関東学院大学『経済系』第 227 集(2006 年 4 月) ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 —— イギリス関税改革運動のパラドックス —— Joseph Chamberlain and the Political Basis of Unionist Party: Paradox of British Tariff Reform Movement 関 内 隆 Takashi Sekiuchi 要旨 自由党急進派として出発したチェンバレンは,自由党分裂を契機に結成された自由統一党の 運動を通して,保守党の基盤変化に影響を与え,1895 年に成立する統一党の政治基盤確立に寄与し た。さらに,1903 年に開始された彼の関税改革運動はこの統一党政治基盤の構成変化に大きなイン パクトをもたらすことになる。保護主義と帝国特恵の手段で本国イギリスの「生産国家」再建を目 指す関税改革運動は統一党の内部分裂を引き起こし,1906 年総選挙での統一党大敗により,関税改 革構想は一端,挫折の憂き目を見た。自由党政権の財政政策路線は,その後,関税改革構想に新た な政治的機能を与え,統一党はそれを公式政策として採用し,政治基盤も拡大した。だが,ここで 党内勝利を果たした関税改革は,生産国家再建のために牽制し続けていた金融・商業利害,かつて 自由党急進派として批判の的としていた地主的守旧利害に奉仕する政策となっていた。チェンバレ ンの政治活動と関税改革の党内勝利をめぐるパラドキシカルな結末がここに見て取れる。 キーワード ジョゼフ・チェンバレン,関税改革,人民予算,統一党,自由統一党,保守党,1886 年総選挙,1906 年総選挙,1910 年総選挙 1. 2. 3. 4. 5. はじめに 19 世紀末の自由統一党結成と保守党の政治基盤 20 世紀初頭の関税改革キャンペーンと統一党の政治基盤 1909 年の「人民予算」案と 1910 年 1 月総選挙 おわりに 1. はじめに 工業利害,シティ金融・商業利害にとって,多角 的貿易決済機構の中で自らの利害を実現する前提 20 世紀初頭のイギリスにおけるジョゼフ・チェ 的な政策であったこと,また,関税改革の導入を ンバレン(Joseph Chamberlain)主導の関税改革 志向した産業利害はイギリス経済にとって重要な 運動は,19 世紀中葉以来継続してきた自由貿易政 位置を占めておらず,労働者も概して「安価なパ 策の再考を促し,保護主義と帝国特恵の導入によ ン」を求めたこと,そして,多角的な貿易決済を る政策転換を迫った。この運動は周知の通り挫折 円滑に機能させるためには貿易構造の要となって を余儀なくされ,第一次世界大戦開始までイギリ いた植民地インドを自由貿易地域として支配する スは自由貿易国家であり続けた。関税改革キャン ことが不可欠であったこと等が,運動挫折の背景 ペーン挫折の背景については,長年にわたる研究 として指摘されてきた1) 。 史的蓄積があり,20 世紀初頭の国際経済における イギリス経済の位置と特質から以下のように分析 されている。自由貿易が綿工業に代表される輸出 〔注〕 1)そうした視点に基づくわが国の近年の研究としては, 桑原莞爾『イギリス関税改革運動の史的分析』九州 — 95 — 経 済 系 しかしながら,欧米における近年の研究状況は, 第 227 集 ギリス経済に対する客観的は評価を踏まえての判 関税改革をめぐる問題を経済的諸利害の貿易政策 断であったわけではない」と述べ,1906 年総選挙 志向の分析にとどまらせることなく,関税改革運 での国政レベルの審判後に関税改革論が統一党内 動が貿易問題を超えた政治的,社会的な広がりを で再拡大する動きに注目している。関税改革運動 見せたことに注目し,より広い角度からの検討を が貿易政策や帝国政策のみならず,財政問題や社 2) 要請している 。こうした研究史の現段階を踏ま 会政策課題,そして政党基盤拡大などの多様な政 えると,以下のような問題群の解明が待たれてい 治課題を担う政策であった点に注目するこうした ると言ってよいであろう。イギリス関税改革運動 視点をその後,正当に継承する検討作業がなされ の挫折は,確かに,自由貿易帝国としてのイギリ ていないというのが現状である3) 。 本稿では,こうしたケインの問題提起を踏まえ, ス的特質を端的に示す歴史的指標ではあるが,こ の運動は挫折したことにのみ意義が与えられるべ 19 世紀末に遡りながら,チェンバレンの政治的軌 きなのであろうか。イギリス関税改革運動があれ 跡と統一党の政治基盤変化との関わりに焦点を据 ほどの大きな政治的うねりを見せたのは何故だろ えることによって,関税改革キャンペーンをより うか。キャンペーン挫折の政治的指標といわれる 長期的視点から照射しようと意図している。19 世 1906 年総選挙後にも関税改革論議が脈々と生き残 紀末から 1910 年総選挙に至る保守党ならびに統 り,統一党の公式の政策綱領となったのは何故だ 一党の政治基盤変化にチェンバレン自身と関税改 ろうか。課題はなお多く残されていると言っても 革問題が如何に関わったかを明らかにすることを 過言ではない。 目的として,次の手順で考察を加えていきたい。 「ジェントルマン資本主義論」の提唱者の一人 第一に,19 世紀末の自由党分裂をめぐるチェン であるケイン(P. Cain)は,四半世紀も前に発表 バレンらの行動が,保守党そして統一党の政治基 した論文で,関税改革問題それ自体の持つ「多面 盤動向にどのような影響をもたらしたのかを検討 体的性格(many-faceted nature)」が研究上の隘 する。次に,20 世紀初頭の関税改革キャンペーン 路となっているとして, 「関税改革の経済学と政治 展開において 1903∼1910 年の間に関税改革論を 学(the economics and politics of tariff reform)」 めぐる政策争点が,貿易・帝国政策から財政政策 という両面からの研究の必要性をすでに説いてい 課題へと変容を遂げていくプロセスを明らかにし, た。ケインは, 「関税改革論が当時のイギリスが採 争点変化が政治基盤にどのような影響を与えたか 用するには不適切であったと,歴史的後知恵から について検討する。そして最後に,1906 年と 1910 言うことは可能だし,実際,選挙民は関税改革を 年総選挙結果が,関税改革運動の挫折を一方で意 拒否した。だが,選挙民による政治的審判は,イ 味するとはいえ,統一党の政治基盤という視点か らすると,歴史的な新たな意義を刻印しうる帰結 大学出版会(1999)がまずもって参照されるべきで ある。また,拙稿「チェンバレン・キャンペーンに 現れた『帝国』と『自由貿易』 」木村和男編『世紀転 換期のイギリス帝国』ミネルヴァ書房(2004)も参 照。 2)注目すべき欧米の研究として,E.H.H. Green, The Crisis of Conservatism: The Politics, Economics and Ideology of the British Conservative Party 1880–1914, Routledge, 1995.; A. Howe, Free Trade and Liberal England 1846–1946, Oxford UP 1997.; F. Trentmann (ed.), Paradoxes of Civil Society: New Perspective on Modern German and British History, Berghahn Books, 2000. をもたらしたものであることを明らかにしたい。 本来,政策論争を扱う場合には,政治基盤や社 会経済的諸利害による政策要求とその運動,論争 の内容に関する分析が考察対象となる。