吉田,徹也 トーマス・マン『ドクトル・ファウストゥス』

★柱のケイは最低 292H(断ち落とし含)で文字の多いときはナリユキでのばす★
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
シェーンベルク・アドルノ・マンのコンステラツィオーン
吉田徹也
要約
トーマス・マンの長編小説 ドクトル・ファウストゥス Doktor Faustus は,いくつものパースペクティブを精
妙に織りあわせた想像を絶するポリフォニーとして我々の前に立ちはだかっている。拙論 魔の芸術
ス・マン ドクトル・ファウストゥス の
クションとドイツ現代
て
の精神
察した。本稿ではこの
トーマ
(2015)では,ファウスト伝説の系列に連なる芸術家小説というフィ
的探究の合体を試みるトーマス・マンの意図を物語構造の
析を導きの糸とし
析では扱うことのできなかった作曲家アードリアン・レーヴァーキューンの音楽を
めぐる諸問題を,マンのシェーンベルクとアドルノへの関係を視野に入れながらあくまでも ドクトル・ファウス
トゥス 理解をさらに深めるために
察する。シェーンベルクとアドルノがそれぞれ作品中に占める位置は,三者
のコンステラツィオーンのあり方を規定すると同時に,逆にそれに規定されてもいる。ベートーヴェンのソナタ
形式を
水嶺とする音楽
的発展とファウスト博士はどう関連するのか,それを解明することが本稿の目的であ
る。
キーワード:シェーンベルク,アドルノ,ベートーヴェン
1.
はじめに
生と経験がひとつひとつの語にあるアクセントを,その語からその日常的な意味を完全に遊離せしめ,語に
禍々しい光輪を附与するアクセントを与えることもありうる。語をそのげに恐ろしき語義において知るに至
らぬ者に,この光輪は理解できない(13)。
ドクトル・ファウストゥス の第1章の役割は,何よりも先ずアードリアン・レーヴァーキューンの天才性が
悪魔的な領域と深い親和性を示すことを読み手に印象づけることにある。と同時に巧妙に配置された divinis influxibus ex alto(高所からの聖なる流入)というカモフラージュがこの危険きわまる存在形態を優しく包み込み,
悪魔性が聖性を排除するわけではないことを示唆する。
読み手はすべてを読み終えてはじめてこの物語導入部が,
まるで原植物のようにすべてを包含していることを知る。しかし,第1章の最後に置かれたこの引用文が意味す
るものをその全容にわたって理解することは人知を超える企てでしかない。物語作者の特権として,トーマス・
マンはその内奥の秘密については
かに暗示するか全く沈黙するかという姿勢を最後まで崩すことはなかった。
前稿で筆者はマンの最も重要な関連文献である〝Die Entstehung des Doktor Faustus. Roman eines Romans"
(1949) ドクトル・ファウストゥスの成立
ある小説の小説 をまったく無視したが,それはこの貴重な文献か
ら得られる情報が ドクトル・ファウストゥス を作品そのものとして読む試みの障害となることを恐れたからで
ある。 ドクトル・ファウストゥスの成立 は ドクトル・ファウストゥス 読解を背後から支えてくれる重要文献
ではあるがその絶対条件とはなりえない。逆に,作者その人の差し出す航海図に従って
を進めることほど航海
の楽しみをそぐものはない。それが読解にあたっての我々の基本的アプローチであった。この作品は ドクトル・
ファウストゥス 成立記としての一面を備えながら実質はマンのアメリカ亡命時代の身辺雑記と呼ぶ方が適切で
さえある側面をもつ。確かに, 脅威に囲繞されたヨーロッパ要塞 の激動する政局と危機に陥る自身の
康状態
の並行性のなかを,中心線としての ドクトル・ファウストゥス の作業日誌が貫いていることは事実である。本
論
で光をあてたい 共著者 としてのアドルノの描写にも相応の迫真性は感じられる。 ドクトル・ファウストゥ
スの成立 (以下 成立 と略記)の最後,1946年のクリスマス直前の記述は感動的でさえある。
…私たちは話題をカンタータに移した。この曲のために 真の秘密の顧問>,私は刷り上がった著書の献辞で
彼をそう名づけたのだが,は幾多の役に立つことを
えだしてくれたのだった。それでも私はどうしても次
のように言いたくなる。この章に対する彼の主要な功績は音楽的なものにあるのではなく,究極的には,道
徳的・宗教的・神学的なものに求愛する言葉と言葉のニュアンスの領域にあると。すなわち,14日間にわた
★次頁にもノンブル枠あり★
る取り組みの後でこの節が完成した,あるいは完成したと信じたある晩,私はこの節を自室でアドルノに聞
いてもらった。彼は音楽的な面には何一つ異を唱える箇所を見出さなかったが,結末部 のゆえに気難しい
表情を浮かべた。あらゆる暗闇の後で希望,恩寵が問題となる最後の 40行のゆえに。この箇所は今ある姿で
はなく,まったくの出来そこないであった。私はあまりに楽天的で,お人好しで,直接的だった。あまりに
多くの灯りを点けすぎ,慰めをあまりに厚く塗りすぎた。これに対して私の批判者が唱えた異議を私はあま
りに正当なものと認めざるをえなかった。翌朝すぐに私は1ページ半か2ページを根本的にオーバーホール
するために腰を下ろし,現在あるような用心深い形を与えた。このときようやく 絶望の超越
信仰を超える
奇跡 などの表現法を見出したのである。さらに,幾度となく引用される,ほとんどあらゆる書評に現出する
韻文風の最終カデンツを。このカデンツでは,響き終え消えてゆく悲しみが 闇夜のなかの光 へと意味が反
転するのである。私は数週間後になってようやく再びアドルノのもとに赴き,修正したものを彼に読み上げ,
これでいいかと尋ねた。彼は何も答えず妻を呼び寄せた。彼女もこれを聞かねばならない,と。それで私は
この2枚をもう一度読み上げ,目を上げた
そしてそれ以上質問する必要はなかった。
( 成立 293f.)
アドルノの貢献が 音楽的なものにあるのではなく,究極的には,道徳的・宗教的・神学的なものに求愛する言
葉と言葉のニュアンスの領域にある という表現にこめられた自負には作者の
作意識のあり方がほの見える。
専
門音楽知識を全面的にアドルノに依拠していることをマンは手記のなかでかなりありのままに告白している。し
かしそれでもマンは,その知識そのものが生の形で小説に転用されたことは認めない。すべてが物語のなかに完
全に咀嚼された形で取り込まれていることこそ物語作者の誇りであり,それは絶対に譲り渡すことのできない固
有の権利である。この自己矜持こそ手記全体を貫く通奏低音であり,この響きを聞き逃すことはありえない。アー
ドリアン・レーヴァーキューンの遺作であり,作品の頂点をなすカンタータがアドルノの介入で全面的に書き改
められた経緯を卓抜な筆致で書き記すことのなかに,マンのパースペクティブから見られたアドルノのとの関係
があますところなく表れている。マンは手記のなかでアドルノの人間像を精密に描写しており,その卓抜な表現
はしばしば肯定的に引用されている。シェーンベルクに対してはその内面にせまる記述は一切ない。このことの
含意は一つだけではない。情報源としての価値による差異と並んで,当時の彼らの社会的な序列が示されている
と
えてよい。
手記は私家版ではない。
アドルノとは何者であるのかを世間に対して説明する必要がマンにはあっ
た。それは,アドルノがある程度知られた,しかし本当はよく知られていない哲学者であったからである。それ
にひきかえ,シェーンベルクはマンの知る世界ではほとんど無名に近かった。あれほどの音楽通のもとにも,マー
ラー以降の音楽革命の波はほとんど押し寄せてはいなかった。
しかしこのような契機を含めても手記のすべては,
語の最も日常的な意味での私小説の枠内におさまっている,
というしかない。マンがその 矩>を えることはない。同じ亡命仲間であるアドルノの ミニマ・モラリア から
受けた衝撃を知るものであれば,両者の精神的境位のあまりの落差を慨嘆するしかないであろう。ただマンはファ
ウスト物語制作の物語として視点を厳格に一人称の私にだけ限定し,その覚悟のほどを世に示しただけであり,
方法論的にいっさいの哲学的
ざるをえない 自
察を避けたのである。このことによってアドルノ的禁欲スタイルからは消え去ら
自身>が,この成立
のなかで過度に露出することとなった。等身大の亡命時トーマス・マン
に近づくというもう一つの意義は否定できないであろうが,そのためにはもう一つの,トーマス・マンの政治思
想の追跡という文脈が必要となる。その文脈のなかでの成立記の役割をあまり大きく見積もることはできないの
ではあるが。しかし ドクトル・ファウストゥス の魔力圏にとらわれている我々が,残された最大の
迫ろうとするならば,成立
の秘密に
をいわば補助線として最大限に活用する方法も残されている。
冒頭に掲げた意味深長な定式は,文脈の上では悪魔の特性である 冷たさ Kalte に連なる。しかしトーマス・マ
ンはこの言葉によってさらに大きなもの,作品全体の構造を決定しているものを定式化したのではないのかとも
えられる。この仮説をもとに,前稿では扱うことのできなかったアードリアン・レーヴァーキューンの音楽的
展開とファウスト文学系列の関係を明らかにすることこそ本稿の狙いである。
2.
