YMN002005

文芸作品に描かれた講社掌件
﹁講社蜂起研究の ム
﹁目的意味 - ︵﹁思想﹂一九 セ 二丁 二- という
論文に よ る、戴国煙氏の指摘
蜂
欠官
朗
きちんと認識の前提において日本人として自らを告発している
もの
が殆 んど無く 、多くの台湾縁故者の意識において
兆きえみ
頻 繁 なる
植民地主義も植民地問題もいまなお延々と接続してきているば
かりか、経済大国化した日本と、日本経済の緊密化、
した形で増幅される
け霧社 蜂起に関する社会学的研究が皆無であること
範
人間往来などが郷愁と微妙に
う ところの﹁映画の第一巻﹂とは、 戴氏 の宰柵
ある。何
をやらなければいけない。警察白は鉄砲とかピストルをもって
月何日警察署を襲って警察官の妻子を殺した。それには第一巻
ムロ湾の蕃善事件は、映画でいうと第一巻が既に省いて
丈 に引用きれた、横尾 広輔氏 ︵元台湾総督府 理蕃 課税 学官︶の 、
さえあった。ここにい
という立言は、台湾縁故者の一人でもある私に対する痛 烈な 摘発で
える
㈲戦後の日本における論文・著書の類が、社会科学を専攻としな
い作家、文学研究家、研究を業としない人々によってのみ執筆
きれていること
㈲高山族を研究対象とする日本人の民俗学、民族学、人類 学の 研
免者が少なくないのに、これらの人による霧社 蜂起に 関する 諭
文の発表が非常に少ないこと
は、たいへん重要な示唆に富むものであった。ぽかん つ{
台湾縁故者の中でも﹁ 理春事業﹂における﹁映画の第 一巻﹂を
九三
いるが、私は蕃地のどんな所に行っても身に寸鉄も帯び
ヮことは
横 尾氏のいう
危害を加えると、鶏でも猫にとびつきますよ。そうい,
充分反省すべきことが多い。
という座談会記事のことばによっているのであるが、
﹁映画の第一巻﹂が、 蕃害の背後にある 理 蕃の施策ない し失政を指
九四
﹁亭漫 ﹂は 禰生 子の、それぞれの紀行文を一冊はきとめ て 、昭和士
セ年セ 月に 拓 商社から出版したものである。
その傭 空子の﹁ 壺麿 ﹂によれば、捕虫子の旅は、昭和士年の秋の
に 当たり、
そ の博覧会を
機会に、 禰生 子の友人である民政長官夫人が招待した ものであるら
﹁施政四十年記念﹂の博覧会が開催された年である。
ことである。この年はムロ湾が日本に割譲されて四十年目
しているのに対して、
しい。尤も、捕虫子は博覧会にはあまり興味が無かったのか、その
戴氏 のそれは、植民地政策とい, ヮ原罪にまで
ア
は、
ト戴
遡っているように思われる。ムロ 沼 縁故者が霧社事件を軸 巾ブのP
注O
そ 乙で、 霧社
霧肚事件に通じてを り 、食後 床の間に地
た。それを捕虫 子 は、次のよう
ブルー ダオ の妹と 、近藤巡査との政略結婚が破綻にな つ たこ
んずる 蕃肚の女鑑を素したこと。後で叛徒の首魁とな つたモ|
原因はいろいろあるが、老い巡査たちが何よりま づ貞 潔を重
にまとめている。
圓 をかかげて委しい話をしてくれ﹂
の宿の主人は﹁もと警部で
いる。そして、その一部に霧社 訪問のくだりがあり、
当時としては一般の旅行者の行かないような僻地まで足を延ばして
記事が多く 、
紀行文は、全島一周の旅行が主で、それも、蕃社巡りの
び しい内部告発
氏 のい う とおり、先ず﹁日本帝国の台湾統治﹂についての社会科学
的な11というより人道主義的見地に立ったき
の後に始められなければなるまい。
自 らの研究分
ただ、私のような社会科学の専門家でなく、民族学・民 俗学, 人
類 学の専門家でもないものが、霧社事件を語るには、
ム作品﹂とい
戴氏の告発に応 えることに
野 に関係のある︵決して専門の分野ではないが︶﹁文ぜ
ぅ 範囲でふれてみるしかない。これは、
はならないかも知れないが、それでも私なりに﹁映画の第一巻﹂を
考えた上で、この稿を起こしたりもりである。
と 。霧肚の駐在所を脊負って ぬ た 佐塚 巡査も同じく 蕃女 を 妻に
﹁朝鮮 蔓弩 海南諸港 b とい
塚巡査の妻は格式の低い蕃肚の生れであったから、巡査夫人た
る多くの 蕃祀がそれぞれに違った名前や博統 をもつてを り、佐
して ぬ たが、革に 霧祀蕃と 云っても、山中 や渓谷に散在 して ゐ
野上豊一郎・野上・ 禰 七子の著になる
と﹁海南諸港﹂は豊一郎の 、
一一
ぅ 書がある。はしがきによれば﹁朝鮮﹂
に最大の敬意を強ひられるのが反感をそそつたこと。
努 肋間彊など、 絡 つて ぷ す
柄を自分も立てようと思ひついたのである。事實は首を種るど
ころか、事件が勃敬するといち早く逃げだしたほどの舌一久地 な
しであるが。へんに煽動が旨 かつたらしい。 かぅ して て ヘボ@
童 の公事校の改築についての
ってめたものに火をつけたのは、ホーボ肚のピポサッ
なく、
