1992年 ユーゴ内戦ボスニア紛争 湾岸戦争停戦 PKO法案成立

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1992 年 海外
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2月
EC 加盟国マースリヒト条約署名。1993 年 11 月にヨーロッパ連合 EU 成立。
3月
ユーゴスラビア内戦勃発。ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言(1995 年まで)。
ボスニア・ヘルツェゴビナってどこだ、という人は地図を見る。イタリア半
島の東、アドリア海に臨む対岸にあるはずだ。現在はその北にクロアチア、
東にセルビア、南にモンテネグロがある。しかし「ユーゴスラビア」と言う
国は、現在はもう地図にはない。下の写真は「アドリア海の真珠」と言われ
たクロアチア・ドブロヴニク城壁から見たアドリア海。ドイツの文豪ゲーテ
は「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」と詩にしたが、風光明媚な
土地のわりに、血まみれの歴史を持つこの地域はややこしい。
第 1 次世界大戦の敗者 三国同盟側の一員、オーストリア帝国の帝政滅亡後
の影響を知っておこう。1914 年に始まった第 1 次世界大戦は、オーストリ
ア帝国の皇太子がセルビア人青年に暗殺される「サラエボ事件」がきっか
けだった。下の写真は事件現場のミリャツカ川にかかる「ラテン橋」だ。
セルビア王国は周辺を統一国にしたかったが、オーストリア帝国が許さな
かったのが原因だ。大戦の結果、セルビア王国は大損害を受けたが、オー
ストリア帝国は帝政が滅亡し、支配下の国々で「民族自決」の気運が高まり、
ベルサイユ条約でも認められた。この地域は、イスラム系=ムスリムや、ゲル
マン系が支配していたから、現在のセルビア、モンテネグロ、クロアチア、
スロベニア 4 つの地域・民族が集まり、セルビア王を国王にした念願の国「ユ
ーゴスラビア王国=南スラブ人の国」が 1918 年にできた。この時のセルビア
人優遇政策が、後の火種を抱えた。第 2 次世界大戦中に、民族主義過
激派はドイツ軍を味方に付け、あちこちで独立勢力を作った。ドイツ
軍の攻撃で滅亡寸前の王国を、ゲリラを率いたティトー(チトー)が救
うが、王が国外逃亡中だったので、チトーが指導者になり「ユーゴス
ラビア社会主義連邦共和国」と改名、一時独立していたクロアチアを
再併合した。
「ユーゴ連邦」にはスロベニア、クロアチア、ボスニア・
ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの 6 つの共和
国が入り、連邦の首都はベオグラードになった。これは「7 つの国境、
6 つの共和国、5 つの民族、4 つの言語、3 つの宗教、2 つの文字、1
つの国家」という表現で示される複雑な「モザイク」国だ。
1980 年にチトーが死去すると、経済の格差や、人種間での不満が噴き出た。1990 年 5 月には、クロアチ
アのザグレブで行われたサッカーの試合で乱闘事件が起きて、独立を求めた内戦「ユーゴスラビア紛争」
が本格化し、クロアチアとスロベニアが 1991 年に独立を宣言した。クロアチアは元々反セルビア主義だ
し、スロベニアは経済的にも豊かで、統制経済の社会主義は嫌だったからだ。ユーゴ連邦政府は 2 国の言
い分を認めず、スロベニアに軍隊が侵攻し、短期間で終結させるが、クロアチアとの間では 1995 年まで
激しい紛争が続く。1992 年にはセルビア内の「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立を宣言し、20 世紀の
ヨーロッパで最悪の紛争と言われる「ボスニア紛争」が勃発する。
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1992 年 海外
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「ボスニア国」にはクロアチア人、ムスリム、セルビア人がいる。約 15%
のクロアチア人はユーゴ連邦から「ボスニア国」としての独立、約 50%の
ムスリム人はキリスト教徒が多いクロアチア人を外した「ボスニア国」と
しての独立、約 30%のセルビア人は少数派だから「ボスニア国」から離脱
しての独立を望んでいたので、まとまらなかった。紛争は長期化し、1984
年に行われた冬季サラエボ五輪会場の補助グランドは、墓場になってしまっ
た。後方から支援する国も出てきて、武器の実験場になり、例の「劣化ウラ
ン弾」も使われた。湾岸戦争では死ぬのはアラブ人で、遠い中東だから、問
題になるのに時間がかかったが、イタリアの目と鼻の先の中部ヨーロッパだ
から、すぐに大問題になった。この紛争で「民族浄化= エスニック クレン
ジング」という、耳には気持ちいいが、野蛮な言葉が初めて使われたことに
お
注意したい。意味は「ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする政策」で、
大量虐殺や強制移住の他、陰険なやり方では、言語や服装を禁止する、就職で差別する、
なども含む。今の中国がチベットで行っていることはまさに「民族浄化」だ。そしてア
