マタイ9:18~26 「一番つらいところに愛を」 今日、こうして礼拝に来て

マタイ9:18~26 「一番つらいところに愛を」
今日、こうして礼拝に来てくださってありがとうございます。私は皆さんが
ここに来てくださったことがとても嬉しいです。けれども、このことを今、私
以上に、心底喜んでおられるのは、神様です。神様は、皆様に出会いたいと思
っておられます。皆様一人一人のことを、本当に心配しておられ、それだけ、
大事に考えておられます。今朝のテーマは、一番つらいところに愛を、という
テーマですけれども、神様は、あなたがつらい状態でいることで、心を痛めて
くださるような、そんな方です。神様にとって、あなたは、放っておくことの
できない、大切な人です。
そのあなたに対して、聖書の言葉を通して、今朝語られているメッセージが
あります。それは、ひと言でいえば、あなたを死なせたくない。その素晴らし
いあなたの命を、失いたくない、ということです。
なぜ死なせたくないのか?それは、私たちが、常に死に瀕していることを、
神様が知っておられるからです。一番つらいところ、という言葉を説教題に使
いましたが、色々なつらさが、私たちの間にはあります。病気のつらさ、具体
的な体の痛み、仕事のつらさ、責任を負うことへの疲れ、人間関係のつらさ、
そこからくる疲れ。時に私たちには、心が折れて、何もしていないのにへとへ
とになり、ふさぎ込み、寝床から起き上がれなくなるようなことも起きます。
それは、死に瀕しているというほど大げさなことではないと思われるかもしれ
ませんが、人生を辛く生きても、楽しく生きても、最終的にその人生が行きつ
く問題は、死の問題だと思います。そして私は今朝、いろいろなつらい現実、
大変な現実に囲まれながら生きている皆様に、ある中で、ただの心に沁みて、
感動を呼び起こすような、いい話をしたいのではありません。もっと具体的な
事実をお伝えしたい。あなたに関心をもって、具体的にあなたを助けてくださ
る神様が、本当におられるという事実を、お伝えしたいのです。
この分厚い聖書は、さまざまに神様のことを語りますが、今朝お読みした部
分の聖書は、神様のことを、私たちが抱えている問題の、究極の解決者として
描いています。この部分の聖書のエピソードは、とても珍しいやり方で書き記
されています。私が習ったある先生は、ハンバーガー聖句、とここを呼びまし
たけれども、その通り、ここでは、二人の女性のエピソードが、ハンバーガー
のパンとパテのようにして語られているのです。それは、ひとつのエピソード
が前後を挟み、真ん中に、もうひとつのエピソードが挟まれているという仕方
になっています。なぜこういう語られ方をしているのだろうかと思うのですが、
これは多分、ハンバーガーのパンとパテを一緒に食べる時に、それがひとつの
味として、美味しく味わえるのと同じように、聖書も、この二つのエピソード
をひとつの話として、私たちに伝えたいからなのだと思います。そして実際に、
この二つのエピソードがひとつになった時に初めて、大きく力強いメッセージ
が、ここから立ち現われてくるのです。
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そこでまず、ハンバーガーのパテの部分のエピソードに目を留めたいと思いま
す。20~21 節です。
「すると、そこへ 12 年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろか
らイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』
と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、
元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治っ
た。」
聖書は、どこにも彼女の名前を記していませんが、その名前を呼ぶよりも、
「出血が続いている女」と、「長血の女」と呼んでしまえば、その町の人なら、
ああ、あの人のことかと、それですぐ分かってしまうような、恐らく、そうい
うちょっと可哀そうな意味で有名な女性が、彼女でした。
聖書の他の部分の御言葉の、マルコによる福音書は、この女性についてこう
記しています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果
たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」大変な状態で
す。彼女は病気のために医者を転々として、全財産を使い果たしてしまってい
た。
さらに、彼女を苦しめていたものは、病気や経済的な苦しみだけではありま
せんでした。彼女には、それに追い打ちをかけるような、社会的・宗教的な苦
しみがありました。聖書の前編として書かれています、旧約聖書には、「出血
がある間の女性はその間はけがれている」という言葉があります。旧約聖書に
よると、出血のある女性によっては、その女性が寝る寝床も、座る椅子も、け
がれたものとなってしまって夕方まで使えなくなるとあります。そしてその出
血期間中にその女性に触れる者も、女性同様にけがれた者となってしまうとい
うことが書かれています。これではあまりにひどいという印象を受けますが、
聖書がこのように語るのはなぜかというと、血というものは、旧約聖書の時代
から、聖書では命をあらすもの、その源、その象徴とされてきたからです。で
すから命の源である血を流してしまうような状態は、すべて命の源である聖な
