オアシス2号 - 熊本市教育センター

熊本市教育センター所報
第2号
オアシス
オアシス
asis
O
熊本市教育センター(Tel 359-3200)H19.10.19発行
平成19年度 熊本市教育講演会
「運命を拓く夢と教育」
東京大学 法学部教授
蒲島 郁夫 氏
(かばしま いくお)
蒲島 郁夫 先生
<はじめに>
皆様おはようございます。只今紹介いただ
きました東京大学の蒲島です。今日は、「運
命を拓く夢と教育」というテーマで私自身の
体験から私が思っている教育論を語りたいと
思っています。自分自身の人生をあらいざら
いしゃべってしまうのは、大変恥ずかしい気
もします。けれども、私の専門は実証政治学
ですので、実証政治学が実証的に政治を明ら
かにするという立場から、自分の記憶に基づ
いてなるべく正確にお話したいと思います。
そうすることで、私自身の60年の人生と重ね
合わせながら、これからのみなさんの人生、
みなさんの生徒のこれからの人生とは何だろ
う、人生の可能性とはどういうものだろう、
その中における教師の役割はどういうものか
を考える機会になれば大変うれしく思います。
私の60年の人生は、東大法学部の同僚の人
たちと違って、名門高校から一流大学に進ん
だ人生ではありません。私は高校を卒業して
から6年半大学に行っていません。その間何
をしたかというと、高校を卒業して、地元の
農協に勤めました。稲田村農協というところ
ですが、その後、農業研修生としてアメリカ
に2年間わたり、アメリカのネブラスカ大学
に入ったのが高校を卒業してから6年半後で
す。そこでは繁殖生理学、とりわけ豚の精子
の保存方法を研究してきました。その後、
ハーバード大学の大学院に進んで政治学を専
攻し、筑波大学を経て東京大学に来たという、
そういう回り道の人生を歩んできました。
略歴紹介
1947年 熊本県鹿本
町に生まれる。
県立鹿本高校卒
業後、農協に勤務
1968年 農業研修生と
して渡米
1971年 ネブラスカ大
学農学部に入学
1974年 ネブラスカ大
学農学部卒業
1975年 ネブラスカ大
学大学院修士課程
修了
ハーバード大学大
学院博士課程(政
治経済学専攻)入
学
1979年 ハーバード大
学政治経済学博士
号取得
1980年 筑波大学社
会工学系講師
1985年 筑波大学社
会工学系助教授
1991年 筑波大学社
会工学系教授
1996年 筑波大学大
<夢見る少年時代>
学院国際政治経済
私の生まれたところは、
学研究科長
熊本県鹿本郡ですが、今
1997年 東京大学法
は山鹿市に合併されてい
学部教授
ます。稲田村という名前のとおり田園風景の
続く村です。そこで1947年の1月に生まれま
した。山鹿市はそれほど人口の多くないとこ
ろですが、不思議なほどに大物の政治家や
学者が誕生しています。たとえば73歳で総
理大臣になった清浦奎吾という人が、私の
生まれたところから20分くらいのところで
生まれています。また、松野鶴平、松野頼
三、今はそのお孫さんの松野頼久がおられ
ますが、その人たちの生家も私の生家から
20分くらいのところにあります。それから、
刑法学者として有名な元東京大学総長の平
野龍一という方がおられますが、この方も
鹿本町の出身です。この縁で、私が東京大
学に赴任した時に平野先生にご馳走になっ
たことがあります。
私の家族は、満州という現在は中国の東
北部からの引き揚げ者です。あの食糧難の
時代に、満州から無一文で引き揚げるとい
うのは、大変なことだったと思います。稲
田村に住んでいても、我が家の田はありま
せんでしたので、2反ほどの田を借りて、
私を入れて9人兄弟を育てたのは大変なこ
とだったろうと今思っています。その上、
父親は戦後58歳で亡くなるまで、一度も定
職についたことがありませんので、想像を
絶する貧しさでした。貧しいことは悲しい
ことだなと思ったことが1つあります。当
時遠足には50円分のお菓子を持って行って
よかったのですが、現金がありませんので
50円分のお菓子がなかなか買えませんでし
た。その当時の子どもたちは、そのお菓子
の半分を先生にあげるという習慣がありま
した。先生は欲しくもなかったと思います
が、お菓子を食べられないことより、先生
にお菓子をあげられなかったことがとても
悲しかったのです。それでも、子ども心に
お菓子はとても食べたかったので、ヘンゼ
ルとグレーテルの童話を読んだ時にお菓子
の家が出てきますが、それを丸ごと食べた
らどんなに幸せだろうと思ったことがあり
ます。現在は太らないように甘いものはあ
まり食べていません。今でも鹿本町には生家があり
ます。江戸時代に建てられた古い民家ですが大変古
い家なので、みなさんが見られたら驚かれると思い
ます。私がこの話を長野県でしたときに、長野県の
県議会議長がそんなのは信じられないといって、わ
ざわざ熊本までその家を見に来られ、写真に撮って
帰られました。そういう貧しい家でした。現在、江
戸時代の豪農の家は残っていますが、そういう古い
民家は残っていませんので、歴史的価値があるので
はないかと思います。
家の歴史を調べてみると、江戸時代に長野濬平さ
んが住んでいたそうです。長野濬平さんは横井小楠
に学んだ製糸業界の大物です。この家の持ち主であ
る熊本市長だった星子敏雄さんのお母さんである、
あささんがよくこういうことを言っていました。
「この家に住んでいる間は、貧乏神が取り付いてい
るけれども、出たらいいんだ」そういう伝説があっ
て長野濬平さんもその後、有名な財界人として大成
功を収められましたし、その曾孫が肥後銀行の長野
吉彰元会長です。そのような貧しい生活でしたが、
今考えてみると夢のある楽しい生活でした。
私は高校時代まで、ほとんど勉強したことはあり
ません。当時は今と違ってそれが普通でした。夜遅
くまで遊んでいましたが、他の子と違っていたのは、
本を読むことがとても好きだったこと
です。私が最初に本らしい本を読んだ
のは、小学3年生の時に兄が借りてき
た『ああ無情』です。その当時、小学
校3年生までは本を借りたらいけないという不思議
な決まりがあって、兄に借りてもらいました。それ
を読んで大変感銘を受けました。次に読んだのが
『フランダースの犬』だったのですが、この2つを
読んで、「自分も不幸だが世界にはもっともっと不
幸な人がいるんだ」というふうに自分を相対化する
ことができました。それから、学校の本を読み始め
ましたが、その後の人生に大きな影響を与えたのが、
『プルターク英雄伝』という本でした。これはギリ
