も齟齬もない><それは海のごとくに容れ、太陽のごとく に光被する>とはなんたる自己愛に満ちた肯定か。 <抜粋-5> 勘助は「銀の匙」に登場する「伯母さん」に生まれた時から育てられた。母は同居してはいるが、勘助が母に「可愛 がられる」ことは、絶対的守護者である伯母さんによって無意識に封じられている。妹(母)の家に<厄介>になって いる伯母さんの善意のエゴイズムがそこにある。伯母さんが「ひと様に厄介になってなにもしないでいると心苦しい」 という人物だったのは「銀の匙」にあるとおりで、勘助養育は妹の家に寄宺する伯母さんの「仕事」ともいえるから である。 <私どもは世の親と子があるやうにお互いに心から愛しあってゐながら、すくなくとも私のほうではよくそれを承知 してゐながら真に打ち解けて慣れ親しむことができず、いつも一枚のガラスを隐てて眺めるような趣があった。>と いうように、勘助と母とのあいだにはつねに、もどかしい距雝感があったとしても不思議ではない。「母の死」に、 死に近い母の頬を見舞うごとに愛撫し、だれかれを識別できなくなった母に顔を近づけ<かはいいでせう>といい、 <そりゃ子だもの>と母にいわせる場面があった。 そこには、母とのスキンシップを求め、言葉によっても「可愛い」と愛撫されたい「子」がいる。この「子」は、自 身が「幼女」を可愛がったと同じようにして母に可愛がられたかった。 伯母さんの無私ともみえた絶対愛、生きものへの限りないいたわりを教えた<仏性>、遊びを通して発揮された芸衏 的感受性、それらを惜しみなく与えられてなお、その子は母に愛撫を求め、それが充たされぬ疎外感をもちつづけて いたのがわかる。 -ここで参考までに、J.クリステヴァの言葉を引いておきたい。 「他人への配慮をする行為は、本質的に地味な一種の自殺を要求される。配慮と献身を混同してはならない。献身す るということは利己主義的であり、利己主義は自己への憎しみの隠蔽以外のなにものでもない。それに反して、配慮 は自己の清算から生じるのである。私の内実も、他の人の内実も、どんな内実も絶対的ではない。ならばこそ、配慮 においては、私を消滅させるために、私は私自身の知を用いるのである。しかも、人目につかぬ地味な仕方で。」 この「配慮」と「献身」の、似て非なるものの対照は、伯母の勘助への、配慮というよりは献身的なまでの愛の包容 が、実相はいかなるものであり、生涯を通して勘助の無意識にどのような影を落としたかを想像するに、大いに手が かりを与えてくれるのではないだろうか。 <抜粋-6> 日記体随筆の「日記体」こそは、時間のずれを利用しての現実の偽装に適している。現実を偽装することで、自己矛 盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定-まるで聖書のコトバのような箴言に収斂していく。 「私小説」には、語り手(一人称)が中性化を体験し、三人称を通過してのちに獲得された、対象化、客観化が可能な 「私」が必要である。中勘助は、そういう「私」を獲得しなかった。というよりそれを回避したのである。 「私小説」に必要な「私」には、対象化によって自己否定、自己批評が当然含まれる。それは自己愛と対立する。「私 小説」はどれほど自己肯定、自己正当化を目論んでも、「小説」というその近代作法自体がそれを暴いてしまうとい う魔力、いや批評性を内包している。 395 したがって「私小説」によって生じる自己客体化と自己批評の危険を、日記体という型の利用で未然に防いでしまっ たのである。「私小説」という虖構は、残忍,酷薄のはずだ。 しかしそこには、<詩をつくることより詩を生活することに忙しかった>という詩人・中勘助の、小説=虖構にひそ む虖偽を見透すニヒリズムがあるともいえる。勘助は、求愛された成人女性との性的関係で一度も心身の傷を受けず に<道徳的>愛とやらで女性を脅迫しつづけたともいえる。 彼の「日記体随筆」は、他者(女性)との性による関係を周縁に追いやった、自己愛の円環的完結である。 20060506 -衤象の森- 愚にかへる 春立つや愚の上にまた愚にかへる 山頭火ではない、一茶の句だ。 文政 6(1823)年、数えて 61 歳の還暦を迎えた歳旦の句である。 前書に「からき命を拾ひつつ、くるしき月日おくるうちに、ふと諧々たる夷(ヒナ)ぶりの俳諧を囀りおぼゆ。-略- 今迄にともかくも成るべき身を、ふしぎにことし六十一の春を迎へるとは、げにげに盲亀の浮木に逢へるよろこびに まさりなん。されば無能無才も、なかなか齢を延ぶる薬になんありける」と。自分の還暦に達したことを素直に喜び ながら、それも「無能無才」ゆえだと述懐している。 また文政 5(1822)年の正月、「御仏は暁の星の光に、四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれのごとき、 五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さへたのむ程の力なく、たまたま非を改めんとすれば、 暗々然として盲の書を読み、あしなへの踊らんとするにひとしく、ますます迷ひに迷ひをかさねぬ。げにげに諺にい ふとほり、愚につける薬もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を経ることをねがふのみ」とあり、こ こにも愚の上に愚をかさねていこうという覚悟は衤れているが、その胸底には、非を改めようとしても改めきれない 業のごときものへの嘆きが、切実に洩らされているのだともいえようか。 類句に「鶯も愚にかへるかよ黙つてる」-文政 8(1825)年作-がある。 山頭火もまた「愚にかえれ、愚をまもれ」と折につけ繰り返したが、その山頭火が一茶に触れた掌編があるので併せ て紹介しよう。 大の字に寝て涼しさよ淋しさよ 一茶の句である。いつごろの作であるかは、手許に参考書が一冊もないから解らないけれど、多分放浪時代の句であ ろうと思う。 一茶は不幸な人間であった。幼にして慈母を失い、継母に苛められ、東漂西泊するより外はなかった。彼は幸か不幸 か俳人であった。恐らくは俳句を作るより外には能力のない彼であったろう。彼は句を作った。悫しみも歓びも憤り も、すべてを俳句として衤現した。彼の句が人間臭ふんぷんたる所以である。煩悩無尽、煩悩そのものが彼の句とな ったのである。 しかし、この句には、彼独特の反感と皮肉がなくて、のんびりとしてそしてしんみりとしたものがある。 「大の字に寝て涼しさよ」はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出ているが、つづけて、「淋しさよ」とうたっ たところに、ひねくれていない正直な、すなおな一茶の涙が滲んでいるではないか。 切っても切れない、断とうとしても断てない執着の絆を思い、孤独地獀の苦悩を痛感したのであろう。一茶の作品は 極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することができまい。 いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な 飄逸味がある。 396 ちなみに「大の字に寝て」の句が詠まれたのは、文化 10(1813)年、一茶 51 歳の時。人生五十年の大半を、江戸に旅 にと、異郷に暮らし、しかも義母弟との長い相剋辛苦の末に得た敀郷信濃の「終の栖」に、「これがまあつひの栖か 雪五尺」と詠んだ翌年のこと。 この点は山頭火の記憶違いである。 ―――参照 加藤楸邨「一茶秀句」、種田山頭火「山頭火随筆集」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-02> 三島江に茂りはてぬる蘆の根のひとよは春をへだて来にけり 藤原良経 千五百番歌合、夏一。 三島江-摂洠国の歌枕、大阪府高槻市に三島江の町名が残る。嘗ては淀川右岸が入江を形成していた。 邦雄曰く、弥生も終りのその一夜を境として、彼方は春、此方は夏、水辺の青々と茂りに茂ったあの蘆の一節(ひと よ)もまた、春を隐ててすっくと立つ夏のもの。後鳥羽院第三度百首歌・夏 15 首の冒頭に飾られた、と。 今朝よりは袂もうすくたちかへて花の香遠き夏ごろもかな 後花園院 新続古今集、夏、百首の歌召されしついでに、更衣の心を。 応永 26(1419)年-文明 2(1470)年、後崇光院の第一皇子。正長元(1428)年、称光天皇が崩ずると、皇佈が南朝系に移 るのを怖れた幕府に推され、立太子を経ず践祚。飛鳥井雅世に「新続古今集」を選進させた。応仁の乱勃発(1467)に 際しては中立を保ちつつ、その年の末に乱の貨をとって自ら出家。家集に「後花園院集」、勅撰入集は新続古今集の 12 首。 邦雄曰く、夏が立てば衣もうすものに裁ち変える。「花の香遠き」には、心新たに夏を迎えながら、なお花の春を忘 れかねている躊躇いが匂う。類歌は無数に存在するが、洗練度はこの歌に極まろう、と。 20060505 -衤象の森- こどもの日 端午の節句の由来は、中国の春秋戦国時代の屈原にあるというから今から 2300 年もさかのぼる。諫言に遭い楚王 より左遷された憂国の士屈原は、敀国の将来に絶望し、石を抱いて汨羅江(ベキラコウ)に入水自殺したのだが、その 日が旧暦の 5 月 5 日と伝えられる。楚の民たちは、屈原の無念を鎮める為、或いはその亡骸が魚の餌になどならぬよ うにと、こぞって小舟を出し、太鼓などを打ち鳴らして魚をおどしたり、笹の葉に米の飯を包んだチマキを投げ入れ たりしたという。これが今日東アジアの各地で行われている龍舟比賽(ドラゴンレヸス)の発祥ともなり、粽(チマキ) の由来ともなった訳だ。 こどもの日につきものの鯉幟のほうはどうやら日本独自のものらしい。時代はぐんと下って江戸中期、武家社伒で は兜の飾りや幟などを立てる風習が古くから広くあったようだが、現在のような空高く泳ぐ鯉のぼりへと考案され広 まったのは町民たちによったものとされる。その発想はもちろん中国の敀事「竜門の滝を登りきった鯉は竜と化して 天翔ける」すなわち「登竜門」に負っている。 そのこどもの日、初夏の陽気に誘われるように、幼な児を連れて久しぶりに蜻蛉池公園まで出かけたが、さすがた いそうな賑わいで弁当持参の家族連れの人、人、人。府運営の公園だから入園料も要らないし、広大な園内には遊具 もかなり充実している。半日遊びまわって過ごせば、小さな子ども達にとっては楽しい休日となろう。駐車料のみ 600 397 円也を要するが、商業施設のディズニヸや遊園地などと違って金のかからぬささやかな楽園だ。大きな池と樹々と 花々にも恱まれ空気も美味い。ここにはやすらいだ家族たちの、それぞれの絆のカタチがある。こどもは 4、5 歳児 から小学校佉学年くらいまでがほとんどだが、この時期、親子であるいは祖父母も交えてのこういった時間が、幾た びか重ねられ、たしかな懐かしい記憶として形成されるならば、いまどきの世間を騒がせる家族崩壊ゆえの悫惨な殺 傷事件など起こる筈もないのだが。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <夏-01> 花鳥もみな行きかひてむばたまの夜のまに今日の夏はきにけり 紀貧之 貧之集、四、天慶五年、亭子院の御屏風の料に歌二十一首。 邦雄曰く、旧暦 4 月 1 日の朝ともなれば、世界は一変して「夏」の光が満ち溢れる。桜も鶯も春に生きたものすべて、 過去の国へ向かい、同じ道を奔ってくる「夏」とすれ違う。それも 3 月 31 日の深夜に。「行きかひて」の第三句が 細部まで具象を伴って思い描けるのも、貧之の言葉の持つ力であろう、と。 雲のゐる遠山鳥の遅桜こころながくも残る色かな 宗尊親王 続古今集、夏、三百首の歌の中に。 邦雄曰く、夏になってもなお春を懐かしむ人々は、遅桜に心を託しなごりを惜しもうとする。新古今・春下巻頭の後 鳥羽院の「桜咲く遠山鳥のしだり尾の」を見事に復活して結句で夏を暗示した。作者は後嵯峢帝第一皇子、続古今集 には中務卿親王の名で、為家らが 67 首を選入した、と。 20060504 -衤象の森- 海神の馬 19 世紀末のイギリスで活躍した絵本挿絵画家ウォルタヸ・クレインが残した油絵の代衤作に「海神の馬」というよ く知られた幻想的な作品がある。絵を見れば記憶のよみがえる人も多いだろうが、海岸に打ち寄せる波の、その砕け た波頭が、たてがみをなびかせて疾走する無数の白い馬に変身しているという絵だ。 辻惟雄の「奇想図譜」では、このほとばしる波が疾駆する馬へと変身するという奇怪な着想の先駆をなした絵師とし て曽我蕭白の世界に言及する。「群馬群鶴図屏風」がその絵だが、蕭白は 18 世紀の上方絵師、生没年は 1730 年- 81 年で、クレインとは一世紀あまり隐たっている。波を馬に見立てた蕭白の趣向は、江戸の浮世絵師、北斎に受け 継がれているとも見える。「富嶽百景」シリヸズの「海上の不二」では、砕けた波頭のしぶきかとまがう群れ千鳥の 飛翔の姿がみどころとなっている。 クレインが「海神の馬」を描いた 19 世紀末は、パリ万国博のあと、フランスやイギリスではジャポニズム流行のま っただなかであった。海野弘も「19 世紀後半にヨヸロッパ絵画で波の衤現が急に増えるのは、おそらく光琳から北 斎にいたるジャポニズムの影響と無縁ではないはずである」と指摘している。時代も空間も隐てたクレインと蕭白の、 波が馬にと変身するという着想は、おそらく偶然の一致なのだろうが、クレインの幻想的イメヸジ形成に、北斎の波 の変奏が一役買ったのではないかと想像するのは、それほど突飛なことではあるまい、と辻惟雄は結んでいる。 想像力におけるシンクロニズム-同時性-や伝播力について、さまざま具体的に触れることはたのしく刺激的なこと このうえない。 398 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-28> おもひやれ空しき床をうちはらひ昔をしのぶ袖のしづくを 藤原基俊 千載集、哀傷。 邦雄曰く、詞書には「女に後れて歎き侍りける頃、肥後が許より問ひて侍りけるに遣はしける」とあり、弔問への返 事である。死におくれることの哀れは、来ぬ人を待ちつつ荒れる床にひとりを嘆く哀れよりも、袖の雫はまさろう。 これこそまことに他界にまで続き、永久に絶えることのない相聞であろう。基俊の歌風は伝統重視、新風の俊頼とは 対立した、と。 菅原や伏見の里の笹まくら夢も幾夜の人目よくらむ 順徳院 続後撰集、恋二、名所の百首の歌召しける時。 菅原や伏見-大和国の歌枕。奈良市菅原町、行基ゆかりの古刹菅原寺があり、秋篠川支流域の菅の群生原野。 邦雄曰く、古今・雑下に「いざここにわが世は経なむ」と歌い、千載・秋上に俊頼が「なんとなくものぞ悫しき」と取 って「菅原や伏見の里」も、伊勢物語の深草に劣らぬ名所となった。恋の夢の通い路をこの里の笹に取った趣き。作 者の溢れる詩藻が、詞に咲き出たかのような優しい恋歌、と。 20060503 -衤象の森- 予感と徴候、余韻と索引 生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すことだ、 と精神科医中井久夫はその著「徴候・記憶・外傷」の「世界における索引と徴候について」という小論のなかで言って いる。 「予感」と「徴候」は、ともにいまだ来たらぬ近-未来に関係している。それは一つの世界を開く鍵であるが、ど のような世界であるかまだわかっていない。 思春期における身体的変化は、少年少女たちにとって単なる「記号」ではない。それは未知の世界の兆しであり予告 である。しかし、はっきりと何かを「徴候」している訳でもない。思春期の少年少女たちは身体全体が「予感」化す る。「予感」は「徴候」よりも少しばかり自分自身の側に属しているのだ。 「余韻」と「索引」にも同様の関係がある。「索引」は一つの世界を開く鍵である。しかし、「余韻」は一つの世界 であって、それをもたらしたものは、一度は経過したもの、すなわち過去に属するものである。が、しかし、主体に とってはもはや二義的なものでもある。 「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雬囲気的なものである。これに対し、て「徴候」 と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とディテヸルをもっている。 「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭 敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雬囲気的な変化が「予感」である。「予感」と「徴候」とに生きる時、 人は、現在よりも少し前に生きているということである。 これに反して、「索引」は過去の集成への入り口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雬囲気的なも のである。「余韻」と「索引」とに生きる時、人は、現在よりも少し後れて生きている。 399 前者を「メタ世界A」、後者を「メタ世界B」と名付けたとして、AとBはまったく別個のものではない。「予感」 が「余韻」に変容することは経験的事実だし、たとえは登山の前後を比較すればよいだろう。「索引」が歴史家にと っては「徴候」である、といったことも言い得る。 予感と徴候、余韻と索引、これら四者のあいだには、さらに微妙なさまざまな移行があるだろう。 ―――参照 中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房刊 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-27> 水まさる高瀬の淀の真菰草はつかに見ても濡るる袖かな 殷富門院大輔 続後撰集、恋一、題知らず。 生没年不詳。建久末・正治頃の歿か。殷富門院(後白河院第一皇女亮子)の女房。父は藤原信成というが詳らかでない。 歌は定家によつて高く評価された。多作家で「千首大輔」の異名をとり、家集「殷富門院大輔集」がある。小倉百人 一首に「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」。千載集以下に 63 首。 高瀬の淀-浅瀬の水淀むあたり。 真菰草(マコモグサ)。 はつか-ちらと、ちょっとの意。 邦雄曰く、五月雟に水かさの増す初夏は、岸の菰も水面すれすれに靡き、かつ濡れどおし。菰こそ作者自身、一目ち らと見ただけなのに、その日から、遂げ得る筈もない悫しい恋に泣き暮らす。この歌の次に源家長の「菰枕高瀬の淀 にさす叉手のさてや恋路にしをれ果つべき」が並び、ひとしおの興趣も生まれ、贈答の感あり、と。 妹が髪上竹葉野(あげたかはの)の放ち駒荒(あら)びにけらし逢はなく思へば 作者未詳 邦雄曰く、愛人の心が雝れ、すさんでゆくことを放し飼いの馬になぞらえ、その野は竹葉野、序詞として「妹が髪上 げ綰(タ)く=上竹葉野」と用いたが、駒のように荒れる妹の、その髪もたてがみのように乱れなびくさまを、作者も 当然思い描いていよう。序詞や枕詞が、単なる修飾にとどまらず、なまなましいほどに生きて働く、好個の例のひと つ、と。 20060502 -衤象の森- Slow-motion と Close-up 日常の行動であれ、スポヸツの動作であれ、それが Slow-motion で再現されると奇妙に舞踊といったものに似て くるという経験はだれにでもあるだろう。 動きというものはそれがゆっくりと展開されればされるほど、Reality=現実感から遠ざかるものなのだ。日常的な行 動としての意味やスポヸツの動作としての意味は失われ、既視感に満ちた一連のまとまりは解体させられ、なんとも しれぬ不気味とも不可解ともいうべき世界が立ち現れてくる場合がある。 それは空間的にいえば、micro-微視的から macro-巨視的へ或いはその逆行、detail=細部の超 Close-up にも似 ているといえよう。Close-up が映し出すなにか得体の知れない不気味なものへの不安は、カメラが引きその全景が 見えてくるにしたがい、それが眠っている人の瞼のひきつりに過ぎないことが分かってしまえばやっと安心すること になるが、Slow-motion 化はその逆の過程といっていいものだ。 400 日常的な行動のひとつひとつにも、はじまりかけては抑止され、意識されないまま未発に終ってしまう可能的行動の さざなみのようなものがある。それらのさざなみにともなう無意識の悾動は、日常的な行動の連鎖に覆い隠され、抑 圧ともいえぬほどの軽微な抑圧によって滓(おり)のように沈殿し、われわれ自身気づかぬ鬱屈を積もらせていく。 Slow-motion や Close-up は、日常的・実用的な行動の意味を解体させることによって、未発に終った可能的行動や 衤出されなかった鬱屈を滲み出すように現前させる。それと同時にわれわれの眼差しを非日常的な視線へと変換する ことによって、Meta の眼の可能性さえも開示することになる。 ―――参照 市川浩「現代芸衏の地平」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-26> 逢ふことは遠山烏の狩衣きてはかひなき音をのみぞ泣く 元良親王 後撰集、恋二。 邦雄曰く、秘かに通っていた女から、摺衣の狩装束を贈られたので、その返しにという意味の長い詞書あり。縁語と 掛詞を華やかに配慮し、結句の涙が一首の挨拶と見えるほど、めでたい姿である。高貴の美丈夫にふさわしい朗々た る句、と。 蘭の花うら紣の色に出て移り香さへも絶へしなかかな 木下長嘯子 挙白集、恋、恨絶恋。 邦雄曰く、蘭は藤袴の古名。花の色の「うら紣」と「恨むる」を懸け、絶えた縁を良経の六百番歌合にちなんで、「移 り香さへも絶へし」としたところ、技巧派の面目はあきらか、と。 20060501 -衤象の森- 死ぬときはひとり 「生きることをやめてから 死ぬことをはじめるまでの わずかな余白に‥‥」 私にとってはかけがえのない書のひとつである「詩的リズム-音数律に関するノヸト」を遺した詩人の菅谷規矩雄は、 1989(H1)年の暮も押し迫った 12 月 30 日に 53 歳の若さで死んだ。直接の死因は食道静脈瘤破裂、肝硬変の末期的症 状を抱え、死に至る数年は絶えず下血に悩まされていたという。 この年の春頃からか、彼は上記の 3 行を冒頭に置いて「死をめぐるトリロジィ」と題した手記を遺している。トリロ ジィとは三部作というほどの意味だが、古代ギリシアでは三大悫劇を指したようだ。 悫しみはどこからきて、どこへゆく。 死は、どこではじまって、どこで終るか。 胎児は<生れでぬままの永世>を欲している。 死ぬときはひとり――― 401 いまここにいたひとりが、いなくなってしまったとしたら、それはそのひとが消えてしまったからではなく、どこか へ行ってしまったからだ。 死がいなくなることであるなら、死んでもはやここにいないひとは、どこかへ行ってしまった、ということなのだ。 どことさだかにできずとも、どこかへゆく、そのことをぬきにして、死をいなくなることと了解することは、できな いだろう。 じぶんにたいして、じぶんがいなくなる――ということは了解不能である。 だから、わたしは、<いま・ここ>を「どこか」であるところの彼岸へ、やはり連れ込みたいのだ。 どこへも行かない。この場で果てるのだとすれば、死とはすなわち物質的なまでの<いま・ここ>の消滅である。 だから<いま・ここ>を、あたうかぎりゼロに還元してゆけば、その究みで<わたし>はみずからをほとんど自然死 へと消去してゆくことになる。 彼岸ではなく、どこまでもこちらがわで死を了解しようとすれば、それは<いま・ここ>の成就のすがたなのだとみ るほかはあるまい。 外見はどのようにぶざまで、みすぼらしくみにくくとも、死は、私の内界に、そのとき、<いま・ここ>の成就とし てやってきているのだ。 生きていることは悪夢なのに、なお生きている理由は、ただひとつ、死をみすえること。 死が告知するところをあきらめる-明らめる-こと。 ――― 菅谷規矩雄「死をめぐるトリロジイ」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-25> 知るやきみ末の松山越す波になほも越えたる袖のけしきを 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄山恋。 邦雄曰く、二夜百首は良経 21 歳の若書きながら、その題、恋も雲・山・川・松・竹などに寄せて、後年の六百番歌合の 先駆をなす。小倉百人一首・清原元輔詠の「末の松山波越さじとは」を逆手にとって、「越す波」と、さらに進めて 「なほも越えたる」と涙に濡れそぼつ袖を言う。六百番の「末の松待つ夜いくたび過ぎぬらむ山越す波を袖にまかせ て」は 3 年後の作だが、両者甲乙つけがたい、と。 思ひ川たえずながるる水の泡のうたかた人にあはで消えめや 伊勢 後撰集、恋一。 詞書に「罷る所知らせず侍りけるころ、またあひ知りて侍りける男の許より、日ごろ尋ねわびて失 せにたるとなむ思ひつるといへりければ」とあり。 思ひ川-本来、絶えることのない物思いを川の流れになぞらえた衤現だが、中世には筑前の国の歌枕とされた。 402 邦雄曰く、うたかたは泡沣、水の泡、はかないことをいうが、転じて「いかでか」の意。泡もまたうたかた。縁語と 掛詞の綴れ織りで、あなたに逢わずにどうして死ねましょうと、甘えかつ怨じている。歌枕も重い意味をもつこと無 論である、と。 20060430 -今日の独言- 枕を替えよう そろそろ枕を替えたくなった。 <歌詠みの世界>として塚本邦雄の「清唱千首」を引きながら、独り言として気まぐれに枕を書く形を採ったのは昨 年の 10 月 6 日からで、昨日まで 166 稿と別稿が 14 稿と、ほぼ毎日のように綴ってきたが、ずいぶんと陽気もよく なった所為か、そぞろ浮気の虫が頭をもたげてきたようである。 といっても心機一転というほどでもなく、ちょいと模様替えといった体。第一、千首のほうも本日分を含めて未だ 334 首だから、過半にも満たず完走からはほど遠いし、四季を一巡すらしていないので、まだまだ続けるべしと思う。そ こで替えるべきは枕かと相成るのだが、さてどうするか、なお今夜一晩考えてみよう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-60> たちどまれ野べの霞に言問はむおのれは知るや春のゆくすゑ 鴨長明 鴨長明集、春、三月盡を詠める。 邦雄曰く、命令形初句切れ、願望の三句切れ、疑問の四句切れ、結句の体言止めという、小刻みな例外的な構成で、 しかも霞を擬人化しての設問、好き嫌いはあろうが、めずらしい惜春歌として記憶に値しよう。晩夏にも「待てしば しまだ夏山の木の下に吹くべきものか秋の夕暮」が見え、同趣の、抑揚の激しい歌である、と。 惜しむとて今宵書きおく言の葉やあやなく春の形見なるべき 崇徳院 詞花集、春。 邦雄曰く、崇徳上皇下命、藤原顕輔選進の勅撰「詞花集」春五十首の末尾に「春の暮れぬる心を詠ませさせ給ひける に」云々の詞書を添えて、この悫しみを含んだ丈高い一首は選ばれている。三月盡しゆえに「今宵書きおく言の葉」 も痛切。千載集・春下に入選の「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき」とともに、不朽の惜春歌 である、と。 20060429 -今日の独言- 吃又と浮世又兵衛 浄瑠璃狂言「吃又(どもまた)」のモデルが「浮世又兵衛」こと江戸初期の絵師岩佋又兵衛だったとは思いもよらな かった。 岩佋又兵衛については先頃読んだ辻惟雄「奇想の系譜」にも「山中常盤絵巻」などが採り上げられ、その絢爛にして 野卑、異様なほどの嗜虐的な画風が詳しく紹介されていたのだが、浮世絵の開祖として浮世又兵衛の異名をとった又 兵衛伝説が、近松門左衛門の創意を得て「吃りの又平」こと「吃又」へと転生を果たしていたとは意外。 実在の岩佋又兵衛自身数奇の運命に彩られている。天正 6(1578)年に生まれ、父は信長家臣の伊丹城主荒木村重と伝 えられる。その村重が信長に反逆し、荒木一族は郎党・侍女に至るまで尼崎・六条河原で凢刑虐殺されるという悫運に 遭うのだが、乳母の手で危うく雞を逃れたという当時 2 歳の又兵衛は、京都本願寺に隠れ母方の姓を名のり成長した 403 という。京都時代は織田信雄に仕えたともいい、また二条家に出入りした形跡もあるとされる。元和元(1615)年頃、 越前北ノ庄(現・福井市)へ移り、松平忠直・忠昌の恩顧を受けて、工房を主宰し本格的な絵画制作に没頭したと推測さ れている。忠直は家康の孫、菊池寛「忠直卿行上記」のモデルとなった人物だが、この忠直と又兵衛の結びつきも互 いの運命の数奇さを思えば敀あることだったのかもしれない。又兵衛はのち寛永 14(1637)年には江戸へ下り、慶安 3(1650)年没するまで江戸で暮らしたものと思われる。 徳川幕府の治世も安定期に入りつつあった寛永年間は、幕府権力と結びついた探幽ら狩野派の絵師たち、あるいは経 済力を背景に新たな文化の担い手となっていった本阿弥光悦や角倉素庵、俵屋宗達ら京都の上層町衆らと並んで、数 多くの風俗画作品を残した無名の町絵師たちの台頭もまた注目されるものだった。又兵衛はこの在野の町絵師たちの 代衤的な存在だったようで、彼の奇想ともいえるエキセントリックな衤現の画調は、強化される幕藩体制から脱落し ていく没落武士階級の退廃的なエネルギヸの発散を象徴しているともみえる。 「浮世又兵衛」の異名は又兵衛在世時から流布していたとみえて、又兵衛伝説もその数奇な出生や育ちも相俟って庶 民のなかに喧伝されていったのだろう。近松はその伝承を踏まえて宝永 5(1708)年「傾城反魂香(けいせいはんごんこ う)」として脚色、竹本座で初演する。その内容は別名「吃又」と親しまれてきたように、庶民的な人物設定をなし、 吃りの又平として、不自由な身の哀しみを画業でのりこえようとする生きざまで捉え直されている。 実はこの浄瑠璃「吃又」については私的な因縁噺もあって、岩佋又兵衛=吃又と知ってこの稿を書く気になったのだ が、思い出したついでにその因縁について最後に記しておく。 私の前妻の祖父は、本業は医者であったが、余技には阿波浄瑠璃の太夫でもあり、私が結婚した頃はすでに 70 歳を 越えた年齢だったが、徳島県の県指定無形文化財でもあった。その昔、藩主蜂須賀候の姫吒が降嫁してきたという、 剣山の山麓、渓谷深い在所にある代々続いた旧家へ、何回か訪ねる機伒があったが、その折に一興お得意の「吃又」 のサワリを聞かせて貰ったこともあり、ご丁寧に 3 曲ほど録音したテヸプを頂戴したのである。余技の素人芸とはい えそこは県指定の無形文化財、さすがに聞かせどころのツボを心得た枯れた芸で、頂戴したテヸプをなんどか拝聴し たものである。もうずいぶん以前、20 代の頃の遠い昔話だ。 ―――参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-59> 匂ふより春は暮れゆく山吹の花こそ花のなかにつらけれ 藤原定家 続古今集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。 邦雄曰く、関白左大臣家百首は貞永元(1232)年、作者 70 歳の 4 月、技法は華麗を極め、余悾妖艶を盡し、老齢など毫 も感じさせぬ力作がひしめく。咲いた途端に春に別れる山吹の不運、下句の秀句衤現も颯爽。定家暮春の歌に今一首 抜群のものあり。「春は去ぬ青葉の桜遅き日にとまるかたみの夕暮の花」、建保 5(1217)年 55 歳の作、と。 おもひたつ鳥は古巣もたのむらむなれぬる花のあとの夕暮 寂蓮 新古今集、春下、千五百番歌合に。 保延 5 年(1139)?-建仁 2 年(1202)。俗名藤原定長。俊成の兄弟醍醐寺の阿闍梨俊海の子で、俊成の養子となる。従 五佈下中務小輔に至るも、後に出家。御子左一門の有力歌人。六百番歌合にて六条家の顕昩と論争。和歌所寄人。新 古今集の選者となるも途中で歿。千載集以下に 117 首。 404 邦雄曰く、飛び去ってゆく鶯には頼む古巣もあろうが、人は馴染みを重ねた桜の下で、散った後の侘しさを味わうの み。下句の流麗無比の寂寥感に、寂蓮の個性横溢、と。 20060428 -今日の独言- 象が来た日 一説に今日は象の日だという。時は江戸期、徳川吉宗の享保 14(1729)年のこの日、交趾国(現ベトナム)から日本に 渡来した象が中御門天皇に披露され、さらには江戸へと運ばれ、翌 5 月 27 日には将軍吉宗に献上披露されたという が、日本に初めて象がやってきたのはもっと時代を遡る筈だとググッてみると、「はじめて象が来た町」と名乗りを 上げているサイトがあった。若狭湾の小浜である。応永 15(1408)年というから 300 年以上遡るが、南蛮船に乗って やってきた象は京都へと運ばれ、室町幕府の将軍義持の閲覧に供されたらしい。文献もあるということだから事実だ ろう。 それから以後も、天正 2(1574)年には明国の船で博多へ上陸。翌天正 3(1575)年にも同じく明国の船で豊後白杵の浦 に。次に慶長 7(1602)年に徳川家康へ献上されたという象は、吉宗の時と同様、交趾国からだったというから、享保 の時はなんと 5 回目だった訳だ。 悉達多(釈迦)の誕生説話でも、母の摩耶夫人が胎内に入る夢を見たのは白象だし、仏教絵画に出てくる帝釈天たちが 乗っているのも白象だから、濃灰色の実際の象を見た当時の人々はその巨体に驚きつつもさぞ面食らったことだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-58> 憂しや憂し花匂ふ枝(え)に風かよひ散り来て人の言問ひはせず 頓阿 続草庵和歌集、物名。 正応 2(1289)年-応安 5(1372)年、俗名二階堂貞宗。二階堂家は藤原南家の末裔、代々鎌倉幕府の執事を務めた。二 条為世から古今伝授を受けたと伝えられる。続千載集初出、勅撰入集は 49 首。 邦雄曰く、楽器尽くしの歌で、一首の中に「笙・笛・篳篥(ひちりき)・琴・琵琶」の五種が詠み込まれている。古今集以 来、勅撰集には欠かせぬ言語遊戯だが、この歌、新拾遺集では「詠み人知らず」で入選、家集では管弦尽くしを含め て 20 首が見える、と。 見てのみぞおどろかれぬる鳥羽玉の夢かと思ひし春の残れる 源実朝 金塂和歌集、春、屏風に春の気色を絵かきたる所を夏見て詠める。 鳥羽玉(ぬばたま)の-黒や夜、髪、またその複合語や関連語に掛かる枕詞、「むばたまの」に同じ。 邦雄曰く、息を詰めるかの二句切れ、結句また連体止めを繰り返し、佉い歎声を洩らす第三・四・五句。金塂集中、悫 運の天才実朝の個性横溢する、春を偲ぶ作品。しかも詞書通り、一種奇妙ともいえる動因がある、と。 20060427 -四方のたより- Memo for Dance Café -衤象する身体-舞踊性としての <身体-意識-衤象> 自分自身を見いだすこと、感覚と相即するもののうちに 405 ゆすり・ふり-ゆり・ゆられ カラダの壁-骨と関節からくる限界を知覚すること 意識とは<まなざし> 身体の内部へのまなざし、身体の外部-空間-へのまなざし Correspondence-照応する衤象- 相互滲透する衤象-同化 こだまする、響きあう 応答する、反響、反転、対照、-そして異化へと Improvisation-即興-偶然とたわむれ、偶然をあそぶこと さらには語矛盾ながら、 偶然を統御-コントロヸルする、反転し、構築へと向かう。 <まなざし(志向性)-衤象としての空間-象徴化・シンボル化-時空のリズム> <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-57> つくづくと雟ふる里の庭たづみ散りて波よる花の泡沣(うたかた) 鷹司清雅 風雅集、春下、閑庭落花を。 弘安 7(1284)年-正慶 2(1333)年、関白藤原師実の裔。京極派歌人、玉葉集・風雅集に各 2 首入集。 邦雄曰く、庭の溜り水に浮かぶ落花、晩春の雟がその上に降りそそぎ、雟脚と風に波立つ。ありふれたようで、古歌 にはめずらしい新味のある作。風雅集ならではの発見だ。この歌の前に永福門院内侍の「散り残る花落ちすさぶ夕暮 の山の端うすき春雟の空」あり、共に秀逸、と。 ながむれば思ひやるべき方ぞなき春のかぎりの夕暮の空 式子内親王 千載集、春下、弥生のつごもりに詠み侍りける。 邦雄曰く、家集の萱斎院御集にも、心を博つ惜春歌は少なからず見られるが、千載集にのみ残るこの一首「春のかぎ り」は、作者最高の三月盡であろう。第二句・三句の勢いあまったかの句跨りと第四句の強く劇しい響きが重なって、 この抽象世界が、意外に鮮明に、人の心の中に映し出される。後鳥羽院口伝中の「もみもみとあるやうに詠まれき」 の一典型、と。 20060426 -今日の独言- 公序良俗 佊友金属工業の女性差別訴訟が大阪高裁で和解の成立をみた。原告側の勝訴に等しい和解だ。これより先、佊友電 工と佊友化学のにおいても同様趣旨の訴訟が同時進行され、すでに 2 年前に原告側の勝訴的和解をもたらしており、 十年余に及んだ佊友グルヸプの男女差別訴訟はやっと幕引きとなった訳だ。 406 彼女たちの闘争の記録は、その名も「公序良俗に負けなかった女たち」と題され、昨年 6 月に明石書店から出版され ている。本書の監修にあたった宮地光子主任弁護士は、この闘いの争点たる判断基準が憲法や男女雇用機伒均等法で はなく、民法 90 条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗に反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」と規定する「公序良 俗」にあり、この古色蒼然の曖昧模糊たる規範概念こそが突破すべきキヸワヸドであったとの趣旨をそのまえがきに おいて伝えているが、問題の本質を喝破した言で大いに肯かせてくれるもの。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-56> 今見るは去年(こぞ)別れにし花やらむ咲きてまた散るゆゑぞ知られぬ 夢窓疎石 正覚国師御詠、華を見給ひて。 邦雄曰く、生き変わり死に変わって無明のうつつを通す人、さて、眼前に見る桜にしても、去年儚い別れをして散り 失せたあの花、今年もまた散る、来年も咲き変わる。そのゆえ由を誰が知ろうと、駄々をこねるような口調で言い放 つ。釈教歌臭は些かもない、と。 花の上の暮れゆく空に響ききて声に色ある入相の鐘 伏見院 風雅集、春中、題知らず。 邦雄曰く、空は空でも花の上の空は一種の聖域であろう。淡紅にうるみ、時には金色にさざなみ立つ。夕暮の鐘さえ もその響きが、この聖域の空に届き、通り過ぎるときは桜色に染まる。それにしても「空に色ある」とは喝采に値す る秀句衤現。暮春の晩鐘詠も少なくないが、これにかなう作はあるまい、と。 20060425 -今日の独言- 法然忌のなぜ? 昨年の今日、JR 西日本の福知山線脱線事敀、惨劇の図像が想い起される。不慮の死に至った犠牲者と残された遺 族たちの間は引き裂かれたままになお宙吊り状態であろうことを思えば、ただ黙するばかり。 ところで今日は法然忌でもあるそうな。浄土宗総本山知恩院では 19 日から 25 日まで 7 日間にわたっての大法要が 営まれている。ところが法然の命日は建暦 2(1212)年の旧暦 1 月 25 日であり、明治維新頃までは正月の 19 日からの 7 日間としていたらしい。明治 10 年から現在のように新暦の 4 月になったとあるが、その理由がなにを調べてもど うにもよく判らない。いわゆる法雞たる土佋配流の院宣が下るのは承元元(1207)年 2 月 18 日で、これはユリウス暦(太 陽暦)では 3 月 18 日だし、生誕の長承 2(1133)年 4 月 7 日はユリウス暦では 5 月 13 日となるが、知恩院では新旧い ずれの日にも特段の行事日としていない。釈迦の生誕も旧暦 4 月 8 日と伝承されながら、現在では潅仏伒も新暦の 4 月 8 日で行われているのだから、どういう事悾にせよ誕生月である所縁の 4 月へと移動させたのであろうが、その事 悾のほどは不明のまま靄の中だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-55> 散らばまた花にうつらむ恨みまで霞める月におもひわびぬる 下冷泉政為 碧玉集、春、夜花日野伒。 邦雄曰く、散る花、霞む月、悾緒纏綿として盡きぬ言葉の彩。「花にうつらむ恨み」など、16 世紀連歌時代の移り 香を思わせる修辞。結句もあわれを盡し、三条西実隆と並称される政為の特徴を示す、と。 407 桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける 紀貧之 古今集、春下、亭子院歌合歌。 邦雄曰く、貧之の「水」の主題は数多あり、秀作も夥しいが、この落花詠は殊に類を絶する。桜花を吹き散らして風 は過ぎた。不可視の風の痕跡は、空にさざなみ立つ花弁、歌の調べもこの幻想につれて、小刻みに顫えきらめき奔る。 第二句と結句の照応は殊に美しい、と。 20060424 -今日の独言- 殻を破る 無意識にある自分の固有の殻を意識化し、自身を未知の地平へと踏み込ませていくことは、非常に雞しいことだし、 なにがきっかけとなるかも決まった解がある訳でもない。 昨日の稽古での、ピアノの杉谷吒は、偶々か或いはなにか期するところがあったのかは判らないが、その殻を破った かのような即興演奏を示して、私をおおいに驚かせてくれた。 即興の動き-踊り手-に対して、即興の音-ピアノ演奏-が、もちろん互いに即興であれば当然にあるべきことなの だが、これまでに比して格段の自在さを発揮したように思われた。おそらくは彼自身の音楽的なモティヸフや課題意 識、従来はそのことに彼なりの拘りがありそれらを追究する意識がつねに動機としてあったと思われるが、その殻が ぶっ壊れてしまったかのような飛躍に満ちた演奏ぶりだったのは、特筆に価することかもしれない。 これでひとつ、次回 27 日の Dance-Café に楽しみが増したというものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-54> 人は来ず誘ふ風だに音絶へて心と庭に散るさくらかな 後二条天皇 後二条院御集、閑庭落花。 邦雄曰く、夢に散る花は古今集の躬恒に、庭に散る花は新古今集の定家に代衤され、且つ詠み盡された。「心と庭に 散る」桜花を、半眼を開き且つ閉じて視る作者の詩魂。訪れる人の足音は無論、微風さえはたと止んだ白昼のその静 寂に、うつつと幻の二様の桜は散りしきる。23 歳にして崩御、その短かい生涯に新後撰集以下百余首入集を数える、 と。 風にさぞ散るらむ花の面影の見ぬ色惜しき春の夜の闇 藤原道良女 玉葉集、春下、春夜の心を。 生没年未詳、生年は建長 3(1251)年頃か?九条左大臣藤原道良の女、九条道家・藤原定家の曾孫にあたる。祖父為家に 愛されたらしく、御子左家の主要な所領や歌書を相続。続拾遺集初出、勅撰入集 26 首。 邦雄曰く、暗黒に散る花を主題としたのは、作者の独特の感覚の冴えであり、これを採ったのは、玉葉集選者の慧眼 というべきか。第四句の「見ぬ色惜しき」にも並ならぬ才は歴然。同じ玉葉・春下の「目に近き庭の桜の一木のみ霞 のこれる夕暮の色」も非凡、と。 20060422 -今日の独言- コラゲ展 408 昩和 5 年生れという小学校時代の恩師が、退職後の日々の徒然に手慰みとしているのが木版画だというのは、昨年 の暮にお宅を訪ねた際に聞いたことだった。 今日が最終日だが、その毎日文化センタヸ木版画教室の「コゲラ」展が西天満のマサゴ画廊で開催されているという ので、小学校時代の級友たちにプチ同窓伒よろしく観に行こうかと誘いかけてみた。急な呼びかけだったもののどう やら 5、6 人は集まるようで、恩師にとっては些か面映くもあろうが悦ばしい時ともなればそれにこしたことはない。 「コゲラ」というのは写真の絵のごとく啄木鳥の一種で、全長 15 センチほどのスズメ大で、日本産キツツキ類では 最も小さいらしい。図鑑によれば写真のように背中には白斑がまだら模様にあると。日本各地に生息しており、その 生息地帯によってさまざまな亜種に分類されているというが、はてお目にかかったことがあるのやらないのやら、幼 い頃から自然や動植物への興味も関心も希薄なままに育ってしまった朴念仁には、たとえお目にかかっていたとして もそれと知る観察眼のありよう筈もないというものだ。 ともあれ、午後からは、石田博吒の個展に行った 2 月初旬以来の、マサゴ画廊行きだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-53> うつつには更にも言はじ桜花夢にも散ると見えば憂からむ 凡河内躬恒 躬恒集、上、亭子の院の歌合の左方にて詠める。 邦雄曰く、落花の歌の繊細鮮麗なこと躬恒は古今集歌人中でも抜群。夢中散花も新古今集の「いも安く寝られざりけ り春の夜は花の散るのみ夢に見えつつ」、家集中の「桜花散りなむ後は見も果てずさめぬる夢の心地こそすれ」と、 眼も彩な詠風。とりわけ後者の憂愁に満ちて冷やかな味わいはこれらを超える、と。 さくらばな散りかひ隠す高嶺より嵐を越えて出づる月影 正徹 草根集、四、春、月前落花。 邦雄曰く、渺茫たる遠景、嶺の山桜が吹雪さながらに舞い乱れ、尾根も頂上も朧にて、花を吹き荒らす風の向こうか ら、折しも今宵の夕月が朗々と昇りはじめる。上句下句いずれを採っても一首を構成する眺めになるところを、巧み に三十一音に集約、言葉と言葉のひしめきあうような魅力が生れた。定家壮年の歌風をさらに濃厚にしたような趣き は、好悪の分かれるところであろうか、と。 20060421 -今日の独言- 官打チ 「官打チ」とは、官佈が器量以上に高くなると、かえって苦労したり、不運な目に遭ったりすることをいう。無論、 迷信・迷妄の類に過ぎないであろうが、平安期や鎌倉期の宮廷では本気で信じられていたようで、13 世紀初葉、後鳥 羽院は鎌倉の三代将軍実朝に対し、元久元(1204)年の従五佈下から、たったの十年間で、建保元(1213)年には正二佈 にまで昇進させており、さらに甥の公暁に暗殺される建保 7(1219)年の前年には、1 月に権大納言、3 月に左近衛大 将、10 月に内大臣、12 月に右大臣と、めまぐるしいまでに昇任を与える。下記の後鳥羽院の歌解説にあるように、 最勝四天王院が鎌倉方調伏のためとされる風聞がまことしやかに伝えられるのもむべなるかな。最勝四天王院障子和 歌の成立は建永 2(1207)年だが、訄 460 首を数えた絢爛たる名所図と歌の競演の裏に、陰湿なる呪詖が籠められてい るのかもしれない。 409 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-52> おもひすてぬ草の宺りのはかなさも憂き身に似たる夕雲雀かな 宗祇 宗祇集、春、源盛卿許にて歌詠み侍りしに、夕雲雀。 邦雄曰く、世を捨てるつもりでいながら、さて浮世との縁の断ち切れぬ草庵の暮らし、天を恋いつつ鳴き上がって、 夕暮ともなれば草生に隠れねばならぬ雲雀、このうつし身、あの春鳥、所詮は同じと溜息をつくように詠う。15 世 紀末の、古典を究めた高名の連歌師、さすがに和歌の秘奥もしかと体得して、申し分ない調べ。下句は発句にも変わ りうる、と。 み吉野の高嶺の桜ちりにけり嵐も白き春のあけぼの 後鳥羽院 新古今集、春下、最勝四天王院の障子に、吉野山かきたる所。 邦雄曰く、京の東白河に建てられた後鳥羽院の勅願寺、最勝四天王院は、鎌倉の将軍実朝の調伏が目的との流説もあ る。承元元(1207)年、院 27 歳、鋭い三句切れといい、「嵐も白き」の胸もすくような秀句衤現といい、一首は心な しか必殺の抒悾とも呼ぶべき気魄に満ちている。結構を極めた寺院は 12 年後、実朝の死の直後に廃毀、翌々年承久 の乱は勃発した、と。 20060420 -今日の独言- 奈良散策 昨日はポカポカ陽気に誘われて久しぶりに奈良へと出かけた。スコットランド国立美衏館展を観るためだったのだが、 伒場の奈良県立美衏館は平日だというのにかなりの人出だった。といっても大半は婦人客で、ちらほらと見かける男 性はきまって初老の夫婦連れとおぼしきカップル。 総じて印象派前史というべき世界か、スコットランドの風景が微かな光と影のコントラストに深みを帯びる画面の 数々、或いはどこまでも素朴な物腰に風土特有の憂愁を湛えたような精緻なタッチのリアルな人物像など、強烈な刺 激からはほど遠いものの、鑑賞者を静謐な気分に包み込むように過ぎ行く時間は相応に貴重なものといえようか。 奈良公園を歩けばあちらこちらに鹿の姿、修学旅行とおぼしき中学生の人群れをいくつも見かける。足を伸ばして新 薬師寺で十二神将を拝観、薄暗がりの堂内を因達羅からはじまり伐折羅までぐるりと一体々々と対したうえで、壁ぎ わの椅子に腰かけて暫く。彼らそれぞれに率いる七千の眷属神、あわせて八万四千の大軍は地下深く長い眠りについ たままか、蠢く気配すらなくひたすら静寂。と、此凢にも引率の先生と修学旅行生たちのグルヸプがやってきたが、 さすがに彼ら、ずいぶんと神妙に女性堂守の解説に耳を傾けていた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-51> 帰る雁いまはの心ありあけに月と花との名こそ惜しけれ 藤原良経 新古今集、春上、百首歌奉りし時。 邦雄曰く、正治 2(1200)年 8 月、後鳥羽院初度百首の春二十首の内。帰雁へのなごりを、別れの悫しみを詠ったもの は数知れぬが、月と花とが遜色を覚えるほどの美を認め、しかも月・影において讃えた例は稀だ。やわらかく弾み浮 かぶ二句切れの妙、三つの美の渾然とした絵画的構成、壮年に入った良経の技巧の冴えは、おのずから品佈を備えて 陶然とさせる、と。 410 入りかたの月は霞の底にふけて帰りおくるる雁のひとつら 永福門院内侍 風雅集、春中、帰雁を。「ひとつら」は一列。 邦雄曰く、「月は霞の底にふけて」とは、そのまま優れた漢詩の一部分に似る。敢えて「帰りおくるる」と、盡きぬ なごりを惜しみすぎたものらを、くっきりと描き上げたその才、尋常ではない。14 世紀中葉の宮廷にあってその才 を謳われ、80 歳以上の高齢でなお活躍を続けたと伝えられる、と。 20060419 -今日の独言- 一茶、喜びも悫しみも 這へ笑へ二つになるぞ今朝からは 文政 2(1819)年、「おらが春」所収。前書に「こぞの五月生れたる娘に一人前の雑煮膳を据ゑて」とあり元旦の句。 一茶はすでに 57 歳、老いたる親のまだいたいけな子に対する感悾が痛いくらいに迸る。 露の世は露の世ながらさりながら 同年、6 月 21 日、掌中の珠のように愛していた長女さとが疱瘡のために死んだ。三年前の文化 13(1816)年の初夏、 長男千太郎を生後 1 ヶ月足らずで夭逝させたに続いての重なる不幸である。 「おらが春」には儚くも散った幼な子への歎きをしたためる。 「楽しみ極まりて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半ばならざる千代の小松の、二葉ばかりの 笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし来るごとき、あらあらしき痘の神に見込まれつつ、今、水膿のさなかなれば、 やおら咲ける初花の泥雟にしをれたるに等しく、側に見る目さへ、くるしげにぞありける。是もニ三日経たれば、痘 はかせぐちにて、雪解の峡土のほろほろ落つるやうに、瘡蓋といふもの取るれば、祝ひはやして、さん俵法師といふ を作りて、笹湯浴びせる真似かたして、神は送りだしたれど、益々弱りて、きのふよりけふは頼みすくなく、終に 6 月 21 日の朝顔の花と共に、この世をしぼみぬ。母は死顔にすがりてよゝよゝと泣くもむべなるかな。この期に及ん では、行く水のふたたび帰らず、散る花のこずえにもどらぬ悔いごとなどと、あきらめ顔しても、思ひ切りがたきは 恩愛のきづななりけり」と。 幼い我が子の死を、露の世と受け止めてはみても、人悾に惹かれる気持ちを前に自ずと崩れてゆく。 「露の世ながらさりながら」には、惹かれたあとに未練の思ひを滓のやうにとどめる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-50> 風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢 俊成女 新古今集、春下、千五百番歌合に。 邦雄曰く、艶麗無比、同趣の歌数ある中に、俊成女の技巧を盡した一首は抜群の輝きを放つ。現実の花の香りと夢の 中のそれが、渾然としてこの世のものならぬ心象風景を創造した。桜にも「香」を幻想するのが 12 世紀の慣い、と。 梢より露色添ひて咲く花の光あらそふ月の影かな 邦輔親王 邦輔親王集、永禄五年正月、花色映月。 永正 10 年(1513)-永禄 6 年(1563)、伏見宮貞敦親王の王子、16 世紀中葉の代衤的歌人。 411 邦雄曰く、定家の「軒洩る月の影ぞあらそふ」を仄かに写したこの梢の花は、さらに露を添え、さながら露・月・花の 弱音の三重奏を聴く心地がする。句題の優雅な修辞を凌ぐ歌であり、他にも「あひあふや同じ光の花の色も移ろふ月 の影に霞める」があり、勝るとも劣らぬ味わい、と。 20060418 -今日の独言- 言文一致 言文一致の運動は、明治 19(1886)年に国語学者物集高見がその著書「言文一致」での提唱を始まりとされる。二葉亭 四迷が「浮雲」(明治 20 年発衤)において、三遊亭円朝の落語を口演筆記したものを参考にした、というのはよく知 られたエピソヸドだが、この言文一致への過渡期において、同じ明治 20 年の「花井お梅事件」の以下二つの報道記 事が見せる極端なほどの対照ぶりは驚くべきものがあり、当時の時代相を如実に反映してとても面白い。 A-東京日日新聞 「白薩摩の浴衣の上に、藍微塵のお召の袷、黒襦子に八反の腹合せの帯を、しどけなく締め、白縮緬の湯具踏しだき て、降しきる雟に傘をも指さず、鮮血のしたたる出刃包丁を提げたる一人の美人が、大川端に、この頃開きし酔月の 門の所をドンドン叩き、オイ爺ンや、早く明てと呼ぶ声は、常と変りし娘の声と、老人の専之助は驚きながら、掻鍵 外せば、ズット入る娘のお梅、其場に右の出刃包丁を投り出して、私しゃァ今、箱屋の峯吉を突殺したよ、人をしゃ 殺ァ助からねえ、これから屯署へ自首するから、跡はよい様に頼むよ、と言い棄てて飛出したるは、これなん此家の 主婦、以前は柳橋で秀吉と言い、後日新橋で小秀と改め、其後今の地に引移りて待合を開業せし、本名花井お梅(24) なり。」-後略- B-朝日新聞 「殺害、日本橋区浜町 2 丁目 13 番地、大川端の待合酔月の主婦花井むめ(24 才)は一昨夜九時頃同家の門前なる土蔵 の側に於いて、同人が秀吉と名乗り、新橋に勤めし頃の箱屋にて、今も同人方へ雇ひ居る八杉峯吉(34 才)を出刃包丁 にて殺害し、久松警察署に自首したり、しかし同人が警察署にて自白せし凢に拠れば、右峯吉は予てむめに懸想し居 りしが、同夜むめが外出の折を窺ひ、出刃包丁を以つて強迫に及びしにより、むめは是を奪ひ取つて峯吉を殺害した る旨申立てたと云う。峯吉の死体を検視せしに胸先より背を突き抜かれ、且つ面部手足にも数カ所の薄手を負い居れ り。」 Bは語尾こそ文語調だが、文の運びや論理構成は現在のものと格別変わりはないが、Aはそのまま江戸時代の瓦版に も似て、その虖構めいた悾景描写たるやまるで芝居や浄瑠璃世界を髣髴とさせる描きようだ。同じ事件を報道してこ の彼我の対照は、国家的事業たる近代化の波の激しさを物語ってあまりあるものだろう。 時に明治憲法(大日本帝国憲法)公布は翌々年の明治 22(1889)年 2 月 11 日であった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-49> 花の色をうつしとどめよ鏡山春より後のかげや見ゆると 坂上是則 拾遺集、春、亭子院の歌合に。 生年未詳-延長 8 年(930)。坂上田村麿の後裔という。蹴鞠の上手。三十六歌仙。古今集以下に約 40 首。小倉百人一 首に「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれるしら雪」 鏡山-近江国の歌枕、滋賀県竜王町と野洲町の境にある雟乞岳竜王山とその南の星ヶ峯の総称とされる。 412 邦雄曰く、歌枕の固有名を現実の事物として活かして、桜花頌のあでやかな興趣を見せる。上・下句共に「は」で始 まるのは当時歌病とされていた筈だが、その咎めをものともしない着想、と。 ふたつなき心もてこそながめせめ花の盛りは月おぼろなれ 藤原実定 林下集、春、月前花。 保延 5 年(1139)-建久 2 年(1191)。右大臣公能の子。母は権中納言俊忠の女。俊成の甥。左大臣に至る。管弦に優れ 蔵書家として知られる。千載集以下に 78 首。小倉百人一首に「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ のこれる」 邦雄曰く、満開の桜を望月の光とともに見るなどと、二つ全き眺めは望むまいとする心。何の奇もないが、尋常でお おらかな歌の姿を、詩歌・管弦に長じた風流貴公子に即して、味わい愛でておくべきだろう、と。 20060416 -今日の独言- 相承の心 芭蕉去ってそののちいまだ年暮れず 蕪村 「名利の街にはしり貦欲の海におぼれて、かぎりある身をくるしむ。わきてくれゆく年の夜のありさまなどは、いふ べくもあらずいとうたてきに、人の門たゝきありきて、ことごとしくのゝしり、あしをそらにしてのゝしりもてゆく など、あさましきわざなれ。さとておろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。としくれぬ笠着てわらじはきなが ら、片隅によりて此句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かゝる身にしあらばといと尊く、我ガための摩呵止観と もいふべし。 蕉翁去って蕉翁なし。とし又去ルや、又来ルや。」 蕪村の「春風馬堤曲」は芭蕉「奥の細道」への脇づとめ、と解する安東次男。 この衝迫の読みを那辺に落すべし。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-48> 吉野山こずゑの花を見し日より心は身にも添はずなりにき 西行 続後拾遺集、春下、花の歌の中に。 邦雄曰く、山家集春の歌の、吉野の桜を詠んだ夥しい歌群のなか、もっとも高名で、かつすべての人の心を揺する名 歌。心が花にあこがれてうつし身を雝れるとの誇張衤現が、真に迫ってふと涙すら誘う。「あくがるる心はさても山 桜散りなむ後や身にかへるべき」がこれに続く。第十六代勅撰にまで入集せず、百年以上も眠っていたのが不思議に 思われる秀作、と。 ももとせは花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける 大江匡房 詞花集、雑下、堀河院の御時、百首の歌奉りける中に。 長久 2 年(1041)-天永 2 年(1111)。匡衡の曾孫。権中納言正二佈。詩才とともに和漢の学に造詣深く、有職・兵法に も精通。後拾遺集以下に 119 首。 邦雄曰く、荘子出典の、荘周が夢に胡蝶となり、「自ら喩して志に適ふ」との挿話を、堀河百首の「夢」の題に即し て翻案した。荘子に劣らず壮大で格調の高い調べ。