イコンのキリスト教史的意義

Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要
人文科学 ・社会科学部門 5
4 pp.5
7
-6
7
.1
9
9
9
イ コンのキ リス ト教史的意義
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じ め
に
のは, すべて, このよ うに,永遠 の うちに存在 し, かつ
実在す る。永遠 において は,歴史 よ りも伝説 や虚構 の方
が はるか によ り真実 なのであ る。
最近 の聖書本文批評 によれば, イエスが姦淫 の女 を赦
す有名 な物語 の部分 (ヨハ ネ8:
1-l
l
)は, 史 的 イ ェ ス 自
事実,歴史的 に見れば, - ム レッ トもファウス ト博士
身 にまで遡 ることが出来 ない とい う。 ヨ- ネの教会 が思
も決 して実在 した人物で はない。 しか し,倫理的 に見れ
い描 いていた信仰上 のイエス像 を創作 した もので もあろ
ば,歴史 の中 に実在 した単 に名辞 にす ぎないよ うな いか
うか。 しか し, た とえ この物語 の内容が史 的 イエスの事
な る人物 よ りも,我 々の うちにあ って, はるかに実在的
実 にまで至 り得 ない として も, ここに描 き出 されたイエ
かつ歴史的であ る。彼 らはち ょうど我 々が母親 の胎 内か
ス像が原初 のキ リス ト教徒 の信仰 していたイエスその人
ら産 み落 とされたよ うに,偉大 な魂 の中か ら生 み出 され
であ った ことは確かであろ う。律法学者 やパ リサイ派 の
て きて現実 に存在 し,彼 らと出会 うすべての人 々の心 の
人 々一人 ひ とりに自己の内面的 な罪 を自覚 させたイェス,
中に,人間 には人格 を形成す る原理 と して, また歴史 に
「もう罪 を犯 して はな らない」 と姦淫 の女 を赦 したイエ
は文化 を形成す る原理 として,かつて働 き, い ま働 き,
ス, そ して,「
私 もあなたを罪 に定 め な い」 と救 い主 が
これか らも働 き続 けるだろう。だか ら,-ムレットや ファ
罪 を罰 す るためで はな く,罪 を赦すために来 た ことを教
ウス ト博士 と出会 った者 は,誰 も彼 らの永遠 の倫理 的実
えたイエス, このイエスこそが原初 の信徒 にとっては本
在性 を否定す ることは出来 ない。彼 らは真 に実在 してい
当のイエス, か けがえのない信仰 のイエスだ ったのであ
るのであ る。
この点 に新 しい実在論 を予想 し,筆者 は,数十年来 そ
る。
れを 「
倫理的実在論 」(
e
t
hi
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e
al
i
s
m) と呼んで きた。
「
史 的イエスの探求」 が到 り出す歴 史 の イエ スが どれ
ほど貧弱 な人物像であれ, それ によ って, この原初か ら
本小論 もまた, その倫理的実在論 の有効性 を確かめ る試
の信徒 のイエス像が変 わ ることはあ るまい。 この 「
本当
みの一 つ とな ることが期待 されている。従 って,本小論
のイエス」 は信仰 によ って人 々の心 の中に生 き,彼 らの
はイ コンに纏 わ る物語 や,聖母 の出現 に関わ る伝承 など
人間性 を作 り上 げ,彼 らの 日常生活 を導 き, そ して,彼
を多 く取 り扱 うが, それ らの物語 や伝承 の真偽 や正誤 を
らのキ リス ト教文化 を形成す る原動力 と して働 き続 けて
問わない。問えば 「ウサギ とカメの駆 け比べ」 な どとい
きた。 また,今 もそのよ うに働 いてい る。 そ して,今後
うことが現実 に起 こり得 るのか と問 い, その結果,我 々
もそのよ うに働 き続 けることであろ う。 だか らこそ, こ
の心 の中 に実在す るこの童話 の 「
倫理的な働 き」 まで も
の 「
本 当のイエス」 が人間の うちに,文化 の うちに, そ
否定 して しま うの と全 く同様 の愚行 を, この場合 に も確
して,歴史 の うちに真 に 「
実在 す る」イエスなのである。
実 に犯す結果 にな りかねないか らである。本小論 はその
我 々 はウサギ とカメが駆 け比べをす るよ うな世界 に生
限定 を負 いっつ, イ コンが東方正教会 の歴史 に果 た して
きて はいない。 しか し,幼 い頃か らこの童話 を母親 に聞
きた宗教史的な役割 につ いて考察 を廻 らす ことか ら開始
き, あるいは,絵本 に見 て ,「人生 , 焦 るな, 弛 む な」
され ることになろ う。
と教 え られて きた。 そ して, その教訓か ら今 日在 る自己
1
を形成 して きた し, その自己がその同 じ働 きに従 って さ
まざまな文化 の形成 に参与 して きて もいる。 もしそ うで
周知 の よ うに,S.
A,
Ki
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ke
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d(
1
81
3-5
5) によ
あるな らば, この童話 はそ っ くりそのままの形で我 々の
中に 「
働 き」 と して実在 していた し,今 も実在 し, これ
ると,人間の実存的な自己形成 は,①審美的,②倫理的,
か らも実在 し続 けるだろ う。我 々が思考 し,創造 す るも
③宗教 的段階 において形成 され るが,最後 の宗教的段階
5
7
Akita University
はまた 「
宗教性 A」 と 「
宗教性 B」 とに区別 され る。前
釈であ る)。彼等 はあ くまで も神 の子 が イ エ ス とい う人
者 は,絶対者 を模範 と して,単 に普遍 的一般的 に宗教 的
間の姿 を とって地上 に出現 し, キ リス トと して救 いの業
な ものを 目指す立 場 で あ り, 従 って, そ こにお いて は
を成就 して くれたのだ と考 えていたのであ る。 この信仰
「
主体性が真理 である」。 しか し,後者 は,賎 しい僕 の姿
のキ リス トと歴史 のイエスとの先後関係 を取 り違 えて し
を とって この世 に受肉 し, しか も惨 めな死 に方 を したキ
ま うと原初 のキ リス ト教信仰 を正 しく理解す ることは困
リス トを,単 に模範 としてで はな く, どこまで も救 い主
難 にな るだろ う。
従 って, この見え るもの (イエス) とな った見えない
と して信仰 す る,純粋 にキ リス ト者 に要求 され る根本的
に 自己否定的な立 場 で あ り, 従 って, ここにお いて は
もの (
キ リス ト) の職務 (
mi
ni
s
t
r
y) には次 のよ うな二
「
主体性 は非真理 である」 とい う。 そ して, キ ル ケ ゴー
救 い主 」(
c
T
WT方p)とし
面性 があ った。 その一つ は,「
ル は, この神人 キ リス トとい う完全 な逆理 に贋 くか否か
ての職務 であ る。「
救 い主, キ リス ト ・イエ ス」 とい う
を,各個人 の自由 と決断 に委 ねてい (1
)
。
表現 は新約文書 の至 る所 に現 れている (
e
x.ルカ 2:
ll,
3:
2
3
, Ⅱテモテ1:
1
0
, テ トス 2:
1
3
)
。 この言 表 は,
行伝 1
キ リス ト教 は, おそ らく, その成立 の当初か ら,見 え
ない ものを見 え るもの と して, いか に表現す るか とい う
また常 に信仰告 白で もあ った。 そ して, もう一 つ は,
問題 に腐心 し続 けて きた。 それ は,識字率の低い時代の,
「
仲介者 」(F
LeUZT7
7S) と して のそ れで あ る。 新 約 文
社会的 に低 い階層 に, キ リス ト・イエスの信仰 を広 め る
書 の世界 において, キ リス トは 「た だ独 りの」 仲 介者
ためには画像 (
i
ma
ge
) による方法が最 も効果 的 で あ っ
(
和解者 ・仲保者) であ った (Ⅰテ モ テ2:
5)。 キ リス ト
たか らである。無論, モーセがイス ラエルの民 に与 えた
が神 と人 との間 を和解 させ て くれ た とい う信 仰 の告 白
偶像崇拝禁止令 (
出エ ジプ ト2
0:
46
)をめ ぐるさまざ ま
は,新約文書 の至 る所 に顕著であ る (ロマ3:
2
5
, マ タイ
な解釈が この間題 を出 口が見 えないほど複雑 に していた
2
0:
2
8
, Ⅱコ リン ト5:
1
8
1
9
)
。
ことは言 うまで もない。 しか し, おそ らく, それよ りも
無論, この両者 の問の緊張関係 は, キ リス トが人間の
何 よ りも,救 い主 自身 を賎 しい僕 の姿 に描 き出す ことに
罪 の身代 わ りにな って神 と人 との間を和解 させて くれた
は, や は り, それ相応 の抵抗感 があ ったのであろ う。事
救 い主 であると信 じることによって, うま く保 たれて き
実, キ リス トの十字架上 の惨 めな死 に方 を描 く画像 の数
てい る。以後, この両者 は付かず離 れずの関係 を保 ちな
に比べて,賎 しい僕 の姿 を とって人 間に奉仕す るパ ラ ド
が らも, それぞれ独 自な展開を見せ る ことになる。
クシカルな救 い主 の像 とい う画像が ほとん ど見 出だせ な
