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演 習 刑法
刑法
型(偽造罪がその典型)もある。
3 客観的に犯罪にあたる事実が存在したか否かの認
定が,犯罪の成否の判断の出発点となる。設問では,被
首都大学東京教授
星 周一郎
HOS HI S hui c hi ro
設問
X は,A を事故死に見せかけて殺害し生命保険金を詐
取しようと企て,X の運転する自動車(X 車)を A の
運転する自動車(A 車)に衝突させて,A を示談交渉を
装って車に誘い込み,クロロホルムを使って失神させた
上,溺死させるという計画を立てた。X は,クロロホル
ムについて,人を失神させることはできるが,それに
よって人の死が惹起される可能性があるとはまったく
思っていなかった。そして,某月某日,X は,計画どお
りに A 車に X 車を追突させ,示談交渉を装って A を X
車の助手席に誘い入れ,午後 9 時 30 分ころ多量のクロ
ロホルムを染み込ませてあるタオルを A の背後から A
の鼻口部に押し当て,クロロホルムを吸引させて A を
昏倒させた(「第 1 行為」)。その後,X は,A を約 2km
離れた港まで運び,午後 11 時 30 分ころ,ぐったりと
して動かない A を運転席に運び入れた X 車を岸壁から
海中に転落させて沈めた(「第 2 行為」)。A の死因は,
第 1 行為であるクロロホルム摂取に基づく呼吸停止お
よび心停止であった。
X の罪責について述べなさい。
!
P OINT
❶故意と実行行為の把握。❷実行の着手時期。❸故意の
内容。❹構成要件の客観面と主観面の認定。
解説
1 設問は「クロロホルム事件」として著名な最決平
成 16・3・22 刑集 58 巻 3 号 187 頁をベースとしたもの
である。すでに論じ尽くされた感もあるが,犯罪成否の
判断のあり方を考える上で興味深い事例であることは間
違いなく,ここで改めて考えることにしたい。
2 まず,犯罪は,客観的な事象と行為者(犯人)の
主観的な事象とで構成される,ということが,犯罪論と
して犯罪の成否を考える場合の前提となる,という点か
ら考察をはじめよう。
犯罪の客観面は,犯罪行為にあたる「実行行為」と犯
罪結果たる「結果」,および両者に原因結果の関係の存
在を求める「因果関係」を軸に,さらに主体(行為者),
客体(犯罪行為の対象)
,稀に客観的処罰条件などから
構成される。主観面としては,行為者の故意または過失
に加え,「行為者に対して他の適法な行為が期待できた
のにあえて違法な行為をした」とする期待可能性や責任
能力などから構成され,目的という要素が必要となる類
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法学教室
Apr. 2016 No.427
害者 A の死亡という結果が生じていることは間違いな
い。もちろん,等しく「人の死亡」という結果を生じさ
せても,殺意があれば殺人罪,傷害の故意であれば傷害
致死罪,過失であれば過失致死罪となり,それゆえ,そ
の行為も,それぞれ殺人の実行行為,傷害致死の実行行
為,過失致死の実行行為となる。故意(過失)と実行行
為は同時存在することが原則として必要であるだけでな
く,故意(過失)の内容により,その行為の意味も変化
する。
4 設問については,「人を殺そうとして(殺人の主
観面)人が死んでいる(殺人の客観面)のだから,殺人
罪(殺人既遂)が成立するのは当然ではないか」と思う
かもしれない。その感覚は決して不自然なものではない
が,この設問で注意しなければならないのは,犯人が,
殺人行為として位置づけていた海中転落行為(第 2 行
為)ではなく,準備行為として考えていた第 1 行為で死
の結果が生じた,という事情である。
もし,①第 1 行為が準備行為でしかなければ,その時
点では殺意はないため殺人の実行行為ではなく,また,
殺人の実行行為であることが明白な第 2 行為とは別個の
行為であることになる。その場合には,ⓐ殺人の準備行
為から不注意により死の結果が生じたとして過失行為で
あると捉え,過失致死罪として構成するか,あるいはⓑ
その時点で暴行の故意を認定して暴行行為であると位置
づけ,そこから死の結果が生じたものとして傷害致死罪
の成立を認めるべきことになる。
だが,もちろん,②死の結果が生じた時点で,殺人罪
の客観面(特に実行行為)と主観面(殺意)が備わって
いるのであれば,殺人既遂罪の成立を認めることができ
る。① ②の相違は,殺人の客観面と主観面が第 2 行為
の時点ではじめて備わったとすべきなのか(①),それ
とも,第 1 行為の時点ですでに備わっていたと考えられ
るのか(②),である。先の感覚を支える理論的根拠の
存否は,この点をどう考えるかにかかっていることにな
る。
5 以上を前提に,まず,犯罪の客観面の認定から考
えていくことにしよう。
設問の X は,第 2 行為を A 殺害の行為と位置づけて
いた。実行行為とは,当該構成要件の結果を発生させる
類型的危険性をもった行為である。たしかに,気絶した
人を海中に転落させる行為は類型的に死の結果を生じさ
せるものであり,これが殺人罪の構成要件該当行為であ
ると考え,転落させる時点,すなわち第 2 行為から殺人
の実行行為が開始されたとするのは素直な考え方だとも
いえる。そうだとすれば,前述①のように,第 1 行為は
殺人の準備行為にすぎないと考え,ⓐ過失致死罪かⓑ傷
害致死罪の成否を検討すべきことになる。
だが,実行の開始時期(着手時期・刑 43 条参照)は,
それほど簡単に確定できるわけではない。たとえば,㋐
窃盗目的で他人の住居に侵入して物色行為を開始し,㋑
発見した戸棚の中にある財物に手をかけ窃取したとい
う,ありふれた住居侵入窃盗を考えてみよう。行為者が