人外魔境05 水棲人

人外魔境
インコラ・パルストリス
水棲人
小栗虫太郎
リオの軽口師
ン
ガ
しょうちゅう
折竹孫七が、ブラジル焼酎の
ピ
“Pinga”というのを引っさ
みそ
げて、私の家へ現われたのが大晦
1
か
日の午後。さては今日こそいよい
や
よ折竹め秘蔵のものを出すな。こ
ピンガ
のブラジル焼酎を飲りながらアマ
リオ・フォルス・デ・デイオス
ゾン奥地の、﹁神にして狂う﹂河
の話をきっとやるだろう⋮⋮と私
は、しめしめとばかりに舌なめず
りをしながら、彼の開口を待った
のである。
ところが、その予想ががらっと
外れ、意外や、題を聴けば﹁水棲
2
しばら
人﹂。私も、ちょっと暫くは聴き
ちがいではないかと思ったほどだ。
﹁君、そのスイセイとは、水に
す
棲むという意味かね﹂
うなず
﹁そうとも﹂と彼は平然と頷く。
しかし、人類にして水棲の種族と
は、いかになんでもあまりに与太
すぎる。こっちが真面目なだけに
腹もたってくる。
﹁おいおい、冗談もいい加減に
3
しろ﹂と、私もしまいにはたまら
なくなって、言った。﹁人間が、
おっとせい
蛙や膃肭獣じゃあるまいし、水に
棲めるかってんだ。サアサア、早
いところ本物をだしてくれ﹂
すると、折竹はそれに答えるか
わりに、包みをあけて外国雑誌の
ようなものを取りだした。Rev
Geografic
Americana︱︱アル
レヴイストラ・ジエオグラフイカ・アメリカナ
istra
a
4
ゼンチン地理学協会の雑誌だ。そ
れを折竹がパラパラとめくって、
太い腕とともにグイと突きだした
palustris”沼底
イ ン コ ラ ・ パ ル ス ト リ ス
ページには、なんと、“Inco
la
棲息人と明白にあるのだ。私は、
折竹の爆笑を夢の間のように聴き
ながら、しばしは茫然たる思い。
﹁ハハハハハ、魔境やさんが、
驚いてちゃ話にもならんじゃない
5
か。どれ、この坊やをおろして、
本式に話すかね﹂
折竹の膝には、私の子の三つに
みは
なるのが目を瞠っている。ターザ
ンのオジサンという子供の人気も
の︱︱折竹にはそういう反面もあ
る。童顔で、いまの日本人には誰
ぼうこ
にもないような、茫乎とした大味
なところがある。それに加えて、
細心の思慮、縦横の才を蔵すれば
6
こそ、かの世界の魔境未踏地全踏
破という、偉業の完成もできたわ
けだ。その第五話の﹁水棲人﹂と
は?⋮⋮折竹がやおら話しはじめ
る。
﹁ところで、これは僕に偶然触
そろう
れてきたことなんだ。﹃神にして
オ・フォルス・デ・デイオス
狂う﹄河攻撃の計画の疎漏を、僕
が指摘したので一年間延びた。そ
のあいだ、ぶらぶらリオ・デ・ジャ
7
ネイロで遊んでいるうちに、偶然
インコラ・パルストリス
﹃水棲人﹄に招きよせられるよう
ま
な、運命に捲きこまれることになっ
た。
えっ、その水棲人とはどこにい
せ
るって?! まあまあ、急かせず
ピンガ
にブラジル焼酎でも飲んでだね、
リオの秋の四月から聴きたまえ﹂
*
ヴエント・モデラード
リオの、軟微風とはブラジル人
8
の自慢︱︱。
しゅろ
棕梠花のにおいと、入江の柔か
しおかぜ
パ イ ラ
な鹹風とがまじった、リオの秋を
うき
ふく薫風の快よさ。で今、東海岸
マ ー ル
散歩道の浮カフェーからぶらりと
や し
出た折竹が、折からの椰子の葉ず
れを聴かせるその夕暮の風を浴び
ながら、雑踏のなかを丘通りのほ
うへ歩いてゆく。その通りには、
ポムピニヨス・エナ
マモ
ツー
トル
オ・ヴイルジェン
﹁恋鳩﹂﹁処女林﹂と、一等船客
9
級をねらうナイトクラブがある。
マツトオ・ヴイルジェン
﹁ううい、処女林か。処女林な
んてえ名は、どこにもあると見え
る﹂
まんさん
と彼は、蹣跚というほどではな
よいごこち
いが相当の酔心地、ふらふら﹁恋
鳩﹂の裏手口を過ぎようとした時
に⋮⋮。いきなり内部から風をきっ
て、彼の前へずしりと投げだされ
たものがある。みると、一つのスー
10
かん
ツケース。とたんに奥で、癇だか
い男のどなり声がする。
﹁さあさあ、出てけ出てけ。君
トーロ
ヴアツ・セ・エンポーラ
みたいな芸なし猿に稼がれてちゃ、
こけん
沽券に係わるよ。さあ、出ろ!﹂
シーン
皆さんは、よくこうした場面を
映画でご覧になる。お払い箱とい
えりくび
うときは襟首をつままれて、腰骨
ほう
を蹴られてポンと抛りだされるが、
きょそ
これも挙措動作がひじょうな誇張
11
のもとに行われる、南米のラテン
型の一つ。おやおや、ここの芸人
が一人お払い箱になるらしい。ど
んな奴だ、さだめし肩をすぼめて
しょ
悄んぼりと出てくるだろうと︱︱
多少酔いも手伝った折竹が、その
スーツケースを手にもって、いま
現われるかと入口を見守っていた
のだ。
たたず
まったく、こうして佇んだ数秒
12
間さえなければ、かの怪奇の点で
しの
は奥アマゾンを凌ぐといわれる、
インコラ・パルストリス
水棲人のすむあの秘境へはゆかな
Patino︱すなわち
エステロス・デ・パチニヨ
かったろうに。Esteros
de
﹁パチニョの荒湿地﹂といわれる
魔所。
まもなく、その入口をいっぱい
ふさ
に塞いでしまいそうな、大男が悠
然と現われた。舗道へ降りると、
13
ちょっと足もとのあたりを一、二
度見廻していたが、すぐ折竹に気
がついたらしく、
カピトーン
﹁やあ大将、拾っといてくれた
ね﹂
﹁番をしてたよ。どうせ、出て
け︱︱を喰わされるようじゃ、だ
も ん
いじな財産だろう。さあ、たしか
にお渡ししたよ﹂
こいつ
しかし、此奴がと思うとじつに
14
意外な気持。猫のように摘みださ
れた失業芸人とは、およそ想像も
たくま
されぬ態の人物。肩付きの逞しさ
かんぬき
は閂のよう、十分弾力を秘めたら
てあし
しいひき締った手肢、身長、肉付
きんせい
き、均斉といい理想的ヘルメス型
の、この男には男惚れさえしよう。
な り
それに、服装をみればおそろし
い古物︱︱どこにもクラブ稼ぎの
芸人といったようなところはない。
15
違ったか、渡してしまったしとん
だことをしたと、折竹も気になっ
てきて、
﹁だが、たしかに君のだね﹂
﹁ハッハッハッハ、大将は聴い
てたんだろうが﹂
とその男はカラカラと笑うのだ。
﹁あの、俺に出てけ出てけといっ
た、キイキイ声の奴な、あれが、
ここの支配人でオリヴェイラって
16
んだ。俺は、あのチビ公に腰を折っ
てだね、どうか御支配人、ながい
目で頼む。きっと、今夜から大受
けにしてみせると、言ったんだが
聴いちゃくれない。もっとも、理
屈は向うにあるだろうがね﹂
陽気で、早口で、どこをみても、
お払い箱早々というような、行き
暮れたところがない。顔も、駄々っ
子駄々っ子してダグラスそっくり。
17
ガルガーンタ
声まで彼に似て、豪快に響いてく
る。
おやま
﹁俺は、女形をやれる軽口師と
いう触れこみで、つい四日ほどま
え﹃恋鳩﹄に雇われた。初舞台︱
︱。ご婦人の下着などを取りだし
て、すっきりと笑わせる。と、行っ
てくれりゃ何のこたあなかったよ﹂
﹁引っ込め︱︱か﹂
﹁いわれたよ。しかし、ものと
18
