1 「喜びと力の源」 マタイによる福音書22:34~40 先々週の時点で

「喜びと力の源 」
マタイによる福音書 22:34~40
先々週の時点で、説教を作るために、今朝のこの御言葉に目を通したのですが、その時、ち
ょっと気持ちが重くなりました。この言葉を、どう説教すればいいのだろうかと思いました。
37節から改めて朗読させていただきます。37節から 39節。
「イエスは言 われた。『心を尽くし、精神を尽くし、 思いを尽くして、あなたの神である主を
愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。
『隣
人を自分のように愛しなさい。』」。
黄金律、ゴールデンルールと言われる、御言葉というよりも、一種の格言のような、有名す
ぎる言葉です。私が、少し気の重さを感じた理由は、この御言葉 この言葉が、私の存在からは
程遠い、先人君主の発するような言葉に聞こえて、この御言葉に追いつけない 自分自身の、現
状を思ったからです。神と隣人 をあいするということが、最も重要な掟である。そう聞いて、
自分自身の現実を思って、ああ、自分はダメだなと、自分を責めた。これを説教する私は、ど
うやってこの言葉を 語ったらいいのだろう。この御言葉をチラッと読んで、そう思いました。
けれども、40節には、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 と言われて
います。律法全体と預言者とは、これは、当時主イエスの手元にあった旧約聖書の全体、 この
ことです。その聖書全体が、この二つの掟に 基づいている 、ということです。ならばこの言葉
に対して気が重いということは、聖書全部について、気が重いということになってしまいます。
けれども私は、ある説教者の言葉を読んで、はっとさせられました。このような言葉でした。
「この二つの戒めに生きるということは、まことに明るい、自由な、生き生きとした命に生
きることである。この二つの戒めを、この朝与えられた御言葉として読みます時に、私が皆さ
んと共に自分に問わなければならないと思うのは、この二つの御言葉を聞いて、私どもの心が、
どれだけ明るく燃えるか、ということであります。ある人がこのところについての文章の中で、
どうも我々はこの 34 節以下の、律法学者と主イエスとの問答を、遠い出来事としか思ってい
ないのではないか、ここには大変理屈っぽい議論がなされているとしか読まないのではないか、
と書いています。私どももまたそうであるとするならば、こんなに不幸なことはないと私は思
う。」
私自身のことが語られているようで、驚きました。聖書は私たちに、生き生きとした命を与
える書物であり、その要約が、この言葉だと、この聖書自身が語 っている。この私たちが生き
生きとした命に生きる急所が、ここにある。 だとすれば、この言葉によって私たちが生き生き
できないのであれば、この言葉によって、私の心が命の喜びで溢れて、聖書の言葉の中でも 、
一番の恵みをここから受け取らなければおかしい 、ということになる。けれども、私は、 神と
隣人を愛せと 、これが掟だと聖書に語られて、自分は愛せないと自分を責めて気が重くな った。
これは一見、謙遜な態度に思え るかもしれませんが、実はそうではないと思いました。喜びを
もって受け取るべき言葉を前にしながら、 逆にわたしは自分の気を重くして、 そのことをもっ
て実は私は、聖書の中でも特に 大事なこの御言葉を、自分の側から拒絶し、遠ざけようとして
いた。そのことに気づかされました。しかしそれでは、本当に不幸です。
ところで、そもそも、説教をすること、聖書の言葉を聞くこととは、どういうことなのかと
いうと、説教の語りも、聖書に書いてあることも、それらはどちらも言葉ですから、説教も、
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聖書も、それは新しい言葉との出会いを起こすものです。 説教を聞き、聖書を読むということ
は、新しい言葉に出会うことです。 けれども、説教も、聖書も、そのすべてを、新語とか、造
語とか、私たちが一度も聞いたことのないような言葉で話すわけにはいきませんし、それでは
意味が通じませんから、説教も、聖書の語りかけも、そ こではある意味で、今まで私たちが使
ってきた言葉の、再定義をすることになります。私たちが聞きなれている言葉の、新しい意味