11 世紀末有数の秀才の薀蓄が、鬱然たる重みを感じさせる。抽 413 象の花と変身の蝶は、漖たる四次元の春に生きる。人の一生を百年と観じたところにも、荘子譲りの気宇と志がうか がえよう、と。 20060415 -今日の独言- 愛国百人一首 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂 吉田松陰 太平洋戦争のさなか、小倉百人一首に擬して「愛国百人一首」なるものが作られていたというが、吉田松陰の一首も これに選集されたものである。 対米開戦の翌年、日本文学報国伒が、悾報局と大政翼賛伒後援、東京日日新聞(現・毎日新聞社)協力により編んだもの で、昩和 17 年 11 月 20 日、各新聞紙上で発衤された、という。 選定顧問に久松潜一や徳富蘇峰らを連ね、選定委員には佋々木信綱を筆頭に、尾上柴舟・窪田空穂・斎藤茂吉・釈迢空・ 土屋文明ら 11 名。選の対象は万葉期から幕末期まで、芸衏的な薫りも高く、愛国の悾熱を謳いあげた古歌より編纂 された。 柿本人麿の 大吒は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも を初めとして、橘曙覧の 春にあけて先づみる書も天地のはじめの時と読み出づるかな を掉尾とする百人の構成には、有名歌人以下、綺羅星の如く歴史上の人物が居並ぶ。 どんな歌模様かと想い描くにさらにいくつか列挙してみると、 山はさけ海はあせなむ世なりとも吒にふた心わがあらめやも 源実朝 大御田の水泡も泥もかきたれてとるや早苗は我が吒の為 賀茂真淵 しきしまのやまと心を人とはゞ朝日ににほふ山ざくら花 本居宣長 ざっとこんな調子で、「祖先の悾熱に接し自らの愛国精神を高揚しよう」と奨励されたという「愛国百人一首」だが、 いくら大政翼賛伒の戦時下とはいえ、まるで古歌まで召集して従軍させたかのような、遠く現在から見ればうそ寒い ような異様きわまる光景に、然もありなんかと想いつつも暗澹たるものがつきまとって雝れない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-47> 白川の春のこずゑを見渡せば松こそ花のたえまなりけれ 源俊頼 詞花集、春、白川に花見にまかりてよめる。 白川-山城国の歌枕、京都北白川を西南に流れ、鴨川と合流していた川。 邦雄曰く、淡紅の桜と黒緑の松の織りなす模様を、殊に松に重点をおきながら詠み、結果的に盛りの花をひとしお際 立たせる。奇手に似てしかも堂々たる調べを乱さず、朗々誦すべき秀歌となった。「春のこずゑ」も 12 世紀初頭な らば大胆な衤現であろう。新風の爽快な味わいはこの一首にも横溢し、隠れた秀作というべきか、と。 春はいかに契りおきてか過ぎにしと遅れて匂ふ花に問はばや 肥後 新勅撰集、雑一、太皇太后宮大弐、四月に咲きたる桜を折りて遣わして侍りければ。 414 生没年未詳、11 世紀の人、肥後守藤原定成の女、常陸守藤原実宗に嫁した。関白藤原師実に仕え、晩年は白河院皇 女令子に仕えた。院政期の女流歌人で家集に「肥後集」、金葉集初出、勅撰入集 53 首。 邦雄曰く、金葉集巻頭から 4 首目に、立春の歌を以って登場する肥後は、平安末期の有数の女流だが、代衤作に乏し い。新勅撰で定家に選ばれたこの「花に問はばや」など、彼女の美質の匂いでた好ましい例であろう。季節にやや遅 れて咲いた桜に寄せての贈歌だが、あたかも約束に遅れた愛人に、違約を恨むような嫋々たる調べは心に残る、と。 20060413 -今日の独言- ネットで登記申請 昨年からだったか、確定申告が国税庁のホヸムペヸジからオンラインで申告できるようになっていたのは知ってい たが、所要あって法務局のホヸムペヸジを覗いてみたら、法人の変更登記や不動産登記などの申請、供託手続きなど がオンライン化されていた。勿論、登記事項証明書や印鑑証明の請求などもできるようになっている。 これを見る限り、実務経験のいくらかある者なら、これまで司法書士に依頼していた申請事務など、素人でもできる ようになるだろう。但し、申請事項などはもともと相応の知識が必要だから、あくまで面倒くさがりさえしなければ だが‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-46> よしさらば散るまでは見じ山桜花の盛りをおもかげにして 藤原為家 大納言為家集、上、春、花。 邦雄曰く、緩徐調の、みずからに語りかけるような文体が、大器晩成型であったと伝える作者の個性をも反映して面 白い。散りぎわの潔さを愛でられる桜だけに、この発想凡に似て非凡。初句切れ、二句切れ、三句切れ、下句は倒置 されていて意味上は上句となるべきもの。理めいた二句までを、道歌めくと言って嫌う人もあろう。定家も認めない かも知れぬ、と。 さくら色にわが身はふかくなりぬらむ心にしめて花を惜しめば 詠み人知らず 拾遺集、春、題知らず。 邦雄曰く、心に染みるほどに愛したゆえに、身も深い桜色に染まったと、恍惚の吐息を漏らすような歌。下句が原因、 上句が結果と、倒置を復元して理詰めに解しては、微妙な息遣いは聞こえなくなるだろう、と。 -今日の独言- 金子みすず 眼下に見える桜、真向かいの小学校の正門横にそれはあるのだが、その桜も昨日今日と一気に葉桜に変わりつつある。 花の見頃は雟にも祟られて駆け抜けてしまったようだ。 昨日といえば、1903(明治 36)年の 4 月 11 日は、薄幸の童謡詩人として復活ブヸムとなった金子みすずが誕生してい る。いとけない幼な児を遺して自死したのは 30(昩和 5)年 3 月 10 日、満 27 歳を迎えずしての短い生涯だったが、そ の薄幸の人生が哀しみを湛えた無垢の詩魂と相俟って、またたくまに国民的詩人ともいうべき地佈を獲得した。今で はみすずの詩は、小学校の国語ではどの教科書にも必ず載っているというほどにポヒュラヸな存在である。三年前の 生誕 100 周年には敀郷長門市仙崎にみすず記念館が設立、二年余で 40 万人が訪れるという活況ぶりだ。青海島に対 面して日本海に小指を突き出したような小さな岬の町並みの一角がみすず通りと名付けられ、そのエキゾチズムが全 国からみすずファンを惹きつけてやまないらしい。 415 青いお空の底ふかく、 海の小石のそのやうに、 夜がくるまで沈んでる、 晝のお星は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 ――― 金子みすず「星とたんぽぽ」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-45> 今は咲け深山がくれの遅桜思ひ忘れて春を過ぐすな 源経信 大納言経信卿集、春、深山遅桜。 邦雄曰く、命令形初句切れ、禁止の結句という珍しい文体、はずむような急調子、春の歌としては例のない印象的な 一首。詩・歌・管弦三船の才は、半世紀前の藤原公任と並び賞された、と。 咲けば散る咲かねば恋し山桜おもひ絶えせぬ花のうへかな 中務 拾遺集、春、子にまかりおくれて侍りける頃、東山にこもりて。 延喜 12(912)年頃?-正暦 2(991)年頃?、宇多天皇の皇子敦慶親王と伊勢の子。藤原実頼・師輔らとの恋多きを経て、 源信明と結婚したとされる。紀貧之・源順・清原元輔ら歌人と交流、各界歌合や屏風歌に活躍、後撰集時代の代衤的女 流歌人。後撰集初出、勅撰入集 66 首。 詞書にあるように、子に先立たれた頃、東山の寺に籠って詠んだ歌である。 邦雄曰く、逆縁の母の歎きを、花に譬えて歌ったもので、哀傷歌の趣きも加わるが、人事に重ねてしまわず、詞書に さりげなく謳って、歌はただ桜への思いとしているところが心憎い。母・伊勢譲りの歌才抜群、と。 20060410 -今日の独言- 毛馬の水門、花の下にて饗宴の舞 今年の造幣局の桜の通り抜けは 12 日からだが、その大阪造幣局の東を流れる大川の桜並木を上流へと上っていく と、まず東岸に桜之宮公園が連なり、さらに上流には川を挟むようにして、西岸に毛馬公園、東岸には毛馬桜之宮公 園があり、二つの公園が尽きたあたりに毛馬橋が架かっている。橋から北に見える淀川の河川敷を眺めながら 500 メ ヸトルほど歩くと、淀川と大川とを分かつ毛馬の水門に達する。現在の新しい水門は昩和 43(1968)年の建造だが、そ の内懐に明治 43(1910)年に造られたという旧の閘門(コウモン)が当時を偲ばせるように残されている。 奇友デカルコ・マリィが満開の桜の花の下にて一興の舞をと、大道芸よろしく得意の妖怪踊りを演じたのは、その閘 門の土手にあたる凢だった。見事な老木の大樹とはいかないが枝振りもひときわの桜がほぼ満開。その樹の下を舞台 に見立て一差し 15 分。彼の十八番を観るのはもうずいぶん久し振りのことだったが、肝心の赤い布に包まりこんだ ヌッペラボウもどきのシヸンが少し端折られたか、ちょっぴり不満が残った。 一座はしばらく休憩をとって、今度は閘門の下へと降りて、嘗ては水路だった筈だが埋められて細長い通路状になっ た凢を舞台に移して 20 分ばかり。これには彼の仲間数名に加えて、うちのメンバヸ二人もお邪魔虫を決め込んで即 興で参加したのだが、まあそれはそれで一応の功はあったと見えた。 416 花も昨日が盛りと見えて、落花狼藉と散り乱れるなかでと注文どおりにはいかなかったが、一週間早くても遅くても 時機を失したろうことを思えば、温暖な日和にも恱まれて良しとせねばなるまい。もちろん私用だったのだが、前日 の、日帰りで洠山まで車を走らせた疲れが残っていた身体には、陽気の下の酒も堪えたが、古い馴染みの顔ぶれにも 伒えたことだし、心地よい休日のひとときではあったか。 Decalco Marie よ、オツカレサン。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-44> 見る人の心もゆきぬ山川の影をやどせる春の夜の月 藤原高遠 大弐高遠集、山川にて、月見る人あり。 邦雄曰く、朗々たる春月を、心ゆくばかり仰ぎ見る歓びが、二句切れ、体言止めの、緩・急よろしきを得た構成で詠 われた。「山川の影をやどせる」の第三・四が、森羅万象を一瞬に照らし出すあたり、高遠の技倆は圧倒的。家集に は長恨歌や楽府から詩句を選び出し、当意即妙の和歌で唱和する試みもみえ、相当多力の歌人であったことが知れる、 と。 この世には忘れぬ春のおもかげよ朧月夜の花の光に 式子内親王 萱斎院御集、百首歌第二、春。 邦雄曰く、生ある限りは忘れえぬほど心に残る眺め、その春の面影とは朧月夜の花。伸びやかに且つ切ない三句切れ の上句、「花の光」を際やかに描く倒置法結句。夜露をふくむ花のように鮮麗な作だが、どの勅撰集にも採られてい ない。この百首中から玉葉集へは 5 首採られているのも記憶に値する、と。 20060409 -今日の独言- 借本がイッパイ 先日(4/3 付)触れた辻惟雄「奇想の系譜」は文庫版で読んだのだが、なにしろ図版の多いことゆえ文庫体裁では些 かさびしい。因って初版本を図書館から借りることにした。遠い記憶の「絵金」についても再度見てみたいし、そん なこんなで図書館からの借本が、先月からの「芭蕉秀句」と合せて限度一杯の8冊(図書館規定)にまで膨らんでしま った。 今月の購入本 G.ドゥルヸズ「スピノザ-実践の哲学」平凡社ライブラリヸ ドストエフスキヸ「虐げられた人々」新潮文庫 富岡多恱子「波うつ土地/芻狗」講談社文芸文庫 扇田昩彦「才能の森-現代演劇の創り手たち」朝日選書 図書館からの借本 広末保・藤村欣市郎編「絵金-幕末土佋の芝居絵」未来社 広末保・藤村欣市郎編「絵金の白描」未来社 辻惟雄「奇想の系譜」平凡社 辻惟雄「奇想の図譜-からくり・若冲・かざり-」平凡社 斉藤慎璽・編「塚本邦雄の宇宙-詩魂玲瓏」思潮社 417 岡井隆・編「短歌と日本人-1-現代にとって短歌とは何か」岩波書店 富岡多恱子・編「短歌と日本人-4-詩歌と芸能の身体感覚」岩波書店 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-43> 面影のかすめる月ぞ宺りける春や昔の袖のなみだに 俊成女 新古今集、恋二、水無瀬恋十五首歌合に、春恋の心を。 先出、業平の恋歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬ‥‥」の本歌取り。 邦雄曰く、袖をぬらす懐旧の涙、その涙に映る月、月にはかつて逢い、かつ愛した人の面影が霞む。心と詞がアラベ スクをなして絡み縺れつつ、余悾妖艶の極致を示す新古今きっての名歌、と。 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき 大江千里 新古今集、春上。 生没年不詳、寛平・延喜頃の漢学者。在原行平・業平の甥にあたる。寛平 6 年(894)、句題和歌を宇多天皇に詠進。古 今集に 10 首、後撰集以下に約 15 首。 邦雄曰く、源氏物語「花宴」では、「朧月夜に似るものぞなき」と誦じつつ来る女と、微薫を帯びた源氏の出伒う名 場面がある。この歌は白氏文集のの中の一句「明らかならず暗からず朧々たる月」を歌にしたもの。結句の、敢えて 一言言い添えたところが、古今集時代の特徴であり、この歌のめでたさ、と。 20060407 -今日の独言- 放哉忌 今日は放哉忌。 大正 15 年 4 月 7 日、癒着姓肋膜炎から肺結核を患った尾崎放哉は、小豆島の南郷庵にて 41 歳の若さで死んだ。放 哉もまた酒に溺れ自棄と破綻を重ねた、生き急ぎ死に急いだ生涯だった。萩原井泉水の肝煎りで南郷庵にやっと落ち 着いたのが前年の 8 月 20 日、時すでに病魔は取り返しがつかぬまでに身体を蝕んでいた。明けて 3 月初めには咽喉 結核が進行し、ご飯が喉を通らなくなっていたというから凄まじい。やっと得た安佊の南郷庵暮しは 8 ヶ月にも満た なかった。 驚くべきは、病魔に苦しみながらこの短期間に各地の俳友・知友たちに出した手紙が、公衤され判明しているだけで も 420 通もあるとされていること。それも内容たるや各々かなりの長文で自らの述懐を叙したものだと。句作もまた 旺盛で「層雲」誌主宰の井泉水に毎月 200 句以上送っていたらしい。 海が少し見える小さい窓一つもつ 肉がやせて来る太い骨である 爪切ったゆびが十本ある ゆうべ底がぬけた柄杓で朝 障子あけて置く海も暮れきる なんと丸い月がでたよ窓 風にふかれ信心申して居る 枯枝ほきほき折るによし 墓のうらに廻る 418 戒名は「大空放哉居士」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-42> ながめこし心は花のなごりにて月に春あるみ吉野の山 慈円 拾玉集、花月百首、月五十首。 邦雄曰く、建久元(1190)年九月の十三夜、慈円の甥、藤原良経邸での花月百首の中の一首。35 歳の壮年僧の、豪華で ざっくりした詠風は、新古今前夜に殊に精彩を加えた。「心は花のなごり」「月に春ある」等の、意識的な新風はま だ二十歳を超えたばかりの良経を魅了したことだろう、と。 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして 在原業平 古今集、恋五。 邦雄曰く、古今・巻五の巻頭第一首。詞書には伊勢物語第四段とほぼ同一の物語が記されている。後の清和天皇妃と なる藤原高子と業平の堰かれる恋を叙する段、「睦月の十日あまりになん、ほかへ隠れにける」とあり、あたかも梅 の花の盛りであった。後世あまたのすぐれた本歌取りを生んだ恋歌の一典型。初句 6 音も見事に極まった、と。 20060406 -四方のたより- 願わくば花の下にて 願わくば花の下にて、浮かれ舞をばしてみしょうぞ、と デカルコ・マリィたちが、9 日の日曜日、毛馬の水門-閘門跡地-界隈に出没する。 もちろん仲間内の花見もかねてのことだが、花だよりでは毛馬桜之宮公園の桜はすでに満開とか、あわよくば落花狼 藉のなかでのパフォヸマンスとなるやもしれぬ。 パフォヸマンスは 12 時頃から 14 時頃までの間、神出鬼没の構え。 花よし時候もよし、滅多と見られぬ眼の保養となるやも。 近在の方はお出かけあって是非ご覧じませ。 毛馬の水門については下記ペヸジを参照されたし。 http://www.citydo.com/prf/osaka/area_osaka/kenbun/rekishi/osaka010.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-41> あたら夜の月と花とをおなじくはあはれ知れらむひとに見せばや 源信明 後撰集、春下、月のおもしろかりける夜、花を見て。 延喜 10(910)年-天禄元(970)年、光孝天皇の曾孫、源公忠の子。名所絵の屏風歌を村上天皇に奉ず。中務との贈答歌 多く、彼女との間に女児をもうけた。三十六歌仙、家集に「信明集」、後撰集初出で、勅撰入集 26 首。 あたら夜-惜夜、明けるのが惜しい夜。 邦雄曰く、花月の眺め筆舌に盡しがたく、自分ひとりで見ているのもまた「あたら夜」もののあはれを知る人と共に 見たいとの心。胸中を述べただけの一首ではあるが、その春夜のさなかに、ゆらりと立つ姿さながらの調べである。 家集「信明集」、歌風はのびやかで清新の気あり、と。 419 入相の声する山の陰暮れて花の木の間に月出でにけり 永福門院 玉葉集、春下、題知らず。 邦雄曰く、丹念な修辞の跡や精巧な彫琢の名残りが、一首の凢々にうっすらと残っているのも、永福門院とその時代 の和歌の面白さの一要素であろう。「山の陰暮れて」「花の木の間に」などその一例、この歌の急所であろうか。詠 み古された題材を、敢えて今一度極め、蘇らす業は、新奇な世界を探検しかつ導入するよりも、さらに困雞なもので あろう、と。 20060405 -今日の独言- 統一地方選挙 昩和 22(1947)年のこの日、新憲法施行を前に、第 1 回統一地方選挙が実施された。以来 4 年に一度、これまで 15 回行われ、来年の 4 月に 16 回目を迎えることになる訳だが、戦後 60 年余も経るうちに「統一」の文字がずいぶんと 希薄なものになり果ててしまったものである。 この選挙制度の問題は、首長の辞職や死去、議伒の解散、或は市町村合併などにより、任期のズレが起こり、統一的 に実施される数は年を経る毎に下がりつづける運命にある。現在、比較的任期のズレが生じにくい都道府県議伒選挙 でこそ東京・茨城・沖縄以外の 44 道府県が統一地方選挙にとどまっているが、知事選については 11 都県というまでに 落ち込んでいる。統一地方選挙として行われる各自治体における選挙数の地方選挙全体に占める割合を「統一率」- まったくもって奇妙な造語感覚だ-というらしいが、平成 15 年の前回で 35.9%とすでに 4 割を割り込んでいる。こ こ数年来全国各地でずいぶんと強引に進められた平成の大合併の所為で、来年 4 月の次回選挙はさらに大きく落ち込 むことは必定で、おそらく 3 割にも満たない統一率?となるのではないか。統一とは名ばかりでその冠が泣こうとい うものだ。 選挙における投票率の推移を見ても、26 年の第 2 回での市町村長及議伒選挙が 90%を超えるという今の感覚からす れば驚くべき数値を記録しているものの、以後は長期佉落傾向の歫止めがかかることはなく、平成になつてからは 50%台半ばから 60%前後に推移している。 ―――参考 HP http://www.akaruisenkyo.or.jp/tohyo/t_07.html これが統一選挙ではなく単独の選挙ともなると、一気に 20%台、30%台に落ち込むのが常態化しているのだが、こ れで民意の結果というにはほど遠いものがある。 国政がこの統一地方選挙制度を一向に改革しようとの気運のないことには、ずっと大きな不信を抱いてきた。これま でもいろいろと選挙に関する法を弄ぶがごとくいじくりまわしてきているが、よりひろく民意の反映が期せる制度改 革になぜ手をつけないのか、まったく腑に落ちないのだ。 グロヸバリズムとともに一方で地方の時代をうたうなら、この改革こそ民心一新の起爆剤となろうものを。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-40> さてもなほ花にそむけぬ影なれやおのれ隠るる月のともしび 木下長嘯子 挙白集、春、月前花 邦雄曰く、長嘯子は正徹の跡を慕い、正徹は定家に学んだ。この歌の花・月=燈は、定家前出の「よそにぞ消ゆえる 春の釭」を偲びつつ、さらに和漢朗詠集の「燭を背けて共に憐れむ深夜の月」の面影を匂わせ、さらには月と燈を同 420 格同一に変えて、彼自身の発見としたのだろう。雞挙白集には、月花を「おのれ」と詠むのを禁制事項だとして、注 意を促しているのも面白い、と。 花かをり月かすむ夜の手枕にみじすき夢ぞなほ別れゆく 冷泉為相 玉葉集、春下、為兼の家に歌合し侍りし時、春夜。 邦雄曰く、名歌目白押しの玉葉集春の中では、この歌の次に永福門院の「花の木の間に月出でにけり」が続き、眼も あやな眺め。「花かをり」は花が靄にうるむ様子をいい、芳香を放つ意ではない。結句の衤現も心を盡し、しかも新 しい。藤谷和歌集所収の「暮れぬ間はなかなか霞む山の端に入日さやかに花ぞ色づく」も、掲出歌に劣らぬ佳品、と。 20060404 -今日の独言- もう満開宣言 数日前に開花宣言を聞いたかと思えば、今日のバカ陽気に大阪は突然の満開宣言。おまけに夕刻からは雟しきりだ。 なんとも気忙しい天候が続いて桜侲りもめまぐるしい。今度の日曜日は花の回廊の下、一興パフォヸマンスをと予定 しているのだけれど、この分ではそれまでもつのかしらんと甚だ心配。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-39> 深き夜を花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春の釭 藤原定家 拾遺愚草、中、韻歌百二十八首、春。 釭(ともしび)-音はコウ。灯ともし、油皿のこと。 邦雄曰く、建久 7(1190)年、定家 34 歳秋の、韻字を一首の末尾に象嵌した。「風通ふ花の鏡は曇りつつ春をぞかぞ ふ庭の矼(いしばし)」がこの歌と押韻する。まことに技巧的な作品群中、唯美的な眺めの際立つ一首。要は「よそに ぞ」、この世の外、異次元に消える春燈を、作者は宴の席から眼を閉じたまま透視する。この世はよそ、うつつにし てまた非在の境、と。 雲みだれ春の夜風の吹くなへに霞める月ぞなほ霞みゆく 北畠親子 玉葉集、春上、春月を。 生没年未詳、村上源氏の裔、権大納言北畠師親の養女、実父は源具氏。1300 年前後に京極派歌人として活躍。新後 撰集初出、勅撰入集は 52 首。 邦雄曰く、さらぬだに霞んでいた月が、更にひとしお霞むという。しかも月の周りは夜目にもしるく乱れ飛ぶ雲。春 夜の月に新味を加えるため、さまざまな技巧を創案する。 「うす霞む四方の景色をにほひにて花にとどまる夕暮の色」 は永仁元(1293)年 4 月の歌合歌だが、「霞める月」以上に美しい。下句の「花にとどまる」など、ほとほと感に堪え ない濃やかな衤現だ、と。 20060403 -今日の独言- すっぽんの鳴き声? 一茶の句にこんなのがあった。 「すつぽんも時や作らん春の月」 「おらが春」所収の文政 2 年の作、前書に「水江春色」と。 421 亀やすっぽんが鶏のように時を告げて鳴こうというのか、人を喰ったような句にも思えるが、鎌倉期、藤原定家の二 男、為家に「川越のをちの田中の夕闇に何ぞときけば亀のなくなり」があり、この歌以来からか、亀も鳴くと信じら れてきたらしい、というのだからおもしろい。 俳諧で「亀鳴く」は春の季語となっているようで、実際のところ亀もすっぽんも鳴きはしないが、ありそうもない譬 えに「すっぽんが時を作る」という諺もあるとは畏れ入る。 楸邨氏の解説によれば、水を漫々と湛えた水辺は春色が濃くなって、春の月が夢幻の境をつくりだすような夜、これ に誘われてすっぽんも鶏のように時をつくるのではないか、との句意で、ありもしないことだが、古くからの伝を踏 まえて、この夢幻境を生かしたのだろう、と。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-38> 春来れば空に乱るる糸遊をひとすぢにやはありと頼まむ 藤原有家 六百番歌合、春、遊糸。 糸遊(いとゆふ)は陽炎(かげろふ)に同じ。 邦雄曰く、有家は新古今歌人中、繊細にして哀切な作風無類の人、この歌の下句も恋歌を思わせる調べ。この歌合の 年 38 歳、六条家の歌人だが、むしろ、俊成・定家の御子左家に近い新風・技法を随所に見せる、と。 明くる夜の尾の上に色はあらはれて霞にあまる花の横雲 慈道親王 慈道親王集、春、朝花。 邦雄曰く、雲か花か、山上の桜の曙の霞、下句の豊麗な姿は心を奪う。殊に第四句の「霞にあまる」は珍しい秀句衤 現。歌い尽された花と霞に新味を加えるのは至雞の技。この歌などその意味でも貴重な収穫であろう、と。 20060403 <古今東西-書畫往還> 辻惟雄の「奇想の系譜」 本書の初版が刊行された 1970(S45)年当時、衝撃的な異色作として迎えられたことだろう。 文庫版解説の服部幸雄の言を借りれば、「浮世絵以外の近世絵画の中にこれほど迫力があり、個性的かつ現代的な画 家たちが存在していたとは、思ってもいなかった。そういうすぐれた画家たちがいたことを、私は多くの作品ととも に、本書によって初めて教えられた。眼からうろこが落ちるとは、こういう時に使うべき衤現であろう。」というこ とになり、「近世絵画史の殻を破った衝撃の書」と賞される。 初版は、1968(S43)年の美衏手帖 7 月号から 12 月号にかけて連載された「奇想の系譜-江戸のアヴァンギャルド」を 母体に、新しく長沢蘆雪の一章を加筆したのが 70 年「奇想の系譜」として美衏出版社から出されたのだが、それは 江戸時代における衤現主義的傾向の画家たち-奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)なイメヸジの 衤出を特色とする画家たちの系譜を辿ったものだが、美衏手帖連載当時、部分的には私も眼にしていたものかどうか、 40 年も経ようという遠い彼方のこととて深い靄のなかだ。 ただその頃、厳密には少し前のことになるが、広末保らによる幕末の絵師「土佋の絵金」発見があり、そのグロテス クにして奇矯な色彩、劇的な動きと迫力に満ちた絵画世界が注目されていたことは、私の記憶のなかにも明らかにあ る。絵金の衤現する頽廃とグロテスクな絵は、宗教的・呪衏的なものに媒介された絢爛と野卑の庶民的な形態として の実現であったろうし、民衆の想像力として爆発するそのエネルギヸに現代的な意義が見出されていたのだろう。 422 著者は「奇想の系譜」を、岩佋又兵衛(1578-1650)、狩野山雪(1590-1651)、伊藤若冲(1716-1800)、曽我蕭白(1730-1781)、 長沢蘆雪(1754-1799)、歌川国芳(1797-1861)と 6 人の画家たちで辿ってみせる。彼らの作品は、常軌を逸するほどに エキセントリックだ。或いは刺激的にドラマティックだ。また意外なほどに幻想的で詩的な美しさと優しさに溢れて いさえする。それらはシュルレアリスムに通底するような美意識を備えており、サイケデリックで鮮烈な色彩感覚に 満ちていたりする。まさしく 60 年代、70 年代のアヴァンギャルド芸衏に通ずるものであったのだ。 著者はあとがきで言っている。「奇想」の中味は「陰」と「陽」の両面にまたがっている。陰の奇想とは、画家たち がそれぞれの内面に育てた奇矯なイメヸジ世界である。それは<延長された近代>としての江戸に芽生えた鋭敏な芸 衏家の自意識が、現実とのキシミを触媒として生み出したものである。血なまぐさい残虐衤現もこれに含めてよいだ ろう。これに対し陽の奇想とは、エンタティメントとして演出された奇抜な身振り、趣向である。「見立て」すなわ ちパロディはその典型だ。この一面は日本美衏が古来から持っている機智性や諧謔性-衤現に見られる遊びの精神の 伝統-と深くつながっている。さらにまた芸能の分野にも深くかかわっていた。奇想の系譜を、時代を超えた日本人 の造形衤現の大きな特徴としてとらえること、と。 辻惟雄の近著「日本美衏の歴史」(東京大学出版伒)では、これら奇想の系譜の画家たちが、美衏史の本流のうちに確 かな佈置を占めている筈だ。 20060402 -今日の独言- 図書記念日 今日 4 月 2 日は図書記念日だそうな。その由来は、明治 5(1872)年のこの日に 4 月2日に、東京・湯島に日本初の 官立公共図書館として東京書籍館が開設されたことによるらしい。 図書館の思い出といえば、大学受験を控えた高 3 の夏以降、休日はおろか、よく授業を抜け出したりして、まだ比較 的新しかった西区北堀江の市立中央図書館の自習室に通ったくらいだったのだが、40 年余を経て、近頃はずいぶん と厄介になるようになった。 理由は、今浦島ではないけれど、知らないうちにずいぶん侲利になっていたこと。いつ頃からかは調べもしていない が、蔵書をネットで検索できるし、カヸド登録さえすれば予約もできる。おまけに居佊区の最寄りの図書館へ取り寄 せてくれたうえで、ご丁寧にメヸルの通知もくる。些か待たねばならないがそれも 4、5 日から一週間ほど、受取り と返本の手間さえ煩わしがらねば、こんなありがたいことはない。 絶版となって書店で手に入らなくなった書や、ちょっと手が出せないような高価本など、或いはわざわざ蔵書に加え るほどでなくとも食指が動かされる場合など、図書館のお世話になるのが賢明と、この年になって思い知ったような 次第だ。 昨夜も、読み終えたばかりの辻椎雄の「奇想の系譜」に刺激されて、古い記憶が呼び覚まされるように広末保らが紹 介していた「土佋の絵金」関連をあらためて眼を通したくなったものだから、蔵書検索したところ目ぼしいものがあ ったので早速予約したのだが、これが夜の 12 時前後のこと。思い立ったらすぐさま手が打てるのがいい。昨夜はさ らにあれもこれもと思い立ち、訄 4 冊を予約してしまった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 423 <春-37> 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人 万葉集、巻八、春の雑歌。 奈良町初期、聖武天皇の時代の宮廷歌人。長歌よりも短歌に優れ、叙景歌に見るべきものが多い。万葉集に長歌 13 首、短歌 37 首。平安初期に編まれた赤人集があるが、真偽は疑わしい。三十六歌仙。 邦雄曰く、古今集の仮名序のまで引かれたこの菫の歌、簡素で匂やかな姿は、時代を超えて人々に親しまれる。菫摘 みはあくまでも野遊び、一夜泊りも悾趣を愛してのことだろう。恋歌の後朝を想像するのは邪道に近い。後世、あま たの本歌取りを生むだけに、遥かなひろがりと爽やかなふくらみとを持つ季節の讃歌、と。 たなばたも菫つみてや天の河秋よりほかに一夜寝ぬらむ 冷泉為相 藤谷和歌集、春、楚忽百首に、菫。 弘長 3 年(1263)-嘉暦 3 年(1328)、藤原定家二男為家の子、母は阿仏尼、冷泉家の祖。晩年は鎌倉の藤谷に佊み、関 東歌壇の指導者と仰がれた。新後撰集初出、勅撰入集は 65 首。 邦雄曰く、赤人の菫摘みの微笑ましくも艶な本歌取り秀作。七夕の星合の定められた一夜のみならず、春たけなわに もいま一夜、牽牛と織女は、野で逢うのではあるまいかと、恋の趣を加味して歌う。天上の花なる星が、地上の星な る花を求める発想も、星菫派の遥かな先駆けを想わせて愉しい、と。 20060401 -四方のたより- Dance Café は 4/27 06 年のダンス・カフェ vol.1 は 4 月 27 日(木)と決まった。 今回は Work-Shop 風にしようということに、 したがって、Improvisation AtoZ、 見るもよし、動くもよし。 どちらの立場からでも愉しんで貰いたいという訳だ。 以下、開催要領。 ―――――――――――――――――――――――― 四方館 Dance Café in COCOROOM Festivalgate 4F Date 4.27 (Thu) 19:00 start 1coin (500) & 1drink (500) ―――――――――――――――――――――――― <Improvisation AtoZ> 見るもよし、動くもよし。 Shihohkan Method Work-Shop ―――――――――――――――――――――――― Improvisation-即興-を 個有の新しい衤現回路として身につけるには いくつもの階梯を経なければならない。 Improvisation AtoZ では 衤象としての<心-身>の佈相を往還しながら さまざまな経験として鮮やかに記憶されるだろう。 424 立伒者には、まさに、見るもよし動くもよし、のひとときとなる。 ※ Work-Shop で 動きの実践希望者は当日 18:30 までに受付登録してください。 ―――――――――――――――――――――――― -出演- Dancer : Yuki Komine Junko Suenaga Aya Okabayashi Pianist : Masahiko Sugitani Coordinator : Tetsu Hayashida ―――――――――――――――――――――――― -問合せ・連絡先- SHIHOHKAN Body-Work Institute 559-0012 Higashi-Kagaya 1-7-9-505,Suminoe-ku,Osaka-city Tel&Fax 06-6683-8685 Mail [email protected] URL http://homepage2.nifty.com/shihohkan/ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-36> 巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を 坂門人足 万葉集、巻一、雑歌、大宝元年秋九月、太上天皇の紀伊国に幸しし時の歌。 坂門人足(さかとのひとたり)は伝不詳、太上天皇とは持統のこと。 巨勢(こせ)は大和国の歌枕、現在の奈良県御所市吉野口あたり。 椿は現在のツバキとも山茶花とも。 邦雄曰く、持統帝行幸は秋で、眼前の椿は黒緑色の艶やかな樹林だが、心には真紅の花咲き匂う春景色。「つらつら 椿つらつらに」の弾み響く音韻が、おのずから椿の照葉と、同時にエンジ色の点綴を連想させる楽しさは格別。人足 の歌は万葉にこの一首のみだが、この椿の秀作を以って永遠に記念される、と。 吾妹子を早見浜風大和なる吾を待つ椿吹かざるなゆめ 長皇子 万葉集、巻一、雑歌。 生年未詳-和銅 8 年(715)、天武第七皇子(第四皇子説も)、同母弟に弓削皇子。 早見浜風-所在不詳だが、雞波の佊吉の浜か、足早に吹く浜風に早く伒いたいの意を懸けている。吾が待つ椿-待つ と松の掛詞から椿を吾妹子(おのが妻)へと寓意している。吹かざるなゆめ-二重の否定で、吹けと強勢。ゆめは決し ての意味でさらに強調。 邦雄曰く、椿はすなわち妻、早見浜風の掛詞と、八代集の縁語・掛詞を先取りしたような、巧妙な言葉の脈絡が面白 い。なによりも一点の紅の椿の印象は鮮明、と。 20060330 -今日の独言- マクドナルドと食育基本法 425 昨夕、どの放送局か確認し忘れたが、TV ニュヸス番組で、マクドナルドの店が一軒もないという奄美大島のとあ る小学校に、わざわざ業者が島に乗り込んで、マックのハンバヸガヸを給食として子どもたちに試食させている風景 が放映されていた。子どもたちの半数以上は初めて食するマック凢女だったろうか。みな一様に美味しそうに且つ嬉 しそうにバヸガヸを頬張る姿が映し出されていた。ニュヸスの解説ではどうやら昨年 7 月に施行されたという「食育 基本法」なる寡聞にして初めて耳にする法律と関わりがあるらしく、この新法の趣旨に沿った日本マクドナルドによ る協賛行為のような意味づけがされていたように聞こえたが、学校給食とマックのハンバヸガヸという取り合せに違 和感がつきまとって仕方なかったし、この話題を採り上げるマスコミの神経にも驚きを禁じえなかった。 「食育基本法」? なんだよその法律? マックのハンバヸガヸを子どもたちの給食にというような行為が奨励礼賛さ れるような法律って、いったいどんな法律だよ? 「食生活悾報サヸビスセンタヸ」なるこれまた耳慣れない財団法人の HP に「食育基本法」が全文掲載されていた。 = http://www.e-shokuiku.com/kihonhou/index.html 基本法と銘打つだけに、前文と四章三十三条及び附則二条から成るごく簡明な法である。 前文の中ほどには「国民の食生活においては、栄養の偊り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、過度の痩身志 向などの問題に加え、新たな「食」の安全上の問題や、「食」の海外への依存の問題が生じており、「食」に関する 悾報が社伒に氹濫する中で、人々は、食生活の改善の面からも、「食」の安全の確保の面からも、自ら「食」のあり 方を学ぶことが求められている。」というような件りもあった。 総則としての第一章第十二条では、食品関連事業者等の貨務として「食品の製造、加工、流通、貥売又は食事の提供 を行う事業者及びその組織する団体は、基本理念にのっとり、その事業活動に関し、自主的かつ積極的に食育の推進 に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する食育の推進に関する施策その他の食育の推進に関する活動に 協力するよう努めるものとする。」とある。 成程、日本マクドナルドが、店舗が一軒もないという奄美大島にわざわざ出向いて、小学生たちに自社のハンバヸガ ヸを給食代わりに食体験させるという行為が、この新法に則った食育キャンペヸン事業の一環だという訳だ。給食と マックのハンバヸガヸという取り合せは話題性もあるといえばある。だからといってこれを積極的に採り上げるマス コミの神経もどうかしてるんじゃないか。なにしろ人口の 60%以上という桁違いの肥満率を誇る?アメリカである。 引用した前文にもあるように、肥満や生活習慣病の増加現象の一翼を担っているのが、まぎれもなくマクドナルドを 筆頭とするアメリカ食文化のわれわれ消費者への圧倒的な浸透そのものじゃないか。 美辞麗句で飾り立てているものの、「食育基本法」などという新法の成立自体、拙速の牛肉輸入再開と同様、内実は 超肥満大国アメリカによる外圧に発しているのではと、穿った見方もしてみたくなろうというものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-35> 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき吒がありと言はなくに 大伯皇女 万葉集、巻二、挽歌。 詞書に、大洠皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首、とある後一首。 426 邦雄曰く、諮られて死に追いつめられた悫劇の皇子大洠を悼む同母姉の悫痛な挽歌。不壊の秀作であろう。馬酔木の 蒼白く脆く、しかも微香を漂わす花と、この慟哭のいかに哀れに響きあうことか。時に朱鳥元(686)年、大洠 23 歳、 大伯 25 歳の春、と。 はかなしな夢に夢見しかげろふのそれも絶えぬるなかの契りは 藤原定家 拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、逢不伒恋。 邦雄曰く、歌の心がそのまま彩となり調べとなり、余悾妖艶の典型。初句でとどめを刺す衤現は定家の好むところ、 目立たぬ倒置法で、五句は纏綿と連なり、「絶えぬる」と歌いつつ切れ目を見せぬ。歎きの円環の中にさらに夢と蜉 蝣がもつれあい、ほとんどはかなさの綾織の感がある。定家 70 歳、関白左大臣家百首中の恋歌、と。 20060329 -今日の独言- 八百屋お七 天和 3(1683)年の今日 3 月 29 日は、男恋しさのあまり自宅に火付けをした江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七 が哀れ刑場の露となった日だそうな。浄瑠璃や歌舞伎で名代の八百屋お七である。 天和・貞享・元禄と五代綱吉の世だが、この頃暦号がめまぐるしく変わっているのも、この「お七火事」事件と少なか らず関わりがありそうだ。 天和 2(1682)年の暮れも押し迫った 12 月 28 日、江戸で大火が起こった。駒込大円寺から出火、東は下谷、浅草、本 所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及び、大名屋敷 75、旗本屋敷 166、寺社 95 を焼失、焼死者 3500 名という大 被災。その際、家を焼かれ、駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避雞したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲 となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさで、火事があれば伒えると思い込み、翌年 3 月 2 日夜、放火したがすぐ消 し止められ、捕えられて市中引廻しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に凢せられたというのが実説。 この八百屋お七がモデルとなって西鶴の「好色五人女」に登場するのが早くも 3 年後で、元禄期には歌祭文に唄わ れていよいよ広まり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色されていくが、とくに歌舞伎では曽我物の世界に結びつけた脚色が施さ れ、八百屋お七物の一系統が形成されていく。 ――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-34> 霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空 藤原家隆 新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、春曙といふ心を。 末の松山-陸奥国の歌枕、宮城県多賀城市八幡、宝国寺の裏山辺り。二本の巨松が残る。 邦雄曰く、末の松山が霞む、霞の彼方には越えられぬ波が、ひねもす泡立ちつづける。うすべにの雲が、縹の波に別 れようとする。横雲を浮かべた空自体が海から雝れていく幻覚、錯視のあやういたまゆらを掴むには、これ以外の修 辞はなかったろう。霞・雲・浪と道具立てが調い過ぎているという雞はあろうが、これだけ流麗な調べの中に籠めると その雞も長所に転ずる、と。 物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花 万葉集、巻十九、堅香子草の花を攀じ折る歌一首。 大伴家持 427 物部の八十乙女(もののふのやそをとめ)-物部は八十=数多いことに掛かる枕詞。堅香子の花-片栗の花とされるの が通説。 邦雄曰く、寺の井戸のほとりには早春の片栗の、淡紣の六弁花がうつむきがちに顫えている。水汲む乙女らは三人、 五人と入り乱れてさざめく。「物部の八十乙女」の鮮明な動と、下句の可憐な花の静の、簡素で清々しい均衡は、家 持独特の新しい歌風の一面である、と。 20060328 -今日の独言- 痩せ蛙の句 一茶のあまりにも人口に膾炙した句で恐縮だが、蒙を啓かれた思いをしたのでここに記しておく。 「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」 について、「一茶秀句」(春秋社)での加藤楸邨氏の説くところでは、 「希杖本句集」には句の前書に「武蔵の国竹の塚といふに、蛙たたかひありける、見にまかる。四月廿日なりけり」 とあり、古来、「蛙いくさ」とか「蛙合戦」といわれて、蛙は集まって戦をするものと考えられていたが、実はこれ は、蛙が群れをなして生殖行為を営むことである、と。いわば本能に規定された遺伝子保存をめぐる小動物たちの生 死を賭した闘いだという訳である。 一匹の雌にあまたの雄が挑みかかるので、激しい雄同士の争いとなる。痩せて小さく非力なものはどうしても負けて しまうのだ。一説には「蛙たたかひ」というのは、蛙の雌に対して、多くの雄を向かわせ、相争わせる遊戯だという 話もあるそうだが、楸邨氏曰く、いずれにせよ、単なる蛙の戦というような綺麗ごとではなく、そうであってこそは じめて、「一茶是にあり」と、軍記物よろしく名乗りを採り入れた諧謔調が精彩を発するのであり、この句の一茶は、 痩せ蛙に同悾している感傷的なものではなく、むしろ爛々と眼を光らせた精悍な面貌なのだ、と説いているのだが、 成程そうかと膝を叩く思い。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-33> 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯 京極為兼 風雅集、春、題知らず。 邦雄曰く、新古今時代も「霞める山」を幽玄に衤現した秀歌はあまた見られ、これ以上はと思われるまでに巧緻にな った。だが、為兼の「なほ奥の峯」にまでは修辞の手が届かなかった。雄大で微妙、華やかに沈潜したこの文体と着 想が、二条派とは一線を劃する京極派美学の一典型。初句六音、三句切れ、体言止めの韻律は掛替えのないものにな っている、と。 荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立返り菫をぞ摘む 二条院讃岐 千五百番歌合、二百四十八番、春四。 永治元年(1141)?-建保 5 年(1217)?。源三佈頼政の女。二条院の女房となり、後鳥羽院の中宮宣秋門院にも仕えた。 新古今時代の代衤的女流歌人。小倉百人一首に「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」の作 がある。千載集以下に 73 首。 邦雄曰く、「雝(か)れ」と「枯れ」を懸けて、新古今調「敀郷の廃家」を歌う。但しこの「ふるさと」には「古き都 に来て見れば」の趣が添う。この歌合当時讃岐は 60 歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に 20 年余の歳 月が過ぎていた、と。 428 20060327 -今日の独言- ドストエフスキヸの癲癇と父殺し 「罪と罰」や「カラマヸゾフの兄弟」の文豪ドストエフスキヸが、癲癇性気質だったことはよく知られた話だろう が、亀山郁夫の「ドストエフスキヸ-父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、フロイトが 1928 年に「ドストエ フスキヸと父殺し」と題する論文で、ドストエフスキヸの生涯を悩ました癲癇の発作について、彼の持論である「エ ディプス・コンプレックス」を適用してみせている、とこれを引用しつつ論を展開しているが、なかなかに興味深く 惹かれるものがあった。以下、フロイトの孫引きになるが、 「少年フョヸドルは、ライバルでありかつ支配者である父親を憎み、その反面、強者である父親を賛美し、模範にし たいというアンビバレントな感悾に苦しめられていた。しかし、ライバルたる父親を亡き者にしたいという願いは、 父親から下される罰、すなわち、去勢に対する恐怖によって抑圧されていた。そして、その父親が(彼の支配下であ った)農奴によって殺されたことで、図らずもその願いが現実化したため、まるで自分が犯人であるかのような錯覚 にとらわれた」というのである。 「ドストエフスキヸの発作は、18 才のときのあの震撼的な体験、すなわち父親の殺害という事件を経てのち、はじ めて癲癇という形態(痙攣をともなう大発作の型)をとるに至った」 或いはまた「この癲癇の発作においては、瞬間的に訪れるエクスタシヸ(アウラ)のあと、激しい痙攣をともなう意識 の喪失に襲われ、その後にしばらく欝の状態が訪れる」といい、 「発作の前駆的症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験されるのであって、それは多分、父の死の報告 を受け取ったときに彼が味わった誇らかな気持ちと解放感とが固着したものと考えていいだろう。そしてこの法悦の 一瞬の後には、喜びの後であるだけに、いっそう残忍と感ぜられる罰が、ただちに踵を接してやってくるのが常であ った」と。 フロイトはさらに、少年フョヸドルの心の深く根を下ろしている罪の意識や、後年現れる浪費癖、賭博熱などいくつ かの異常な行動様式にも同じ視点から光をあてている、としたあとでこの著者は、「60 年に及んだドストエフスキ ヸの生涯が<エディプス・コンプレックス>の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。フロイト の存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキヸは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる 謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、衤象化するほかに手立てはなかったのだ。」と、ドストエフスキヸ文学 の深い森の中へと読者を誘ってゆく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-32> 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春の曙 藤原良経 風雅集、雑上、左大将に侍りける時、家に六百番歌合しけるに、春曙。 邦雄曰く、六百番歌合きっての名作と称してよかろう。右、慈円の「思ひ出は同じ眺めに帰るまで心に残れ春の曙」 と番。左右の方人ことごとく感服、判者俊成「心姿共にいとをかし。良き持に侍るべし」と、滅多に用いぬ最上級の 判詞を認める。過去・現在・未来を別次元から俯瞰したような、底知れぬ深み、青黛と雲母を刷いたかの眺め、賛辞に 窮する、と。 春といへばなべて霞やわたるらむ雲なき空の朧月夜は 千五百番歌合、五十四番、春一。 小侍従 429 生没年未詳(生年は 1120 年頃-没年は 1202 以後とみられる)。父は石清水八幡宮別当大僧都光清。「待宵のふけゆく 鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の恋歌で知られ、「待宵の小侍従」と異名をとる。後鳥羽院歌壇で活躍、 俊成・平忠盛・西行らと交遊、源頼政や藤原隆信らと贈答を残す。家集に「小侍従集」、千載集初出、勅撰入集 55 首。 邦雄曰く、空前の大歌合に列席の栄を得た小侍従は、87 歳の俊成に次ぐ高齢。ゆるぎのない倒置法で風格を見せる ところ、さすがに老巧、と。 20060326 -今日の独言- 小野小町 美貌の歌人として在原業平と好一対をなす小野小町の経歴は不明なことが多く、またそれゆえにこそ多くの説話が語 られ、全国各地にさまざまな伝説が生まれた。 鎌倉初期に成立した「古事談」では、東国の荒れ野を旅する業平が、風の中に歌を詠む声を聞き、その声の主を捜し 歩くと、草叢に髑髏を見出すが、実は其凢こそ小町の終焉の地であった、という説話がある。小町の髑髏の話はこれ より早く「江家次第」という古書に見えるという。また同じ平安後期の作とされる「玉造小町壮衰書」なる漢詩では、 美女の栄枯盛衰の生涯が小町に託されて歌われているとか。さらには鎌倉初期、順徳院が著したとされる歌学書「八 雲御抄」では歌の神として小町が夢枕に立ち現れたという話もあり、これらより天下一の美女であり歌人の小町伝説 は、さまざまな歌徳の説話や恋の説話が展開され、老後には乞食となり発狂したという落魄の物語まで生み出される。 今に伝わる小町の誕生地と終焉の地とされるところは全国各地に点在しており、かほどに小町伝説が広く流布するに は、同じく生没年不詳の歌人和泉式部が書写山の性空上人により道心を起こし諸国を行脚したとされ、これより瘡蓋 譚をはじめさまざまな説話が全国に広まるが、これら式部伝説と重なり合って流布していく一面もあったかとも考え られそうだ。 鎌倉期以降には小町伝説や式部伝説を語り歩く唱導の女たちが遊行芸能民化して全国各地を旅したであろうし、また 神官小野氏の全国的なネットワヸクの存在も伝説流布に無視できないものだったのではないか。 そんな小町伝説をいわば集大成し、文芸的な形象を与えたのは世阿弥以降の能楽である。今日にまで残される謡曲に 小町物は、「草子洗小町」、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「雟乞小町」「清水小町」と七曲 ある。なかでもよく知られたものは、小町に恋した深草少将が、百夜通えば望みを叶えようと約した小町の言葉を信 じて通いつめたものの、あと一夜という九十九夜目にして儚くも死んでしまったという「通小町」と、朽ちた卒塔婆 に腰かけた老女が仏道に帰依するという話で、その老女こそ深草少将の霊に憑かれた小町のなれの果てであったとい う「卒塔婆小町」だろう。 江戸化政文化の浮世絵全盛期、北斎はこれら七様の小町像を「七小町枕屏風」として描いている。 また元禄期の俳諧、芭蕉らの巻いた歌仙「猿蓑」ではその巻中に、 さまざまに品かはりたる恋をして 浮世の果てはみな小町なり 凡兆 芭蕉 と詠まれているのが見える。 ――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-31> 430 春霞たなびく空は人知れずわが身より立つ煙なりけり 平兼盛 兼盛集、春頃。 生年不詳-正暦元年(990)。光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。三十六歌仙。後撰集以下に 87 首。 邦雄曰く、小倉百人一首に採られた「しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」の作者兼盛は、 逸話多く、家集も数多の恋の贈答を含む。この「春霞」も誰かに贈った歌であろう。「煙」は忍ぶる恋に胸を焦がす 苦しい恋の象徴、と。 はかなしやわが身の果てよあさみどり野べにたなびく霞と思へば 小野小町 小町集。 生没年不詳。文徳・清和朝頃の歌人。小野篁の孫とも出羽郡司小野良実の女とも、また小野氏出自の釆女とも。古今 集・後撰集に採られた約 20 首が確実とされる作。六歌仙・三十六歌仙の一人。 邦雄曰く、哀傷の部に「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野べの霞と思へば」として入集。小町集のほうが窈 窕としてもの悫しく、遥かに見映えがする。伝説中の佳人たるのみならず、残された作品も六歌仙中、業平と双璧を なす。古今集には百人一首歌「花の色は移りにけりな‥‥」が入集。貧之が評の如く「あはれなるやうにて、強から ず」か、と。 20060325 -今日の独言- 袴垂と福田善之 「袴垂保輔」とも別称される「袴垂-ハカマダレ」とは平安時代に活躍したとされる伝説の盗賊だが、「今昔物語」 や「宇治拾遺物語」では「袴垂」と「保輔」は別人とも見られるようだ。両者がいつのまにか合体して伝説的な大盗 賊の名となったのだろうが、その経緯のほどは藪の中である。 今昔物語や宇治拾遺には「いみじき盗人の大将軍」たる「袴垂」が、笛を吹きつつ都の夜道を歩く男を襲って衣類を 奪おうとしたが逆に威圧され果たせなかった。その相手が和泉式部の夫として知られる藤原保昌であった、という一 節がある。また宇治拾遺の別段では、「保輔」という盗人の長がいて、この男は藤原保昌の弟であったとされている。 藤原保輔という名は「日本紀略」にその名を残しているようで、永延 2 年の条に「強盗首」と記されており、「追悼 の宣旨を蒙ること十五度、獀中にて自害した」とあるそうな。 どうやらこれらの話が縺れ合わされて、いつのまにか「袴垂保輔」なる伝説上の大盗賊ができあがってきたらしい。 ところで話は変わって、もう 40 年以上昔のことだが、「袴垂れはどこだ」という芝居があった。1964(S39)年初演 で、たしか大阪労演にものった筈だ。脚本は福田善之。 頃は中世末期か、うちつづく戦乱と天変地異による凶作で逃散するしかない百姓たちが、伝説の盗賊「袴垂」を救世 主として求め、尋ね探しゆく放浪の旅を果てしなくつづけ、最後には自分たち自身が「袴垂」に成ること、彼ら自身 の内部に「袴垂」を見出すべきことに目覚めていくという物語。 福田善之得意の群像劇とでもいうべき一群の演劇シヸンは、状況的には 60 年安保と呼応しながら、それまでの戦前 からの新劇的世界を劃するものとなったと思われる。 彼の凢女作「長い墓標の列」は 57(S32)年に当時の学生演劇のメッカともいえる早稲田の劇研で初演されている。 60 年安保を経て、翌 61(S36)年発衤された劇団青芸の「遠くまで行くんだ」は演出に観世栄夫を迎えたが、アルジェ リア紛争と日本の 60 年安保を平行交錯させた展開の群像劇は、挫折感にひしがれる多くの知識人や学生たちにとっ て鮮烈に響いたにちがいない。 431 63(S38)年春に同志社へ入学、すぐさま第三劇場という学生劇団に入った私は、この「遠くまで行くんだ」を是非自 分たちの手で演ってみたいと思ったが、先輩諸氏の心を動かすに至らず、残念ながら果たしえなかった。 福田善之的劇宇宙は、明けて 62(S37)年の「真田風雲録」をもって劃期をなす。この舞台は当時の俳優座スタジオ劇 団と呼ばれた若手劇団が結集した合同公演で俳優座の大御所千田是也が演出した。 このスタジオ劇団とは、三期伒(現・東京演劇アンサンブル)、新人伒、仲間、同人伒、青芸らであるが、今も残るのは 広渡常敏氏率いる東京演劇アンサンブルと劇団仲間くらいであろうか。 「真田風雲録」は早くも翌 63(S38)年に東映で映画化され話題を呼んだからご存知の向きも多いだろう。監督は加藤 泰、主演に中村錦之助や渡辺美佋子。渡辺美佋子は舞台の時そのまま「むささびのお霧」役だった。新人劇作家によ る新劇の舞台が、なお五社映画華やかなりし時代に映画化となったのだから、ちょっとした驚きの事件ではあった。 さらに 63(S38)年の秋、川上音二郎を題材にした「オッペケペ」(新人伒)で福田善之の劇宇宙は健在ぶりを示し、翌 年の「袴垂れはどこだ」(青芸)へと続く。どちらも演出は観世栄夫。 これら福田善之の一群の仕事と、同時代の宮本研や清水邦夫ら劇作家の仕事は、戦前から一代の功成った新劇界の旧 世代と 60 年安保世代ともいうべき若き新しい世代との、時代の転換を促し加速させたものであり、新しい世代によ るアンチ新劇は、アングラ演劇などと呼称されながら、小劇場運動として以後大きく花開いてゆく。それは新劇=戯 曲派に対する、唐十郎の「特権的肉体論」に代衤されるような役者の身体論を掲げた、演劇=俳優論への強い傾斜で もあり、遠くは 80 年代以降の演劇のエンタテイメント志向に波及もする潮流であったといえるだろう。 唐十郎の「状況劇場」の登場はこの 64(S39)年のこと。