しかし本 3)P. Cain, Political Economy in Edwardian England: The Tariff Reform Controversy, A. O’Day (ed.), The Edwardian Age: Conflict and Stability 1900–1914, Macmillan, 1979, pp.35, 52–59. なお, この点では松永友有氏の研究,特に松永友有「自由 党政権下における金融帝国の確立」木村和男編,前 掲書などは近年の注目すべき論考である。 — 96 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 稿では,そうした政策論争や運動それ自体が,む 3 次選挙法改正)と議席再配分の実施は,保守党 しろ総選挙等を通して政治基盤にどのような影響 における都市利害台頭というそうした動向をさら を与えたのか,といういわば逆方向のベクトルに に促進した5) 。 1886 年のアイルランド自治(Irish Home Rule) 注目している。 法案をめぐる自由党の分裂と自由統一党の形成は, 2. 19 世紀末の自由統一党結成と保守党の政 治基盤 そうした動向といかなる関連を持っていたのであ ろうか。グラッドストーン(W.E. Gladstone)内 閣のもとで提出されたアイルランド自治法案に対 イギリス史上,1895 年のソールズベリ(3rd Mar- して,チェンバレンら党内急進派の一部とハーティ quis of Salisbury)政権の成立は政党政治のエポッ ントン(Marquis of Hartington)ら党内ホイッグ クとされている。保守党のソールズベリを首班と 派を中心に 94 名の議員が,保守党とともに反対票 する内閣に,自由統一党のチェンバレンらが閣僚 を投じて法案を葬り去り,そこで結成された「自 として入り,保守党(Conservative Party) ,自由 由統一派」は,急進派とホイッグ派間の内部的な 統一党(Liberal Unionist Party)の強力な連立政 対立を抱えながらも,保守党との政治的提携を深 権が発足したからである。保守党と自由統一党は めていったのである6) 。 その後,それぞれの党組織を持ちながらも,総選 地方実業家の家系をもつチェンバレンは,その 挙に際しては選挙協力を基礎に政治活動全般で提 政治活動を自由党の急進派としてバーミンガム市 携し, 「統一党(Unionist Party)」と一般に称さ 議会議員,市長という地方政治家から出発した。 れ,第一次世界大戦直前に自由統一党がいわば事 バーミンガム政治において都市問題,社会問題で 実上,保守党に吸収されるまでこの党名が使われ 実績を残し,1876 年の補欠選挙で下院議員に初当 ることになった。そこで最初に,19 世紀末におけ 選し,全国自由党連盟という党の全国組織設立に る統一党の政治基盤把握という視点から,保守党 も大きく寄与する活動を見せ,その後,党内の急 の政治基盤動向と,自由統一党の政治的性格につ 進派リーダーとして労働者階級からの支持を集め いて 1886 年総選挙を素材に考察しておきたい。 るシンボル的な存在であった。党内改革を訴える チェンバレンにとって,自由党内のホイッグ派は 2.1 自由党の分裂と 1886 年総選挙 ある意味で政敵でもあったのである。 イギリス政党政治の展開を考える際,保守党が アイルランド自治法案が否決されると,議会は 従来のような農村の地主利害へ依存する基盤を脱 解散され,1886 年 7 月に総選挙が行われた。アイ して,19 世紀後半には都市利害を取り込むに至る ルランド自治法案に反対した 94 名の議員のうち, 過程は,コーンフォードやハーナムの研究以来,指 ホイッグ派議員 26 名,急進派議員 15 名,穏健派 摘されてきており,都市ミドルクラスの自由党支 リベラル議員等の 21 名の計 62 名の現職議員が当 持から保守党への支持転換はすでに 1874 年総選 選した。さらに法案採決には欠席したが自由統一 挙によるディズレイリ(B. Disraeli)内閣成立の 派候補として当選した現職議員 5 名,アイルラン 4) 際に現れていた 。1884∼85 年の選挙権拡大(第 4)J. Cornford, The Transformation of Conservatism in the Late Nineteenth Century, Victorian Studies, 7, 1963.; J. Cornford, The Parliamentary Foundations of the Hotel Cecil, in R. Robson (ed.), Ideas and Institutions in Victorian England, London, 1967.; H.J. Hanham, Elections and Party Management: Politics in the time of Disraeli and Gladstone, Harvester Press, 1978. 5)これら選挙改革と保守党基盤については,拙稿「イ ギリス保守党における『都市利害』の台頭と 1885 年 議席再配分法」 『岩手大学文化論叢』第 2 輯(1986) を参照。 6)アイルランド自治問題をめぐる自由党分裂,チェン バレン勢力と党内ホイッグ派の動向については,と りあえず拙稿「ジョゼフ・チェンバレンとリベラル・ ユニオニストの形成」 『岩手大学教育学部研究年報』 第 52 巻第 1 号(1992)を参照されたい。 — 97 — 経 済 系 第 227 集 ド自治政策に反対の立場を表明して初当選を果た ンバレン勢力の基盤は,こうしたバーミンガムと した 11 名を加えて,自由統一派議員は新議会で その周辺の金属加工工業を中心とした工業利害, 78 議席の政治勢力を持つことになった。自由党は 労働者階級の支持にあった。但し,ウェスト・ミッ 190 議席という大敗を喫し,他方,保守党は 317 議 ドランド全体がチェンバレンの政治的牙城であっ 席へとその勢力を拡大した(表 1 を参照)7) 。 たわけではなく,シュロップシャー,ヘレフォー ゴッシェン(G. Goschen)らの有力議員が落選 ドシャー等の農村地域からはむしろ自由統一派内 するという事態も生じたとはいえ,自由統一派が のホイッグ派議員がかなり選出されていた。また, 78 議席を獲得できた背景には,無投票当選を別と 表 1 に現れているように,この地域の南部に位置 すれば,自由党支持者内のアイルランド自治反対 するブリストル地域,セントラル地域,イースト・ の立場を取る有権者の存在のみならず,自由統一 アングリアといういわば「中央ベルト地帯」から 派と保守党の選挙盟約によって,多数の保守党支 も多く選出されている。これらの地域にはホイッ 持者票を確保したことがあげられよう。つまりこ グ派議員と穏健派リベラル議員の選挙区が散在し こで留意すべきは,自由統一派の議員選挙区では ていたのである。 選挙盟約によって保守党候補者の擁立を見送るこ デヴォンシャーとコンウォールの地域からも多 とになったのであり,そうした選挙区では本来的 数の自由統一派議員が選出された。この地域では海 保守党支持層からの得票なしには,自由統一派が を隔てた対岸に強力な権力が生ずる恐れありとする 議席を獲得できなかったであろうという点にある。 懸念が,反アイルランド感情を煽ることになった。 総選挙結果に現れた自由統一派議員選出の地域 この地域からはリミントン卿(Viscount Lyming- 的特徴はどのように把握されるであろうか。