2016 年 6 月 5 日主日礼拝説教 もう泣かなくともよい 列王記上 17:17-24 ルカによる福音書 7:11-17 藤井 和弘 牧師 主イエスは、地上を歩まれる中で、私たちが「奇跡」と呼ぶさまざまな力ある御業 を人々の間で行われました。病気や汚れた霊に取りつかれた人々を癒し、目の見 えない人の目を開き、足の不自由な人を立ちあがらせ、死者を生き返らせられまし た。それらの奇跡をとおして、聖書は、主イエスこそ来るべき方であり、この方にお いて神の国が始まっているのだということを私たちに告げているのです。 この朝聞きましたナインという町での出来事も、その一つに加えられるものです。 主イエスはそこで、早くに夫を亡くした母親の一人息子を生き返らせておられます。 ある聖書注解書によれば、宗教改革者のルターという人は、この聖書箇所を説教 することのすばらしさを知っていたと言います。彼は、この箇所の説教が毎日でも語 られてよいとさえ考えていたと言います。 今日の物語は、そこで何が語られているのか、どういうことが起こっているのかが すぐに分かるところではないかと思います。立ち止まって繰り返し聞かなければよく 分からないところはほとんどありません。また聞く人によってそこからまったく異なる 解釈が生まれてくるというところでもないように思います。けれども、今日の物語には、 一度聞いたらたぶん忘れることのできないような印象深い言葉や表現が幾つも出て きます。このところで、主イエスは亡くなったやもめの一人息子を生き返らせておら れます。その奇跡が現れるところに、しかし、物語を聞く者の心にいつまでも残るよう な主イエスの御姿が幾つも語り出されていることに気づかされるのです。 ルカによる福音書は、ナインの町の門に近づく弟子たちや大勢の群衆を従える 主イエスの一行と、その門から今まさに運び出されようとする棺を囲むもう一つの群 衆とが出会うところから、物語を始めていました。おそらくそれぞれの群衆の先頭に は、主イエス御自身と、当時の埋葬の習慣から考えますと、棺に一人息子の亡骸を 納めた母親が立っていたと思われます。それぞれの群衆の先頭に立つ二人が、町 の門のところで出会います。そして、母親をご覧になられた主イエスがその母親に 向かってこう呼びかけられるのです。「もう泣かなくともよい」と。 おそらく亡くなった者を葬る場所が、町の門の外にあったのでしょう。当時は、亡 くなったその日のうちに遺体を運び出したと言われています。ということは、この母親 にとって、たった一晩でも息子の思い出に浸る時間もなかったということでしょう。 私たちは、今日のところから息子の死の理由について知ることはできません。け れども、以前に夫に先立たれたこの母親から、今また一人息子さえも死が奪い去っ ていった。その深い悲しみと苛酷な状況が取り囲んでいた彼女に向かって、主イエ スは「もう泣かなくともよい」と語りかけられたのです。 そして、葬りの場へと向かう行列の中へと、主イエスは進み入って行かれます。そ して、母親の一人息子の亡骸を納めた棺に手を触れられたとき、棺を担いでいた 人々の歩みが止まったと言うのです。そのこともまた、印象深い光景ではないでしょ うか。 そこで、主イエスは棺に横たわっていた亡骸に向かって言われます。「若者よ、あ なたに言う。起きなさい」。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。主イエ スは、一人息子を立ち上がらせられました。死のただ中から、もう一度、若者を呼び 出されたのです。そして、ルカによる福音書はさらにもう一つ、印象深く語るので す。 「イエスは息子をその母親にお返しになった」と。 葬りの場所に向かって棺を運ぶ行列―それはほかでもなく人の死が作り出した 行列でした。愛する者を死が奪い去ることによって人を従わせる悲しみの行列にほ かなりませんでした。しかし、その行列に向けて、「もう泣かなくともよい」との言葉が 投げかけられる。棺の歩みを止める手が伸ばされる。そして、葬りの場に向かう行列 そのものを無意味なものにしてしまう、死んだ息子が生きて母親のもとへと返される ということが起こるのです。 