シャとローマの比較英雄伝ですが、これを見ながら
シーザのような立派な政治家になりたいと、政治に
大変興味を持ちました。こういう英雄伝というもの
が今は小中学校の図書館には置かれていないと聞い
ていますが、そういう英雄伝を読みながら、私は政
治に関心を持ったのです。
その後、稲郷中学校を経て鹿本高校に入学しまし
た。中学校までは、なんとなくついていけましたが、
高校になると英語や数学があるので、日々勉強しな
いとついていけません。それで、高校では大変な落
ちこぼれで1学年250人中200番くらいで卒業しまし
た。
そのような環境にありながら、夢多き学生時代で
もありました。私には3つの夢がありました。1つ
目は、将来大人になったら阿蘇の大平原で牛を飼い
たい、牧場主になりたいという夢。2つ目は、本を
読むのが好きだったので、小説家になりたいという
夢。3つ目は、『プルターク英雄伝』を読みながら
シーザのような立派な政治家になりたいという夢で
した。
<二十歳の転身>
しかし、実際は成績の悪い落ちこぼれで、地元
の稲田村農協に勤めました。この稲田村農協にも
簡単に勤められたわけではありません。当時は村
の実力者が農協や役場の人事に影響をもっていま
した。私は試験を受け、試験直後に農協中央会の
若い職員がテストの結果を見せてくれたのを見て、
これで農協に入ることができると思いました。と
ころが、数日後農協の役員の人が来て、「残念な
がら蒲島さんは不合格でした」と言うので、「ど
うしてですか」と聞いたら、「成績が悪かったの
です」と言われました。その時私はまだ18歳だっ
たのですが、「そんな不合理的なことをするん
だったら新聞に投書しますよ」と言いました。そ
したらまた1週間後にその人が来られて、「やっぱ
り合格してました」ということになり、稲田村農
協に勤めたのです。そんなわけで、稲田村農協に
勤めて2年ほどプロパンの配達や飼料の配達をし
ていました。しかし、2年ほど経った20歳の時、
農協をやめて別のことをやりたいと思いました。
別のことをやるとしても一体何をやるかと考えて
いた時、最初の夢がもり上がってきました。阿蘇
のふもとで牧場をやるんだと。それが1番達成す
る可能性が高いと思いました。もともと貧乏な家
庭だったので、資金はありませんので、まず、牛
を飼う勉強をしたいと思いました。
その当時、派米農業研修生というものがありま
した。農家の青年を2年間アメリカに送って、研
修をさせるという制度です。その制度は、今考え
るととてもよくできた研修プログラムだったと思
います。まずシアトルに着いて、ワシントン州の
真ん中にあるビッグベンド大学という短期大学で
英語を1月半習いました。そしてその次に3ヶ月
間、隣の州のオレゴン州フッドリバーというとこ
ろでりんご摘みの仕事をしました。りんご摘みは
簡単そうだけれどもとても難しいのです。やさし
く摘みながらも早く摘まねばなりません。何個摘
んだか、何箱摘んだかによって給料が決まるので
す。私は農協に勤めたことはありますが農業を
やったことはないので、とてもスローな仕事ぶり
でした。そこで、りんご摘みのアルバイトをしな
がらひとつだけ学んだことがあります。りんごは
やさしく摘まないと、指で押さえると3日後に黒
ずんできます。指で、時々スーパーマーケットで
家庭の奥さん方が野菜をつついたり、魚をつつい
たりするのを見るととても気になります。皆さん
は絶対にそれをやらないでほしいと思います。
それからまた1ヶ月半ほどビッグベンド大学に
戻って、英語を学びました。この頃になると片言
の英語をしゃべれるようになりました。その後、
長期の研修に出かけました。180人ほど農業研修生
がいましたが、その理想は、「自分の志望にあっ
た農場に配属されたい」のが1番目。それから「農
農場主が優しかったらいいな」ということが2番目。
そして、3番目は「美しい娘がいればよりいい」と
いうものでした。その理想は大体ほとんど全員が
裏切られます。私はアイダホ州に配属されました。
そこには牛と、羊が数百頭ずついました。そのほ
かにも広大な畑があります。私は1月2日に牧場に着
きましたが、雪の中を牛たちが思い思いに歩き回っ
ており、羊たちは群れを作って元気に鳴いていまし
た。遠くには大きな沼がありました。
何とすばらしい景色だろうとさらに
夢を持ったのです。この農場には、
ボスと呼んでいた農場主の家族他、
住み込みの白人の夫婦、それから
私がいました。ボス・白人の労働
者・私で農場をきりもりすることになります。それ
を考えただけでも大変な仕事でしたが、最初行った
日は、とても夢を持って、この農場はいいなと思い
ました。しかしそんな甘い考えはたちまち砕けてし
まいます。まず、夜明け前に、まだ暗いうちから作
業が始まるのです。そして、農家の仕事は、夜が明
けたら仕事を始めて暗くなったらやめるというもの
です。日本でも時々問題になりますが、研修生とい
うのは、安い労働者に過ぎないと考えられる場合が
あります。だから、農業の経験のない私が、ボスの
意向に沿うように仕事をするのはとても難しかった
のです。その上、アイダホにはブリザードという厳
しい吹雪が吹き荒れます。これはどういうものかと
いうと、すでに早く降った雪が乾燥して、強風に混
じりながらたたきつけるように顔に降ってくるもの
です。そういうブリザードの中で仕事をしながら、
次第に「つらいな、農業は」と思い始めました。そ
れで、1年ほどその農場で働いた頃になると農業に
対する思いがなくなって、「こんなにつらい仕事を
するのは本当に大変だ」と、自分の牧場を開くとい
う夢が次第に砕けていきました。
この農業研修生のプログラムのハイライトは、ネ
ブラスカ大学での学科研修でした。3ヶ月間、ネブ
ラスカ大学で畜産学の学科研修がありました。私は、
これまで一度も勉強したことがなかったので初めて
そこで勉強しました。そこで、「つらい農場の生活
と比べると学問は何と楽だろう。学問するだけでご
飯が食べられる。もっと大学に行きたい」と感じて
きました。そして、「また帰ってくるんだったら、
ネブラスカ大学に戻りたい」と思いました。
そこで、農業研修生のプログラムを担当していた
クリントン・フーバーさんに、英語に自信があった
わけではありませんが、「またネブラスカ大学に
戻ってきたいので、次の農業研修生のプログラムの
時に自分を通訳として雇ってくれないだろうか」と
頼みました。このフーバーさんという人がとても気
のいい人で「OK。君は成績もいいから来年帰って
