Title 20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育 Author(s

Title
20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育
Author(s)
佐々木, 宰
Citation
北海道教育大学紀要. 教育科学編, 67(1): 389-402
Issue Date
2016-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/8033
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育大学紀要(教育科学編)第67巻 第1号
Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 67, No.1
平 成 28 年 8 月
August, 2016
20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育
佐々木 宰
北海道教育大学教育学部釧路校美術教育研究室
On the Modern Art Education of Singapore in the Early 20th Century
SASAKI Tsukasa
Department of Art Education, Hokkaido University of Education, Kushiro Campus
概 要
イギリス植民地統治時代のシンガポール,マレー半島における近代美術は,20世紀初頭から
主として華人社会のネットワークを通じて展開していった。学校教育における普通教育として
の美術教育は,1920年代にイギリス人リチャード・ウォーカーがシンガポールの英語系学校の
視学官として内容整備に着手して,同国の美術教育の礎が築かれた。次いで,1930年代後半か
らは,中国から移住したリム・ハクタイが南洋美術専科学校を起こし,専門教育としての美術
教育を開始した。シンガポールにおける初期美術教育は,イギリス人による学校教育における
美術教育と,華人による中国経由の専門的美術教育という二つの系譜をもち,この中で美術と
その教育が定着していった。
はじめに
アジアにおける近代美術教育は,西洋美術の概念と西洋式の学校教育制度の受容を通して展開した。その
背景には,植民地支配を目的とした西欧列強諸国によるアジアへの盛んな進出がある。アジアにとっての近
代化とはすなわち西洋化とほぼ同義であり,西洋美術との接触を通して,既存の造形文化をも含めて美術と
いう概念と実態が西洋とは異なる文脈で形成されていった。近代のアジア美術についての研究は,東アジア,
東南アジア諸国を中心に,西洋美術の受容過程や植民地支配と文化表象,あるいはアジア圏内の美術の伝播
のネットワークなどに着目した研究がなされている。現在のマレーシアとシンガポールからなるイギリス領
マラヤにおける美術の展開については,ラワンチャイクン寿子1),羽田ジェシカ2)が現地取材を通して明ら
かにしている。また,現地の研究者では,T.K.サバパシー,レッザ・ピヤタザらがシンガポール,マレーシ
アの美術の特徴や作家論をはじめ,多数の成果を残している3)。シンガポール美術史としてまとまった形で
の文献は,1995年にシンガポール美術館(Singapore Art Museum)で開催されたModernity and Beyond
展に関連して出版されたコック・キアンチョウのChannels and Confluencesがあり4),最近のものでは,
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2015年末に開館した国立美術館シンガポール(National Gallery Singapore)で開催されたSiapa nama kamu?
展のカタログがある5)。
他方,美術教育に関しては,1938年にシンガポール初の美術学校として開校した南洋美術専科学校の詳細
が,当地の近代美術史として前述の研究等によって明らかにされているものの,学校教育における普通教育
としての美術教育についてはほとんど明らかにされていない。したがって,本稿では,南洋美術専科学校以
前の1910年代からのマラヤ・シンガポールにおける美術とその教育を取り上げ,美術作家たちの活動,学校
における普通教育としての美術教育,さらに専門教育としての美術教育の諸相と,これらの時系列上の連関
について考察する。
1.19世紀の植民地期における西洋美術
シンガポールの美術の歴史は,当然であるがマレー半島における美術の動向と連動しており,マレー半島
では18世紀末,シンガポールでは19世紀初頭からイギリスの植民地統治下にあるこれらの土地,すなわち英
領マラヤにおいて近代美術が展開していったのは20世紀になってからのことである。特に1910年代から1920
年代は,この地における西洋美術の揺籃期であり,本格的な美術活動や専門教育の開始は1930年代からであ
る。それ以前のシンガポールにおける西洋美術との接触は,19世紀初頭以来シンガポールやマレー半島に訪
れたイギリスの画家たちによる。彼らは水彩や油彩,版画等で開発前のシンガポールの自然,開発された都
市や港湾の風景などを描いている。また,植民地政府高官などの肖像画なども残されている。しかしながら,
こうした西洋美術は宗主国イギリス人作家の手による統治者側の地誌的な要求や,統治者側の社会構造にお
ける肖像画の必要性を満たすために生み出されたものであり,現地の住民が関与する余地はなかった。この
ような傾向は,シンガポールよりも早い段階で植民地化されていたマレー半島においても同様であり,現地
の住民が西洋美術を受容して,自律的な制作活動を行うようになるのは,20世紀初頭になってからのことで
ある。すなわち,マレー半島及びシンガポールにおいては,西洋美術がもたらされてから住民によって受容
されるまでには相当の時間を要している。
ところで,レッザ・ピヤタザは,マレー半島における西洋美術の受容が,隣国のフィリピン,インドネシ
ア,タイなどに比して著しく時間を要していることを指摘し,その原因としてマレー半島における植民地統
治および社会・文化的な背景を挙げている6)。ピヤタザによると,マレー半島において西洋美術の受容が遅
延した決定的な要因は,植民地政府が経済問題に主たる関心を寄せ,西洋美術をはじめとする文化普及には
無関心な態度を取ったことによる。そうしたイギリスの態度の背景には,イスラム教徒が多い土着のマレー
人との文化的な衝突を避けたいという思惑があった。伝統的なイスラム教義では具体的な事物の再現的な表
現が禁じられていたため,西洋の自然主義的な絵画表現はマレー人には受け入れがたいものであった。ピヤ
タザは,
「イギリス人が19世紀から20世紀にかけて西洋絵画を教える学校をなぜ一つも設立しなかったかと
