20160820 1nen-kouenkai

演題
「親が子に残せる唯一のもの」
洛南高等学校元教務部長・総合企画部長
洛南小学校初代校長
白潟
一則先生
私は大学を卒業して5年間商社に勤め、その後、ご縁がありまして、38年間、洛南高校で数学
を教えました。最後の5年間は、いろいろと学園の仕事をしたり、小学校設立の仕事をしたり、そ
の関係で校長になったのですが、高校の数学の教師として採用されたのであって、小学校のことは
何もわからない。とりあえず、私のあと支障がないようにして、勤めを終えました。今は、先ほど
の紹介にもありましたように悠々自適、と言いたいところですが、そうでもありません。
さて今日は、演題をいただきましたのは、「親が子に残せる唯一のもの」ですけれども、これは
何事かとわかりやすく言いますと、たとえば、山で木を植えて、それで生計を立てている人たちが
いる。この人たちは、自分たちが植えた木で生計を立てているわけではありませんね。先祖、何代
か前の先祖が植えて大きくなった木を大事にして、切って、それで暮らす。そして自分たちも植林
して、それが自分たちのものになるわけではないですね。それは、また何代か後の子孫のための植
林である。共通するものがあると思うんです。教育もそういうものであると思うんです。
ゴンドウクジラの仲間がいますが、人間以外でゴンドウクジラの仲間だけ、おばあさんが孫を教
育する。孫を連れて泳ぐ。人間以外の動物では、おばあさんが孫を教育するのはゴンドウクジラし
かいない。人間が長生きできるようになったのは、その知恵ですね。親が外に出て食べ物をもって
帰る。子どもの面倒はおじいさんおばあさんが見る。そうすることによって、長寿というものを獲
得していくわけです。
ところで、私の話はころころ変わる。だいたい3分の2から4分の3は嘘ですが(笑)。話は変
わりますが、子どもたちが今、どんな季節を生きているのか。長い目で今を見てみましょう。季節、
春夏秋冬。季節には色があります。みなさんもちろんご存知とは思いますが、春は青ですね。青春
です。夏は、高校生のお子さんをお持ちのみなさんは、まだ青春の終わりか夏の入口ぐらいかもし
れませんが、朱夏。あかですね。そして、やがて働き盛りの朱夏から、少し落ち着いてきますね。
白秋。秋の色は、白です。そして、私なんかは、白秋でしょうか。それとも次の色でしょうか。冬
は、玄冬。冬の色はくろです。青春、朱夏、白秋、玄冬、こういう色があるわけです。
高校一年生の子どもたちは、もちろん、青春ではありません。青春を思う、春を思う季節に、今
いるわけです。思春期です。だいたい高校一年生、みなさん方のお子さんぐらいが思春期真っただ
中。青春だなんて思い上がりです。思春期とはどんな季節か。これは聞いた話ですが、思春期とは、
毛が生える、芽生える、という時期らしい。だから、むずがゆい。むずむずする。電車の中で股を
広げているのは当たり前だという話を聞いたことがある。まだ蕾が土の中から出かかって、ムズム
ズしている、それが思春期なんだ。ということを聞いたことがあります。
私は残念ながら、男の子しか受け持ってこなかったので、女の子のことはよくわからないんです
けど、だいたいこの時期は反抗期です。反抗期というのは幼児期にもありますね。大暴れして「ギ
ャー」となりますね。三歳、四歳、五歳ぐらいのときですね。この反抗期、ものすごい激しいもの
です。これがなかった子が問題をおこす。反抗期というのは、われわれには六識があります。六感
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ですね。そこを越えて、七番目に「末那識」というのがあります。これは、「自分が自分が」とい
う意識。「自分が自分が」というのが芽生えてくる季節なんです。幼児から幼児でなくなる、その
橋渡しをする時期なんです。その末那識の芽生えといいますか、発露が、反抗期。
そして、二番目に中三から高三にかけてなんですけど、ゆるやかだが、しかしものすごく長い期
間の反抗期がある。これは、母親からの独立の時期です。だから、そのころは、男の子は(女の子
についてはわからないが)、母親が憎くて汚らしいものに思えて、「はよ死ね、ばばあ」という感
じに思っている。これはほんとに事実そうなんです。これが母親から独立する時期で、それが終わ
ると、ものすごくお母さんに優しくなる。か弱い人間、女性で一番守らなければならないのが自分
