吉田,徹也 魔の芸術 ― トーマス・マン『ドクトル・ファウストゥス』

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魔の芸術
トーマス・マン ドクトル・ファウストゥス の
吉田徹也
要旨
トーマス・マンの長編小説 魔法山 Der Zauberberg と ドクトル・ファウストゥス Doktor Faustus は,時代
との関わり方の直接性と切実性という二点において他の作品群から際立っている。本稿では 魔法山 の
析を受
けて,ナチス・ドイツに蹂躙され,第二次世界大戦による破滅に引き摺り込まれてゆくドイツの歴 を,悪魔と
契約することで音楽を完成させたひとりの天才芸術家の生涯と重ね合わせて描き出した ドクトル・ファウストゥ
ス が提起する諸問題を検討の対象とした。ファウスト博士伝説に淵源し,ファウスト博士によるシェーンベルク
理論の借用を内実とする芸術家小説というフィクションとしての形式と,ドイツ現代 の中に未曾有の悲劇の根
源を見出そうとする精神
的探究の合体を試みるトーマス・マンの意図がどのように作品中で実現しているのか
を物語構造の 析に基づいて
察した。
キーワード:悪魔との契約,ドイツの悲劇,第九
1.O M use, o alto ing eg no, or m aiutate
第一次世界大戦に至るドイツ現代
大戦に至るよりアクチュアルな歴
響曲
我に記憶力をめぐみたまえ
の沈殿が 1924年に刊行された 魔法山 に見出されるとすれば,
第二次世界
は,1947年に完成した ドクトル・ファウストゥス のなかにその文学的表現
を見出したと言っていいかもしれない。しかしこの理解はあくまでも仮現的なものに過ぎない。亡命中のトーマ
ス・マンは彼が身をもって生きた現代
を 体として顧みるのみならず,ドイツをこれほどまでに過酷な運命に
引きずり込んだ根源力をドイツ人の生き方のなかに探究する責務を自らに課すしかなかった。 ドクトル・ファウ
ストゥス の原稿が書き始められた 1943年5月から3年8カ月にわたってトーマス・マンがどれほどの決意でこ
の
命に没頭したか,それを我々はマン自身の手になる文献からある程度知ることはできる。しかし ドクトル・
ファウストゥス の成立
とトーマス・マンの思索の歩みは同一ではありえない。この作品に取り組んでいた時期
のマンの思索を追体験することはできないにしても,ナチズムを生み出した特殊ドイツ的心情をマンがどう把握
しようとしていたのかを探るうえで貴重な拠り所となる文献は存在する。1945年5月 29日,ドイツの無条件降伏
を受けてワシントン国会図書館で行われた講演 ドイツとドイツ人 である。この啓発的な講演は ドクトル・ファ
ウストゥス 執筆期間のちょうど中ほどに位置し, ドクトル・ファウストゥス を理解したいと願う我々のアプ
ローチに鋭く突き刺さってくる。特に,マイナス符号のついたキリスト教芸術としての音楽解釈と, ファウスト
がドイツ人を代表するなら,彼は音楽的でなければならない>との洞察は我々の出発点でなければならない。こう
して我々はこの講演を手がかりにしてトーマス・マンのドイツ解釈の核心部に少しは近づくことができる。しか
し,ドイツの本質への真摯な問いかけをアメリカの聴衆に語りかけることと,ドイツの玄人にも評価されるフィ
クションを紡ぐことの間には架橋しえぬ溝が横たわるしかないのではないだろうか。トーマス・マンにとって,
この二つのものの融合は物語作者としての存在を
けた危険な試みであると同時に,ドイツ文化の精髄を見せつ
ける腕の見せ所でもあったに違いない。
ところで,作品 ドクトル・ファウストゥス について我々は事前にいくつかの知識を持たされている。そのな
かでも最も重要なのは恐らく次の二点であろう。
第一に,作曲家アードリアン・レーヴァーキューンの原型は哲学者ニーチェであり,その病歴も命日も享年も
そのまま転用されている。その罹病こそが天才的芸術の成就に不可欠の要因だった。アードリアン・レーヴァー
キューンは,梅毒に感染することによってはじめてそのライフワークを完成させることを許され,その
換条件
として死に至る。ただし,アードリアン・レーヴァーキューンにはニーチェ以外にも複数の芸術家がモンタージュ
されており,その確認にはその方面の知識と細心の注意が必須である。
第二に,アードリアン・レーヴァーキューンの音楽理論は,同じく亡命中の哲学者アドルノから薫陶を受けた
アルノルト・シェーンベルクの十二音技法の理論に基づいている。そして,アードリアン・レーヴァーキューン
と同定されたシェーンベルクがこの事実を知って激しく憤り,かけがえのない亡命仲間からの抗議を受けたトー
★次頁,3頁にもノンブル枠あり★
マス・マンは,自作 ドクトル・ファウストゥス の末尾に釈明の文章を付け加えることを余儀なくされた。
無垢のまま作品を読むことはまことに困難である。 ドクトル・ファウストゥス を読むものにはこれらの前知
識がいつのまにか身にしみており,それが作品を読む目を曇らせる。そうした 曇った目 をもった読み手は,そ
の前知識が作品中でどのように実現しているのかを確認するために読み進んでいく。ドクトル・ファウストゥス
を読むということの隔絶した難しさの一つはここに由来する。 ドクトル・ファウストゥス をなぜ読む気になる
のか,それはまさにこのような前知識を併せ持つからに他ならない。しかしその関心のあり方がすでに読み方を
規定してしまい,作品中にニーチェとシェーンベルクをはじめとする関係者の影を無意識に追い求めることにな
る。アードリアンに その時 が訪れるのはいつなのか? アードリアンの作曲は その時 を境にどう変わってい
くのか?
アードリアンが その時 を求めたのは純粋に自発的な行為だったのだろうか?
ように行われるのか?
て呼び出すのか?
悪魔との契約はどの
アードリアンは悪魔との契約の成立をどのように知るのか? そもそも悪魔をどうやっ
そして,悪魔はアードリアンの魂をどのように回収するのか?