朋など、さまざまに哀れむ物語を残して今では過去の 一事件と
中の知識人で、 公畢 校の教師をして ぬ た花岡兄弟の悲 劇的な最
を中心とする人っの 蕃祀の蕃人三百人が蜂起したもので、蕃人
ピポサツ ボは 養
妻のいきかひであった。
ボ祀は山麓の眉漢に近い蕃祀 の一つで、
つた。妻はおそろしく淫奔で。内地人の若い男を柏手
ーダオ は勇猛であったのみで
なってしまった。モーテル
ビポ サッポは︵中略︶憎む
凪 までも遊びに出かけた。
蕃人ながらも立派な偉い男であったらしい。
以上の描写は、いくつかのか きい誤りを含みながらも、
人の首を獲ることで、頼もしいえらけ男 としての自分 を
識 させたら、もう一度愛情を取り戻せるかも知れない、
紙数の中にまとめるとすれば、なかなか要領よ くまと められてい
祭
|
かも知れない法律の虎罰 をひたすら心配した。この恐
サッポのつけ目になった。彼はすべての蕃肚の尊敬を 集
る大頭目を説き、息子が不名誉な刑罰を受ける前にこ
これだけ
辛
@
@@
。
@
といえる。そして﹁いくつかの小さな誤り﹂も,宿の主人の表現
彼の二人の息子を主とする一群の仲間が通りすがりに 一
起因するもの、そのときの禰圭子のメモの不備による もの、また
た噴
らしい 拶 みが生じて ぬ た。それは鹿狩に
マヘボ祀のモーブルー ダオ にも巡査と結婚して破れ
錆
査を侮辱したことで、若者たちが一般的にもつてぬ
に
いるかを見てゆくことにしょう。
ろ う。ともかく、いくつかの点について、他の作品にどぅ 描か,れ
そ なたよりに セ年後に書下ろしたためのものなど、いろ いろある
選 であった。駐在所側は穏便にすべてを黙殺する方針
メ
に 、父親の モ 1々ル ーダオ はそれとは知らず、息子た ち
だ
させ、それを機雷 に妻から讃美されるや う な営獲 りの 手
九五
破綻の原因については、それが政略結婚であったこと によるよう
破綻になったこと口
﹁叛徒の首魁となった モ 1々ルー ダオ の妹と 、近藤巡査 との結婚が
一
一
題 のほか
の
る
て
る
の
ぶ
と
嫡 子
き
妻
と
妹
し
入
潮
ゐ
に
が
め
を
の描写は少し違っている。
注②
にこの文章からはよみとれる。その点、﹁霧の蕃祀 ﹂ 八中村地平 V
モーナル ーダヲ にはデ フ スルー ダヲ といふ妹がめる。 兄 に似
て大柄な女であったが、眼が濡れたやうに美しく、美人 0名は
テヮス に魅力 を感じ
附近に高かつた。 霧肚警察署勤務の内地太巡査近藤儀一二冊
即は、
この テワ スルー ダヲ に結婚を申しこんだ。
理蕃 政策上、内地 人巡査
@
都
九六
にもつたために、土地の蕃人たちを御してゆくのに
ある。
また、妻のテ フス の密告で、蕃人の不穏な刮 画を事前 こ
@
柄 をたてることもできた。
それが、破綻を来たしたのは、近藤巡査が遠く能言を
爾頬に耳 か
花蓮 港 に転勤してからである。﹁山 とちがつてその町
たくさん住んで ぬ る﹂。﹁眉間に十の字に、
て大きくながれるやう に刻みこまれてある青い人皇﹂
たためであるが、いつたいその頃は、
が蕃婦 と結婚することは、上司の方でも大に奨勘 して めたので
スを妻 としてゐることが、近藤巡査に﹁肩身のせま
せ、彼の神経を苛立たせ、ついには テヮス に心中を迫
ある。
つまり、その結婚が政略的であることを否定はしないが、テヮス が
た時、ある者は彼がどこかへ失蹄 したのではない
近藤巡査が行方不明になったといふ奇怪な噂が町
はない。ついに近藤は消息を絶つ。
が、﹁素朴なオプティミスト﹂であるテ フス に理解の
ろ寝する﹂生活 から﹁官舎の
美人で近藤巡査はそれに惹かれたことになっている。アワス もまた
単に ム﹁までの﹁跣足のまま竹の床にど
フス は
た。しかし、彼の気の小きい、善良な性格を知って
ちは、彼が投身自殺をしたことを信じて疑はなかっ
この悲劇を、宮村里弥の ﹁マヘボ社日誌﹂注
は③
、もっと
らりと扱っている。日誌の筆者として登場する宮田巡 査
ル ーダオ の次女らまりテ フス の姪 ︶と、 能高山の奥 深
に 通ずる天長断崖を挑めながら、次の対話をしている。
手
た
が
け
ヮ
さ
る
で
つ
普の上に住﹂ む生活へ移って﹁大人の奥さん﹂とあが められるとい
うニ%びからだけでなく、テ
心をこめて内地犬になりきらりとしてぬ たし、命をか けて 夫
近藤を愛して ゐた 。それは仕合はせな思ひであった。
一万、
新 しい
冊と、 決し て 内地犬
近藤巡査も亦新しい生活に決して不満ではなかつた。
妻はけだもののや う に進しく生き生きした
に劣らない容貌とをもつてゐる。その上、勢力家の頭目を 義兄
ム
き
た
れ
僚 短
さ
@
ナ
同
と
布
曲
に
モ
花
蓮
港
﹁近藤さん、ほんとうに死んだんでしょう
か?
