講演会『十和田火山泥流と片貝家ノ下遺跡』 【開催趣旨】 大館市比内町の片貝家ノ下遺跡で発見された埋没建物跡を考古学、地理学そして火山学の立場 から、現時点で考えうる情報を公表することで、米代川流域の古代社会・集落の様相を復元し、 あわせて、埋蔵文化財と現代社会とのつながりを考え、文化財保護に対する興味関心を高める機 会とする。 なお本講演会は、秋田県埋蔵文化財センター・大館郷土博物館連携事業「ふるさと発掘 in 大 館」の一環として開催するものである。 【日 程】 13:30~13:45 13:45~14:10 開会行事 〔報告1〕片貝家ノ下遺跡の調査概要 秋田県埋蔵文化財センター 14:10~14:30 15:30~16:20 学 小岩 直人氏 早川 由紀夫氏 休憩 〔講演2〕十和田湖の噴火と片貝家ノ下遺跡 群馬大学教育学部教授 16:20 高橋 〔講演1〕地形環境からみた片貝家ノ下遺跡 弘前大学教育学部教授 15:20~15:30 義直 〔報告2〕米代川流域の埋没家屋 秋田県埋蔵文化財センター 14:30~15:20 村上 閉会 目 次 大館市片貝家ノ下遺跡の調査概要・・・・・・・・・・・・・・・・・村上 義直・山田 祐子 (1) 米代川流域の埋没家屋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋 学 (13) 地形環境からみた片貝家ノ下遺跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小岩 直人 (23) 十和田湖の噴火と片貝家ノ下遺跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・早川 由紀夫(27) <講師略歴> 小岩 直人(こいわ なおと) 氏 岩手県出身。岩手大学教育学部卒、東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了。富士大学経 済学部講師を経て、現在弘前大学教育学部社会科教育講座教授。博士(理学)。 専門は自然地理学、地形学。 おもな著書『実践 地理教育の課題』(ナカニシヤ出版、2007年)、『モンスーンアジアのフー ドと風土』(明石書店、2012年)、『日本のすがた8 自然・防災・都市・産業』(帝国書院、2013 年)等。 早川 由紀夫(はやかわ ゆきお) 氏 千葉県出身。東京大学理学部卒、同大大学院理学系研究科(地質学)修了。東京都立大学助手、 群馬大学教育学部助教授を経て、現在群馬大学教育学部教授。理学博士。 専門は火山学、地質学。 インターネット『早川由紀夫研究室』(http://www.hayakawayukio.jp/)で次を含む情報発信を 行っている。 ・噴火データベース ・フィールド火山学 ・浅間山の電子地質図 大館市片貝家ノ下遺跡の確認調査 秋田県埋蔵文化財センター 村上義直・山田祐子 はじめに 片貝家ノ下遺跡は、大館市比内町片貝字家ノ下に所在する平安時代の遺跡です。この遺跡は、平成 27年3月に行われた秋田県教育委員会による大館工業団地造成事業に係る試掘調査で発見されまし た。平成27年9月29日から11月24日にかけて実施した確認調査では、屋根構造が残る竪穴建物跡が検 出され大きな注目を浴びました。竪穴建物の屋根の傾斜が確認できる例としては、日本で唯一の例で す。 1 遺跡の立地(第1図) 片貝家ノ下遺跡は、JR花輪線扇田駅から南西2kmにある大館工業団地南側の水田、米代川支流の 引欠川右岸の標高58mの沖積地(自然堤防上)に立地しています。引欠川は昭和30年代後半まで遺跡 の北を流れていたため、遺跡は本来この川の左岸に位置していました。遺跡の北に隣接する旧河道は 周囲より1.5mほど低く、現地形でも確認できます。 米代川流域の低地は、以前から平安時代の埋没建物が発見されており、その分布は、大館市から能 代市に至る米代川中流域を中心とする広範囲に及んでいます。