ドクトル・ファウストゥス成立記におけるシェーンベルクとアドルノ
ドクトル・ファウストゥス 第 43章では, 室内楽の年 とされる 1927年に
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
作された曲が披瀝されるが,そ
の一つが Trio fur Geige,Viola und Violoncello である。アードリアン自身によるこの三重奏曲の特徴づけは,
この曲の演奏不可能性であった。Unmoglich, aber dankbar 不可能だ,でも報われる (607)。 成立 のほとん
ど最終の段でマンはその種明かしをしている。シェーンベルクが完成したばかりの新曲について語るシーンをこ
う手短にまとめたのである。
…そのとき彼は私に彼の新しい,完成したばかりの三重奏曲と,この曲に秘密裡に織り込んだ人生体験につ
いて語った,この作品はある程度その体験の沈殿であると。…ところでその演奏は極度に困難です,いやほ
とんど不可能です。あるいは,ただヴィルトゥオーゼ級の三人の演奏家にのみ可能なのです。でもその場合,
尋常ならぬ音響効果の力で報われること大なのです。この 不可能だ,でも報われる という結合を私はレー
ヴァーキューンの室内楽の章に取り入れた( 成立 290)。
石 田 一 志 の シェーン ベ ル ク 研 究 書 で も こ の エ ピ ソード は 言 及 さ れ て い る(石 田 シェーン ベ ル ク の 旅 路
447f.)。石田によれば 72歳のシェーンベルクは 1946年8月2日に心臓発作に襲われ死の淵をさまよった。意識を
失ったのみならず,鼓動も脈拍も停止し,回復には3週間を要した。よみがえったシェーンベルクが9月 23日に
完成させたのが 弦楽三重奏曲作品 45 である。私たちが 成立 を読むときに躓くのはかなり頻繁に見られるこの
ような叙述である。とりわけ生死の境をさまよったシェーンベルクからその顚末をじかに聞かされたマンが,そ
の恐らくは簡潔に語られたであろう体験のうちから印象的な部
だけ切り取って即座に作品に潜り込ませたこと
にはある意味で感嘆せざるをえない。
我々を心底から驚かせるのは 成立 におけるこの記述の完結性なのである。
ここに友が見舞われた生命の危機に心を動かされたマンの素顔を窺い知ることはできない。むしろ物語作者の特
権を前面に押し出した得意げな表情しか汲みとることはできない。ここにはある意味での目的合理性が剥き出し
にされている。
シェーンベルクに対するこの記述ほど作品に対するマンの姿勢を特徴づけるものはないであろう。
フランツ・ヴェルフェルやゲーアハルト・ハウプトマンの死に接したマンの,悲しみを隠さぬ描述との差異はあ
まりにも際立っている。さらに,シェーンベルクとの関係で決定的な記述にはマンの真骨頂が
うかたなき明瞭
さで示されている。
多方面から文句をつけられた,
十二音ないし音列音楽様式というシェーンベルク思想のアードリアン・レー
ヴァーキューンへの転用を,こうしたモンタージュ行為の一つであり現実の略奪である,と申し立てよとい
うのであろうか。おそらくそうせざるを得ないのであろう。そしてこの本はいつかシェーンベルクの希望に
したがって,事情を知らぬ者たちに精神的所有権をはっきりさせる追記メモ(Nach-Vermerk)を持つことに
なるのであろう。それは聊か私の信念に反しておこなわれる。なぜなら,そのような解明が私の小説世界と
いう天球的完結性に突破口を開いてしまうからでもあるが,むしろそれ以上に,十二音技法の理念がこの本
という天球にあって,この,悪魔との契約と黒魔術の世界にあって,十二音技法の理念がその本来性におい
ては所有していない
そうではないか?
色合いと性格を帯び,その色合いと性格が言うなれば十二音
技法の理念を実際に私の所有物に,つまりこの本の所有物にしてくれているからなのである。シェーンベル
クの思想と私のシェーンベルク思想のアドホック・バージョン(ad hoc-Version)とはきわめて遠く離反して
いるのだから,テクストのなかで彼の名をあげるなどということは,品のなさは別としても,私の目にはほ
とんど何か侮辱のように見えたであろう( 成立 167f.)。
マンが自作の構成原理としての引用とモンタージュの手法を展開しているシーンでの記述であるが,ニーチェ
やシェイクスピアの引用というレベルをさらに敷衍するスタイルによってシェーンベルクの十二音技法理念の
略奪 を相対化する意図が明白である。精神界の巨星を引き合いに出した直後にシェーンベルクにまつわる不協
和音への態度決定を自己の正当化の方向に根拠づけるやり方は,一方でマンの追いつめられた心境の反映でもあ
ろう。 成立 の記述はまだ始まったばかりだというのにすでにマンは自己を弁護する必要に迫られていたのだか
ら。
もう一つ注目しなければならないことがある。マンはテクストを一つの完結した 天球 に譬えており,その中
に取り込まれたものはその天球のなかで独自の 色合いと性格 を獲得するのだから元の 所有権 は消滅する。新
吉田徹也
たな 所有権 はその天球の支配者にあるとの認識である。ヨーロッパ文学の長い伝統に照らせば,そのような主
張の正統性に疑う余地はない。しかし,アードリアン・レーヴァーキューンの音楽理論がアドルノ経由のシェー
ンベルクの十二音技法であり,これが ドクトル・ファウストゥス を支えるもう一つの支柱,いや主柱でさえあ
りうるとすれば,このような作品の根幹にかかわる事柄がシェイクスピアのソネットをそっと潜ませて読者の博
識を試すといういたずら坊主のおこないと同一レベルで語られていいのか,という疑問が沸き起こる方が自然で
あろう。マンはアドルノに対しても天球の支配者としての態度を変えていない。シェーンベルクと違って成熟し
た大人であるアドルノは,マンとの決定的な破局を避けるように行動したように見える。私はマンとアドルノの
間に
わされた書簡集(Theodor W.Adorno ― Thomas Mann:Briefwechsel 1943-1955.Suhrkamp,2002)を読
むことができなかったのでこの問題をめぐる両者の対応の機微を探る楽しみを享受できないのではあるが。代わ
りにこの書簡集についての書評(例えば Die Zeit 紙の Von Klein:Zwei Unberuhrbaren begegnen sich, 2003 )を
管見すると次のようなことがわかる。作品執筆を献身的に支えたエーリカを筆頭とするマン家は可能な限り作品
成立へのアドルノの寄与を矮小化しようとしたことが窺えるが,そのことによって両者には本来架橋しがたい溝
が生じた。アドルノは作品の全体構想を熟知したうえで決定的な箇所で介入をためらわず,そのことによって ド
クトル・ファウストゥス はデモーニッシュなものの代表とナチスによる蛮行の写し絵に陥ることなく,現代を表
現する力を獲得した。アドルノの理論を受容することで,アードリアン・レーヴァーキューンが禍々しきものを
作曲する方法に認識する能力が賦与され,その結果,禍々しきものに対する距離感が生まれた。マン自身はこう
したアドルノの貢献を正確に理解していたにもかかわらず,構図的にはマン家の事情が優先されたようである。
それでも全体的には両者の関係は ドクトル・ファウストゥス に留まることなく,その後も屈折を孕んだ相互的
敬意によって継続していった。アドルノがマンの後期作品をすべて読んだこと,マンがアドルノの ミニマ・モラ
リア に深甚な関心を示したことも興味深い。
二つの巨星は ドクトル・ファウストゥス という強力な磁場に引き寄せられて接近しあった,それも互いの天
球が重なりあうように。その後はそれぞれの軌道を守りながらも ドクトル・ファウストゥス の放つ磁場から抜
け出すことはなかった。しかし,二人を結びつけていたこうした力の場がシェーンベルクにまで力を及ぼすこと
はなかったのである。シェーンベルクの天球は他の二人の天球に対しては最後まで排他的であり続けた。1948年
の ドクトル・ファウストゥス 初版に 本来の人であるアルノルト・シェーンベルク様に,恭順なる挨拶をもって
という献辞を捧げることによってシェーンベルクへの謝意を表したマンの配慮は,シェーンベルクの怒りに油を
注いだだけだった。マンがシェーンベルク宛の書簡で謝罪の意思を表明したものの,1951年になってもなお
シェーンベルクは,アメリカの文学雑誌に掲載された
開書簡という手段を用いて,マンが 私の著作権を侵害し
