重力の再発見 アインシュタインの相対論を超えて

読
書
の 窓 『重力の再発見 アインシュタインの
相対論を超えて』
ジョン・W・モファット=著・水谷 淳=訳
早川書房(2009 年 11 月 25 日)
(社)
JA総合研究所 基礎研究部長 主席研究員
従来の価値観が大転換する時代が来ている。
そんな気がますますしてきた。
本書の著者は 1932 年生まれのトロント大学
の名誉教授で、カナダのペリメーター理論物理
学研究所で重力理論の研究を続けている物理学
者である。本書で著者は、これまで3世紀以上
にわたって地球を含めて太陽系の中では正しく
有効だったニュートンの重力理論、1世紀近く
にわたる検証に耐えてきたアインシュタインの
一般相対論から、新たな重力理論へのパラダイ
ムシフトをもたらすかもしれないと語る。
パラダイムという言葉には誤解が多いと感じ
ているので解説をしておきたい。評者が大学生
だった遥か昔、指導教官に薦められ科学哲学者
トーマス・クーンが 1962 年に出版した『科学
革命の構造』を読んだ。一読して驚愕した。30
年前のそのころは、学者の書く著作物に「パラ
ダイム」という言葉が溢れかえっていた。その
ほとんどが、原典を読んでいない!と気付いた
からだ。トーマス・クーンが哲学者らしく明瞭
に定義した「パラダイム」とはまったく違う感
覚的な「時代の雰囲気」であったり、ひいき目
に見てマックス・ウェーバーが用いた「エート
ス」であろうことまで、流行語「パラダイム」
を使っていた。
クーンは、「パラダイム」を、一般に認めら
れた科学的業績で、一時期の間、専門家に対し
て問いや答え方のモデルを与えるもの、とする。
つまりある専門分野の世界中の科学者たちが
皆、それぞれの研究の枠組みとして受け入れて
いるいわば「標準教科書」である。
ところが、研究が進むうちに、その枠組みで
はどうしても説明がつかない「変則性」を発見
する者が現れる。当初は、それは無視されるか
もしれない。しかしその後、理論的な混乱のな
かで、さまざまな観察データが新たに収集・分
析されるうちに、多くの科学者が支持する新理
46 《読書の窓》
吉 田 成 雄 (よしだ しげお)
論が誕生し、新しい
パラダイムが確立す
ることになる。これ
を「パラダイムシフト」と呼ぶ。
本書の翻訳者水谷淳氏は「訳者あとがき」に
こう記している。「未来永劫絶対に正しい科学
理論などというものはありえない。どんな理論
も決して完全無欠ではなく、いずれは覆される
ことになる。事実、二〇〇年にわたって不動の
地位を占めていたニュートン力学も、実は自然
界を近似的にしか表わしておらず、基本理論と
しての役割はすでにアインシュタインの相対論
に譲っている。クーンによれば、保守的に発展
してきた科学理論のほころびが広がって、小手
先の措置ではもはやどうにもならなくなったと
き、それまでとは根本的に異なる新たな理論が
登場して、科学は革命的な変化、パラダイムシ
フトを起こすという。ニュートン理論からアイ
ンシュタイン理論への進歩は、そうしたパラダ
イムシフトの一つだった」
また「はしがき」で「アインシュタインが新た
な重力理論を発表したとき、人類の宇宙観は、
ニュートンによる機械的宇宙から劇的に様変わ
りした。アインシュタインによって、空間と時間は
絶対的でなく、重力は“力”でなくて“時空”の幾
何の性質であって、物質やエネルギーは時空の
幾何を歪めるということが明らかとなった」と。
さて、2010 年2月 14 日の日本経済新聞の「サ
イエンス」の紙面にこんな記事が掲載されてい
た。「岐阜、富山県境の山深い鉱山跡に先端装
置を備え付け、宇宙最大級のなぞに迫る実験が
3月にも始まる。宇宙の質量の4分の1を占め
るとされるものの、いまだに見つかっていない
『暗黒物質』の観測に東京大学などの研究チー
ムが挑む。宇宙の誕生や変遷の解明につながる
だけに米欧の研究者らも観測一番乗りへしのぎ
を削っており、日本の取り組みに熱い視線を注
JA 総研レポート/ 2010 /春/第13 号
ぐ」というものだ。この「暗黒物質の存在が予
OGでは、時刻ゼロは特異点ではない。時刻ゼ
想されるようになったきっかけは、1970 年代後
ロの宇宙には物質が存在せず、時空は平坦で、
半の渦巻き状のアンドロメダ銀河の観測だ。遠