そういったまことに印象深い主イエスの姿がどこから現れるかについて、ルカによ る福音書は伝えてくれていました。それは、母親をご覧になった主の憐れみからの ものだということです。「憐れに思う」―この言葉について、私たちはもう何度も耳に してきたのだと思います。しかし、何度聞いても、また何度学び直しても、この言葉 が告げていることは私たちの思いを超えたところにあると言わざるをえません。 元々ギリシア語で「内臓」を意味するこの言葉は、新約聖書の中でマタイ、マルコ、 ルカの福音書にしか出て来ない言葉です。そして、その三つの福音書に共通して いるのは、この言葉は主イエスについてのみ用いられているということです。それゆ え、私たち人間の感情ではすべてを汲み尽くすことのできない、いわば主イエスの 心の世界というものを、聖書の著者たちは感じ取っていたのではないでしょうか。そ して、そのことの前に深い畏れを抱いていたのだと思います。 この「憐れみ思う」というところを、口語訳聖書は「深い同情を寄せる」、新改訳聖 書は「かわいそうに思う」と訳していました。もう以前のことになりますが、日頃から中 学・高校生とかかわる人から伺ったことがあります。その人によれば、その年代の若 い人というのは、憐れみを受けるとか、人から憐れまれるということを、非常に嫌うの だそうです。それは、かわいそうに思われる自分が許せないのだと言うのです。 主イエスがここで一人息子を亡くしたやもめの母親に向けられておられるのは、 そういった同情や悲しみといったものとは違うものです。先ほども申しましたように、 母親に対する憐れみは、「もう泣かなくともよい」との言葉を主ご自身に語らせるので す。葬りの場へと向かう棺をとどめる手を、主に伸ばさせるのです。そして、死人の 息子を起き上がらせただけでなく、生き返った息子をその母親のもとに返させるの です。ある人はそこに、死に対する主の激しい憤りの感情を見ようといたします。か 2 つて夫を奪い去り、今また一人息子を奪い去っていった死にただ打ちのめされるし かないこの母親の現実に、主はご自身の存在を深く震わせておられるのです。そし て、もはや区別がつかないほどに、主はその母親と一つになって苛酷な事実をその 身に負われるのです。母親の痛み、悲しみをご自分の痛み、悲しみとなさるのです。 「もう泣かなくともよい」という言葉も、棺に伸ばされた手も、そして、息子を生きてお 返しになられた愛情も、すべてはそこから出ているのです。 いったい私たちの中で、その日に一人息子を亡くし、今まさに棺を葬ろうとしてい る母親に向けて「もう泣かなくともよい」と口にする人がいるでしょうか。火葬場へと向 かう一行を手で制して止める人がいるでしょうか。そして、死が作り出し、死が支配し 続けている葬儀の列をもはや解散させてしまう命をもたらすことのできる人がはたし ているでしょうか。 一人息子の遺体を納めた棺とその母親には、大勢の町の人々が付き添ったとあ りました。それは、一人息子さえ奪われ、独りぼっちになってしまったこの母親に、 多くの人々が深い同情を寄せ、悲しみを共にしようとしていたことが分かります。は っきりと聖書は語っていませんけれども、そこには確かに、母親に対する大勢の 人々の憐れみがあったのです。しかし、その憐れみはそれ以上のものではありませ んでした。 このとき母親に付き添っていた大勢の町の人々もまた、死の力のもとに置かれて いたからです。一人の人間の死の事実を前に、ただ嘆き悲しむことしかできない、 そのことでしか最大限の同情を示すことのできない己の無力さを身にしみて知らさ れるしかなかったからです。 母親の一人息子を納めた棺が辿る道、それはやがて一人ひとり、町の人すべて にとって自分を納めた棺の辿ることになる道でした。そして、これまでも誰かが息を 引き取れば、人々はその棺を町の門の外へと運び出してきたのです。門の内側は、 いわば命ある者の世界でした。そこでは死とはかかわりのないように見える世界でし た。けれども、まさにそのところで、一人ひとりが死に向かう道を歩んでいたのです。 その道は、愛する者や親しい者の棺を門の外に運び出すたびに人々の中で思い 起こされた道でした。けれどもまた、門の内側に戻れば、すぐに忘れられる道でもあ りました。 