表 1 ton) ,ミルドメイ(F.B. Mildmay)等の貴族家系 に示されるように,第 1 に,バーミンガムとその の有力政治家が選出された。反アイルランド感情 周辺地域への集中が特筆される。この地域は本来, の高揚は,アイルランド移民の多いスコットラン 自由党の強固な政治的基盤であったが,チェンバ ド特にグラスゴウを中心とした西部地域の自由統 レンとその急進派が影響力を発揮し,地域全体が 一派議席獲得にも結び付いた。こうして,自由統 そのまま自由統一派の基盤に転換したのであった。 一派は,これまで自由党が政治基盤としていた地 この地域では無投票当選のケースが多数見られ,自 域,とりわけイングランド農村地域やイングラン 由統一派勢力の強固さを持続し得る可能性を最も ド中部ベルト地帯の中小都市,ランカシャーの一 有していた地域と言える。自由統一派の中でチェ 部工業地域,そしてスコットランドにおいて,従 来の保守・自由両党に替わる独自の政治基盤をつ 7)本稿に掲載している表 1∼表 4 を作成する際, イギリスの地域分類については,H. Pelling, Social Geography of British Elections, 1967. を採用 し,各選挙の政党獲得議席数については,F.W.S. Craig (ed.), British Parliamentary Election Results 1885–1918, 1974. の数値を採用した(但し, この数値は特にリベラル・ユニオニスト等に関し て他の文献をもとに補正している)。選挙区の類型 (A∼F)については,N. Blewett, The Peers, the Parties and the People: the General Elections of 1910, 1972. の Appendix II に掲げられた各選挙区 の類型化を基礎に,全体の計算を行った。なお,1886 年総選挙の詳しい分析は,拙稿「リベラル・ユニオ ニストの歴史的性格と 1886 年総選挙」欧米近現代 史研究会編『西洋近代における国家と社会』欧米近 現代史研究会(1994)を参照。 くっていった。自由党支持者層に存在したアイル ランド「国家」出現・市場喪失への懸念,アイルラ ンド移民への反発,アイルランド国民党の政治戦 略への批判等,そこには多様な要因が見られた8) 。 また同時に,自由統一派の選出基盤が,本来的に 保守党勢力が弱く自由党の伝統的基盤となってい た地域に分布していることにも注目したい。この ことは,自由党内に従来から続いていたホイッグ, 急進派間の軋轢の存在をも踏まえれば,自由統一 派という党派自体が,自由党と保守党の選択肢に 加えて,新たな選択肢を自由党支持層にもたらし 8)より詳細には,前掲同書の 18–20 頁を参照された い。 — 98 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 表 1 1885・1886 年総選挙における地域別政党議席獲得数 典拠:地域類型は,H. Pelling, Social Geography of British Elections, (1967). に基づく。議員数は,F.W.S. Craig (ed.), British Parliamentary Election Results 1885–1918, (1974) に依って計算したが,LU の数値等,他の文献を もとに筆者が補正した。なお,L:自由党,LU:リベラル・ユニオニスト,C:保守党,N:アイルランド国民党。 — 99 — 経 済 系 第 227 集 たことを意味しよう。すなわち,地主層への批判 の議席増加,スコットランドとウェールズの基盤 を強めていた党内急進派の新たな台頭に危機を感 拡大によって,そうした議席喪失を補い,全議席 じ,また,それに対するグラッドストーンの対応と の過半に達したのであった。 彼の土地政策等に不満を抱いていた自由党内の地 それは,これまで自由党を支持してきたミドルク 主や上層ミドルクラス諸利害は,保守主義に政治 ラス層の保守党基盤への移行が,1868 年から 1885 転換することなく,自らの政治的信条のシンボル 年の間に進展していったからである。ノッティンガ 『自由主義(Liberal) 』を降ろさずに活動できる政 ムのレース製造業者で自由党議員のマンデラ(A.J. 治党派を,自由統一派(Liberal Unionists)の運動 Mundella)は,すでに 1874 年総選挙直前,労働 の中に見いだしたのである。それに対し,自由党 者の政治行動への嫌悪や不信感がミドルクラスの 内の急進派議員の多くは自由党内に留まった。急 自由党支持者をトーリー側に追いやるか,投票棄 進派内のチェンバレンとその同志たちのみが,党 権を強いることになっている,と率直に語ってい 内ホイッグ派とともに自由党を離れたのである。 た9) 。しかも,1885 年の議席再配分法が,大都市 他方,自由統一派が 1886 年総選挙に与えた影響 への議席配分と小選挙区制導入によって,都市に は,保守党の選挙結果にも大きな影響を及ぼした。 おける保守党支持者の増大を議席数の増加に結実 表 1 が示すとおり,保守党は総選挙の結果,68 議 させる制度的枠組みを作り出し,1885 年総選挙結 席の勢力拡大を実現した。保守党が自由党から議 果はその効果を現実に示したのである10) 。 席を奪取しえた背景には,選挙盟約のもとで,自 1886 年の総選挙は,ロンドン首都圏,主要都市 由統一派指導層がアイルランドの分離拒否,統一 におけるミドルクラスの自由党に対する支持減退 防衛を唱え,自由統一派候補のいない選挙区では, というこの趨勢を,自由統一派の登場をもってさ 保守党への投票を促す演説を行ったのであり,そ らに促進していくことになった。自由統一派がア の意味で,自由統一派との選挙盟約は保守党の議 イルランド自治問題を越えた政治的機能を果たし, 席拡大にも寄与したと言えよう。 自由党内のミドルクラスさらには地主的諸利害に 新たな利害結集の場を提供するともに,その運動 2.2 1886 年総選挙結果と政党基盤の変化 参加者に保守党候補者への投票を促したからであ さて,上述の自由統一派による選挙基盤へのイン る。その結果,1886 年総選挙で自由党は得票率を パクトは,1880 年前後からの自由党と保守党の政 減らし,グレイト・ブリテンで 5.7%のスィングを 治基盤をめぐる長期的動向を射程に入れた場合,如 被った。アイルランドとウェールズの状況は 1885 何なる意味をもったのであろうか。1885 年と 1886 年総選挙の結果を追認したに過ぎなかったが,そ 年の総選挙結果を比較しながらこの問題を見て行 の他の地域で自由党の選挙基盤は大きく侵食され, きたい。 総計 145 の議席を失った。 最初に,1885 年総選挙結果の特徴について見て 表 1 から明らかなように,これら地域のうち, みよう。表 1 に示されているこの総選挙の政党別 ミッドランド,デヴォン・コンウォール,スコッ 議席数は,前回行われた 1880 年の総選挙結果 —つ トランド等では自由統一派が替わって議席を占め, まり,自由党 353 議席,保守党 236 議席,アイルラ ロンドン,イングランド南東部では保守党が勢力 ンド国民党 63 議席—と比較して,議席数自体では をさらに拡大したのである。特に保守党はロンド それほど変化していない。しかし,そこでは,自 ンにおいて強固な基盤を固め,労働者の投票行動 由党と保守党の政治基盤に関して大きな変動が現 が左右する選挙区(C 類型)においても自由党に れていた。自由党は 1832 年以来初めて,ロンドン 議席で過半数を割るとともに,イングランドのバ ラ選挙区で過半数議席を獲得できない状況となっ た。