来たら通訳として雇ってあげる。そこでネブラスカ
大学の大学入試の勉強をしたらいいじゃないか」と
いうふうに言ってくれたのです。
農場で絶望の淵にあったので、かすかな光が見え
てきました。でも本当はこの光はとてもかすかな光
でした。というのも、それに到達するためには、い
ろんな困難性があったからです。
この農業プログラムが2年で終了して、1970年の7
月に日本に帰国しました。そこで3つあった困難と
は、日本での成績証明書と推薦状を英語で書いても
らわねばならない上、試験を受けなければならな
かったこと。それが第1の入学に伴う困難です。第
2にネブラスカに戻るといっても旅費が必要だった
こと。その当時、片道で35万くらいしていた旅費を
どうやって稼ぐかという困難です。第3の困難が恋
人のこと。私はアメリカに行く前にすでに恋人がい
ましたので、アメリカに行く前に、日本に帰ったら
結婚するという約束で、2年間待ってもらっていま
した。当然別れの危機が押し寄せました。しかし、
それを何とか説得してアメリカに渡ることができま
した。
第1の困難をどうやってクリアしたかというと、
まず、高校の先生のところに行って、「英語で推薦
状と成績証明書を書いてください」と言いました。
あの頃は留学なんてほとんど無かったので、落ちこ
ぼれの蒲島が留学するとは先生たちは誰も信用して
くれません。成績を見るとほとんど2ばかりで、2
をそのまま訳するとDなので、これはかわいそうだ
ということでCに書き直してくれました。そういう
成績証明書を持って行ったのです。
次に、旅費の方は、私の義兄が名古屋の方で牛乳
配達の販売店をしていたので、半年間牛乳配達をし
たら旅費を出してくれるということで、そこで半年
間、朝早くから牛乳配達をしました。アメリカでの
苦しい生活があったので、3時に起きて牛乳配達す
るくらいたいしたことはありませんでした。一度苦
労を経験したらすべてが楽に見えるのです。そこで
もらったお金を切符に替えて、残ったのが50ドルで
した。当時は日銀に行ってドルの持ち出しの許可を
得なければなりませんでした。私がそれを持って日
銀の担当者のところに行ったら「50ドルですか、
3000ドルまで持っていけますよ」と言われました。
「そんなことを言っても、50ドルしかないので無理
なこと言うものだ」と思いながら日銀を去りました。
片道切符というのはこういう事を言うのだと思いま
すが、50ドルを持ってネブラスカに行って大学入試
を受けました。
アメリカの大学入試は共通科目
で英語と数学があります。英語は
アメリカ人が受ける英語なので、
とても難しいのです。なかなか日
本人には太刀打ちできません。いわゆる国語です。
それからこちらの方で点数をかせがねばならない数
学ですが、これがわからないから、落ちこぼれだっ
たのです。奇跡というのはそんなに起こるものでは
ありません。高校の推薦状もたいしたものではな
かったでしょうし、成績証明書もCばかりで、その
うえ不得意科目を2科目受けるわけなので、当然不
合格でした。「人生とはなんとうまく行かないんだ
ろう」と思っていました。その不合格通知を持って、
私が通訳を務めている担当講師のハドソン先生のと
ころに行くと、自分が入試担当官に交渉してみると
言ってくれました。その当時から、アメリカでは大
学の先生が入試をやるのではなくて、アドミッショ
ン・オフィサーという人がやっていました。アド
ミッション・オフィサーのところに行って「蒲島は
とてもやる気のある男だからチャンスを与えるべき
だ」と説得してくれたのです。アメリカという国は
弾力的な国だと思ったのは、「そうか」と言って半
年間の様子見入学という形で入れてくれたことです。
もっとも、様子見入学とは半年間で成績が悪かったら
すぐに学校を追い出すというものでした。しかし、
入ったらこっちのものなので、一生懸命勉強しました。
あのくらい勉強したのは初めてだと思います。朝早く
起きて夜寝るまで、常に本は持っていました。ただ、
家からの仕送りは一銭もないのでアルバイトをしなく
てはならなかったのですが、それも一生懸命にやりま
した。アメリカの教科書はすごく厚い本で最初は分か
りませんでしたが、不思議なもので一生懸命やると数
学も解けてきますし、分からない英語も分かってきま
す。だから、「なぜ中学校や高校の時、あんなに薄い
英語の本が分からなかったのだろう」と思います。だ
から、みなさんも学生たちが英語を勉強したがらな
かったら、こんなに厚くて巨大な本を与えて、次に薄
い教科書を与えると、それがいかに楽なものかが分か
ると思います。
そういうことで、私は一生懸命勉強した甲斐あって、
1学期の成績がストレートAでした。ストレートAと
は、全科目「優」のことですが、90点以上とらないと
Aがきません。全科目Aということで大学の待遇が
ぐっと変わりました。375人の農学部の学生がいまし
たが、ストレートAは10人でした。この10人には奨学
金が与えられ、1年生の時から指導教授がついて研究
をすることができました。もう1つは必修科目が0に
なって、すべて自分のやりたい科目だけを選択するこ
とができたのです。そういう意味で英才教育でした。
ストレートAをとったので、熊本に残してきた恋人を
呼んで、1年生の2学期に結婚しました。一昨日、潮
谷知事と会う約束があって、しばらく時間を費やすた
めに県庁のロビーで待っていたのですが、私の妻も県
庁に勤めていたので、「よくここで待ち合わせをした
な」と感慨深く思いました。
ネブラスカ大学では繁殖生理学という学問を専攻し
ました。とりわけ豚の精子の長期保存をジーママン教
授について研究しました。なぜ豚かというと、牛とか
人間や猿は精子が鈍感なので、30年も50年も保存でき
ますが、豚だけは今もできないからです。豚はとても
繊細な動物です。それを成功すれば巨額の成果を得る
ことができるのです。そして、卒業の時になったとき
に、ジーママン教授が「お前は研究者に向いているか
ら研究室に残らないか」と言ってくれました。これま
では、学問を職業にするということは考えたこともな
かったので、「学問も職業になるんだ、でも一生豚の
精子を見て過ごすのか」と思うと、「本当にそれがや
りたいことか」とまた昔の夢がもり上がってきました。
「本当にやりたいのは何だろう」と。そして、「それ
は政治学だ。政治学を勉強しよう」と思いました。そ
の時には子どもが2人いました。しかし、「政治学を
勉強するにはハーバード大学だ。ハーバード大学に願
書を出そう」と思ったのです。ハーバード大学に願書