いうのは、とりようだと思う。俺
がずぶの素人でいてやかまし屋の
﹃恋鳩﹄の舞台を、よく三晩も保っ
たかと思えば、われながら感心す
るよ﹂
﹁驚いた﹂と折竹も呆れかえっ
て、
ガルガーンタ
﹁君は、軽口師のガの字も知ら
んのじゃないか﹂
﹁そうとも、窮すればなんでも
19
するよ。浪人数十回となれば、女
中にもなれる﹂
そう言って、とっぷり暮れた夜
しばら
気を一、二回吸い、暫く、空の星
をつくねんとながめていたが、急
に、なにかに気付いたらしく、く
るっと振りむいた。彼は、ぜひ大
将に話したいことがある。それに
あっち
は、ここじゃ何だから彼方でといっ
て、ぐいぐい折竹を急き立てて、
20
向うの小路へ入っていった。
﹁なんだね﹂
﹁じつは、大将にこれを見て貰
いたい﹂とポケットからだしたそ
の男の掌には、キラキラ光る粒が
二、三粒転がっている。手にとる
と、まだ磨かれていないダイヤの
原石。大きさは、まあ十カラット
から二十カラットぐらいだろうが
⋮⋮、それよりも、掘りだしたま
21
まの土の手触りが、折竹にはじつ
に異様であった。彼は、手にとっ
た石をあっさりと返して、
と
﹁君、これは盗ったやつかね。
コントラバンド
それとも脱税品か﹂
い
﹁マア、言や後のほうだろう。
ところで、見受けたところ大将は、
ジャポネーズ
日本人らしい。日本人でも、サン
トスやサン・パウロにいるならお
コロノ
移民さんだが、リオにおいでのよ
22
うじゃ大使館だね。まったく、ど
かま
この税関でもお関いなしに通れる、
結構なご身分というもんさ。こっ
ごじん
ちも、そういう御仁相手でなけりゃ
話しても無駄だし、また、大将な
ら乗ってくれるだろう。どうだ、
いい値で売るが、いくらに付ける﹂
しかしその時、折竹は一つの石
をじっと見詰め、じつにブラジル
まれ
産にしては稀ともいいたい、その
23
ン
石の青色に気を奪われていた。小
ボ
石ならともかくこうした大型良品
る り
にあって、美麗な瑠璃色を呈すと
は、じつに珍しい。ブラジル産に
はけっしてないことである。
﹁君、これはブラジルのじゃな
アフリカ
いね。南阿かね、英領ギニアかね﹂
﹁どうして、泥のついた掘りた
てのホヤホヤだ。といって、ブラ
オランダ
ジルでもなし蘭領ギアナでもない。
24
しんこうち
こいつは、おなじ南米でも新礦地
のもんだ﹂
出様によっては、なにかそれに
つ
就いて言い出したかもしれないが、
あいにく折竹はダイヤなどという
ものに、熱や興味をいだくような、
そんな性格ではない。その男も、
折竹の態度にアッサリとあきらめ
て、もとのポケットへポンと突っ
こんでしまったのだ。
25
﹁これはね、じつは俺には宝の
もち腐れなんだ。この国は、脱税
品がじつにやかましい。うっかり
持っていようものなら、捕まって
しまうんだよ﹂と、いよいよさよ
うならというようにニッコリ笑い、
一、二歩ゆきかけたが、立ちどまっ
て空を仰いだ。おおらかに、胸を
うそぶ
はり嘯くように言う。
﹁はてさて、俺も追ん出されて
26
さっそう
行き暮れにけり︱︱か。颯爽と、
ガウチョ
乞食もよし、牧童もよし﹂
男の魅力が、時として女以上の
ものである場合がある。ここでも、
これなりこの奇男子と別れたくな
いような気持が、折竹にだんだん
強くなってきた。
きょそ
警抜なる挙措、愛すべき図々し
さ。なんという、スッキリとした
厭味のないやつだろう。しかし、
27
この男が何者かということは、ほ
ぼ彼に想像がついていたのだ。泥
けいずかい
坊か、密輸入者か故買者か。どう
せ、素姓のしれぬダイヤなどを持
たぐ
つようではそんな類いだろうが、
とにかく、なんにもせよ気に入っ
た奴だと、一度打ち込めば飲ませ
たくなるのが、折竹のような生酔
いの常。
﹁どうだ、一杯やるが付き合う
28
かね﹂
﹁酒?!﹂と、その男は飛びあ
がるような表情。﹁せめて、飯と
も思っていたのに、酒とは有難い。
オブリガード
有難い。大将、このとおりだ﹂
それから、リオ・ブランコ街の
一料亭へいったのが始まり、それ
インコラ・パルストリス
が、水棲人に招かれる奇縁の因と
なるのである。
29
一番違い
その男は、カムポスというパラ
グァイ人。詳しくは、カムポス・
フィゲレード・モンテシノスとい
う名だ。首府アスンションの大学
をでてから牧童がはじまりで、闘
牛士、パラグァイ軍の将校と、やっ
たことを数えれば、とにかく、五
行や六行は造作なくとろうという
30
あお
人物。それが、ぐいぐい呷りなが
きえん
ら、虹のような気焔をあげはじめ
る。
チャンス
﹁人間は、ちいさな機会などに
目をくれていたら、大きなのを失
うよ。誰にも、一生に一度はやっ
でつ
てくる大かいやつを、俺は捕まえ
ようってんだ。これはね、女にだっ
て同じことだろうと思うよ。男が、
ほ
生涯に惚れる女はたった一人しか
31
ない。ドン・ファンや、カザノヴァ
あさ
が女を漁ったね。だがあれは、ひ
とりの永遠の女性を見付けるため
だったと︱︱俺はマアそういうふ
うに解釈している。つまり、俺の
は最上主義なんだ﹂
﹁それが、君の放浪哲学だね。
些細な、富貴、幸福、何するもの
ぞという⋮⋮﹂
しゃべ
﹁そうだ。時に、喋っているう
32
ッ
シ
ョ
ちに気が付いたがね、今夜は、
ビ
ッ
シ
ョ
“Bicho”の発表の晩じゃな
いか﹂
ビ
“Bicho”というのは、ブ
とみくじ
ポルコ・デ・マツトオ
ラジル特有の動物富籖である。蟻
タマンツァ
喰いの何番、山豚の何番というよ
うに、いろんな動物に分けて番号
がつけられている。その、当り籖
が今宵の十二時に、ラジオを通じ
ていっせいに発表されるのだ。そ
33
れから二人は、パゲタ島からにお
ビ ッ シ ョ
う花風のなかで、動物富籖の発表
を待ちながら酒杯を重ねていった。
折竹は、もう泥のように酔ってし
まっている。
ビ ッ シ ョ
﹁ううい、動物富籖を一枚、て
だいじそう
めえ大切候に持ってやがって⋮⋮。
おいカムポス、俺はなんだか、可
笑しくって仕様がねえ﹂
﹁ハッハッハッハッハ、なけな
34
しの俺が一枚看板みたいに、動物
富籖をもっているのが、そんなに
可笑しいか。だが、俺だって当る
うらな
と思っちゃいないよ。易いだ。未
ぼく
来を卜すには、これに限るよ﹂
やがて、十二時が近付くにつれ、
しいんとなってくる。おそらく、
動物富籖をもたぬものは一人もあ
るまいと思われるほど、この富籖
には驚くべき普遍性がある。やが
35
て、ラジオから当り番号が流れは
じめた。そのうち、最高位の五万
ミルの当り籖が、カムポスの持っ
カスカヴェル
ているガラガラ蛇札のなかにある
という、声に続いて番号の発表。
五九六二一番。︱︱とたんに、カ
うめ
ムポスが、ううと呻いたのである。
﹁どうした、カムポス、当った
のかい﹂
﹁一番ちがい、大将、これをみ
36
てくれよ﹂
みると、カムポスの札はたった
一番ちがいで、五九六二〇番だ。
たった一番︱︱。むしろ酒よりも
じぶんの運命に酔ったよう、黙っ
て、カムポスはじっと卓を見つめ
こんこん