付けや、新しい解釈が、そこ でもたらされて、それによって私たちは、言葉の再定義によって、
新しい言葉を聞く。 例えば、神様とは、実はこういう方だったのだ、救いとは、本当はこうい
うものだったのだ、 命とは、実はこれ程価値のある、深遠なものだったのだ。そういう 、新し
い言葉を聞くという 経験を私たちは、説教を聞くことで、聖書を読むことを通して、受け取る
のですけれども、今朝の御言葉でも、そのような再定義が 、今まで私たちが何気なく使ってい
た言葉の、新しい意味が語られて います。
今朝の御言葉を通して、主イエスは、御自身に質問をぶつけ てきた、律法の専門家に対して、
律法とは何か、もっと言えば、聖書とは何かということを、再定義しておられます。律法の専
門家の「律法の中で、どの掟が一番重要でしょうか。」という質問は、言い換えれば、「この聖
書が言いたいこととは、一言でいうと何ですか?」とい う問いです。それに対して主イエスは、
「全力で神を愛することと、人を自分のように愛すること、これを伝えるのが聖書です。」と、
即答されました。今朝の御言葉はこれだけです。この主イエスの言葉で、この部分の御言葉は
途切れていますので、今朝は、この主イエスの再定義を、理解したい。 私たちの府に落ちるも
のとしたいと思います。
そのために、まず私たちは、主イエスの聖書とは何かというこの再定義が含んでいる、キー
ワードである、
「愛」という言葉を見なければならない。そちらの再定義から、まずしていかな
いと、主イエスの言葉をうまく理解できないと思いますので、その愛の定義をするために、今
朝はコリントの信徒への手紙一の、13 章の、パウロによる愛の定義を、今朝はまず朗読し まし
た。
この愛についてのことは、本当はこれだけでも、何度も説教をしなければ ならいぐらいの、
大事な再定義ですけれども、愛という言葉をもって、聖書が語ろうとしていることを、私たち
は掴まなくてはなりません。なぜなら聖書の愛は、私たちの社会や時代が使う 「愛」とは、か
なり内容の異なるものだからです。
使徒パウロも、これこそが人生の最高の道なのだと言って、愛について語り出しますけれど
も、その愛とは、特にコリントの神への手紙一の 13 章 4 節から 7 節のところに、その愛の定
義が記されています 。そしてこれは、世間一般で考えられ ている愛とは、全く違う、本当に新
しい定義だと思います。
とうのは、私自身、初めてこの聖書の言葉を読んだ時、とても驚いたからです。今よりもず
っと若い時に、ちょうど失恋して、混乱して、愛というものが何なのか分からなくなった時 が
ありました。その時 に、コリント 13 章に、たしか「愛」についての言葉が書かれていたこと
を思い出して、初めて真剣にその御言葉を読んだのですが、それを読んで、 愛とはこんなもの
なのかと、本当にびっくりしました。
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私はかつて、愛というものを、何か甘いケーキの様なもの、甘く柔らかくて、ふんわりとし
ていて、ピンク色をしているような、そんなスイートなものだと思っていました。
けれども、聖書が語る愛は、 4 節から 7 節を読むと、「愛は忍耐強い。」という言葉に始まっ
て、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」で終わっています。こ
こにはスイートのかけらもない。
「愛はねたまない。自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、
恨みを抱かない。」このように書いてあるのを見ると、最初は、なるほどそういうものかと、す
んなり思いがちですけれども、けれども、よく よく考えてみると、ねたまない愛などあるのだ
ろうか、愛があるからねたむのではないかとか、 愛とは、それこそ自慢したいものですし、誇
りたいものですし、愛がある故に、礼を失すもやむなし 、ということだってあるのではないか、
とか、さらに、愛があるからこそ、恨みはつきものなのではないかとも、自分の経験からは思
えてしまいます。けれども、聖書が語る愛は、 それとはまったく逆なのです。
では、ここで「愛は忍耐強い」と言われていることとは、どんなことなのでしょうか? 忍耐
するとは、誰が何に対して忍耐するということなのでしょうか?