を出すときに当時次のようなことを書かねばなりませ
でした。名門の出身かということと、親の財産はどの
くらいあるかということです。ハーバード大学も私立
大学なので億万長者で名門の出身なら入学に便宜を
図ったのだと思いました。「私は日本の水呑百姓の息
子で、親の財産は0だ。ただ子どもは2人いる。だか
ら子どもの生活費が無いといけない」と書きました。
そうしたらハーバード大学から通知が来たのです。妻
から電話が来て、「ハーバード大学から返事が来
たよ」と言うので、「薄いか厚いか」と聞きまし
た。封筒が薄いと、一言「残念でした」と書いて
あります。封筒が厚いと入学のいろいろな手続き
が書いてあるのでだいたい分かるのです。妻が
「厚い」と言ったので、急いで大学から帰って封
筒を見ました。
私にとっても、政治学を全然勉強したことが無
く大学院で博士課程に行くというのは、大胆な決
断でした。でも、ハーバード大学もよくそんな私
を受け入れてくれたなと思います。私の友人でそ
の後ハーバード大学の学部長になった人がいます。
その人に「今でもそんなことは可能だろうか」と
聞いたら、「不可能だ」と言います。「政治学を
一度も勉強したことのない人を博士課程に入れる
なんて想像できない」と言っていたので、幸運と
いったらおかしいし、あるいはそういうのどかな
時代のハーバードだったのかもしれません。そう
いう形でハーバード大学に入学できました。しか
し、ハーバード大だけだと、少し不安なので、専
門の農学部で、ウィスコンシン大学という中部の
名門大学とコーネル大学という東部の名門大学に
も願書を出しました。両方とも合格したのですが、
ウィスコンシン大学の学部長は、私に一生懸命電
話をかけてきて、「自分はハーバード大学の卒業
生だけれども、ウィスコンシン大学の方がハー
バード大学よりいい教育をしている。ハーバード
大学の奨学金よりもっと沢山出すのでこちらに来
ないか」と言って誘われました。しかし、「とに
かく自分は政治学を勉強したい」ということで
ハーバード大学に行きました。これが28歳の時で
す。
<私のハーバード>
ハーバード大学はネ
ブラスカ大学と違って
都市の大学です。ネブ
ラスカ州というのは、
日本の面積の半分くらいありますが200万人くら
いしか住んでいないので、あまり人を見かけませ
ん。しかし、ハーバード大学のあるケンブリッジ
市はボストンに隣接する大都会なので、生活費が
これまでの何倍も上がります。それで、奨学金だ
けでは足りないのでアルバイトをしなければなり
ませんでした。ハーバードの友人は、「アルバイ
トをしていたらとても学業について行けないぞ」
と言ってくれましたが、働かないと家族が飢えて
しまうので、一生懸命にアルバイトもしました。
どんなアルバイトをしたかというと、ボストンは
観光地なので、観光のガイドをしました。
もう1つは、当時の為替レートで日本の円が1
ドル360円から250円位までに上がっていました。
つまり、ドルが下がったのです。そこで私はアメ
リカで売られている日本の切手に注目しました。
つまり、日本の切手がものすごく安く売られてい
たのです。たとえば、明治時代や大正時代の切手
は占領軍がアメリカに持って帰っていました。ア
メリカはとても気候がいいので、保存状態がいい
のです。それがボストンの切手商に沢山集まっていま
した。その切手を買って、日本のオークションで売れ
ばきっと高く売れるだろうと思い、自分の全財産を投
じました。自分の財産はないので、妻の退職金を全部
使って切手を買いました。吹けば飛ぶような切手に全
財産を投じたのですが、ドルの差額で利益を得ること
ができました。たとえば1ドルで買ったエンタイヤー
というものがあります。エンタイヤーというのは封筒
に切手を貼ったものですが、そこに打ってある消印が
とても重要なのです。私が買ったのは、消印が明治時
代の英文の消印でした。それは、日本のオークション
で売ったところ16万円で売れました。そういう形で切
手を売り買いしましたが、これが私の一生で最初で最
後の経営です。
そんな中でも、ハーバード大学では3人の素晴らし
い先生に会うことができました。最初はシドニー・
ヴァーバという有名な比較政治学の先生です。この先
生の「参加と民主主義」というコースをとりました。
ハーバード大学の大学院生は忙しいので、とても人の
ことはかまっていられないのです。私も政治学はやっ
たことがないのに聞くにも聞けませんでした。そんな
時、シドニー・ヴァーバ先生からアメリカの植民地時
代の政治参加を扱った本、ピースフルキングダムとい
う本でしたが、それを来週までに読んで来てほしいと
言われました。さすがにアメリカ人の学生も厚すぎて
1週間では読めないと思って誰も手を挙げませんでし
た。そこで、「自分が手を挙げなければならないか
な」と思い、自信はなかったが手を挙げました。それ
を1週間一生懸命読んで、みんなの前で内容を紹介し
ました。そしたら友人たちが、「お茶を飲もう」とか
「一緒に勉強しよう」と言ってくれたのです。だから、
ちょっと自信がなくても手を挙げなければならない時
があると思います。皆さんも役員に選ばれたときに、
自信がなくてやりたくないと思っても、真っ先に手を
挙げれば運が開けてくると思います。PTAの役員もみ
んなやりたくありませんが、やらなければならない時
に手を挙げなければならないとそのとき分かりました。
ヴァーバ先生は私の指導教授になりましたが、この
先生はとても忙しい人で、博士論文を書くまでに5回
くらいしか会ったことがありませんが、卒業した後で
は一緒に共同研究をしたり、本を書いたりしています。
2002年に私がハーバードに講演に呼ばれた時に、とて
も忙しい中来てくださいました。彼はとても大物教授
なのでなかなかセミナーにも来られません。その彼が
講演の後、つかつかと寄って来て、「君みたいな学生
を指導できてとても誇りだ」と言って抱きしめてくれ
たのです。72∼3歳の男性が55歳の男性を抱くという
のは第三者的に見るとあまり美しいものではないかも
しれませんが、とてもうれしかったのです。この経験
があるので、私も自分の弟子たちを将来抱いてあげよ
うと(女性はだめですが)思っています。
その他、有名な政治学者でサミュエル・ハンティン
トンという人がいます。サミュエル・ハンティントン
は『文明の衝突』で有名ですが、この方が私の書いた
論文(ハンティントン教授を批判する論文でしたが)
をとてもほめてくれて出版すべきだと言ってくれまし