いう最大の理由は,このマレーの文化的な感受性をあげることが最も納得のいくものであろう。7)」と指摘し,
その結果として西洋美術の受容と実践が遅れたと結論づける。
ピヤタザはさらに,別の理由として,イギリスの分割統治によって住民の文化交流の機会が絶たれていた
点,中国とインドからの移民は経済的な困窮状態にあったために,西洋文化や美術を享受できる立場にはな
かった点を指摘する。また,当時の言語別に設立された学校では,基本的にマレー,中国,インドそれぞれ
の文化や生活規範に基づいた教育が展開されており,西洋文化は教育の内容や規範とはならなかった。一部
の特権的な社会階層の子弟が学ぶ英語系学校が西洋文化や思想の窓口になっていたとしても,芸術には興味
が向けられなかった。19世紀の植民地社会においては,「芸術活動は社会の変動を保証するものではなかっ
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たゆえ,芸術活動は彼らにとって無縁のものだった8)」とされる。
さて,シンガポールはマレー半島と事情が異なり,19世紀の半ばから急速に華人系住民が増加して華人社
会へと変容していくのであるから,イスラム教徒であるマレー系住民への配慮から西洋美術の受容が遅れた
とは考えにくい。むしろ,ピヤタザの指摘した第二の理由のように,分割統治によって文化交流が断絶され,
もともと貧しい移民で構成されるシンガポール社会の住民が芸術を享受できるまでには時間を要した,と考
えるのが妥当であろう。
2.西洋美術の受容と美術活動への胎動:1910~1920年代
植民地統治を通して西洋的な社会制度や環境
が整えられていき,西洋文化や美術を受け入れ,
現地の住民による芸術活動が展開していくのは
20世紀に入ってからである。こうした活動の中
心地は,マレー半島のペナンやマラッカ,そし
てシンガポールであった。これらの都市は,海
峡植民地と呼ばれる海上交易の要衝地であり,
西洋文化の窓口でもあった。さらにこれらの都
市では華人を多数派とした社会が形成されてい
たため,初期の美術の主たる牽引役は華人であ
ることが多かった。
ラッフルズは,シンガポール島を発見して間
もなく友人に宛てた書簡で,教育や美術に言及
図1 アマチュア・ドローイング協会(1913年当時)10)
していたといわれるが,実際にイギリスから美
術の指導者がやってくるのは1923年のことである。1882年の時点でシンガポールに美術団体があったとする
記録もあるようだが,シンガポールにおける初期美術団体としては1909年に設立されたアマチュア・ドロー
イング協会(Amateur Drawing Association)が記録に残っている。会長はタン・コクティオン(Tan Kok
Tiong)
,初年の会員は約50名であったが,協会には絵画のほかに文学やスポーツを志向する者も含まれて
おり,美術を志向する会員によって1913年2月に絵画展が開かれるものの,その後の協会においては美術の
側面は徐々に薄くなっていったという9)。
ところで,1912年のストレイツ・タイムズによると,協会の会員が招待された「シンガポール美術クラブ
展覧会(Singapore Art Club’s Exhibition)」が1912年3月12日から13日に開かれ,水彩や油彩,クレヨンな
どの絵画作品や写真が展示されると報じられており,アマチュア・ドローイング協会会長のタン・コクティ
オン,後述するロー・クァイソン(Low Kway Song,劉開賞)のほか,チュア・チュンセン(Chua Choon
Seng)
,リー・チムクァン(Lee Chim Kuan)の名前が参加者として紹介されている11)。記事は続けて,昨
年度よりも参加者が増えて規模も拡大する見通しであることを伝えているので,このような展覧会が記事の
前年,すなわち1911年には開催されていたことがわかる。
アマチュア・ドローイング協会には,ロー・クァイスー(Low Kway Soo),ロー・クァイコー(Low
Kway Koh)
,ロー・クァイソンのロー三兄弟,リム・ブンケン(Lim Boon Keng,林文慶)が参加していた。
実業家・医師・教育活動家であるリムは,1913年に中華總商会(Chinese Chamber of Commerce)で「美
術における宗教の影響」と題した講演を行い,中国の教育家であるチャイ・ユァンペイ(Cai Yuanpei,蔡
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元培)
の思想を援用しながら宗教と美術の関係を説いている。
また,模写ではなく自然から学ぶという姿勢のもと,中国の
風景画家たちの宗教的な観念を引き合いに出して,中国絵画
の素晴らしさを説いていたという。
他方,海峡植民地生まれ(海峡華人)のロー三兄弟は,美
術だけでなく,役者,舞台デザイナー,脚本家としてパフォー
ミング・アーツにおける活動でもよく知られていた。長男の
クァイスーは美術に憧れながら薬学への道に進み,次男の
クァイコーは建築家となった。そして三男のクァイソンは地
元の画家として,
『大山猫』(1921年),
『タイ寺院』(1923年)
など,
シンガポールにおける最も早期の油彩画を残している。
ロ ー・ ク ァ イ ソ ン は, 独 学 の 画 家 で,1920年 代 に は オ ー
チャード・ロードに「エンパイア・スタジオ」と名付けられ
た工房をもち,実業家オイ・ティオンハム(Oei Tiong Ham)
や孫文ら著名人の肖像画も手掛けるなど,よく知られた作家
になっている14)。
図2 ロ ー・ ク ァ イ ソ ン『 大 山 猫 』
(1921
年)12),油彩,45×59cm
このように見ていくと,20世紀初頭のシンガポールには,
地元の住民が主体的に美術活動に参加する機会や団体があ
り,水彩や油彩などの絵画や写真が個人の表現として制作さ
れ,それを鑑賞する美術活動の形が成立していたことがわか
る。この時期の美術の記録に登場するのは,華人がほとんど
である。1921年の人口統計では華人が住民全体の75%超を占
めており,すでにシンガポールは華人社会が出来上がってい
たこと,華人の経済的優位性がその理由として考えられる。
シンガポールの中国系住民は,故郷である中国に帰属意識を
強くもつ移民第一世代やその子孫,いわゆる華僑とよばれる
図3 ロー・クァイソン『タイ寺院』(1923
年)13),油彩,61×46cm
人々と,海峡植民地で生れて英語文化や西洋化された文化を
抵抗なく受け入れられる華人(海峡華人,Straits Chinese)が世代別に輻輳する状態にあった。アマチュア・
ドローイング協会は,海峡華人やエリート層に支持された美術愛好家のネットワークであった15)。中国の
伝統的な絵画や芸術観の価値を説くリム・ブンケンもまた,ペナンのプラナカンの第三世代であり,ラッフ
ルズ学院で学び,エジンバラ大学への留学経験を持つ海峡華人である。したがって,20世紀初頭のシンガポー