しかし,あらかじめ読み手の心に湧き出るこれらの疑問も, 悪魔との契約 というファウスト文学の伝統的系
列の文脈に照らせばむしろワクワクするような楽しみにつながる。トーマス・マンはどのような仕掛けをほどこ
して読み手を楽しませてくれるのだろうか,と。悪魔と契りを結び霊感を得る正統的主題系列は,読むことの愉
悦を生み出す方向に作用する。反対に,読むことを苦しみに変える主題系列の最大のものは音楽
と音楽理論に
関する叙述であり,アードリアンを中心点とする会話と語り手による音楽解釈の記述に反映される専門知識は,
音楽学者以外の素人読者には途方もない難解さをもたらすばかりである。読み手にとっての最大の試練はまさに
この難関をどう攻めるかにある。この随所にちりばめられた特殊専門的音楽知識を理解することなしに,アード
リアンの音楽営為の意味を,そして友情に満ち れてアードリアンの生涯を叙述する語り手ゼレーヌス・ツァイ
トブロームの紡ぎだす物語の意図を,果たして理解できるのであろうか。
もうひとつ読み手の前に立ち塞がるものがある。ゼレーヌス・ツァイトブロームの目を通して報告されるドイ
ツとヨーロッパのアクチュアルな歴 状況が,アードリアンの作曲の進行とどのような相関関係に立つのかが必
ずしも明らかには示されないことである。悪魔と契約した芸術家という問題系列と,悪魔の力が働いているが如
き歴
的現実の叙述という問題系列とは,どれほど巧みに融合を図ったとしても完全には一体化しえないのでは
ないか。アードリアンの物語を読み進めながら,折々に挿入される歴 状況報告のなかに原作者トーマス・マン
の苦悩を読み取らざるを得ない読み手には,フィクションとノンフィクションのあいだでその都度悩むという読
み方以外の方法は許されていない。何よりもこのディレンマこそが読むことを難行苦行に変える。トーマス・マ
ンの狙いは政治を絡ませた芸術家小説としての成功なのか,それともドイツを破滅の淵に突き落としたドイツ的
本性の探究なのか。あるいはこのような疑問そのものがトーマス・マンにとっては意味のないものだったのか。
ドイツの悲劇の根幹への問いと,芸術音楽に仮託されたドイツ文化のあり方への問い,この二つの問いの等根源
性こそがトーマス・マンの
作の絶対的な前提だったのではないのか。物語芸術のマイスターとしてのトーマス・
マンが,二重の時間枠を設定することによって,アクチュアルな歴 的時間をフィクショナルな物語時間にずら
しながら展開する作品を支配するのは, 魔法山 とは全く異なった 物語の精神 である。
ドクトル・ファウストゥス の語りを支える原則については語り手自らが明らかにしている。
…私がここで書いている言葉の一つ一つは私自身には興味津々である。しかしこのことを,非関与者(Unbeteiligte)を関与させる保証とみなすことのないようにどれほど自らを戒めねばならないことであろうか
とはいっても,私はこの瞬間のために書くのではないし,レーヴァーキューンのことをまだ何一つ知らず,
それゆえにまた,彼に関するもっと詳しいことを知りたいと切望することもできない読者のために書くので
はない,ということもまた忘れてはならない。私はこの報告をある時点のために準備している。
惹くための前提が全く別なもの,
確実に言えることだが
の注目を
はるかに好都合なものになる時点,この,人
を震撼させる生の詳細への需要が,たとえその説明が巧みであろうと拙劣であろうと,抜き差しならぬほど
切迫したものになる,ある時点のために(44)。
ここにはその後の語りにとって重要な要素が含まれている。この物語が向けられているのは現在ではなく,終
戦後という未来であり,対象も何も知らない素人ではない。アードリアン・レーヴァーキューンには戦後になっ
魔の芸術
てはじめて
の光 が当たる。この基本ラインの首尾一貫性は,
〝M eine teilnehmenden Leser und Freunde"と
の呼びかけ(576)や,アードリアン・レーヴァーキューン作品の蘇生は 我々が耐え忍ぶ壊滅的な解放によって引
き起こされるであろう (643)など,物語後段の記述でも裏書される。
アードリアン・レーヴァーキューンは契約に従って生命力を失い,語りの終焉とともに我々の視界から消える。
その彼がどう生きたかを伝える伝道師としての語り手の姿がここで強く印象づけられる。つまり,語り手は悲劇
へとひた走る時代を背景にした殉教者の生涯を,その殉教者の運命に共感する聴衆(Beteiligte)に向かって語ろう
としている。しかし問題はそれだけにとどまらない。主語が複数に 代する。我々が ドイツの敗北よりも恐れる
ものがある,それはドイツの勝利である 。
…私の願望と希望は,ドイツ軍の勝利に抵抗するように強いられた。それは,ドイツ軍の勝利のもとでは我
が友の作品は葬り去られ,禁止と忘却の縛めが恐らくは百年にわたって作品を掩 するであろう,その結果
作品は自己自身の時代を取り逃がし,後の時代になって歴 的栄誉を受けるに過ぎなくなるであろう,から
である。これが,私が犯罪者である特別な動機である。そして私はこの動機を,散らばっているが両手の指
で楽に数え上げられる数の人々と共有している。しかし私の精神状態は,あまりの愚鈍と卑劣な利害という
場合を除けば,我々の民(Volk)全体にとって運命となった精神状態の,一つの特殊なバリエーションに過ぎ
ない。そして私は,この運命に対して特別な,未曾有の悲劇性を要求したいという思いから自由ではない。
もちろん私は,自己自身の未来,そして共通の未来のために,国家の敗北を望むことを課された他の諸国民
(Nationen)もすでに存在していたことを知っているのではあるが。それでも,ドイツ的性格の実直さ,信仰
の篤さ,忠誠と服従への欲求にもかかわらず,私はやはり,このディレンマは我々の場合他に類を見ないほ
どに先鋭化されている,と認めたいのである。これほど良き民を,私の確信によれば,他のいかなる民より
も苦しみを負い,自己自身から疎外される精神的状況に追いやった人々に対する深い憤りを禁じえない(45
f.)。
こうした省察によって ドクトル・ファウストゥス は限りなく ドイツとドイツ人 に接近する。伝記執筆者ゼ
レーヌス・ツァイトブロームは 私の誠実さの証明 Beweis meiner Ehrlichkeit (46)を果たさずにはいられない性
格であり,読み手はここにきわめて慎ましく控えめな時代批判を読み取ることができる。しかし語り手は,こう
した記述によってこの章を長くし 容易ならぬハンディキャップを背負わせた としか釈明しない。 私 がドイツ
の敗北を望むのは私自身の心の叫びによるものではなく,アードリアン・レーヴァーキューンの作品を救いたい
がためであることが,文脈の必要をこえて強調される。この点で ドクトル・ファウストゥス は限りなく ドイツ
とドイツ人 から離れていく。
ドクトル・ファウストゥス を読むことは推理小説を読むことに似るしかない。どのさりげない描写のなかに
