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8月20日(木)長崎原爆資料館
山脇 佳朗さん
白髪のおじいさんだなという印象だと思うのですけれども、全くその通りで、現在の私
は原爆による外傷はないです。11 歳の小学校6年生の時に被爆しました。これは原爆のせ
いかどうかわかりませんが、35 歳になる位の頃から肝臓とか腎臓がかなり悪くなり始めて、
調べてみたら、退職するまでに合計 15 回くらい原爆病院に入院したり退院したりしました。
今も慢性肝炎なんです。去年の 9 月に原爆病院の主治医から「山脇さん、あなた胃がんに
なっているよ。大学病院へ行くように。」と言われて検査をしてもらったら、やっぱり胃が
んだということがわかって、10 月 3 日にがんを摘出する手術をしました。それは、原爆に
よるものかどうなのかはわかりません。今、そういう状態です。
はっきりしていることは一つあるんですよ。残っている傷が。それは何かというと、皆
さんと同じくらいの時に原爆を受けて、原爆による深い心の傷が 75 歳になった今でもまだ
治ってないなという気がするんです。だから、はるばる逗子から来て下さった皆さん方に
は、私が原爆によって受けた深い心の傷とは一体何かと、汲み取ってほしいなという気持
ちでお話をしたいと思っております。
最初に配っていただいた資料について説明をします。まず、目につく×印から始まる赤
い線ですね。これは何かというと、原爆が投下された後、お父さんが帰って来ないんです。
兄さんと弟と兄弟三人でお父さんを迎えに行こうということで、原爆投下の翌日、お父さ
んが働いていた三菱電機の鋳物工場まで迎えに行った。そのコースを示しています。だか
ら、今日お話しする内容も赤い線を辿って歩きながら私たちが何を見たのかということで
す。それから、右の上の方に緑のマークを入れています。新興善国民学校、当時は国民学
校と呼んでいたのですけれども、当時私は新興善国民学校の 6 年生であったということが
一つ。もう一つは、真ん中の黄色の爆心地の少し右に医大というのがありますよね。長崎
医科大学が原爆によって壊滅的に壊れてしまう。その後、実は私たちの母校である、緑の
マークの新興善国民学校が長崎市で一番大きな救護所になったんです。傷付いた被爆者が
どんどんここに担ぎ込まれた。永井隆先生を始め、たくさんの先生方がここで治療をして
くださった。にもかかわらず、被爆者はどんどん亡くなってしまった。たくさんの被爆者
が亡くなった最大の救護所であったということで、緑のマークを入れました。それから、
左の方に青いマークを入れてありますね。トンネル工場の矢印の少し先。原爆資料館の中
にも展示しているのですけれど、谷口少年です。この少年が被爆したのが、この青いマー
クのところなんです。この少年は当時 16 歳で自転車に乗って郵便配達をしていた。左の方
に向かって自転車でどんどん走っていた。原爆が背中の方で炸裂して、そのとたんに背中
が熟したトマトをつぶしたように溶けてしまったんです。次の瞬間、自転車と一緒に吹き
飛ばされて意識を失う。間もなく発見されて病院に担ぎ込まれます。腹ばいの姿勢で 1 年 9
カ月治療を受けるんです。背中のケロイドが少しずつ固まってきた。そこで病院の先生に
「谷口くん、ちょっと体を動かしてごらん」と言われて、ベットから身を起こそうとした
ら、今度はシーツにくっついていたろっ骨の間の肉が痛み始めていたという話を聞いたこ
とがあります。この地点でも、それくらいひどかったんですね。
丸い円周は、爆心地から 2 キロなんです。私はどこで被爆したのかというと、2 キロの円
周をぐるっと港の方に行くと、×印の自宅があります。だからこの地図で一目瞭然ですが、
被爆した距離とこの少年が被爆した距離とはほとんど変わらなかった。爆心地から約 2 キ
ロのところだった。この少年はこんなにひどい傷を受けたのに、あなたはなぜこれだけひ
どい傷を受けずに済んだのか、という疑問が当然わいてくると思うのですが、後で詳しく
お話ししますが、原爆が爆発をするほんの 4,5 分前に私たちは縁側から奥の茶の間に移った
んです。それがこの少年と私の傷の差になったんです。私もまったく傷を受けなかったわ
けではないんです。落ちてきた瓦や飛んできた硝子に刺さったりしました。でも、そんな
ひどい傷は受けなくて済んだんです。5 分前に家の奥に入った。それがこの少年との傷の差
になったということです。
もう一つこの地図でお話ししておきたいのは、実は原爆を抱えた B29 はグアム島近くの
テニアン島の基地を離陸したんです。下の資料館を見ればよくわかると思いますが、テニ
アン島の基地を離陸して、第一目標は北九州の小倉を目指したんです。7∼8 時間かけて飛
んできた。
ところが小倉の上空に到達して旋回して目で見ようとしたのですが、厚い雲と煙に覆わ
れて小倉を見ることができなかった。彼らは離陸する前に目標地点に到達したら、ここは
目標地点の上空だということを目で確認せよ、目視で確認せよと言われていたんです。で
も、それができなかった。3 回くらい旋回して目視をしようとしたができない。燃料の制限
もありますから、とうとう小倉をあきらめて、長崎に飛んできたということになったんで
す。長崎もやっぱり薄い煙に覆われていたということです。第二目標の長崎に原爆を投下