メリカの広告代理店が「ボスニア政府」と契約し、効果的にセルビア側を「悪者」とし
て報道させることで、世界の世論を動かす「戦争広告代理店」というトンデモナイ商売
も登場した。1995 年アメリカが仲介して、国連がクロアチアの独立を認め、クロアチア
側は国内の一部をセルビア人居住区として分離して、セルビア共和国へ渡すことを認めて
合意し、
「クロアチア紛争」は終結。そしてボスニア紛争も、国土をクロアチア人とムスリ
ム人の合併国「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とし、セルビア人はもう一つ別の国に分
離して 2 つを合わせて「ボスニア・ヘルツェゴビナ」にして終結した。マケドニアも 1992
年に独立、2006 年にはモンテネグロとセルビアも独立して、
「ユーゴスラビア連邦」は消
滅した。しかし続けて「コソボ紛争」が起きる。左写真はボスニア・ヘルツ
ェゴビナの世界遺産「スタリ・モスト」。こんな美しいものを作れる人たち
が「民族問題」で殺し合ことは、あまりにも残念すぎるので、「人種はとも
かく、そもそも『民族』いうものは存在しない」と考えた方が賢明だ、と思
うのは筆者だけだろうか。
3月
湾岸戦争が停戦する。多国籍軍の勝利に終わりクウェートは解放される。
国際連合の決議によって編制された米国を中心とする多国籍軍が、1991 年 1 月イ
ラクに対して攻撃を開始し、2 月末までにクウェート全土を解放した。戦力差が圧
倒的だから当然で、詳しいことはさける。それより、色々な注意点がある。
1 つ目ボスニア紛争で紹介した「戦争広告代理店」とアメリカ国防総省による「宣
伝」には、色々とウソがあったことだ。なかでもシラケタものが
①「赤ん坊を殺害したイラク兵の残酷さ」を告発が、全部ウソだったこと。
②海鳥がタンカーから流出した重油で油まみれになっている画像を「この鳥もイラク
軍の犠牲者だ」と煽り、環境保護者を怒らせた。しかし後になって、流出したオイル
は戦争とは関係のないタンカー座礁事故からだとわかったこと。
③「大勢の味方を救い、負傷して捕虜になった女性兵士」の「救出」がウソだった。
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1992 年 海外
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この「救出映像」は米国内で繰り返し放映され、
「愛国心」をあおった。必ず勝てる戦争で
も「念には念を」の精神だったのかもしれないが、かえって「アメリカの『正義』は茶番
劇ではないのか?」という疑念が起きて、今に至っている。
最後の疑問は、イラクの独裁者サダム・フセインは惨敗したが、彼をそのまま放置した理
由は何か? だ。筆者は「危険を言い立てて、アメリカ軍がサウジアラビアに駐留する権
利と理由を継続するため、と推測する。中東の要 イランを失い、イラクやイエメン、ヨルダンもダメ、
となれば原油の取引先で、王家独裁国家で、ペルシャ湾にも睨みがきくサウジアラビアが一番良さそうだ。
実際、この戦争からずっとアメリカ軍はサウジアラビアに駐留したままだ。ただしイスラムの聖地「メッ
カ」「メジナ」での、アメリカ軍の傍若無人な振る舞いが、サウジアラビア出身のウサマ・ビンラディン
を立腹させ、国際テロ組織「アルカイダ」を生み、2001 年の 9.11 テロへとつながるのは、歴史の皮肉だ
ろう。
3月
中国の全国人民代表者大会=全人代で改革開放政策促進を確認する。
「全国人民代表者大会=全人代」とは中国の国会で、憲法で「最高の国
家権力機関」となっていて、年に 1 回、10 日間ほど開かれる。こんな
に回数が少なく、期間が短くて、大丈夫だろうか? 各地方や軍の代表
ら約 3000 人で構成し、任期は 5 年で、憲法改正や法律の制定、政府活
動報告や予算案を審議する。1970 年代から鄧小平によって「個人の経
済活動や社会主義所有制の枠組み内で私的経営を認める」となり、経済
体制は資本主義体制をとることを 1993 年の憲法改正で行う。
それ以来、1995
年~1999 年には、裕福な人々が都市部中心に出現し、「万元戸」と呼ばれ、
2000 年代になると、人々の格差が大きくなるが、それはこの全人代の決定
から始まる。この年 1 月にはイスラエルと国交を樹立、8 月には韓国と国交
を正常化し、9 月には韓国の盧泰愚大統領が、中国を公式訪問している。
「黒
い猫でも、白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ」と鄧小平が 1960 年代
に、会議中に発言し、「主義と方針を持たない実用主義的観点だ」と毛沢東
に睨まれる原因になった「白猫黒猫論」は、今度は大号令となって、中国は
その実現へ歩み始めた。
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1992 年 日本
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2月
公立の小中高で週 5 日制になる。
6月
PKO 法案が成立し、9 月にカンボジアへ文民警察と陸上自衛隊が出発する。
PKO とは Peace Keeping Operation=国連平和維持活動のこと。受け入れ国
の同意を得て、PKF=Peace Keeping Force 国連平和維持軍や専門家などを現