た と非難している。窮したマンはようやく,かつてのマーラー夫人,当時フランツ・ヴェルフェル夫人であった
アルマの仲介で現在我々が読む形の追記を付け加えた。これがマンの意思に反して行われたことを我々はすでに
見た。それでもシェーンベルクの怒りがおさまることはなかった。和解は表面的なものに終わり,二つの巨星の
軌道が
わることはついになかった。この頑なな姿勢の背後に,音楽哲学
のうえでは自身の最大の理解者であ
るはずのアドルノに対するシェーンベルクの嫌悪と軽蔑があることは言うまでもない。アドルノとシェーンベル
クという二つの巨星の軌道が一方通行的な関係であったことが三巨星のいびつな布置の原因の一つである。それ
がもつ思想
的意味については本稿で扱うことはできないが,シェーンベルクの作曲を信仰との関連で捉えると
いう視点と,亡命によってアメリカ社会を体験したアドルノの思想旋回というコンテクストが不可欠であること
は指摘できるであろう。しかし,本論に立ち戻れば,シェーンベルク理論の借用がなければアードリアン・レー
ヴァーキューンの造形はありえなかったであろうし,アドルノの助けなしではシェーンベルクの借用もありえな
かった。ファウスト博士をマンの他の作品と決定的に異ならせているのはこうした三巨星のコンステラツィオー
ンなのである。
ところでこうした周辺事情から作品理解という本道に至る道筋はどのようにつながっているのであろうか。手
記のなかでマンは 1901年に書かれた ファウスト博士の三行の計画 ( 成立 155)が発端であり,一人の芸術家の
悪魔との契約 の着想から実に 42年が経って 音楽>が
作の中心となる経緯を詳述している。そこでの音楽の位
置づけは構想全体を規定する枠となるはずであった。 音楽はもっと一般的なことに対する前景であり,代表であ
り,パラダイムに過ぎなかった。芸術の状況そのものの,いやそれどころか,我々の,徹底的に危機に立つ時代
の,人間の,精神の状況を表現する手段に過ぎなかった。音楽小説? そうだ。しかしそれは文化小説,時代小
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
説として構想された (同 171)。そしてそのための助力者であるアドルノの
〝Zur Philosophie der modernen
Musik"を集中的に読み終えてこう書き記すことができた。
…アードリアンの位置に光が差し込む幾瞬間。困難は克服されうる前に先ず完全に生育しつくさねばならな
い。芸術の絶望的状況:最強声の要素(stimmigstes Moment)。犠牲を払って贖われたインスピレーション,
それが陶酔のなかで芸術の絶望的状況を超えてゆく,この根本思想を見失わぬこと…(同 172)。
マンはアドルノの
〝Zur Philosophie der modernen Musik"こそ,探し求めていたものだと確信した。しかし彼
のめざすものは音楽小説ではない。音楽は危機に立つ現代の精神状況を表現するための 手段 に過ぎないことが
執拗に強調されている。 一人の芸術家の悪魔との契約 に端を発した物語が芸術の絶望的状況を打破するという
壮大な構想へと発展するなかで,音楽が精神ないし芸術を代表する手段として選ばれた。そしてその音楽を現実
化する手段として選ばれたのがシェーンベルクであった。こうしてシェーンベルクには,その作曲行為によって
音楽の陥った 絶望的状況 をのり越えるという
命が与えられた。しかしその
命は,悪魔との契約から得られ
たインスピレーションという陶酔のうちにはじめて果たされなければならない定めなのであった。
ドクトル・ファウストゥス を論理的に読み解こうとするとどうしても逢着せざるをえないのが,マンが予め
設定した 贖われたインスピレーション による 芸術の絶望的状況 の打開という構図と,物語のなかでの十二音
音列による作曲家像との間の
間である。我々は前稿で悪魔と契りを結び霊感を得る正統的主題系列に焦点を当
てた。しかしそれだけではアードリアン・レーヴァーキューンの音楽
シェーンベルクを最適の素材として選定したことで,新音楽の発展
的発展を十
に理解することはできない。
を自家薬籠中の物とせざるをえなかった事
情が作品に何をもたらしたか。それを探究することでこの 魔方陣の世界 (同 174)の一面を明らかにしたい。我々
の関心事は,あくまでも作品のなかに埋め込まれたアードリアン・レーヴァーキューンの音楽であって,シェー
ンベルクの音楽そのものではない。実際にはシェーンベルク以外にストラヴィンスキーやアルバン・ベルクもモ
ンタージュされてはいるが,それは音楽理論としてではない。アードリアンの個々の作品の背後に誰がいようと
も,その推定は我々の仕事ではない。気にかかるのは,アドルノの長い影がどこまでのびているのか,である。
3.
アードリアン・レーヴァーキューンの音楽修業
アードリアンの音楽的発展の基礎は,あの菩提樹の下にあった。
のハンネ(die Stall-Hanne)が私たちの み
んなでどんどん歌おう>(Zusammen-darauf-los-Singen)を高める術を心得ていたボーカル音楽 (42)がアードリ
アンの出発点である。
…私の知る限りアードリアンを初めて音楽という天球に接触させたのは,私たちが
のハンネと一緒にカノ
ンを歌ったことだった(46)。
こうしたさりげない描写にも語り手の作為は明白に読み取れる。犬のズーゾと女中のヴァルトプルギスがアー
ドリアンの環境設定に無邪気を装って割り込んでくる。アードリアンの音楽的出発はこうした手法で脚色され,
ここに 悪魔との契約と黒魔術の世界 に包み込まれるような語りの構造が実際に作動し始めたのである。これま
ではゼレーヌス・ツァイトブロームの語りによる実体のない仄めかしに過ぎなかったのだが。そしてアードリア
ンの属性であるあの笑い(Auflachen)も作動し始める。カノンを歌うことによって 模倣的ポリフォニー という
高度な音楽的文化段階 に達した8歳のアードリアンの笑いを誘発したものは, 知識と事情に通じたものの
り であった。彼は 娘ハンネの指導下での多声構成法を見破ったのである。
…それから私たちが一緒に歌い始めると,彼女は三度下がり,そこからそのとき次第で減五度と減六度にと
んだ。そして最高声部を私たちに任せて,これみよがしに,そして耳につくように第二声部を確保した(41f.)。
10歳のゼレーヌス・ツァイトブロームがなぜと問うことはタブーである。語り手は全能であり,アードリアン
吉田徹也
のそれぞれの発展段階で自在に音楽用語を操って構わないことになっている。この場合,Terz, Unterquint,
Untersext は
娘ハンネがひとりでに身につけた技能である。その技を思う存
楽しんでいる彼女の表情は,語り
手によって食べ物をもらうときのズーゾの口にそっくりと形容され,
さらにヴァルトプルギスの 原像ハンネ は,
この動物的な匂いを放つ被造物 と特徴づけられる。これらの言葉にどのようなアクセントが賦与されているの
かと問うこと,それが我々の出発点ともなる。とりあえず我々は今,アードリアンにおける音楽世界と魔術圏と
の同時始動に立ち会ったことになる。語り手はさらに手を緩めず,読み手の注意をアードリアンの笑いから切り
離せないもう一つの要因,アードリアンの目に向けさせる。 その金属的な斑晶のある薄暗さはさらにその翳を深
めるのだった 。アードリアンの目の
を我々は解くことができなかった。アードリアンは青と黒の目に特別な反
応を示す。しかしそれは彼のエロスの発動と理解される。その力はここにも働いているのであろうか。
この前段階から,
ハルモニウムの前に座ってシェーンベルク理論の方向へと深化する 15歳のアードリアンの姿
を追う前に,もう一つの要因にも目を向けなければならない。それは青い目をしたアードリアンの
によって蒐
集された博物学的宝庫のなかにあったいくつかの自然物である。後にアードリアンの前に姿を現した悪魔によっ
て,
徒薬局>からの薬(の投与)と毒(Gaben und Gifte) (324)と絶妙に凝縮されて言い表されたものである。
なかでも蝶がもつ特権的役割については前稿でも指摘した通りである。しかし我々の視野は Hetaera Esmeralda
の音楽化の道筋にのみ限られていた。しかしそれだけではアードリアンの異常な関心を説明できない。Hetaera