そ こで,今回 は, この 「
仲介者」 の概念 を信仰 の倫理
いの は, この間の事情 を物語 ってい る もの と思 われ る。
的 メカニズムを支 えて きた ロゴスの一つ として取 り上 げ,
歴史 のキ リス トは,以後,神 による人間の救 いの計画 に
その執 り成 しの論理 の有効性 を も考慮 に入れなが ら, こ
仕 え る僕 とい う性 格 を ます ます失 い, もっぱ ら救 いの
れをめ ぐる東西両教会 の信仰上 の相違 か ら形成 されて き
「
主」 として人類 の頭上 に君臨 し, やが て は父 な る神 の
た東西文化 の現象的相違面 を比較検討 してみ ることに し
い る天国へ と登 り去 って,消 えて行 くのである。
よ う。
ともあれ,宣教 の必要か ら,見えない ものを見 え るも
2
の と して描 き出 してなお, モーセの律法 に も抵触 しない
最 もよい方法 は,人間がその手 によ って描 き出 したので
はな く,見 えない もの 白身が 自 らその姿 を見 え るもの と
新約時代, キ リス トは,「
救 い主」と 「
仲介者」とい う
して残 して置 いて くれたという解釈を考案す ることであっ
二面性 において信仰 されて きたが, しか し, やがて祈 り
た。事実,例 えば, エデ ッサのアブガル王や ヴェロニカ
の対象 として,「
救 い主」 の一面が著 し く強調 され るよ
の聖顔布,更 には トリノの聖骸布 など,ず っと後代になっ
うにな ってい く。 そ して, この 「
救 い主」 は次第 に神へ
て, うま くまとめ られて くる伝説や聖伝 な どに見 られ る
と近付 いて行 き, あ るいは,神 の許- と戻 って行 き, や
よ うに,最初期 のキ リス ト像 は, もっぱ らキ リス ト自身
がて,神 とほとん ど同一視 され るよ うにな る。 この傾向
が描 き残 して行 った もの と信 じられて い る。 この a
c
he
-
はすで に新約文書 にす ら現 れ る。無論, それ は 「
再臨の
人 の手 によ らない) キ リス ト像 こそキ リ
i
r
opoi
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osの (
キ リス ト」 に関 してで はあ るが ,「偉 大 な る神 で あ り,
ス トの真 の姿であ って,今 も描 かれ続 けて い る画像 は,
わた したちの救 い主であるイエス ・キ リス トの現 れを待
ただ人間の手がそれ らの跡 をた どってい るに過 ぎない と
ち望 む」 (
テ トス2:
1
3) な どとい う表現す ら見 られ るの
い うのであ る2
)
。
である。 しか し, キ リス ト・イエスをそのまま神 とす る
もともと,最初期 のキ リス ト者達 は,歴史上 のイエス
この思想 が最 も典型 的 に現 れ るの は I
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os(
c
a.
3
5-
が待望 されていたキ リス トと して信仰 され るよ うにな っ
1
07
/1
7
) の書簡 においてであろ う。 イ グナ テ ィオ ス は
たなどとは考 えて いなか った (
それ は現代人 の我 々の解
ア ンテ ィオキアの司教 であ ったが, キ リス ト者 であるが
5
8
Akita University
持田 .イコ ンのキ リス ト教史的意義
故 に捕 らえ られ,野獣 に喰 い殺 されて処刑 され るべ く,
の問題 は全 く別 の事柄である。従 って,公認後 も,当然,
ローマに護送 され る。 その間,彼 は近隣の教会 な どに宛
神 ・キ リス トへの執 り成 しを行 な って くれ る仲保者への
てて (
多分,真正 な)七つの手紙 を書 き送 った。そ して,
要求 は存続 してい く。 そ して,公認後,殉教者 や告 白者
それ らの書簡 の中 で, 彼 は次 の よ うに語 って い る。 ①
に代 わ って, この仲保者 の職務 を担 った者が, キ リス ト
「
私 の神 の受難 に倣 う」 (ロマ6
:
3
)
。② 「
神であるイエス ・
の母 ・マ リアであ った。事実,マ リア崇拝 (
Mar
i
ol
at
r
y
)
キ リス トの命令」 (トラ リヤ7
:
1
)
0③ 「
我等の神イエス ・
はキ リス ト教 が帝国 に公認 されて以降,急速 に高 まって
キ リス トは御父 の もとにあ って」 (ロマ3
:
3
)
, 等 々で あ
3
1年
いる。 マ リア崇拝 が教会 によ って公認 されたのは4
る3)。
のエペ ソ総会議 (
第三回世界会議) においてである。 こ
イグナテ イオスは 1
0
7
, あるいは 1
1
7
年 頃, ローマで
の会議以降,聖母 マ リアは T
HEOTOKOS(神 の母 ) と
殉教 した もの と考 え られ て い るので, す で に迫 害 時代
い う公式 の称号 を与 え られ ることにな る。 それ はローマ
(
教会 のいわゆ る 「
英雄時代」) に, キ リス トはす なわ
帝国 によるキ リス ト教 の公認 か らわずか百有余年後 の こ
ち神 とす る見方 が成立 していた ことが うかがえるだろう。
とであ った。
二世紀 の初 め頃すでに, キ リス トはただ殉教 によって の
無論, マ リア崇拝 も公認後 に突然始 ま った信仰で はな
み辛 うじてその許 に到達で きるほど遠 く高 い神 の懐 に と
い。 その萌芽 はすでに迫害時代 に も存在 していた。 しか
立 ち去 って しまっていたのであ る。
し,現実 に歴史 の動 向に関わ り,文化 の形成 に寄与す る
こうして,本来 「
仲保者」 と して神 と人 との中間 に位
よ うな大 きな力 にな るのは, この崇拝が救 い主 と救 い主
置 していたはずのキ リス トが神 の位置 にまで昇 りつめて
へ執 り成す者 とい う (
すなわち,神 ・キ リス ト:仲介者 :
神 と同等 の者 にな って しま うと, キ リス トが担 っていた
信徒 とい う)執 り成 しの多重構造 の中に位置付 け られた
もう一つの職務す なわち 「
執 り成 し」 の職務 は,次第 に
時か らである。人 々はみな聖母 に祈 り,彼女 か らキ リス
期待 されな くな り,やがて, これ まで執 り成 しを行 な っ
トへの執 り成 しによるキ リス トの救 いを期待 した。事実,
ていた者が,今度 は逆 に, その執 り成 しの依頼 を受 け る
これ以降,歴史 の中 には, マ リアが引 き起 こした とされ
側 の者- と移 り代 わ ってい く。 キ リス トは今 や神 その も
る奇跡物語 な どが豊富 に残 されて くる。 そ して, それは
の とな った。
現代 にまで及 び,今 日もなお,聖母 による奇蹟 を信 じて
しか し,人間 に神への執 り成 しの必要性が消えて しまっ
いる人 々は多 い。
たわけで はない。 キ リス ト教 の根本的な立場か ら見れば,
ともあれ, マ リアは神 ・キ リス トと人間 との間の仲保
人間の側か らの人間の救 いは絶対 にあ り得ず, あ くまで
者 にな った。 カ トリック教会 は, やがて, この仲保者 の
も「
主体性 は非真理」 なのであ るか ら。 こうして, キ リ
概念 を 「
代願,執 り成 しi
nt
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s
s
i
o」を行 な う者 と して
ス トが高処へ と立 ち去 って空席 にな って しまった中間点
明確化 し,聖母 マ リアの独 自な仲保者的位置 を強調す る
を,すなわち,執 り成 しの職務 を担 う位置を,次 には殉
よ うにな る。 そ して,「
我等 のため に執 り成 し祈 る聖母
教者 (
あ るいは,告 白者)達 が引 き継 ぐことにな る。 キ
Me
di
at
r
i
x」を呼 び求 め,彼女 が 「あ らゆ る聖 寵 の仲介
リス ト者達 は救 いへの執 り成 しを殉教者や告白者達 に祈 っ
者 なる聖母 Me
di
at
r
i
xomni
um gr
at
i
ar
um」であること
たのである。事実,今 日, キ リス ト教世界が使用す る教
を強調 してい ったのである。 しか し, それ は, 同時 に聖
会暦 には (
教会 の東西 を問わず), ほ とん どす べ て の 日
母 マ リアが 「
我が子」 を救 い主 と して 「
我 が身」 か ら遠
が殉教者 もしくは告 白者 の誰 かの記念 日に定 め られて い
く高 く切 り離 され ることによ り 「
母 た る性 格 」(
THEO-
る4
)
。
TOKOSであ ること) を失 って い く過程 で もあ った。
ともあれ,3
1
3年 にキ リス ト教 が コンスタンテ イヌス
従 って,人 々が聖母 に鎚 ろ うとすればす るほど, それ
帝 によ って公認 され ると,迫害 による死 や殉教 とい う事
だけマ リアは高所 に遠退 き,両者 の距離 が ます ます開 い
態 も, もはや原則 的には存在 しない ことになる。同時に,
てい くのは, キ リス トの場合 と全 く同様 であ った。 やが
殉教者 や告 白者 がそれまでに果 た して きた執 り成 しの職
て彼女 もまた,人間の手が届か な くな り, その声す ら聞
務 もやがて消えて行 く。 (
無論,公認 後 も現代 に至 るま
こえな くな ってい く。 こうして,再 び,人 々 は迎 えに到
