大分県歴史散歩 - ふるさとの駅

各駅停車・大分県歴史散歩
ふるさとの駅
(21)バス路線
円座、安心院、青の洞門、守実
初版:2007 年 7 月 20 日
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.2
バス路線 (20) 円座・竜岩寺
石橋と木仏の院内谷
●この電子ブック「ふる
さとの駅」=各駅停車・
大分県歴史散歩は、昭和
58(1983) 年 7 月 20 日か
ら翌年の 1 月 28 日まで
の約半年間、115 回にわ
たり大分合同新聞に連載
されたものです。25 年
後の今年、電子ブックと
して復刻しました。
したがって記事中の
「いま」や「現在」は 25
年前の状況を示してお
り、その後駅名の変更や
路線の廃止などもありま
すが、当時を思い浮かべ
ながらお読みいただきお
楽しみください。
▲
96
竜岩寺の奥の院
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.3
■恵良川と津房川
宇佐市から駅館川をさかのぼった上流の山間部が
宇佐郡。ここに院内、
安心院という二つの町があり、
宇佐平野に対して宇佐山郷と称されている。
駅館川は山郷に入ったところで二つにわかれ、恵
<メモ>周囲にある名所旧跡等
◇宇佐市四日市バスターミナルから両川小学校前
(鳥居橋)8 キロ、
円座 11.5 キロ。円座から高橋(富
士見橋)6 キロ、竜岩寺入口 10 キロ(徒歩 0.8 キ
ロ)
、定別当 13.5 キロ(岳切までさらに 3 キロ)
、
大谷渓谷入口 20.5 キロ、
西椎屋の滝入口 21 キロ
(さ
らに 0.5 キロ)
良川、津房川と名を変える。恵良川は院内町を南か
ら北へと貫流し、峡谷状となっているため、同町は
間に立地しているためだが、特徴は石造の
院内谷と呼びならわされる。一方、津房川は安心院
アーチ橋がたくさんあることだ。
町の中心部に安心院盆地を形成している。
大分県は日本でもっとも石橋の多いとこ
山郷の交通拠点の一つが院内町の円座だった。か
ろだが、そのうち院内町だけで約 60 を数
つて日豊本線の豊前善光寺駅から宇佐市四日市を経
える。県下市町村のトップである。その七
由、ここまで日出生鉄道があった。院内の人はここ
割は大正から昭和初期にかけられたもの。
から本支流の谷間の道を歩き、安心院の人は九人ケ
代表的な橋は、鳥居橋(橋長 55 メートル・5 連、
峠を越して盆地に入った。いま、四日市から安心院
大正 5 = 1916 年)と富士見橋(48 メートル・3 連、
へは円座を経由する直通バスがあるが、院内谷の路
大正 14 = 1925 年)だろう。
線はここで乗り換えとなる。そういう点からは、現
鳥居橋について、石橋を研究している田村卓夫氏
在も円座は院内谷の交通の要地といってよかろう。
は「このあたりは谷が深いのでどの橋も脚が長いが、
特に鳥居橋は橋脚が狭く細く造られている。川べに
■ 60 の石造アーチ橋
降りて見上げると巨大なツルの脚のようだ。しかも
院内谷には橋が多い。集落が恵良川はじめ、支流
四つの橋脚がそれぞれ厚さが異なり、五つのアーチ
の高並川、日岳川、院内川、温見川、余川などの谷
も径間がまちまちだ。これは地盤や水流に応じた設
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.4
計上の細かな配慮があってのことだろう」と述べ、
大分県一のスマートな石橋で、どことなく古代ロー
マの水道橋を連想させるという。
きつつ、数キロを歩く人が多い。
滝は落差 83 メートルの西椎屋。日出生台の高原
から落ちる〝大分のフォール・ライン〟の一角で、
九州屈指のものである。山では鹿嵐(かならせ)山。
■渓谷と滝と山と
富士見橋も同様だが、名前もいい。だいたい院内