が飛行中には 風に乗って運ばれる花びら (23)に見えることが重要だったのである。アードリアンは, 巧緻を極
めて,欠陥のある個々の細部にまで及ぶ保護色 に心を奪われる。 このような外面美学はときおり陰険であった
(26)。外面美学への興味のあり方はむしろ 氷花 Eisblume とそれに続く実験においてくっきりと姿を現す。
…私はこう言いたい。作り出されたものがそれに相応しくシンメトリックで比喩的な,厳密に数学的で規則
正しいもののうちに保たれていたなら,全てはそのままでよかったし,そんなものは無視できたであろうと。
しかしそれらは人の目を欺くような厚かましさで植物を模倣し,この上ない見事さでシダ類,草,杯状や星
形の花に見せかけていること,氷という手段を用いて有機的なものになって遊んでいるということ…(29)。
見るものの目を欺く Vortauschung という自然界の現象だけがアードリアンの好奇心を刺激した。アードリア
ンの
が提供するもののうちから,少年は自
に必要なものだけをすでに選び取っている。そして語り手は,こ
うした世界に踏み込むことは 魔女の行い Hexerei (28)に近づくことであると,科学の起源を意図的に魔術の世
界に位置づけようとしている。そのこと自体に論理矛盾はないのではあるが。しかし我々は,悪魔との契約とい
う導きの星だけを頼りに進んでいくと,語り手の仕掛けた罠を見逃しかねないことに再度思いをいたさねばなら
ない。エスメラルダはこちらの系列に属すだけではない。蝶はさらにもう一つの系列にとっても不可欠であった。
…昆虫たち。すばらしく誇張された美しさのなかでつかの間の命をつなぎ,そのなかには地元民にマラリヤ
をもたらす悪霊と信じられているものもある。それらが見せかける最高の色,夢のように美しい空色(Azur羽の鱗
blau)は…決して真の本物の色ではなくて,
にある細かい溝とそれとは異なる表面形成によって呼び
起こされた小構造(Kleinstruktur)であった。その構造は,光線の人工的屈折と大部
の光線の排除を通して,
最も輝く青色光(das leuchtendste Blaulicht)だけが我々の目に届くように仕向けるのである(23)。
それは見せかけ(Trug)ですね との夫人の問いに夫であるアードリアンの
は答える, 空の青(Himmels-
blau)を見せかけと呼ぶのかな 。エスメラルダには音階象徴として結晶する前にもう一つの役割があてがわれて
いたのである。それは自然物そのものではなくその構造であり,その構造を可能にする物理学的法則,つまり数
学の世界であった。数学によって生み出される現象界がここでは Azurblau,Himmelsblau なのである。この空
の青の含意は,アードリアンが師傅 Wendell Kretzschmar に接したときにはじめて明らかになる。 娘ハンネの
カノンで始動したアードリアンの音楽的世界は,うってつけの環境であるカイザースアッシャーンでさらに発展
するはずであった。
響楽用の楽器の宝庫から放たれる 魔術的魅力 (60)は小説中でも抜きん出た完成度で描写
されている。しかし当時としては貴重すぎるほどに揃えられた楽器の数々の力がアードリアンに及ぶことはな
かった。語り手はアードリアンの示す 楽器の世界に対する明白な無関心 を,音楽という運命から身を隠してい
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
た,と巧妙に説明している。そして偏頭痛が 15歳のアードリアンを襲うようになってはじめて数学への関心が明
瞭に姿を現す。彼にとって数学は 高められた,優越的な,普遍的な,… 真なるもの> であった。
秩序の関連を見ることが結局最良のことなんだ。秩序が全てだ(Ordnung ist alles) (64)。
数学という 真なる>領域では 秩序の関連を見通すこと こそが最高度の要請でなければならない。この発見に
基づく知的探究が音楽の領域では和声と調性に関する発見につながる。
語り手は,
独学で様々な試みに挑んだアー
ドリアンが,ついにハルモニウムを弾きながら五度の和音を発見したと報告する。黒鍵で fis,ais,cis を鳴らし,
e を付け加え,そのことによって Fis-Dur に見えた和音が H-Dur に属していることを証明してみせたアードリア
ンは語る, こういう和音はそれ自身としては調性を持っていない。全ては関係であり,関係が円を形づくる と。
アードリアンはさらに重ねて 関連が全て(Beziehung ist alles) と念押しし,それを 両義性(Zweideutigkeit)
(66)と名づけた。こうした経緯をきわめて丁寧に記述した語り手の最終的
…要するに彼はわからせたかったのだ。自
括は興味深い。
がエンハーモニック的転換を知っているということを,そして
一時的に調を変えたり,転調のための新解釈を利用できるようにしてくれるある種のトリックにも通じてい
ることを。
アードリアンが全く自力でたどり着いた,音と音の関連が作り出す円環,体系としての音楽の両義性は,古典
的教養世界に生き,その古典的音楽理解から離脱しようとはしないゼレーヌス・ツァイトブロームによってはこ
のように解釈されるしかなかった。Zweideutigkeit とは曖昧さなどではなく,文字通り二つの意味になりうると
いう意味に解釈するほかはない。二つの異なった音が互いに関連しあってそのどちらにもなりうる未知の,ある
いは未展開の規則性,それによって生まれざるを得ない両義性への注目こそがアードリアンの数学修業の成果で
あった。こうして無調の世界の入り口に立ったアードリアンは,これ以上独学という境涯にい続けることはでき
なかった。 娘ハンネのカノンからスタートした自力での音楽修業から,西洋音楽
の最も高い峰に連なる道へ
と進むための下準備が整えられなければならなかったのである。ヴェンデル・クレッチュマーの影響圏に入るこ
とでアードリアンにははじめて音楽
の現実から養
を吸い取ることが可能となった。彼が初めて師事する専門
家であるクレッチュマーのベートーヴェン講義からはアドルノの影が明白に確認できる。読み手には,アードリ
アンの到達した 秩序が全て> 関連が全て>との認識への過程,その必然性は示されない。それが物語の文法を超
えてそのこと自体のために行われたことは明白である。この一種の超越こそがこれからのアードリアンの物語を
紡ぐ原理となる。語り手はこの超越を様々に取り繕おうとするが,アードリアンの音楽に関して彼の努力が報い
られることはない。ゼレーヌス・ツァイトブロームはアードリアンの音楽理論に対しては門外漢となるしかない
からである。アドルノの新音楽解釈をツァイトブロームまでが受容することは,語り手を一貫して穏
な知識人
として印象づけようとしている作者の構想に抵触するしかない。ツァイトブロームにはアードリアンの音楽を言
葉によって読み手に伝えるという
命が与えられている。そのためには彼がアードリアンと一体化してはならな
い。彼はあくまでも没落してしまった教養市民層の代表でなければならない。アードリアンは指摘している,音
楽は もうじき存在しなくなる,すでにもう存在していない聴衆(Publikum)と呼ばれる教養エリート (428)との
み歩み続けてきたと。ツァイトブロームは,音楽を受容する主体としての教養エリートの心情を作品上で一身に
体現している。消滅しつつある教養市民層の最後の生き残りとして描き出されている。時代遅れとなった古典的
教養の代表者はそれでもなお新音楽を理解するしかなかったのであり,そのためにどうしても必要だったのが
アードリアンへの個人的な愛だったのである。ツァイトブロームの,自己の定めた 誠実さ の境界をやすやすと
踏み越えるアードリアンへの異常な,嫉妬をも辞さない偏愛のあり方はそのように理解するしかないであろう。
アードリアン・レーヴァーキューンは新音楽への突破を敢行するアヴァンギャルドの最先端にいる。それに対し
てゼレーヌス・ツァイトブロームはその革命的努力の意味をひたすら理解しようとするだけなのである。彼には,
あるときは茶化し,あるときは宥めながらすべてを受け入れる 学ぶ人>という生き方しか残されてはいない。前
稿で我々は時間の二重構造に注目した。しかし,音楽理論に関しては時間の二重構造はもはや支配的ではない。
アドルノの解読によるシェーンベルク理論とその受容者の二重構造,理論構築者とそれを 学ぶ人>のそれが取っ
吉田徹也
て代わるのである。
4.