た。これまで、ヴァーバ教授からほとんど指導を受け
ていなかったので、論文をほめられたことで自信をも
つことができました。ハンティントン教授は京都に
講演に来られたことがあります。私は司会をしてい
たのですが、司会をしている私を見て、「今、Ikuo
Kabashimaがあるのは、自分があの論文をほめたか
らだ」とみんなに言われていたので、「確かにそう
だな」と思っています。
もう一人はライシャワー先生で、この人は日本に
駐日大使として来られた有名な日本学者です。この
人も私の指導教授の一人でした。ライシャワー先生
の研究室の前に私の研究室がありましたが、その研
究室はなかなかもらえないものでした。日本からの
有名な客員教授も研究室をもらっていない人がたく
さんいました。もっともこれはライシャワー先生が
くれたのではなくて、ライシャワー先生の秘書のナ
ンシーさんという人がいて、私のことをとても気に
入ってくれて「Ikuoにはこの部屋をあげる」との一
言で部屋をもらうことができたのです。秘書という
のは非常に強いと思います。たとえば、今回の講演
も依頼があった時、秘書がまず受けたのですが、私
の忙しい日程を知っているので、なるべく受けない
ようにしています。しかし、その秘書は熊本と聞い
た瞬間にとてもやさしくなったのです。おかげでこ
の講演が実現できました。そういう意味で、秘書は
とても強いというのはライシャワー先生のケースか
らも分かると思います。
そういう先生方と会いながら、ハ
ーバード大学で勉強してきたわけで
すが、博士号をとるのは結構早かっ
たと思います。ハーバード大学では
博士号をとるのに通常5∼6年かか
ります。特に政治学はそうですが、
私は3年9ヶ月でとることができま
した。別に私が、頭がよかったからではなくて、こ
れも生活の危機があったからです。生活の危機とい
うのは4年間しか奨学金が来ないことでした。私の
場合は2年間奨学金があった後で幸運にもライシャ
ワー先生のおかげで奨学金をとることができました。
2年後奨学金が切れたところでライシャワー先生に
相談したところ、「クレイグ先生に会いなさい」と
言われました。クレイグ先生というのはアジア研究
所の所長でした。彼のところに行ったら「願書を書
いて来なさい」と願書を渡されました。それで、願
書を書いて次の日に行ったら、「もう君に奨学金を
渡すことにした。エンチェン・ジュニアーフェロー
にする」と言うのです。彼が言うには「3つのこと
をやった。1つはライシャワー先生に電話したこと。
もう1つはハンティントン先生に電話したこと。そ
してヴァーバ先生に電話したこと。3人とも奨学金
を出すべきだと言ったのでもう願書も要らない」と。
教育委員会の方もいらっしゃいますが、どうせ奨学
金を出すのだったら、ぐずぐずしないでぱっと出さ
ないと喜びが薄くなってくると思います。そんな訳
で、クレイグ先生が決めてくれて奨学金を4年間も
らうことができました。しかし、4年後はもらえな
いので、その前に博士論文を終わらなければなりま
せん。そのとき子どもが3人いたので数ヶ月前に5
人の家族分の切符を買いました。切符は前に買うと
安く買えますが、その日に使わないと紙くずになっ
てしまいます。だから、その切符を捨てるか博士論
文を終わるかという決断に迫られました。当然、家
族全部の切符を失うと財政危機に陥りますので、そ
のために必死に頑張って、博士論文を図書館に収め
たのは、帰国の2日前でした。そして、帰国の2日
前に博士論文が終わって日本に帰ることができたの
です。日本に帰る時に、いつも奨学金を渡してくれ
ていたアジア研究所のバクスターさんから、「お前
はよく頑張った。観光旅行なんかしたことないだろ
う」と言われました。考えてみると遊ぶために旅行
したことは一度もなかったし、日本に帰ったことも
ありませんでした。そこで、彼がハワイに立ち寄る
お金と家族全部の旅費まで出してくれたおかげで、
途中でハワイに寄って楽しんで帰ることができまし
た。私の次女が結婚した時に「私たちはハワイで結
婚する」と言うので、家族全員でハワイに行って、
あの当時の楽しい思い出を感じて来ました。奨学金
を出す時も、額はあまり多くはなかったのですが、
気持ちが大事なので、その気持ちを大事にするとい
う意味で、ハーバードはとてもすばらしい所だと思
います。今、収支決算をしてみると、ハーバードが
儲かったのか僕が儲かったのかというと、ハーバー
ドが儲かったと思います。みなさんに、「ハーバー
ドはすばらしい」と話をすると、その宣伝効果があ
るので、ハーバードは奨学金の割には得をしている
と思います。
そういうプレッシャーをかけて博士論文を早く終
わることができたのですが、人生にはそういうプ
レッシャーが必要だと思います。プレッシャーをあ
る段階でかけることによって火事場の馬鹿力という
か能力以上の力が出てくるのかなと思うのです。
いよいよ日本に帰ることになりました。ハーバー
ドを卒業する前に2つの大学から来ないかという話
がありました。1つは筑波大学、もう1つはある名
門の私立大学でした。私は、そこの私立大学に行こ
うと決めていました。その私立大学を決めたのは、
誘ってくれた先生がとても有名な先生で、一緒に共
同研究できるからでした。それで、日本には、ある
種の誇りを持って帰ってきました。そして、まず、
高校の先生と周りの友達たちに挨拶に行きました。
しかし、「今度ハーバードでドクターをとって、
○○大学に勤める」と言ったのですが誰も信じませ
ん。それはそうでしょう。友達は、出て行った頃の、
農協でプロパン配達や飼料配達をしていた頃の私を
見ていますし、学校の先生は本当に落ちこぼれの自
分を見ています。卒業式にも出席していませんでし
た。卒業後、母親が保護者召喚になって怒られたそ
うですが、今はそんなやさしい先生だったんだとと
ても感謝しています。そんな訳で、日本に帰って報
告しても誰も信用しないのです。その後、私の友人
がハーバード大学を出て筑波大学の先生になったと
知ったのは、熊日新聞の日曜論壇というところで、
私が1年間書いたことがあったからです。でも、そ
れを見てもまだ信じない人がいて、「あれは私が
知っている蒲島さんじゃないみたいだ」というふう
に熊日新聞に電話があったと聞いています。帰国後
私は、その名門私立大学に勤めるつもりで、誘って
くれた先生と共同研究をしていました。ところが、
ある日電話がかかってきて教授会で否決されたとい
うのです。大学の人事は投票で決めます。そこで、
3分の2以上の票がないと通りません。1票でも足
