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表紙画像:wikipedia より 「開聞岳」
―第三巻 望郷編―
ロサンゼルス徒然草
浜 崎 慶 嗣 目次
私の「ふるさと」 ―まぼろしの里 フレスノ― 母の死を悼む 「私のカミさん」脱線記 ―「山の神」を語る― 加毎のトンボ ―倉島記者その功と罪― 夕陽は南冥の空を染め…… ―カーボ・サンルーカスの旅― 日本便り マー子とミー子のこと 待つ ―わが青春の懺悔録より― 邂逅(めぐりあい) ―センチメンタル・ジャーニー― 「浅草物語」 オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」 一口落語「洒落は楽し」 笑う門には福来たる カワズ
落語「馬と蛙」 4
6
18
26
34
43
50
58
63
69
77
85
90
97
目次
ローマン ブ
ロ
落語「浪漫風呂」 5
色道説法「凹」 ヒャクト
百兎を追う ―誰が為 何を書くべきか― ち ぶ さ ものがたり
女体百科 乳房 物 語 女体百科「体型と性格」 セガレ
「倅」の話 ―ポール男爵とホーデン侍従― ウタ
シ
むかしの歌には詩があった ―校歌・寮歌編― チュウ
ト
ウマ
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」 ―となりのチンちゃんのこと― ユアサ マ サ コ
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」 アイ
愛した スった かいた ―死と墓碑銘― 注:この作品集は故人である著者がロスアンゼルス在住
中 に、 当 地 の 日 系 人 向 け 雑 誌「 T V フ ァ ン 」 に 連 載 し て
い た も の を ま と め た も の で す。 一 九 八 〇 年 代 前 後 に 執 筆
さ れ た も の で あ り、 そ の た め、 表 記 や 社 会 通 念 等、 現 代
と は 若 干 異 な る 場 合 も あ り ま す。 今 回 は で き る だ け 往 時
のままの記述で編集しております。ご了承ください。
174 164 157 148 142 130 124 116 111 104
私の「ふるさと」
―まぼろしの里 フレスノ―
私は「アメリカ生れ」である。いや、小さい頃からそう聞かされて育った。そこで私は
初めて(実際には生れた時を含め三度目であるが)このアメリカの上を踏んだ四半世紀
6
前、
「私が本当にアメリカで生れ、現在でも法律上アメリカ人として政府の公文書に登録
されているか」確めてみたくなり、同生地と聞かされていたフレスノの市役所へ出かけ、
調べてみたことがある。
古びた市庁合の中の古びた薄暗い戸籍課の中から、これまた古びた(?)婦人が、うさ
んくさそうな風態のこの「変なアメリカ人」を鼻めがねの上からのぞきながら、「ハイ、
頁より転写)
これ」と言って差出した書類には、こう書かれてあった。
巻
39
カリフォルニア州出生局
人口動態統計課
(フレスノ市保存簿書第
18
私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
「出生証明書」
出生地=フレスノ市E街五六二番地
出生日時=一月一日午前 時
父=慶(
出産取扱い医師=G・K・ハシバ(橋場?)
才)日本生れ
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父母の現在所=フレスノ市F街九二二番地
右記記載事実は、法に従い当庁に保存されている原本より正しく転写したものであるこ
とを証明する
届出受領者=ハーゼル・ペリー
新生児濃漏眼予防薬「ネオナトリーム」点眼済
出生届受領日=一月五日
母=静子( 才)ワシントン州シアトル生れ(これは誤記帳である。母はれっきとした
日本生れ。なにかそう申告せざるを得ない特別な事情でもあったのだろうか)
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カリフォルニア州知事 J・L・ブラウン
(代)郡記録書記 E・ジョンソン
7
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「やったァー!」
「あった、あったゾー」
市庁舎玄関を飛出した瞬間、ボクは思わず叫んだ。子供の頃、よく母から「アンタはア
メリカで生れたのよ」と聞かされ、また日本の戸籍謄本にも、「アメリカ合衆国カリフォ
ルニア州 フレスノ市 イノ街(E街の間違いか)生れ」と記載されていたので、それが
本当かどうか半信半疑であったボクにとって、これで正式にその事実が証明されたわけで
ある。
「それにしても四半世紀以前の記録がよくまアー残っていたもんだ!」
という感嘆の方が大きかった。
州(市)の記録だから残っているのが当然と言えば当然だが、敵国人として抹消されて
も文句は言えないあの、日系人が迫害され強制収容された第二次世界大戦の魔の時代を経
て「よくぞ残っていてくれた」という感激……。なにかこう永く離れていた恋人に会った
ような懐しさがこみ上げた。
想えば遠い昔の話である。父が渡米(実際には当時皆そうであったように一旦メキシコ
に渡り、その後、越境入国した密入国者だったらしい)したのは父が十六才の時だったと
聞く。その父が色々な転業を転々とし二十を過ぎてやっと田舎(父母は同郷)から嫁(つ
まり母)を迎え、どうにか生活の基礎もできた(当時両親は百姓の外、小っぽけな八百屋
8
私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
をやっていたと聞く)ところへ第一子(つまりボク)が生まれたのだ。その喜びはいかば
かりであったろう……。
裕富とは言えないまでも幸福の絶頂にあった、今のボクよりズーッと若かった、懸命に
働く夫婦の姿が日に浮ぶ。父は私の出生を届け出るために寒い冬の朝早く乗用車(いや案
外、仕事用のオンボロトラックだったかも知れないゾ)をかって遠路サンフランシスコの
総領事館まで単身出かけたんだろうか。そして帰途、このコピーと同じ出生証明書を胸に
し、そしてそれを時々胸ポケットから取出しては眺め「これでオレはアメリカ市民の父親
だ。もう逃げ隠れじし暮らす必要ないゾ」と嬉々として母の許へ帰ったんだろうか。十六
の時から独りブランケットを担ぎ季節労働者として荒野を放浪した身(?)にとって妻と
子を得たその胸中の喜びはいかばかりであったろう……。
「 お 父 さ ん、 お 母 さ ん、 こ ん な 辺 鄙 の 地 で 長 い 間 苦 労 し た ん だ ネ ……」。 そ う 思 っ た 途
端、ふがいなくも急に涙がポタポタしたたり落ちた。そしてその涙ににじむ出生証明書を
ボクは思わず抱きしめた……。
「イクスキューズ・ミー」
もう昼食時なんだろう。背後を振り向くと市庁舎玄関からゾロゾロ職員が出て来た。空
を見上げると雲一つないフレスノの空が青く澄みわたり、霞んだ目に眩しかった……。
9
人間、誰でも、いつでも、自分の生れた土地というものには興味があるものだ。
「どんなところで生れたのかな」
「父母と住んだその家はまだあるかな」「病院で生れたと
聞いたが、その病院まだあるだろうか……」
当時そんな想いから、フレスノ市役所を出たその足で「フレスノ市E街五六二番地」を
訪ねた記憶がある。
「アノー、この辺に病院があった筈ですが……」
「アー、あの病院はフリウェーーができた際、取壊され、今は橋の下だよ」
と古老に言われた記憶がある。本当だろうか。それに両親の住んでいた「F街の九二二
番地」というのも、もう今はないのだろうか。それに医者の「橋場先生」……もう生きて
おられないだろうな……。
それにしても筆者がこのように「わが出生」にこだわるのも、案外筆者がいつの間にか
馬齢を重ねた証しということだろうか。人間、年を重ねると生れた土地を想う心、その情
感は深まるものらしい。
いま静かに目を閉じると室生犀星のあの有名な詩が想い起こされる。
「ふるさとは 遠くにありて思うもの そして 悲しくうたうもの」
だが、犀星のこの詩は単なる「郷愁」を歌ったものではない。実は怨念の句なのであ
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私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
る。言うまでもなくその後に続く詩「よしや、うらぶれて、異土の乞食(カタイ)となる
とても 帰るところにあるまじや」を見ればわかる通り、不遇な少年期を過した「ふるさ
と」金沢市裏千日町は、犀星にとって、たとえ乞食になったとしても帰れない土地なのだ。
それにくらべ、私のふるさと「フレスノ」はどうだろ う。たとえ、家や親戚はな くと
も、その気になれば車で三時間ほど、何のわだかまりもない、いつでも訪れることのでき
る土地だ。
ところが残念ながらその「フレスノ」はボクにとって想い出の残る本当の意味での「ふ
るさと」ではない。
「人間には肉体の生れ故郷の外に「心の生れ故郷」―その思想や、心の癖や育てて貰った
故郷―というものがある」
「劇と文学」
)
、つまり私にとって「フレスノ」は「肉体の
と言ったのは坪内逍遥だが(
生れ故郷」でしかない。
山河の風景も、町のたたずまいも、心象としてとどめるほどのものは何もない。それも
その筈、幼時、つまり物心がつくかつかない頃、母に連れられ日本へ帰ったからである。
そう、逍遥の言う「思想や心の癖」がはぐくまれたのは、実は、わが第二の故郷……日本
の最南端「鹿児島」である。
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わが心の里……鹿児島
「山柴水明の地、偉人を生ず」と言う。
古来、
西郷隆盛や大久保利通などの明治維新の功労者、東郷平八郎提督や大山厳元師などの偉
大な軍人、山本権兵衛や黒田清隆などの総理大臣のほか、文教面では森有礼(初代文部大
臣)
、警察畑では川路利良(初代警視総監)
、芸術面では東京美術学校(現・東京芸大)の
初代洋画科教授で、帝国美術院(現・日本芸術院)院長を務めた黒田清輝画伯や、その弟
子で第一回文化勲章受章者の藤島武二画伯など、幕末から明治、大正、昭和にかけて綺羅
星のごとき数々の偉人を生んだ鹿児島……。
日本の最南端に位置し、錦江湾の碧波を隔てて遥かに大隅の翠巒を眺める風光明媚の
地、鹿児島は「日向」
「大隅」
「薩摩」の三州から成り立っているが、私の多感な少年時代
を育くんでくれた山河は薩摩半島の最南端、薩摩富士こと、秀峰「開門岳」の山麓に横
臥っている。
詳しく記述すると、JR鹿児島駅から指宿線に乗り換え、約一時間(四十八・九キロ)
海岸線を南下すると、
「砂むし風呂」で有名な「指宿」に着くが、そこから更に汽車で七
分(四・三キロ)揺られると、昔、島津藩の南方密貿易の拠点で、キリスト教伝道師フラ
ンシスコ・ザビエルの上陸地でもあり、現在でもカツオやマグロなど漁港として有名な
「山川港」に着く。
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私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
、左手に龍宮神話で有名な景勝地「長崎鼻」、右
そこから更に汽車で二十分(十一キロ)
手に「ウナギ池」
(周囲半キロ)や「イッシー騒ぎ」で有名な「池田湖」(周囲十九・二二
キ ロ ) を 遠 望 し つ つ 西 南 へ 向 う と 急 に 海 岸 線 か ら 切 り 立 っ た 秀 峰「 開 門 岳 」( 標 高
九百二十四米)が現れる。
その裡野にある「開聞駅」から、カツオの漁港として、 また昭和二十六年の「ル ーズ
台風」通称「枕崎台風」
)で全国的に有名になった「枕崎 」( 両区間は汽車で六十 三分。
二十六・九キロ)との中間地点にある半農半漁の小さな村「頴娃町・水成川」(エイチョ
ウ・ミヅナリガワ)というところが、私がアメリカから母に連れられ帰って来てから小学
校を卒業するまでと、中学時代(指宿中学)を除き、高校時代(頴娃高校)を過した「心
のふる里」である。
因みに、薩摩藩百十八の外城の一つである「知覧武家屋敷」と第二次世界大戦の末期、
至情の若者千二十六柱の尊い生命を奪ったあの有名な「知覧特攻基地」は車で北方約二十
分の距離にある。
さて、この「水成川」は、母の生地であると共に、父の生地でもある。母の旧姓は「別
府」と言い、その祖父はここから二里ほど北東にある「淵別府」の出て、代々続いた教育
者の家系(つまり儒教的きびしいしつけの家系)で岡村にあり、父の方は逆に東支那海と
開門岳を眼前に望む湾入江の浜の突端に代々続いた屋敷を構え、広大な山林田畑と巨大な
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帆船を持っていた密貿易王の末裔(つまり血の気の多い多情な家系)である。
この父方の家系を詳述すると……、第二十五代薩摩藩主、島津成彬の保護政策のもと、
先代重年公の宝歴三年(一七五三年)十二月に徳川幕府より命ぜられた尾張、伊勢の三大
河川つまり、木曽川、長良川、摂斐川の治水工事で多大な人的損失(難工事による工期遅
延のための引責自刃者、伊集院十蔵以下五十余名)財的損失(約五百万両)によって殆ん
どその底をついた藩の財政を逆に軍資金五百万両を貯蓄せしめるなど、その再建に凄腕を
発揮した元・茶人家老、調所広郷(通称、笑左衛門……因みにテレビ映画「翔ぶが如く」
では「高品格」がこの人物を演じている)の「南洋諸 島、二重収奪密貿易」に加 担し、
三十五反帆の大帆船四十八艘を駆使し、流球を中継地とし、西は朝鮮、支那、南はカンボ
ジヤ、ルソン、北は上方(カミガタ)
、蝦夷(エゾ)まで、奄美諸島の黒糖を中心に、薬
品、ビロード、ジュウタン、織物、絹糸を買い込み、生糸、ショウノウ、シイタケ、フカ
」(入れ山木)の家系で、私
ヒレ、干ナマコ、ウニ、寒天、貝類、茶、陶器などを売りさばき、巨万の富を築いた「海
上王、濱崎太平次」の流れをくむ、密貿易で財をなした「
はその末代の嫡子である。
子供の頃、よく近所の古老から祖々父が大きな帆船を持っていて何十人もの使用人を
使って流球(沖縄)からルソン島(フィリピン)まで木材や黒糖の商売をやっていた話を
聞かされたものである。今考えてみると、幕府禁制の密貿易であったことは明白だ。
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私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
薄暗い家の蔵の中の、厳重な錠前を施した長持ちの中から、中国産か流球産か、目もく
らむような金銀色をした調度品と一緒に「入山木( )」の屋号を刻んだ大きな「船床板」
を見た記憶がある。
「太平次」家の家号は「 」である。太平次
因みに私の家の家号は「 」であるが、
の祖先は「国分正八幡宮」の神官であったらしいが、何らかの事情で「指宿十二港」に住
みついたものらしい。
しかし指宿と目と鼻の先の「山川」には、鹿児島湾に入る全船舶の積荷検査をする藩吏
の検門所がある。
「大平次」一族のある者が、禁制品の陸上げを藩吏の目からくらますた
め、良港「水成川入江港」を見つけ、そこに居を構え、禁制品を陸上げ、または海路輸出
していたものと思われる。いずれにせよ、これがわが祖先の実体だ。
だが、残念ながらこの「入れ山木」四代目には、七つの海を股にかけ密貿易する野心も
なければ勇気もない。また、人を疑く商才もない(実際、奄美から年貢として収奪する時
は糖一斤を米三合五勺と換算しながら、大阪あたりで売り捌く時は米一升としたのだから
運賃がかかったとは言え、笑ちゃんも太平どんもボロイよナ。なにより行きも帰りも空荷
でないというのが強い)
。
それに南方の島々に妾妻を囲う甲斐性もない。あゝ、あの熱い海の男の血は一体どこ
へ行ったのであろう。母方の教育者としての真面目な血しか流れていないのであろうか
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……。まアーそれもよかろう。
「遵法」こそ人倫の根源をなすものだ。(つまり、こう考え
ること自体、自から母方の血を受継いでいることを立証しているようなものである)
さて、冒頭に「山紫水明の地より偉人生ず」と書いたが、この「水成川」は薩摩富士を
一望できる「景勝水明の地」なれど末だ偉人い出ず。ただ一人偉人ではないが著名人がい
る。俳優の「浜畑賢吉」だ。いや、正確に言うと彼の祖父がこの地の出であるというわけ
である。
勿論彼はハワイか、東京生れの東京育ちだからこの地を訪れたことがあるか否か不明だ
が、聞くところによると確かに祖父は素封家「ダンナ山」の出だということだ。だとする
と、もともと「旦那山」と「入山木」は遠い親戚になる筈だから万更小生とも無縁ではな
いということになる。
いずれにしても、今は役者より「マネー・ビル」に励んでいるそうだが、さすが「ダン
ナ山」の血筋だ。青年実業家「浜畑賢吉」大いに頑張って家名をあげて欲しいものだ。
まアー、ざっととこんなところが、わが「心の古里」で、誇り得べき特産品もなければ
特別な偉材も輩出していない辺鄙な田舎である。強いて誇るとすると自然の風物と、村人
の素朴な人情であろう。いや、これとて未だ残っているという保証はない。と言うのも地
方自治体による過疎化対策「鹿児島再開発計画(ユートピア)」つまり「田畑の灌既工事」
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私の「ふるさと」―まぼろしの里 フレスノ―
や「土地再利用整備計画」等により日々近代化の様相を呈しつつあるからだ。
これらは決して基本的に前者と両立するものではない。そして、あってはならないこと
だが、これにより単にあの素晴しい自然を破壊するのみか、利権のからむ争いによりあの
純朴な何人の心を醜く歪めてはならない。わが「心の古里」の心象風景は、いつまでも
ソーッと残しておいて欲しいものである。
子供の頃「ダンマえび」を捕りに行った山峡の小川のあの清く澄んだ冷い水の感触、そ
してそのせせらぎの音。友人と走りくらべして駆け登った大野岳山頂から眺めた、黄色く
敷きつめた菜の花畑の絨毯の端に白い波形を見せてたゆとう東支那海の海原。蝉取り用の
トリモチを作るため樹皮はぎに分け入った森。釣竿用の孟宗竹を探しまわったあの鬱倉と
した竹林。トリモチを竿の先につけ、田植が終ったばかりの田の中に飛び込み、つがいの
ヤンマ蜻蛉を夢中で追いかけ、これを見つけた田の主人が「コラッー、待てーッ!」と竹
竿を持って追いかけ、残照を背に、トンボ、トンボ捕り、村人が一直線に並んで走った、
あの夕暮れの田の畔道……。
これらの風景が、まるで昨日のことのように想い起こされる。
「鹿児島」は、私の多感な少年時代をやさしく包み、育くんでくれた「心のふるさと」で
ある。
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母の死を悼む
その日、不幸は全く突然私に襲いかかり、私を奈落の底へと突き一洛した!
去る五月二日の朝、私はいつものように会社で机に向っていた。午前十時頃だったろう
か急に電話のベル。この朝はとくに間違い電話の鳴る日だったので〈また誰かの間違いだ
ろう〉と思って受話器をとるが、まわりが騒々しいせいか何も聞こえない。〈この忙がし
い時間にダレだ!〉と思いながら受話器を置くと一分もしないうちに又も電話。受話器を
とり「モシモシ……」と叫ぶがなんの応答もない。
〈このイタズラメ!〉と受話器を置こうとした瞬間! フト地獄の底から響いてくるよう
な低いかぼそい声が聞こえてくるのに気がついた。「……ツ……グ……サ…ン……(母が
筆者を呼ぶ際の愛称)
」
「どうしたッ!」私は大声で聞き返した。「ク…ク…クルシイ…イ
…イ…イシャをヨンデ……」殆んど聞きとれないかすかな声である。これは一大事だッ!
私はすぐSホームドクターを呼んだ。ところが「今ドクターは不在ですからマネジャー
に救急車を呼ぶよう手配してもらって下さい」との返事。早速マネージヤーを呼出しその
件を伝えると同時に車で会社を飛出した。
現場に到着したのは丁度救急車と消防車が着いたばかりのところだった。
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母の死を悼む
急いで救護員を母の部屋に案内すると、母は寝巻きのままベッドの傍の受話器の近くに
倒れていた。今、丁度朝食をとろうとしていたらしく、食卓には食べかけのご飯とおかず
が並んでいた。救護員は新たに二名の援助を電話で求め、病院と連絡をとりながら応急処
置を施している。
とりあえず「ハートアタック」と診断され、急拠USCメディカルセンターヘ運び込ま
れた。
一階の救急室で四、五人のスタッフが凡ゆる手当を施しているが、血圧が三十以下に落
ち、どうしてもそれ以上に上らないとのこと。
遂に午後一時頃、母は七階の「集中看護室」に運び込まれた。ここでも心臓専門のN医
師を始め五、六名の医師やインターン生が原因や治燎方法につき鳩首討議しているが、有
効な方法が見つからず苦慮し、バルーンで心臓をポンプアップする手術を施すには五、六
時間経過した今となっては披施術者の年齢と体力から無理とのことで、その代替方法を協
議しているようである。
その間、M看護主任から本人の気力を呼び醒すため私に母と話すようにとのことで病室
に入る。 気丈な母は必死に苦痛に耐えているふうであった。その後、若干血圧が上った
ということで午後五時過ぎ病室を出、会社の机の上を整理すべく一旦病院を出た。
外はおりからのラッシュで寸分も車は動かない状態である。それでも約一時間かかって
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会社に到着し、万が一を考え日本の妹にことの些細を報告しようと電話をかけるが、丁度
妹は連休を利用して旅行中とのことで、その旨宿泊先へ伝えるよう息子に伝言して電話を
切る。
帰りはラッシュを避け、都心を少々迂回し病院に到着したのが午後七時過ぎ。息せき
切っ病室に駆け込むといきなり二人の医師に取り囲まれた。
「申しわけありません。私どもは出来る限りの手を尽したのですが、お母さまはたった
今、永眠なさいました……」とのこと。
鳴呼! 急に眼前が真暗になり今にも倒れそうになるのを必死にこらえ、近くの控室へ
ころがり込んだ。
十分ほどたった後「只今クリーンナップが終りました。どうぞごゆっくりお母さまとお
別れをして下さい」との主任の案内で病室に入ると、真白い髪の下に土色の顔をした変り
果てた母の亡き骸が、腹部のあたりが異常に盛上った白いシーツの下に冷たく横たわって
いた……。
以上が母の死に至った経過の凡てである。
母には経歴と呼べるような経歴は何もない。一市井人である。
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母の死を悼む
明治四十二年五月二十五日、ハレー彗星が地球に大接近した日の六日後、鹿児島は砂風
呂で有名な「指宿」から南へ下って漁港山川を過ぎ、その形が富士に似ているところから
「薩摩富士」の異称のある「開聞岳」の麓から西へ車で約一時間、丁度有名なカツオの漁
港「枕崎」との中間にある頴娃(エイ)町水成(ミズナリ)川という半農半漁の小さな村
で儒教学者で教師であった長右衛門の次女として生れた。
兄も姉も師範学校出の教師(兄は校長を務めた後戦後退職。奇遇にも母に先立つこと一
週間前死亡)末妹も教師(校長奉職後退職)に嫁しているぐらい教育一家で土地の素封家
であるが、母から下は地元の女学校だけしか出ていない。(これまた「友引き」の奇遇と
言うべきかすぐ下の妹も又、母に先立つこと二週間前に死亡!)
その後、既に渡米していた父が帰国、見合い結婚(実は親の決めたイトコ同志の結婚)
の後すぐ渡米。四年後二人の子供を連れて帰国。二十五年後、夫の看病のため再び渡米。
夫病死後、滞米二十年。そして死亡。ただそれだけである。
その間「長」という役職についたこともなければ特別に「賞」らしいものを貰ったこと
もない。だが、われわれ子供にとってはきびしい帝王だった。いや、すばらしい女帝だっ
た。従って後年、私はいつも母を「ドン」と呼んでいた。ドンは「どうせ男親のいない子
供は……」と言われることを極度に嫌い子供達をきびしく仕込んだ。
なかでも教育者の娘らしく教育に関しては異常なほど真摯であった。孟母三遷ではない
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が私が東京の大学に入った際はわざわざ東京に家屋を購入し、上京したほどである。恐ら
く学業に専心できる環境作りと、親許を離れた自由さから悪の道に走ることを怖れた監視
の両方の意味からだったのだろう。
また母は力の強いこと男の如く(事実兄ゆずりで大工が好きで家も自分で建てた)意思
の強いことハガネの如く。
( 五 十 年 の 独 身 に 耐 え た ほ か、 今 回 の 入 院 で も 何 一 つ 弱 音 を 吐
かなかった。
)心のやさしいこと慈母の如く。
(自分より貧しい家庭があると自分は食べな
くても人に与えた。特に戦中の朝鮮人や部落民など差別された人達、それに小作人や日雇
い人に対しては異常なほどで、自分の子供に与えなくても与え「われわれはママ子なのだ
ろうか」と真剣に子供心を痛めたほどである。)
そして何より判断力と実行力にすぐれていた。二者択一を迫られた際のカンは神技に似
てすぐれ、また「よい」と判断した時の実行力は愚息など舌を巻くほどスバらしかった。
このほか母はなにより私のよき理解者であり、そして人生のよきアドバイザーだった。
例えば、私は時としてあまり高等でない話題を書くため当TVファン誌を直接母に渡し
たことはないが、Mマーケットで買っているらしく「今月号はとてもよかった」とか「あ
んなこと書いて大丈夫なの?」とその月毎にホメたり忠告したり、よき理解者だった。
しかも今日、部屋に入ってみると渡米以来執筆掲載された羅府新報(約三十編)加州毎
日(約十編)TVファン(約九十編)やTVメイト(現 タウン)の総計百 三十編、のべ
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母の死を悼む
百六十五回分の筆者の作品が掲載順にキチンとスクラップされているのを発見し、私は改
めて「親の子供を想う気持」に打たれ、不覚にもとめどなく流れる涙を押えることができ
ず、しばしその場にうつ伏してしまった。
母は私にとって凡てであったが、この愚息もまた母にとって凡てであったようだ。
十日後に迫った「母の日」と二十日後に迫った誕生日に備え、会社の体暇をとり温泉行
きやショー見物の予定を立てていたのに、それを待たずに逝ってしまった母!