ヴェンデル・クレッチュマーのベートーヴェン講義
ヴェンデル・クレッチュマーの最大の功績はベートーヴェンの後期作品,とりわけ Klaviersonate opus111 の
革新的意義をアードリアンに伝えたことにある。 ベートーヴェンはなぜピアノ・ソナタ作品 111に第三楽章を書
かなかったのか (71),この講演によって我々は,音楽記述の
量において他を絶する ドクトル・ファウストゥ
ス のなかではじめて本格的な音楽評論に出会う。
恩師クレッチュマーの理論構成はその多くをアドルノに負って
おり,必要があればアドルノのベートーヴェン論を参照することになる。しかし,物語に組み込まれたアドルノ
理論はすでにトーマス・マンに 精神的所有権 が移っており,物語の展開に不可欠な要素だけが物語の状況に応
じて修正されて引用されていることをとりあえず確認しておきたい。
ベートーヴェンの理解者たちは,円熟期の作品群を超えて 解体と疎隔,もはや慣れ親しんだ故郷的なものでは
ないものへの離脱の過程 (72)へと歩を進める巨匠の成長を理解することができなかったと,クレッチュマーは
ベートーヴェン講義で力説する。
…後期の作品には慣習が主観的なものによって触れられず,変容させられずにしばしば出現する。裸のまま,
あるいは吹き消されて,自我が見捨てられて,と言ってもいいのだが。この状態はまたどのような個人的企
てよりもぞっとするほど荘厳な印象を与える。これらの作品では,と講演者は語った,主観的なものと慣習
が新しい関係を結んだのである,死によって規定された関係を(74)。
アドルノの文体に似せながらも,トーマス・マンはいっそう文学的に香り高いベートーヴェン像を刻み込んで
いる。そして 死によって規定された関係 との,アドルノの解釈をさらに徹底化した定義は,物語の展開によっ
て要請された必然的帰結であった。この一見さりげない規定のもつ意味こそ ドクトル・ファウストゥス の光輪
の
に迫る鍵の一つである。クレッチュマーの講義にはさらに重要な契機が含まれている。有名なアリエッタ・
テーマを解説するなかで,クレッチュマーはピアニーノで実演してみせる。
…アリエッタ・テーマは…すぐに現れ,16小節で表現されるが,前半部の終わりに短い,魂に満ちた叫びに
似て出現するモチーフに還元されうる。
たった三つの音,八
音符,十六
音符,付点四
音符である。
それは例えば次のように律読される以外にない: Him-melsblau>,あるいは Lie-besleid>,あるいは Leb mir wohl>,あるいは Der-maleinst>,あるいは Wie-sengrund>
これが全てである(75)。
あの Himmelsblau>がこうしてまたよみがえってくる。この後でクレッチュマーの吃音が激しくなる。装飾音,
カデンツ,そのまま捨て置かれた慣習,というキーワードまでは切り離されずに発音される。しかし 芸術は芸術
の仮象を投げ捨てる という最も重要な主張はただ切れ切れにしか聞き取ることはできない。
ピアニーノで奏でら
れる和音は,言葉とともに断片化し,旋律の流れが止まる。芸術の仮象はこうしてクレッチュマーの吃音によっ
て葬り去られる。 ドクトル・ファウストゥス 全体のなかでも,クレッチュマーのベートーヴェン講義ほどに濃
密に,精妙に仕組まれた光輪のたくらみを見出すのは困難である。 Himmelsblau>に続けて無邪気を装ってアド
ルノの名の一部を組み入れるのはマンの遊び心であろう。Wiesengrund はアドルノの
の姓であり,アドルノは
母の姓である。 ベートーヴェンはなぜピアノ・ソナタ作品 111に第三楽章を書かなかったのか という問いに圧
倒的な説得力で解答を与えたクレッチュマーは,決定的な結論に達する。彼の言うソナタとは c-Moll のソナタだ
けではなかった。
…彼が言っていたのは,ソナタ一般,ジャンルとしての,伝統的芸術形式としてのソナタのことだった。ソ
ナタそのものがここで終わった。終わらせられた。ソナタはその運命を成就し,その目標に達した。それを
超えることはできない。ソナタは自己を止揚し,解体する。そして別離を告げる
cis によって旋律的に慰
撫された d-g-g-M otiv の別離の合図,それはこうした意味での別離でもある。作品と同様に偉大な別離,ソナ
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
タからの別離(77)。
死によって規定された関係 とはこの文脈ではとりあえずソナタの死を意味したのである。芸術の仮象もソナ
タの死をもって 運命を成就し ,その華麗な役割を終えた。疑われることのなかった芸術の自律性が危機に
し
たことの認識がクレッチュマーによってアードリアンに伝えられる。アードリアンはまだ音楽家への道を踏み出
してもいないというのに。西洋音楽の頂点に屹立するベートーヴェンが晩年のピアノ・ソナタでソナタ形式その
ものを止揚したという解釈は,アードリアンの音楽修業の方向性を決定づけることになる。さらに 厳格様式 あ
るいは 厳格律 という言葉もここからライトモティーフのように現れはじめる。それだけではない。幾つものク
レッチュマーの講演からアードリアンは 文化 に眼を開かせられる。今 芸術の役割 とは何かについての思索を
深めるアードリアンは思いがけぬ見解を表明する。
野蛮が文化の反対だというのは,文化が我々の手に与える思想秩序の内部でのみのことなのだ。この思想秩
序の外部では,反対物は全く異なっているだろうし,あるいはそもそも反対物なのではないのだ (82)。
こうした言説はゼレーヌス・ツァイトブロームがその語りによって読み手のなかに営々と作り上げてきたアー
ドリアン像とは相いれない。しかしこの 野蛮 という概念がアードリアンの主要作品において決定的な役割を果
たすことを我々はすでに知っている。クレッチュマーの,アドルノに突き動かされたような言説にアードリアン
も突き動かされてゆく。
そしてこの段階がアードリアンに何を意味するかを示す言葉がちりばめられる。主人音
と 召
音 に触れながら,アードリアンは語る。
滑稽だ,とても滑稽だ と彼は言った。 でも一つ認めてくれ。いかなる法則でも,法則というものには冷却
する作用があると。そして音楽にはかなりの自己熱,
熱,牝牛熱,と私は言いたいのだ,があるので,音
楽にはありとある法則的冷却が必要になることがありうると
事実また音楽は自らもずっと冷却を求めて
きたのだ (94)。
語り手が言葉に独自のアクセントを与えていることがこうして明らかになる。
徒薬局>からの贈り物
(Gaben)は 娘と結びついてはじめて完全な機能を果たすように設定されている。ハンネとの みんなでどんどん
歌おう>体験には,音楽そのものを楽しみ,しかも音を人と合わせるという本源的な喜びが満ち
への無垢な情熱は
れている。音楽
と牝牛の熱>として表現され,この熱の原始的なまでの自然との一体化は,いつかは克服さ
れるべき対象としてアードリアン自身によって認識されていたのである。それが今ツァイトブロームへの告白め
いた心情吐露のなかで言語化された。そして喜びに
れた歌唱はさらに断罪される。人間の声は 最も強い
熱の
音素材 (95)であり, 裸の肉体と同じように 抽象的でほとんど ein pudentum に等しいと。文明化された社会で
は人に見せることを憚る隠しどころに譬えられる音楽世界から完全に離別すること,それはクレッチュマーであ
れば 禁欲的冷却 と呼ぶであろうと規定された不可避の行為であった。恩師に促されてアードリアンは次の,完
全な抽象化を実現する次元への準備をこうして完了した。自らは置き去りにしようとしている音楽世界を,
弄
するかのようにツァイトブロームの手のなかに残して,アードリアンは愛よりも強いものは 関心 Interesse であ
ると表明する。
その言葉で君はおそらく,動物的な熱が抜き取られた愛のことを言ってるのだね (96)。
このツァイトブロームの定義はアードリアンを満足させた。 動物的な熱が抜き取られた愛 はエスメラルダに
も向けられたのであろうか。 動物的な熱が抜き取られ 不毛となった愛の行方を我々はすでに見ている。エスメ
ラルダはアードリアンの
作活動に対してアリアドネの糸のように力を及ぼしている。しかし,音楽の抽象化へ
の基礎固めはこうして成し遂げられたのである。そうであれば,エスメラルダによる感染は本当に必要だったの
かという疑惑が浮かび上がる。だが,その
を解くために我々はさらにアードリアンの足取りを追わなければな
らない。それでも,この関連で我々が見逃すことのできないことがさしあたり二つある。一つは,第 25章に出現
吉田徹也
する悪魔がアドルノの姿に変身することである。もう一つは,最後の晩
でのアードリアンの恐るべき演説に含
まれる次の告白である。
…それは一羽の蝶に過ぎなかったのです。色鮮やかなバタフライ,Hetaera Esmeralda,それが接触するこ
とによって私を魅了したのです,牛乳魔女(Milchhexe)が…(660)
エスメラルダはなぜ 牛乳魔女 と言い換えられるのであろうか。
現はありえない。
熱,牝牛熱 という前提がなければこの表
のハンネ(die Stall-Hanne)と Hetaera Esmeralda とは実は一体のものであったことが最後
の告白で明かされる。アードリアンを音楽の世界に導いた
娘は蝶でもあった。これがアードリアンによって見
出されたかの 両義性 でなくて何であろうか。異名同音のモティーフはこうして作品の,いわば未展開の次元で
生かされている。 動物的な匂いを放つ被造物 ハンネはヴァルトプルギスの 原像 でもあった。アードリアンの
音楽修業は,動物的・自然的なものからの浄化という段階を経た。しかしこの音楽体験にも魔の力は戯れの手を
動かし続けている。
のハンネそのものが音楽と黒魔術の 両義性 を担わされていた。浄化というこの局面での
主導理念である 冷却 は,悪魔の属性である 冷たさ Kalte へとアードリアンを追い立てていく。無調音組織の発
見ないし確認という出発点から次の次元の音組織形成への道は,こうして物語の上ではそのまま悪魔への道を意
味することとなった。主としてシェーンベルク理論に依拠するアードリアンの音楽的展開はこうして物語のなか
に埋め込まれることによって,シェーンベルクその人からは無限に離れていく。アードリアンの人物造形に希薄
さを感じざるを得ないのはやむをえないのである。彼はその作曲活動の根幹をなす理論を自らのなかから展開で
きないがゆえに,生き生きと描き出される多彩な人物像のなかでは影のような存在に留まるしかない。アードリ
アンの次の行程の舞台は宗教都市ハレである。
5.