の谷からは、谷に沿う山の連なりにさえぎられて由
町花ともなる県天然記念物のシャクナゲが群落をな
して自生する。天然記念物といえば、余川のオオサ
ンショウウオが国指定である。
布岳、つまり豊後富士が見えない。ところが、この
橋の場所からは珍しく豊後富士が望めるので富士見
■国重文の三尊と礼堂
なのである。それはともかく、院内谷の石橋のほと
この山水の美しいところに竜岩寺がある。天平
んどは地元の人が架橋の棟梁(とうりょう)になっ
14(746)年に行基によって開かれたという。縁
たという。
なんというすばらしい技術だったことか。
起によると、彼が宇佐八幡に参拝に行く途中、大雨
と同時に、谷々に石橋を次から次へと架けていった
に見舞われたが、神童の案内でここに至り霊木を発
院内の人々の情熱さえうかがえるではないか。
見、それで薬師、阿弥陀、不動の三尊を刻んだという。
橋の数々を訪ねながら、
院内谷を歩くのは楽しい。
三尊は奥の院にある。坐像でいずれも高さ 3 メー
そこは、いわゆる東耶馬渓、椎屋耶馬渓といわれる
トルほど。白木のままで、刀法は大胆ながら巧妙で気
地。石橋の旅のあとは源流部に入って行こう。いた
品がある。それを安置した礼堂もいい。自然の洞穴の
るところに渓谷と滝が姿を見せている。
中に、まるで投げ入れられたような懸崖造り。弘安 9
渓谷では岳切と大谷が有名。谷底が一枚岩ででき
ており、岩盤の上を流れる水はくるぶしをひたす程
度。夏は緑に染まりながら、鳥の声とせせらぎを聞
(1286)年の建造で、三尊とともに国重文である。
なお、院内という地名は、ここが行基開創四九院
の一つだったことに起源するといわれる。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.5
バス路線 (21) 安心院・佐田
「陸行水行」の盆地
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天から降って来たと伝
えられる佐田の京石
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.6
■芦生(あしぶ)の里
安心院氏の悲劇の地という九人ケ峠を越えると家
族旅行村があり、目の前に盆地が広がる。東西、南
てきた話、さらに宇佐の三女神
が産湯につかった井戸が天下っ
たなど七不思議の数々。
北ともそれぞれ2キロ強。大分県下の他の盆地と同
『記紀』はまた、神武、景行
様に、ここも朝霧が名物だ。霧の濃い秋の朝など、
両天皇の事跡を語る。神武天皇
周辺の丘に立つと盆地は湖のように見える。
の東征の途次、宇沙(宇佐)で
事実、盆地は太古に湖だったかもしれない。人々
宇沙郡比古、宇沙郡比売が一柱
が住みつき始めたころは陸化が進んでいたが、湖底平
騰宮を造って食事をたてまつっ
原はまだ湿地が多く、いたるところに芦(あし)が生
た。それが宇佐神宮の八摂社の
えていた・・・と地名起源説話は語る。だから芦生(あ
一つである妻垣八幡だと地元で
しぶ)の里。そのアシブに安心の宇が当てられ、古代
は言う。
の倉院が置かれたことから安心院になったという。
景行天皇が九州親征のおり
このほか、海人族の安曇氏が住みついたからだと
は、神夏磯媛が、菟狭の川上に
か、八幡大神が遊化の途中に安心を得た地、あるい
ある鼻垂という賊について言
は土蜘蛛を退治して人々が安心して住めるように
上、先行した天皇軍の国前臣の
なったからだとか、いろいろな伝説がある。
祖・菟名手らが討つ。菟狭川は
<メモ>周囲にある名所旧跡等
◇安心院まで宇佐市四日市バスターミナルから
15 キロ、立石駅から 16.5 キロ、別府駅からサファ
リ経由 34 キロ。
◇安心院から佐田 4.5 キロ、
楢本 5 キロ、
東椎屋 9.5
キロ、福貴野 12 キロ(京石、石仏、滝などへは
さらに徒歩か車で少々)
。サファリまで別府駅か