ている。折竹は、もうその時は昏々
とねむっていたのだ。
のは日暮れ近くであった。みると、
そんな訳で、翌日目を醒ました
さ
37
寝台のそばにカムポスがいて、じ
つくろ
つに器用な手付きでズボンを繕っ
ている。こいつ、昨夜のあのカム
ポスじゃないか。してみると、じ
ぶんはカムポスに背負われてきた
のだろう。そうそう、昨日の籖は
一番違いだったっけがと⋮⋮じっ
と目をつぶるとゆうべの記憶が、
まぶた
瞼の裏へ走馬燈のように走りはじ
める。そこへ、カムポスがにこっ
38
と笑って、
アミーゴ
﹁兄弟、目が醒めたかね﹂
きょうは、昨夜は大将だったの
アミーゴ
が、兄弟に変っている。そして針
を手馴れた手付きで、スイスイと
抜きながら、﹁どうだい、世帯持
ちのいい、女房を持ちゃこんなも
んだよ。これからは、みんなこん
な工合に、俺が繕ってやる﹂
う ま
﹁上手いもんだね﹂
39
﹁そうとも、お針だって料理だっ
て、出来ないものはないよ。俺は、
ちゅうこう
コルセットの紐鉤に新案さえもっ
ている﹂
この、奇抜な男が泥坊にもせよ、
折竹はけっして厭がらなかったろ
う。いまは、意気投合というか絶
妙な気合いで、二人の仲が完全に
結ばれてしまったのである。たぶ
んカムポスは当分の食客を、折竹
40
のいるこの室ですることになるだ
ろう。とその夜、二日酔退治にま
た酒となった席上。
﹁じつは、大将に聴いてもらい
たい話がある﹂と、なにやらカム
ま が お
ポスが真剣顔に切りだした。
ビ ッ シ ョ
﹁それはな、ゆうべの動物富籖
の一番違いのやつさ。あれから、
俺はとっくりと考えてみた。する
カスカ
とだよ。あの当り籖はガラガラ蛇
41
ヴェル
札の、五九六二一番、俺の札が、
一番少なくて六二〇番。と、その
もう一番で上りという意味から考
えて⋮⋮なんだか俺はいま途方も
ないような、生涯に一度ともいう
大運に近付いているんじゃないか
︱︱とマアそんな風に考えられて
きたのだ﹂
かつ
﹁担ぐじゃないか﹂と折竹は面
白そうに笑って、﹁だが、俺の国
42
の判じようだと反対になるがね﹂
﹁なんでだ﹂
﹁つまり、俺の国でいう一番違
いという意味は、運の、じき側ま
でゆくがどうしても追い付けない、
その、たった一番だけの距離をど
うしても詰められない、とうとう、
追っ付けずに一生を終ってしまう
という、ごくごく悪い意味になる
よ﹂
43
﹁チェッ、縁起でもねえ﹂と、
くず
舌打ちはしたが自信は崩れぬばか
りか、カムポスが大変なことを言
いだしたのだ。
﹁とにかく、俺は俺の考えをあ
くまでも押し通す。そういう気力
には、逃げようとする運までも、
寄ってくるというもんだ。で、大
将にたいへんなお願いだがね、俺
は、ここでいちばん運試しをしよ
44
うと思う。一番先にある運をつか
まえてやろうと思うんだ﹂
﹁それには︱︱﹂
﹁大将に金を借りる。それで、
キヤジノ
俺は今夜、賭博場へゆく﹂
折竹は、しばらくカムポスの顔
をじっと見まもっていた。鉄面皮
わるび
というか厚かましいというか、し
いささ
かし、こういうことを些かの悪怯
ささい
れさもなく、堂々と、些細の渋ろ
45
いもなく言いだす奴も珍しい。気
に入った。こりゃ、事によったら
カムポスに運がくる。これで、こ
の泥坊が足を洗えりゃ、俺は一つ
の陰徳をしたというもんだ。
なにしろ、独り身で金の使いよ
うもないうえに、週給五百ドルを
もらう折竹のことであるから、た
し が
かが、千ドルや二千ドルなら歯牙
にかけるにも当らない。よろしい
46
と、彼はカムポスの申出でを、きっ
ぱりと引きうけてやった。
ポムピニヨス・エナモールキ ヤ ジ ノ
リオでは、﹁恋鳩﹂の賭博場が
最大である。折竹は、そこへ兼ね
て紹介されていたが、ここで、困っ
たのがカムポスの処置。なにしろ、
軽口師でございと大嘘をいって、
あげくの果に追いだされた彼のこ
と。しかし、カムポスはご心配な
しゃあしゃあ
くと、自信あるのか洒々たるもの
47
ひげ
だ。まず、鼻下の細髭を剃り落し
ナリシス
もみあげを長くして、これなら、
ガルガーンタ
三日軽口師の﹁鼻のカムポス﹂と
は、誰がみようと分るまいという
のである。そうして、その翌夜
﹁恋鳩﹂へいった。
歓楽地、リオへ遊ぶ一等船客級
相手のナイトクラブ︱︱。財布の
底まで絞りにしぼって、オケラに
なったらまたお出でというのが、
48
此処だ。したがって、リオの歓楽
キヤジノ
中いちばん暗黒のものが、賭博場
そろ
をはじめ洩れなく揃えられている。
ヴオツセ・ケル・アポスタール
﹁君、一丁賭くか﹂そんな声が、
ポーチャ
はやとっ突きの玉転がし場からも
響いてくる。婦人の、キラキラか
がやくまっ白な胸、脂粉、歌声、
ロード
ルーレットの金掻き棒の音。二人
が、内部のキャバレーへはいると、
パッと電気が消える。
49
エステ・エ・ブランコペルレ・エ・ブランコ
※これは白い 白いは肌
どんちょう
と、舞台の歌声とともに緞帳が
あがるが、だんだん、その白いと
いうのが肢だけでなくなるという
のが、﹁恋鳩﹂のナイトクラブた
るところだ。それから、キャバレー
を出てちょっと口を湿しているう
ちに、ふいにカムポスがなにを見
・ ・
たのか、ボーイを呼びとめてあれ
あご
と顎をしゃくって見せた。
50
﹁君、あのご婦人はなんて方だ
ね﹂
ボーイは、ちょっとその方向を
みるや、にこりと笑って、
﹁さすが、旦那さまはお目が高
ういらっしゃる。あの、ちょっと
ブロンド
小柄な金髪でございましょう。お
計らいなら手前致しますが、なん
エー・ボニート
せい、美しいだけに、ちょっと高
マ ー ス ・ カ ー ロ
価うございますよ﹂
51
さえぎ
すると、カムポスはそれを遮っ
しか
て、違うと叱るように言った。
﹁あれじゃない。ホラ、あの右
にいる黒いドレスの方だ。あれは、
こ
まさかここの妓じゃあるまい﹂
﹁ほう、あの方﹂とチップを貰っ
たボーイが、にこっとなって言っ
た。﹁あの方は、グローリァ・ホ
テルにご滞在中とかでございます。
ここでは、たまにルーレットをお
52
やりになるくらいのもんで、マア
こんなところへ何でお出でになっ
ているのかと、手前どもも不審に
存じあげておりますんです﹂
その婦人は、もう娘という年ご
おもなが
ろではないかもしれぬ。面長で、
まさに白百合とでもいいたい上品
な感じは、まったく周囲が周囲だ
けに際だって目立つのである。カ
ムポスは、妙に熱をもったような
53
瞳でじっとその婦人をみていたが、
まもなく、運定めをする賭け場へ
はいっていった。
トッコ・ダ・フェート
魔境﹁蕨の切り株﹂
そこは、人間の運がいろいろに
ヴォツセ・ケル・マタ・ビツシヨ
廻転し、おい、奢るぞ︱︱と勢い
ホージ・エ・ア
よく出てくるのもあれば、曲って
ザール
る! なんて三リンボウが続きァ
54
がるんだと、いずれは、ピストル
しお
のご厄介らしくうち悄れてしまう
バラ
ものもある。しかし、カムポスは
か い
気込んだ甲斐もなく、みごと﹁平
ンス
均﹂という賭け札でスッテンテン
になってしまった。
それみろ、やっぱり一番違いの