シェーンベルクと ファウスト博士の嘆き
ハレでの最大の事件は,アードリアンが神学と数学の魔術的結合と 信仰のなかでの背教 という認識に達した
ことである。そのための小道具として 魔方陣>,ピタゴラス,シュレップフースなどが意味ありげに羅列される。
こうした環境のなかでアードリアンの心に神学修業を離れて音楽へ転向する意思が芽生えはじめ,いよいよライ
プツィヒでの核心的体験に至る。しかし我々の関心が向かうのはそのことそのものではない。確かに最初期の作
品 M eerleuchten と Wurzelbehandlung もあの体験以後に成立してはいるが,語り手によって格別の意味を与
えられているわけではない。 Brentano-cyklus に至ってはじめて h-e-a-e-es の5音の音列による,そしてその拡
大としての 12音階による作曲法が構想される。アードリアンは 自由な音符 (256)というものがもはや存在する
ことのない構成を自
の strenger Satz>として定義する。
むしろコンステラツィオーンに,と言ってくれよ。それぞれの和音を形成する音のポリフォニー的威厳はコ
ンステラツィオーンによって保証されている,と (257)。
ツァイトブロームの認識によれば, コンステラツィオーン という言葉は占星術のカテゴリーに属し,理性を
魔術(M agie)の支配下に置くことを意味する。したがって コンステラツィオーン とアードリアンが言った瞬間
に,その言葉は,音楽を魔術の支配下に組み入れることを意味する。実は,アードリアンの言う コンステラツィ
オーン とは星々の位置関係によって織りあげられる原意を音組織に応用したものに過ぎず,その意味は明瞭であ
る。それにもかかわらずアードリアンは, 理性と魔術は,智慧とか秘奥伝授とか呼ばれるもの,星と数への信仰
のなかで出会い,一つのものとなる と,ツァイトブロームの過剰な評価に逆に正当な根拠を与えようとする。こ
の興味深い会話でもアードリアンの コンステラツィオーン は魔術的ニュアンスの方向にのみ誘導され,その音
楽的意義がそれ以上論及されることはない。
アードリアンの音楽理解に関して我々はツァイトブロームの語りを通じてしか,つまりツァイトブロームに
よって濾過された情報以外には知りようがない。情報源は二種類ある。アードリアンによる作曲活動についての
報告と,アードリアンとの会話である。アードリアンの肉声から響き出されてくるものには特別な価値がある。
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
ツァイトブロームの解釈によって汚染されていないからである。我々が今見ている会話は, ドクトル・ファウス
トゥス 全体を通して,シェーンベルクの十二音技法そのものを主題にしているという意味では最も密度の高い,
緊迫した言説の連続である。ツァイトブロームは,12の音列が 48の異なった形となり,すべての音にそれ自身の
位置価値が与えられるというアードリアンの説明に即座に 魔方陣 を連想し,その結果として,音楽の魔術的本
質と理性との関係へと議論が展開していったのである。シェーンベルクの十二音技法を物語に本格的に導入する
にあたって,マンがこの理論に物語のなかでどのような 位置価値>を与えるのか,この会話にはその意図が明瞭
に示されている。ファウスト博士の物語を成立させるためには,シェーンベルクの作曲原理にしかるべきアクセ
ントを付与し,これを何としてでも魔的領域の方向に引きずっていく必要があった。
さりげなく展開されてゆくこの会話が興味深いのは,アードリアンがすでに独立した作曲家としての活動を始
めており,音楽 のなかに登場しているからでもある。 Meerleuchten はスイス・ロマンド管弦楽団によって,
Wurzelbehandlung はアンセルメの指揮で演奏されている。ここにはスイスと数学という二つの要素が充塡さ
れている。アンセルメが数学教授でもあったことも計算に入っていたであろう。アードリアンはこうして現実の
ヨーロッパ音楽界への参入をすでに果たしていたのであった。こうした生産的活動が,あの体験がもたらすはず
の 陶酔 から生み出されたという暗示はいっさいなく,ここに因果関係を認めることはできない。あの体験は
h-e-a-e-es の音列として刻印を残しているのみである。物語はこの後,恋愛適齢期になったアードリアンにふさわ
しくエロスに振り回される恋の戯れを中核とする人間関係と,
戦争を背景とする社会心理学的描写が主体となり,
アードリアンの音楽的進展についてはわずかに断片的に触れられるだけである。ただ一度,アードリアンの巻き
込まれる恋愛遊戯の中心人物の一人,アードリアンから調記号のないヴァイオリン協奏曲を献呈されたルー
ディーの言葉に興味深い表現が見出される。
君は今4回も 人間>そして 人間的>と言ったね。…この言葉が君の口から発せられると,信じられぬほど不
似合で,いやそれどころか,こちらが恥ずかしくなるような気がする。…これまで君の音楽は非人間的だっ
たのか? それなら,君の音楽の偉大さは結局その非人間性に負っている。愚かなことを言ってすまない。
僕は,人間によって霊感を与えられた君の作品など聴きたくもない (579)。
そのルーディーを殺害したイーネスの夫の姓はインスティトーリスであった。 成立 にも悪魔学の文献として
さりげなく挙げられている
〝Hexenhammer"の著者その人である。恋愛も魔術の圏内にあり,許されない感情を
アードリアンに抱いた青い目のルーディーには,アードリアンのインスピレーションの源泉が 非人間的 な領域
にあることは自明のことだった。
アードリアン・オペラの興業的失敗(これにはシェーンベルクに対する世間の激しい反発が反映されているので
あろう), Die Wunder des Alls における悪魔的冷笑,熱に浮かされたようなアードリアンの熱弁が報告され,
ついに彼の脳髄の病巣が光への恐れとして顕在化する。戦争の終焉とともにその深刻だった鬱状態は去り,高揚
期に入ったアードリアンはデューラー木版画による黙示録オラトリオ Apocalipsis cum figuris に取り組む。オ
ラトリオに没頭するアードリアンの姿を語り手はこう表現する。
傍目からも,本人から見ても明らかだった,この人物は当時,純粋に喜びをもたらすのでは全くなく,駆
り立て圧迫するような霊感(Eingebung)の極度な緊張のなかで生きていた…(477)。
この緊張状態(Hochspannung)にいるアードリアンは,課題が閃くと同時に解決するという最高度に高揚した
精神状態に恵まれる。しかしそのために逆に奴隷状態に追い込まれ身も心も疲れ果てる。Hochspannung とは本
来高圧の意味であり,忍耐の限度を超えた圧力にさらされたアードリアンには,また病状が現れる。その結果完
成した作品の恐るべき内容と,そのあまりの劇的効果についてはすでに前稿で見た。我々は アポカリプシス に
至ってはじめてあの体験が現実化したことを知る。高圧は彼を奴隷のように駆り立てるが,その成果は野蛮状態
への回帰を浮き彫りにするものであった。それが何を意味するのかについては最後に検討することにしよう。こ
こには直接的なシェーンベルクからの借用は露出していない。感嘆するしかない見事さでシェーンベルクを転用
した作品は 響カンタータ ファウスト博士の嘆き Doctor Fausti Weheklag であり,ここに入念に準備された
吉田徹也
アードリアンの音楽的鍛錬のすべてが注ぎ込まれる。
我々がこのアードリアンの遺作となった畢生の大作に,どのようにシェーンベルクの
作原理が応用されてい
るかを問うことにはもはやほとんど意味がない。マンの天才的なまでに狡猾で精妙な表現の裏に,アドルノが黒
子として, 枢密顧問官 として控えていることを我々は知っている。 アポカリプシス は,契約により贖われた
インスピレーションによる最初の作品である。しかしそれは,魂を売り渡した者に与えられる肉体の苦しみの表
現,失われた魂を求める根源的な痛苦としての地獄落ちの表現であった。贖われたインスピレーションによって
得られた陶酔は天
の合唱となると同時に地獄の哄笑ともなった。音楽的な神学と数学的な数の魔法 という 彼
のオラトリオの世界 (561)と,ツァイトブロームによって特徴づけられた アポカリプシス は,アードリアンの
たどった道程の,その運命の表現である。その苦しみは確かに個的レベルを超えるものとして構想されているも
のの,実現されてはいない。それに対して ファウスト博士の嘆き は, アポカリプシス を下敷きにしながらも,
初めからベートーヴェンの 第九
響曲 への挑戦として,アードリアンの持論であった 打開 として,芸術の革
新として構想された。そこには個人の運命を超えたより普遍的なものが,言葉の真の意味での人類の 象徴>が表
現されている。 音楽的な神学と数学的な数の魔法 という原則はこの作品をも貫いている。しかし,ファウスト
博士という中核的存在を据えることによってはじめて個人の運命をより高い次元に押し上げることができた。そ
の手法,その作曲原理は徹底的にシェーンベルクのものである。それゆえにこそ我々は敢えて問わねばならない
であろう,逆にシェーンベルク理論こそがファウスト博士のカンタータを成立させたのではないかと。
アドルノがベートーヴェンの 第九
響曲 を否定的に評価しているのは周知の事実である。市民時代の代表者
としてのベートーヴェンを,その畢生の大作をもって評価することはアドルノの冷酷な感受性が許さなかった。
万人の理性に向かってあたかも団結を呼びかけるようなスタイルこそ,過ぎ去った過去のものなのである。そし
てマンは,まさにこの最終楽章を裏返すことによって 第九