ら 18.5 キロ。
駅館川に間違いなかろう。
■さまざまな伝承
こうした話の数々は、安心院盆地の周辺丘陵にた
地名に限らず、安心院には実にたくさんの伝説が
くさんの先史遺跡や古墳のあることを背景としてい
残る。例えば、メンヒルやストンサークルである米
るが、この盆地を中心に、豪族の存在したことは確
神山の立石や、そのふもと佐田の京石が天から降っ
かである。そして松本清張氏は、その小説『陸行水行』
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.7
の舞台にこの地を取り上げ、
『魏志倭人伝』
の不瀰
(ふ
後に侵入した薩摩軍に追われた大友義統が、府内を
み)国をここに比定している。
すててここまで逃げて来たこともある。
江戸時代は領主が次々とかわったり、各藩領に分
■豊かな歴史
歴史時代に入って、ここはますます重要な地に
なったようだ。盆地内および津房、深見、新貝など
轄されるなどしたが、特記されるのは佐田から本草
学者の賀来飛霞、大砲鋳造の賀来惟熊を出したこと
であろう。
の川岸平地に条里制の遺構が見られ、今井には一ノ
坪から八ノ坪までの地名も残る。駅馬制による官道
■スッポンとブドウ
の安覆駅が安西覆駅であり、ここにあったのではな
江戸、明治のころから特産として知られたのが養
いかとはすでに述べた。具体的な道筋はわからない
蚕、畜産だが、特異なものとしてスッポンがある。
が、豊前の宇佐駅と豊後の長湯駅(別府市)や由布
木下謙次郎が『美味求真』で紹介して全国的に注目
駅(湯布院町)に通じていたと考えられる。
され、養殖が盛んになった。これとあわせて近年で
古代文化は、もちろん宇佐の影響下にあった。そ
は、豊富な川の水を生かした淡水魚も名物。
れを受けて、中世に町域の中心となる安心院荘に
さらに最近ではブドウの産地化が進み、いまでは
入ったのは、宇佐武士団を引きつれた宇佐公泰であ
西日本一という。これをもとに「アジム・ワイン」
る。彼は盆地の南端、竜王山に神楽岳城を築いて安
が生まれ、愛飲者が急速に増えた。
心院氏と称する。まだ盆地の東の佐田荘には宇都宮
安心院の旅は楽しい。史跡は前記のもののほか楢
氏が入り、佐田氏となって安心院氏らとともに力を
本磨崖仏や三柱神社。自然では九州の華厳といわれ
たくわえていった。のち安心院氏は反逆の疑いを受
る東椎屋の滝や裏見のできる福貴野の滝、さらに仙
けて大友氏に滅ぼされたが、その神楽岳城こと竜王
の岩の奇勝、アフリカンサファリ。家族旅行村の温
城は大友氏が豊前支配の足がかりとしたところ。豊
泉を拠点に、ゆっくり散策してほしい。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.8
バス路線 (22) 八面山
村のシンボル・八面山
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八面山の頂上にある大池
にはさまざまな伝説が伝
えられる
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.9
■中津と深いつながり
ノシシの話も伝わっている。清
中津市の南、沖代平野から下毛原にかけて広がる
麻呂は帝位につこうとした弓削
のが三光村である。昭和 29(1954)年に深秣、
山口、
道鏡の野望をくだくため、宇佐
真坂の三村が合併して三和村となったが、その日の
八幡の託宣を持って都に帰った
うちに三光村と改称している。三つの地区が力を合
が、怒った道鏡によって大隅の
わせ、光に満ちた村を願っていることはいうまでも
国に流されることになった。そ
ない。ただ、すぐ隣が県北の雄都といわれる中津市
の旅の途中、ここで刺客に襲わ
であり、同市との仲がすべてにわたって緊密になっ
れたさい、八面山からイノシシ
ているだけに、