ルにおける西洋美術の受容は,海峡華人やイギリス植民地社会における一部のエリートらによってなされた
といえる。その普及には,アマチュア・ドローイング協会のような愛好家集団はもとより,ラッフルズ学院
のような英語系学校が一定の役割を果たしていたと考えられる。こうした土壌形成の上に,ロー兄弟のよう
な美術制作を通した表現者が登場し,経済的な成否は別問題としても,画家や芸術家といった存在が社会の
中で位置づけられていったと考えられる。
1920年代になると,中国本土での五四運動の影響によって,中国文化の新しい展開を志向する華人作家た
ちの動向が顕在化する。1920年には五四運動の精神に則った中国文化の伝達と北京語(マンダリン)の使用
促進を目的とする青年欣志社(Youth Encouragement Association)が結成され,様々な啓発活動が行われ
た。1927年には青年欣志社主催によるシンガポール美術展覧会(Singapore Art Exhibition)の第1回展が
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開催されている。
五四運動に触発されて西洋への留学を果たした中国本土の画学生たちは,帰国後に中国のみならず,華人
のネットワークを通じて東南アジアにもその成果を伝えた。1927年にはシンガポールの南洋ホテルで,フラ
ンスに留学した中国人美術学生20人の作品展が行われている。五四運動はシンガポール及びマレー半島の華
人社会における西洋美術の発展を後押しするとともに,東アジア及び東南アジアの華人ネットワークを通じ
た美術概念の刷新に影響をもたらした。それは,西洋美術はもちろん中国の伝統文化である書画の分野にも
及んだ。
3.マレー半島における美術の状況
20世紀初頭のマレー半島における西洋美術の受容とその実践に目を向けてみよう。前述のロー・クァイソ
ンが『大山猫』を制作したころとほぼ同時期の1920年に,スリランカ出身のオ・ドン・ペリス(O.Don Peris)
がシンガポールに移住し,さらに1922年にはジョホールバルに移って制作を開始している。ペリスは,1912
年から1915年にかけてパリの個人画塾Academie Gereuxで学んだ油彩画家であり,マレー・シンガポール
の作家の中では留学を通して西洋美術を習得した最初の人物である。ジョホールバルでは,ジョホールの宮
廷画家として雇われ,王族の肖像画を残している。
他方,ペナンでは,1920年頃に,西洋人の夫人たちによるペナン印象派が組織されている。この団体は西
洋人以外の参加を認めていなかったが,現地の英語系学校の教師であったアブドゥラ・アリフ(Abdullah
Ariff)と中国人富豪の夫人であったリム・チェンカン(Lim Cheng Kung)は例外的に参加を認められてい
た16)。また,1920年にはヨン・ムンセン(Yong Mun Sen,楊曼生)がペナンに移り住み,水彩画を中心と
した美術活動を展開し始めている。ヨンは1930年代には2つの写真工房を経営しながら絵画作品による収入
も得て,ペナンの美術界の中心的な人物となり,ペナンやシンガポールにおける近代絵画の発展と普及に大
きな功績を残す。したがって,ペナンにおいて美術活動が活性化していくのは,1920年代から30年代といえ
るであろう。
なお,興味深いことに,1896年にクチン(サラワク)で生まれたヨン・ムンセンは,少年時代に日本人作
家が水彩画を描くさまを見て水彩画に魅了され,22歳になった1918年には絵画の制作と発表の場所を求めて
シンガポールに移住している17)。シンガポールで書店に勤務しながら制作を続けた2年間にヨンの作品が
評価された記録はないが,1910年代後半当時のシンガポールが美術を志す青年を引き寄せる都市であったこ
とが,ヨンのエピソードからうかがい知ることができよう。
1936年に設立された嚶嚶(インイン)芸術社(ペナン華人美術クラブ,Penang Chinese Art Club)は,
ペナンの画家や美術教師らによって組織された。初代会長にはリー・チェンヨン(Lee Cheng Yong,李清
庸)
,副会長にはヨン・ムンセンが就任した。彼らを中心として,カー・クァンシン(Quah Kuan Sin),タ
イ・フーキット(Tay Hooi Keat,戴恵吉),グオ・ルーピン(Kuo Ju Ping,郭若萍)とその妻タン・ゲッ
ケン(Tan Gek Khean),タン・センアン(Tan Seng Aun),ワン・フィー(Wan Fee)らが創立時の会員
となった18)。後に,チュア・ティエンテン(Chuah Thean Teng,蔡天定),ヂョン・バイム(Zhong Bai
Mu,鐘白木)らが参加している。
1920年代後半から1930年代にはさらに美術活動が活発化していく。クアラルンプールでは,1929年に華人
による南洋書画社(United Artists of Malaya)がセランゴール州の登録団体として組織された。この団体
の基本的な目的は,中国文化と美術を一般に普及させることにあった。会の規約では,書と画の範囲を,様
式やモチーフに制限をかけず,西洋絵画であってもすべて等しく扱うとされていたというが,南洋書画社の
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会員は基本的に水墨画家や書家であった。彼らは,当時の東南アジアにおける移民華人社会において欠落し
ていた知識人や教養人階層の構築を,伝統的な中国文化の振興・普及を通して実現しようとしたのであ
る19)。南洋書画社は,マレー半島における最も早期の芸術団体のひとつであるが,ラワンチャイクン寿子は,
「その性格は美術愛好家のサロン的な側面が強く,近代美術を推進する運動体とはいえなかった。」と評価し,
本格的な美術運動の発端を,ペナンで結成された前述の嚶嚶芸術社にもとめている20)。20世紀初頭の東南
アジアにおける近代美術とは,西洋美術の様式に則った造形表現を意味する。したがって,南洋書画社がそ
の綱領で西洋美術を許容していたとしても,本質的には書画を通じた中国の伝統文化再興を基本路線とする
以上,近代美術の牽引役を果たすには至らなかったと考えられる。
このように,1910年代から1920年代にかけてのマレー半島における美術は,ペナン,マラッカの海峡植民
地及び大都市クアラルンプールなどにおいて,主として華人社会を中心に展開していった。
4.華人美術研究会と南洋美術専科学校:1930年代のシンガポール美術の展開
シンガポールにおける美術の展開は,半島と同様に華人の手によるものであった。1920年代末から1930年
代にかけては,さまざまな美術団体が活発に活動した。その中でも,1935年に設立された沙龍(サロン)美
術研究会(Salon Art Society)は,翌年の1936年に華人美術研究会(The Society of Chinese Artists)と改