りないとそれで終わりです。一度教授会で決められ
た人事が覆ることはありません。そして、私のとこ
ろに電話がかかってきて、「3分の2とれなかっ
た」というのです。「何とうまくいかないのだろう。
アメリカからようやくハーバードを出て、帰ってき
たのに、筑波大学は断ってしまったのに、何と不運
だろう」と思っていました。
今、理由を考えてみるとなるほどと思えることが
あります。1つは、いつも共同研究をやっていたの
で、それを同僚になるべき先生たちが見ていました。
そのころ、日本で買った背広はないので、アメリカ
で買った派手な背広を着ていたので、(派手好きで
派手な背広を着ていたわけではなく、それしかない
ので着ていたのですが、)「こんな男と同僚になり
たくないな」と思った人が3分の1くらいいたで
しょう。それから、人事をするときには投票の前に
経歴が出ます。それから業績表が出るのです。それ
を見ると、まず農協職員から始まっていて、次に農
業研修生、そして、ネブラスカ大学の畜産学です。
それで、ハーバード大がきているけどなんかうさん
臭いなと思ったかもしれません。それで、3分の2
取れなかったのです。そのような形で、最初の方の
志望大学はだめだったのですが、筑波大学に行って
「申し訳ないけれども、もう一度考え直してほし
い」と頼みました。普通だったら、一度断ったら絶
対大学側は考慮しません。しかし、よくぞ筑波大学
は考えてくれて、講師、助教授、教授、研究科長と
順当に進むことができました。
ちょうど11年前の8月に今は退職されましたが、
前東大総長(法学部長)だった佐々木毅先生から来
てほしいと電話がありました。「政治過程論の教授
としてあなたを迎えたい」という話でした。それで、
私は家に帰って家族と相談しました。娘3人は「お
父さんは筑波大学が似合って
いるから東京大学には行かな
い方がいいよ」と賛成では
ありませんでした。しかし、
筑波大学に17年いたので長
すぎるなと思っていました。
大学で人事は極秘事項で
す。大学の人事は、行き先の大学に割愛願いを出し
て、それに応じるかどうかを教授会で審議する時初
めて外に漏れます。みんながどこ何処に行くんだと
分かるのです。私の場合は、筑波大の同僚の1人が
読売新聞の記者にそれを漏らしたものだから、読売
新聞が特ダネ5段抜きで社会面に次のように書きま
した。「農協職員→米留学→豚の精子研究→政治
学」と。
私は東京大学に呼ばれた時、次の学期から政治過
程論という授業を担当しました。政治過程論という
のは日本の政治をさまざまな観点から分析、講義す
るというものです。私は25回の100分授業を1学期行
いました。大体2∼300人の法学部の学生がこの講義
をとります。これは法学部の専門科目として最初の
講義なので、みんな一生懸命勉強します。私はマス
コミから前に述べたような捉えられ方をされていたの
で、学生はどんなことを思っているだろうと思いなが
ら授業をやっていました。ただ、授業をするときに私
は120%の準備をしていました。120%とはどこから来
るかというと、ネブラスカ大学でA(90点)をとるため
には、100%準備してもだめです。120%準備して初め
て90点取れるのです。だから私も、本当に一生懸命準
備をしていって、25回の講義を終わりました。それで、
25回目の講義では、「国際化の中の日本の政治」とい
う授業をしました。そうしたら、終わった後で大きな
拍手をしてくれたのです。その時に、「東大の学生は
なんと優しいのだろう」と思いました。それまで、大
学の講義で拍手されるなんてことはありませんでした。
みなさんは講義で拍手をしたことがありますか。それ
があってから、一挙に東大法学部の学生を愛するよう
になったのです。
<参加民主主義とエリート民主主義>
私は政治学者なので、民主主義における政治参加と
いうものを研究していますが、これは最初にシド
ニー・ヴァーバ先生からとった講義内容です。民主主
義理論には2つの民主主義があります。1つはエリー
ト民主主義、もう1つは参加民主主義です。エリート
民主主義はエリートに政治を任せるという理論で、あ
んまりたくさんの人が政治に参加すると社会が混乱す
るというものです。だから、日本ではこのエリート民
主主義的な考え方が強いのです。たとえば、お上に任
せるとか、長いものには巻かれろとか、出る杭は打た
れるという言葉があります。しかし、私はその立場は
とっていません。私の立場は参加民主主義という立場
です。これを教育的に置き換えると次のようなことが
言えます。
私の高校時代に原口先生という考古学者がおられま
した。私は、高校時代勉強しなかったので落ちこぼれ
だったのですが、原口先生は考古学クラブを作ってそ
んな私たちにも参加の機会を与えてくれました。原口
先生は3つのことをやっていました。1つは人をほめ
ること。だから私にも「ちゃんとやれば伸びるのに」
といつも言っていました。
それから、なるべくみんなに参加させること。勉強
を教室で教えるというのは、たくさんのことを教えら
れるかもしれませんが、参加して自らの足で学ぶとい
うのが方針でした。それから生きた証として何か残し
ておくという教育方針でした。私もクラブ活動に参加
しましたが、私に与えられた仕事は測量の仕事でした。
考古学クラブにいた人はわかると思いますが、測量は
あまり面白くありません。やっぱり石棺を開けるのが
一番面白いのです。しかし、原口先生が言われたのは、
「測量の仕事は地味だけれども、君が測量した地図が
後世に残るんだから間違いない地図を描くように」と
真剣に述べられていました。
実践的参加民主主義を教育に置き換えると、私は、
参加させほめる。そして、生きた証を世の中に残して
おくということではないかと思います。確かに自分も
学校時代のことを考えると、遠足に行ったこと、学芸
会ですずめの役をやったこととか、(主役じゃないの
で、舌切り雀のチュウチュウというせりふだけでした
が)よく覚えています。それから、運動会とか、そう
いう参加したことはよく覚えています。
また、自分の小学校のときの先生は小材恵子先生
といって、小材学さんという熊本政界の大立者に
なった人の奥さんですが、その方がよく菜の花畑に
連れて行ってくれました。菜の花畑で蝶をみんなで
追うわけですが、生徒たちが中に入っていくので、
ある時、その畑の持ち主がものすごく先生を怒った
のです。その時涙ながらに先生が謝られていた姿を
今でも鮮明に覚えています。そういうふうに鮮明に