る神様の前に、けがれであるとされてきたのです。そしてこの状態が、この女
性には 12 年間も続いていました。よって彼女は、12 年間ずっと、けがれた人
間として、人が触れることもできない、彼女の座ったその椅子に誰も座ること
もできない人として生きてきた。これではとても、人と付き合うことができま
せん。手をつなぐことも、友人と一緒に食事に行くこともできない。逆に彼女
は、人の集まるところに出ていく時には、人に自分のけがれを伝染させないた
めに、自分が汚れた人間であることを、手をあげたり、私に近づかないで下さ
いと言うなりして、周りに知らせなければならない義務があった。だからとて
も人前には出られない。同情を受けるどころか、むしろ人々から敬遠され、軽
蔑されて、彼女は社会的にも、人間としても、ほとんど死んでいると言って良
い状態、死人同様に扱われていました。
そんな八方塞がりだった彼女は、当時の時の人として、数々の人を癒し、奇
跡を行なう力も持っていると有名だった主イエスに、もう言いようもなく、吸
い寄せられ、もたれかかるような気持ちで、最後の、一筋の望みを掛けました。
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「この方の服に触れさえすれば治してもらえる。」根拠はありませんでしたが、
ただもう、これが、彼女が絞りだした、最後の一言でした。汚れている身でし
たが、そんな自分を隠すようにして、衣をまとい、目立たない格好で、彼女は、
群衆が主イエスを取り囲んで、人々の目が皆、主イエスに向かっている背後か
ら近づいて行って、人と人との隙間に時折チラチラ見え隠れする、主イエスの
服の房を追いかけ続けました。そして、ある時、彼女は一瞬の隙をついて、人
垣の間から、手を伸ばした。
彼女はただ必死でした。けれども、正面から主イエスを呼び止めて、主イエ
スの前に立つ勇気も、資格も、とても彼女にはありませんでした。ただ、主イ
エスの通りすがりに、一瞬の隙をついて後ろからその服の房にタッチするとい
う、そんなあり方でしか主イエスにかかわれなかった。
しかしその時、主イエスは、この小さな存在に対して、しっかりと「振り向
いて」くださいました。主イエスは、女性に触れられたときに、汚らわしいと
言ってその手を払いのけられることはありませんでした。後ろから着物に触れ
た彼女に知らん顔をしてそのまま歩いて行かれたのでもありませんでした。多
くの人々に反して、この主イエスだけは、彼女に同情的でした。そしてこの彼
女の必死の思いを汲んでくださって、後ろから近付いた彼女だったにもかかわ
らず、それを、神様への立派な信仰だと、「あなたの信仰があなたを救った」
と言って褒めてくださり、「娘よ、元気になりなさい。」と、あたたかい言葉
で励ましてくださいました。その時、彼女の病気は治りました。
誰とも親しく付き合えなかった彼女に、立ち止まって、振り向いてくださる
主イエス、このお方の愛と力によって、彼女は解決を得た。彼女は生き返りま
した。
そしてもう一人は、町の指導者の娘です。改めて18~19節、23~26
節をお読みします。
「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひ
れ伏して言った。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになっ
て手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。』そこで、イ
エスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
イエス
は指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言わ
れた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』
人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女
の手をお取りになった。すると少女は起きあがった。このうわさはその地方一
帯に広まった。」
他の福音書では、この娘は、ヤイロという町の指導者のひとり娘で 12 歳であ
ったと書かれています。奇しくも、長血の女性が、医者からも世間からも見捨
てられて生きてきた、その同じ 12 年間を、少女は町の指導者の娘として、恐ら
く何不自由なく、周りからも大切にされて生きてきたのです。全く正反対の二
人の女性です。しかし 12 歳の少女は短くしてその生涯を閉じました。
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主イエスが到着されたとき、もうその少女の家には、葬儀の列ができていま
した。しかし主イエスはそこで言われました。「あちらへ行きなさい。少女は
死んだのではない。眠っているのだ。」「人々はイエスをあざ笑った。」当然
です。もう葬式が始まっていて、少女を墓まで運んでいこうとする列ができて
いるのです。これが死でなく眠りだなんてことはあるはずがない。しかし主イ
エスは、群集を家の外に出すと、一人で死と、向き合われました。そして少女
の手を取った主イエスは、彼女を死から起き上がらせてくださいました。
片方は、12 年間、不幸の谷底に居たような女性、そして、もう一方は、12
年間幸せに生きてき少女、まったく両極端のこの二人でしたが、二人が、それ
ぞれ主イエスに出会った時、そこには共通の救いがありました。死の克服です。
