昭和の岩窟王(pdf)

吉田石松翁
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フランスの小説家・劇作家アレクサンドル・デュ
マ・ペール(大デュマ【Dumas」)の『モンテ・クリス
ト伯(Le Comte de Monte-Cristo )』(「有能な船員であ
ったダンテスは、知人たちの陰謀から無実の罪で捕えら
れ、14年間の牢獄生活を送った後、脱獄を果たて莫大
な財宝を手に入れる。かれは、モンテ・クリスト伯と名乗っ
て、パリの社交界に登場し、壮大な復讐劇を開始する…)
を黒岩涙香(るいこう)が翻案し、『史外史伝巌窟王』
の訳題で『萬朝報(よろずちょうほう)』に1901(明治
34)年から1902年にかけて連載、簡潔な訳文で
評判を得る(無実の罪で幽閉された主人公団友太郎が
じっと復讐の機会を待つ…)。
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「・・・ちなみに当裁判所は被告人、否、ここでは
被告人と言うに忍びず、吉田翁と呼ぼう。我々の
先輩が翁に対して冒(おか)した過誤を、ただひた
すら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわた
り、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続
けて来たその崇高(すうこう)なる態度、その不撓不
屈(ふとうふくつ=どんな困難に出合ってもひるまずくじけ
ないこと)の正に驚嘆(きょうたん)すべき類なき精神
力・生命力に対し、深甚なる敬意を表しつつ、翁の
余生に幸多からんことを祈念する次第である」
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1913(大正2)年8月、愛知県愛知郡千種町(現名古屋市千種区)
の道路上で、繭(まゆ)を運搬中だった男性が(当時31歳)が殺害
され、1円20銭を奪われた。翌日逮捕された2人の供述により、同月
15日に、吉田石松さん(当時34歳)が共犯として逮捕された。吉田
さんは一貫して否認を続けたが、他の2人と共に強盗殺人罪で起訴
された。
第1審の名古屋地裁は、吉田さんに「死刑」、他の2人に「無期懲役
」を判決した(他の2人は罪を認め服罪)。吉田さんは控訴したが、名
古屋控訴院(現高等裁判所)は、「無期懲役」に減刑したが吉田さん
は大審院(現最高裁)へ上告した。だが、上告は棄却され、無期懲役
が確定し、服役した。
服役中に2度の再審請求をしたが、いずれも棄却となる。
1935(昭和10)年3月に仮出獄後、吉田さんはただ1人で先に
出獄していた2人を探し出し、2人から無実の明かしとなる”詫び状”
を取った。その上で3度目の再審請求をなしたが、名古屋控訴院は
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これを棄却した。
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戦後、吉田さんは、名古屋高裁に対して4度目の再審を行っ
たが、またしても棄却、ようやく、1960(昭和35)年に至り、日
弁連人権擁護委員会が吉田さんを支援するようになり、アリバ
イ証人を探し出すことに成功する。
これを「新証拠」に60年11月、第5回目の再審請求を行い、
翌61年4月、名古屋高裁(第4部)が「再審開始」を決定する。
その後、検察側の異議申し立てにより、名古屋高裁(第5部)
が62年1月に開始決定を取り消す決定を行う。
吉田さんは、最高裁への特別抗告、最高裁は、62年10月、
名古屋高裁第5部の決定が取り消し、再審裁判が開始となる。
63(昭和38)年2月28日、名古屋高裁は、吉田さんの「無
罪」を判決。
吉田さん逮捕から50年目の雪冤(せつえん=身の潔白を明らか
にすること )あった。
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わが裁判史上曽(か)つてない誤判をくりかえし、被告人を20有
余年の永きにわたり、獄窓(ごくそう)のうちに呻吟(しんぎん=うめ
き苦しむ)せしめるにいたったのであって、まことに痛恨(つうこん)お
く能(あた)わざるものがあるといわねばならない。
強盗殺人再審請求事件
名古屋高等裁判所昭和34年(お)第4号
昭和38年2月28日第4部判決
以上の次第であるから、被告人に対する本件公訴は結局犯罪の
証明なきに帰し、……無罪の言渡をなすべきものとする。
請求人 吉田石松
弁護人 円山田作 外14名
ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉
田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたす
ら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘(わたり)り克(よ)く
あらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態
度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し
深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次
第である。
検察官 辻本 修
主
文
被告人は無罪
理
よって主文のとおり判決する。
由(略)
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(裁判長判事
小林登一
判事
成田薫
判事
斎藤寿)
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