の母親だと気付くようになる。というのがだいたい自然な流れなんですが、それからは、父親の背
中を見て歩くようになる。最近は父親が母親化しているが、これまではそういう流れだったんで
す。子どもたちは今、思春期で、幼児期の反抗期とは違って、母親からの独立の時期です。
その子どもたちを、われわれは見守って、親として、(だけでは)ダメなんですね。学校として、
(だけでは)ダメなんですね。学校と親が協力してやらなければダメなんです。これがうまくいけ
ば、ものすごく上手に子どもたちを育てることができる。子どもたちは反抗期の中にあるのです
が、自分がやらなければならないということは、少しずつ自覚していきます。ところが、なかなか
やらない。いつになったらやるんだろうとお父さんやお母さんが見ていて、簡単な話、
「勉強せえ」
と言えばやらなくなる。これは簡単な話。それでなくてですね、自分で気が付いてやり始める時期
が必ず来るんですね。それがいつになるか。たとえば、働きアリや働きバチというのは、こないだ
までは、3割は働いて7割はさぼっているというようなことが言われてきたが、最近の新しい研究
では、実際は1割くらいしかまじめに働いていないということがわかってきたそうです。残りの9
割はさぼっている。
今、みなさん方のお子さんは一生懸命やっているのかさぼっているのか。アリや蜂の場合、なぜ
さぼっているかと言ったら、外に働きに出ているやつらが、疲れ果てて働けなくなったら、休んで
いたやつが代わりに出るんです。それから、外敵に襲われて帰ってこなくなったら、そしたら、遊
んでいたやつらが働きに出るようになる。つまり、どういうことか。人間も同じなんです。今、適
当に遊んでいる人も、必ず、時期が来たら動き出す。
まじめにやっている生徒を集めたクラス、さぼっている生徒を集めたクラスを作ったらどうな
ると思いますか。まじめにやっている子の半分はやっぱりさぼりはじめる。さぼっている子の半分
はまじめにやりはじめるんですね。面白いですね。そういう実験をしたことがある。これは内緒で
すよ(笑)。
そういうことで、どこかの時期に必ずやりはじめる。それを気が付かせる、ということが今求め
られている。それがわれわれの仕事である。保護者の仕事であり教師の仕事である、ということに
なるんでないかと思うんです。だからわれわれは、大学だけを言うのでなくて、子どもたちがいつ
か必ずやり始める、その機会が早くなるようにいろいろと工夫しなければならない。親も勉強しな
ければならない。子どもの小さいころには読み聞かせなんかしますが、少し大きくなったら、「本
読め。」という親がいる。親が本を読んでないのに、子どもが本を読むわけがない。ところで、親
の中にね、子どものころ、「本読め。」と言っても「算数せえ。」という親はいませんね。それで
いて高校生ぐらいになって「先生、うちの子算数できないんです。」と言ってもね(笑)。
子どもたちを、温かい目でみていただければ。愛。愛情をもって、見守ってやる。温かくくるん
でやる。高校三年生になったら、受験勉強が始まりますね。絶対にお母さんは、子どもが寝るまで
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寝ない。無理やと思いますけど(笑)。夜食は必ず作ってやる。まあ、何かしら温かい目で見守っ
ていくことというが重要なのではないかと思います。
「愛情とはなんであるか。」これはマザーテレサがノーベル賞をもらったときのことばでありま
すが、愛というのは非常にむつかしい。なかなか言えない。けれども、愛の反対を考えたら簡単だ。
マザーテレサは言ったんですよ。愛の反対は「無関心」だと。関心を持たないことなんです。そう
すると、そこから、愛というのは、関心を持つこと、つまり「いつでもあなたのことを気にしてる
んやで。」ということをわからせるのが愛情だ、ということになってくるんです。そのような、か
まうのでなくて「常に見てるで。」というものが必要なんです。今の子どもたちが非常に怖がるの
は二つありまして、一つは「おばけ」なんですけど、もう一つは無関心。無関心をものすごく怖が
ります。
ところで、タキイ種苗というのをご存じでしょうか。種のタキイです。あそこの植木の師匠が言
っていたんですけれども、これはどちらかというと保護者向けというよりも先生向けのことばか
もしれないが、「水やり3年」ということばがある。花に水をやり続けて、3年間毎日毎日水をや