テ フス を 捨て
が 破綻に向かって進んでいたことを暗示している。
にあずけ﹂忘年会の夜、玉里からタッカイ駐在所へ帰る途中、秀雄
近藤は﹁二月ほどで珂勤 になると妻のテ フス を花蓮 港 0元勝二一郎
な 立派
﹁私にも全然わからん⋮⋮しかし、近藤きんは、真面目
轡渓の長い鉄線橋から落ちて死んだよう に偽装して、 膨 湖唐馬公 経
て 逃げたんでは、ないでしょうね﹂
な人だったから、捨てて逃げていくような卑怯なまねはしない
由 で脱出するのである。
﹁酒乱の僻
ある。
四
口義肚の駐在所を脊負って
と口
室主任の佐 塚愛祐は ﹁巡査﹂ではなく﹁警部﹂であった
ろう。
。尤も 、こ
霧社は 輔車署の分室として霧社蕃 のたばねであったか
こでい う ﹁巡査﹂は一般に警察官というほどの意味であ
ら、その分
巡査夫人たる彼女に最大の敬意を彊ひられるのが反感をそそつたこ
たが ︵中略︶佐塚 巡査の妻は格式の低い蕃祀の生れで あったから、
ぬ た 佐塚 巡査も同じく蕃 女を 妻 にして ゐ
しい ぽどの重きで、彼の意識にのしかかったであろうことは確かで
と ではなく、そればかりか、総頭目としての立場からすれば、息苦
巡査との結婚が破局にいたったことは、決して彼にと って名誉なこ
られたことには間違いがなく、モーブルーダオ にとって 妹と 日本人
しかし、近藤が脱出したにせよ、自殺したにせよ、テフ スが 捨て
筈だ﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁それは、私が断言してもいい﹂
しかし、坂口汀子の﹁霊社﹂では、右の二者とは、かなり 趣きを
ら逃れるための計画的矢掠の第一段として捕 れている。
異にしている。坂口によれば、近藤巡査の花蓮 港転勤 は、テヮスか
のある近藤﹂の
ぅ のさ。 兄 貴 の 町
お っぺ| やん 、て知 つとるか。へ っ。知るまい。 ぎま め み や が
ね 。おめえみたいな、お多福の鼻曲りを舌ロ
モ|
郎 。自分だけ、美女揃いのポーゴーから、えり抜きをもらいや
がつ て 。掩には、 マヘボ の鬼女を持たせやがつた。
オの 妹でなかつたら貰 う もんか。
という白雨舌や
口
い 。取組みあい、近藤を叩きのめす。
二人の生活
テ フス は、近藤より上背もあり腕力すぐれたケ ・だ。負けていな
という夫婦喧嘩の描写は、花蓮池 へ転勤する以前から、
九セ
また、佐塚警部の妻、ヤウイタイ モは、ハック蕃の出であり、 ハ
九八
というモーブルーダオ の返事によって、それが察せられ
佐塚警部の妻も亦、蕃人出身であった。だから始め彼が分署
これについての中村の描写
て来たいわば敵対関係にある蕃社である。夫 だる佐塚警部を動かし
主任としてその土地に赴任した時、蕃人たちはその束 任を心か
ックは﹁格式の低い蕃肚﹂というより、霧社蕃と長年確執な っづけ
て、霧社蕃に不利な治政を押しつけてくるのではないかという危惧
期待のためにである。しかし、警部が豫期しない失政 をほどこ
ら喜んだ。自分たちの生活に理解が深いにちがひない、といふ
﹁オクシャン、ハックのヤワイ・タイモ、知ってるか﹂
した時、蕃人たちの心は彼から離れた。初めの期待が大きかっ
は当然抱いたことであろう。これは、宮村の
﹁ナカヤマシャンのときも、今度も、どうして
霧社 の敵蕃 の娘
ただけに、失望の度合ひは少くなかつたのである。
も、実際の蕃社の一つ一つが独立国の観を呈していて、複雑に入り
をオクシャンに持ったボッ コンを主任にするか﹂
﹁
能高 の理蕃認めボッ コン、知らないことないだろが、わざと
組んだ対立意識をもっていることについて舌及
口してい
坂口も、余り深くは細れていない。僅かに、佐塚が近藤巡査の送
こんなことするのか・・霧
・社
⋮蕃を困らせようと思って
というモーテルーダオの三つの発言で意を尽くしている0 これに対
﹁マヘボ、気をつけなきい。私、、む。﹂
配
別会に てヘボに招かれて出かける時の情景に
﹁ム﹁は、みんな同じ日本人だ。⋮⋮
敵蕃も味方蕃もない じゃは
﹁大丈夫だ。﹂
して、宮村は
いか⋮⋮﹂
﹁ダダオ、怒って帰った。まだ三日目。蕃人、怒るとひどいこ
は思った。ピストルを射 つような事態が起る、と迄は考えたく
してきた仲である。必要以上の怖れが、オビンにある、と佐塚
妻のオビ ンは、マシトバン肚 m身 だ。 マヘボとは、絶 ぇず反目
オビ ンは、短銃を夫に渡した。
とする。私、心配ね。﹂
﹁それに石塚さんは、安達さんに負けないようないい 大 だ ょ
奥さんも立派な人だ。決して、自分がハッタ蕃 だか らと@
ロ
という返答が、宮田巡査の返答である。しかし、これで危惧が消 え
たわけではなく、
﹁おれはいいが、蕃社の者がやかましい﹂
な かつた。
というくだりがある。
五
ここに 公摩 校の改築とあり、中村は
口
蕃童 の公畢 校の改築についての労働問題 し
その夏の初め頃、霧他山厚校は 換算六千 圓
ることになった。︵圏点筆者︶
と書いているが、宮村が
で、
この年の夏頃、霧 社小学校の寄宿舎が改築されること
と 記し、坂ロ が
霧肚 小金車 校は 、分室の南と北にそれぞれあったが、
になり
そ れはも
尚 、近来、各蕃祀駐在の日木人巡査
急構 して、宿舎の二戸をあてていた、寄宿杢口が手狭
う 改築の時期にきている。
の子弟が、
築
し ゃせんにピ
ァ。﹂ 八 坂口 V