時折合併話が出てくるような昨今だ。
300 頭が出てきて清麻呂を助け
ともあれ、古くから中津市域とは深いつながりが
たと伝えられている。
ある。中津から宇佐にかけての先史、古代文化につ
このため、清麻呂をまつった京都の護王神社はコ
いては日豊本線のさいに書いたが、三光村はその文
マ犬の代わりにイノシシが置かれている。明治 30
化圏に入る、というより中心に近いところに位置し
(1897)年ごろ発行された 10 円札をイノシシと呼
ていた。宇佐神宮との関係を語るものも多い。例え
んでいたのをご記憶の方もあろう。この伝説によっ
ば斧立八幡は宇佐宮の神殿建築のための用材を集積
て、札は表が清麻呂像、裏がイノシシの絵だったか
し、斧立ての神事を行ったところ。耶馬渓への入り
らである。
口にあり、同地の森林資源が平野部に運び出された
ことを物語っている。
■大池と平和公園
その八面山は、平野に臨んで航空母艦のような巨
■清麻呂とイノシシ
村のシンボルである八面山には、和気清麻呂とイ
大な山体を見せるメサで、最高点は東南端の 659
メートル。メサの特徴として、四方八方どこから見
<メモ>
周囲にある名所旧跡等
◇中津駅から上野路(斧
立 八 幡 )9 キ ロ、 上 ノ
原(村の中心部)7 キロ、
八面山平和公園 12.5 キ
ロ(神護寺はすぐそば。
さらに 0.5 キロで勤労者
野外活動施設いこいの広
場。また山上大池まで 4
キロ、箭山神社まで 5.5
キロ)
、西秣入口 11.5 キ
ロ(長谷寺までさらに 3
キロ)
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.10
ても同じに見えるということから、八面山という名
空中戦があり、B 29 に戦闘機が体当たりした。二
が出たというし、別に屋根型をしているので屋山と
合目あたりに両軍戦没者の慰霊碑が立ち、平和公園
も呼ばれ、周防灘を行く船の目印になったものだ。
となっている。米兵の慰霊碑には将兵の出身州から
さらに箭山とも書かれる。
昔、
矢をつくるのに使っ
送られた石がはめ込まれており、昭和 45(1970)
た竹がたくさん生えていたからだそうで、山頂台地
年の建設当時にカリフォルニア州知事だったレーガ
から三光村や中津、宇佐を望む岩壁の上にある神社
ン大統領の名も刻まれている。
を箭山社と呼ぶ。
山頂には大池、小池という二つの人工の溜め池も
■神護寺と長谷寺
ある。大池は 32 万トンの貯水量を持っており、金
平和公園のそばにあるのが神護寺。不動明王信仰
色川の源流として三光村をうるおし、さまざまな伝
の霊場として参拝者が多く、水行をとる人も見られ
説をもっている。例えば、中津・自性寺の海門和尚
る。境内には昭和 40(1965)年から 6 年半かけ
がこの池のほとりで雨ごいをしたさい、竜女があら
て自然石に彫り込まれた涅槃像がある。長さ 8 メー
われて仏縁を求め、玉をくれた話。この玉はいまも
トルに近く、西日本一。
自性寺にある。さらに池中に大きなタコ(あるいは
寺といえば、平安時代から八面山には八観音が
イカ)がいて、異変が迫ると墨を吐いて池水を黒く
あったといわれる。その一つが西秣の長谷寺らしい。
する話など。
この寺には台座に大宝 2(702)年と考えられる銘
昭和 6(1931)年 7 月に、この池が決壊したこ
の入った銅造の観音立像(県文化財)がある。同じ
とがある。水はふもとを襲い、人家 20 余棟と田畑
く銘によって周防灘で造られたことがわかるが、ど
45 ヘクタールを流し、7 人の生命を奪った。その
ういういきさつで八面山のふもとまでやってきたか
さい池水が黒く濁ったかどうかは知らない。
はわからない。なお同寺は、英彦山に始まる九州西
昭和 20(1945)年 5 月には八面山上空で日米の