覚えるというのは、時間の無駄みたいだけれども、
自ら参加したからです。私はみなさんにできれば参
加型の教育をしてほしいなと思っています。
私も東大ではゼミを持って
いますので、そこでは、参加
型の教育を行っています。ゼ
ミでは20人しかとることがで
きません。そこで、法学部の
中で非常に成績のいい子を1/3、
真ん中くらいの子を1/3、そう
でない子を1/3とって、1997年にゼミを開講しました。
ゼミのテーマは新党の研究でした。日本新党とか新
進党とか新生党とかそういう政党がいっぱい1990年
代に出てきました。それがあるうちに記録をとって
おかないと資料がなくなってしまいます。そこで新
党全記録という研究を行いましたが、本当によく頑
張って3巻本で1200ページの本を出版しました。今
ではそれを読まないと研究できないほど重要な本に
なっています。そこで私は、どうしてできない子も
選んだかというと、できない子はなかなかゼミに参
加できません。だからその人たちも選んで新党全記
録を書いたのです。今、その中で官庁に行っている
学生がいますが、成績の悪かった彼が「何で私を選
んだんですか」と聞いてきたことがあります。「見
込みがあったんじゃないの」と言いました。でも、
彼はとても立派な官僚に育っているので、すばらし
いことだと思います。彼らをほめて新党全記録を出
版しました。それ以来私のゼミでは毎年本を出すの
が恒例になっています。
私は最近、教育の極意とは何かを考えています。
弓の達人がいますが、弓の達人は昼だったら的に当
たります。本当の達人は、夜でも当たります。もっ
と達人になると、弓を捨ててしまいます。だから私
は教育の極意とは何も教えないことだというふうに
感じていますので、最近はゼミでは一切発言しませ
ん。私はテーマを設定することと、そこに君臨する
ことだけです。何もしゃべらないから学生たちは自
主的にやります。学生たちが自分たちの本だと意味
を本当につかむのは、私が何も言わないからです。
私に頼ったら本はできません。本を出版するのは大
変な作業です。それで、ゼミ生たちは私が何も言わ
ないのが当然だと思っています。私は授業に行って
1時間半座って「時間だから帰る」と言うと、ゼミ
生たちはそれから延々とやっています。そういう意
味で、学生の自主性をどのくらい尊重するか、どの
くらい参加させるかと目標を持たせるかというとこ
ろに教育の重要性があるのかなと思います。皆さん
は教育指導をここからここまで教えなければならな
いと指導されていると思いますが、一度何も教えな
いでやってみたらどうでしょうか。
この学生たちがよく育ったなと思う出来事がありま
した。私の母親の葬式が1週間前にあったとき、もち
ろん学生たちには何も知らせていないのですが、葬儀
場に行ったら1期から7期までのゼミ生からそれぞれ
生花が出ていました。僕が死んだ時、生花が出ても不
思議ではありませんが、20歳代の学生がそこまで人の
気持ちを配慮できる人間になってくれてうれしいなと
思いました。それで、蒲島門下生とか蒲島○期生とか
並んでいたことにとても感銘を受けたのです。そうい
う優しい子に育ってくれたからこそうれしいと思いま
した。
いくというのが、人生ではないかと思っています。
だから小さな舞台だと思って、期待値を超えないと
そこで留まってしまいます。期待値を超えてという
のはこの小さな舞台を大事にしていくということで
す。そして、その期待値を超えながら夢の達成に向
かっていくということ。期待値を超えると自分だけ
でなく周りの人もうれしくなります。先ほど言った
4組から初めて50番以内に入ったために、私の友人
たちも担任の先生もとても喜んでくれました。残念
ながらすぐその期待値を裏切ってしまったのがその
後の経験ですが、いずれにしてもそのことがとても
大事なことだと考えています。そういう意味では
「期待値を超えて」という言葉は、私が常に考えて
<Above the Expectation>
いることです。今日はみんなの期待値を超えて生活
私はこれまで60年間生きてきましたが、
できたのかなということをいつも考えています。と
そのバックボーンというか、どのように
ころが、次々に期待値を超えていくと、次の問題を
生きてきたかを最後にお話したいと思い
超えるのがとても難しくなります。そんな問題が出
ます。これは私のオリジナルですが、
てくるでしょう。だから最近は、この期待値を超え
Above the Expectationといいますが、日本語で言う
てという言葉は誰からも期待されない人の方が幸せ
と「期待値を超えて」ということになります。これは
なのかなと思うのです。なぜかというと、ちょっと
どういうことかというと、たとえば自分の例で言うと、 でも期待値を超えるとみんなが喜んでくれるのです。
私は、原口先生の授業を受けることで、原口先生が教
たくさん期待されている人はそれなりに大変でしょ
えている日本史にとても興味を持ちました。当時は1
うが、まったく期待されていない人は幸せです。今
組2組3組4組とありましたが、大体1組の人が50番
日から期待値を超えて、自分の家族、自分の生徒た
内に入ってそれが廊下に貼り出されます。そこで、ほ
ち、あるいは自分の同僚、その人たちの期待値を超
かの組からとりわけ4組から50番内に入るというのは
えるために少し努力する。期待値が高まっている人
奇跡に近かったのです。それでもあの時、原口先生に
はこれからも頑張らねばならないでしょうが、期待
影響を受けて日本史だけを一生懸命勉強しました。そ
値がない人は超えるべき喜びがあります。私が言い
れで、他の教科はとても悪かったけれども日本史が良
たいのは、期待値がない人は、むしろ幸せだと思っ
かったので50番以内に入ったことがあります。そした
て今日から頑張ると、これからの人生はとても輝き、
ら、担任の先生が「よく50番以内に入ってくれた」と、 そして喜びに変わるのではないかというふうに思い
とても喜んでくれました。少し皆の期待値を上回ると
ます。期待値を超えて最後まで行った人はどうなる
いうのが人々を幸せにすることかなと思います。これ
かといったことについては、後でまた述べたいと思
がAbove the Expectationです。クラーク博士のBoys
います。
be ambitious という言葉があります。しかし、私は
だんだん時間がなくなってきましたので、次の4
Above the Expectationという言葉が私のバックボー
つのポイントで今日の話を締めくくりたいと思いま