﹁そだ、 そだ。俺達の十 供 のいく 卑校 たで、俺は、こな に、材
木 かついでいくだ
あるのは、そのことをさしているのであろうし、出役の蕃人の不
をおきえるために、寄宿舎の次は公学校だからという説得 工作が
されていたことも、想像される。ただ、当時の内地大の 一部に
蕃人に皇民教育を授ける霧祀 公孝枝 が瓦 ぶきの堂堂 た る 建物で
あるのに比較すると、内地人見童 のための小車 校は、茅 ぶきの
粗末な 、見すぼらしい校舎に過ぎない。蕃人に典 へる印象は勿
いうような植民地統治者としての感情があったことは事 実であろ
ともかく、改築にかかわる問題は二つあった。一つは、
ヰ
1ノ
・ノ
Ⅰ﹃
材木の搬
いう 江川博通の批判︵﹁霧社 の山桜﹂一八四 ぺ︶ともな るのであ
然る後次年 皮 に小学校改築に着手したりとせ は
使用可能の物あらば、それを寄宿舎用材に充当する︵ 中略︶
社側も好感をもって迎えたであろうし、同校舎の古村料中なお
︵
巾略 ︶初年度において先ず公学校の増改築を決行すれば、蛮
かやって来られたことだし、職員や蛮下らの労働関係 に 鑑み
如何に、焦眉の急に迫られてる工事とは言え、今日までどうに
。それが
う
改
0 ただ、寄宿舎工事のあと小公学校の増改築が 企
、たてるんでなかつただ ば、
と
平
な
と
と
新
になった。どうしても新築しなければならなくなってい
という方が正しい
者
る
画されていて、材木運搬の蕃人のム五話に
用筆
﹁これで、 公軍校も
圏
遠方法、一つは労賃の支払い方法についてである。
この付近の蕃人の習慣としては、木材をはこぶのに、
地 画き
首然 、肩にかついで運ぶ ことを
ひきずつて歩くのが普通である。しかし、それでは用材に傷が
つく。内地人の常識としては、
そ のことは
一OO
はかがいかんのです。もつと出役をふやしたら、どうかと思,ヮ
んだが。﹂
﹁然し、ひきずつてだと、一人二五位持てるんじやないです
よO
リ﹂
卜
﹁とんでもないよ。
君。大事な柱が傷だらけになるよ。まあ、
柱 にするのを送り出すのだからね。﹂
命じるよりか仕方がないのである。︵略︶しかし、
豫期しない無惨な結果を産んだ。蕃人たちの肩は馴れない万法
に、その間の消息がうかがわれる。
うんうんうなっている壮丁がいましたよ。﹂
﹁然し、塘送は無理ですよ。ホーゴーでは、一日出役に出て 、
こュ
%
のために、いちゃうに赤く腫れあがつて痛んだのである
それまで用材を運搬するのに地面に引きずっていたが、
その上に、賃金の問題がある。中村にょれば、次のょ,
ヮになる
賦役とはい ふものの、労役に対しては営然の報酬とし て日富田
では砂利が喰い込みカンナがかけられないという苦情が娃築睨
場の工事者の間から起り、八月の終り頃から担送を命じたので
十銭づ つが支給される約束であった。それは蕃人の生活程度毛
、安い賃金があるもんか﹂
﹁そんな、四十銭だなんて、馬鹿な
人たちは、たちまちそれを煽情の具に供した。
らこの賦役に穏やかでないことを知ってゐる二三の不% な本,
島
ある。 タ ウカン やリュックのように両肩にかつぐのは大して 苦
︵中略︶
ら推せば、決して少い額ではない。しかし、蕃人の心が始めか
最も苦痛とするところである。彼等は悲鳴をあげた。
八宮村 V
にしないが、角材のような堅いものを肩にかつぐことは彼等の
彼等の肩は紫にふくれ、血がにじんでいる者もある。
増送 せね ばならぬ
この煽動が、素朴な蕃人たちの不平をいつそう助長させ る結果
同じように、坂口も、﹁二十余キロの山道を、
い。宮村は
しかも、この四十銭の日当が、夫は順当に支給されなか ったらし
を産んだ。
槍送 以外に ない﹂とい
カよ
ナカ
,
な,
こと﹂について、﹁いかだが流せない以上、
胎速 が早くないので、
う左塚 のことばを記しているし、造材所に連絡に行った花岡一郎 と
市村巡査との間の対話、
﹁材木はどんどんよってるが、
お役所仕事で、賃金支払いの遅延も加わり、彼等の不平
にわかに全蕃社にひろがっていった。
と書き、坂口はさらに
﹁一郎。賃金は、いつ 排ぅ のか。﹂
@
これについて、事件後、警察の担当者が賃金の一部を着と皮
いう噂が流れた。警察当局は﹁帳簿には日当四十銭ずつ支払
る﹂と発表しているが、﹁それは帳簿尻 だけのことで、 蕃人
レドモ 、一部ハマ ク 末社 ヒ ニ々 ッ テ ラ リマス。 是モ 賃銀 ノ支払
ッテ 居 ルコ ト
よ
ノ奨励ハ教シマスケレド モ強制 シ タコ
ガ 延滞 シタト テ フ コトガ 今回 ノ暴動 ノ一 原因ニ々
ハ識 メ マス。︵略︶貯金
トハ アリマセ ヌ 。
U
カ ムジャウ・から
い。すれも、蕃人の迷 信 深きを、
一O 一
その他に、坂口の描いた﹁台湾人﹂金城の果たした役割ほ ついて
藤春夫の﹁魔鳥﹂の材料となったものと同質のものであろう。
注⑥
霧社事件の伏線として設定している。ユーカシャウ ソのことは、 佐
で焼き殺きれる情景を描いている。
追われた、 ユー カ シャウ ソ を配し、マレッ パ社の中毒事件にからん
上げているし、坂口も、妖術をつかうといわれて、
の伐採を﹁ウッ トフ ︵
神 ︶の怒り﹂と表現し、人夫の事故 死をとり
宮村は 、 桧が 霧社蕃 にとって﹁祖先発祥の霊樹 ﹂であ り 、その 栓
る0
﹁絡まって ぶ す ぷす煙 って るたもの﹂はまだ他にもいろ いろあ