響曲 を失効させるシーンを書きながら,これを 徒
に浪費された,最後の変奏楽章 と呼び,この楽章には全く共感を覚えることができないことを明記してさえいる
( 成立 295)。しかしそうした背景がありながらも,いや,それゆえにこそ彼らは 第九
もしれない。 第九
響曲 を標的にしたのか
響曲 は没落しつつある教養市民層の金字塔であり,その主題労作は音楽的にも比類のない
ものである,との通念こそが失効すべきなのである。アドルノの批評精神はベートーヴェンの後期作品群に向け
られ,そこに限界にまで突き進もうとする強靱にして繊細な精神の活動を見出した。アドルノの,細部から全体
像を構成しようとする試みは挫折したまま残った。あるいはアドルノはベートーヴェン論を最初から断片として
構想したのかもしれない。そのあまりに多彩で,核心となる主張だけが論証もなく並び立つ切れぎれの断片のな
かでも,とりわけピアノ・ソナタ作品 111に関連した断章では,芸術の自律性・自己完結性を支える形式の枠組
みが限界に達するまで成長することによって素材と乖離していくという問題が扱われている。芸術の仮象もそれ
と運命をともにするしかない。しかしそれは,芸術のそれぞれのジャンルで自律的に生じる変化である。芸術の
変革は自らの内側からしか生まれえない。それはアドルノの信念でもある。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作
品 111で限界に達したとされるソナタ形式という範例は,音楽芸術の直面する形式と素材の危機的関係を主題化
したように見える。しかしクレッチュマーによって繰り広げられた音楽世界で表されているのはそれだけではな
い。アードリアンが身を投じようとしている音楽の世界は,安定したドイツ古典音楽の世界ではもはやなく,そ
の閉塞を打ち破る未知の力が待ち望まれている,という次の課題も示唆されている。その変革の方向性は形式を
徹底的に追及することでしか見極められない。シェーンベルクがその道をひたすら苦行僧のように突き進んだこ
とを最も知悉するのは,他ならぬアドルノその人であろう。
連関の論理 , 不協和音の意義 などの幾つものシェーンベルクからの借用は,シェーンベルク本来のコンテ
クストからマン独自のコンテクストに置き移されたことによって,その音楽理念上の意味は歪められた,と石田
一志は指摘している。だが我々が極めて不十
味での象徴法を駆
ではあるが
察したように,作品構成上の論理一貫性は,ある意
することによって保たれている。いやそれどころか,全てがこの象徴法の支配下にあるとし
か思えない。その象徴法の光に照らされた全ては禍々しい光輪を帯びる。それはしかし光ではなく闇だったので
ある。シェーンベルク理論もそこから逃れることはできなかった。しかし我々はさらに,その逆はありえないの
かとも問わねばならないであろう。
文学と音楽の境界は何かという素朴な疑問がよみがえってくる。我々はアードリアンの音楽について,それが
本当は何かを知る術がない。シェーンベルクは聴くことができる。そしてその生涯も,音楽理論も探索可能であ
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
る。シェーンベルク研究者は, ドクトル・ファウストゥス のなかからシェーンベルクを,つまりシェーンベル
クの理論を探し出そうとする。その試みは空しくはない。そのことによって我々はアードリアンの音楽がどの程
度シェーンベルクであるのかを知ることができる。しかし,アードリアンがどの程度シェーンベルクではないの
かと問うことも必要ではないのか。文学で音楽を再現することはそもそも不可能である。マンが,危機に陥った
芸術の代表者として音楽を選んだことは,音楽こそドイツ文化の真髄であるという彼の確信に基づく必然的な選
択であった。そしてその,世界に冠たるドイツ音楽の内側から危機が生じてきたのではなかったか。マンがナチ
統治下での文化の実体という環境にアードリアンを置かなかったのは当然であった。彼自身が体験できなかった
ことを物語のなかに書くことはできない。
アードリアンが精神の闇に包まれる時点の設定は絶妙だったのである。
そのような仕掛けは時間の二重構造によってのみ可能だった。しかしこの構造枠の設定は,マン自身にも予期せ
ぬ結果をもたらしたのではないだろうか。ツァイトブロームによるドイツの危機の報告は,この物語を 破滅する
ドイツの小説>にしてしまう。アードリアンの 生涯の時間 が語られる前に,没落してゆくドイツの歴
時間が語
られる。それが語りの揺るぎなき構造である。ロマネスク風の物語のなかでアードリアンの魔との親和性がじわ
じわと実体化してゆく過程を追う直前に必ず,悪魔に支配されたドイツの現実が緊迫した文体で読み手に迫って
くる。アードリアンという正体不明の魔的存在は,現実の悪魔的な力の圧倒的な展開の前に影が薄くなっていく
しかない。現実の悪魔の力が高まるにつれて,抽象的な悪魔もその濃い影に覆われてゆくしかない,という物語
構造になっている。しかしその仕掛けも,物語作者の狡知によって操られているのであろうか。
アードリアンの最終的到達点である ファウスト博士の嘆き がツァイトブロームの言葉によって再現されるの
は,1945年4月 25日の日付を持つ報告によって,ドイツの破滅に伴いドイツの犯罪が全世界に暴露された後の虚
無感が漂うなかで,語られ続けてきたドイツ崩壊の過程がついにその最終的到達点に達した直後のことである。
ファウスト博士>は,人間の名に値する全てのものの否定に終止符が打たれてはじめて嘆くことができる。語り
手自身が二重の時間構造が一つになったことを告白しているように,現実の悪魔と抽象的な悪魔の二重性が解消
され,曖昧な形でしか表に現れてこなかったシェーンベルク理論も束縛を解かれて全面展開される。そして
Hetaera Esmeralda という核心的象徴の機能も全開する。それは ファウスト博士>を中心点として象徴の結晶化
が可能となったことを意味する。シェーンベルクの作曲原理こそがそれを支えている。 ファウスト博士の嘆き
の構成原理をそれ以外の要因から理解することはできない。
6.
残された
アードリアンは折に触れて文化のあり方について発言している。しかしそれらをかき集めてみても明確な像は
結ばない。文化の危機とは何かについての決定的な文言は, 悪魔との対話>とアードリアンの最後の告白に凝縮
している。しかしそれは,語りの構造を逸脱した超越的な枠組みであり,その言説のあり方そのものが構造内の
言説と同じレベルでの
析を阻んでいる。 悪魔との対話>に出現する悪魔は,内部論理的にはアードリアンの脳
から生み出されたものでしかない。読み手はそう判断せざるをえないよう誘導される。でも何かがそれに抵抗す
る。その判断は全体の語り構造への裏切りを意味するからである。第4期梅毒症状の産物との判断を採用すれば,
これは対話ではなくて独白に過ぎなくなる。アードリアンを翻弄する悪魔の言葉の全てが,アードリアン自らに
よって放たれたのだとすれば,潜在化されていたアードリアンの全知が顕在化し,それによって悪魔の超越性は
失われる。それどころか,悪魔の介入による物語という基本構図そのものも失われる。シェーンベルクが悪魔を
必要としなかったように,アードリアンも悪魔を必要とせずに音楽の革新を遂行することができることになる。
しかし悪魔なしでの遂行可能性は,物語構造全体と矛盾する。マンは悪魔ありの可能性も残るように巧妙に対話
を構成した。でもそれは何のためなのか。
悪魔との対話>は,物語の通常の構造を打破するただ一つの楔である。もう一つの divinis influxibus ex alto
と言ってもいい。 成立 には,ここにニーチェを潜ませたとある。表に出すわけにはいかないニーチェは, 対話>
に悪魔の声を通じて姿を見せるしかなかった。マンが ドクトル・ファウストゥス を成立させるために絶対に欠
かせなかったもの,それは魔の領域についての知識とシェーンベルクの音楽理論であった。マンにとっては知識
の精確さこそが作品を成立させる鍵である。悪魔学大全としても完璧であり,音楽家小説としても非の打ち所が
ない,それが求められた。悪魔学を語りの構造にちりばめることはマンの手腕からすれば造作ないことだった。
吉田徹也
しかしシェーンベルクは,その全てをアドルノに負っている。ニーチェ同様アドルノを表に出すこともできない。
アドルノも悪魔を通じて姿を見せるしかなかった。 悪魔としてのアドルノ>はその最も難解・
渋な文体で新音
楽批評を自由に展開することができる。アドルノは,悪魔学・ニーチェ・感染のオブラートにくるまれて出現す
るしかなかった。 悪魔との契約>は,悪魔とアードリアンという契約者双方によって完全な形で裏書されるので
ある。だが 共著者>アドルノに関しては 悪魔との対話>での直接的流入以外の方法はありえなかった。マンの
意工夫は,その批評家然とした外貌の描写によってアドルノの登場をパロディー化したことにある。芸術の仮象,
ベートーヴェンの Klaviersonate opus111 の和音, 歴
の過程によって死滅した和音>についてはクレッチュ
マーの講義に加えてもよかったであろう。
しかし,いかなる響きも全体を,
歴
全体をも自己のうちに担う (319)
との認識はクレッチュマーを超えるものであった。そして音楽を魔の領域に位置づけ, 悪魔の神学的存在 を語
るとき,悪魔はアドルノであることをやめる。
もう一つの超越である最後の告白は語りの構造の一部をなす。その内容だけが超越なのである。 対話>での悪
魔の宣告が,
アードリアンによって生きられた 生涯時間 の内側から実証されるが,
その内実は苛烈なものであっ