で,宣教 のために万里 の波涛 を乗 り越 えて未知 の異教世
来 したキ リス トと共 に昇天 して,神 の隣 に去 った聖母 に
界 に赴 き,不幸 に もその地 において殉教 した人 々 も多 く
代 わ って,彼女 と人間 との間を執 り成 す新 しい仲介者 を
存在 し,彼等 を記念す る日を教会が定 めて いる場合 もあ
求 めて くる。執 り成 しの構造 がます ます多重化 してい っ
る。 しか し, これ は 「
執 り成 し」 の倫理的 メカニズムの
たのであ る。
事実,中世 にな って, マ リアの地 位 が高 ま るにつ れ,
解明 とい う視点 か ら見 る限 り,少 な くとも一般的であ る
この執 り成 しの多重構造 は もう一度大 きく変化す る。今
とは言 えないであろ う)
。
しか し, た とえ政治上 の迫害 は消 えて も, 自己の救 い
度 はキ リス トとマ リアへの執 り成 しを マ リアの母 An
na
ー5
9-
Akita University
に祈 ることす ら行 なわれ るよ うにな ったか らであ る。 ア
①パ レステ ィナの リツダ聖堂内で, マ リアが柱 に もたれ
ンナは,聖母 マ リアの母 と考 え られてきた女性であるが,
かか った時, そ こに彼女 の 日成像が描 き出 され た とか,
新約文書 にその名 はない。彼女 の伝説的な生涯 は 2世紀
あるいは,②聖母が立 ち去 った後,聖母のイコンが残 り,
の 『ヤ コブ原福音書』 に述べ られている。 6世紀 にア ン
偶然 そ こを歩 いていた人や,幻影 によ ってそ こに引 き寄
ナ記念教会堂 が Ju
s
t
i
ni
anusI世 によってコンスタンティ
せ られた人達 に, このイ コンが不思 議 な輝 きを放 って,
ノポ リスに建立 されて以来,次第 に聖 ア ンナへの崇敬が
その所在 を教 えた, などとい う頬 の ものであ る9
)
。
高 ま り,1
5
8
4
年以降,_聖 ア ンナの 日 (7月2
6日,東方正
無論, マ リアと同時代 の もの とされ る画像 はすべて現
教会で は 7月2
5日)がカ トリック教会の公式の祝 日になっ
存 しない。現在,最古 の画像 と考 え られ て い る もの は,
ている。
三世紀 頃, ローマのカタコンベ内 に措かれた壁画 のそれ
中世 に執 り成 しの職務 を担 当す る聖 ア ンナへの崇敬が
であ り,後 に Or
ans型 と呼 ばれ た, 両手 を開 いて上 げ
いか に高 まっていたかを示す次 のよ うな有名 な逸話があ
た祈祷姿勢型 の ものである。5世紀以降 にな る と, 神 の
る。老境 の M.
Lut
he
r(
1
4
8
3-1
5
4
6
)は,彼 が修道 院 に
母 と して上智 の座 (ソロモ ンの王座) に着 く,威厳 に満
入 った ことを記念す る日に, テーブルを囲む友人達 に次
ちたマ リアの座像 も描かれて くる。
のよ うに語 った とい う。修道院 に入 る二週間 はど前,徒
しか し,画像 の発展史 は決 して単純 な もので はなか っ
歩旅行 の途 中,害 に打 たれて思 わず,「聖 ア ンナ様, 助
た。 8世紀 にな ると,聖画像 の崇敬 を偶像崇拝 とみなす
けて ください。私 は修道士 にな ります。」 と叫 ん だ とい
画像破壊運動 (
i
c
onoc
l
as
m) が東 ロー マ帝 国 を中心 に
うのである。無論, ア ンナはマ リアの母であ ると信 じら
勃発 し,約一世紀以上 にわた って荒れ狂 い, やがて,敬
れていたために, このよ うに祈 られたのであ る。 もっと
会 を東西 に分離 させ る原 因 の一 つ を残 して終 息 す る1
0
)
0
もル ターは この修 道 院 に入 る誓約 をす ぐに後悔 して い
以後, マ リア像が聖母子像 を中心 に,独 自な展開を見せ
る5)。
て くるのは東方正教会 においてである。すなわち,① マ
ル ターは処女 マ リアに対 して は, ほとん ど中世 的 とも
リアと同時代 の肖像画 と言 われ るもの (
全 く現存せず),
言 え る敬度 の念 を抱 いていた。彼 は, マ リアの偉大 さは
② ローマのカ タコンベの壁 に描 か れ た もの (
Or
ans 型
彼女 が神か らの恩寵 を謙虚 に受 け入 れた点 にあると述べ,
の もの),③神 の母 と して上 智 の座 に着 くもの (
座像)
その信仰 を讃 えて い る。象徴 的な意味 においてマ リアが
な どを基 に して,東方世界 に,多 くの聖母子像 が措かれ
最初 のキ リス ト教徒 であ った とい うことはあ り得 るとし
て くるのであ る。やがて聖母子 「イコ ン」 の成立であ っ
て も, マ リアにその よ うな特別 の恩恵が与え られたのは,
た。
イエス ・キ リス トの恵 み によるものであ って,彼女 に何
何 を措 くイ コンであれ,一般 に,東方正教会 の世界 に
らかの功績 があ ったか らで はない とい うのがル ターのマ
描 かれ るイコ ンの数 や種類 は極 めて多 い。 しか し, イ コ
リア観 であ った6
)
。
ン表現 には, あ る程度 の 「
かたち」が定 まっている。従 っ
ともあれ,聖母 が昇天 して, その姿 が見 えな くなるに
て,変化 (
var
i
at
i
on) はあ って も, そ の中 に はいっ も
つれて, この見 えない ものを見 え るもの と して留 めたい
pr
ot
ot
ype
) が留 め られている1
1
)
。 それ故,
基本 の原型 (
とい う願望 もます ます強 くな って くる。事実,今 日まで
無数 に存在す る聖母子像 イ コンの中か らさえ,次 の四つ
に措 かれて きたマ リア像 の数 は, おそ らく, キ リス ト像
の基本型 を区別す ることが出来 る。
に次 いで多 いと言 え るだろ う。教会 の伝承 によれば,壁
①. Bl
ac
he
r
ni
t
i
s
s
a型
母子 の像を最初 に措 いたのは福音書記者 のルカであ った
これ は コ ンス タ ンテ ィ ノ ポ リス に あ る古 代 の
とい う。 ルカは聖母 の昇天後,記憶 に頼 ってその姿 を描
Bl
akhe
r
nae寺院 に由来す る名 称 で, 上 に言 及 した
いたが, その時,聖母 自身が姿 を現 し, その画像 を見て
Or
ans型 はこれの一種 であ り,一般 的 には聖母が両
ルカを祝福 した とい うので あ る。 この聖母 子 像 は後 に
at
y手 を上 げて祈 りを捧 げ る立像であ る。 また,Pl
「
hode
ge
t
r
i
aの聖母」 と呼 ばれ るよ うにな った タイ プの
造物主 を胎 内 に宿 す か ら天 よ り も 「幅広
t
e
r
a型 (
ものであ った とい う7
)
。無論, この画像 は残 っていない。
い者」 の意味) と呼ばれ る 「印の聖母」 には, その
しか し, おそ らく, このよ うな伝承 は, マ リアとい う女
胸前 の円形 内 (
Me
dal
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on) に幼児 キ リス ト ・イ ン
性が,①何 よ りも先ず神 の救 いの出来事 に結 び付 いた女
マヌエルの像が措かれ, この幼児 は,聖母 と同様 に
性 であ り,②従 って, その姿 はただ信仰 の光 の中でのみ
両手 を差 し上 げているか, または,右手 を上 げて祝
真実 に理解 され るものである, とい う初期 のキ リス ト者
福 を祈 り,左手 に巻物 (
聖書)を持 った姿 で描 か れ
達 のマ リア理解 を示 す ものであろう8
)
。
ている。
聖母 の像 に関 して も, 当然 の ことなが ら,「アケ イ ロ
ポイエー トス」的な伝承 が多 く残 され て い る。 例 え ば,
-6
0-
②. Ho
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名称 は 「道 を導 く者」 (
導 引女) の意味を持っが,
Akita University
持 田 :イコンのキ リス ト教史的意義
その名 の由来 は不明。一般 には, 右手 を胸 に置 き,
り開 くこともな く, また, そ うす る ことによ って,宗教
左腕で幼児 を抱 く立像 として描 かれ る。幼児 は右手
か ら人間性 を解放す ることもなか った。西方世界 が体験
を上 げて祝福 し,左手 に律法 の書物 (
聖書) を持 っ
し得 たよ うなルネサ ンスを遂に体験す ることが出来なか っ
ている。 この型 のイ コンは,単 にイ タ リアばか りで
たのであ る。
しか し,正教 の人 々には,例 えば,聖母 のイ コンとい
な く広 く世界 に普及 して,聖母子像 として は最 も数
う 「窓」 を通 して, その向 こうには常 に聖母 が臨在 して
多 く措 かれている。
③. Ni
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a型
い るか ら, イ コンの前 に祈 る時, その祈 りは,その 「
窓」
「上智 の座」 (ソロモ ンの王座) にマ リアが正面 向
(イ コ ン) を通 して真 の聖母 にまで 聞 き届 け られ る と信
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きに座 る 「玉 座 の聖 母 」 (