事件の真相を解く鍵が隠されているのか,つねに疑心暗鬼で読み進むしかない。ロマネスク風物語に仕立てあげ
るために語り手が随所にちりばめた様々な人物と彼らの相互関係,そのなかには魔の種が潜まされている。彼ら
が配置された都市や郊外の環境設定。それらのすべてを記憶しながら読み進めることができれば悪魔と結んだ芸
術家という問題系列を読み解くことも少しは容易になるのであろうが。全編を読み終えたあとで改めて気になる
個所を読み返すと,必ず読み落とすことの許されない要素が発見される仕組みになっていることが判明する。 ド
クトル・ファウストゥス の 物語の精神 は,作品中のいかなる物語もアードリアン・レーヴァーキューンを核と
して結晶化することを求めている。トーマス・マンが作品冒頭に掲げたダンテの INFERNO>からのエピグラフ
は,そのまま ドクトル・ファウストゥス の読み手に向けられている。
…誤らざる記憶はここにこれを写さむ ああムーゼよ,高き才よ,いざ我をたすけよ,わがみしことを刻め
る記憶よ,汝の徳はここにあらはるべし
2.divinis influxibus ex alto いと高き所より流れくる ものは
M it aller Bestimmtheit will ich versichern... きっぱりと私は確約しよう… 。 ドクトル・ファウストゥス
吉田徹也
はこの言葉で始められる。これほど困難な物語を物語るにあたって,語り手は Bestimmtheit に重ねて versichern
で念を押すという異例の導入法を選んだ。しかも 私 が読み手に確約しようとするのは, 読者 に伝記作者とし
ての 私 について多少の知識を与えるが,そこに 私 を前景化する意図は毛頭ない,ということであって,主題
である芸術家とは関わりがない。 私 の語りこそが主題化される対象なのである。
最初のパラグラフにはすでに様々な仕掛けがほどこされている。先ずアードリアン・レーヴァーキューンには,
大切な,運命にこれほど恐ろしく見舞われ,高められ,そして突き落とされた男で天才音楽家 という枕詞が添
えられる。次に 読者 は 未来の読者 と言い換えられる。 なぜなら,目下私の著作が の光を享けるかもしれな
いという見込みはまだ全くないのだから
私の著作がひとつの奇跡によって,我々の,脅威に囲繞されたヨー
ロッパ要塞を離れ,ヨーロッパの外の人々に我々の孤独の秘密を かながらでも伝えることができれば別である
が 。しかし逆に 私 が姿を現すことによって, 書き手の Wer と Was を知った読者に 私は,私の存在全体から
して
命にふさわしい男なのかどうか,という疑いを呼び起こす 可能性も覚悟しなければならない。その 命と
は 恐らく何らかの正当化する本質親近性というよりもむしろ心が私をそれへと引き寄せる 命 のことである。
読者 にことよせて,語り手は 脅威に囲繞されたヨーロッパ要塞 で書かれ,いつの日かヨーロッパの外に持ち
出されることではじめて
の光 の恩恵をうける
かな可能性を秘めた伝記という虚構を綴る 私 という書き手
の適格性を自問しているように見えながら, 私 にそれを書かせたのは 本質親近性 でもあるが,それ以上に こ
ころ das Herz なのだと強調しているのである。 私 という書き手の適格性という問題意識は語りのレベルを規
定する重要なファクターであることが読み進めるごとに明らかになるが, 大切な teuer 友への愛情の深さもま
た語りのレベルを規定してゆく。開巻わずか二十数行のうちに,語り手の置かれた歴 的な立場と天才音楽家へ
の関わり方,彼を
命達成へと突き動かす原動力,そして語りの手法が凝縮されているのだが,読み手がそのこ
とを真に認識するには ドクトル・ファウストゥス 全体を読み終えるしかない。このことは第1章にとりわけよ
くあてはまる。個々の事象の役割は全体が見えてはじめて可視化される。イデーという骨格が透けて見えかねな
いこのような試みでは,最後のページをめくり終えた瞬間にすべてが有機的につながらねば, ドクトル・ファウ
ストゥス はアードリアン・レーヴァーキューンと同じ運命をたどるしかない。 高められ,そして突き落とされ
るだけである。そしてトーマス・マンは語り手をして最初の仕掛けを設定せしめた。ヨーロッパの対岸で脅威に
囲繞されることもなく執筆され続け,大戦終了後 1947年に完成したこの伝記が一般読者の目に触れる可能性を
ひとつの奇跡 に
けたのである。
作品のほぼ中間に位置するアードリアン・レーヴァーキューンと悪魔の対話にはこの詐術がさらに巧妙に適用
されている。フィッシャー版で 35頁に及ぶ作品の核心部はこう始まる。
本書で繰り返し注意を喚起してきたドキュメント,アードリアンの秘密の手記,それは彼の亡き後私の所
有となり,大切で恐ろしい宝として保存されてきた
それがここにある。それをお伝えしよう。それを伝
記に挿入する瞬間が来たのである。彼が自 の意志を押し通して選び,シュレージエン人と共有していた避
難所,そこを私は訪ねたのだが,私がこの避難所に心のなかで背を向けたので私の話は途切れ,読者はこの
25章で直接彼の話を聴くことになる。……私にアードリアンの手稿を印刷屋に委ねるつもりはないことは自
明である。私自身の羽ペンで手稿を一語一語五線紙から…私の原稿に書き写すのである(294f.)。
そしてアードリアンの手稿の冒頭は, 絶対に他言無用のこと 。この戒めはさらに繰り返される。 絶対に他言
無用のこと。私は沈黙を守る。すべてをこの五線紙に封じ込める…
アードリアンが悪魔との間に
わした対話を語り手は Gesprach ないし Zwiegesprach と名付けているが,こ
の 他言無用の 対話こそが悪魔との契約事件の中核であり,
この対話が伝記に挿し挟まれるかどうかは作品 ドク
トル・ファウストゥス の成否に直結する。作中でいやというほど強調される語り手のアードリアンへの偏愛のあ
りかたからすれば,アードリアンの手記は墓のなかまでもっていくしかないはずであろうに。次章で語り手はわ
ざわざ悪魔との対話の信憑性に疑問符をつけるために 抗議する引用符 を付して Zwiegesprach と表記してさ
えいる。そしてこの コピーするだけの章は,これほどまでに震える手によっては私自身の構成になる以前のいか
なる章よりも早くは進まなかった (334)。他の叙述に関しては 私 の Komposition による編集を認め,この引用
符つき対話のみが語り手の責の及ばぬ真正のアードリアンの告白そのものであることを,これほどまでに際立た
魔の芸術
せているのである。
悪魔の直接的出現を演出するとはきわめて危険性の高い芸当と言わざるをえない。Zwiegesprach で知りえた
悪魔の変幻自在性と神の向うを張る高い能力,そしてこの超能力にひたすら翻弄される哀れな人間の自意識。物
語の頂点に達したかのような陶酔感を味わいながらも,読み手は他方で何か舞台裏を覗かせられたような奇妙な
感覚に陥る。読者に違和感を与えぬように細心の注意を払いつつ語ることで信頼を醸成してきた語り手は意外な