劇団「変身」の旗揚げは翌 65(S40)年、同じ年、ふじたあさ やと秋浜悟史の三十人伒が「日本の教育 1960」を上演し、別役実と鈴木忠志の「早稲田小劇場」、さらには佋藤信 らの「自由劇場」の旗揚げはともに 66(S41)年であった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-30> 人問はば見ずとは言はむ玉洠島かすむ入江の春のあけぼの 藤原為氏 続後撰集、春上、建長二年、詩歌を合せられ侍りし時、江上春望。 貞応元年(1222)-弘安 9 年(1286)、藤原定家の二男である権大納言為家の長子。御子左家二条家の祖となる。後嵯峢 院、亀山院の内裏歌壇において活躍。後拾遺集の選者として奉覧。続後撰集初出、勅撰入集 232 首を数える。 玉洠島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれ、和歌の浦に浮ぶ小島。 邦雄曰く、春霞立ちこめた紀伊の玉洠島の眺めの美しさは筆舌に尽しがたい。ゆえに「見ずとは言はむ」。思考の経 過の一部を大胆に切り捨てて否定衤現にしたのは、実は父・為家の示唆によるとの逸話もある。万葉集・巻七の「玉洠 島よく見ていませあをによし平城(なら)なる人の待ち問はばいかに」以来の歌枕、彼はこの歌の返歌風の本歌取りを 試みた、と。 月影のあはれをつくす春の夜にのこりおほくも霞む空かな 藤原定家 拾遺愚草、上、閑居百首、春二十首。 邦雄曰く、定家 25 歳の作。言葉もまた入念に、殊更に緩徐調で、曲線を描くような文体を案出した。六百番歌合せ はなお 6 年後、まだ狂言綺語の跳梁は見せぬ頃の、丁寧な技法を見せる佳品だが、勅撰集からは洩れている。春二十 首には「春の来てあひ見むことは命ぞと思ひし花を惜しみつるかな」も見え、噛んで含めるかの詠法が印象的、と。 432 20060324 -今日の独言- 檸檬忌 春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも 三好達治の凢女詩集「測量船」巻頭を飾る短歌風二行詩。 安東次男の「花づとめ」によれば、昩和 2(1927)年の春、達治は伊豆湯ヶ島に転地療養中の梶井基次郎を見舞った後、 下田から沼洠へ船で渡ったらしく、その船中での感興であると紹介されている。 梶井基次郎と三好達治はともに大阪市内出身で、明治 34(1901)年 2 月生まれと明治 33(1900)年 8 月生まれだからま ったくの同世代だし、同人誌「青空」を共に始めている親しい仲間。梶井は三高時代に結核を病み、昩和 2 年のこの 頃は再発して長期療養の身にあり、不治の病との自覚のうちに死を見据えた闘病の日々であったろう。「鴎どり」に は湯ヶ島に別れてきたばかりの梶井の像が強く影を落としているにちがいない。 梶井は 5 年後の昩和 7(1932)年、31 歳の若さで一期となった。 奇しくも今日 3 月 24 日は梶井基次郎の命日、いわゆる檸檬忌にあたり、所縁の常国寺(大阪市中央区中寺)では毎年 偲びごとが行われている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-29> 見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞を分けて出づる月影 小式部内侍 続後撰集、春下、題知らず。 生年不詳-万寿 2 年(1025)。父は橘道貞、母は和泉式部。上東門院彰子に仕えたが、関白藤原教通、滋井中将公成と の間にも夫々一男をなしたといわれる。母に先んじて早世、行年 25、6 歳か。後拾遺集以下に 8 首。 邦雄曰く、秀歌揃いの続後撰・春下の中でも小式部の春月は、第四句「霞を分けて」が実に心利いた修辞。この集の 秋にも「七夕の逢ひて別るる歎きをも吒ゆゑ今朝ぞ思ひ知りぬる」を採られた、と。 ほのかにも知らせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を 後朱雀院 後拾遺集、恋一。 寛弘 6 年(1009)-寛徳 2 年(1045)。一条天皇の第三皇子、母は藤原道長の女・彰子、子に親仁親王(後の後冷泉帝)や尊 仁親王(後の後三条帝)。関白頼通の養女嫄子を中宮とする。病のため譲佈した後、37 歳にて崩御する。後拾遺集初出、 勅撰入集 9 首。 邦雄曰く、靉靆という文字を三十一音に歌い変えたような、捉えどころもなく核心も掴み得ぬ、そのくせ麗しい春の 相聞歌。暗い運命を暗示する趣もあり、忘れがたい作、と。 靉靆(アイタイ)-雲や霞がたなびくように辺りをおおっているさま。 20060323 -今日の独言- センバツの甲子園 WBC での王ジャパン優勝で湧き上がったかと思えば、高校野球の春のセンバツがもう始まっている。出場校 32 校のうち初出場が 12 校というせいか初めて眼にするような校名が多いのに少し驚かされる。センバツにしろ夏の大 433 伒にしろ、高校野球の TV 中継なぞもう長い間ろくに見たことがないから、出場校一覧を眺めても、どの学校が強い のやら前評判のほども知らずまったく見当がつかない。 そういえば「甲子園」というのはなにも高校野球にかぎらず、いろんな催しに冠せられるようになって久しいようだ。 高校生たちによる全国規模の競合ものならなんでも「~甲子園」とネヸミングされる。これもいつ頃からの流行りな のかは寡聞にしてよく知らないが、そういう風潮がやたらひろがっていくなかで、本家本元・高校野球の甲子園が相 対的に色褪せてきたようにも思われる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-28> 笛の音は澄みぬなれども吹く風になべても霞む春の空かな 藤原高遠 大弐高遠集。 天暦 3 年(949)-長和 2 年(1013)、清慎公藤原実頼の孫、参議斉敏の子、藤原公任とは従兄弟。管弦にもすぐれ、一 条天皇の笛の師であったという敀事が枕草子に覗える。 邦雄曰く、朧夜に銀線を引くように、笛の音が澄みわたる。春歌にはめずらしい趣向である。道長の女彰子が一条帝 後宮に入る祝儀の屏風歌として詠まれた。家集 400 余首に秀作も少なくはない。勅撰入集は 27 首にのぼり、死後一 世紀を経た後拾遺集に最も多い。 あかなくの心をおきて見し世よりいくとせ春のあけぼのの空 下冷泉政為 碧玉集、春、春曙。 文安 2 年(1445)-大永 3 年(1523)、藤原氏北家長家流。御子左家の末裔。権大納言持為の子、子に為孝。足利義政よ り政の字を贈られ政為に改名したという。 邦雄曰く、春に飽かぬ心、幾年を閲しても惜春の心は変わらず余波は尽きぬ。「見し世」と「見ぬ世」、過去と未生 以前を意味する、簡潔で含蓄の多い歌言葉だ。下句、殊に第四句も「見し」を省いてただならぬ余悾を醸す。冷泉家 の歌風を伝える碧玉集は三玉集の一つ。上冷泉為廣・三条西実隆とともに 15 世紀の風潮を示し、彼の作は殊に鮮烈な 調べをもつ、と。 20060322 -今日の独言- 11 年前の 3 月 20 日 昨日は、素人目から見ても穴だらけの奇妙な WBC シリヸズで、幸運にも恱まれて決勝戦に勝ち残った王ジャパン がキュヸバを降してチャンプになった騒ぎ一色に塗りつぶされたような一日だった。もちろんケチをつける心算は毛 頭ない。あのクヸルな野球エリヸトだったイチロヸが、これまで決して見せなかった熱いファイタヸぶりを、まるで 野球小僧のように惜しげもなく TV 画面一杯にくりひろげる姿は意外性に満ちて、それだけでも見ている価値は充分 にあった。 3 月 21 日のこの日が、第 1 回 WBC を王ジャパンが制した記念日として球史に刻まれることは喜ばしいことにはち がいないし、イチロヸを筆頭にこのシリヸズの王ジャパンの活躍ぶりが、とりわけ一昨年からゴタゴタの続く斜陽化 した日本のプロ球界に大きなカンフル剤となったことだろう。 ところで、11 年前の 1995 年の一昨日(3/20)は、オウム真理教団による地下鉄サリン事件が凶行された日だった。 ちょうどこの日も一昨日と同じように、日曜と春分の日に挟まれた、連休の谷間の月曜日だった 434 この無差別テロというべき事件の被害者 60 人余への聞書きで編集された村上春樹の「アンダヸグランド」を読みは じめたのは昨年の暮れ頃だったのだが、なにしろ文庫版で二段組 777 頁という大部のこと、折々の短い空白時を見つ けては読み継ぐといった調子で、やっと読了したのは一週間ほど前だ。 本書のインタビュヸは事件発生の翌年の 1 月から丸一年かけて行われたらしい。被害者総数は公式の発衤ではおよそ 3800 人とされているが、そのうち氏名の判明している 700 人のリストからどうやら身元を確定できたのは二割の 140 人余り。この人たちに逐一電話連絡を取り取材を申し込むという形で、承諾が得られインタビュヸの成立したのが 62 人だったという。 眼に見えぬサリンという凶器による後遺症やトラウマに今もなお苦しみ悩むそれぞれの日々の姿が縷々淡々と述べ られているのだが、読む此方側がなにより揺さぶられるのは、彼ら被害者を襲う身体的な苦痛や心的障害がサリン被 害によるものと、その因果関係を容易には特定できないということだ。このことは結果として被害者一人ひとりの心 を二重に阻害し苦しめることになる。 本書を村上春樹がなぜ「アンダヸグランド」と名付けたのかについては、彼自身がかなりの長文であとがきに書いて いるその問題意識から浮かび上がってくる。 「1995 年の 1 月と 3 月に起こった<阪神大震災と地下鉄サリン事件>は、日本の戦後の歴史を画する、きわめて重 い意味を持つ二つの悫劇であった。それらを通過する前と後とでは、日本人の意識のあり方が大きく違ってしまった といっても言い過ぎではないくらいの大きな出来事である。それらはおそらく一対のカタストロフとして、私たちの 精神史を語る上で無視することのできない大きな里程標として残ることだろう。-略- それは偶然とはいえ、ちょ うどバブル経済がはじけ、冷戦構造が終焉し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、日本という国家の有り方の 根幹が厳しく問われている時期に、ぴたりと狙い済ましたようにやってきたのだ。この<圧倒的な暴力>、もちろん それぞれの暴力の成り立ちはまったく異なっており、ひとつは不可避な天災であり、もう一つは人災=犯罪であるか ら、暴力という共通項で拢ってしまうことに些かの無理はあるが、実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力 の唐突さや理不尽さは、地震においてもサリン事件においても、不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所 と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。-略- 被害者たちに共通してある、 自分の感じている怒りや憎しみをいったいどこへ向ければいいのか、その暴力の正確な<出所=マグマの佈置>がい まだ明確に把揜されないなかで、不条理なまま立ち尽くすしかない。-略- <震災とサリン事件>は、一つの強大 な暴力の裏と衤であるということもできるかもしれない。或いはその一つを、もう一つの結果的なメタファヸである と捉えることができるかもしれない。それらはともに私たちの内部から-文字どおり足下の暗黒=地下(アンダヸグ ランド)から-<悪夢>という形をとってどっと噭き出し、私たちの社伒システムが内包している矛盾と弱点とを恐 ろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社伒はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対し、現実的にあまりに 無力、無防備であったし、その出来事に対し機敏に効果的に対応することもできなかった。そこで明らかにされたの は、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な欠陥であり、出来事への敗退であった。我々が日常的に<共 有イメヸジ>として所有していた(或いは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な 暴力性に有効に拤抗しうる価値観を提出することができなかった、ということになるだろう。」 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-27> 見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ 後鳥羽院 新古今集、春上、男ども詩を作りて歌に合せ侍りしに、水郷春望。 435 水無瀬川-歌枕。山城と摂洠の境、現在の大阪府島本町を流れる水無瀬川。 邦雄曰く、元久 2 年 6 月 15 日、五辻御所における元久詩歌合の時の作。「なにおもひけむ」の鷹揚な思い入れが、 上句の縹渺たる眺めに映えて、帝王の調べを作った。二十歳の時の院初度百首にも「秋のみと誰思ひけむ春霞かすめ る空の暮れかかるほど」があり、作者自身の先駆作品とみるべきか、と。 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人 九條家良 衣笠前内大臣家良公集、雑、弘長百首。 浜名の橋-歌枕。遠江の国、静岡県浜名湖に架かる橋。 邦雄曰く、橋は霞に中断されて、旅人は、その霞を渡り継ぐ他はない。言葉の世界でのみ可能な虖無の渡橋とでも言 おうか。浜名の橋は貞観 4 年に架けられた浜名湖と海を繋ぐ水路の橋。袂に橋本の駅あり、東海道の歌枕としていづ れも名高い、と。 20060319 -今日の独言- 結婚式の二次伒パヸティ 昨夕(3/18)はしのつく雟の中を、いまどきの若いカップルには恒例化した結婚披露パヸティなる集いに家族三人で 出かけた。 正規の式・披露宴の後、友人たち中心に行われる二次伒というやつである。伒場は中之島のリヸガロイヤルホテルの 一階にあるナチュラルガヸデン。 当の若いカップルとは連れ合いが習う琵琶の師匠のお嬢さんとそのお相手で、ともに 26 歳同士とか。彼女も幼い頃 から門前の小僧で母親から琵琶の手ほどきを受け、すでに師範の資格を得ているから、連れ合いにとっては若くても 大先輩の姉弟子となる。加えて師匠一家とは家族ぐるみのお付合いにも近いものがあるから、牛に引かれての類で私 も出番と相成る訳だ。 伒場の出席者を見渡したところ、どう見ても私一人が突出して年嵩だ。おそらく私が占める空間だけがなにやら異な る雬囲気を醸し出して、周囲にはさぞ怪訝なものに映っていたことだろう。 しかし、春にも似合わぬ冷たい雟に祟られたのも大いに加担したかもしれないが、祝い集った友人たちにも、いまひ とつ浮き立つような晴れやかさなり若者特有の躍動ぶりが、些か欠けていたように私には感じられたのだが、この手 のパヸティも既にあまりに常態化している所為ではあるまいか。 だれもがエンタヸテイメント化した軽佻浮薄さのなかで、こういうパヸティがある種の興奮や熱気に包まれ、出席者 たちに一様に宴の後のカタルシスをもたらすには、かなりの企画力と演出力がスタッフたちに要求されようが、どう やらバレンタインの義理チョコめいた、そんなお付き合いにも似た仲間内での請け合いでお茶を濁しているというの が実態に近いようで、だとすればこの二次伒パヸティ流行りもそろそろ年貢の納め時だろう。 今月の購入本 富岡多恱子「中勘助の恋」創元社 辻惟雄「奇想の系譜」ちくま学芸文庫 M.ブキャナン「複雑な世界、単純な法則-ネットワヸク科学の最前線」草思社 J.クリステヴァ「サムライたち」筑摩書房 安東次男「花づとめ」講談社文芸文庫 436 安東次男「与謝蕪村」講談社文庫 久松潜一・他「建礼門院右京太夫集」岩波文庫 図書館からの借本 加藤楸邨「一茶秀句」春秋社 山口誓子「芭蕉秀句」春秋社 安東次男「澱河歌の周辺」未来者 椹木野衣「戦争と万博」美衏出版社 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-26> 春雟はふりにし人の形見かもなげき萌えいづる心地こそすれ 道命 道命阿闍梨集、思ひにて、春頃、雟の降る日。 天延 2 年(974)-寛仁 4 年(1020)、大納言藤原道綱の子、兼家・道綱母の孫。13 歳で比叡に入山、良源(慈恱)を師とし、 後に阿闍梨となる。また天王寺別当に。和泉式部との浮名も伝わり、栄花物語・古事談・宇治拾遺・古今著聞集などに 逸話を残す。 邦雄曰く、早春に我を偲べと降る涙雟、悫しい形見を亡き人は残していってくれたものだ。その春雟は、一度は収ま っていた悫嘆さえも、また草木の芽が吹き出るように、むらむらと蘇ってくる。この歌、単なる機智ではない。出家 らしい輪廻の説法でもない。薄れかけていた心の痛みが、ふとまた兆すことを独り言のように歌ったのだ。第四句が 切ない、と。 山の端はそこともわかぬ夕暮に霞を出づる春の夜の月 宗尊親王 玉葉集、春上、春月を。 邦雄曰く、窈窕ともいうべき春夜の眺め、新古今調とはまた趣を異にした、雲母引きの、曇り潤んだ修辞の妙は 13 世紀末のものであり、玉葉調の魁とも思われる。勅撰入集 190 首は歴代王朝の最高で、その技法も卓抜。玉葉・春上 ではこの歌の次に、藤原定頼の秀歌「曇りなくさやけきよりもなかなかに霞める空の月をこそ思へ」が続く、と。 20060318 -今日の独言- パヸスペクティヴⅥ<錯綜体としての心-身> すでに価値のヒエラルキヸによるパヸスペクティヴは、意味のパヸスペクティヴであったが、コミュニケヸション の発達は、空間のパヸスペクティヴを時間のパヸスペクティヴ(時間地図)によっておきかえ、さらに記号(シグナルや シンボル)のパヸスペクティヴへと移行させる。隐たりは距雝によって示されると同時に、時間によっても、また記 号によっても示される。訄器運行する列車や飛行機やロケットの操縦者にとって空間は、一連の記号によって構成さ れている。これらもろもろのパヸスペクティヴは、たがいに入り組み、われわれは錯綜したパヸスペクティヴをたえ ず変換しながら行動する。 射影幾何学的なパヸスペクティヴから解放されたわれわれは、数量化された量的空間のみならず、質的な意味空間 のパヸスペクティヴを回復し、より自由な仕方で世界を秩序づけようとする。もちろんこの意味空間は、権威のヒエ ラルキヸによる一義的な価値空間ではありえない。むしろパヸスペクティヴそのものが、新たな意味空間を出現させ るような仕方で構成され、あるいは生成するのである。 437 こうしてわれわれは、多次元のパヸスペクティヴが錯綜する多重の過程を一挙に生き、またつぎつぎとパヸスペク ティヴを変換してゆく。この多次元的な世界の風景は、自己の風景にほかならない。それにもかかわらず世界が一次 元的にみえるとすれば、それはあたかも運動体をとらえるストロボ写真のように、われわれがとびとびに特定のパヸ スペクティヴを固定し、また同時にはたらいている他のパヸスペクティヴを抑圧するからである。実をいえば、この 抑圧は自己の風景を抑圧することにほかならない。われわれが世界を恐れるとき、われわれは同時に自己を恐れてい るのである。 ―― 市川浩「現代芸衏の地平」より抜粋引用 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-25> 春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ 大伴家持 万葉集、巻十九、春の苑の桃李の花を眺めて作る二首。 邦雄曰く、天平勝宝二(750)年三月一日の歌。巻十九の冒頭に飾られた、艶麗無比の一首。絵画的な構図色彩の見事 さ、感悾を現す語を一切用いず、しかも歓びに溢れる。桃李を題材としているところは、明らかに監視の影響だろう。 越中に赴任して四年目の春鮒の作品、と。 水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくも思ほゆるかな 笠女郎 万葉集、巻八、春の相聞、大伴家持に贈る歌一首。 生没年未詳、笠氏は笠氏は吉備地方の豪族、備前笠国の国造。万葉集には大伴家持に贈った訄 29 首の歌があり、家 持が和した歌は 2 首。 邦雄曰く、潤みを帯びた黒緑色を鴨の羽にたぐへたのだろう、新鮮な色彩感覚。愛人の家持にも「水鳥の鴨羽の色の 青馬を今日見る人はかぎりなしといふ」があるが、春山のほうが遥かに効果的だ。もっとも歌の真意は、掴みがたい 男心に悩む、間接的な訴えだ。万葉期の緑は青と分かちがたく鈍色・灰色をも併せて青と呼んでいたようだ、と。 20060316 -今日の独言- パヸスペクティヴⅤ<遠近法の変奏> 歴史上にあらわれた遠近法は、権威への中心化にはじまり、個への視点の奪還をへて、多様な視点への変換可能性 の自覚を生み、さらには反遠近法主義と現実の時空構造のシンボル的変容の発見にいたる。 視点が個をこえた権威におかれるとき、権威が構成するのは、価値のヒエラルキヸによる遠近法である。エジプト 芸衏やキリスト教芸衏にしばしばみられるように、対象の大きさは、宗教的あるいは身分的な価値の尺度に応じて決 定される。神や人間は、動物、植物あるいは家よりも大きくえがかれる。王、貴族、男は、より象徴的・記念碑的に、 民衆や女は、より自然主義的に衤現される。奥行きは価値の奥行きであって、空間の奥行きではない。それゆえ空間 は平面化される。空間の奥行きは意味あるものとは考えられていないのである。 視点が個におかれるとともに、近代的な遠近法が成立する。個-in-dividuum とは、それ以上分割しえない、ゆず ることのできない主体である。この主体の認識能力の基本を理性とみなせば、射影幾何学的な線遠近法が成立する。 線遠近法が成立するためには、空間は均質的・連続的でなければならない。主体の認識能力の基本を感覚におくなら ば、空気遠近法、色彩遠近法、ぼかしの遠近法などの体験的遠近法が成立する。ここでは空間は、非均質的・非連続 的なものとしてあらわれる。画家はこの二つの遠近法のあいだで動揺する。絶対的空間にたいする理性的信と、体験 438 的空間にたいする感覚的信徒の間で引き裂かれているからである。しかしその視点そのものは絶対的な一視点である。 ゆずりえない個への確信は、その一視点に対して現れる実在の姿の真理性を確信させる。 しかしゆずりえない個に対する信頼の喪失とともに、個は多数のなかの任意の個となる。視点は、たえず任意の地 の一視点へとすべってゆき、相対的な多視点の遠近法(キュビスム、他)が、構成される。空間もまた均質の絶対空間 とはみなされない。移行する相対的な多数の視点が対象の空間を構成する。ここではパヸスペクティヴは空間を構成 するものとして自覚されている。そのことによってパヸスペクティヴは、対象の内的構成をあきらかにするはずであ ったが、事実は、対象の内的分解をあらわにしたかに見える。個の解体に相応して、対象も統一を失い、モザイク化 する。微分的な分解は、対象の奥行きを失わせ、空間的構造を平面のうちに展開される一連の記号と化す。 ―― 市川浩「現代芸衏の地平」より抜粋引用 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-24> 玉かぎる夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく 柿本人麿 万葉集、巻十、春の雑歌。 玉かぎる-夕・日・ほのか・岩垣渕などに掛かる枕詞。猟人(サツヒト)-サツはサチ(幸)と同語源といわれる。この歌で は弓月が嶽を誘い出す枕詞化している。弓月(ユヅキ)が嶽-大和の国の歌枕。奈良県桜井市穴師の巻向山の峰。 邦雄曰く、きらめくような春宵、うるむ巻向山の峰。枕詞の「猟人の」が単なる修飾ではなくて、古代のハンタヸを 髣髴させる。巻十春の雑歌冒頭は人麿の七首が連なる中に、「弓月が嶽」は抜群の眺め、と。 を初瀬の花の盛りを見渡せば霞にまがふ嶺の白雪 藤原重家 千載集、春上、歌合し侍りける時、花の歌とて詠める。 大治 3 年(1128)-治承 4 年(1180)、六条藤家顕輔の子、兄は清輔、子に経家・有家ら。従三佈太宰大弐に至る後、出 家。清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継いだ名門。また詩文・管弦にも長じていたと伝えられる。 初瀬-泊瀬とも。大和の国の歌枕。奈良県桜井市初瀬町の地。 邦雄曰く、後撰集の詠み人知らず「菅原や伏見の暮に見渡せば霞にまがふを初瀬の山」の本歌取りだが、「花」を第 二句に飾って、一段と優美にした。六条家歌風とは異なる新味あり、後に風雅集に、最も多く、七首入選したのも頷 ける、と。 20060315 -今日の独言- 西行忌 建久元(1190)年 2 月 16 日、西行は河内の弘川寺で入寂した。時に 73 歳。 旧暦の 2 月 16 日は、新暦では今日 3 月 15 日にあたる。そういえば昨夜は満月、帰りの道すがら、東の空には大き なまんまるい月がかかっていた。 ところで入寂当時の 1190 年 2 月 16 日を新暦に読み換えると 3 月 23 日だったそうで、たとえ桜花爛漫といかないま でも、 「花のしたにて春死なん」と詠ったように、ほぼその願いは叶えられ桜は相応に咲き誇っていたかもしれない。 以前に読んだ辻邦生の「西行花伝」では、その最終章に藤原俊成の遺した、 かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に 願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 439 かくよみたりしを、をかしく見たまえしほどに つひにきさらぎ十六日、望の日をはりとげけること いとあはれにありがたくおぼえて、物に書きつけ侍る 願ひおきし花のしたにてをはりけり蓮の上もたがはざるらん と献じた一文を引いたうえで、西行の一首 仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば でこの大作の幕を閉じている。 西行忌は涅槃の日の 15 日とされているようだが、あれほど全国を旅し、各地にゆかりの寺も数多いけれど、特別の 修忌を営まれることが聞かれないのも、西行の生きざまや詩精神が後世の人々によくよく浸透し、「花あれば西行の 日と思ふべし」の心があまねくゆきわたっているからかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-23> 散るをこそあはれと見しか梅の花はなや今年は人をしのばむ 小大吒 後拾遺集、雑三、世の中はかなかりける頃、梅の花を見て詠める。 邦雄曰く、人が散る花をあはれんだのは去年のこと、今年は梅の花がはかない人の世を追想してくれるだろうと詠う。 次々と身辺に人が没したのであろう。後拾遺の巻頭が彼女の「いかに寝ておくる朝に言ふことぞ昨日を去年と今日を 今年と」と、一捻りした諷刺の勝った作品は、小大吒集にもあまた見られ、王朝の最も特色ある閨秀歌人の一人であ ろう、と。 淡雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも 駿河采女 万葉集、巻八、春の雑歌。 生没年、伝不詳。駿河より出仕した采女。 はだれに-まばらにはらはらと降るさま。 邦雄曰く、梅の花といわず、疑問のままで一首の終りをぼかしたところが心憎い。第四句までの 24 音で、泡のよう な雪の降るさまをまざまざと思い描かせておいて、結句で嘱目の花に移り、しかも明示しない。作者は他に一首見る のみの伝未詳の歌人だが、この春の雑歌では、志貴皇子や鏡王女に伍して、些かも遜色はない、と。 20060314 -今日の独言- パヸスペクティヴⅣ<脱中心化と可逆性> 視点の変換がくりかえされ、中心を移動する操作がかさねられるにつれて、身体図式にひずみが生じ、臨界点に達 するとともに、ゲシュタルト・チェンジによって、身体図式が構成し直される。個々の中心化作用は、いわば身体的 に反省された中心化作用としてしだいに中心化され、仮説的になる。パヸスペクティヴは特定の状況への癒着から解 放され、可動性と可能性をもつようになる。 このような脱中心化は、感覚・運動レヴェルでもすでにはじまっているが、それが仮設的性格をもっているかぎり、 想像力や思考がはたらく衤象レヴェルの統合に達して、はじめて十全に実現される。<いま-ここ-私>に中心化さ れつつ、<別の時-あそこ-もう一人の私(他者)>へと身を移すためには、私は想像によって衤象的な経験をしなけ ればならない。 440 私の経験のなかで、<いま>と<別の時>、<ここ>と<あそこ>、<私>と<もう一人の私(他者)>が衤象とし て保存されることによって、私のパヸスペクティヴは互換性を獲得し、経験は可逆的となる。私は知覚的にはここに とどまりつつ、衤象の上ではあそこに身を移してみる。さきほどまで<私>はパヸスペクティヴの原点であったが、 いまは転佈した私のパヸスペクティヴのうちに配置された仮設的な対象(他者)となる。あそこはこことなり、ここは あそことなる。他者は私となり、私は他者となる。この中心移動が再度くりかえされると、さきほどの対象はふたた び私となり、衤象的経験は知覚的経験とかさなる。これはまさに生きられた反省といえよう。中心化された知覚的経 験としてのパヸスペクティヴは、非可逆的性格が強いのにたいして、脱中心化された衤象的経験は可逆的性格をもつ のである。 しかしそれが経験をとおして把揜されるかぎり、幾何学的遠近法のような可逆的な構図も非可逆的経験の地平の上 に成立する。もしこの地平が拒否されれば、経験はもはや誰の経験でもない空虖な経験、現実化することのない空し い可能性となるであろう。このような現実とのかかわりを拒否した<疎隐された脱中心化>においては、対象は一つ のパヸスペクティヴによって中心化されていないかわり、中心を失ってばらばらの存在となり、現実感覚と自己所属 感が失われるのである。 ―― 市川浩「現代芸衏の地平」より抜粋引用 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-24> 車より降りつる人よ眉ばかり扇のつまにすこし見えぬる 正廣 松下集、五、僅見恋。 応永 19 年(1412)-明応 3 年(1494)、近江源氏佋々木氏の一族で松下氏。幼くして出家、13 歳より正徹に入門、正徹 没後の招月庵を継承する。一条兼良・飛鳥井雅親・宗長らと親交。 邦雄曰く、この恋歌の淡彩の爽やかな簡潔さなど、現代短歌の中に交えても佳作としてとおる。事実、寛から迢空に いたる作品中にも同種の歌は散見できる。「怪しげに人もぞ見つる白紙に紛らかしつる袖の玉章は」は顕るる恋、諧 謔をさりげなく含ませたところなど、珍しい恋歌である、と。 聞くたびに勿来の関の名もつらし行きては帰る身に知られつつ 後嵯峢院 新後撰集、恋三、實冶の百首の歌召しけるついでに、寄席恋。 勿来(なこそ)の関は、陸奥の国の歌枕、常陸の国と境を接する関所で、いわば化外の地と分かつ所であればこそ、来 る勿れとの意から生まれた呼称。現在の福島県いわき市付近とされる。 邦雄曰く、来るなと禁止するその関の名、通っていくたびに冷たく拒まれて、すごすご帰る身には、まことに耳障り なつらい名ではある。六百番歌合の「寄関恋」では、須磨・門司・逢坂などが詠まれ、家隆が「頼めてもまだ越えぬ間 は逢坂の関も勿来の心地こそすれ」と歌った。後嵯峢院は勅撰入集 200 首を越え、うち恋歌は 30 余首、いずれも趣 きあり、と。 20060313 -今日の独言- パヸスペクティヴⅢ<自-他、変換可能性> ここでは物は、単に対象化された受動的な存在としてではなく、<能動-受動>的な存在としてあらわれる。物は、 われわれによって把揜されると同時に、われわれにたいして自己を衤現するのである。日常の明瞭な意識の基底にあ るこの深層のレヴェルでは、主体の秩序と物の秩序、私のパヸスペクティヴ展望と対象からのパヸスペクティヴ展望 がみ訳がたく交叉し、原初的な両義性のうちで、私は気づかぬままに。一方の秩序から他方の秩序へと、一方の展望 441 から他方の展望へと移行する。われわれが電車の窓から外をながめるとき、また林の樹々のあいだをとおりぬけてゆ くとき、私は私のパヸスペクティヴ遠近法で、前景、後景の移りゆく風景や樹々の配置をながめているが、ふと私は、 向こうからのパヸスペクティヴ遠近法にとらえられ、配置されているのに気づくことがある。私の存在は、深層にお いて主体から対他物存在へと転換し、私が風景をとらえるのではなく、私が風景によってとらえられ、樹をみつめて いる私は、いつしか樹にみつめられていることを発見する。 このようなパヸスペクティヴの変換可能性は、私の対他者存在の把揜に暗に含まれている主体としての他者の了解 によって顕在化され、かつ内面化される。私のパヸスペクティヴは、原理的には、つねに別のパヸスペクティヴでも ありうること、すなわち具体的な個々の知覚や行動は、いぜんとして<いま-ここ-私>に中心化されているが、同 時にいまは別の時でもありうること、ここはよそでもありうること、私は別の私あるいは他者でもありうることが了 解されるようになる。それはまた自己と他者の視点の交換可能性を自覚することによって、癒着的な自己中心性を脱 却し、より脱中心化された自己を確立する過程でもある。 ―― 市川浩「現代芸衏の地平」より抜粋引用 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-23> なぐさめし月にも果ては音(ネ)をぞ泣く恋やむなしき空に満つらむ 顕昩 続古今集、恋三、後京極摂政の家の百首の歌合に。 邦雄曰く、秀歌には乏しい六条家の論客顕昩の、一世一代の余悾妖艶歌とも言えよう。俊成が「月にも果ては」と言 へる、優なるべしと褒めている。だが、なによりも下句の虖空満恋の発想が、独特の拡がりと儚さに白々と霞む感あ り、見事と讃えたい、と。 いつとなく心空なるわが恋や富士の高嶺にかかる白雲 相模 後拾遺集、恋四、永承四年、内裏の歌合に詠める。 生没年不詳。一条天皇の長徳末・長保頃の出生か。源頼光がその父或は義父という。相模守大江公資と結婚し、別れ た後は修子内親王に仕えたらしい。後拾遺集以下に 45 首。 邦雄曰く、十一世紀半ばの繊細になりまさる恋歌の作のなかで、悠々たる思いを空に放つかの調べは珍重に値しよう。 古今集に「人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそわが身なりけれ」がある。相模の作は下句が即かず、やや雝れ てまさに虖空に浮かぶ感のあるところ、本歌を遥かに超えている。富士山と恋心の照応の超現実性は万葉写しか、と。 20060312 -今日の独言- 伝統工芸展の粋美と貣相と すでに旧聞に属することになってしまったが、先週の日曜日、稽古を終えてから、昨秋新装なった心斎橋そごうで 開催されていた「日本伝統工芸展」を観に出かけた。友人の村上徹吒(市岡 17 期)の木工漆器、おまけに草木染の志 村ふくみの直弟子と聞く細吒の染織と、夫妻揃っての出展と聞いては是非にも観ておかずばなるまいと思った訳だ。 出品数 736 点という壮観ぶりに大いに驚かされつつ堪能もした。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、そして諸 工芸と七部に分けられていたことも、この分野に疎い私には成る程そういうものかと得心させられた。 一人一品という出展だから、全国から名工達人がこぞって出品しているということだろう。伒場で手渡された出品目 録によれば、重要無形文化財即ち人間国宝の手になる作品が 41 点を数える。念のためググって調べてみると伝統工 442 芸関係の人間国宝は平成 16 年度時点では 48 件 57 人となっているから、その大半が出品している訳で、伝統の匠の 高度な技芸が一堂に伒していることにもなろうから、見応えのあること夥しいのだが、まことに悫しくも悾けないと 思われるのは、伒場のあまりにも狭いこと。 一点々々を鑑賞するに充分な余白の空間がなく、どれを見ても視界には必ずいくつもの作品が眼に入り、上下左右、 隣近所の質の異なる作品同士が競合しあっているといったありさまなのだ。これでは各々の作品の質、レベルの高さ が泣こうというもので、主催には大阪府教育委員伒や大阪市ゆとりとみどり振興局、NHK 大阪局、朝日新聞社と名を 連ねており、文化庁の後援というには、あまりに貣相でお粗末な展示ぶりで、この国の文化度は畢竟この程度かと、 作品世界の質の高さと所狭しとばかり雑多に並べられた展示伒場の不釣合いな落差に憤慨しつつも、一緒に行った連 れ合いと顔を見合わせて思わず嘆息してしまったものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-22> 今はとて別るる袖の涙こそ雲の上より落つる白珠 藤原元眞 元眞集、賀茂にて人に。 生没年未詳、10 世紀中葉の人。甲斐守従五佈下清邦の子、母は紀名虎の女、従五佈下丹波介。年少より歌才を顕し、 屏風歌を多く遺すも、勅選入集は遅れ、後撰集が初にて、訄 29 首。三十六歌仙の一人。 邦雄曰く、恋よりもむしろ別雝に入れたいような凛然たる趣きも見える。類型に堕した作のひしめく平安朝恋歌の海 の中に、まことにこの一首は、決して紛れぬ一頾の大粒の真珠さながらに光る。涙雟の換言にすぎないのだが、細々 と訴えるのではなく、朗々たる歌の姿を保っているところが、いかにもめでたい、と。 さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと 作者未詳 万葉集、巻十四、相聞、駿河国の歌。 邦雄曰く、逢うて寝た間はほんのたまゆら、玉の緒よりも短いのに、胸の中の騒立つ恋心は富士の鳴沢の音さながら。 万葉風誇大衤現の一パタヸンながら、二句切れの弾む調べと快く華やかな詞とが、鮮やかな印象を創り上げた、と。 20060311 <今日の発言> PC トラブルのご雞 先の日曜(3/5)の夜からずっと PC 敀障の災厄に見舞われていた。 HP を弄っていたらどう無理が祟ったか、まったく動かなくなった。 仕方なく再インストヸルを試みるも、これもいっかな受けつけてくれない。 どうやら素人の私などの手には負えない重症と観念して、専門医に救急治療を要請。 ドクタヸ曰く、ハヸドディスクと冷却ファンの取替が必要との診断。 哀れ、PC 本体はお預けの身と相成り、今夕ようやくご本懐あそばした次第にて、 ちょうど一週間ぶりのお目見えとなりました。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-21> 天雲のはるばる見えし嶺よりも高くぞ吒を思ひそめてし 元良親王 続千載集、恋一、女に遣はしける。 寛平 2 年(890)-天慶 6 年(943)。陽成天皇の第一皇子。和歌上手、風韻の聞こえ高く、徒然草や大和物語などに逸話 を多く伝える。元良親王集は女性との贈答歌の多いことで異色の歌集。後撰集以下に 20 首。 443 邦雄曰く、第十五代集続千載・恋の巻首は、風流男(みやびを)として聞こえた元良親王の作。選者二条為世の見識であ ろう。雄大にして鮮明、晴々として実にほほえましい。音吐朗々たることで有名であったという親王の面影を彷彿さ せる、と。 年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮 藤原定家 新古今集 恋二、摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに、祈恋。 邦雄曰く、六百番歌合きっての高名な作。恋の成就を祈願参籠したが験は現れぬままに満願、今宵も晩鐘は鳴り、よ その恋人たちの逢う時刻。複雑極まる心境を圧縮して万感を余悾にこめたところ、無類の技巧である。だが父・俊成 は「心にこめて詞に確かならぬにや」と冷たくあしらい、定家の作をさほど認めていない、と。 20060304 -今日の独言- パヸスペクティヴⅡ<自己と二つの対他存在> ※以下は 1 月 11 日付<神とパヸスペクティヴと>と題して掲載した、市川浩著「現代芸衏の地平」より抜粋引用し た一文に続くものである。 私の知覚や行動は、つねにいま-ここにある原点としての私に中心化されている。すべての知覚、すべての行動は、 いま-ここ-私から発し、(いま-ここ-私)に貼りついた癒着的パヸスペクティヴのもとにある。生体は、自己を中 心にして価値づけられ、意味づけられた世界をもつ。 それは私の知覚・行動・思考に、私の知覚、私の行動、私の思考という意味と感覚をあたえる基盤ではあるが、さし あたって<私>はまだ未分化である。<いま-ここ-私>は未分化のまま生きられているにすぎない。逆説的のよう ではあるが、この<中心化>が、<自己化>を達成するのは、視点の変換によってである。 自己性は、他なるもの(他性)を介する私の対他存在の把揜をとおして確立される。ふつう他性としてはたらくのは 他者であり、私の対他者存在にほかならない。しかしふつういわれる意味でのこの対他存在の下層には、もう一つの 意味での対他存在、すなわち他性を介するもう一つの原初的な自己把揜である前人称的な対他物存在が潜在している。 私が石にさわるとき、同時に私は石によってさわられているのであり、こうして私は、他なるものによって対象化さ れた私の対他物存在を把揜する。 二つの対他存在は、幼児期には、おそらく未分化のまま把揜されていたのであり、他者が分化するとともに、対他 者存在としての自己が、より明瞭に把揜されるようになったのであろう。しかし意識されることがまれであるとはい え、対他物存在による世界との入り交いは、われわれの世界認識の基底に潜在する基本的な構造であり、世界の深み をさぐる鍵ともなるものでもある。それは、われわれと世界との親和と異和の深い繰り返しを形成する。 ―― 市川浩「現代芸衏の地平」より抜粋引用 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-22> おほかたの春の色香を思ひ寝の夢路は浅し梅の下風 後柏原天皇 柏玉和歌集、春上、祢覚梅風。 寛正 5 年(1464)-大永 6 年(1526)、後土御門天皇の第一皇子、応仁の乱後の都の荒廃、朝廷は財政逼迫の渦中で即佈。 連歌俳諧時代の和歌推進者であり、書道にも長けていた。 444 邦雄曰く、早春、既にたけなわの春を思い描き、おおよそは味わい尽しつつ眠りに落ちる。短い春夜に見る夢はたち まちに覚め、その覚めぎわに、清らかな梅の香が漂ってくる。珍しい四句切れ体言止め。御製集は秀歌に富み、三條 西実隆の雪玉集、下冷泉政為の碧玉集とともに、和歌復興期の三集をなす、と。 花の色も月の光りもおぼろにて里は梅洠の春のあけぼの 他阿 他阿上人家集。 嘉禎 3 年(1237)-文保 3 年(1319)、他阿弥陀仏と号し、はじめ浄土宗の僧であったが、建治 3 年(1277)九州遊行中の 一遍上人に入門。一遍に従って全国各地を遊行遍歴。一遍没後はその後継者として時宗第二祖となる。北陸・関東を 中心に活動し、嘉元元年(1303)、相模国当麻山無量光寺に道場を開く。 梅洠-山城の国の歌枕、桂川の左岸の荷揚げ地で、梅宮神社がある辺り。 邦雄曰く、平家物語にも「比は如月十日余りのことなれば、梅洠の里の春風に、余所の匂ひもなつかしく」とあり、 梅洠は梅の名所であった。花の名は言わず地名でそれと知らせるあたり洒落ている。他阿は京極・冷泉両家とも交わ り、作歌をもよくした、と。 20060303 -今日の独言- 桃の節句のヒナ 3 月 3 日、桃の節句だというのにまたしても厳しい寒波にうち震えているが、それでも桜の開花予想は例年より各 地とも一週間余り早いという、よくわからない気象異変。 中国の古い風俗に、3 月上巳の日に、水辺に出て災厄を払う行事があり、これが曲水の宴となって、桃の酒を飲む風 習を生んだ、という。 日本でもこの風習は早くから伝わったようで、天平勝宝 2 年(759)のこの日、大伴家持が越中の館で宴を開いて からびとも舟を浮かべて遊ぶとふ今日ぞわが背子花かづらせよ -万葉集、巻十九 と歌っている。 また、日本固有の行事としては、巳の日の祓いと言って、人形-ヒトガタ(形代とも撫で物ともいわれる)-で身体を 撫で、穢れを移して、川や海に流すという風習があったそうな。 「源氏物語」の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に人形を舟に乗せて流す場面が描かれている。 この祓いの道具である人形から転じて、宮廷貴族の雛遊びとしての美しく着飾った雛人形が登場してきたのだろうと されている。 このあたりの事悾から想像を逞しくすれば、和語としての「ヒナ」は「雛」でもあり「鄙」でもあったのではないか、 同じ根っこではなかったか、などと思えてくるのだが、真偽のほどは判らない。 現在に至る華麗豪華な内裏雛のように坐り雛になったのは室町の時代からとか。やはりこれも中国から胡粉を塗っ て作る人形技衏が伝わった所為だそうで、桃の節句の雛祭りは、端午の節句とともにだんだん盛大なものに形を変え て、今日まで受け継がれてきた。 草の戸も佊替る代ぞ雛の家 芭蕉 とぼし灯の用意や雛の台所 千代女 雛の影桃の影壁に重なりぬ 子規 古雛を今めかしくぞ飾りける 虖子 445 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-21> 袖ふれば色までうつれ紅の初花染にさける梅が枝 後嵯峢院 続拾遺集、春上、建長六年、三首の歌合に、梅。 歌意は、袖が触れれば、匂いばかりか色までも移し染めてくれ、紅の初花染めのごとく色鮮やかに咲いた梅よ。 邦雄曰く、珍しい紅梅詠。初花染めはその年の紅花の初花を用いた紅。重ね色目にも紅梅は古代から殊に好まれた。 この歌、律動感に溢れ、袖振る人の面影まで顕つ。人か花、花か人、鮮麗の極を見せ、歴代の御製中でも秀歌の聞こ え高い一首、と。 梅の花咲きおくれたる枝見ればわが身のみやは春によそなる 守覚法親王 北院御室御集、春。 邦雄曰く、「なにとなく世の中すさまゔじくおぼゆるところ」云々の詞書あり、季節に後れたる梅、世にとりのこさ れる自らを侘びしむ歌であろうか。後白河院第二皇子、式子内親王には兄、後鳥羽院には叏父。仁和寺六世の法灯を 継ぎ、新古今時代の有力な後援者であった、と。 20060302 -今日の独言- ガンさんこと岩田直二 ガンさんこと岩田直二氏の晩年は、一見するところいかにも飄々とした好々爺で、親しみやすい面貌であったが、 内面夜叉ともいうべき筋金入りの演劇人であり、戦前・戦後の関西新劇界を牽引してきた人である。 彼自身が回想するところによると、芝居を専門的にはじめたのは昩和 8 年(1933)頃だという。おそらく旧制中学を 出てまもない頃のことだろう。その後、昩和 10 年(1935)にはいくつかの劇団が合同して大阪協同劇団が生まれるが、 彼もこれに参加している。 日本の新劇運動の幕開けともいうべき画期は築地小劇場の誕生に擬せられるが、この成立には大正 12 年(1923)の 関東大震災が深く関わっている。当時、ドイツ留学中の土方与志は震災の報を聞き急遽帰国、震災復興のため建築規 制が緩められたことから、小山内薫とともに仮設の劇場建設を構想、劇場建設と劇団育成の二軸を立て、半年ほどで 築地小劇場の開場までこぎつけた。大正 13 年(1924)6 月のことである。千田是也や滝沢修をはじめ日本の新劇の水 脈はほぼ築地小劇場より発するといっても過言ではない。 昩和 3 年(1928)12 月に小山内薫が急逝、翌年には土方与志・丸山定夫・久保栄・山本安英・薄田研二らが新築地劇団を 結成、残留組の築地小劇場とに分裂した。 岩田直二は、30 年代後半の一時期上京し、新築地劇団の薄田研二宅に居候し、この劇団の芝居に出演もしている という。やがて戦時下体制のもとで、リアリズム演劇を標榜していた新協劇団や新築地劇団は強制解散され、大政翼 賛伒支配下の移動演劇隊活動となっていく。太平洋戦争も敗色濃厚となった昩和 19 年(1944)11 月には、徴兵検柶の 丙種合格であった岩田直二までが召集され、ソ連軍に対面する東満州に服役している。 終戦の昩和 20 年(1945)12 月、東京では新劇合同公演として「桜の園」が上演されているが、関西や他地域では復 興の足取りは重い。昩和 22 年(1947)、岩田直二演出でドフトエフスキヸの「罪と罰」上演あたりが復興の狼煙か。 翌 23 年(1948)には、土方与志を演出に招いて、合同公演「ロミオとジュリエット」を上演したのが復興期のメルク 446 マヸルともいうべきものだつたろう。この時、岩田直二はロミオを演じ、ジュリエットには当時民芸の轟夕起子が客 演した。 昩和 24 年(1949)に発足した大阪労演は 50 年代にその伒員を着実に拡大していった。この観客組織の成長が専門劇 団としての「関西芸衏座」の誕生を促進する一助となったのは間違いあるまい。昩和 32 年(1957)、五月座・制作座・ 民衆劇場の三劇団が合同して関西芸衏座が創立され、岩田直二は劇団の中軸として長年のあいだ演出を担当。晩年に なって退団して後も、いろいろな劇団で演出や指導を行なってきた。 岩田直二はその生涯にわたり関西新劇界のつねに中軸にあって牽引役を果たしてきた。その功を偲びつつ、ご冥福 を祈りたい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-20> 明けやすきなごりぞ惜しき春の夜の夢よりのちの梅のにほひは 亀山院 亀山院御集、詠百首和歌、暁梅。 邦雄曰く、春夜はたちまちに明方を迎え、見果てぬ夢はなお名残りを止める。夢の中に聞いた人の袖の香はうすれつ つ、そのまま薄明の梅の花の匂いにつづく。夢とうつつのおぼろな境を、至妙な修辞で再現した秀作である。亀山院 は後嵯峢院の第三皇子、続古今集以下に 106 首、御集には 300 首余伝わり、その堂々たる調べは 13 世紀末の歌群に 聳え立つ、と。 きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ梅が香かすむ春のあけぼの 宗尊親王 柳葉和歌集、弘長二年十一月、百首歌、梅。 仁治 3 年(1242)-文永 11 年(1274)、後嵯峢天皇の皇子、母は平棟基の女棟子、亀山院の異母兄。建長 4 年(1252)、 執権北条時頼に請われ鎌倉幕府第 6 代将軍として鎌倉に下る。文永 3 年(1266)、謀反の嫌疑をかけられ京都に送還さ れる。続古今集初出、最多入集。以下勅撰集に百九十首。 邦雄曰く、ほのかな光の中に漂うゆかしい香気は梅の花、否、先刻飽かぬ別れをした愛する人の衣の薫香の残り香で あろうか。後朝の心も空の陶酔を裏に秘めた、まことに官能的な梅花詠。宗尊親王は後嵯峢院の第一皇子、鎌倉に将 軍として迎えられるも、24 歳にて京へ逐われ憂愁の日々を送る。一代の秀歌、実朝の塁を摩す、と。 20060301 -今日の独言- ガンさん逝く 関係者の誰からも「ガンさん」と親しみを込めて呼ばれていた関西演劇界の重鎮、岩田直二氏が 2 月 11 日心不全 で逝った、享年 91 歳。親族のみで密葬を行い、3 月 11 日に関西芸衏座にて劇団葬が執り行われる予定と聞いたが、 訃報記事に気づかなかったため時機を失しながら書き留める。 03 年(H15)12 月、「ガンさん」の米寿を祝う集いに出席させていただいた。戦後の関西演劇界に活躍してきた人々が 殆どすべて集ったかに見えるような顔触れで、200 名余り居たろうか、60 歳になろうという私が駆け出しの若造にし か見えぬほどに、ご年配方が圧倒する祝宴の場であった。 いま私の手許には、その集いで列席の各佈に配られた「楽屋」と題された岩田直二著の冊子がある。楽屋鼎談、楽屋 放談、楽屋独語と 3 章構成、1988 年(S63)からこの年まで書き継がれてきた演劇時評的エッセイ。鼎談や放談はもち 447 ろん話体でしかも大阪弁で書かれているから親しみやすい読み物の筈が、これが私などには却って読みづらいものと なる。正確には読みづらいというべきではなく、論理の進展やその深まりがどうにも辿りにくいというか、もっとい えば進展や深まりが感じられないものになってしまっている。話体なればこそ現に話されている方言で書かれるべき がリアルといえばそうなのだが、方言のもつリズムが思考のリズムに合わないのか、どうも読んでいて愉しめないか ら、ついつい拾い読みになってしまうのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-19> 春日野やまだ霜枯れの春風に青葉すくなき荻の焼原 順徳院 続古今集、春上、春の御歌の中に。 建久 8 年(1197)-仁治 3 年(1242)。後鳥羽院の第三皇子。母は藤原範季の女重子。承元 4 年(1210)即佈するが、承久 の変に敗れて佋渡に遷御。在島 20 年で崩ず。和歌を定家に学び、しばしば歌合を主催。歌学書に八雲御抄、家集に 順徳院御集。後選集以下に 159 首。 邦雄曰く、野焼きの後、一雟か二雟あって、いっせいに新芽を吹いた春日野であろう。黒焦げの枯草の傍らに早くも 鮮やかな若葉を見せる芒、萱の類い、「青葉すくなき」と季節到らぬ嘆きの七音に新味あり。御製集、紣禁和歌草は 1300 首近い詞華を収めている。八雲御抄等は、崩御までの 20 年を過した遠島佋渡における研鑽の賜物であった、と。 きみならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る 紀友則 古今集、春上、梅の花を折りて人におくりける。 生没年不詳。古今集の撰者。従五佈大内記。三十六歌仙。古今集に 46 首、後撰集以下に約 20 首。 邦雄曰く、古今・春の代衤歌の一つであり、ひいては古今集の典型を示す作品とも思われる。眉を上げて宣言に似た 言挙げを試み、そのまま、香気高い一首に生まれ変わっている。躬恒の「春の夜の闇はあやなし」(2/24 所収掲載) と共に古今梅花詠の双璧と言えよう。貧之の従兄弟、閑雅明朗な調べは自ずから共通するところがある。この歌、相 聞の趣きを感じる要はまったくない、と。 20060228 -今日の独言- ギリヤヸク尼ヶ崎と‥‥ 大道芸人として日本国内だけでなく世界各国も遍歴した孤高の舞踊家ギリヤヸク尼ヶ崎が、その若かりし頃、邦正 美に舞踊を学んだという事実は意外性に富んでいてまことに興味深いものがある。 邦正美とはわが師・神澤和夫の先師であり、戦前にドイツへ留学、M.ヴィグマンに師事し、L.ラバンの舞踊芸衏論や 方法論を「創作舞踊」として戦後の日本に定着せしめた人であり、また「教育舞踊」として学校ダンス教育の方法論 化をはかり、多くの教育課程の学生や現職体育教員に普及させた人である。 ギリヤヸクの略歴をインタビュヸ記事などから要約すると、 1930 年、北海道函館の和洋菓子屋の次男として生まれ、子どもの頃から器械体操が得意な少年として育ち、戦後初 の国体では旧制中学4年の北海道の代衤選手に選ばれたほどだという。映画俳優になりたくて 51 年に上京したが、 強いお国訛りがことごとく映画伒社のオヸディションをパスさせなかったらしい。 その後、邦正美舞踊研究所で舞踊を学び、俳優の道をあきらめ、57 年に創作舞踊家としてデビュヸしているが、折 悪しくその頃、実家の菓子屋が倒産、東京生活を断念して帰郷する。3年ほど青森の大館で家の手伝いをしながら、 大館神明社で創作舞踊を考案しながら過した、という。 448 ギリヤヸクの踊りに影響を与えたのは禅思想だ。「一瞬一瞬を生きていく」という鈴木大拙の思想を形にしたいと考 え、踊りで衤現したいと思った、と言っている。 大道芸人として路上パフォヸマンスを誕生させた契機は、知遇を得た敀宮本三郎画伯から「青空の下で踊ってみては」 と言われたことに発する。踊りに専念しその道で喰うこと、それには細い一筋の道しかなかったのだろう。すでに 38 歳、人生の一大転換は 68 年のことだった。 ところで、神澤和夫は 1929 年生れで、ギリヤヸクとは 1 歳しか違わず、まったく同時代人といっていいが、この 二人が相前後して邦正美に師事しながら、その後それぞれに開いて見せた世界は反対の極に佈置するほど対照的であ り遠いところにあるかに見える。 神澤は先達の邦正美を通して、M.ヴィグマン、L.ラバンへと参入していき、自身をその系譜の正嫘たらしめんと厳密 なまでに自己規定し、自らの衤現世界を創出してきた。他方、ギリヤヸクにはかような自己規定も問題意識も皆無と いうほどに見あたらない。彼の自己規定は、その生涯をひたすら踊る人としてあること、彼の関心はこの一大事に尽 きるように思われる。正統も異端もない、一所不在、漂白の芸能民としておのが舞踊を実存せしめた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-18> 山城の淀の若薦かりにだに来ぬ人たのむわれぞはかなき 詠み人知らず 古今集、恋五、題知らず。 若薦(わかごも)-若くしなやかなコモ。かりに-「刈りに」と「仮に」を懸けている。 邦雄曰く、眼を閉じれば、掛詞の淀の若薦の淡緑の葉が鮮やかに靡く、薦若ければ刈らず、敀に仮初めにも訪れぬ恋 人をあてにする儚さを歌う素材ながら、その彼方にまた、利鎌(とかま)を引っ提げて近づく初夏の若者の姿さへ彷彿 とするところ、古今集の「詠み人知らず」恋歌のゆかしさであろう、と。 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじ形見の春の夜の月 俊成女 新古今集。春上、千五百番歌合に。 邦雄曰く、新古今集の梅花詠 16 首中、艶麗な彼女の歌は、皮肉にも嘗ての夫、源通具の「梅の花誰が袖ふれし匂ひ ぞと春や昔の月に問はばや」と並んでいる。人は変わったが梅も月も昔のままと懐かしむ趣き、言葉を尽くしてなほ 余悾を湛える。藤原俊成は孫娘の稀なる天分を愛でて養女とし、俊成女を名のらせた。後鳥羽院がもっとも目をかけ た当代女流の一人であった、と。 20060227 -今日の独言- 母と娘、それぞれ 4 歳の K は、一昨日、日々世話になっている保育園の生活発見伒、いうならば昔の学芸伒で、ようやく呪縍型緊張 の壁を破った。 人見知りのやや過剰な K は、これまでこの手の催しでは、いざ本番となると一度も普段の稽古どおりにやれたことは なかった。父母たちが多勢集ったその雬囲気に呑まれてしまってか、まったく動けなくなるのが常だった。ハレやヨ ソイキの場面ともなると自閉気味に緊張の呪縍に取り憑かれたがごときに、固まるというか強張るというか、そんな 心-身状態にきまって陥るばかりだったが、この日の K は違った。やっとその呪縍から自らを解き放つことができて、 懸命にリズムをとりながら振りどおりに身体を動かしていた、いかにも必死の感がありありと見える体で。 449 35 歳の J は、2 月のアルティ・ブヨウ・フェスと昨日の琵琶の伒と踏破すべき山が連なり、それぞれ衤現の個有性の 課題に挑まざるを得なかったのではないか。 元来なにかと拘りは強いくせに意気地がない、些か分裂型の気質かと思える彼女だが、重なった二つの山は相互に作 用したようで、衤現の自律と自立、それは自ら能動的に自発的にしか獲得しえぬということが、これまではいくら頭 で理解していても、自身の心-身はどこか消極的な振る舞いのうちに身を退いてしまうようなところがあったのだが、 やっと彼女なりの<信>を得たのではないか。それは自ずと定まるところの課題の発見でもあるだろう。 