称され,上海の美術学校で学んだ華人の参加を得た。マレー半島やインドネシア,香港からの参加者もいた
が,
中心的なメンバーの大半は,
上海美術専科学校
(Shanghai Academy of Fine Arts)
,
上海美術大学
(Shanghai
University of Arts),新華芸術大学(Xinhua Academy of Fine Arts)で西洋美術を学んだ卒業生であった。
創設期の会員の中には,主席として会を率いたチャン・ルーチ(Tchang Ju Chi,張汝器),チェン・チョ
ンスィ(Chen Chong Swee,陳宗瑞),リウ・カン(Liu Kang,劉抗)らがいた。ラワンチャイクンによれ
ば,この会は,月に一度の写生会と会食,年に一度の会員作品による展覧会を開催し,ペナンの嚶嚶芸術社
との交流や,中国のシュー・ベイホン(Xu Beihong,徐悲鴻),リウ・ハイス(Liu Haisu,劉海粟),香港
らの作家との交流を進め,中国出身作家のコミュニティとしてシンガポール域内にとどまらない活動を組織
したという21)。ペナンの嚶嚶芸術社のヨン・ムンセンも華人美術研究会の副主席となっている。
こうした華人を中心とした美術活動が活性化していくなか,マラヤ・シンガポールの美術史に重要な役割
を果たすことになる南洋美術専科学校(Nanyang Academy of Fine Arts)が1938年3月10日に開学する。
初代校長には,福建省厦門の中学,師範学校や美術学校で教鞭を執っていたリム・ハクタイ(Lim Hak
Tai,林学大)が就任した22)。リムは福建省立第一師範学校図画手工専修科で美術を学んで指導者となった
経歴を持つ。創立期の講師陣もまた,上海,北京,厦門等の美術学校の卒業生が多い。したがってシンガポー
ル美術史上初の美術の専門教育機関である南洋美術専科学校の教育は,いわば中国における美術の専門教育
の内容と方法が移植されたものと考えられる。当時の上海や廈門における専門的美術教育は,油彩画に代表
される西洋美術と水墨画(中国画)に代表される中国の伝統美術から成り立っていた。リム自身も,西洋画
と中国画の両方の制作を行い,作品を残している(図5,6)。
すなわち,シンガポールにおける美術の専門教育の端緒は,華人ネットワークを通した中国本土における
美術教育の伝播によるといえる。これまで述べてきたように,マラヤ・シンガポールにおける近代美術は華
人社会を中心に展開してきた背景をもつため,リム・ハクタイらが持ち込んだ美術教育の内容と方法は,華
人社会に抵抗なく受け入れられたと考えられる。むしろ五四運動の影響で進歩的な中国美術の教育が期待さ
れていたと言ってよいし,シンガポールに訪れた中国人指導者たちは,マラヤ・シンガポールの地域的な特
性を踏まえた新しい美術表現を指向し,のちに南洋様式(ナンヤンスタイル)が生み出されていくのである。
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20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育
図4 現在の南洋芸術学院構内に設置されて
いるリム・ハクタイの銅像
図5 リム・ハクタイ『静物 ──花』
(1938
23)
年)
,板に油彩,40.5×30.5cm
図6 リム・ハクタイ『無題(果物と兎)』(1942
24)
年)
,紙に墨・彩色,140×47.5cm
5.普通教育における美術教育の端緒:リチャード・ウォーカー
南洋美術専科学校が美術の専門教育を目的とした教育機関としてシンガポールに誕生するのに対して,い
わゆる一般の学校教育の中で美術教育はどのようになされていったのであろうか。
植民地時代の学校教育は,植民地政府が援助するマレー語系学校と英語系学校,さらに中国人子弟が通う
華語系学校,インド人子弟が通うタミル語系学校別に,民族や地縁によるまとまりごとに設立された学校に
おいて,それぞれ独自の内容で実施されていた。統一的な教育課程はなく,教育内容もそれぞれの本国の教
育制度に基づくものであった。例えば華語系の学校における教育は中国の学校の制度や内容に準じて行われ,
英語系学校の教育の場合はイギリスのそれに倣っていた。
したがって,美術教育についてもそれぞれの言語系学校ごとに本国等の教育に準じて行われていたと推測
できる。植民地政府による英語系学校において,最初の美術教育関係者として記録されているのは,1923年
に渡来したイギリス人リチャード・ウォーカー(Richard Walker,図7)である。ウォーカーは,政府の
美術専門家(Art Master)として招かれ,教育局(Education Department)に勤務して,普通学校(英語
系学校)における美術教育の監督官として黎明期の美術教育を発展させ,自身も水彩画等の制作活動を通し
てシンガポール美術の発展に貢献した人物として知られている(図8,9)。1896年にイギリス,ヨークシャー
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地方のスレイスウェイトで生まれたウォーカーは,1909年に学校を卒業し,ハダーズフィールドの学校で美
術を学んだ。1912年からは美術の学生教員(Art Student Teacher)として小学校における美術の指導補助
をしていたという。1915年に19歳で入隊し,翌1916年にはインド北西の部隊に配属されている。1919年から
はリーズの美術学校(Lees School of Art)に入学,さらにその後,ロンドンの王立美術大学(Royal
College of Art)で壁画や各種工芸を学んでいる25)。このように,ウォーカーの美術に関する経験は,20世
紀初頭のイギリスにおける美術教育を通して形成されており,シンガポールにおいて彼が普及させた美術教
育は,当時のイギリスの美術を基盤としたものであったと推察される。
1923年の着任時,彼の肩書は美術専門家(Art Master)であったが,着任後に学校視学官(Inspector of
Schools)の業務を任され,1937年からはシンガポール学校美術総監督官(Art Superintendent, Singapore
Schools)
となっている。太平洋戦争中の日本占領時代はチャンギ及びサイム・ロード刑務所に収容されたが,
収容所内でも所内の人々の美術指導をし,自らも制作をしたという(図10)。戦後に本国イギリスに送還さ
れるが,1946年には再びシンガポールの地を踏み,美術活動を再開させている。
美術専門家及び美術監督官として勤務したウォーカーの体験は,新聞記者によるインタビューや彼自身に
よるエッセイとして残されており,当時の植民地統治下のシンガポールにおける初期美術教育の状況を生々
しく伝えている26)。着任当初のウォーカーの業務は主として植民地政府による英語系学校,ミッション系