策謀家なのかも知れない。
一字一字 震える手で 書き写したために望外の時間をとったことを伝えた語り手は,物語の時間設定の核心に
自ら言及する。悪魔との対話を書き写した 私 は 1944年4月に身を置き,物語は 1912年秋に位置づけられる。
物語作者が歩を進めていく時間と,物語られたことが演じられる時間 (335)という二重の時間に,語り手はさら
に読者がこの物語を読む時間という 第三の時間 まで設定する。
物語がここまで進んだ今となっていったいなぜ,
との読み手の心に浮かばざるをえない疑問は 慮されない。その代わりに語られるのは一見瑣末にしか見えない
感慨である。語り手にとって アードリアンが我々の生の日々から保護されていることは 貴重である。その代償
として私は この,私が存続している時代の恐怖を喜んで引き受ける (337)。ここでは,二つの時間のズレが利用
され,アードリアンがドイツの真の地獄を体験せずにすんだことに語り手が救いを見出していることがニュート
ラルに表現されている。
ところで,第1章において語り手はアードリアン・レーヴァーキューンを 天才 Genie と呼び, この輝かしい
領域にはデモーニッシュなもの(das Damonische)と反理性的なものが,不安を覚えさせるように関与している
の関係を明示している。この関係はさらに 天才と,その いずれにせよ デモーニッ
と,天才とデーモンの不可
シュに影響を受けた本性 と変奏され,この
命を果たすに足る 親和性 Affinitat が 私 にはないことが強調さ
れる。 私 の非天才性こそが天才物語を成立させていることを語り手は幾多の場面で確認させようとする。私は
彼の 作にも寄与し,その上彼から遺贈された 計り知れぬ価値を有する手記 を所有している。 私が叙述するに
あたってはこの手記に依拠するつもりである。いやそれどころか,この手記から必要に応じて幾つかを選択して
直接私の叙述に織り込もうと
えている (12)。
天才は divinis influxibus ex alto(高所からの聖なる流入)に与ると同時に,デーモン(Damon)との高い親和性
をもつ。そのことを語り手は必死に説得しようとしている。しかし物語全体に決定的な影響を及ぼすのは,この
手記を語り手がどのように 叙述に織り込 むかである。25章で完全
開される手記が,他の記述にも巧妙に潜り
込んでいる可能性があらかじめ暗示されているのである。しかもこの無邪気を装った読者への特別大サービスが
もたらす深刻な危機は無視されてしまうしかない。通常の叙述への挿入がどこでどのようになされるのかは読み
手には非
開なので,読み手からは語り手の 誠実さ に信頼を置きたいと願うその根拠がまさに根こそぎ奪われ
てしまわざるをえない。悪魔との対話からの直接的流入こそ divinis influxibus ex alto と言わざるをえない。そ
して 私は彼を愛していた との痛切な告白。この自らが打ち立てつつあるスタイルを破りかねない激しい心情吐
露は,しかし,彼が 愛する ことを知らぬ存在であったことを明らかにするための導入であった。
この男が誰を愛したというのか?
ある時はひとりの女を
ひょっとすると。最後にひとりの子供を
そうかも知れない。軽々しい,誰をも惹きつける伊達男であらゆる時の男を。彼はその後でこの男を,彼
に好意を抱いたからであろうと思われるが,突き放した
しかも死へと。……私は彼の孤独を奈落にたと
えたいと思う。彼に寄せた感情は音もなく,跡形もなくその奈落に没した。彼の周囲にあったのは冷気
(Kalte)であった…
Kalte こそ悪魔の真髄であった。このわずか数行のうちに暗示されたことのすべてがアードリアンの身に起こ
ることは確実だったのである。すべては初めに予告されていたのだ。読み手はこの予告を記憶し,この子供が,
この男が,と気付くだけでよかったのである。しかしそれでは物語にはならない。物語の骨格,ゲーテであれば
durchgreifende Idee と呼んだであろう主導理念は,それにふさわしい肉付けを要求する。 ドクトル・ファウス
トゥス を魅力的にしているものは,ゼレーヌス・ツァイトブロームの生まれ故郷であり,アードリアンを育んだ
Kaisersaschern an der Saale の文化的香りとブーヘル屋敷(Hof Buchel)のたたずまい,Halle の宗教的
囲気,
M unchen の街並み,Pfeiffering bei Waldshut なる Schweigestill 家の周辺などの地理的環境と並んで,錯綜し
吉田徹也
た人間関係でもある。音楽の師傅 Wendell Kretzschmar は別格としても,多彩な人物像の絡み合いはさながら恋
愛小説の観を呈し,アードリアンの周囲にはつねに男と女がひしめく。しかし,彼らの多くはアードリアンが 愛
する ことができないことを証明するために彼にまつわりつくに過ぎない。読み手には,アードリアンの作曲(と
病気)の進展とゼレーヌス・ツァイトブロームによる時局報告との間に挟まれる数々の恋愛騒動に,どれだけの意
味があるのかは判断できない。それはどれが特別扱いされているのかを見透かせないからである。妹の息子 Nepomuk をめぐるエピソードの場合だけは破格の扱いを受けていることが即座に看取される。
…1911年から 23年までの歳々に彼らは一緒になって(miteinander)四人の子供を持った。ローザ,エツェヒ
エル,ライムント,そしてネポムクで,いずれも綺麗な被造物だった。末息子のネポムクは,しかし,天
だった。だがそれについては後に,私の物語の最後の最後になってようやく
[触れよう]
(248)。
1910年9月,アードリアンの妹 Ursula は 20歳で Johannes Schneidewein と結婚した。四人の子供に恵まれた
が,なぜ miteinander という副詞がわざわざ添えられているのか。語り手は目立たぬながらも読み手に 高所から
の聖なる流入 を印象づけようとしている。そして,それに続くシーンにおけるほどアードリアン・レーヴァー
キューンが饒舌になったことはない。
彼の口からは 悪魔から肉の わりをかすめとる 自然悪である性のキリス
ト教式結婚による馴致
一つの肉体であるべし 他の肉体への欲望 という,語り手の中和的な言葉を借りれば
らな事 (250)が機関銃のように飛び出す。ところが話題は急旋回し,アードリアンは 時代に必然的なこと,
破壊された慣習とあらゆる客観的拘束性の解体の時代にあって治療を約束するもの を対話の主題とする。
彼の言
葉に接した語り手は 彼の近くでは,不毛,差し迫った麻痺そして生産性の禁止(Sterilitat, drohende Lahmung
und Unterbindung der Produktivitat)が何かほとんど肯定的で誇らしいものとしてしか,高く純粋な精神性と共
にあるものとしか
えられない ことを確認し, 不毛 Unfruchtbarkeit が自由の結果であるしかないのであれば