解釈はおれのほうが正しい︱︱と、
じっと、その意味をこめた目でカ
ムポスをみたとき⋮⋮思わず折竹
55
がアッと叫ぶようなことが起った。
カムポスが札を置くとスイと立ち
ね
あがって、諸君と、室中を睨めま
わすように言ったのである。
﹁僕は、諸君に折り入っての相
談がある。見られるとおり、武運
つた
拙なくカラッ尻の態となったが、
まだ僕は屈しようとはせぬ。それ
は、僕に抵当があったからだ。で
まず、その品を諸君にお目にかけ
56
るとして、どうか、気に入った方
は一勝負ねがいたい﹂
つか
といって、ポケットから掴みだ
したものをザラザラッと音をたて
て、カムポスが卓上に置いたので
ある。とたんに、室中のものがハッ
と息をのみ、思わず土まみれのま
さんらん
まの燦爛たる光に⋮⋮ダイヤ、し
あぜん
かも原石! と唖然たる態。
﹁オイオイ、見てばかりいない
57
で、なんとか言ってくれ﹂と無言
ごう
の一座に業が煮えてきたか、カム
ポスの声がだんだん荒くなってく
る。﹁いいか、俺はこの五粒のダ
イヤを、売ろうてんじゃない。俺
が一か、八かの抵当にしようとい
ス
カ
リ
ヨ
うのは⋮⋮ダイヤよりも土のほう
カ
なんだ。ねえ、この渓谷性金剛石
ビルリオン
土がサラサラッと泣いて、十億、
トリリオン
一兆億のこんないい音が、欲張り
58
どもに聴こえないかって言ってる
すく
ぜ﹂と土を掬ったりこぼしたりし
ながら、最後にカムポスが条件を
言った。
﹁ところで、俺はこの世界にま
だ一度も現われていないダイヤの
新礦地の所在を賭ける。それには
まず、諸君の誰かに値を付けても
らう。そして、それだけの金額の
ご提供をねがう。いないか?! 59
俺を負かして所在を吐かせるやつ
は﹂
そくざ
即座に、室の隅のほうで五万ミ
ルという声がしたが、カムポスは
ふり向きもしない。それから、五
万五千、六万と小刻みにいって七
万ミルまでくると、そこで声がハ
タとなくなってしまった。
第一、風のごとくに現われたこ
の不思議な人物が、いかにダイヤ
60
カ
ス
カ
リ
ヨ
をみせ渓谷性金剛石土を示すとは
いえ、誰が十二分の信頼をこの男
にかけようか。まったく、こうし
た場所に出入りをする富有階級の
人間が、怪しさ半分欲半分で、ま
ずこの程度ならばフイにしてもと
いうのが、七万ぐらいのその辺だっ
たのであろう。カムポスは、もっ
とこの話を現実付けねばならぬと
思って、
61
﹁じゃ、その礦地とはいったい
ど こ
何処にあるか。また、どうして俺
がそれを見付けたかということを、
これから諸君にかい摘んで話そう。
しかしだ、今度は七万ミルなんて
しみ
え、吝ったれは止めて貰うよ。も
し、そんな声が出たらそれっきり
にして、俺はサッサと帰るからね﹂
キヤジノ
それからカムポスは、賭博場は
いうに及ばず踊り場からキャバレー
62
ポムピニヨス・エナモール
までのほとんど﹁恋鳩﹂の全客を
あつめたと思われるほどの、黒山
とうとう
の人を相手に滔々と言いはじめた
のである。その第一声が、まず人々
に動揺をおこさせた。
Chaco”
グラン・チャコ
﹁ところで、その新礦地がある
のは、“Gran
だ。どうだ、グラン・チャコとは
初耳だろう﹂
南米に、まだ開拓のおよばぬ個
63
所が四つほどある。一つは、人も
知る奥アマゾン、さらにオリノコ
川の上流もその一つだろうし、ま
た、南端へゆけばパタゴニア地方
にも、恐竜の全化石などがでる未
踏地がある。そうして、第四がこ
のグラン・チャコなのだ。
南緯二十度から二十七度辺にま
でかけ、アルゼンチン、パラグァ
イ、ボリヴィアの三か国にわたり、
64
しょうたく
密林あり、沼沢あり、平原ありと
いう、いわゆる庭園魔境の名のグ
ラン・チャコ。そこは奇獣珍虫が
す
ツ
タ
コ
インディアン
群をなして棲み、まだ、学者はお
マ
ろか、“Mattaco”印度人
でさえも、奥地へは往ったことが
ないというほどの場所だ。
ル
コ
マ
ヨ
﹁で、そのグラン・チャコのな
ピ
かに“Pilcomayo”とい
よど
う川がある﹂とカムポスが淀みな
65
く続けてゆく。
﹁それは、フォルモサの密林の
北をながれて、ながらくパラグァ
イ、アルゼンチン両国の境界争い
の場所だったことは、諸君も知っ
ておることだろう。たがいに、川
フオルチネス
の南北に陣どって堡塁をきずき、
いまなお一触即発の形勢にある。
では、その境界争いはなんのため
に起ったか。貪ろうとしたのか?
66
それとも、条文の不備か? 何
のためかというに、それは、この
ピルコマヨという化物のような、
せんばん
じつに不可解千万な川のために起っ
ている。
de
P
エス
で諸君、諸君はこの川が貫いて
いる“Esteros
テロス・デ・パチニョ
atino”すなわち﹃パチニョ
の荒湿地﹄なるおそろしい場所を
知っているかね。いや、ブラジル
67
には通り名がある。パチニョとい
トッコ・ダ・フェート
うよりも﹃蕨の切り株﹄︱︱。俺
はその名を知らんとはいわさんぞ﹂
パチニョの荒湿地、一名﹁蕨の
トッコ・ダ・フェート
切り株﹂︱︱それには、また人々
の中がザッとざわめき立ったほど
わらび
だ。読者諸君も、蕨の切り株とは
なんて変な名だろうと、ここで大
いに不審がるにちがいない。蕨と
おやゆび
いえば、太さ拇指[底本では﹁栂
68
指﹂と誤り]ほどもあれば非常な
大物である。それだのに、それが
樹木化して切り株となる魔所とい
えば、それだけ聴いても、この
トッコ・ダ・フェート
﹁蕨の切り株﹂なる地がいかなる
ところか分るだろう。でまず、順
序としてピルコマヨ川の、化物然
たる不思議な性質から触れてゆこ
う。
ピルコマヨには、元来正確な流
69
路がない。土質が、やわらかな沖
積層で岩石がなく、そのうえ、蛇
行が甚しいために水勢もなく、絶
えず溢れ絶えず移動し、いつも決
まりきった川筋というものがない。
まったく、きょうの川は明日はな
く、明日の湿地は明後日の川と、
転々変化浮気女のごとく、絶えず
がしょう
臥床をかえゆくのがピルコマヨで
ある。そうしてその流域のなかで
70
もいちばん怖しい場所が、﹁蕨の
トッコ・ダ・フェート
切り株﹂のパチニョの湿地になっ
ている。
これまでこの川は、水中植物の
さかのぼ
繁茂が実におびただしいために、
オール
櫂が利かず、遡ったものがない。
せんせん
従って、国際法でいう先占の事実
というやつが、パラグァイ、アル
ゼンチンのどっちにもない訳であ
る。日本人が、フランス人よりも
71
先に新南群島を占めたため、いま
は日本の領有となっている。その
先占を、一九三二年の夏の終りご
ろに、いよいよアルゼンチン政府
が決行することになった。
成程というような名の川二つ。そ
になり、﹁暗秘河、﹁迷錯﹂河と
リオ・ミステリーゾ リオ・コンリーゾ
それから、そこを出ると三つの川
の荒湿地でまったく消えてしまう。
トッコ・ダ・フェート
ピルコマヨが、﹁蕨の切り株﹂
72
してその南にピルコマヨの本流が
Gimenez教授を主
ラ モ ス ・ ジ メ ネ ス