自由党はイングランドのカウンティ選挙区で 9)W.H.G. Armytage, A.J. Mundella 1825–1897: The Liberal Background to the Labour Movement, 1951, p.136. 10)拙稿「1885 議席再配分法」の 164–169 頁を参照。 — 100 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 差をつけたのである。他方,ヨークシャーの毛織 た。自由党との継承性を強調することは党内の求 物工業地帯や炭鉱地帯,ニューカッスルを中心と 心力,自由党支持層を掘り崩して基盤を拡大する したノーザン・イングランドの重工業地帯,さら 力になり得ても,自らを支える保守党支持基盤を にはシェフィールドを中心とした鉄鋼業,炭鉱地 失うことに成りかねないというアンビヴァレント 帯のピーク・ドン地帯,イースト・ミッドランド な状況が常に付きまとった。自由統一党がその独 の炭鉱地帯を中心にした西部カウンティ地域等に 自性を標榜しながらも,政党としての自立的な政 おいて,自由党が非国教徒勢力をも背景にしてミ 治行動を発揮できず,種々の場面で保守党政権の ドルクラスと労働者の支持を保持していた。 政策に妥協を強いられ,次第に初めに持っていた 独特な政治的統合力は薄れて,結局,1895 年には 2.3 自由統一党の歴史的役割と統一党の形成 保守党主導のもと連立政権に参加して「統一党」の このように見てくると,自由統一派が,自由党 内の反急進派や反グラッドストーン勢力に対して, 一翼を担うが,1912 年には保守党に吸収されて事 実上消滅していく所以がここにある。 グラッドストーン自由党からの離反を誘導する「政 このように見てくると,自由統一党は,自由党内 治的経路」をつくり,彼らにその政治的正当化の の地主層やミドルクラス層の一部が自由党を離れ, 手段を提供するとともに,自由党利害の保守党基 保守党の支持基盤に組み込まれていく際の橋渡し 盤への転換を果たす『誘導路』の機能を果たすこ 的役割を担うことになった。自由統一党の結成に とになったと言っても過言ではない。アイルラン よって,チェンバレン等の一部の急進派基盤が自 ド自治法案に反対した自由党議員のほとんどは, 由党から削ぎ取られたのは言うまでもない。他方 1886 年総選挙において保守党の候補者としてでは それと同時にこの間,保守党自らも政治基盤を拡 なく, 『リベラル』ユニオニストあるいは『ラディ 大していった。基盤拡大は農村地域に限定されず, カル』ユニオニストであることを標榜し,これま むしろ都市の労働者票も含めた都市利害への浸透 で獲得してきた自由党支持票が離れるのを可能な がイングランド南東部を中心に進展していったの 限り阻止しようとした。総選挙直後には自由統一 である。政治史家ブレウェット(N. Blewett)は 党協会(Liberal Unionist Association)が発足し, それを,1886 年に形成され 1906 年総選挙の直前 ハーティントン派とチェンバレン派が合流して 8 月 まで続いたイングランド南東部と中部を中心とし 5 日にはこの組織に参加することになった。ハー た大三角形のユニオニスト・ヘゲモニー政治基盤 ティントンを党首とする政治政党としての「自由 と名づけたが,ここで出来上がった統一党が地主 統一党」がここに正式に結成される11) 。 や上層ミドルクラス階級利害のみを体現する資産 しかし,自由統一党内ではチェンバレンを中心 とする急進派とハーティントンを指導者とする多 階級の階級政党としての性格を持ち合わせたわけ ではなかった12) 。 数派との間になお軋轢が存在し,矛盾を内包する 政党であった。さらに,自由統一党にとっての重 20 世紀初頭の関税改革キャンペーンと統 一党の政治基盤 3. 要な隘路は,この党が総選挙において議席を獲得 し得た背景には,圧倒的な保守党票の支えがあっ たのであり,その議席を保持するためには保守党 1903 年にチェンバレンは,ドイツやアメリカな の支持基盤に依存しなければならないということ ど欧米諸外国との対外競争激化,カナダ等自治植 にあった。また,アイルランド自治の実現を阻止 民地の経済的自立化傾向という世紀転換期の情勢 するためには,補欠選挙等で各選挙区において保守 を背景に,保護主義と帝国特恵の導入を目指す関 党議員の選出を自由統一党票で支える必要もあっ 11)The Times, 6 August, p.8. 12)19 世紀末における各政党の地域的基盤の分析につ いては,N. Blewett, op.cit., 1972, pp.16–23. が要 を得ている。 — 101 — 経 済 系 第 227 集 税改革キャンペーンを展開した。ここで留意すべ のが一般関税導入の提案という形で具体化された。 きは,上述のようなユニオニスト・ヘゲモニー,多 さらに,世論の「高いパン」批判への対応として 様な諸利害を抱えた統一党の政治基盤を踏まえ, 既存収入関税の軽減という補償的措置を打ち出し チェンバレンが帝国連邦化へのステップとして帝 たことにも留意したい。 国規模で経済的紐帯の強化を図り,その中でイギ 関税改革運動を支えた関連の社会経済利害はど リス本国を「生産国家」として再建する構想を鮮 のような反応を示したのであろうか。保護関税を 明に打ち出した点にある。以下では,関税改革が 求めていた農業利害は,食料輸入関税が正式に関 担った政策課題,貿易,帝国,財政等が政策構想 税改革プランに織り込まれたことを評価しつつも, の中でどのように位置づけられたか,また,政治 関税が低率に留まったことや植民地食料への無関 キャンペーンにおいてこれら政策課題が如何に扱 税措置に不満を抱く結果となった14) 。イギリス市 われたかを中心に見ていくこととする。 場で諸外国からの競争に晒され,工業保護関税を 求めていた競争力の劣る諸工業は,低額とはいえ 3.1 1903∼1906 年の関税改革運動 一般関税によって国内市場防衛が図られる可能性, チェンバレンの関税改革構想プランは,1903 年 また,食料への帝国特恵見返りとして予想される 10 月 6 日のグラスゴウ演説において示された。そ 植民地市場への輸出拡大に期待を寄せ,チェンバ 1 外国穀物(小麦粉を の骨子は次の通りである。 レンの運動をさらに強固に支えていくことになっ 含む)にクォーター当たり 2 シリング輸入関税,外 た。他方,自治植民地との経済的紐帯の強化を掲 国肉類・酪農品に従価 5%輸入関税を設定し,植民 げてチェンバレンの運動に参加した人々は,帝国 地産は無税とする。また,トウモロコシ,ベーコン 一体化の理念を演説の中で強力に提唱されたこと 2 は無関税(家畜飼料,貧困階級の食料のため) 。 を高く評価したのであった15) 。 3 植民地産のワイン・果樹類に特恵を供与する。 しかし,チェンバレンの関税改革キャンペーン 生計費に与える影響は労働者が新関税を全て負担 が順調に展開していったわけではなかった。1903 すると仮定すれば,1 家計の週当たり支出増が 4∼ 年 10 月開始の全国キャンペーンの主要都市遊説 5d. となるゆえに,生計費の負担を相殺するため においては,チェンバレンは食料関税の導入と帝 に,現存収入関税である茶税の 4 分の 3,砂糖税の 国特恵採用という帝国をめぐる問題を取り上げる 2 分の 1 を軽減,ココア,コーヒー税も相応の軽 ことは, 「高いパン」批判に晒される恐れありとし 4 国庫収入の点から見ると,国内産・ 減を実施。 て帝国問題を抽象的に論ずるにとどまり,国内の 植民地産食料が課税されておらず,280 万ポンド 諸工業に関税改革がいかに利益をもたらすかを主 の収入減となる。そこで,工業製品に対して平均 眼として運動が展開された。