のヒポ サッポとその妻のいさかひであった。
口
絡まって ぷすぶ す 庶 つてめたものに火をつけたのは、
コ
"
@@@@
とれるであろう。
あることによって、三善のそれぞれの記述の意図するところが
と
み
﹁四十銭から二十銭は貯金せんならんのは、何として
へんなこ つた でや。﹂
﹁木島人は八十銭だと よ。どして、俺達だけが、四十銭
ん ?﹂
い
た
と
てい
無智
明ら
力
を利用して、名目を設けて内金を支払い、一部着服した形跡
かだ﹂というのである。
その名目が﹁一部は貯金させて通帳にした﹂のか、出役者
変動があるため日給計算が事務的に繁雑で支払いが遅 延 した
支払いの経路が、﹁総督府、台中州、能高部、霧社分 室 ﹂ の
経るために遅延したのか、いろいろ理由は考えられる。
霧社小学校 ノ寄宿舎工事 ノ労力賃銀八一部ハ仏 ッテ居
事件後の議会答注
弁
①
七ロⅠ
か
毎日
階を
という不満の声を記している。
"@
ナ
し
っ
の
が
に
の
段
一O 二
﹁結婚式の酒宴﹂に際して起こった。
八 中村・坂口, 宮村 V ダダ オ
モ1々 の血で汚れた手でさされた盃を吉村巡査は拒絶し た 。献盃の
ねばなるまい。
壕は 、三十戸ばかりの 事弩 人の為に 、開かせてある 雑 賀 屋だ
拒絶は好意の断絶であり、時には宣戦布告ともなる。
っかませない。 八坂口 V
こんだり、時には、酒に酔った蕃丁 をひきいれて、賭博 など
ている。猿滑な男で、なかなか尻尾を
の ﹁蕃人の心が始めからこの賦役に穏やかでないことを
知 っ
それがダダ オ のわな だ 、と坂口は見る。
マヘボヘ 着いた時、差出し た ダダ オ
く ひいて﹁あっ、先祀しました。汚れています。﹂ダダオのヮ
の手が汚れていたのを思い出した。手を握ろう とすると 、素早
浮 べた。俺がつけ た火
@
トⅩ
オ の ワナ に か Ⅰつて、彼は何
となってしまった。U
、モーブルー ダ才 一家をこれほど追いつめることもな
い
た
ソ
ら
・
ポの 煽動は成功しなかったかも知れない。ともかく、
%
されたた
。
事は
く、ビ
とミロ
った。霧社 の公学校を卒業後、官から特に選ばれ て 合中 師
花岡一郎は ホーゴー社の 一努力者の自子で、幼名を ダッキス
殴打の一件が無かったら、その処罰が行なわれ結着が ついて
ここに花岡兄弟というのは、宮村の説明に
な最期など、きまざまに哀れな物語を残して今では過去
去の一事件
ロ蕃人中の知識人で、公孝校の教師をして
ぬた花岡兄弟 の 悲劇的
セ
村の倣 慢が 、ダダ
事は 、何もなくすぎているのかもしれない。吉村の若 *ごLし、七口
けようとしたら、ダダ オはあわててひいて、手を洗って きて、
ナだ。いつも日本人へかけるフナなのだ。吉村が、そ の盃を受
という部分も、このことに関係がある。
かく、﹁ ぶ す ぷす焙 って ぬ たもの﹂は 霧社 のあちこち にあっ
こ の ﹁へ
ピホ は 、誰にでも そ う @
日
ホは 一種の満足感に、うすら笑いを
。燃えるぞ。素晴らしいもんだぞ。
八 坂口 V
し 、いくら煽動が旨くても、総頭目ともあろうものが、
てまわりたかつた。
だ
つ
煽動に乗るはずはない。もし、モーブルーダオ 父子に よる土日
そう
ピ
を 予告する。
動が 旨かった﹂男は・事件当日の朝、金域の店を訪れ て、事
して、それに火をつけたのがピボ サッポであった。
も
二三の不退な本島人たちは、たちまちそれを煽情の具に供し
佐塚は 、近藤の送別会で、
る 。しかし、
え
が 金
い
し
には 速香合飲の習がある。︶ダダ オ の怒りは当然であ
、 彼は廣東人だ。 蕃肚の者を手なずけて、叩き値で毛皮等覚
考
中
付
た て
。 ゐ
」 る
と
た
。
そ
簡
学
に
ィ生
ん
に
煽
勃
発
し
か
村
巡
査
ホ
サ
マヘボ社に配属されることにな ったので
範学校の講習 科 に人学じ 、この三月、三年間の学業を終えて、
てはこの組織的な行動の統率者たり得る人物は㎜い、と人人は
去と、彼が頭脳と、勇武とに卓 れてゐる事實とから、彼を措い
台中州巡査補を拝命、
断じたのである。︵中略︶
しかし、きうい ふ噂はすべて直しく見営 ちがひであった。被
霧社台地に台湾では 珍 しい桜が
咲くというところから、台中州理蕃課長が命名してく れたもの
は自分に血液の同じ い種族への同族的な愛情と、恩愛のある内
ある。花岡一郎という姓名は、
である。彼の弟分に、花岡二郎という青年がおる。彼も霧社公
ぬ人への義理と、 二 つのものの板ばさみになって苦慮してぬた
中村と宮村とが一郎の叙述に詳しく、二郎のことにあまり紙数を
のである。八中村 V
学校を卒業して、輔車小学校の高等科に学び、今度卒業 して 霧
同じ ホーゴー社の出身であるが、兄弟でも従兄弟でもなく、 先
割いていないのに比べて、坂口は、花岡二郎について、多くの紙数
一人とも
一
師 範 および
社 分室に警手として赴任して来ることになっている。
輩 後輩の間柄で、一郎が二十一才、二郎が二十方。
を賀している。﹁霧社﹂ の冒頭は
ホサッポが百刈りに出るという情報を、 佐塚 主任に知らせる。それ
という文から始まる。 二郎は 、その出身蕃社である ホ ーゴー社の ピ
花岡二郎は、嘗直で 、 霧祀 公室の事務所にいた。
高等科在学中の経費は全部官費支給であり、共に、理 藩政策上
の花形であった。