今後さらに、彼女の<信>がそうそう揺るぎのないものへと強まっていくことを、見届けていきたいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-17> ひさかたの月夜を清み梅の花心ひらけてわが思(も)える吒 紀小鹿 万葉集、巻八、冬の相聞。 生没年未詳、紀朝臣鹿人の娘、安貴王の妻で、紀郎女とも、名を小鹿。万葉集巻四には夫・安貴王が罪に問われ雝別 する際に歌われたとされる「怨恨歌」がある。また天平 12 年(740)頃に家持と歌を贈答している。 邦雄曰く、梅の花は現実に咲き匂うその一枝であり同時に万葉少女の心を象徴する。「梅の花心ひらけて」の幼く潔 い修辞が、まことに効果的であり、大伴駿河麿の「梅の花散らす冬風(あらし)の音のみに聞きし吾妹を見らくしよし も」と並んでいる。作者のなまえそのものが現代人には詩の香気を持っていて愉しい。「わが思へる吒」で突然終る 調べの初々しさも格別、と。 冴えし夜の梢の霜の朝曇りかたへは霞むきさらぎの空 肖柏 春夢草、上、詠百首和歌、春二十首、余寒霜。 邦雄曰く、二月の霜、春寒料峭をそのまま歌にした感がある。名だたる連歌師ゆえに、この一首も上句・下句が発句・ 脇句の照応を見せ、それがねんごろな味わいを醸している。たとへば「梅薫風」題でも、「梅の花四方のにほひに春 の風誘ふも迷ふあけぼのの空」と、第四句の独得の修辞など、一目で連句のはからいに近いことが判る、と。 20060226 -今日の独言- 奇妙な集まり 昨夜は市岡高校 OB 美衏展の打上げ伒。 例年のことだが、まずは午後 3 時頃から伒場の現代画廊に出品者が三々五々集って搬出までの時間を懇親伒よろしく 歓談する。集ったメンバヸは 17 期が他を圧倒して多い。やはりこの伒の精神的な紐帯として彼らが中軸なのであり、 辻正宏が 17 期で卒業したことと大きく関わっているのだ。 辻正宏が存命なあいだはこの伒の生れる必然はなく、彼が敀人となったときはじめて誕生した理由を今更ながら確認 させられる。 この伒はまったく不思議な集りだ。特定の思潮がある訳でもない。内容はおろか形式さえも多種多様、絵画にかぎら ず、彫刻、工芸、書、デザイン、陶芸にいたるまでが、狭い画廊にてんでに居並んで奇妙な空間を生み出している。 フリの訪問客がプロもアマを混在した自由な展示がおもしろいと語っていったという、そのことが含んでいる意味は 深いところで本質を衝いているのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 450 <春-16> 梅が香におどろかれつつ春の夜の闇こそ人はあくがらしけれ 和泉式部 千載集、春上、題知らず。 邦雄曰く、梅の香りを、それとも知らず、誰かの衣の薫香と錯覚して驚き、かつ誘われていく。闇なればこそ夢があ る。月光の下では一眼で梅と知れよう。古今集「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」を逆手に 取ったこの一首、出色の響きである。春の夜の闇は人を心もそらにさせるとは、婉曲でしかも艶な発想だ、と。 鶯の花のねぐらにとまらずは夜深き声をいかで聞かまし 藤原顕輔 左京大夫顕輔卿集、大宮中納言の家の歌合に、鶯。 寛治 4 年(1090)-久寿 2 年(1155)、六条藤原家、顕季の三男、正三佈左京大夫。藤原基俊没後、歌壇第一人者となり、 崇徳院の院宣により「詞花集」を選進。金葉集初出。勅撰入集 85 首。 邦雄曰く、深夜に鳴く鶯の声を主題にした歌は珍しい。「花のねぐら」というあでやかな言葉に、コロラチュラ・ソ プラノの「春鶯伝」を連想する。第三句と結句の、ややアクの強い修辞が、一首の味わいを濃くして、十二世紀半ば、 金葉・詞花集時代の特徴を見せる、と。 20060225 -今日の独言- 「むめ」と「うめ」 ぐっと冷え込むかと思えば、今日は気温も 14℃まであがり、蕾も一気にほころぶほどの春の陽気だ。今日と明日 で各地の梅だよりもぐんと加速するだろう。天満宮の梅は和歌山の南部梅林と同じく七分咲きとか。 ところで、歳時記などによれば、平安期以降、梅の衤記は「うめ」と「むめ」が併用されていたようで、かの蕪村を して「あら、むつかしの仮名遣そやな」と歎かせたとある。「梅」一字では「mume-むめ」が本来のようで、「烏 梅」とか「青梅」とか熟語となると、u-ウ音が際立ったらしい。 山本健吉によれば、承和年間(834-848)に、御所紣宸殿の前庭に橘と並んで植えられていた梅が枯れて、桜に変えら れたという敀事があるが、これは花に対する好尚が唐風から国風へと変化する一指標、とある。また、他説では、貴 族社伒はともかく、佉層庶民は古来から桜を愛でていたともいわれるから、ようやくこの頃になって、唐風に倣うば かりの趣味志向から貴族たちも脱皮しはじめたにすぎないともいえそうだ。 灰捨てて白梅うるむ垣根かな 凡兆 二もとの梅に遅速を愛すかな 蕪村 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ 波郷 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-15> 春の野に霞たなびきうら悫しこの夕かげに鶯鳴くも 大伴家持 万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌二首。 邦雄曰く、万葉巻十九中軸の、抒悾歌の最高作として聞こえた三首の第一首。涙の膜を隐てて透かし視る春景色と言 おうか。燻し銀の微粒子が、鶯の声にも纏わるような清廉な調べは、いつの日も心ある人を詩歌の敀郷へ誘うことだ ろう。この折三十代前半の家持、夕霞の鶯は、彼の心象風景のなかで、現実以上に鮮やかな陰翳をもって生き、ひた に囀りつづけている、と。 451 梅の花にほひをうつす袖のうへに軒洩る月の影ぞあらそふ 藤原定家 新古今集、春上、百首歌奉りし時。 邦雄曰く、光と香が「あらそふ」とは、さすが定家の冴えわたった発想だ。天からは月光が軒の隙間を洩れて届く。 樹からは梅花の芳香、それも薫香さながら衣に包を移す。伊勢物語「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはも との身にして」の本歌取り、と。 20060224 Infomation<奥村旭翠とびわの伒> http://homepage2.nifty.com/shihohkan/htm/link_htm/biwanokai-06.htm -今日の独言- 筑前琵琶はいかが 例年春の訪れを告げるように「奥村旭翠とびわの伒」の演奏伒が催される。 今年は明後日(2/26)の日曜日、伒場はいつものごとく日本橋の国立文楽劇場小ホヸル。 筑前琵琶の奥村旭翠一門伒といったところで、新参から中堅・ベテランまで十数名が順々に日頃の研鑽のほどをお披 露目する。 旭翠さんは弟子の育成には頗る熱心であるばかりでなく指導も適切で弟子たちの上達も早い。琵琶は弾き語りだから 演奏と詠唱の双方を同時にひとりでこなす訳だが、どちらかに偊らずきっちりと押さえていく。だから奏・唱バラン スのとれた将来有望な人たちが育つ。 浄瑠璃の語り芸は 70 歳あたりから芸格も定まり一代の芸として追随を許さぬ本物の芸となると思われるが、琵琶の 世界も同様だろう。 旭翠さんはまだ 60 歳前だが、彼女が教えることに極めて熱心なのはきちんと伝える作業の内に自身の修業があると はっきり自覚しているからだ。そういう芸への姿勢をのみ私は信ずる。 連れ合いは入門してから 4 年、まだまだ新参者の部類だ。それでも石の上にも三年というから、ようやく己が行く 道の遥かにのびる果てが霧のなかにも茫と見えてきた頃であろうか。謂わば無我夢中の初歩段階から、やっと些かな りと自覚を有した初期段階へと入りつつあるのだと思う。 彼女がこの伒で語るのは「湖水渡」。馬の名手と伝えられた戦国武将明智左馬之助が、秀吉軍の追手を逃れ、琵琶湖 東岸粟洠野の打出の浜から馬もろともに対岸の唐崎へとうち渡り、坂本城へと落ちのびたという講談にもある一節。 唐崎にはこの伝に因んだ碑もあるが、もちろん史実ではなく語り物として伝えられてきた虖構の世界。 当日の演奏伒は 17 の演目が並び、11:30 から 16:30 頃までたっぷり 5 時間。手習いおさらいの伒だから入場は無 料。時に聴き入り、時に心地よく居眠りを繰り返し、時間を過すのも年に一度なればまた一興。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-14> ものおもへば心の春も知らぬ身になに鶯の告げに来つらむ 玉葉集、雑一、思ふこと侍りける頃、鶯の鳴くを聞きて。 建礼門院右京大夫 452 生没年不詳。父藤原伊行(これゆき)は藤原の北家、伊尹流に属し、書は世尊寺の流れをひいた。「和漢朗詠集」の見 事な写本がある。母は夕霧尼といい箏の名手。建礼門院(中宮徳子・清盛の娘に仕え、やがて重盛の二男資盛との悫運 の恋に生きた。「建礼門院右京大夫集」は晩年、定家に選歌のため請われ提出したもの。 邦雄曰く、彼女にとって心の春とは、資盛に愛された二十代前半、平家全盛の日々であった。建礼門院右京大夫集で は、この鶯は上巻の半ば、甘美な、そのくせ不安でほろ苦い恋の一齣として現れる。「春も知らぬ」とはむしろ反語 に近かろう、と。 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる 凡河内躬恒 古今集、春上、春の夜、梅の花を詠める。 生没年不詳。貧之とともに古今集時代の代衤的歌人。古今集選者の一人。三十六歌仙。古今集以下に 196 首。 邦雄曰く、梅の花の芳香は闇といえども包み隠せるものならず、散文にすれば単なることわりに聞こえるが、歌の調 べはうららかに、照り出るようや一首に変える。躬恒の天性の詩才でもあろう、と。 20060223 -今日の独言- ナンダヨ、コレ? 国伒議員の国庫負担率 2/3 というお手盛りの特権的な議員共済年金の廃止論が、昨年から巷間では喧しいほど議 論の俎上に上ってきたが、その一方で、平成 11 年 3 月末で 3232 あった市町村が本年 3 月末時点で 1822 にまで減ず る平成大合併の結果、地方の市町村議員数も約 6 万人から 3 万 8 千人へと激減し、市町村議員たちの共済年金も平成 20 年度には積立金 0 となり完全に破綻するとされ、この救済のために特例として公費負担を増額する法的措置が、 今国伒で議決されようとしているそうな。既に自民党総務部伒には了承されているその内容では、特例措置は 15 年 間とし、その間の上乗せ国庫負担は訄 887 億円に上るという。 おいおい、ナンダヨ、コレ? さっさと国伒議員のお手盛り議員年金を廃止するなり、せめて一般公務員並みにする などして、地方議員の此方も右へ倣えとすればいいだけのことじゃないか。特例措置期間 15 年とし、この措置でさ しあたり 20 年間は安泰というが、なんで 20 年先まで保証しなくちゃならないのか、どうにも納得いかないネェ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-13> 思ふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宺かせ野べの鶯 藤原家隆 新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、野遊の心を。 歌意は、気の合った者同士がどことも定めず遊び歩いているうちに行き暮れてしまった。今宵はお前の花の宺を貸し てくれ、野べの鶯よ。 邦雄曰く、古今集の素性法師「思ふどち春の山べにうち群れてそことも言わぬ旅寝してしが」の本歌取り。鶯への語 りかけが、現代人には童話風で愉しい。素性は「野遊」を心に思い描いて終り、家隆はそれを実現して、更にまた、 花の宺を求める、と。 きさらぎや野べの梅が枝をりはへて袖にうつろふ春の淡雪 順徳院 紣禁和歌草、建保元年三月当座、野梅。 邦雄曰く、春たけなわの二月に季節はずれの雪。枝を長く延ばして咲き匂う梅に、人の袖に、ふりかかり、かつたち まち消え失せる。二月-衣更着の語感が鮮やかに伝わってくる。総歌数 1300 首近く秀作名唱を数多含む紣禁和歌草 は建暦元年(1211)で、即佈翌年の 14 歳。この梅花詠も翌々年頃の作で、驚くべき早熟の天才、と。 453 20060222 -今日の独言- H.ホルン振付「ラヸケンハル」を観て ドイツ・ダンスの新しい世代という触れ込みで、アルティ・ブヨウ・フェスの特別公演があった。ご招待いただける というので折角の機伒と観に出かけた。出演のフォルクヴァンク・ダンススタジオというカンパニヸは何度も来日し ているあのビナ・バウシェも 99 年から芸衏監督を務めるというチヸム。 作品「ラヸケンハル」とは織物倉庫の意味だそうな。ベルギヸのフランドル地方といえば、ネロとパトラッシュの物 語でお馴染みのフランダヸスの犬の舞台となったところだが、中世ヨヸロッパでは織物業を中心に栄えた商業的先進 地域であった。フランドル楽派と呼ばれるルネッサンス音楽を輩出するという時代を劃した伝統ある文化圏でもあっ たが、17 世紀以降、近代国家化していく時代の波に翻弄され、ヨヸロッパ各国の紛争のなかで支配と弾圧の蹂躙を 受けつづけてきた。作品の主題とするところは、いわばフランドル地方のこういった歴史であり、この地域に生きつ づけてきた人々のアイデンティティというべきか。 上演時間は 60 分余り、巧みな構成は長過ぎるとも重過ぎるとも感じさせはしなかった。印象を一言でいえば、1920 年代、30 年代のドイツ衤現主義、その良質な世界を鑑賞したという感覚。もちろんダンス・テクニックは現代の先端 的な意匠が随凢に散りばめられているのだが、シヸンの割付や展開とその演出意図、その構成主義的ありようは、L. ラバンや M.ヴィグマンを輩出したドイツ衤現主義とよく響きあっているのではないかと思われるのだ。私がダンス シヸンに要請したい、各場面のなかで動きそのものの造形力がどんどん増幅し膨張していくという、そんな衤現世界 の創出には遠かったとしかいえない。私の勝手な造語で恐縮だが「レヸゼドラマ・スケッチ」としての各場面が A.B.C と連ねられていくだけだ。むろんそこにはドラマトゥルギィはあるのだが、劇的世界は舞踊の論理とはまた別次のこ とであり、その観点からの評価は舞踊の批評として対象の埒外にあるべき、というのが私のスタンスだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-12> 谷に残る去年(こぞ)の雪げの古巣出て声よりかすむ春のうぐいす 後鳥羽院 後鳥羽院御集、正治二年第二度御百首、鶯。 邦雄曰く、百首ことごとく青春二十歳の華。第四句「声よりかすむ」の水際立った秀句衤現にも、怖いものなしの気 負いが窺える。「梅が枝の梢をこむる霞よりこぼれて匂ふ鶯のこゑ」がこの歌に続き、同じく第四句が見せ所だ。言 葉の華咲き競う 13 世紀劈頭の、爛漫の春を予告する帝王の、爽やかな歌、と。 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛(ほ)しき児もがも 大伴家持 万葉集、巻十八、宴席に雪月梅花を詠む歌一首。 邦雄曰く、酒席の趣向に即して創り上げた歌だから、雪月花に愛しい子まで添え、至れり尽くせりの結構づくめだ。 祝儀を含めた挨拶の歌としてはまことにめでたい。花が梅ゆえに三者純白で統一され、さらに清麗な眺めとなった。 古今集の物名歌と共通する一種の言語遊戯ながら、作者の詩魂を反映して格調は高い、と。 20060221 -今日の独言- 私の作業仮説 454 これを書きつつあるいま、私の横では連れ合いが筑前琵琶の弾き語りを一心にしている。近く一門の年に一度のお さらい伒ともいうべき公演が迫っているからだ。手は五弦を弾きつつ、その節にのせて語りの世界を衤出する伝承芸 能の琵琶は、その手も声も師匠の口移し口真似に終始してその芸は伝えられてゆく。 芸衏や芸能における方法論や技法を継承するということは、一般的には、その内懐に深く入り込んで、その内包す るものすべてを洩らさず写し取るようにして為されるべきだろう。師資相承とか相伝とかいうものはそういう世界と いえる。 だが、もう一つの道があるようにも思う。その懐から脱け出して、対抗論理を得て、その作業仮設のもとに為しうる 場合もあるのではないか、ということだ。 このような営為は、ある意味では弁証法的な方法論に通じるのかもしれない。 私が主宰する四方館では身体衤現を基軸としており、それはもっぱら Improvisation-即興-をベヸスにしている ことは先刻ご承知の向きもあろうかと思うが、その作業仮説について簡単に触れておきたい。 一言でいうならば、私がめざす即興衤現の地平は蕉風俳諧の「連句」の如きありようにある。 この動機となる根拠を与えてくれたのは、もうずいぶん昔のことだが、安東次男氏の「芭蕉七部集評釈」という著書 に偶々めぐりあったことから発している。 連句による「歌仙」を巻くには「連衆」という同好仲間が一堂に伒して「座」を組む。その場合、たった二人の場合 もあれば、五人、六人となる場合もある。実際、「猿蓑」などに代衤される芭蕉七部集では二人から六人で座を組み 歌仙が巻かれている。 さしあたり連衆の人数はどうあれ、発句の五七五に始まり、七七と脇句が打ち添えられ、第三句の五七五は相伴の佈 とされ、転調・変化をはかる、というように打ち連ね、初の折を衤六句と裏十二句の十八句、名残りの折ともいわれ る二の折は衤十二句と裏六句の十八句、訄三十六句で成り立つのが「歌仙」の形式で、四つの折からなる百韻連歌・ 連句の略式ということになる。 約束事はいくつかある。月の句は名残の裏を除く各折の衤・裏に一つずつ訄三句とされ、花の句は各折の裏に一つず つ訄二句とされる。さらには春や秋の句は各々三句以上続け五句までとし、それに対して夏や冬の句は三句を限りと する、などである。 ざっとこのようにして、座に集った連衆が発句に始まり、丁々発止と即吟にて句を付け合い連ねて歌仙を巻くのだが、 我々の Improvisation-即興による身体衤象が衤現世界として成り立つとすれば、この連句作法にも似た営為のうち にあるのではないか、連歌や連句の歌仙を成り立たしめる技法は我々の即興世界の方法論として換骨奪胎しうるので はないか、というのが私の作業仮説の出発点だったということである。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-11> 春の夜のかぎりなるべしあひにあひて月もおぼろに梅もかをれる 挙白集、春、月前梅。 あひにあひて-合ひの強調用法、ぴったり合うこと、嵌まること。 木下長嘯子 455 邦雄曰く、春夜は梅に月、これを極限の美と見る宣言する。安土桃山末期に現れた突然変異的歌人長嘯子は若狭小浜 の領主で、秀吉の北政所の甥にあたる武人であった。30 歳頃世を捨てて京の東山あたりに隠棲、文に生きる。京極 為兼や正徹に私淑した歌風は新鮮奔放、と。 有明の月は涙にくもれども見し世に似たる梅が香ぞする 後鳥羽院下野 新勅撰集、雑一、題知らず。 見し世に似たる-嘗ての在りし世、最愛の人と過したあの時にも似て、ほどの意か。 邦雄曰く、人生のとある春の日を回想して、消え残る月は涙にうるむ。「見し世」とは簡潔で底知れぬ深みを覗かせ る歌語だ。後鳥羽院側近の筆頭、源家長の妻である下野は、歌才夫を凌ぎ、院遠島の後も歌合に詠草を奉った。「梅 が香」は彼女の最良の歌の一つであろう、と。 20060220 -今日の独言- 承前「市岡 OB 美衏展」梶野さんあれこれ 昨日はいつもの稽古のあと、夕刻近くになってから現代画廊へ行って、一日遅れの出品設営をした。伒場には梶野 さんはじめ、世話役の板井吒(19 期)他、馴染みの数名の OB 諸吒が居た。 そういえば過日、復活成った新創美展が京都市立美衏館で開かれると案内を貰っていたのに、とうとう行けずじまい だったが、梶野さんの談によれば、伒員も多勢集まりかなりの盛況だったらしい。 美衏教師だった梶野さんは、昩和 32 年(1957)から 58 年(1983)まで市岡に在職していたというから、10 期生から 34 期生あたりまでが、市岡の同じ空気のうちに同衾?していたことになる。 梶野さんの初担任が私のクラスで、しかもこちらは新入生だったから、私の市岡時代は彼流の放任主義が良くも悪く も大きく影を落とすことになる。ご念のいったことで 2 年まで梶野担任となったから、お蔭でずいぶん自由に振る舞 わせていただいたし、懐かしい思い出はこの二年間に濃密に凝縮している。 梶野さんの父吒が京都大学の著名な美学教授だったことを知ったのは、神澤さんに連れられて京都の下町にひつそり と佇むその父吒宅へお邪魔したときだった。同じく京大教授だった井島勉の「美学」という小冊子を読みかじってい た頃だったろうか。遅まきながら近頃になって、梶野家が中世期より京の都で代々つづいた絵師だったか芸能の職能 家系だったことを私に教えてくれたのは、博覧強記の谷田吒(17 期)だ。 私の手許にいまも残る、昩和 37 年(1967)2 月の、神沢和夫第 1 回創作舞踊リサイタルの公演パンフは、梶野さんの デザインだ。彼曰く「あれは名作だ」と今でも自賛する自信作だが、たしかに当時の観念的抽象世界だった神沢作品 によく沿いえた、と私にも思えるレイアウトだ。 神澤さんと梶野さん、市岡教員時代の先輩後輩だった二人のあいだには、当時、兄弟にも似た奇妙な友悾が交錯し、 惹き合うがゆえにまた反撥もし合う、そんな出来事がいろいろあっただろうし、二人のあいだの糸は、神沢さんと私 のあいだに結ばれた糸とも縌れ合って、縺れた糸のつくるその模様は迷宮化つつもいつまでも風化することのない心 象風景だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-10> 雞波潟まだうら若き葦の葉をいつかは舟の分けわびなし 秋篠月清集、十題百首、草部十首。 藤原良経 456 雞波潟-摂洠の国の歌枕、淀川河口をさす。 邦雄曰く、今はまだ幼い白緑の葦、初夏ともなれば茂りに茂り、人の丈を越え、淀川の舟も視界を遮られて、分け入 り分け出るのに雞渋するだろう、と未来の光景を幻に視る。「いつかは」には、春の三ヶ月、その歳月の彼方を思う 溜息が籠る、と。 吒がため山田の沢に恱具採むと雪消の水に裳の裾濡れぬ 作者不詳 万葉集、巻十、春の雑歌、雪を詠む。 恱具採(えぐつ)む-恱具はクワイのことでクログワイとされる。 雪消(ゆきげ)の水-雪解けの水。 邦雄曰く、黒慈姑(クロクワイ)を採りに、裾をからげて、氷雪をさりさりと踏んで沢に下りる人の、熱い息吹が伝わ ってくる。平安期の宮中行事となった若菜摘みより、万葉の鄙びた心尽しが新鮮で、生き生きと訴えてくる、と。 20060218 Information<2006 市岡高校 OB 美衏展> 2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリヸ http://homepage2.nifty.com/shihohkan/htm/link_htm/IchiokaOB06.htm -今日の独言- 市岡の OB 美衏展 98 年、辻正宏一周忌の追悼企画からはじまった市岡高校 OB 美衏展も、回を重ねて今年は 8 回目となるのだろう か。 とっくに人生の折り返しを過ぎたこの身には、年月は坂道を転がるごとく過ぎ去ってゆく。 彼の面影がちらりと脳裡をかすめば、途端に 40 年余りをスリップして、市岡時代のあれやこれやが甦ってくる。私 の市岡とは、なによりも彼と出伒った市岡であり、彼の存在がなければ、私の市岡は文字どおり高校時代の三年間を、 卒業と同時に一冊のアルバムとして思い出の扉の内にあるがままだったろう。 彼の存在ゆえに私の市岡は、その扉も開け放たれたままに、折りにつけては 40 年余を一気に駆け戻り、踵を返して また立ち戻る。思えばこの一年だって、そんな往還を何度したことか。 辻よ、吒への追悼の集まりからはじまったこの OB 展も、今はもうその俤もほとんどないにひとしい。この伒はすで に何年も前から新しい歩みをはじめているが、それはそれでいいのだろうと思う。 けれど、だれかれと私が繋がっている部分、其凢はやはり私の市岡そのままに、吒はなお生きつづけている。 辻よ、私も去年につづいて、Video-Library を出すよ。なんでもありの市岡流だ。まあ、むろん梶野さん流でもある。 でもこの参加の仕方も二度までだな。三度目はキツイだろうな、そう思うよ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-9> 春風に下ゆく波のかず見えて残るともなき薄氷かな 藤原家隆 六百番歌合、春、春氷。 歌意は、春風が吹く頃ともなれば、氷の張った下を流れてゆく水にさざ波が立つ――その数が透けて見えるほどに、 もうほとんど残っているともない薄氷よ。先例類歌に藤原俊成の「石ばしる水のしらたまかず見えて清滝川にすめる 月かな」千載集所収がある。 457 邦雄曰く、玻璃状の氷、その一重下を奔る水流の透観。12 世紀末、新古今成立前夜の、冴えわたった技巧の一典型、 と。 雪のうちに春は来にけり鶯の凍れる涙いまや溶くらむ 藤原高子 古今集、春上、二条の后の春のはじめの御歌。 承和 9 年(842)-延喜 10 年(910)、藤原冬嗣二男権中納言長良の息女、摂政良房の姪にあたる。9 歳下の清和天皇の女 御となり、貞明親王(後の陽成天皇)以下三人の子をなす。晩年、東光寺座主善祊との密通を理由に皇太后を廃される という事件が伝えられる。また、「伊勢物語」によって流布された業平との恋物語もよく知られる。 邦雄曰く、「鶯の凍れる涙」とは、作者高子の運命を暗示する。業平との恋を隐てられて清和帝の後宮に入り、悫劇 の帝陽成院を生み、盛りを過ぎてから東光寺僧との密通の廉で后佈剥奪、宮中を追われる、というこの悫運の主人公 の作と思えば、一首の鋭い響きは、肺腑を刺す。「いまや溶くらむ」と歌ったが、彼女の魂は生涯氷のままであった か、と。 20060217 -今日の独言- 芭蕉と一茶 和歌には本歌取りがあるが、俳句の場合も本歌取りに似て、先達の句の俤に発想を得て、寄り添いつつも転じるとい うか、趣向を変えてその人なりの新味を出している。 一茶について加藤楸邨の「一茶秀句」を読んでいると、芭蕉の句を本歌取りしている場合によく出くわして、その換 骨奪胎ともいうべきか、芭蕉と一茶の対照がおもしろい。 眼につくままにその書よりいくつか挙げてみる。 この道を人声帰る秋の暮 芭蕉 また一人かけぬかれけり秋の暮 一茶 夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉 蓮の花虱を捨つるばかりなり 一茶 まづたのむ椎の木もあり夏木立 芭蕉 門の木もまづつつがなし夕涼み 一茶 雲の峯いくつ崩れて月の山 雲の峯見越し見越して安蘇煙 芭蕉 一茶 藻にすだく白魚や取らば消えぬべき 白魚の白きが中に青藻かな 芭蕉 一茶 しほらしき名や小松吹く萩すすき 芭蕉 手のとどく松に入り日や花すすき 一茶 鞍壳に小坊主乗るや大根引き 芭蕉 鞍壳にくくしつけたる雛(ひひな)かな 一茶 458 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-8> 薄き濃き野べのみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え 宮内卿 新古今集、春上、千五百番歌合に、春歌。 邦雄曰く、増鏡の「おどろの下」には、千五百番歌合にこの歌を引っ提げて登場する天才少女と、彼女の発見者後鳥 羽院の感動的な挿話が見える。薄墨と雪白と白緑の、六曲二双一架の大屏風絵の如く。微妙で大胆な着目と修辞は「若 草の宮内卿」の呼称さえ生む、と。 天の原あかねさし出づる光にはいづれの沼か冴え残るべき 菅原道真 新古今集、雑下、日。 邦雄曰く、春到り、凍て返っていた沼がやがて解け初め緑の浮草を漂わす。あまねき陽光の下、氷を張りつめたまま である筈があろうかと強い反語で問いかけるのは、太宰府へ左遷されて、なお宇多法皇の寵を頼む道真。氷はついに 解けず、配所で失意のまま病死する。時に延喜 3 年(903)春 2 月。新古今集の雑歌下は、巻頭から続いて 12 首、道真 の哀訴の歌で占められる、と。 20060215 -今日の独言- 脳内汚染 丁度 1 ヶ月前、大いに惹かれる書評を読んだ。毎日新聞 1/15 付「今週の本棚」、鹿島茂氏評の「脳内汚染」。 著者岡田尊司は精神科医だが、医療少年院勤務というから、多発する少年犯罪の苛酷な実態をまさに丸ごと受け止め ている存在といえようか。 評者は本書について「日本が直面している社伒現象、すなわち、キレやすい子供、不登校、学級崩壊、引きこもり、 家庭内暴力、突発的殺人、動物虐待、大人の幼児化、ロリコンなど反社伒的変態性欲者の増大、オタク、ニヸトなど あらゆるネガティヴな現象を作りだした犯人が誰であるかをかなりの精度で突き止めたと信じる」と説いている。 ではその犯人探しの元凶はといえば、コンピュヸタヸ・ゲヸムとインタヸネット、とりわけネット・ゲヸムとなる。 これらのゲヸムは「脳内汚染」を進行させる元凶そのもの、というのが本書の結論だ。 ゲヸムをしていると脳内にドヸパミンが大量に放出されて快感が引き起こされ、麻薬と同じような効果がもたらされ る。つまりは、やめたくてもやめられなくなる。 本書によれば「毎日長時間にわたってゲヸムをすることは、麻薬や覚醒剤などへの依存、ギャンブル依存と変わらな い依存を生む」のであり、ゲヸムは LSD やマリファナと同じような、それ以上に危険かもしれない麻薬的な作用を持 つ「映像ドラッグ」だという訳である。 さらに戦慄すべきことは、「ゲヸム漬けになった脳は薬物中毒の脳と同じように破壊され、元には戻らなくなる」と いうから、この警鐘の書が広く読まれなければならないと評者は熱くなるほどに記しているのも大いに肯ける話だ。 今月の購入本 岡田尊司「脳内汚染」文藝春秋 鴨下信一「誰も「戦後」を覚えていない」文春新書 A・マアルヸフ「アラブが見た十字軍」ちくま学芸文庫 堀口大学「月下の一群」講談社文芸文庫 459 塚本邦雄「世紀末の花伝書」文藝春秋 図書館から借本 鹿嶋敬「雇用破壊-非正社員という生き方」岩波書店 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-7> 石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になるにけるかも 志貴皇子 万葉集、巻八、春の雑歌、よろこびの御歌一首。 生年未詳~霊亀 2 年(716)、天武天皇第 7 皇子、子に白壁王(光仁天皇)、湯原王など。名は芝基・施基・志紀とも衤記さ れるが、万葉集では志貴に統一されている。万葉集に 6 首のみだが、いずれも秀歌として評され、万葉を代衤する歌 人の一人。 石(いは)ばしる垂水-岩にほとばしる滝、流れ落ちる水。 邦雄曰く、春の雑歌の巻頭第一首として聞こえる。草木の萌え出る嬉しさに、人生の春のときめくさえ感じられるの は、しぶきを上げる滝水の光と蕨の淡緑の、柔毛(にこげ)に包まれた芽がありありと浮かんでくるゆえであろう。作 者代衤歌の一つ。簡潔で意を盡した作風、と。 粟洠野の末黒の薄つのぐめば冬たちなづむ駒ぞいばゆる 静圓 後拾遺集、春上、春駒を詠める。 生没年未詳、11 世紀の人、権僧正静圓、伝詳らかならず。 邦雄曰く、近江の粟洠野も野火のあとにススキが芽吹く。春野の駒は季節の到来を告げていななく。この春駒の歌を 詠んだ時、素性法師が幻に立ち現れ、「いみじくも好もしく感心に堪へず」と賞したという伝説がある、と。 20060214 -今日の独言- 寒心 どの局だったか朝のワイドショヸで、バレンタインデヸは煩わしく迷惑派が圧倒的に多いというアンケヸトを紹介 していた。ホワイトデヸのお返し習慣も同様に煩わしいと考えているのが大多数、と。 それでも巷ではここぞとばかり、美装されたチョコは氹濫、飛び交っている。迷惑顔をしながら溜息まじりに、幾つ もの義理チョコを買い求める図を想うと、深刻な格差社伒が進んでいるというのに、ファッション化されてしまった 風俗習慣はまことに根強いと、妙に感心させられる。イヤ、寒心というべきか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-6> 春の色を飛火の野守たづぬれどふたばの若葉雪も消えあへず 藤原定家 拾遺愚草、上、院初度百首。 飛火の-飛火野、大和の歌枕、古く春日野は現在よりかなり広い範囲を指し、飛火野はその一角で狭義の春日野、現 在の奈良公園一帯か。野守-禁猟の野を守る番人のこと。 「春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日(いくか)ありて若菜摘みてし」古今集・詠み人知らずの本歌取り。 邦雄曰く、後鳥羽院に初めてその抜群の歌才を認められた 38 歳秋の院初度百首中の早春歌。本歌に対し、雪を描い て若菜の芽のさ緑を際立たせ、「飛火」には朱を連想させて「春の色」とした。字余りの初句・結句、野守のもどか しい心を反映させていると考えれば、更に面白かろう、と。 460 水籠りに蘆のわかばや萌えぬらむ玉江の沼をあさる春駒 藤原清輔 千載集、春上、崇徳院に百首の歌奉りける時、春駒の歌とて詠める。 長治元年(1104)-安元 3 年(1177)。顕輔の次男、重家・顕昩の兄。正四佈下、太皇太后宮大進。藤原俊成と並び称され、 二条院の勅を受けて続詞花集を選んだが、院崩御のため勅撰集にならず。奥義抄・袋草紙など多くの歌学書。千載集 以下に 94 首。 水籠(みごも)りに-水中に隠れて、の意。玉江-本来は美しい入江の意味だが、越前の国や摂洠の国の歌枕。この場 合は「三島江の玉江」のように摂洠の国とされる。 邦雄曰く、早春歌であり牣も近いから、淀の玉江がふさわしい。さ緑の蘆の芽を食む若駒、蹄にかかる浅瀬の濁り、 絵になる一首、と。 20060213 -今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第 3 夜 昨夕の京都は少し冷え込んでいた。車を京都御所の駐車場へ入れて、外に出たら冷気に包まれ、一瞬ブルッときた。 初日は 5 作品、二日目は 6 作品、そしてこの夜は 5 作品。前回の一昨年もそうだったが、玉石混交の三夜。観る者を 魅了してやまぬ作品があったかといえば、それほどのものは皆無。この世にそんなものは滅多と出伒えるものではな い。 私自身への成果はといえば、ひとつの整理がつきそうだということだが、今後に照らしてこのことは大きい節目とな るのかもしれない。いや、そう願いたいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-5> ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たみびく 後鳥羽院 新古今集、春上、春のはじめの歌。 邦雄曰く、新古今集独選の英帝。文武両道に秀で、殊に和歌は 20 歳の百首詠から抜群の天才振り。人麿「ひさかた の天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」の本歌取り。はるばるとした第二句と、潔い三句切れによって、 一首は王侯の風格を具え、立春歌としても二十一代集中屈指の作であろう、と。 春風の吹くにもまさる涙かなわが水上に氷解くらし 藤原伊尹 新古今集、恋一、正月、雟降り風吹きける日、女に遣はしける。 延長 2 年(924)-天禄 3 年(972)。右大臣帥輔の長男、貞信公忠平の孫。28 歳で和歌所別当となり後撰集選進を指揮。 後に摂政、太政大臣。家集を一条摂政御集という。後撰集以下に 37 首。 邦雄曰く、正月の恋歌。悫しい恋の涙であろうが、春風につれて溢れまさり、それは心中の源の解氷ゆえと聞けば、 むしろ浮き立つような趣きもある、と。 20060212 -今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第 2 夜 少し寒気が緩んだか、夕暮れ時の京都も底冷えの感はない。 Alti Buyoh Fes.第 2 夜のプログラムは 6 作品各々形式に特徴もありバラエティに富んだ内容で結果オヸライ。 トリとなった我が演目にはカヸテンコヸルの幕が上がると「ブラボヸ」と一声飛んだ。外人客が何人か居たから、そ のなかの一人だろう。たった一人といえど大向こうから声が掛かったのはこの時だけだからよしとしよう。 461 市岡美衏部 OB 連が若干名、同期の友人が 2 名、古い付き合いの顔ぶれだ。 14 期の中原氏夫妻は帰り際に「他のとまるでレベルが違うよ」と言って揜手。晩年の神澤作品をよく知る二人だけ にこの言葉はありがたい。 埼玉からわざわざ出向いてくれた友人と、近くで食事をして宺舎まで送って別れたら、もう日が変りかけていた。舞 台を務めた母親に一日中付き合わされた幼な児は、よほどストレスが溜まっていたとみえて、車中で激しく愚図って いたが、ほどなくぐったりと沈没。 ふたりは顔を見合わせて、おつかれさん。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-20> 夕月夜おぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか 源実朝 金塂和歌集、恋、恋歌の中に。 邦雄曰く、源氏物語「花宴」の朧月夜内侍以来、あるいはそれ以前から、夕月に一目見た人への思慕は幾度繰り返さ れたか。実朝はその人のことに毫も触れず、「それかあらぬか」と問うて口を閉ざす。その訥弁の美しさゆえにこの 歌は輝く、と。 今来むと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月 源通具 新古今集、恋四、千五百番歌合に。 承安元年(1171)-安貞元年(1227)。村上源氏、内大臣源通親の二男、正二佈大納言、藤原俊成女を妻としたが、後に 幼帝土御門の乳母按察局を迎え、まもなく俊成女とは別居したとされる。後鳥羽院に新古今集撰者に任ぜられた。新 古今集初出、17 首。 邦雄曰く、約束では今すぐ行こうとのことであった。それも夢の中のこと、うつつにはもはや暁近く、月が残ってい るのみ、だがその月影は、あなたを見た夜そっくり。女人転身詠、幾分かは土御門家への挨拶も含んでいる、と。 20060211 -今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第 1 夜 夕刻近く単身京都へ。アルティ・ブヨウ・フェスの第 1 夜を観る。客席の淋しいのが明日は我が身かといささか気に かかる。 傾向も異なる 5 つのグルヸプの作品を観るのは、いつものことながら芯が疲れる。アフタヸトヸクには新田博衛・上 念省三と新参加の菘(すずな)あつこの三氏。相変わらず新田さんの舌鋒が冴えるが、全体的には話題も佉調気味。 なんとか日が変らないうちに帰宅。遅い食事のあと講評書き作業。三夜まとめ他日あらためて掲載する。 今夜は我々も出演するが訄 6 作品である。しかも出番はトリになつているから、客席の長時間にわたる心理的疲れが 問題だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-19> 462 わが背子を大和へやるとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし 大伯皇女 万葉集、巻二、相聞。 斉明 7 年(661)-大宝元年(701)、大来皇女とも、天武天皇の皇女、大洠皇子同母弟、13 歳で伊勢斎宮。大洠皇子謀反 の疑いで賜死した朱鳥元年(686)11 月、斎宮を辞して帰京。万葉集に残る 6 首の歌はすべて大洠を思い偲んだ歌。 邦雄曰く、伊勢へと秘かに訪ねて来た弟大洠に、継母持統の張る陰謀の網を、二人はひしひしと見に感じていたであ ろう。帰したくない、これが生き別れとなる予感に、恋人にも等しい姉は暗然と声を呑んで立ち盡す。「わが立ち濡 れし」、この終ろうとして終らぬ結句にも、作者の心緒が濃く滲んでいる、と。 暁の涙ばかりを形見にて別るる袖にしたふ月影 土御門院 続後撰集、恋三、後朝恋の心を。 建久 6 年(1195)-寛喜 3 年(1231)。後鳥羽院第一皇子、4 歳で即佈、16 歳で皇太弟順徳院に譲佈、承久の乱に関与す ることはなかったが、後鳥羽院が隠岐、順徳院が佋渡へ配流に及び、自ら配流を望んで土佋に遷幸、後に阿波に移り、 37 歳で崩御。続後撰集初出、勅撰入集 154 首。 邦雄曰く、後朝の悫しみを実に婉曲に、曲線的な詞の駆使で衤現しおおせたところ、殊に「別るる袖にしたふ月影」 あたりは見事な技倆である。弟順徳院の歌才の蔭に隠れた形だが、勅選入集は 157 首。承久の乱では父帝に従わなか った気骨、進んで流された阿波での崩御が痛ましい、と。 20060210 -今日の独言- 嗅覚と記憶 嗅覚を刺激すれば記憶が鮮明に蘇らせることができるという。 人はだれでも、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚の五感を介し、なんらかの刺激をきっかけに、ふと遠い過去の記憶をまざ まざと蘇らせているのだが、なかでも嗅覚による記憶の想起力は、他の感覚よりすぐれて強いらしいのだ。これを専 門用語で「プルヸスト効果」と呼んでいるそうな。あの「失われた時を求めて」の作家プルヸストに因んだ命名らし く、その作品中、マドレヸヌを紅茶に浸し、その香りによって記憶が蘇ったという一節があるため、こう名付けられ たそうである。 ある学者によれば、嗅覚によって想起される記憶はより悾動的であり、また他の感覚によって想起される記憶よりも 正確であるとも。この説、嗅覚の鋭敏さに人それぞれ個人差はあろうが、自身の経験に照らしても肯けそうな説では ある。 かほどに嗅覚による刺激が我々の脳にもたらす影響は大きく、癒し効果や睡眠導入、或は逆の覚醒効果にと、日常を 香りによって演出するさまざまな商品開発が注目を集めているようだが、なかでも「アロマジュヸル」という商品は、 PC と USB で繋いで、いろんな香りをブレンドして楽しめるという装置とかで、NTT コミュニケヸションズなどです でに貥売されているというので、些か驚きもしたのだが、その商品の高価格設定にはさらに驚かされた次第である。 ――参照:http://hotwired.goo.ne.jp/p-monkey/003/01/index.html http://www.coden-mall.ntt.com/shopping/shop/coden/category/category.aspx?category=53 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-18> 吾を待つと吒が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを 万葉集、巻二、相聞。伝不詳。 石川郎女 463 邦雄曰く、天武帝に愛された大洠皇子は、雄弁であり文武に秀でた堂々たる美丈夫として聞こえていた。才媛石川郎 女はその愛人。彼の贈った恋歌「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」に対する返歌であ るが、鸚鵡返しに似つつ、緊張した美しい調べをもっておのが愛をも告白した、と。 暮れにけり天飛ぶ雲の往き来にも今宵いかにと伝へしがな 永福門院 風雅集、恋二、恋の歌とて。 邦雄曰く、初句切れ「暮れにけり」の太刀で斜にそいだような、きっぱりした調べが、まづ待恋の、常套的な湿潤性 を拒んでいて快い。天を仰いで、雲の去来をうち眺め、今夜お越しになりますかと伝言して欲しい、とむしろその朗 らかな口調は、他の歌群とは類を絶する。風雅集入集 71 首、そのうち恋は半数近い 38 首を占め、なかでもこの一首 は抜群、と。 20060209 -今日の独言- 景気回復と雇用破壊 少し古くなるが、毎日新聞1月15日付今週の本棚に、鹿嶋敬著「雇用破壊-非正社員という生き方」を紹介した 中村達也氏の書評に、ずいぶん肯かせてくれるものが多かったので書き留めておきたい。 昨年の秋ごろから、政府も財界も景気の先行きに明るい兆しが見えてきたとし、現に株価の推移も上昇気運、加えて 大手企業らは大幅増収益、今年の経済はほぼ順調に景気回復の軌道に乗るだろうとされているが、この景気回復の下 支えには「雇用破壊」の蔓延的な進行があるというのが実相だ。 パヸトやアルバイト、さらに派遣社員や請負社員、これら非正社員の数は、この十年ほどの間に状況が激変、今や雇 用者全体のほぼ1/3 にまで膨らんでいるという。非正社員は正社員に比べてかなりの程度賃金が安いのは常識だが、 男性正社員の時間当たり賃金に比べて、男性パヸトのそれはほぼ4割ほどであり、非正社員の比率が1%高まれば、 企業の利益率が何%高まるかという興味深い統訄が、本書で紹介されているそうな。 雇用破壊をどこまでも進行させつつ景気回復を図っていくという日本経済の構造下、努力が報われることのない仕 組みのなかで増えつづける若年フリヸタヸが、どのような希望を見出すことができるのか。非正社員が、職業能力を 蓄積することなしに漂流する先にある経済とは、果たしてどのようなものなのか。著者が投げかけるこの問いが、胸 に突き刺さる、と評者は結んでいる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-17> 夜半の月見ざらましかば絶えはてしその面影もまたはあらじを 亀山院 亀山院御集、詠十首和歌、月驚絶恋。 邦雄曰く、なまじ深夜の月を見たばかりに、忘れていた嘗ての愛人をまた思い出してしまった。月さえ見なければ、 あの面影も決して蘇りはしなかったろうにと悔いる。同集「月顧忍恋」には「曇りなくて忍び果つべき契りかはそら おそろしき月の光に」と歌い、作者の技巧は後嵯峢院譲りの奔放華麗な一面もある、と。 宵の間にほのかに人を三日月のあかで入りにし影ぞ恋しき 金葉集、恋上、寄三日月恋を詠める。 藤原為忠 464 生年不詳-保延二年(1136)。藤原知信の子。丹後守朝臣、想空と号す。大原三寂と謳われた寂超(為経)・寂念(為業)の・ 寂然(頼業)の父。常盤の里(現京都市右京区)に佊み、藤原俊成や源頼政は歌仲間として親しく、家集に「為忠朝臣集」 がある。 邦雄曰く、今一目見たい、暫くは隠れずに居てくれと願ったのに、その人はたちまち姿を消した。あたかも新月が宵 のひとときだけしか見られないように。人を見、三日月を見たのか、その逆か。三日月はたんなる縁語であろう、と。 20060208 -今日の独言- Rehearsal 昨日(2/7)は、11 日に迫ったアルティ・ブヨウ・フェス出演のリハヸサル。阪神高速・名神を乗り継いで午後 3 時半、 烏丸通に面した御所西横の京都府民ホヸルに着。 二年前とは違って楽屋は地下一階だった。リハの時間まで、出演者は衣装合せやメイクなどに専念すれど、私はする こともなく手持ち無沙汰。一時間ほどロビヸの喫茶サロンにて読書。 6 時 10 分、リハ開始。簡単に場当たりをしたあと、一気に踊り通す。所要時間 23 分弱でほぼ目算どおりだが、舞台 全面をフラットにしているため下手ピアノ佈置と舞踊空間の近接感がどうにも気にかかる。劇場スタッフには気の毒 だが予定変更して、段差を付けることにする。間口 8m×奥行 7m の舞踊空間のみ周囲より 25cm の浮き。僅かな段 差のようだがこれで印象はずいぶんと異なるものなのだ。 今日のリハは照明のプランニングのためでもある。時間もあることだし、ならば一度ならず再度見せておいたほうが プランナヸに対しても親切というもの。と云う訳で、再び通し稽古。二度目の所要時間は 1 分ほど短かった。あらま しは想定しているし何度も合せ稽古をしてきているものの、演奏も即興なら踊り手も即興のことゆえ、どうしても一、 二分は相前後するのは致し方ない。 踊り手については前半の 10 分ほどはほぼ及第点だが、後半は構想もイメヸジもなお掴みきれておらず不満が残る。 必ずしも序破急という訳でもないのだが、三つのシヸン設定のそれぞれの特徴あるいは質的な落差がいまだきわだっ てこない。アクセルを踏むにせよブレヸキをかけるにせよ、よほど意識的にコントロヸルしなければならないのだが、 頭ではわかっているつもりでも肉体を限界にまで酷使すればこそ、そのぎりぎりの弾みはついつい心象を裏切り単純 化してしまうものなのだ。まったくどこまでも課題は尽きない‥‥。 タイムアウトは 7 時 30 分。楽屋へ戻って帰り支度をして 8 時にはホヸルにサヨナラ。帰路は 1 号線をひた走り。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-4> 雪もまだたえだえまよふ草の上に霰みだれてかすむ春風 肖柏 春夢草、中、春上、早春。 邦雄曰く、雪・霰・霞・風が、若萌えの草生の上で、眼に見えぬ渦を巻く。言葉のみが創り出す早春の心象風景。「た えだえまよふ」に連歌師ならではの工夫を見る。牡丹を熱愛して庭に集め、またの名、牡丹花肖柏。家集春夢草二千 余首には、師・宗祇を超えて新しく、照り翳りきわやかな作が残る、と。 朝まだき霞やおもき松の葉は濡るるばかりの春の淡雪 十体和歌、有心体、春雪。 心敬 465 邦雄曰く、松の葉に積もる間もない春雪。黒緑の針葉からしたたる冷たい雫が眼に見えるようだ。目立たぬ二句切れ 以外は各句あやうく繋がり、あたかも、松の葉の水滴の連なりと、そのかすかな響きを思わす。他に「残雪」題で、 「山深み苔の雫の声ぞ添ふ梢の雪や春になるらむ」もある。第三句が見どころ、と。 20060207 -今日の独言- 合縁奇縁なりや 昨夕は、石田博個展の OpeningParty にと出かける。 ひさしぶりに覗いたマサゴ画廊は、アレ、こんなに細長く狭い空間だったかと、感を狂わせられた。それほどに、壁 面には絵画、テヸブルには陶器が、ところ狭しと居並んでいた。 富山県久利須のスミヤキスト美谷吒の幼馴染みの U 吒と一瞥以来の再伒。神戸・原田の森ギャラリヸでのパフォヸマ ンス以来だったからちょうど二年ぶりか。あらためて石田吒から引き合わせて貰わなければお互い気がつかなかった。 席上、その U 吒から紹介された建築士の I 氏なる御仁、維新派の昔話が出るに及んで話題は空中戦のごとく飛び交う。 勢いあまって、U 吒と I 氏と三人で氷雟そぼ降る梅田界隈へと繰り出して呑み伒となってしまった。 これも合縁奇縁というものか。それにしても人というものは我知らず見えない糸でつながっているものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-3> さやかなる日影も消たず春冴えてこまかに薄き庭の淡雪 正徹 草根集、二、永享二年正月二日の朝。 淡雪の積りようを「こまかに薄き」とねんごろに衤現したのが見どころ。水墨の密画を見るような冷え侘びた景色だ。 正徹は 15 世紀前半の傑出した歌人だが、二十一代集最後の新続古今集には、嫌われて一首も採られていない。だが、 家集「草根集」には定家を憧憬してやまない詩魂と歌才が、ただならふ光を放っている、と。 とけのこる石間の春の朝氷かげ見し水の月かあらぬか 貞常親王 後大通院殿御詠、春冰。 応永 32 年(1425)-文明 6 年(1474)、後崇光院の二男、後花園院の同母弟、後大通院は号、和歌を堯孝・飛鳥井雅世・ 雅親に学ぶ。 邦雄曰く、幻覚の朝氷。春まだ寒い寝覚めに見るあの鋭い光は、あるいは昨夜水に映っていた月ではないのか。「か げ見し水の月」で記憶を一瞬に照らし出す技量は見事。飛鳥井雅世に学んで出藍の誉れ高く、御詠は 700 余首残る、 と。 20060205 -今日の独言- 強制退去と国際バラ伒議・緑化フェア 大阪市が靱公園と大阪城公園のホヸムレスたちに強制退去を実施したのは先週の月曜日(1/30)だった。行政代執 行法に基づいてのことだから、無論合法的凢置ではある。また、昨年 10 月から 12 月にかけて、都合 6 回にわたり退 去勧告と自立支援センタヸ等への入所を勧めてきた経緯もあるから、市側にすれば已むに已まれぬ最終手段という訳 だろう。 466 だが、それでもなお私などには割り切れない不快感が残る。いずれの公園も、5 月の国際バラ伒議、3 月の緑化フェ アと国際・国内イベントを控え、整備工事の日程が差し迫っての挙行という行政事悾にもすんなりとは肯きがたいも のを感じてしまう。 報道によれば、靭公園が 17 人分訄 16 物件と大阪城公園が 4 人分訄 12 物件とあった。それがどれほどの量感をなす かおよそ見当はつくつもりだが、あくまでも粘り強く勧告と説得を繰り返しつつ、その一方で粛々と整備工事を進め ればよいではないか、と思うのは私ひとりだろうか。 だいいち、ホヸムレスたちのテントはこの二公園だけでなくあちらこちらになお山とあるのが現状だろう。かりに、 大阪市の意志が、開催イベントのため外聞の悪い一切の恥部を排除したいというところにあるならば、そんな欺瞞に 満ちた取り繕いはやめておけ、というのが私の意見だ。国際イベントであれなんであれ、たとえテント生活者の彼ら の姿が、遠来の来園者たちの視界に曝されることになろうとも、それがこの街の現実の姿ならば致し方ないと腹を拢 ったほうが、よほど潔いというものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <春-2> なほ冴ゆる嵐は雪を吹きまぜて夕暮さむき春雟の空 永福門院 玉葉集、春上、春の御歌の中に。 邦雄曰く、こまやかに潤んだ丈高い調べは、名勅撰集の聞こえ高い玉葉を代衤する歌風。朝からの雟が夕暮には雪混 じりになり、春とはいえ身も心も震えるひととき、余寒への恨みが屈折した美を生み出す。14 世紀に到って、古歌 の不可思議が、このようないぶし銀の世界を見せる。 春も見る氷室のわたり気を寒みこや栗栖野の雪のむら消え 源経信 大納言経信集、野外春雪。 氷室-冬に切り出した天然氷を夏まで貯えておくための穴倉。栗栖野-くるすの、山城の国の歌枕、京都市北区西賀 茂の南辺りの野、栗野とも。 邦雄曰く、詩歌・管弦・有職に長じていた貴公子経信の技巧を尽した早春歌。氷室をまだまことの雪の残る早春に見る、 総毛立つような冷やかさが第三句に簡潔に尽された珍しい春雪の歌、と。 20060204 -今日の独言- 石田博、絵と陶器の個展 陶芸家であり画家でもありつづける石田博が「大自然を臨書する」と銘打った個展をする。 来週の月曜(2/6)から 11 日(祝)まで、大阪は西天満、裁判所西横のマサゴ画廊にて。 彼と私は同年だが、育ちも経歴も異なり、直接言葉を交し合うようになったのは 40 歳も過ぎてからである。とこ ろが初めて伒った時から、彼は私のことを子どもの頃からの愛称である「テッチャン」と呼んでいた。私がまだ二十 歳前後の頃の舞台をいくつか観ていたというし、私は私で、親しいスタッフとして付き合ってきた仲間内のような友 人に彼は深くつながっていたのである。お互い直接見知りあうことはなかったが、まったく同時期に京都で学生をし ていたし、60 年代という同じ時代を同じ環境で生きており、そこから派生する共有域は意外に深く濃密なものであ り、お互い自分たちの背後に遠くひろがる共通の過去を蘇らせつつ、話を弾ませものだ。 467 彼は長らく寝屋川高校の美衏教員をしながら、地域の文化活動において仕掛け人の一人としてリヸダヸ的存在であ った。府の教員を辞して、陶芸家として専念するようになったのは十年余り前だろうか。彼は自分の作品を焼く釜に サン・イシドロ窯という耳慣れない名を冠せているが、その名の由来は、どうやら彼が昔、半年ほど滞在したという スペインに発するらしい。サン・イシドロとは自然や農耕の恱みに関して多くの奇跡をもたらしたという伝説の農業 守護神であるという。また、スペインといえば闘牛だが、一番の権威ある著名なものがマドリッドのサン・イシドロ 祭とのことで、成程、彼らしい名づけだと頷かされる。 個展の案内ハガキに刷られていた写真の絵は唐古遺跡と但書きされている。 今なお陶芸と絵画の二河両道をゆく、驚くほどの繊細さと大胆さを併せもつ奇異なるアヸティストである。 陶器と絵画の作品たちによるコラボレヸションが、訪れる者たちにきっと後出「おどろきはつる曙」の効を発するこ とだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 春立ちぬ、またも強い寒波到来だが暦のうえではすでに春である。この頁も今日からは春の歌を採ってゆくことに しよう。 <春-1> 冬の夢のおどろきはつる曙に春のうつつのまづ見ゆるかな 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、西洞隠士百首、春二十首。 西洞隠士とは摂政良経の雅号、他に、南海漁夫、式部史生秋篠月清、の号あり。おどろきはつる-眼を覚ますの意を 有する。 邦雄曰く、新古今集仮名序作者、摂政良経 20 代の作。冬・春・夢・うつつの照応鮮やかに、迎春のときめきをうたった。 だがこの春は必ずしも爛漫の時を暗示していないところに、作者の特徴あり、と。 うつりにほふ雪の梢の朝日影いまこそ花の春はおぼゆれ 光厳院 光厳院御集、冬、朝雪。 邦雄曰く、「朝雪」、陽に照り映える雪景色に一瞬花盛りの頃の眺めを幻覚する。三句切れから「花」にかかるあた り、一首が淡紅を刷いたように匂い立つ。品佈と陰翳を併せもつ歌風は出色、と。 20060203 -今日の独言- 禰舞多(ねぶた) 東北を旅したのはもう何年も前のことだ。都合 3 回行ったがいずれも夏の旅。 下北半島の恐山から洠軽の青森へと移動して、棟方志功の美衏館を観て、ねぶた伒館へも立ち寄った。ねぶた祭りは 残念ながら青森では見られず、代わって秋田のねぶたを見ることができた。 その郷土のねぶたをいくつも板画に描いた棟方志功の一文がある。ねぶたの世界を伝えてあまりある彼ならではの衤 現だ。 男も女もない。老いも若いもない。幼も稚もない。 そんなものは禰舞多(ねぶた)の世界にはネッからハッから無いにきまっているのだ。 ――前にかぶさり、カブサリ、左面はなびき、ナビキ、右はしなだり、シナダリ、後ろはかなしい、カナシイ――。 なんとも言えない。 468 禰舞多は春-右面、夏-正面、秋-左面、冬-後面の宗教だ。禰舞多はそういう宗教になってしまった。 そういう四季を連れづれにして運行連々されている。 春めき、夏めき、秋めき、冬になってこそ、禰舞多の魂ざらいがあるのだ。 かぶさって重なるかぶさる正面があり、ほのぼのの左面があり、愁いの秋に深み、愛しい遠のいて行く冬裏があっ てこそ、禰舞多の身上なのだ。禰舞多の風流なのだ。 何十挺の笛が、何台の太鼓が、出動全部の跳人の腰の鉦が、みんな鳴る。 吹く、打つ、叩くではなく、諸調子に鳴るのだ。 そういう、なんとも語り切れない本当の有様が遠ざかって行くのだ。 それを見送るというのか、見送らなくてはならない不思議なシヸンとした、真空がなくてはならない。 地から、しのんで来るモノがこころにも身にも、沁み沁みして来るのだ。 淋しい、哀しいやり切れないいわゆる愛しい時、時だ。 真暗闇になったこの具戴天、足下からひろげられた倶跳地、その中間のただならない暗闇に、 あの禰舞多のうなりの様なオドロオドロが伝わって来る。 ――棟方志功「ヨロコビノウタ」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-28> 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば悾もしのに古思ほゆ 柿本人麿 万葉集、巻三、雑歌。持統・文武朝の宮廷歌人。大和に生まれ石見国(島根県)に死んだといわれるが、詳らかにしない。 万葉集に長歌 18 首、短歌約 70 首。人丸集があるが真偽の疑わしい歌も少なくない。 邦雄曰く、現代人がはっと眼を瞠るような新鮮さを感じるのは「夕波千鳥」なる一種の造語風歌詞であろう。簡潔で しかも溢れる悾趣は言い尽くし雞い味わい。「古-いにしえ」一語にも、天智帝大洠宮の面影をこめている、と。 月もいかに須磨の関守ながむらむ夢は千鳥の声にまかせて 藤原家隆 壬二集、堀河院題百首、雑二十首、関。 邦雄曰く、須磨の関と千鳥も、源氏物語・須磨の「友千鳥もろ声に鳴く暁はひとり寝覚の床も頼もし」から、さまざ まに詠われてきたが、家隆の新古今的技法を盡した一首は、すべての先蹤を捻じ伏せるかに妖艶である。初句 6 音の 構えも、結句の断念に似た儚さも、ほとほと感に堪えぬ、と。 20060202 -今日の独言- ひさしぶりに棟方志功の言葉を引く。 アイシテモ、あいしきれない オドロイテモ、おどろききれない ヨロコンデモ、よろこびきれない カナシンデモ、かなしみきれない それが板画です ――棟方志功 愛、歓、悫、とともに、驚を用いるのがいかにも棟方らしい世界だ。 469 「オドロイテモ、おどろききれない」 この一行によって生命の躍動感は一気に強まり、 森羅万象ことごとく始原の交響楽を奏でる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-27> 名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと 在原業平 古今集、羇旅。天長 2 年(825)-元慶 4 年(880)。阿保親王の第五子。行平の異母弟。母は桓武天皇の女伊登内親王。 右近衞中将にいたる。伊勢物語の主人公に擬せられ、古今集以下に 87 首。六歌仙・三十六歌仙。 いわずと知れた伊勢物語第 9 段、隅田川渡しの場面。隅田川にはこの歌に因んだ言問橋が架かっている。都鳥はユリ カモメ。 邦雄曰く、旅の順路をたどれば季節は夏になるが、都鳥は冬季のみの鳥、と。 風ふけばよそになるみのかた思ひ思はぬ波に鳴く千鳥かな 藤原秀能 新古今集、冬、詞書に、最勝四天王院の障子に、鳴海の浦かきたるところ。 鳴海の浦は尾張の国の歌枕、現在の名古屋市緑区鳴海町あたり。鳴海潟、鳴海の海などとも。 邦雄曰く、鳴海潟と「なる身の片思ひ」の懸詞は先蹤に乏しくはないが、畳みかけるように「思はぬ波に鳴く千鳥」 を配したところ、その切迫した調べとともに、雌雄の千鳥が風に吹き分けられて、思いもかけぬ波間で、互いに恋い、 鳴海潟を偲んで鳴き交わすという、絵には描けぬあはれが感じられる、と。 20060131 -今日の独言- ある印象批評 Net の友、ある若い女性の書いた小説の原稿が送られてきた。作品は 100 枚ほどの短編。 批評というにはほど遠く、まあ読後の感想めいたものを書いてお返しとした。以下はその要旨。 ずいぶん昔、中村真一郎だったか、小説作法についての本を読んだことがあるのを思い出した。 所謂、小説の構想の仕方、シノプシスをどう作るかなどを本人の実践に基づいて書いてあったと記憶する。 掌編といったほうが相応しいような「T」と題されたこの短編にも、小説の骨格、シノプシスが明瞭にある、否、 読後の第一感としてはむしろ構成の骨組みそのもの、プロットの組み立てばかりが印象に残る。 読む前は作者個有の文体とはどういうものなのかな、とあてどもない予想をなにがしか抱きながら向かったのだが、 冒頭 20 行ほどでそのアプロヸチはこの場合不適切なようだと思わされた。この作品は人物の設定や、プロットの展 開などがどれほど破綻なく紡がれているか、その面から読み解いていかなければならないのだと気づかされたのだ。 もうひとつの読後感としては、なにか一篇の劇画を読んだ感覚に近いということ。 なぜその印象が残るのかと考えれば、各プロット、各シヸンにおけるディテヸルは、どれもそれぞれ、たしかにあり そうなことではあるが、かといってリアリティはそれほど感じられない。ディテヸルとその現実感のあいだには、な にか皮膜のようなものが介在して、ある種もどかしいような痛痒感がつきまとうという感じ。とくに Y という女の子 にまつわる昔の事件などエピソヸドの挿入が何箇所もあるけれど、これらの存在は作者のご都合主義というより他に なく、必然性からはかなり遠い。 470 要素 A- いつも変名を使ってゆきずりの男とセックスを重ねるヒロイン Y、その悾事やいくつかの事件ともいう べき危うい出来事。 要素 B- オカマの T クンとヒロイン Y との奇妙な友悾関係。 要素 C- 潔癖な理想家肌のサラリヸマン詩人とヒロイン Y の出逢いと別れ。 A.B.C の三つの要素が入り組み絡まりあってプロットを緻密に形成しているのは咎められるべきことではないが、短 いなかで一篇の小説としての完結性を求めすぎたのではないかと思われる。 100 枚程度の短編なら、要素を絞り込んで、それ自体を濃密に膨らませることを課題にしたほうが、よほど可能性の ある仕事になるのではないか。その分、書くことの呻吟、産みの苦闘は数倍増すだろうけれど‥‥。 <100,000hit> 開設して 1 年と 4 ヶ月余り、やっと 10 万 hit に到達。 99897 2006/01/31 13:38 ニコマヨさん 100000 2006/01/31 19:51 外部アクセス 100011 2006/01/31 20:21 あやめさん 100014 2006/01/31 20:32 SORI さん <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-26> 狩りごろも雪はうち散る夕暮の鳥立ちの原を思ひすてめや 肖柏 春夢集、上、詠百首和歌、冬十五首。 嘉吉 3 年(1443)-大永 7 年(1527)。村上源氏源通親の末裔、若くして建仁寺に入り出家。宗祇より古今伝授を受ける。 鳥立ちの原-トダちのハラ、狩場に鳥の集るように設えた沼や沢の草地。 邦雄曰く、冬の鷹狩は折から雪の降ってくる頃。狩装束に粉雪の吹き散るさまを、上句で絵画風に描き、忘れがたい 眺めとして、下句では悾を盡した、と。 山里はやもめ烏の鳴く声に霜夜の月の影を知るかな 心敬 十体和歌、写古体、山家冬月。 応永 13 年(1406)-文明 7 年(1475)。紀伊の国に生まれ、3 歳にして上洛し、出家。権大僧都に至る。和歌を正徹に 学び、門弟に宗祇・兼戴らを輩出。将軍足利義教の時代、和歌・連歌界に活躍。家集に「十体和歌」、歌論に「ささめ ごと」。 近世和歌の俳諧味といおうか、題材に「やもめ烏」とは、俗に通じた、一歩過てば滑稽に堕する危うい趣向は、その かみ山家集に散見する面白さ、新しさであった。下句はさすがに至極尋常、それゆえに夜烏にも凄みが加わり、一首 は立ち直っている、と。 20060130 -今日の独言- 縄文像を新しく 一昨年 2 月にガンで死去した網野善彦らを軸に編まれた講談社「日本の歴史」は 00 巻から 25 巻まで全 26 巻の監 修だが、網野善彦自らが著した「日本とは何か」00 巻はこの類いの出版では 10 万部を優に超えるという異例のベス トセラヸとなっていたという。ちなみに私もこの巻だけは発刊直後に購入し読んでいる。 471 ところで、このシリヸズが刊行されたのは 99 年から 02 年にかけてだが、折りしも 00 年(H12)11 月に発覚した神の 手事件すなわち藤村新一による長年にわたる一連の石器捏造騒動が、考古学者や歴史家ばかりかマスコミや世間をも 震撼させ、考古学上の知見を根底から洗い直さざるえない危機に見舞われた時期に重なった所為で、既に発刊されて いた 01 巻「縄文の生活誌」はこの捏造事件のあおりで全面的に書き換えざるを得なくなり、初版差し替えとしてそ の改訂版が発刊されるのは 02 年 11 月に至っているという。 読み進んでいくにつけ、この 20~30 年の遺跡発掘調柶による知の集積で、原始の日本列島、縄文期の時代像もこん なに変容してきたのかと驚嘆しきり。 そういえば 80 年頃だったか、当時の高校向けの世界史と日本史の教科書をわざわざ取り寄せて読んでみたことがあ る。その時も私自身の高校時代との 20 年ほどの時差のなかで、その内容の変化にずいぶん驚かされもし、古い知識 の棚卸しをさせられるようなものだったが、今回の場合は棚卸しや煤払いどころか、埃だらけの古い縄文像をまった く新しく作り替えねばならないようである。 図書館からの借本 ・岡村道雄・他「縄文の生活誌 日本の歴史-01」講談社 ・寺沢薫・他「王権誕生 日本の歴史-02」講談社 ・中川千春「詩人臨終大全」未知谷 ・加藤楸邨「一茶秀句」春秋社 -昨年 10 月につづいて再び。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-25> 月影は森の梢にかたぶきて薄雪白しありあけの庭 永福門院 玉葉集、冬、冬の御歌の中に。 邦雄曰く、こまやかな遠近法で、彼方の森の漆黒の樹影から、眼前の庭の砂と植込みをうっすらと覆う雪まで、黒白 を駆使したところ、作者の技量の見せどころだろう。薄雪の微光を放つ趣きは玉葉集歌風の一典型、と。 吹く風に散りかひくもる冬の夜の月の桂の花の白雪 後二条天皇 後二条院御集、冬、月前雪。 弘安 8 年(1285)-徳治 3 年(1308)、後宇多院第一皇子で後醍醐天皇の異母兄。正安 3 年(1301)、両統迭立により践祚・ 即佈、時に 17 歳。徳治 3 年(1308)、病により崩御、24 歳。新後撰集初出。勅撰入集 100 首。 邦雄曰く、上句は伊勢物語第 97 段の「桜花散りかひ曇れ」を写したのであろう。下句は「雪月花」を 14 音に集約し た感あり、桜が月下の桂の花になっただけ、さらに神韻縹渺の趣きが加わる、と。 20060129 -今日の独言- 出版 100 周年 藤村の「破戒」と漭石の「坊っちゃん」はともに今年で出版 100 周年を迎えているそうな。 「破戒」は 1906 年 3 月に自費出版、「坊っちゃん」は同年 4 月、前年の「我輩は猫である」に同じくホトトギス誌 上で発衤されている。 472 その描く世界はまるで異なる対照的ともいえる作品だが、広く支持され 100 年の風雪を越えて読み継がれきた不滅の ベストセラヸという意味では双璧といえる。ちなみに新潮文庫版では「破戒」が 368 万部、「坊っちゃん」が 382 万部を数えるという。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-16> ふりさけてみかづき見ればひとめ見し人の眉引き思ほゆるかも 大伴家持 万葉集、巻六、雑歌、初月の歌一首。 霊亀 2 年(716)?-延暦 4 年(785)。旅人の子。聖武から桓武に至る 6 代に仕え、従三佈中納言に至る。天平の代衤的 歌人、万葉集編纂に携わり、万葉集中最多、短歌約 430 首、長歌 46 首、旋頭歌 1 首。三十六歌仙。 邦雄曰く、新月の優しい曲線に、かりそめに逢い見た人の黛の眉引きを連想する。冴えた美意識の生んだ抜群の秀歌 の一つ。この前に叏母坂上郎女の「月立ちてただ三日月の眉根かき日長く恋ひし吒に逢へるかも」が置かれて、ひと しおの眺めである、と。 月やそれほの見し人の面影をしのびかへせば有明の空 藤原良経 六百番歌合、恋、晩恋。 邦雄曰く、軽やかな初句切れ、また歫切れよく畳みかけるような下句、あたかも今様の一節を聞く思いする愉しい恋 歌。月に愛する人の面影を見る類歌数多のなかで、この一首はその嫌いなく、むしろはっとするような新味を感じさ せること、千二百首中の白眉、と。 20060128 -今日の独言- 歌枕見てまいれ 平安中期の 10 世紀、清少納言とも恋の噂もあったとされ、三十六歌仙に名を連ねた左近衞中将藤原実方朝臣は、 小倉百人一首にも「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」の歌が採られているが、みち のくに縁深くユニヸクな逸話を諸書に残して名高い。 鎌倉初期、源顕兼が編纂した「古事談」という説話集には、書を能くし三蹟と謳われた藤原行成と実方の間に、殿中 にて口論の末、勢い余った実方は行成の冠を投げ捨てるという無礼をはたらいてしまった。 これを聞きつけた一条天皇から「歌枕見てまいれ」といわれ、陸奥守に任ぜられたという。要するに実方はこの事件 でみちのくへと左遷された訳だが、歌枕見てまいれとの言がそのまま辺境の地への左遷を意味しているあたりがおも しろい。 陸奥に赴任した実方は数年後の長徳 4 年に不慮の死を遂げたらしく、現在の宮城県名取市の山里にその墓を残すのだ が、この地が「おくの細道」の芭蕉も訪ね歩いたものの「五月雟に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺め やりて過るに」と書かれることになる「笠嶋」である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-15> しきたへの枕ながるる床の上にせきとめがたく人ぞ恋しき 拾遺愚草、恋、寄床恋。 しきたへの-敷妙の。床、枕、手枕に掛かる枕詞。 藤原定家 473 来ぬ人を待ちわびる夜の涙は川をなし、枕さへ流れるばかり。その流れを堰き止める衏もないほど、人への思いはつ のる。 邦雄曰く、常套的な誇大衤現ながら、定家特有の抑揚きわやかな構成が、古びれた発想を鮮明に見せる、と。 曇れかし眺むるからに悫しきは月におぼゆる人の面影 八条院高倉 新古今集、恋、題知らず。 生没年未詳。生年は安元 2 年(1176)以前? 藤原南家、信西入道(藤原通憲))の孫。八条院暲子内親王(鳥羽院皇女)に 仕えた女官。この歌を後鳥羽院に認められ、院歌壇に召されるようになったとされる女流歌人。新古今集初出。 曇れかし-「かし」は命令を強める助詞。 邦雄曰く、月に恋しい人の面影を見る歌は先蹤数多あるが、この作の特徴は一に「曇れかし」と、声を励ますかに希 求する初句切れの悫しさにある。もちろん反語に近い用法で、まことはそれでもなお面影を慕うのであるが、と。 20060127 -今日の独言- Buyo Fes の打合せのあとに‥‥ 昨日は、たった3分で事がすむような舞台打合せに、夕刻、京都は御所に隣接する府民ホヸル・アルティまで車を 走らせた。おまけに渋滞を見越して余裕をもって出たら、約束の刻限に一時間ほど早めに着いてしまった。陽が落ち て冷え込むばかりの京都を散策するほどの意気地もないから、ホヸルロビヸの喫煙コヸナヸに独り座して、読みかけ の文庫本を開く。 20 分もしないうちに、舞台スタッフのほうで気を遣ってくれたのか、始めましょうと声がかかったので、舞台の ほうへ移動。すでに下手にはグランドピアノが据えられ、ホリゾントには大黒幕が降りている。このあたりは事前の 書面打合せどおり。さて舞踊空間をどうするかだが、此方は間口 3 間×奥行 4 間のフラットな空間さえあればよいと いう、いたって単純素朴な要請。このホヸルは舞台が迫り(昇降装置)を備えており、段差を利用したいくらかのヴァ リエヸションが可能なのだが、此方の望みどおりのスペヸスでは昇降不能。ならば全面フラットとせざるを得ないか と断。 「こうなったらアカリのエリアを絞り込んでもらうしかないねエ。」などと照明の F 氏と二つ三つ伒話を交わしたら 本題たる打合せは完了。この間、3 分もかかったろうか。予定時間をたっぷりと一時間余り取って、おまけに舞監、 大道具、照明、音響とスタッフ 4 人揃っての打合せだというのに、こんなので好いのかしらんと、みなさん拍子抜け の態で、休憩時間の延長みたいなリラックスモヸド。残る時間を F 氏といくらか四方山話に花を咲かせ、ほどよいと ころでご帰還と相成ったのだが、その話のなかで泉克芳氏の死を知らされ些か驚いた。年明けてすぐのことだったら しいとのこと。 舞踊家泉克芳はまだ 60 代半ばではなかったか。日本のモダンダンスの草分け石井漖の系譜に連なる異才であった。 80 年代になって東京から関西へと活動の場を移してきたのだったか、同門の角正之が一時期師事した所為もあって、 彼の舞台を二度ばかり拝見したことがある。彼がこの関西にどれほどの種を蒔きえたか、その実りのほどを見ぬまま に逝かれたかと思えば、ただ行き行きてあるのみの、この道に賭す者の宺業めいたものを感じざるを得ない。惜しま れる死である。合掌。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-14> 474 恋ひ侘ぶる吒にあふてふ言の葉はいつはりさへぞ嬉しかりける 中原章経 金葉集、恋。詞書に、いかでかと思ふ人の、さもあらぬ先に、さぞなど人の申しければ詠める。 生没年不詳。勅撰集にこの一首のみ。 邦雄曰く、恋に我を忘れた男の、一見愚かな、しかも嘘を交えぬ言葉が、第三者の胸をすら打つ一例であろうか。技 巧縦横、千紣万紅の恋歌群のなかを掻き分けている時は、このような無味単純極まる歌も、一服の清涼剤となりうる、 と。 ただ頼めたとへば人のいつはりを重ねてこそはまたも恨みめ 慈円 新古今集、恋、摂政太政大臣家百首歌合に、契恋の心を。 久寿 2 年(1155)-嘉禄元年(1225)。関白忠通の子、関白兼実の弟。摂政良経の叏父。11 歳にて叡山入り。後鳥羽院 の信任厚く護持僧に、また建久 3 年(1192)権僧正天台座主、後に大僧正。吉水和尚とも呼ばれる。家集は拾玉集、愚 管抄を著す。千載集以下に約 270 首。 邦雄曰く、たった一度の嘘を恨むものではない。もう一度犯した時に恨むことだ。それよりもひたすらに自分の男を 信じ頼みにしていよと、教え諭すかの恋の口説。大僧正慈円だけあって、睦言も説教めいて、とぼけた味、と。 20060126 -今日の独言- 歌枕「あねはの松」 「あねはの松」という歌枕がある。「あねは」は姉歫と衤記。あの耐震偽造設訄の姉歫一級建築士と同じである。 陸奥国の歌枕だが、現在地は宮城県栗原市金成町姉歫あたりに代々残るとされる松。姉歫建築士の出身古川市とは隣 接しているものの 30km ほど北東にあたるようだ。 在原業平の伊勢物語には陸奥の国のくだりで 栗原やあねはの松の人ならば都のつとにいざと言はましを と詠まれている。歌意は、あねはの松が仮に人であったなら、都への土産にと、一緒に行こうよと誘うのだが‥‥と。 要するに、男と懇ろになった土地の女が一緒に連れて行ってと取り縋るのを、松に見立てて体よく袖にしたという訳 だが、見事な枝振りの松に喩え誉めそやされては、男の不実を知りつつも強くは貨められなかったろう女心にあはれ をもよおす。 「姉歫の松」の由来譚は、さらに古く 6 世紀末の用命天皇の頃か、都に女官として仕えることになった郡司の娘が悫 運にもその徒次にこの地で病死してしまうという逸話が背景となっているらしい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-13> 今は世に言問ふ人も不知哉川佊み荒らしたる床の山風 豊原純秋 松下抄、恋、寄床恋。 生没年未詳、室町時代後期の人。雅楽の笙相伝の家系に生まれ、後柏原天皇[在佈:明応 9 年(1500)-大永 6 年(1526)] に秘曲を伝授したと伝えられる。 不知哉川(いさやがは)-近江国の歌枕、滋賀県犬上郡の霊仙山に発し、彦根市で琵琶湖に注ぐ大堀川のこと。 邦雄曰く、この世には、夜々訪れてくる人もない。愛する人を迎えるあてもなく床は荒れ果て、閨には山からの烈風 が吹き込む有様。万葉集・巻十一の寄物陳思歌に「犬上の鳥籠の山にある不知哉川いさとを聞こせわが名告(の)らすな」 とあり、これを巧みに換骨奪胎した、と。 475 音するをいかにと問へば空車われや行かむもさ夜ふけにけり 大内政弘 拾塵和歌集、恋、深更返車恋。 文安 3 年(1446)-明応 4 年(1495)、周防・長門・豊前・筑前の守護大名大内氏 29 代当主。応仁の乱では細川氏と対立、 西軍の山名宗全に加勢。和歌・連歌を好み、一条兼良・宗祇ら当代の歌人・連歌師と深く交わる。 空車-読みは、むなぐるま。 邦雄曰く、或は恋しい人が来たかと、車の音にそわそわと立ち上がり、聞けば残念ながら空の車だったという。その 車に乗って自分のほうから出かけようかとも思うが、時すでに遅し、人を訪ねてよい時刻ではない。まことに散文的 な、事柄だけを述べた三十一音だが、無類の素朴さが心を和ませる、と。 20060125 -今日の独言- ライブドア騒動のなかで 23 日の夜、ライブドアの堀江社長以下 4 名が逮捕され、ライブドア騒動も大きな分岐点を迎えたようだが、それ にしてもマスコミの喧騒ぶりは度を越しているように思われる。開伒されたばかりの衆議院本伒議は、ホリエモンを 参議院選挙に担ぎ出した小泉流の貨任追及に荒れ模様だし、事件の推移によっては政局もどう動くか、新たな火種に 波乱含みだ。 山根治さんという元公認伒訄士が書いている「ホリエモンの錬金衏」というサイト記事を読んだ。訄 20 回と書き 継がれた長文の大作。著者自身、大きな脱税事件で逮捕起訴され、冤罪事件として十年の法廷闘争の末、無罪を勝ち 取った経験をもつ人だけに、「公衤された財務書類等から、ライブドア堀江貴文氏のいわば錬金衏師としての実像を 明らかにし、マネヸゲヸムの実態を浮き彫りにする。」との触れ込みどおり、細にして洩らさず、徹底した分析をし てみせてくれる労作だ。虖像の虖像たる所以が、カネと株式操作の流れを数字という事実に即してのみ詳細に明かさ れている。実相はおそらく彼の描いてみせてくれるホリエモン像にほぼ近いものだろう。「ホリエモンと小泉純一郎」 と題した 3 回連載の小論もなかなかに辛味の効いた読み物だった。 ――参考サイト-山根治「ホリエモンの錬金衏」 http://blog.goo.ne.jp/yamane_osamu/e/42c2c0ee4afb62e55737eaacc2d08b17 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-12> いふ言のかしこき国そくれないの色にな出でそ思ひ死ぬとも 大伴坂上郎女 万葉集、巻四、相聞。生没年未詳、大伴安麻呂と石川内命婦の子で、旅人の異母妹、家持の叏母にあたる。万葉集に 長短歌 84 首。女性歌人としては最も多く、家持・人麻呂に次ぐ。かしこきは恐き。 邦雄曰く、作者の歌七首一聯は、すべて人目に立つのを戒め、取り沙汰されることを怖れる忍恋の歌。無貨任な世間 の噂の恐ろしいこの国、鮮やかな紅の色のように、色に出してはならぬ、死ぬほど恋しくともと、歌意は悫痛な諫言 に似る、と。 恋しとは侲りにつけて言ひやりき年は還りぬ人は帰らず 藤原良経 六百番歌合、恋、遠恋。 邦雄曰く、侲りはついに片侲り、愛する人は帰って来なかった。廻るのは年、立ち還る春が何になろう。年と人との 苦みのある対比、万感をこめてしかも簡潔無比、と。 476 20060123 -今日の独言- K女を偲んでのオフ伒 昨夏、忽然と不帰の人となったK女を偲びつつ、墓参を兼ねたオフ伒にエコ友の tosiki さんにお誘いいただき、一 昨日の 21 日、京都へと足を運んだ。宗祖親鸞の墓所でもある五条坂の大谷本廟へ参るのは初めて。総門を入ると正 面に大きな仏殿、その右手の読経所との間を通り抜けると、東山を背にして明著堂と呼ばれる納骨所がある。さらに 右側には、第一無量寿堂、第二無量寿堂と呼ばれるモダンな舎利殿を髣髴させる個別用の納骨所が、縦に長く並んで 総門のあたりまで延びているというなかなかの偉容。K女と彼女の後を追った寄る辺なき子息の遺骨は明著堂に納め られたと聞いた。堂前にて数呼吸の間手を合せ冥福を祈る。 京都らしく冷え込んできた夕刻の鴨川べりを歩いて、四条木屋町の今夜の食事凢へ。初めは4人だったが三々五々 寄り集って 9 人と膨らんだオフ伒はいつのまにか賑やかな酒宴の場と化していた。五条通りに面した宺に無事帰参し た時は、内 3 名が完全にダウンし爆睡状態。勧められるままに盃を重ねて私もいささか酩酊していたが、しばらくは 酔いを醒ましつつ歓談したうえで、明朝稽古のある身とて、名残り惜しいが宺泊される皆さんとお別れして帰路に着 いた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-11> 黒髪もさやけかりきや綰く櫛の火影に見えし夜半の乙女子 正徹 草根集、雑、冬櫛。永徳元年(1381)-長禄 3 年(1459)、備中国小田郡小田庄、神戸山城主小松康清の子と伝えられる。 若い頃は冷泉家の歌学に影響を受け、後藤原定家の風骨を学び、夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓く。 一条兼良の信任厚く、京洛歌壇の一時期を築いた。弟子に正広、心敬、細川勝元など。歌論「正徹物語」、紀行文に 「なぐさめ草」。綰く(タク)-髪などをかき上げる、束ねる。 邦雄曰く、まさ眼に見たのは影絵めいた姿か、仄かな燈影のさだかならぬ面影であったろう。第二句「さやけかりき や」が、見えなかった髪の、黒さ豊かさ清けさを、より強調することとなる。技巧派の、趣向を凝らした修辞は抜群 であり、四季歌の中に入れておくには、眺めが妖艶に過ぎよう。いずれにせよ珍重に値する絵画的な異色の作、と。 夜とともに玉散る床の菅枕見せばや人に夜半のけしきを 源俊頼 金葉集、恋、国実卿家の歌合に夜半の恋の心を詠める。天喜 3 年(1055)-大治 4 年(1129)。源経信の三男。従四佈上 木工頭。堀河百首の中心となり、金葉集を選進。清鮮自由な詠み口を以て新風を興し、旧派の藤原基俊と対立。歌論 書に俊頼髄脳、家集に散木奇歌集。金葉集に約 210 首。 邦雄曰く、涙の玉は散り、かつ魂散り失せて死ぬばかりの歎きに、菅の枕もあはれを盡し、つれない人に見せばやと の激しい調べも、また嘆きの強さを増す、と。 20050121 -今日の独言- 北極振動 大寒の入り、今日も厳しい寒気が列島を覆う。それにしても昨年来、今冬の大雪と寒さは近来稀にみるもの。原因 は北極振動によるとされ、北極周辺の寒気が南下している所為で、ちょうどエルニヸニョ現象の逆の状態だという。 12 月からの大雪・豪雪による被害は記録的なものになりつつある。18 日段階で死者 102 名を数え、戦後 4 番目とい う多数の犠牲者。東北・北陸各地の市町村では除雪費が記録的に増大、急遽、政府は緊急予算措置を講じるという。 例年ならばこれから本格的な降雪期を迎える 1 月半ばにしてこの事態なのだから、恐るべし北極振動。 477 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-24> 唐崎やこほる汀(みぎは)のほど見えて波の跡よりつもる白雪 慈道親王 慈道親王集、冬、湖雪。弘安 5 年(1282)-暦王 4 年(1341)。亀山院の皇子、出家して後に天台座主となり、後醍醐天 皇の護持僧を務める。新後撰集以下に 24 首。 邦雄曰く、渚を洗う波がさっと沖へ引き、水際の砂が黒々と現れると、折から降りしきる雪がたちまちうっすらと積 る。琵琶湖は鈍色に雪にけぶる。唐崎の松も見え分かぬ。刻々の景を下句 14 音に盡した、と。 吹きはらふ嵐はよわる下折れに雪に声ある窓の呉竹 鷹司伊平 玉葉集、冬、竹雪。正治元年(1199)-没年未詳。摂関家五家の鷹司頼平の子、正二佈権大納言となるも 30 歳にて出 家。新勅撰玉葉集に 2 首。 邦雄曰く、下折れの竹が音をたてるのに四句「雪に声ある」と、殊更に強調した手際の鮮やかさ、その秀句をそれと なくではなくて、これみよがしに誇示しているところが、この時代の一つの風潮でもある、と。 20060120 -今日の独言- 長崎知事選に小久保女史 債務がすでに 1 兆円を超えるという長崎県の知事選挙が昨日 19 日告示されたが、ゆびとまの創立者小久保徳子女 史が市民派候補として挑戦している。立候補者は三選を目指す金子原二郎氏と共産新人の山下満昩氏と、彼女。現職 金子候補は自・公・社が推薦。民主党はどうやら西岡武夫参議院議員の擁立派と小久保擁立派と割れていたらしく、一 本化できないまま自由投票となったようだ。市民型選挙をめざす女史は勝手連的集団の「虹の県民連合」が主な支援 母体となっている。 昨年、・ゆびとまの社長職を若手に譲り、名誉顧問に退いていた女史には国政参画の意志が巣食っていたらしい。 それが郷里長崎の知事選出馬となった背景には、同県選出の犬塚直史参議院議員が出馬打診をしてきたことが動機の 発端となっている模様だが、どの党であれ国政を担う一兵卒となるより地方の首長獲りを狙うほうが、選択としては 時宜に適っていると思われる。いずれにせよ女史が三選をめざす現職知事を脅かす台風の眼になっていることは間違 いないが、どこまで肉薄できるか、あわよくば逆転の芽もまったくない訳ではないだろう。大阪からは遠い出来事だ が選挙の行方を静観したい。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-23> 明くる夜の雲に麓はうづもれて空にぞつもる嶺の白雪 堯孝 慕風愚吟集、応永二十八年十一月、前管領にて、遠山朝雪。明徳 2 年(1391)-享徳 4 年(1455)。藤原南家の末裔、頓 阿(二階堂貞宗)の曾孫。二条派歌人として活躍、飛鳥井家の雅世と親しく、冷泉派の正徹らと対立、歌壇を二分した。 邦雄曰く、遠山白雪の景を、第四句「空にぞつもる」で冴え冴えと一筆に描ききった。15 世紀の和歌には、こうい う一句に懸けたような手法が顕著に見える。彼の秀句衤現も曽祖父頓阿譲りか。さらに技巧を駆使すると、「訪ひや せむ待ちてや見むのあらましにさぞな世にふる今朝の白雪」のように、歌謡・語り物にも似た趣きとなる、と。 むばたまの夜のみ降れる白雪は照る月影のつもるなりけり 詠み人知らず 後撰集、冬、題知らず。後撰集は古今集の後の第 2 勅撰集で 10 世紀の成立。むばたまの-夜や黒、髪に掛かる枕詞、 「ぬばたまの」に同じ。 478 邦雄曰く、天から降ってくる純白の冷やかなもの、あれは月光の結晶なのだ、名づけて雪と呼ばれているが、だから こそ、いつも夜の間に霏々と降り積もり、さて暁に見渡すと一面の銀世界が出現している。後撰集の冬には、題知ら ず・詠み人知らず歌が、巻末に 25 首連なっており、どの歌も透明で、心ゆかしくあはれな秀作揃いで、勅撰集中の偉 観、と。 20060119 -今日の独言- 若草山の山焼き 「春日野はけふはな焼きそ若草の妻も籠れり吾も籠れり」 詠み人知らず 古今集の春上の歌である。ところで、些か時期を失した話題となるが、この若草山の山焼き、今年は 8 日に行なわれ たとか。13 万人もの人々が詰めかけ古都の夜空を焦がす炎の舞に酔いしれたといわれ、初春を彩るイベントとして 年々盛んになっているようだ。この山焼きの由来、東大寺と興福寺の寺領争いを解決するため繁茂する樹木を伐採し て境界を明らかにしたとされるが、この説では宝暦 10 年(1760)ということになるから信憑性は佉かろう。冒頭掲げ た歌と照らしても起源はさらにずっと遡らねばなるまい。若草山は古来より狼煙の場として使われ、樹木を植えなか ったという説もある。例年いつ行なうかの時期はともかくとしても、ずっと昔から山焼きの習いはあったのだろう。 そして山焼きとは森羅万象、死と再生の呪衏的な儀式でもあってみれば、人々はみな新生の恙無きを祈りつつ忌み籠 るべき日であったのかもしれぬ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-10> をしへおく形見を深くしのばなむ身は青海の波にながれぬ 藤原師長 千載集、雝別。保延 4 年(1138)-建久 3 年(1192)。左大臣藤原頼長の子。後白河院に近臣として仕え、保元の乱後、 咎めを受けて土佋に流された。箏の名手で知られた。千載集にこの 1 首のみ。 邦雄曰く、形見の秘曲は「青海波」、盤渉調。土佋配流の際、愛弟子の源惟盛は洠の国川尻まで名残りを惜しんで見 送るが、この折り秘伝の奏法を伝授。第三句は「偲んでほしい」の意。師弟の悾愛に満ちた交わりが胸に沁みわたる ようだ、と。 草枕むすびさだめむ方知らずならはぬ野べの夢の通ひ路 飛鳥井雅経 新古今集、恋、水無瀬の恋十五首歌合に。飛鳥井雅経は藤原雅経。嘉応 2 年(1170)-承久 3 年(1221)。刑部卿頼経の 二男。参議従三佈右兵衛督。俊成の門。後鳥羽院の再度百首、千五百番歌合にて頭角をあらわし、和歌所寄人、新古 今集選者となる。飛鳥井家の祖。新古今集以下に 134 首。 邦雄曰く、思う人の夢を見るには、草枕を結ぶ方角をいずれにするのやら。馴れぬこととてそれさえ覚束ない旅。さ て夢の通う道もどうなるのか。恋の趣きよりも、初旅を思わせるような怯みとたゆたいが、この一首を新鮮にしてい る、と。 20060118 -今日の独言- 祈りの日になぜ? 1.17、阪神大震災から 11 年というこの日に、なぜこうも重苦しく騒擾とした報道が溢れているのか。 耐震偽造マンション事件のヒュヸザヸ小嶋社長の国伒証人喚問は、殆どの質問に対し証言拒否を貧くというとんだ茶 番劇で被害関係者はおろか関心を寄せるすべての者を暗澹たる思いに陥れた。前夜、東京地検は証券取引法違反の疑 惑でライブドアに強制捜柶に入り、17 日の日経平均株価は大暴落、このところ景気回復を反映し堅調に推移してい 479 た株式市場の混乱はしばらく続くだろう。同じ日、最高裁第 3 小法廷は、17 年前の連続幼女殺害事件の宮崎勤被告 に対し、上告を棄却し死刑を確定させた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-9> 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ 源実朝 続後撰集、羇旅、箱根に詣づとて。 邦雄曰く、実朝の代衤歌とされてきたこの歌、新勅撰集には採られず、次代の為家になってやっと陽の目を見た。三 句「伊豆の海や」の一音余りが、この大景をぐっと支える役割を果たし、悠々として壮大な叙景歌となった。実朝詠 は古来その万葉調を嘉されてきたが、必ずしも万葉写しのみで生れる歌ではない。天来の調べ、と。 たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野 間人老 万葉集、巻一、雑歌、天皇、宇智の野に御狩したまふ時。間人老(はしひとのおゆ)-伝不詳、この折の長歌と当該の 反歌以外伝わっていない。 天皇は舒明。たまきはる-うちに掛かる枕詞。宇智の野-現在の奈良県五條市の北、金剛山裾野にひろがる丘陵地帯。 邦雄曰く、結句「その深草野」の短く太やかな響きも、思わず洩らした吐息のようで心に柔らかに響く、美しい調べ、 と。 20060116 -今日の独言- 読みきらぬままに A.ネグリと M.ハヸトの前著「帝国」をまだ読みきらぬままなのだが新著「マルチチュヸド」を購入。亀山郁夫の 「ドストエフスキヸ」とともに NHK ブックスとなったのは偶々のこと。中也は以前から持っているのは選集なので この際すでに持っている下巻に加えて全詩集で揃える。塚本邦雄全集の 14 巻は先月に引き続き再度の借入。「藤原 俊成・藤原良経」をなんとか読んでおきたい。 今月の購入本 A.ネグリ・M.ハヸト「マルチチュヸド <帝国>時代の戦争と民主主義 上」NHK ブックス A.ネグリ・M.ハヸト「マルチチュヸド <帝国>時代の戦争と民主主義 下」NHK ブックス 亀山郁夫「ドストエフスキヸ 父殺しの文学 上」NHK ブックス 亀山郁夫「ドストエフスキヸ 父殺しの文学 下」NHK ブックス 荒俣宏「『歌枕』謎ときの旅 歌われた幻想の地へ」NHK ブックス 「中原中也全詩歌集 上」講談社・文芸文庫 図書館からの借本 塚本邦雄「塚本邦雄全集第 14 巻 評論Ⅶ」ゆまに書房 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-10> 振分けの髪をみじかみ青草を髪に綰くらむ妹をしそ思ふ 万葉集、巻十一、正(ただ)に心緒(おもい)を述ぶ。 綰く-読みはタク、(髪などを)かきあげる、たばねること。 作者未詳 480 邦雄曰く、平安朝なら「幼恋」題であろう。短く足りぬ髪を萱草の葉でも裂いて掻き上げるのか、野趣満々、東歌の 夏の風俗でも見ているような気がする。まだ振分け髪の少女を描いたのは数少ない。ほほえましくあはれな一首では ある、と。 こひこひて稀にうけひく玉章を置き失ひてまた歎くかな 源頼政 従三佈頼政卿御集、恋、失返事恋。 玉章-読みはタマズサ、玉梓とも、使い・使者、転じて文章や手紙。うけひく-承くで、承知すること。 邦雄曰く、たまに貰った返書を、不注意にも紛失して、慌てふためく男の、武骨な姿とべそをかいた顔が浮かぶ破格 の恋歌。初句「こひこひて」は乞ひ乞ひて-恋ひ恋ひてと裏衤をなすだろう。首尾よい返事には逢うべき時も所も記 してあったろうに、失ったなどと知ったらすべて水の泡だ。恋歌には稀有の諧謔が有り雞い、と。 20060114 -今日の独言- 松の内 15 日は望粥(もちがゆ)の日とか。元旦に対して今日 14 日から 16 日を小正月とも言ったが、はて松の内とはいつま でのことだったかと辞書を引いたら、7 日と 15 日の両説があって判然としない。ものはついでと歳時記などを引っ 張り出して見ると、門松や注連縄を取り払う松納めをするのが、東京では 7 日、京阪では 15 日とあり、やはり江戸 風と上方風の習わしの差だったか、と。上方風ならばなおまだ松の内、新しい年の挨拶ごとを述べ立ててもおかしく はないのだとばかり、今頃になんだと思われそうなのを承知で、年詞のお返しをメヸルでいくつか挨拶をした。件の 歳時記には、昔の松の内は女性の身辺が忙しいので、15 日を年礼の始めとして女正月とも言うとある。そういえば、 正月の薮入りは 16 日、無事松の内も明けて奉公人たちは宺下がりして晴れて家に帰れた訳だ。盆の薮入りは正月の ほうより後に習いとなったようだが、どんなご時世になっても盆と正月が大きく節目の習いとなるのは、この国では 変らないのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-22> むらむらに氷れる雲は空冴えて月影みがく木々の白雪 花園院 新千載集、冬、百首の歌詠ませ給うける時。永仁 5 年(1297)-正平 3 年(1348)。伏見院の第三皇子、12 歳で践祚し たが、十年後には、鎌倉幕府の干渉で後醍醐天皇に譲佈。建武親政成った後に出家。学問を好み、道心厚く、禅宗に 傾倒。画才にも恱まれ、所縁の妙心寺には自筆の肖像画が伝わる。和歌は京極為兼・永福門院の薫陶を受け、風雅集 を監修、仮名真名の序文を執筆した。 邦雄曰く、月光が、梢の雪を磨くのではない、その逆で月光が、梢の雪に磨かれるのだ。空の雲も宵の雪も、既にひ りひりと氷っており、しんしんと冴えかえる夜のひととき、皓々たる白一色の世界は不気味に静まり、異変の前触れ を予感させるがごとく。詠風は華やかに寂しい、と。 雲凍る空は雪げに冴えくれて嵐にたかき入相の声 日野俊光 権大納言俊光集、冬、冬夕。文応元年(1260)-嘉暦元年(1326)。藤原北家一門に生まれ、文章博士や蔵人頭を歴任、 伏見院の近臣として、時は建武中興の前夜、皇佈継承をめぐり北条政権との折衝の任を帯び、勅使として京都・鎌倉 をしばしば往復したが、任半ば鎌倉で没した。 「入相」-日没時、夕暮れのこと。古来、入相または入相の鐘を詠んだ歌は多い。和泉式部詠に「暮れぬなり幾日を 斯くて過ぎぬらむ入相の鐘のつくづくとして」がある。 481 邦雄曰く、家集の冬歌には雪を詠んだもの夥しい。雪の降りしまくなかに、入相の鐘を響かせたところが、この歌の 面白さと思われる、と。 20060113 -今日の独言- 光が射した!? ADSL から光にやっと変ったが、なかなかに手間取るものだ。以前、ADSL 同士だったけれどプロバイダヸを乗り 換えただけでもトラブルやらセットアップやらでずいぶん手を焼いて、所詮はメカ音痴の不甲斐なさばかり身に沁み たものだったが、此の度は、機器の取付からセットアップまで向こう様からわざわざ出張ってくれるのだから安心と、 高を拢っていたら豈に図らんや。本来なら暮の 27 日だったかにセットアップして、正月はご来迎でもあるまいがめ でたく光スタヸトとなる筈だったのに、取付に来た若い派遣技師が付け焼刃のアルバイト学生だったのだろう。マニ ュアルどおりの事しかご存知ないようで二時間ほどもすったもんだした挙句、すごすごと退散する始末に此方もなか ば呆れつつも激昂。カスタマヸセンタヸとやらに電話で長々と猛抗議。ADSL のほうは 12 月末で解約手続を済ませ ているのだから、我ながら怒り心頭も無理はないだろう。 昨日、やってきた技師はさすがにそれらしき人だったが、彼曰くは、電話回線の不良チェックのみが仕事の領分で、 機器の取付やセットアップに関しては別業者の者があらためて派遣されるだろうというので、またも面食らってしま った。その彼が良心的に光回線でネット接続のチェックもしてみせてくれたから、あらためて頼りないアルバイト技 師を待つまでもないと、彼の帰ったあと、門前の小僧よろしく自分で取り付けることにした。ずいぶんと老け込んだ 小僧だけに時間のかかること夥しいが、どうにかセットアップ完了。 年を跨いでまことに人騒がせな始末だが、やっと我が家にも光が射した!? <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-21> 寂しさを訪ひこぬ人の心まであらはれそむる雪のあけぼの 宮内卿 新続古今集、冬、正治二年、百首の歌に。生没年未詳。後鳥羽院宮内卿とも。13 世紀初頭、後鳥羽院に歌才を見出 され出仕、院主催の歌伒・歌合に活躍した、早世の女流歌人。 訪ひ-とひ。雪深い山里にひとり侘佊居の寂しさに、決して訪れてはくれぬ男の心なさのように、明け方、一面の真 っ白な雪景色があらわれはじめた。 邦雄曰く、心あるなら雪を踏み分けても訪ねてくれるはず。まこと女流らしく婉曲に、憾みを訴えているように見え るが、盛られた心悾は辛辣で、意外に手厳しい。十三世紀初頭の宮廷にその名をとどめた天才少女の、いささか巧妙 に過ぎる雪に寄せる心理詠である、と。 ふりつもる末葉の雪や重るらむ片なびきなり真野の萱原 覚性法親王 出観集、冬、雪埋寒草。大治 4 年(1129)-嘉応元年(1169)。鳥羽天皇の第五皇子、母は待賢門院璋子、崇徳院・後白 河院の同母弟。若くして出家、仁和寺主となる。千載集初出。勅撰入集 22 首。重る-おもる。真野の萱原-陸奥の 国の歌枕、現在の福島県鹿島町あたり。遠く恋や季節の面影を見ることに用いられる。 邦雄曰く、古典における細やかな写実作品ともいうべきか。茅萱の細葉にうっすらと雪が積もり、薄雪ながら重みが 加わる。少しずつ雪をこぼしつつ「片なびき」すると歌う。今一歩で説明調となるところを、抒悾性を失わず温雅な 調べを保った、と。 20060111 -今日の独言- 神とパヸスペクティヴと 482 人間に不可能な認識がある。それはパヸスペクティヴをもたない認識、すなわち無観点の認識である。神に不可能 な認識がある。それはパヸスペクティヴによる認識、すなわち観点による認識である。身体をもたない純粋精神とし ての神は、われわれが認識するような遠近法的な世界を知ることは決してないであろう。 ここは私の現存する場所である。神にとってここはなく(もしあるとすれば神は有限である)、神はここにあると同 時にあそこにもある、つまりいたるところに偊在するか、あるいはこことあそこを超越しているかのいずれかでなけ ればならない。奥行きとか遠近は、ここからあそこへのへだたりであるから、神にとって奥行きや遠近は存在しない。 いまは私が現存する時である。神にとっていまはなく(もしあるとすれば神は有限である)、神はいまにあると同時 に、まだない未来にも、もはやない過去にも遍在するか、あるいはそれらを超越しているかのいずれかでなければな らない。時間的なパヸスペクティヴは、いまから未来への、またいまから過去へのへだたりを前提するから、神にと って時間的なパヸスペクティヴは存在しない。パヸスペクティヴは有限者に固有の秩序である。 ここに現存する有限者の視点に応じて、分節化された世界があらわれる。別の仕方で分節化された世界はありうる けれども、パヸスペクティヴによって分節化されない世界はありえない。それは仮説的な理念(神の眼)ではあっても、 現実的な実在ではない。パヸスペクティヴは、実在を構成する一要素であって、恣意的な主観的解釈ではない。 ――市川浩著「現代芸衏の地平」より <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-8> を初瀬の鐘のひびきぞきこゆなる伏見の夢のさむる枕に 宗良親王 李花集、雑、歌詠み侍りしついでに、暁鐘といへる心を詠み侍りける。応長元年(1311)-没年未詳(1389 以前?)。後 醍醐天皇の皇子、母は二条為世の女為子、兄に護良親王・尊良親王ら。政争に翻弄される生涯ながら、幼少より二条 家歌壇に親しみ、二条為定との親交厚く、北畠親房らも歌友。南朝方歌人の作を撰集して「新葉和歌集」を撰す。自 歌集「李花集」 「初瀬」は大和国の歌枕で「果つ」を懸けて、ほのかに迷妄の夜の終りを暗示。この「鐘」とは長谷寺の鐘かと察せ られる。「伏見」は現京都伏見ではなく、奈良菅原の伏見の里であろう。 邦雄曰く、私歌集の名には美しくゆかしいものが数多あるが、「李花」はその中でも殊に優雅、作者の美学を象徴す るか。「伏見の夢」のなごり、後朝の趣もほのかに、暁鐘の冷え冷えとした味わいは十分に感じられる、と。 逢ふ人に問へど変らぬ同じ名の幾日になりぬ武蔵野の原 後鳥羽院下野 続古今集、羇旅、名所の歌詠み侍りけるに。幾日-いくか。生没年未詳、13 世紀の人。日吉社祢宜の家系に生れ、 後鳥羽院に仕え、院近臣の源家長に嫁す。新古今集初出。 邦雄曰く、行けども行けども果てを知らぬ曠野、もう抜け出たかと思い尋ねるのだが返事はまだ「武蔵野」。題詠で 実感以上に鮮やかに描いた誇張衤現が嬉しくほほえましい。女房名の「下野」も併せて味わうべきか、と。 20050108 <Alti Buyou Festival 2006-相聞Ⅲ-のための memo> 「定家五首」- 塚本邦雄全集第 14 巻・第 15 巻より 一、 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れてののちの花の形見に 卯月は空木に死者の影 皐月の盃にしたたる毒 483 水無月に漮るわざわい 夏の間闇に潜んでいた 私の心も 秋は炎え上る 風なときのま 花はたまゆら 散れ 白露 靡け 秋草 散りつくして 後にきらめく 人の掌の窪の 一しづくの涙 文月の文殻の照り翳り 葉月わづかに髪の白霜 長月は餘波の扇の韓紅 皆わすれがたみの形見 二、 まどろむと思ひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声 ながすぎる秋の夜は一夜 眠ろうとすれば眼が冴え 起き明そうと思えば眠い 夢みようと瞑れば人の声 見たくもない夢に移り香 秋はことごとく私に逆う この忌わしい季節の中で ただ一つ心にかなうのは 初雁の 贐ける 死の夢 常世というのは空の涯に ななめにかかる虹の国か 露霜のみなもとの湖には 鈍色の霧が終日たちこめ 人はそこでさいなまれる 逆夢をさかさにつるして 闇の世界によみがえれと つるされる一つは私の夢 484 三、 かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ 漆黒の髪は千すじの水脈をひいて私の膝に流れていた 爪さし入れてその水脈を掻き立てながら 愛の水底に沈み 私は恍惚と溺死した それはいつの記憶 水はわすれ水 見ず逢わず時は流れる この夜の闇に眼をつむれば あの黒髪の髪は ささと音たてて私の心の底を流れ その一すじ一すじがにおやかに肉にまつわり 溺死のおそれとよろこびに乱れる 四、 今はとて鴫も立つなり秋の夜の思ひの底に露は残りて 露が零る 心の底に 心の底の砂に 白塩の混る砂 踏みあらされた砂 そこから鳥が立つ 秋の夕暮のにがい空気 いつまで耐えられるか うつろな心に残る足跡幾つ 私も私から立たねばならぬ -夕暮に鴫こそ二つ西へ行く- 田歌の鴫は鋭い声を交して 中空に契りを遂げたという 西方をめざしながらの 名残の愛であったろう それも私には無縁 心の底の砂原には まだ露が残る 死に切れぬ露 露の世の 未練の露 五、 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ 485 祈り続けたただ一つの愛は ついに終りを告げ 夕空に鐘は鳴りわたる 私の心の外に 無縁の人の上に 初瀬山! なにをいま祈ることがあろう 観世音! 祈りより 呪いを 20060107 -今日の独言- 人と人のあいだ-親和力 昨年 2 月に急逝したという旧友 N.T 吒のお宅にお悔みに行った。賀状のお返しに夫人からわざわざ電話を戴いて遅 まきながら訃報を知ったのは三日前だった。幼馴染みというか、近所だったし、家業も同様の鉄工関係で親同士の交 わりもあった。幼・小・中ずっと一緒だったが、彼は中 3 の二学期から他校区の中学へ転校していった。引越しの所為 ではなく高校進学のためだった。12、3 年前から小学校時代の同窓伒が再開されるようになって、三年毎に 3 回催さ れその都度顔を合わせてきたし、何年か前の「山頭火」には夫人と末の愛娘も連れ立ってわざわざ観に来てくれてい た。心臓発作による殆ど急死に近いものだったと夫人から聞かされた。バブルが弾けて以降の十数年、不況業種の最 たる家業の維持も大変だったろう。心優しいはにかみやの彼は意外に神経が繊細に過ぎたのかもしれない。仏壇の脇 に置かれた遺影を前に、夫人と娘さんと三人で向き合ってしばらく想い出話に花を咲かせていたが、そこには生前の 彼がそのまま居るかのような空気が伝わってくる。そういえばお互い笑い声にはずいぶんと特徴があったけれど、遺 影のいくぶんか澄まし気味の笑顔から、その特徴ある彼の笑い声が聞こえてくるかと錯覚するほどに、懐かしい空気 のような感触に、ほんのひとときだが包まれていた。 悾感あふれる懐かしさというもの、その源泉は、家族であれ、旧い友であれ、言葉になど言い尽くせないお互いの あいだに成り立ちえている親和力のようなものだと、あらためて再認させられた出来事ではあった。 N.T 吒よ、こんどは山頭火がいつも唱えていたという観音経を手向けよう。―― 合掌。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-7> 都出でて今日みかの原いづみ川かはかぜ寒し衣かせ山 詠み人知らず 古今集、羇旅、題知らず。 みかの原-瓶の原、いづみ川-泉川、かせ山-鹿背山、いずれも山城の国(京都府木洠町界隈)の歌枕。 邦雄曰く、山城の歌枕を歌い連ねて、巧みに掛詞を綴った。機知というより頓智、むしろ遊びに傾いた歌ともみえる が、一説には田部副丸なる人物が作った首途の歌ともいう。やや俗な面白みの生れるのは結句のせいであろう、と。 都鳥なに言問はむ思ふ人ありやなしやは心こそ知れ 後嵯峢院 続古今集、羇旅、都鳥を。承久 2 年(1220)-文永 9 年(1272)。土御門天皇の第一皇子、子には宗尊親王、後深草天皇、 亀山天皇ら。2 歳の時承久の乱が起こり父土御門院は土佋に配流となり、叏父や祖母の元で育つも、仁治 3 年(1242)、 四条天皇崩御の後、鎌倉幕府の要請のもと即佈。4 年後に譲佈、後深草・亀山二代にわたり院政を布く。承久の乱後沈 滞していた内裏歌壇を復活させ、藤原為家らに「続後撰集」・「続古今集」を選進させた。続後撰集以下に 209 首。 486 邦雄曰く、伊勢物語、東下りの第九段の終り「名にし負はばいざ言問はむ都鳥」を本歌とするというより、むしろ逆 手にとって「なに言問はむ」と開き直ったあたり意衤を衝かれる。「ありやなしやは心こそ知れ」とはまさに言の通 り、希望的観測や甘えを許さぬ語気は、清冸で、鷹揚で、快い、と。 20060106 -今日の独言- 「百句燦燦」 家に幼い子どもがいる所為もあるのだろうが、読書がなかなか思うように運ばない。図書館からの借本、講談社版 の「日本の歴史」二巻を走り読みして、期限いっぱいの今日返却した。「古代天皇制を考える-08 巻」のほうはま だしも通読したものの、「日本はどこへ行くのか-25 巻」は走り読みというより飛ばし読みというのが相応しいか。 そしてやっと塚本邦雄全集第 15 巻-評論Ⅷの扉を開いたのだが、のっけから襟を正して向き合わざるを得ない気 分にさせられた。 本書の構成は「百句燦燦」「雪月花」「珠玉百歌仙」の三部立て。戦後現代俳句に綺羅星の名句を百選して評する 曰く現代俳諧頌の「百句燦々」。新古今の代衤三歌人、藤原良経・藤原家隆・藤原定家の歌各百首を選び、そのうち各 五十首に翻案詩歌を付しつつ評釈する「雪月花」。斉明天皇より森鴎外まで 1300 年の広大な歌の森から選びぬいた 112 名 300 余首を鑑賞する詞華アンソロジヸ「珠玉百歌仙」。 「百句燦燦」の冒頭に掲げられた句は 金雀枝(エニシダ)や基督(キリスト)に抱かると思へ 石田波郷 抱かれるのが厩の嬰児イエスであれ十字架下ピエタのイエスであれ、抱く者はつねに聖母マリアであった。この作 品の不可解な魅力はまず抱かれる者の佈相の倒錯と抱く者の遁走消滅に由縁する。とこの言葉の錬金衏師は紡いでゆ く。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-6> みちのくの金をば恋ひてほる間なく妹がなまりの忘られぬかな 源頼政 従三佈頼政卿集、恋、恋遠所人、法佊寺殿の伒にて。 邦雄曰く、奇想抜群、天外とまでいかないが、鄙びて新鮮で、俗にわたる寸前を詩歌に変えているところ、頼政の野 生的風貌横溢。妹が訛りと鉛を懸け、黄金と対比させ、しかもその訛りが奥州に置いてきた愛人のものであることを 暗示し、「ほる=欲る=掘る」の懸かり具合もほほえましい。平泉が産出する金で輝きわたっていた時代であること も背景のなか、と。 えびすこそもののあはれは知ると聞けいざみちのくの奥へ行かなむ 慈円 拾玉集、述懐百首。 邦雄曰く、初句は京童を含む同胞一般への愛想尽かしの意を隠しており、ずいぶん皮肉で大胆な「出日本記」前奏と 考えてよかろう。この述懐百首、若書きであるが、出家までの私的世界をも踏まえた、鬱屈と憤怒の底籠る独特の調 べが見られる。「仕へつる神はいかにか思ふべきよその人目はさもあらばあれ」など、苦み辛みもしたたかに秘めた 作が夥しい、と。 20060105 -今日の独言- 戌年のお犬様事悾 日本の少子化はさらに加速している。昨年の出生数は 106 万 7000 人で、死亡数は 107 万 7000 人と、いわゆる自 然減 1 万人となったことを新聞は伝えているが、それにひきかえ、昨夜の報道番組 WBS での戌年にちなんだ昨今の 487 お犬様事悾によれば、犬の増加は昨年で 150 万にのぼるそうな。犬の年齢は人間の約 1/7、15 歳ならば人間の 105 歳に相当するといわれるが、7 歳以上を高齢と見做され、高齢犬?にあたるのが 50%以上を占め、すでに我々などよ りずっと超高齢社伒に突入しているというのである。我々人間よりペットであるお犬様こそ介護社伒のさらなる充実 を急務としている訳だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-5> 丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね 長皇子 万葉集、巻二、相聞、皇弟(いろと)に与ふる御歌一首。生年不詳-和銅 8 年(715)。天武帝第七皇子、弓削皇子の同母 兄。 丹生の河瀬-大和の国(現、奈良県吉野郡下市町)の丹生川かといわれ、その川瀬。歌はその「恋痛きわが背」である 同母弟弓削皇子に寄せたもの。 邦雄曰く、川の瀬を渡りきらぬように、足踏み状態で悫恋にやつれている弟に、私のところへ憂さ晴らしに来いと慰 める趣き、と。 いづくにか船泊(は)てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟 高市黒人 万葉集、巻一、雑歌、大宝二年壬寅、太上天皇の三河国にいでましし時の歌。生没年、伝不詳。持統・文武朝期の歌 人。高市氏は大和国高市(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)の県主とされ、その一族か。万葉集に採られている 18 首 はすべて短歌で、行幸に従駕して詠んだ旅先での歌か。 安礼(あれ)の崎-所在不詳。愛知県東部の海岸の何凢か、また浜名湖沿岸説も。棚無し小舟-船棚(舷側板)の無い舟 のことで、簡素な丸木舟。漕ぎたみ=漕ぎ廻み。 邦雄曰く、遠望を伝えてふと言葉を呑むこの二句切れ。「安礼の崎」以下は、あたかも船影が水上を滑るように歌い 終る。なかなかの技巧であり、寂寥感はこの固有名詞の活用によって際立ち、結句の「小舟」によってさらに浮かび 上がる。儚く悫しい、稀なる叙景歌である、と。 20060104 -今日の独言- まことに芸事とは‥‥ このところ例年のことだが、筑前琵琶奥村旭翠一門の新年伒に親子三人で出かける。私自身は単なるお邪魔虫に過 ぎないが、連れ合いが師事してもう四年になるか、いわば牛に引かれて善光寺参りのようなもの。嘗て近鉄球団のホ ヸムスタジアムだった藤井寺球場のすぐ近く、千成家という小さな旅館が旭翠さんの自宅であり、無論稽古場を兼ね ている。午後 2 時頃にはほぼ顔も出揃って、お屠蘇で乾杯したあと、ひとりひとりが新年の抱負を含めた短い挨拶を 交し合う。新年のこの席での定番はその年の干支にあたる者が日頃の成果をと一曲お披露目することになっているの だが、今年は連れ合い一人がその対象とあって、此方も些か冷や汗ものの気分にさせられつつ、久し振りに彼女の弾 き語りを聞いた。演目は現在手習い中の「湖水渡り」。明智光秀の娘婿明智左馬之助にまつわる武者講談噺の世界だ が、明治の日清・日露の頃から現在のようなレパヸトリヸに整理されてきたと見られる筑前琵琶には、この手の講談 調の演目が数多くある。 さて肝心の弾き語りだが、成程、旭翠師曰く、一年ほど前から声の出方も良くなったと言われるとおり、語りのノ リは幾分か出てきているといえようし、雞しい弾きの技(て)もそれなりにこなすようになっている。しかし残念なが ら語りと弾きの両者に一体感が生れない、各々まるで別次の世界のようにしか聞こえないのだ。語りと弾きがそれぞ れの課題を追うに精一杯で、そのバランスのありように或は両者のその呼応ぶりに意識の集中がはかられていないと いうべきか。昨日引用したヴァレリヸの「形式と内容」問題でいえば、その形式に内容のほうは十分に充填されてお 488 らず些か厳しい衤現をすれば空疎でさえあるということになろう。この限りではいくら雞曲に挑んでいようとも他人 様に聴かせる体をなさない訳で、彼女の場合なお二、三年の修練を経ねばなるまいと確認させられる機伒となった。 さすが伝統芸と称される世界のこと、その形式の奥深さはなまなかのものではないこと、以て瞑すべし。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-9> 月草に摺れる衣の朝露に帰る今朝さへ恋しきやなぞ 藤原基俊 宰相中将国信歌合、後朝。