この二人を見る時に分かることは、どんなにつらい人生も、またどんなに幸
福な人生にも、必ず付いて回る、死という問題があるということです。長血の
女に見られるように、重い苦しみにさいなまれながら、生きながらに死んでい
る、ということもあれば、少女のように、心臓の鼓動が止まるという、まさに
死そのものが、突然、若いうちに、予想外に襲ってくることもある。この死の
問題が解決されないならば、それ以前の人生に、どんな解決や、幸せ、幸運が
あったとしても、でも結局最後は、手詰まりになって、終わってしまう。
けれども神様は、私たちが死によって最期を迎えてしまうことを、決して願
っておられない。むしろそんな終わり方を、神様は認めないのです。主イエス
は、私たちが、もう終わったと思ってあきらめたところにやってきてくださり、
そこに手を添えてくださいます。そして、命を与えてくださる。息を、吹き返
させてくださいます。
主イエスはここで、単純に、時計の針を、長血の女が病気になる前の状態に、
そして少女が死んでしまうその前の状態に、戻したのではありませんでした。
逆に主イエスは、時計の針をさらに前に押し進めて、その先に起こるはずだっ
た長血の女の病の進行と、死んだ少女の肉体の腐敗という末路を、突き破って
くださいました。死んで時間が止まるのではなくて、まだ先がある。死んでも
時計は、まだ止まらない。その先に、「元気になりなさい。死んだのではない。
眠っているのだ。」という、復活という新しい未来が開かれる。そして実際に、
主イエスは十字架に架かって死なれたあと、三日後にそこから復活されました。
この世界と、この世の中には、たくさんの、驚くべきことがありますが、そ
の中で、間違いなく一番のこと、最も驚異的、衝撃的な事実は、主イエス・キ
リストの復活です。イエス・キリストの復活によって、死が滅ぼされる。死が
突き破られて、命が死に勝ってしまうという、まったく新しいことが起こった。
重い病気を持ちながら、死人のように生きていた長血の女性が、主イエスによ
って生き返った。さらに、主イエスによって、少女の葬儀の行列が解散させら
れた。死からの復活という、絶対にありえないことが、主イエスによって、ま
るで新しい道路が開通するように、私たちの前に、本当に開かれたのです。ク
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リスマスにこの世界に生まれられた主イエス・キリストは、それをしに来られ
たのです。
主イエスなしでは、死の味がするハンバーガーのようだったこの御言葉は、
しかしイエス・キリストによって、復活を指し示す、命のハンバーガーになり
ました。実際主イエスは、御自分は命のパンであると言っておられます。主イ
エスは言われました。「私は命のパンである。わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。」めちゃくちゃな話に聞こえるかもし
れませんが、確かに常識破りの、ある意味めちゃくちゃな、奇想天外の話です。
けれども聖書は大まじめに、神様からの言葉として語るのです。こういう死に
瀕した人間を、そこから救うために主イエスは生まれられた。そして、この長
血の女と少女に起こったことは、そのままあなたにも起こると。
私たちの心の、血が流れ続けているようなところ、その血は、他の誰でもな
い、主イエスが止めてくださる。私たちは一人で生まれて一人で死ぬ。死んだ
ら人は皆一人だ、何てとんでもありません。今、礼拝堂の外の部屋には、昨夜
天に召された一人の方のご遺体が安置されていますけれども、その方は、今一
人ではない。一人病室で長い夜を過ごす、その状態から、夜のない、今の私た
ちがおかれている場所よりも、もっと良いところに行かれたのです。
復活の命のパンが、主イエスを通して、私たちの目の前まで来た。この主イ
エス手伝っていただいて、力添えをいただいて、主イエス一緒に、死を乗り越
えていく、私たちには、そういう生き方、死に方ができます。
確かに、私たちの間には、癒されない病があります。死そのものの痛みがあ
ります。人生の中で、もう事柄が詰んでしまって、先が無いと思えるような状
況があります。でも私たちは、自分の辛いところを自分一人で抱えたままでい
る必要はありません。自分で解決しきれない重い問題を、何とか我慢して、痛
み苦しみを自分の胸の中にしまい込んでおくことを、聖書は私たちに求めては
いません。
私たちは皆、長血の女性のように、とても正面から神様に向き合っていくこ
とはできないような、後ろから遅れてついて行ったり、横っちょから少し声を
掛けたりという程度にしか信じられない、常に半身の私たちです。けれども、
そんなわたしたちに向かってこの方は振り向いてくださいますし、本当に、こ
の礼拝では今、私たちは正面で神様に向き合うことが許されました。そしてさ
らには、もう葬儀の列が自宅にまで及んでしまっている。もう全く手遅れと思
われる。しかしそんな者に対しても、そこまで行っても、神様の方は、まだ私
たちをあきらめては、おられません。まだ終わっていないと、そこまで行って
も、これはまだ眠りに過ぎないと言って、元気を出せと言って、手を取って、
あなたを起こしてくださる。そういう、命に呼び戻す力を持っておられる神様、
私たち皆にとっての他にはいない問題解決者、主イエスが、今わたしたちの間
におられます。だから大丈夫です。私たちは今、間に合いました。
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