とあるとおり、実の兄弟ではない。中村は、
は同族であるタイヤール に対する裏切りであるが、二郎にその意識
一郎には、花岡二郎と呼ばれる弟がある。
た巧妙なわなのせいであ
ハツェは二郎と同じホ l コー社の出身で、輔車の
と、台中病院で石護婦の 修業をしている。二人を結婚させて、
理蕃
公学校を出たあ
佐 塚の態度と、総頭目 モ 1々ル ーダオ の長子ダダ オモ 1々のしかけ
ェとの結婚問題に対する
は無い。それは、二人の信頼関係を示している。
事 件当初の新
と考
それが、少しず つ崩れ てゆくのは、ハツ
とだけ記して、出自についてふれるところがないが、
始め人人は兇蕃の首領は花岡一郎であるにちがひない、
蕃人で
べている。
聞報道が、花岡兄弟を兇行の首謀者としたことについては、こ う述
里 校を卒業してゐる。しかし、
へた。一郎は豊中の節節
ある、といふ理由で、訓導の資格は典へられず、巡査0名目で
教鞭をとらきれてゐる。そのことで彼は換聯 して ぬ た。 その 過
一O 三
ェをうとましいと思う。二郎の心は、すでにダダ
の成果を霧社 に示そうというのが、熊葛郡囲蕃 課の意向 である。 し
かし、二郎はハツ
0 であったり二本の線であったり、
鳥の型
一O 四
マホン @
﹁マヘボ は、お前を 、マ ホンの 婿 だと 思 つとる。﹂
﹁え Ⅰじ ゃ ねえか。俺達さえ、承知していたら、
でえ卜と 甘ロうとる。﹂
といったダダ オ の寛大きの裏を知らぬ二郎の心は次第に佐啄め
ら 遠ざかるのである。
一郎はどうか。
ダダ オは、そうした一郎の苦悶を、正面から見つめてい
。虎
既
営分見合せようと 思 っ
この男はまだ 危い 。彼は 、山の古い木に 、 彼がきざみ こ
志の印しに、一郎を加えることは、
佐塚は佐塚 で、
佐塚は 、一郎を マヘボ 教育所へ手放した瞬間から、
ていた。虎を野に放つた、という思いがしきりにあった
腹心を入れた安心はなく、蔓をきられた思いの万が強 ,
カつ
と 、半信半疑の状態の中で、
花岡一郎、二郎だけは、しっかり握っている、つもり @%
たかつた。内心の不安を、 誰にも語らず、 難 曲りかの 山 道
の思想を抱懐して ゐた 、といふ臆説さへ一部には流布さ ね 、 信
井常に微妙なところがあった。中には﹁国胆と 相容れ ない、 あ
以上の坂口の記述から読みとれるように、花岡兄弟の 立場に
方に、鋤 としてかすむ マヘボ の逼りに、彼は所つた。
れ
か
オモ 1々 0% 、マ ホンモー ブのとりこになっていたからである。
ダダ オはひそかに名簿をつくつていた。字を習っていない彼
つけている。それは
は、山中の樟の木肌に、奇妙な、彼だけにわかる暗號 の印しを
の様々な 愛形であったり、魚であったりした。それらはダグオ
マ ホン
オ の記憶として、その木肌にきざみ
0審刀の先でたくみに彫りこまれるものだつた。二郎の名は 、
一つの象徴をもつて、ダダ
こまれた。
ダダ オ は 、 すつかり二郎を、掌中に納めたと思った。
これは
を ﹁え﹂にして釣上げた魚の大きさ、重要さを、ダダオは 知 っ
ている。二郎は、火薬庫の鍵の在り場所を知っている。
ダダ オ にとって、非常に重大なことだ。二郎は濁身 だ。 マホン
はない。 八坂口 V
の婿にしても不都ムロ
二郎が マホンと結婚したいという希望を佐塚に 申し出た とき、 佐
塚は自分が﹁何とか考えてやらねばならぬ、唯一人の人間だ ﹂と、
佐 塚の努力にもかかわ らず、 理蕃課
だ
@乙
種
自分の立場を省みた。しかし、
長の強硬な意見は変わらず、二人の結婚が強行される。
た
同
た
穴 悔
た
む
の
ろ
ら
は
じ
れてゐ
た位である。八
﹂中村Vときへ言
うものもいた。
蕃
銃器庫の鍵を開けてやった二郎、巡査の制
ぐり
服捨
をて
か、
な
本忘
人れ
にて
反抗し
次に着替えて兇行の先頭に立った一郎、思
日を
る。
しかし、その誤りは間もなく正 きれたといってよい。
少 しく苦情
口
力が大した
に通じる者なら、二人の若者の蕃社における地位や発言
一旦 、蕃社に
帰れば、すべて長老の決定に従わざるを得ない単なる 一蕃丁に 過ぎ
二人は理蕃の花形であり、期待すべき人材であるが、
も事
の件
でないことを理解できたはずである。日本人の側から 見れば、
た二人、防禦陣地で機関銃を操作して頑強にる
抵・
抗・
し・
て・
い・・
を報じた新聞記事の随処にそういう文章が残っている。
かは確
花岡兄弟は大勢を見るの明あり。この暴挙を止めよう とした
会議の席上で報告されたという、森田理蕃課長の発 ]
己1
注⑧
護はないが指揮者として陣頭に在った事は事彼
實等
では
ある。なかった。だからこそ、十一月十八日、総督官邸における定例局長
が、如何ともする能わず、事件発生当初自殺したものら
、ら
市し
花く
セ日
以降三十一日頃まで戦線に在った
確かに二十
る。 n
註更に最近に至りて
両花
は岡の自殺は事件勃営
発口
のな
さと
れ推
て
居
岡の自殺は兇
、蕃の運命既に極まった三十一日
定
発見死体の随分古いことから想像される。
十一月九日、二郎の妻﹁はつ子﹂、
佐塚 警部夫人﹁八重 子﹂の二人
情報が入ったのは、十一月三日である。一時、誤報と壬一口われたが、
一郎と二郎とが 相語らって一族二十四人と共に自殺した、という
が、公式の見解であり、真相を述べたものと見なきれるのである。
りと侍へらるち姑