悲劇だろう と応ずる。話題はここから Beethoven のソナタ形式に及び,ついにその止揚としての十二音階という
〝strenger Satz"へと発展する。このとき,十二音階の前提として h e a e es という5音の基本モティーフが言及
されている。
自由と肉の
わりの結果としての不毛,Sterilitat とは不妊をも意味する。不毛の徴に満ちた時代の必然は 治療
を約束するもの だというのに。そして,ウルズラは夫と一緒になって 1911年から連続して三人の子を出産する。
一番上のローザには,10年の空白の後に生まれた四番目の子をアードリアンに引き渡す役割があてがわれる。
1926年に
Apocalipsis cum figuris という名の終末の預言 がフランクフルト・アム・マインで演奏される。1927
年には Doctor Fausti Weheklag が構想されたが, 第二のオラトリオ,この人を押し潰すような嘆きの作品 へ
の精神集中を妨げるのが, 愛らしくも心の張り裂けるような,人生の突発事件 である。アードリアンが 最後に
愛した と予告されたウルズラの末息子は,家族からはネポと,アードリアンのもとではネポムク自らの発音であ
るエヒョーEcho と呼ばれていた。この Echo は最後のカンタータで 嘆き としてよみがえり重要な役割を果た
す。語り手によって 天
>, 奇跡を起こす小さな人>, 妖精の王子>と呼ばれるネポムクは,夜の祈禱で祈る:
他の人のために祈るものは誰も 自己自身を解き放つと知れ
エヒョーは全世界のために祈る 神が彼もその腕に抱くようにと アーメン
この子はアードリアンのもとに来る運命だったのであり,彼に愛されることによって運命の環が閉ざされるこ
とは予告されていたのである。壮絶に荒れ狂い,女中のヴァルトプルギスに縋り, 憑かれたような狂気 で愛ら
しい顔は歪む。読み手の記憶を試すかのように医師は病名を告げる,
〝Cerebrospinal-M eningitis, die Hirn〝die spirochaeta pallida"による症
hautentzundung 脳膜炎"(629)と。あの対話のなかで悪魔はアードリアンに,
状を〝die Metaspirochaetose,das ist der meningiale Prozeß"(311)と説明していた。語り手はアードリアンに叫
ばせる,あいつがこの子を攫っていく,と。
攫え,化け物め
…お前が意のままにしているあの子の肉体を攫っていけ
出すことはこの俺が許さないぞ
魔の芸術
あの子の愛らしい魂に手を
それがお前の無力さであり,お前の愚かさだ。俺は未来永劫それを
っ
てやる。俺の場所とあの子の場所の間に永遠が転がり込もうとも,俺は必ず知るのだ,あの子はお前が追い
出されたところにいるのだ,と,卑劣漢め。そしてそれが俺の舌を潤す水となり,最下層の呪いでお前を罵
るホザンナの叫びとなるのだ
アードリアンがこれほどまでに感情を剥き出しにして我と我が身を呪うシーンは他にはない。さらにこの直後
にアードリアンから決定的な言葉が漏れる。
私にはわかったのだ と彼は言った, それは存在してはならない
何が,アードリアン,存在してはならないんだ?
善と高貴という ,と彼は私に答えた, 人が人間的なものと呼ぶものだ,それが善であり,高貴であって
もだ。それを求めて人々が戦い,そのために人々が要塞を襲撃し,成就を果たしたものが歓呼の声をあげな
がら告げ知らせたもの,それは存在してはならない。それは撤回される。私がそれを撤回しようとしている
のだ
友よ,私には君の言っていることがよくわからない。君は何を撤回するつもりなのだ
第九
響曲だよ と彼は答えた。それ以上は何一つ出てこなかった,私は待っていたのだが(634)。
すでに第2章,哲学博士ゼレーヌス・ツァイトブロームの自己紹介のなかで,彼とヘレーネとのあいだに生ま
れた二人の息子が言及されているが,彼らは アードリアンの甥で晩年彼の目の保養となった小さな Nepomuk
Schneidewein のような子供の美しさとは競うこともできなかった (18)と貶められている。ちなみにツァイトブ
ロームの二人の息子は,ナチ体制派として,一貫して
親から不信感をもって見られている。
アードリアンにあまりにも接近した RudolfSchwerdtfeger が,愛人関係にあった Ines Institoris によって殺害
された事件の直後の章の始まりも注目に値する。ルードルフの運命も 彼の悲劇的な早死 (265)と,登場早々に予
告されていたのだが。
私の物語はその終りに向かって急ぐ
すべてのものがそうしつつある。
すべてが終りに向かって殺到し,
突進する。終末の徴のうちに世界は立つ
少なくとも我々ドイツ人にとって世界は終末の徴のうちにある。
ドイツ人千年の歴
はその結果,否定され,その矛盾を論証され,恐ろしい災いをもたらすものと誤られ,
邪道であることを証明され,無のなかへ,絶望のなかへ,前例のない破産のなかへ,轟音をたてる火 がそ
の周りを踊り回る地獄落ちのなかへ,注ぎ込む。……救いようのないこと(Heillosigkeit)をやむを得ず認め
ることは,愛の否定と同義ではない。純朴なドイツ人で学者である私は,多くのドイツ的なものを愛してき
た。そう,私の取るに足らぬ,とはいえ魅惑と献身の能力はある生は,愛に,ひとりのすぐれてドイツ的な
人間存在,芸術家存在への,しばしば驚かされる愛,つねに気がかりな,しかし永遠に忠実な愛に捧げられ
てきた。この存在の神秘的な罪深さと恐ろしい別れ方も,この愛を超えさせることはできない。この愛は恐
らく恩寵の反照に過ぎないのかもしれない(599)。
イーネスによるルードルフ殺害はアードリアンの犯した殺人である。ドイツの断末魔とアードリアンの犯罪が
同時並行的に進行し, 私の物語 も ドイツ人千年の歴
も共に救済を失った状態で終末の苦しみに喘ぐ。そし
て,この二つの系列には異なった時間が与えられるしかなかった。しかし,物語と歴 が共に終末へとひた走る
最終局面では二つの系列の近接が図られる。そして語り手は,異なる二系列はひとえに 愛 によって結ばれるし
かないことを明示する。この二つの 地獄落ち が確認された後ではじめてアードリアンは, その時 以降の最大
の苦難であるネポムクの死に臨み,ベートーヴェンの 第九 響曲 の取り消しを宣言する。
第九 響曲 の失効とは何を意味し,またそれはどのように実現するのか。最愛のネポムクを失ったアードリ
アン・レーヴァーキューンに残されているのは, 第九
響曲 を無効にする最後の作品, 響カンタータ ファウ
スト博士の嘆き を完成させることしかない。しかし我々はその前に, 脳膜炎の過程 der meningiale Prozeß に
まつわる諸要因にも目を向けないわけにはいかない。それと知りながら仕掛けられた罠にかかることは,この作
品が求める作法にほかならないのだから。
吉田徹也
3.