その中の一つ、引欠川流域は、江戸時 代から埋没建物が見つかることで知られている地域です。本遺跡から5kmほど下流に位置する大披、 板沢地区では、洪水に伴う崖崩れの際に度々建物が発見されてきたことが江戸時代の紀行家、菅江真 澄等の記録に残されています。このほかに、周辺の埋没建物の確認地点として、本遺跡の東7kmの米 代川左岸に立地する道目木遺跡があります。これまでのところ米代川最上流に位置する埋没建物確認 地点であり、平成11年に大館市教育委員会により緊急調査が行われています。 なお、平成27年度に本調査が行われ、平安時代の集落跡であることが判明した片貝遺跡は、本遺跡 の北東0.7kmの台地上にあります。「寺」という字が書かれた墨書土器が4点出土したことで注目され る遺跡です。 2 平成27年度調査の概要 (1)確認調査の範囲と方法(第2図) 今回行った調査は、「確認調査」という種類の調査になります。確認調査は、遺跡の概要を知るため の調査です。そのため、通常の発掘調査のように調査対象部分の全体を掘り尽くすようなことはしま せん。遺跡内の所々に、トレンチと呼ぶ幅1~2mの長い溝を掘り、その中で見つかったものや土の 堆積状態を調べて、遺跡の時代や内容などを推測します。 今年度の確認調査は、大館工業団地造成工事の予定地内で発見された遺跡の西側部分15,300㎡(全 体39,000 ㎡)を対象に行いました。トレンチは横長の水田区画に直交させる形で、おおよそ20m間隔 で設定しました。トレンチは、上面幅4~6m、底面幅1.6mで掘削を行いました。トレンチの上面 幅を広くとったのは、土の崩落による事故を防ぐためです。トレンチの掘削は重機と人力で行いまし た。トレンチの総数は計8本、実質的な調査面積は1,200㎡で、27年度確認調査対象面積15,300㎡の7. - 1 - 8%(遺跡全体39,000 ㎡の3.1%)に相当します。 (2)遺跡に堆積した土の層 遺跡内に堆積している土は大きく分けると7層に分けられます。堆積層は、一般的に、下に(深い 部分に)あるものほど古い時代のものになります。 地上から地下に向かってⅠ~Ⅶ層の順で各層の特徴を説明します。現在の地面であるⅠ層は、黒褐 色の水田耕作土です。昭和30年代後半に行われた圃場整備によって形成された層で、厚さは20~40㎝ です。Ⅱ層・Ⅲ層は、ともに西暦915年の十和田火山の噴火活動に由来する堆積層です。Ⅱ層は火山 泥流によって運ばれてきた火山灰を中心とする堆積物で、北秋地方では「シラス」と呼ばれています。 本遺跡での厚さは10~250㎝です。この「シラス」は、米代川流域の広範囲に厚く堆積している層で す。非常に硬く、人力で掘削するのは困難です。Ⅲ層は比較的粒子の大きい、空から降ってきた火山 灰です。「大湯浮石層」、「大湯軽石層」などと呼ばれている層です。厚さは5~10㎝です。Ⅳ層は黒 褐色の粘土で十和田火山の噴火前の地表面です。つまり今から1,100年前の地面になります。厚さは、 5~20㎝で、平安時代の遺物が出土します。Ⅴ層は灰黄褐色、Ⅵ層は黄褐色の粘土層で遺物は含みま せん。Ⅴ層が厚さ15~20㎝、Ⅵ層は厚さ20~30㎝あります。Ⅶ層は、砂礫層になります。 (3)検出した遺構(第2図) 確認調査対象範囲のほぼ全域で遺構・遺物を検出しました。検出した遺構には、竪穴建物跡12棟、 土坑6基、焼土遺構7基、溝跡14条、河川跡1条、性格不明遺構3基、柱穴様ピット30基などがあり ます。これらの遺構は、全て平安時代(西暦915年以前)のものです。 竪穴建物跡は、一辺が3~6mほどの方形です。竪穴建物跡は、埋まり方のちがいによって、2つ に分けられます。1つは、住んでいた竪穴建物を廃棄する際に竪穴を人力で埋め戻しているものです。 この「埋め戻しタイプ」は9棟あります。もう1つは、十和田火山の噴出物によって竪穴が自然に埋 まったものです。この「自然埋没タイプ」は3棟あります。この2つのタイプのうち、「埋め戻しタ イプ」の竪穴建物跡9棟は、竪穴を埋め戻した土の上に、十和田火山の噴出物が堆積しています。