それは、相手の要望 や必要に対して、自分が、自分の欲求や必要を隅に置く、我慢するとい
うこと、もっとそれを一言で言えば、相手に従うということです。愛は情け深いとは、自分の
感情よりも、相手の情を優先するということ。妬まないとは、相手の幸せを喜ぶということ。
恨みを抱かないとは、自分が相手から受けた傷を、気に留めないということです。そういう仕
方で、相手の全てを我慢し、相手の全てを信じ、相手の幸せを望む。それが愛です。
森有正という哲学者はこう言っています。
「愛はその本性から言って悲劇的なものである。不
幸でないような愛は存在しない。」愛はその本性から言って悲劇的だと森有正が言うとき、彼が、
愛の本性として、主イエス・キリストの十字架を考えてい たということは明らかです。忍耐強
い、情け深い、ねたまない、自分の利益を求めない、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを
望み、すべてに耐える、 これはそのまま、十字架で、私たちのために命を捨ててくださった、
イエス・キリストのことです。 主イエスは不幸だったのか?私は、不幸という言葉は主イエス
に当てはまらないと思いますが、しかし確かに主イエスは、自分の幸福など、みじんも考えず
に、痛みと傷と犠牲を、私たちのために 負ってくださいました。そういう、具体的に、自分の
身を削ぎ落としながらの 、相手への献身、相手に従い、主イエスの様に相手に自分を分け与え
ること、それが、愛するということです。
ある解説書には、「聖書的な愛の第一の構成要素は、情愛ではなくて献身である。」とありま
した。愛するとは、 相手をただ好きになるとか、そういうことではなくて、さらにそれは、 捉
えどころのない愛慕の思いや、好ましく思う 雰囲気のようなものではなくて、 それは実践すべ
き掟なのだと、この掟という言葉は、英語で言えば、コマンドメントという、命令とか指令と
かいう風に訳すこともでも できる言葉なのであり、 それは、実際のかたちを持つ行動です。
ですから、神である主を愛し、隣人を自分のように愛するとは、 神様の言葉と御意志に、そ
して隣人の必要に、真剣に、具体的に答えて、従い、行動していくこと を意味します。そして、
主イエスが教えてくださったのは、そういう神を愛する愛の 実践を、実際に生きた時に、 愛の
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中を生きるという人生に参加した時に、私たちには、 初めて、愛というものがわかる。 そして
その時初めて、その愛から来る喜びと、命に、私たちは生きることができるようになるという、
そういう道です。
聖書における愛とは、使うことによって、初めて生きる愛です。 それは、使って少なくなる
ことはありません。 有名なタラントンのたとえが語っているように、愛は、誰の目にもつかな
い地面の中に埋めておいては、何も生み出さない ままで終わってしまって、神様のおしかりを
受けてしまうようなものな のですが、逆に、それは使っていくことによって、より豊かになり、
倍になって帰ってきます。愛とは献身なのです。相手に対して、具体的に自分の身を捧げるこ
とです。そして献身とは、捧げれば 目減りしていくものではなく、身を捧げれば捧げるほど、
その愛の中に入っていけば入っていくほど、 逆に自分を豊かに生かします。
大学 4 年生の時に、自分が牧師になることを最終的に決意したときのことを思い出しま す。
その時、クリスチャンではなかった祖父に、
「 お前は自分を犠牲にして人のために牧師になって 、
まだ若いのに頑張るなあ。」と言われたのを覚えているのですが、私は自己犠牲のつもりで、牧
師になろうと思ったのではありませんでした。私は、これは献金ということにおいてもそうで
すし、もちろん今朝のテーマの愛するということにおいてもまさにそうですが、献身は、神様
に従い、自分を捧げるということは、それは失う事ではなくて、得ることなのだということが、
私は献身を決意した その時点でちゃんと分かったので、献身しました。
神様に生涯を捧げて生きようと決心 することができたということは、それは、もうそれ自体
で素晴らしい神様からのプレゼントでした けれども、私は既にこれまでの献身の歩みの中で、
自分が神様に捧げている以上のことを、十分に与えられてきています。神様のために 、心を付
くし、魂を付くし、 精一杯生き ていくということは、実は、この自分自身を、最善の喜びに向
かって、フルアクセルで生かして行く、嬉しい歩みだったのです。
今朝の説教題を、
「喜びと力の源」と題しましたけれども、私たちの喜びと力は、どこから来
るのかというと、それは、神と人とを愛し、愛されるところから来ます。私たちは、地上を旅
する神の民です。そして、私たちの本国は天にありますと、聖書も語っていますように、私た