た。しかしここで問題となるのは Hyphialta のことではない。現代における芸術の不可能性は悪魔の助力なしで
は克服されえないという確信を,アードリアンが本能的な感覚のレベルで語っていることである。 芸術の危機>
が告白というこの最後の砦をも素通りしたことによって, ドクトル・ファウストゥス という作品から,読み手
が芸術の危機的状況とは何かを知りうる道は塞がれたのである。クレッチュマーによるベートーヴェン講義で示
された音楽の危機以上のものを,作品中から明白に読み取ることはできない。 贖われたインスピレーションが陶
酔のなかで芸術の絶望的状況を超えてゆく という根本思想はほぼ実現された。それでも残る疑問は,その 芸術
の絶望的状況 がなぜ明確には提示されないのかという点である。
第一次世界大戦の前から顕著になった芸術各
野の革新運動は,大戦後明確な形を取り始めた。その変化はまさに異次元への突入であった。マンが依拠した
シェーンベルクは,その盟友で自称 抽象絵画の
始者>カンディンスキーとともにその代表的存在であろう。彼
らは音楽と絵画の境界を超える精神に突き動かされている。 和声学 (1911)でシェーンベルクが用いた音色旋律
(Klangfarbenmelodie)という言葉はその象徴であろう。しかし,シェーンベルクの画家としての側面がマンの視
野に入ることはなかった。アヴァンギャルドの活動領域のスペクトルに含みをもたせることは,マンにとっては
ドクトル・ファウストゥス の焦点をぼかすことに他ならなかった。
我々が ドクトル・ファウストゥス を受容しやすいのは,そうした芸術革新運動を無意識に背景として置いて
いるからである。しかしそれぞれの芸術
野はそれぞれの内的論理の展開によって未知の領域へ突き進むしかな
い。シェーンベルクとカンディンスキーの活動が同じ芸術精神の働きのうちでなされたにしても,ジャンルの違
いは異なった論理を求める。シェーンベルクは前衛絵画を描くことができたが,カンディンスキーは前衛音楽を
書けなかった。アドルノの芸術批評の至上命題は,固有の形式論理である様式に沈殿した現実を探り当てること
であった。
シェーンベルクの音楽に惹きつけられてヴィーンに赴き,シェーンベルクを師と仰いだほどのアドルノにして
も,基本的にはシェーンベルクの切り拓きつつある音楽世界を批評する立場であった。そのアドルノに秘奥伝授
を受けたマンは,そもそも音楽の陥った危機を作曲の当事者として描き出すことはできなかった。アードリアン
が克服しようとしたものは,クレッチュマーの論題以外には断片的で曖昧な形でしか作品に反映されてはいない。
芸術様式の危機それ自体が,マンによって 徹底的に危機に立つ時代の精神状況の表現 と読み替えられた。 禍々
しい光輪 を与える基本戦略のもとでは,十二音技法という中核も悪魔性の外皮に閉じ込められるしかなかった。
十二音技法は,作品全体を統合する象徴法のなかでのみこの上ない巧みさで作品に生かされたのである。
悪魔との契約という根本モティーフが説得力をもつのは,その契約の原因と結果がともに読み手を納得させる
場合であろう。結果は,オラトリオとカンタータに華々しく示されている。しかし原因は最後まで薄闇に包まれ
ている。アードリアンがその告白で
…人間は至福か地獄かどちらかに行くように
造されている,そう予め定められている。そして私は地獄に
行くように生まれついた (661)
と説明したことを我々はそのまま受け入れるしかない。それが物語の精神である。我々は時間の二重構造の仕掛
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
けを見た。ドイツの現実は対岸にいるマンを日々に切迫した心境に追いやった。彼は文字通り Hochspannung の
なかで生きていた。アードリアンの時間もその高圧にさらされる。そして最後には,そのどちらの時間にも想定
されている悪魔性が一つのものとなって作品全体を貫くことになる。時間のズレにもかかわらず,ドイツの悲劇
とアードリアンの悲劇が一体化する。そのときすでにシェーンベルクは作品の外に押し出されている。二つの悪
魔的存在のどちらが物語を主導しているのか,それはこのような微妙なやり方でしか示唆されてはいない。芸術
はいかなる状況にあっても決して 絶望的 にはなりえない。人間の顔 を失った支配者のもとで芸術の活動が 絶
望的状況 に追い込まれるのである。アードリアンの作品はナチス支配下では禁圧されたであろう。このことに疑
う余地はない。
最後に,アードリアンが文化と野蛮というテーマにこだわったのはなぜかを
えてみよう。 野蛮は文化の反対
ではない ,
あるいは 文化を取り戻すためには野蛮が必要だ というアードリアンの唐突な主張の由来を推測する
手立てはない。 悪魔との対話>でもこのテーマは別な形で繰り返される。
…君は,時代の麻痺させる諸困難を打開しようとしている。時代そのもの,文化時期,文化の時期とその礼
拝の時期と言おう,それを君は打開し,大胆にも野蛮を行おうとする。それは二重に野蛮なのだ。なぜなら
その野蛮は,人間性の後に,およそ
えうる限りの歯根治療と市民的洗練の後に来るからだ (324)。
そして アポカリプシス における圧倒的な野蛮の勝利。それはグリッサンドによる音楽的表現によって集中的
に表されているだけではなく, 勝ち誇る地獄の哄笑 と 天
の合唱 の音符上の一致によってさらに重層化され
ている。これらの背後に 啓蒙の弁証法 におけるアドルノの文明に対する
察を見ないわけにはいかない。 何故
に人類は,真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに,一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか,という
認識 ( 啓蒙の弁証法 序文)に導かれたアドルノの思
は, 神話はすでに啓蒙であり,啓蒙は神話に退化する と
いうテーゼをめぐって展開される。マンの場合は 神話-啓蒙>というよりも 礼拝-世俗化>,そしてアードリアン
の本性上 魔術-理性>のほうに基軸が移されているのではあるが。
マンによるアドルノの受容はシェーンベルクに
限られていたわけではなかったのかも知れない。それが思想として展開されているわけではないにしても,その
痕跡を感じ取ることはできる。マンが, 啓蒙の弁証法 の精神で書かれたとアドルノ自身が言い表した
〝Zur
Philosophie der modernen M usik"を学びながら, 啓蒙の弁証法 の主要テーゼからも間接的に影響を受けたと
すれば,マンの目的合理性にものりしろがあったことになる。アドルノとマンはともにドイツのたどった歴
的
現実と思想 的レベルで対決しなければならなかった。二人は同じものを見ていた。一人はオデュッセウスを,
もう一人はファウスト博士を思索の原点に据えた。自らを帆柱に縛りつけることによってセイレーンの歌声の誘
惑を退けた古代の海の航海士と, 第九
響曲 から歓喜の歌声を奪い取ることで音楽を救済しようとした全知を
求めるドイツ的精神。亡命中の Hochspannung のもとで生まれた彼らの作品に折り畳まれている思
の襞を汲み
尽すことは,いまだに我々には重すぎる課題である。
文献
Thomas M ann Gesammelte Werke in dreizehn Banden,Band VI,S.Fischer Verlag,Frankfurt am Main 1974.Doktor
Faustus Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverkuhn erzahlt von einem Freunde. ファウスト博士
上・
中・下 関泰祐・関楠生訳,岩波書店,1974。 ドクトル・ファウストゥス のきわめて良心的な翻訳であるが,本稿での引
用はすべて論文執筆者による。本稿中の引用末尾の指示のない数字は全てこのフィッシャー版からの引用である。
Thomas M ann Gesammelte Werke in dreizehn Banden, Band XI, S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 1974. Die
Entstehung des Doktor Faustus. Roman eines Romans. ファウスト博士
生
ある小説の物語
佐藤晃一訳,新
潮社,1954。本稿での引用はすべて論文執筆者による。引用にあたっては末尾に 成立 と指示を付してフィッシャー版の
ページを記した。
Adorno, Theodor Wiesengrund:Philosophie der neuen Musik. Tubingen 1949. 新音楽の哲学 龍村あやこ訳,平凡社,
2007
Adorno,Theodor Wiesengrund:Beethoven Philosophie der Musik.Suhrkamp Verlag,1993. ベートーヴェン
音楽の哲
学 大久保 治訳,作品社,2010
吉田徹也
Horkheimer, M ax and Adorno, Theodor Wiesengrund:Dialektik der Aufklarung. Philosophische Fragmente. Querido
Verlag, Amsterdam, 1947. 啓蒙の弁証法 徳永恂訳,岩波書店,1990
石田一志,2012, シェーンベルクの旅路 ,春秋社
藤原義久,1979, アードリアーンの音楽
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
再び
ヨーロッパ芸術音楽の終焉 ,芸立出版