国三十三カ所の第二番目の霊場でもある。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.11
バス路線 (23) 青の洞門・羅漢寺
名勝・耶馬渓の中核
▲
99
日本でただ1つの石造8
連アーチ
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.12
■鎮西羅漢の法窟
名勝・耶馬渓の中核的存在が青の洞門と羅漢寺で
ある。単に景色がいいというだけではなく、そこに
はドラマや祈りがある。それだけに紅葉や新緑のと
きばかりでなく、四季を通じて洞門や寺には観光客
が押し寄せてくる。
<メモ>周囲にある名所旧跡等
◇中津駅から青の洞門まで 11.5 キロ、羅
漢寺 15 キロ。定期観光バスが運行される。
◇ほかに枌洞窟は中津から枌まで 14 キロ。
荒瀬井路、耶馬渓橋は青の洞門下車。羅漢
寺橋は青の洞門~羅漢寺間の本耶馬溪町役
場前下車。三日月神社は役場前から本道沿
いの次の停留所が神社前。
話の順序として、羅漢寺から紹介しておこう。同
寺は大化元(645)年、インドの法道上人がこの地
を訪れ観音像を残したことに始まると伝えている。
■日本最初の有料道路
かつて、神仏の山である英彦山か
その後、延元 2(1337)年に栄西の法孫に当たる
ら羅漢寺、さらに宇佐八幡を結ぶ参
昭覚禅師、さらに中国僧の逆流建順も来て、五百羅
拝のコースがあった。英彦山から山
漢や千体地蔵など、あわせて 3777 体の石仏を造っ
国川本流か津民の谷を通って寺を訪れ、背後の山を
たという。将軍、足利義満から羅漢護国禅寺の号を
越えて屋形谷から桜峠を経て宇佐に出たもの。いわ
もらい、管領の細川頼之が諸堂伽藍を造営したとい
ば「信仰の道」であり、多くの旅人が通ったものだ。
う。大友宗麟の社寺焼き打ちのさいは難を免れたそ
だが、耶馬渓地方の人々が「政治・経済の道」と
うだが、昭和 18(1943)年に門前集落の火災の飛
して利用したのは、山国川のほとりを中津城下に出
び火を受けて全焼する。45(1970)年再建。
るルートだった。ここに〝青の鎖戸〟といって、岩
無漏窟(むろうくつ)の中に五百羅漢があり、参
壁をくさりを伝って通らねばならない難所があった。
拝者によって奉納された無数のシャモジが壮観。寺
通行人の危険なありさまを見て、トンネルを掘る
の下に青の洞門を掘った禅海の墓があり、禅海堂に
決心をしたのが禅海である。前後のいきさつについ
ノミやツチなどが保存されている。
ては紹介の要もあるまい。あまりにもよく知られて
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.13
いるから。ただ、ここが日本で最初の有料道路だっ
毛郡擬大領だった勝宮守の妻で、夫の死後も清く生
たことはご存じだろうか。古河古松軒の
『西遊雑記』
き抜いた。毛蕨神社に夫婦でまつられ、三日月神社
に禅海が草庵を結んで通行料をとったとある。人は
に歌が残り、耶馬溪町平田の久福寺に墓がある。
一人四文、牛馬は一頭八文だったらしい。完成時に
は 80 歳近かった禅海の、老後の唯一の生活費か。
■荒瀬井路と耶馬三橋
中 世 は 東 屋 形 の 国 東 塔( 県 文 化 財 ) に 弘 安 5
■注目集める枌洞窟
青の洞門や羅漢寺があまりにも有名なため、本耶
(1282)年の銘が見られ、宇佐・国東文化の流入が
わかる。また、西谷の雲谷寺跡には延文 6(1361)
馬溪町の他の史跡は陰にかくれてしまったかっこう
年の地蔵菩薩、および釈迦如来の木像坐像がある。
だ。しかし、この町にも、先史時代から近代まで多
江戸時代には青の洞門と並ぶ大工事として、洞門
くの文化遺産がある。時代を追って代表的なものを
の少し下流から下毛原をかんがいする荒瀬井路が掘
訪ねてみよう。
られた。ただし、こちらは中津藩の手になるもので、
先史では屋形台にある枌洞窟が最近の発掘で注目