地に派遣し、紛争拡大の防止、治安維持、選挙監視などを行う。日本の初仕
事が、内戦が終了したカンボジアだった。この年 3 月国連事務総長の直接指
揮下で、UNTAC=国連カンボジア暫定統治機構が、和平協定に基づいて、プ
ノンペンに設置され、選挙による新政府樹立までの暫定期間中、事実上の全
権を管轄した。戦争をしに行くのではないのに、例によって社会党や共産党
は「自衛隊の海外派遣は軍国主義につながるものだ」と反対し「牛歩戦術」
まで使って成立を阻止しようとした。投票中に日付が変わると「投票無効」
となるので、ゆっくり歩いて投票箱まで行く方法だが、見ていても恥ずかし
かった「黒い歴史」だ。写真で右の兵士の青いベレー帽が PKO や PKF の
トレードマーク。中央の日本人は国連事務総長特別
代表の明石康、左はシアヌーク国王の息子ラリナッ
ト。「国連を通じての平和維持に、日本が参加する
第一歩となる法律が成立し、それに基づいて自衛隊
と停戦監視員、文民警察要員がカンボジアの平和に
参加できたことは、非常に嬉しく、画期的なことだった」と明石は語った。選挙
による新政府樹立後の 1993 年 9 月に任務を終了、しかし UNTAC の選挙支援ボ
ランティアと警察官の日本人 2 名が現地ゲリラの犠牲になった。カンボジアは
1997 年にまた内戦になる。困った国だ。
10 月
天皇と皇后が初の中国訪問をする。
この年「日中国交 20 周年」だったことを理由に、中国側の強い要請で実現し
た。それは表向けで「天安門広場事件」で落ちたイメージを払しょくするため
だった。日本国内では今後の日中関係を危ぶむ人たちが「今後アジア平和への
脅威になる」
「経済支援への感謝もないし、人道支援の PKO 参加に反対表明な
ど、日中間にはまだ真の友好が確立されていない」
「人権抑圧国家へのご訪問
は例がない」
「55 か国は国王や大統領など、元首か元首級の来日だったのに、昭和天皇のお葬式に中国は
外務大臣、現天皇ご即位の時には副首相を代表に送ってくるなど、全く敬意が感じられない」と散々な批
判だった。途中で訪中容認に傾いた中曽根元首相は、右翼の青年に腹部を刺される事件まで起きた。やは
り中曽根氏は「保守派」ではなく単なる「風見鳥」かも。しかし政府はそれらの声を押し切る形で、ご訪
中を実現した。その後の「日中友好関係」は、反日デモは起きる、軍備は拡大する、チベットで人権を抑
圧する、尖閣諸島にはちょっかいを出すなど、中国は相変わらずどころか、マイナスにエスカレートして
いる。まだ時代錯誤の「世界の中心 中華帝国」とか「古代の冊封体制」を夢見ているようだ。結果から
すると反対意見が正しかったと思われる。
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1992 年 日本
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東京佐川急便事件で金丸 元自由民主党副総裁が逮捕される。
この年 2 月に東京佐川急便(現 佐川急便)による、暴力団系企業への巨額な債務
保証(借金を払えない場合に、代わりに払うこと。事実上の利益供与にあたる)が発覚した。
反社会勢力への「献金」は、禁止されている。背景には 1987 年の竹下政権誕
生の時に、
「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と右翼団体
の街宣車から、大音量で連呼する「ほめ殺し」という嫌がらせがあった。精
神的にまいった当時の竹下蔵相を救うために、佐川急便の会長を通して、暴
力団へ仲裁を、金丸幹事長が依頼し、仲裁はうまく行ったのだが、そのため
佐川急便は暴力団へ巨額の債務保証=利益供与をした。当時、急成長を遂げて
いた佐川急便は、運輸業の許認可を得るために、自民党最大派閥の竹下派に
巨額な献金をしている、とうわさが立っていた。債務保証関係の捜査過程で、
金丸 元副総裁らが、5 億円の献金を届け出なかったことが判明し、政治資金
規正法違反で立件、罰金 20 万円が確定した。国会議員が同法違反で有罪と
なったのは初めてであったが、わずかな罰金で済んだため、国民から強い不
満が出て、怒った人が東京地方検察局の看板に、ペンキを投げつける騒ぎも
あり、結局金丸は議員を辞職した。
リクルート事件で総理を辞めた竹下元首相は、今度は「ほめ殺し」事件問題
で、国会に証人として呼び出されたが、関与を否定した。竹下派はこれによ
って急速に求心力を失って、長い間続いてきた「田中支配」
「竹下派支配」は、
小沢一郎グループと反小沢グループに分かれ、小沢らによる自民党離党→新
党結成→非自民系 細川連立政権誕生=55 年体制終了、という政治変動を引き
起こした。しかし、佐川急便事件は、ロッキード事件やリクルート事件より
金額も人脈も大きい事件だったのに、大部分の真相は闇の中に消えて
もりひろ
は
た つとむ
いる。左写真の手前から細川護煕、羽田 孜 、小沢一郎。ちなみに「右
翼の街宣車」は、たいていは黒色だが、現在ではこのような白色もあ
る。この車は「右翼」ではなく、おかきの製造会社のものだ。見るか
らに「信念」にあふれている。
9 月 毛利衛が日本人初のスペースシャトル搭乗者になった。
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