するならば、常盤橋を目標に投下せよと言われた。眼鏡橋の近くにあるのですけれど、ど
うしてここに設定したのかというと、もしここに原爆を投下することができれば、長崎の
繁華街はもちろんのこと、港の向こうにある三菱造船所、三菱電機、こういう重工業地帯
も繁華街と一緒にやっつけることができる。だから、そういう目的でこの常盤橋に設定し
たのです。
さっき言ったように長崎も雲に覆われていた。それで旋回をしていたら、長崎市の上空
の北側で工場地帯の屋根を発見したらしいんです。この隙間から工場の屋根を目視したと
いうことで、投下の押しボタンを押した。それが黄色に塗った爆心地の上空であったとい
うことを知っておいていただきたい。長崎は第二目標であったということです。
それから左の隅に死者と負傷者の数を入れてありますけれども、あくまでも原爆が投下
された昭和 20 年(1945 年)12 月 31 日までの数だと。亡くなった人、病院に担ぎ込まれ
た人の数であると。翌年 1946 年以降の数は入っていないということを知っておいていただ
きたいと思います。
被爆体験に入りますけれども、私は新興善国民学校の 6 年生でした。夏休みで、赤い×
印の自宅にいたんです。新興善国民学校の 6 年生という言葉を聞くと、ぱっと頭にあるい
は体に浮かんでくることが一つあるんです。
例えば、朝教室に入って授業が始まる前に突然担任の先生が「伏せ!」と声をかけるん
です。私たちは目と耳をふさいで鼻の穴を小指でふさいで口をポカーンと開けて机の間に
伏せる。こういうことをやっていたんですね。あるいはその前に朝礼で校庭に並ぶと、ま
た先生が「伏せ!」と号令をかけた。そうすると校庭にパーッと伏せた。そんなことを繰
り返し繰り返し 6 年生になった頃からやっていたなということが浮かんでくるんです。そ
れは何かというと、敵の飛行機から爆弾が投下された時に「あぁ、爆弾が落ちてくるぞ」
とぽかんと見ていたとすると、地上でバーンと爆発した時に爆風で目玉が飛び出したり、
鼓膜が破れたり、あるいは口を結んでお腹に力を入れているとお腹が破れて腸が飛び出す
と。だから爆弾が落ちてくると思ったらこうやって伏せなさいと、6 年生になった昭和 20
年の 4 月頃、繰り返し繰り返し受けていたことが浮かんできます。
もう一つは、同じ時期ですが、この×印の自宅に帰ると平屋の部分の天井板がなかった
んです。天井板は全部外しなさいという国の命令が出たんです。それも爆弾に関係するの
ですが、その当時、アメリカ軍は『焼夷弾』というものをよくばらまいたんです。名前は
聞いたことがあると思うんですが。どういうものであったかというと、円筒型なんです。
円筒型の焼夷弾が投下された時に、屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾が天井板があると
屋根裏でボンボン燃えた。消火に手間取ると考えたのでしょうね。天井板がなければ、す
とんと床や畳の上に落ちる。そうするとすぐに消せる。多分そういう発想で焼夷弾対策の
ために天井板を外せという命令がでたんですね。
だから、6 年生の頃、夜寝ようとすると屋根裏が直に見えて、梁の間をねずみがちょろち
ょろ走り回るのを見ながら「あぁ、いやだなぁ」と思いながら寝ていました。
学校では「伏せ」の訓練をさせられる。家に帰ると天井板がないという状態。小学生位
の子どもさんに話をすると、あのおじいさんが 6 年生の頃は長崎も爆撃を受けていたのか
なぁという印象を持つようですが、実はそうではなかったのです。
皆さんもいろいろ勉強されたと思うのですが、昭和 20 年 3 月 10 日に東京大空襲という
のがあって、たくさんの B29 という爆撃機が飛んできて焼夷弾やら爆弾をばらまいた。そ
して、東京をかなり焼け野原にしてしまった。
それ以降、日本の大都市、横浜、名古屋、大阪、神戸だとかは、焼夷弾や爆弾の攻撃を
かなり受けたんです。でも、日本の西の方にあたる九州、四国、中国地方はそれほどまだ
頻繁ではなかった。昭和 20 年 4 月にアメリカ軍が沖縄に上陸をする。沖縄に基地を作って、
沖縄の方から日本の西側を攻撃しようということだったのかなと思います。いずれにして
も、日本の西側はそれほど頻繁な空襲はなかった。
長崎が最初に空襲を受けたのは、原爆投下の 1 年前の昭和 19 年の夏。B29 というやつが
飛んできて、爆弾をばらばらばらとばらまいた。被害はそれほど大きくなかったのですが。
それ以降、頭の上を通って行く敵の飛行機がたくさんあったんです。
「今日は佐世保に行く
のかなぁ、福岡に行くのかなぁ」と防空壕の入り口から恐る恐る見ていたんです。直接、
長崎に爆弾を投下するということはありませんでした。兄弟 3 人の間では、そのうちに長
崎は歴史が深い街だから、ひょっとしたら長崎には爆弾を落とさないかもしれないねと話
しながら見ていました。
でも実際はそうじゃなくて、原爆投下の 2 週間前の 7 月半ばにくらいから、ロッキード
とかグラマンと呼ばれた小型の戦闘機とか小型の爆撃機が突然港の入り口の方から、右の
方から、あるいは稲佐山の上空からものすごく低空で入ってきて機銃掃射をしたり、小型
の爆弾をばらまいたりするようになったんです。調べてみたら、合計 5 回そういう攻撃が