それにしてもこれは気安めと言われるかもしれないが、私がここ十数年毎週末や体暇の
際、日本映画やショーや温泉に連れて行って喜ばし親孝行のまねことをしたことが、私に
とってせめてもの救いとなっている。まだまだやってあげたかったが、今日まで出来る限
りのことはしたという気持が今日の救いとなり、私の悲しみをいく分やわらげているよう
に思われる。
最近の母は確実に自分の死期を予期していたように思われる。いつもより丹念に家の中
を掃除し、身廻り品はきちんと整理されていた。
とくに今年になってからは「もういつ死んでもいい」「いつお迎いが来ても思い残すこ
とはありません」と言うのが口グセだった。死を怖れるふうはミジンもなかった。むしろ
そのお迎えの日を待っているふうですらあった。
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いつも日本映画を観た帰りの車の中で「今日の映画はよかったネ」「あんないい映画見
れたんだから私はもういつ死んでもいい」と言う。ボクは「エンギでもないこと言っちゃ
いかんよ!」と怒るが、母の性格からこれが単なるリップサービスでないことがわかって
いるだけに、その度胸のよさをうらやましく思った。
それにしても最後に見た映画が深沢七郎の姥捨山伝説の原作を木下恵介が昭和三十二年
に映画化した「栖山節考」だったのは何という因果だろう。
高橋貞二扮する息子が田中絹代扮する老母を背負い、村の因習に従って栖山さまの山頂
に捨てに行く………。折から降り出した雪の中、まっ白に雪をかぶった母親が去りかねて
涙にくれて突っ立っている息子に向って力なく手を振っているあの最後のシーン! 〈早
く山を降りないと日が暮れるよ〉
〈お前には大事な仕事があるだろう。早く帰りなさい〉
スッカリ度胸を決めた母はむしろ顔に微笑すら浮べている。全編を流れる歌舞伎音楽が観
客の涙をさらにさそった。
そうだ! あの老婆の顔はまぎれもなく病室で見た臨終の際の母の顔だった!
亡くなるホンの少し前、母は日と鼻にチュープを通され、心臓には鼓動補助装置などさ
まざまな機械をとりつけられ苦しい息の中、涙にくれて肖然と突っ立っているボクの手を
しっかり握り、かすかに微笑した母の顔だった!
「ツグさん、しっかり生きるんですよ」
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母の死を悼む
口と鼻は押えこまれていても、その目はハッキリこう話しかけた。それは気弱なグータ
ラ息子をやさしく叱り勇気づけている慈悲深い母親の目だった。
「私はこの苦しみに耐えているんですよ。あなたは男でしょう。もっと強くなりなさい」
……。
死の瞬間まで息子を勇気づけた母親。そうだ。母はきっとハレー彗星人だったのだ!
でなければこの世にこんな強い女性がいる筈ない。母は確かに七十六年前ハレーに乗って
彗星の如くこの世に現れ、七十六年間、この世の苦悩を一人で背負い、今年再び現れたハ
レーに乗って宇宙の彼方へと帰ったのだ!
夜空の星のきらめきは天に召された母のまばたきだ。やさしい母の慈悲の目だ。
夜空が星で満されたとき、ソッと息を殺して見上げよう。
ホラ、かすかな母のささやきがやさしく風に乗ってくる。
そうだ! 夜淋しくなったら外に出、星に向って力一パイ叫ぼう!
「おかあーさーん……!」
25
「私のカミさん」脱線記 ―「 山 の 神 」 を 語 る ―
「いいですよ、お会いしましょう」
と、電話の声。
〝私のカミさん〟について、と話しかけると、
「女性を語るのは苦手でね」と、上手に話
を交わされた花咲太郎(注:著者ペンネーム)さん。氏独得の味わいのある話術に、楽し
さを満喫したのか、それともあの一杯のカクテルに酔ったのか、雑談で時が過ぎる。
「あのー、取材を……?」
私の問いに、
「それは、あとで資料を出しますよ、ネ」
とはひどい。
まあ、なんとびっしりつまった含みの多い資料、それだけに原文の侭、記載することに
決める。
26
「私のカミさん」脱線記 ―「山の神」を語る―
「山の神」を語る、なんて。
いかにも花咲太郎さんらしい理論、
過日、妙齢の女性が私を訪ね、わが家の「山の神」について語れと言う。
亜矢
私は一瞬、晴天の霹靂を覚えると共に、誰にもさわられたくない恥部をいきなりつかま
れたような衝撃を受け飛びあがった。
というのも、私には第一、人前に披露するような立派な山の神の持合せがないし、ま
た、それをほめたてるほどのお目出度でもなければ、めちゃくちゃにくさして、やじ馬を
喜ばせるほどのサービス精神もない。
私は全く途方に暮れ、丁重にお断りしたが、ほんのり顔を染めた彼女に「そんな固いこ
とおっしゃらんと……」
「 協 力 し て ほ し い ん で す …… ネ ッ」 と し な だ れ か か ら れ た か ら も
うアキまへん。体中の血液という血液はゴウゴウと海綿体に向って逆流し始め割れ鐘のよ
クンシ
うに胸打つ鼓動にしばし息がつまる思いがした。
もう「君子あお向け(オット失礼!)危きに近寄るべからず」などと悠長なことなど言っ
てはおれない。
「毛を見て(失礼!)義を見てせざるは勇なきなり」「ヨッシャ矢でも鉄砲でも持ってこ
27
い! なんだって喋ったるワ」という壮大な気になり「つまり、山の神のことを語ればい
いんだ」と変に納得し、それでもテープによる直接インタビューだけは言質をとられた
ウォーター・ゲート事件の悪例もあることだし、丁重にお断りし、筆にたくしてお茶をに
ごすこととした。
( い つ も「 オ ツ ル 」 話 を 書 く と、 こ う い う 時、 堂 々 と 大 手 を 振 っ て 喋 れ な い ん だ な ァ
……)と、くやんでみたが後の祭りである。
「ビジョ」に弱いことを見越して彼女をさし向けた編集子の魂胆やうら
それにしても、
めし!
では、まだ酔いのさめやらぬうちに「山の神」論のおそまつ……。
世の中に、何が多いと言って英語の。 WIFE
に当る日本語訳ほど多いものはない。
妻、妻君、女房、家内、うちの奴、かかあ、かあちゃん、ママ。そして、「山の神」ま
たは「カミ」もしくは「カミ」さんである。
そして、これらの一つ一つには全く違った語韻と味わいがあり、われわれの祖先が残し
た 生 活 の 陰 影 が ま ぶ し い ま で に 刻 み こ ま れ て い る。 あ る も の に は 他 人 を 意 識 し た「 て ら
い」あり、
「いたわり」あり、
「ぶべつ」あり、「おもね」あり、「へりくだり」あり、そし
て「あまえ」あり、将に千差万別である。
28
「私のカミさん」脱線記 ―「山の神」を語る―
0
0
オン
の項をみると、最初に「妻」とある。しかし、この妻という語韻
因みに、辞書で WIFE
は味気ない。官公庁から公式な書類を手渡され、ここに「妻の名」を記入しなさいと言わ
れ、ハイ、
「 サ イ で す か 」 と そ の 名 を 記 入 す る。 つ ま り そ ん な 無 機 質 な 音 を 持 っ た 言 葉 で
ある。
わずかに歌詞として歌いこまれているものに三門博の「壷坂霊験記」のうち「妻は夫を
いたわりつ、夫は妻を 慕いつつ……」があるが、もともと叙情詩を本分とする歌の文句
の中にあって、このような客観的描写(語句の使用)がなされているのは、たとえ「浪曲
調」とは言え、珍しい。
次の「妻君」は余りに事務的な前者に対して申し訳程度の敬称をつけたまでのこと。依
然、よそゆき的で空虚な点に変りない。
ニュウボウ
ぐ「恋女房」
これらに対し、次の「女房」は素晴しい。だれでも、まずこれを聞くとボす
ウ
を思い出すが「ニョウボウ」という音の響きがえも言えぬ。とくにその「房」という語は、
「乳房」を連想させ、女性の天性である「やさしさ」「しなやかさ」を想い起させるよい言
葉である。
「逃げた女房に未練はないが、お乳ほしがるこの子が可哀い……」
これは有名な一節太郎の歌であるが、強がりを言ってはいけない。未練がないどころ
か、 そ の 子 に こ と 寄 せ て、 乳 房 を 欲 し が っ て い る の は、 案 外、 当 の 本 人 か も 知 れ な い
29
……。
という語のなんと味気ないことよ)
WIFE
「女房!」それは男を狂気に追いやり、しゃがれ声を絶叫させる位、魅力をもった温か味
のある言葉である。
(これに対し英語の
カカア
次の「家内」と「うちの奴」は相手に対し卑下し、それを属性の如くとり扱う言葉。そ
して、
「かかあ」は、江戸庶民の妻君共を絵にかいたような言葉で親しみがあってよい。
(元禄ごろの流行語)となるとM過剰で性別不明で
しかし「嬶天下」とか「婢左衛門」
ちょっとおっかない感じ。
そして次の「かあちゃん」とか「ママ」などとなるともういけない。「ワイフ」に対し
幼児語を使う位だから尻に敷れていることは一目瞭然。
「山の神」は、一見いたわっていると見るのは贔屓目で、守護神が「女性」であるとこ
ろから、これに因んだという。
猟師は、山の幸を得るために彼の好物であるオコゼを進呈してその機嫌を取りむすぶの
である。なるほど、永遠のレディ・ハンターである世の男どもにとって家でニラミをきか
川柳にも、
している妻君は確かに醜く(?)怖い存在(?)に違いない。
山の神、通う神を粉みじん
というのがあり、遊女にもらった大事な通う神(ラブ・レターの封印)を「あなたッ! 30
「私のカミさん」脱線記 ―「山の神」を語る―
くやしいッ!!」とビリビリに引き裂く状景を写している。
た、こんなのもある。
ま
ハッサク
八朔に内で荒れてる山の神
これは、亭主が毎年八月一日、吉原の上妓が自無垢で店へ出る八朔に出かけ、家にひと
り残された女房はヤケ酒などクラいつつ怖い顔をして三百十日の颱風のように荒れている
さまを詠んだものである。
「怖い」というだけが妻を「山の神」と呼ぶようになった由来ではない。
しかし、
山の神は実は、子供を産み育てる神として全国各地(特に東北地方)に伝説として分布
ウブガミ
されており、例えば「産神」
「産神問答」
「猿聟入り」「山神と子供」などがこれである。
そして、これら伝承民話に共通する筋は、山に迷いこんだ猟師が、難産で苦しんでいる
「山の神」に逢遇しこれを助け「山の幸」を手に入れる話と、猿の化神である山の神が猟
師と結婚するという「獣婚」を取扱ったものである。
そして、山の神の正体は、男性自身が無用化し亭主の座を惜気もなく妻君に明け渡した
なれの果。ただ後はもう、妻君のご気嫌をとり結び余命を全うするのみ……という感じで
イタイタしい。将に男として風上におけない存在でぁる。「オノコ」としてこの世に生を
受けたる者、股間のイチモツの朽ち果つるまで、毅然とした態度を失ってはならぬ!
31
では、本題「カミさん」に移ろう。
この「カミさん」という言葉は、
「山の神」
、略して「神」、それを「さんづけ」したも
のであること言うまでもないが、なぜ、 WIFE
を「山の神」と呼ぶようになったか?
因みに、広辞苑で「山の神」の項をみると、ただ「妻の異称」とあるのみでその由来に
ついての記述はない。
金田一京助博士の説に従うとこれは、田楽舞(平安朝から行われた舞踊の一種で、もと
もと田植の時の舞を遊芸化したもの)から来たもので、その舞踊の中の「里の神」はすば
らしい美人であるのに対し「山の神」はおそろしく醜悪である。そこで、自分の家内のこ
とを他人に言う時、卑下して「うちの山の神のように醜い女は……」といったことから使
われ始めたという。
ところが、他の説によると、これは「いろは歌」から来たもので「山の上」つまり「奥」
の意が転化したものという。
「山の神」つまり猟師や農夫にとって最も怖れあがめられ
そして、最も一般的な説は、
ている「猿」
「狼」
「蛇」などが最も一般的である。(ナニ! 誰だ、なるほどその本性に
共通点があるなどという奴は……)
いずれにしても、世の亭主どもが、外で精一杯働けるのも、実はこれら山の神が家を
守ってくれればこそのこと。ゆめゆめ悪しく言う勿れ! (イエ、ホント。罪ほろぼして
32
「私のカミさん」脱線記 ―「山の神」を語る―
はありません)
序でに言わしてもらうと、筆者にも過日まで一人(一人で沢山?)山の神がいたが、余
りに放蕩三昧にふけり、このTVファンに卑猥な話を書くので世間様に顔向けできないと
「房事の妙声」すら残さず今なお行き方知れず……。あわれ一節太郎の歌になってしまっ
た。
今は、筆先を洗って、一節太郎のこの名曲と、李香蘭の「 何時君帰」を交互に歌 いつ
つ、つれづれなるままに世のはかなごとを書きつづる今日この頃である。
33
加毎のトンボ ―倉 島 記 者 そ の 功 と 罪 ―
「ブルーン、ブルーン……」
小高い丘に登り、高く青く澄みきった大空に向け、T字型の竹細工の軸を両手で必死に
揉むと、羽根はあたりの空気をふるわせ背白い弧を空中に描いて、まるで生きもののよう
に羽ばたく‥……。
やがて、浮力がついたところを見計って「パッ」と手を離すと、それは一気に大空へと
舞い上がって行く……。
「翔(卜)んだァー」
子供達は、野を越え、丘越え必死にそのあとを追いかける。
夢の竹細工「竹トンボ」である。今でもジーッと目をつぶると、幼い頃遊んだ竹トンボ
の腕を伝わってくる振動を想い起すことができる。
もう今の子供達はこんな遊びはしないのだろうか。
ところで「なんという因果だろう。幼い頃こうして親しんだ「竹トンボ」が大人になっ
34
加毎のトンボ ―倉島記者その功と罪―
て恥をかく材料になろうとは………。
まあ「聞いて下さい。あれはかれこれ二十年も前になろうか。新入社員の頃です。
ある日、課長が、キミ「トンボを作ってくれ」と言うんです。ボクは〈なんで会社で竹
トンボなど要るんだろう〉と思ったが、新入りの哀しさ、聞きかえす勇気もなく、地下食
堂に入リ、ハシをけずって竹トンボを作り、経理課長室へ持って行ったんです。
すると課長はそれを見るなり、
「キミ、なんだい、これ?」と言うので、「アノー、課長
がトンポを作るようにと言われましたので……」と言うと「誰が竹トンポを作れと言っ
た。会社は竹トンボなど飛ばして遊ぶところじやないゾ!」と散々叱られました。
そうです。会社で「トンポ」と言うのは「損益一覧表」のことだったんです。T字型に
線を引き、その下部左右に損益の数字を書き込むわけですが、その型がいかにも「竹トン
ボ」に似ているところから通称「トンボ」と呼んでいるんです。
〈教えてくれないと最初は誰もわからないよナー〉
とに角、経理課というところは昔から変な言葉を使うところです。(他に「走る」とい
うのは加算機に数字を入れ累計を出すこと。
「 フ ン ド シ 」 と い う の は そ の「 走 っ た 」 テ ー
プのことです)
35
さて、当地の日系紙「加州毎日新聞」の「トンボ」はどうなってるんでしょうネ……。
ここに十二年間、加毎のトンボを揉みつづけた男がいます。言わずと知れた加毎、いや
当地日系社会における名物男、倉島晃(元)記者である。人呼んで「羅府の暴れん坊大将」
(
〝坊〟は得て妙)
以下十二年に及んで加毎及び日系社会に流した彼の「功」と「罪」について考察してみ
たいと思う。
早いもんで彼がロスを離れて一年を経過しようとしている。人は言う「もうクラシマは
終った」と。またある男は言う「何を今更クラシマだ」と。果してそうだろうか。物忘れ
がよすぎると言うか、もう今日誰もその名を口にする者はいない。つい最近まであれほど
の知名度を得た者に対し……所によってはそのはタブーにすらなっている。
果して今日の加毎にとって、本当に彼は忘れてしまっていい存在なのだろうか。本当に
彼は過去の男なのだろうか。いや、記者としての特権(剣?)を失い「タダの人」となっ
た今だからこそ「クラシマフィーバー」の去った今こそ、われわれは冷静に来し方をふり
返り、彼の流した罪と功を忌憚なく考察してみる必要があるのではなかろうか。大ゲサに
言えば、日系紙、いや日系史の一断面として……。
(観念するがいい。貴君が今まで色んな人をマナイタに乗せたように今度はあんたが「俎
36
加毎のトンボ ―倉島記者その功と罪―
上のバラクーダ(やせとる)だゾ………)
一を書くと十を悟る賢明な読者が相手だ。簡単に個条書きしよう。
「罪」
新聞社の占有(経営権移譲の話があったんだと。ナールホドネ)社長、編集長不在、主
筆専任。倉島新開発行(実際社長は別として彼を編集長だと信じていた読者は多かったと
思う)
「人身攻撃」
(
「すべった」の「転んだ」のと有名な)「KK抗争」(それにしてもエ
ラかったネ。対抗紙のK記者一切無視、忍従したのだから………)、訴訟問題にまで発展
した「イミグレ密告事件」
(事実であれば免責事由となるわけではない。名誉毀損罪の違
法性はその事実を公けにすることにある=判例)、タレコミネタによる「日米劇場汚職疑
惑事件」……など「告発」
「暴露」記事は枚挙にいとまがない。
飲みながら書くと自白するだけあってその筆致筆勢はスサマじい。完膚なきまで罵倒す
る書きっぷりに俎上の魚に敵意を持つ者は溜飲を下げる一方、そのあまりにも直裁な表現
に彼の良識を疑う者も……。
「某大学学長顧門誹訪事件」
(但し筆者は氏の酒友。ペーパーがどうのセメダインがどう
のと、まるで文房具屋の喧嘩みたいでした)
、イミグレによる日系社会不法滞在者狩りの
際 の ペ ン の 傾 き( 遵 法 忌 避、 不 法 の す す め )
、酔払い運転によるブタ箱入りの際の開き
37
直った態度。
(本来、恥ずべき行為を自慢話にスリ換える感覚のズレ。公正、遵法は新聞
人としての最低限のモラルと思うが……)
「新聞オピニオンの偏向」
「自画他讃」
(ヤラセ?)、しかし、在任中その態度を批判する
記事は遂に見られなかった。多くの者は向う所敵なしの態度に怖れをなし、追従、オベッ
カまで使った。
ボ ツ ボ ツ 批 判 記 事 が 載 り 始 め た 時 に は 氏 は 三 度 目 か 三 度 目 の 辞 意 を 表 明、 自 宅 待 機 中
「紙面の低俗化」
(これが一番大きいだろうな。戦後のカストリ紙を彷彿させた。酒の人
脈によるモロモロの書き屋の登場。一人三役も(?)、お互いの恥部洗い。バカまる出し
(?)の低次元の喧嘩記事が目立った)
「チョーチンみえみえ食べ歩記」
(利口な彼のことだ。「ころばない」ことを看板にして
いる以上タダにしろとは決して言わない。ただ相手の店の主人が「この男はいろいろ書く
男だからビールや酒ぐらい出した方が悪口書かれるより得だ」「うまくいけば宣伝してく
れるかも知れない」と考え、それらを無料提供するケースは充分考え得る。これは店主が
店の利益(宣伝)を対償とする限り、厳密には贈賄行為であり「たかがビールぐらいよか
ろう」と享愛すれば収賄となり「ころび」と何ら変るところがない。ヘタをすると間接恐
喝になりかねない。
いずれにしても、このような一記者の専行に対し、日々ニガニガしい思いをした良識を
38
加毎のトンボ ―倉島記者その功と罪―
もった読者もいただろうし、
「こんな態度(編集指針……「オピニオンのある新聞」と表
題に掲げ、その実、一記者の専行や、暴露もの、誹訪記事が多い……)が、いつまでも許
される筈はない。
「 い ず れ 修 正 さ れ る 日 が 来 る 」 と 信 じ、 そ の 日 の 一 日 も 早 い こ と を 祈 っ
た読者は少なくなかったと思われる。
「功」
「紙面の刷新」
(読み易くきれいになった)
「ミスプリの追放」(少なくなったネ。以前筆
者は、ほぼ連日電話で指摘、その余りの多さにネをあげた経緯があるだけに感無量)「刷
り上りの迅速化」
(早くなったネ)
「発行部数の増大」(これが最大の功だろうネ)
いずれにしても一面真黒で何も読めなかったり、翌日はシロミでそこに落書きをした時
代(よくこれで講読料を徴収できたネ)を考えると将に隔世の感あり。その凡てを倉島氏
のみの功とするには躊躇するものの、その過半を氏の努力に負うところ大とする意には大
方異議はあるまい。
「損益決算」
「新聞のニュース性(速報性)
」が失われて久しい。(筆者など国内ニュースは朝のTV
ニュース、日本のニュースはNHKニュースの外、時事ファックスそれに日本からのテ
39
レックスによりその殆んどを入手。新聞を広げてそれ以外の記事を見出すことは稀。(新
聞はそれを転写しているのだから当り前)
「事件の臨場性」はテレビにとって変えられた。(百読一見に如ず)
知ったかぶりの「ニュース解説」などネタが割れているだけにその手口は古い。となる
と新聞に残されたものは活字好きの日本人にテレビやテレックスで知りつくしたニュース
(とは最早呼べない)を反趨させるのが関の山である。
それ以外にあるとしたら「コマ切れ小説」とチョッピリ読ませる「時事往来」、それに
「広告」と「死亡記事」のみ。他のコラムや評論にしても年中ぬる湯につかっているみた
いで論旨が明確を欠くか、あまりに中庸を得て「毒にも薬にもならない」ものが多い。こ
れじゃ読者が段々アキてくる。
このマンネリを打破すべく現れたのが「スキャンダル」「暴露」もの。それを発火点と
した「紙上抗争劇」である。
仕掛人は言わずと知れた日系社会のマックレーカー・クラシマ。たしかに人のケンカは
その言い分、ものの見方が百人百称であるだけに面白い。そして「クダラない」と思う反
面、人はつい「のぞき趣好」を現し「さて今日は誰がヤリ玉に挙っているか」とか「誰と
誰がやり合っているかナ」など夢中で紙面をアサることになる。ああ、情けなや、われら
凡人………。
40
加毎のトンボ ―倉島記者その功と罪―
しかし、しかしである。ここに始めから彼の計算があったと仮定したらどうだろう。
つまり前記した「罪」
(と一概には呼べないが)は凡て「功」の中の「発行部数増大」
のための一手段であったと。
凋落を辿る社運に対する起死回生の苦肉の策であった……と。「赤新聞、イエロー・ブ
ラックジャーナリズム」と呼ばれようとドンケア。クダラナイと呼ばれることを承知で人
類普遍の低俗嗜好性(?)に目をつけ単純にこう考えたとしよう。「新聞は面白けりゃい
いんだ」
「面白けりゃみんな買って読む」
「みんな買えば会社がもうかる」「会社がもうか
りゃついでにボクの給料も上る」
(実際はついでにとならないのが世の常だが)と。
読者の低度(失礼)に目をつけ敢えてこれを決行したとすれば(週刊誌的チープな発想
だが)彼は企業主としても適用する一種の天才ということになり(その代り、常に物議を
かもし、訴訟ザタは年中断えないだろうが)創始者につぐ中興の祖として胸像が立っても
おかしくない。
さ て 結 論 を 急 ご う。 い や も う 出 て し ま っ た よ う だ。「 加 毎 ト ン ボ 」 の 帳 尻 は? 当
りッ!」社長の漁夫の利(?)なんのかんのと色々あったが、とにかく発行部数が三倍(正
しくは二・八倍)にのびたのだから……。
俗に「雨降って地固まる」と言う。見よ! 今日の人材の刷新と紙面の充実を……。も
う決して「赤新聞」などとは呼ばないゾ。なかんづくコラム、フィーチュアなど紙面作り
41
に盛られた時代感覚の新しさ。地域社会の文芸深耕にかける熱意! メークアップのうま
さ。パット・モリタの広告じやないが「とにかくフレッシュだよ」これはきっと内部から
あふれ出たものに違いない。つまり人材の新しさだ。そして若者を信じ、思いきり紙面作
りをまかす企業主やデスク、それに彼らをサポートする陰の人達の「人の和」のなせる仕
業に違いない。
とに角、
「疾風怒濤」の時代を越えた加毎株「只今急上昇中!」(断っとくが筆者は加毎
のチョーチンを持とうとしているのではない。生来、弱い方肩をかす損なクセに加え、と
もすると堕りやすい「メイジャーの尊大さ」
「不遜さ」を防遏する意味で「互角の対抗紙」
の必要性を訴えているに過ぎない。弱い方をチア・アップしているのだ)
そして、経営は言うに及ばず、細部に関しては種々問題はあると見受けるが、今日の転
機としてよきにつけ悪しきにつけ、
「クラさん」の存在があったことを、われわれは長く
忘れることはないだろう……。
42
夕陽は南冥の空を染め……―カーボ・サンルーカスの旅―
夕陽は南冥の空を染め……
―カーボ・サンルーカスの旅―
「これ、いくら?」
真っ赤な太陽をパックに白いしぶきをあげて滑走するヨットをあしらった、いかにも南
国らしい図納のTシャツを見つけた私は、十七、八才の茶出色に日焼けした、見るからに
純朴そうな女子店員にこうたずねた。
「五ドルです」
「ホー、五ドルね。で、ペソだといくら?」
「二千三百二十五ペソです」
(な―るほど……しかし間髪を入れず換算できるとは偉いもんだ)
だが、そのとき誰かが耳もとでささやいた。
(あんたナ。メキシコ行ったら正札で買ったらあかんで……。言い値の半分、いや、三分
の一が正値や)
言おうか言うまいかとモジモジしていた私は思い切ってこうきり出した。
43
「これいくらになるの?」
「いくらになるって……そこに書いてあるとおりです」
「五ドルはわかってるがナ。それをなんぼに割引してくれるっかて聞いてるんヤ」
「割引?」
「ディスカウント」という言葉を生まれ始めて
少女はけげんそうに私の顔を見上げた。
聞いたというふうである。
私は急に五ドル位の金で少女とやり合っている自分がなんだか気恥しくなった。それに
気のせいか、ほかの外人客がわれわれの方を見ているようでもある。
「いや、その……二枚でだよ」
私はとっさに言いつくろった。
「二枚?」少女は手もとの卓上計算器をはじき始めた……。
(シメ、シメ、八ドルは固いナ)
そのとき店の奥からマネージャーらしいでっぷりした浅黒い男が出てきた。少女は男に
なにか一言二言スペイン語で話しかけた。男はうなずくと私の前に来て、ていねいに頭を
下げるとこう言った。
「すみません。うちの店は全商品フィックス・レイトです」
仕方がない。責任者からこう宣告されたらもうどうにもならん。メキシコだって値引き
44
夕陽は南冥の空を染め……―カーボ・サンルーカスの旅―
しない店はあるんだ。
私は大小さまざまな形をし、赤や緑色などぬりたくった多彩な色をしたペソ紙幣をポ
ケットから一つかみ取り出すとシワをのばしながら一枚一枚丹念に数え、二千三百二十五
ペソ差出した。一瞬、私はなにかとてつもない高価な買物をしたような錯覚におそわれ
た。これもメキシコのインフレのせいか。
それにしても米国内で買えば最低十二、三ドルはするシロモノだ。バカの一つ覚えでな
んでも値切るもんだと信じた自分が恥しくなると共に、私にそのことを吹込んだ日本語テ
レビや悪友を無性にケッ飛ばしたくなった。
値引きすることを前提に正札の二、三倍の値をのせて売るメキシコ市内やアカプルコ、
それにここバハ・カリフオルニアでもチワナやエンセナダのように観光客ずれした商徳商
人にくらべ、いかにも純朴そうなこの最果ての漁村の女店員に私は急に好感を覚えた。
外に出ると、まだ二月だというのに盛夏を思わせるまぶしい陽光がさんさんとふりそそ
ぎ、生温い風にのってフト、潮の香が鼻をかすめた……。
ここは、西経百十度、北緯二十三度、年間平均気温七八度、湿度零、年中陽光につつま
れたバハ・カリフオルニアの最尖端「CABO・SAN・LUCAS」である。文字通り
カリフオルニアの(下〈腹〉部)つまり「加州半島」(言うまでもなく男性自身はラテン
語の半島PENINSULARを語源とする)その尖端(つまりGLANS)である。
45
ドーリで遊んで楽しかったわけだ。
スモッグと雑踏の街ロスアンゼルスから飛行機でわずか二時間、ここ「セント・ルーカ
ス岬」は年中、人の背丈の倍近くもあるカジキまぐろ、イエローテール、ドーフ ィン・
フィッシュ、コビナ、レットスナッパー、マヒマヒなど大小八百六十種以上の魚が釣れる
釣りキチによだれのでる夢の楽園である。いや釣りキチでなくてもよい。ホテルには射
撃、乗馬、ゴルフ、テニス、ジャグジー、プールなどなんでも設備がそろい、誰でも楽し
めるようになっている。
最も気に入ったのはここ「ホテル・サンルーカス」にはテレビはおろか電話もないこと
だ。夜のとばりがおりると本を読むか、小麦色の肌をしたとびっきり美しいセニョリータ
を誘い、浜辺に出、手近かな真紅のハイビスカスの花を手折り彼女の黒髪にソッと刺し、
そのやわ肌を軽く抱き寄せ、潮騒の音にまじりどこで奏でるのか時おり流れてくる「ベサ
メムーチョ」のギターの音にうっとりと聞きほれ、いままさに暮れなんとする南冥の空を
真赤にこがす夕陽を眺めながら、愛の睦言を交すしかない。なにせ電話や買物をするため
にはタクシーで二十分はかかる市内へ行かねばならないのだ。
勿論、新聞もない。つまり世の中の動きなど一切忘れて香り高いテキーラに酔いしれら
れるのがうれしい。
なにせ米国なら二十五セントで買えるロスアンゼルスタイムズを大まい三ドル払って
46
夕陽は南冥の空を染め……―カーボ・サンルーカスの旅―
買った同紙で「マルコス亡命」のニュースをその日の夕刻知ったくらいだから……。
従ってここは私のような「僻地嗜好性観光客」にはもってこいの場所である。
因みに「ホテル・サンルーカス」はプライベートビーチを含め二千五百エーカーの敷地
に百二十五のさまざまなスタイルの部屋、それに二百八十名もの従業員が客の快適な滞在
のためにサービスしてくれている。
真赤な太陽は午前五時半自室のベッドから望む眼前の水平線からポンと登り、夕刻同じ
水平線に静かに沈む。月は日にしみる大輪のプーゲンビリヤの葉影から現れ、ヤシの葉の
上にやどり、やがて同じ海に沈む。朝夕この単調なくり返しなので数日滞在していると、
今昇っているのが太陽なのか月なのか時々わからなくなる。むりもない。
「日がな一日のたりのたりかな」である。昼間は魚釣りと水泳。カニやフグと遊び疲れて
砂浜で甲雑干し。一週間いると土地の者と変らない暗褐色の肌に仕上る。夜になると岬の
尖端の断崖に建つレストランでグワダハラからわざわざ呼んだ十一名編成のバンドの奏で
るラテンミュージックを聞きなからマルガリータを飲みつつ、今釣れたばかりの魚やイセ
エビなど海辺料理に舌づつみを打つ……。雲一つない澄みきった南冥の空にはポッカリ月
が浮び、青白い水面はその月を写し波一つなく静かに凪いている……。(あゝ「ロスに帰
るのがイヤになっチャウネ!)
