暗闇から光へ

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エフェソ書の福音 13
暗闇から光へ
5:3-14
前回、4 章の後半でも学びましたように、使徒パウロはここでクリスチャ
ンの道徳的な原則を、その信仰の根本から出発して非常に具体的に指示を与
えています。
この前の所では、「この程度の嘘と盗みは許されるだろう……」というよ
うな考え方が果たして神の前に有り得るのか、また人に対する憎しみや苦々
しさを……「私自身、弱い人間なのだから」という理由に甘えて、いつまで
もグズグズ保存していてもいいのか……、この世が許す程度の不潔はつき合
い上、口を合わせる位のことは仕方がないのか……、というような問題につ
いて、最も明快に「キリストを仰ぐ者にとっては、それは完全に脱ぎ捨てる
べき古い人のカスである!」とパウロは断定しました。
今日の所は色々な言葉で表現してありますが、例えば 3 節の「不品行と汚
れ」、4 節の「いやしい言葉と愚かな話」、12 節「彼らが隠れて行っている
こと」……という風に少しずつ表現は違いますが、結局人の体に関わる罪、
特に男女の清い道徳を壊す罪です。
実はこの後、やはりとても具体的なことがらが取り上げられて、次の区分
では、信者は酒をどう扱うべきか、その次の所では夫と妻はお互いに相手を
どのように見て遇するか、6 章に入ると親と子、主人と奴隷……というよう
な問題にパウロは触れます。もちろん新約聖書は、こういうことについての
教訓集やルール・ブックではありません。信仰の根本をしっかり見極めたら、
例えばこの問題についてはどんな考え方をするか……という方向付けのヒン
トのようなものが、スバッ、スバッと直截に書いてある。チョクセツと読む
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のが正しいかも知れませんが。
ところで、どうしてここで取り立てて人間の体の尊厳を汚す罪が取り上げ
られるのか……、これはローマ書の 1 章などでもそうでしたが、不思議と言
えば不思議です。特に 6 節の 2 行目「これらの罪の故に、神の怒りは不従順
の子らに下る」とあり、5 節の 3 行目では「かかる者は、キリストと神との
国をつぐことができない」という位です。
昔の教父たちの中には、この言葉から「クリスチャンにとって、性の倫理
を乱す罪は他の罪より重い罪、赦されない罪なのだろうか」ということを真
剣に論じた人たちもいました。七つの大罪とか小罪というような分類がなさ
れた時代のことです。
私自身は、罪の軽重のランク付けというようなことは聖書の信仰にはない
と思いますが……、この特筆大書の理由は……少なくともこの罪を軽く見て、
ルーズに振る舞っていると命取りになる、という強烈な警告なのだろうと思
います。これは、この世の評価とは対照的です。
1.この世が大目に見るものに騙されるな。 :3-7.
ここは解説なし、実例なしでこのまま読みますが……二、三、日本語の習
慣とは違う単語や、それに言葉を飾って和らげてあるために正確な意味を伝
えていない所だけ指摘しておきます。
先ず初めの「不品行」と訳してある語
は、男女のルーズな関係を
全て含む語で、文学や映像芸術の上では美しいものとして描かれていても、
実は醜悪で結局は悲しく惨めな関係を言います。聖書がどうして結婚という
ことをそれほど大事に考えるか……というと、それは決して社会的習慣や手
続きを神聖化して権威づけるためじゃないのです。
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神の前に一生を共にして誠実を守るという、神の定めに服する時にだけ、
人間は自分の魂の尊厳と体の尊厳を全うできるからです。これ以外にもっと
新しい哲学や習慣はいくらでもあります。けれども、結局空しさと汚辱に終
わるだけであることは確かです。
7 行目に、「貪欲」という言葉が出てきますし、12 行目、つまり 5 節の 2
行目にも「貪欲な者」という語が出ます。文字だけの意味は、自分の欲しい
ものを際限もなく手に入れようとして、いくら手に入れても満たされない醜
い姿が
というのですが、こういう文脈での用法は、自分の欲望
に振り回されて、ブレーキの利かない悲劇的人間を指します。神の定めた清
い道に背を向ける時に、人間は悲劇的にコントロールを失って、欲望と感覚
だけが独走して、人間が人間でなくなってしまうことを、聖書が早くも 1900
年前に喝破しています。
最後に 4 節の 2 行目、「愚かな話」と「みだらな冗談」という所……前者
は酔人のたわごとのような、聞くに堪えぬ乱暴な言葉……心あ
る人ならクリスチャンでなくとも眉をしかめるような話。後者
は、教養ある気の利いた猥談という感じで、下品になる一歩手前で機知と教
養で味付けしてあって、いっそう人の感情をクスグル話。こんなのを 1900
年も前から知識人の社会でやっていたのです……テレビもない時代からです。
これはこの世が大目に見て感心するものですが、パウロはそれもやっぱりモ
ロに下品なものと同じようにキッパリ捨てよと言った。では、読みます。
3.また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あな
たがたの間では、口にすることさえしてはならない。 4.また、卑しい言葉と
愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。
それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 5.あなたがたは、よく知っておか
ねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわ
ち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。 6.