しかし、その道を最後に辿るとき、そのとき人は誰しもみずからの足で歩くことは できないのです。 そのように、私たちはすべて死に向かう道を歩んでいます。そこにおいて、死は すべてを呑み込んでいくようです。そのように死は、まったく動きのない大きな池や 大きな海のようにとらえられることがあります。すべてはそこに流れて込んでいく。そ して、何もかもが形を失って、池の一滴になる、海のしずくとなる、そのように死を想 う感情というものがあることを私たちは知っているのではないでしょうか。 それでは、聖書が伝える今日の物語はどうなってしまうのでしょうか。そこから私た ちは何を聞き取ろうというのでしょうか。あの母親のもとに生きて返された一人息子 3 はやがて死んでいきました。母親ももちろんそうです。主イエスによって生き返った 人々が今も生きているのでありません。そういう人たちも含めて、皆死んでいったの です。とすれば、今日の聖書が告げる物語は、遠い昔の出来事でしかないのでしょ うか。結局のところ、私たちは、死に支配された、いいえ、死を恐れつつも、死という ものに馴れさせられた存在なのでしょうか。 もしかすると、そのところに私たち教会に集められている者にとっての信仰の戦い があるのかもしれません。よく教会の葬儀に参列された人たちから、「キリスト教の葬 儀はよかった」という声が寄せられます。その理由の一つとして、故人の生涯が日常 の言葉で述べられることがあげられます。確かに、教会の葬儀では召された者の生 涯が神の恵みと導きのもとにおかれていたことを証言することは大切なことです。し かし、そこにおいて何より忘れてならないのは、主の憐れみが今ここに注がれている ということです。死に打ちひしがれている人の傍らで共に悲しみ、死を悼むことでし か同情を示すことのできない私たちです。どのように慰めや励ましの言葉をかけると しても、かえってむなしさをおぼえ、自分の力無さを思わずにはおれない私たちで す。しかし、そのような死の事実が支配するただ中に、近づき足を踏み入れてくださ る方がおられるのです。そこに広がっている人の悲しみと無力さとに激しく身を震わ せ、「もう泣かなくともよい」と信実の言葉を語ることのできる方がおられるのです。そ して、死の力に捕らえられ、これに馴らされてしまったかのように見える私たちの思 い、私たちの進む歩みをその御手をもってとどめることのできる方がおられるというこ と。すなわち、死の力を打ち破って、復活の初穂となられたイエスを主と呼ぶことの できる喜びがそこにも差し出されているということを、私たちが本当に受けとめ、そこ で神への賛美を心から歌うことがなおできるのかということです。 そのことのために、神は教会をこの世におかれたのです。そのところに私たちを お集めになられたのです。別の言い方をすれば、今日の物語の中で、町の門から 出て行こうとしていたあの棺を囲む行列の中に、私たちもいたのです。死の力に囚 われて、その力に流され溶け込んでいくしかない一人ひとりであったのです。そのよ うな私たちが、けれども、そこに向かって進んで来られる主イエスと共に歩く弟子た ちや群衆の一人ひとりとして私たちが立っていくということだと思います。そこで恐れ つつ、しかし、主をほめたたえていく。主の憐れみを知らされている者として、主の 憐れみを体いっぱいに受ける者として歩んでいくのです。 最初に紹介しましたルターも、人を支配してやまない死の力とその事実をよくわき まえていたのだと思います。だからこそ、主の憐れみを告げる今日の物語を説教す るすばらしさ、毎日でもそれを語り続けることの大切さを、ルターという人はよく理解 していたのではないでしょうか。私たちもまた、そのような主の憐れみを告げる物語 が聖書を通して与えられていることに感謝したいと思います。そして、私たちがこれ までも経験し、これからも経験するでありましょう愛する者の死、さらには、この私自 身の死を前にして、私たちの抱く悲しみも、底知れぬ恐れも、力無さも御自分のもの としてくださる方の語ってくださる「もう泣かなくともよい」との御言葉に深く心をとめる 者とされたいと願います。 4
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