あったんです。大都市ほどではないけれど、その度にけが人や死人が出て、担架とか雨戸
に乗せられていく姿を見るようになりました。
その時に、長崎市庁とか造船所とか永井先生がおられた大学病院とかも機銃掃射を受け
たり、爆弾を落とされたりしました。5 回の爆撃の中で人数は少ないれども、けが人や死人
も出た。
その 5 回の一番最後、8 月 1 日に私の×印の家の近くに稲佐の国際墓地という所があって、
そこに爆弾が 1 個ドカンと落ちたんです。その時、私の頭の倍くらいある墓石が屋根を突
き破ってドカーンと家に飛び込んできたんです。お母さんはびっくりして、
「あなたたちは、
長崎は爆撃は受けないなんて言っていたけれど、とんでもない。長崎市どころかこの家も
危ない。」と言い出しまして、原爆投下の前日の 8 月 8 日、私たちを集めて、「小さな子ど
もたちを佐賀の実家に預けるから、お留守番しておいてね。」と言って、妹 2 人と弟 2 人を
連れて佐賀に行ったんです。
この×印の家に残ったのは、三菱電機の鋳物工場で働いていた 47 歳の私のお父さん、14
歳で中学 3 年生の兄さん、11 歳で小学校 6 年生の双子の兄弟。男ばかり 4 人がこの家で目
を覚ましたんですよね。
何が起こったかといいますと、普通の日だったから、お父さんは朝、
「会社に行ってくる
よ。」と言って出掛ける。戦争中、中学生以上は勤労動員ということで、武器を作る軍需工
場に手伝いに行く義務があった。だから兄さんは港の入り口の方の工場に行って、「旋盤と
かやすりを使って手伝うんだ。」と言って出掛けました。だから、この×印の家には私たち
11 歳の双子の兄弟だけが残ったんです。
兄さんやお父さんが出掛けて行った後、何が起こったかというと、九州の一番南の鹿児
島の方から B29 爆撃機が九州に侵入してきたぞ、ということで警戒警報が鳴った。用心し
なさいよ、ということで鳴った。それがやがて熊本の上空を飛んで長崎の方に向かいそう
だということで、空襲警報に変わったんです。空襲警報というのは空を襲う警報と書くの
ですが、文字の通り、敵の飛行機が来て爆弾を落とすかも知れない、非常に危険な状態で
すね。そうなると、防空壕に避難しなくてはいけない。
ところが、警戒警報が空襲警報に入ったとたんに、家にいた双子の間でつまらないこと
で言い争いを始めたんです。どこの防空壕に避難するかで、私と双子の相棒との間で意見
が分かれたんです。弟は、「空襲警報なら崖の下に掘られたトンネルみたいな隣組の防空壕
に行くのに決まってる。だから、そこに行く。」と言う。私は、「空襲警報が鳴っても爆弾
を落とすかどうかわからないから、庭の防空壕でいいさ。
」どっちに隠れるかで言い争いを
始めたんです。あっちだこっちだと二人で言い争いをしている間に、空襲警報に入ったの
が、一旦警戒警報に戻ったんですよね。つまり、空襲警報が解除になった。
それは、今でも謎なんです。もし空襲警報のままでいたら、防空壕の中に入っている市
民の人がたくさんいて、その後に原爆が投下されてもかなり助かった、怪我をしなくて済
んだ人がいたかもしれない。ところが、空襲警報が解除になったものだから、防空壕から
出てきたところにドカーンと原爆が投下されたようなかたちになったんです。
戦後いろんな人が、なぜ空襲警報が解除になったのか、警戒警報に戻ったかを調べたん
です。わからないんです。謎です。
そういうことで、私たちは空襲警報が解除になって警戒警報に戻った後、喧嘩すること
もなくなって、あぁよかったなということで何を始めたかというと、一升瓶に配給された
黒いお米を入れてシュッシュシュッシュお米を突く作業を始めたんです。一升瓶に配給さ
れた黒いお米を半分くらい入れて、竹の棒を差し込んで、膝の間に挟んでシュッシュシュ
ッシュやるんです。そうすると、配給された玄米に近い黒いお米が、段々皆さん方が今食
べている白米に変わるんです。
これは、どこの家でもやっていました。どうしてかというと、配給されていたお米は二
分づきだったんです。玄米から 20 パーセントだけ皮を取った黒いお米なんですね。そのま
ま食べられないこともないです。
でもいろいろ調べてみたら、当時配給されていたお米は、一日大人一人あたり 2 合 1 尺。
小さなコップ 2 杯です。実際に配給されたお米は、コップ 1 杯あるかないかくらい。あと
の半分は代用食ということで、お米じゃないものが配給されたんです。豆腐を作る大豆を
つぶした後の豆かすとか、トウモロコシの干したものとか、かんしょ(サツマイモを切っ
て干したもの)、そういうものが代用食として配給されたんです。
だから、こういう代用食を米に入れて混ぜて食べようとすると、ぽろぽろしていて粘り
気がなくて、このままでは食べられないんです。仕方がないから、みんな一升瓶で配給さ
れたお米を突いて白米にして食べていたんです。
弟と話をしてわかったんですが、それを始めたのが 10 時半くらいからで二人で縁側に座
って、「空襲にならんでよかったな。でも、暑いな。」と言いながら一升瓶でお米を突いて
いた。
食料の質が悪い。量も少ない。二人ともお腹がすいてしょうがないんです。11 時ほんの
2∼3 分前にどちらからともなく肘をつついて、
「早いけれど昼飯にしようか。」
「そうしよう、
そうしよう。
」と言って、縁側に竹の棒を差し込んだ一升瓶をそのままにして、奥の茶の間