じられている。 そのため, イ コンは教会 や家庭 の内部 の
の図柄であ る。幼児 はその中央 に,膝の上に抱かれ,
至 る所 に飾 られ,道路 や旅行 カバ ンの中にす ら置かれて,
右手で祝福 を表現 している。 その左右 には天使 が両
絶 えず祈 られ るのであ る。
手 をⅩ字型 に胸 を押 さえて聖母子 に礼 拝 して い る。
従 って,東方正教会 の場合,見えな い もの (
例 え ば,
エペ ソ総会議 (
4
31)以後, テオ トコスの象徴 と し
天 のマ リア)が, ある時あ る場所 に,突然見え るもの と
て普及 し,7世紀頃キ プロス島か らギ リシアに移入
して神秘的 に, あ るいは,奇跡的 に出現す るな どとい う
された構図が この型 の代表的な ものであ る。
必要 はない。聖母 に執 り成 し (
転達) を懇願す る場合 に
イ コンの場合,座像 は原則 と してキ リス トと四福
は,聖母 のイ コンに向か って祈 れば よいか らである。 そ
うすれば,聖母 の執 り成 しは, この イコンという 「
導管」
音書記者 の使徒だ けに限 られてい る。 この 「キ リス
トを抱 く生神女」 のマ リア像 は特別な座像であって,
を通 して現れて くる。 イ コ ンにまつわ る奇跡的 な物語 が
神 を生んだ ことによ り, マ リア自身が この世 で は神
語 られ, しば しば, さなが らイ コンその ものに奇蹟 を引
が初 めて座 した所であるとい う考 え を示 して い る。
き起 こす力が存在す るかの ごと く喧 伝 され て い るの は,
マ リアの座像 は, キ リス トが神であ り, その神 の母
まさに この理 由による。 イ コンが奇蹟 を起 こ した とい う
がマ リアであ ることを意味 しているのである。
話 は,崇敬 され る有名 なイ コ ンになればな るほど多 く語
④. El
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a型
られて きた。 む しろ,奇蹟 を起 こした ことによ って, そ
聖母 が幼児 に頬ず りしてい る図柄 であ り, これ は
れ は, よ り多 く崇敬 され,有名 にな った とも言 え る。 し
「慈愛 の聖母」 (
慈 しみの生神女) と呼ばれて,後世
か し,措 かれた ものは,見 えない ものその ものではな く,
に盛 んにな った。11
世紀頃, ビザ ンテ ィン美術 にお
見 えない ものの写 しに過 ぎない。従 って, イ コ ンへの こ
いて成立 した と考え られて いるが, ホデゲ トリアの
のよ うな崇敬 (
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A
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) は, 版 木 や絵 の具 に捧 げ
聖母 と共 に,西欧絵画 に形 を変 えて登場 す る聖母子
られ るわけで はな く, そのイコ ンが象徴す るところの も
像 の基 にな った もので ある。 モスクワの トレチ ャコ
のに捧 げ られ るのであ る。要す るに, イ コ ンに向 け られ
フ美術館が所蔵 す る 「
Vl
adi
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rの生 神 女」が これ
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ype
) に捧 げ られ るので
る崇敬 は, それの原像 (
の代表作品 にな って いる1
㌔
あ る。東方正教会 の信仰 によれば, イ コンは恩寵 の働 く
場所 なのであ るか ら。
東方正教会 の信仰 によれば, このよ うな画像 は, イ コ
ンと して,単 な る聖画で はな く,信仰 の中心 的教理 (
見
イ コンを所有す る東方正教 の世界 は, まさにイコンと
えない もの) を見 え るよ うに表現す る もの とみな されて
い う信仰 の倫理 的な 「装置」 を持つ ことによって,見え
いる。 だか ら, イ コンは礼拝 の不可欠な部分を構成す る。
ない ものが不意 に見 え るもの と して 出現 した とい う 「
奇
す なわち, イ コンは正教会 の礼拝 の文脈 においてのみ完
蹟」 を語 る必要 はな く,従 って,例 えば 「マ リアの出現」
全 に正 しく理解 され得 る ものなのである。従 って,現在,
な どとい う奇跡的な出来事 によって,近代 の科学的理性
イ コンは① 「
天上 の国 と地上 の国 との間の窓」 とか,②
か ら疑惑 や軽蔑 な どの目を もって非難 された り,無祝 さ
「
絶対者 に向 けて開かれた窓」 とか, ③ 「天 国 を映 し出
れた りす ることか らも免 れ得 て きた。東方正教 の世界 に
す鏡」 な どと定義 されて いる。正教 会 の信仰 に従 え ば,
あ って は, イ コンとい う信仰 の装置が機能す る生活空間
真 にイ コ ンは 「
恩寵 が臨在す る場所」 であ り,救 いとい
において,初 めて道徳的,宗教的な人生 が展開 し得 ると
う永遠 の真理 の 「
導管」 なのであ る1
3
)
。
も言 え るのであ って, このよ うな点 に こそ, イ コンの宗
教史的な意義 の一つを見て取 ることが出来 るので はなか
東方 のキ リス ト教世界 は,画像 の存在 その ものに対 し
ろ うか。
て, このよ うに高度 な宗教 的意味 を付与 して しま ったた
なお, イ コンは祝祭 日において も,欠かせない もの と
め に, その後 の画像 の歴 史 の展 開 を, 総 じて言 え ば,
「
美術史」 その ものの発展 を極 めて保 守 的 な もの に して
な って いるが,東方正教会が,現在,十二大祭 と して重
い く。画像 は,信仰 か ら解放 されて独 自な美 の世界 を切
視 して いる祭 りの うち, 四つ の大祭 まで もが聖母 (
生神
6
1
Akita University
女)マ リアに関す る ものであ る。 (
生神女誕生祭 :
9月2
1
歴史 にお ける a
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tか ら r
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tへの展開, すなわち 「美
日,生神女進掌祭 :1
2
月 4日,生神女福音祭 :
4月 7日,
術」 の成立 であ った。 ここに至れば,初 めて措 く者 の誰
8日)1㌔ この事実 を見て も,聖 母 マ
生神女就寝祭 :8月2
であるかが問われて こよ う。誰 の求 める美がそ こに措 か
リアが, そ して, そのイ コンが,東方 のキ リス ト教信仰
れているかが問題 になろ うか らである。 こうして,作品
においては, いか に重要 な位置 を占めてい るかが理解 さ
内部 に作者 の署名が現れ,作者 の 「
個性」が主張 されて,
れ るだろ う。
近代 の 「
画家」 が誕生す る。 それ は,す なわち,西洋近
代 におけるルネサ ンスの展開で もあ った。絵画 がやがて
3
宗教的な題材 を離 れて,静物画や風景画 な どが現 れ るの
も, ち ょうどこの頃であ り,言 うまで もな く,遠近法が
他方,画像 をイ コンとして は決 して崇敬 して こなか っ
た西方 カ トリック教会 の世界 には, この突然 の奇蹟的な
研究 されて,平面画か ら立体画- と移行す るの もち ょう
どこの時代であ った1
7
)
。
「マ リア出現」が数多 く報告 されてい る。 とりわけ,1
83
0
同時 に,聖母子像 も著 しく人間化す る。光 とな って神
年代か ら1
930年代 に至 る百年 間 は 「
偉大 なマ リア出現 の
の霊 が働 くことを意味す る光輪が消 えて,聖母 も幼児 も
世紀 」(
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「ただの人」 とな った。 た とえ この母 と子 が美 の イデ ア
呼ばれ,移 しい数 の 「
聖母 出現」 をみた世紀であった1
5
)
。
を群 を抜 いて表現す るものであるとして も, もはや,画
事実,1
8
30年か ら1
9
67
年 までの1
37
年 間 に, 世 界各地 の
面 に遊ぶ母 と子 は完全 に現実 の人間 で あ るにす ぎな い。
司教 区委員会の検討 に委 ね られた 「
聖母 出現」 の件数だ
そ こに恩寵 が臨在す る神秘 な姿 を見て取 ることは出来 な
87
件 に達 し, その うち11
件が正式 に教会 の許可
けで も 1
い。聖母 は豊かな肉感的な肉体 を持 ち,母親 に戯 れ る幼
を得 て,聖母巡礼地 の資格 を獲得 しているとい う1
6
)
。
児 は裸体 のまま可愛 い性器 まで も曝 け出 して いる。
.しか
なぜ西方 カ トリックの世界 に, このよ うな現象が生 じ
たので あろ うか。
無論,すで に見て きたよ うに,西方世界 にイ コン崇敬
のメカニズムは働 いていない。西方 カ トリック教 会 は,
も, その母 と子 の姿 は田園や山岳 の風景 を遠 い背景 とす
る遠近法 によ って,見 る者 の 目に力強 く迫 って来 る。 こ
のよ うな聖母子像が好 んで描 かれ るよ うにな ったのであ
る。
確 か に, 東 ローマ皇 帝 に よ る画像 破壊 (