掘り手は専門家。草本金山(山国町)の採鉱奉行、片
を集めた。現在まで数次にわたる調査で、縄文時代
桐九大夫を中心に鉱夫たちが硬い岩盤に挑んだ。貞享
人のおびただしい骨が出土している。今後掘り進め
3(1686)年に着工、元禄 10(1697)年に通水した。
ば早期までさかのぼり、なお数十体が出そう。当時
近くには近代の石造アーチ橋、耶馬渓橋(大正 12
の生活、葬法などがわかったばかりでなく、骨格の
= 1923 年)があり〝オランダ橋〟の異名をもつ。
計測などで新しい資料を提供、まるで人類学博物館
8連アーチは全国でもこれだけ。長さ 113 メートル
のようだともいわれている。古代では『日本後紀』
も日本一だ。また、この上流に羅漢寺橋(3連)、馬
の天長4(827)年に豊前の節婦といわれた子刀自
渓橋(5連)があり「耶馬三橋」と呼ばれる。いま
売に終身の課役を免ずるとの記事がある。彼女は下
も通行し、まさに生きている文化財と言えよう。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.14
バス路線 (24) 柿坂
津民・深・裏の三耶馬渓
▲
100
深耶馬渓で代表的な一目
八景
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.15
■山陽も勝景に感嘆
柿坂は耶馬渓の地域的中心である。この近くで津
民川、山移川、金吉川などが山国川に合流。本耶馬
溪に属する柿坂など本流沿いとは別に、それぞれの
支流を津民耶馬渓、深耶馬渓、裏耶馬渓と呼んでいる。
<メモ>周囲にある名所旧跡等
◇柿坂まで中津駅から 22 キロ、豊後森駅か
ら 26 キロ。日田駅から 29 キロ
◇柿坂から桧原山入口 3.5 キロ(正平寺まで
車道でさらに 6 キロ)、深耶馬渓温泉 13 キロ
(豊後森から 13 キロ)伊福 12.5 キロ。深耶馬
渓には定期観光バスあり
柿坂に擲筆峰(てきひつほう)と呼ばれる景観が
ある。頼山陽が、あまりのながめのよさに筆を投げ
たと伝えられるところ。山陽は文政元(1818)年、
■〝ヒバルマツ〟神事
津民耶馬渓では正平寺が修験の歴
39 歳のとき九州を旅行、竹田で田能村竹田、日田
史を伝えている。桧原山(735 メー
で広瀬淡窓らと会ったあと、中津に雲華上人を訪ね
ト ル ) の 中 腹 に あ り、 天 平 勝 宝 4
て、ともに山国谷を巡った。
このさい一帯の勝景に感嘆、山国谷を中国風に耶
(752)年に越中の正覚が白山権現の
導きによって開山したといわれるほ
馬渓として「耶馬渓山天下無」の詩をつくり、
「耶
か、二、三の開山縁起をもっている。
馬渓図巻記」をかいた。以来、天下の名勝として知
英彦山とのつながりが深いことは
られるようになったわけ。
もちろんで、英彦山六峰の一つとして栄え、江戸時
山陽の歩いたのは山国川本流の中流域だけ、つま
代には各藩の祈祷所となっていた。明治以降も神仏
りいまの本耶馬溪だが、その後、下毛郡から日田、
習合の色合いを強く残し、4 月 14、5 日に行われ
玖珠、宇佐などの一部を含めて、勝景の地を耶馬渓
る〝ヒバルマツ〟には僧兵も登場して御田植がある。
と総称するようになった。同時に、全部を 10 渓に
ふもと近くの大野八幡は応永元(1394)年に耶馬
区分しており、地質や地形の違いから各渓にはいず
渓地方の豪族、野村弘道が鶴岡八幡を観請したもの
れも特色がある。
で、11 月 30 日から 12 月 1 日のヤンサ祭りが著名。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.16
若者 33 人が裸で三升三合三勺の餅米(もちごめ)
て新しい農業が展開されている。また、山移川には耶
を「やんさ、やんさ」のかけ声でつき上げ、神前に
馬渓ダムが建設され、観光的にも注目されている。