それにしても今回の旅で一番うれしかったのは「ピーヒャラドンドン」の洗礼を受けず
47
に済んだこと。
メキシコ人は古く東洋人とそのルーツを同じくしているせいか肌の色や風俗習慣など類
似した点があり、特にスペイン系の若い娘はその胸に秘めた情熱とは逆にワームなフィー
リングと東洋的こまかい神経を使ってくれるのでうれしい。
従って、メキシコ旅行は私の好きな旅の一つであるが、困るのはその「治安」と「水」。
とくに後者は帰宅と同時に一週間ピーヒャラドンドン。悩みの一つであったが、このホテ
ルは「完全自家浄水装置」をもっているので安心。(去年のPUERTO YALLAR
TAの時もそのフレ込みだったが帰りの機内食が悪かったのかドンドンだった)これでな
くちゃ米国から客は呼べない。
それにしても滞在中一人の東洋人も見かけなかったのは珍しい。まだ、「円高便乗観光
客」には荒されてないようだ。
しかし、この辺鄙なメキシコの田舎町にも、今アメリカの資本が投入され、あちらこち
らにホテルやリゾート用ビルが建設されている。「便利」と「俗化」は不可分である。お
そらく四、五年もしたら様相は一変し、チワナやエンセナダのような観光客相手にコスイ
商法の横行する俗悪な街と化することだろう。
その頃には市内の彼女も「割引」という言葉を覚え、商品に二、三倍値段をうわ乗せす
るシタタカな女店主に収まっているかも知れない。
48
夕陽は南冥の空を染め……―カーボ・サンルーカスの旅―
今のうちだ。レッツゴー、南冥のスポット!
「カーボ・サンルーカス」
49
日本便り マー子とミー子のこと
「ちょっと所内を見学したいんですが」
「ダメですよ。一般の方の見学は禁止されています」
まさにソッ気ない応答である。
「いや、私は十五年前ここの社員だったんです」
「十五年前だって!」唖然とした顔の守衛はそれでも言いづらそうに、
「残念ですが、これは規則ですので……」
碁盤をオッ立てたような四角い顔にゴマ塩頭の守衛と、ズックにジーンズ、白いとっく
りに皮のジャンパーに色めがねの一見ヤーさん風の男との押問答がしばらくつづいた。
電話連絡もせず、いきなり飛込んだ私も悪いが、融通の効かない守衛も守衛である。
ややあって「あゝそうだ」守衛は急に思い当ったように、
「その頃、どちらの部におられたのですか?」
元社員と名乗るのだからヤーさんではないことだけはわかったらしく、一寸言葉遺いも
丁寧になり、なにより糸口をつかんでやろうという前向きの姿勢が見えてきた。
「演出部です」
50
日本便り マー子とミー子のこと
「おう、演出部ですか……しかし十年ほど前、組合のストに対する会社のロックがあ、大
半の人が辞めたので……誰か知っている人がいるといいですね」
と言いながら、守衛は社員名簿をくり始めた……。
演出部長K氏があの頃よりもう一廻り大きくなり、身をゆさぶりながらニコニコしつつ
玄関口から現れたのは、その数分後であった。
私は、一九八一年十月十三日午後二時十五分、十五年ぶりに東映動画株式会社を訪れた。
東映動画というのは、チャンバラやヤクザ路線で有名な「東映」の傍系で、東映大泉撮
影所の隣にビルを構えるわが国最大の組織的アニメーション会社である。当時「安寿と厨
子王」の長編漫画の外、テレビ漫画では冒険もの「狼少年ケン」時代劇もの「風のフジ丸」
字宙もの「宇宙船ホッパー」など数々のシリーズものを製作し、現在の劇画ブームの先駆
と言える第一次漫画ブームの最盛期で、その頃、広告の老舗「博報堂」の製作部でテレ
ビ・コマーシャルの制作に当っていた私は居宅を大泉学園に構えたことから「東映動画」
の演出部に腰を落付けたのだった。
そして、この東映動画こそ、父親の看病の為渡米した母親の永住権獲得のダシとして市
民権を持つが故かり出されたこの私の日本に於ける最後の職場でもあった。(そして何と
いう奇偶であろう! 私の入社と前後して退社されたのが当TVファンの発行者である塚
51
原氏で、当時ここの撮影部主任で、しかも当社の設立に功があったと聞き及んでいる)
私を案内してくれたK氏は、もともと劇映画出身で東映京都の助監督から動画に移籍、
かの有名な「戦艦ヤマト」の演出者で当地のテレビでもその名前は散見し、カンヌ映画祭
に出席したり、その他合作や下請けの仕りの打合せやロケハンでアメリカやフランスを飛
びまわっている国際映画人と呼べる人である。
彼は企画部、演出部、制作部は言うに及ば ず 仕 上 げ 彩 色、 特 殊 効 果、 撮 影、 背 景 部 す
べてを案内してくれ、
「オーイ、みんな驚くなよ。珍らしい人を連れて来たゾ」と告げて
廻った。
十五年前と少しも変っていないテカテカ頻のA君。彼とは対照的な人柄で歌舞伎のオヤ
マを思わせるようなO君、三日月(ミカヅキ)顔で温厚な舌足らずな喋りをするI君、小
猿を思わせる小柄で目玉の大きいひょうきん者のK君、元役者でチョッピリインテリ風の
S氏。ボサボサ頭に強度の近視で一見カストリ文士風のY氏)……十秒も凝視すると当時
が彷彿するなつかしい顔ばかりである。
しかし、全員揃っていたわけではない。辞職や出向の外に古武士然の風貌を残すS製作
次長ほか、数名が他界していたのは無情であった。
さて私が突然東映動画を訪れたのは、旧友の活躍と消息を知りたかったからであるのは
52
日本便り マー子とミー子のこと
当然であるが、実はもう一つ隠れた理由があった。
何を隠そう。かねて気になっていた薄幸の義姉妹の消息を知りたかったからである。
姉のマー子は当時二十才で小柄で笑顔の可愛い絵から抜け出たような美少女タイプで当
時受付けにいた。妹のミー子は、十九才で小肥りで笑くぼの可愛い娘で彩色課にいた。
この姉妹との交際のきっかけは、私が自動車事故でミー子に過失傷害を負わしたことに
よる。
その日、あの狭い道路を道一ぱいになって歩いている退勤者をホーンを鳴らしながらか
き分けかき分け自動車を走らせていた私の車輪が誤っておしゃべりに夢中になっている
ミー子の足の指を靴の上から踏んだのである。事の重大さに驚いた私は車を放って彼女を
背負い病院にかつぎ込んだ。そして見舞に現れた姉が受付けのマー子であるのに驚くと共
に、昼夜を分たぬ必死の看護が始まった。幸い怪我は大事に至らなかったが、両姉妹に対
する清い交際は私の渡米までつづいた。
その後の姉妹の消息が気になっていた私は、言い出しづらかったがK氏にソッと聞いて
みた。
「あゝ、あの二人は花ちゃんが渡米するとすぐ辞めたよ。姉の消息はわからないが、妹さ
んは子供が二人おり、この近くの八百屋などでよく見かけるという話だよ」
ということだった。
53
しかし、私は、十五年たった今なお二人の消息が気になるのは何故だろう。そしてあれ
ほど献身的に看病したのは何故だったのだろうと考えることがある。
傷害罪として告訴されるのが怖かったのだろうか、いやそんなことはない。強制保険が
ある。では、愛情だったのだろうか。そうとも言えない。では何か。単なる責任感か。そ
れにしては寝食を忘れた看病ぶりはいささか異常である。つまり、愛情の一部には違いな
いがその境遇に同情した憐憫の情または兄が妹によせるような兄妹愛だったのだろうか。
この姉妹には出生の秘密があった。二人は実の姉妹でないのみか、父母は単なる養父母
であった。現在の父母つまり養父母は中国から引揚げて来る際埠頭で泣き叫んでいた二人
の女の子を別々に拾って日本へ連れ帰り、実子として育てたのであった。
こんなことはいつしか子供の耳に入るもので、いつかマー子が泣きじゃくりながら告白
した一夜が忘れられない。しかし、この二人は実の姉妹以上の強い伴で結ばれていた。そ
して一度だけ泣きながら、本当のお父さんとお母さんに会ってみたいと言ったことがある。
しかし、凡ては結婚まで。あれほど気にしていた出生の秘密も今はすっかり忘れ、家事
と育児に専念していることだろう。人生なんて所詮そんなものさ。
私は「マー子よ。ミー子よ。過去のことはすべて忘れしあわせになってくれ!」と叫び
たい衝動を覚えるとともに、私の今日までの懸念が単なる杞憂に過ぎなかったことをむし
54
日本便り マー子とミー子のこと
ろ嬉しく思っている。きっと私は、今日を限りにもう二度とマー子とミー子のことを想い
出すことはないだろう……。
「CIAに殺される!」
「花ちゃんの噂は酒の席では必ず話題になったものだよ。なにせ、黒いオースチンと女性
とのツヤダネは有名だったからね」
55
撮影所前の喫茶室でI君はコーヒーをすすりながら、例の歯ぎれの悪いしゃべり方でお
世辞ともつかぬことをつぶやく。
「そうそう、ドアをバタンと閉めると黒いペイントがドサッと落ちてきそうな車だったな」
とっさに同席のK氏がなつかしそうに合槌を打つ。さもあろう。私はその頃、英国製の
俗に「だるま」と呼ばれるオースチン 型を乗りまわし、綺麗好きの私はペイントにペイ
う面倒だというのでドアがはずれたままバーに直行した時のことを言っているのである。
ある日、作品の打上げで一杯飲みに行こうということになり五、六人すしづめに乗りこ
んだため助手席のドアが開いていることに気づかずバックしたため門の一部を破損し、も
これもオーバーである。
「しかしあのオースチンは馬力があったな。守衛室の前の石門をひっくり返したのだから」
ントを重ねていた。それにしてもカーツンニストの話はオーバーだ。
50
「女性とのツヤダネ」これも嘘で、確かにマー子とミー子を含め、二、三つきあっ
また、
ている女性はいたが、これはむしろ映画界では常識で、しかも私の場合特に深い関係が
あったわけではない。
ただ一度だけスタジオ雀に好個の餌を提供したことはある。
酔った勢いで近づいた女の手に乗り、しかもこの女が某暴力団のスケで、酔った際ポ
ケットから名刺を抜かれ、スケの奴それをヤーにタラしたため「オレのカカアをドウして
くれる」と会社にふみ込まれ、あぶなくオトシマエをつけされそうになったが、社内では
ブがないとみた私は奴を社外に連れ出し、ふくろだたきにして遂に「カツアゲ」して有名
になったことはある。ま、相手が暴力団員とは名のみ、「チンピラ毛」だったのは不幸中
の幸か。
若気の至りとは言え、どれ一つ取っても十数年たってなお友人達の酒のサカナにされる
要素は事実の有無にかかわらず多分に持合せていたものだろう。ただただ恥入るのみであ
る。
ところが次の風聞はいくら人の噂さとは言え奇怪で、今もってそのソースは解せない。
K氏は今夜、当時の友人を集めて酒宴を設けてくれると言ってくれたが、私はすでに翌
早朝九州行きの全日航の切符を予約していたので後日を約し別れを告げた。
その際、K氏は私に一言ポツリとこうつぶやいた。
56
日本便り マー子とミー子のこと
「花ちゃん、あんたアメリカでCIA要員に殺されたという話だったよ」
「えッ!」私は思わず絶句した。
なぜこの善良なアメリカ市民がCIA要員に暗殺されなければならないのか
「人の噂って無邪鬼なものだ」
私は、一時にこみ上げる苦笑を必死に噛み殺しながら夕日にひときわ映える白亜のビル
を今一度ふり返り、車を拾うべく表通りへ出た。
57
!?
待つ
―わが青春の懺悔録より―
こう見えても、若い頃の私は……今でもそうですが、女性を見ると、もう見ただけで顔
が真赤にほてり(いみしくも過日のTVファン忘年会の席上、上岡女史に看破されました
が……)身体がふるえる(植字係さま「下腹部がふくれる」と誤植しないで下さい)気の
弱い男性でしてね。
その気の弱い女性恐怖症の私に、どういう風の吹きまわしか、女神ヴィーナスのたわむ
れと申しましょうか、学生時代一度だけガール・フレンドができたことがありました。し
かし、それはたった一回の逢引きで「オジャン」になりましたがね。
涙なしでは語れない悲恋物語ですが、特に今日は恥をしのんで読者の皆さんだけに紹介
しましょう。
その女性というのは、相模女子大学、昔の帝国女子専門学校の国文科の学生で、仮りに
K嬢と呼ぶことにしましょう。その頃、私は、大学からほど遠くない学生寮に住んでいま
58
待つ ―わが青春の懺悔録より―
した。結果的にみるとこれが逆効果になったのですが、関西出身の先輩が、私の始めての
デイトだと言うんでいろいろ入知恵してくれました。
「あんた、自分の方がぞっこん惚れこんでいるということを相手に見せたらアカンデ」
「そんなものですか」
「ソーヤ、ソイデ相手がアンサンのこと、ホンマ好きかどうかチェックするにはどうした
らエエかわかるか」
「知りません」
「オーケー、教えてカマソウ。遅れるコッタ」
「遅れるッて……」
「カン悪いな。待合わせの時間に遅れていくんヤ」
「私、ソンナ、相手を待たせるようなことできません」
「ソヤさかいダメなんや。これ取引ヤ。ワザと遅れて行くんヤ」
「それでどうなるんですか」
「それで相手が待っているようだったら脈があるわ。ホンマにアンさんに惚れてるんヤ」
「ホー、そんなもんですか」
「ソーヤ、それも長いほどよい」
「帰ってしまいませんか」
59
「帰りそうで、なかなか帰らんもんや。折角、顔をなでまわし、髪をきれいにし、無理し
て一張羅をはりこんだ手前な。それが女心と言うもんヤ」
「帰ってしまったらどうします」
「帰ったらそれまでじゃ。なかった縁とあきらめるんヤ。世の中にゃ、オナゴはワンサと
いる」
(人のことだと思って無責任なことをポンポンと言う先輩です)
「じゃ、どのくらい遅れて行ったらいいですか」
「ソーヤナ……一時間やナ」
「エッ! 一時間も!」
「そうや、それで待っていたら本物や。逢引きというもんは掛引きや。一丁やって来い!」
私は、日曜日の朝八時に、小田急新宿駅の掲示板の下で落合う約束を、わざわざ一時間
ほど附近をブラブラし、九時にそこの場所へ行きました。勿論、あたりを見廻しましたが
K嬢の姿はありません。その代り掲示板のすみに、ヒラヒラと春風にたゆとう一片の紙片
が目にとまりました。
それには、さすが国文の学生、達筆でこうしたためてありました。
「待って知る、待つ身のつらさ……縁があったら、又会いましょう
K嬢より」
60
待つ ―わが青春の懺悔録より―
ところが、この話には、後日談があります。
その間、約十年がけみしました。
私はその頃、TBS、つまり東京放送テレビ局で、野際陽子をホステスに「女性専科」
という教養番組を担当していました。その頃の野際嬢は、高橋圭三アナウンサーに次い
で、NHKから初めて民放にスカウトされた女性アナということで人気があり、目線や動
きのギコチなさがかえってフレッシュな印象を与えてくれました。「コア、コア……」で
始まる主題歌を、高、草笛光子がデュエットで歌い、確かスポンサーは、資生堂だったと
記憶しています。
つまり、これでわかる通り、非常に上品な、奥さま、お嬢さん向けの教養番組でした。
この番組に、今でも時々「主婦の友」などに名前を見受けるが、家事評論家、つまり、幕
しの工夫「実用新案」的内容を専門とする女性ですが、児玉芳子女史に出演してもらうこ
とになりました。
ところが、この女史、テレビ・リハーサルが始まるというのになかなかスタジオに現れ
ません。自宅に電話させると家はもう出たと言う。スタジオの関係者は、皆もうヤキモキ
(校正係さま「ヤキモチ」ではありません)です。やっとオン・エアー寸前に現れ、簡単
な打合せの後、番組はなんとか無事終了しましたが、その後、謝まりにスタッフ・ルーム
に向っている彼女の横顔を、金魚鉢の中からみとめた私は、一瞬「ハッ」とし、急いでか
61
児玉様」
たわらの紙片に一文をサラサラとしたため、アシスタントに彼女がこちらに着く前に渡し
てくれとたのみました。
その紙片には、こう書かれてありました。
「待って知る、待つ身のつらさ……
やはり、縁があったようですね
62
邂逅(めぐりあい) ―センチメンタル・ジャーニー―
邂逅(めぐりあい)
―センチメンタル・ジャーニー―
彼女とは、もう十数年も逢っていなかった……。
「よくわかったわね。私がここにいるってことが……」
「ほぼ一日がかりでほうぼう探しまわったんだよ」
「あなたも酔狂ね。十数年もたってアメリカからわざわざ訪ねてくるなんて……気まぐれ
なところは昔とちっとも変ってないわ」
あたりに暮色がせまるにつれて、勤め帰りやアベック姿の客で店内がようやく混みはじ
めてきた。
平静をよそおうとすればするほど、私のグラスを握る手もとがぎこちなくふるえてく
る。くったくのない彼女の笑い声は昔とちっとも変っていない。それがむしろ、私を悦び
とも悔悟ともつかぬ複雑な気持に追い込むのだった。
私はここまでくるまで何回迷ったことか……会おうか、いや会うまい。そうだ、彼女の
元気でいる姿をホンノちょっと遠くから眺めるだけでいい。……いや、折角ここまで一日
63
がかりで来たのだから会ってみよう……。
そして三十分前すべては決った。
教室の中では教師を中心に父兄がまわりをとりかこみ、熱心に教育方針や授業のあり方
などにつき熱心に討議が行われていた。実際その時まではちょっと横顔でも見えればそれ
で満足して帰るつもりだった。ところが教室の中は一杯で、彼女がどこにいるか皆目見当
がつかなかった。私は逡巡した挙句、遂に意を決して入口に近い父兄にこう頼んだ。
「すみません。Oさんをちょっと呼んでいただけませんか」
懇談会を中座して現れたのはまぎれもなく彼女だった。
やはり十数年の才月はかくせない。そこに現れたのは昔のういういしいはにかみ屋に
代って世の風雪に耐えた逞しい母親の姿だった。しかし黒目がちの大きな眼、よく鼻すじ
のとおった高い鼻、うすく引きしまった小さな口許、一見エキゾチックな風貌は昔とちっ
とも変っていない。
彼女は驚きに一瞬言葉を失い茫然と突っ立っていたが、やがて「こんなところではお話
もできませんから、駅前の喫茶店で待っていて下さらない。終り次第すぐ行くわ」(昔も
同じことを言って逢引きしたっけ……)私は少年のようなはやる心を押えてその場を去っ
た………。
64
邂逅(めぐりあい) ―センチメンタル・ジャーニー―
そして、そのまた三十分前……。
私は小さな洋品店の前に立っていた。
色とりどりに並べられている洋品雑貨の間を通りぬけ奥へ入ると、野球のテレビ中継に
見入っている四、
五年生ぐらいの男の子が見えた。(似ている! 目もと、口もとそっくり
だ)見なれない男がウロウロしているのに気づいたのか少年は奥へ向って「おとうさん、
お客さんだよ」と叫んだ。鼻にかかる声まで似ているようだった……。
「どう、しあわせ?」
いく分落つきをとり戻した私は、こうたずねた。
「とってもしあわせよ。私の父が銀行員だったためサラリーマンの家庭に育ったせいか最
初は商売人の家庭にはとても戸迷ったわ。でも今は商売もなんとか軌道に乗ったようだ
し、それに主人がとてもやさしいし言うことないわ」
ノロケは防禦ラインか。二言目には主人が出るのはあまり心持よいとは言えなかった。
「それはよかったね」
私は嫉妬とも皮肉ともとれる声でこう言った。
「ところであなたの方はどうなの」
「相変らずの風来坊さ」
65
「だってあの頃、私はお勤めに出たばかりで何も知らないであなたとお付合したけど、
色々女のお友達がいたことが後で判ったわ……。あの中の誰と結婚したの?」
「みんな逃げられたサ」
「自業自得ってとこね」
あまり邪気なくズバリ言われると返す言葉もない。
「まァーそんなところだ」
私は慙愧に耐えないというふうにやっとこう言った。
「ところで子供達はどう?」
「上が女の子で中学二年、それに小学五年の男の子の二人きりよ」
「男の子は店で見たけどよく似ていたよ。でも娘の顔を一目見たかったな。どう、おかあ
さん似でやはり美人だろう」
ちょっと水を向けると「きまってるじゃない。でも、あなたの子供でないことだけは確
かよ」と相変らず悪態をつく。
店の中は若い男女の熱気で蒸し返っている。その間をウェイトレスが忙がしそうに客の
注文をとってまわっている。
「次、なんになさる?」
「ミルクセーキ」彼女はプッと吹き出した。「なにがおかしいんだ
い」
「だって昔から喫茶店には入ると〝ミルクセーキ〟。バーに入ると〝ピンクレディ〟だっ
66
邂逅(めぐりあい) ―センチメンタル・ジャーニー―
たんですもん」
「よく覚えているね」
「だってあなたは私がつき合った最初の男性だったん
ですからね」
「そうか、それでか……」
いつしか窓外はトップリ暮れ、ガラス窓を通してネオン燈が行き交う人達の顔をフラッ
シュバックのように写し出している。
(もう、いくつになるかな……)私は若気の至りで
闇に葬った子供のことを考えていた……。
「若い頃、君には随分苦労かけたから、今、自分にできることがあったらなんでも言って
くれ」これは迸しり出る懺悔の気持からだった。
「そう、じゃ私達夫婦をアメリカヘ招待して丁戴。子供達が大学を終えて手がかからなく
なってからの話だけど……」
「いいとも、いつでも招待するさ」
店の外に出ると冷気がいっきに体にしみわたり心持よい。都心からたった一時間しか離
れていないのにこんなに静かな町があったかと思うくらいだ。夜空には一面まばゆいばか
りの星が輝いている。私はその一つにひそかな願をかけて祈った。先ほど会った彼女の主
人の衝撃的告白を思い浮べたからだ。
「女房は悪性の子宮ガンで後一年持たないと医者に宣告されているのです。勿論彼女には
知らせてありません。子供の将来を考える時、私にとって毎日は針のむしろを歩くように
つらいです。私は彼女の前では決してそのような素振りは見せません。第一、なるのは子
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供達のためによくありませんからね……」
何も知らず侵れていく体とともに生きている彼女。しあわせだと言った彼女。子供の
生長を願い渡米を夢見ている彼女……それらの顔が狂ったように私の脳裏をかけめぐる
……。
家まで送りとどけると彼女は玄関の灯りの下でいつまでもこちらに向って手を振ってい
る。
「きっと招待するよ。それまで元気で頑張るんだよ!……」
私は思いきり叫んだ。
そして、頬を伝わる涙をぬぐいもせず、私は一気にせまる虚脱した気持を引きずるよう
に、よろける足どりでバス停へ向った。
〝海を一越え、はるばる訪ねてみれば、ガンにむしばまれし君、余命いくばくもなく〟
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遠くで叩き売りの声が聞こえるよ……「浅草物語」
遠くで叩き売りの声が聞こえるよ……
「浅草物語」
「ロックも変ったネー」
先日、筆者の最も好きな番組の一つであるトーク・ショー「すばらしき仲間」にスイッ
チを入れたら、珍らしい人物が現れたのに驚かされた。
往年の喜劇役者、坊屋三郎、由利徹、それに東八郎の三人である。そして彼らが浅車の
元映画街のあった周辺を散策しながら当時を懐古している様子を見てまさに旧知に出逢っ
たようななつかしさを覚えた。何を隠そう、実は自称この不老青年が昔、日夜遊んだ場所
である。洋画でアメリカやヨーロッパの生活を学び、軽演劇で人生のペーソス、ユーモア
を学び、落語で人の世の機微と話術を学んだ。筆者にとって大学の教場以上に多くの感化
を受けた場所である。
そして何よりそこで力一杯自由を謳歌した感激は、決して生涯忘れ去ることはないであ
ろう。しかし今はもう凡て「つわものどもの夢のあと」。画面で見る限りその多くは昔の
面影をとどめることなくモダンなビルに様変わしているようだった。それでも少しでも見
覚えのある場所が映ると「カメラさん。もう少し右の方ヘパンしてよ」などと叫びながら