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無論, このよ うな近代絵画 の聖母子像 な どに神への執
運動 には,東方 ギ リシア正教会 と共 に反対 した。 しか し,
り成 しを祈 ることは出来 ない。 しか し,祈 れば応えて く
西方 は,東方 と異 な り,画像 が公認 された後 も,決 して,
れたあの画像 の中の聖母子 は一体 どこへ行 って しまった
画像 に神秘的な高度の宗教的意義を付与することはなか っ
のだろ うか。
たので ある。画像 に関 しては,当時,未だ識字率の低かっ
聖母子画像 の世俗化 によって人間化 して きたマ リア像
た一般民衆 にキ リス ト教 の真理 を宣教す るための教育的
に, もはや執 り成 しの機能 はない。 マ リアは画像 とい う
な手段 としてのみ, その効用を認 めて いた にす ぎな い。
出現 の 「
導管」 や働 きの 「
場所」 を喪失 したので あ る。
言葉 による宣教 よ りも,絵画的な視覚 に訴 え る宣教 に こ
それ故,今度 はマ リア自身が特定 の時間,特定 の場所 に
そ, よ り一層 の効果が期待 で きると考 え られていたか ら
出現せ ざ るを得 な くな る。事実, マ リア像 の世俗化が進
であろ う。
展す る中世末期か らルネサ ンスにか けて も, 西洋 で は,
しか し, この西方教会が恩寵 の臨在す る場所 と して画
一時,「マ リア出現 ブーム」 が起 こって い る1
㌔ 無 論,
像 を崇敬す るとい う東方正教会 のイコ ンに与 えた信仰 の
この場合 に も,聖母 自身が 自 らの意志 によ って現 われた
メカニズムを認 めなか った ことが,後 の東西両教会 の分
のであ って,古代か らの 「アケイ ロポイェ- トス」 の論
離 (
1
05
4) の遠因 の一つ にな ってい く。更 にまた,西方
理 は充分 に働 いていた。
1
9
世紀 か ら2
0
世紀 にか けて は,政治史的 には,革命 の
で は, やがて,聖書 が各国の 自国語 に翻訳 され,印刷機
の発明な どによって,母国語で読め る聖書が普及す ると
時代,す なわち,宗教史的 には,無 神論 の時代 で あ る。
共 に,E
g語 による文学運動 な ども盛 ん にな るにつ れて,
ち ょうどこの時 期 に, カ トリック教 会 の西方 世 界 に は
画像 の持っ宣教 のための教育 的な効力が著 しく減少 して
「マ リアの世紀」が展開す る。奇蹟 的 な聖 母 の突然 の出
い った。 このため,画像 は宗教 的役割か ら自己を解放 し,
現 が,爆発 的な人気 を博 し,多 くの巡礼地 を作 り出す の
画像独 自な 目的を追求せざ るを得 な くな る。 す なわ ち,
であ る (
次表 を参照)
。例 えば, ルル ドの場合, わずか 1
美 その もの (
美 のイデア) の追求であ る。 た とえ聖書 や
世紀半近 くの間 に, メ ッカが1
3世紀以上 もの長 い間,引
聖伝 に題材 を取 ろ うとも, そ こに目指 され るものは, ら
き付 けて きた巡礼者数 の更 に二倍 もの巡礼者 を引 き寄せ
はやキ リス ト教 の信仰で もなければ,宣教 に必要 な真理
ているとい う1
9
)
。
で もない。 あ くまで も美 その ものの表現であ る。画像 の
しか も, この 「マ リアの世紀」 の奇蹟的な聖母 出現 に
6
2-
Akita University
持 田 :イコンのキ リス ト教史的意義
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7
8
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7
9
).
は, それ以前 の出現 と比べてい くつかの共通 した特徴を
C.確かに,聖母の出現 その ものが奇蹟 とみな されて
見て とることが出来 るのである。以下, それ らについて
いたが, しか し,単 にそれだけではな く,出現 の結果 と
少 しまとめてお くことに しよう。
して生 じた事柄なども多 く奇蹟 として報告 されて い る。
a.以前 にマ リアの出現 を報告 した人々は, 主 と して
そ して, それに対 して感謝 を捧 げた人 々 もまた,彼 らの
高 い身分や地位 にあった聖人や神学者達であった。 マ リ
大部分が無学 な貧 しい人達であった。事実, ファテ ィマ
アは宗教上 の職業人に自己を啓示 していたのである。従 っ
の聖処女 に捧 げ物 を行 な ったのは 「日雇い雑役婦,給仕,
て, その出現 はもっぱ ら専門的,宗教的な ものであ った
若者,老人,金持 ち,貧乏人 など, あ らゆる種類 の人々
と 言 え よ う2
0
)
。
であったが, しか し,彼等 の大部分 は卑 しい (
humbl
e)
しか し,「マ リアの世紀」 の期間中 に, 聖処女 が現 れ
た膨大な数の人々は,決 して宗教上のエ リ一 卜達 の仲間
者達であ り,裸足 (
bar
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) であ り,労働者 とその家
)
0
族 と」であ った とい う21
ではな く,全 く世俗の人 々であ り, 田舎の無学 な人 々で
そ して,例えば,1
5
31
年 に, グァダルーペに出現 した
あ った。 しか も,子供達である場合が圧倒的 に多 い。例
マ リアは,彼女が,土着 の人 々や, この地 ばか りでな く
えば,1
8
5
8
年か らルル ドに聖母が現れたのは,ベルナデッ
至 る所で弾圧 されていた人々 と同一視 された ことによっ
4歳の田舎娘に対 してであり,1
91
7
年か ら始まっ
タとい う1
て (
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h)「メキ シコの母」 と呼
た ファテ ィマの聖母出現 は1
0
歳か ら1
3
歳 までの三人の無
ばれ,「メキシコ国家の シンボル」 と もな った。 マ リア
学 な子供達 に対 してであ った。
の出現 は 「階級闘争」 のテキス トブックに近 い事例 を反
b.無論, 出現 の報告が虚実取 り混ぜた移 しい数 の も
映 していたのである2
2
)
0
のであるか ら一概 には断定で きないのであるが,先ず大
聖母 の出現を目撃 した人々やそれに感謝 を捧 げた人々
抵の場合, マ リアは単身で現れている。その胸 に幼児 キ
が このように教会の外 にいた人々であ ったために,教会
リス トを抱 いていないのである。「独 りの女 が太陽 を身
of
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dgeが これ らの出現 に公式 の認可 (
にまとい,月を足の下 に して,十二 の星 の冠を被 ってい
me
nt
) を与えた経緯 には複雑 な ものが あ り, 現在 もな
た」 とい うヨハネ黙示録 (
1
2:
1
)の記述が,出現 マ リア像
お,認可 を得ていない 「
聖母 出現」 も数多 く存在 す る。
の一つの典型的な姿を形成 していたよ うに思われる。
しか し,個 々の事例 の真偽 はともか くとして, カ トリッ
幼児を抱かず,処女 の純潔性 のみが強調 されたマ リア
ク教会 も, このよ うな聖処女 マ リアに関す る世界 的 な
に, もはや人間的な母親 らしい慈愛 に満 ちた容貌を感 じ
関心の高 まりそれ 自体 を無視 す ることは出来ず, 近代
取 ることは困難のようである。
にな ってか ら三つの最 も重要 な 「
新 しい」教義を確立 し
- 63 一
Akita University
てい る。 そ して, それ らの うちの二つ まで もが直接,処
ことによ って, 当時台頭 しつつあ った革命勢力 と しての
女 マ リアに関係す る教義 であ った。すなわち,① 「
処女
民衆 に対す るア- ンとしての役割を果た した出来事であっ
マ リアは懐胎 の最初 の瞬間 において,人類 の救 い主 キ リ
た。 それ故,教会 が これ らの出現 に対 して与 えた権威 や
ス ト・イエスの徳 を考慮 して,全能 の神 の特別 な恩寵 と
特恵 は,科学 や教育 が行 き渡 った時 には霧消 して しまう
特恵 とによ り,原罪 のあ らゆ る汚 れに も染 まず保 たれて
よ うな,未 だ啓発 されていない大衆 の打 ち勝 ち難 い無知
いた」 とす る,1
8
5
4年 に出された 「無原罪 の御宿 り」 の
に対 して教会 が行 な った大衆操作 の権力行使 であ る。
教義 (
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hedogma oft
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ともあれ,聖母 出現 の出来事 が 「
階級闘争 のテキス ト
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heVi
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gi
nMar
y)と,② 「永遠 に処女 であ り,無原罪
ブ ックに近 い事例 を反映 した もの」で あ ったか否か は別
であ る神 の母 のマ リアは地上 での生涯 を終 えた後, 肉体
に置 くとして も,事実,例 えば,① J.