つ まり、埋め戻しが終わり、更地になってから十和田火山が噴火し、噴出物に覆われたことがわかるの です。これらの9棟には多少の時期差があると見られますが、全てが十和田火山の噴火よりも前に使 用された建物であることは確かです。これに対して、「自然埋没タイプ」の3棟の建物は、噴火時に 現役だった建物2棟、噴火時には廃棄されて間もない状態だった建物跡1棟に分けられます。 噴火当時に現役の建物であったSI01・SI02竪穴建物跡は、十和田火山の噴火によって被害 を受け廃棄せざるをえなかった住まいと考えられます。 土坑(地面に掘った穴)は、平面形が直径1m前後のものを検出しました。溝跡は、幅0.2~4m、 深さ0.2~1mと大小様々なものがあります。焼土遺構(火を焚いた跡)は、Ⅳ層上面に形成されて います。柱穴様ピット(柱を入れたと考えられる小穴)は径20~30㎝ものが多く、中には、柱が直立 した状態で埋没したと推測されるものもあります。遺物は、Ⅳ層と遺構内から土師器の坏や甕、須恵 器の坏・壺、木製品が出土しています。 3 4トレンチ検出埋没建物(SI01・02・03)(第3図) 4トレンチからは、検出された竪穴建物跡12棟の半数にあたる6棟が検出されました。このうちの 3棟(SI04・05・06)は、建物の廃棄に伴って一気に竪穴の埋め戻しが行われた「埋め戻し タイプ」と判断されます。残りの3棟(SI01・02・03)には埋め戻しの痕跡が認められず、 - 2 - 竪穴の内部は十和田火山の噴火に伴う堆積物で占められています。先に述べた「自然埋没タイプ」の 竪穴建物跡になります。3棟は、北からSI02、SI03、SI01の順に位置しています。この うち、SI02に関しては、竪穴の壁から床面直上にかけて火山灰が数㎝堆積し、その上を火山泥流 堆積物であるシラスが覆っています。空から降ってきた火山灰が竪穴内部の床面に直接堆積している 状態から、竪穴は埋められてはいなかったものの屋根がない状態だったと考えられます。つまり噴火 時には既に廃棄されていたと考えられます。以上から、居住時に火山泥流に飲み込まれた竪穴建物は、 SI01とSI03の2棟ということになり、十和田火山の噴火の影響で廃棄せざるを得なかった建 物と考えられます。以下に自然堆積によって埋没した「自然埋没タイプ」の3棟の竪穴建物の概要を 説明します。 (1)SI01竪穴建物跡 長辺(北東-南西)5.9m、短辺(北西-南東)5.2m、旧地表面から床面までの深さは0.7mあります。 竪穴周辺のⅣ層(旧地表面)上には、竪穴を構築した時の掘削土を盛った最大高40㎝の周堤が巡り、 その直上にはⅢ層(降下火山灰)が堆積しています。 竪穴内部は、ほぼⅡ層(火山泥流堆積物)で満たされています。壁際には垂直方向の土層が認めら れ、壁板や柱材などが腐食した痕跡と考えられます。竪穴の床面は締まりが弱く、床面直上には、厚 さ3mm程度の黒色をした有機質の層が広がっています。その直上にⅡ層が厚く堆積しています。北壁 から20㎝離れた床面には、幅16㎝、厚さ4.5㎝の板材が壁と平行に設置されています。これと対称の 位置にある南壁床面からも木材が出土しましたが、腐食が著しく本来の形状は不明です。この他、中 央部からも、もろくなった遺材が出土しています。 遺物は、床面から土師器の坏と箸、用途不明の木製品が出土しました。これとは別に床面から1.1 ~1.2mの高さのⅡ層中から、重ねて伏せた状態の土師器坏2個体、須恵器の壺1個体が出土しまし た。これらは、その出土状態から棚などに収納されていた可能性が考えられます。他にⅡ層から出土 した遺物はありません。 床面にⅢ層(降下火山灰)が堆積していないことから、被災時には上屋があったと想定されます。 本遺構東側では、建物の壁か屋根材の痕跡と考えられる土層を確認しています。 (2)SI02竪穴建物跡 長辺(北東-南西)6.2m、短辺(北西-南東)5.9m、確認面から床面までの深さは0.6m程あります。 