学校,政府援助を受けている学校(マレー語系学校)等への視察であった。ほとんどの学校への視察を踏ま
えて気付かされたことは,当時,美術指導に適した教室や設備を持った学校は皆無であり,美術を指導でき
る教師もごくわずか,多くの学校では時間割にすら入れられていない美術教育の状況であったという。小学
校では,想像画や安価な材料を使った手作業などが実践されていたが,中学校では修了試験(Cambridge
Junior and Senior Examination)の美術試験を受ける者は稀であったようである。教室や構内には絵画や装
飾がなく,
「私には学校の目的が政府事務所の官吏や会社員,英語系学校の教員や病院の看護師の育成のよ
うに見え,生徒の将来は外国語を使う準備のための試験次第であり,親たちはこうした目的のためだけに学
費を払う。毎年心の中で耐えなければならないことの一つだった。27)」と言わしめるほど当時の学校教育に
は美術教育の入り込む余地がなかったようである。
学校視学官となってからのウォーカーは,教師や生徒との個人的な交流も含めて,積極的に活動して美術
教育の普及に努め,学校における美術教育の実践の目的について自らの考えを示した通知を全学校に対して
提示している。教育課程の中で美術指導と他の教科と結びつけるような連携を特に意識した上で,観察の訓
練と記憶力の向上,想像力の刺激,デザイン・工芸における色彩の知識や正しい道具の使用に基づく鑑賞力
の開発と判断力の形成,精神と手が調和する中での芸術的な手仕事の使用,自然な形で美術の専門家教育に
つながるような円滑な発展性をもつコース,などが提示されている28)。
ラッフルズ学院の2階に事務所と教室空間を得て,ウォーカーの美術教育の普及活動はますます活発にな
る。平日の午前中は実技講習と指導助言のための学校訪問,平日のうちの4日間は午後から教師を対象とし
た講習会,土曜日の午前中は「ケンブリッジ・クラス」と名づけられた美術教室で絵画を指導する,という
公的及び私的な活動を通して,美術と美術教育が次第に定着していったという。実技講習は,デザインや手
仕事(handwork)を含むものであった。同時に,美術教育に熱心なセント・アンドリュース・スクールの
校長フランシス・トーマス(Francis Thomas)の要請によって組織されたスケッチクラブ(St. Andrew’s
School Sketching Club)においても指導している29)。
1937年に美術総監督官となってからは,マレー人教師や親たちを対象にした美術指導を行っており,さら
にマレー系学校の美術教育の監督もしたという30)。ウォーカーの関心は,人種に関わりなく,シンガポー
ルの学校教育における美術教育の普及と振興に向けられていたと考えられる。また,ウォーカーが得意とす
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る絵画だけでなく,デザインや手仕事を含めて美術教育の内容とされており,そうした指導を受けた教員た
ちの作品展も企画・開催されていた。1941年に開催された展覧会の新聞記事を読むと,出品者はウォーカー
に学ぶインド人,華人,マレー人,ユーラシアンの教師たちであり,英語を話さないマレー人女性教師も含
まれていたという。作品は,針仕事や刺繍,クッション,ベッドカバー,テーブルクロス,象嵌が施された
テーブルなどの家具もあったと記されている31)。
このように,学校教育における普通教育としての美術教育は,ウォーカーの働きによって英語系学校を起
点として定着,普及していった。監督官として学校現場を視察訪問するウォーカーの業務と彼自身による講
習会等の活動を通して,美術教育の内容整備が進展するとともに英語系以外の学校にも影響を与え,美術教
員のネットワークが段階的に組織されていったことがわかる。
なお,ウォーカーは1950年4月にイギリスに帰国している。1972年には,彼の指導を受けたリム・チェン
ホーらが中心となって「リチャード・ウォーカー展」を企画し,シンガポール中華總商会(Singapore Chinese
Chamber of Commerce)を会場として作品が展示された。
図7 リチャード・ウォーカー『自画像』
(1930
32)
年代) ,板に油彩,67×59cm
図8 リチャード・ウォーカー『クス島』
(1930年代)33),水彩,
52×64cm
図9 リチャード・ウォーカー『マレー村落』
34)
(1930年代)
,水彩,61×51cm
図10 リチャード・ウォーカー『公現日』
(1942年)35),パネ
ルに油彩,71×98.6cm
397
佐々木 宰
6.まとめ:シンガポールにおける初期美術教育の成立状況
これまで見てきたように,シンガポールにおける初期美術教育には,華人による美術団体を背景とした美
術の専門教育機関,すなわち南洋美術専科学校による専門教育としての美術教育の系譜と,植民地政府によ
る英語系学校において展開されていった普通教育としての美術教育の系譜がある。すなわち,シンガポール
の初期美術教育は,専門教育及び普通教育それぞれの目的を持った異なる系譜として開始されたのであった。
これを時系列で見ると,リチャード・ウォーカーによる学校美術教育への指導開始(1923年)が,南洋美
術専科学校の開校(1938年)に15年ほど先行している。すなわち,シンガポールにおける美術教育の端緒は,
西洋式の英語系学校における普通教育として開かれ,次いで華人系作家による専門教育が加わり,これら二
つの系譜が並行しながら発展してきたといえる。ウォーカーの影響力はマレー語系や華語系,タミル語系の
学校にも及んでいたようであるが,ラッフルズ学院をはじめとする英語系学校を通した水彩画等の西洋美術
の紹介と普及,中学校修了試験といった学校教育制度への美術教育の対応は,その後のシンガポールの美術
教育の基盤を形成したといえる。
ウォーカーの教え子で,水彩画家としてよく知られるリム・チェンホー(Lim Chen Hoe,林清河)は,
1930年から1932年の18歳から20歳までの期間,ラッフルズ学院に在籍している。リムは最終学年時の1932年
から卒業後1935年まで,ウォーカーの美術教室に参加している36)。リムの日記には,若いラッフルズ学院
の生徒にとって西洋美術やウォーカーの存在がどのようなものであったか,その一端が綴られている。例え
ば,1930年10月11日の日記では,「ウォーカー先生,私の絵画の師匠は,私に賞を与えることを約束してく
れた……中略……それは名高い賞というものではなかったが,私は幸せだ。ドローイングは学校の授業の中
で最も好きな科目であり,その科目で名を上げることは,『自分の夢の実現の一端』になる。この嬉しさを
うまく言葉で表せない。37)」と書かれている。これを見ると日記が書かれた1930年当時のラッフルズ学院に
はドローイングが科目として設定されており,若いリムが画家としての将来を夢見ることができる一定の