ンになっています。クリントン・フーバーさんが帰っ
す。
てきていいよと言ってくれたのも彼の期待値を少し超
第1は、逆境にあればあるほど、未来の可能性は
えていたのかなと思います。あるいはハドソン先生が
大きいということです。これまでの私の60年の生き
不合格を合格にしてくれたのもやはり下手ながら一生
方のように、水面下の高校の落ちこぼれから東大法
懸命通訳をやったことが彼の期待値を超えたのかな、
学部教授までいくのは、喜びは大きい。今考えてみ
あるいはネブラスカ大学からハーバード大学に行けた
ると、一番下の舞台から行ったことによって、人生
のも先生たちの期待値を少し超えたのかな、また、東
がとても充実しており喜びも大きい。だから、今の
大に呼ばれたのも東大の先生たちの期待値を少し超え
立場が悪くても、悪ければ悪いほど、逆境であれば
ていたのかなと思います。そのように期待値を少し上
あるほど、未来の可能性が大きいということを私の
回ったことが、自分の夢の達成に結びついているよう
人生の経験から思っています。これは皆さんにもぜ
な気がします。
ひ聞いてほしいのですが、皆さん自身もそこから考
人間というのは、舞台がたくさんあります。私の最
えたらいいし、生徒たちも、今の立場が逆境にあれ
初の舞台は農協職員から入っています。そして次に農
ばあるほど、彼らの未来の可能性は高いんだ、大き
業研修生になって、次にネブラスカ大学、ハーバード
いんだと、そういう目で見てほしいと思います。
大学それから筑波大学、東京大学という形で進んでき
第2に、人間の可能性というのは無限大というこ
ましたが、この最初の舞台は見ている人がとても少な
とです。高校時代に落ちこぼれで、農協でプロパン
い。それから、その舞台はとても小さい。しかし、そ
配達をしたり、肥料配達をしたりしていた私が、30
の舞台をおろそかにしたら、そこでの期待値を上回ら
年後に法学部の教授になるというのは、普通は
ないので次の舞台が用意されません。次の舞台も小さ
ちょっと考えられないでしょう。でも、人間の可能
くて見ている人は5∼6人でしょう。そうすると5∼
性はそれほど無限大ということです。そういう意味
6人の人が次の舞台を用意してくれます。そういうふ
で、皆さんは自分たちの生徒を見るときに、まず今
うに小さな舞台だけど、どんどんどんどん用意されて
の立場今の力をもとに教育することなく、人間の可
能性は非常に無限大であるという気持ちを持ってほし
いのです。そうすることで教育の喜びが感じられると
思います。第3は、人生に「夢」を失わないことです。
私がアメリカに行こうと思ったのは牧場を開きたいと
いう夢があったからです。それから、ハーバードに
行ったときは政治を勉強したいという夢がありました。
この夢が何によって育てられたかというとそれは「読
書」ではないかと思います。読書で外の世界を知るこ
とができました。たとえば『プルターク英雄伝』を読
むことで、シーザあるいはローマの偉大な政治家の足
跡を知ることができました。そういう読書、これがと
ても大事です。それから、「参加」したことです。た
とえば私が阿蘇の大平原で牧場経営をしたいと思った
のは、やはり学校の小旅行で大観峰や草千里に行った
ことが大きいのです。そういう意味では参加したりさ
せたり、あるいは読書したりすることによって夢が育
てられます。それを切り捨てる教育はよくないと思い
ます。私も学生にはそういう本を書かせる夢とか、あ
るいは自分の本が50年後に使われるとか、あるいは自
分の東大生として生きた証を残しておくとか、そうい
う形で彼らに夢を与えています。それが偉大な力を発
揮します。また、偉大な力だけでなく、これは共同作
業なので、他者に対する配慮がとても出てくるのです。
私の学生は公務員試験や司法試験を受けますが、試験
を受けながら遅れている友達の作業を手伝ったりしま
す。「先生、すみませんが明日は公務員試験なので今
日は早めに帰らせていただきます」というくらいみん
なとの作業を最優先させます。そういう夢を育てる教
育をしてほしいと思います。これは文科省の指導要領
には載っていないと思いますが、実はそんなことが大
事です。「夢」とか「参加」とか「読書」とかそうい
うことをさせてほしいと思います。でも夢を持つだけ
では何も起こりません。夢を持って「1歩進む」、1
歩踏み出さないと何も起こりません。私も夢はたくさ
んあったが、1歩踏み出しました。牧場を開きたいと
思ったときにアメリカに行こうという夢があっても、
普通はそこで終わるのが多いのですが、それを1歩踏
み出しました。あるいは政治を勉強したいときに子ど
もが2人いてとても不安定で、ハーバード大学の政治
学の世界という知らない世界でしたが、そこに1歩踏
み出したら大きな化学反応が起きました。東京大学に
行ったときもそうですが、1歩踏み出すということが、
とても重要だったと思います。だから、夢を失わない
こと、夢をどうやって持つかということ、そして1歩
踏み出すということの重要性をぜひ皆さんも自分自身
として、あるいは自分の生徒さんにそれを体験させて
もらいたいと思います。
第4は、先ほどのAbove the Expectationです。期待
値を超えて、期待値がどんどん高まってくると、それ
を超えるのは大変です。しかし、最後に期待値を越え
てしまうと、もうライバルとの競争であるとか、誰か
との競争であるとかそのようなものではなくなります。
次に来るのは自分との戦いです。それは柔道の「道」
の世界だと思います。ライバルということを意識しな
い自分との戦いです。おいしいものを食べたいとかい
ろんな物欲誘惑を避けて、学問を究めたいという自分
の人生はなかなか楽なものではありません。みなさん
も教育者として期待値を超えてしまった人がいるでし
ょう。そういう方は次の世界は教育道の世界です。
道の世界は達人の世界なので、後進の教育とかそう
いうところに大きな意味を見出すと思います。そう
いう道の世界が私にも待っているので、これからも
私の戦いは続いていくのかなと思っています。今日
は私自身の60年の経験を踏まえながら、「運命を拓
く夢と教育」というテーマでお話ししましたが、私
がここに来て話したことによって、皆さん自身のこ
れからの生き方に少しでもプラスの影響を与えるこ
とがありましたら、とてもうれしく思います。最後
に次の言葉で締めくくりたいと思います。
Ladies & gentlemen, Be Above the Expectation!
ご清聴ありがとうございました。