に移ったんですね。これくらいのちゃぶ台の足をパチンパチンと起こして、昼のために用
意しておいたふかした芋などを皿の上に置いて、「さぁ、食べようか。」とちゃぶ台の前の
畳に座った時に、ガーンときたんですよ。
昼間だから明るいんですけれど、それでもなお青白い閃光が家の中にわぁーっと突き刺
さってきたという感じでした。
私たちは学校で鍛えられていましたから、パッと光った瞬間に二人とも畳の上に目と耳
をふさいで、鼻の穴を小指でふさいで伏せていましたね。訓練というものは、すごいもの
だと思いました。そうしたら、伏せていた頭や背中の上にがらがらと瓦とか瓦の下の土と
か壁が崩れ落ちてきた泥とかいろんなものが落ちてきました。庭に爆弾が直撃して、この
まま私たちは生き埋めになるのかと思いながら伏せていました。昔の記憶だからはっきり
しませんが、がらがらと物が落ちてくるのは、そんなに長くは続かなかったような気もし
ます。やがて落ちてくるものがぱらぱらとなって、それと同時に、伏せている耳に家の周
囲から大人の人がワーワー叫んだり、子どもたちが泣いたりする声が聞こえ始めました。
私たちは畳の上からおもむろに顔だけを上げて家の中を見渡してみたら、もう様子が一
変していました。畳が見えないくらい、瓦とか土とか家具が倒れたり、建具がくの字に曲
がって抜けて折れてしまっている。柱もみんな傾いてしまっている。ふっと上を見たら、
屋根が吹っ飛んで空が見えている。畳の上は瓦とか土とかいろんなものが散乱している。
ここにいたら家もろとも下敷きになって抜けられなくなると思ったので、私たちはようや
く立ち上がって、壁や柱につかまって立とうとしたんです。そうしら、壁とか柱には吹き
矢みたいにとがったガラス片が刺さっていました。後で防空壕に入ってわかったのですが、
それは私たちの体にも刺さっていました。
私たちは畳の上のがれきをかきわけるようにして外に出て、初めて今度の被害がうちだ
けではなくて、近所みんな同じようにやられているのがわかりました。
一瞬、庭に立ち止まって私たちの学校のある港の向こうを見たら、普通だったら県庁だ
とかいろんな建物がきれいに見えるんですが、その時は港の方は真っ白なほこりか煙のよ
うなものに包まれて何も見えなかった。それを見て、今度の爆撃でこの辺りだけでなく長
崎市全体がやられたのかなということが、ぼんやりとでしたがわかったんです。
それを見て、私たちは庭の防空壕に入り込んでがたがた震えながら、
「父さんか兄さんか
早く帰ってこないかな。
」と言いながら待っていました。
実はこの時、私たちは知りませんでしたが、私の家から 2km離れた爆心地の上空 500m
で原子爆弾がさく裂したんです。500m上空でさく裂したということは、非常に大きな意味
があるんです。小倉をあきらめてきた B29 は、9600m 上空で雲の隙間から長崎市内を発見
したらしいんです。目視ができた。長崎市だ、ということで 9600m 上空で原爆を投下した
んですね。
それは 500m 上空で爆発する、難しく言えば臨界に達するようにセットされていた。上
空 9600mから 500m まで落下するのにどのくらい時間がかかるかのか予め計算されていて、
43 秒くらい経ったら 500m 上空に到達する、そこで爆発させよう、というふうにセットさ
れている。だいたいセットされた通りに約 500m 上空でさく裂した。
直径約 250m。火の玉ができたと思うんです。火の玉の表面は、摂氏 7000℃あるいは
9000℃であったと推定されています。この時、火の玉の真下の地上はどれくらいだったか
ということをいろんな科学者が調べたら、2500℃∼3000℃はあったのではないかと言われ
ています。だから、爆発の瞬間に地上のあらゆるものは真っ黒焦げになって、次の瞬間バ
ーンと爆風に吹き飛ばされるということが起こったんです。
ある広島修道大学の先生は、「原子爆弾は三度人を殺した」と書いているんです。それは
どういう意味かというと、お話ししたように、熱線とか爆風とか放射線とかそれぞれ人を
殺せる恐ろしい武器を三つ持っていた。これが原子爆弾の非常に大きな特徴です。もちろ
ん普通の爆弾と違って、プルトニウムを爆発の原料にするというところは違いますけれど。
爆風の強さはどれくらいだったかといいますと、2km 離れた私のところでも 1 秒間に
72m です。台風の最高でも 35∼45mで、それで被害が出ます。これもいかに強いものであ
ったかということがわかります。爆心地の近くであればあるほど、強くなるんです。
放射線についてはちょっと難しいので省略しますが、64 年経った今でも、甲状腺がんと
か白血病とか放射線特有の病気で苦しみながら亡くなっていく人は絶えないということは
知っていてほしいです。
私たちは当時そういったことは全く知らないで、防空壕の中でがたがた震えながら待っ
ていた。そうしたら 1 時間くらい経った頃、港の入り口の工場から兄が走って帰ってきた
んです。庭の防空壕の私たちを見て「こんなちゃちな防空壕にいたら危ないぞ。次の爆撃
がいつあるかわからない。隣の家の防空壕に避難をしろ。
」と言うのです。だから、兄は板
切れに「お父さん、帰ったら隣の家の防空壕にきてください。」とチョークで書いて、棒に
打ち付けて隣の防空壕に行きました。
