- 1 - 2014年6月15日 目白町教会主日礼拝説教 「命の道と死の道

2014年6月15日 目白町教会主日礼拝説教
「命の道と死の道」 エレミヤ書 21:1~14
松
木
信
[新共同訳]
1節
ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ゼファニ
ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ゼファニ
ヤが来たとき、主からエレミヤに臨んだ言葉。彼らは言った。
2節
「どうか、私達の為に主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルが私た
ちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、私達にもして
下さるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう。」
3 節 エレミヤは彼らに答えた。
エレミヤは彼らに答えた。「ゼデキヤにこう言いなさい。
4 節 イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前達を包囲しているバビロンの王や
イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前達を包囲しているバビロンの王や
カルデア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、私はその矛先を城壁の外
カルデア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、私はその矛先を城壁の外
から転じさせ、
から転じさせ、この都の真ん中に集める。
させ、この都の真ん中に集める。
5 節 わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前達に敵対し、怒り、憤り、激怒して戦
わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前達に敵対し、怒り、憤り、激怒して戦
う。
6 節 そして、この都に住むものを、人も獣も撃つ。彼らは激しい疫病によって死ぬ。
7 節 その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、
疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った
疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者
き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァ
ルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもっ
ルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもっ
て撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
8 節 あなたはこの民に向かって言うが良い。主はこう言われる。見よ、わたしは
あなたはこの民に向かって言うが良い。主はこう言われる。見よ、わたしはお前た
わたしはお前た
ちの前に命の道と死の道を置く。
9 節 この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲してい
るカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。
るカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。
10 節 わたしは、顔をこの都に向けて災いを下し、幸いを与えない、と主は言われる。こ
わたしは、顔をこの都に向けて災いを下し、幸いを与えない、と主は言われる。こ
の都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる。」
11 節 ユダの王家に対して。 「主の言葉を聞け。
12 節 ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人
を虐げる者の手から救い出せ。わたし
を虐げる者の手から救い出せ。わたしが火のような怒りを発することのないように。
わたしが火のような怒りを発することのないように。
お前たちの悪事の故にその火は燃え、消す者はいないであろう。
13 節 谷に臨んで座する者よ、平野の岩よ。見よ、
谷に臨んで座する者よ、平野の岩よ。見よ、わたし
。見よ、わたしはお前に向かう、と主は言わ
わたしはお前に向かう、と主は言わ
れる。『誰が我々に襲い掛かるであろうか、誰が我々の住まいに攻め寄せるだろう
か』と言う者よ、
か』と言う者よ、
14 節 わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いると主は言われる。わたしは火を周
わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いると主は言われる。わたしは火を周