もく屍膿
発見嘗時の推定を採る口
ち文
印化人
と認められ、内地化せりと認め雨
ら
花れ
岡た
も五日間亘
にり生
注の
。
という新聞記事も、佐
牛藤
と枝
いう署名入りで載い
っる
て
右のような報道に対して、宮村ヘ
はボ
コ
社マ
日誌
ヒのあとがきに
いる。
汚花岡一の検分によって事実と確認された。坂口は、その最期をこう描いて
私は、霧社事件当時、全国民憎しみの的とな郎
っの
た
名をそそいでやりたいと、三十胸
五
に年
秘間
めてきたそ
。れは
チ ヤンコ
を着た、子供を腕に抱いていた。その傍に、妻がセルの縞 の和
一郎は、薩摩餅を着て、自足袋をはき、モスのチャン
、花岡一
と書いている。先にも引用し
うに
た、
よ
確かに事件直は
後
し@
キ
i@0
一一
服 は、モスリンの帯を、不器用にしめて、よりそつて Ⅱ
私の一生の仕事の重大な一つでもあった。
たが
の多
でか
あ
郎と二郎が兇行の首謀者であるかのような報っ
道
一O 五
郎は、結婚式に佐塚 に祠ってもら つた、紋何を着てい た。他の
者は蕃服の正装をしていたり︵略︶一行は、丈夫な枝 なえらん
一0一八
は花岡一郎が最初だったのである。
この日時の相違は、二人の遺書
おろし、蕃布をかけた。︵略︶一郎は、二郎に、努めて 笑って
書を二郎が自殺の現場で、﹁傍らに落ちてゐる木片をひろふと、彼
がどこに書かれていたかによってきまるであろう。中村は、この遺
﹁吾等はこの世を去らねばならぬ﹂
みせてから書刀に布をまいたもので、脇腹へつきさしたO ﹁さ
はそれに用意の筆で大きく書いた﹂ものとしているが、これは、や
て、すべて首をくⅠつた。︵略︶一郎と二郎は、死肥を地面に
ひろい。﹂一郎は、二郎 へそ,言
ワった。二郎は、一郎にも蕃布
はり、坂口や宮村の記すように、霧社の二郎の宿舎の壁アト重日かれた
ものである。自殺の現場の椎の木の根元を削って望か
日れた文字は発
をかけてから、ホの枝に紐をなげた。
そのあとに﹁彼等の死は、死後一週間たって発見された。﹂とある
見 きれるまでの一週間で判読できなくなっていたとい,
正装を身につけたことには、一般的にその心情を考える以上に、特
なお、一言つけ加えるならば、タイヤールが死に臨んで日本式の
のによれば、坂口はこの自殺を事件勃発の十月二十セ日の午後とし
一日と朝して
ていることになる。新聞の特電は死体の発見を十一旦 一
いるからである。
腹 して、果てた。死出を飾るためにこれも同しやう に日本服を
り 一尺五寸の日本刀て、先づ子供の百をはねた。結いて白ら刮
は不審げに蕃人が事を起す時には既に十分に謀って、婦 女老幼
子 が霧祀に於て ザラマオからの分捕品を見たと云ふと、 M氏
佐藤春夫が、大正九年︵それは霧社事件の起こるちょ,
フど十年前
注⑨
にあたる︶霧社を訪れたときの作品﹁霧祀﹂に、つぎの一節 がある。
別の意味を持っていることを指摘しておこう。
まとってぬた妻は、夫との間に子供をきしはきんで寝 かすと、
の如きは山中に深く清ませ、その衣類などの如きは悉く隠匿し
中村は、この自殺を、十一月一日のこととしている。
夫 に前後して見事に咽喉をついて自害した。梅鉢紋付0羽織を
瓦新銘仙の軍衣を着、白鉢巻を頭に巻いてぬた一郎は、 刃渡
着て ぬた二郎及ひ その他の一族は、すべて傍らの樹枝て緯死を
蕃人は戦を開く前にはその敵 から曾
べるとM氏は言はれた
てゐる筈だと言った。予はその衣類の縞柄などに就て何細に辻
て・平和時代に受けた贈物などを一纏めにしてそれ敵
を地の境へ
|
遂げた。︵略︶いつたい蕃人の自殺とい へば、すへて以前は緯
死によるものばかりてあった。切腹の形式をとったのは蕃地 て
あ
ある 。或は君の見た大額はその種のものが路傍に捨てられてあ
慣で
投げ 捨てて、恩を認めないことを表示して宣戦するのが習 め
能が驚くほどすすんできたためである。事件が起きたのち、 内
ふ卓れた統率のオ がるたからではあるが、ひとつには蕃人の智
なおしすすめて行った。それはひとつにはモーブル|ダオと い
地人の開侠者たちは彼らに文化を興へたために生じた皮肉な結
つた のではないだろうか、否か。
M 氏と は﹁ 蔓弩 蕃俗話﹂の著者、森内生である。霧社事件当時、
果に、深刻な苦笑をもらさざるを得なかつた。
という中村の指摘も興味深く読めるし、森内生めことはも、それを
日本人か ら与えられた物品を捨てて襲撃が始められたという記 銀を
私は知ら ないが、日本人から贈られた日本の式服を着用して 死 出の
九
支持しているように思うのである。
に恕
旅につい た花岡一郎、二郎の二人の心情が 、全く日本人から 離
ていたな どとは到底考えられないこと、森内牛の舌口から、容易
像 できる
一休、文芸作品が事実を描いているとは限らないことは
常識であ
どうしても、一皮は、霧仕事件を書いておかねばならない、
る。坂口の コ蕃地二のあとがきにも
なみ、やけ
0口村は霧社事件が計画的なものではなく、﹁世をはか
と思い、それだけに、全部實在した人物を使いました。なるべ
八
くそになった不良蕃丁の、冥途の道づれに、総頭目のモーナが、ま
く事實に近く書こうとしましたが、まだ生存している方もある
とある0たしかに坂口のコ義仕ロに描かれていることどもは、最も
んまとその口車にのせられ、全く突発的に起きた事件であった。﹂
いろいろと論じられたことであるが、中村も坂口も後者をとって い