つまり,主要都市遊 10%の輸入関税を賦課し,製品の加工度に応じて 説の中で,グリノックでは砂糖精製業,リバプー 関税率を操作する措置を取る。これにより,少な ルでは海運業,ニューポートでは鉄鋼業と各地域 くとも 900 万ポンドの税収が見込まれる。工業製 の特定産業に対する関税改革提案の意義を強調し, 品関税はさらなる既存課税軽減を可能にし,しか 食料関税導入への批判を回避するため,帝国問題 も,工業を保護して雇用を拡大する手段を提供す ではなく,国内の諸工業に関税改革がいかに利益 る。このようなプランを国民に提示した 13) 。 をもたらすかを主眼として運動が展開されたので チェンバレン構想は,このように帝国特恵によ ある16) 。 る帝国の統合をプランの基軸的項目として位置付 け,従来,報復関税政策として言及されていたも 13)J. Chamberlain, Imperial Union and Tariff Reform: Speeches Delivered from May 15 to Nov. 4 1903, Grant Richards, 1903, pp.37–42. 14)J. Amery, Joseph Chamberlain and Tariff Reform Campaign, The Life of Joseph Chamberlaim, vol.6, 1969, pp.453–454. 15)National Review, vol.42, 1903, pp.324–325. 16)これら各演説の内容は,J. Chamberlain, op.cit., を — 102 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 また,チェンバレンの農村キャンペーンでは,イ 護と植民地輸出市場の確保をもたらし,それを基礎 ギリス農業にもたらす利益を強調することは「高 にイギリス本国経済を再建せんとする構想であっ いパン」を認めることになり,イギリス工業の繁 た。その意味で,政治史家グリーンが述べたよう 栄が農産物需要を拡大するという趣旨を中心にし に,チェンバレン構想はイギリス版「結集政策」構 た抽象的なものにとどまった。農業会議所中央連 想という性格を持っていた。同時に,彼の構想は 合からは,関税改革構想の中でのイギリス農業に こうした「水平的」な諸利害統合とともに,1900 関する位置づけの問題をめぐって,不満の噴出が 年の労働議員選出委員会(Labour Representation 見られた。このように,関税改革構想のもとに結 Committee,1906 年に労働党と改称)結成に見ら 集して関税改革運動の基盤となった諸利害は, 「不 れる労働利害の階級的結集への対応策としての側 安定同盟」的性格を内在化していたのであり,運 面も持っていた。つまり,チェンバレン提案は,企 動挫折の内因をすでに孕んでいた 17) 。 業家と労働者の利害共同体を説くことによって, しかしながら,チェンバレン自身の帝国構想と 労働利害の階級的結集や階級対立の鎮静化策を図 イギリス経済再建策は明確であった。それは,帝 り,国民的統合を果たそうとする「垂直的」統合 国規模の経済圏を創り出して,これを基盤にイギ の構想でもあった19) 。 リス本国の「生産国家」的性格を維持しようとす る構想といえよう。 3.2 1906 年総選挙とその結果 この「国民的」構想では, 「雇用」確保・拡大とい チェンバレンは植民地相の職を辞し,関税改革 う観点から労働者と企業家の利害共同体的関係= 同盟を運動体的基盤にして,国民を関税改革に「改 「生産者同盟」を示し,また,賃金で生活する生産 宗」させるべく全国的なキャンペーンを実践し,私 者(=労働者)と資本で生活する消費者(=金利 的な諮問機関として関税委員会を設置して多様な 生活者)の利害が相容れないことを強調した。イ 経済諸利害の情報収集に当たったが,その関税改 ギリス経済の繁栄の指標を輸出増大,とりわけ工 革構想は,結局,統一党の公認を得ることはでき 業製品の輸出増に求め,自由貿易を「諸外国の工 なかった。1906 年 1 月総選挙で統一党は,チェン 業」とイギリス経済での「金融的利害」にのみ奉 バレンの構想,党首バルフォアの唱えた「一般関 仕する政策として批判した。シティの繁栄もイギ 税を伴わない報復関税政策(=党公式政策)」 ,統 リスの工業生産力の後ろ盾があって可能なのであ 一党自由貿易派の現状維持論という党内分裂のま り,工業優位の消滅は金融,商業の繁栄を掘り崩 ま選挙戦に臨むことを余儀なくされた。統一党の すと警告したことは留意しておかなければならな 内部分裂情況が選挙戦中も続き,統一党は前回総 18) い 。ここに,帝国特恵と工業製品輸入関税に基 づく「生産国家」の維持と再建という国民的統合 のイデオロギーを見て取れる。 選挙の 402 議席から 157 への激減という大敗北を 喫したのである(表 2 参照)。 1906 年総選挙の主たる争点が関税改革問題で 統一党の政治基盤という観点からすると,チェ あったことは明らかであり,これによって自由貿 ンバレンの関税改革提案は,諸外国からの競争激 易維持という国民的審判が下されたことは間違い 化の影響を被っている農業・工業に国内市場の保 ない。表 3∼4 が示すように,総選挙の投票行動 において関税改革構想を挫折せしめた選挙区の特 参照。 17)チェンバレンの農村キャンペーンは,1904 年夏以降, 本格的に展開されるが,これについては,J. Amery, op.cit., pp.603–606. 18)チェンバレンが 1904 年 1 月 19 日のロンドン・シ ティのギルドホールで行った演説内容については, J. Amery, op.cit., pp.534–540. を参照。 徴は,食料関税導入に強い反発を見せた労働者が 選挙結果を大きく左右する選挙区(C 類型), 「自 由輸入」体制の維持を唱えていたイングランド北 部の工業選挙区であった。さらに食料関税導入と 19)E.H.H. Green, op.cit., pp.328–329. — 103 — 1900∼1910 年総選挙の政党議席獲得数と地域偏差 表 2∼表 4 は,F.W.S. Craig (ed.), British Parliamentary Election Results 1885–1918, (1974) ならびに,N. Blewett, The Peers, The Parties and The People: The General Elections of 1910, (1972). をもとにして筆者が作成。 表 2 経 済 系 第 227 集 — 104 — 表 3 1900∼1910 年における地域別政党獲得議席数(グレイトブリテン) ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 — 105 — 各欄の数値は,獲得議席/定員数を示す。A:都市・ミドルクラス優位選挙区 市と農村の中間的性格をもつ選挙区 E:農村選挙区 F:炭鉱地帯の選挙区 B:都市・ミドルクラスと労働者の混在選挙区 表 4 1900∼1910 年における地域・選挙区類型別の統一党議席分布(イングランド) C:都市・労働者優位選挙区 D:都 経 済 系 第 227 集 — 106 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 帝国特恵採用をめぐる問題が抱えた隘路によって, ような待機主義的な「消極野党」路線をとること 農村地域の選挙区では統一党への支持は得られな が不可能となったのである。実際,この時期の補 かったこともここから読み取れよう(D,E 類型) 。 