S.
Mi
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1
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6-7
3
)
9
5
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と魂 を天 の栄光 の中へ と取 り上 げ られた」
2
3
)
とす る,1
が純愛 を抱 いて,女性 の地位 の向上 を願 いっつ, 『
婦人
年 に出された 「
聖母被昇天」 の教義 (
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hedogmaoft
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の隷従』 を出版 したの は1
8
5
6
年,すなわち, ルル ドの奇
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umpt
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onoft
heVi
r
gi
nMar
y) とであ る。 (
因みに, もう一 つの教義 は,1
87
0年 に第一 回 ヴ ァテ ィ
蹟 の起 きるわずか 2年前 の ことであ った。 また,② ノ ラ
カ ン会議 によ って公布 された ものであ り,③ 「ローマ教
廠 いっつ 「
人形 の家」 を飛 び出 した (
H.
I
bs
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n;Et
duk-
皇 は教 皇 の座 か ら語 る時 - -不可 謬性 (
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y)
を付与 されてい る」とす る 「
教皇不可謬性」の教義 (
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he
ke
hj
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m) の は1
87
9
年, す なわ ち, ボ ンマ ンにお いて聖
2歳 までの子供達 に現 れてか らわずか 8年
母 が 9歳か ら1
dogmaoft
hei
nf
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yort
hepope
) で あ る。 少 な
後 の ことであった。従 って, 時代的 に見て も,聖母 出現
が家庭 の妻であ るよ りも,先ず一人 の人間でありたいと,
8
5
4
年 の行
くとも部分的 には, これ も教皇 ピウスⅨ世 の1
が,男性原理 の社会か ら女性 を解放 す るとい う時代 の要
動 を弁護す るものであ った)2
4
)
。
求 に呼応 して,女性 の人間性復権 に拍車 をか けた出来事
もっとも, これ らの教義 とマ リア出現 との関係 も単純
で はない。教会が必 ず しも常 に後 か ら出現 を認可 して い
であ った ことは否定すべ くもないであろ う。
しか し,聖母 出現 その ものはあ くまで も宗教的な出来
たわけで はな く, その反対 の場合 もあり得たか らである。
事 である。女性解放史や政治経済史 な どの視点 か ら解釈
例えば, ルル ドの場合,幾度かの出現 に出会 った後 に,
す ることも大切 な ことで はあろ うが, ここでは,やはり,
ベルナデ ッタが, その時 まで は単 に代名詞で呼 ばれて い
何 よ りも宗教倫理 的な解釈が,特 にキ リス ト教倫理 的な
たにす ぎない 「あれ」 か ら 「わた しは無原罪 の御宿 りで
解釈 が必要 なので はなかろ うか。 そ して また,原初 のキ
す。」 と告 げ られたのは, この教義が出されてか ら更 に
リス ト教的な視点か ら, とりわ け,聖書的信仰 の視点か
4年後 の1
8
5
8
年 の ことであ った。従 って, 出現が最 も有
ら, この出来事 を眺 め る時, キ リス ト教信仰 の本質 に関
名 にな ったルル ドの場合 には, む しろ,教会 の教義 の正
わ るよ うない くつかの疑問点 もわ き上が って くる。以下,
当性 を世俗 の出現が追認 したかたちにな ってい る。
それ らについて少 し検討 してみよ う。
1
)
.聖書 の信仰 によれば, キ リス トは神 の身分で あ り
4
なが ら, 自分 を無 に して,僕 の身分 になり,へ り下 って,
十字架 の死 に至 るまで従順であ った とい う (ピ リピ2:
6
これ らの聖母 出現 に関す る解釈 あ るいは評価 につ いて
以下)。 そ して, マ リアはその卑 しい僕 の姿 を と って神
も同様 にさまざまであ る。次 にい くつか関心 を惹 いた も
の救 いの計画 に仕 えた救 い主 の母 であ った。従 って,聖
のをまとめてお こう2
5
)
0
書 に登場す るマ リアは, いっ も我 が子 の身 を気遣 うご く
a.聖母 出現 の高 ま りは, キ リス ト教 の成 立以 来, 男
31
-3
5
, 平 行記 事 )
2
6
)
。
普通 の母親で しかない (
マル コ3:
性原理 によって抑圧 され,従属 させ られて きた女性原理
だか らこそ,原初 の信徒 は親 しくマ リアにキ リス トへの
が,男性原理 に対 して復権 を求 めた出来事で あ った。現
執 り成 しを祈 ることが出来 たので ある。 そ こには肉親 に
代 の欧米型思考 は, いま, よ うや く女性性 の復権 を求 め
関わ る同 じ苦 しみや悲 しみに耐 えているとい う共通 の感
てい る。
情 が祈 る者 と祈 られ る者 との間 に流 れていた ことであろ
b.社会主義や無神論 の台頭 して きた世紀 に, キ リス
ト教 の失地挽 回を求 めて引 き起 こされた出来事であった。
う。
しか し, た とえ 目撃者 や巡礼者 が貧 しい者 や卑 しい者
従 って, この出現 の出来事 は,各国の人 々が階級 や地域
達 であ った として も,近代 に出現 したマ リアには, もは
的 ・地方的相違 を克服す るのを助 けることが出来 るシン
や このイエス自身 が示 したよ うな卑賎 さを見て取 ること
ボル,真 に国家的 ・国民的統一 を図 るシンボル とな って
は出来 ない。 ま して,聖処女 として高 く祭 り上 げ られた
い った 。
マ リア, やがて何処 か らともな く,天 の高所か ら悲 しみ
C.宜 しい人 々や卑 しい (
humbl
e
) 人 々 に出現 す る
-6
4
を湛 えなが らもどこか誇 らしげに現 れて来 るマ リア に,
Akita University
持田
イコ ンのキ リス ト教史的意義
聖書 の措 く親 しみやす い庶民的な母性 を見て取 る ことは
を聞 いて回心、
する (
行伝9
:
1
-8
)
。 しか もこの場 合 , ご
更 に困難であろ う。我 が子 の身 が心配 のあま りオ ロオロ
丁寧 に も,行伝記者 はサ ウロか ら三 日間 も視力 を奪 って
と取 り乱す素朴 な市井 の母親 の姿 を見て, その豊 かな母
いる。 ペテロもまた,幻 を見 た ことにな って いるが, し
性愛 に深 い感動 を覚 え るな どとい うことも, もはや不可
か し, そ こで もただ主 の声 が聞 こえただ けであ った (
行
能 に近 いのである。聖書が教 えた 「自分 を空 しく」 して
伝1
0:
9
-1
8
)
。 このよ うな数多 くの事例 は, 聖 書 の世 界
「
重荷 を負 う」すべての人 々に仕 え る とい う, 原 初 の キ
が,信仰 の上か らは,客観性 の強 い視力 よ りも精神性 の
リス ト教 に最 も際立 っていた徹底的な 自己否定 の信仰 は
強 い聴力 に対 して はるか に高 い価値 を認 めていた ことを
(
それ は,単 にキ リス トにばか りでな く, マ リア 自身 に
物語 るもので あろ う。 ここで もまた,我 々は, かつての
も共通 していた はずであるのに), 一 体 ど こへ行 って し
カ トリック教会が視覚的な画像 に対 して は, ただ教育的
ま ったのだ ろ うか。
な効用 のみを認 めていたあの歴史的事実 を思 うべ きであ
2)
.聖書 の信仰 によれば, マ リアが処女 のまま聖霊 に
る。
よ り男 の子を胎内 に宿 したの は, その子が 「い と高 さ者
無論,近代 に出現 したマ リア も多 くの声 を聞かせて く
の子」 であ り 「
偉大 な人 に」 な る子 であ ったか らであ る
れた。 しか し, そ こに居合 わせた人 々の 目を閉 じさせて
:
2
6
-3
8
,平行)。従 って, マ リアの処女性 は決 し
(
ルカ1
はいない。決 して, パ ウロの場合 のよ うに,彼等 の視力
てマ リア自身 に関 して強調 された もので はな く, もっぱ
を奪 って もいない。 む しろ, よ り多 くの巡礼者 を引 き寄
らキ リス ト自身 の神性 を強調す るた めの もので あ った。