でも、入れなかったんです。防空壕の中にはお母さんに連れられた子どもがいたのだけ
れど、みんなぎゃーぎゃー泣いていました。外で遊んでいた子は熱線にやられている。家
の陰で熱線を浴びなかった子も、爆風による飛来物が刺さってひーひー泣いている。そん
な子どもたちが泣き叫ぶ防空壕に入る気がしないので、防空壕の入り口に三人並んで座っ
て「お父さんが早く帰ってこないかな。」と言いながら、ずっと待っていました。でも、と
うとう夜になってもお父さんは帰ってきませんでした。
夜が明けると、防空壕の中や防空壕の周囲の人たちが起きてきました。そして、無責任
な話をするんです。「今度の爆撃で浦上地区は全滅したらしい。生きている人はいないらし
い。」とか、いろいろ言うのです。私のお父さんの工場は浦上地区にあるわけですから、私
たち兄弟は不安で仕方ない。
隣組の人たちがやめておきなさいと言うのを振り切るようにして、赤い線をたどってお
父さんを迎えに行くことにしたのです。
この地図を見ればわかるように、知らないとはしながら、2km 離れたところから爆心地
の方向に向かって 500m ほどずっと歩いて行ったんです。だから、被害はひどくなる一方
です。最初、港に一番近い稲佐橋に降りていくまでは我が家とあまり変わらない状態でし
た。家が倒れたり、倒れかかっている状態でした。
ところが、稲佐橋を渡らないで左に折れて貯木場をぐるっと回って車が通るような浦上
川沿いの道路を歩き始めたら、様子が一変しました。道端にあった街路樹は真っ黒焦げに
焼けて幹と枝だけになっている。その側には電柱も黒焦げになって電線が切れて垂れ下が
っている。あるいは傾いている。道路の左側にはずっと住居が並んでいたのに、それも焼
けおちて土台だけになっている。道にはがれきの間は、髪はちりちりで薄汚れて、洋服は
ボロボロの人がごろごろ転がっているんです。それを避けながら、私たちはずっと歩いて
行きました。
そして、赤い線の梁川橋まで着いたんです。三人ともギョッとして立ちすくみました。
車が 1 台ずつ通り過ぎるくらいの小さな橋だったのですが、膝を抱えたり、頭を前や横に
垂れたりした人が、両側の欄干に沿ってまるで私たちを迎えるようにずーっと並んでいる
んです。「あぁ、もうここは渡りたくない。」と思った。どうしてかというと、首を垂れた
人たちが顔を上げて「助けて」と声を掛けてきそうで怖かったんです。だから、ここは渡
るまいと思って、もう一つ上の竹岩橋を見たら爆風でぽっきり落ちている。仕方がないか
らここを渡るしかない。私たちは両側に膝を抱えたり、首を垂れた人たちの間をゆっくり
歩き始めた。見るともなしに川の中を見たら、川の中にもたくさん遺体がゆっくり浮いて
いました。中でも 18∼19 歳くらいの若い女の人の姿が私たちの目を引いたんです。白いブ
ラウスに黒いもんぺをはいた女の人がぷかぷか浮いていたんです。なんで目を引いたかと
いうと、白い帯をずーっと引っ張っていたんです。最初見た時、腹帯か何かがほどけて流
れているのかと思いながら見ていました。ところがよく見ると、彼女の脇腹が破けて飛び
出した腸が白く変色して尾を引いているのがわかったんです。もう私たちは気持ち悪くな
って、川の中の人たちも橋の上に並んだ人も見ないようにして、足早に橋を渡りました。
そして、橋を渡り終えて左に折れて、1.2m 幅くらいの川沿いの小道をずっと歩いて行こ
うとしました。川の向こうの工場はみんな赤茶けた鉄骨がつぶれた状態になっていて、あ
ちこちブロック塀が壊れていて、歩きにくい状態になっているのはわかいりました。でも、
そこに行くしかないので、そこに入ろうとしました。
そうしたら、そこにまた折り重なって死んでいる人がいたんです。それを踏み越えてい
かなければならなかった。近くで見ると、みんな真っ黒いゴム人形みたいに顔も体も足も
パンパンに膨れあがっているんです。黒く膨れあがった顔の中から白いつりあがったよう
な目と歯。私たちを睨んでいるように見えたんです。そのつりあがった目と歯がとっても
恐かったです。髪はちりちりで。踏み越えるのが恐くてたまらなかった。でも踏み越えな
ければその小道に入れないから、踏み越えて行こうとしました。用心深くそこに靴を入れ
ないと、うっかりパンパンに膨れあがったほっぺたとか肩とかに靴がちょっとでも触れる
と、まるで熟したすいみつとか桃の皮を剥くように、ペロンペロンとはげるんです。そし
て、白い脂肪の部分が出てくる。それがまたとっても気持ち悪いし、かわいそうでもある。
だから、私たちは心は駆け足だけれど、足は抜き足差し足で隙間に足を踏み入れて、踏み
越えたんです。
後でいろんな資料を調べてわかったのですが、川の向こうの工場には、市内のあちこち
から救援隊の人たちが来たんです。工場の中ではまだかすかに息があるような重症の人た
ちを工場から運び出して、橋の手前の梁川町の救護所に運び込もうとしたらしいんです。
ところが、小さな救護所はすぐにいっぱいになった。仕方がないから、橋の上に並べたと
いう記録がありました。その中でも、這う元気のある人たちが川に行って水を飲もうと思
ったんではないでしょうか。そして、そこで折り重なった死んだと推定されました。
折り重なった死体を恐る恐る踏み越えて、細い道を歩き始めた。細い道の先には遺体は
まばらにしかないというのはわかりましたから、兄を先頭にして双子の私たちはずっとつ
