クリスマスの賜物は平和 東洋英和女学院クリスマス礼拝 2007年12月7日 デイビッド・W・ラッカム 聖書:ルカによる福音書2章1節−22節 1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2:これは、 キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダ ヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所が なかったからである。 8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10:天使は言った。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メ シアである。 12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。 」 13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14: 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。 」 15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主 が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し 当てた。 17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に 知らせた。 18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、 賛美しながら帰って行った。 21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿 る前に天使から示された名である。 1 メッセージ 今日、みなさまと共にみことばに預かれる機会を与えられましたことを真に光栄と存じ ます。日本語でお話をできればよろしいのですが、かないませんのでお許しください。あ りがたいことに、伊勢紀美子先生に日本語訳を用意していただきましたので、みなさまと 共にみことばに預かれます。 一年がめぐって、また、クリスマス気分が漂ってきている今日この頃です。もう随分前 から、日本だけでなく世界中の多く場所で、商人たちがクリスマスの到来を告げてくれて います。アメリカでは、感謝祭の翌日はブラック・フライデイです。そして、この日がク リスマス商戦の始まりです。とくに大方今期商売が赤字になっている場合、商人たちはこ こで黒字にしようと望みを掛けるのです。日本では、クリスマスがお歳暮商戦への突破口 となってしまっているようです。それどころか、多分、日本のクリスマスはいまや、それ 自体が日本のクリスマスの祭りとなってしまっていて、ほんの一握りしかいないキリスト 者のクリスマスではなくなっています。 私はチャールズ・ディケンズの言うようなところのスクルージュではありません。私は もちろんクリスマスの世俗的な魅惑をいろいろと楽しんでいます。16世紀に遡るドイツ の伝統であるクリスマスツリー、もっと古いあの偉大なる小妖精、いろいろな呼び名があ りますが、カナダではサンタクロースとかパパ・ノエルと呼ばれているものも魅惑です。 クリスマスの季節に結びついた宗教的または非宗教的な音楽も、近隣やはるばる遠くから 家族が集い、友が集うことも魅惑です。クリスマスは子どものためだという人が多いので すが、もちろん、クリスマスと言うのは、ほんとうに、一人のまさに特別な子どもの誕生 のこと以外の何ものでもないのです。 クリスマスが不思議な時間であることにしばしば気付かされます。このとき、ばたばた と忙しい日常生活がほんの2,3日、いや2,3週間停止します。私にはカナダの194 0年代後半から1950年代にまで遡るクリスマスの幸せな思い出があります。クリスマ スの朝になったら、中身がなにか分かる約束のものや大きな期待感の数々でいっぱいにな るクリスマスの不思議な魅力の思い出です。 私の子ども時代はずっと遠い昔ですが、いまだに毎年、12月25日が近づくにつれ、 あの期待感と興奮のうねりがわたしに押し寄せてくるのです。 2 カナダ人である私は、クリスマスといえば寒さと雪を連想しないわけにはいきません。 私たちのクリスマスへの期待がいかに幼少期の育ちによって、文化的にまた地理的な意味 においても、どんなに影響を受けるかを教えてくれます。あの古いイギリスのカロル「イ ン・ブリ−ク・ミドウィンター」 ( 「木枯らしの風ほえたけり」 『讃美歌』468)の歌詞は、 私にこれを思い出させてくれます。 木枯らしの風 ほえたけり、 くろがねのごと 地は凍り、 雪ふりつみぬ いやしげく、 とおきむかしの 冬の日に。 