囲の森に放ち、火は全てを焼き尽くす。」
[説 教]
本日のテキスト、エレミヤ書 21 章は 3 つの部分に分けられます。第一は 1 節から 7 節、
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第 2 は 8 節から 10 節まで、第 3 は 11 節から 14 節までです。
最初の部分、 1 節から 7 節までは、ユダ王国の最後の国王ゼデキヤがバビロニア帝国に
反旗を翻したため、バビロニアの大軍が押し寄せてエルサレムの都が包囲された時、主な
る神ヤハウェの助けを期待して、ゼデキヤ王が祭司ゼファニヤをエレミヤのところに使わ
して神の御心を尋ねさせた時のことが記されています。
この時神は、国王の期待に反して、
バビロニア軍の側に立ってユダ王国に敵対して戦い、国王も家臣もエルサレムの住民も敵
の手に渡され、エルサレムは陥落、ユダ王国が滅び去ることを激しい怒りの言葉で告げら
れるのです。
次の 8 節から 10 節までには、同じ時に、主なる神ヤハウェが、エルサレムの一般住民
に対して伝えるようエレミヤに語られた言葉が記されています。その内容は、神はエルサ
レムの住民の前に命の道と死の道を置く。都を出てバビロニア軍に降伏する者は命が助か
るが、都に踏みとどまっていつまでもバビロニア軍に抵抗する者は、戦いと飢饉と疫病に
よって死ぬほかは無い。どちらの道を選ぶのか、助かりたい者は早くバビロニアに降伏し
なさい。主なる神はエルサレムをバビロン王の手に渡され、災いを下し、火で焼き払われ
るのだ、と言うものでした。
最後の 11 節から 14 節までは、エレミヤを通してユダの王家に対して語られた神の託宣
で、次の 22 章に続くものです。これが語られた時代は、上記 1 節から 10 節までとは異な
り、エルサレム陥落の 10 数年前、ゼデキヤの前の前の国王ヨヤキムの時の預言と考えら
れています。ここには、ダビデの王家は神に守られて永遠不滅であり、神の都エルサレム
が敵の手に落ちる事は無いと言う安易な信仰に立って、驕り高ぶり、弱者を虐げる悪い政
治を改めようとしない権力者・指導者に対して下された、神の厳しい警告と裁きの言葉が
記されています。この部分は、 1 節から 10 節までの預言とは語られた時期が違いますし、
内容も次の 22 章と共通するものですから、22 章と一緒に次回に取り上げた方が良いのか
もしれませんが、 1 節から 10 節に示されている主なる神の激しい憤りと厳しい裁き、バ
ビロンではなくユダ王国とエルサレムが滅びなければならないという、ユダの人々にとっ
ては到底受け入れることのできない驚天動地とも言うべきエレミヤの預言の理由・根拠を
知る上で、 1 節から 10 節までと一緒に読んで学んだ方が良いのではないかと考えて、本
日のテキストに入れました。
本日のテキストには、エレミヤの預言の核心的部分が語られています。すなわちイスラ
エルの神ヤハウェはバビロニア軍を率いてエルサレムを攻撃し、ユダ王国を滅ぼす。だか
らバビロニアには抵抗せず、早く降伏しなさい、それが君たちの生きる道だというもので
す。 4 節以下をもう一度読んでみましょう。容赦のない、厳しい、激しい神の言葉です。
「イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前達を包囲しているバビロンの王やカル
デア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、私はその矛先を城壁の外から転じさ
せ、この都の真ん中に集める。わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前達に敵対し、
怒り、憤り、激怒して戦う。そして、この都に住むものを、人も獣も撃つ。彼らは激しい
疫病によって死ぬ。その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、そ
の民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカド
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レツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもっ
て撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。」エレミヤはこのような預言を以前からしば
しば語ったと思われます。ですから支配者層からは勿論のこと、エルサレムの住民たちか
らも非難され、憎悪の対象となったのです。愛国心を持たない敵のスパイ・偽預言者・敗
北主義者などと罵声を浴びせられ、命まで狙われたのです。そのために彼が悩み苦しみ、
落ち込んで、自分が生まれてきたことを呪ったほどだった事は、前回 20 章で学びました。
今回、戦争の真っ最中、しかも敵の大軍に都が包囲されているその都の真っ只中で、しか
も国王からの使者に対して、このように歯に衣を着せず語ったと言うのは大変なことです。
第二次世界大戦中のこの国、日本の状況が思い出されます。
「一億一心、火の玉だ」
・
「撃ち
てしやまん」・「鬼畜米英」といった言葉や張り紙が氾濫していました。多くの日本人は敗
色が濃厚になっても、大本営発表に欺かれ、元寇の時のように神風が吹いて最後は日本が