り続けて、水のやり方がわかるのに3年かかる。われわれは、すぐ花に水をやろうとする。ところ
が、タキイさんはそうではなくて、水は土にやる、土に水をやらないといけない。花に水なんかや
るな。それがわかるのに3年かかるということなんです。ちょうどこれから3年間ですね。みなさ
ん方のお子さんは高校一年生。これからちょうど3年間、先生方が土に水をやるような教育をして
いってもらいたいと思います。
さて、高校三年生になったら子どもたちは必ず後悔します。高校三年生で後悔しない子どもはい
ないんです。ものすごい勉強していた子でも、あのとき、一年生の時にもっとやれたはずやのに、
なぜやらなかったのかと後悔する。さぼっていた子はさぼっていた子で、なぜやらなかったのかと
後悔する。高校三年生になって受験というものが迫ってくると、必ず後悔する。その後悔を少しで
も少なくするというと変な話ですが、後悔は絶対するので、十分勉強できる環境を整えておかなけ
ればならないのがわれわれの仕事ではないのか。
弘法大師空海、(私は東寺の中にある洛南高校で育っておりますので)空海について勉強さして
もらったのですが、洛南高校の前身は綜芸種智院という、庶民のための私立の学校であったと言わ
れています。いろんな変遷を経て、今は校地を分けまして洛南高等学校と種智院大学に分かれてい
るわけですが、その綜芸種智院を設立したときに弘法大師が設立趣意書といいますか、そういうも
のを残しています。『綜芸種智院式並序』というもので、その中に教育の根本は四つあると。「処」
「法」「師」「資」。この四つが教育の根源をなしているものであると。
「処」というのは、子どもたちの勉強できる環境です。環境がよくなかったら、要するに汚い場
所で勉強できるわけがないんです。 子どもたちに勉強部屋を作っていますか。勉強部屋は作らな
くていいんです。作ってもいいけれど、勉強させるのはリビング。居間でさせる。自分の部屋にい
て勉強しているわけがない。遊んでいるにきまっています。100パーセントですよ。だから、お
父さんが酒飲んでテレビ見ていてもいいんです。その横で勉強させる。そういう場、場所、環境を
作ってあげる。勉強する環境。それは、いい場所、勉強部屋を与えるという意味ではない。勉強で
きる場所というものを整えてあげなければならない。
「法」というのは、これは米原高校におまかせすればいい。米原高校の先生方は、ご存じのよう
に優秀な先生方がそろってます。その道のプロです。間違いない。それを全面的に信頼する。勉強
させないでおこうと思ったら簡単なんです。先ほども言いましたけど、子どもに「勉強せえ。」と
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言えばしなくなります。もっと簡単なのは、子どもの前でお父さんの悪口を言う。学校の悪口を言
う。先生の悪口を言う。子どもの前でですよ。子どもの前でそれを言ったら、絶対勉強しなくなる。
勉強させるのはむつかしいけど、勉強させないのは簡単。信頼しなくなる。そういうことなんです
ね。「うちの担任は、お前の担任は、めちゃすごい先生なんや。絶対にいい先生なんやから、つい
ていこう。」「米原高校は、滋賀県どころでないんや。日本で一番いい高校なんや。」そのように
言えばいい。ほめてやる。子どもをほめるんじゃない。先生と学校をほめたら、子どもはうれしく
なるんです。自分の行っている学校をほめてもらったら、気持ちがあったかくなる。嫌とは言いま
せんよ。
それから、三つめは「師」。これは先生のことですね。
最後の「資」はお金のことです。教育にはお金は惜しまない。私がいたときに洛南高校にいた校
長先生で私が習った先生は、「お母さん方はほんとにいい<おべべ>を着てですね、高い腕時計を
して、子どもは<ちびた鉛筆と消しゴム>を使っているというのはおかしい。もっと子どもにお金
を使いなさい。」とおっしゃった。今はスマホを持たせる。スマホを持ったら勉強するわけはない。
自分が就職してお金をかせいで仕事を始めてから買ったらいいんです。ああいうものは与えては
いけない。それを実践していけばいい。スマートフォンの前はゲーム機だった。私が洛南高校に入
ったころはゲーム機もなかった。ステレオがはやっていた時代なんです。音楽を聴きながら勉強し
ている。そのあとコンピューターが出てきますね。あるお母さんが、子どもに怖くて言えないか