せ るべ く,繰 り返 し現れて, 目の不 自由な人 に視力 を回
キ リス トの神性 の体 が宿 る女性で あるか らこそ 「処 女」
復 させて さえいる。 しか し, このよ うな視覚的な限定 を
でなければな らなか ったのであ り, それ以外 に,単 なる
受 けた影像 は,実際の ところ,見えない ものの本当の姿
人間の宿 る身体 が処女 であ る必要 な どは全 くなか ったの
で はないので はないか。 その危供 があ るか らこそ,教会
であ る。事実, マ リアはその後,夫 ヨセ フとの間 におそ
は 「マ リアが肉体 と魂 を天 の栄光 の中へ取 り上げられた」
らく数人 の子供 を もうけている (
マル コ 3
:
3
2
,6:
3
,辛
な どとい う 「
聖母被昇天」の教義を,2
0
世紀 も中葉 になっ
行)
。処女降誕 は, どこまで もキ リス トの神 性 に関 わ る
てなお,教会 の権威 を もって公布 し,聖母 出現 の真実性
出来事 なのであ って, マ リアの 「
永遠 の処女性」 な どに
を補完せ ざるを得 なか ったので はなか ろ うか。
ともあれ, マ リアは出現 を繰 り返す ことによ って,か
関わ る事柄 で は決 してない。無論,処女懐妊 の このよ う
な解釈 は決 してマ リアの偉大 さを旺 め る もので はな く,
え って, ます ます権威的 とな り, その実在性 の影 を薄 く
む しろ, イエスの母 としてのマ リアの偉大 さを示す もの
してい った。 それ はまた, とりもなお さず, マ リアが執
り成 しの働 き (
奉仕機能) を失 って 「
重荷 を負 う」すべ
であろ うに・
-・
・
。
しか し,幼児 のイェスを抱 くこともな く出現 した近代
ての人 々をマ ン トの中に包 み込 む,本来 はキ リス ト自身
のマ リアは, もはや,処女 で はあ って も,母親ではない。
の独 自な機能 であ った 「
救 い」 の働 きを代行 して くる過
従 って,近代 のマ リアは,処女性 や純潔性 を強調 され る
程で もあ った。 そ して, そ の過 程 は, 同時 に, 教 皇 が
ことによ り,かえ ってマ リアに求 め られていた最 も大切
「
神 の代理人」 として,聖母 に代 わ り, 仲介 者 の執 り成
な 「
母親 であ る こと」(
THEOTOKOSで あ る こと, す
しの mi
ni
s
t
r
yを代行 して くる教 皇権 の拡 大 の過程 で も
なわち,我 が子 キ リス トへの執 り成 しを懇願 され るため
あ ったのである。 キ リス ト教会 は, その当初か ら,執 り
の信仰的根拠) を失 って しまったのであ る。大 きなマ ン
成 しの機能 をキ リス トに代 わ って果 たす機関 として成立
トを広 げて,大勢 の悩 め る者 らを包 み込 むマ リアの姿 な
したのであ ったが,教会 がキ リス ト-のマ リアの執 り成
どに も, もはや母 と して子 に執 り成 しをす る姿 を見て取
しを強調すればす るほど, かえ ってそれだけ教会 自体が
ることは困難であろ う。 マ リアにお ける処女性 の強調 は
本来 の執 り成 し機能 を取 り逃が し,教会 の存立根拠 その
同時 に母性 の喪失 で もあ った。無論, マ リアはイェスの
ものまで も喪失 して しまいかねない とい う決定的 に解決
母 であ ったか らこそマ リアで あ った はずである。 しか し,
不能 な自己矛盾 をその内部 に含 みなが ら成立 していた こ
いま我 々は,愛 す る我 が子 を理不尽 に奪 い取 られた母親
とに注 目 しなければな らないで あろ う。 マ リアはいずれ
の悲 しみの声 を聞 くことす らで きない。 マ リアの処女性
執 り成 しの職務 を教会 に譲 り渡 さなければな らない運命
は, その母性 を犠牲 に して まで も強調 されなければな ら
にあ ったのであ る。
ないほど大切 な ものだ ったのであろ うか。
さて,総 じて言 えば,近代 におけ るマ リアの出現 は,
3)
. 聖書 の時代,見 えない ものが 自己を啓示 す る手段
「
永遠 の処女」 などとマ リアの処女 性 や純 潔 性 ばか りが
と して最 も大切 にされたのは聴覚的 な手 段 (
す なわ ち,
強調 されたために, かえ ってマ リアの身体 的,生理 的な
声) であ った。決 して視覚的な もの (
すなわち,姿,形)
ものが遠 ざけ られ, その非身体性 があま りに も強 く主張
で はなか った。例 えば, ダマスコ途上 のサ ウロは主 の声
されす ぎて きた出来事 であ った。す なわち,神 を生 んだ
ー6
5-
Akita University
母 であ った とい うそのマ リアには決定的であ った本来 の
のよ うな一切 の危倶 か らも免れている。西方 カ トリック
母性が失 われて きた出来事であ った。事実,近代 の聖母
教会 のマ リア像が, これか らどのよ うに変化 してい くか
出現 に,①性か らの解放 (
処女懐胎), ② 出産 の苦 しみ
分 か らない。 しか し, これか らも新 しい変化 を求 めて さ
か らの解放 (
無痛分娩) を体現 した理想的な女性 とい う
まざまに動 いてい くことは確かであろ う。他方,聖書 の
マ リア観 を見 て取 る者 さえ も存在す る㌘
)
。
記述 と古代 の聖伝 とを大切 にす る東方正教会 の場合, こ
ともあれ,近代 のマ リアの胸 に もはや幼児 イエスは抱
れか らもイ コ ンに代表 され るよ うなマ リア像 が大 き く変
かれていない。 その胸 の乳房 をまさ ぐる幼児が消え ると
化 してい くことはほとん ど考 え られない。 もしそ うであ
共 に,母 もまた母 であることを止 めた。 (
東方正教会 に
るな らば,西方世界 に見 られたよ うな聖母 の出現 に纏 わ
は 「
Gal
ac
t
ot
r
e
phous
a」 と呼 ばれ る, 我 が子 に母 乳 を
る多種多様 な一切 の難問の発生 を,東方正教会 において
与 え るために乳房 を含 ませて いる 「
授乳 の生神女」 とい
は, これか らもイ コ ンの存在 その ものが阻止 してい くこ
うイ コンす ら存在す る)。 かつてマ リア は常 に母 で あ っ
とは十分 に考 え られ るのであ って,我 々はち ょうどここ
た。 だか ら,常 にその豊 か な胸 に は幼児 が抱 か れて い
にイ コンのキ リス ト教史 的意義 を見て取 ることが出来 る
た。 そ して,母であ ることによって我が子への執 り成 し
のであ る。
を行 な うことが出来 た。 しか し, い ま, このキ リス トの
お
聖性 の呪縛 か らマ リアは自己を解放 して, マ リア独 自の
わ
り に
聖性 を獲得す る。 それ は, マ リアが キ リス トか ら独立 し
なお,本稿 において は, マ リアの出現 に関 して,一切
て真 にマ リアと して崇拝 され るよ うにな った (
マ リアへ
の信仰が純化 された) と言 えな くもないだろう。 しか し,
その報告 の真偽や正誤 な どを問 うことはなか った。 それ
崇拝 され るの は, どこまで もマ リアの処女性 (
純 潔性 )
は, すで に見て きた 「
倫理 的実在論」 の立場 に立っか ぎ
であ って,決 して救 い主 の母親 た る女性 と してのマ リア
り自明の ことであ ったか らであ る2
8
)
。
しか し,本稿 の立場 をよ り明確 にす るために,倫理的
その人で もなければ, マ リア自身 の他 に類 を見 ない愛情
の溢 れ る母性で もない。 ま して我が子 を誰 よ りも慈 しみ
実在論 の考 え方 を,最後 に もう一度 (その要 点 のみ を)
なが らも, その子 の死 の現実 に打 ちのめ されて悲嘆 に く
確認 してお こう。
れ る現実 の母親 としてのマ リアで はない。不条理 な我 が
聖母 マ リアが本 当に出現 したか否か は,実際のところ,
子 の死 に身をよ じって嘆 き悲 しんだ あの母親 の悲痛 な泣
分か らない。 しか し, そのよ うな ことは分 か らな くてよ
き声 を,現代 の我 々が もう耳 にす る ことはない。最 も深
い。 また,分か る必要 もない。仮 に歴史的考察 が真実か
い人間的な悲 しみの体験 に耐 え得 た母親であ ったか らこ
否 かを明 らか に出来 なか った と して も, それ によ ってマ
そ,初 めて同 じ人間 と して同 じ悲 しみに耐 えて きた人 々
リアの出現 を体験 した人 々の信仰 が揺 らぐことはないだ
には, その共感 に基づ いて,聖母 にキ リス トの救 いへの
ろ う。 この信仰が働 かな くな るとい うこと もあ るまい。
執 り成 しを心底か ら祈 ることが出来 たので はなか ったの
ここで本 当に問題 なのは,歴史的思惟 による過去 の出来
か。
事 の確認 で はないか らで ある。 マ リアの出現 が歴史的な
マ リアの存在意義 は, キ リス ト- の執 り成 しよ りも,
事実であ ったか どうか と問 うことは意味のない ことであ
人 々の救 い とい うことに強調点が置かれ るよ うにな って