ちの軸足は、天国にあります。ですので、私たちの喜びと力も、辿りに辿っていけば、最終的
には、私たちの軸がそこにあり、本国がそこにある、 神様のところから来る以外にないのだと
思います。
私たちの中には、愛されたいという衝動があります。誰かに、仕事や、能力や、自分の容姿
や、そんなこととは関係なしに、この存在自体を愛されて、この自分自身を信頼してもらいた
いという欲求があります。そしてその愛は、実は、神様から喜びと力は、
「心を尽くし、精神を
尽くし、これは命を尽くし、という意味の言葉ですけれども、そして最後 思いを尽くして、つ
まり全身全霊、持っているものすべてを出し尽くして、あなたの神である主を愛 する」時に、
神様と人への愛に、自ら参加していって、その愛の交 わりの中に入っていく時にこそ、そして
その時にこそ、自分の中に、生き生きとした喜びと力が、自然とわき溢れてくるのです。
主イエスが語られた、
「 愛する」ということは、自分を捧げて相手の必要に答えることでした。
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そしてそれを語られた主イエス御自身も、まさにその愛を、生きられました。その時主イエス
は、必ずしも、無理をして、自分自身が空っぽになって、不幸になるような仕方で、私たちを
愛してくださったのではないと思います。主イエスも、私たちを愛することを、御自身の喜び
とされ、嬉しい思いをもって、私たちを愛してくださったの だと思います。確かに、主イエス
が十字架に架かられたとき、そこには耐えがたい苦しみと痛みが存在しました。しかし主イエ
スはその時、御自身がそこまでして私たちのために得てくださった罪の赦しと永遠の命を、そ
の受難を通して、この私たちが手にすることができる、ということを思い描かれて、受難の歩
みの中にも、ある意味での、喜びと嬉しさをもって、私たちが救われて喜ぶ顔を楽しみにされ
ながら、そのためにはどんな痛みでも、私の命さえも決して惜しくないと、そう思われて十字
架への道を歩まれたのだと思います。
十字架と言うと、悲しみ、苦しさ、忍耐、我慢、そういうイメージが強く打ち出されますし、
確かに表面に出て来る事実、福音書が描く受難の事実そのものは、苦痛を語るのですけれども、
けれども、その根本に目を向ける時、そこに確かにあるのは、その苦痛以上の私たちへの愛で
あり、神に従い、人を愛するという、聖書の要約である今朝の御言葉であったに違いありませ
ん。それは、悲壮感の漂う、義務的な愛ではありません。
よくバレンタインデーに、義理チョコをもらいましたけれども、神様の愛は、そういう義務
とか義理で、しかたなく与えるような愛ではありません。第一そんな 、義理とか義務などから
注ぐ愛では、その相手のために死ねません。主イエスの愛は、もう本当に心躍るほどの愛、あ
の人のためだったら、死んでも惜しくない、あの人の喜ぶ顔が見られるならば、痛みだって、
どんな我慢だって、喜んで引き受ける。 もうその愛に生きることによって、自分の存在全体が
躍動していくような、愛を与える自分自身が、そのことによって、何よりも、誰よりも生き生
きと、輝いてきてしまうような、そんな愛で、主イエスは私たちを愛してくださった。十字架
上の主イエスの血まみれの顔からのぞく眼差しには、そういう愛することの喜 びに生きる力強
さが満ちていたのだと思います。神様が私たちを愛してくださっている愛は、そのような愛な
のではないでしょうか。
そしてこれは、神様のかたちに似せて作られた私たちも分かる愛です。相手のために、この
自分を捧げたいと思うほどに相手を愛する時、この私たちも 、他からは得難い、喜びと力を、
そこから得ることができます。 神を愛する喜び、人を愛することのできる喜び、 その充実。こ
の愛し合いされる嬉しさ、楽しさを 、私たちにも味わわせたい 。その思いを持って、主イエス
は、「心を尽く し、精神を尽くし、思いを尽くして、 あなたの 神である主を愛しなさい。隣 人
を自 分のように 愛しなさ い。」 という、愛に生きる道へと、私たちを招かれたのです。相手を
愛するとは、それは、もっと具体的に言えば、相手を、愛するに値する存在だと認めること。
それは神様に対しては、神様を全身全霊を持って崇めるに値する方として、真心から礼拝する
こと。そしてそれは、隣人に対しては、人を、尊敬と愛に値する存在であると認めて、信頼し
て、その人と、真の意味での友となることです。 それは平たんな道ではないですし、だからこ
そ、忍耐強い愛が、その道を歩むためには必要ですが、そこには、私た ちが本当に手ごたえと
生きがいと、深い、根本的な幸せを感じて生きることのできる、私たちを生き生きと生かす道
があります。
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