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結構独りで楽しんだ次第。
さて「ロック」というのは「浅草六区」のことで、昔なつかしいエノケンやロッパ、そ
れに南利明やハッパむと志、岸井明など軽演劇の王者達を生んだ劇場……というより新宿
の「帝都座」と共に、ストリップの殿堂として後世にその名を残す「ロック座」や「浅草
座」など、通りの両側に映画館ゃ劇場がビッシリ並んでいた「浅草興行街」のことである。
因みに、一区は「浅草寺(センソウジ)を中 心 と す る 境 内 附 近。 二 区 は、 そ の 門 前 町
で、買物客でにぎわう仲見世通り。三区は、夜ダカ(街娼)も現れる「伝法院通り」。四
区は昔なつかしい「木馬館」のあたりで「寄席(ヨセ)」や、「ロクロッ首」などの見世物
小屋、それに「がまの油売り」
、
「バナナ」や「ズボンの叩き売り屋」がずらり軒を並べて
いた。五区は、花屋敷のあたりで、明治六年、浅草寺の門前町が公園となった際、区分さ
れたものである。
「六区も変ったネー」
戦前、戦後、あれほど繁盛した興行街も時代の趨勢にはかなわず、映画や芝居はテレビ
にとって代り、ストリップはソープランド(トルコ風呂)など他の「風俗射精産業」とな
り、今はもう見る陰もない。
南米から裸の女の子を呼んで来て街道を歩かせる「リオのカーニバル」も冷えきった街
に活性を与えるにはイマイチ、徒労の感が強い。かくして冒頭の嘆息となるのである。
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遠くで叩き売りの声が聞こえるよ……「浅草物語」
筆者も若い頃(当然、今よりズーッと幼い頃)よくあの近辺をホッついたものである
が、あまりの人の多さに目指す小屋(劇場)を横目で見ながら人の波に押し流され、つい
に入れずじまいだったことも一度や二度ではない。
また、三人の会話の中に「ひょうたん池」や「見世物小屋」の話があったが、小屋の一
段高い所からピシっときいた張りのある高い声で「親の因果が子に報い……可哀想なのは
この子でござい」と言いながら時々ステッキで幕を一瞬持ち上げ、中の様子をチラッと見
せてくれる。すると中には十六、七の頭にリボンをした可愛い女の子が下半身蛇の姿であ
たりをノソリノソリと這いずり廻る……という按配の見世物小屋が軒をつらね、「この世
にそんなことがあり得るだろうか」とウブな青年を悩ましたものである。
ナンセンスと言えばナンセンスだが、平和と言えば平和だった。戦後の開放感が街全体
をすっぽり包み込んでいたと言っていい。
しかし、今はフィルムで見る限り昔日の面影はない。三人は「出世払い」で踏み倒した
僅かに残る昔の飲み屋に入り懐古談に花を咲かせるのである。
それにしても、いつ収録されたか定かでないが、七十の坂も半ばというのに坊屋三郎の
元気のよさには驚かされた。
それにポン大(日大)のゲイ(芸術学部)卒と聞いて二度ビックリ。坊屋というと「あ
きれたボーイズ」とともにディズニー映画「ピノキオ」の「こおろぎ」の声優としてなつ
71
かしい。また、由利徹はもともと森繁久彌と同じ新宿 は軽演劇の殿堂「ムーラ ン・ルー
ジュ」の出身であるが全盛時はよく浅卓にも南利明などと共にトリオで出演しており、そ
の軽妙な芸には定評がある。なかでもその独特の方言を生かした「田合っぺ」や「オカマ」
をやらせるとその右に出る者がない。
東八郎は、そのハゲ頭に似ず、二人よりだいぶ若い筈。「笑塾」など開き、若者の指導
に当っているようだ。二人はしきりに浅草オペラの老優「田谷力三」の若さをほめていた
がどうしてどうしてみなさんもまたまだ若い。喜劇俳優でなくいい意味での喜劇役者の芸
と根性を今の若者に伝えて欲しいものだ。
さて、浅草というと忘れられない作家がいる。いわずと知れた永井荷風である。晩年は
ひっそり淋しく逝った荷風も当時ははよく「浅草座」の楽屋口に出入りし、ストリッパー
を可愛がっていた様子で、筆者も何度か若い踊り子を連れて歩いているところを見かけた
ことがある。
また、当時これらのストリップ劇場で幕間のコントを書いたり演じていて現在押しも押
されぬ大御所となっている人達がいる。前者が先日離婚騒動で話題をまいた「井上ひさ
し」で後者が寅さんこと「渥美清」である。
いずれにしても、軽演劇のメッカ浅草はブクロ(池袋)やジュク(新宿)やノガミ(上
野)とは全く違った雰囲気を持つ「庶民の町」と言ってよく、また人々の郷愁をいやして
72
遠くで叩き売りの声が聞こえるよ……「浅草物語」
くれる母親の懐にも似た温かさを持つ町で、老若男女誰にでも楽しめる「夢を売る町」で
あったように思われる。
今でも目をつむると劇場の「サー、いらっしゃい」「いらはいー、只今からエノケン・
ロッパ、エンタツ・アチャコ、シミキン……古今東西のオール・スターショーが始まるよ
……」 と 叫 ぶ、 し わ が れ た 声 や「 ナ ン デ イ、 ナ ン デ イ、 ナ ン デ イ。 そ ん な に 急 い で 帰 っ
たって人生最後は墓場だ。サー寄って行きネー」と言って客を呼びこむ観音裏の威勢のい
い「叩き売り」の声が子守唄のように甘酸い感傷を乗せて耳朶に蘇ってくる。
では、その「叩き売り」の風景を紙上に再現してみよう。
場所を浅草から当地ロスアンゼルスに移し、ナウーい表現で描写するとさしずめこんな
ふうになろうか……。
「サー、いらっしゃい。いらはい。オレンジの叩き売りだよッ! オーッとそこの前のお
客さん、前を開けておくれ。だれだいズボンの前を開けるのは。バナナを出されちゃ営業
妨害だ。今日はバナナでなくオレンジの叩き売りだよ……オレンジオレンジと言ってもそ
んじよそこらのオレンジとはオレンジが違う。カリフォルニアはサンウォーキンバレーか
ら今朝着いたフレッシュなオレンジだ。この色ツヤを見てくれ。見ただけでほっぺたが落
ちようというシロモノだ。それにうまいだけでなく栄養満点ビタミンABC、DEFG全
73
部入ってるよ。けっこう毛だらけ猫灰だらけ。なんだいお客さん。安政六年に作ったよう
な背広を着て、張り子の虎みてーな顔をして突っ立って。オレンジはな。ただ見てるだけ
じゃ腹はふくれない。買って始めて栄養になる。ワシャな。ただの叩き売りじゃないぞ。
本当はインポだ。……じゃなかったインポート業者だ。これはただのサンプルで裏の倉庫
にどっさり積んである。あしたこれを全部日本に輸出し、日米ボーエキマサツの解消と日
本の閉鎖的市場開放に役立てよーって算段だ。エライだろ、お客さん。わしはこう見えて
もトー大にいたんだ。もっともトー大と言っても購売部でパンを売ってたんだがネ……だ
74
からガクがある。日本はナ。自動車、テレビ・ステレオ・カメラ・ビデオ……なんでもメ
チャメチャにアメリカヘ輸出しているクセ、オレンジや米は輸入させない。百姓やフルー
ツ業者に尻を叩かれたヘッピリ腰の政治家どもが選挙をおそれ、オレンジを始めとするア
メリカの農産物の輸入を認めない。これは明らかに国際貿易ルール違反だ。いいかい日本
がいい顔をするたびにいやな思いをさせられるのはわれわれアメリカに住む日本人だ。ナ
カソネ君の失言にして然り。ボクがいつも日本はそのうち国際社会におけるママッ子にな
るよと進言したんで最近やっとマ、じゃないモンコを開くようになったがネ……。ところ
ドルで売ってるシ
でお客さん。ワシは政治や経済を論じようというんじゃない。この目の前のオレンジを売
ろうとしているのじゃ。
サテ、オレンジの値段だが……。百個は入ってジャパンボーエキで
40
遠くで叩き売りの声が聞こえるよ……「浅草物語」
ロモノだ。今朝調べて来たばかりだから間違いネェー。それを
ドルと言いたいところだ
35
が 、 、 ……エーイッ! ウィルソンの天文台から飛び下りたつもりで ドルだ。ど
うだい。ナニ、まだ高い? 驚いたネ。今日の客はどいつもこいつもパンダがオナラした
ようなつまらない顔ばかり並べゃがって……なんでも、人の言いなりになっていやがる。
32
個で
100
ソーときまればこちとらクビを覚悟の大サービス。
ドルとは言ってない。
10
ドル、いや
30
20
ドルでどうだ。イイカ
10
25
ドルでどうだいと言ってるんだ。一個
15
ドル、7ドル、6ドル、……どうだ。たったの一声5ドルだーッ!」
必死に制している叩き売りの男。
「わたしもー」
「おれもー」
「ちよーだーいッ」
ワーッと殺到する客。
「買ったーッ!」
のドル
がエート5セントだよ。なに、それでも高い。ヨーシこうなりや下りっぱなしのアメリカ
イ「だれも一個が
10
たまには〝ビートたけし〟みたいにイカるときはイカれッ! もっとも、あいつはちょっ
とやり過ぎだが……。エエイーッ こうなりゃ俺も男だ。 ドル。ヨーシッ ドルでどう
だ。ヤイヤイそれでも男かい。お客さん。自分の股倉に手を入れてしっかり確めてみな。
33
18
75
34
「ま、まった、まった、マッター! 5ドルだったらオレが買う……」
男、箱をかついでスタコラ逃げ去る。 おしまい……。
76
オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」
オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」
「あなたの好きなタイプはどんな女性ですか」と聞かれ躊躇していると、「例えば
よく、
映画女優で言ったら……」とつけ加えられることがある。
つまり女優にはそれだけ古今東西の凡ゆる女性のタイプが網羅されているということだ
ろう。しかもその場合、目はエバ・ガードナー、鼻はスーザン・ヘイワード、目はソフィ
ア・ローレン……」という必要はない。ずばり、「ナタリー・ウッド」である。
これは勿論、男優の場合も同じで、いつか好意を寄せている女性に「好きな俳優は」と
聞いて「大滝秀治(
「持捜最前線」の老刑事)
」と言下に答えたのには驚かされた。
「ヘー、こんな若い娘があんなオジンを……これを称してタデ喰う虫も好きずきというの
だろうか」と感じ入った次第である。
また、これは二昔ほど前になるが傍系会社のマッキャン・エリクソン博報堂の受付係を
し、ある北欧航空の宣伝モデルをしていた美女と仲良くなった際、同じ質問をしたら「ス
ティーブ・マックイーン」と答えられたのには困った。
なにせ当時不覚にも私は彼の名を知らなかったからである。あわててスチールをさがし
出しトクと眺めたが「こんな西洋乞食のどこがいいんだ!」と叫ぶと共に「女性ってこん
77
なタイプの男性に憧れるのかなー」とつとめて恰好よく、また足の長さを競ってみたが所
詮徒労に帰したこと言うまでもない。
(ムリないよナー)。
ところが後日彼の映画を見始めたらすっかり彼のトリコになったのだから(セワないよ
ナー)
。とかく人の嗜好性というものは勝手なもので今日好きでも明日は大嫌いというこ
ともあり得る。
従って次に挙げる女性たちも多くはその時点、つまり小生の年令と環境と役の上で「い
い女だなアー」と思ったというだけで、ごく少数の女性を除いて必ずしも今でもそう思っ
ているというわけではない。なぜなら、その多くは孫の二、三人もいるオバン(好々婆)
かミドル(中年女性)なのだから……。
さて、具体的に好きな女優の名を挙げる前に考察しなければならないのは、ある特定の
スターに対し「好き」という感性を抱くに至る動機ないしその経過である。色々な要素が
考えられるが、大別して次の三つの形態が想定されてよかろう。
一つは、母や姉に向けられる「愛されたい」「可愛がられたい」「甘えたい」という受動
愛。今一つはその逆で「愛したい」
「可愛がりたい」「甘やかしたい」という能動愛で、青
少年期は前者、中高年期は後者に移行していくことは言ううまでもない。
そしてこの「銀幕の恋人たち」も原則的に番号の多くなる順に従って、前者から後者へ
78
オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」
と移行していく。そして今一つの要素は、母親や姉妹や姪、または幼時やさしくしてくれ
た親戚の誰かに似ているとか、特に今つき会っている恋人に似ている(逆に好きな女優に
似ているから彼女にする場合もある)から好きになるというふうに、自分の身近かな人、
就中その顔形、性格の類似性から好きになるというケースがある(私はこれを「投影嗜
好」と呼んでいる)
。
では、次に挙げる女優たちがそのいずれに属するかは読者の判断にまかせるとして、早
速登場してもらおう。
①宮城千賀子
「大江戸六人衆」
宮本武蔵の相手役「お通」として宝塚からスカウトされ「唄う狸御殿」
「母子草」など数多くの映画に出演し「おチカさん」の愛称で親しまれている。
昔、NTVの「うちの奥さん、隣のママさん」で一緒し、その輝くような美しさ、こぼ
れるような色気、そのキサクな人柄にほれこんだものである。
持に目と口もとがよかった。筆者よりズーッと年上の大正十一年。岩手の産。
②桂木洋子
「密会」
「宵待草日記」
「喜びも悲しみも幾年月」
うるんだ瞳、甘い美貌の彼女は「破戒」
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などの映画に出演し、若き我ら学生をメルヘンの深淵に引ずり込んだものだ。
昔、加藤道夫の「思い出を売る男」を厚生年金ホールで上演した際、彼女の夫君、黛敏
郎氏にテーマソングの編曲を依頼するためその新居を訪れたが、シットリした調度品に融
和した彼女のかもし出す甘美で馥郁とした雰囲気にしばし陶酔したものである。少しタレ
気味ながらやはり目がいい。筆者よりチョッピリ年上の東京産。
③関千恵子
大映で遊んでいた頃の一期上。映画ではあまりパッとしなかったが、少しコミックな味
をもった童話にでも出て来そうな可憐なオキャン娘だった。
④八千草薫
「美女」の代名詞みたいな彼女、しかも年をとることを知らない老若男女に好かれる永
遠の美女である。いつか昭和女子大で日本コリー・クラブのコンテストがあった際、愛犬
「アナスタシヤ」を連れて来ていた皇太子と同席し、男どもは(入賞した筆者も)犬(わ
が愛人の名は「エンジェル」のことなどソッチのけで彼女に見入っていた。チョッピリ年
上の大阪産。
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オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」
以下紙巾の関係で名前だけ挙げると、
⑤桜町弘子 ⑥大川恵子 ⑦三田佳子 ⑧大原麗子 ⑨池上季実子 ⑩松坂慶子
、折原啓子(目がタマンナイ)、若山セツ子(「青い
補欠は、西崎緑(知らんダローナ)
山脈」で杉葉子と共にフレッシュだった高千穂ひづる(肌)芦川いづみ(Q)浅丘るり子
(目もと)岡田茉莉子(ドングリながら目がいい)新珠三千代(東宝で)浜美枝(肢体)
青山京子(昔の彼女とソックリ)桑野みゆき(脚)由美かおる(躍動美)園まり(姪に似
ている)秋吉久美子(坂本龍馬のメカケがよかった)竹下景子(コミックな味が好感を呼
ぶ)田中裕子(ド近視と贅肉のない顔)
歌手では、①渡辺はま子(エキゾチックで表面キツイが内心やさしいオバハン)②奈良
光枝(風にもよろけそう)③菊地章子(
「星の流れに」の哀愁)④ペギー葉山(昔の彼女
と同窓)⑤由紀さおり(嗜好性としては異係だが細い目)⑥伊藤ゆかり(ソソ)⑦天地真
理(笑顔)⑧森昌子(内斜視気味の目)⑨高田みづえ(同郷のヒイキ目)⑩松田聖子(「子
連れ狼」でウバ車の中の童女がよかった)
。
そして、ベスト・ワンは言わずと知れた松坂慶子。
外国映画では、①ダニエル・ダリューのロレッタ・ヤング ③ビビアン・リー ④マル
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チ ー ヌ・ キ ャ ロ ル ⑤ ク レ ア・ フ ル ー ム ⑥ シ モ ー ヌ・ シ ニ ョ レ ⑦ シ ャ リ ー・ マ ッ ク
レ ー ン ⑧ ジ ュ リ ー・ ア ン ド リ ュ ー ス ⑨ フ ラ ン ソ ワ ー ズ・ ア ル ヌ ー ル ⑩ ナ タ リ ー・
ウッド
そしてベスト・ワンはナタリー・ウッドである。(見てくれ給え、このバラエティに飛
んでいること! 気まぐれで嗜好性に定見がないのは筆者の悪いクセだ)
さて、これらの女性のどこがよいのか。どの部分にひかれるのだろうか。つまリチャー
ム・ポイントを考察してみると、多くの男性が求める「胸」でもなけれは「腰」でもなく
実に「目」であることが解った。
「ド近視」か「ヤブにらみ」に近く、その典型的なのが「蒲
それもマトモな眼ではない。
田行進曲」の松坂慶子と「おしん」の田中裕子である。なかでも松坂など座談会で眼の前
に黄色い「おしぼり」が出されると皮をむき始めるというのだからおそれ入る。つまり
「バナナ」と間違えているのだ。実際女優には近視が多い。
それもニューフェイスなどで入社する場合、一応視力もチェックされるので原則的に最
初からド近視はいない筈で、多くは映画界に入ってからである。
これは出番の前の薄暗いステージ裏で台本の暗記をやったと思うと、何千燭光という強
力な光の中へ引っぱり出され長時間フットライトを浴びるからで、しかもカラーになって
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オジンの映画狂 「わが銀幕の恋人たち」
からこの傾向は強い。なかでも一番眼に悪いのはアップの際の「レフ」(反射光板)で主
演者ほどこの被害をまともに受けること言うまでもない。
実際「ライト・オン」の合図で「光が入る」と一瞬眼前が「ボーッ」とかすみ、何も見
えなくなる。だから「ロケ」より「セット」撮影がテキメン目に悪い。これは眼前とまわ
りの「光の落差」が大きいことに起因する。
このようにしてでき上った「目線の定まらない」ド近視か、父方の「平家の落ち人」で
広く東南アジア方面へ商いを求めて行った「廻船問屋」という名の海賊の末裔の血を騒が
せ、庇護本能をくすぐるのだろう。港港に女をこしらえた祖先の好色の血が「サディス
ティックなリビドー」を呼び起すのだろうか。(幸い私が好色でない(?)のは、この荒
くれの父方の血を長年「教育者」家系の母方の血が中和させているのだと信じている。
(もっと正確に言うと「若い頃はご多分にもれず父方の血が騒いだが、年と共に母方の血
が濃くなっていくと言った方が正しいようだ)
それにしても最近では、男の庇護本能を呼ぶようなナイーブな女性が少なくなった。
「ウーマン・リブ」とやらでやたらマスコミによって皮相的智力と視野を得、男と対等に
その本質的強さをモロに出して生きている。今どき男性の庇護本能をくすぐるような女性
を求めることは重要文化財のアレ同様、太平洋で落したペニーを拾うのに似て神わざに近
い。これが果して女性にとって幸せなのだろうか……。
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こんなことをツブヤくと「今どき、そんな女性が生きていけるわけないだろう!」と一
喝される。その通りかも知れない。いや、そうなのだ。だからこそ、気弱な男どもは「作
為」を承知でナイーブな女性像を求めて映画館へ行き、またはテレビを観、ひとときのメ
ルヘンの世界にひたるのだ。
あゝ、われに、うたかたの夢とロマンを与えてくれた「銀幕の恋人たち」よ!……。
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一口落語「洒落は楽し」
一口落語「洒落は楽し」
エー、まいど、ばかばかしい話で恐れ入ります。
「笑いは百薬の長」とか申しますが、笑うというこ
昔から「笑う門に福来たる」とか、
とは、まことに健康によろしいようで………誰 が っ て、 隣 の 八 五 郎 で す よ。 わ た し な ん
ざ、こいつが病で寝こんだとこ見たことございません。もう、一年中、ゲラゲラ、ニヤニ
ヤ笑ってるんです。
昨日だってそうですよ。一日中、切り株に腰かけて腹をかかえて笑ってるんで、
「おい、八、どうした」
「アッハッハッー……」
「どうしたんだよ」
「アッハッハッ……」
「おい、なんとか言えよ」
「イイッヒッヒッヒ……こ、これ」と言うんで、よく見ると、あたり一面、「笑茸」の食
いのこしが散らかっていました。余り笑いすぎて腹がよじれ動けなくなってたんですね。
度すぎはかえって健康によくありません。
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しかったことは、きれいさっばり忘れ、「新春初笑
まあ、今日は、旧年中の嫌な事、苦
シャレ
い」として、掛け合いで一口落語「洒落は楽し」とまいりましょうね。
第一話
しかし、まあ、世の中には人使いの荒い人っているものですね。
「おい、お茶持って来て」
「おい、このシャツほころびてるから縫っといて」
「おい、テーブルにお茶こぼしたから雑布もってきて」
「おい、煙草が切れたから買って来て」とか、もうまるで雑巾だったらとうの昔にすり切
れるぐらい人を使う人がいます。
とうとう頭にきた妻君が亭主をつかまえて言いました。
妻「あなたぐらい人使いの荒い人っていないわね。どうして、そう人をダシに使うの?」
夫「だって、うまい汁を吸うためさ」
第二話
世の中には、そそっかしい夫婦っているものですね。
夜遅く、へべれけに酔って帰って来た事主、妻君に夜店で買った土瓶を渡しました。
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一口落語「洒落は楽し」
寝ぼけまなこの妻君、瓶を逆さまに持って、
妻「アラ! あなた、この土瓶、口がないわよ」
夫「どれどれ、ほんとだ、口がないな」
妻「口のない土瓶にどこから水を入れるの………オヤ! それに、底もないわよ」
夫「ほんとだ、底もないな」
妻「あなた、どうして底のない土瓶買って来たの」
夫「そこ(底)までは気がつかなかった」
プロパティ・タックスが下ったせいか、新居を購入する家庭がふえました。この夫婦
も、今しきりに新居の設計中です。
妻「あなた、寝室と居間の場所は決ったと……どうでしょうね、ここを台所にしようと思
うんですけど」
夫「勝手にしたらいいでしょう」
女性にとって、人の家のことは、とかく気になるものらしいですね。
妻「あなた、隣の家では、ごはんを「おかま」でたかないで「おなべ」でたいているんで
すって」
87
夫「かま(釜)はないじゃないか」
サラリーマンにとってボーナスは嬉しいものですね。これを何に使おうかって……もっ
とも世の中には豪傑がいて「うちの会社にはボーナスはない」といって三十年間一銭も細
君に渡さず使ってしまったという人もいますがね。それを調べもしないで信じる方も信じ
る方、どっちが悪いと言えませんね。これは特殊な例で、
夫「きみ、今日、会社からボーナスが出て懐が暖かいんだ。どうだ、なんでも好きなもの
おごるから言っててみな」
妻「マアー、ケーキ(景気)がいいわ」
水道料金が上った途端、
「ウォーター・ショーテージ」という言葉は聞かれなくなりま
したね。水飢饉だから節水する。節水すると水道局の収入が減るから料金を上げる。一旦
上った料金は豪雨が降っても下げない。変な話ですね。
それはそうと、あちらでもこちらでも道路を掘り起しています。水道局が掘り起し、管