供える。
その野中氏は津民谷の奥、川原口に長岩屋城を構え
ており、中世の山城のようすをいまによく伝えている。
■後藤又兵衛の墓
裏耶馬渓には提鶴の景、伊福峡、山田の大石など
があり、立羽田の景から池の尾、鶴ケ原と玖珠に通
■断崖の一目八景
深耶馬渓は青の洞門、羅漢寺とともに観光耶馬渓
じて行く。伊福温泉の近くには九州で最初につくら
れた青少年旅行村もある。
の一方の中核となっているところ、かつては本耶馬
集落のはずれに後藤又兵衛基次の墓がある。又兵
渓に対して新耶馬渓といっていたが、深瀬谷の柿坂
衛は中津を領したことのある黒田如水につかえてい
~玖珠道の開通にともなって「深」の字に改めた。
たが、その子の長政と意見を異にし浪人、のち大阪
風景も本耶馬溪とはずいぶん違う。本耶馬溪など
冬、夏の陣で豊臣方について奮戦した。正史ではそ
北西部が旧耶馬渓溶岩や溶結凝灰岩であるのに対し、
のさい戦死したことになっているが、秀頼とともに
深耶馬渓や裏耶馬渓あたりは新耶馬渓溶岩が広い台
のがれ、秀頼は薩摩、又兵衛は旧知の伊福に来たと
地をつくっており、それが侵食された部分に多くの断
口碑は伝える。彼は岩穴に住んで地元の子供たちに
崖、石柱を立てている。深耶馬渓では一目八景あたり
読み書きを教えていたが、秀頼の死を聞いて火中に
がその代表で、麗谷、錦雲峡、紅葉谷などが周辺に広
自刃したそうだ。
がる。加えて、温泉に湧出が大きな魅力となっている。
なお、山国川が金吉川に合流するところの少し上
観光客の通るのは主として峡谷の底だが、広い台
手にある宮園は、玖珠で紹介した清原正高の最初の
地上の景観も捨て難い。平家の落人伝説のある家籠
配所といわれ、天延元(973)年に雲八幡が勧請さ
などの小集落が散在し、交通の便もしだいによくなっ
れた。カッパ祭りが伝えられている。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.17
バス路線 (25) 守実
豊かな山水の奥耶馬渓
▲
101
大小さまざまな穴が谷底
に密集する猿飛千壷峡
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.18
■豪快な自然美
山国町は山国川上流、源流部を占める町で、守実
展開するところといってよい。
ま た 草 本 に は 寛 永 8(1631)
がその中心である。耶馬 10 渓の中では奥耶馬渓と
年に開かれた金銀山があり、最
呼ばれており、魔林峡、念仏橋、猿飛千壷峡などで
近、再開発されるのではないか
知られ、さかのぼると英彦山(1200 メートル)に
と注目されている。
達する。猿飛というのは、猿が飛び渡れるほどに峡
谷の両岸がせばまっているの意だろう。千壷は無数
■英彦山の文化
の甌穴のことである。甌穴群のみられるのは草本か
頼山陽は「耶馬の山水みな彦
ら吉野にかけてのおよそ 2 キロで、特に猿飛のあ
山より発す」といったが、これ
たりは大小、深浅、さまざまの穴が谷底に密集して
は自然だけでなく文化について
いる。魔林峡は甌穴群が極度に発達して深い峡谷と
も同様で、耶馬渓には神仏の
なったところで、現在の念仏橋はここに昭和3年に
山・英彦山の影響が大きい。特
かけられた石造アーチ橋である。
に山国町はおひざもとだけに、
<メモ>周囲にある名所旧跡等
◇守実まで中津駅から 34 キロ、日田駅から 17.5
キロ。守実一帯に温泉、神尾家住宅(国重文、元
禄期の建築)がある。
◇守実から寺ノ下 5 キロ(念仏橋、魔林峡)草本 5.5
キロ(猿飛千壷峡)毛谷村 15 キロ(さらに車道を
野峠まで 4 キロ、福岡県英彦山町まで 10 キロ)
英彦山は自然の豊かなところとしても知られる
その修験の影に濃く覆われてい
が、それから犬ケ岳(1131 メートル)に通ずる尾
る。かつては修験僧の出入りで