アートシーンが当時のシンガポールに形成されていたことが推察される。学校教育やそのネットワークを通
した美術教育の普及に果たしたウォーカーの功績は,リムのような画家を志す者をはじめ美術に関わろうと
する人々の底辺の拡大,当時の美術教師の資質形成,カリキュラムや教育内容の立案に及んでおり,これら
によって学校における美術教育の全体的な底上げがなされたものと推察できる。他方,リム・チェンホーは
ウォーカーの美術教室に通ったとはいえ,彼自身は美術の専門教育を受けたという認識は持っておらず,む
図11 リム・チェンホー『バレク村落』制作年不
明38),水彩,47.7×36.9cm
398
図12 リム・チェンホー『トンカン』
(1938)39),水彩,24×31cm
20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育
しろ独学によってその後の画業を展開させたという意識に立っている。すなわち,シンガポールにおける専
門的な美術教育による作家の養成は,南洋美術専科学校の開校を待たなければならなかったのである。
南洋美術専科学校においては,校長リム・ハクタイをはじめ,多くの講師たちが廈門,上海など,中国で
の美術教育を受けており,それが彼らの指導の基盤になっている。羽田ジェシカによると,リム・ハクタイ
は廈門美術専科学校の創始者の一人であり,廈門における美術と美術教育はシンガポールとマラヤの華人美
術に大きな影響を与えたという40)。したがって,南洋美術専科学校では,中国において受容された西洋美
術の教育のシステムと,中国画に代表される伝統的中国美術の教育が輻輳するかたちでの専門的美術教育が
行われたといえる。イギリスの植民地でありながら,シンガポールにおける専門的な西洋美術教育は,イギ
リスやヨーロッパからの直接的な受容ではなく,華人社会のネットワークを通じて中国経由でもたらされた
ものである。
南洋美術専科学校のカリキュラムは西洋油画(アカデミックな写実主義,後期印象派,象徴派や野獣派な
ど)
,伝統的中国画から構成されていた。生徒たちは3年間のコースか,2年間の短縮コースを選択できた。
最初の卒業式が1940年6月20日に行われ,西洋油画を専攻したタイ・ロン(Tay Long),リン・ヨンジン(Lin
Yongxin)
,チャン・タンリン(Zhang Tanlin),ゴー・チェンチャイ(Guo Chengcai)の4人が卒業した。
同年9月には,ホワン・バオファン(Huang Bao Fang),ヂョン・バイム(Chong Pai Mu),チャン・ルー
チ(Tchang Ju Chi)ら著名な華人作家を講師に招いた新学期が開始された41)。しかし,この頃すでに中国
本土と日本は1936年からの日中戦争下にあり,平穏な社会情勢ではなかった。リム・ハクタイ自身,廈門の
日本占領から逃れてきた経緯をもち,4人の卒業生への祝辞の中で,抗日の精神をもった美術について語っ
ている42)。中国の画家であるシュー・ベイホンやリウ・ハイスらは,抗日運動の呼びかけと義損金の収集
にシンガポールを訪れており,華人作家たちもこれに応えていた。こうした社会情勢のなか,1941年に南洋
美術専科学校は閉校を余儀なくされた。同年12月8日にマレー半島東岸のコタバルに日本軍が上陸すると,
翌1942年2月14日にシンガポールが陥落してしまう。ここから1945年8月までの3年と6か月,シンガポー
ルは日本軍占領下におかれた。日本軍は特に華人に対しては弾圧の姿勢をとり,抗日や共産思想の嫌疑のあ
る者を粛清した。抗日の風刺漫画を描いた画家のチャン・ルーチは投獄され,獄死した。
このように,シンガポールにおける初期美術教育は,英語系学校を中心とした学校教育における普通教育
としての整備がイギリス人リチャード・ウォーカーによって始められ,これに次いで廈門から移住したリム・
ハクタイが南洋美術専科学校を起こして作家養成を目的とした専門教育としての美術教育が始まる,という
歴史的経緯を持っている。しかし,第二次世界大戦及び日本軍による占領により,南洋美術専科学校は第1
回の卒業生4人を輩出したのち閉校し,本格的な美術教育は戦後世界の到来を待たなければならなかった。
占領期間は,学校制度をはじめとして社会制度が日本化されているので,それまで築いてきた学校教育に
おける美術教育もこの期間は停止していた。軍政部は学校教育を再開するが,日本語教育と産業技術指導に
重点を置いて住民の皇民化を目指すものであった。指導言語は日本語とマレー語とされ,華語と英語は禁止
された。1943年の軍政部による「初等学校ノ名称及教科目ニ関スル件」の中には,図画工作の教科名があ
る43)。しかし,学校の再開状況が非常に低いことを考えると,この時期の美術教育は実質的に機能してい
なかったことが予測される。したがって,戦前の美術及び美術教育の再開は,日本軍撤退後のイギリスの再
統治下において,従前の学校教育が再開されてから,ということになる。
戦後,華人美術協会はリウ・カンらが主導して活動の再開準備を始めた。リム・ハクタイはいち早く1946
年に南洋美術専科学校を再開している。リチャード・ウォーカーもラッフルズ学院での美術教室を1948年か
ら再開し,帰国する1950年まで続けた。マレー人美術家協会(Society of Malay Artists, Persekutan Pelukis
Melayu)やインド人美術協会(Indian Fine Art Society)などの美術団体が創設され,1949年にはウォーカー
399
佐々木 宰
やリウ・カンらが中心となってシンガポール美術協会(Singapore Art Society)を創設した。この団体は,
多様な民族で構成されたシンガポール初の多文化美術団体であった44)。戦後のシンガポールの学校教育制
度は,基本的に戦前同様の言語系ごとの不統一な制度が引き継がれている。美術教育に関しては,各言語系
学校に共通したシラバスが示されるのがようやく1959年になってからである。戦後の美術及び美術教育につ
いては本稿では扱わないが,その基盤はイギリス系の学校美術教育と,華人社会から持ち込まれた専門美術
教育という戦前からの二つの系譜を基本的に踏襲したものとなっている。
シンガポールでは戦後の混乱期から自治政府の樹立,マレーシア連邦への参加,さらにはそこからの独立
といった国家存亡に関わる重大事が1960年代半ばまで続き,その後も国力の脆弱な独立国家を維持するため
に徹底した政府主導のプラグマティックな政策が実施される。こうした中で,美術作家たちは世界的なアー
トシーンの変化に直面しながらも,多民族・多文化社会における美術のアイデンティティを模索していく。
学校教育においては,民族的な文化の均衡に配慮しながら美術教育の内容設定がなされていく。戦後シンガ
ポールの社会状況と,多元文化主義に基づいた美術と美術教育の展開については,稿を改めて述べることと
する。
注