でも私は、冬の寒さと雪を居間の暖炉の火の温もりですっかり忘れ去ることができまし た。当時でも、私たちにはセントラル・ヒーティングがあったのです。クリスマス・イヴ に静かに雪が降るということは、一般にすばらしいとおもわれていますが、カナダの私の 出身地では珍しいのです。もし雪が降るとしたら、大地に雪の帳が下りてくるような感じ で降り、いつもの街の喧騒は消され、いつもの景色や考え方も端的に言えばシュールな方 法で、まったく様変わりします。2000年以上前の馬小屋でのあの降誕の驚きと不思議 を見つめている荘厳な状態に包まれます。 キリスト教信者にとって、クリスマスの真髄はピカピカと電飾することでもなく、プレ ゼントの買い物をすることでもありません。むしろクリスマスは乳飲み子イエスの誕生を 祝うということ、ベツレヘムの町の火の気のない馬小屋でずっと昔に起こったあの驚くべ き出来事から続いていることだということに尽きるのです。ルカによる福音書のこのおな じみの一節に書かれていますように、ベツレヘムの宿屋には泊まるところがなく、馬小屋 でも十分でした。雄牛もロバも乳飲み子キリストの誕生を見に来たのです。 そうです、クリスマスの日に私たちがお誕生をお祝いする方、イエス様は貧しい状況の 中でこの世にいらっしゃったのです。ほんとうにイエスの誕生を祝いに来たのはただ羊飼 いと三人の博士たちだけでした。このように人目に立たず、運の悪い状況下で生まれた子 が知恵を増し、背丈も伸び、33年、そして3年の伝道生活の短い生涯で、非常に驚くべ き方法でこの世を変え、イエスの教えはさらに時代を超えて代々伝えられ、現在の私たち のところまで、2007年の東京のこの時この場にも伝えられてきましたが、これを今ま で誰が予想しえたでしょうか。誰もいません。そう、みかけとは反対に、イエスの誕生は ふつうの誕生ではなかったのです。これは途方もない誕生だったのです。神の独り子の誕 生だったのです。ことばは肉となり、救い主、すべての人を照らす真の光、平和の君の誕 生だったのです。 3 あの最初のクリスマスは、私たちの世界だけでなく私たち一人ひとりに新しい可能性の 始まりと、絶え間ない難題挑戦の刻印を残したのです。新約聖書の随所でこの例を挙げる ことができます。実に、東洋英和の創立もずっと昔のベツレヘムのあの馬小屋での神の子 なるキリストの誕生に遡れます。これらの可能性のひとつは、平和への期待にあります。 もし人間の心と精神がキリストの像に変えられるなら。しかし、イエスが語ったすべての 約束(黙契)を伝えているこの平和とは何か?イエスの挑戦を受けて立ち、平和の道をイ エスに従っていこうと決意する人々にとって黙示されているものは何か。 平和に生きることが意味するものは何かには、多くの解釈があります。平和が心の安心 感、心理的満足の状態、すなわち、心が安全圏にいる感覚ととる人もいますが、別に、平 和が目に見える紛争がないことだと思う人もいます。上機嫌の感覚またはお互いに仲良く 暮らしているという感覚があるときは、平和の状態に達しているということもできます。 どんな平和理解をしようと、2007年は、目に見える形で、また見えない形でも平和を 達成したとはとてもいえないように思えます。 平和と正義は絡み合った概念です。正義なしに、平和はなく、平和なしにでは、不正は はびこりやすい。偉大なる15世紀−16世紀のドイツ人修道士、プロテスタント宗教改 革の改革者であり促進者であったマルティン・ルターにとっては、 「平和はすべての正義に 勝り、平和は正義のために実現されたものではなく、正義が平和のために実現されたもの」 であった。 イエスが説く平和は、旧約聖書のミカ書にあるように、主が私たちに求めているものが 正義を行い、たえず慈しみを示し、へりくだって神と共に歩むことであるとの理解からで る平和であると思われます。 わたしたちが真剣にこの挑戦に応えることができるとしたら、 わたしたちの生活と世界をどのように変えられるかは神様だけがご存知なのです。 クリスマスは贈り物をする季節です。実際、この伝統は三人の博士が遠くから黄金、乳 香、没薬を携えてきたあの最初のクリスマスに遡ります。2007年の東京の今ここでイ エス様に贈り物をする機会が私たちに与えられたとしたら、私たちはどんな贈り物を捧げ るのでしょうか。 今にふさわしい真の意味を象徴する真の贈り物はどんなものでしょうか。 贈り物の価値はそのお金の額に比例するのでしょうか。たしかに黄金、乳香、没薬は物質 的に、金銭的に裕福な人々の特権でした。わたしたちが金銭的に恵まれないものであると したら、何を捧げられるでしょうか。霊的に豊かであるとしたらと考えて見ましょう。カ ロル「イン・ブリ−ク・ミドウィンター」の最終節には、まさにこの問題で提起され、ま たそのもっとも適切な答もあります。 4 私はイエスさまに何を捧げましょう、 貧しいけど、 もし私が羊飼いなら 羊を携えて行くでしょう。 