根に切り立つ鷹ノ巣三山と呼ばれる三つの岩峰は
大いににぎわった信仰の地だっ
ビュートの典型。また、竜王山の別名で雨ごいが有
たが、秀吉の英彦山領没収や明
名な中摩殿畑山(991 メートル)には北部九州で
治の禁止令などで、神仏習合の文化遺産の多くは分
最もすばらしいといわれるブナ原生林がある。
散したり失われたりした。
甌穴群、鷹ノ巣群、ブナ林はともに国、県の天然
それでも、守実の西にある陽雲寺には修験にまつ
記念物。山国町は耶馬渓のなかで最も豪放な景観が
わる花房姫の悲恋の物語があるなど、英彦山にかか
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.19
わる伝説が多いし、所小野の不動窟は英彦山 49 窟
渓の交通にとって画期的なことだった。同鉄道は昭
の一つで、鎌倉時代の石仏、石塔がたくさんある。
和 46(1971)年に廃止された。以後、それに代わっ
毛谷村には加藤清正の臣で毛谷村六助こと木田孫
て道路の改良整備が急速に進んで、いまでは見違え
兵衛の墓がある。
「彦山権現誓助太刀」で有名だ。
るようになった。耶馬渓鉄道の軌道跡は本耶馬、耶
馬、山国の三町を結ぶサイクリングロードとなり、
■交通の要地
若者の銀輪が風をきっている。
その英彦山への大分県側の登り口、また中津、日
田方面との連結など、山国町は守実を中心に交通の要
■下毛郡の由来
地だった。山国川流域には、かつて幕府領を主として
ところで、山国川は守実のあたりで大きくカーブ
通る本流沿いの山国路と、中津藩領を通る津民川沿い
し、それまで南下してきた流れが 180 度向きを変え
の山中路があり、ともに源流部に入って前者は薬師
て北上するようになる。南から押し寄せてきた新耶馬
峠、後者は野峠を経て英彦山に達した。また、日田か
渓溶岩によって行く手をさえぎられ、方向転換を余儀
らの道は伏木峠、大石峠を越えて守実に下っていた。
なくされたものらしい。大野川の方向転換と同様に、
大石峠は頼山陽が越えているし、山国路は享和 2
川の流れも地史を語っている。その山国川は古代に御
(1802)年に尾張の菱屋平七が通って「筑紫紀行」を、
水(みけ)川と呼ばれ、流域の森林は宇佐宮の造営は
山中道は天明 3(1783)年に備中の古河古松軒が「西
じめ平野部に多くの良材を供給した。あるいは御饌川
遊雑記」をそれぞれ残している。
といい、宇佐の神事に関係があったともいう。
両紀行によると、いずれもたいへんな悪路、難路
このため一帯を御木郡といい、のちに御毛、三毛
だったことがわかる。それは近代になって次第に整
の字があてられ、二つに分割されて上毛、下毛となっ
備されたが、特に大正 13(1924)年に中津駅から
た。上毛郡は福岡県側にかつて存在した。大分県側
の軽便、耶馬渓鉄道が守実まで通じたことは、耶馬
をいま下毛郡と呼ぶのはここに由来している。
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大分合同新聞社「大分県歴史散歩 - ふるさとの駅(21)
」 - p.20
デジタルブック版
(21)
「ふるさとの駅=各駅停車・大分県歴史散歩=」
2007 年 7 月 20 日初版発行
このデジタルブックは、大分合同新聞社と学校法人別
筆者
梅木
府大学が大分の文化振興の一助となることを願って立
編集
大分合同新聞社
ち上げたウエブプロジェクト「NAN-NAN(なんなん)
」
制作
別府大学メディア教育・研究センター
の一環として作成・無料公開しているものです。デジ
発行
NAN-NAN事務局
秀徳
〒 870-8605 大分市府内町 3-9-15
大分合同新聞社総合企画部内
タルブックは、ほかにも多数。ネットに接続して上記
ボタンを押し、
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