1)ラワンチャイクン寿子,「中国人コミュニティと近代美術運動 ──戦前の中国人作家の活動」(pp.99-101),「近代美術
の夜明け」
(pp.102-103),「嚶嚶(インイン)芸術社 ──ペナンの中国人画家たちの胎動」
(pp.104-109)
,
「華人研究会 ──中国出身作家の活躍」
(pp.110-114),
「南洋美術専科学校と南洋派」
(pp.115-127)
「社会的テーマの隆盛」
,
(pp.128-138),
福岡市美術館(編),『東南アジア ──近代美術の誕生』
,福岡市美術館,1997.ラワンチャイクン寿子,
「南洋の中国人社
会の近代美術」,静岡県立美術館(編),『東アジア/絵画の近代 ──油画の誕生とその展開』,静岡県立美術館,1999,
pp.21-23.ラワンチャイクン寿子,「南洋美術考 ──「他者」の再生産と「自己」の獲得」,『デアルテ』,17,九州藝術学
会,2001,pp.79-101(本文),pp.7-8(図版).羽田ジェシカ,
「海を超えた美術 ──廈門美専・南洋美専の創始者,林学
大をめぐって」,『アジア遊学』,146,勉誠出版,2011,pp.218-236.
2)羽田ジェシカ,「南洋風 ──シンガポール近代美術の一側面」,『デアルテ』,23,九州藝術学会,2007,pp.19-40.羽田
ジェシカ,
「海を超えた美術 ──廈門美専・南洋美専の創始者,林学大をめぐって」
,
『アジア遊学』
,146,勉誠出版,
2011,pp.218-236.
3)T. K. Sabapathy and Redza Piyadasa, Modern Artists of Malaysia, Dewan Bahasa dan Pustaka, Ministry of Education
Malaysia, 1983, Kuala Lumpur. T. K. Sabapathy (ed.), Vision and Idea --ReLooking Modern Malaysian Art, National Art
Gallery, Kuala Lumpur, 1994. レッザ・ピヤタザ,
「マレーシアおよびシンガポールにおける初期近代美術(1920-1960)の
発展」,福岡市美術館(編),『東南アジア ──近代美術の誕生』
,福岡市美術館,1997,pp.94-98.
4)Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996.
5)National Gallery Singapore, Siapa Nama Kamu? --Art in Singapore since the 19th Century, National Gallery Singapore,
2015.
6)レッザ・ピヤタザ,「マレーシアおよびシンガポールにおける初期近代美術(1920-1960)の発展」
,福岡市美術館(編),
『東南アジア ──近代美術の誕生』,福岡市美術館,1997,pp.94-98.
7)ピヤタザ,1997,p.94.
8)ピヤタザ,1997,p.94.
9)Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996, p.9.
10)図版出典:Gretchen Liu, Singapore -A pictorial History 1819-2000, Editors Didier Millet, 2011, p.160.
11)“Singapore Art Club.”, The Straits Times, 9th March 1912, p.8.
12)英語による作品名はLynx, 図版出典はKwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore
Art Museum, 1996, p.12.
13)英語による作品名はThai Temple,図版出典は同上。
14)‘The Late Mr. Oei Tiong Ham, Removal of Remains to JAVA’, Malayan Saturday Post, 12th July 1924, p.6及び「劉開賞
400
20世紀初頭のシンガポールにおける近代美術教育
君精繪孫中山先生遺像問世」,『南洋商報(Nanyang Siang Pau)
』
,1930年9月27日付,p.8.
15)Kwok Kian Chow, 1996, p.12.
16)Chew Teng Beng, ‘History of the Development of Art in Penang’, Tan Chee Khuan, Pelukis-Pelukis Perintis Malaysia
-Pioneer Artists of Malaysia, Percetakan Practical Sdn Bhd, 1992, pp.5-7.
17)Tan Chong Guan, ‘The Life of Yong Mun Sen’, Penang Museum and Art Gallery, Yong Mun Sen -Retrospective 1999,
Penang Museum and Art Gallery, 1999, pp.7-16.
18)Tan Chee Khuan, “Lee Cheng Yong”, Lee Cheng Yong --Retrospective, Penang State Art Gallery, 1996, pp.7-9.
19)Kwok Kian Chow, 1996, pp.14-15.
20)ラワンチャイクン寿子,「嚶嚶(インイン)芸術社 ──ペナンの中国人画家たちの胎動」
,福岡市美術館(編)
,
『東南ア
ジア ──近代美術の誕生』,福岡市美術館,1997,p.104.
21)ラワンチャイクン寿子,「華人研究会 ──中国出身作家の活躍」
,福岡市美術館(編)
,
『東南アジア ──近代美術の誕
生』,福岡市美術館,1997,p.110.
22)羽田ジェシカによれば,厦門での林学大は,福建省立第十三中学(1916-1917),集美師範学校(1918.2-1929.8)に勤務し
ながら,1923年に仲間と厦門美術専科学校を創立して訓育,藝師科主任兼任したという。羽田ジェシカ,
「海を超えた美術 ──廈門美専・南洋美専の創始者,林学大をめぐって」
,
『アジア遊学』
,146,勉誠出版,2011,pp.218-236.
23)英語による作品名は,Still Life --Flowers,筆者撮影。
24)英語による作品名は,Untitled --Fruits and Rabbit,筆者撮影。
25)1950年3月23日付けのストレイツ・タイムズの記事に,54歳になったウォーカーの半生が自身の回想を踏まえて紹介され
ている。“Art Classes --Way Back In 1933”, The Straits Times, 23 March 1950, p.4.