Hetaera Esmeralda
基礎工事は,ブーヘル屋敷とカイザースアッシャーンから始まっている。アードリアンの
ヨーナタン・レー
ヴァーキューンにおける偏頭痛,魔法的なものとの親縁性,飼い犬のズーゾ(本名は Prastigiar と最後にアードリ
アンが明かす),そして何よりも〝Hetaera esmeralda"の知識を息子たちに伝授したこと。この功績は特筆すべき
である。次のシュヴァイゲシュティル邸の女中ヴァルトプルギス。ハレでの 魔方陣>。 デモーニッシュな世界観
をもつエーバーハルト・シュレップフースにとって悪魔は神と不可 であり,悪魔との契約の驚くべき例が彼に
よって紹介される。この私講師は2学期講義して姿を消す。シュレップフースの名はこの後,物語の転回点で再
び浮上する。ライプツィヒで哲学に転じたアードリアンを
〝Hetaera esmeralda"のもとに導いたガイドとして。
ただこの誘惑者の体はザクセンビールの影響が顕著ではあったが。さらに,恩師クレッチュマーへの手紙に記さ
れた神学生アードリアンの信念には,音楽における神学と数学の 魔術的結びつき が指摘されている。
…音楽にはかつての錬金術師と魔術師の実験と粘り強い営みが色濃く残っています。その営為は神学の徴の
うちにもあったのですが,同時に解放と背教の徴のうちにもあったのです。それは背教だった のですが,信
仰からの背教ではありません,そんなことは全くありえないことでした。それは信仰のなかでの背教でした。
背教は信仰の一行為であり,すべては神のなかにあり,神のなかで生起するのです,とりわけ神からの離反
も(176)。
我々はついに,アードリアン・レーヴァーキューンが信仰のなかに背教を見る地点にまで到達した。そのアー
ドリアンが,1905年の Purificationis の後の金曜日 の日付でライプツィヒから 私 に宛てた手紙が,彼の離陸,
神からの離反 を明らかにする。この手紙を 即座に破棄する ことを求めている友の意思は踏みにじられる。アー
ドリアンはさしあたりエスメラルダという 肉欲地獄 から逃れたのである。だがこの脱出は 一時的な ものであ
り, アードリアンはあの詐欺師が彼を連れて行った場所へ帰るさだめであった (198)。 それ は一年後に現実化
する。すべてはニーチェの範例に従って起こり,語り手はここでも震える手で読者に報告する。意図的な背教は
肝心の作曲に何を及ぼしたかについて,語り手は特権的視点を披露する。
…彼女の名前
それを彼は最初から彼女に与えたのだが
は,神秘的な文字として彼の作品のなかに亡
霊のように彷徨っているが,それは私以外の誰にも気づかれることはない。……こうしてわが友の音組織に
は,五から六の音符を頭にもった連なり,hで始まり,es で終わり,その間にeとaが
代しながら現れる
音符の連なりが目立つほど繰り返し見出される。…先ず,まだライプツィヒで作曲された 13のブレンターノ
歌曲のなかで恐らく最も美しい,心をかき乱す歌 O lieb Madel, wie schlecht bist du で。この曲は完全に
その支配下にある。次にとりわけ,大胆さと絶望がきわめてユニークに混合しあっている後期作品,プファ
イフェリングで書かれた ファウスト博士の嘆き で。この作品ではさらに,旋律音程を和声的・同時的にこ
なす傾向が見られる。
ところで,この音符 h e a e es は Hetaera esmeralda を意味する(207)。
この種明かしと並んで,もう一つの暗示がベートーヴェンに関してなされる。音楽が言葉に触れて燃え上がる,
言葉が音楽からほとばしり出る,これはとても自然なことだ,第九 響曲の最後で起こるように。結局,ドイツ
音楽の発展全体がヴァーグナーの言葉・音・ドラマの方へ引き寄せられていき,目標をそこに見出しているのは,
やはり本当のことなのだ (218)とアードリアンは語り,非ヴァーグナー的にオペラ・ブッファを改革する計画を
明かす。第九
響曲をめぐるこの抽象的な発言がどう結実するか,語り手は読者を期待と不安のうちに置いて,
無条件降伏 という歴
時間へと急ぐ。しかしその過程での次の記述も見落とすことは許されない。
…それはバロック的なイデーであったが,世界に対して臆病(Weltscheu)であるのに誇りだけ高い性格,カイ
ザースアッシャーンの,古より続くドイツ特有の地方的偏狭さ,信条の上での
合わせられて成り立っている彼という存在に深く根差していた(219)。
魔の芸術
れもない世界主義,が混ぜ
これは ドイツとドイツ人 そのものである。トーマス・マンはきわめて意図的にアードリアン・レーヴァー
キューンの個人 に思想
的省察を織り込んだのである。
しかもアードリアン自身は 自己が具現しているドイツ
性への嫌悪 を自覚しており 世界への異様な尻込みと,
世界と広大な拡がりへの内的欲求 への 裂を世界主義の
方向へ克服しようとしているのである。このあと歴
時間でミュンヘン白バラ事件(1943年)が触れられ,二重時
間構成への語り手による注解が挟まれる。
私がこれらすべてのことを語るのは,読者にレーヴァーキューンの人生 の執筆がいかなる現代
的状況
のもとに進みつつあるのかを思い出させるためであり,また,私の仕事と結びついた興奮が,日々の衝撃に
よって生み出される興奮と判別不能なほどにひとつに溶け合っているさまを気づかせるためである(230)。
デューラーの町ニュルンベルクが爆撃され, 最後の審判 がミュンヘンをも襲い,ついに 無条件降伏 が要求
される。 原ドイツ的なるもの das Ur-Deutsche という究極的概念が語り手から飛び出し,読み手を驚かせる。
しかしそれでもなお,物語のルールは枠を越えることを容認しない。 アードリアン・レーヴァーキューンによっ
てもはや体験されない現在への逸脱 (234)が語り手自身によって断罪される。 制御された規則正しい構成の失
敗 が繰り返されても,それは 私の対象が私に身近すぎる ことに起因すると語り手は釈明する。このような詭弁
が幾度も繰り返されるうちに,読み手は二重時間構成の融通無碍な本性に飼い慣らされていく。アードリアンの
スイス旅行が報告されるが,それも ドイツとドイツ人 で指摘されているスイスの世界開放性と,アードリアン
の 内向きのコスモポリタニズム の対比を際立たせるためである。ピアニーノに 魔方陣>を貼りつけたアードリ
アンに語り手は叫ばせる, 作品
それは錯覚だ。それは市民がまだ存在してほしいと願うものだ。それは真理