欠選挙では統一党へのスィングは伸び悩み,1907 しかも,統一党の政策構想における内部分裂と 年 7 月の補欠選挙においては,労働党候補者が自 いうかつて見られなかった事態が関税改革論争へ 由党,統一党の両候補者を破って当選するという の政治的審判に多大な政治的影響を与えていた。 事態も生じていたのである21) 。 各選挙区では,統一党の本来的支持層の投票棄権 二大政党政治体制への労働党参入による政党政 を招く結果となり,さらに重要なこととして,ロ 治の構造的変化を敏速に認識し,その対応を唱えた ンドンのいわゆるウェストエンド選挙区(A,B 類 のはエイムリ(L.S. Amery) ,ヒュインズ(W.A.S. 型)では,統一党がその多数を占めたが,党内の Hewins),マクシ(L. Maxse)らのチェンバレン 関税改革派とともにバルフォア派,統一党自由貿 の帝国構想を支えてきたイデオローグ, 「建設的帝 易派もそこで議席を得るという状況を示した。総 国主義者」と呼ばれる人々であった。労働者の支 選挙によって議席を大幅に縮小した統一党内では, 持獲得を唱えてきた「建設的帝国主義者」は,政 関税改革派の議員勢力は過半数を占めたとはいえ, 府政策に対する積極的オルタナティヴとして,社 バルフォア派と自由貿易派がなお党内で一定の勢 会改革と結合させた関税改革を唱えていたが,総 20) 力を保っていた 。 選挙後の情勢は,その主張を全面に押し出させる 結果となった22) 。 3.3 1906∼1908 年の関税改革問題と統一党の 動向 第二に,自由党政権が自由貿易政策堅持のもと, 社会政策費や軍事費増大のための財源確保策とし 1906 年総選挙での大敗後,チェンバレン自身も て直接税課税路線を打ち出したことが重要で,そ 病に倒れ,自由党政権下での関税改革運動の命運 れに対する統一党側の代替策として関税改革を意 は尽きたかに思われたが,その後の政治過程は全 味づける議論が党内に浸透していった。 く違った展開をたどることになった。統一党は翌 総選挙直後の 1906 年 3 月,自由党が提案した 1907 年 11 月の保守党大会(National Union Con- 「自由貿易信任」決議案に対して,統一党側からバ ference)における決議とバルフォアの党首演説, ルフォア派の重鎮ウィンダム(G. Wyndham)は, さらには 1908 年 3 月の下院論議でのバルフォア 帝国防衛と社会改革のための新たな財源は自由貿 発言によって, 「関税改革」を党の公式政策として 易維持のもとでは不可能である旨の修正案をすで 明確に位置付けたのである。その背景には以下の に出していた23) 。1907 年 2 月の勅語奉答文修正 ような党内情勢が関わっていた。 案(植民地会議に向けての帝国特恵決議案)をめ 第一に,1906 年総選挙結果に対する党首脳の危 ぐっては,統一党の関税改革派議員が賛成したの 機意識があった。労働党が自由党との選挙協力を みならず,これまで関税改革構想には消極的態度 基盤に,30 名の議席を獲得したことが統一党に大 をとっていたバルフォア派議員の多くが賛成投票 きなインパクトを与えた。労働党が第三の政治勢 にまわったのである24) 。同年 4 月の予算案をめぐ 力として台頭してきたことへの危機意識である。 る論議において,自由党政権の蔵相アスキス(H.H. つまり,政権に対する世論の批判は野党統一党の 支持に帰結するとは限らない状況が出来上がり, 小選挙区制という政治的枠組みの中では,従来の 20)関税改革をめぐる統一党の内部分裂と 1906 年総選 挙結果については,拙稿「統一党の関税改革運動と 党内分裂—院内・院外状勢と党内意思決定—」『西 洋史学』137 号(1985)を参照。 21)労働党台頭が与えた政治的インパクトについては, 拙稿「イギリス 1906 年総選挙後の政党政治と関税 改革問題」 『岩手大学教育学部研究年報』第 48 巻第 1 号(1988)107–111 頁を参照。 22)National Review, vol.48, 1906, pp.27–28. 23)Parliamentary Debates, 4th ser., vol.153, col.949. 24)Ibid., vol.169, cols.737, 919–924. — 107 — 経 済 系 第 227 集 Asquith)が次年度の老齢年金導入を示唆した際に に対するいわば「緊急避難」の策を関税改革に見い は,統一党側は現行の特定者への高率課税を批判 だした議員たち,あるいは貿易政策としての自由 し,社会改革のための全社会階層による公正な負 貿易に利害を持ちながらも,直接税の増徴に強く反 担を実現して,貿易問題にも対処し得る課税ベー 発した社会経済的諸利害である。しかも,1908 年 ス拡大策,つまり関税改革論を提示したのであっ の経済不況下で,雇用と賃金の問題が「高いパン」 25) 。こうして,自由党政府の直接税課税路線の 反対の叫びに優先する政策としての説得力を持ち 代替策として,関税改革による収入関税の導入と 始めていた。そこでは,失業=国内投資減退=資 いう策が統一党内で浸透していった。 本の海外流出の悪循環を断ち切る策としての自由 た 上記のような政治情勢を背景に,1907 年 11 月 貿易の放棄が改めて主張され,失業率上昇という に保守党大会が開催され,そこで採択された大会 情勢もあって,労働者が多数を占める選挙区での 1 党が掲げる第 決議は次のような内容であった。 補欠選挙において, 「関税改革」を掲げた候補者が 一の政策は,帝国防衛と社会改革実施の財源を得 自由党から議席を奪うという事態にもなった27) 。 るための課税ベースの拡大,不公正な外国からの 競争に対する産業の防衛,諸外国市場を維持拡大 1909 年の「人民予算」案と 1910 年 1 月 総選挙 4. するための手段の確保,特恵関係に基づいて植民 地市場を本国工業の輸出市場として確保するとい うこの 4 目的を達成するための財政改革である。 1906 年総選挙による関税改革論に対する国政レ 2 そのために,課税対象品目を広範にし,課税率 ベル審判の後,統一党内で関税改革論に新たな「政 を低く押さえ,原料は課税対象から除外して,し 治的機能」が賦与され,関税改革構想の大枠は統 かも労働者階級の生計費を引き上げないような措 一党の「公式政策」に組み入れられた。関税改革 26) 置を取りながら関税を導入する 論が担う政策課題として,かつての貿易・帝国政 。 この決議内容の注目すべき点は,財源獲得とい 策から財政政策へとそのスタンスの比重が移った う課題がその中心に据えられていることであり, からに他ならない。これを決定づけたのは,自由 一般関税を伴わない従来の党公式政策(いわゆる 党政府による 1909 年の「人民予算」案提出であっ バルフォア派の政策)から大きく踏み出したこと た。「人民予算」は自由貿易を維持しながら帝国防 であろう。この影響は統一党内に即座に現れるこ 衛,社会改革推進を行わなければならない自由党 とになった。翌 1908 年に行われた一連の補欠選 路線の帰結でもあった。 挙では,1906 年総選挙に自由貿易派として落選し た前統一党議員たち,バルフォアの報復関税政策 4.1 「人民予算」案と関税改革構想 を唱えて落選した前統一党議員たちが党公式政策 1909 年 4 月に提出された「人民予算」案は,1908 となった「関税改革」を掲げて立候補し,当選を 年に導入した老齢年金制度の財源とドイツとの建 果たしていった。 艦競争に対応するための海軍費増を賄うための予 こうして,関税改革論を支えていた従来の諸利 算案であり,当該年度のみならず,次年度以降の 害に加えて, 「間接税導入=直接税増徴回避」利害 財政支出の増加を支えるに足る税制の改革を断行 ともいうべき議員たちとその背景にある諸利害が しようとする政策であった。