もし私が博士のひとりなら 私の本分を尽くすでしょう。 でも、わたしがイエス様に差し上げられるものは、 わたしの心をささげること。 金銭的にお金持ちとか貧乏とかに関わらず、わたしたちはみな心を捧げ、力を捧げ、命 を捧げ、他人に奉仕をすることで神様に奉仕することができます。他の人たちを、遠近を 問わず兄弟姉妹たちを、知っている人たちも知らない人たちをも引き込んで、わたしたち は全世界へ向かって平和の贈り物をすることができるでしょう。これは一方通行の行為で はありません。リチャード・グッド氏は言いました。 「平和は、わたしたちが自分自身に、 それからお互いにあげる贈り物である」と。わたしたちは、一人ひとり独自のやり方で、 それぞれの持ち場で、自分が持ち合わせた能力に応じて平和を実現する人になれるでしょ う。これは実にりっぱな贈り物なのです。山上の説教でもっとも有名なことばのひとつに 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 」というのがありま す。教育を通じて、たとえば、東洋英和の場合は、 「刀を打って鋤に、槍を打って鎌にする」 を目指す模範となることができるでしょう。 わたしたちは世界に衝撃を与えるほどの高名で有力な人になる必要はないのです。確か に過去にも現在にも言行において、わたしたちのために灯を照らし、案内をしてくれる卓 越した人物はいます。地には平和、人々には善意を、と言うキリストのことばに霊的励ま しを受けた人はたくさんいます。しかし、その中には個人的にはキリスト教教徒でない人 もいます。 たとえば、アルバート・アインシュタインは世界平和の提唱者です。次に引用した2句 のように述べています。 わたしたちの隣人たちを好意的に理解すること、わたしたちの付き合いで正義を みせること、そして仲間を助けようとする潔さは人間社会に恒久性を、個々人に 安全を保障します。 わたしのできることは何一つとっても宇宙の構造を変えることはできない。しか し、わたしが声をあげることによって、何か役立つかもしれない。信ずるものす べての中でもっとも偉大なものとして―人々に善意を、地には平和を 5 また、マハトマ・ガンジーはこう述べています。 憎しみは殺すが、愛は死なない。この二つには大きな違いがある。愛によって得 たものはいつまでも失われることはない。憎しみによって得たものは、憎しみが 憎しみを加え、実際には重荷になることが分かる。 マルティン・ルーサー・キング、ノーベル平和賞を受け、暗殺されたアメリカの人権活 動家、そしてキリスト教の牧師は、殺された日に自分のことを人々にどういってもらいた いかを考えていた。ご存知のように、死の日は想像以上に間近であったのですが。 わたしは、その日、誰かに言ってもらいたい。マルティン・ルーサー・キング は人を愛そうと努力したと。わたしはあなたに、その日、言ってもらいたい。 戦争に疑問を持つことが正しいとして、わたしが努力したことを。その日、あ なたがこう言えるようになってほしい。わたしが飢えている者に食べ物を与え ようとしたと. . .あなたに言ってもらいたい。私が愛し、人道的な奉仕をしよ うと努力したと。そう、もしあなたが、わたしが軍楽隊長だったと言いたいの なら、正義のための軍楽隊長であったと言ってください.わたしが平和のため の軍楽隊長だったといってください。わたしは神の義のための軍楽隊長だった と. . .わたしは、わたしが打ち込んだ生涯をそのまま残していきたい。 マルティン・ルーサー・キングの献身的な生涯は多面的でした。たぶん「善いサマリア人」 のたとえ話についての彼の解釈が最も彼の人となりを示しています。 。 祭司とレビ人が[エリコへの途上で]発した疑問は、 「もし、わたしがこの人を助 けるために立ち止まったら、わたしはどうなるだろう。 」であった。しかし、善 いサマリア人はこの疑問を逆にして、 「もし、 わたしがこの人を助けなかったら、 この人はどうなるだろう。 」と考えた。 マルティン・ルーサー・キングは、もちろん、イエス・キリストが最大の模範であった非 暴力の伝統に従った平和と正義の提唱者でした。 わたしたちが生涯を通して、イエス様の贈り物である平和を世界に分け与えるように努 力しなければならないその責任と行動は容易なことではありません。正直言って、私たち の希望、勇気、自信を失わせることはたくさんあります。毎日、新聞を読むだけで、また、 毎晩、テレビのニュースを見るだけで、人間には絶望してしまいます。平和への道にはや っぱり武力しかないと、また、イエスが示す非暴力と憐れみによっては何の結果も生み出 せないとたいていの人が考えるようになってしまうでしょう。やさしさのある世界になる 6 には何が必要でしょうか。 聖フランシス・ド・サ−ルのことば「優しさほど強いものはない。 ほんとうの強さほど優しいものはない。」