のたくり出ている。つまり、Ra
mos
班とするその探検隊の目的は、以
上三つの流系をしらべ、あわよく
ば、グラン・チャコの謎といわれ
トッコ・ダ・フェートつ
る﹁蕨の切り株﹂を衝こうとする
ものであった。
なんじゅう
ところが、その探検が難渋をき
わめ、やっと一年後に﹁蕨の切り
73
株﹂の南隅に立つことができた。
じもく
そのとき、じつに世界の耳目をふ
るい戦かせたほどの、怪異な出来
事が起ったのだ。
サベジニヨス
そこは一面、細茅、といっても
そせい
腕ほどもあるのが疎生していて、
フェート・ジガンデ
ところどころに大蕨がぬっと拳を
あげている。そして、下は腐敗と
はっこう
醗酵のどろどろの沼土。すると、
ジメネス教授が立っているところ
74
から百メートルばかり向うに、髪
をながく垂らした女のようなもの
が、水の中からぬっくと立ちあがっ
たのである。教授は驚いた。︱︱
かが
よく見ればいかにも女だ。しかし、
ゆあ
すぐ浴みをするように跼んだかと
思うと、その姿が水中に消えてし
まったのだ。
女だ。あくまで人間であって外
の生き物ではない。しかし泥中で
75
い き
生き水底で呼吸のできる、人間と
いうのがあるべき訳はない。と、
半ば信じ半ば疑いながら、まった
くその一日は夢のように送ってし
テン
まったのだ。すると翌日、顔をまっ
さお
蒼にした二人の隊員が、教授の天
ト
幕へバタバタと駆けこんできた。
トッコ・ダ・フェート
聴くと、﹁蕨の切り株﹂へいっ
えび
て蝦類を採集していると、ふいに
泥のなかへ男の顔が現われた。そ
76
れは、まるで日本の能面にあるよ
うな顔で⋮⋮びっくり仰天した私
たちの様をみるや、たちまち泥を
みだして水底に没してしまったと
いうのだ。これでいよいよ、水棲
人の存在が確認された。教授はそ
インコラ・パルストリス
れに、沼底棲息人と学名さえつけ
たのだが、あまりに、想像を絶す
るような途方もないことなので、
かえって世界の学会から笑殺され
77
てしまったのである。
こうして﹁蕨の切り株﹂はちらっ
とばぐち
と戸端口をのぞかせたまま、むし
ろ妖相を増し再び謎となったので
お
ある。ところがここに、世にも可
か
怪しな話といえば必ず選ばれるよ
インコラ・パルストリス
うな、水棲人を三度目に見たもの
が現われた。それが、余人ではな
いカムポス。
﹁俺は去年、パラグァイ軍の志
78
願中尉をやっていた。まったくあ
の国は、学歴さえあれば造作なく
士官になれる。で俺は、一通り号
令をおぼえたころ、任地に送られ
た。これが、﹃蕨の切り株﹄に大
フォ
Madrid”
ラ ・ マ ド リ ッ ド
分近くなっている、ピルコマヨ堡
ルチネス
塁線中の“La
というところだ。俺は、そこへゆ
せんせん
くとすぐ上官に献策をした。先占
をしなさい、全隊が銃を捨てて探
79
検隊となり、﹃蕨の切り株﹄に踏
みいって、パラグァイ旗を立てれ
ば︱︱と言ったら、俺はひどく怒
られた。理屈はどうでも、銃を捨
てて︱︱なんてえ言葉は非常に悪
いらしいのだ。俺は、そんな訳で
ごうはら
業腹あげくに、ようし、じゃ俺が
一人で行って先占をしてやると、
ぞ
実にいま考えると慄っとするよう
な話だが、腹立ちまぎれにポンと
80
飛び出したのだ。
かみ
ところで、至誠神に通ずなんて
え言葉は、ありゃ嘘だ。俺は、無
法神に通ずといいたいね。ジメネ
かか
スが、一年も費ってやっとゆけた
道を、俺は、ズブズブ沼土を踏み
ながら十日で往ってしまったよ。
つまり、泥沼があれば偶然に避け
ている、危険個所と危険個所のあ
いだを千番のかね合いで縫ってゆ
81
ぎょうこう
く︱︱僥倖の線を俺は往けたわけ
なんだ。
で、﹃蕨の切り株﹄をはじめて
見た日に、じつに意外なものに俺
は出会っちまったんだよ。ちょう
ど、俺がいるところから四、五十
メートルほど先に、ザブッと水を
かぶったまま立ちあがったものが
ある。人だ。さてはジメネスのい
うのは嘘ではない。人類の、両棲
82
インコラ・パルストリス
類ともいう沼底棲息人︱︱。秘境
トッコ・ダ・フェート
﹃蕨の切り株﹄とともに数百万年
も没していた怪。
ぼ ろ
それは、藻か襤褸かわからぬよ
うなものを身につけていて、見れ
まぎ
ば擬れもなく人間の男だ。胸に大
あざ
きな拳形の痣があって、ほかは、
吾々と寸分の違いもない。と、い
きなりそいつが片手をあげて、俺
をめがけて投げつけたものがある。
83
と思ったとき、もうそいつの姿が
水面にはなかったのだ。俺は水棲
人のやつがなにを抛ったのだろう
フェート・ジガンデ
と、大蕨を折ってやっとこさで掻
きよせた。手にとると、なんか葉っ
ぱの化石みたいなもん。それが、
二つに合わさって藻で結えたなか
から、現われたのがこのダイヤモ
ンドだ﹂
ね
そこまで言うと、カムポスは睨
84
め廻すような目で、あたりをぐるっ
と一渡りみた。
い
﹁さあ、そこまで言や、納得が
ついたろう。その水棲人が、広茫
千キロ平方もある﹃蕨の切り株﹄
の、一体どこから現われたかとい
うにゃ、俺に目印がある。どうだ、
諸君はそれをいくらに踏む?!﹂
声がない。ようやく、カムポス
の額に青筋が張ってきたころ、一
85
隅から美しい声がかかった。
﹁五十万ミル。あたくし、その
よろ
程度ならお相手しても宜しゅうご
ざいます﹂
そう言って、まっ白な胸をチラ
付かせながら、喧騒の極に達した
人波を、かきわけてくる。カムポ
スは、息を引いたまま白痴のよう
な顔で、現われたその人をぼんや
りとながめている。ああ、さっき
86
彼が白百合のようにみた女性。
亡霊か、水棲人か
﹁承知しました﹂と、目をその
す
女性の顔へ焼きつけるように据え
たまま、ちょっと上体をかがめて
あいさつ
カムポスが挨拶した。
﹁では、勝負の方法はなんに致
しましょう。ですがこれは、三本
87
勝負となるようなことは、あくま
で避けねばなりません。一本勝負
︱︱それにご異存はないと思いま
すが﹂
﹁でも、こういう場所でやりま
すカードの遊び方を、私は、あま
り知っていないのです﹂
その女性も、声が心持ちふるえ、
うかが
上気した頬はまた別種の美しさ。
しんそう
言葉にも物腰にも深窓育ちが窺わ
88
ためら
う ぶ う
れ、いまも躊躇ったような初心初
ぶ
心しい言いかたをする。まったく
こんな、ナイトクラブあたりには
けっして見られぬような女性が、
どうして途方もない大勝負をカム
ポスに挑むのだろう。また、一方
カムポスもどうしてしまったのか、
急に、それを境いに溌剌さが消え
てしまった。目も、熱を帯びたよ
うにどろんとなり、快活、豪放、
89
ちょうぼん
皮肉の超凡たるところが、どうし
さ し
de
た! カムポスと、喰らわしたく
なるほど薄れている。
﹁では、“Escada
エスカーダ・デ・モン
mao”はいかがで﹂
エスカーダ・デ・モン
﹁梯子﹂とは、いわゆる相対の
キヤ
遊び方である。しかしそれは、賭
ジ ノ
博場などでやるものではなく、も
ちろんその婦人なども知っている
ものであった。とたんに、どこか
90
らともなく笑いが始まって、娘っ