南壁の一部にはクランク状の小さな屈曲がありますが、平面形はおおむね方形と推測されます。竪穴 内はⅡ・Ⅲ層で満たされ、これを縁取るように竪穴を構築した時の掘削土を盛った周堤が巡っていま す。また、東壁から1mほど東では焼土を確認しましたが、本遺構との関係は不明です。 本竪穴床面高はSI01・03より20~40㎝高く、周辺のⅡ層が極端に薄い状況から、当地周辺は 旧地形が高く河川による浸食や耕地整理などの影響を受けやすい場所にあるといえます。 (3)SI03竪穴建物跡 一辺が(北東-南西、北西-南東)4.2m、確認面から床面までの深さは0.7~0.8mあります。竪穴の 周囲には、竪穴を構築した時の掘削土を盛った最大高30㎝ほどの周堤が巡っています。竪穴内部は、 ほぼⅡ層で満たされ、上部に軽石が集中しています。床面上には、有機質の層が1㎝ほどの厚さで堆 積しています。竪穴の壁周辺には径10㎝程度の空洞のほか、叩くと鈍く響鳴する部分があります。こ れらは柱材が腐食した結果、空洞となった部分と推測されます。この他にも柱の痕跡と推測される部 分があります。竪穴の壁際には、壁材の設置に関係した堆積土が確認できます。東壁から東に1mほ - 3 - ど離れた地点では、カマドの煙出し部分とみられる穴の跡を確認しました。この近くの竪穴東壁では、 粘土の広がりと土師器甕の底部が確認されています。これらは、カマドとそこに据えられていた土器 の一部と考えられます。 上屋の構造については、屋根の傾斜を示す厚さ6~7㎝の黒褐色の土の層が、40度前後の角度(南 壁45°西壁36°北壁25°)で周堤からⅡ層上面まで直線的に延びています。本層を注視すると断層状 のズレが認められます。これは屋根の構造材などの形が反映されている可能性があります。屋根の傾 斜を示す本層の中には、Ⅴ・Ⅵ層の小さな塊が含まれています。この層の直上には、降下火山灰であ るⅢ層が5㎝程度の厚さで堆積し、その上に火山泥流の堆積物であるⅡ層が堆積しています。 床面から1.6~1.7mの高さのⅡ層中から、横倒し状態の土師器甕が出土しました。その状態から、 SI01竪穴建物跡と同様に、棚などに収納されていた可能性が考えられます。 4 屋根構造が保存されたわけ 秋田大学の林信太郎教授(火山学)は、屋根構造が残る竪穴建物の保存状態の良さから、大人が避 難できるくらいの比較的穏やかなエネルギーの低い火山泥流が、集落を飲み込んでいったのではない かとの見解を示しています。米代川の本流から離れた場所にある遺跡周辺では、越流してきた火山泥 流の勢いが弱く、それが屋根構造の保存に繋がったといえます。 5 多様な木材の保存・劣化状態 Ⅱ層(シラス)に埋もれた柱材は、湧水がない限り、そのほとんどが腐食してしまった可能性が高 いことが今回の調査で明らかになりました。柱材と思われる痕跡には様々な種類があります。Ⅱ層が シミのように汚れて見える部分や、空洞になっている部分などがあります。この他、SI01・03 竪穴建物跡で想定された「棚」についても、湧水点より上にあるため、棚板などの遺材は腐食した可 能性が高いといえます。 以上のような、Ⅱ層(火山泥流堆積物)に埋没した環境下における木材の腐食過程と腐食痕跡の精 査が、埋没建物跡全体の解明に大きく繋がるものと考えられます。 おわりに 片貝家ノ下遺跡の最大の特徴は、西暦915年の十和田火山の噴火活動に伴う噴出物に厚く覆われて いることです。被災当時の集落が、火山噴出物にパックされているため、集落の最後の姿が良好な状 態で保存されているのです。遺跡を覆っている火山灰をきれいに取り除くと、1,100年前の地面が現 れます。本遺跡では、当時の地面の僅かな起伏も捉えることができるため、集落の確かな景観の復元 は言うまでもなく、集落内の人々の足取り・動きさえもたどることが可能と考えられます。片貝家ノ 下遺跡には、黒井峯遺跡や中筋遺跡といった群馬県榛名山の火砕流に埋没した有名な遺跡群と同等か、 それ以上の情報が保存されていると思われます。膨大な情報・可能性をもった大変貴重な遺跡なので す。 