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あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのこ
とから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。 7.だから、彼らの仲間に
なってはいけない。
2.この世の暗い面が照らされて、浮き上がる位の生き方をする :8-14.
往々にしてこれと反対に、自分がこの世から浮き上がった特別のものと見
えないように、できるだけ小さくなって、道徳的にも同じレベルに埋没して、
自分をカモフラージュしがちですが、パウロはそうじゃないと教えました。
「光の子らしく歩け」という言葉があります。「光の子」というのは、暗
黒や不潔と縁を切った人、光の性質を受けて新しく生まれた者という意味で
すが、あなた自身それであるという自覚を持てということですね。しかも「暗
闇の子」と「光の子」というだけではなく、あなた自身が光になっている、
自分の力で光っているのではないが、主のお蔭で、主の力であなた自身が暗
闇そのものから光そのものに変えられた……という言い方がまことに鮮やか
ですね! 朗読します。
8.あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。
光の子らしく歩きなさい― 9.光はあらゆる善意と正義と真実との実を結
ばせるものである― 10.主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知
りなさい。 11.実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指
摘してやりなさい。 12.彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも
恥ずかしい事である。 13.しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明
らかになる。 14.明らかにされたものは皆、光となるのである。
「この世の暗い面が照らされて浮き上がる位、光として輝け」というわけ
ですが、11 節から 14 せつまでは真正面から額面通りに受け止めてみると、
ちょっと分かりにくい矛盾したところもある……と昔から言われてきました。
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つまり 12 節「彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかし
いことである」これから行くと、それを言葉で指摘して注意を促すことさえ
罪になる……、ところがやっぱり 11 節では「(彼らのその不毛な暗闇の業を)
指摘してやりなさい」、そして 14 節で「明らかにされたものは皆、光となる
のである」と書いてあります。
ここの所を実際にどう理解するかというと、一つは、こういう周りの人た
ちの暗闇の行為は口で指摘できる限界を超えているから、クリスチャンは自
分たちの生き方自体で無言の抵抗ができるだけだ……と解するわけで、
F.F.Scott とか Francis Foulkes 等がこう見ています。これが解釈上の理屈み
たいに聞こえる人は、まだ安全圏にいるので幸いですが、実際我々の身の回
りでも、仕事が終わったら社員の親睦のためにブルーフィルムを映写する会
があるとか、社員を人生経験と称して行かなくてもよい場所へ連れて行く職
場とか……この世というものは落ちる所まで落ちているわけです。私どもも
何年か前にそういうことにぶつかりました。そういう場でどう行動するか…
…という問題に真剣にぶつかった人たちにとっては、これは解釈上の理屈で
はないのです。
他方、やっぱり「闇の業を指摘せよ」ですから、「口にするだけでも恥ず
かしい」を黙っている言い訳にはできない。
「口にするだけでも恥ずかしい」
というのは「言ってあげてもいけない」という掟みたいに取る必要はあるま
い……と考える人たちもいます。
確かに若い新入社員にとって、できる限度は「私は行きません」と言う位
で、これにだってかなり勇気がいるでしょう。しかしクリスチャンで責任あ
る地位にいる人、同僚や部下に自分の考えを言える立場にある人は……状況
により、相手により、また自分の力と勇気により、はっきり口に出して「そ
れはかくかくしかじかの理由で正しくない!」と言えるのではないか!
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たとえば E.K.Simpson はこう説明しています。この世の堕落と悪徳には二
つの種類がある。一つは清められた唇にはのぼせられないようなもので、い
わば腐敗して悪臭を発している死骸みたいなものだから、視界から葬り去る
以外に方法はない。―つまり口で言うことも避けよ、というわけです。あ
なたの友人の行為の中にもそれはあるのかも知れない。
だが、そこまでアレルギーのように口をつぐまなくてよいものもある。言
葉ではっきり指摘して、天の光を当ててあげられる不正もある。……と、そ
こから 13 節につないで考えるわけですね。「光にさらされる時、すべてのも
のは、明らかになる」ここから 14 節へどうやって飛躍するか……。罪の罪た
ることを知って光を仰ぐから、キリストの清めの力を受けたいと考える、心
ある人もあろうから……ということで「明らかにされたものは皆、光となる」
さて、あなたはどうお考えになるか。何処で線を引いてどう抵抗なさるか
……。それは一人ひとりの信仰の質にもよるし、その人の性格や弱さや賜物
にもよろうし、相手の人との関係や相手の罪の種類にもよるもので、あなた
が決めるしかない。
《結びと勧め》
:14b.