を敷設して埋め、その後に電話局が来て掘って埋め……まさかそんなことはないでしょう
が、よく掘り起し、その為に交通が渋滞しています。これも、失業救済事業ですかね。
妻「あなた、この新聞見てごらん。下水道の工事中、あやまって管が爆発したんですって
88
一口落語「洒落は楽し」
……」
夫「そりゃ、大きな音したろう」
妻「どうして?」
夫「そりゃそうさ、ドカーン(土管)と言うくらいだもの」
サービス業ってつらいですね。私共の銀行にも、よく客を装った変な男が出入りしま
す。きびしく迫求すると、万一客であった場合困るので、その扱いには気をつかっている
ようです。
大「今日、うちの銀行の便所に変な男が入ったんだけど、小用を足すわけでないし、どう
も泥棒の下見かも知れないね」
妻「それはクサいわ」
夫「フーン(糞)くさい、くさい」
話が落ちたところで、これにて、どうも、おそまつ……。
89
笑う門には福来たる
「カチ・カチ・カチ」……キが入るといよいよ花咲亭珍馬が「本調子カッコ」の出囃し
に乗って高座へ現れます……。
エー「毎度バカバカしい噺を一席……。スコーシばかり世離れしている与太郎とそれよ
りマシだがいずれその兄たりがたく弟たりがたい熊さんが、テレビを見ながらしきりに話
をしています。
与太郎「ナー。熊さん。あの女、便秘してるネ」
熊吉「いきなりなんだい。ナー与太郎。お前の話どうもビローでいけないネ」
与「おい、よせやい。ご隠居の口まね」
熊「アッそうか。それにしてもどうしてあの女ベンピしてるって判るんだい」
与「だって週五日ウンコしているって言ってたぜ」
熊「ナールほど。でお前は週何日だい」
与「毎日だから六日」
熊「バカ。毎日だったら七日だろ」
90
笑う門には福来たる
与「ネバーオンサンデー」
熊「おやおや与太さん。フランス語使ったよ」
与「バカだねェー熊さん。これイタリヤ語だよ」
熊「チガワーイ。これフランス映画の題名だーい」
そこへ現れたのが、おなじみの二人の後見人のご隠居。
隠居「オイオイお前さんたち何をゴチャゴチャ騒いでるんだい」
熊「だってこの与太の奴。テレビのコマーシャルに出た女の人を見て、あの女ベンピして
いるって言うからそ
のワケ聞いていたんだ」
隠「ホー。それは面白い。どうしてなんだい。与太郎ワシにも教えてくれよ」
与「だってあの女、週五日ウンコしてるって言うんだ」
隠「バカだねー。お前さん」
熊「バカだねー。お前さん」
隠「熊さん。あんたまで口マネすることないヨ」
熊「ドーモスイマセーン」
与「どうせボクバカなんです」
熊「オーッとご隠居でも差別語はいけないナ」
91
隠「いやースマン。バカと言ったのはワシが悪かった。で もナ与太郎、お前相変 らずソ
ソッかしいナー」
与「どうしてですかい」
隠「お前さん「ウンコ」なんて短かく言うからいけないんだ」
熊「ウンコだからチョッコラ尻ハショった」
隠「熊さん。アンタだまっていなさい」
与「あんたダマってなさい」
隠「与太。あんたが言うことない。いいかいあれはウンコでなくウンコーとのばさなく
ちゃいけないネ」
熊「長ーいウンコーだ」
隠「いちいちウルさいよ熊さん。……つまりあの航空会社の飛行機は一週間に五日間もウ
ンコー(運行)
、つまり飛んでるって言ってるんだよ」
与「ア、ナールほど。飛んだ失礼を致しました……」
面白かった? 笑いましたか。少々面白くなくても笑って下さい。今この落語を読んで
一個所でも笑った方は決して胃ガン、いや少なくとも心因性胃炎にならないことは保証し
ます。ユーモアを解しよく笑う人長生きする人。いつもクドクドシンキ臭いことを考えて
92
笑う門には福来たる
る人、ペプシン胃壁をかけめぐり命をちぢめている人です。ついでに。面白くなくても
笑ってやろうというやさしい心使いの人も長生きします。世の中あまりにイヤなニュース
が多すぎます。これもハレー彗星のせいですかネ。「ハレーどうかナー」最近とくにヒド
イですネ。せめてTVファンの「花」の落語で笑いましょう。
「笑う門にはハッピーカムカム、ラッキーカムカム……」
それでも世の中には笑いを不徳と心得ているのか、おかしくてもジーッとニガ虫を噛み
つぶしたような顔をしたヘソ曲りがいます。
そんな人のために次の「一口(クチ)シャレ」をドーゾ……。
うちの会社のハワイ支店に宗(ソウ)さんという方がいます。ある日、外出から戻ると
女子社員が電話のメッセージを伝えてくれました。
「花咲さん。ソーさんからお電話がありました」
「ナニ、ソーさんから?」
「ハイ。ソーです」
ここカリフォルニアの海には「イルカ」がたくさん泳いでいます。でもこの愛嬌のある
動物も釣りのエサのエンチョービを喰いあらすため漁師にとってあまり有難くない存在で
93
す。そこで漁師たちは釣りをする前にその所在を確め
合います。
「ホー、どんなふうに……」
「オーイ。そっちの方にもイルカー……」
これでも笑わない奴はいっそ死んじまえーッ!
さっきのヘソ曲りまだ笑わない。ヨーシ、こうなったら、もう最後っ屁(ぺ)だ……。
ボクの毎日は、もう失敗と冒険に満ちあふれています。
先日も、友人と昼食をとるためレストランに向っていた時のことです。事件は一瞬のう
ちに起りました。
友人と話に夢中になり横を向いて歩いていたら、いきなり「ギヤーッ!」という女の悲
鳴……何が何してどうなったのかサッパリわからない。木の柵を押し潰して倒れたと思っ
たら、次の瞬間「アイテテテッ!」頭上からいきなりナベが落ちてくるではないか。それ
だけではない小銭までザクザク落ちてくるのだ! 夢かと思ったが夢じゃない。フト歩道
に倒れたままあたりを見ると目の前に黒い服を着たフ卜ったおばさんが同じく路上に腹臥
いのまま手に鈴を持ち目をムイて、なにやら大声で怒鳴っているではないか……。
「このクソたれ。どこ向いて歩いてやがるんだい!」
94
笑う門には福来たる
(英語が判らないのでハッキリしたことは判らないが、どうもこう言っているらしい)
「どこったって目の前だ」
「前を向いて歩いて、どうしてこんな大きなものに突当る!」
どうやら歳末助け合いの救世軍の「社会ナベ」をひっくり返し踏みつぶしたらしい。こ
りゃ、えらいことになったゾ! しかし、ここでヒルんではならない。
「ここは人の歩くところだ! 歩道の真中にナベを持出す奴があるかッ!」
「歩道に出ないと誰も知らん顔して金を入れてくれない」
意地には強いが情にホダされ易いのはボクの悪いクセ。
「そうか、世の中がセチ辛くなると募金も大変だナ……」
「同情する位なら金入れろ!」
ボクは、おばさんを起こすと、次に木の柵を起こして立てかけ中央にナベをつり、その
中に辺り一面に散らばった小銭を拾い入れ、最後にポケットから一ドル紙幣をとり出し、
それを丁寧におばさんの目の前に突き出した上でナベに入れると一礼して立去った……。
しばらく行って振り返るとおばさんが何やら叫んでいる。
「おまえはナベをひっくり返したんだろ。もっとゼニ入れろーッ!」
「これ以上出したらオレ昼メシ喰えなくなるーッ。がまんしてくれろーッ!」
ボクはスタコラサッサと逃げ去った……。
95
「ゲラゲラゲラゲラ……」
とうとうさっきのヘソ曲りが笑った。
面白い話をしても決して笑わないクセに、人が失敗するとケタケタ笑いやがるーッ!
96
落語「馬と蛙」
カワズ
落語「馬と蛙」
エー、まい度バカバカしい話でおそれ入ります。
マーなんですナ。世の中にはドーモよくわからないソソッカしい方っていらっしゃるよ
うでして……。
先日も、道でバッタリ出会った知り合いの男が、
「オイオイ、聞いてくれ。オレ昨日山へ行ったらヨ、猪に出会ってヨ。猪の奴、こっちへ
向って一目散に走ってくるんだ。それでヨ、オレそのツノをムンズとつかんでヨ……」
と言うんで、
「バカ言え。猪にツノがあるかよ」と言うと、
「ア、そうか。イヤ実はツカんだのはシッポだった」と言う。
それでオレ「バカ。シッポだってあるかい」と言うと、いよいよ困って、
「じゃオレ、どこを掴めばいいんだ」と聞きやがる。
喋ってる当人がサッパリ言ってることがわかってないんですナー。あんまりシャクにさ
わったんで、
「毛でもフクロでも勝手につかめッ!」とドナッてやったんですが、困ったもんです。
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ところでこの手の頭のタガが一本ゆるんだようなご仁はなんと言っても「わたしどもの
エサでして、なかでも八さんに熊さん。それにちよっと程度が落ちて与太郎というところ
がその花形でしょう。
では、お三方のオツムの程度はどのくらいかと申しますと、まず、八さんこと八五郎ど
の。例えば「一目上り」では、ご隠居が「八ちゃん。やって来そうそうお前さんに小言言
うわけじゃないが、世間ではみんなお前のこと「ガラッ八」と言ってるヨ…」と言うと、
「ヘイ、おかげさまで」とホメられたと思ってニコニコしているくらいですからその程度
は想像がつこうというものです。
次の熊さんこと、熊五郎ドノはてーと。
冬の寒い朝「浅草は観音サマの裏で行き倒れになった男を見つけ介抱したまではよかっ
たが「昨夜からの自分の行動をよーく考えてみると「どうも行き倒れの男は自分らしい」
ということに気づき、
「すると抱いているこのオレは一体だれだ」なーんて、なんとも理に合わないことを平気
で言うのだから恐れ入ります。
次の与太郎はてーと。これはもう最低でして、一日ボーッとよだれをたらしてつっ立っ
ています。どうせならポストの出に立たせ封筒のシールをなめさせたらちっとは世の中の
役に立とうというシロモノです。
98
落語「馬と蛙」
それでも仕事はしたいという欲望だけはあるようでして……「やかん泥」では兄貴に弟
子入りし泥棒修業。やっと定職を得た嬉しさに、ツイ、
「アーやっと今夜から一人前の泥棒になれたんだ。オレは一人前の泥棒だゾー。オーイ。
オレは泥棒だゾー」と夜中町の中を叫んで歩くのだからそのバカさ加減にも「超」がつこ
うというシロモノです。
しかし、このお三方だけでは落語は始まりません。ここへ現れれいでましたのが言わず
と知れた横丁のご隠居。どこの横丁か知らないが必ず横丁に住んでいて書画骨董を眺め、
盆栽をいじり、婆さん相手に一日退屈しきっています。客が来ると婆さんに古いようかん
をとり出させ、一人では立っておれない位うすく切って出させるケチなオヤジです。でも
若い頃は何をやっていて、今なんの収入で生計を立ててるのかサッパリわからないが、字
が読め、メッポウもの知りなため熊や八五郎が飛込んでくるとツイ手紙を読んでやったり
世の中のことや倫理につき講釈するハメになります。
だが、
「無学者論に負けず」で八さんや熊さんがトコトン理づめで聞くので「浮世根間」
などではしばしば返答に窮しツイごまかすことになるんですナー。
さて、オールスターの紹介が終ったところで早速、新作落語と参りましょう。ただし登
場人物の熊さんや八さんは今紹介した孫に当り、従っておじいさん達にくらべたらいく分
99
教養もありマシと言っていいでしょう。
しかも、驚いたことにこの連中アメリカはここ、ロスアンゼルスに住んでいます。で
も、オッチョコチョイなところはおじいさん達とちっとも変らないようでして……。
さっきも熊さんと八さんが立話ししていたのをぬすみ聞きしました。
熊「この間、日本からシンボリルドルフが来たネ」
八「なんだい、それ。ドイツの俳優かい」
「知らねェーんだネ。日本のジョン・ヘンリーだよ」
「ヘンリー三世のいとこか」
「バカだネー。日本の有名な競走馬の名前だよ」
「ホー。それで、なにしに来たんだい」
「なにしにって、こちらのサラブレッドと競走する為サ」
「つまり他流試合ってワケだ」
「ソー。日本じや天皇賞、さつき賞、有馬記念など三冠をかっさらった日本一早い馬だか
らネ。こちらでもどの位早いか走らせてみようってワケよ」
「つまり、巨人のエナツ投手みたいなもんだナ」
「おーっと。馬と一緒にしたらエナツ怒るゾ。でも、うまいこと言うネ。その通り」
「それで何に乗って来たんだい。はるばるアメリカまで」
100
落語「馬と蛙」
「船じゃ日数がかかって疲れるから飛行機だろ」
「それにしてもあんな大きなズータイ飛行機だとしたら何クラスかネ」
「何クラスって?」
「たとえばファーストとか、セケンとか、サードクラスとかいろいろあるんだろ」
「よくは知らないけど、馬だからきっと、ホース・クラスだろ」
「なーるほど」
「ところで競走の結果はどうだったんだネ」
「それが前評判に反しドン尻」
「ヘー、日本一がネ……」
「例によって気まぐれな日本のマスコミが大騒ぎし、大勢のカメラマンが馬の尻にくっつ
いてはるばるアメリカまで来たけど、世界は広いネ。やっばりエナツと同じでカワズよ」
「ホー、その連中なにも買わずに帰ったのかい」
「なんだい。それ……」
「だっていま、カワズって……」
「バカッ!」
「クマさん。差別語はいけないネ」
「間抜けッ!」
101
「それも差別語だよ」
「八さん、あんたソソっかしいんとちゃうか」
「どうして?」
「誰が買物の話をした?」
「だって、カワズに帰ったとか……」
「そのカワズとはだナ。つまり蛙のことだ。
『 井 の 中 の 蛙、 大 海 を 知 ら ず 』 要 す る に 狭 い
社会でテングになるごとを戒めた言葉だよ」
「ア、なーるほど、オレはてっきり買物の話かと思った……。しかし、このロスアンゼル
スにもたくさんカワズがいるネ」
「まさか。こんな大都会に」
「いるとも、たくさんいる」
「タンボもないのにいるかネ」
「いるよ、いる、いる」
「例えばどんなのがいる」
「ジャーナリスト蛙。作家蛙。芸術家蛙。タレント蛙……、ゾロゾロいるネ」
「どんな格好してる?」
「まるで、枝にブラ下った雨蛙か土間にうずまったヒキ蛙だネ」
102
落語「馬と蛙」
「顔は?」
「ツンと天を見ている」
一体、何を話してるのか、もう話が混線してメッチャクチャです。
では、そろそろおあともよろしいようで……。
103
ローマン ブ
ロ
落語「浪漫風呂」
世の中にァ、なんですナ、よくわからないことってありますナ。
先日も、トルコの青年が、日本のオエライ大臣に「あのいかがわしい浴場を『トルコ』
と呼ばないで欲しい」と直訴したのが始まりで、いま「トルコ」問題が世の論議をよんで
いるようでございます。
理由は、トルコ共和国と、トルコ国民を侮辱し、同国のイメージを著しく傷つけるとい
うのでございます。
でも、なんですナ。お客さん方も一度や二度、トルコ風呂、イヤ役所用語で言う「個室
つき浴場」に行かれたことはあると思うんですが、アワオドリ、センボウキョウ、トケ
イ、マナイタ……エッ、前のお客さん、意味がわからない? オトトがカマボコ喰ったよ
うな顔して……判らなかったらニヤニヤ笑っている隣りのニイさんに聞いて下さい。ナ
ニ、ニイさんもわからない。じゃ、行って確めて下さい。かく言うわたしもまた聞きなん
ですから……。エー、などなどしてもらっていながら、「アー、おれは今、トルコ及びト
ありませんナ。全く関係ないもんナ。論より証拠。手近か
ルコ共和国民を侮辱しているのだ。憎いトルコ共和国のイメージを傷つけてやろう……」
と思ったことがありますか?
104
落語「浪漫風呂」
なところでウチの与太に聞いてみましょう。
「オイ、与太。オメェ、ユウベ、トルコに行ったそうだがトルコ共和国のこと考えたかい」
「なんですか、ご隠居、いきなりヤブから棒に。そのトルキョキョクってなんですかい」
「ヨーロッパにそういう名の国があるんだ」
「ヨーロッパかヒーロッパかしらんが、それとわっしが行ったトルコとどう関係あるんで
すかネ」
「そのトルコという国の人達がオメーさんがユーベ行った風呂を「トルコ」と呼ぶなって
怒ってるんだよ」
「ご隠居、ワッシャね、浮世風呂に行ったんでトルコという国に行ったんじゃありません
デ。女や天国のことは考えてもトルコという国のことなんか考えるワケネーズロ」
「マー、そりゃそうだナ。オカスイシのないコーイ、これをバッせずか…」
「なんですかい。それ」
「イヤーお前さんにゃわからんが、なにか悪いことをしようと考えずやったことはもとも
と罪にァならないってことサ」
「すると思わないでやりァイインですナ。よーし、三年ごしに思いつめてる隣のオシショ
さん、ケイコの帰りを待ち受け暗がりへ引きずりこんでシンネコやったロ」
「オイオイ待ってくれヨ。オシショさんお前のことどう思ってんダ。お互い好きだったら
105
「ワカン」で罪にならん。そうでなきゃ相手の意志に反して犯すという行為自身が罪にな
るんダ。わかったか」
「なんだか『ワカン』ねェーナ。ところでご隠居。なんであの風呂をトルコなんて呼ぶん
ですかい。なまじそう呼ばなきァトルコの国からイチャモンつけられねェーですんだのに」
「そこなんだ。もともとトルコ風呂というのは、昔ギリシヤ時代にトルコ人などイスラム
教徒の人達が、閉めきった室で石などを焼いて空気を乾燥させる乾燥風呂や熱気と水蒸気
でむすローマ風呂に好んで入ったのを、ある頭のいい男がこれにヒントを得て「トルコ」
などというエキゾチックでエロチックな名をつけたんだナ」
「でもご隠居、ゆうべのトルコ風呂には蒸気も乾燥風呂もなかったですぜ」
「それなんだ。ワシが昭和二十五年ごろ、始めて東京は銀座の「東京温泉」というところ
に「トルコ風呂」というのができたってんで行ってみたんだが、箱から首だけ出して下半
身をステームで蒸す何の色気もヘチマもない風呂だった。イヤ、垢こすりのヘチマはあっ
たが女はいなかったナ」
「いつから女がサービスするようになったんですかい」
「そうだナー、一年ぐらいたった翌年の四月ぐらいだったかね。〝湯女〟つまりミストル
コが誕生したのは」
「そのころからアワオドリとか……」
106
落語「浪漫風呂」
「トンデモハップン歩いて五分。頭にスカーフをかぶり水着姿でただ蒸風呂から出てきた
ところを粗末な簡易ベッドで背中をマッサージしてくれるだけだった」
「それがいつしか腹に回り最もコルトころに集中するようになったってワケ。判った。そ
れで引くり返してトルコと呼ぶんだナ」
「バカ。なんでも引っくり返す奴があるか……。ところがいつしか時間のセイブから邪魔
な蒸し風呂をとっ払い風呂とベッドだけになった」
「いゃアッシがゆうべ行ったところは風呂もなかったゼ」
「ヒデーナ。つまリベッドだけでシャシュツオンリーってわけだナ」
「なんです。そのシャシュツって」
「つまりモミモミ発車オーライのことよ」
「ところでヨーロッパのご本家の方の風呂では女ははべらなかったんでしよ」
「ところがドッコイそれが大違い」
「ヘー」
「
『古代ローマは風呂で滅びた』と言われるくらい朝から晩まで風呂と女と酒で酔いし
れ、大勢の湯女がはびこったんだ。なにしろ当時あったカラカラという王様が作った大浴
場は十二万四千四百平方メートルの敷地に二千三百人が一緒に入浴できたというのだから
スケールが違う」
「風呂じゃなく海水浴場だナ。だから王様の懐がカラカラになりローマは滅びたんだ」
107
「ダジャレ言うナ」
「でもそんなに大勢の女がいたら目移りするだろうナ。オレ、二人っきりでシコシコがい
い」
「バカ」
「昔ヨーロッパでそのようなことがあったんじゃ全くいわれなきことゾアラン」
「なんだいソレ。むづかしい言葉使うない。いずれにしても昔と今では国も人も習慣も違
う。
「 ト ル コ 」 と い う 言 葉 は も と も と 世 界 中 ど こ へ 行 っ て も 通 じ な い 日 本 語 で、 日 本 国 内
であの風呂と何と呼ぼうとカラスの勝手で、それにケチつけるのは内政干渉で筋違いだと
思うが、ただ、トルコという国では国中あんな風呂があり、一日中あーゆーことをしてい
ると考えるバカがいるとしたら、トルコ国の名誉のため放っておくこともできないから、
名前を変えてやったらいいナ」
「ご隠居が折れるんですかい」
「オレが折れなくったって業界がトックに折れてる。わずか一卜月で業界最大の会員数を
誇る『日本特殊浴場協会連合会』は『トルコ』という名前を看板からとりはずすことを決
定したんだ」
「早いネ。なぜ突っ張らなかったんですかネ。筋が違うのに」
「いま、この種の業界が町ぐるみシュクセイの嵐の中にあるからな。ヘンにゴネて売春禁
止法の網の目の修理をされ、頭からドサッとかぶせられると元も子もなくなるからナ。つ
108
落語「浪漫風呂」
らいとこだヨ」
「それでトルコに代る新しい名前きまったんですかい」
「いや、それがなかなか決まらん。一般からH誌上で募集しているようだが」
「名はヒラメを表す」
「バカ、それを言うなら『名はタイを表す』だろう」
「そのタイを表すところでいっそ寝るところだから『ネルコ』にしたら……」
「ダメだ」
「じゃ『スルコ』か『ヤルコ』は」
「露骨すぎるナ」
「じゃ、ローションぬるから『ヌルコ』は」
「ダメダメ」
「いっそ『ノルコ』にしたら」
「バカ、ズバリ言う奴がいるか」
「
『ミルコ』は」
「いいかげんにせんと怒るゾ。お前の言うことにゃ夢がなくていけネー。あそこはナ。一
日中会社で上役や同僚にツツかれストレスのたまった男がウタカタの夢をみるところだ。
従って、ネーミングにゃロマンがなくちァいけねェーナ」
「ロマンがね……オット!」
「どうした。いきなり大きい声出してビックリするじゃネー
109
カ」
「その「ロマン』ですよ。いっそ『ロマン風呂』または『浪漫風呂』ってーのはいかがで
しょう」
「おれはお前をバカだ。バカだと思っていたがタマにゃいいこと言うネ。『ロマン風呂』
か。ウーンこれはいい」
「西洋式トルコは『ロマン風呂』
、和風トルコは『ローマン(浪漫)風呂』……」
「オィオイ、引っぱっちゃいけネーナ」
「引っぱるって何をですかい」
「そのローマンのローだ」
「どうして引っぱっちゃいけねェんですかい」
「今度は、イタリヤの青年から抗議がくる……」
110
色道説法「凹」
色道説法「凹」
「有底穴」
「無底孔」即ち、これなり。人体の有底穴、これ鼓膜
凹(アナ)に二種あり。
を基底とする耳穴、肺を底部とする鼻穴、腎腹を底部とする尿器。而して無底孔は目と肛
門。いずれも食道や腸など消化器の入口と出口なり。
されば女性器は「穴」ぞ「孔」ぞ。腟の底部は子宮の尖端即ち子宮膣部に突当り「一応
「穴」と見倣されるも、その子宮膣部は産道の末端にしてその細孔をたどると子宮底部を
経て左右卵管を通り、最後は腹腔内に出づる。されば女性器は「孔」なりや。
否、通常子宮腟部を通過し得るのは経血と頭部が三ミクロン、尾部を加えて五十ミクロ
ンという精子のみで殆んど開じた状態にある為、これを底部と見倣し、従って通常女陰は
「穴」と呼ぶと妥当とする。而してこの穴こそ人生最大の難所なり。
女の精魂凡てこの臍下三寸速ち男泣かせの穴にあり。
人生の歓喜と法悦。愛と憎しみ。そして煩悩も菩提も凡てこの凹即ち「穴」より生ず。
「女ならでは世も明けぬ国」
生殖を凹の所業。生命を凹の所産とする思想こそ、わが古代母系制度の根源なり。
この凹、世の色餓鬼どもを煩悩の情炎に身を焦させ、三界の火宅に狂わしめる元凶! 111
女身の噴火口なり。女陰を「ホト」
(火処)と呼ぶはこれによる。而して中に鎮座ましま
す一寸八分の観音様、陰核を「ヒナサキ」
(火の尖)、う っそうと生い繁る緑発( リュー
ファー)
、陰阜を「ホカミ」
(火処の上部)と称するは同じ伝。俗称「ボボ」は「ホト」の
転訛なり。また不倫の情交を「火遊び」
。これが発見すると「火傷(ヤケド)」を負い、好
意を抱く異性と意の如くならぬ時「身を焦す」
。これ凡て女身女陰がホト(火処)でなく
てなんぞ!