ら、キーボードを私に預かってくれといった。その後返していない。どうなったんでしょう(笑)。
お金の使い道を誤ってはいけません。
「処法師資」については、今日は時間がなくて話しきれません。これだけ話しても2時間はかか
るので。「処」は、勉強部屋は与えてもいいが、リビングで勉強させるということ。「法」は、本
物の教育は米原高校にあるんだということ。「師」は、先生です。さっきも言いましたが、勉強さ
せなくするには、学校や先生の悪口を言う。そうじゃなくて、先生はほんとうに優秀だと子どもに
言う。それから、お金が「資」。そういえば、スマートフォンの前にバイクもあった。バイクを買
ってくれたら勉強するという。買ったら、勉強するわけがない。
大事なのは、子どもたちをどういう環境に追い込んでいけばいいのか。つまり、働きアリ、働き
バチのような、働く子に少しずつ追い込んでいくには、どうしたらいいかという話になるんです。
そのためには、先生と学校と親が、連携して、「お前を常に見ているんだ。」というふうに子ども
に思わせる。子どもたちは、家で悪さしたらすぐ学校に知れてしまう。それから、学校で悪さした
らすぐ家庭に連絡しますよね。そういう連携。連携をもって、子どもの逃げ場所をなくしてやる。
これが非常に大事なことでないかと思いますね。
そして、その子どもたちを見る目は、さっき言いましたように、「関心を持つ。」ベタベタした
愛情ではなくて、つまり無関心の反対です。関心を常に持つ。夫婦の関係でもそうでしょ。そんな
ベタベタと「愛してる。」なんて言いませんよね。それでも、関心はあるんです。お父さん、いつ
の間に帰ってきたんや、なんてことではないんです。常に関心を持っている。関心を持つだけで、
それが愛なんです。子どもたちに、「常に関心を持ってるんや。」と思わせる。そしてその関心は、
「保護者と学校が連携して見守っているということなんや。」と思わせる。
だから、三者面談というのは、私は大嫌いです。三者面談というのはですね、先生と親と子ども
の三人で面談する。親は子どもの前で、自分が思っていることを絶対に言いません。子どもを恐れ
ている親は、子どもの前ではいいことしか言いません。子どもに高圧的な親は、先生の前で子ども
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を叱る。これでは面談ができない。だから、本当の面談というのは、親と先生だけで、子どもをど
うやってだまくらかしていくか作戦を練る場。作戦会議の場なんです。子どもたちも先生と面談す
るんですよ。そして最後、センター試験が終わったぐらいに最終の進路先を決定していくわけです
けど、親の意見も聞き、子どもの意見も聞き、それぞれと面談をして、そのときに意見が合わなか
ったら初めて三者面談が成立する。私はそういうふうに考えています。
今まで私は長いこと教師生活してきましたが、三者面談を一回もしたことがないです。保護者と
は面談しました。「反抗期で暴れている。どうしましょう。」のこぎりで柱を切っている。やっぱ
り、小さいころの、三歳、四歳、五歳の反抗期がなかった。ものすごいいい子だった。そういう子
は暴れるととんでもなくなる。そのうち物を投げるようになった。物を投げる子については、物の
投げ方をよく見ていてください。家の内側に向かって投げるときは反抗期。家の外側に向かって物
を投げる子は病気。見たらわかる。だから、内側に向かって何を投げてもかまわない。柱を切ると
いうことはものすごく恐いですけど、家の中のことです。これは反抗期。病気じゃない。
その子も、大学を卒業してからは、ものすごい親孝行になった。遅い。けれども、ほんとにいい
子になった。いつ気付くかは人によって違うんですね。その子は反抗期が大学が終わるまで続いた
んです。同じように、勉強する時期も人によって違うんですね。「ごろん」と変わるんです。
最後に、山本五十六さんの話をします。これまで言ってきましたように、保護者と学校とが連携
して、温かい目で、関心を持った優しい愛をもって子どもたちを見守っていくかなければならない
のだと思うんですが、山本五十六という人は、艦長さんなんですけど、艦長仲間が彼に向かって聞
いたのですね。「君は部下を実に上手に育てている。何か秘訣があったら教えてほしい。」山本五
十六はすかさず「目で見せて、耳で聞かせて、してみせて。ほめてやらなきゃ誰がする。」こう言