26)前掲1950年3月23日付けストレイツ・タイムズ記事のほか,1969年に開催されたシンガポール芸術協会の20周年記念誌に
ウォーカーのエッセイが収録されている。Walker, Richard., “Ruminations”, Singapore Art Society, Souvenir Magazine to
commemorate the 150th anniversary of the founding of modern Singapore and the 20th anniversary of the Singapore
Art Society, Singapore Art Society, 1969. (pages no printed)
27)Walker, Richard., 1969.
28)Walker, Richard., 1969.
29)Kwok Kian Chow, 1996, pp.27-31.
30)1950年3月23日付けのストレイツ・タイムズの記事では,ウォーカーが1933年にマレー学校の教師,生徒の父母向けの美
術教室を始めたという内容が掲載されている(“Art Classes --Way Back In 1933”, The Straits Times, 23 March 1950, p.4.)
が,Walker, Richard., 1969では総監督官となった1937年に英語を話すマレー人教師への指導を開始し,1938年には英語を
話さないマレー人男性教師への指導を開始し,さらにマレー人女性教師らの指導もしたと記録されている。
31)Heathcott, Mary., “Exhibition of Teachers’ Handwork To-day”, The Singapore Free Press and Mercantile Advertiser,
14th March 1941, p.5.
32)英語による作品名はSelf Portrait,図版出典はKwok Kian Chow, 1996, p.28.
33)英語による作品名はKusu Island,図版出典は同上,p.29.
34)英語による作品名はMalay Kampong,筆者撮影.
35)英語による作品名はEpiphany,図版出典はNational Gallery Singapore, 2015, p.146.
36)Sheares, Constances., “The Work of Lim Cheng Hoe: A Stylistic Analysis”, National Museum, Singapore, Lim Cheng
Hoe Retrospective 1986, Ministry of Community Development and the National Museum, Singapore, 1986, pp.13-16.
37)次の文献において,リムの日記が紹介されている。原文は英語。文中の日本語は佐々木による邦訳である。T. K.
Sabapathy, “Image and Medium --The Painted World of Lim Cheng Hoe”, Ministry of Community and the Naitonal
Museum, Singapore, Lim Cheng Hoe Retrospective 1986, Ministry of Community Development and the National Museum,
Singapore, 1986, pp.3-12.
38)マレー語による作品名はBalek Kampong,筆者撮影。
39)マレー語による作品名はTongkang,図版出典はMinistry of Community and the Naitonal Museum, Singapore, Lim
Cheng Hoe Retrospective 1986, Ministry of Community Development and the National Museum, Singapore, 1986, (pages
no printed).なお,作品名の「トンカン(Tongkang)
」はシンガポールなどで用いられる木造船のことである。
40)羽田ジェシカ,
「海を超えた美術 ──廈門美専・南洋美専の創始者,林学大をめぐって」
,
『アジア遊学』
,146,勉誠出版,
2011,pp.218-236.
41)Noorhayati bte Mohd Ismail (ed.), Crossroads --The Making of New Identities, National University Singapore
401
佐々木 宰
Museum, 2004.
42)ラワンチャイクン寿子,「中国人コミュニティと近代美術運動 ──戦前の中国人作家の活動」
,福岡市美術館(編),『東
南アジア ──近代美術の誕生』,福岡市美術館,1997,pp.99-101.
43)宮脇弘幸,「解説(二)占領下マラヤ・シンガポールにおける教育と日本語教科書」
,明石陽至・宮脇弘幸(編)
,
『南方軍
政関係資料 日本語教科書 ──日本の英領マラヤ・シンガポール占領期(1941~1945)』,第5巻,2002(復刻版)
,
pp.11-37.
44)Kwok Kian Chow, 1996, pp.38-40.なお,同書によると創設者は,
リチャード・ウォーカー,
フランシス・トーマス
(Francis
Thomas),リウ・カン,スリ・モヤニ(Suri Mohayani)
,ブリティッシュ・カウンシルのチャールズ・サリスベリ(Charles
Salisbury),ラッフルズ図書館・博物館のC.A.ギブソン・ヒル(C.A. Gibson-Hill)
,ロイ・モレル(Roy Morrell)
,フィリス・
マッケンジー(Phyllis MacKenzie),トク・クーンセン(Tok Khoon Seng)と記されている。
図版出典
図1:Gretchen Liu, Singapore -A pictorial History 1819-2000, Editors Didier Millet, 2011, p.160.
図2:Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996, p.12.
図3:Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996, p.12.
図4:筆者撮影
図5:筆者撮影
図6:筆者撮影
図7:Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996, p.28.
図8:Kwok Kian Chow, Channels & Confluences --A History of Singapore Art, Singapore Art Museum, 1996, p.29.
図9:筆者撮影
図10:National Gallery Singapore, Siapa Nama Kamu? --Art in Singapore since the 19th Century, National Gallery
Singapore, 2015, p.146.
図11:National Gallery Singapore, Siapa Nama Kamu? --Art in Singapore since the 19th Century, National Gallery
Singapore, 2015, p.143.
図12:Ministry of Community and the Naitonal Museum, Singapore, Lim Cheng Hoe Retrospective 1986, Ministry of
Community Development and the National Museum, Singapore, 1986. (pages no printed)
謝 辞
本稿は,JSPS科研費15K04391「多民族・多文化国家シンガポールの美術教育における教育課程と国民統
合に関する研究」の助成を受けたものである。
本研究にあたり,以下の方々の多大な協力を得ている。ここに感謝の意を表します。
Ms. Kehk Bee Lian and Mr. Paul Lincoln (National Institute of Education, Singapore)
Ms. Wang Tingting and Ms. Shirley Khng (Singapore Art Museum)
Mr. Cheng Ming Chong, Dr. Lim Poh Tech, Mr. Tan Ngeup Khun, Ms. Teng Mei Yong Chistabel, Mr.
David Koh, Mr. Lee Yeow Hui Russell, Ms. Ho Hui May and Ms. Tan Choong Kheng (Nanyang Academy
of Fine Arts)
Mr. Tan Tai Pang (Temasek Polytechnic)
Mrs. Tang Tak Seng and Ms. Teo Kien Loo (Singapore Teachers’ Art Society)
(釧路校教授)
402