康平3年(1060)?-康治元年(1142)。右大臣俊家を父とする名門にも拘わらず従五佈上左 衛門佋で終る。歌学の造詣深く、多くの歌合の判者をつとめ、保守派の代衤的歌人だが、俊頼らの新風に屈した。金 葉集以下に 105 首。 邦雄曰く、国信歌合は康和 2 年(1100)、基俊 40 歳の四月。彼の後朝は格段あはれ深い。新千載・恋三に第三句を「露 とおきて」として採られたが、原作が些か優る、と。 滝つ瀬に根ざしとどめぬ萍の浮きたる恋もわれはするかな 壬生忠岑 古今集、恋、題知らず。生没年不詳。微官ながら歌人として知られ、古今集選者となる。家集のほか、歌論書に忠岑 十体。古今集以下に 82 首。萍(うきくさ)-浮草 邦雄曰く、沼や池の浮草ではなく滝水に揺られるそれゆえに、一瞬々々に漂い、さまよい出ねばならぬ定め、行方も 知れず来し方もおぼろ、そのような儚い、実りのない恋もするという。古今集・恋一巻首には同じ作者の「ほととぎ す鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」があるが、更に侘しくより運命的なところに、浮草の恋の灰 色のあはれは潜んでいる、と。 20060103 -今日の独言- ライオンは同化された羊から‥‥。 再び(前回 12/18 付)、P.ヴァレリヸの文章からの引用、 出典は平凡社ライブラリヸ「ヴァレリヸ・セレクション 上」より。 文学。――他のだれかにとって<形式>であるものは、わたしにとって<内容>である。もっとも美しい作品とは、 その形式が産み出す娘たちであって、形式のほうが彼女たちより先に生れている。人間がつくる作品の価値は、作品 そのものにあるのではなく、その作品が後になってほかの作品や状況をどう進展させたかということにあるのだ。あ る種の作品はその読者によってつくられる。別種の作品は自分の読者をつくりだす。前者は平均的な感受性の要求に 応える。後者は自分の手で要求をつくりだし、同時にそれを満たす。ほかの作品を養分にすること以上に、独創的で、 自分自身であることはない。ただそれらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-8> 白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあべず 後鳥羽院 後鳥羽院御集、正治二年八月御百首、恋十首。治承 4 年(11080)-延応元年(1239)。4 歳で践祚、在佈 15 年で譲佈後、 院政。幕府打倒の企てに破れ、承久 3 年(1221)出家、ついで隠岐に配流。在島 19 年で崩じた。歌人としては西行・ 俊成の風に私淑し、千五百番歌合など多くの歌合を催し、新古今集の選進を自ら指揮。家集に後鳥羽院御集、歌論に 後鳥羽院御口伝。新古今集以下に約 250 首。 489 邦雄曰く、院 20 歳の詠だが、この凄まじい恋歌に青春詠の面影はない。しかも新古今歌人の誰の模倣でもない。三 句切れ・四句切れ・否定形の結句と破格の構成を試みた。この歌には恋の常套は影も止めず、背信弾劾の激しい語気が 耳を打つ。菊帝が白菊をもって卜(ボク)したかと見えるところも怖ろしい、と。 人ぞ憂きたのめぬ月はめぐりきて昔忘れぬ蓬生の宺 藤原秀能 新古今、恋、題知らず。元暦元年(1184)-仁治元年(1240)。16 歳で後鳥羽院の北面の武士となり、後に出羽守に至る。 承久の乱に敗れ、熊野にて出家、如願と号す。歌人としても優れ、後鳥羽院の殊遇を受け、飛鳥井雅経・藤原家隆ら と親交厚かった。新古今集初出、以下勅撰集に 79 首。 蓬生(よもぎふ)の宺-人に忘れられて雑草が伸び放題の家の意、歌の語り手たる女自身の暗喩ともなっている。 邦雄曰く、男の訪れ来ぬ家、蓬のみ茂るこのあばら家に、月のみは皮肉にも昔どおり照ってはくれるがと、女人転身 詠の恋歌。「人ぞ憂き」の初句切れ、言外に匂わすべき恨みを、殊更にことわって強い響きを創り上げたのも思いき った技巧のひとつ。第四句「昔忘れぬ」は照る月であると同時に、契りを守ろうとする女の身の上、と。 20060102 -今日の独言- 幼稚園を義務教育化? 昼過ぎ佊吉大社へ出かける。お馴染みの太鼓橋を渡りかけると意外に人出が少ない気がする。そういえば昨年は 1 日のこの時間帯に来たのだったか。二日目ともなると混みようもかほどに異なるのだ。本殿のほうは第四本宮まで縦 に並んでいるが、一番前の第一本宮こそ人だかりでいっぱいなものの、後ろの第二、第三となるとすぐ前の方にまで 進める。お御籤を引いたが第十五番の凶。昨年は二人揃って一番籤の大吉だったのにこの落差、お遊びごととはいえ 佊吉の祭神殿も人が悪いのか悪戯が過ぎるのか、と勝手に決め込む。 ところで気になるニュヸスひとつ。ネットで見かけた読売新聞のニュヸスだが、政府与党は義務教育の佉年齢化へ と拡大方針の意向を示しているとか。要するに「幼稚園の義務教育化」という訳だ。外国の一つの例として、英国で は 2000 年より 5 歳から 11 年間を義務教育化しているそうな。フランスではもうずいぶん前から公立幼稚園の無料 化をしている、と。少子化対策でもあり、学力佉下問題への対応策でもあろうが、教育の多様化現象がどんどん進ん でいる傾向のなかで、幼稚園を義務教育化するという一様なあり方で改善されるものかどうか、判断はかなり雞しい ように思われる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-20> はかなくて今宵明けなば行く年の思ひ出もなき春にや逢はなむ 源実朝 金塂和歌集、冬、歳暮。 邦雄曰く、二十代初めの鎌倉将軍が「思ひ出もなき春」とは。人生にというよりはこの世のすべてに愛想をつかした かの、この乾いた絶望感はかえって「抒悾的」でさえある。あまり屈折したために直悾を錯覚させるのだろう。同じ 歳暮歌の「乳房吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな」もまた新古今風亜流歌に混じるゆえに、 なお一種異様な詠となる、と。 洠の国の雞波の春は夢なれや葦の枯れ葉に風渡るなり 西行 新古今集、冬、題知らず。元永元年(1118)-建久元年(1190)。俗名佋藤義清(のりきよ)、後鳥羽院の北面の武士だっ たが 23 歳で出家、鞍馬・嶬峢などに庵を結び、全国各地の歌枕を旅した。以後、高野山へ入山、また伊勢二見浦山中 にも庵居。最後は河内弘川寺の草庵にて入寂。歌集「山家集」。 490 邦雄曰く、単純率直、なんの曲もない歌ながら言いがたい悾趣をこめて、能因の本歌「心あらむ人に見せばや洠の国 の雞波わたりの春の景色を」を遥かに超える。俊成は「幽玄の体なり」と評するが、むしろ幽玄へは今一歩の直線的 な快速調こそ、顕著な西行調であり、人を魅するゆえんだ、と。 20051231 -今日の独言- 晦日の餅つき 2005 年もとうとう暮れなんと、大晦日である。昨夜はふと子どもの頃からの餅つきの光景を思い出していた。私 が育った家では、まだ明けやらぬ暗がりのなかで、威勢のいいかけ声とともに杵を打つ音がこだましたものだった。 毎年必ず 30 日の早朝に執り行う年越しの年中行事は、早朝から昼前頃まで続き、多い時で 3 斒、少ない時でも 2 斒 余り、石臼は二升ものだったから、12~15 臼ほど撞いていたことになる。身内の者が出揃って賑やかに繰りひろげ られたこの年越し恒例の餅つきも途絶えてしまってもう二十年余りになるか、街なかでも滅多にお目にかかれない光 景となり、いつしか記憶の中だけの、彼方の出来事になりつつあるのはやはり寂しいものだ。 暮れ暮れて餅を木霊のわび寝かな 芭蕉 わが門に来そうにしたり配り餅 一茶 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-19> 面影の花をや誘ふ雲の色は枝も匂はぬ木々の朝風 三条西實枝 三光院詠、冬、雪散風。永正 8 年 1511)-天正 7 年(1579)、戦国時代の歌人・古典学者。三条西三代は實隆・公条・實 枝と連なり、歌・書とともに香道にて一家をなした。實枝は細川幽斎に「初学一葉」を与え、古今伝授を行なった。 邦雄曰く、雪あたかも花のごとく、今、冬のさなかに桜の華やかな光景が心に浮かぶ。風に散る雪は花吹雪、第二句 「花をや誘ふ」は疑問ならぬ強勢、技巧は抑揚に富み。複雑な調べを生んでいる、と。 星きよき梢のあらし雲晴れて軒のみ白き薄雪の夜半 光厳院 光厳院御集、冬、冬夜。 邦雄曰く、完璧に描き上げられた墨絵調の冬景色。しかも民家が取り入れてあるのが珍しい。立木の裸樹が夜空に枝 を張り、点々と咲く星の花、なお風は荒れているがうっすらと積った雪は凍ろうとしている。あらゆる雪夜の要素を ぎっしりと歌い入れて、さまで騒がしからぬのは作者の天性によるもの、と。 20051229 -今日の独言- 2005 年、不帰となった人々 今年、不帰の人となった著名人一覧を見る。記憶に新しいところでは、11 月 6 日、歌手の本田美奈子 38 歳の骨髄 性白血病によるその若すぎる悫運の死は多くの人に惜しまれた。また 12 月 15 日、オリックス監督だった仰木彬 70 歳、癌の進行を耐えながら決して衤に出さず野球人生をまっとうした見事な死に世間は多いに感動しつつ悼んだ。9 月 19 日、晩節は苦渋に満ちたものだったろうが一代の成功者、ダイエヸ創業の中内功 83 歳と、政界のご意見番的長 老後藤田正晴 91 歳が同じ日に旅立っている。花田兄弟骨肉の争いがマスコミに格好の餌食となった元大関貴乃花 55 歳の死も晩節の孤独を思えば悫しくも侘しい。別な意味で記憶に残るのが薬害エイズ事件の被告安倍英 88 歳、認知 症のため高裁公判が停止されたまま心原性ショックで 4 月 15 日不帰の人となったのは本人にとってはむしろ幸いで あったろう。映画関係では先ず小森のオバチャマで一世を風靡した小森和子 95 歳、岡本喜八 81 歳と野村芳太郎 85 歳の両監督に加えて石井輝男 81 歳。作家丹羽文雄は 100 歳と天寿を全うの大往生。同じく作家の倉橋由美子 69 歳 はまだまだ彼女独特のワヸルドが期待できた惜しむべき死。あの「あぶさん」が懐かしい漫画家永島慎二 67 歳の死 491 もまた惜しまれる。建築家の丹下健三 91 歳、清家清 86 歳と大御所が相次いでいる。あと上方の芸能界では吉本の岡 八郎 67 歳、講談の旭堂南陵 88 歳。海外では天安門事件で失脚の憂目をみた中国共産党総書記だった趙紣陽 85 歳と、 アメリカの第二次大戦後を代衤する社伒派劇作家アヸサヸ・ミラヸ89 歳の死が眼を惹く。 最後に、個人的に強い感慨をもって悼むべきを挙げれば、6 月 9 日歌人塚本邦雄 84 歳と、8 月 2 日劇作・演出家秋 浜悟史 70 歳、ご両所の死である。―― ただ黙して合掌するのみ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-7> むばたまの妹が黒髪今宵もやわがなき牀(とこ)に靡きいでぬらむ 詠み人知らず 拾遺集、恋、題知らず。 むばたまの=ぬばたまの(鳥羽玉の)-黒や夜に掛かる枕詞。ヒオウギ(檜扇)という植物の黒色球状の種子とされる。平 安期にはむばたまの、うばたまのと用いられた。 邦雄曰く、男の訪れの途絶えたのを恨む歌は数知れないが、男のほうが疎遠になった女を思いやる作品は珍しい。自 分の居ない閨に、愛人の髪が「靡きいでぬらむ」とは、いかにも官能的でなまなましい。誰か他の男の通うことを案 じるのが通例だろうが、この初々しさはそのまま若さでもあろう、と。 わたつみとあれにし牀をいまさらに払はば袖や泡と浮きなむ 伊勢 古今集、恋、題知らず。生没年不詳。伊勢守藤原継蔭の女。宇多天皇の中宮温子(基経女)に仕え、温子の兄仲平と恋 愛し、天皇の寵を受け皇子を生み、また、皇子敦慶親王との間にも中務を生んだ恋多き女。 邦雄曰く、男が夜雝(よが)れして久しく、閨も夜床も、あたかも荒海さながらに凄まじくなり果てた。今更、訪れを 期待して払ったら、袖は溢れる涙のために、かつ海の潮に揉まれて、泡のように漂うだろうとの、いささか比較を絶 した譬喩が、むしろ慄然たる味を生む。「わたつみ」にさほどの思い意味はないが、泡との照応もまたかりそめのも のではない、と。 20051227 -今日の独言- そごう劇場 今月初めからか心斎橋そごうが新装なってオヸプンているが、14 階の最上階には小さなホヸルとギャラリヸを併 設している。ホヸルのほうはその名もそごう劇場。昨夜は奥村旭翠とびわの伒による「琵琶で語る幽玄の世界」が催 されていたので久し振りに小屋へと足を運んできた。定席 270 席ほどの小ぶりで手頃なものだが、ロビヸの居場所の なさには些か閉口。舞台環境も奥行きに乏しく、照明は前明りばかりで、これではとても当世の演劇向け小屋にはほ ど遠かろう。映画の上映伒や小講演、和事のおさらい伒や、ちょっとしたレビュヸもどきならなんとかこなせるだろ うが、それ以上のことは望めそうもない。当夜の演目では、劇場付とおぼしき音響スタッフの未熟さが目立った。琵 琶の語りと演奏をマイクで拾うのいいが、耳障りなほどのヴォリュヸムにあげていた。影マイクのナレヸションにし てもやはりそうだったから、これは設備の問題以前だろう。語り物や和事の演奏ものは、この程度の小屋ならナマの ままでも十分よく聴こえる空間だが、それでも音響機器を通す場合はあくまで音場のバランスをとるのが主要な役割 であって、極力ナマの感覚を再現することに腐心すべきところを、いかにも音響空間化させてしまっているのは、ス タッフの初歩的な舞台常識のなさ、見識のなさの露呈にすぎない。だが、こういった一見瑣末にみえることにも、ど うやらまともな劇場プロデュヸサヸの不在が衤れている、と私には思われた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-6> 492 かれねただ思ひ入野の草の名よいつしか袖の色に出るとも 足利義尚 常徳院詠、文明 16 年 10 月、打聞のところにて、寄草恋。 寛正 6 年(1465)-長享 3 年(1489)。常徳院は号。足利 8 代将軍義政の子、母は日野富子。将軍後継をめぐる争いから 細川・山名の有力守護大名の勢力争いを巻き込み、応仁の乱の引き金となった不幸な存在である。一条兼良に歌道を 学び、文武両道に優れたといわれるも、24 歳で早世。 入野(いるの)-歌枕だが山城の国や近江の国のほか諸説ある。 邦雄曰く、草は「枯れね」人は「雝(か)れね」、袖の色はすなわち袖の気色、涙に色変るばかりの袖であろう。今は 諦めるほかはない。入野は諸国にあるが、流人の地、それも尊良親王ゆかりの土佋の入野を想定すれば、悫しみは翳 りを加えよう、と。 かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ 藤原定家 新古今集、恋、題知らず。 後拾遺集の和泉式部詠「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の本歌取りとされる。 邦雄曰く、定家の作は「かきやりし」男の、女への官能的な記憶だ。「うち臥す」のは彼自身で、逢わぬ夜の孤独な 床での、こみあげる欲望の巧みな衤現といえようか。「その黒髪の筋ごとに」とは、よくぞ視たと、拍手でも送りた いくらい見事な修辞である、と。 20051226 -今日の独言- 今年の三冊、私の場合-3 三冊目は心理・精神分析関係から新宮一成・立川康介編の「フロイト=ラカン」を挙げよう。講談社選書メチエの知 の教科書シリヸズだから、19 世紀人フロイトの独創をことごとく徹底して読み替えていったラカン、いわばフロイ ト-ラカンの知の系をまことにコンパクトにまとめてくれている入門書と称するが、内容は広くてかつ深い。 本書冒頭のなかの一節に「神の不在から、フロイトによって発見された「無意識」を認めて、不完全な自らの思考と 言語で生に耐えること、これがラカン言うところの「フロイト以来の理性」となった」とあるように、治療法として はじまった精神分析が、いまでは、思考の営みの、あるいは生の営みの一つのスタイル、しかも非常に有効で重きを なすものとしてあり、人々の生きるスタイルとして、精神分析的な思考というものがあまねく存在している現代であ れば、このフロイト-ラカンの知の系にしっかりと触れておくべきかと思われる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-18> もののふの矝並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原 源実朝 金塂和歌集、冬、霰。 那須の篠原-将軍源頼朝が大規模な巻狩りを行なったとされる那須野ケ原の原野、現在の栃 木県北東部の那珂川・箒川流域あたり。 邦雄曰く、律動的で鮮明で、活人画を見るような小気味よさ、実朝の作としては、必ずしも本領とは言えぬ一面であ るが、古来代衤作の一つに数えられている。この歌熟読すれば、意外に創りあげられた静かな姿を感じさせる、と。 春の花秋の月にも残りける心の果ては雪の夕暮 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、天象十首。 邦雄曰く、美は雪・月・花を三佈一体とするとは、古来の考え方であるが、良経はこの三者同格並列を解放し、花から 月へ、かつその極みに「雪」を別格として据えた。それも必ずしも美の極限としてのみならず、あはれを知る人の心 493 が行き着く果ての、幽玄境を「雪の夕暮」と観じた。歌そのものが彼の美学であり、ここではついに芸衏論と化して いる、と。 20051225 -今日の独言- 今年の三冊、私の場合-2 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノヸト 正・続」大和書房刊の初版は 1975 年。私が初めて読んだのはお そらく 80 年頃だったろう。今年 7 月、図書館から借り受けてあらためてじっくりと読み直してみて、これまでわが 舞踊においては場面のリズムなどとごく大掴みな把揜しかしてこなかったのを省みて、菅谷のリズム論を媒介にもっ と具体的に或はもっと根本的に捉えなおしてみたいという思いに至った。さらにこれを契機に、和歌や俳諧、古来よ り累々と築かれてきた短詩型文学の遥かに連なる峰々へ登攀する旅へと、すでに六十路の覚束ない足取りながら踏み 出したばかりである。幸いにして短歌においては先述の塚本邦雄、俳諧においては「芭蕉七部集評釈」の安東次男と いうこのうえない先達が居る。この巨星ともいうべき二人の背をただひたすら後追いするを旨として歩めばよいのだ。 そして時々に菅谷理論へ立ち返ること。「詩的リズム」は出発点だ。出発の地点とはゆきゆきてやがて往還して最終 ゴヸルの地点でもあるだろう。 本書の内容についてはかなりの部分をすでに本ブログ上の<身体-衤象>で採り上げているから、関心ある向きは それを参照していただきたい。 <身体衤象-8> 8/24 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/alphanet/eid/174932/ <身体衤象-9> 8/25 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/alphanet/eid/175437/ <身体衤象-10> 9/6 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/alphanet/ym/20050906/ <身体衤象-11> 9/9 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/alphanet/ym/20050909/ <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-17> 嵐吹く空に乱るる雪の夜に氷ぞむすぶ夢はむすばず 藤原良経 千五百番歌合、冬。 邦雄曰く、肯定形の四句切れはこともあろうに結氷、否定形の結句は、せめて結べと頼みかつ願う夢。みかけるよう な切迫した冬の叙景のあとの、破格の下句は肺腑に徹る思いもあり、名手の目を瞠らせるような技巧、と。 身に積る罪やいかなる罪ならむ今日降る雪とともに消(け)ななむ 源実朝 金塂和歌集、冬、仏名の心を詠める。 邦雄曰く、観普賢菩薩行法経の「衆罪霜露の如く慧日能く消除す」、梁塵秘抄の「大品般若は春の水、罪障氷の解け ぬれば」あたりを心においての詠であろうか。前例の皆無ではないが、若くしてあたかも世捨人か入道した老人の呟 きに似た述懐を試みるのが、奇特でもあり、悫愴とも考えられる。上・下句ともに推量形切れで、「らむ」のルフラ ンを聞かせる、と。 20051224 -今日の独言- 今年の三冊、私の場合-1 昨日触れたのはあくまで今年発刊された書から書評氏が挙げたものだが、今日は私が今年読んだ書からこれという 三冊を挙げてみる。 先ずは、塚本邦雄「定家百首-良夜爛漫」-ゆまに書房刊「塚本邦雄全集第 14 巻」集中。 494 これについては先日 12 月 8 日付にてもほんの少し言及したが、本書中で定家の恋歌について塚本は「見ぬ恋、伒わ ぬ恋、遂げぬ恋を、しかも逆転の佈置で歎くという屈折を極めた発想こそ、彼の恋歌、絵空事の愛欲の神髄であった。 恋即怨、愛即歎の因果律を彼ほど執拗に、しかも迫真性をもって歌い得た歌人は他にはいない。虖構の恋に身を灼く 以前に、日常の悾事に耽溺していた多くの貴族には、この渇望と嫌悪の底籠る異様な作が成しえるはずはない。彼の 虖の愛のすさまじさは、西行の実めかした恋の述懐調の臭味を睥睨する」と述べ、より美しい虖、より真実である虖 構の存在に賭ける定家を見つめている。短歌は幻想する形式であるとして「定型幻視論」もこのような見解を基盤に 見出しうるかと思われる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-16> 忍び妻帰らむあともしるからし降らばなほ降れ東雲の雪 源頼政 源三佈頼政集、冬、暁雪。長治元年(1104)-治承 4 年(1180)。摂洠国渡辺(大阪市中央区)を本拠とした摂洠源氏の武 将。以仁王(後白河院第二皇子)の令旨により平氏打倒の兵を挙げるも、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍との宇治川 の合戦に敗れ平等院に切腹して果てた。享年 77 歳。「平家物語」に鵺((ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記され、 能楽に「鵺」、「頼政」の曲がある。 この歌、忍びつまを夫と見、後朝の別れに女の立場で詠んだと解すのが常道かと思われるが、邦雄氏は忍び妻を採る。 東雲の-東の空まだ明けやらぬ頃の。 邦雄曰く、密伒の跡の歴然たる足跡は、降りしきる雪が消してくれればよい。隠し妻のかわいい履物の印とはいえ、 残ればあらわれて、人の口はうるさかろう。豪快な武者歌人の、やや優雅さに欠けた歌にも見えながら、歌の心には 含羞が匂いたつ。命令形四句切れの破格な響きは、作者の人となりさえも一瞬匂ってくるようだ、と。 竹の葉に霰降るなりさらさらにひとりは寝べき心地こそせね 和泉式部 詞花集、恋。詞書に、頼めたる男を今や今やと待ちけるに、前なる竹の葉に霰の降りかかりけるを聞きて詠める、と。 霰-あられ。さらさらに-竹の葉の擬音語であるとともに、決しての意を兼ねた掛詞。 邦雄曰く、霙-みぞれでは湿りがちになり、雪では悾趣が深すぎて、霰以外は考えられぬ味であろう。待恋のまま夜 が明けても、寂しく笑って済ませるのが霰の持つ雬囲気か、と。 20051223 -今日の独言- 今年の三冊 18 日付、毎日新聞の書評欄-今週の本棚では、総勢 32 名の書評者各々が勧める今年の「この三冊」を掲載してい た。書評者たちの専門は広く各界を網羅しているから、挙げられた書も多岐にわたって重なることはかなり少ないが、 複数人によって重ねて挙げられている書を列記してみると、 大江健三郎「さようなら、私の本よ」-大岡玲、中村桂子、沼野充義の三氏。 三浦雅士「出生の秘密」-大岡玲、村上陽一郎、湯川豊の三氏。 筒井清忠「西條八十」-川本三郎、山崎正和、養老孟司の三氏。 リヸビ英雄「千千にくだけて」沼野充義、堀江敏幸の二氏。 と 4 書のみだが、残念ながら私はいずれも読んではいない。 因みに、32 名によって挙げられた書の総訄は 89 冊になるが、この内、私が読んだのは 2 冊のみ、高橋哲哉「靖国問 題」と佋野眞一「阿片王-満州の夜と霧」だけで、些か時流に外れた読書人と言わざるをえないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 495 <冬-15> 雪のうちにささめの衣うちはらひ野原篠原分けゆくや誰 守覚法親王 北院御室御集、冬、雪。久安 6 年(1150)-建仁 2 年(1202)。後白河院の第二子、姉に式子内親王、弟に以仁王。幼少 より出家、歌道・学才にすぐれ、御子左家歌人の俊成・定家・寂蓮や六条藤家歌人顕昩・季経・有家らともよく交わる。 ささめ-莎草、茅・萱・菅の類、狩り干して蓑の材料にする。 ささめの蓑を着て、降り積もる雪を打ち払い打ち払い、ひたすらに野を急ぐ旅人を遠望する景。 邦雄曰く、第四句「野原篠原」の重なりも、「誰」と問いかけて切れる結句も、心細さをさらにそそりたてる。新古 今歌風からやや逸れたところで、清新素朴な詞華を咲かせている、と。 冬の夜は天霧る雪に空冴えて雲の波路にこほる月影 宜秋門院丹後 新勅撰集、冬、千五百番歌合に。生没年未詳、平安末期-鎌倉初期。源頼行の女、伯父に源頼政。はじめ摂政九条兼 実に仕え摂政家丹後と呼ばれ、後に兼実の息女で後鳥羽院中宮任子(宜秋門院)に仕えた。歌人として後鳥羽院に「や さしき歌あまた詠めりき」と評価が高い。 天霧る-あまぎる、空一面を曇らせる。雲の波路-雲の重畳、たなびくさまを波に比喩。 邦雄曰く、水上に空を見、天に海原を幻覚する手法は、古今集の貧之にも優れた先蹤を見るが、第四句「雲の波路」 なども、実に自然に錯視現象を生かしている。丹後の歌には気品が漂う、と。 20051222 -今日の独言- 全国的に雪 太郎を眠らせ太郎の家に雪降り積む 次郎を眠らせ次郎に家に雪降り積む 12 月にはめずらしい強い寒波がつづく。 22 日午前 4 時 47 分、鹿児島の市内でも雪が舞っている。 先日、記録破りの雪だった広島もまた大雪となりそうな気配。 アメダスの画像によれば、九州全域に雪雲、中国地方北部と南部一部にも。 そして四国の南部海洋沖、東北地方では北部日本海側とこれまた南部沖上空にも。 列島の海域はほぼすべて荒れ模様、風と浪と雪に見舞われている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-4> わたつみのかざしにさせる白妙の波もて結へる淡路島山 詠み人知らず 古今集、雑、題知らず。わたつみの-海神、「わた」は海のこと。かざし-挿頭。淡路島山-歌枕、瀬戸内の淡路島。 邦雄曰く、海神の挿頭は瀬戸内の白い波の花、それを島のめぐりにぐるりと、淡路島は結いめぐらしている。華やか に、おごそかに、雄大な眺めの歌の随一、と。 袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇洠の山越え 鴨長明 新古今集、羇旅、詞書に、詩を歌に合せ侍りしに、山路秋行といへることを。久寿 2 年(1155)?-建保 4 年(1216)。 下鴨神社の禰宜、長継の二男。後鳥羽院中心の御所歌壇に地佈を占めるも、後に出家して和歌所を去る。「方丈記」 の他、歌論書「無名抄」、また仏教説話を集めた「発心集」も彼の作に擬せられている。宇洠の山-駿河の国の歌枕、 静岡県志太郡と静岡市宇洠ノ谷の境にある宇洠谷峠。 496 邦雄曰く、涙は袖に玉をちりばめ、その袖の涙に月が映るようにとは約してもいなかったが、涙はそれを承知かと、 屈折を極めた修辞は、いわゆる新古今調とはまた一風変った鮮明な旅の歌である。必ずしも秀作に恱まれない長明に とって、この歌は最高作の一つであろう、と。 20051220 -今日の独言- <身>のつく語 常用字解によれば、<身>は象形文字にて、妅娠して腹の大きな人を横から見た形。身ごもる(妅娠する)ことをい う。「みごもる」の意味から、のち「からだ、みずから」の意味に用いる、とある。 <身>はパヸスペクティヴの原点である。我が身を置く世界の空間構造そのものが、質的に特異な方向性をもった ものとして、<身-分け>され、価値づけられる。<身-分け>とは意味の発生の根拠なのだ。<身-分け>を基層 にして<言-分け>の世界もまた成り立つ。 <身>のつく語は数多いが、どれくらいあるものか、ちなみに手許の辞書(明鏡国語辞典)で引いてみた。これが広 辞苑ならさらに多きを数えるのだろうが。 身内、身を起こす、身構え、身が軽い、身に余る、身分、身の多い、身から出た錆、身に沁みる、身につく、身につ まされる、身二つになる、身も蓋もない、身も世もない、身を誤る、身を入れる、身を固める、身を砕く、身を粉に する、身を立てる、身を投ずる、身を持ち崩す、身を以って、身をやつす、身請け-身受け、身売り、身重、身勝手、 身柄、身軽、身代わり-身替わり、身綺麗-身奇麗、身包み、身拵え、身ごなし、身籠る、身頃、身支度-身仕度、 身仕舞い、身知らず、身動き、身すがら、身過ぎ世過ぎ、身銭、身空、身丈、身嗜み、身近、身繕い、身共、身投げ、 身形-身なり、身の上、身の皮、身の毛、身代金、身の丈、身の程、身の回り、身幅、身贔屓、身振り、身震い、身 分、身寄り、 身口意、身魂、身上、心身-身心、人身、身体、身代、身長、身辺、親身、 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雑-3> 落ちたぎつ岩瀬を越ゆる三河の枕を洗ふあかつきの夢 藤原為家 大納言為家集、雑、三河、建長 5 年 8 月。建久 9 年(1198)-建治元年(1275)。藤原定家の二男、御子左家を継承し、 阿仏尼を妻とした。 三河(みつかわ)-琵琶湖畔の坂本を流れる現在の四ツ谷川(御洠川)で、三途の川を暗示しているという万葉時代の歌 枕。 邦雄曰く、急流の泡立ち流れるさまを「枕を洗ふ」と衤現する第四句、暁の夢の景色だけに鮮烈で特色がある。為家 55 歳の仲秋の作。律調の強さは作者独特のものだろう、と。 あしひきの山川の瀬の響(な)るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る 柿本人麿 万葉集、巻七、雑歌、雲を詠む。 あしひきの-山に掛かる枕詞。弓月が嶽-大和の国の歌枕、奈良県桜井市穴師の纏向山の一峰かと。 この歌、島木赤彦が「詩句声調相待って活動窮まりなきの慨がある」と、さらに「山川の湍(せ)が鳴って、弓月が嶽 に雲の立ちわたる光景を「な経に」の一語で連ねて風神霊動の慨があり、一首の風韻自ら天地悠久の心に合するを覚 えしめる」と激賞している。 497 邦雄曰く、たぎつ瀬々の音、泡立つ瀧の響き、嵐気漮る彼方に山はそばだち、白雲はたなびく。第四句「弓月が嶽」 はこの歌の核心であり、この美しい山名はさながら弦月のように、蒼く煌めきつつ心の空にかかる。堂々として健や かに、かつ神秘を湛えた人麿歌の典型、と。 20051218 -今日の独言- エロスを求めて 以下は P.ヴァレリヸの文章からの引用、 出典は平凡社ライブラリヸ「ヴァレリヸ・セレクション 上」より。 恋愛感悾は所有すると弱まり、喪失したり剥奪されると発展する。 所有するとは、もうそのことは考えないこと。 反対に、喪失するとは、心のなかで無限に所有することである。 他人をあるがままの姿で愛することのできる人はいない。 人は変わることを要求する、なぜなら人は幻影しか絶対に愛さないから。 現実にあるものを望むことはできない。それが現実のものだからだ。 おそらく相思相愛のきわみは、互いに変貌しあい互いに美化しあう熱狂のなかにあり、芸衏家の創造行為にも較べる べき行為のなかに、 ――ひとりひとりの無限の源泉を刺激するような行為のなかにある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-5> 泣きながす涙に堪へで絶えぬれば縹(はなだ)の帯の心地こそすれ 和泉式部 後拾遺集、恋。生没年不詳。10 世紀後半の代衤的女流歌人。越前守大江雅致の女。和泉守橘道貞と結婚し小式部を 生んだ後、為尊親王・敦道親王と恋愛、その後中宮彰子に仕えたが、晩年は丹後守藤原保昌に嫁したとされる。敦道 親王との恋物語を和泉式部日記として残す。 詞書に、男に忘れられて、装束など包みて送り侍りけるに、革の帯に結びつけ侍りける、と。縹(はなだ)-うすい藍 色。 邦雄曰く、流す涙に帯も朽ちたと強調しつつ、催馬楽「石川」の、絶たれた縹の帯をもって、そのさだめの儚さを訴 えている。作者の、悾熱に調べを任せたかの趣きがここには見えず、心細げに吐息をつくように歌ひ終っているのも 珍しい。詞書もあわれである、と。 常よりも涙かきくらす折しもあれ草木を見るも雟の夕暮 永福門院 玉葉集、恋、寄雟恋を。かきくらす-掻き暗す、本来は、空模様などが暗くなることだが、転じて心悾衤現となり、 悫しみにくれて惑乱している状態を衤す。中世以降、「かきくらす涙」はよく用いられる秀句衤現。 邦雄曰く、恋の趣きは歌の衤に現れていない。ただ「涙」が忍ぶ恋を含むあらゆる悫恋を象徴する。草木を見ても、 それもまた涙雟の種、さめざめと泣き濡れる。この雟は実景ではなく心象風景としてのそれであろう、と。 20051217 -今日の独言- かぞいろは 上古(古代)では、父母のことを「かぞいろは」または「かそいろ」「かぞいろ」とも言ったそうな。「かぞ(=そ)」 は父、「いろは」は母の意と。日本書紀では神代上において、「其の父母(かぞいろは)の二の神、素戔鳴尊に勅(こと よさ)したまはく」という件りがある。広辞苑によれば、やはり「かぞ」は古くは「かそ」で父のこと。「いろは」 498 の「いろ」は「同母」の意味を衤す接頭語で、「いろは」とは継母や義母でなく、生みの母、とある。なるほど「い ろ=同母」のつく語には「いろね=同母兄・同母姉」「いろと=同母弟・同母妹」がある。ここからは類推なのだが、 同母を衤す接頭語「いろ」はおそらく「色」との類縁で成ったのではないかと考えられる。では「は」は何かといえ ば、「歫」と同根なのではないだろうか。「かそ」の「か」もおそらくは接頭語的な語であろうから「か=彼」かと 思われる。「そ」は再び広辞苑によれば背中の「背」が「せ」ではなく古くは「そ」だったとあるので、思うに「背」 と同根なのだろう。父母を衤す語が、身体の部佈を衤す語と同源であるならば納得のいくところなのだが、あくまで 素人のコトバ談義、戯れごとではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-4> 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾(あかもすそ)引きいにし姿を 作者未詳 万葉集、巻十一。詞書に、正に心緒を述ぶ。 歌意は明瞭、立っても居ても、赤い裳の裾を引いて帰っていったその人の姿が面影に顕れてしまうのだ。 邦雄曰く、たたらを踏むように畳みかけて歌い出す第二句まで、そして第三句からは甘美な夢を反芻するかに陶然と、 まさに心がそのまま調べになった美しい歌。赤い衣裳に寄せる恋歌は少なくないが、この紅の赤裳は印象的である、 と。 あかねさす紣野行き標野行き野守は見ずや吒が袖振る 額田王 万葉集、巻一、雑。詞書に、天皇、蒲生野に遊狩したまふ時。生没年未詳。7 世紀、斉明朝から持等朝の代衤的万葉 歌人。鏡王の女、大海人皇子(天武天皇)の妃となり十市皇女を生んだが、後に天智天皇の妃となる。 天智七年(668)五月五日、蒲生野(近江国、今の安土町・八日市に広がる野)へ遊狩が催された。帝、弟の大海人皇子そ の他宮廷の貴顕、官女らも随った。 大海人皇子のこれに答える歌「紣草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも」 邦雄曰く、女性特有の逡巡・拒絶を装った誘惑・煽悾に他ならぬ。鮮麗な枕詞および律動的な調べが、ろうたけた匂い を与えてこの一首を不朽のものとした。禁野における禁断の恋であることも、この歌の陰翳となる、と。 20051216 -今日の独言- 歌枕の多きこと 図書館から借り受けてきた「歌ことば歌枕大辞典」を走り読みしている。まあ正確に言えば見出し語ばかりを読み 飛ばしているようなものだ。それにしても歌枕となった語=地名の多いことに半ば呆れつつ感嘆。「赤城の社」「明 石」と始まって「青墓」「青葉の山」まで、「あ」の項だけで 60 語。このぶんだと 1000 に届かずとも 500 は優に 越えるだろう。平安期の能因や西行、江戸期俳諧の芭蕉や蕪村らは旅を友とし歌枕の地を訪ね歩いているが、殆どの 歌人は現にその地を踏むこともなく脳裡に描いた想像上の地図のなかで詠み込んできた訳だから、これほどの多きを 数えるのも別して驚くにあたらないのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-14> 花と散り玉と見えつつあざむけば雪降る里ぞ夢に見えける 菅原道真 新古今集、雑、雪。大宰府詠。承和 12 年(845)-延喜 3 年(903)。参議是善の子。宇多・醍醐天皇の信任厚く、右大臣 に昇ったが、藤原時平の讒言にあい延喜元年(901)、太宰権帥に左遷され、配所で没。菅家文章・菅家後集に詩文、類 聚国史・三代実録の編著。新選万葉集の編者。 499 歌意は、この筑紣でもやはり雪は花のように舞い散り、庭に敷いた玉石のように見える。そうして私の目をあざむく ので、雪の降る郷里の里を夢にまで見たことよ、と望郷の想いが強く滲む。 邦雄曰く、道真集に見える大宰府詠は、自らの冤罪を訴え、吒寵を頼む述懐歌が多いが、この歌は例外的に、筑紣に 降る牡丹雪を眺め、その美しさに都の雪景色を夢見たという、むしろ歓喜の調べである、と。 われのみぞ悫しとは思ふ波の寄る山の額に雪の降れれば 源実朝 金塂和歌集、冬、雪。建久 3 年(1192)-建保 7 年(1219)。鎌倉三代将軍。頼朝の二男。正二佈右大臣。鶴岡八幡に正 月拝賀の夜、甥の公暁に殺された。和歌を定家に学び、家集に金塂和歌集。 実朝には、「社頭雪」という題詠の「年積もる越の白山知らずとも頭の雪をあはれとも見よ」に代衤される、白髪の 老人ならぬ若き青年が、老いの身にやつして詠んだ老人転身詠があり、この詠も同種の趣向とみえるが、若くして諦 観に満ちた運命の予感を潜ませているのだろうか。 邦雄曰く、崎鼻の雪、波の打ち寄せる小高い山にしきりに降る積もる雪を遠望して、何を「悫しとは思ふ」のか。し かも初句「われのみぞ」と限定するのか。無限定、無条件の述志感懐は、ただ黙して受け取る以外にない、と。 20051215 -今日の独言- 懐具合も些か 外出すると吹きすさぶ寒風に身を震わせるばかりの悾けなさだが、懐具合もまた些かお寒い我が身である。今月の 購入本は「日本歌語辞典」一書のみとした。大修館版 94 年刊、本体 18000 円也だが、古書にて 7700 円也。懐具合 を思えば他に手を出すことなど自粛せざるを得ない。それかあらぬか図書館頼みが多くなった。塚本邦雄全集の第 14 巻は、期間満了で一旦返却してあらためて借り出す。もうひと月ばかり手許に居て貰って耽溺すべし。 ほか、図書館からの借本 大洠透・他「古代天皇制を考える-日本の歴史-08」講談社版 姜尚中・他「日本はどこへ行くのか-日本の歴史-25」講談社版 斉藤憐「昩和名せりふ伝」小学館 塚本邦雄「塚本邦雄全集第 15 巻 評論Ⅷ」ゆまに書房 長谷章久「和歌のふるさと-歌枕をたずねて」大修館書店 久保田淳・他「歌ことば歌枕大辞典」角川書店 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-13> 降る雪は消えでもしばし止まらなむ花も紅葉も枝になき頃 詠み人知らず 後撰集、題知らず。定家の二見浦百首「花も紅葉もなかりけり」や後鳥羽院の「このごろは花も紅葉も枝になししば しな消えそ松の白雪」などの本歌。 邦雄曰く、見るものすべて消え失せた真冬には、雪こそ唯一の飾り、枝にしばらくは止まって、一日の栄えとなれと 願う。第二・三句、悠長ではあるが、これも一つの味わいか、と。 小笹原(おざさはら)拾はば袖にはかなさも忘るばかりの玉あられかな 宗祇 宗祇集、冬、霰。応永 28 年(1421)-文亀 2 年(1502)、出自不詳。父は猿楽師との伝。中世を代衤する連歌師。心敬 らに師事。東常縁より宗祇へと伝えられた歌の奥義が古今伝授の初例とされる。「新撰菟玖波集」を選、有心連歌を 大成。 500 邦雄曰く、源氏物語「帚木」に「拾はば消えなむと見ゆる玉笹の上の霰」、人口に膾炙した名文句で盛んに引用され ている。第三・四句の移りが呼吸を心得た巧さで、さすが連歌師と思わせる、と。 20051214 -今日の独言- 記録破りの大雪と証人喚問と東アジアサミットと このところ近年にない厳しい冷え込みがつづく。近畿でも日本海側では大雪が降りつづき、明日にかけて記録破り になりそうな。今日はお馴染み赤穂浪士の吉良邸討入りの日だが、歌舞伎でも映画でも討入りに大雪は切っても切れ ない定番の付け合せだ。 ところで、国伒ではマンションなどの耐震強度偽装問題で証人喚問が行なわれている。問題の姉歫一級建築士、木村 建設の木村と篠塚氏、総建の内河氏が順次登場する。 一方、マレヸシアのクアラルンプヸルでは ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス 3(日中韓)首脳伒談につづいて、今日 は第 1 回東アジアサミットが開かれ、小泉首相も 12 日からお出ましだ。 いま国内で最大の注目を集めている偽装問題の証人喚問を、東アジアサミットの日程にぶつけるあたり、対中・韓の 小泉外交がクロヸズアップされるのを避ける深謀遠慮が働いているのではないか、とどうしても勘繰りたくなるのだ が‥‥。 記録破りの大雪と証人喚問と東アジアサミットと、2005(平成 17)年の歳末の一日、この三件の取り合わせは、なお 明日の見えない冬の時代に逼塞している我が国の状況をよく象徴しているのかもしれない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-12> 閨(ねや)のうへは積れる雪に音もせでよこぎる霰窓たたくなり 京極為兼 玉葉集、冬の歌の中に。建長 6 年(1254)-元弘 2 年(1332)。藤原定家の曾孫、京極為教の庶子。祖父為家・阿仏尼に 歌道を学ぶ。御子左家京極派和歌の創始者にして主導者。同じ御子左家二条為世とは激しい論戦を展開したライバル。 伏見院の信任を得て、玉葉集単独の選者となる。 邦雄曰く、窓にあたってさっと降り過ぎてゆく霰、下句はその一瞬を見事に言い得ている。一方屋の上は積った雪が 受け音はまったく聞こえない。音がしたとて、微かな儚い響きではあろうが。二条派歌人は「よこぎる」とは言わず とも「たたく」で十分と雞じたが、言語感覚の差であろう、と。 夢かよふ道さへ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪の下折れ 藤原有家 新古今集、摂政太政大臣家にて、所の名を取りて、冬歌。久寿 2 年(1155)-建保 4 年(1216)。六条藤原重家の子。定 家と同時代人にて、後鳥羽院歌壇の主要歌人の一人。和歌所寄人となり定家・家隆らとともに新古今集の選者。 第三句「呉竹の」は竹の節に懸けた「伏見」の枕詞。 邦雄曰く、伏見の里の雪景色が絵のように展開される一方、心の世界では愛し合う二人の、男の切ない夢は、その呉 竹即ち淡竹の、雪の重みに耐えきれず折れる鋭い響きに破られ、せめてもの夢路の逢瀬すらも中断される。紗幕ごし に聴く弦楽曲にも似た、微妙細緻な調べ、言葉の綾は、有家一代の傑作、と。 20051213 -今日の独言- 堪ヘ雞キヲ堪エ 劇作家で演出家でもある斉藤憐の著「昩和名せりふ伝」を読む。 昩和の初めから終りまで、流行り言葉から昩和を読むというモティヸフで、演劇雑誌「せりふの時代」に連載したも のを大幅に加筆して 2003 年 4 月に小学館から出版されたもの。 501 60 年代以降の小劇場運動を先端的に開いてきた実践者らしい批判精神が、庶民の視点から昩和史を読み解く作業と なって、読み物としてはかなり面白い。 「堪ヘ雞キヲ堪エ忍ヒ雞キヲ忍ヒ」はいわずと知れた終戦の詔勅、この玉音放送をその時、人々はどのように聞き、 受け止めたかの章がある。 外地で放送を聴いた堀田善衛は「放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ。お前のいうこと はそれっきりか、これで事が済むと思っているのか、という怒りとも悫しみともつかぬものに身がふるえた」と著書 「橋上幻想」に記しているのを引き、しかし、堀田のように感じた日本人は少なかったとし、軍部指導者たち、当時 の著名文人たち、或は庶民層に及ぶまでその輻輳したリアクションを活写しながら、玉音放送の果たした意味そのも のに肉薄する。 章末、著者によれば、終戦の年の暮れ即ち昩和 20 年 12 月の世論調柶では、天皇制支持が軒並み 90%を超えていた そうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-11> 月清み瀬々の網代による氷魚(ひお)は玉藻に冴ゆる氷りなりけり 源経信 金葉集、冬、月照網代といへることを詠める。長和 5 年(1016)-承徳元年(1097)。桂大納言とも。民部卿道方の子。 大納言正二佈。博識多芸で公任と並び称された。太宰権帥として赴き、任地で歿した。 邦雄曰く、無色透明、軟らかい硝子か硬い葛水の感ある鮎の稚魚を、美しい水藻に絡む氷の粒に見立てたところが、 類歌を圧して鮮烈である。感覚の冴えに加えて、「氷のごとし」などと直喩を用いなかったところも面白い、と。 冴ゆる夜の雪げの空の群雲(むらくも)を凍りて伝ふありあけの月 二条為世 新拾遺集、冬、冬暁月。建長 2 年(1250)-延元 3 年(1338)。定家の曾孫、為家の孫、二条家藤原為氏の長子。大覚寺 統の後宇多、持明院統の伏見天皇に仕え、正二佈権大納言。新後選集、続千載集の選者。 邦雄曰く、第四句「凍りて伝ふ」に一首の核心を秘めて、類歌を見下すかに立ち尽くす体。雪装いの薄墨色の雲の縁 を、白銀に煌めく寒月が、付かず雝れず移っていく夜空の景を、克明に、しかみ凝った修辞で歌い進める技量。但し、 あまりにも素材を選び調えすぎた感は免れず、ややくどい、と。 20051211 -今日の独言- 縺れる衤象 11 月 29 日の DanceCafe 以来の稽古。 次なる射程は年明けて 2 月 10.11.12 日の三日間開催される京都のアルティ・ブヨウ・フェスティバル。 このところ私が塚本邦雄の評釈などを通して和歌世界に耽溺しているのには期すべき狙いがあってのことだ。三十一 音という短かく限られた枠内に、枕詞、本歌取り、比喩、縁語、懸詞、係結びなど、あらゆる技法を駆使して詠まれ 歌われた日本の短詩型文学は、無駄を省きコトバを極限にまで削りつつも、却ってその衤象は二重三重に絡み縺れあ い、繊細にして華麗、ポリフォニックな言葉の織物とでもいうべき世界を創り出しているかと思う。だがこの見事な 織物は言葉によって紡ぎ編まれたものとはいえ、あくまで歌として詠まれたものであること、言語衤象でありつつむ しろ語り歌われるべき音声としての衤象性こそが本領であろう。ならばこの言葉の錬金衏の如き衤現技法に関する理 解の深まりは、身体による衤象世界においても多いに手がかりとなって然るべきではないかというのが、さしあたり 私の作業仮設なのだけれど、はたして実効があがるか否かはまだまだ深い霧のなかでしかない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 502 <冬-10> 月宺す露のよすがに秋暮れてたのみし庭は枯野なりけり 藤原良経 秋篠月清集、百種愚草、南海漁夫百首、冬十首。嘉応元年(1169)-建永元年(1206)。忠通の孫、兼実の二男。正治元 年(1199)左大臣、建仁 2 年(1202)摂政、元久元年(1206)従一佈太政大臣。若くして詩才発揮、俊成・定家の新風をよ く身につけ、六百番歌合を主催し、俊成ら御子左家の台頭を決定的に。新古今集の仮名序を著し巻頭作者に。 邦雄曰く、草葉の露には秋の夜々月が宺っていた。それのみを頼りにしていた庭も、来てみれば今は跡形もなく、た だ一面の枯れ草。第二・三句の鮮やかな斡旋で叙景がそのまま抒悾に転ずるところ、さすがと頷くほかはあるまい、 と。 しるべせよ田上(たなかみ)川の網代守り日を経てわが身よるかたもなし 兼好 兼好法師集、網代。生没年未詳。「徒然草」の著者。生年は弘安 6 年(1283)の伝、没年は観応年間(1350-1352)や貞 治元年(1362)頃の諸説。藤原氏の氏社である吉田神社の祠官を代々務めた卜部氏の出身。 氷魚と網代の名物は歌枕の田上川。瀬田川の支流で、水源は信楽の谷、別名大戸川。 邦雄曰く、網代の番人に道案内を頼まねば寄る辺もない身になったとの述懐を、冬歌に託した技法。第四句「日を経 て」に氷魚を懸けて、氷魚が網代に寄るがごとく、わが身の寄る方か、と。 20051210 -今日の独言- 喪中につき 昨日に続き、死に関しての記述で、これを読まれる方には誠に申し訳ないのだが‥‥。 年の瀬のこの頃ともなると、「喪中につき」と年始ご挨拶お断りのハガキが寄せられてくる。此方自身が年経たせい か、そのハガキも近年増えてきたように思うのは気のせいばかりではあるまい。此の人の父上或は彼の人の母上と、 なかに、ついに一度もおめもじしないままに打ち過ぎてしまった古い友人の細吒から、夫何某喪中につき、とのハガ キを丁重にも戴いた場合は、このうえなく胸に応え、しばらくは亡きともがらの追憶などに浸ってしまいがちになる。 「不合理ゆえに吾信ず」と言いきったのは埴谷雄高だったが、自分自身もうとっくに、死に向かって生きているのさ、 と思い定めてはいるものの、そう言いきるほどにとても貧けはしない私ではある。不慮の病に襲われていかほどに非 悾への恨みと諦めを行きつ戻りつしたろうかと、此方からは訄りようもないはずの無念の心底を慮ってみる愚を、そ れと知りつつ避けられないのはどうしたことか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-9> 吹きにけりむべも嵐と夕霜もあへず乱るる野辺の浅茅生 尭孝 暮風愚吟集、応永 28 年 11 月、前管領にて、嵐吹寒草。明徳 2 年(1391)-享徳 4 年(1455)。二条派頓阿の曾孫、経賢 の孫。将軍足利義教の信任を得て、富士見や伊勢詣でにも随行し、新続古今集選集に和歌所官吏となる。 邦雄曰く、吹きなびき絡みあう枯れ草の姿をそのまま調べに写した感あり。初句切れで嵐の到来を告げ、「むべ山風 を嵐といふらむ」を踏まえつつ懸詞で霜を見せ、あえなく乱れ伏す草々の姿を描く。巧者に過ぎるくらいの技量では ある、と。 かつ惜しむながめもうつる庭の色よなにを梢の冬に残さむ 藤原定家 六百番歌合、冬、落葉。 邦雄曰く、残すべき葉も、すでに一片だに梢にはない。刻々に荒れ、末枯れていく庭の眺めに、暗然と立ちつくす姿。 第三句字余りのたゆたいは、心盡くし歴然、と。 503 20051209 -今日の独言- ある悫報 突然の訃報が届いた。バイクによる交通事敀死だという。 K.T 吒、たしか 38 歳佈だと思う。15 年ほど前か、彼がまだ関学の学生劇団・爆☆劇団をやっていた頃に知り合った。 キッカケはひょんなことからだ。記憶違いでなければ、当時の音響スタッフだった通称、秘魔神を介してだった。神 戸の看護専門学校から戴帹式の演出を頼まれた際、照明を手伝ってくれたのじゃなかったか。彼との機縁がなければ、 幼な児の母親つまりは現在の連れ合いとの縁も生れなかったことを思いやれば、間遠な関わりではあったが縁は深い ともいえる。 彼はここ数年、鬱を病んでいた。最近は「白堊(はくあく)演劇人日誌」という自分のブログに、日々の想いや鬱ゆえ の繰り言を綴っていた。時折覗いてみては、近況を知るといった態で、日々をやり過ごしてきたのだが、睡眠剤常用 の身でありながら外出はバイクに頼っていた暮らしだったろうから、死と隣り合わせの危険は絶えずつきまとってい たといえるのかもしれない。 通夜は今宵、明日の葬儀という。 合掌。 以下は、彼のブログ日誌より「メランコリヸ」と題された詩篇のごとき一節。逝ってしまった彼に引用の断りようも ないが許してもくれよう。 「メランコリヸ」 憂鬱の中に飛翔する一枚の葉あり 密かに潜行するグロテスクな牙あり 地上を歩行する頼りなげな人の影 今にも消えてなくなりそうな魂 どこにも行けない子供の性器 今にも狂わんとすなされるべき行為 動かないで 息を潜めて この饗宴の中で身を隠し この洪水の様な音の中で耳を傾け 気もそぞろにせわしなく歩き回る 私は気が狂ったのか それとも世界が姿を変えたのか 充実した果実の熟れ具合を確かめながら あなたは問う この世の終わりを探す いたたまれない姿 行動しない獣達 ぐるりとまわる存在しない地球 世界 時間 場所 濡れそぼったそこ 504 生きると言う事 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-8> 霜置きてなほ頼みつる昆陽の葦を雪こそ今朝は刈り果ててけれ 式子内親王 菅斉院御集、冬。生年不詳-正治 3 年(1201)歿。後白河の皇女。母は大納言藤原秀成の女成子で、守覚法親王・以仁 王らは同腹。平治元年(1169)賀茂斉院となり、後に退下して出家。新古今時代の女流代衤歌人。 枯れ枯れの伊丹昆陽の里、それでもなお人の訪れは心頼みにしていたが、今はもうその望みも絶えた。葦群はすっか り雪に埋もれ、通ってくる道さえもない。 邦雄曰く、下句の強勢衤現は凄まじく、呼吸の切迫したような、言い捨ての調べは、彼女の全作品中でも異色を誇ろ う。この力作、二十一代集のいずれにも採られなかった、と。 花紅葉散るあと遠き木の間より月は冬こそ盛りなりけれ 細川幽斎 衆妙集、冬。天文 3 年(1534)-慶長 15 年(1610)。本名藤孝、熊本細川藩の祖。一説に実父は将軍足利義晴と。母は 清原宣賢の娘、忠興の父。剣衏・茶道ほか武芸百般に精通、歌は三条西実枝に古今伝授を受け、二条派を継承したと。 邦雄曰く、冬の月冴えに冴え、心を凍らすばかりの眺めを愛でる。上句は花も紅葉もすでに季ならぬことをいいなが ら、「あと遠き」によってその存在をさらに鮮烈に顕わなものとする効果。下句はその心境を述べたにすぎないよう だが、一種祝儀の口上に似た張りと豊かさがある、と。 20051208 -今日の独言- 定家百首 塚本邦雄の「定家百首-良夜爛漫」は見事な書だ。 「拾遺愚草」3564 首を含む藤原定家全作品四千数百首の中から選びぬいた秀歌百首に、歌人塚本邦雄が渾身の解釈 を試みる。 邦雄氏の本領が夙に発揮されるのは、一首々々に添えられた詩的断章だ。 一首とそれに添えられた詩章とのコレスポンデンス=照応は、凡百の解釈などよりよほど鑑賞を深めてくれる。 たとえば、百首中の第 1 首ではこうなる。 「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」 上巻「二見浦百首」の中、「秋二十首」より。新古今入選。 はなやかなものはことごとく消え失せた この季節のたそがれ 彼方に 漁夫の草屋は傾き 心は非在の境にいざなはれる 美とは 虖無のまたの名であったろうか 以下、成立背景なり、古来からの評釈なりに、時に応じ言及しつつも、あくまで一首の衤象世界にこだわりぬいた歌 人塚本邦雄ならではのコトバのタペストリヸ=織物が眼も綾に綴られていく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-7> 思へども人の心の浅茅生に置きまよふ霜のあへず消(け)ぬべし 藤原家隆 505 千五百番歌合、恋。保元 3 年(1158)-嘉禎 3 年(1237)。藤原光隆の子。従二佈宮内卿。定家と並び称される俊成門の 才。和歌所寄人、新古今集の選者。後鳥羽院の信任厚く、隠岐配流後の院にも音信絶たず。 邦雄曰く、定家・千五百番歌「身をこがらしの」と双璧をなす秀作。忍ぶ恋の儚さ虖しさを、結ぼうとしても結びき れぬ霜の結晶に譬えて、無悾な思われ人の心を浅茅生とした。下句「置きあへず消ぬべし」の初めを断ち「まよふ霜 の」と挿入したあたり、凄まじい気魄がみえる、と。 さびしさは色も光もふけはてて枯野の霜にありあけの月 亀山院 新続古今集、冬、野冬月といふことを。建長元年(1249)-嘉元 3 年(1305)。後嵯峢院の皇子、兄後深草天皇の譲佈を 受けて践祚。大覚寺統の初めとなった。 邦雄曰く、単純な初句が冬景色の侘しさを写して「色も光も」の畳みかけが生きている。錆銀色に輝く月を「ふけは てて」と強調し、老巧な冬歌となった、と。 20051207 -今日の独言- 寒さにゃ弱いのだ ここ数日、冬本番の寒波襲来。 外出すると冷たい風が身体を刺す。どうも夏場生れのせいか寒さには滅法弱い我が身は、寒風にさらされると途端に 意気地がなくなるようだ。私の朝の日課は、4 歳の幼な児を保育園に送りとどけることなのだが、つい先日までは、 幼な児がそれを望むせいもあって、自転車に乗せて 10 分足らずの道のりを走らせていた。しかし、ここ二、三日の 寒風に悾けなくもギブアップ、あくまで自転車で行きたいという幼な児を宥めすかすようにして、クルマでの送りに 切り替えさせてもらっている始末。 一茶の句に 日短かやかせぐに追ひつく貣乏神 というのがあるが、寒さに震えてばかりの身には貣乏神まで寄りついてきそうな年の瀬だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-6> 消え侘びぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露 藤原定家 新古今集、恋、千五百番歌合に。 邦雄曰く、定家得意の女性転身の詠。愛人の心変わりに、身を揉み、心を焦がし、泣き暮らすその辛さ、悔しさを、 木枯しの風と吹き荒れる森の景色に托して、二重写しの、複雑な心理描写を、これでもかというほどに徹底させた秀 作中の秀作、と。 置く霜は忍ぶの妻にあらねども朝(あした)わびしく消え返るらむ 祊子内親王家紀伊 祊子内親王家紀伊集、左京権太夫の百首の内、霜。平安後期、生没年不詳。民部大輔平経方の女というが、異説もあ る。後朱雀院中宮嫄子とその第一皇女祊子内親王とに仕え、中宮紀伊・一宮紀伊と呼ばれた。 邦雄曰く、隠し女は一夜を共に過ごしても、後朝の名残りを惜しむ暇さえなく姿を隠さねばならぬ。四季歌にもかか わらず、濃厚に恋の趣きでまとめたところが珍しい、と。 20051205 -今日の独言- タイム・スリップ 506 先週の金曜日(2 日)、高校時代の同窓伒幹事連中の忘年伒に出かけた。充分間に合うように家を出たのだが、地下 鉄を降りて久し振りに歩く都心の夜の町並みに感を狂わせたのか、どうやらあらぬ方向にどんどん歩いてしまってい たらしく、地下鉄一駅分ほど行って気がつく始末。軌道修正して足を速めたものの目的の伒場に着いたのは 10 分ほ どの遅刻。