事実に近いのかも知れない。近藤巡査、佐塚警部、 モ
ことですから、やはり虚構の世界として扱いました。
る。野上のいうように、 いろいろの原因が﹁絡まってぶすぶす煙っ
花岡一郎、みんな生きている。花岡二郎とハツ エと てホンの愛憎の
という。突発的であったか、計画的であったかについては、事件後
てめたものに﹂ピ ナサッポが火をつけたのだとしても、全く無計画
世界なども、あるいはそうであったろう。しかし、事 実に近いとい
ぅ ことが、文芸作品の価値にっながるとは限らない。中 村の ﹁霧の
なままの状態から、これほどの大事件が発生するものかどうか。
彼らは驚くほどの結束力と、細密な計算とで秘密を保ち、計蕾
一Oセ
か
こ
と
た
こ
き
ど
も
出
す
の
こ
奥
は
と
深
く
で
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な
き
そ
む
い
真
だ 実
と
で、
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る。
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五 」
にい々
て仕 年年昭)を渦や
二五( 報難 てる重主
一O 八
いこ
,
ヮ
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と
と
か
見
ぅ
を
ろ
蕃社﹂には、ロマンの香りがある。それは﹁霧の
﹂蕃
と社
いう頼に
も象徴きれる。そして、それが美しく描かれてい
ける
にだ
、戴氏の
お
な
で
﹁社会科学的見地﹂からの批判には堪え得まい。、
し守
か人
し世
%
日
ム
@
明
九
芸であるためには、時に虚構も省略も必要になる。
異事実とは
崇﹂は、宮田巡査が仮空であるだけでなく、モー
|ナ
ダル
オの長男
ダダオモ1々の最後の酒宴のありさまであっ
、て
明かに
なっている。しかし、それを﹁事実と異なってい批
る難
﹂す
とるこ
とはあまり意味が無い。読者は、その作品の背後深
にく
ま思
でいを
致して、虚構の中の﹁真実﹂を洞察すべきなのである。
三月草
か立
ら場
、霧社
本稿はとり上げた三つの文芸作品は、それぞれの
以上、事件の
事件を描いている。描き得ているう
と。
思もはやこれ
っ。
記録と比較して食いちがいをあげつらうことは止
め記
よ録
,とい
っても、日本刷のそれは、政治的な配慮から歪め部
ら分
れも
たある
猪
人の
オ
「
霧
莱
台
へ 「 業
、 凡ら
コマ
(
刊
昭
教員生
まとめ
年間に
ことだろうし、戦後の台湾で試みられている発言、
もそ
まれ
たなり
の国情を反映せずにはいないであろうから。
﹁
四十五年前の霧社事件の真相を解明することは難
すし
でく
に、ム
ヮ,
な
事態の中
後、ますます困難の度を加え
けて
くであろう。そのよ
にむ
よこ
っと
て
、
で私が舌ロいたかったのは、三つの作品を虚心に読
渓
沿
い
十六、
、 九の三、
両社Ⅲ
店口
あって
タ夜 件
お
帰潮
任
江
躍学墨聞
か
終
宿は
を
遊水干
著者
村
と
と
ち
を
ひ
た
@
わ
8
力
は
そ
れ
を
る
本稿
同 そ
十五)「
霧
霧査件 」で
三帖
。の稿 ,の
ここ
あ
注
注
注
注
あとがきによれば、﹁蕃地﹂は昭和二十八年に書かれ新 潮貫き
受け、﹁霊社﹂は書きおろし。
注⑤第五十九回帝国議会、衆議院における松田源治天 臣の答弁の
速記録︵﹁ 霧社 の山桜﹂より引用︶
セ日経世︶の記事中﹁二十八日豊塾舎 に
門諸社の山桜しより引用。
佐藤枝牛の署名
記事。︵ 蔓湾 新聞︶ 註⑥の﹁霊祀事件の眞 相 ﹂より 引 用 。
﹁霧仕事件の原因に閲する一考察﹂と題する
五 、二︶から引用。
以上は共に司霧社事件の真相ヒ新高新報嘉義支局発行 ︵昭一八、
製 したるものである︶・・・⋮﹂とある。
り 暁台を登 し、所在の駐在所を襲撃し、二十 セ 目早朝 霧祀に来
に兄愛の密議 行 はれ、各頭目以下直ちに暁起し各蕃肚 に 馳せ 婦
蕃人と交際し事憂勃硬の前夜二十六日の夜同人 万に集 合せる モ
|ルダオ 以下各 社 頭目、勢力者に 対 し酒を振舞 ひ 、 某 の 宴席上
査を退き 霧肚に 所謂本島人酒保を螢 み蕃 産物交易を業 とし常に
想を抱ける本島人並全域と特別の交際があった 、 ︵瓦全域 は迷
また、 蔓遣 新聞の佐藤 夜 牛の手記 中 ﹁︵花岡一郎は︶ 左 傾思
決して一たん蕃社 へ戻った﹂とある。
に 伺 うせ %分されるなら 此万から先手を打ふと 云ふ事 に 衆議 一
元気任せ
出頭した帰途霊祀の雑賀屋日金堂方 で一同酒を 坤 った 一
注⑥当時の新聞︵十二月
注の
仕⑧
した作品。大正十四年三月号﹁改造﹂に発表きれた。
⑨﹁ 霧社 ﹂ 八佐藤春夫 V は、大正九年秋の霧社訓 間の旅を基に
注
文芸作品として霧社事件を正面からとり上
追記。霧社事件を扱 ったものは、この他にもいろいろあり、未見
の記録類も多いが
稲
昭 、五0 、三、四、発行︶
コセィ ダッカ・ ダャ の叛乱 口 ︵
げたものとしては あまり多くはない。ただ、最近になって、
垣 真美氏の
のあることを知っ たが、残念ながら本稿の成るまでに入手する
ことができなかっ た。改めて言及する機会を得たい。
一O 九