聖霊降臨後 第2主日 聖書 主題 礼拝説教 (2015年6月7日) 飯川雅孝 牧師 使徒言行録17章16-24,30-34節 『この世の教養と神の啓示』 (説教)昨年のペンテコステから、使徒言行録を継続して学んでおります。この書の中心はキ リスト教がパウロによって当時の全世界にどのように広まったかの様子を伝えております。わ たしの敬愛していた友人、彼は仏教や修験道に造詣が深かったのですが、キリスト教もかなり 学んでいたようです。わたしが神学校にいた時、「今のキリスト教はイエスの教えではなくパ ウロの信仰を伝えたものだ。」と本質を私に伝えた時、わたしはその洞察力に驚きました。わ たしはそこまで問題意識が行っていなかったからです。使徒言行録の前半はその準備と言って よいでしょう。 配布の地図を見てください。第二回伝道旅行ではシリアのアンテイオケアを出た後、海沿い ではなくトルコの内陸から北部と回り、幻が「マケドニアに来てください。」という声を聞い て、トロアスから海を渡り、ギリシャの北からフィリピ、テサロニケ、ベレヤと伝道をしま す。しかし彼はどこに行っても迫害に遭います。牢屋に入れられたり、暴徒にあったりします が、そこには必ず、パウロの話に耳を傾け、神に心を開いた人がかなりいました。また教会も できました。テサロニケには三回の安息日とありますが活動内容から数か月滞在したと考えら れます。苦難を共にしたからこそ、生涯のキリストにある結びつきが出来た。だから、後にパ ウロがそこを去ってから、彼らを思い、その書簡は死を背にしたような命の滲む手紙が残され ています。 しかし、ここアテネに来るとこれまでの伝道の場所での激しさや聞く耳のある人も伝わって 来ない。紀元前4-5世紀の古代のアテネは西洋文明の揺籃や民主主義の発祥地、芸術や学 問、哲学の中心でソクラテス・プラトン・アリストテレスなど、現代に影響を与える哲学者を 輩出し、パルテノン神殿、オリンピック発祥の地として有名です。パウロはそのようなアテネ を文化の町として当然意識していたでしょう。しかし彼が訪ねた頃は、あらゆるところに偶像 があるのを見て彼は内心怒りに満ちたと言っております。往年の優れた文化は退廃していたよ うです。安息日にはユダヤ人に会堂で話し、そうでない日は広場でギリシャ人たちと激しく論 じていたと言いますから、哲学的論争は華やかだったようです。今日の記事はパウロも彼らの 知識を前提とした論法に負けじ、と応戦していたと思わせます。そのなかで、哲学者として有 名な快楽をもとめるエピクロス派と禁欲によって身を修めるストア派と話しを始めると彼らは パウロのいう「イエスと復活についての福音」に納得しないので、彼を引っ張り出し、アレオ パゴス(貴族勢力の牙城)に連れて行った。つまり、裁判をするような中で、『知られざる神』 に違反するようなことがあれば死刑に処せられる危険があった。歴史によればソクラテスはそ の意味で殺されたのである。パウロはその中で、単刀直入に切り込むことなく、婉曲な論理 で、それは死んだイエスを復活させた神であること語り、彼らに目を向けさせようとする。ま た彼らの不信心を暗示し悔い改めて神に立ち帰ることを伝える。つまり、ロマ書の初めにある 1 「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方 が、わたしたちの主イエス・キリストです。」ことを誤解を恐れず語っているのです。しか し、彼らは『死者の復活』を聞くと、嘲笑する者や無意味なこととしてあしらったのである。 このことは何を意味するのでしょうか。パウロは彼らの人間の知力を前提とする哲学的論法で 切り返そうとした。しかし、自分の教養に驕り、人間の力を越えた神の存在に目をむけること のない傲慢な姿勢をもつアテネの人にはパウロの取った論法では通じなかったのである。この ことはパウロにはかなりのダメージを与えたようです。 そこで、つぎのコリントに行った時の手紙を見てみると、アテネで譲歩した失敗からパウロ が反省を踏まえて真理に行きついた見解を述べております-コリント書2章3節を開いて下さ い。 今度はパウロは自分の弱さをさらけ出し、キリストを伝えようとする。「兄弟たち、わ たしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いま せんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけ られたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」つまり、パウロはアテネで 「優れた知恵や言葉を用いて」アテネの哲学者に力ある神を伝えようとして、見事に失敗し た。だから、そちらコリントに行ったとき、(そのダメージが残り、)わたしは衰弱してい て、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 」と言っている。その前の、フィリピやテサロニ ケやベレヤでは迫害されたのにそんなことを言っていない。フィリピでは牢獄に入れられたの に、神を賛美した。