に反し,真剣さに反する (241)。さらに芸術は 仮象と遊び であることをやめ 認識 になろうとしている,と。
この文脈で語り手はなぜアードリアンが, ある日,いやある夜,恐るべき支援者からここで暗示されたことのさ
らなる詳細を聞かされたのである。その記録は手元にある。
時が来たらそれを伝えよう と注解するのであろうか。
13のブレンターノ歌曲はこの徴のうちでのみ理解されうるとのだめ押し的確認は,歌曲に関する音楽専門的記述
のなかでの異レベルの語りである。語り手はこうして音楽に関連づけながらより高き領域へと読み手を誘導して
ゆく。
その時 がアードリアン・レーヴァーキューンに訪れた後の禁欲的生活, 聖人の生活 (294)を伝えるなかで,
彼の本性が Noli me tangere>であったことに注意を促した語り手は,ようやくあの 記録 を 表する。悪魔は
アードリアンがキルケゴールのドン・ジョヴァンニ論を読んでいたときを狙って出現したのである。この 対話
には悪魔との契約に絡むすべてが書き込まれている,と読み手は信ずるしかない。悪魔の口から語られるめくる
めく真相に心臓が止まる思いをせぬ読み手はいないであろう。
ねえ,君は知っていたよね,自
に何が欠けているのかを。それで旅行に出かけ,失礼ながら,愛すべき
フランス人病を身に招くという流儀をまもったんだ(305)。
対話 は,契約の秘儀から新音楽の批評にいたるまでのほとんど無限の情報源として作品のど真ん中に鎮座し
てしまう。キルケゴールが共感するキリスト教音楽と魔的領域の不可 性がその中核に位置する。しかし,さし
あたり我々に必須の情報は, その日からまる 24年間 がアードリアンの 天才的時間 で,それが彼の人生の限界
であること。そして愛が許されないこと,である。そして彼の愛の発動がもたらした死を我々はすでに見た。
ノルマンディー上陸後の戦局を前にした語り手はこの間の歴 を回顧し,ロシア革命への共感をも表明して読
み手を驚かせる。しかしそのまことの理由は,ボルシェヴィズムが芸術作品を破壊しなかったからであった。ボ
ルシェヴィズムからドイツを守ると主張して 精神的なものを踏み潰す 人間の
の支配のもとでは,アードリ
アンの作品も犠牲となったであろうからである。ところが,こうした 察は 欄外 のことでしかないとの注釈が
付け加えられ,この
察の価値は暴落する。ルールに従って伝記時間に戻った語り手は,ようやくアードリアン
について真に語るべきことを語り始める。ここではじめて アンデルセン童話の小さな海の処女 Seejungfer
(457)の話がアードリアンの口から語られる。それも,残り少ないアードリアンの生の中心的シンボルとなること
を予感させる切実さで。魂を売り渡した苦しみは肉体的痛みとなって一歩ごとに身を苛む,その痛苦がアードリ
吉田徹也
アンを襲い,次第に彼の命をすりへらすことを読み手は覚悟させられる。そしてアードリアンによる主要作品の
一つ目,デューラーのヨハネ黙示録木版画に基づくオラトリオが作曲され,読み手はその主題があまりにも作曲
家の運命に近似しているため畏怖と恐怖になかば怯えながら,音楽理論上のアポリアとの対決を迫られる。 アポ
カリプシス で特に読み手の注意をひくのは,楽器のみならず合唱にもグリッサンドが多用され,それを語り手が
第七の封印が解かれ て原始状態に回帰したと慨嘆していることである。 アポカリプシス の バーバリズム に
関して,この作品の歌唱で表現されているのは 魂の喪失 (501)どころか,魂を求める人魚の苦しみであると主張
される。地獄の勝利の哄笑(Triumphgelachter der Holle)と子供の合唱(Kinderchor)との音符上の一致も見抜か
れる。語り手の解釈を通じてしか我々は アポカリプシス の本質を知ることはできない。語り手があらゆる手段
で訴えかけてくるもの,それは小さな人魚のシンボルによってアードリアンが言い表そうとしたことそのもの
だったのである。
ネポムクの死後,歴
時間は 1945年4月 25日と指定される。 あの身の毛もよだつ男 がベルリーンを破壊し,
KZ が連合国司令官によって世界に知らしめられ,ドイツの名の付くすべてのものが貶められ灰燼と化した。極限
まで達した人間性の否定を前にした語り手は,二重時間の合体を感嘆符つきで表明する。 なんと奇妙に時間が
私が書いている時間がこの伝記の空間を作り上げている時間と手を組むのであろうか
(639)語られる時間
は 1929年から 1930年で, その後この国を我が物にし,今や血と火 のなかで没落していくものの興隆と勢力拡
大 の時期だった,と。ナチスの権力掌握前に彼らの没落を語るのは二重時間のルールに違反している。しかし語
り手は,ナチスの 興隆と勢力拡大 期とアードリアン・レーヴァーキューンの
造的活動 の絶頂期という二つ
の時間が重なり合うことをわざわざ読み手に意識させる。この二年間の作曲活動こそが ドクトル・ファウストゥ
ス の要諦であることに読み手が気づかなければすべては無に帰するからである。悪魔の砂時計は正確に時を刻
む。それでも 彼が服従させられていた,生の幸福と愛の許可が禁止されている状態への給金と補い (640)との注
釈は,秘密主義を貫いて読者を翻弄してきた語り手による過剰な暗示としか言いようがない。1906年,アードリ
アンが 20歳のときにそれは起こり,起こった以上最後の瞬間の訪れがひたすら待たれていたのだから。
響カンタータ ファウスト博士の嘆き をめぐるディスクールに翻弄されるしかない読み手に残されているこ
とはほとんどない。読み手は,作曲技法に関わる高度に専門的な解説を読むとき Unbeteiligte となるしかなく
私 に共鳴する機会を奪われるからである。
語り手はどのようにして読み手を Beteiligte に変えるのであろうか。
アードリアンが 幻のエネルギー (641)に駆り立てられ作曲に没頭する傍らで,私 は読み手の大いなる疑問に答
えるかのように ファウスト博士の嘆き について発言する。
…我々牢獄の子が,ひとつの歓呼の歌を, フィデリオ を, 第九 響曲 をドイツ解放の
放の
ドイツ自己解
黎明の祭典として夢見た年々があった。今や我々の役に立ち得るものはこれだけである。これだけ
が我々の魂のなかから歌われるのである。地獄の息子の嘆き,主観から発してはいるが,不断の拡大を続け
ていわば宇宙をその手に掴みつつ,かつて地上で歌いだされた最も恐ろしい人と神の嘆き(643)。