宇宙は静止状態にある。この状態は不安定で、
心力が働けば渦巻きの外側ほど回転速度は速い
やがて物質が生成し、重力が現われ、時空が歪
はずなのに、観測では内側と同じ速度だった。
んで宇宙が膨張を始める」
大量の暗黒物質の作用によって、速度が変わっ
大きな書店に行けば分かることだが、重力理
たと考えると説明がつくという」
論については諸説がある。どれを読んでもそう
ところが、本書の著者は、その存在に大きな
かもしれないと感じてしまう評者には、どの説
疑問を抱いている。「たとえ検出できなくても、
が正しいのか判別するだけの能力はない! だ
ダークマター(評者注:暗黒物質)は存在する
が、重力理論研究の権威と目される著者が、
「銀
という信念を現在の物理学者や宇宙論学者がそ
河内の恒星の異常に速い回転速度や、銀河団の
う簡単にあきらめるとは思えない。アインシュ
安定性を示す膨大な観測データを説明する道
タインの重力理論を棄てるというのは、多くの
は、たった二つ。ダークマターが存在し、それ
人にとって耐えられないことなのだ。澄んだ目
がいずれ発見され、ニュートンやアインシュタ
で証拠を見つめるには、新たな世代が必要なの
インの重力理論が無傷のまま残るか、それとも、
かもしれない」
ダークマターは存在せず、新たな重力理論を見
著者は、アインシュタインの一般相対論に代
つけるしかなくなるかだ」と語る、いわば決着
わるものとして、MOG(修正重力理論)とい
の瀬戸際の時代をわれわれは生きている!とい
うものを提唱している。この理論によると例え
う「臨場感」を感じている。
ば、光速は一定ではなく、初期宇宙では極めて
こうした世界の物理学者たちが最新の宇宙観
大きかったという。本書は「なぜそのような理
測のデータに目をこらしつつ、理論と観測値と
論を考えなければならないのか? それはどん
の間で格闘する研究の世界がある一方で、経済
な理論か? そして、どんな宇宙の姿を描き出
学が対象とする「宇宙」は純粋な物理現象では
そうとしているのか?」といったことが、論理
なく、人間という極めて複雑で気まぐれな存在
的で読みやすい文章で丁寧に綴られている。
がつくり出す地球上にある「宇宙」の出来事で
「MOGは、現代物理学や宇宙論に存在する
ある。このため、理論の白黒の決着を付ける、
三つの難問を解決してくれる。MOGにおける
といったことにはなりにくい。とにかく「人間
重力は標準モデルより強いので、取ってつけた
要素」を無視した理論では、どれほど立派な学
ようなダークマターをまったく使わずにすむ。
者が唱えるものであっても、特有のうさん臭さ
また、ダークエネルギー(評者注:真空のエネ
(ご説は立派ですが、先生もそのご説の中で首
ルギー)の由来も説明できる。さらに、MOG
尾一貫して生きることは、おできにならないで
には厄介な特異点(評者注:微分方程式の解が
しょう!)がある。だからといって、
「人間要素」
破綻するところ。密度など重力場の決定に用い
を考えすぎると個々のケースが「特殊」であっ
られる量が無限大となる点でブラックホール存
ても、理論化した「普遍」を見つけることがで
在の根拠)がない。この宇宙はわれわれが信じ
きない。
てきたのとは違うような場所、おそらくはもっ
自然科学の世界との大きな違いはあるもの
と理解しやすく理にかなった場所であること
の、社会科学の分野であっても、今日、社会・
が、MOGの数学を通じて明らかとなるのだ」
経済・政治・国際情勢すべてで世界が変わる大
「もしMOGが正しいとしたら、科学において
転換の時代に遭遇しているのだ。研究者である
最も有名な仮説の一つが崩れてしまう。きわめ
というならば、これまでの通説や標準的理論(そ
て初期の宇宙に対する説明として、ビッグバン
のようなものがあったとすればだが)にしばら
理論は正しくないかもしれないのだ。MOGで
れることなく、もう少し大胆に一歩を踏み出し
は時空が平滑なため、宇宙の始まりに特異点は
てみてもよいのではないか。
存在しないが、ゼロという特別な時刻が存在す
少なくともJA総研はそうした知的態度を保
るのはビッグバン理論と変わらない。しかしM
ち続けていきたいと考えている。 JA 総研レポート/ 2010 /春/第13 号
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