いて細い道を歩き始めた。
あと 100m 位したらお父さんの工場に着くぞというところまでたどり着いたら、一番先
頭をいっていた兄がワーッと言って立ちすくんだんです。どうしたのかと思って肩越しに
覗いてみたら、6 歳か 7 歳くらいの男の子が、半ズボンだけはいてやっぱり真っ黒に膨れて
死んでいました。上半身も下半身も真っ黒で。その真っ黒く膨れた口から白い束をくわえ
て死んでいたんです。最初見た時、うどんか何かを吐き出したのか、爆風で臓器が押し出
されたのかと思ったのですが、それは回虫だったんです。
みなさん、見たことないですよね。小さいので 20cm 長いので 40cm、両足がすーっとと
がった白いぐにゃぐにゃとした腸に寄生する虫なんです。それが束になって出ているのが
わかったんです。もう気持ち悪くなって、吐き気を抑えて一目散に走りました。
ちょっと余談になりますが、当時、これが(回虫)とても多かったんです。今のような
きれいな水洗のトイレではなく、排泄物が壺にぽとんぽとんと落ちる構造のトイレです。
大便をするとぽとんぽとんと落ちるんです。ところが大便と一緒にこれ(回虫)がお尻か
ら半分くらい出ると、ぷらんぷらんとして後は出ないんです。だから紙でつかんでお尻か
ら引っ張り出すことをよくやっていた。それくらい多かった。
なぜ多かったのかというと、戦争中、お百姓さんに対する肥料の配給がなかったのです。
国は戦争に必要なものしか作りませんから。お百姓さんは、人がたくさん住んでいる所か
ら私たちの排泄物を集めて桶に汲んで、担いできて畑の隅に寄せて、それを肥料にして野
菜とかお米を作ってくれていた。その中に回虫の卵がたくさん入っていたのでしょうね。
洗ったつもりの大根やほうれん草といっしょにお腹の中に卵が入って孵化して成長して、
卵を産んでまた出ていく。そういった格好でどんどん増えていったんです。それ(回虫)
が束になって口から出ていたんです。
もう一つこれにまつわる話をしますと、久松ひそのさんという、永井隆先生のもとで婦
長をしていた方がいらっしゃるんです。今年の1月に亡くなられたのですけれども。その
方は、先生たちの新興善国民学校で解剖に立ち会ったらしいんです。なぜ被爆者が亡くな
ったのか、先生たちが調べようとして新興善国民学校の地下室で解剖をした。そうしたら、
ご本人は前の日に亡くなっている。先生たちがメスを入れて胃とか腸を切ると、まだ生き
た 5m の回虫が束になっているのを見たことがありますとお話しされていました。
少年の口や鼻からその回虫が出ていうのをみたら、もう吐き気を抑えながら一目散にお
父さんの工場へ走ったんです。
お父さんの工場も焼けおちて塀も壊れていました。その塀の上に三人身を乗り出して見
たら、焼けおちた鉄骨の足元でスコップを持って作業している人が三人いたんです。
「あぁ、
よかった。」と思ったんです。そうしたら兄が「山脇ですけれど、お父さんはどこでしょう
か?」と聞いたのです。そのスコップを持って作業していた人がくるっと上を向いて、「や
ぁ工場長のお坊ちゃんたちですね。お父さんはあそこですよ。あそこで笑っておられます
よ。」と言ったのです。「あぁ、よかった。来た甲斐があった。」と思って、私たちは指ささ
れた焼けおちた事務所の壁の向こうに走りました。
でもそこで見たのは、他の人と同じように膨れて死んだ遺体だったんです。口元に笑み
を浮かべていたように見えました。それを見たら私たちは茫然として声が出なかったです。
茫然としている私たちの側に、スコップを持った人が三人寄ってきて、「坊ちゃんたち、お
父さんを連れて帰ろうと思うのなら、ここで焼かないとだめだよ。」
「どうしてですか。」と
聞いたら、
「今度の爆撃で火葬場も壊れて使えないらしい。だからここで焼くのがいやなら、
今から自分たちがここに穴を掘ってあげるからここに埋める、それともここで焼く、どっ
ちにする?」どっちにするなんて、そんなところに埋められてたまるものですか。
「じゃあ、
焼くようにしてください。私たちも一緒にやりますから。
」ということで、工場の焼け跡か
ら焼け残りの木材を集め、焼け残りの柱を下に組んで、そこに父の遺体を寝せて、たくさ
ん木切れを積み上げて、そこに火をつけたんです。そうしたらぼんぼん炎が上がって、そ
れに向かって、私たちも手を合わせて拝んだんです。
スコップを持って作業していた人たちは、後で聞いてわかったんですけれど、港の下に
小さく「三菱電機」というかこいがありますよね、その本工場から救援に来た人たちだっ
たんです。お父さんの分工場が全滅だから後片付けをしに来たんだと知りました。本工場
から来た人たちと一緒に手を合わせて拝んだんです。
拝み終わってふっと見たら、ぼんぼん燃え上がる炎の中からお父さんの足首から先が出
てる。まるで炎の中に足首から先を突き刺しているかのように、ぽんと出ているんです。
その足首をなめていく炎がかわいそうで、「もうやめてくれ。」と言いたい光景でした。ぼ
んぼん燃え上がる炎で、積み上げたつもりの木切れが崩れたんですが、もうそれを見てい
るのが辛くて。そうしたら、その気持ちが工場の人たちにもわかったのしょうね。「坊ちゃ
んたち、今日はもう帰りなさい。自分たちがお父さんをちゃんと焼いておくから、明日も
ういっぺん来なさい。そのかわり、明日来る時には必ずお父さんの骨を入れるものを用意