る。 それ は,神 の子 の受肉やキ リス トの復活 を歴史 的な
著 しく変化 し, 同時 に, マ リア自身 がキ リス ト・イェス
出来事 であ ったか どうか と問 うことと全 く同様 の ことな
か ら離 れて,一個 の抽象 的な位格 (
pe
r
s
ona) と して独
のであ る。我 々はかってそのよ うな ことを信 じた人 々が
立す るよ うにな った。今で は,古来 キ リス ト教 が大切 に
現実 に存在 した とい う事実 を確認すれば, それで足 りよ
して きた三つの位格 (
父 ・子 ・聖霊) に, もう一つの位
う。 そ して, そのよ うな信仰が どのよ うな生 き方 を可能
格 が加 わ ったかのよ うな感 さえある。 キ リス トが近代 に
に したか, また, その生 き方 はどのよ うな文化 を形成 し
な ってよ うや く母親 か ら乳離 れ した とも言えな くはない。
得 たか, そ う問わなければな らない。 ここで は常 に倫理
しか し, このよ うなマ リア観 の独立 は,かえ って従来 の
的理性 が歴史的理性 に優位 しなければな らないのである。
「イエス ・キ リス ト教」 に対 して 「マ リア ・キ リス ト教」
キ リス トの復活やマ リアの出現 な どとい う完全 に信仰上
の新 しい成立 を促す よ うな結果 を誘発す ることはないの
の内容が,歴史的な事実であ ったか否か と, その真偽 や
であろ うか。
正誤 を客観的 に判定す るよ うな努力 は空 しいものであり,
つ ま らない ものであろ う。我 々に と って大切 な ことは,
他方, すで に見 たよ うに,東方正教会 の場合, イ コン
とい う仲保手段 を早 くか ら確立 し, これを頑 なに保守 し
先ず, そのよ うな信仰 の真実 の有 り様 を しっか りと把握
て きた ことによ り,聖母 (
生神女) マ リアが処女 マ リア
したその上 で, それ らが どのよ うな人間の意志決定 の根
に変質す ることはな く, どこまで も生神女 と して,上記
拠 と して (あるいは,意志 を突 き動 かす原理 と して)働
6
6
Akita University
持田 イコンのキリスト教史的意義
8
) マ リア ・ジョヴァンナ ・ムジ著 『美 と信仰』,大森正樹訳,
いて きたか を, また, どの よ うな文 化 を形 成 す る原動 力
9
9
4
,4
0
貢。
新世社,1
と して作 用 して きたか を,決 して歴 史事 実 的 な問 い と し
9) クル ト・フラッシュ著 『イコン』,三彩社,昭和41
,2
9
頁。
てで はな く, ど こまで も実践 倫理 的 な問 い と して考 えて
その他,前掲書などを参照。
い くことで な けれ ば な らな いで あ ろ う。 それ が, 本稿 に
採用 されて きた 「
倫 理 的実在 論 」 の立場 で あ った。
1
0) この間の詳細な事情に関 しては,拙稿 「イコンの美術史
3集,参照。
的意義」
,秋田大学教育学部研究紀要第5
と もあれ, 本 稿 は, キ ル ケ ゴール の 『哲学 的断片 へ の
完結 的 ・非学 問的 な後書 き』 に展 開 され た キ リス ト教観
ll
) 高橋保行著 『イコンのあゆみ』
,春秋社 , 1
9
9
0, 1
0
4頁以
下。
に ヒン トを得 て始 め られ た。 い ま, 本稿 は上 記 の よ うな
「
倫理 的実在論 へ の非 完結 的 ・非学 問的な前書 き」を もっ
1
2
) 高橋保行者 『イコンのあゆみ』
,前掲書,1
0
4貢以下。 同
9
9
2
,1
0
0 頁以下。 プラッ
著 『イコンのかたち』
,春秋社,1
て終 わ る ことにな る。
8頁以下。 ムジ著, 前掲書,3
9貢以下。
シュ著,前掲書,2
[
追 記 ] 前 回 の拙 稿 「イ コ ンの美術 史 的 意 義 」 の抜 刷
9
9
0.
柳宗玄 ・森義宗編 『キ リス ト教美術図』,吉川弘文館,1
一部 を 旧来 の知 友 の一 人 に差 し上 げた と ころ, 大 変好意
頁以下。The
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okosA The
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ogi
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alEnc
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1
5
9
的 な ご批 評 を頂戴 したが, そ の最 後 に, イ コ ンは, 優 れ
l
,C.S.
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y,byMi
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hae
lO'
Car
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て宗教 史 的 な現実 な ので あ るか ら, 何 よ りも先 ず 「イ コ
Sp.
,Mi
nne
s
ot
a,1
9
9
0.P.
1
7
6以下などを参照。
ンの宗教 史 的意義 」 につ いて書 くべ きで あ ろ うとの厳 し
1
3
) 拙稿 「イコンの美術史的意義」
,前掲書。
い ご指摘 を受 けた。 本小論 が ど うにか成 った の も, 実 は
1
4) 高井寿雄著 『ギ リシア正教入門』,教文館,1
9
8
0
,1
1
6貢
以下。
この ご教 示 によ る。 こ こに付 記 して感謝 の意 を表 したい。
しか し, 本稿 が末 だ形 を成 す前 に, 畏 友 は他 界 した。 あ
1
5) Jar
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たか も襖 を閉 めて隣 の部 屋 へ消 えて い くか の よ うに静 か
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に逝 った とい う。 暗然。 今 はただ,畏 友 に残 され た時 間
Pr
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s
s,Ne
w Hav
e
nandLondon,1
9
9
6.P.
1
7
8
1
7
9.
内 に約束 を果 た し得 なか った筆者 の怠慢 に寛 恕 を請 うと
共 に御 冥福 を祈 るのみで あ る。
1
6
) シルヴィ ・バルネイ著 『マ リアの出現』,近藤真理訳,せ
9
9
6.1
5
4頁。
りか書房,1
合掌。
1
7
) 拙稿 「イコンの美術史的意義」
,前掲書,参照。
註
1
8
) バルネイ著,前掲書,1
8
3頁。
1
9
) ∫.
Pe
l
i
kan;Op.
°
i
t
.
,P.
1
8
5.
1
) 拙稿 「
実存主義 とその倫理観」(
大島康正編 『
倫理学の歩
1
4
頁以下)を参照。
み』
,有信堂,所収,1
2) 拙稿 「アケイロポイエー トスのキ リス ト像」
,秋田大学教
9
集,参照。
育学部研究紀要第4
°
i
t
.
,P,
1
7
9.
2
0
) Op.
1
) Op.
°
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.
,P.
1
8
0.
2
°
i
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.
,P.
1
81-1
8
2.
2
2
) Op.
2
3
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s,1
9
5
9.
(
Munl
f
l
C
e
nt
i
s
s
i
musDe
us,1
9
5
0.
)
4) 殉教者 のキ リス ト教倫理史上 の役割 に関 して は, 拙稿
°
i
t
.
,P.
1
8
2-1
8
3.
2
4) Op.
「
殉教者宗教 としてのキ リス ト教」
,秋田大学教育学部研究紀
2
5
) 以下の記述 は,バルネイ著,前掲書。関-敏著 『聖母の
3
集,及び 「
殉教の 「キ リス ト論」
」
,同第3
5
集,など蚤
要第3
9
9
3。 石井美樹子
出現』
, 日本エディタースクール出版部,1
参照。
9
8
8
。∫.Pe
l
i
kan,
Op.
c
i
t
‥
著 『
聖母マ リアの謎』
,白水社,1
5) フリーデ ンタール 『
マルティン・ルターの生涯』
,笠利尚 ・
1
,3
8&5
9
6
0
頁。
他二名訳,新潮社,昭和5
などに依 る。
2
6) また,拙稿 「キ リス ト教における女性的なもの」,秋田大
6
) R.R.リューサー 『マ リア』,加納孝代訳,新教出版社,
1
9
8
3,1
1
6
1
1
7
貢。
7
) 鐸木道剛 ・定村忠士著 『イコン』,毎 日新聞社,1
9
9
3
,6
9
9
8
9
,参照。
学一般教育総合科 目研究紀要,科学論 Ⅰ,1
2
7
) 関-敏著,前掲書,2
45
頁以下,参照。
2
8
) 拙稿 「イコンの美術史的意義」,前掲書参照。
頁以下。
(
1
9
9
8.7.2
5
)
6
7-