「ナーよかろう?」
「へるもすまいに……」
いくらクドいてもコウベを下げぬ女の子には「ホト」「ホト」手を焼く。
」を「ジューッ!」と成仏させる火消し壷も
而してこの燃えたぎる「火の子(ヘノコ)
また「ホト」なり。故に古来これを壷、転じて「局(ツボネ)」と称す。また娼妓宿にて
この局に入り損ね屹立した筒もてさまよえる態(サマ)を「美人局」即ち「ツツモタセ」
と言うはイト可笑し。
「局」は間口狭く奥行き広き蜂の巣状に仕切られた部屋という意にして「房」と同義な
り。よって房の中にて営まれる男女の交りを「房事」と言う。
さて、女体の大穴に上下三つあり。即ち、食をとりこむ上部「横穴」(正しくは孔)。色
もむさぼる下部「縦穴」なり。まことこの上下穴、乾坤相対の幽玄霊妙なる生の間にて、
112
色道説法「凹」
人生の二大本能「食」と「色」とを取りしきる二大取引所なり。
昔、瀬戸内海に「ビンショウ」という船饅頭(船上売春)あり。米一升とその肉体とを
交換したと言う。これ即ち上下口共存共栄。下の口が上の口を養った典型例なり。
ただ昨今歎かわしきは、横の口が縦の口のお株を奪い「ハーモニカ」「尺八」など男根
を横縦二大吹奏器に見立て酒落れた真似をすることなり。吹くともなく吸うともなく音も
なし。ただフクみナメまわすは吹奏器と言うにふさわしからず。また前門に飽き足らず後
門まで使用するに至るとは昨今の性の頽廃と歎わし。
女陰は神宮の鳥居に象徴さる如く神聖にして犯すべからざるものなり。世にこれを「奥
の院」
(本尊は濡れ仏なり奥の院)
「天の岩戸」
(ご開帳)「阿弥陀如来」「一寸八分の観音
様」
(浅草寺)
「船玉様」
(船比丘尼)
「瑠璃光如来」
「薬師如来」などと呼ぶはこれによる。
これを酒宴の興、一夕(セキ)の遊具としていじくりこねくりまわすとは不敬ぞ! 世に
氾濫する性の享楽「ホモる」
「レズる」
「サド・マゾ」……ああ「その飽くなき性の享楽、
性の側錯、いと哀れ!
「男は女」
「女は男」
「口は食と話」
「膣口は生殖と出産」
「尿口は排尿」
「肛門は排糞」凡て、
適材適所、すべからく神の定めじ己の本分を守るべし!
而して、人生の終焉の地は墓穴なり。
死者を墓穴に入れ埋葬するは単に死者の霊を地底に沈めるに非ず。邪霊の現出を畏れた
113
古代人、これを地中に封じ込め、再び娑婆に迷い出さぬようしたのが埋葬の起源。堅固な
柩に詰め、巨大な墓石をその上に乗せるのはその証左なり。
他方、地は、男性神たる天に対する万物生殖の母胎神と信ぜられ、「地の母に宿った子
なるが故、娑婆を辞した後は母神たる地中に帰す」という信仰によるものと解せられる。
また、墓石は生殖宗による陽根を暗示し、ギリシヤでは未婚の女性が死ぬとボトルをそ
の上に置く風習ありと言う。このボトルこそ陽根を意味し、性の悦びを享受することなく
逝った彼女の性の復活を暗示するものなり。
また、処女を神と同一視する風潮は古来より世界各国にあり、アジアのある国では最近
まで妙齢の女性が死ぬと、性の天恵を享楽せず逝った彼女の恨みを怖れ、また神を女体か
ら引き離す意味から隠かに破瓜させる風習があったと聞く。
また、ボトル(瓶)が男根を暗示することは、わが国にお いても軌を一にし、結 婚式
の「三二九度」の際の盃は女性器。一升瓶は男根。なみなみと注がれる酒は言うまでもな
く男精を意味する。即ち、花嫁は、初夜を目前にし男女の交合を暗示する模擬装礼、つま
り、男精を数度に分けて飲み乾す仕儀をなすなり。鳴呼、
「意味深(シン)と言うも愚なり。
穴より
「出生」
「婚姻」
(出産)
「死亡」……
かくて人生、
人すべからく
出で
114
色道説法「凹」
穴もて
穴にて 育くみ
悦しみ
穴に 入る
ああ、善きかな穴!
哀しきかな穴!
穴賢しこ 穴畏しこ
あなかしこ……。
115
ヒャクト
百兎を追う タ
―誰が為 何を書くべきか―
世の中に、人の嗜好性ほどわからないものはない。
一人として同じ顔がないようにそれはまさに千差万別である。だからこそ、世の中は面
白いと言えるのかも知れない。
私ごとで恐縮だが、早い話が本誌十一月号の拙稿「凹」である。
実を言うと、これは文字通り「アナ埋め用」原稿だった。(「凹埋め用」の題が「凹」。
シャレではありません)
もともと遅筆の上、年末になると雑用が増え、本誌の原稿にアナがあきそうになるので
以前緊急用に一本予備として編集部に預けておいたものである。そして出来るだけこの原
稿が使われることがないようにとセッセと書いていたのであるが、とうとう間に合わず活
字になってしまったという次第。
ではなぜ預けた原稿が活字になるのを怖れたか。言うまでもなくこれが読者の目にふれ
ると、読者、なかんづく女性読者は半減。いや「ソースカン」を喰うのは必至と覚悟して
116
百兎を追う ―誰が為 何を書くべきか―
いたからである。
事実、編集女史からも「センセー、こんどの原稿ヒドイワ」と言われ、もうほとんどカ
ンネンしていたのであった。
ところがどうした風の吹きまわしだろう。雑誌が出た途端、電話はジャンジャン。手紙
は ゾ ク ゾ ク。 会 う 人 ご と に「 面 白 い 」
「 ヤ ッ タ ー」「 イ ケ ル ー」「 ナ ウ イ ー」「 リ ズ ム が シ
117
ビレル」
「 モ ー、 チ ビ リ ソ ー」 …… あ る 女 性( 女 性 で す ゾ!) な ど「 コ ン ト ー コ ー 以 上
よッ!」
「三度読み返したワッ」……
い や ー も う ヴ ァ リ グ 航 空 の キ ノ シ タ 氏 の T V コ マ ー シ ャ ル じ ゃ な い が「 ま い っ た
ナー」って頭をかく感じ。赤面のあまり自分の書いた凹に入りたい心境であった。「タデ
喰う虫も好きずき」とはよく言ったものである。
」
資料をあさり、日夜呻吟しながら苦心した原稿がチットも反響がないかと思うと、「出
来るだけ人目にふれる機会がありませんように」と祈りながら予備用に書いたものがバカ
受けする。
「鳴呼! 読者の嗜好性や如何に
考えさせられる昨今である。
しかし、これが読者の凡ての嗜好でないことは百も承知である。「面白い」と思った数
だけ「イヤらしい」と感じた読者かいる。と思っている。
!?
だから決してウ頂天になることはないし、バカの一つ覚えで同じドジョウを追うことは
しない。
「今度の原稿はヒドイ」と言われても必ず同じ数だけ「チョット変ってて面
また逆に、
白いジャーン」と感じている読者もいると信じているから決して「落胆」したり「クサル」
ことはない。
これは筆者の生来持ち続けている書き屋としての哲学に近い信念である。
だからと言って、私は「アマノジャク」を誇示しているのではない。要するに「読者の
嗜好性の一元化はどだい無理だ」と言っているに過ぎない。
当然のことながら、読者の生い立ち、学歴、職歴、交友歴、家族構成、貧富に関する生
活環境など、どれ一つとって同じものがないように、その物の考えかた「ものに対する嗜
好性は異なる。この多様な読者の嗜好性に対応するには多様な主題と内容を持った原稿を
書くしかない。筆者が殆んど毎回主題やスタイルを違えて書くのは、このことと深い関り
あいがある。
しかし、考えてみるとこの方法は固定ファンの確保と言う意味からは、いささか損な方
法であるような気もする。
早い話、他の常連の書き屋さんの文章を見るがよい。毎回殆んどの人が同じようなテー
マとタッチで書いておられる。中には枚数までピッタリ合せている人もいる。だから署名
118
百兎を追う ―誰が為 何を書くべきか―
を見なくても殆んどの場合、作者を当てることができる。
これは文章の訴求テーマの確立、スタイルの樹立という意味ではホンモノに近づいてい
ると言えるかもしれない。
そして確実に固定ファンを把んでいる書き屋さんがいるように見受けられる。
「じゃ―、なぜアンちゃんもそうしないの」
「サー……浮気なんだろうネ」
「浮気?」
「よく言えば、サービス精神旺盛ってとこかな」
「ヘー」
「ランちゃん。あんた『つばめの巣』見たことある」
「あるワ」
「虫をついばんで来た親つばめが巣のはじにとまると、一斉にヒナ鳥がかわいい黄色い口
ばしをアングリ開ける……」
「かわいいッ!」
「すると親つばめは順番にエサをヒナ鳥の口に入れる」
「よく間違えないわネ。名前でもついてるのかしら……」
119
「サー、つばめに親戚いないから聞いたことないけど……。でもときどきあまり喧ましい
のはスキップすることがある」
「ヘー」
「それにヒナ鳥でも甘口好みとか、辛口好みとかあるような気がするナー」
「まさか」
「少なくとも、硬いのが好きとか、軟かいのが好きとか。親鳥はそれを知ってて与えてい
る。だから必ずしも順番じゃない」
「ホー、どうしてあんちゃん、そんなこと知ってるの」
「知ってるワケじやないけど、なんとなくそんな気がする……」
「あんちゃん、子供の頃いつも、つばめの巣にヒナがかえると屋根裏に登って、一時間で
も二時間でもあきずに眺めていたもんネ……」
「学校から帰ると、すぐカバンを放り投げ屋根裏へかけ登った……」
「それでいつもカーさんに『ツグさーん。勉強しなさーいッ!』って叱られてた」
「当りーツ!」
「それはそうと、あんちゃん、つばめと読者はどう関係があるの」
「あッ、そうそう……つまり読者の好みに合わせ、まんべんなくエサを運んでるッてわ
け。さっきサービス精神旺盛と言ったのはこのこと。勿論あんちゃんは自分が親つばめで
120
百兎を追う ―誰が為 何を書くべきか―
読者をヒナだなどとオゴった考えなどメッソーもないがネ」
「つまり、話題の『運び屋』に徹してるッてワケ」
「それにマンネリこわい」
「おとくいの落語『マンジュウこわい』じゃないの」
「いや、マンネリだ」
「ホー、マンネリッてそんなに怖いものなの」
「ソリャーソーサ。第一に飽きられる。それに気づく人はまだリコーなホーで毎回異口同
音にノンベンダラリと書いている。ところがある日、突然それに気づく。そして必死にそ
の穴から這い出ようとあがく。もう日夜頭をかきむしり机に向って呻吟するが一行も書け
ない。油汗タラタラまるでこの世の生地獄サ」
「ヘー、わかった。そのマンネリからくるスランプにはまらないため、手をかえ品をか
え、硬軟、甘辛いろいろ盛りつけで十年以上もお客さんにサービスしてるッてワケ」
「と同時に、
『 百 態 の 読 者 』 の 需 要 を 満 す た め『 百 兎 』 を 追 っ て い る と 言 っ た 方 が い い か
も知れないナ」
「百兎?」
「そう。だって今年は兎(ウサギ)年だからネ。ハッハッハッハー……」
「二兎ですら『一兎をも得ず』と言うのに百匹もの兎を追っかけるなんてアキレタワ」
121
「しかし、
『ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当る』って諺もあるからネ。なかにはマグレで当る場
合もある」
「でも、マグレでも必ず当るって保証はないワ」
「それはそれでいいサ。アンちゃん今日まで殆んどの場合、読者を意識して書いたことな
いし、もともと自分自身のストレス解消のために書き始めたんだからネ」
「だって、それじゃ読者に悪いわよ」
「ナーニ。一人でも面白いって読んでくださる人がいたらそれでいいのサ。読者に啓蒙示
唆を与えようなどというオゴった気持もなければ、読者にオモネ人気者になろうとか、あ
ちこちのパーティで自己宣伝し(実際そういう人がいます)日系社会で知名度を得ような
どというサモしい野心などサラサラない。いつの間にか定着した本誌は止むを得ないとし
て十指に余るペンネームはそのためである」
「読者のために書くのでなく自分自身のために書く。あんちゃんって偉いッ!」
「エラくはない。エライのは毎月の締切りを守るため、どんなに疲れた日でも、仕事から
帰って来るとTVも見ないで毎晩シコシヨカクことの方だ」
「どうしてそんなにムリしてまで書くの」
「ムリでも自分のためだからダ。実際、外でイヤなことがあったり、胃がモタれたりする
ときは原稿用紙のマス目を埋めたり、何を書くか想をネッていると、いつの間にかスッか
122
百兎を追う ―誰が為 何を書くべきか―
り忘れ、治っているからネ」
「自分のことしか考えない」
「それで、ついでに『面白い』と言って喜んで下さる隠れた読者がいたら有難いことだ」
「自分が主だなんて、アンちゃんって勝手だワ」
「ソー、少なくとも読者にオモネルまねはしない。ホント、あんちゃんって勝手なんです」
(ついでに、アンちゃんにひたむきな愛をよせる妹、イトー蘭ちゃん。だーいすきー!)
今年も、
「タデ喰う虫」を求め、
「百兎」を追って、そして自分自身のためにも日夜頑張
るつもりでーす。
どうぞ よろしく……。
(本稿は「TVファン」の新春号の年頭随想として執筆されました)
123
ち ぶ さ ものがたり
女体百科 乳房 物 語
乳房(ちぶさ)……これは男性にとってまさに永遠の美の象徴であり、また女性を最も
神秘的たらしめている天性の器と言えよう。これは同時にわれわれを意識下の意識として
授乳期への追想をもさそう。性技における乳房の愛撫はまさにこれである……。
このように書くと、また筆者の卑猥な話が始まったと誤解するご仁がいるかもしれない
が、それは全く見当違いと言うもの。世に「性をタブーとする思想」ほど危険な思想はな
い。それは全体主義、国家主義、軍国主義の芽を染む思想で、そこには真の人類の福祉は
ない。これは戦時中、女性が忌避され、女体が粗暴にかつ男性の隷属物のように扱われた
ことを想起するまでもなく歴史的事実である。
つまり女体を愛(メ)でることは世界平和を希求することで、「乳房」を語ることは「平
和を語ることに通ずるのである。かかる観点に立って今回は女性美の象徴である乳房につ
いて以下これを多角的に(かつ出来るだけ真面目に)考察してみたいと思う。
乳房とは
乳房と言うのは言うまでもなく哺乳類の雌の胸部や腹部にある皮膚の隆起で、中央に乳
124
女体百科 乳房物語
頭(乳嘴)があり、そこに乳腺が開いている。乳腺は哺乳類が子供を育てるために分泌す
る乳白色の液体、つまり乳汁を運ぶ枝状の腺で、この乳汁には蛋白質、脂肪、炭水化物、
無機質など子供を育てるのに必要な栄養分が含まれている。
人 類 の 乳 房 は 普 通 二 個 で 胸 部 の 左 右 に 対 と な っ て い る が、 こ の 形 状 は 千 差 万 別 で、 皿
状、半球状、円錐状、山羊乳型など多様であるが、また同 一人の乳房でも年令や 時期に
よってその形状に差異を生ずる。
これは乳腺が性ホルモンや下垂体ホルモンの影響を受けていることを示すもので、月経
周期に伴って変化する。俗に言う「ペチャパイ」でも月経直前はいく分大きく感ずるのは
この理由による。またこの乳房は懐妊と授乳中が最大となり分娩後一定期間乳汁を分泌す
る。
副乳
人類の乳房は二個と書いたがこれは成熟する乳腺のみが二個で、古代(恐らく四足匍匐
の時代と推定されるが)に於いては左右三個づつ六個あり他の四個は退化したものと思わ
れる。その痕跡を「副乳」と呼ぶ。このことは人類の祖先が一度に六人の子供の分娩が可
能であったことを示すもので、昨今話題となっている五っ子、六っ子はこの名残りとみて
よい。
125
「下つき」と呼ばれるのはこの発達する乳腺の位置に
また、よく俗に乳房の「上つき」
よるもので、この退化した副乳を女性の生理の始まる直前触知し得ることがある。
なぜ女性のみ乳房が膨れるか。
これは卵巣から出るエステロージェンやプロゲステロンと呼ばれるホルモンのいたずら
で、女性は思春期になるとこれらの分泌により乳房が膨れると同時に脂肪の蓄積と相併っ
ていわゆる女性らしいまろやかなシェープを現出する。
一方、妊娠するとこのホルモンの活動が増大し分娩と共にプロラクチンやオキシトチン
などと呼ばれるホルモンの作用で乳汁分泌現象が起る。
ところが乳房の隆起は女性のみとは限らない。これは病気と言うよりホルモンの異状分
泌で、男性の片側または両側の乳房が女性のように大きくなり痛みを感じ、ときに乳汁の
分泌をみることがある。これを「女形乳房」と呼ぶがこの異状現象は、甲状腺機能亢進、
アヂソン氏病、その他肝障害によるものとみられている。
乳房に関する病気
乳房が脂肪に包まれた乳腺と乳嘴とによって成り立っており、就中、性ホルモンの分泌
と関係があることから種々の病気を誘発する。乳腺炎、乳腺繊維腺種、乳管内乳頭腫、乳
126
女体百科 乳房物語
頭炎、乳輪炎などがその主なものであるが、最も恐ろしいのはやはり「乳ガン」であろ
う。しかし両者の間には全く相関関係がないとみるのは早計で、前者は後者の前駆症状と
いう認識をもって細心の注意を怠るべきでなかろう。
以上は主に、生理解剖学的所見であるが、乳房に関する他の分野も眺めてみよう。
「乳」の語源
漢字「乳」は会意文字で、子供の頭の上に爪、つまり手を置き腕を添えている図で、生
まれた子供に乳房を含ませ育てている様を表している。
な お、 こ れ を 音 読 で「 ニ ュ ウ 」 と 呼 ぶ の は 慣 用 音 で 正 し く な く、 正 確 に は 呉 音 で
「ニュ」
、漢音で「ジュ」である。
つまりこれを漢音で「ジュ」と呼ぶことは音韻上「授」と親戚(単語家族)に当ること
を意味し「与える」
「授ける」つまり乳房をふくませ乳汁を与える意味を持つことになる。
乳房と川柳
乳房が女性のほのかな色香をただよわすところから、乳房は古くから川柳に取上げられ
ている。
127
「いい縮み嫁の乳首すいて見え」
ゴツゴツした野暮なブラなどなかった頃の清楚な色香の匂うよい句。
「乳の黒み夫に見せて旅立たせ」
〝これ子供が出来た証拠よ。安心して出張なさい〟
……猜疑心の強い夫を持つととかく苦労します。だが、それだけ愛されているというこ
とかな。
「乳一つ赤子に足りぬはずかしさ」
〝ふた子なら両方一度にふくませる手もあるが、三っ子じゃどうしても乳房が一つ足りな
い。乳母をたのむのもはずかしいなア……〟
「かりた子に乳をさがされちぢむなり」
〝まアくすぐったい。この子ったら私をお母さんと間違えてるんだワ……〟
「ちぢむ」という表現に処女の初い初いしさが表出されていてよい。
「酒ならば肴の心、片乳房」
酒飲みが片方の手で酒の肴をつまみながら〝ぐいッ〟とやるように赤子が乳をのみなが
ら片手はもう一方の乳をしっかり掴んでいる。中には無心に揉んでいる丁寧な子もいる。
飛躍が効いて秀逸。
128
女体百科 乳房物語
乳と小咄
乳に関する小咄には、安永二年の「口拍子」の外「笑府」や有名な「中国笑話選」の〝へ
りくつ〟がある。いずれも異口同音であるがこれらはしばしば落語の〝まくら〟に使われ
ている。
ある家で息子に嫁を貰うがこの嫁なかなかの器量よしでよく働く。ある日「おとうさ
ん、だいぶ月代(サカヤキ)がのびたようですから剃ってあげましょう」と言う。
「それは有難い」と早速やってもらうことになる。ところが剃るときたまたま嫁の乳がお
やじの口のところに当ったのでこれは幸いと夢中で吸う。
だが〝好事魔多し〟と言う。これを息子が発見したから大変!