して来なさいよ。」と言われて帰されたんです。私たちは、とぼとぼと帰り道についた。
そうしたら兄が最初に泣きだして、それにつられて私たちも泣きだして、防空壕に着い
た時には三人ともわぁーわぁー泣いていたようです。隣の人たちがそれを見て、この子た
ちのお父さんは亡くなったとわかったようです。だから、お父さんはどうだったか、何も
聞かなかったです。
私たちは半分泣きなら防空壕で寝て、翌朝壊れた家に戻って、お父さんの骨を入れるも
のは何かないかと台所を中心に一生懸命探した。これくらいの素焼きの梅干しの壺が見つ
かったんです。それをきれいに洗って、兄が風呂敷に包んで、それを持って、また兄弟三
人で赤い線をたどって、前の日行ったのと同じ道を骨を拾いに行ったんです。
後で話してわかったんですが、お父さんを迎えに行った時と骨を拾いに行った時では、
気持ちがまったく違うんです。道端に転がっている目をつり上げたり歯をむき出しにして
いる遺体がもう恐くないんです。歩いて行く障害物でしかないような気になって、「この野
郎」って蹴っ飛ばしてのけたいような気持で歩いて行きました。だから、周囲の状態は前
の日よりもよくわかった。パックリあいた傷口とか、溶けた皮膚だけではなく、人が死ん
だら目とか鼻とか口とか耳から水分が出るんです。そこにハエが白い卵をたくさん産みつ
けて、見られた状態ではなかったですね。
そういう遺体が前の日見なかったところもいっぱいあって、こんなにたくさんの人が一
度にこんなむごい殺され方をしていいのだろうかと思う状態でした。そんな思いをしなが
ら、私たちは遺体をまたぎながら歩いて行ったんです。
工場に着いたら、救援の人は見えなかったんです。お父さんを焼いた所に三人でずっと
歩いて行った。遺体があるところまであと 2m くらいのところで後ろからついていった双子
の私たちはえーって立ち止まったんです。どうしてかというと、灰の中に人の形が見えた
んです。いやだなぁと思って立ち止まった。兄はさすがに年上だけあって、そばに行って
座って火箸で灰をかき回し始めたんです。私たちの方をじろっと見て、「お前たちも来い。
早くしろ。」と言うんです。仕方がないので私たちも遺体を取り囲むようにして灰をかき回
し始めました。案の定、半焼け。生の遺体は目とか鼻とか口とか耳があって、まだ表情が
あるんですね。半焼けの遺体というのは、骸骨に灰をまぶして手足をもぎ取った状態をく
っつけた、そんな状態ですよ。
それが自分の父親かと思うと、情けなくて情けなくて。自分のお父さんがそんな姿でい
るなんて、情けなくてしょうがなかった。おまけに三人でこうするものだから、半焼けの
遺体がますますあらわになってくる。それは骸骨に灰をまぶした、そんな状態です。
かきまわしてわかったんですが、焼けているのは手首から先、足首から先、お腹の一部
しか焼けていない。だから、いつまでたっても梅干しの壺の底に少ししか骨を拾えないん
です。兄は黙って考えていたんです。私は父の遺体を見ているのが嫌で嫌でしょうがなか
った。兄に「お父さんを、もうこのままにして帰ろうや。ここにいるのはもう嫌。」と言っ
たのですが、今考えるとそれがよくなかったんですね。しばらく遺体をじっと見ていた兄
が「そうだな。仕方がないな。お父さんの頭の骨だけ拾っておしまいにしようか。」と言っ
たんです。そして、持っていった火箸でほんのちょっとだけ頭蓋骨の部分をこつこつとし
た。そうしたら頭蓋骨の部分が石膏剤を崩すよりももろく、ぼろぼろぼろっと崩れてしま
った。ここが半焼けだから、中も半焼けですよ。半焼けの脳が流れ出すのを見たら、私た
ちはそこにいる勇気がなかった。火箸を捨てて梅干しの壺だけ持って、一目散にそこを逃
げ出した。そういう状態で私たちはお父さんの遺体を見捨ててしまったんです。それが今
になってもその時の情景が何かにつけてふぁんふぁんと浮かんでくるんです。嫌なんです。
初めの話の方で、原爆投下の前の日の 8 月 8 日に母が妹二人弟二人を連れて佐賀の実家
に預けに行ったと言いましたよね。それっきり連絡のしようがなかったんです。もちろん
電話はなかったし、電報も打てない、汽車は通ってない。
数日後お母さんたちが新聞を見たら、
「長崎に新型爆弾投下。被害は軽少。広島と同型か。」
そういう見出しで記事が載っていたらしいんですね。お母さんの弟にあたるおじさんが「子
どもたちの様子を見に行ってくる。
」ということで佐賀駅から汽車に飛び乗ったけれども途
中で止まってしまって、線路伝いに歩いて長崎に入ったと言っていました。被害がひどい
のにびっくりして、「お前たちを一旦、佐賀に連れて帰る。」ということになって、おじさ
んが来た日に、地図の一番左に「みちのお」とひらがなで書かれている駅がありますね、
そこから救援列車が出ているといくことでそこまで行ったんです。確かに出ていたんです
けれど、重症者しか乗せないということで私たちは乗れなかったんです。
仕方がないからまた戻って、今度は長崎から 25km 離れた「諫早」というところまで歩
いて行って、そこから汽車に乗ろうということにしたんです。長崎から諌早まで 25km あ
るんですね。昼間は暑いので夜歩こうとということで、夕方家にちょこっと戻って水など
を用意して、そして地図の一番右の上の「蛍茶屋」という終点まで歩いたんです。ここに