だから、こう書いてある「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から、
立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」
これは詩の形になっていまして、多分初代教会の洗礼式などで歌われたも
のだろうと言われます。私が読むと詩に聞こえるかどうか自信はありません
が、少なくともそのリズムの感じがお分かり頂けるでしょうか……。
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どうして洗礼式の歌とされるかというと、一つの理由は、ヘブライ書など
にもありますように「光を受ける」という表現が、入信と受洗の体験に言及
することが多いからです。
この中には三つの大事なことが、比喩の形で描かれます。
1.眠りから起きること……つまり罪や不潔はこのままでいいとアグラをか
いているこの世の生き方から、
「これではいけない。主よ助けて下さい」
と上を仰ぐことです。
2.死人の中から立ち上がること……これは自分の大決心だけではできませ
ん。キリストを信じて、浸されて、聖霊を内に頂くことでこれが始まり
ます。
3.キリストに照らされて、あなた自身が光に変えられて行くこと。
あなたがもし、主を仰ぐ決心の機会を求めてているとしたら、この言葉は
あなたに宛てられていると思ってください。
(1981/07/12)
《研究者のための注》
1. 14 節の詩が、たぶん洗礼式の歌ではないかというもう一つの理由として、昔のギリシ
ャ語の入信式の歌にこれと同じリズムのものが多かったことを Bruce は指摘していま
す。なお、この詩は旧約からの引用でありませんが、イザヤ書の言葉からかなり暗示
されているように思います。例えば 9:2、26:19、52:1、それに 60:1 です。
2. 「明らかにされたものは皆、光となる」は、自分の罪のありのままの姿を示されて悔
い改める人の場合ですが、しかしかえって心を閉ざす場合も出てきます。ヨハネ福音
書 3 章の 20 節と 21 節は、二つの全く違った反応を対照させています。
3. 初めの方に戻って、3 節の言葉の前とのつながりのことですが、ここでキリストの愛
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がどれだけ徹底した清いものであったかを高く掲げて、愛の内を歩きなさいと言った
すぐ後で、どうして再び具体的な罪の話になるか、特に男女の性の倫理を乱す罪が取
り上げられるのか、見方によっては少し唐突にも聞こえます。Francis Foulkes は、
これは姦淫とか自堕落な関係における性の悪用・逆用が、結局相手を道具にして自分
の欲望追及にのめり込むから、また人間性の尊重や人格の受け入れよりは、あくなき
欲求が一人で暴走するという形で、2 節に示された愛と全く反対の例をなすからだと
説明します。とすると 2 節から 3 節への移行は決して唐突ではないわけで、25 節から
始まった一連の具体的な勧めの中で、一度ひとつのクライマックスで結んでから、愛
という 2 節の言葉から対照的に暗示されて元のテーマの続きに戻ってきていることに
なります。
4. 3 節の不品行
は、
娼婦に由来する語で、元々の意味は娼婦と金銭取
引で交わることですが、聖書では神の定めに反した男女の乱れた関係全般を指して
と言います。もう少し狭い言葉としては、
が男女の一方または双方
で配偶者への裏切りを含む概念「姦淫」であるのに対し、
の方は広くあらゆ
る場合の性的不道徳を含む語です。ここでは
をも含み、ローマ
は
書 1 章 26 節以下のような倒錯を含むのみならず、正しい結婚関係以外の交渉をもその
中に含む広い意味と取ってよいでしょう。現代の風潮としては、自由な男女の関係に
は、道徳的に不潔や汚辱はあり得ないと考え、人間として少しも恥じる所のない明る
い行為であると考えるのですが、聖書がそういう自由な男女の自由な交渉までも
の一語で断じ去る理由は、本文中でも申しました通り、決して結婚式という
社会の慣例を神聖化しているからではなく、人間はやはり神が定めた清い道……つま
り一人の男と一人の女が生涯を共にするという謙遜な生き方以外の道では、人間とし
ての尊厳を本当には保ち得ないからで、結局は二人の人が神を畏れて、人としての定
めを守るか……と言う点に帰着するものです。
5. 性的不道徳や無軌道的自由主義者を 5 節で「貪欲者」
と呼ぶ理由は、肉の
欲望をノーブレーキにして甘やかし、人間性よりも欲望を暴走させるから……という
ことは本文中でも述べましたが、これに対し、その次の「偶像を礼拝する者」
とこれを同格にして同一視する理由は三つ考えられます。一つは、例えばコ
リントなどでもあったように、アフロディティ礼拝などの神殿における礼拝行事の主
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な部分は神殿娼婦と交わることにあったわけで、そういうことから異教の礼拝は常に
性的自堕落と結びついています。ホセア書 2:6、エゼキエル書 23:37 などが参考箇
所です。申命記 12:30 では、彼らの礼拝の仕方を描写して口にすることまで禁じられ
ています。ところで、
と
が同じような文脈でイコールと
して語られているのは、コロサイ書 3:5 です。
理由の第二は、人間が欲望の対象を神よりも大事に思ってしまうためで、Francis
Foulkes もこの点を指摘します。フィリピ書 3:19「彼らの神はその腹」という言葉
が、この角度からのヒントになりましょう。
6. 最後に 4 節の終りに、「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避け、その代わりに
感謝を捧げなさい」という所、この三つのものと感謝がどう対立するかです。カルビ
ンなど一部にはこの
を感謝と取らずに gracious speech つまり上品な言
葉と取る人もいますが、これではかえって意味を弱めるでしょう。むしろ神から与え
られた口というものは、そんな愚かな言葉を出すためのものではなく、神に感謝を捧
げる用途にこそ使うべき清いもの―という点が対照の中心でしょう。
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