こそ本当だと、わたしは言いたいのです。 アート・カッツ、初めは猛烈な無神論者であり世俗的ユダヤ人で、宗教全般、ことにキ リスト教にはつよい敵対をしていた人物が、ある啓示を受けて、すっかり変えられ、こう 記しました。 真の神の英知は、この世の神々の知恵とはあらゆる点でことごとく正反対であ る。それは別世界の英知、天の英知である。教会がこれを証明するとき、間違 った価値観に捕らえられ隷属している国家や民族を従える、自信ありげな権力 者たちは負かされる。人間の知恵は自らのため、自らの保存のため、自らを有 利にするために存するが、一方、まことの神の英知は他のために存する。 わたしは、ユダヤ人大虐殺の生存者であり、1986年ノーベル賞受賞者のエリー・ウィ ーゼルのことばを慰めとしています。非常にナイーヴな考えみたいだと言われるときにな お、彼女は人間に希望を捨てなかったのです。 人間とは何か 希望が塵となったものだ。 いや、違う。 人間とは何か。 塵が希望になったものだ。 もっと若かった頃は、大切と思う目標がどんなものであれ、その目標への情熱は平和ヘの 必要条件である他人への憐れみと共感に勝っています。結局、わたしたちはこの世界で繁 栄していかなければなりません。しかし、かつてアルベール・カミユが言いました。わた したちの世界で平和を達成するとするなら、わたしたちは情熱から憐れみへと移動しなけ ればいけないのです。なぜなら、憐れみは平和と正義の連合したものだからです。この感 情を別のことば、キリスト教的に、たとえば、マグデブルグのメヒティルトのことばで言 い表すならばこうなるでしょう。 もしあなたが人間の判断を恐れる以上にイエス・キリストの正義を愛するなら、 あなたは憐れみを行うことを求めるでしょう。憐れみとは、もし、わたしが同 じように助けを必要としている友と敵を目の前にしたとき、双方に同じように 手を貸すということです。正義はよそ者を、敗残者を、囚人を求め、見出して、 慰め、手を差し伸べることになるでしょう。 7 また、イギリスの神秘主義の詩人、ウイリアム・ブレイクのことばにはこうあります。 他人の悲哀を見て、共に悲しまないことができようか。他人の悲痛を見て、 やさしく安心させないでいられようか。 わたしたちがどんな立場であっても、もし他人と平和の贈り物を分かち合う責任をこれ からも果たそうと意を決して、確約するなら、気を付けねばならないことがあります。ア ッシジの聖フランシスのことばです。 平和を唱えるときは、口先だけでなく、わたしたちの心を尽くすべきです。 「なぜなら、平和は語るだけでは十分でありません。平和を信じなければいけません。ま た、平和は信じるだけでも十分ではありません。平和のために働かなければいけません。 」 とエリノア・ルーズベルトは言っています。 そこで、2007年のクリスマスの季節を迎えようとしているわたしを含めた皆様お一 人おひとりに、わたしたちの仲間にまた自分自身に贈る最もすばらしい贈り物はいったい 何であろうかとお考えいただきたい。2007年前にベツレヘムの馬小屋でつつましくこ の世に来られ、今日もなお、わたしたちとともに生きておられる方を覚えながら。わたし たちはみな、他人と分かち合うことのできる贈り物を手にしています。私たちの中には豊 かな人もいれば、貧しい人もいますが、物質的に豊かであっても、必ずしも霊的に豊かで あるとは限りません。たぶん、キリストの名において私たちが贈る最もすばらしい霊的な 贈り物は、平和の名において他人に奉仕をするという贈り物です。この小さな惑星の上で わたしたちが仲良く一緒に暮すことができるという贈り物、私たちはそれぞれ異なること をむしろ喜び、他人への奉仕に謝意を表することができるという賜物、それは心という贈 り物なのです。 私はイエスさまに何を捧げましょう、 貧しいけど、 もし私が羊飼いなら 羊を携えて行くでしょう。 もし私が博士のひとりなら 私の本分を尽くすでしょう。 でも、わたしがイエス様に差し上げられるものは、 わたしの心をささげること。 8 終わりの祈り−13世紀の聖フランシスの祈り 主よ、わたしをあなたの平和のためにお使いください。 憎しみのあるところで、わたしを愛の種を蒔く人にしてください。 危害のあるところで、許しの種を。 疑いのあるところで、信頼の種を。 絶望のあるところで、希望の種を。 闇のあるところで、光の種を。 そして悲しみのあるところで、喜びの種を蒔く人にしてください。 ああ、主なるキリストよ、 願わくは求めすぎることがありませんように 慰めてください、わたしが慰めたように。 理解してください、わたしが理解したように。 愛してください、わたしが愛したように。 なぜなら、与えるときに私たちは受け取り、 許すときに赦され 死ぬとき、永遠のいのちに生まれ変わるからです。 9
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