語り手は 5音の基本モティーフ h e a e es を思い出させ,同一性から多様性を生む技法としての 魔方陣>の
秘密を解き明かし, アポカリプシス で我々も確認した天 の合唱と地獄の哄笑の同一性を再確認させ,いよい
よファウスト−カンタータの ラメント>が 第九 響曲 のフィナーレとネガティブに近似すると暗示する。その
上ではじめて各楽章の基礎に古い民衆本が据えられていることを明言し,作品の 合主題をなす言葉 Denn ich
sterbe als ein boser und guter Christ>の音節が 12であると指摘する。 半音階の 12音すべてが
られており,
合主題に与え
えうるかぎりのすべての音階がそのなかで われている (646)。 ドクトル・ファウストゥス を
書きすすめていたトーマス・マンが,悪魔に魂を奪われる意義深い台詞に 12音節を発見したことを感嘆すべきな
のであろうか。厳格な形式の極限化によって 言葉としての音楽が解放される という認識,あるいは発見が,語
り手にこれほどの驚嘆を呼び起こすとは。 ああ,奇跡であり深いデーモンの才知(Damonwitz)よ
手は
しかし語り
括する, この彼のもっとも厳格な作品,極度の計算に基づく作品は,同時に純粋に表現的である と。12
音技法の原理への依拠が明瞭なこうした局面でも,語り手はフィクションという 厳格な形式 に拘泥してシェー
ンベルクへの関連づけを避け,わざわざ Monteverdi とその時代様式への
いる。カンタータの最後で嘆きの合唱が
魔の芸術
及 というカモフラージュを選んで
響的アダージョ楽章へとゆっくりと移行するが,その終楽章が純粋に
orchestral であることによって,この作品は 歓喜に寄す>を逆向きにした道, 響曲がヴォーカルによる歓呼へ
移行することと等質的なネガティーフであり,それが
響曲の撤回である… (649)と説明される。こうして 第九
響曲 がアードリアン・レーヴァーキューンによって撤回されたことを我々は知った。アードリアンが 音楽が
言葉に触れて燃え上がる,
言葉が音楽からほとばしり出る と叫んだ 第九 響曲 の構成は裏返され,
転倒される。
真理に反し,真剣さに反する と断罪された作品は 陰画 としてのみ可能であった。しかしこの最終楽章は, 自
己の世界が失われてゆくことへの神の嘆きのように…響く 。 究極的絶望 から 希望が芽生える ことはないの
か,と語り手は接続法2式で問いかける。 第九
響曲 のネガティーフへの撤回に潜むかもしれない希望は 希望
なきことの彼岸にある希望 と呼ばれる。曲の最後の音が消えても,その音は意味を転じて 闇夜のなかの一筋の
光 として存在している。読み手を疎外するこうした形而上学的解釈の展開によって Unbeteiligte へと
落した
我々を救うのは,民衆本ファウストでしかありえない。アードリアンを最後まで導く力をもつ民衆本の顰に倣い,
彼は招待客の前で悪魔との契約にまつわるすべてを恐るべき率直さで告白する。悪魔の助力なしに芸術は不可能
となったこと,それは 時代の罪 であり,悪魔を招いてこれを打破しようとするものは 時代の罪 を自らに背負
い,地獄に落ちる,と。イエスに見
うように変貌した表情と相俟って,この言葉は彼を殉教者として印象づけ
る。
アードリアンが遺した
,ネポムクははたして彼の子だったのか。語り手はなぜあれほど目の色にこだわった
のか。ネポムクの目はウルズラの夫ヨハネス・シュナイデヴァインと同じ青だった。アードリアンの目は の青
(Azur)と母の黒(Pechschwarz)を受け継ぎ,青-灰-緑(Blau-Grau-Grun)であり,ウルズラの目の色は茶である。
忠実な影であるシルトクナップだけがアードリアンと同じ目をしていた。 小さな人魚とは私の妹で可愛い花嫁,
名は Hyphialta とアードリアンは告白した(663)。禁欲生活を送ったアードリアンがなぜ Hyphialta から 小さ
な息子 を授かったのか。
はもうひとつある。アードリアンの埋葬に立ち会った 見 けられぬようにヴェール
を被った見知らぬ女 (676)とは誰なのか。我々にはこれらの超越的な に立ち向かう能力がそもそも与えられて
いない。代わりにアードリアンが安らぎを求めたあの菩提樹に思いをめぐらしてみよう。50回目の 生日を迎え
たブーヘル屋敷。 菩提樹は花を咲かせ,彼はその下に座っていた 。ブーヘル屋敷にそっくりのシュヴァイゲシュ
ティル家の中 に立っていたのは楡だったが。世代
代のたびに伐られそうになりながら危機をのり越えてきた
菩提樹の老木の下で,アードリアンも自 を取り戻したのである。
語り手はアードリアンをカイザースアッシャー
ンの人として,そして彼の音楽をカイザースアッシャーンの音楽として定義した。時代の罪を背負って,背教者
でありながら殉教者として地獄に落ちた芸術家は,故郷に戻り,故郷で生を閉じた。 第九 響曲 のネガティー
フへの撤回という幻の音楽を聞かされた我々の耳に,最後にまたあの懐かしい菩提樹の響きがよみがえってくる。
ハンス・カストルプが無意識に口ずさんでいた調べは,ここでも絶望のなかでの希望なのではないだろうか。
文献
Thomas M ann Gesammelte Werke in dreizehn Banden,Band VI,S.Fischer Verlag,Frankfurt am M ain 1974.Doktor
Faustus Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverkuhn erzahlt von einem Freunde. 邦訳 ファウスト博士
上・中・下 関泰祐・関楠生訳,岩波書店,1974。 ドクトル・ファウストゥス のきわめて良心的な翻訳であるが,本稿で
の引用はすべて論文執筆者に責がある。ダンテよりの引用は岩波文庫版の山川丙三郎訳による。
石田一志,2012, シェーンベルクの旅路 ,春秋社
シェーンベルクを主題とするこれほど優れた,あるいはしつこい研究書は稀有であろう。ただ,エピローグで Leverkuhn
を Leberkuhn と混同したために奇妙な推論をしているのが惜しまれる。
藤原義久,1979, アードリアーンの音楽
ヨーロッパ芸術音楽の終焉 ,芸立出版
いわゆる現代音楽に至る西欧音楽の発展の中に架空の作曲家アードリアン・レーヴァーキューンの作品を位置づけている
ユニークな音楽論である。
吉田徹也