ったそうです。子どもたちというのは、ほんとに、われわれのお手本になっている。先ほどもちょ
っと言いましたが、本を読まないお母さんの子どもは本を読むわけはない。「目で見せて、耳で聞
かせて、してみせて。」実践せなあかんのです。そして、ほめてやらないと。あのね、なんぼ悪い
子でもほめてほしいんです。あるとき、成績が「がーん」と下がった子がいた。お母さんと面談す
る。「まあどうしましょう。」ということになる。ところがね、生物の点だけ中間試験20点で、
期末試験が25点なんです。他の科目は全部点数が下がった。「お母さん、生物ほめてやって。そ
れしかないわ。」と言いました。何でもいいからほめてください。「ほめてやらなきゃ誰がする。」
「目で見せて、耳で聞かせて、してみせて。ほめてやらなきゃ誰がする。」これが、山本五十六の
部下の操縦法であるということですが、教育にも通じるものがあるのではなかと思います。
さて、いま、みなさん方のお子さんは、一年生の中間考査、期末考査が終わって、高校というの
はちょっと中学校と違うということが分かりだしたころだと思います。一区切りついたところで
すね。今までは入門です。これからは、米原高校についていく。米原高校の方針についていく時期
が始まります。後ろをついていく。そして、米原高校生になっていく。二年生の時期というのはど
ういう時期かというと、これは、米原高校とともに歩んでいく時期。一緒にやる。勉強でもそうな
んです。先生の言うことを聞いて、必死になってついていくのが一年生。先生の授業と同時並行で
やれるような感じになってくるのが二年生。順調にいってですよ。三年生は、これは追い越してい
く時期。
先生というのはですね、たとえば40人なら40人いますと、どうしても真ん中より下の方に照
準を合わして授業せなあかん。上に照準を合わして授業したらどういうことになると思いますか。
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誰もついてきませんよ。下に照準を合わして授業したらどういうことになると思いますか。上の子
は、学校をいっさい信用しなくなります。真ん中あたりに照準を合わして授業して、それで、よく
できる子にはよくできる子に対する課題を与えながら、できない子にはできない子でフォローし
ながら授業を展開していく。
だから、一年生のときには、ついていく。二年生のときには、ともに歩む。三年生になったら、
追い越していく。そういうような生活がこれから始まっていくんだと思います。しかし生徒には思
春期という反抗期の気持ちもある。非常に難しいですね。さぼりたいという気持ちもある。スマホ
を見て遊びたいという気持ちもある。そこらへんをどう彼らはやっていくのか。
それには、高く目標を掲げることですね。高い目標を掲げなければならん。一流の努力をする。
ところで、桐生選手というのは米原出身ですか?
<注:彦根出身の陸上選手。2016 年夏リオネジャネイロ
オリンピック日本代表。>彼は、私の高校の卒業生です。彼は一流の努力をした。一流の努力をしなけ
れば一流の選手にならない。勉強でもそうです。一流の努力をしなければ一流の大学には入れな
い。これは、ある囲碁の世界の名人の話なんですけども、あの方たちは、若い頃に、養成所のよう
なところに行って勉強している。それで、段をもらって四段とか五段とかになって、大会に出られ
るようになってお金をかせぐ。若い子もいます。その養成所にですね、兄弟がいた。プロになるた
めの努力をしなければプロにはなれない。兄弟のうち、弟はプロになるための一流の努力をさぼっ
た。それでも東大に行きましたが…。兄は棋士になった。
超一流の努力をして棋士になる。本当に一流の努力をすれば一流の選手になれるし、一流の大学
も行けるようになるでしょう。もちろん勉強だけを言ってるんじゃないんですよ。クラブの面でも
全部そうなんです。一流の努力をする。しなければならない。中途半端ではあかんのです。中途半
端に物事をさせないようにわれわれが見守っていくというようなことが大切ではないかと思いま
す。
「処法師資」というようなことをもっとゆっくりとお話したかったのですが、ちょっと時間がな
いので、このくらいでいいでしょうか。
どうもありがとうございました。(拍手)。
2016 年 8 月 20 日
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米原高校保護者ガイダンスにて