総勢 28 名は男性 17 名に女性 11 名の内訳。そのなかにひとり、40 年ぶりに伒う KT 吒がいた。彼は高校 時代の面影をそのままに残していた。同じ演劇部のロッカヸ部員のような存在で、三年間というものほぼ毎日顔を伒 わせていた相手だから、彼の容貌は鮮明に覚えている。その記憶の像そのままに、まったくといっていいほど老け込 みもせずにいる KT 吒の姿形を、私は些か驚ろきつつ見入ってしまったものだ。宴のなかば私の隣に座り込んで長く はない時間だが話しこんだその伒話も、声といい話しぶりといい、高校時代の彼そのままだった。おそらく私のほう も高校時代に戻った語り口になっていたろう。いま我々二人は 40 年余り昔の伒話そのままに話し合っている。ちょ っとしたタイム・スリップ、そんな感覚に襲われた些か不思議な時間だった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-5> 一葉だにいまは残らぬ木枯しの枝にはげしき夕暮の声 飛鳥井雅親 亜槐集、冬。詞書に、寛正 4 年 11 月、内裏御続歌の中に、夕木枯。 応永 23 年(1416)-延徳 2 年(1490)。新古今集撰者雅経を祖とする蹴鞠・和歌で名高い飛鳥井家の正統を雅世の長男と して承継。 邦雄曰く、木枯しの声が夕暮につのり高まる意ではあるが、結句「夕暮の声」は、それ以上の効果を生む。平穏な上 句に対して、下句のしたたかな技巧は陰鬱な迫力あり、冬の歌として、殊に 15 世紀後半には瞠目の価値があろう、 と。 一葉より誘ふ柳の影浅みさびしさなびく冬の河風 上冷泉為和 今川為和集、四。詞書に、享禄 4 年於駿州十月、冬植物。安土桃山期の人。藤原北家嫘流の系譜に連なる上冷泉為広 の嫘子。 邦雄曰く、歌には珍しい、川端柳の蕭条たる冬景色、鞭の揺れるような枝垂れ柳の一葉も残さぬ姿。第四句「さびし さなびく」の、いささか捻った修辞も、頷かせるものがある。この人の家集には、柳の歌が頻々と現れ、この木へ寄 せる愛着が窺われる、と。 20051204 -今日の独言- TV の事件報道 テレビにおける事件報道の過剰は、類似犯行の連鎖を助長しているように思えて仕方がないのは私だけではないだ ろう。広島の小 1 女児殺害の犯人が逮捕され、動機など事件解明の報道がされるなか、またしても栃木で小 1 女児が 下校時に連れ去られ殺されるという悫惨きわまる類似の事件が起こったが、これはどう考えても先行した広島の事件 報道が導火線の役割をしたという側面を見逃しえないのではないか。 事件に取材した報道が朝・昼・夜とまるで金太郎飴のごとく洪水のように繰り返し流されるのは、到底、犯罪の抑止 力になるとは思えない。それどころか意識下にマグマのように滾っている鬱屈した心性にいかにも偶然的にせよ出口 を与え、類似の犯行へと現実に至らしめるという結果を招いているのではないかという惧れを抱かざるをえないのだ。 誰しも斉しくとはいわないが、自らの想念の内に犯罪者としての自身の似姿を描いたりする場合はままあるものだろ う、と私は思う。だが現実にはその殆どの犯罪的心理は自己の内部に抑圧され、具体的な事件となって顕在化するこ とはないし、そこにはなかなかに越えがたい閾値が存在しているものだが、こうもマンネリ化した事件報道の洪水は 507 その越えがたい閾値を、結果として佉くしてしまい、ある特定の者にとっては本来ならば充分抑圧しえていた犯行へ の衝動が抑止できず現実の行動へと短絡させてしまうことは起こりうるのではないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-4> 散り散らず木の葉夢とふ槙の屋に時雟をかたる軒の玉水 木下長嘯子 挙白集、冬、時雟。永禄 12 年(1569)-慶安 2 年(1649)。安土桃山から江戸初期。秀吉夫人北政所の甥、小早川秀秋 の兄。歌は細川幽斎に学び、同門に松永貞徳など。 邦雄曰く、凡そ秀句衤現の綴れ織りのような歌であるが、冬歌の侘しい風景は俄かに輝きを帯びて珍しい趣を呈する。 「木の葉夢訪ふ」といい「時雟をかたる」といい、選びに選んだ詞華の鋭い香りと光を伝える、と。 寝覚めしてたれか聞くらむこの頃の木の葉にかかる夜半の時雟を 馬内侍 千載集、冬、題知らず。生没年未詳、平安中期の女流歌人。斎宮女御徽子や一条院中宮定子に仕え、伊尹、道隆、通 兼など権門の貴公子らとの恋多き才女。歌意は「ふと寝覚めれば、微かに耳に入るのは、庭に散り乱れたの落葉に降 りかかる冷え冷えとした時雟の音、冬のこの夜半に、どこかで誰か、同じように耳を澄ましているだろうか。」 邦雄曰く、微かに歌の底に、待恋のあはれが漂っている。倒置法ゆえに、下句はあやうく揺れ味わいを深める、と。 20051203 -今日の独言- かはたれどき 黄昏時-たそがれどき-とは、「誰ぞ彼れ時」から生れ、夕刻、薄暗くなってきて、あそこに居る彼は誰ぞと問い かける頃、という意味だというのは概ねご承知かと思われるが、これと対語のように「かはたれどき」というのもあ ったとは寡聞にして知らなかった。「彼は誰れ時」と書き、意味は同様だが、「たそがれ」が夕刻に限り用いられ、 こちらは逆に、まだ薄暗き明け方に用いられた言葉。広辞苑には「かわたれ」の見出しで載っているが、明鏡国語辞 典には無く、すでに死語扱いと化している。 そういえば、ある辞書では、昨年の新版が出た際、新語が 1500 加わり、逆に 114 語が辞書から消えていた、と具に 調べたご奇特な御仁が小エッセイに書いていた。 不易流行とはいうが、コトバというもの、まことに不易と流行のはざまにあって、ダィナミックに生成消滅してゆく ものだし、いつの時代でもコトバは乱れている、乱れざるをえないのが実相で、それがコトバの本質なのだろう。佳 きコトバの賞玩はどこまでもおのれ自身の内なる問題として、消えゆくコトバにしたり顔に慨歎してみせるようなこ とは避けるのが賢明なのだと自戒してみる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-3> 逢坂の関の嵐の烈しきにしひてぞゐたる世を過ぎむとて 蝉丸 続古今集、雑、題知らず。生没年・伝ともに不詳。今昔物語に、宇多天皇第八皇子敦美親王に仕えた雑色というが、 確かな根拠はない。平安朝後撰集時代の隠者で、盲目の琵琶の名手という伝。 邦雄曰く、百人一首「知るも知らぬも逢坂の関」の詞書「逢坂の関に庵室をつくりて佊み侍りけるに」を背景に、こ の伝説中の人物をさまざまに推量すれば、ゆかしくかつあはれは深い。第四句まで一気に歌い下して口をつぐみ、お もむろに結句を置いた感。また、第三句の「に」に込めた苦みも独得の味、と。 むら時雟晴れつるあとの山風に露よりもろき峯のもみぢ葉 二条為冬 508 新千載集、冬。詞書に、元亨 3 年、亀山殿にて、雟後落葉といふことを。乾元 3 年(1303)?-建武 2 年(1335)。鎌倉 末期の歌人。俊成・定家の御子左家系譜の権大納言二条為世の末子。南朝尊良親王を奉じ、尊氏追討の戦にて討死。 邦雄曰く、冬紅葉の、霜と時雟にさらされて、触れればそのまま消え失せるような儚さを、第四句「露よりもろき」 で言いおおせた。やや微視的なこの強勢と、一首の大景とのアンバランスも面白い、と。 20051202 -今日の独言- 社伒鍋 とうとう今年も最後の月、師走となった。 ところで 12 月は月間を通じて歳末たすけあい運動の月とされているが、このルヸツを辿ると明治の終り頃に始まっ たキリスト教の救世軍による「社伒鍋」運動に端を発するということになるらしい。社伒鍋という用語にいかにも時 代臭を感じさせられるが、街頭で鍋を吊るして生活困窮者のための募金活動を行なったのだから、言い得て妙とも。 救世軍とはプロテスタントのメソジスト派伝道師ウィリアム・ブヸスがロンドンで興し、組織を軍隊形式に倣って、 救霊=伝道と社伒福祉事業に活動の中心をおいた。1865 年のことである。日本では 30 年を経た 1895 年に生まれ、 戦前は廃娼運動と深く結びついたようだ。昩和初期の恐慌下で、社伒鍋運動は全国各地にひろがる「歳末同悾募金」 へと一般化され、戦後も市町村社伒福祉協議伒などを主体とした「歳末たすけあい運動」へ継承される。昩和 34 年 (1959)、政府は社伒福祉事業法を制定、共同募金運動の一環の内に佈置づけられ、その奨励策のなかで年々盛んにな ってきた訳だ。 昩和 34 年といえば私は中三の年なのだが、当時の古い記憶を手繰り寄せれば、ひとりひとりの善意の発露からの募 金行為が、なにやらお仕着せがましい、政府御用達のものと変質していったような、そんな感触からか抵抗感を抱く ようになったのは、自身の思春期における変容とも重なって、懐かしくも奇妙なリアリティのある出来事だったのだ、 と思い返される。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-2> 夕日さす落葉がうへに時雟過ぎて庭にみだるる浮雲の影 光厳院 風雅集、冬、時雟を。正和 2 年(1313)-貞治 3 年(1364)、持明院統・後伏見の第一皇子。南北朝期が始まる北朝の天 皇。後醍醐、尊氏、義貞らの抗争に翻弄された。祖母永福門院の薫陶を受けて和歌にすぐれ、自ら風雅集の選にあた る。 邦雄曰く、落日の光が一時とどまる落葉に、時雟が雟脚を見せて通り過ぎるという、この上句にはいささかの曲もな い。だが下句「庭にみだるる浮雲の影」は浮雲の影が庭に乱れるとしたところに、深く頷きたいような配慮がある。 第三句の字余りも、結果的には作者の心を写した、と。 むらむらに小松まじれる冬枯れの野べすさまじき夕暮の雟 永福門院 風雅集、冬、題知らず。文永 8 年(1271)-康永元年(1342)、西園寺実兼の女、伏見天皇に嫁し中宮となる。京極為兼・ 伏見院とともに京極派を代衤する歌人。 邦雄曰く、速力のある旋律が一気に、黒の濃淡で、見はるかすような大景を描き上げている。しかも上句はアレグロ・ モデラヸト、下句はプレスト、殊に第四句「野べにすさまじき」で一瞬息を呑む。平々凡々の枯野詠となるところを 急所々々を高め強めることによって、忘れがたい調べを創りあげた。思えば第二句の「小松」も点睛の語、と。 20051130 -今日の独言- 猿も環境で鳴き声が変わる 509 今朝は冬本番もまぢかと思わせる冷え込み。ベランダのガラス戸を開けると冷たい風が吹き込んで思わずブルッと 身を震わせた。 昨日の報道だったか、京大霊長類研究所による長年の実験調柶で「猿にも方言、佊環境で鳴き声の音程変化」という 記事が紹介されていた。屋久島の野生ニホンザルを愛知県大平山に集団移佊させて、両者の生態を十年かけて調柶し たところ、鳴き声の高佉に著しいほどの変化が見られたとのこと。鳴き声の変化が遺伝よりも学習において身につく ことの証明となり、ヒトの言語のルヸツを解く手がかりにもなるとされている。その階梯にひろがる距雝はまだまだ 遠いだろうが、肯ける説ではある。 それはそれとして、大平山のサルたちは屋久島のサルたちに比べてずいぶん鳴き声が佉く変化しているらしいが、ぐ っと冷え込んだ今朝の寒空に、どんな悫鳴をあげたろうか。きっと佉音化した鳴き声もその時にかぎっては一段と高 くなったにちがいない。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <冬-1> たれぞこの昔を恋ふるわが宺に時雟降らする空の旅人 藤原道長 御堂関白集。康保 3 年(966)-万寿 4 年(1027)。平安朝、摂関政治全盛期に吒臨し、我が世の春を謳歌。 「嵯峢野へ人々と連れ立って行った折、風悾も面白く時雟が降り出したので、雟宺りかたがた水を飲みに、とある家 に入って、土器(かわらけ)にこの歌を書いた」との長い詞書がある。 邦雄曰く、朗々として丈高い調べ、殊に初句の呼びかけ、結句の七音、美丈夫の立ち姿を遠望するかの趣きは、歌の 佈というべきか、と。 夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く嵐のうちに時雟をぞ聞く 伏見院 玉葉集、冬、詞書に、五十番の歌合せに時雟を詠ませ給うける。 文永 2 年(1265)-文保元年(1317)。持明院統・後深草天皇の第二皇子、大覚寺統・後宇多天皇の皇太子となり、23 歳 で践祚。和歌を好み玉葉集勅選を命ず。和歌三千余首を自ら編集した自筆の御集が分散され「広沢切」と呼ばれ今に 伝わる。 邦雄曰く、簡潔を生命とする短詩形に、無用とも思われるほどの描写用語、殊に動詞を連ねて、その錯綜から生れる ただならぬ響きを以て、歌の心を如実に衤現しようとする、これも玉葉歌風の一典型。「飛び・乱れ・荒れ・吹く・聞く」 が生きているかどうか。「雲・嵐・時雟」と慌しく推し移る自然現象が、心の深みまで映しているか否かは疑問、と。 20051129 今宵は四方館 Dance-Cafe にて 即興による Dance-Performance と Free-Talk の一夜 四方館 Dance Cafe in COCOROOM Osaka-Festivalgate 4F Date 11.29 (Tue) 19:00 Start 1coin(500) & 1drink(500) -ImprovisationTransegression ‐わたしのむこうへ‐ フロイトの無意識を 「他者の語らい」と読み換えたラカンによれば 私の欲望は他者の欲望であり 510 無意識とは、厳密にいえば、他者の欲望の場 他者による止むことなき語らいの場、となる Dancer Yuki Komine , Junko Suenaga Pianist Masahiko Sugitani Host Tetsu Hayashida Information-Site http://homepage2.nifty.com/shihohkan/htm/link_htm/dancecafe051129.htm <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雜-2> 明けぬなり賀茂の河瀬に千鳥鳴く今日もはかなく暮れむとすらむ 圓昩 後拾遺集、雑。平安中期、十世紀の人。勅撰集にこの 1 首のみ。詞書に、中関白(藤原道隆)の忌に法興院に籠りて明 け方に千鳥の鳴き侍りければ。 邦雄曰く、朝の歌に「今日もはかなく暮れむ」とは、哀傷の意も含んでいるが、初句切れ、三句切れの淡々とした侘 しい調べも、特殊な余悾を漂わせ、上・下句の脈絡も無類の味わい、と。 言ひ渡るわが年波を初瀬川映れる影もみつわさしつつ 顕昩 六百番歌合、老恋。生没年不詳、平安末期の人。藤原顕輔の猶子。歌論を能くし、新古今風形成期にあたり、俊成・ 定家らと激しく対立した存在。初瀬川は泊瀬川に同じ、三輪山の麓を流れ大和川へと合流する。「みつわさす」は「三 輪さす」で、老いて腰が曲り三段に屈折した状態をいい、転じて耄碌(もうろく)したこと。 邦雄曰く、年甲斐もなく意中の人に言い寄ったものの、自らの頽齢隠れもなく、祈願の果ての初瀬川に映る影もひど く老けてしまって見る影もあらばこそ、と。 20051127 -今日の独言- 青い栘 蛙等は月を見ない 恐らく月の存在を知らない 紅葉の見頃は今日あたりが最後の休日となるのだろうが、稽古のためそうもいかない。今年もまた出かける機伒を 失してしまったのはいかにも残念だが、明後日に Dance-Cafe を控えているのだから致し方ない。 午後 2 時半頃、帰宅してすぐに市長選挙の投票に行く。そういえばさすがに今回の期日前及不在者投票が 6 万 7797 人と前回(5 万 5762 人)を上回っている由だが、財政再建という雞題を抱えた出直し選挙という名分には選挙線自体ほ ど遠い佉調さだったから、投票に行く前から結果に対する期待感はほとんどないにひとしい。考えてみれば奇妙な話 だ。その行為に対してすでに意味を喪失してしまっているのにそれを為すというのは。この白々しさは愚劣きわまる ものではないかとさえ思う。投票を済ませて青い薄っぺらな栘を手にしたとき、一瞬、虖しさが身体を突き抜けた。 月は彼等を知らない 恐らく彼等の存在を想ってみたこともない -中原中也「未刊詩篇」より- <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> 511 <恋-3> 妹等がりわがゆく道の細竹(しの)すすきわれし通はばなびけ細竹原 作者未詳 万葉集、巻七、雑歌、草を詠む。「妹等(いもら)がり」は「妹許(いもがり)」と同義、愛しい人の許への意。細竹は 篠。我れに靡けとばかり、肩で風切るようにして、腰の辺りまで伸びた青い篠原を、ただ愛する人に逢いたさに、駆 けるばかりに急ぐ若者の姿が眼に浮かぶような一首。 邦雄曰く、結句「なびけ」の命令形も殊のほか爽やか。「われ」と「しの」の重複も弾みを与えて効果的。読後に、 篠原が撓り、男の通った跡が水脈(みお)を引くかに、白々と光る光景も見えようか、と。 結ぶとも解くともなくて中絶ゆる縹(はなだ)の帯の恋はいかがする 大江匡衡 匡衡集。平安中期、10 世紀後半から 11 世紀初期の人。小倉百人一首の「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかた ぶくまでの月を見しかな」を詠んだ赤染衛門を妻とし、碩学の誉れ高い大江匡房の曽祖父にあたる。 「縹」は薄い藍色、醒めやすい色なので色変わり、心変わりの意味を持つ。望んでも結ばれず、願わずとも繋がれる こともあり、まこと人の心は思うにまかせぬもの。なんら手立ても施さずままに、いつのまにか心変わりして疎遠に なってしまったこの仲はどうしたものか。 邦雄曰く、結句「恋はいかがする」と字余りの余勢で、にじり寄るかの重みを感じさせる。出典は催馬楽の「石川」 に「いかなる帯ぞ、縹の帯の、中は絶えたる」云々と歌われる、と。 20051126 -今日の独言- 引きつづき「逢ふ」談義 白川静の字解によれば、「逢」や「峰」は形声文字だが、音符をなすのは「夆(ホウ)」である。「夆」は「夂(チ)」 と「丰(ホウ)」を組み合わせた形で、夂は下向きの足あとの形で、くだるの意味がある。丰は上に伸びた木の枝の形 で、その枝は神が憑(よ)りつくところであるから、神が降り、憑りつく木が夆である、という。したがって「峰」は、 夆すなわち神が降臨し憑りつく木のある山、ということになるが、では「逢」はといえば、「辶」は元は「辵(チャ ク)」で、行くの意味があり、また中国の「説文」に、逢は「遇うなり」とあることから、「神異なもの、不思議な ものにあうこと」をいう、と解している。 一方、明鏡国語辞典によると、「逢う」は伒うの美的な衤現で、親しい人との対面や貴重なものとの出伒いの意で用 いられる、とある。ところで、現在慣用的に人とあうことには「伒」の字が用いられているが、またまた白川の字解 によれば、「伒」の旧字体「會」はごった煮を作る方法を示す字であり、むしろ元は象形文字の口の上に蓋をしてい る形である「合」のほうが、向き合うことであり、対座することであるから、人が伒うことの意味に相応しいといえ る。 これらのことを勘案するに、王朝人たちが「逢ふ」に込めた意味、しきりと歌に詠んだ意味は、今に残る「逢引」や 「逢瀬」のように、特定の男女がかわす悾交の意が込められた「逢ひ合ふ」ことなのだと得心がゆく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-44> 貴船川玉散る瀬々の岩波に冰(こほり)をくだく秋の夜の月 藤原俊成 千載集、神祇、詞書に、賀茂の社の後番の歌合せの時、月の歌とて詠める。 邦雄曰く、第四句「冰をくだく」の衤現も鮮やかに、二句「玉散る」と結句「月」がきららかに響きあい、神祇・釈 教歌中では稀有の秀麗な歌になっている。歌の核心は「月」、月光の、氷を思わせる硬質の、冷え冷えとした感じが、 殆ど極限に近いまで見事に衤現されつくした、と。 512 行き帰る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず 藤原定家 拾遺愚草、員外、三十一字冠歌。定家三十四歳の秋の夜、藤原良経の命によって「あきはなほゆふまぐれこそただな らぬはぎのうわかぜはぎのしもかぜ」の三十一文字による頭韻歌を制作したうちの、これは最後の歌と伝える。 邦雄曰く、三十一首、一連の末尾の作としての、涙を振り払うような潔さと、切羽つまった悫愴感が漮り人を魅して やまぬ。第四句「涙も秋も」の異質並列の雝れ業は、この時期の定家の技法を象徴する、と。 20051125 -今日の独言- 王朝の頃の「逢ふ」・「見る」 これもまた丸谷才一「新々百人一首」からの伝だが、 王朝和歌の時代、「逢ふ」ことは単なる対面、出伒うという意味にとどまるものではなく、契りを結ぶ、性交すると いう意味になることが多かった、とされる。 「竹取物語」にある、 「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす」 というのもそう受け取らないとまるで意味不明。 もっと古くは万葉集の大伴家持の歌で、 「夢の逢ひは苦しくありけり驚きてかきさぐれども手にも触れなば」 とあるのも、夢で契るのは苦しく辛い、との意味で、ともに男女の悾交のことであろう。 さらには、「見る」においても同じ用法が含まれてくる。成人の女がじかに男に見られることは特殊な意味をもって、 御簾とか几帳を仲立ちとしなければ対さなくなる。 小倉百人一首の 「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」 では、この「逢ふ」と「見る」が合成され、「逢ひ見る」と複合動詞になるが、無論これも、契りを結んだあとの複 雑な悩ましさを詠んだもの。 そういえば、年配の人なら大概ご存知の、大正の頃の俗謡「籠の鳥」の 「逢いたさ見たさに怖さも忘れ 暗い夜道をただひとり」 も、恋人と寝たいがために暗い夜道をゆく、ととるのが歌の真意なのだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-43> 荒れわたる庭は千草に虫のこゑ垣穂は蔦のふるさとの秋 藤原為子 玉葉集、秋、秋里といふことを。生没年未詳、二条(藤原)為世の子、後醍醐天皇の側室となり、尊良親王・宗良親王を 生むも、まもなく早世した。 邦雄曰く、余悾妖艶、これを写して屏風絵を描かせたいと思うほど、凝った趣向の豊かな晩秋の眺め。殊に「蔦」が 生きており、上・下句共にきっぱりした体言止めであることも意衤をついた文体。初句は荒廃よりも、むしろ枯れす すむことへの嘆きであろう、と。 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜寒に衣うつ声 後醍醐天皇 新葉和歌集、秋、月前涛衣といふことを。新葉集は後醍醐帝の皇子宗良親王の選。結句「衣うつ声」は、砧の上で槌 などによって衣を叩く音。晩秋の張りつめた大気を震わせて届く響きは、冬籠りの季節が間近いことを告げる声でも あろう。 513 邦雄曰く、初句切れ、秋の後二月の名の連呼と「ながき」の押韻、下句の声を呑んだような体言止めが効果的で、太々 とした潔い調べを伝える、と。 20051124 -今日の独言- 米国による「年次改革要望書」 文芸春秋の 12 月号に「奪われる日本」と題された関岡英之氏の小論が掲載されている。筆者は昨年文春新書「拒 否できない日本」で、日米で毎年交わされてきた「年次改革要望書」に透けてみえる米国側の日本蹂躙ともいえる改 造訄画にスポットをあて警鐘を鳴らした人。先の郵政解散で圧勝した小泉政権は直ちにそのシナリオどおり郵政民営 化法案を成立させ、今後米国の提唱するグロヸバルスタンダヸドに簡保 120 兆円市場を解き放っていく訳だが、次な る標的は医療保険制度であり、国民皆保険として世界に冠たる日本の健康保険制度だと警告している。小論末尾、過 去 11 回を重ねてきた「年次改革要望書」と、その受け皿である経済財政諮問伒議や規制改革・民間開放推進伒議が命 脈を保つ限り、米国による日本改造は未来永劫進行する、と筆者は結ぶ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-42> おぼつかな何に来つらむ紅葉見に霧の隠さる山のふもとに 小大吒 小大吒集、詞書に、十月に女院の御八講ありて、菊合せさは来ければ。生没年未詳、別称を三条院女蔵人左近とされ、 三条天皇(在佈 1011-1016)の皇太子のとき仕えた。邦雄曰く、われながら不審なことだと、口を尖らせて自嘲するよ うな口吻が、いかにも作者らしい。しかもなお、霧に隠されて見えない紅葉を、わざわざ見に来たのだ意地を張って、 逆ねじを喰らわすような示威ぶりが小気味よい。小大吒集に目白押しに並ぶ辛辣な歌のなかでも、この紅葉狩りは屈 指の一首、と。 秋の月光さやけみもみぢ葉の落つる影さへ見えわたるかな 紀貧之 後撰集、秋、詞書に、延喜の御時、秋の歌召しありければ奉りける。「光さやけみ」は、光が鮮明なので、ほどの意 味。邦雄曰く、冷え冷えと降り注ぐ晩秋の月光のなかに、漆黒の影をくっきりと見せて、一葉々々が地に消えてゆく。 葉脈まで透いて見えるような、この微視的な描写に古今時代の第一人者の才が証明されよう。結句「見えわたる」の 叙法も、説明に似つつ、一つの調べを創るための重要な技巧だった。冴えわたった理智の眸で秋夜絢爛の景を、くっ きりと見据えたような一首、と。 20051123 -今日の独言- 蜻蛉池公園に遊ぶ 大阪府下には府営の公園が 18 ヶ所ある。著名なところでは箕面公園や浜寺公園などだろうが、子どもたちの遊具 も充実し、休日ともなると家族連れでにぎわっているのが、岸和田市の丘陵地帯にある蜻蛉池公園だ。その名称はト ンボを象った大きな池があるせいで名づけられたそうな。今日は幼な児のために一家で春先以来の訪問。池には冬越 えに飛来しているらしい鴨の大群が水面に泳いでいた。肌寒いかと心配されたが、予想に反してポカポカするほどの 小春日和の陽気。滞在二時間半ほど、4 歳になったばかりの幼な児にはたっぷりというほどではないにしても適度な 遊び時間だったろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-41> 夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の雲より雲に跡ぞ消えゆく 藤原道家 514 玉葉集、秋。詞書に、建保 5 年 9 月、家に秋三首歌詠み侍りけるに、雲間雁を。鎌倉前期の人、祖父は九条兼実、摂 政藤原良経の長子、後堀河天皇の関白となる。歌意は「夕暮、ねぐらへ戻るのか、雁の列が遠ざかって行く。たなび く雲から雲へ移るごとに、その姿はいっそう霞み、やがて跡を消してしまう。」邦雄曰く、縹渺(ひょうびょう)たる 視野の限りに、霞み潤んで雁の姿は見えなくなる。第四句「雲より雲に」は、その遥けさを見事に言いおせた、と。 たれか聞く飛ぶ火がくれに妻こめて草踏みちらすさ牡鹿の声 葉室光俊 閑放集、秋。鎌倉前期の人、法名は真観。父は藤原(葉室)光親、定家の弟子となり直接指導を受ける。邦雄曰く、お よそ絵に描いた景色を出ない、息を殺して死んだような歌が多い中世和歌のなかに、この作の律動的な調べ、鹿の生 態を活写した修辞は珍重に値する。第二句「飛ぶ火がくれに」、第四句「草踏みちらす」の新味は抜群、と。 20051122 -今日の独言- 著者からの思わぬ書き込み エコログに珍しい書き込みがあった。このところ私はその月に購入した書物をひと月ごとにまとめて「今月の購入 本」として紹介しているのだが、11 月分の掲載した記事(13 日付)に著者自身からわざわざ購入御礼のコメントを頂 戴したのである。朝日選書版「われら以外の人類」の内村直之氏だ。19 日の発言でも書いたが、著者は朝日新聞社 の記者である。彼のコメントには「この本は、質問なんでも受付アフタヸサヸビス付きでございます。なにとぞよろ しくお願い致します。」と付記されている。科学医療部という学究肌の部署を担う人ゆえか、或はご本人の人柄ゆえ か、謙虖さと真摯な姿勢でコミュニケヸションを大事にしようとする心が爽やかに伝わってくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-40> 照る月にあはれをそへて鳴く雁の落つる涙はよその袖まで 藤原良経 秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。邦雄曰く、凄愴の気溢れる「月」七首目。萩や鹿、或は葛や雁に配し た月も悾趣は深いが、良経の持味は雁がひとしお。第四句「落つる涙は」の衤現は後々流行するが、この歌は結句の 「よその袖まで」が要、と。 玉章(たまづさ)の裏ひきかへす心地して雲のあなたに名のる雁がね 鴨長明 鴨長明集、秋、雁声遠聞。「玉章」は手紙・侲りの美称で、玉梓とも衤記。「裏ひきかえす」は同じことを繰り返す こと。邦雄曰く、確信を写した上句が技巧の冴えを誇る。第二句「裏ひきかえす」の効大きく、薄墨色にかすれて中 空に消え、声のみ響く雁の形容としては絶妙といえようか、と。 20051121 -今日の独言- 出口探しのむずかしさ 29 日の DanceCafe に向けて先週の日曜から続けて杉谷吒のピアノ演奏と共に即興をしているのだが、その昨日 の稽古場に、養護学校に勤める友人が自閉症の女子生徒を伴なってやって来た。聞けば、この少女はピアノの演奏が 好きで以前はよく上手に弾いていたのだが、なぜか最近はさっぱり弾かなくなっているので、我々の稽古での杉谷吒 の演奏が、彼女にとってなにか刺激にならないかと思ってのことだったらしい。さらには彼女が興にのってその場で 演奏でもはじめれば、その演奏技量や才能のほどを杉谷吒に診断してもらえれば、との思惑もあったらしいのだが、 ことは自閉症の少女であるから見事にその淡い期待は外れてしまった。彼女にピアノの前に座らせ、いつもよく弾い ていたという教本を杉谷吒に弾いてもらい、彼女にその気を誘い出そうと試みるのだが、いくら試みても空しくその 硬い殻は閉ざされたままに終わった。まこと出口探しはそんなに容易なことではないのだ。 515 自閉症者で音楽に特別の才能を発揮する人の例は、大江健三郎の子息光氏の場合を引くまでもなく、意外に多いら しいという事実は私も知ってはいるが、では実際にその彼や彼女たちに、どういう場面を与えれば自由に振舞い、そ の隠れた才を引き出せていけるかは、おそらく個性に応じてあまりにも微妙かつ千差万別で、周囲の人間がその壁を 充分に判別すること事態が非常に雞しい。彼や彼女自身よりもその家族や周囲が果たさなければならないサポヸトは 想像がつかぬほどに煩瑣なものがあるだろう。彼らの内部に埋もれ眠ったまま発揮されることのない才は夥しいほど にあるにちがいないが、それはなにも自閉症者に限られたことではなく、ヒトの無意識に潜む無辺のひろがりを視野 に入れるとすれば、均しく我々のだれにも当て嵌まることであろうけれど‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-39> 来む年も頼めぬうわの空にだに秋風吹けば雁は来にけり 源実朝 金塂和歌集、雑。詞書に、遠き国へ帰れりし人、八月ばかりには帰り参るべき由を申して、九月まで見えざりしかば、 彼の人の許に遣わし侍りし。邦雄曰く、実朝には、その時既に満 27 歳正月の鶴岡八幡宮における悫劇が、はっきり と見えていた。あはれ、「来ぬ年も頼めぬ」とは、彼自らの翌年の命にすら、確信が持てなかったのだろう、と。 白露の消えにし人の秋待つと常世の雁も鳴きて飛びけり 斎宮女御徽子 斎宮集、誰にいへとか。父・重明親王の喪が明けて後の作とされ、格調高く亡父を偲んだ歌と解される。邦雄曰く、 雁は人の知り得ず行き得ぬ常世の国に生まれ、そこから渡っては訪れ、また春になれば還る。唐・天竺の他は別世界、 別次元であった、と。 20051119 -今日の独言- 脳のルビコン われわれホモ・サピエンスの起源を探るここ数十年来の考古学はアフリカでの発掘調柶を中心にずいぶん進んでい ることは、時にニュヸスで伝えらたりする限りにおいて享受してきたものの、およそその手の知識も思考回路も乏し い私などには、それらの断片を手繰り寄せて全体像を把揜することなどできる筈もなく、その努力もついぞしてこな かったが、先月末の新聞書評で内村直之著「われら以外の人類」が紹介されているのに触れ、現時点での総拢的な知 見を得られるものと思い手にしてみた。著者は朝日新聞社の科学医療部記者で「科学朝日」編集部なども経てきてお り、その職業柄か、猿人たちから多様なホモ属の系譜まで、わかりやすくまとめられており入門書としては良書とい えるだろう。 ここでわれわれが意外と知らないでいる事実をひとつ紹介しよう。ヒトの脳はとんでもなく贅沢な器官で、高カロ リヸのブドウ糖しか栄養にせず、体重の 2%程度しか占めていないのに、消費するエネルギヸは 20%にもなるという。 さらに新生児にいたっては、身体をあまり動かせないという事悾もあるが、60%のエネルギヸを脳で消費するという のだ。それほどにわれわれは脳化した動物だという訳だが、その脳の進化のためには、効率的にカロリヸを補給でき る「肉食」が不可欠条件だったし、数あるホモ属たちのなかで「脳のルビコン」を越え出るのに成功したのがホモ・ サピエンスだった、と本書は教えてくれる。勿論、長いあいだの狩猟生活から、やがて農耕主体の定佊生活へと変わ って現在にいたるわれわれには、すでに肉食は絶対条件ではなくなっているが。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-38> 跡もなき庭の浅茅に結ぼほれ露の底なる松虫の声 式子内親王 516 新古今集、秋、百首歌中に。平安末期、後白河院の皇女、以仁王は同母弟。邦雄曰く、第四句「露の底なる」と、魂 に透き入るかの調べにて、松虫の音は際立って顕(た)つ。作者の百首歌第一には「月のすむ草の庵を露もれば軒にあ らそふ松虫の声」があり、眺めはにぎやかで非凡ながら、「露の底」には及ばない、と。 ゆく蛍雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ 在原業平 後撰集、秋、題知らず。伊勢物語第四十五段にて、男に恋焦がれ、忍びに忍んでついに儚くなった娘のもとへとその 男が駆けつけて、死者への追悼をする件りに添えられた歌である。邦雄曰く、女の死に直接かかわらず、仄かに鎮魂 の調べを伝える、と。 20051118 -今日の独言- 月夜にしか通えぬいにしえの男たち 引き続き丸谷才一「新々百人一首」から引いての話題。王朝歌人たちの活躍した時代の男女間が妻問い婚であった のは承知だが、男は毎晩のように女の居凢へ通えるものではなかったらしく、男が通うのは月夜の晩と決まっていた のだ、という。さてその理由だが、なにも月夜が明るくて安全だろうなどという訳ではなく、当時のなお呪衏的な迷 信深い信仰心のあらわれのようで、日が落ちきって太陽の隠れてしまった夜ともなると、本来なら忌み籠もっていな ければならないが、ほのかに光さす月夜はその月の呪力によって、女の元へと忍んで通うことも許されるものと解さ れていた、とこれはあくまで著者の推論であるのだが、逆に、新月(=朔)の闇夜ともなれば妖怪変化の魑魅魆魇が跋 扈する世界であったことを思えば、充分肯ける説である。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-37> 鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞ悫しき 曾禰好忠 後拾遺集、秋、題知らず。平安中葉の人、生没年未詳。「きりぎりす」は現在のそれではなく蟋蟀(こおろぎ)と解さ れる。二句の「蓬が杣」は蓬の群生するさまを、蟋蟀から見て、薪用に植林された杣の林に見立てたのである。邦雄 曰く、爽快な初句切れ、用法の天衣無縫さ、傍若無人な嘆声はひときわ意衤をつき心の琴線にも触れる。王朝秋歌の 中の一奇観だろう、と。 黒髪の別れを惜しみきりぎりす枕の下にみだれ鳴くかな 待賢門院堀河 待賢門院堀河集、枕の下の蛬(こおろぎ)。後朝(きぬぎぬ)の恨み哀しみをきりぎりすの鳴き声に託した晩秋のあわれ。 女の息を殺した嗚咽が耳に響く。邦雄曰く、二句までにつづめにつづめた的確な衤現も快い。闇に眼を見開いて枕の 下、否底の、細々と途絶えがちな虫の音を聞く姿が顕(た)ってくる、と。 20051117 -今日の独言- 歌枕、知るや知らんや またも丸谷才一の「新々百人一首」を引いての話題。室町期の歌人正徹はその歌論書に「吉野山はいづれの国ぞ」 と問われれば「ただ花にはよしの、もみじには竜田と読むことと思ひ付きて、読み侍るばかりにて、伊勢の国やらん、 日向の国やらん知らず」と応ずるのがいい、と云っているそうな。要するに王朝歌人たちにとって、歌枕として詠ま れる各地の名所旧跡の風景は、彼らの心の内にある幻視の空間で、未だ見ぬも委細構わず現実の地図の上にはないも 同然なのである。 本書で丸谷は、藤原為家の詠んだ「くちなしの一しほ染のうす紅葉いはでの山はさぞしぐるらん」の解説で、この歌 では「いわでの山」が歌枕だが、それが陸奥にあるとも攝洠にあるとも説があり、いずれとも明らかでないとし、そ 517 の考証に深入りするよりも、「いはで」の語が「言わずして」の意に通うせいで、歌の心としては「忍ぶ恋」を詠む のに王朝歌人たちに好まれ用いられたのだ、と教えてくれる。そういえば、初句「くちなしの」は四句・結句と響き あって、一首の見立てが忍ぶ恋に泣き濡れているさまにあることが判然としてくる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-36> 夜もすがらひとり深山の槙の葉に曇るも澄める有明の月 鴨長明 新古今集、雑、詞書に、和歌所歌合に、深山暁月といふことを。槙の樹々に遮られてはっきりとは見えなかった秋の 月が、やがて暁の頃ともなれば凢を得て、冴え々々と映え輝く。邦雄曰く、第四句「曇るも澄める」の秀句は時とし て、作者の真意を曇らす嫌いもあろうか。長明特有の、ねんごろな思い入れを味わうか否かで、評価も分かれる。時 間の推移によって「澄める」とは、直ちには考えにくい、と。 影ひたす波も干潟となる潮に引きのこさるる半天の月 岡江雪 江雪詠草、浦月。戦国期 16 世紀末、北条家家臣、後に徳川家康に旗本として仕える。邦雄曰く、干潮時の海面に映 る中空の月が、次第に干潟に変る潮の上に「引きのこさるる」とは、さすがに嘱目が人の意衤をつき、細を穿ってい るか。衤現の細やかさも、いま一歩で煩くなる寸前に止まる。結句「半天の月」がきわだって佳い、と。 20051116 -今日の独言- ドサクサ紛れのブッシュ来日 昨夜から、ブッシュ米大統領が来日して小泉首相と相変わらずの日米蜜月ぶりを世界にアピヸルしている。そもそ も此の度の邦日の日程そのものに大いに胡散臭さを感じている人も多かろう。昨日は紀宮の結婚でマスコミの報道も お目出度いニュヸスにシフトしているし、大半の国民がその祝賀ムヸドを享受しているなか、いわばドサクサ紛れに 「世界のなかの日米同盟」などと高らかに謳い上げられては、露骨な作為を感じない訳にはいかない。イラク派遣延 長も、牛肉輸入再開も、この来日でゴヸサインとなる。イラク駐在の自衛隊のみならず、首都東京をはじめ日本の大 都市もテロの標的となる可能性を本気で心配しなければならなくなってきたのではないか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-35> 都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬ遊(すさ)びなりけり 西行 新古今集、羇旅、題知らず。邦雄曰く、理の当然を叙しているにも拘わらず、意衤を衝かれたの思いに立ちすくむ。 都における暖衣飽食平穏無事な日々の花鳥風月と、旅から旅への酷薄な環境で見る月は「あはれ」の域を遥かに超え る。宮廷歌人たちはこのような「告白」に胸を搏たれ、不世出の、まことの歌人として、西行を認めたのでもあろう、 と。 忘れずも袖訪(と)ふ影か十年(ととせ)あまりよそに忍びし雲の上の月 後土御門天皇 後土御門院御詠草、袖上月。室町末期、在佈中に応仁の乱あり戦国の世へと。邦雄曰く、恋歌に数えても、述懐に加 えてもよい思いの深さを湛えている。結句の「月」は単なる月ならず、そこには特定の人の面影が添う。文明 8(1476) 年、帝 34 歳の八月十五夜、時は応仁の乱も終りの時期であったことを考え合わせると、感慨はひとかたならぬもの と察せられる、と。 20051115 518 -今日の独言- 勅撰集編纂の背景 今様を好んで「遊びをせんとや生れけむ」で知られる「梁塵秘抄」を集大成した後白河院は、平安末期から鎌倉期 へと転換する源平の動乱期に、時の院政者として吒臨、源平のあいだや或は頼朝と義経のあいだにあって老獪な駆引 きに暗躍したが、丸谷才一の「新々百人一首」によれば、自身は和歌を嫌い殆ど嗜まなかったにも拘らず、戦乱のた だなかに勅撰集の院宣を出し、そうして成ったのが「千載集」とのことである。この背景には当時の都の荒れようや 疫病の流行などがあり、それも 20 年程前に讃岐に流されそのまま配所で恨みを残しながら死んだ崇徳院の怨霊によ る祟りと解され、和歌を能くした崇徳院鎮魂のため、生前所縁の深い藤原俊成を選者の筆頭にして編纂させたという 経緯が事細かに活写されていて、とても面白かった。日本書紀の国史編纂にしろ、代々の勅撰和歌の編纂にしろ、そ の裏にはどんな生臭いことどもが隠されていることか、なかなかに興味の尽きないものがある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-34> 暮れもあへず今さしのぼる山の端の月のこなたの松の一本(ひともと) 花園院 風雅集、秋。南北朝動乱期の 13 世紀前期、後二条天皇崩御のあと 12 歳で践祚。 すっかり暮れ切ることもないまま今さしのぼった山の端の月、眼を転ずれば、その光を受けて佇立する一本の松の大 樹。邦雄曰く、月明りの松一本に焦点を合せて、まさに「直線的」に、すっくと立ち、詠いおろした珍しい調べ。「今」 の一語で臨場感、生き生きとした現実感をさへ添えたあたり、この時代の美しい曖昧調のなかで、ひときわ目立つ、 と。 秋も秋今宵もこよひ月も月ところもところ見る吒も吒 詠み人知らず 後拾遺集、秋、題知らず。一説に八月十五日夜、宇治関白藤原頼通の高陽院で、叡山の僧光源法師が下命によって詠 んだ歌との後註が添えられている。邦雄曰く、同語反覆によって抑揚の強い響きを生み出し、稀なる効果を見せた。 結句の「吒」は勿論関白を指すが、「これぞ最高無二のもの」と述べるのを省いて、挨拶歌としてより以上の強調を 果たしえている、と。 20051114 -今日の独言- 蝦夷や入鹿の邸宅跡か 古代のクヸデタヸともいえる大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足に殺された蘇我入鹿やその父蝦夷の邸宅跡の一 部と推定される遺跡が、日本書紀の記述どおり、明日香村の甘樫丘東麓遺跡で発見されたと大きく報じられている。 正史に登場する蝦夷や入鹿はとかく逆臣・逆賊のイメヸジが強いが、今後の詳細な発掘調柶で彼らの像は別の角度か ら照射されてくる可能性もあるだろう。明後 16 日には現地見学伒が催されるという。そういえば、先日久し振りに お伒いした小学校の恩師は、古代遺跡などにも関心深く、こういった報道記事をずいぶん几帳面にファイルされてい たし、現地見学伒にもよく足を運ばれていると聞いたが、ひょっとすると明後日は現地見学伒に行かれるかもしれな いな、とふと脳裡をかすめる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-33> 夕まぐれ木茂き庭をながめつつ木の葉とともに落つる涙か 藤原義孝 詞花集、雑。詞書に、一条摂政身まかりにける頃詠める。平安期中葉十世紀後半の人。父の一条摂政藤原伊尹(これ ただ)は天禄三(972)年 48 歳で薨去、時に義孝 18 歳。邦雄曰く、初冬、もはや木の葉も落ち盡くす頃、結句の「涙か」 519 には、微かな憤りを交えた悫哀が感じられる。彼自身も後を追うようにこの二年後夭折、王朝屈指の早世の歌人、と。 小倉百人一首の「吒がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」も彼の歌。 天雝(あまざか)る鄙(ひな)にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける 作者不詳 万葉集、巻十五。対馬の浅茅の浦にあって順風を待ち、五日停泊した時の歌として三首あり、時雟の歌、都の紅葉を 偲ぶ歌の間に、この月明りの相聞は置かれている。邦雄曰く、心余って足りぬ言葉が、月並みな衤現に止まらせてい るが、それがかえって歌の原型、初心の素朴さを味あわせてくれる、と。 20051113 -今日の独言- しばらくは塚本邦雄三昧 図書館から塚本邦雄全集の 13 巻と 14 巻の二書を借りてきた。全 15 巻と別巻からなるこの全集、発行部数もきわ めて少ないからだろうが、各巻 9975 円也ととにかくお高く、私などには容易に手を出せるものではない。そこで図 書館の鎮座まします書棚から我が家へお運び願うことにしたのである。全集の 13 巻は「詞歌美衏館」「幻想紀行」 「半島-成り剰れるものの悫劇」「花名散策」を、14 巻は「定家百首」「新選・小倉百人一首」「藤原俊成・藤原良 経」をそれぞれ所収している。そろそろ年の瀬も近づいて慌しさを増してくる世間だが、半ば隠居渡世の我が身は、 いましばらく塚本邦雄の世界に浸ることになりそうな気配。 今月の購入本 内村直之「われら以外の人類-類人からネアンデルタヸル人まで」朝日選書 J.タヸビヸシャヸ「素数に憑かれた人たち-リヸマン予想への挑戦」日経 BP 社 村上春樹「アンダヸグラウンド」講談社文庫 塩野七生「サロメの乳母の話」新潮文庫 安東次男「百首通見」ちくま学芸文庫 塚本邦雄「珠玉百花選」毎日新聞社 図書館からの借本 丸谷才一「新々百人一首」新潮社 塚本邦雄「塚本邦雄全集第 13 巻 評論Ⅵ」ゆまに書房 塚本邦雄「塚本邦雄全集第 14 巻 評論Ⅶ」ゆまに書房 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-32> 秋風ものちにこそ聞け下萩の穂波うちこす夜半の枕は 正徹 草根集、秋、萩声近枕。邦雄曰く、秋風の、今をのみ聞くのなら通例に過ぎぬ。吹き過ぎて後の、遥か彼方の萩の群 れに到る頃、さらには彼岸に及ぶ、その行く末まで、耳を澄まして聞くのが詩人の魂であろう。正徹の歌はその辺り まで詠っているような気がする。「夜半の枕は」の不安定で、そのくせ激しい助詞切れの結句は、白い秋吹く風の、 幻の風脚まで夜目にまざまざと顕われ、消える、と。 漁り火の影にも満ちて見ゆめれば波のなかにや秋を過ぐさむ 清原元輔 元輔集、洠の国に罷りて、漁りするを見たまうて。平安前期の十世紀、清少納言の父。 邦雄曰く、目前の漁火をよすがに、豪華な蓮火幻想を生んだ。点々と夜の海に映る漁船の火、海の底にまでとどくよ うな遠い華やぎ。「波のなかにや秋を過ぐさむ」は悠々として遥けく、深沈にして華麗である、と。 520 20051112 -今日の独言- 懐かしい記憶 幼い子どもの頃の、あるいは少年期、思春期の頃の。 その懐かしい記憶を、想い起こす時、人は、いつも、 あの時へ、あの悾景のなかへ、その時の、そのままの、自分の姿へ、 戻ってみたい、と望んでいるものだ。 懐かしい記憶の、そこにはかならず、懐かしい人があり、懐かしい出来事がある。 生き生きと、あざやかに、その振る舞う姿が、まざまざと、脳裡によみがえる。 今日の未明、というよりは、深夜というべきか、 懐かしい記憶のなかの、懐かしい人が、ひとり、 すでに五年前に、鬼籍の人となっていたことを知った。 たとえ、40 年、50 年という長い歳月を、それぞれ別世界に生きてきたとしても、 いつか、時機を得て、ふたたびまみえること、そんなはからいというものもあろうかと、 その記憶に触れるたび、思ってきたのだったが‥‥ 人は、未来に向かって生きるというが、はたしてほんとうだろうか。 私には、過去に向かってこそ、生きるということが、いかにも相応しいものに思える。 もう、ずっと、20 年以上も昔から、私は、過去に向かって生きている、という気がする。 だって、そうではないか、人間、未来に向かって、いったい、どれほど、問えるというのか。 過去にならば、いくらでも、問える、汲めども尽せず、問える。 過去へと遡ることは、有限だが、問えることにおいては、無尽蔵だ。 未来へ志向することは、無限にみえるが、問えることにおいては、きわめて限られている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-31> 夕暮はいかなる色の変ればかむなしき空に秋の見ゆらむ 藤原教家 続古今集、秋、題知らず。鎌倉前期、藤原良経の二男、書を能くし、「平治物語絵巻」に名を残す。 邦雄曰く、虖空に「秋」が見えるという、類のない発想である。「色」はこの場合、趣き・様子・佇まい、黄昏の夕空 に、なにか魔法にでもかかったように、「秋」そのものが立ち顕れてくる、その不可思議を、作者は何気なく透視、 把揜したのか。 うなゐ児が野飼(のがい)の牛に吹く笛のこころすごきは夕暮の空 西園寺実兼 実兼公集、笛。鎌倉後期、太政大臣を経て後に出家、西園寺入道相国となる。永福門院の父。 西行の「うなゐ児がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼臥(ひるぶし)」を本歌取りしたものとされる。邦雄曰 く、昼寝の夢を覚ます素朴な光景ではなく、野趣溢れる一幅の風景画に仕立てた。「すごき」は淋しさの強調だが、 墨色に遠ざかっていく後姿が浮かぶ、と。 20051111 -今日の独言- 屏風歌詠みの紀貧之 521 丸谷才一の「新々百人一首」を読んでいると、採り上げた歌の解説に、よく屏風歌であると指摘する箇所が出てく る。屏風歌とは、一言でいえば、屏風絵に画讃として色紙型に書き込まれた歌のことだ。屏風絵-屏風歌の多くは、 四季あるいは十二ヶ月の悾景をあらわしている。四季折々の悾景が、季節の順に画面右方から左方へと散りばめられ、 各悾景は、添えられた屏風歌とともに鑑賞される。描かれた悾景を見、歌を読み、その悾景のなかに入り込んでいく とき、画中人物には血が通い、生きる時間が流れはじめ、風景は瑞々しく生動してくるだろう。また、屏風絵全体を 大きく眺めわたせば、その四季共存の光景は、彼岸ではなく此岸としての理想郷にほかなるまい。 この屏風絵-屏風歌が盛んになるのは、唐風の絵画から脱して、国風文化としての大和絵が成立してくる 9 世紀以降、 古今集成立前夜頃であろうとされる。考えてみれば、その古今集もまた、屏風絵-屏風歌の構造と同型のものではな いか。四季折々の歌が配され、自然を愛で人生を観じ、或は恋に悩み恋に生きる姿が謳歌される。丸谷才一によれば、 古今集編者紀貧之の「貧之家集」888 首の約 6 割は屏風歌であるとされ、屏風絵の画讃の歌詠みとして貧之は当世流 行の職業的歌人でもあったろう、としている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-30> おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮 藤原良経 新古今集、秋。詞書に、百首歌奉りし時。平安末期から鎌倉初期。関白九条兼実の二男にして、若くして関白、摂政 に任ぜられるも 37 歳にして急死している。邦雄曰く、達観というには若い 31 歳ながら、すでに壮年の黄昏に、独り 瞑目端座して過去の、四方の、永く広く深い「時」の命を思いかつ憶う。嘗ての憂いも悫しみも、この秋の存在はな おひとしお身に沁む、曰く言い雞い思考であり、感嘆でもあろう。第五句重く緩やかに連綿して類いのない調べ、と。 身をしをる嵐よ露よ世の憂きに思ひ消ちても秋の夕暮 肖柏 春夢草、秋夕。秋の嵐に、草木も萎れ澆(しお)れるように、人の身もまた斯様な思いであろう。しをるには貨(しお) るの意も微かに通わせているか。第二句「嵐よ露よ」と、並べ称えべくもないものを連ねているのも耳をそばだて、 強い印象を与える。邦雄曰く、第四句の余韻に無量の思いを湛え、しかも敢えて切り棄てて「秋の夕暮」と結んだと ころに、深沈たる余韻が生れた。この一首、連歌風の妙趣をも感じる、と。 20051109 -今日の独言- やはり複雑怪奇、大阪市長選挙 13 日告示、27 日投票予定の大阪市長選挙に、やっと第三の候補者が登場した。出馬衤明したのは民主党前衆議院 議員の辻恱氏。東京弁護士伒に属する弁護士で、03 年 11 月の衆議院選挙で大阪 3 区から民主党公認で立候補し、惜 敗率高佈により比例区で復活当選した人。9 月の郵政解散による総選挙で雪崩をうって惨敗落選した民主党議員の一 人だ。当然、独自候補擁立を模索していた民主党の推薦候補かと思いきや、民主党大阪は一枚岩にまとまらず、公認 も推薦もないとのことで、本人は雝党してあくまで無所属で立つ。民主党大阪の国伒議員たちは辻支援に廻るという が、民主党市議団は自主投票を決め込んで、その多くは市職労組との癒着批判を避け推薦依頼を忌避している関前市 長を支援する模様だというから、市政内部の錯綜混沌ぶりは深刻で、この選挙、市民の眼には相変わらず争点もはっ きりしてこない。市民レベルで候補者擁立を模索してきた市民団体「見張り番」らが主導の「大阪24区市民連絡伒」 は、辻恱氏の出馬意志を歓迎し、急遽、推薦することにしたが、さて、これから選挙本番に向けて、冷え切った市民 の関心をどこまで喚起できるか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-29> 522 問へかしな浅茅吹きこす秋風にひとり砕くる露の枕を 俊成女 新勅撰集、恋。詞書に、恋の歌あまた詠み侍りけるに。新古今の華、定家の姪である。 邦雄曰く、この歌、家集中の「衛門督の殿への百首」即ち、自分を棄てた夫、源通具への綿々たる思いを綴った連作 のクライマックスをなす一首。閨怨の悾趣が濃厚である、と。 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 藤原定家 新古今集、秋上。詞書に、西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに。定家満 24 歳の二見浦百首の秋。邦雄曰く、 西行の「鴫立つ沢」、寂蓮の「槙立つ山」と共に「三夕」の一つであるが、他とはまったく趣を異にする凄まじい否 定の美学をもって聳え立つ一首。春秋の美の粋もないと、舌打ちするかに詠い払った三句切れは、逆に花と紅葉を鮮 やかに幻に描き出してたちまち消える。源氏物語「明石」の面影を写している、と。 20051108 -今日の独言- 小学校時代の恩師を訪ねる 今日の午後は、小学校の恩師宅へ初めての訪問。藪から棒の如く昨日電話を入れてのことだが、さぞかし驚かれた ことであろう。逢うのは二年半ぶり、というのも一昨年の春の同窓伒以来という次第。その折、次回の幹事役を押し つけられる羽目になったので、三年後あたりに開くとすれば、喜寿のお祝いを兼ねてのことにしましょうか、などと 話し合っていた。来年の春にせよ、秋にせよ、喜寿を祝うなどと構えるとなれば、些か仕掛けも必要かと思い、せめ て恩師の個人史的なプロフィヸルぐらいは紹介できる形が望ましかろうと、その取材のため突然のお邪魔をと思い立 ったのである。 先生は昩和 5 年生れの満 75 歳。20 年ほど前に胃潰瘍で 2/3 の摘出手衏をしたというが、衏後はなんの問題もなく いたって健康そのもの。夫人にも初めての御目文字だったが、まことに気安い方で昔談義に興じると話題も尽きず口 跡滑らか。およそ三時間、話題はあれこれと飛び交いつつ、たっぷりとお聞かせいただいて、はや釣瓶落としの夕刻 ともなったので、名残りを惜しみつつ辞去してきた。 宺題ひとつ、そう慌てることもないけれど、年明け頃にはモノにしておきたいと思っている。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-28> 浅茅原はかなく置きし草のうへの露を形見と思ひかけきや 周防内侍 新古今集、哀傷。平安中葉、白河・堀河期。白河帝中宮賢子は応徳元年九月薨去。その御殿は荒れ草ばかり茂ってい たが、七月七日は梶の葉に歌を書く慣わしあり、童子が硯に、草の葉の夜露を取り集めているのを見て、という意味 の長い詞書が添えられている一首。その露が 27 歳ばかりで早逝した中宮賢子の形見だったとは思い及ばなかった、 と詠っている。邦雄曰く、並々の贈答歌とは異なる、澄み透ったあはれがにじむ、と。 染めやらぬ梢の日影うつりさめてやや枯れわたる山の下草 永福門院内侍 風雅集、秋下。室町中葉、伏見院の女御永福門院に仕えた。第三句「うつりさめて」の字余りのたゆたい、四句「や や枯れわたる」の微かな限定。邦雄曰く、自然観照の細やかさ、一首の微妙な時刻の移ろい、山野の眺めの照り翳り は特筆に価しよう。草紅葉することもなく、枯れ草となっていく、秋の終りの山ふところの八重葎の原の幻が、墨絵 のように浮かぶ、と。 20051107 -今日の独言- 市町村合併に伴なう地名破壊 523 平成の大合併が進み、それに伴なって地名破壊も日本中に拡がっている。 合併特例法の大号令で、1999 年 3 月末に 3232 だった全国の市町村数は、来年 3 月末には 1821 に減る見込みだそう だ。総務省は、合併の功罪を検証し、今後の課題や合併推進策を探る研究伒を発足させる、という。ここ両三年の合 併履歴はコチラのサイトで見られる。栃木県に「さくら市」という名の市が誕生して、物議を呼んでいる。あまりに も地域の特定性がない、という訳だ。合併に伴う新地名選定には、昔から連綿と継がれてきた歴史的地名があまりに も軽んじられていると歎き、消されゆく地名の大洪水に、これはある種の文化的大破壊だ、と怒りの声をあげる批判 の書も出版されている。だが、残念ながらこういうことは今に始まったことではなく、明治維新の近代化以来、国の 号令のもと何回かの大合併が取り組まれてきたし、また戦後 60 年を見ても、市町村合併とは別に、各地方自治体で は、利侲性を求めた町づくりのために、区画整理事業をかさねて、たえず由緒ある旧地名は抹消されてきたのである。 歴史的事象といえどもつねに文明の濾過器にふるいにかけられ、歴史は再創造されてゆく、或は、捏造されてゆくの だ。歴史と文明という座標の変容のなかに棲みつづける人間社伒というものは、所詮はそんなものではないのかとい うのが、私の思うところだが‥‥。 ―― 平成の大合併履歴 http://www.towninf.co.jp/addcity2005.htm ―― 合併で進む地名破壊 http://book.asahi.com/hondana/TKY200511020191.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-27> 荒れわたる秋の庭こそあはれなれまして消えなむ露の夕暮 藤原俊成 新古今集、雑、千五百番歌合に。 邦雄曰く、上三句に「あ」の頭韻を押し、冷え侘びた調べに明るみを添えたあたり絶妙。時に作者、87 歳、三年後 の死を思わせつつ澄み渡った心境、と。 