それは,関税改革を 関税改革運動の基盤に加わることとなった。それ 断行する以外には財政支出増大傾向に対処する方 は,これまでチェンバレン構想には積極的支持を 策はないという統一党側の「自由貿易財政の破綻」 与えて来なかったが,自由党政府の財政政策路線 主張に対する自由党側からの政治的回答であり, 25)Ibid., vol.172, cols.1186–1210. 26)British Conservative Party, National Union Gleanings, vol.23, 1907, pp.165–166. 関税改革論を基礎に党勢を拡大しつつあった統一 27)1908 年の補欠選挙については前掲拙稿,118–120 頁 を参照。 — 108 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 党への対抗策という面も持っていた。 らに, 「資本は国境を越えて,その見返りが有利な 提出された予算案は,間接税では,酒類免許税 ところに送り出されている。労働者にとって不可 の改正,タバコ税と蒸留酒税の引き上げなど,ま 欠なのは仕事であり,賃金である。自由党政府が た,直接税では所得税の一般税率引き上げと差別 もくろんでいるように,資本を国内ではなく海外 性の拡大,所得税超過税新設,相続税改正,土地課 に追いやり,自国の産業ではなく他国の産業の繁 28) 。しかし,直接 栄をもたらすような措置を許すとすれば,彼ら労 税増徴という路線の中で,実際は,中小産業資本 働者こそが犠牲者であり, 『予算案』は決して貧者 家層,小規模商業従事者,専門職階層等の中・下 の予算案ではない。イギリス産業に確実な市場を 層ミドルクラスに対して,子女控除の創設等を通 与え,イギリス資本を国内に投資するように促し, して所得税負担軽減措置が取られたのである。こ イギリス労働者に雇用と賃金を与える手段が『関 の予算案がもたらす当時の社会諸階層への課税負 税改革』である」と訴えたのであった31) 。 税の新設などを内容としていた 担に関して,自由党の機関誌『リベラル・マガジ こうした演説から明らかなように,統一党指導 ン』は,労働者階級に対しては老齢年金の財源を 者の論調は,関税改革が「予算案」に対する代替 確保する予算案であることを強調して,間接税の 的な財源獲得策であるとする収入関税論議を回避 引き上げという不利要因をそれでもって相殺しよ する傾向にあり,むしろ, 「予算案」が国内の投資 うとアピールし,中産階級の「稼働所得」取得層 の減退を招き,労働者の利害に反することを強調 に対しては,所得税での優遇措置を訴えたのであ したのである。それは,関税改革導入に伴って食 り,自由党は「予算案」支持のターゲットをこれ 料価格などの諸物価上昇が起こる可能性があると らの階層に絞っていたと言えよう 29) 。「人民予算」 の批判を避け,自由党路線に唯一替わりうる策と において取られた政治路線は,不労所得階級とし して関税改革を支持する「直接税増徴反対」勢力 ての地主階級を「政敵のシンボル」として掲げ,ミ の本来的意図を可能な限り隠蔽し,労働者からの ドルクラスと労働者階級との同盟を推進せんとす 支持を獲得するための政治戦略であった。 ることであった30) 。 4 月のロイド・ジョージ(D. Lloyd George)に 4.2 1910 年 1 月総選挙とその結果 よる予算演説直後より,予算案に対して,地主階 1909 年 11 月には,予算案が上院によって否決 級,金融利害,醸造業利害を中心に「富を攻撃する されるという異例の事態が生じ,これを受けて, 社会主義予算」 ,「特定階層を狙う不公正予算」と 1910 年 1 月には予算案並びに上院の行動を主たる の反発が沸き上がり,自由党支持者からの反発も 争点とする総選挙が行われた。結果は自由党,統 招く結果となった。統一党の指導者バルフォアは 一党の議席がほぼ拮抗する状況を生み出し,上院 9 月 22 日にバーミンガムのビングレーホールで演 改革をめぐり 12 月に再度の総選挙が行われたが, 説を行い, 「従来の財政的枠組みが今や廃棄されな その結果は 1 月総選挙の結果とほぼ変わらなかっ ければならない時期に来ており,選択肢は自由貿 た。統一党は大幅に議席を伸長させることになっ 易を維持したままの『予算案』か,あるいは『関 たとはいえ,なお,自由党政権を打倒する議席獲 税改革』かのうちのひとつである」と主張し,さ 得には至らなかった。そこで,表 2∼4 に依拠しな がらこの 1910 年 1 月総選挙結果に現れた統一党 28)「人民予算」の財政史的な分析は,佐藤芳彦『近代 イギリス財政政策史研究』勁草書房(1994)を参照。 29)Liberal Magazine, vol.17, No.188, p.220. 30)この時期の自由党政策路線については,拙稿「自由 党の政治基盤とグレイ外交」桑原莞爾・井上巽・伊 藤昌太編『イギリス資本主義と帝国主義世界』九州 大学出版会(1990)を参照。 の議席動向を見て行くことにする。 総選挙の結果,統一党は前回 1906 年の 157 議 席から 273 議席へとその勢力を大きく増大させた が,統一党の支持拡大は如何なる要因によるもの 31)The Times, 23 September, 1909, p.7. また,J. Amery, op.cit., pp.937–939. も参照。 — 109 — 経 済 系 第 227 集 であったのであろうか。これらの表から読み取れ これまでの総選挙には見られなかった統一党・自 る要点は次のとおりである。第 1 に,イングラン 由党の二大政党間の選挙区基盤における地域的分 ド南部の大きな変化が注目される。それは南西部 裂が現れたということであろう。つまり,統一党 を除くイングランド南部全体の農村選挙区(D・E は,イングランド南部において 188 議席(総定員 類型)での大幅議席増,さらに,都市部における 306 の 61%)を得たのに対して,イングランド北 労働者票の影響が少ない選挙区(A・B 類型)の議 部,ウェールズ,スコットランドでは 59 議席(総 席増に因るところが大きい。第 2 に,イングラン 定員 254 の 23%)を獲得したに過ぎなかった。他 ド北部では一部地域で議席を伸ばしたのみに過ぎ 方,自由党は,イングランド南部では 107 議席(総 ず,ウェールズ,スコットランド,アイルランド 定員の 35%)を獲得したにとどまったが,その他 ではほとんど変化がなかった。つまり,選挙地図 の三地域においては 163 議席(総定員の 64%)を は農業保護を求めた地主階級,あるいは投資家層 獲得したのであった。 としての地主階級,ならびにロンドンを中心とし ホブスン(J.A. Hobson)は,この総選挙結果を た金融・商業利害とそれに連携する諸利害が「直 「生産者のイングランド北部」と「消費者のイング 接税増徴反対」利害として,完全に統一党の選挙 ランド南部」への政治的分裂と評した32) 。ホブス 基盤として回帰したことを象徴的に示している。 ンの地域類型からすると,統一党は明確に「消費 次に,より長期的な視野から世紀転換期を通し 者のイングランド南部」の利害を代表する政党と て統一党の政治基盤がどのように変容して来たの して現れた。チェンバレン構想で「生産国家」再 かを考察する必要があろう。表 2∼4 の 1900 年総 建を担うべく唱えられてきた関税改革論は,1910 選挙結果と 1910 年 1 月総選挙結果とを比較検討 年には「消費者のイングランド南部」(「ジェント することでその趨勢が見えてくる。1900 年段階と ルマン資本主義」の基盤)から堅い支持を得たの 比較して 1910 年の結果に現れた大きな特徴とし であった。