子がやるようなことで五十万ミル
が争われるなんて、こりゃ千年に
一度もないようなことだ。と、が
やがやそんな声が聴えてくるなか
で、その女性が小切手を書いた。
ナショナル・シティ銀行リオ・デ・
ジャネイロ支店。してみると、こ
の婦人は米人であろう。そして署
名が、ロイス・ウェンライト。
91
と、その時︱︱その署名をちらっ
と見たカムポスが、まるで一時に
あらゆる思念が飛びさったような
顔で、ぽかんと放心の態になった
ショック
のだ。なんの衝撃か?! しばら
まどぎわ
く窓際に出て風を浴びせていたほ
ど、カムポスには異常なものだっ
たに違いない。
﹁カムポスめ、どうしやがった
んだろう。こんなようじゃ、奴め
92
負けるかもしれないぞ﹂と、カム
ポスの様子が急に変ったのに気が
つくと、なんだか勝負の結果が危
ぶまれるような気に、折竹もだん
だんになってきた。やがて、満座
の注視を一点にあつめて、五十万
エスカーダ
ミルの﹁梯子﹂がはじまった。
作者として、勝負の成行きを詳
述するのは避けるが、ついに、カ
ムポスの勝利動かぬという局面に
93
なった。手札が二枚、ハートの一
に、ダイヤの十。これは誰しも、
ダイヤの十で切ってハートの一を
残す。人々は、緊張が去ってざわ
きまぐ
めきはじめ、やれやれ、気紛れに
た か
もせよ五十万ミルは高価いと、よ
うやく、方々で扇の音が高まって
きた。
﹁なるほど、こいつの一番違い
うらな
の、易いは当った。五十万ミルが
94
そもそもの始めで、これから奴は
うなぎ
鰻のぼりになるか?! 代議士に
なり、将軍になり、大統領になり
︱︱。まだまだラテン・アメリカ
にはそんな余地があるからな﹂
とカムポスの背後にいてこんな
ことを考えていた瞬後、アッと、
折竹が思わず叫ぶようなことが、
カムポスの指に起ってしまった。
いわゆる手拍子が好勢にゆるんだ
95
のか、子供でさえ最後にとって置
くハートの一を、彼がパッと場へ
投げだしてしまったのである。逆
転! あれよあれよと満座が騒ぐ
なかで、勝負は一瞬に決してしまっ
た。
カムポスが負け、ロイスが勝っ
た。
﹁どうも、変だ変だと思ってた
ほ
んだが、惚れやがって?!﹂
96
と折竹は呆れかえるような思い。
いまの、カムポスの失策が明らか
に故意であることは、別に、本人
に問いただすまでもない。一目惚
うな
れというかなんて早いやつだと、
しばら
暫く二人を見くらべながら呻って
いたのだ。しかし、その翌日すべ
てが明らかになった。
約束どおり、翌日ロイスがカム
ポスを訪ねてきた。彼女が、五十
97
万ミルの大勝負を引きうけたとい
なるほど
うのも、事情を聴いてみれば成程
しょうしゃ
とうなずける。きょうは、瀟洒な
外出着であるせいか、白いロイス
がいっそう純なものにみえる。
﹁折竹さん、あなたは三上重四
ぞんじ
郎というお国の医学者を、ご存知
でいらっしゃいますね? パタゴ
リザーヴェーション
ニア人に保護区政策をとれと、ア
ルゼンチン政府と喧嘩をした⋮⋮﹂
98
﹁知ってますとも。去年パタゴ
ニアで行方不明になった⋮⋮﹂
﹁いいえ、それがパタゴニアで
はなかったのです。それからあの
ペトリン・セオリー
堆積説﹄も、折
う、三上が学生時代に発表した
﹃Petrin
竹さんはご存知でございましょう﹂
三上重四郎は、いわゆる二世中
そうそう
の錚々たるもの。在学中、はやく
ペトリン
も化石素堆積説なるものを発表し
99
た。
化石素とは元来植物にあるもの
で、一つの種類が、絶滅に近づく
と組織中にあらわれてくる。たと
えば、松は枯れればそのまま腐敗
するが、杉は、神代杉という埋れ
木になることが出来る。いわば、
これは化石になる成分で、それが
現われたものは絶滅に近いという
のだ。で三上は、人間の血のなか
100
にもそういったものがある。なか
には現にもう現われている種族が
あるといって⋮⋮、アルゼンチン
人の大部分である雑種児の血と、
いま同国の南部、パタゴニア地方
ひん
で、絶滅に瀕しつつあるパタゴニ
ア人の血とを比べたのだ。
すると、アルゼンチン人にはあ
ペトリン
る化石素が、パタゴニア人にはな
い。つまり、まさに滅びようとす
101
るパタゴニア人のほうが、かえっ
て種族的には若いということになっ
たのだ。そこで三上は、それをア
ルゼンチン政府攻撃に利用して、
パタゴニア人の減少は自然的な原
因ではなく、冷酷なアルゼンチン
政府が保護区をつくらずに、むし
ろ滅んでしまうのを願わしく思っ
よろ
ているのだろう。俺は、世界の輿
ん
論に訴えてもパタゴニア人を救う
102
おもむ
と、三上は単身パタゴニアに赴い
たのだ。
そこは、氷雪の沙漠、不毛の原
野、陰惨な空をかける狂暴な西風、
土人は、食に乏しく結核となって
たお
斃れてゆく。これでは、百の薬を
投じようと到底救い得ぬ、結局保
さばく
護区をもうけ氷の沙漠から移さね
ば⋮⋮と。
三上の日本人の熱血と人道愛と
103
が、ここに合衆国全土に呼びかけ
る大運動になろうとした。その矢
先、彼の姿がふいに、消えてしまっ
たのだ。それ以来、一年にもなる
よう
が依然三上の行方は、杳として謎
のように分らない、という、ロイ
スの話を一通り聴きおわると、折
竹がやさしく上目使いをして、
﹁お嬢さんは、では三上君をお
愛しになってる⋮⋮﹂
104
﹁はあ、二人ともおなじ大学で
したし⋮⋮﹂
とロイスも燃えるような目になっ
てくる。
﹁そんな訳で、三上はアルゼン
チン政府にたいへん憎まれており
ました。それで、たぶんアルゼン
チンのどこかに秘密囚となってい
るのだろう︱︱と、私はそう考え
て南米へまいりまして、これでも、
105
手を尽してどんなに探しましたで
しょう﹂
額を支えた手で、卓子がかすか
に揺れている。愛するものの不幸
を訴えるように、ロイスはなおも
続けた。
あきら
﹁でも、結局は断念めねばなり
ませんでした。随分、金を惜しま
ずあらゆる手段を尽しましたが、
三上の行方はどうしても分らない
106
や け
のです。私は、半分自棄でリオへ
来て、話に聴いたナイトクラブと
はどんなところだろうと、なんだ
のぞ
か覗くような気持で﹃恋鳩﹄へゆ
きました﹂
﹁では、どうして、カムポスと
一勝負という気になりましたね。
あなた
貴女に、五十万ミルぐらいの金は
何でもないでしょうが﹂
﹁それは﹂とロイスの顔がきゅ
107
ほ て
うに火照ってきて、﹁カムポスさ
んが、ご覧になった水棲人の話。
あれを聴いて、私がなんでそのま
まに出来るでしょう。水棲人の胸
こぶしがた あざ
にあった拳形の痣と、ちょうど同
じものが三上にもあるのです﹂と
こみあげてくる激情の嵐に、ロイ
スはもう、吹きくだかれたよう。
﹁ですから、カムポスさんは三
上をみたんでしょう。あの水棲人
108
とは、三上ですわ﹂
とたんに、室内がしいんとなっ
た。三上が、魔境﹁蕨の切り株﹂
にいて、水棲人とは?! 沼土の
底にいて、なおかつ生きられると
すれば、三上という男はさいしょ
からの化物だ。すると、そこへカ
ムポスがううんと嘆声を発して、