「これはこれは父親にあるまじき振舞い。息子の女房の乳をなめるとは、そのご所存がう
け賜りたい」と言えばおやじ「これは異なことを言う。お前は俺の女房の乳を五年もく
らったではないか……」
中国笑話選の方は、息子の嫁を手ごめにして同衾しているところを息子に見咎められ、
苦しまぎれに「お前は俺の女房と五年も寝たではないか。俺もお前の女房と一回位はよか
ろう……」と開き直る話になっている。まさに理屈はつけようである。
129
女体百科「体型と性格」
―あなたに最もよく合う女性の選び方―
「世に女ほど複雑で怪奇な生物はいない」と。
俗に言う。
「叱りゃふくれる。撲(ドツ)きゃ泣く。殺せば夜中
落語の「茶漬幽霊」ではないが、
に化けて出る」
従って「女を制する者は、天下を制す」などと言う箴言が生れることになる。
では、女性のいかなる点が男性をして怪奇と呼ばしめているのだろうか。
まず第一に内心が複雑でわからない。俗に「外面如菩薩内而如夜叉」と言う。どんなに
可愛い顔の女性でも、いつ夜叉に変るかわからないとしたら、世にこれほどのミステリー
があるだろうか。怪猫映画の主人公は常に女性である。
第二に「魂」がない。サマーセット・モームはかの有名な「月と六ペンス」の中で、画
家ゴーギャンをモデルにしたと言われるチャールズ・ストリックの口をついで、こう言わ
しめているではないか。
「女に魂があるなんて、もちろんそれはキリスト教の最も愚劣なイリュージョンの一つで
すよ」
130
女体百科「体型と性格」
女に苦労した者でないとなかなかこのような穿った言は吐けるものではない。
第二に「誠」がない。下世話に言う。
「傾城の誠と卵の四角、あれば晦日(ミソカ)に
月が出る」
この傾城とは言うまでもなく城を傾けるほどの美女、ここでは吉原のオイランを言った
もの。
「年期が明けたらきっとあなたとメオトになりんス」とかなんとか甘いことを言って足繁
く通わせ起請文まで書いておきながら、年期が来れば他所(ヨソ)の情夫(イロ)とトン
ズラ……。女に入れあげた男でないとこの悲嘆はわからない。
「 嫉 妬 深 き は 三 女( 七 去 の う ち の 三 ケ 条 ) の 一 つ。
第四に「嫉妬」深い。諺言に言う。
娶るなかれ」
(松風村雨束帯鑑)
。そして「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙でし
かも不生産的情念の存在を私は知らない」と哲学者三木清を嘆かしめたこの不生産的情念
に、われわれ男性はこの短く楽しかるべき人生を煩わされてならない。(因みに哲学者と
嫉妬は古来縁があるとみえソクラテスも、短軀でシコメで悪妻の誇高いクサンチッペには
生涯煩わされつづけたようだ。もっとも筆者など「どのように不生産的でもよいから一度
世の女たちをそのような情念の虜にしてみたい」などと日夜夢想している次第だが……。
なお「サロメ」のオスカー・ワイルドの説に従うと「シコメほど自分の亭主にやき餅を焼
く」そうだ。なぜなら「美しい女は、ほかの女の亭主たちに焼もちをやくのに手一杯だか
131
ら」と……)
以上、種々女性の悪口を並べたが、しかし誤解しないで欲しい。私は、女の悪口を言う
ためにこの稿を草しているのではない。自称フェミニストの筆者としては、「女性は本質
的に愛すべき存在である」と信じており、きっとこのように女性の悪口を言う連中は先天
的にその女性とは合わなかったのではなかろうか、言葉を変えれば俗に言う「相性」が悪
かったもので、そのために生涯不必要なエネルギーを燃焼しつづけねばならなかったのだ
と思う。
(逆にそのために大成したというパラドックスも成立するが)
では、どのようにしたら、自分に最もよく合う女性を探すことができるか。これが本文
のテーマであり、それを女性の体型と血液型から判別しようというのが本稿の狙いである。
一口に言って、人体の体型は骨骼の発達と皮下脂肪との相乗作用によって定まり、これ
に体内を流れる血液型が加味されると、その性情、性格はほぼ決定するとみてよい。
以下は、筆者が過去において交遊した幾多(?)の女性の体型と性格を類型的に分類し
創出したものである。ご用とお急ぎでない方は一座の余興としておつき合い願うと共に、
疑問な点や意見があったら遠慮なく編集部まで連絡願いたい。また誤謬についてご指摘願
えれば幸甚である。
(注:現在は受け付けておりません)
なお、本論に入る前に次の点をお断りしたい。本稿に例示する体型は原則として未婚の
若い女性である。従って読者の対象はあくまで真摯な気持でこれから配偶者を探そうとし
132
女体百科「体型と性格」
ている若い男性である。
さて、女性の体型が性格と直接関連を持つのは、多く乳房の部位とその容積である。俗
に「インテリ女はペチャパイ」と言うのは学問的に全く根拠のないことではない。この卑
近な俗言は次の推論を想起させる。すなわち乳腺の発育を促す卵巣から出るエステロー
ジェンやプロゲステロンと呼ばれる性ホルモンや、下垂体ホルモンの分泌が女性の生活様
式と無関係であるまいという推論である。
0
0
原則的には先天的ないし遺伝的卵巣の資質がその多くの鍵を握っているとしても、例え
ば太陽を全身に浴びて自由奔放に原野を駆けまわり、又は常に異性の刺戟を受け易い環境
にある女性の方が、室内にちっ居し、たえず読書や思索にふけり、又は頭脳労働に従事す
る女性より、より性ホルモンの分泌を増し、その活動を活発にするであろうことは体験的
に容易に推断できる。
運動不足とちっ居で蒼白な女性は過激な頭脳労働のため胃液の分泌もおとろえ、従って
食欲は衰退し、ために加速度的に痩せ、又乳房が乳腺と脂肪によって構成されていること
から必然的にペチャになるという相乗的悪循環をくり返すことになる。
またこのような体質は当然神経の異常な昂進を呼び、かくして神経質なインテリペチャ
女性が誕生する次第である。
133
体型と性格気質の大ざっぱな相関関係を頭に入れたところで各論に移ろう。
乳房の位置に関する数式
134
女体百科「体型と性格」
BD
ノドボトケ
が最も健康的で若い男性に
喉仏の下のくぼんだ個所)をAとし、右乳嘴(チチ
先ず、図のように頸部のつけ根(咽
クビ)をB、左をC、臍(ヘソ)をDとすると次のような二つの数式が成り立つ。
型 BC AB
型は肥満体、そして最後の
(3)
(1)
乳房の容積に関しては次のような数式が成立する。
AD×BC+2=X
乳房の容積に関する数式
長に関連を持ち、原則として若い女性ほどBDに対しABの値は僅少である。
なお、ABとBDの関係は内臓の下降現象(胎児においては内臓器の大半が胸郭以上に
収められていたものが、年令とともに下降する現象)というより皮下組織の緩弛ないし伸
(2)
∧ ∧
型 AB BD BC
型 AB≧BC≧BD
言うまでもなく 型は痩身、
推励できる理想的体型である。
∧ ∧
ABxBD÷2=Y
X + Y = Z
135
(3) (2) (1)
そして、このZの値は、東洋人の場合、ほぼ一・〇から一・六の間に位置し、一・五ない
し一・四が標準値である。
そこでこのZ値(つまり乳房の容積に関する指数を次の三つの型に分類してみよう)
型 Z値 一・五以上
型 Z値 一・四 乃至 一・三
型 Z値 一・二以下
以上は女性の体型と乳房の位置ないし容積に関する数式であるが、これだけでは複雑な
女性の性格を適確表示することはできない。つまり、これに血液型が加味されて始めてそ
の性格を推測することが可能となる。
血液型の測定の方式に関しては、ABO式、MN式、Q式、E式、T式、そしてRH方
式などさまざまな方法があるが、ここでは最も普遍的なラントシュタイナーのABO式を
用いることとする。
そしてこれらの組合せは数十種に及ぶが、本稿では紙幅の関係でそのうち最も特徴的な
四種を選んで参考とするにとどめたい。
136
(6)
(5)
(4)
女体百科「体型と性格」
型でO型の女性
(5)
の完全な飼育は不能である。或いは彼女の方にそれを強いるかだ。
若しあなたがO型の男性で、好きな彼女がO型の女性である場合、両立の道はただ一
つ、あなたがO型の原生気質から脱皮し異種の血液気質を訓練的に身につける以外、彼女
親しくなるとまず喧嘩のタネは絶えないと思ってよい。従ってこの種の女性にはベビー
シッターつまり、冷静で抱擁力のあるA型かAB型の男性がふさわしい。
O型の男性には向かない。
て待つ以外、手の施しようがない。つまり非常なわがままで、このタイプの女性は絶対に
また人見知りが強く好き嫌いが激しい。そして最大の難点は一度言い出したら一歩も後
へ退かない頑固さである。こんな時には周りの人はただ彼女の気持の静まるのを腕組みし
やや自己中心的で自己顕示欲の強いところが鼻につく。
また、人前に出たがり華やかなことを好み、人の自分に対する好意や評価を必要以上に
気にする。つまりスポイルされて育ち、どちらかというと美人のタイプが多い。そのため
辞を好んで用いる。従って一般的に教職に向くタイプである。
こ の タ イ プ の 女 性 は、 非 常 に ロ マ ン チ ッ ク で 理 想 主 義 者。 そ し て 常 に 人 に 対 し て は
「……した方がよい」と言い、世の中に対しては「……でなければならない」と教訓的言
(4)
この性格はそのままセックスの面にも反映し、決して自分から相手に合わせることはせ
137
(1)
ず、興に乗った時は激しく燃えるが、そうでない時は全く反応がなく、体に気まぐれであ
る。
型でAO型の女性
(4)
たいタイプならぜひこのタイプの女性を探すこと。
男性なんて偉そうなことを言って威張っていても女性から見たら所詮大きなベビー。ベ
ビーシッテングはこのタイプの最も得意とするところである。若し、あなたが女性に甘え
くなるタイプである。
ては爆発的激しさはないが相手の気持に合わせる方で、一度肉体関係ができると離れがた
サメたところがあり、また常に外部から自分を守ろうとする心情が働く。セックスに関し
従って非個性的で人間的魅力には若干乏しいが、生真面目なところに好感を持たせる。
O型の女性とは対照的で派手なことを好まず辛抱強い。常に自分を客観的に見ようとする
や道義を重んずる常識派。
このタイプの女性は物事に対して非常に慎重で神経質な面を持つ。その反面、相手に対
してはわりと協調的で融和的なところをも見せる。つまり内剛外柔型である。法律や倫理
(3)
先日「徹子の部屋」で、七十才を越して二児をもうけた世紀の快男子、上原謙と徹子と
138
(1)
女体百科「体型と性格」
の対談を視聴したが、その中で最も興味をひかれたのは、新夫人との馴染めについての徹
子の質問に対する上原謙の返事であった。
「ああ、彼女はボクのことを映画俳優だと知らなかったんですね。いや、一、二度映画は
見たことあるらしいんですが、少なくとも面前の男性が上原謙とは知らなかった。どこか
の不動産屋のオヤジと思ったらしんです。ボクは彼女のそういうところにひかれましてね
……」
139
「映画俳優がなんだ」
「天下の二枚目だからといってそれがどうしたというん
つまり、
だ」という全く相手の存在を無視した態度が、いつもまわりからチヤホヤされスポイルさ
れている男性にはたまらなく魅力を覚えるものらしい。
大金持の男性が結婚したがらない理由の一つに、離婚の際の慰謝料のほかに「彼女はオ
レでなくオレの金と結婚するつもりではないだろうか」という愛に対する不信が大きく働
いていると言われるのも理のある話だ。
型でAO型の女性BO型の女性
(6)
もし上原謙の新夫人の体型と血液型がこの稿のA型であったらこういう態度に出て少し
も不思議はない。A型女性にはこういう堅実な面があるからだ。
(5)
このタイプの女性の性格は開放的で楽天的、従って周りの自分に対する評価にこだわら
(2)
ない。底抜けに明るくよく人を笑わせる。この人がいる限り座が白けることがない。
行動は活発で思考は柔軟、そのため時として奇想天外なアイデアが浮ぶ。ただ非常に気
まぐれでお天気屋。やや自分の意見に固執し独善的なところがあるが0型ほどではない。
座持ちがよいので皆に重宝がられるが、八方美人であるため余り多く信をおけない。利
害の伴わない友人として最高であるが、一度、肉体関係が生ずると俄然自我を押出すので
わきまえそのペースを崩すことがない。そして最大の長所は批判精神が発達していること
で、世の不合理に対しては手きびしい。
物事をいい加減にしたり簡単に妥協しないところが長所と言えるが、女性としては今一
味甘さが欲しいところ。しかし感情的にはむっつり虚無的面の裏に全く別人かと思えるほ
140
要注意。
型でAB型の女性
(5)
セックスはピローイングよりむしろスキンシップやペッティングを好む、肉体関係が生
ずるまではかなりその方に興味を示すが、すっかりでき上ると「どうでもよくなる」ので
要注意。
(4)
このタイプは一体に知性派の女性に多い。従って、一見気むずかしく冷たい感じを受け
る。そして合理的な思考を好み、何をやらしても手固くソツなくこなす。常に自分の分を
(1)
女体百科「体型と性格」
どの協調的で明るい面を秘しているので、それをどのように引出し、また持続させるかは
一に相手の男性の腕前にかかっている。
いずれにしてもビジネス・ウーメンとしては最高のタイプと言えよう。
このタイプはしつこいことを嫌い、従ってセックスもあっさりしている。結婚までは
淡々とつき合う方が良策である。
以上種々述べたが、いずれにしても紙巾の関係で複雑怪奇な雌性哺乳類の性格をただ四
種のみ紹介したこと。また人の性格を画一的に論じたために発生する誤解に対するいささ
かの危惧を感じないわけでないが、しかし女性といっても最も女性らしい女性から最も男
性らしい女性がいるように性ホルモンの配分比によってその性格が多様化するから、これ
を逐一述べていたのでは一冊の本になるので、最も大きな特性のみを対比羅列し、理解を
容易にしたものである。
以上の点を含んだ上で自分自身に最も合致した性格の女性を生涯の伴侶として選び、幸
せな結婚生活を送ることを祈願して拙稿のしめくくりとしたい。
141
セガレ
「倅」の話 ―ポール男爵とホーデン侍従―
「みなさんは、タマは皆同じだと思っているだろうけど、人によって左右それぞれ大き
さが違うんだ。ちょっと書いてみるか(一同爆笑)向って右、つまり本人の左が右より大
きい男は男の中の男、最も頼もしい男である。これに反し(と言いながらスライド紙を裏
返す)右が左より大きい奴、これはいけない。男の中の屑、優柔不断でいつも他の女と浮
気し、女房に見つかると「すぐ別れるから勘弁してくれ」と哀願し、その実いつまでもズ
ルズル不倫の関係をつづけている男である。嘘と思うなら早速使所へ行って確めてみたら
よい。七十パーセントの確率は保証する。また奥さん方も帰ったらすぐ握ってみなさい。
もし、右が左より大きかったら、外に女がいるとみてよい。こっそり究明することです」
これは去る六月十三日、西本願寺別院に於いて開催された日航・文春共催の文化講演会
における五味康祐氏の講演「人相について」の紙上録音である。
例により和服着流しに髯づらの好漢、観相流五味一刀斉の舌尖は鋭くズバリセックスに
切り込み、まるで作家の講演でなく易者の講釈を聞いているふうで持時間を三十分と超過
142
「倅」の話 ―ポール男爵とホーデン侍従―
する熱演ぶり。奈良時代丹波康頼によって書かれた、わが国最初の医学書「医心方」まで
引張り出し「霊何を以って津液とする」という言葉の講釈に至っては三十余年という観相
学の面目躍如としたものあり、微苦笑爆笑のうちに聴衆を魅了し、引きつづき「たばこ屋
までの旅」という意味深なタイトルを引っ下げて颯爽と登壇した割には振わず持時間の半
分を消化するのもやっとという訥弁な吉行淳之介氏とは将に対照的であった。
余談ながら、帰途聴衆の一女性から、氏の講演は筆者の雑文と通ずるところがあるとい
う声があったが、どうしてどうしてさすが大物、その歯に衣を着せぬ破廉恥度は超抜群、
とても吾人の及ぶところではない。
なにしろ便所の落書ではあるまいし、立錐の余地のない大聴衆の前で倅やお袋さんの顔
を平然と描き放ったのだから……場所が場所だけにさぞや仏もびっくりされたことだろう
……)
とて、本題には入る前に、表題及び副題について一筆蛇足を加えよう。表題の「倅」が
男性器の俗称であることは広く知れわたっているが、問題は意味深で貴族趣味の副題であ
る。これも賢明な読者なら表題と同一の意味を擬人化したものであることを看取するのに
暇はかかるまい。なぜこれを思いついたかというと実はこういう訳である。
昔、と言っても二十余年前になるが、帝国劇場の社長で秦豊吉という人が(この人は戦
143
後昭和二十二年一月十五日新宿帝都座で額縁ショウ、つまり今のストリップを初めて演出
したことで著名である)九木砂土のペンネーム(因みに九木はマルキシズム、砂土はサ
ディスト(サド)つまり共産主義的加虐性変態性欲愛好家ということになるか)でよく軽
妙酒脱な文章で読者を楽しませてくれたが、この人が軟派娯楽新聞の雄「内外タイムズ」
紙に「ホーデン侍従」という名のコラムを書いていたことがある。
コペルニクス的転向と言うべきか、未だ紅顔のビ青年であった筆者などその文にいたく
啓蒙されたものである。今は紅顔ならぬ厚顔となったが副題の一部はこれにあやかったも
の。
因みに筆者の女陰に関する個所のみ誇示し、ピューリタン的口吻をもらすご仁がいると
したら折角だが妥当でない。なぜならそれは筆者が健全な男性であるという証左に外なら
ず、男性が女性に(特にその恥部に)興味を抱くのは神の摂理に基くもので、女性がレズ
サガ
ウタゲ
ビアンを求めレズったり、男性が友達ならぬホモ達を求めホモったりする現代の「狂える
性の宴」こそ、神をも欺く大罪と言うべきで糾弾さるべきであろう。
しかし、あまり毎回「女性自身」のみ書くと両性の公平を欠き、男性はヤニ下っても女
性に一種の嫌悪感を与えてはならないという殊勝な配慮から、今回は「男性自身」つまり
男根について書いてみることとした。
よろしく、おつき合いのほどを……。
144
「倅」の話 ―ポール男爵とホーデン侍従―
男根とは
陰茎と言うのは言うまでもなく
の こ と で、 ラ テ ン 語 の「 半 島 」 を 意 味 す る
PENIS
男根というのは、男性の生殖器、つまり陰茎及び睾丸もしくは副睾丸を包括した総称で
ある(但し、狭義として陰茎のみ指称する場合もある)。
を語源とする。陰茎は亀頭(解称鉄カブト。過日の五味博士の言う有色素組
PENINSULAR
織の一)と陰茎部(俗称サオ POLE
、副題参照)に分れ、その組織は海綿体によってなり、
その中央下部に尿道兼、 SAMEN
道を通し、多くは性的刺戦により充血、つまり、 ERECTION
(勃起)現象を生ずる。そして交接の際にはその一部ないし全部が女性の膣腔に埋没する。
(複数詞
BALLS
睾丸と言うのは、哺乳類の精巣のことで雄性の陰嚢(俗称フクロ)の中に左右一対あ
り(これは女性の卵巣の対と対比される)精子( SPERM
)及び男性ホルモンを製成し分泌
は
(これは本稿
S 一対の故)スペイン語で CRIADILLA
する。睾九は英語で
のオチに関するので記憶にとどめられよ)普通ホーデン HODEN
(副題参照。なお侍従と言
「竿男爵」にかしづいている故の呼称)ラテン語
BARON POLE
うのは、いつも主人である
は TESTIS
である。
(なぜラテン語で「宣誓」と同義である TEST
を使用するかというと、
古代ローマでは法廷で証人として喚問され宣誓するのは男性に限られていた。男性のシン
ボルつまり女性と類別する唯一の根拠は睾九の有無である。最近でもよくスポーツ界で半
145
陰陽選手が話題になるが最後のキメ手はタマである。従って両者は同一の語源から発生し
ている)
副睾丸と言うのは、主睾丸で製成された精子及び男性ホルモンを輸精管を通して精嚢に
輸送する通路で、睾丸または精巣の後縁に接着した細長い器管。これから出される分泌液
を栄養として精子は成熟するが、陰嚢によって被覆され外見上識別することはできない。
また、戦闘(交接)に際し普通睾丸は陰茎と異り膣内に挿入されることなく常に後方に
あって弾九(精子)の供給に当る。つまり「協力すれど介入せず」という次第である(こ
れも本稿のオチの伏線につき、留意あれ)
。
男根と隠語
隠語の中に占める両性器の呼称は全隠語の約二割弱を占め、古来われらの祖先がいかに
これに愛着を示し、またそれを隠蔽しようとしたか興味がある。(因みに両性器の男女比
は男の二に対し女三強でやはり民族出生孔穴に対する関心度は圧倒的に高い)
さて、男性器に対する隠語を分類すると、青大将(蛇)とか、うつぼ(海蛇)、又は足
(第三の)というように形態の類似による造語が圧倒的で、例えば、うなぎ、うわばみ、
おろち、かめ(その頸頭部の類似。亀頭)きゅう、すりこぎ、ちまき、さお、つつ、とお
がらし(子供のもの)
、ぶらぞう(老人のもの、 ぶ ら 下 っ た 形 容 の 人 名 化 )、 で れ 助( 同
146
「倅」の話 ―ポール男爵とホーデン侍従―
上。でれっと)
、まえ足、まつたけ、それにほほかむり(包茎)など枚挙にいとまがない。
エ
その他、男性器が次期世代の製造元であるという意 で、むすこ、せがれ(表題) があ
り、凝ったものに、エテ、又は、エテ公(人名化)がある。これは公衆の面前で平然と自
慰行為をなす卑猥な猿に因んだものでその音サルが「去る」に通ずるのを忌んで反意「得
て」としたものと推察される。
147
ウタ
シ
むかしの歌には詩があった ―校 歌 ・ 寮 歌 編 ―
むかしの歌には詩があった。そして、限りなき「夢」とロマン、それに身を焦すような
情熱があったように思う。
例えば、昔学生が寮祭や宴席で必ず歌った明治の浪漫主義運動の匠星、与謝野鉄幹の詩
になる「人を恋うる歌」……。
妻をめとらば才たけて
眉目うるわしく 情ある
友をえらわば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱
あやまらずやは 真心を
君が詩いたく あらわなる
148
むかしの歌には詩があった ―校歌・寮歌編―
無念なるかな 燃ゆる血の
価すくなき すえの世や
まさに「人生意気に感ず」である。思うに「人間、胸に浪漫の炎抱かざる者 化石に等
し」その意味で昔の人は「最も人間的」だったように思う。
さて、このポピュラーな歌にひきかえ次の歌を知っている人は少ないに違いない。それ
もその筈、筆者の旧制中学の校歌である。
黎明告ぐる 鐘の音に
明眸の塵 払い去り
薫風舞う空高く
健児の意気はいや高し
健児の意気はいや高し
誰の作詩か聞きもらしたが(なにせ当時は意味も充分把握することなくヤミクモに歌っ
ていた)なんと美しく雄大な気を含んだ校歌ではないか。
当時、学生帽にコルタールをぬってピカピカに光らせ、白線を首筋までたらし、詰襟の
149
服はツギハギと洗いざらしでボロボロになり、腰には醤油で三日三晩煮しめたようなタオ
ルを足首までたらし、五寸はあるホウバの高ゲタをはき「武士は食わねど高楊枝」とうそ
ぶいていた。
外見だけは意気盛んだが、内味は育ち盛りというのに毎日一握りのコーリャン飯で空腹
から眼球は深く眼窩に入り、栄養失調から眼光だけはランランと光り、野襲(夜中に近所
の農家の畑を襲う野盗)で得た唐芋の尻尾と薬局で買うオブラートでわずかに腹を満た
し、あまり大声で歌うと空腹に響くので腹を押え押え歌ったものである。
それていて悲そう感が微塵もなかったのは若さのせいだったのだろうか、諦観だったの
だろうか。
さて、次はその寮歌である。
おいどんが親和寮は日本一の寮よ。いつも仲よく日を暮す。
毎日毎晩、非常呼集で叩き起こされ、上級生の欲求不満から無差別無意味になぐられ、
顔はフグが食当りしたようにはれあがり……それなのに、それなのに毎日「いつも仲よく
日を暮す」と歌っていたのだから世の中にこれ以上の皮肉があろうか。哀れと言うも愚か
150
むかしの歌には詩があった ―校歌・寮歌編―
なり……。
ところで、なぜ「昔の歌には詩があった」のだろうか、ツラツラ考えてみると、どうも
昔の詩人や作詩家には「漢詩」の素養があったように思う。そして非常に「美称」を好ん
だと思われる。
固有名詞一つをとっても盃が「玉杯」=玉巵(出典「韓非子」)、酒を「緑酒」。中には
カッコよい語句の羅列で無味乾燥なものもあるが、多くは当時の多感な学生の心意気を余
すことなく表出しているように思われる。
鳴呼玉杯に花うけて
緑酒に 月の影やどし
治安の夢に耽りたる
栄華の巷 低く見て
向ケ岡にそそり立つ
五寮の健児 意気高し
これは余りに有名な旧制第一高等学校の寮歌である。明治二十七年、政府はこれからの
国家を背負うエリートを育てる意図から全国主要都市に旧制高校を創設した。つまり一
151
高(旧東大教養学部)
、二高(仙台)
、三高(京都、四高(金沢)、五高(熊本)である。
後に六高(岡山)と七高(鹿児島)それに八高(名古屋)が追加された。(これらは昭和
二十四年の学制改革でそれぞれ大学に昇格した)
いずれにしてもこの歌を聞くと当時のバンカラ(蛮色。ハイカラ=高襟色の対極を装い
ながら実はこれまたハイカラなのである)学生達のロマンと心意気が眼前に紡彿とする。
(決して西郷ドンが上野の山の夜桜見物の宴を歌ったものではないゾ)
を買収し
因みに、この寮歌の作詞者矢野勘治は後の横浜正金銀行(先日、 UNION BANK
加州店舗数一六七店、アセット高州内五位となったカリフォルニア・ファースト・バンク
の親会社である「東京銀行」の前身)の重役をした人で、明治二十四年当時寮生だった勘
治が最初「春爛漫」の題で作詩したが(当時の寮歌は寮生による作詞作曲が普通だった)
校内で余りに女性的な詩だという評が出たため、玉の杯、緑の酒…と改作したが尚、軟弱
だと言われ、ついて現在の、鳴呼玉杯に花うけて……となったと言われている。
詩中「芙蓉の雪の精をとり、芳野の花の……」などなお女性的な部分もあるが「逆巻く
浪をかきわけて」
「尚武の風を帆にはらみ」
「破邪の剣を抜きて持ち」「魑魅魍魎も影ひそ
め……」などといさましく、当時の学生のエリート意識と突っ張りのさまが目に見えるよ
うである。
なにせ当時これら官立高校生は帝国大学(鳴呼なつかしい「エリートの権化!」)への
152
むかしの歌には詩があった ―校歌・寮歌編―
入学が保証され、つまり将来の立身出世が半ば保証されていたのである(なるほど歌の文
句じゃないが「嫁は帝大出じゃないとやらない」と歌った筈だ)。この「エリート意識」
と「驕り」は次の「濁れる海に漂える我国民を救わんと」とか「栄華の巷を低くみて」な
ど随所に表れている。
次の横山芳介という人の作詞した北海道大学寮歌「都ぞ弥生」(明治四十五年)は寒風
吹き荒ぶ北都に学ぶ寮生の心意気を謳歌している。
寒月懸れる針葉樹林
橇の音凍りて物皆寒く
野も世に乱るる清白の雪
沈黙の暁霏々として舞う
ああそのサクフウヒョウヒョウとして
荒る吹雪の逆まくを見よ
ああその蒼空梢つらねて
樹氷咲く壮麗の地を見よ
153
歌詞を読んだだけで北国の寒気が身にしみ、南国育ちの筆者には思わず身ぶるいを誘う
ような歌である。
歌詞もさることながらその哀調のあるメロディで有名な寮歌は歌謡曲としてリバイバル
になっている宇田博作詞作曲の旧制旅順高校寮歌「北帰行」であろう。この歌は当時青春
の真只中だった筆者の過ぎし日の姿を新宿の「ドン底」や歌舞伎町の「歌声喫茶」の風景
と重ね甘酢っぱい青春の香りと共に想い起こしてくれる。
窓は 夜霧に濡れて
都 すでに遠のく
北へ帰る 旅人ひとり
涙流れてやまず
同じくロマンと哀調を帯びた旋律で有名な歌というと、小口太郎作詞作曲の旧第三高等
学校の「琵琶湖周航の歌」にとどめを刺そう。
われは湖の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
154
むかしの歌には詩があった ―校歌・寮歌編―
昇る朝霧や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば
これもリバイバルで加藤登紀子や森繁ぶしでなつかしい。
なお三高にはこの外に澤村胡夷作詞作曲の三高逍遥の歌「紅萌ゆる岡の花」が名高い。
紅萌ゆる 岡の花
早緑匂う 岸の色
都の花に うそぶけば
月こそかかれ 吉田山
いずれにしても、国家の偉材を育くむべく、日夜人格の陶冶に尽し、人生に詩と夢とロ
マンを与えてくれたこれら古き日の校歌や寮歌の数々……。
この当時の学生の自然を愛し国を想い同胞をいつくしむ、焦けつくような熱き胸の炎
も、結果的には国家主義軍国主義者にあやつられ、人 を、国を誤まらせてしま ったが、
「青春」という名の一生に一度の熱き炎は、時代が変っても正しく導き決して消されるこ
155
とがあってはならない。
「人を愛し、自然を愛し、国を愛し、そして人生に詩情を見出す若者の育成!」
鳴呼! わがこの希いや空し……。機戒文明に毒された「新人類」という名の昨今の若
者の胸のうちなる熱き炎は、どうやら、パソコンゲーム「ドラゴンⅢ」に向いているよう
だ……。
156
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」―となりのチンちゃんのこと―
チュウ
ト
ウマ
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」
―となりのチンちゃんのこと―
「ポンコラセーッ」
「アッ!」という間もなく少年の手もとを離れたヤセ馬は「ポーン」とまるで生きものの
ように宙に舞い上り、折りからの夕日を受けて黄金色に輝いた――。少年は袂をヒラヒラ
させながら必死にヤセ馬の落ちるあたりを目がけて走った。「ヤッタアー!」少年は転び
なから地面上数センチのところでやっとヤセ馬をつかんだ。
「カァーさんがセッカーモロッキタタイムンダレヤイムンカ」(お母さんが折角貰って来
てくれた物だ。だれにやるものか)
。少年はあわててそれを袂に入れようとした。が、し
かしそれよりガキどもの手のほうが早かった。
少年の両肘を後から強く叩いたからたまらない。黄金色のヤセ馬団子はまたも宙を飛
「ポンコラセッ!」
んだ。走ったッ! が、
「イタイーッ」という少年の声とともに団子はとうとうもんどり
うった少年の指の先数センチの泥の中に落ちた。ガキの一人の足払いをくったのだ。ヤセ
157
馬に黒いドロのアンコがついた。少年は膝からしたたる血を拭こうともせず団子のドロを
落し始めた。そして一口、口に入れようとした時である。またも三弾目が襲った。
「ポンコラセッ!」
団子は「パッ」と少年の手を離れ泥の上に転がった。少年は三たび手をのばした。
が、遅かった! ガキどもの足の方が一瞬早かったのだ。
団子は泥の中で無残に踏みつけられた。狂ったようにガキどもはかわるがわる団子を踏
みつけた。団子は泥にこねられ「泥団子」と化した。
「ザマみやがれッ。ピー!」
ガキどもはまるで凱旋将軍のように意気揚々と引きあげた。
「カセキランモンニュミセビラガスナッ!」
(食べさせたくないものを人に見せて欲しが
らせるな!)