来たら、おじさんがリュックからお父さんが使っていた黒い帯をしゅーっと取り出して、
私たち一人一人をくくって自分の体もくくって、要するに数珠つなぎみたいにして、「これ
で歩くぞ。」と言われた。これは非常にいい考えだった。中学生や小学生が夜道を歩くと、
どうしても眠るんです。こっくりこっくりしても、道端の石とか溝にがくんと足をとられ
ても、体をくくって持っていると倒れないんですね。そういう状態で 25km 夜道を朝まで
歩いたんです。
歩きながら三人が時々同じことを考えていたことが後でわかったんですが、佐賀に着い
たらお母さんが心配しながら待っている。「お母さんにどう話そうか。」ということが歩き
ながら頭の中にちらっちらっと浮かんでくる。
その母は、97 歳で 3 年前に亡くなったんです。お父さんの骨を拾う最後の部分について
は話すことはなかったですね。半焼けだったから頭の骨をコツコツとしたら崩れて逃げ出
して来たなんて、とうとう話がでませんでしたね。
お父さんが帰って来なかったから、工場に迎えに行ったら亡くなっていた。それで会社
の人と一緒になって焼いて自分たちで骨を拾った。その程度しか話ができなかったですね。
それが私たちの被爆体験なんです。
翌年昭和 21 年 3 月、私たち双子の兄弟は旧制長崎中学校に入ったんです。母一人の下に
子どもが 7 人ぶら下がった形になるんです。母が一人内職をしても、その収入だけでは 7
人は養えないんですね。私たち二人は翌年旧制中学に入ったんですが、3 年生になる時に「学
制改革」というのがあったんです。聞いたことあると思うのですが、マッカーサーの命令
で、小学校、中学校、高等学校という学制に変わったんです。旧制 5 年までだったのが、
新制中学 3 年で一応卒業してもいいよということになったんです。
私たち二人は翌年旧制中学に入ったんですが、3 年生で新制中学校に変わったものだから、
私たちは生活も苦しい。新制高校に行くのを諦めて、三菱電機の技術学校というところに
入ることにしたんです。なんで技術学校に入ることにしたかというと、手当をくれるんで
すよ。授業半分、実習半分で手当てをくれるんです。二人分をお母さんに渡して、7 人が何
とか生活をしていこうということで。私たちは、働きながら夜間の高等学校を 4 年間でや
っと卒業した。
最後に「生きがい」についてお話ししたいのです。
もちろん、こうやってあちこちから来てくださる皆さん方とか長崎の子どもたちとか他の
人たちに被爆体験をしていく。そして、「平和な世界をみんなでつくりましょうよ。」と話
をするのが大きな生きがいになっているのですけれども。
平成 6 年に三菱電機を 60 歳で退職した後、そういう話をしていた。中には、外国から来
た人にも通訳を通して話をするようになったのです。通訳を介して話をすると、どうして
も間が空くんですね。特に原爆を作り、原爆を投下したアメリカの人に対しては、どうし
ても自分の口から直接原爆の被害を話したいという思いにかられたんです。
定年退職してから、枕元のラジオのスイッチをカチンと入れてみると、NHK から基礎英
語とか英会話入門の放送が流れてくる。それを聞いているうちに、ぼやっとしていないで
英語でも勉強しようかなと思って、昔の教科書を引っ張り出したり、あちこちの講座に顔
を出したりして、60 歳からぼつぼつと勉強を始めました。そして少しずつ英語が話せるよ
うになって、去年調べてみたら、アメリカの高校生とか大学生とか、あるいはアメリカ防
空士官学校の生徒とか観光の人とか、合計で 17 回英語で今お話ししたことを簡単にお話し
しました。そうすると、話すよりもたどたどしく読むに等しいようなものですけれども、
それでも聞いてる女性の人たちが涙を拭いているのを見ていると、「話してよかった。」と
いう思いがしているんですね。
60 歳になって、やっと自分の生きがいを見つけた。皆さん方は私よりも 50 歳以上も若い
のだから、早く自分の生きがいを見つけて、どうすれば平和な日本が、あるいはどうすれ
ば平和な世界が維持できるのか、核兵器なんてものをなくすことができるのか、そのため
に自分は何ができるのかということを早く見つけて活動してほしいなと思います。
こうやって話をしたら、
「じゃあ、何をすればいいんですか?」と思わぬ人から質問をさ
れたことがあるんです。
「何も難しいことを考える必要はない。自分にはそれぞれ得意なことがあるでしょう。
歌が得意な人。詩を書くことが得意な人。作文ができる人。劇をすることが得意な人。あ
るいは、いい先生に出会った。そういう人が勉強していい先生になる。自分が得意な才能
を持っている人はその才能を生かして、平和、あるいは原爆というものを訴えることです。
それが寄り集まれば大きな力になるでしょう。
」と私は答えたんです。
私が尊敬する人の中にオードリー・ヘップバーンという人がいます。あの人は有名な女
優さんだけれど、晩年国連の児童大使に任命された後は、アフリカに行って子どもたちと
一緒に生活して、面倒を見て、その生涯を終えているんですね。私はそういうことが出来
る人は、本当に偉いなと思います。
だから、皆さん方もぜひ、自分のできることで自分は何ができるかなと考えて、自分の
できることで平和を訴えていって平和な日本を維持してほしい。平和な世界を目指してい
ってほしい。そう思います。