勝つと信じて戦争の困難に耐えていました。そのような時、戦争を批判したり、負けるな
どと言うことを口にすれば、まわりの人々から袋叩きに遭い、あるいは警察に引っ張られ
て留置場にぶち込まれることもあったのです。もし日本が数カ月早く降伏していれば、沖
縄が戦場になることも無かったでしょう。日本の多くの都市が空襲によって焼け野原にさ
れることもなかったはずです。もちろん広島・長崎に原爆が投下されることもなかったの
です。しかし日本の指導者は降伏の決断を下すことができず、多くの犠牲者を生み出して
しまいました。エレミヤの預言に耳を貸さず、当時の西アジアの国際情勢の中で道を誤っ
て国を滅ぼしたユダ王国と、 2500 年後の 20 世紀、戦争を積み重ねる歴史を歩んだあげ
く、降伏をこころよしとしないで時期を失し、多くの犠牲を出したこの国の歴史を比較し
てみると感慨深いものがあります。
11 節から 14 節でも、エレミヤはユダの王家に対して遠慮会釈なく、神の厳しい裁きの
言葉を語っています。先ほど申しました戦争中の日本の状況を考えてみましても、エレミ
ヤのこのような発言は驚嘆に値します。しかし生まれながらのエレミヤはこのように勇気
凛々、鋼のような意志を持った強い人だったでしょうか。そうではなかったように思いま
す。最初に神の召命を受けた時もウジウジしていました。預言者としての人生を歩みはじ
めてからも、戸惑い、思い悩み、自分が生まれて来たことを呪い、預言者を返上したいと
さえ思ったことのある人物だったのです。真面目で、真実一筋に、神第一に生きた人でし
たが、必ずしも勇気に満ち溢れた強い人だったようには思われません。私たちと同じよう
に人間的な弱さを十分に持っていた人のように思われます。そのようなエレミヤが何故こ
こでこのような堂々たる勇気に満ちた発言ができたのでしょうか。それはエレミヤという
人間にはできないことでした。主なる神ヤハウェが、いわばエレミヤを乗っ取って、エレ
ミヤを神の道具として、エレミヤに神の言葉を語らしめたのだとしか考えられません。元
来、預言者とはそういうものだと思います。実は、この時のバビロニア帝国も神に乗っ取
られ、神の道具として使われたのでした。 5 節に「わたしは手を伸ばし、力ある腕をもっ
てお前達に敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う。」と記されている通りです。エレミヤが勇
気あるように見えるのは、エレミヤの力ではなく、すべてのものを凌駕し、すべてを支配
したもう神の力なのです。
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このことは私達に勇気と希望を与えてくれます。私たちは弱い存在です。もしまた、 17
世紀、徳川時代の初めにあったようなキリシタンに対する迫害が今の日本に起こったなら
ば、果たして私たちは殉教の死を選ぶことができるでしょうか。私などは真っ先に転びキ
リシタンになってしまうのではないかといつも思っています。殉教などと言う大げさなこ
とではなく、日常の些細な事柄で、いつも日和見主義でウロウロしている弱い存在なので
す。しかし、私たちがどんなに弱くても、神様が私たちを乗っ取って下さり、私たちを道
具として用いて下さるときには、私達は人間の力ではなく、神の力を頂いて生きることが
できるのです。神様は、あらゆる奇跡を現してくださる、人間には計り知ることのできな
い力ある方なのです。生まれつきの意気地なしが神様の知恵と勇気を頂いて生きることが
できる、エレミヤの生涯はこのことを有力に物語っています。私たち弱い者にとって、こ
れ以上の希望はありません。
今日の説教題を「命の道と死の道」としました。 8 節の「見よ、私はお前達の前に命の
道と死の道を置く。
」から取りました。その昔、主なる神はエデンの園でアダムとエヴァに
この 2 つの道を選択する自由をお与えになりました。そして人間は神に背いて死の道を選
び、死すべき存在になったと創世記の物語は伝えています。しかし主なる神は今に至るま
で、この 2 つの道を選ぶ自由を私達人間に与えて下さっています。
これは人生の事実です。
人生途上私たちはいつもこの 2 つの道の選択を迫られています。 「死の道」ではなく「命
の道」を選びたいと思いながら、どちらが「命の道」なのか「死の道」なのかもわからず、
絶えず迷っており、後から間違いだったことに気づくことも多いのです。どうしたらよい
でしょうか。 「命の道」とは「神に従う道」、
「死の道」とは「神に従わない道・神に背く
道」と言い換えることができると思います。エレミヤのように「神に従う道」を歩む者が
「命の道」を歩むことになるのだと思います。 「神に従う道」は神様に教えていただかな
い限り分かりません。神様に祈り、神様に教えていただいて初めて「命の道」にたどり着
くのではないでしょうか。信仰生活において「祈り」が大切だと言われる理由の 1 つはこ
こにもあるのではないでしょうか。神・キリストの栄光が現れますようにと祈り、私達が
「命の道・神に従う道」を間違いなく選び取りながら、この人生を歩むことができるよう
にと祈る、この祈りを深めながら信仰生活を歩んで参りましょう。
以上
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