「ハッハッハ……」ガキどもの罵声と笑い声が墓場をぬっていつまでも細い
糸をひいて流れた。
少年はうつぶしたまま独り泥だらけになった団子を大事そうにかかえていた。
「セッカーカーサンガオイニッチューモロッキタモンニュ」
(折角お母さんがぼくにって貰って来たものを……)少年は泥だか団子だかわからないヤ
セ馬から丹念に泥をのけ中味だけでも食べようとしていた。
木立からもれる夕日が少年の頬をしたたる涙を照らし、やがて黄金色の細長い糸となっ
158
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」―となりのチンちゃんのこと―
オエツ
てヤセ馬団子の上に落ちた。地面にうずくまったまま嗚咽にかすかにゆれる少年の影は、
赤い夕日に映えながら、いつまでもその場を動かなかった。
大みそかの夜の町は、ところどころにかすかな灯りを残し、降るような星の下に深く静
まりかえっていた――。
「 チ ン ち ゃ ん 」 が 苗 字 な の か 名 前 な の か、 今 で も
少年の名を「チンちゃん」と言った。
私は知らない。いつか「チンちゃんは朝鮮人だ」と聞いたことがあるが、これも本当はわ
からない。ただ非常に貧しい家に住んでいたこと。村の人達から極端に嫌われていたこと
だけは覚えている。チンちゃんの家は私どもの住んでいたトジュ(母屋)の東にある祖母
の住んでいた隠居のそのまた東隣りの石垣をはさんだ一段低いところにあった。
粗末な藁ぶき家で障子には紙などなく折れたサンだけが無造作に並び、畳の代りに筵
(ムシロ)が敷いてあった。子供たちは冬でも殆んど裸同然で生活していた。いくら温暖
の地とは言え、冬に裸は異様だった。
チ
ンちゃんには妹が一人いた。今考えると少し知恵遅れだったような気がする。いつか
眠りこけて便所に落ちて溺れたとか溺れかけたとか聞いたことがある。今どき便所に溺れ
るなど考えられないことだが、チンちゃんの家の便所は土中深く堀った便壺の上に丸太を
二本渡した危っかしいものだった。しかも驚いたことに紙が置いてないのである。ただ表
159
面を取去った十センチほどの竹の割バシのようなものが数本置いてあった。後でわかった
ことだが、これはカゴ屋から竹籠を作った残りの竹を買ったもので、これで尻を拭くと
いうことであったが、どのようにして拭くのか、よくまァー尻にトゲが刺らないものだ
なァーと子供心に不思議に思ったものである。
チンらゃんの父親は今でいう「モクチュウ」つまり煙草中毒だったように思う。私が覚
えている彼は殆んど廃人同様だった。若い頃は「カセニン」
(加勢人、つまり「ブケンサ」
(金持。分限者)や人手の足りない家へ行き、主に農作業を加勢し賃金を貰って生計を立
てている人)か、
「ヒヨトイ」
(
「日庸い」
、又は「費用取り」の方言か)で、結構私の家で
も田畑や山林の手伝いをしてくれていたそうだが、いつ、どこで煙草を覚えたのか中毒に
なっていて煙草を貰うためなら何でもするというふうだった。
悪い大人や悪党達は彼をからかい「パッパヲヤッデチッケ」(煙草をやるからついて来
い)と言って自転車で走る。彼は息をきらしながら必死に自転車の後を追う。食事をロク
にとっていないためヤセコケてフラフラしている彼が自転車に追いつけるわけがない。仮
りに追いついたとしても煙草など最初から持っていない場合が多かった。それでも煙草を
吸いたい一心で毎日毎日自転車の後を追った――。「パッパクレヨーン」(煙草を恵んでく
れヨー)今でも私の耳底に当時のあの哀愁をおびた彼の声が残り、必死に自転車を追うそ
の姿が目に浮ぶ――。
160
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」―となりのチンちゃんのこと―
その彼も、戦争が日を追って激化し、農村ですら過度の強制供出のため食糧難に陥った
ある日、とうとう死んだ。村の人の噂によると、なんでも近所のどぶ池の「おたまじゃく
し」を飲んだということであった。ひもじさに耐えかねためだろう。
「チョーセンジン」と村の人達から罵倒さ
こ と さ ら 封 建 制、 排 他 性 の 強 い 土 地 柄 だ。
れ、まるで家畜のようにこき使われ、誰一人食事を与える者はいなかった。たまたま見か
ねた祖母が人通りの少ない夕刻を見計って「カライモデンモッヂダックレヨ」(さつま芋
でも持って行ってくれ)と私に命じ、数個のフカシ芋を持って行くことがあったが、正直
言って私は好きではなかった。
というのは、近道をするため裏通りを廻ると途中に昼でもうす暗い松林があり、よく狐
火を見たこと。またチンちゃんの家は灯りがなく、まっ暗だったこと。そして最も大きな
理由は、彼の家に出入りすることが村の人に見つかると、「ワイモピーカ」(お前も朝鮮人
かッ!)と追われるためである。
「チョーセンチョーセンハカスナオナシメシクテトコチカウ」(朝鮮人朝鮮人と馬鹿にす
るな。同じ飯喰ってどこが違う)と、暗に抗議しているらしいと聞いたのは、もう少し入
きくなってからだったろうか。友達チンちゃんは性格のやさしい思いやりのある子だった
ので、どこが違って皆が軽蔑するのか子供の私にはわからなかった。
当時韓国人はクズ鉄の行商をするのはよい方で、日雇いか「モレニン」
(貰い食する人。
161
乞食)かで当時の国家政策だったのか定かでないが極端に貧しい生活をしていた。
(因みにこれを戦時中の日系人に対する白人社会の排斥に擬する者がいるが、これは明ら
かに違う。同時の日系人は米国地で生を受けたとは言え、それはまぎれもない交戦国の血
族であったからで、韓国人の場合は違う。これは韓国人に限らず中国人その他の人種をも
三国人という名で排斥した事実から見て日本人を世界一の民族と誇る純血国家主義そして
そこから当然起る排他性に根ざすものだろう)
さて、チンちゃんの家では父親が死んでも葬式が出せるわけでなし、だからと言って村
の人達がやってくれるわけでもない。家族の人も表面は別段嘆き悲しんでいるふうでもな
かった。ただ働き手を失った(と言っても殆んど放浪していたのだが)と言うより「クイ
ブッガヘッタ」
(彼が食べていた分だけ食糧が浮いた)というふうだった。
今考えると排斥されている身をはばかってのことだったのだが、少年の私にはそのこと
がとても悲しいことに思えた。
そんなわけで父親が死んでもチンちゃんの家には別段変化は起らなかった。母親は相も
変らずカセニンに出かけた。
小柄な丸顔の人で外ではめったに笑顔を見せることはなかったが、私どもにはとてもや
さしかった。どこから見ても教養などあるようには見えなかったが「イッカヨンナカワカ
ワッド。ヨッちゃんイマンウチューベンキョシヤンセヨ」(いつか世の中は変りますよ。
162
想い出の記「宙を飛んだヤセ馬」―となりのチンちゃんのこと―
ヨッちゃん(私の愛称)今のうちによく勉強しなさいよ)と、なぜかいつも私に勉強する
ことをすすめた。
ひょっとしたら日本の敗戦を見越していたのではなかろうか。そうだ。きっと彼女は祖
国韓国の独立する日を夢見、毎日ジッとその日の来るのを待って耐えていたのだ。
163
サ
コ
ある女流歌人の生涯
ユアサ マ
「湯浅真沙子」
かんちき かんちき
ちきちき どん
村のお祭り賑やかだ
かんちき かんちき
ちきちき どん
ひょっとこ踊りの面白さ
うらの背戸では虫がなく
おけらが独りで歌うのじゃ
いいお天気 秋日和
164
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」
かんちき かんちき
ちきちき どん
屋台のうしろの芋畑
お尻まくってぴっぴっぴっ
おしっこついでに前のぞきゃ
ぽっちりむくれて毛が生えた
かんちき かんちき
ちきちき どん
はーれうれしや毛が生えた
ちい子もそれなら一人まえ
提灯ぶらぶらぶ䤀らぶら
盆のおどりのかえりみち
キャッキャッキャッとはしゃやぐ女(コ)は
若い男に抱えられ
提灯ぶらぶら野道をかえる
かえる野道でばばをした
165
いい子 わるい子
どっちが いい子
露は尾花と寝たという
尾花は露と寝ぬという
どっちもおんなじことじゃいな
みんないい子でごさんすわ
かんちき かんちき
ちきちき どん
今日はお祭り 賑やかだ
「先生、珍らしい歌集をみつけたので是非読んで下さい。できれば雑誌に紹介してほしい
ですネ」
過日、二十年ほど前の教え子の父兄であるS氏からハードカバーの小冊子を贈られた。
ほかのマジの歌人では気がひけるので、
「にぎり屁や山越えもたのし 帰省の旅」「春お
ぼろ しもかつらも浮く 下町の湯」などの秀作をもつウラの歌人の筆者に白羽の矢を当
てたものだろう。
166
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」
つらつらページをめくってみておどろいた。
「一週に一度は自慰するという 女医大に通う美しき友」
「旅の宿 わずかな時の叫び 声 少し慎めという君憎し」
「灯を消して 二人抱くとき わが手もて 握るたまくき太く逞し」
いやーもー淫猥な内容をよくも稚拙な文体でつつんだもんだとただあきれ、「この色狂
歌人め、クタバリやがれ!」と戸棚に放りこんだ。
ところが数日して、あるパーティで再びS氏と逢った際「先生、どうでした」と意味深
い目つきで聞くので「ちょっと露骨で、それに詩としては稚拙だけど、自分を正直に表現
している点では、なかなかいいですよ」と、あたりさわりのない評でお茶をにごしておい
た。
ところがその夜、眠る前いつものように棚から本をとり出す際、ちょっと気になり読み
返してみる気になった。そして、目にとまったのが冒頭にかかげた、最後のページにあっ
た詩である。
(ただし、
「かなづかい」とリズム感を出すため若千補足訂正した)
167
「これはいける!」私は思わず叫んでしまった。まず詩にリズムがある。そして牧歌的で
農村の祭りのムードがよく表れている。それに一個所挿出すると卑猥な表現も、全体の
ユーモラスでほんのりした雰囲気に隠微され、少しもイヤラしさを感じない。
なによりこの素朴で自然でほのかなエロチシズムがたまらない。一体こんな詩を書くの
は誰だろう。そこで改めて作者の名に目をとおした。
「湯浅真沙子」……知らない。見たことも聞いたこともない。
編者は、と見ると「川路柳虹」となっている。しかし柳虹も、しかと作者を知っている
わけではないようだ。
「序」によると、昭和二十二年~二十三年頃、氏の門下の詩人、故・倉橋弥一氏が紹介し
てきた一女性で、一回会ったきりとある。
(因みにこの歌集「秘帳」は昭和三十一年春、
彼女の死を知らせてきた知人の中村という男性の手紙に添えられてあった遺稿をまとめた
ものとのこと)なんでも富山の産で、上京後しばらく日大の芸術科に籍をおいていたらし
い。編者の記憶によると当時二十才位の小柄な、どこか男性的な強さと無口でさっぱりし
た気性を持つ女性だったという。しかしこの際、作者が誰でどんな経歴を持つ人物かヤボ
な穿さくはよそう。
要は作者ではなく作品の可否である。そして、これから紹介する彼女の作品がなにより
雄弁に彼女の生活と心情を伝えているように思う。では、それらの詩を咀嚼しながら彼女
168
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」
の短くそして屈折した生涯を追憶してみよう。
男装の麗人・川路龍子の全盛期に作者は青春のまっただ中にあったようだ。
「楽屋口 川路龍子に逢わんとて ひしめく吾も交ࡾつ」
「プロマイド サインのあとも力づよき 龍子のペンの動き眺むる」
結婚前、彼女は同性愛の経験者だったらしい。
「かの子おもえば堪えがたき夜あり わが肌狂う血潮 燃えたちにけり」
「ただ泣きてうれしく抱く乙女なり われのいうことなすがままなり」
「その乙女十七となるその宵の肌と柔毛の触りよきかな」
「お姉さま お嫁にゆくなどあんまりよ 涙ながしてをらぶかのこえ」
169
「レズ嗜好」の彼女もその後、結婚。
「ほんもの」のよさを知る。
「み手抱きわが頬にあてて楽しむよ 朝の出社のわずかひととき」
「まじわりを重ねるほどに力づよく 生きんとおもう心湧くかな」
「洗濯もの洗ひをるとき突然に われ誘うきみ少し怨し」
「くちづけて放さぬ君の舌噛みて 足もてしめる君が肉体」
「日記帳に印すXの意味は ふかしその夜のかずと知らば笑わん」
「楽しみ尽きて悲しみ来たる」やがてこの最愛の夫とは死別することとなる。夫は九州
男子だったらしい。
「何ゆえに、ああ何ゆえにわが夫は われを見すてて此の世去りにし」
170
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」
「みな空し おもうこころは時々に 啄木の歌集つかみて泣くなり」
「かの御墓ある国までは 二日ほど汽車に乗らねば行けぬ九州」
その後、ダンサーになって生計を立て、死の日まで独り貧しく淋しい日々を送ったらし
い。
「タンゴにて 廻るせつなの君が足 わが股にふれ思わず慓く」
「かえりきて踊衣裳のさみしくも かかれる壁みて 涙ながるる」
「所詮われ ただ浮車のかなしさよ 恋もなし情慾もなし ただに悲しむ」
「かえりきて ガスなどおこすひとり居の さみしき肌にのこる白粉」
「夕ぐれに ひとりおもえば この世には われよりほかに親しきものなし」
171
「うつ蝉の この世か食うにもこと欠きて 日々を苦しくただ生くるわれ」
やせし手なでて薬のみつつ」
「雨ふる日 きるものなければ寝てあらん 秋雨さむく しとどふる雨」
「ふるきこと想えばただに涙のみ
遂に終焉! わが死期を悟り凡ゆる煩悩を拭いさり、独り明鏡止水の境地に入る。諦観
の世界である。
「われ人を怨まし世も怨まじこれがさだめとおもうこのごろ」
「いつかわれ むくろとなるやわが墓は たくわん石をおきてあれかし」
エロ詩と言う勿れ。ポルノグラフィーと同一視する勿れ。
飽食の時代に人の心うつ真の詩など生まるべくもなし。人生の無情など語れじ。᫖௒の
詩、ただいたずらに技巧にのみすぐれ実感を伴わざり。それに比しこれらの詩には技巧に
172
ある女流歌人の生涯「湯浅真沙子」
稚拙な個所はあるも、その中に脈々と波うつ飽くなき生命の泉を見る。
文体や修辞に拘泥することなく、女の、いや人間の真情を赤裸々に露吐した、心うつ
「生活の詩(ウタ)
」である。
ご冥福を祈る。
173
アイ
愛した スった かいた
―死 と 墓 碑 銘 ―
私は昨夜、夢を見た。
母が亡くなって初めて母の夢を見た。
よくは覚えていないが、どこか知らない土地で母はボンヤリ立っていた。私は話そうと
もしなかったし母も話さなかったように思う。ただ、「なぜ死んだ母がここにいるのだろ
う」と思ったことをカスカに覚えている。つまり夢の中でも母は亡くなっていたのである。
「夢想だにしない」と言われるように思いもしないことが現れ、現実とは反
夢は本来、
対の場合が多いが、これはどうしたことだろう。私は夢の中で醒めていたことになる。も
う夢ですら逢うこともかなわなくなった母……!
それにしても今回の母の死は私に一つの悟りの境地を開いてくれたように思う。それは
「死ぬ身の骨の光るまい」つまり「生きているうちが花。死んで花実の咲くものか。死ん
でしまえばそれまでよ」ということである。
こんなことを言うと「来世」を説く宗教家やお坊さん方に怒られそうだが、しかし事実
174
愛した スった かいた ―死と墓碑銘―
は事実である。宗教家でも聖人でもない私にとって、そして現実に、つい先日、母の死と
対面した私にとって、すばらしい救いとなる筈のお説教もつい「絵空事」に聞こえるのは
どうしたことだろう。
もっとも私はこの諺言を「来世を否定」するための諺とは思わないし、また刹那的放縦
な生き方を奨励し無責任を謳歌しているとも思わないが……。
それにしても今日、母の「四十九日」でお寺を訪れた際、奇しくもお坊さんが「三日後
の死を宣告された患者のようにその日、その日をなにを為すべきかを考えて生きなさい」
という意味のことを言われたのには私の心の中を見すかされたようで驚かされた。
お坊さん方の高遠な悟りとは若干違うが、先に述べた母の死を契機とした私の悟りとい
うのは、実にこのことだったからである。
個体の死はそれがその凡てであり(この部分は違うが)だから生きているうちにしたい
と思うことをやりなさい。
「行
病気になって倒れたらおそい。死んでしまえばなおおそい。だから「今やりなさい」
きたいところがあったら今すぐ行きなさい」
「好きな人がいたらすぐ愛を告白しなさい」
「抱きたくなったらすぐ抱きなさい」
「抱かれたい人がいたらすぐ抱いてもらいなさい」
(た
だし相手にも選ぶ権利があるのでそううまくいくか保障はできないが)賭けたくなったら
賭けなさい。
(ただし人に迷惑かけないこと)……それらは凡て「あなたが生きているか
175
らできること」です。
例はいささか卑近だが悟りの中味はこれだった。このように母に逢う方便として霊の世
界を信じようとする反面、非常に即物的現実的考えをするようになった。この二面性をい
かに解したらいいのだろう……。
いずれにしても私は今すっかり悟りの境地を開いた気分である。世の中の凡ての闇くも
が一気にスカーッと晴れたようである。あれほど怖れた母の死が現実に起ってみると「あ
あ只それだけのことだったのか」という気持で、本来あるべき筈の死に対する畏怖心が殆
んど起きない。
私にとって余りに大きな出来事だったので、すべての神経が麻痺し、死に対する畏怖感
を隠微してしまったのだろうか。これを達観と言うべきか悟りの境地と呼ぶべきか。(人
間の死に対する畏怖「死後の世界への怖れが魂の救い、心の拠り所を求めようとする。こ
れが凡ての宗教の根源をなしていると思われるから、当然と言えば当然の帰結だが……)
何とも不思議な昨今の心境である。
だから言うのではないが、私には長ったらしい戒名など遠慮申し上げたい。これは必ず
しも「死後の世界は信じない。生きてることが凡てだ」と考えるからだけではない。
私は現世で「慶嗣」などというむずかしい俗名を父から貰ったため、子供の時から読ん
だり書いたりするのに随分苦労させられたからである。(驚く勿れ! 新任教師で朝の点
176
愛した スった かいた ―死と墓碑銘―
呼の際一パツで私の名前を呼んだ先生がいない。今どきこんな「バカ殿様」みたいな名前
ははやらないのだろうか)
ところで「戒名」と言うのは言うまでもなく死者が僧から貰う名前であるが、それは長
いほど有難く、なんでもその長さは死者のその寺に対する貢献度(文字通り貢を献げる度
合い。つまり寄附金ですな)によって決まるそうであるが、私自身は長ったらしい戒名な
どご免こうむりたい。
第一、エンマ様から生前の善行・悪行のお裁き受ける ため呼出された際、落語 の「寿
限無」じゃないが余り長ったらしいと不便である。「釈無智無賢無産無位好色好賭好文慶
……えーい、めんどうだ。地獄へ落せ!」となりかねない。マー、もっとも小口の寄附は
頻繁にしても、千万の大口寄附など出来っこない貧者にそんな長ったらしい戒名など頼ん
だって貰えっこないし杞憂というもんだが……。
恋した
書いた」はあまり
それより欲しいのは西欧流の気の効いた「墓碑銘」である。日本のそれは殆んど戒名と
肩書、時としてその経歴と業蹟が刻まれているが、私は西欧州のウイットに豊んだ墓碑名
が欲しい。例えば「赤と黒」の作者スタンダールの「生きた
に有名だが、こんなのはどうだろう。
「彼はその財産と収入を喰いつぶし、生まれて来た時と同じように裸のままこの世を去っ
た」
177
「彼はギャンブルと女を愛し死するに当ってビタ一文残さなかった。彼の生前は、その半
分を賭けることと女を愛することに使い、残りの半分を眠るために使った」しかし「彼は
全く博才もクジ運もない男であった。ベガスヘ行っても馬券を買っても、ロッタリー買っ
ても今だかってジャックポットを当てたためしがない。もし彼があの世で天国行きの切符
を手に入れることができたとしたら、これはもう大まぐれである」
「彼の一生は、人間が地位も名誉も財産もなく、才智を示すことなくその生涯を過せるも
のであることと証明した唯一の例である」
「彼は死ぬまで女を愛した。そしてその道具をもってあの世へと旅立った。心配するな。
もう二度とこんな化物はこの世に現れぬから」
こんなに長ったらしい碑文だと石屋に払う金がかさむ。そうだ。いっそこう刻んでく
れ!
「愛した。スった。かいた」……。
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著者プロフィール
浜崎 慶嗣(はまさきよしつぐ)
1932 年
1932 年
(昭和 7 年)1 月 1 日、
Fresno California,U.S.A. 生まれ
2歳半で日本へ渡る
1952 年 1956 年
(日本で教育を受けるため)
小・中・高を鹿児島県南九州市頴娃町(現在)にて終える
中央大学法学部入学
1956 年~
1961 年
1962 年
樫田法律事務所に勤務
「検事物語」
(雄揮社・1956 年)
、
「犯罪と捜査」
(石崎書店・
1960 年)の出版に携わる
中央大学法学部卒業
山手 YMCA の(新聞配達少年のための)ボランティアとし
て、「巴里の空の下で」を新宿厚生年金会館にて公演
博報堂(瀬木プロ)勤務
1966 年
東映動画(アニメーション)勤務
帰米
1966 年8月
1967 ~ 97 年
日本語学校共同システム(土曜日のみ)勤務
Union Bank(東京 Bank)勤務
1969 - 97 年
退職
1997 年
1995 ~ 97 年 「ひばり追悼公演」をプロデュース、 ロスの日本劇場にて
上演。
そのかたわら、「TV Fan」
(日系マガジン)、「羅府新報」
(日本語新聞)
にエッセイ等を毎月 30 年間寄稿
2013 年 11 月 26 日 死去。
ロスアンゼルス 徒然草
望郷編
浜崎慶嗣
発 行 2016 年 1 月 10 日
発行者 横山三四郎
出版社 e ブックランド社
東京都杉並区久我山 4-3-2 〒 168-0082
電話番号 03-5930-5663 ファクス 03-3333-1384
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