﹁では、ロイスさん、こっちの
話をしますからね。私が、なぜあ
109
なたに対して勝とうとはしなかっ
たか、勝てば、勝てたのをなぜ負
けたかというと⋮⋮、ロイス・ウェ
ンライトという夢にも出る名の婦
人が、貴女だと始めて知ったから
です。
水棲人が、私に投げてよこした
葉っぱの化石みたいなものには、
じつをいうと一面の文字が書かれ
か
てあった。しかし、それを私が掻
110
き寄せたために、その文字がほと
す
んど擦れてしまった。ただ、残っ
たのがあなたの名の、ロイス・ウェ
ンライトというだけ⋮⋮﹂
﹁ああ、そんなことを聴くと、
泣きたくなりますわ。三上は、きっ
とダイヤを報酬にするからこれを
私に届けてくれと、あなたにお願
いしたのでは⋮⋮?﹂
奇縁とは、じつにこうした事を
111
いうのだろう。三上が、生きてか、
それとも死んでの亡霊かはしらぬ
が、とにかく、愛するロイスへ通
信を頼んだ。それが、この話のな
かのたった一つの現実。他は、す
けったい
べて怪体にも分らなすぎることば
かりだが、ロイスの身になってみ
れば⋮⋮。
事実、ロイスの熱情はこれなり
ではすまなかった。よしんば空し
112
かろうとも﹁蕨の切り株﹂へ往っ
てと、熱心に一日中折竹を説いて、
ついにグラン・チャコ行きを承知
させてしまったのである。そうし
て、カムポスを加えた三人の者が、
トッコ・ダ・フェート
﹁蕨の切り株﹂へとリオ・デ・ジャ
た
ネイロを発っていった。
永世変りゆく大迷路
113
ジメネス教授が、﹁蕨の切り株﹂
をとり巻く湿地を調査して、まる
かしょ
で海図みたいに足掛りの個所を記
入した地図がある。それが、米国
地理学協会にあったのが大変な助
けとなって、ともかく難行ながら
トッコ・ダ・フェート
﹁蕨の切り株﹂にでたのである。
パンパス
それまでは、プォルモサの密林で
ジャガール
インディ
はアメリカ豹の難、草原へでれば
アガラガス
チャコ狼の大群。グァラニー印度
114
アン
人百名の人夫とともに、一行はい
い加減へとへとになっていた。し
かし、はじめて見る﹁蕨の切り株﹂
の景観は⋮⋮。
びょうぼう
はて
ただ渺茫涯しもない、一枚の泥
地。藻や水草を覆うている一寸ほ
どの水。陰惨な死の色をしたこの
サベジニヨス
沼地のうえには、まばらな細茅の
フェート・ジガンデ
なかから大蕨が、ぬっくと奇妙な
こぶし
拳をあげくらい空を撫でている。
115
はちゅう
生物は、わずか数種の爬虫類がい
るだけで、まったく、水掻きをつ
インコラ・パルストリス
け藻をかぶって現われる、水棲人
すみか
の棲所というに適わしいのである。
すると、ここへ来て五日目の夜。
ぬまがえる
たきび
陰気な、沼蛙の声がするだけの
テント
カン
寂漠たる天地。天幕のそばの焚火
サベジニヨス
をはさんで、カムポスと折竹が火
ニャ
酒をあおっている。生の細茅にやっ
と火が廻ったころ、折竹がいいだ
116
した。
﹁君は、ロイスさんにどんな気
持でいるんだね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そういう気配は、君がはじめ
てロイスさんをみた、その時から
分っていたよ。惚れもしなけりゃ
五十万ミルを棒に振ってまで、君
がわざと負ける道理はないだろう﹂
﹁俺はまた、大将という人はサ
117
ムライだろうと思ってたがね﹂と
カムポスがじつに意外というよう
な顔。
﹁俺は、すべてをロイスさんに
うち明けにゃならん義務を背負っ
ている。義務であるものに金を取
り込むなんて、俺にゃどうしても
パンパス
出来ん。カムポスはつねに草原の
風のごとあれ、心に重荷なければ
放浪も楽し︱︱と、俺は常日ごろ
118
じぶんにいい聴かしてるんだ﹂
あや
﹁詫まる﹂と折竹はサッパリと
言って、
﹁だが、惚れたなら惚れたで、
別のことじゃないか。君が、生涯
に一人だけ逢うというその女性が、
ロイスさんのように、俺にゃ思え
るよ﹂
﹁くどいね、大将は﹂カムポス
へきえき
も、辟易してしまって、
119
﹁いかにも俺は、あの人が好き
だよ。好きで好きで、たまらんと
いうような人だ。これだけ言った
ら、大将も気が済んだろう﹂と、
まぎ
なにかを紛らすように笑うのであ
る。
しかし、事実水棲人とはまった
くいるものか? また、カムポス
が逢った三上の姿は亡霊か、それ
とも生態が変って、沼土の底でも
120
生きられるようになったのかと、
いつも四六時中往来する疑問は、
その二つよりほかになかった。カ
ムポスが、﹁ロイスさんの執念に
もまったく恐れ入ったよ。よくま
あ、五日間ぶっ続けに水面ばかり
見ていられるもんだ﹂
﹁そりゃ、君がみた三上は幽霊
じゃないだろう﹂
と、はじめて折竹がその問題に
121
触れたのだ。
﹁といってだよ、たとえば、水
棲人といえるものになって沼の底
とう
へはいったにしろ、もう三上は到
てい
底生きちゃいまい﹂
﹁ええ、何のこった?!﹂とカ
ムポスは煙にまかれたように、
﹁君はよく、水棲人というと笑っ
たじゃないか。人間の三上がどう
して沼の底へ入りそして生きられ
122
るか︱︱君に、それが分ったのか
ね﹂
﹁分ったかもしらん。あれは、
君はともかくジメネスも見ている。
僕は、水棲人が実在するものとし
て、考えている﹂
その奇怪きわまる折竹の言葉が、
それから十日ばかり後に実現する
ことになった。それまでも、ある
す
いは地震計を据えて微動のような
123
ものを計ったり、土人に、オムブ
のような浮く樹を運ばせては、い
くつも沼地に投じ足掛りをつくっ
ていた。目標は、カムポスが三上
おおわらび
に会った地点︱︱五本の大蕨。な
お、それに加えて千フィートあま
ふじづる
りの、藤蔓が三人分用意されてい
る。
﹁これから、僕ら三人は沼の底
へ、もぐってゆく﹂
124
と、指令をいうような沈痛な語
すっぽん
気の折竹に、ロイスもカムポスも
あぜん
唖然となってしまった。泥亀でさ
え、精々十尺とはもぐれまい。そ
れだのに、何百尺ゆけば底がみえ
るかもしれぬ泥のなかへ、潜水器
も付けず潜ってゆけとは?! し
かし、折竹といえば名だたるエキ
スパート。あるいはと、折竹の命
にしたがった二人が危なげに浮き
125
木をわたり、最終点の﹁五本の大
蕨﹂へきた。そこで、最後の言葉
を折竹がいった。
﹁沼の底へゆくということは依
然として変らない。二人は、いっ
さいなにも考えず、私のとおりに
する。私が、飛びこんだ個所へ、
ちゅうちょ
躊躇せずに飛びこむ。いいか﹂
そういって、折竹は大きく息を
吸った。日没の、血紅の雲をうつ
126
してまっ赤に染った沼土は、さな
ふらん
がら腐爛物のごとく毒々しく美し
い。と、彼のからだがスイと浮き
木を離れ、ずぶりと泥にはまった
かと思うと、たちまち見えなくなっ
た。二人は、相次いで飛びこんだ。
すると、泥のために息詰まるよう
な苦しさが、ほとんど一、二瞬間
後には消え、はっと空気を感じた。
み
おやっと、息を吸えば肺に充つる
127
うれ
嬉しさ。
﹁折竹さん、ここ、何でしょう?