関税改革構想が担う政治的な課題,こ て 2 点あげることができよう。第 1 に,イングラ の構想が果たす政治的な機能の変化がこうした選 ンド南部においては,労働者優位選挙区(C 類型) 挙結果をもたらしたからに他ならない33) 。 で支持を失うが,その他の選挙区ではいずれの類 関税改革構想は 1906 年に国政レベルで政策実現 型においても選挙民の支持を保持したことに留意 の挫折を被ったが,統一党レベルで見ると,1910 しなければならない。ロンドン選挙区においてミ 年には党の政治基盤再建をもたらす政策構想を提 ドルクラス優位選挙区(A 類型)では従来の基盤 供した。しかも,イギリス経済における中枢的な を回帰させたが,かつて統一党を支えていた労働 経済諸利害の金融・商業利害とそれを支える投資 者票(C 類型)を喪失することになったのである。 家貴族から成る「ジェントルマン資本主義」利害 第 2 に,イングランド北部ではミドルクラス優位 を確固と党基盤に組み入れたことは,その後,自 選挙区(A 類型)や農村選挙区(D・E 類型)で 由党,労働党との三党政治体制の中で,統一党が 支持を保持し得たが,労働者優位選挙区(C 類型) サバイバルレースに生き残るための決定的な礎を で支持を失っている。特に,ランカシャー東部地 ここに築いたと言えよう。だが,こうした関税改 域での労働者票の離反が特徴的である。 統一党は 1906 年総選挙で大きく失った議席を 回復したが,労働者の動向が票の行方を左右する C 類型の選挙区では支持拡大をなしえなかった。 19 世紀末に保持していたこのようなタイプの選挙 区を 1906 年に失い,それを回帰させることがで きず,1910 年には 1900 年段階のレベルを下回る 議席しか獲得できなかった。さらに特筆すべきは, 32)J.A. Hobson, The General Election: A Sociological Interpretation, Sociological Review, No.3, 1910, pp.112–116. 33)P.J. Cain/A.G. Hopkins, British Imperialism: Innovation and Expansion 1688–1914, Longman, 1993, pp.199–201. P.J. ケイン/A.G. ホプキンズ (竹内幸雄/秋田茂訳)『ジェントルマン資本主義の 帝国 I—創生と膨張 1688–1914—』名古屋大学出版 会(1997)137–138 頁。 — 110 — ジョゼフ・チェンバレンと統一党の政治基盤 革構想の党内勝利は,チェンバレンの本来的な政 治構想からすると,地主的,金融的な政治基盤の 拡大というパラドキシカルな結末であった。 上に立つ政権となった。 チェンバレンの関税改革キャンペーンは,こう した統一党の政治基盤を背景に開始された。彼の チェンバレンや関税改革派にとって,その後の 関税改革構想は,欧米諸国による経済競争激化と 推移はさらに悲劇的である。1 月総選挙後,上院 いうイギリス経済を取り巻く状況への危機意識の 改革問題を争点とする新たな総選挙の実施が必至 もと,イギリス経済の「金融・商業国家」化に警 となった。統一党内からは食料関税を伴う関税改 鐘を鳴らし, 「生産国家」再建を帝国規模で行おう 革構想では次期の総選挙を戦えないとの要請が続 とするものであった。工業利害からの保護主義要 出し,結局,12 月総選挙前にバルフォアによって, 請を背景に,関税改革による諸産業間の水平的統 党公式政策の関税改革構想全体を総選挙後の「国 合と労働者の垂直的統合を目指すチェンバレン構 民投票」の対象とする旨が公表され,事実上の棚上 想は,統一党の公式政策として認められず,党の げとなった。さらに,バルフォアを継いだ新党首 内部分裂状況下での総選挙によって挫折を余儀な のボナ・ロー(A. Bonar Law)は,チェンバレン くされた。1906 年総選挙後は,関税改革構想が貿 を支え続けてきた関税改革論者であったが,1913 易・帝国政策から財政政策へと政策的スタンスの 年 1 月には工業製品に対する低額関税設定という 比重を移すなかで,統一党の公式政策に組み入れ 形で関税改革構想を党政策の第 1 項目に残しなが られ,支持層を拡大することになり,自由党内閣 らも,食料関税導入・帝国特恵問題は 2 回目の総 による 1909 年の「人民予算」案提出がそれを決定 選挙での承認をもって導入する旨を宣言せざるを 付けた。 得なかったのである 34) 。 自由党の政策路線へのオルタナティヴとして位 置づけられるようになった統一党の関税改革構想 5. おわりに は, 「直接税増徴回避」という新たな政治的機能が 付加されることによって,党の政治基盤再建に大 これまでの考察を要約的にまとめることで,結 びにかえることとしたい。 きな影響をもたらすことになる。つまり,地主階 級(=投資家階級) ,多くのシティ金融利害,総じ 自由党急進派として政治活動を出発したチェン て「資産階級」とそれを取り巻く諸利害が,統一 バレンは,1886 年のアイルランド自治問題をめぐ 党の関税改革論に「政治的避難」をして党の支持 る自由党分裂を契機に,新たな政党組織,自由統 基盤の中で確固とした地位を築き,逆に,労働者 一党を結成した。この自由統一党は,自由党内の 層の支持を大きく失った。1910 年 1 月総選挙の結 守旧的な地主階級や工業利害,ミドルクラス,さ 果は自由党,統一党間の選挙基盤における地域的 らには一部の労働者階級を基盤として,最終的に 分裂を示し,関税改革構想は, 「生産者のイングラ はこれら諸勢力を保守党の政治基盤に組み込んで ンド北部」ではなく「消費者のイングランド南部」 いく「政治的経路」の機能を果たした。自由党が の利害を代弁したのであった。 この間,ウェールズやスコットランドなどケルト 関税改革をめぐる論争,あるいは提示された関 辺境地域(Celtic Fringe)と北部工業地域の非国 税改革構想それ自体が,政策主体である政党の支 教徒を基盤とする政党に傾斜しつつあったのに対 持基盤にダイナミックにインパクトを与えていく して,1895 年成立の統一党内閣は,選挙地図で言 様相がここに読み取れよう。そうしたなかで,関 うイングランド「大三角形」の強固な選挙基盤の 税改革を党公式政策として採用した統一党は,チェ ンバレン構想が本来求めていた「生産国家」を担 34)この間の経緯は,Robert Blake, The Unknown Prime Minister: The Life and Times of Andrew Bonar Law 1858–1923, London, pp.105–118. を参 照。 う「生産者同盟」とりわけ労働者の獲得には成功 せず,彼の批判の的であった地主的利害,牽制の 矛先を向けていた「金融国家」諸利害が支配する — 111 — 経 済 系 第 227 集 党としての性格を強めることになった。関税改革 の党内勝利は,実はチェンバレンの本来意図して いた関税改革構想の挫折であったというパラドキ シカルな結末を意味している。 とはいえ,このような結果が有するイギリス政 党政治史上の長期的意義は小さくない。1910 年 1 月総選挙において,労働者支持層の離反を促進し たとはいえ, 「資産階級」の政党としての性格を決 定的にしたこと自体が,その後の労働党を含めた 三党鼎立状況において,自由党ではなく統一党(保 守党)が一つの政党として生き残るための礎石と なった。実際,その後の政党政治の展開がこれを 確認し,支持基盤動向を表す政党地図も 1910 年総 選挙結果の延長線上にある。 — 112 —
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