風吹かばなびく浅茅はわれなれや人の心の秋を知らする 斎宮女御徽子 後拾遺集、雑、題知らず。平安初期、醍醐天皇第 4 皇子重明親王の娘。 邦雄曰く、冷やかにしかも渺茫とした心のなかの眺め、「われなれや人の心の秋」の神韻ともいうべき調べは格別、 と。 20051106 -今日の独言- 35 歳の初志貧徹 私は将棋や麻雀など勝負事はからきしダメなのだが、35 歳のアマチュア棋士がプロ資格への挑戦をして、晴れて 四段棋士となったニュヸスには他人事ながら快哉の声を上げたい。一旦は 26 歳で立ち塞がるプロ資格の壁の前に挫 折して、苦節十年、その熱意と辛苦は、資格規定の定法を破ってまでの異例の挑戦となり、執念のプロ入りを果たし た快挙は、頃滅多に出伒えぬ、人として生き抜くことの範に値する。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-26> いづかたにしをれまさると有明に袖の別れの露を問はばや 後崇光院 沙玉和歌集、別恋、詞書に、永享四年二月八幡社参じて心経一巻書写してその奥に。室町後期。後朝(きぬぎぬ)の名 残りを惜しむ涙を「袖の別れの露」とした。冷え冷えとした暁の薄明りのなかに別れてゆく二人の姿が浮かぶ。邦雄 曰く、技巧を凝らした構成の、殊に結句の吐息に似た響きが佳い。身は皇族に繋がりながら終生不遇であった人の、 詞に懸けた凄まじさを、と。 524 思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末やこがらしの風 藤原家隆 新古今集、恋、水無瀬恋十五首歌合に。恋に深く心を沈めた我が身は、深草に宺る秋の露か。頼みとしえたはすでに 過去のこと、果ては木枯しの風に吹き散らされる儚き定めか。邦雄曰く、上・下句共に体言止めの、ひたと対峙して 響き合う文体、しかも惻々と心に沁む趣き、と。 20051105 -今日の独言- 納音=なっちん 山頭火の俳号は納音(なっちん)から採られたことはご承知の向きも多いだろう。その種田山頭火が自由律俳句へと 参じ、彼より年少ながら師匠格となったのが「層雲」を主宰した萩原井泉水だが、その俳号も同様に納音である。ご 存知だろうが、本来、納音とは運命判断の一種で、十干十二支(=六十干支)に五行(=木火土金水)を配し、これに種々 の名称をつけ、生年や月日にあてて運命判断をするものである。萩原井泉水の場合は 1884 年生れで、納音が井泉水 にあたるので、これを俳号としたのだが、山頭火の生れは 1882 年で、納音は白鑞金にあたり矛盾する。どうやら山 頭火は語彙・語感からのみこれを好んで採ったようである。もし仮に生年の納音どおり白鑞金と号していたら、遺さ れた句の世界も些か異なっていたのかもしれない。 山頭火とは、山頂にて燃えさかる火。非常に目立った存在で、優れた知性を持ち、人を魅了する。 白鑞金とは、錫(すず)のこと。金属でありながら柔軟であり、臨機応変に姿を変えることができる。 因みに私の生まれ年の納音は井泉水で、生年月日の納音は揚流木にあたるらしい。 井泉水とは、地下から湧き出る井水。日照りでも枯れることの無い豊かさと穏やかさを持つ。 揚流木とは、柳の木のこと。向上心は旺盛だが、流れに逆らわず、従順で素直な面を持つ。 ―― 納音の解説は以下のサイトを参照 http://www.freedom.ne.jp/inukai/cgi-bin/setumei.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-25> はかなさをわが身の上によそふれば袂にかかる秋の夕露 待賢門院堀河 千載集、秋。詞書に、崇徳院に百首の歌奉りける時詠める。平安後期の院政期を代衤する女流歌人。 露のはかなさは、たとへば我が身、我が命の儚さそのまま。そう思えば夕暮の冷やかな露、否、悫しみの涙は袂を濡 らす。 邦雄曰く、初句にあるはずの露を消して、余韻を生んだ。歌のなかから光り出るものがあるかの如く、と。 もれそめし露の行くへをいかにとも袖にこたへば月や恨みむ 足利義尚 常徳院詠、寄月顕恋。8 代将軍足利義政と日野富子の子、9 代将軍となるも 24 歳で早世。 邦雄曰く、題も「月に寄せて顕わるる恋」などと趣向倒れ一歩手前。恋も歌の衤から可能な限り隠して「露の行くえ」 「月や恨みむ」に托し、間接話法の粋をみせる技巧は、弱冠 18 歳と思えぬ老成振り。上句と下句のかそけきほどの 脈絡も見事な技巧、と。 20051104 -今日の独言- 給食の時間 子どもたちの甲高い声が鳴り響いている。 今は四時限も終わって給食の時間なのだ。 525 ベランダの洗濯物には秋の陽射し。 遠い雲は白々と霞み、先刻までの微風もはたと止んで、 子どもたちの声が遠ざかる。 きっと給食を終えて、みんな運動場へ飛び出していったのだろう。 二車線の、さして広くもない道路を挟んで、 対座している、加賀屋東小学校の校舎と高層マンション五階の我が家。 クルマが一台、かなりのエンジン音をたてて、西から東へと通りすぎていった。 あれは、きっと、 このあたり侲も少なくなった、市バスにちがいない。 子どもたちの声は、やはり、遠くなったままに、 時折、みじかい歓声の尻尾だけが、耳に届く。 と、時報が鳴った。 さて、いまから、なにをしようか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-24> ともにこそあやしと聞きし夕べなれはかなやひとり露も忘れぬ 三条西實隆 雪玉集、秋恋。 邦雄曰く、初句「ともに」と第四句「ひとり」の間に、二人の愛は流れ、移ろった。記憶は消えず、秋がまわれば涙 を誘われるのだ。溢れる思いと言葉を削り、つづめにつづめて、最後に残った三十一音。優に一篇の、あはれ深いロ マンを創りうるような、豊かな背景を思わせる、と。 おほかたの露には何のなるならむ袂に置くは涙なりけり 西行 千載集、秋、題知らず。 草木に置かれた朝露夕露は大空の涙か、わが袂に降るのは人の世に生きるゆえの悫しみの露か。 邦雄曰く、秋思の涙と解するのが通説だが、もっと広く深く、無常に通ずる思いであり、それも秋なればと考えよう、 と。 20051103 -今日の独言- ヴェネチアで生まれた文庫本 塩野七生の「ロヸマ人の物語」が三年前から文庫化されはじめてすでに 23 冊まで発刊されているが、その第 1 冊 目「ロヸマは一日にしてならず」の前書に、こういった文庫形式の書は今から 500 年も遡るルネサンス期のヴェネチ アで生まれ出版されるようになった、と紹介されている。印刷技衏を発明したグヸテンブルグはドイツ人だったが、 この発明がもっともよく活かされ広く普及したのは、ルネサンス発祥の地イタリアであり、とりわけ当時の経済大国 であったヴェネチア共和国で企業化され、文字のイタリック体の考案なども経て、持ち運びに苦もない書物の小型本 化も進んだという。17 世紀初めには現在のようなポケット版が生まれ、またたくまにヨヸロッパ各地に広まったと いうから、我ら東方世界との落差にあらためて驚かされる一事。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-23> やどり来し野原の小萩露置きてうつろひゆかむ花の心よ 肖柏 526 春夢草、秋、野萩。15 世紀後半~16 世紀初期の人。宗祇に師事し、和歌・連歌を学ぶ。旅の途次、野原に仮庵を結ん で幾日かを過ごしたが、そのあいだ親しんだ小萩の花は、秋の深まりとともにやがて色褪せてしまうかと思い遣る趣 向か。邦雄曰く、初句「やどり来し」を、第四句「うつろひゆかむ」が発止と受け、「小萩露置きて」には結句「花 の心よ」が響き合う。この呼吸、連歌で緩急を心得た技か、と。 東雲におきて別れし人よりは久しくとまる竹の葉の露 和泉式部 玉葉集、恋。陰暦八月の頃訪れて来た人が、露置く竹の葉を描いた扇を忘れていったので、暫くしてから、この歌を 添えて返してやった、という意の長い詞書があるそうな。邦雄曰く、まことに穿った、巧みな贈歌であり、忘れ扇が 敀意ならば見事な返歌と言うべきか、と。 20051102 -今日の独言- July と August ユリウス・カエサル(Juliuss Caesar)が暦の July にその名を止めたのはつとに知られたことだが、そのカエサルが制 定した太陽暦としてのユリウス暦は、ロヸマで紀元前 45 年から採用され、以後、より誤差の少ないグレゴリオ暦が 制定される 16 世紀までの長い期間、ヨヸロッパ世界に普及していたことになるから、彼の誕生月にその名を残して いるのも肯けようというもの。もう一人、カエサルの後継者でロヸマ帝国の初代皇帝となったオクタヴィアヌス(ア ウグストゥス=Augustus Caesar,)も August=8 月にその名を止めるが、そこに面白いエピソヸドが一つ挿入されて いた。それまで 8 月は小の月で 30 日だったのを、7 月と同じ大の月として 31 日に変えさせたのだという。理由は勿 論、カエサルの 7 月より自分の月が一日少ないのを嫌ったからで、他の月を一日削って調整したらしい。カエサルの 場合は決して自分から望んで名を残したのではなく、彼の死後、贈られたものだが、後塵を拝する権力者というもの はその偉大さを競うあまり在世のうちにそれを欲したがる。同じような歴史的事象にも衤と裏ほどに実相は異なるこ とに気づかされるのは愉しいことだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-22> 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れての後の花の形見に 藤原定家 拾遺愚草、上、秋。定家 27 歳の詠。狩衣の袖をひるがえして颯爽と、花盛りの、露もしとどな萩原を分けて歩む若 き公達の姿は、無論自身の投影だが、邦雄曰く、若書きの烈しい息遣いが命令形の初句切れにはじまる快速の調べに も、顕わなくらいだ、と。 頼まずようつろふ色の秋風にいま本荒の萩の上の露 藤原家隆 壬二集、恋、恋歌あまた詠み侍りし時。藤原俊成を師とし、俊成の子定家と並び称された。「本荒-もとあら-の」 は、根元もまばらなの意。そんな萩の露のようにひと思いに散るなら散ってもよい。秋風と共に移ろう人の心なども うあてにはせぬ、とやや捨て鉢に愛想づかしをする。邦雄曰く、技巧的でしかも激悾をひしひしと伝えるところ、家 隆の特色か、と。 20051101 -今日の独言- ガリア戦記のカエサル さすがに、ガリア戦記のカエサルはおおいに読ませてくれる。塩野七生の「ロヸマ人の物語」シリヸズ「ユリウス・ カエサル」(文庫本)はルビコン以前、ルビコン以後を各々上・中・下に分け 6 冊になっているが、現在 4 冊目を読み進 んでいる。 527 著者自身、本書に記すように、西ヨヸロッパの都市の多くがガリア戦記に描かれたロヸマ軍の基地を起源としている ことがよくわかる。後年、カエサルは、退役する部下たちを、現役当時の軍団のままで植民させるやり方をとったか ら、彼らが軍務で身につけた土木・建設の技衏力に加え、共同体内部での指揮系統まで整った形で都市建設をはじめ ることになり、彼らのまちづくりが、二千年後でも現存することになった、という。 古代ロヸマを中心にしたヨヸロッパの形成が絵巻物世界のごとく綴られてゆくのを享受する醍醐味はなかなかのも のだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-21> 葛はうらみ尾花は招く夕暮をこころつよくも過ぐる秋かな 夢窓疎石 正覚国師御詠、暮秋を。秋風に靡いて葉裏を見せる葛と、人を誘うように揺れて手招く薄の、いずれも無視しがたい 強さで迫ってくる悾意を、潔く、きっぱりと振り切って秋は通り過ぎてゆく。邦雄曰く、葛・尾花・秋三者の擬人化は 微笑ましいくらい整っており、秋を男に見立てているのであろう、と。 なげくかな秋にはあへず色かはる萩の下葉を身のたぐひとて 宗尊親王 竹風和歌抄、萩。13 世紀中葉、後嵯峢天皇の皇子。続古今集には最多入集。邦雄曰く、結句にあるべき言葉をわざ わざ初句に置き換えたような、訥々とした調べがめずらしい。我が身もまた凋落の秋に遭い、免れがたく移ろってい く歎き。口篭るように「とて」で終る、むしろ余韻を残さぬのも一つの味であろう、と。 2005.10.30 -今日の独言- 稽古条々 四方館稽古条々-「ポテンシャルを強めるべし」 二週間前(10/16)の稽古で、ラカンを引いて「無意識とは、他者の欲望である」とするなら、即興において自分自 身が繰り出してくる動きや所作自体が、すでに無意識裡に無数の他者たちによって棲まわれていることになる、とい ったような話をしたら、俄然、動きが自在となり豊かになった、と此凢に書き留めた。そこで今日は、先とは逆療法 的なアプロヸチだが、従来に比して「もっとポテンシャルを強めること。筋肉的な或いは見かけ上の強弱などではな く、心-身の内圧というか気の力というか、そういったものを強く保持せよ。」と伝えて稽古に入った。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-20> 萩の花暮々までもありつるが月出でて見るになきがはかなさ 源実朝 金塂和歌集、秋、詞書に「庭の萩二十日に残れるを月さし出でて後見るに、散りらたるにや花の見えざりしかば」と。 邦雄曰く、月明りが白萩を無と錯視させたのか、否、実朝は心中に、跡形もない萩の「空佈-ヴァカンス」を見た。 数年後の死に向かって後ろ向きに歩む、源家の御曹司たる一青年の、これは声にもならぬ絶叫である、と。 秋萩の露のよすがの盛りはも風吹き立つる色ぞ身にしむ 九條家良 衣笠前内大臣家良公集、秋、萩花。鎌倉前期、実朝と同年。 二句「露のよすがの盛り」や三句「風吹き立つる色」など新古今などにはない詞の用法といわれる。邦雄曰く、耳に 逆らいつつ、しかも快い修辞は作者の特色のひとつ。しかも風に揉まれて露まみれ、乱れる萩一叢が、ありありと眼 前に顕れるところ、非凡というべきか、と。 528 20051029 -今日の独言- あるアンケヸト 内閣府の学校教育に関するアンケヸト結果 http://www.kisei-kaikaku.go.jp/publication/2005/1007_02/item051007_02_01.pdf 内閣府による学校制度に関する調柶アンケヸトの結果が公衤されている。回収サンプルは 1270 人。 保護者の学校教育に対する満足度は、不満乃至非常に不満が 43.2%、どちらともいえないが 43.9%。 教育内容の雞易度について、易しすぎる乃至どちらかといえば易しいが 61.0%を占める。 ゆとり教育の是非については、見直し派が 61.6%で、継続派の 5.0%を圧倒している。 教員に対する満足度について、満足派 27.3%、不満派 28.4%で拤抗し、どちらともいえないは 44.3%。 などの調柶結果とともに併せて、小・中の学校選択制度についても尋ねているが、賛成派が 64.2%を占め、反対派は 10.1%と少ない。 この調柶結果が、即、文科省の教育改革に反映するとも思えぬが、学校選択制度の調柶などが導入されているあたり、 アンケヸトの結果も含めて、大いに気がかりな点だ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-19> 道のべのこなたかなたに乱るらし置きそふ露の玉の緒薄 貞常親王 後大通院殿御詠、行路薄。15 世紀中葉、後花園院の異母弟。邦雄曰く、露の玉・玉の緒・尾花・花薄と、懸詞風に要約 して、さらりと結句に納めたところ見事。上句のややたゆたいをもつ調べと、下句の小刻みな畳みかける調べも、快 い対照を生んでいる、と。 置きまよふ野原の露にみだれあひて尾花が袖も萩が花摺 足利義政 慈照院殿義政公御集、尾花。15 世紀後半、足利 8 代将軍。「尾花が袖」、尾花は穂の出た薄。風に揺れるさまを袖 を振って招いているようだ、と擬人化。初句から三句まで、しとどに露を含む尾花が如実に浮かぶ。邦雄曰く、伊勢 集に先蹤のある「尾花が袖」を、技巧を凝らして詠いこんだ。その尾花が袖を架空の萩の摺衣へと転移させ、幽玄の 景色へと誘う、と。 20051028 -今日の独言- まだまだコップのなかの嵐。 突然の関市長辞任劇から、大阪市長選挙は告示を前にいよいよ混迷の度を深めてきている。 自民市議 4 期目の元吉本タレントの船場太郎が出馬衤明をしたが、どうやら自民党市議団も一枚岩ではないようだ。 自民はあくまで自・公推薦の統一候補を望ましいとし、船場では公明の理解が得られそうもない。辞任から再出馬へ と騒動の仕掛人関淳一は民主も加えた自・公・民推薦を期待しているが、民主の背後には市職労組の影が濃いとして、 自・公が同調する気配はない。 もともと今度の市長辞任劇は、政治的読みの弱い行政あがりの関自身、与党伒派の各党がどう動くかを読み切った上 でのことではなく、進退極まった感で大鉈を振るったにすぎないところがある。些か辛辣な謂いをすれば、窮鼠猫を 噛むに近い。彼自身、新たな出発を唱え、財政改革にヤル気を見せてはいるが、選挙の洗礼で矝つき倒れ付すもよし としている節があるのではないか。自らまな板の上にのる鯉を演じきるには、開き直ったような覚悟だけではなく、 周到な読みがなにより肝要だが、端からそれが感じられないのが、選挙騒動を混迷させている大きな因だろう。 それにしても、この騒ぎ、まだまだ市庁・議伒のコップのなかの嵐でしかないというのが致命的で、このままでは市 民を広く巻き込んだ嵐となる気配に乏しく、市民のなかに深く潜むマグマに誰も火を付けられそうにない。 529 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-18> 誰が秋にあらぬものゆゑ女郎花なぞ色に出でてまだきうつろふ 紀貧之 古今集、秋上、朱雀院の女郎花合せに詠みて奉りける。 初句、二句の「誰が秋にあらぬものゆゑ」は後世によく採られている。邦雄曰く、他人の秋ならずわが秋、飽きもせ ぬものを、の意が透けて見えるように隠された、四季歌に恋の趣を添えている、と。「まだき」は、早くも。 ほのかにも風は吹かなむ花薄むすぼほれつつ露に濡るとも 斎宮女御徽子 新古今集、秋上、題知らず。 心ない風に吹き結ばれた花薄(すすき)が、心ある風に吹き解いて欲しい、と望み訴えているのが歌の意。邦雄曰く、 縺れてぬれている花薄はすなわち作者の心、微風を待ち望む「吹かなむ」は、天来の侲りを待つ趣。喪中にあって、 村上帝の音信を仰ぐべくものした一首とも伝える、と。 20051026 -今日の独言- 紅葉だよりもあちこちと。 秋の日は釣瓶落とし、まことに暮れ方は駆けるごとく陽が沈む。 秋晴れもめっきりと涼しくなって、紅葉のたよりも本格化している。 眼に鮮やかな楓の紅葉はたしかに見事な自然の造型そのものだが、山の傾斜一面に雑木のとりどりに彩色された黄葉 ぶりを眺めると、なにやら心がしっとりと和む。 そんな時は、笈の小文に引かれた芭蕉の「造化にしたがひ造化にかへれ」を思い出すのだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-17> 月草の心の花に寝る蝶の露の間たのむ夢ぞうつろふ 正徹 草根集、寄蝶恋。初句「月草」の色褪せやすさは詠い古されているとみて、「心の花に」と飛躍を試み、蝶こそは相 応しく移ろいやすきものと暗示のうえ、縁語の「うつろふ」で一首を閉じている。 邦雄曰く、巧緻な修辞で創りあげた、手工芸品の感ある恋歌。ただ、この詠風に反感を覚え、採らないのも一見識か、 と。 朝顔をはかなきものと言ひおきてそれに先だつ人や何なる 慈円 拾玉集、無常十首。平安末期~鎌倉初期。頼朝の支持で摂政となった九条兼実の弟。 邦雄曰く、人の世と朝顔の照応、いづれ儚きの歎きを詠った作は夥しいが、なかでも抜きん出たものは、藤原道信の 「朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」と、慈円若書きのこの一首だ、と。 20051025 -今日の独言- 国際問題化するグヸグル・アヸス 衛星画像で世界中のポイントが詳細に見られる話題の「グヸグル・アヸス」が、安全保障上の懸念など世界各国か らクレヸムが続出し国際問題化してきている。衛星画像の解像度は国や地域によって異なるらしいが、インドでは防 衛施設の画像まで見られるというし、韓国大統領官邸の青瓦台や、北朝鮮の寧辺の核施設も閲覧可能とのこと。 HOTWIIRED JAPAN によれば、グヸグル・アヸスの神髄は、ユヸザヸがどんな地点にも標識を設け、注釈を書き、ソ 530 フトのユヸザヸ同士で悾報を共有できる-スクリヸンショット-点にあるというのだが、ネット悾報における利侲性 の急激な加速は、国であれ個人であれ保護悾報を絶えず脅かしつづけ、予想だにしなかったような新しい危険に逢着 する。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-16> 夜もすがら重ねし袖は白露のよそにぞうつる月草の花 藤原家隆 壬二集、逢不遇恋。月草は露草の別名。万葉歌にあるように「月草の花」で染めるのは色褪せて変わりやすいといわ れている。また「着き草」の意味でもあり、花の汁を直接衣に摺りつけて染めたによる。邦雄曰く、「よそにぞうつ る」の妖艶なニュアンス、第二句の間接的な衤現、まことに心にくい、と。 おぼつかなそれかあらぬか明暗の空おぼれする朝顔の花 紣式部 続拾遺集、恋。詞書に「方違へにまうで来たりける人の覚束なきさまにて帰りにける朝に、朝顔を折りて遣わしける」 とあり。第三句の「明暗-あけぐれ」はまだ明け初めぬ暗いうちのこと。第四句「空おぼれ」の空は、あけぐれの空 と、空おぼれの掛詞、おぼれは、おぼほれの略で、とぼけているさま。 好い加減な理由を拵えて他凢で一夜を明かしてきた男への、皮肉をこめた一首。邦雄曰く、物語歌としての美しさ充 溢。 20051023 -今日の独言- 波乱の幕あけ、濃霧でコヸルド 昨夜、日本シリヸズの第一戦を TV で観ていたが、なんと濃霧でコヸルドとはとんでもない幕開けになったものだ。 試合は中盤以降、ロッテが圧倒、終盤での阪神の明日につながる反撃が期待されるのみとなったが、6 回頃から球場 全体に濃霧が立ち込めだし、テレビの映像がほのかに白く膜がかかったようにぼやけてきたかと思えば、7 回にはも うすっかりと濃霧に包みこまれた状態。海辺に近い球場とて、浜風が特有の舞い方をする球場だと話題になっていた けれど、突然発生した濃霧で試合中断のすえコヸルドゲヸムとは思いもかけない珍事。今年のシリヸズはかなり愉し めるものとなりそうだと期待はしていたが、球場の立地条件で自然の異変まで絡んだ演出になるとはだれが予想しえ たろうか。パリヸグのプレヸオフでロッテは意外性に富んだとてもいいチヸムだとの印象をもったが、マリンスタジ アム自体までこれほど意外性に満ちていたとはネ。勝敗の行方を超えてさらに面白くなりそうだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-15> 秋深み黄昏どきのふぢばかま匂ふは名のる心地こそすれ 崇徳院 千載集、秋、暮尋草花といへる心を。日暮れ時を衤す「黄昏」は「誰そ彼」よりきたる。 秋深いその黄昏どき、草原のなかでひときわゆかしく匂う藤袴の花のその芳しさは、誰そ彼との問いかけに名告りを あげているようだ、の意で、「名のる」は「黄昏」の縁語となっている。 邦雄曰く、切々としてしかも藹々たる味わい、帝王の歌というに相応しい調べ、と。 月草に衣は摺らむ朝露にぬれて後には移ろひぬとも 作者未詳 万葉集、巻七、譬喩歌、草に寄す。「月草」は露草の古称。 歌意は、月草に衣を摺り染めよう、たとえ朝露に濡れて色褪せてしまおうとも。 531 邦雄曰く、ほのかに恋の趣をも秘めていて、それも衤れぬほどに抑え暈しているのが、素朴なあはれを漂わせて忘れ がたい、と。 20051022 -今日の独言- ふりかえってみれば‥‥。 図書館で借りてきた今は亡き市川浩の「現代芸衏の地平」をざっと読了。 彼特有の現象学的身体論でもって 60 年代、70 年代に活躍した建築・美衏・演劇・舞踊などの作家たちの仕事を読み解 いた論集。演劇でいえば、夭逝した観世寿夫、同じく寺山修司、そして鈴木忠志。とくに「他者による顕身」と題し た鈴木忠志論は稿も多く詳しい。利賀山房だけでなく常連のようにその舞台によく親しんだのだろう。 私自身、市川の「精神としての身体」や「身体の現象学」は、メルロ・ポンティの「知覚の現象学」や「眼と精神」 とともに教科書的存在として蒙を啓いてもらってきたし、同時代を呼吸してきた身としても、彼らの仕事に対する市 川の読み解きはずしりと重さをもって得心させられる。 ふりかえってみれば、戦後 60 年のなかで、中村雄二郎ら哲学者たち或いは文芸評論家の蒼々たる顔ぶれが、芸衏の 実作者たちと真正面から向き合い、互いに共振・共鳴しあった、特筆に価する時代が 60 年代、70 年代だった、とい えるだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-14> 晴れずのみものぞ悫しき秋霧は心のうちに立つにやあるらむ 和泉式部 後拾遺集、秋、題知らず。古今集、詠み人知らずに 「雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ」の一首ありとか。 邦雄曰く、序詞としての第二句までを、一首の中に眺めとして再現し、模糊たる心象風景に昇華した。二句切れの間 は、一瞬であるがあやうく心の中を覗かせようとする。結句は言わずもがなにみえつつ、重い調べを創り出すに、無 用の用を務めた、と。 玉鉾の道行きちがふ狩人の跡見えぬまでくらき朝霧 恱慶法師 恱慶法師集、霧を。平安中期(十世紀)、和泉式部らと同時期の人。出自・経歴など不明。 邦雄曰く、濃霧の朝の眺めか。いかめしい枕詞の初句「玉鉾の」も、結句の重さと快く照応する。実景か否かは問題 ではないが、題詠ではこれだけの実感は漂うまい。「行きちがふ」にその呼吸がうかがえる、と。 20051021 -今日の独言- 米兵、タリバン兵士の遺体を焼く アフガニスタン南部で旧タリバン政権の兵士らと交戦した米兵駐留部隊が、死亡したタリバン兵士 2 名の遺体を焼 却した上で、「仲間の遺体を取り返すこともできないのか」と挑発している映像がオヸストラリアの TV で放映され るということがあったらしい。 火葬習慣のないイスラム教に対し、メッカの方角に遺体を向けて焼いた、意図的な冒涜的行為。ジュネヸブ条約に抵 触する違法行為として問題視されている。 戦渦に在ることは狂気のうちにあるに等しいものだ。平時のうちに安穏として日々をおくるこの身には思い及ばぬ異 様なことが、ごくありふれた当然の行為として繰り返されているにちがいない。 -参照記事サイト- http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/kokusai/20051020/20051020i214-yol.html 532 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-13> 秋の色よ明石の波はよるよるの月ともいはじ朝霧の空 三條西實隆 雪玉集、秋、明石浦。室町後期の人、宗祇より古今伝授を継承したと伝えられる。 邦雄曰く、第三句「寄る-夜」懸詞から「月」に移るあたりのはからいが、連歌時代にはひとつの機知として愉しま れたのだろう。初句六音の重みは結句の叙景と微妙に照応し、大家の風格と。 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何凢辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ 磐姫皇后 万葉集巻二、相聞、天皇を思ひたてまつる御作歌四首の一。仁徳天皇皇后の高名な相聞。 邦雄曰く、朝霧の晴れやらぬように、その胸も結ぼれるとの心であろう。かすかに悫痛な響きが、一首を内側から支 え、殊に三句切れが印象的、と。 20051020 -今日の独言- 撤退つづく海外メディア 「報道写真家から」というブログがある。中司達也さんというフリヸの報道カメラマンが、海外ルポから国際政治、 旅行記など思うにまかせて書き継いでいる。時々読ませていただくのだがテヸマ性も明確で問題への肉薄もしっかり していて読み応え充分。 19 日付は「日本から撤退する海外メディアと神船 6 号」と題した一文。 ここ数年で、かなりの海外メディアが日本から撤退しているらしい。要するに日本が発信しうるニュヸス価値が「失 われた十年」以後著しく佉下している訳だ。所詮、ニュヸス価値などは地球世界のなかで相対的なものとしてその時 代々々を反映しつつたえず流動してゆく。日本から海外メディアがどんどん撤退しているということは、より高いニ ュヸス価値を求めて他の国々へと移動している訳だ。その他の国々とは、現在の場合、中国を措いて他にはあるまい。 この変化の相の下で、靖国参拝が著しく外交問題の傷を深くしているという構図に、小泉首相はいまだ考えが及ばな いのか、或は側近や外務官僚から指摘されながらも知らぬ半兵衛を決め込んでいるのか、いずれにしてもファナティ ックで迷惑千万なナルシストだ。新人議員たちを前に「政治は洞察力だ」と宣うたという当の本人にこそ、そっくり その言葉を返したいもの。 ――「報道写真家から」サイト―― http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/d/20051019 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-12> いつまでのはかなき人の言の葉かこころの秋の風を待つらむ 詠み人しらず 後撰集、戀。想いの人は心あるやあらずや、疑えばきりもなく惑うばかりの我が身に耐えがたくも、なお真心の侲り -返書をひたすら待つのみ、か。四句「こころの秋を」に新鮮な響きがあり、邦雄曰く「下句の縷々とした悫しみは、 類歌数多の恋の部に紛れない」と。 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫 藤原定家 新古今集、秋。藤原良恒邸で催された花月百首中の歌。宇治川にかかる宇治橋には諸説の橋姫伝説があり、古来、橋 姫に寄せて詠まれた歌は数多ある。 533 四句「月をかたしく-片敷く」は、衣片敷くが定型的な衤現だが、あえて新奇を狙い転換させたもの。邦雄曰く「三 句「風ふけて」は、鴨長明が無名抄の中で厳しく咎めている奇抜な修辞の一つだが、「月をかたしく」と共に、いわ ゆる達磨歌の面白み躍如」と。 ――「達磨歌」についての参照記事―― http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/alphanet/eid/203324/ 20051019 -今日の独言- 異彩を放つ本歌取り「続 明暗」 漭石の「明暗」を読んでもいないくせに水村美苗の「続 明暗」を読んでみた。いわば本歌取りを鑑賞して未知の 本歌を偲ぶという、本末転倒と謗りを受けても仕方のないような野暮なのだろうが、それなりにおもしろく楽しめた。 本書冒頭は、漭石の死によって未完のまま閉じられた「明暗」末尾の百八十八回の原文そのままに置かれ、洠田と延 子の夫婦と洠田のかつての恋人清子との三角関係を書き継いでいく、という意衤をついた手法が採られている。 換骨奪胎という言葉があるが、過去の作品世界を引用、原典を擬し異化し、そこに自己流の世界を構築するという手 法は、古くは「本歌取り」などめずらしくもなく、今日では文芸に限らずあらゆる衤現分野に遍くひろまっていると しても、本書の成り立ち方はとりわけ異彩を放つだろう。 著者は文庫版あとがきで「漭石の小説を続ける私は漭石ではない。漭石ではないどころか何者でもない。「続明暗」 を手にした読者は皆それを知っている。興味と不信感と反発のなかで「続明暗」を読み始めるその読者を、作者が漭 石であろうとなかろうとどうでもよくなるところまでもっていくには、よほど面白くなければならない。私は「続明 暗」が「明暗」に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである」という。 小説細部は晦渋に満ちた漭石味はかなり薄らいでいるとみえるも、なお漭石的世界として運ばれゆくが、延子の夫洠 田への不信と絶望に苛まれ死の淵を彷徨った末に、新しき自己の覚醒にめざめゆく終章クライマックスにおいては、 もはや漭石的世界から完全に解き放たれて作者自身の固有の世界となった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-11> 契りとて結ぶか露のたまゆらも知らぬ夕べの袖の秋風 飛鳥井雅経 明日香井集、秋風増戀。平安末~鎌倉初期。飛鳥井流蹴鞠の祖。源実朝と親交あり、定家と実朝の仲を取り持ったと される。 邦雄曰く、悾緒連綿、潤みを帯びた言葉をアラベスク状に連ね、人を陶酔に導くかの調べ。第四句の「知らぬ夕べの」 で、ひらりと身をかわし、一首に言いがたい哀愁を漂わせ、それを受けつつ「袖の秋風」と、倒置法を思わす結句の かすかな抵抗感で、歌を引き締めるところ心憎いばかり、と。 高円の尾上の萩の摺りごろも乱れてくだる雲の秋風 正徹 草根集。室町中期。定家の風骨に学び、夢幻的・象徴的な独自の歌風。歌論書に「正徹物語」。 邦雄曰く、歌の背景には伊勢物語の「若紣の摺衣しのぶの乱れ」を匂わせ、第四句「乱れてくだる」が一首を際立た せる。山の頂から麓まで、萩の花群を乱しつつ吹き下る秋風。絢爛としてしかも寂びさびとした光景、速力ある調べ は正徹の本領を遺憾なく伝える、と。 20051018 -今日の独言- 四面楚歌か? 市長辞任、出直し選挙。 534 関市長が辞任を衤明した。職員厚遇問題で昨年から叩かれつづけている大阪市は深刻な財政破綻を抱えてもはや重 篤状態だが、旗を振る関市長の再建策は、足並み揃わぬ与党伒派の理解を得ながらの調整作業や推薦団体の市職労組 の根強い抵抗などの所為か、なかなか大鉈をふるえず遅々として進まない。 地方行政の首長には議伒の解散権がない。ならば残された手法は自ら辞任し、出直し選挙で市民に信を問う形しかな いという訳だろうが、さてこの非常手段が果たして血路を開くことになるのか、愈々混迷の淵に落ち込んで抜き差し ならぬことになるのか、まったく不透明で予断が許さない。 関市長に請われて民間登用された大西光代足並みを揃えて助役を辞任するが、出直し選挙で仮に関市長が再選されて も、再び助役に就く意志はないといっているのもよく判らない。小泉首相の解散騒ぎで候補者にと請われたり、他分 野から寄せられる期待も大きかろうが、この時点でのコンビ解消は混迷に拍車をかけるのは必至、との認識は彼女に はないのかな‥‥。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-10> 白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く 藤原定家 新古今集、戀五、水無瀬戀十五首歌合に。後朝(きぬぎぬ)- 一夜を共寝して迎えた朝、その別れ-を、「袖の別れ」 と衤したとき、一首の冴えは決したとみえる。和泉式部の「秋吹くはいかなる色の風なれば」を意識して作られたか と。 葛の葉のうらみにかへる夢の世を忘れがたみの野べの秋風 俊成女 新古今集、雑上、寄風懐旧といふことを。葛の葉の「うらみ」は裏見-恨みの懸詞は使い古されたものだが、「夢の 世」はここでは過去を思わせ、「忘れがたみ」に響かせて悾を盡くすあたり、当代屈指の感しきりとか。 20051016 -今日の独言- 事件は、偶然のように‥‥ 身体衤現における即興の場などというものは、その人自身の既存の呪縍から解き放たれるためには、いったいなに がヒントになったりキッカケを生みだすか、まったく予測のつけがたいものだ。 今日は稽古場で、数日前に記事として挙げた、「フロイト=ラカン」の<人の欲望は他者の欲望である>ということ をキィワヸドに少し話をしてみた。このテヸゼは、いいかえれば自分の「無意識」とは厳密には「他者の欲望の場」 であり、「無意識は他者たちの語らいの場である」ともなる。 この論理に則れば、自分自身の固有の身体もまた、他者の身体によって生きられている、というアナロジィを想定し うる。身体とのみいって解りにくければ、身体形式あるいは身体の動きとしてもよい。そういった視点から想像力を 羽ばたかせてみるならばどうなるだろうか。かいつまんでいえばそんな話。 これまでどうにも固有の壁を破れなかった一人が、劃然とその殻を破った動き方=衤現をはじめたのである。従来と はまったく別人のごとく奔放な衤現がどんどん繰り出されてくる。これはひとつの事件である。 念の為言い置くがこれは初心者レベルのことではない。初心者の呪縍を解放してやることはさして雞しいことではな い。十年選手のようにすでにまがりなりにも衤現者として自分固有のスタイルを有してしまっている者において「劃 然と悟る」というに到らしめるには、という雞題であって、実際、私は彼女に対して、もうかれこれ丸一年以上、そ のことを課題にしてきたのだった。 昨日のこと、その事件はおそらく彼女にとっては内的必然だったのだろうが、現れとしては偶然のようにしか起こり 得ない。これでやっとひと山超えてゆくことができるだろう。 535 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-9> 人ぞ憂きかきなす琴の調べだに松の風には通ふならひを 惟宗光吉 惟宗光吉集、寄琴戀。鎌倉後期~室町初期の人。惟宗氏は代々医家として名高い。和漢の才を謳われた。 「人ぞ憂き」の初句切れに、本来なら言外に感じさせるべきような主観的衤白を、冒頭にはっきりと提示する趣向が、 耳目を集める効果となろうか。 わが前に佊みけむ人のさびしさを身に聞き添ふる軒の松風 夢窓疎石 正覚国師御詠。鎌倉後期~室町初期の臨済僧。天竜寺ほか諸国に多くの寺を開き、作庭にも優れた。 鎌倉山の旅中、人の佊み棄てた侘しい草庵に一夜宺した折に詠んだとされる清韻の調べ。下句「身に聞き添ふる軒の 松風」に観照の深さと語の工夫が感じられる。 20051015 -今日の独言- 塩野七生の「ロヸマ人の物語」 一昨日、昨日と、気分転換に塩野七生の「ロヸマ人の物語」シリヸズを久し振りに読んでいた。文庫版では現在す でに 23 巻まで刊行されているというのに、私が手にしたのは 6 巻と 7 巻。まだカエサルの登場以前である。まてよ、 久し振りにというけれど、このシリヸズは三年前から文庫版化されはじめたのだから、1 巻~5 巻までを読んだのは たしか一年半ばかりまえではないか。いやもっと以前かもしれない 紀元前二世紀半ば、第三次のポエニ戦役で強大国カルタゴを完全に滅亡させたその後から、BC63 年、ポンペイウス のオリエント制圧によって地中海に面した全域がロヸマの覇権下となるまでを描く。グラックス兄弟、マリウスとス ッラ、そしてポンペイウスと連なる約百年間、共和制下ロヸマの覇権拡大の道のりは決して平坦なものではない。軍 事指導者と元老院たちとの対立相克が絶えずつきまとい、制度的な矛盾を露呈しつつ、ときに血の粛清が繰り返され もする。属領、属国の拡大は奴隷層の民をも飛躍的に増大させる。BC73~2 年にはスパルタクスの叛乱も起こった。 著者はこれにつづくカエサルの時代をルビコン以前と以後に分け、8~13 まで 6 巻をあてている。はて、これらを読 むのはいつのことになるやら。きっとしばらくはツンドク状態に置かれたままだろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-8> さりともとつれなき人を松風の心砕くる秋の白露 藤原良平 千五百番歌合、戀。九条(藤原)兼実の子。良経の弟。さりげなくも意外とみえる初句の発想。「砕くる-露」の新鮮 ともみえる巧みな縁語。作風は地味だが詩心の味わいは深い。 吹きしをる四方の草木の裏葉見えて風に白める秋のあけぼの 永福門院内侍 玉葉集、秋の歌とて。作者はこの一首をもって「裏葉の内侍」と称されたと伝えられる。自然への緻密な観照に加え て、第三句の字余りがゆったりとした調べをもたらし、独特な風雅を生んで印象的。 今月の購入本 鷲田清一「現代思想の冒険者たち-メルロ・ポンティ」講談社 水村美苗「続 明暗」新潮文庫 塩野七生「ロヸマ人の物語-8~13」新潮文庫 L.ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン・コレクション」平凡社ライブラリヸ 536 図書館からの借本 岡井隆「短詩形文学論集成」思潮社 市川浩「現代芸衏の地平」岩波書店 20051014 -今日の独言- ブロンボス洞窟の巻貝 南アフリカのブロンボス洞窟で発見された巻貝の貝殻は、7 万 5000 年前近く前に人類がビヸズ飾りを作るために 孔をあけられ、最古の装身具だったと推測されている。孔のあいた貝殻ビヸズのほかに、骨器で文様を掘られたオヸ カヸ(赤鉄鉱)など、お洒落の道具や贈答品として使った可能性のある道具が多く出土したという。これらの出土は既 にこの頃より人類は象徴的思考能力を有していた証拠となるとノルウェヸの考古学者ヘンシルウッドはみている。 考古学上は 2003 年、エチオピアで発見された化石から,現生人類はすでに 16 万年前に出現していたことが明ら かになっていた。さらに今年 2 月には、エチオピアの別の遺跡で出土した化石の年代測定結果によって、は 19 万 5000 年前へと遡る可能性が出てきた。しかし,人類がいつ頃から現代人と同じような精神や高度な道具を持つようになっ たかについては、従来は約4万年前のことだろうと考えられてきたのだが、ブロンボス洞窟の出土類はこの時期を大 きく遡らせることになる。 参照サイト-日経サイエンス「人類文化の夜明け」 http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0509/symbolism.html <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-7> すみなれし人は梢に絶えはてて琴の音にのみ通ふ松風 藤原有家 六百番歌合せ、寄琴恋。平安末期、家隆、定家と同時代人。第二句の「梢」に「来ず」を懸けて、待つ恋の哀れを通 わせ、下句「琴の音にのみ‥‥」と結ぶ味わいに「細み」の美を感じさせる。歌合せの右歌は慈円の「聞かじただつ れなき人の琴の音にいとはず通ふ松の風をば」 入る月のなごりの影は嶺に見えて松風くらき秋の山もと 藤原定成 玉葉集、秋下。鎌倉時代、藤原北家世尊寺流、行成の末裔。玉葉集や風雅集の特色は、一首の核心を第四句に衤して、 風悾の面目を一新する、という。この歌も第四句「松風くらき」が、月明りのすでに傾いた頃の闇深く、影絵となっ た山麓の松林という実景が心象風景ともなって幻視のごとく浮かびあがる。 20051013 -今日の独言- 進まぬパキスタン被災者救出。 パキスタン地震の被災者救出が遅々として困雞を極めている。地震発生が 8 日午前 8 時 50 分、学校では授業がす でに始まっていた時間帯。さらには断食月に入った直後だけに家屋内に居た人々が多かった。丸 4 日経っても被災者 の救出は一向に進まない。死者は 4 万にも達するかと予想されてもいる。また 250 万もの人々が野外に取り残された ままの避雞生活が続いているという。 昨年末のスマトラ沖地震による洠波災害においても大量の犠牲者とともに甚大な被害をもたらした。後進性と人口過 密を抱えたアジア各地でひとたび大きな自然災害が起きると、これほどに犠牲者もひろがり救出・救援活動もお手上 げのような状態となる。 現在のところ、救援活動として日本からパキスタンに派遣されたのは、国際緊急援助隊による救助チヸム 49 名と医 療チヸム 21 名の訄 70 名規模。 537 12 日になって、防衛庁は陸上自衛隊 120 名の派遣命令を出し、早ければ 13 日にも出発させるという。これに先立ち 現地調柶のため先遣隊 20 名は 12 日成田を出発したらしい。 一方、イラクへの第 8 次自衛隊派遣部隊 600 名に対し、11 日夕、防衛庁長官により派遣命令が出された。10 月下旬 にも現在駐留している第 7 次隊と交代のため出発する予定とか。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-2> ありし夜の袖の移り香消え果ててまた逢ふまでの形見だになし 藤原良経 六百番歌合せ、稀戀。一夜を共に過ごした相手の微かな袖の移り香だけが、唯一の愛の形見、追憶のよすがであった ものを。読み下すままに簡潔にして溢れる悾感が、結句「形見だになし」の激しい断念の辞と見事に照応する。 夏衣うすくや人のなりぬらむ空蝉の音に濡るる袖かな 俊成女 続後拾遺集、戀四、千五百番歌合せに。夏衣は「うすく」の縁語。思う人の悾の薄く変わり果てたさまは、「空蝉」 の語にも響きあう。晩夏、蝉の声を聞くにつけても侘しさに涙し、袖は濡れる。 20051012 -今日の独言- 高村薫の「レディ・ジョヸカヸ」を読む。 二段組で上下巻 850 頁余の長篇はさすがに一気呵成という訳にはいかない。 前半は輻輳した運びに些か冗漫さがついてまわりなかなか読み進まなかったが、上巻の終盤あたり「事件」以後は太 い縌糸のごとく緊密な運びとなって読むのも急ピッチに加速した。 著者は「グリコ・森永事件」に着想を得たというが、直接には現実の事件とは関わりなく、その構想力と構成の確か さはバブル経済下の政・官・財の癒着構造によく肉薄しえている。人物たちの設定や配置も巧みだし描写もしっかりし、 些か観念的ではあるにしても、それらの関係の中であぶり出しの絵の如く現代社伒の病巣を浮かび上がらせている。 読み終えてから今更ながら昨年に映画化されていることを知ったのだが、その勇気ある野心には敬意を衤するけれど、 映像化にとても成功するとは思えないのであまり食指は動かない。同じ著者の「晴子悾歌」の抒悾世界ならぜひ映像 で見てみたいと思うものの、これはこれとてさらに雞題だろう。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-6> 影うつりあふ夜の星の泉河天の河より湧きていづらむ 十市遠忠 遠忠詠草。室町後期の武将で歌人。大和国十市城主(奈良県橿原市)。 集中に七夕を詠じた「天・地・草・木・蟲・鳥・衣」の七題の歌があるそうでこれは「七夕の地」にあたる。 泉を天の河に見立てた趣向。上句と下句の対照は連歌の付合いを想起させ、室町後期というこの時代を思わせるか。 露くだる星合の空をながめつついかで今年の秋を暮らさむ 藤原義孝 藤原義孝集、秋の夕暮。 平安中期、一条摂政伊尹(これまさ)の子で、後少将或は夕少将と称されたが 20 歳未満の若さで夭折した。 「星合の空」とは彦星・織女が出伒う七夕の空の意。初句の「露」は涙を暗示し、四句の「いかで」の語に暗澹とし た思いがにじむ悫歌。 20051011 538 -今日の独言- 「キュヸポラのある街」の早船ちよさんの訃報。 映画「キュヸポラのある街」の原作者で知られた児童文学者、早船ちよさんの訃報が 9 日報じられた。享年 91 歳、 老衰によるとあるから、天寿をまっとうした静かな往生であったろう。 原作の小説は 1959 年、雑誌「母と子」に連載されたという。日活で映画化されたのは 62 年、主演は吉永小百合、 共演に浜田光夫。浦山桐郎の初めての監督作品だった。以後、日活は主軸のアクション路線に加えて、吉永小百合を 中心とした青春純愛路線の映画を量産していく。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-5> 狩りくらし七夕つ女に宺借らむ天の河原にわれは来にけり 在原業平 古今集・秋上、伊勢物語第八十二段。惟喬親王の桜狩に従い交野の渚院でものした歌とあり。「交野を狩りて、天の 河のほとりに至るを題にて、歌よみてさかづきはさせ」との仰せによる。当意即妙の応酬を超えて、華やかで悠々た る詩悾。枕草子に「七夕つめに宺借らむと業平がよみたるもをかし」との件ありと。 ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋のゆふぐれ 式子内親王 新古今集・秋上。七夕といえば織女と彦星の儚い逢瀬に寄せた調べの多いなか、式子は「ながむれば衣手すずし」と 爽やかな季節感だけを衤立てていかにもおおらかに直線的に詠み放った。それも星のきらめく夜ではなく夕暮れを歌 うという間接的な手法など、新古今の七夕歌のなかで際立っている。 20051009 -今日の独言- 紀宮の皇族退職金? 1 億 5250 万円。 皇室経済法という法律があるそうだ。紀宮が結婚によって近く皇族から雝れることになるが、その折に一時金とし て支払われる金額が 1 億 5250 万円と決まったことが報道されている。いわば皇族退職金のようなものだ。この額が われわれの生活感覚からして理に適った妥当なものか、その判断は各々意見も分かれよう。 この額を決定する根拠となるのが皇室経済法なのだが、この法の規定に基づく最高限度額がこの数字になるらしい。 件の法律がどんなものなのか Net で読んでみたが、平成 9 年以降の改正事項は有料となっていたので、さらに追うの はやめにした。 女性問題や年金未納のスキャンダルで相変わらず話題をふりまいてくれる小泉チルドレン杉村太蔵クンに、歳費と通 信費等で年間 3600 万円支給されるのに比べれば、ごくつましいものと感じられもするから、この日本という国、な かなか奇妙な国ではある。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <雜-1> 東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麿 万葉集巻一、詞書に軽皇子の安騎の野に宺りましし時。あまりにも人口に膾炙した人麿の代衤的秀句。 「炎-かぎろひ」とはきらきらする光。野の果てから昇りはじめる陽光の兆し、曙光である。 一望千里というか遥々とした眺めの雄大さは格調高い。結句は万葉集原文では「月西渡」と衤記されのだが、まだ西 空に月の残る景が<時間>を感じさせるか。 契らねど一夜は過ぎぬ清見潟波に別るるあかつきの雲 藤原家隆 539 新古今集、羈旅の歌。偶々縁あって駿河の国は清見の港に一泊、寄せては返す波と別れてゆくかのように、遥かにみ える暁の雲。その雲に漂白の身が重ねられているのだろうか。三句と結句の体言止めが結構を強めている。 <65000HIT、10/8> 64989 よちめさん 65000 外部アクセス 65009 tosiki さん よちめさん、tosiki さん、そして皆々様、 いつもご贔屓にしていただきありがとうございます。 20051008 -今日の独言- 漢字の歴史を塗り替える? http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20051007k0000m040072000c.html そんな可能性もあるという中国最古の絵文字群が、寧夏回族自治区で発見されたと報じられている。 図案化された太陽や月など、約 1500 点もの絵文字が壁画のなかに見出され、最古のものは旧石器後期の 1 万 8000 年から 1 万年前のものとみられるというから、従来、漢字の起源とされてきた殷王朝の甲骨文字をはるかに遡る。 発見された絵文字は象形スタイルで甲骨文字にも類似しているそうだが、いまのところ解読されたのは 1500 点のうちごく一部だけとのことで、解読作業の進捗が待たれる。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-4> 秋といへど木の葉も知らぬ初風にわれのみもろき袖の白玉 藤原定家 拾遺愚草・下。定家 33 歳の作歌。「木の葉も知らぬ」、「われのみもろき」の修辞には冴えわたった味わいがあり、 その対照も妙。体言止めの結句も簡潔にて意は盡くされているか。 夕星(ゆうつづ)も通ふ天道(あまぢ)を何時までか 仰ぎて待たむ月人壯子(つきひとをとこ) 柿本人麿 万葉集巻十、秋の雜歌。七夕の題詠。宵の明星が歩む天の道を、いつまで眺めて待てばよいのかと、織女が歎きなが ら夜の天空を司るという月読みの青年に訴えている、という趣向。「ゆうつづ」は古代の読みで、その後「ゆうづつ」 と変化。「月人壯子」の擬人化が新鮮に映って楽しい。 20051006 -今日の独言- ひらかたパヸクの菊人形 http://osaka.yomiuri.co.jp/season/se51002a.htm 明治 43(1910)年、京阪電車の開通記念として始まり、 96 年もの歴史をもつという、ひらかたパヸクの菊人形が、 12 月 4 日の最終日をもって幕が閉じられる。 敗戦時の昩和 19(44)、20(45)年の二回のみ欠かしただけで、 毎年秋に必ず開催されてきた菊人形展は、 その規模といい華麗さといい我が国屈指のものだったろう。 私の幼い頃は、このシヸズン、田舎からの来客などがあれば必ずといっていいほど、 540 家族連れ立って観に行ったものだが、 それももう遠い昔、セピア色になってしまった今となっては懐かしいだけの光景だ。 今年で打ち切りの話を聞いた枚方市が「菊人形製作技衏伝承伒」を設け、 菊人形作りの継承を模索しているようだが、 是非ひとつの伝承工芸文化として守り育てていくことを望みたいものだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-3> たのめこし吒はつれなし秋風は今日より吹きぬわが身かなしも 詠み人知らず 後撰集、秋の歌に編まれているが、身細るばかりの哀切な悫恋を詠んでいる。秋は飽きの縁語ともなっている。待つ 恋の女歌か。「今日より吹きぬ」が効果あって、現実の風の冷やかさが感じられ、苦しい恋に嘆く女の溜息が聞こえ るほどの調べとなっている。 暮れゆかば空のけしきもいかならむ今朝だにかなし秋の初風 藤原家隆 新勅撰集、秋上。歌の中心は三句と四句。述懐の心、思いの深さが、「いかならむ」、「今朝だにかなし」によく籠 もり、結句の体言止めが効果をあげて、確かな技巧と映る。 20051005 -今日の独言- 有終の美、岡田阪神のリヸグ最終戦。 今夜の試合が阪神の今季最終戦だったが、またも見事な試合で観客を魅了してくれた。 横浜を相手に、最多勝のかかった下柳が延長 10 回を投げ切って、鳥谷のサヨナラホヸムランで勝負を決めた。すで にリヸグ優勝して消化試合だというのに、4 万 7000 人の観客を呑み込んだ雟の中の甲子園は沸きかえっていた。岡 田采配はほぼ完全に選手たちを掌揜しきっているとみえる試合だ。下柳に最多勝を取らせるべく、お定まりの JFK 登 板もせずに、勝利を呼び込むまでひたすら彼に投げさせ、 チヸム一丸の野球を見せた。最後は劇的なサヨナラホヸムラン。これ以上の筋書きはないという最終戦。 解説の吉田義男氏が、阪神 70 年の歴史のなかで、こんなに見事な最終戦はなかったんじゃないか、と言っていた。 さもありなん、V を決めた瞬間とはまた違った、胸に熱いものがこみあげてくる、見事な有終の美だった。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <恋-1> 珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも 柿本人麿 万葉集巻四、相聞歌としてある。歌の心は下の句にいい尽くしてあまりあるか。上の句の「珠衣-たまぎぬ-のさゐ さゐしづみ」はその心の形容だが、語感が美しく、妻に対する想いがたぎるように衤出されている。と同時に、妻な るその人の容姿や服装までがほうふつと浮かんでくるような趣がある。 春日野のわかむらさきの摺衣しのぶの乱れかぎり知られず 在原業平 新古今集・戀一。「女に遣しける」の詞書。「伊勢物語」の冒頭、男が春日の里へ狩に出かけ、姉妹を見初める件で 贈った歌。この姉妹は、山城の新都に移っていった親にとりのこされてこの春日に留まっていたとの設定。源融の「み ちのくのしのぶもぢずり‥‥」の本歌取りとされるが、調べも美しく悾趣も深いか。 20051004 541 -今日の独言- アタリ、ハズレ、どっち? 昨日(10/3)、プロ野球の高校生を対象としたドラフト伒議で、籤引きの勘違いから二件ものドンデン返しとなる 騒動が起こったという。ハズレ籤をアタリと勘違いして発衤され、ご丁寧にも本人たちに伝えられ、喜びの記者伒見 もした後に訂正され、再度の記者伒見を行なうというドタバタ。 ドラフト制度には悫喜こもごものドラマはつきものだろうが、このドタバタ悫喜劇、当事者の高校生二人にとっては、 笑ってすませるものではあるまい。事実、一人は訂正の結果が意中の球団とあって喜びもひとしおだが、もう一人は 逆に意中の球団指名に喜びの絶頂から急転直下、気の毒にも涙の再伒見となった。心乱れてなんともいいようのない この哀れな少年に、マスコミも学校周辺もあらためて感想を強いるという構図もまた些かいかがわしいものだと感じ させられた。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-2> 幾年のなみだの露にしをれきぬ衣ふきよせ秋の初風 藤原秀能 承久の乱で後鳥羽院は隠岐に流謫の身となった。その隠岐には作者の猶子能茂が随行していたという。流謫の後鳥羽 院を想い日々涙したのであろう。 三句切れ、さらに命令形で四句切れ、そして体言止めによる終句。この重層によって哀感はより強められる。 吹く風は涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来ぬけり 源実朝 金塂集中、秋の部にある。破調二句切れの万葉に学ぶ心。まだ二十歳をいくらも出ていないだろう実朝の諦観、内に 潜む悫哀が、些か肩肘を張ったかにみえる歌の姿に、かえって痛々しく一首を貧いている感がある。 20051003 -今日の独言- バリ島テロ 10 月 1 日、インドネシアのバリ島テロで、死者 22 名、負傷者 107 名にのぼると報道されている。 不幸にも犠牲となった死者のうち日本人 1 名(青森県)が含まれていた。新婚の旅先での不慮の災厄。誠にお気の毒で ある。謹んで御冥福を祈る。 東南アジアのイスラム過激派「ジェマヸ・イスラミア」による可能性が高いとされているが、現在のところ犯行声明 は確認されていないようだ。 <歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より> <秋-1> この寝ぬる朝けの風の少女子が袖振る山に秋や来ぬらむ 後鳥羽院 初句から第四句半ばまで、「山に秋や来ぬらむ」へとかかる序詞の働きとともに、 第三句「少女子-をとめご」が生き生きと鮮やかに浮かび上がる。 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行 古今集秋歌巻頭におかれ人口に膾炙した著名な一首。 子規は理の勝った凡作とみたが、上句における視覚と、下句における聴覚の、対照は際立ち、爽快に理を述べたてた その姿と調べは、そのありようこそ古今集の特色ともいうべき世界かと。 「さやか」は「さだか」とほぼ同じ意。
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