どこに、いらっしゃいますの?﹂
ロイスが、あまりといえばあまり
やみ
なこの不思議に、漆黒の暗のなか
で折竹に声をかけた。腐土のにお
いと湿った空気。ぬるっと、触れ
みずごけ
た手には水苔がついてくる。と、
遠くないところから折竹が答える
声。
128
﹁ここはね、いわば地下の大密
林というのでしょう。むかしは樹
うも
がしげった渓谷だったでしょうが、
じすべ
地辷りもあってすっかり埋れた。
そこへ、ピルコマヨが流路を求め
ちゅうせきそう
てきた。水が、沖積層のやわらか
し
な土に滲みながら、だんだん地下
の埋れ木のあいだへ道をあけていっ
たのです。どこまで行くか、どこ
で終るのか、形も蟻穴のように多
129
岐怪曲をきわめた︱︱﹃蕨の切り
ラビリンス
株﹄の地下の大迷路です。それも、
上から水がくるために、絶えず形
が変ってゆく。また、沼の水面下
に大穴が空いても、すぐピルコマ
ヨが運んでくる藻のために埋まっ
てしまうのです﹂
﹁では、三上はここへ落ちたの
でしょうね。カムポスさんに会っ
たときは、ここから出たのでしょ
130
うね﹂
﹁そうですよ。しかし、生きて
いられることは、期待せんほうが
いいでしょうね﹂
と言ってから、カムポスに声を
かけた。
﹁君は、僕が地震計を持ちだし
たら、笑ったじゃないか。だが、
絶えず迷路が変ってゆくので、微
動も起る。それに、あのダイヤの
131
カ
ス
カ
リ
ヨ
土が渓谷性金剛石土なのを考えて
も、むかしは渓谷︱︱といったよ
うな深い地下が思われてくる﹂
そこで、懐中電燈がはじめて点
みずごけ
された。ぐるりは、水苔のついた
軟かな土、ところどころに、埋れ
木の幹が柱のようにみえている。
三人は、それから足もとに気遣い
い
ながらじわりじわりと進んでいっ
うよきょくせつ
た。すると、紆余曲折しばらく往っ
132
たところに右手の埋れ木にきざん
だ文字と地図。あっと、ロイスが
胸をおどらせてみれば⋮⋮。
︱︱日本人、三上重四郎なるも
のこの迷路に入る。アルゼンチン
各所監獄を転々とした末に、政治
犯四名とともに﹁蕨の切り株﹂へ
連れてこられて機関銃弾で追われ
ながら沼地へと追いやられた。四
133
Vid
エミリア・
名のなかには、革命に関係した有
Emilia
嬢も混っていた。嬢も、
名な女優
ヴィダリ
ali
おそらくここへ落ちこんだのだろ
う。時々、かすかに歌声のような
ものを聴いたが、ついにめぐり会
えなかった。それほど、この迷路
は複雑多岐である。さらに、ここ
へ来て余は、勝利を痛感す。それ
は、この密林が埋れて迷路ができ
134
たのは⋮⋮まだ新しく、白人侵入
当初だったろう。その犠牲者が、
しろう
所々に完全な屍蝋となっている。
それに反して、グァラニー土人の
は一つも見当らない。つまり、白
ペ ト リ
人における化石素説が、ここに完
全に立証されたわけだ。
しごく
ここは、四季を通じて一定の温
めし
えび
度を保ち、寒からず暑からず至極
しの
凌ぎよい。食物は、盲いた蝦、藻
135
草の類。底には、ダイヤモンドが
あるが無用の大長物。さて、本日
出口をさぐりさぐりやっと地上へ
たいじ
出たが、やはりパ、ア両軍の対峙
は続いている。ダイヤをやって、
ロイスへの伝達を頼んだが、あの
男はやってくるだろうか。
ああ三上と、しばらくロイスは
むせ
咽び泣いていた。おそらくこれが
136
プエルタ・デ・イエロ
彼の絶筆であろうか。なお、地図
トラスコロ
には祈祷台とか、鉄の門とか目印
が記されてあるが、おそらく、当
時と今とは道がちがっているだろ
う。しかしこれで、水棲人の謎が
解けたのだ。
ジメネス教授がみた女の姿は、
たぶんエミリア・ヴィダリ嬢だろ
のぞ
うし、また沼地から現われた化石
しろう
屍蝋をみて、水棲人覗くと早合点
137
したのだろう。そこからは、道あ
るいは広くあるいは狭まり、くね
くね曲りくねりながら、下降して
ゆくようである。すると、眼界が
ひかりごけ
とつぜん開け、かすかに光苔のか
がやく、窪みのようなところへ出
た。
あたり
四辺は、かつて地上の大森林だっ
た亭々たる幹の列。あるいは、岩
りゅうぼく
石ともみえる瘤木のようなものの
138
ぼうぜん
突出。ちょっと、この奇観に呆然
たる所へ、ロイスのけたたましい
叫び声⋮⋮。
﹁アッ、あすこに誰かいますわ﹂
すると、はるか向うの光苔の微
光のなかに、一人の、葉か衣か分
らぬボロボロのものを身につけた、
や
瘠せこけた男が横たわっている。
声を聴いたか⋮⋮手をあげたが、
衰弱のため動けない。三上と、ロ
139
イスはぽろりと双眼鏡を取り落し
た。
しかし、ここに何とも意地の悪
こ こ
いことには、ちょうど此処までが
綱の限度であった。ずぶずぶもぐ
ぎょうこう
る泥の窪みをゆくことは、僥倖を
期待せぬかぎり、到底できること
ではない。みすみす眼前にみてと
ロイスの切なさ。そこへ、カムポ
スが敢然と言ったのである。
140
﹁俺がいってみる。このままで、
帰れるもんじゃないよ﹂
そうして彼は、感謝の涙にあふ
れたロイスの目に送られながら、
綱をといて窪みに降りていったの
だ。無法、神に通ず︱︱とは、カ
モットー
ムポスの憲法。今度も、三上を抱
えてようやく戻ってきたのだが⋮
⋮、差しあげて、折竹に渡したと
き足場を取りちがえ、ずぶっと深
141
みへ落ちこんでしまった。とたん
に、その震動で亀裂がおこり、泥
水が流れ入ってくる。
﹁あッ、カムポス﹂と、思った
つか
ときは胸までも漬っている。カム
ポスは、一度は血の気のひいたまっ
蒼な顔になったが、やがて、観念
え
したらしくにこっと折竹に笑み、
﹁駄目だ。俺は、もう駄目だか
ら、君らは帰ってくれ。ホラ、み
142
ろ、上の土がだんだん崩れてくる
じゃないか﹂
﹁カムポスさん、私のことから、
なんてすまないことに﹂
とだんだん浸ってゆくカムポス
に絶望を覚えるほど、いっそうロ
イスは切なく、絶え入るように泣
きはじめた。
﹁じゃ、カムポス﹂と、折竹が
おろおろ声で言うと、彼は、
143
ビ ツ シ ョ
﹁一番違い︱︱動物富籖のあれ
がやはりこれだったよ﹂
ヴイアジェン
それからロイスに向い、﹁御機
ボーア
嫌よう、気を付けてね﹂と言った。
それから、身を切られる思いで
帰路についていた二人の耳へ、カ
ムポスが高らかにいう声が聴えて
きた。﹁シラノ・ド・ベルジュラッ
ろうしょう
ク﹂の一節を朗誦している。シラ
ノが、末期にうち明けなかった恋
144
を告白しているところ⋮⋮。
﹁面白くもない私の生涯に、過
きぬず
ぎゆく女性の衣摺れの音を聴いた
のも、まったくあなたのお蔭﹂
ああと、ロイスが何事かをさと
り、抱いていた三上の感触がスウッ
と飛び去ったような気がした。カ
ムポスが私に恋し、私のために死
んでくれた⋮⋮。朗誦の声は、な
おも続く。
145
﹁哲学者たり、理学者たり、詩
人、剣客、音楽家、また、天界の
旅行者たり。恋愛の殉教者︱︱カ
ムポス・モンテシノスここに眠る﹂
と だ
そして、声が杜絶えた。
146
底本:﹁人外魔境﹂角川文庫、角
川書店
1978︵昭和53︶年6
月10日発行
入力:笠原正純
校正:大西敦子
2000年9月15日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
147
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
148