むしろ、アテネではそんな被害に遭っていないのにその後のコリントでこ う語るのは、アテネでの失敗はパウロに妥協があり、知恵や言葉で勝負した。つまり神に対し て「死に至るまでの忠実さ」が自分に欠けていたとの思いがパウロを苦しめた。だから、ここ コリントでやり直せるかの不安があったと言っていると考えられる。しかし、コリントは問題 のある教会ですが18ケ月も滞在したと言うのは、人々に愛され伝道に成功したと考えてよい でしょう。 今日のアテネでのパウロの伝道失敗とコリント書に示された反省から私たちは何を学ぶので しょうか。 宗教と教養、とくに哲学は、バランス感覚をお互いに与えるものだと言われます。 宗教の問題、そこには神から与えられる啓示、つまりフィリピで牢獄の中でも喜んで神を賛 美したと言うような神からの働きかけがある。宗教に正しく向き合おうとすれば、つまり、正 しいとは熱狂的に酔うのではなく、理性的に自分をコントロールした克己心を持って、究極的 な問題に向きあうならば、神の恩恵に出会うことができる。 それに対して、アテネでの哲学の問題、一般により広い意味で教養といった場合、自分の積み 上げたものへの自負がある。それは自己の自信になり、ある意味では大切なことであるが、そ の教養が自分の力だけで積み上げたものだと考えると、それは自分を神とする傲慢になる。狭 い範囲で自分が関わる人の深い経験や能力さえも見えなくなってしまう。だから、アテネの哲 学者たちはパウロの語る神を見えずに彼の言葉を遮った。 2 アテネでの哲学者とパウロとの話し合いが全くかみ合わなかったのは、アテネの哲学者のそ のような傲慢に対して、パウロがその対応が出来なかった。だから、コリント人への手紙では その反省として得た回答が次のものであったのではないでしょうか。またコリントをお開き下 さい。(1:22) 「・・ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝 えています。すなわち、・・・、異邦人には愚かなものですが、・・・ギリシア人であろう が、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさ は人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」もし、このように彼らの限界を理解し た上で、アテネの哲学者に対応していたなら、結果はもっと変わったと思われます。 多くの人が年齢と共に分かることですが、若い時は、とにかく努力して自分に力を身に着け ようとする。また、そうでないと、自分にも属する組織にも貢献できないわけです。そして、 それはそれで素晴らしいことですが、そこに自分を育ててくれる先生や一緒になって支えてく れる良き友人への感謝がなければ、なにか自分が偉い人物になってしまったようで周りの人へ の配慮がなく、自分だけ好き勝手なことをやってしまうようになる。本来教養とか学問は謙虚 さを身に着けるものであるといわれますが、それが出来ないと、まわりの人から「嫌だなあ」 と思われることはないか。その点が、努力という美徳にありがちな落とし穴になっていること はお互いにないでしょうか。教養という意味ではなくても、自分の努力ということによって積 み上げるものには共通した点であります。 それに対してパウロはそのことで痛い目に遭った。つまり、相手が傲慢であるとは言え、自 分が伝道者である本質がアテネの哲学者に否定された。教養のもつ傲慢と宗教の持つ啓示を理 解した上で対応したなら、これほど大きなダメージを受けなかったでしょう、その痛い経験を 通して本質にたどりついた。それを、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強 い」と言っている。それは、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。論客とは、」 と、自分への反省を込めて、コリントでの新しい伝道の姿勢を示しているのであります。 その同じパウロは9章では「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけで す。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。」 (一コリ9:24-5)と、人間は努力し、何事かを成し遂げることは当然と考えています。同 時にそこには、神に目を向けた自分の小ささを思い知るものでなければ、わたしたちは、この 世で残念ならが誠実さと謙虚さを欠いた者になってしまう。今日のパウロのアテネでの失敗は わたしたちにそのようなことを教えているのではないでしょうか。イエスはわたしたちに、そ の人の信仰は「実によって見分けられる。」そのようにわたしたちが「良い木」になるように 励まして下さっている。イエスに目を向けてそのような祝福に与りたいと願うものでありま す。 3
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