折しも十和田火山の噴火から1,100年目の年に発見された本遺跡は、当時の人々の暮らしと災害の実 態を私達に教えてくれるとともに、火山災害に対する備えを促しているようにも思えます。 - 4 - - 5 - - 6 - 柱跡 - 7 - 4トレンチSI03屋根構造断面(南東から) - 8 - - 9 - - 10 - - 11 - - 12 - 米代川流域の埋没家屋 高 橋 学 はじめに か さいりゆう 十和田火山から噴出した火砕 流 による直接的な被害は、火口を中心とする特定の地区内に限 られるものの、その後に発生した火山泥流(地元ではシラス洪水と呼ぶ)により、広範な地域の 景観を大きく変質させることになった。十和田火山の西側に位置し、日本海に注ぐ米代川流域が その顕著な地域である。シラス洪水によりどれくらいの古代集落が埋もれてしまったのであろう か。いわゆる埋没家屋(埋没建物)と呼ばれる遺跡は、米代川流域で伝聞を含め10か所を抽出す ることができる。 かつては、男鹿半島域(八郎潟西側、男鹿市)にも埋没家屋とされる遺跡が6か所あるとされ かん がい ていたが、男鹿市小谷地遺跡の発掘調査やその後の検討から、これらは家屋ではなく灌漑水路に せき 設置された堰遺構に伴う部材の可能性が高いことが判明している。したがって、埋没家屋は米代 川流域に限定された遺構であり(第1図)、列島内に類例のない極めて特異な遺跡群の遺構であ る。次項ではこの米代川流域の事例を下流側から紹介する。 【文献】五十嵐祐介2010「「埋没家屋」再考-男鹿市小谷地遺跡を中心として-」『北方世界の考古学』す いれん舎/秋田県教委2011『小谷地遺跡』秋田県文化財調査報告書第472集 1 米代川流域の埋没家屋とされる遺跡 ①天神(能代市二ツ井町麻生) な なくら 昭和7~8年(1932~33)頃、七座営林署が貯木場を拡張するために水田を掘り起こした所、 2間に3間の家屋を3棟発見したという。現地は米代川の水面より5m高く、川岸から121m程 度の距離がある。家屋は土間と床間が区別され、床間は板敷となっていた。出入口は観音開きの 扉(スギの一枚板)があった。外壁は割板を鎧重ねに並べて土中にさし、釘は使っていなかった へい は じ き まげ もの へい らしい。屋内からは、素焼きの瓶(土師器の壺か)、臼・手杵・曲物やスギ材で作った弊(神祭 ご へい 用具の御幣を指すか)が数十本見つかったという。【文献】佐々木兵一1940『北秋田郡小史』 お が た ②小勝田(北秋田市〔旧鷹巣町〕脇神字小ケ田) 文化14年(1817)、小勝田村(脇神村枝郷)で崖崩れがあり、そこから埋没していた家屋が2 ~3軒現れた。このニュースは当時大きな話題を呼んだらしく、以前より埋没家屋に興味を示し ていた菅江真澄や佐竹藩士の岡見知康、黒沢道形などが現地を訪れている。三者の記録を検討し た建築学者・永井規男氏の見解に従うと、菅江真澄の写実的な図絵は、実見して描いたものでは なく、実際の家屋を見た人からの聞き書きとされ(第3図上)、一方の岡見知康は自身が実見し ており、それを平田篤胤が『皇国度制考』に見取り図的なスケッチと共に記している(同図下)。 また黒沢道形も家屋自体を見てはいないが、『秋田千年瓦』(文化14年著)に具体的で信用に足り うる詳細な記録を残している。 『秋田千年瓦』によると小勝田の埋没家屋は、連日の降雨で米白河(米代川)側の崖が崩れ、 - 13 - 3軒の家屋が見つかった。家の規模は3間に5間と5間に7・8間とあり、3×5間の家は土を 4・5尺掘り下げていることから竪穴式の家屋であることが判り、梯子を掛けて出入りする。家 の四隅には柱が建てられ、出入口は高さ3尺の板戸2枚を観音開きの扉としている。家屋内の出 き ぐ つ 土遺物は、機織りの道具、矢筒、木履(下駄)等の木製品が見られたという。また小勝田村では 昔より度々洪水があり、今まで計20軒程の埋没家屋が現れたと記されている。 一方、地元の七日市村の肝煎長崎七左衛門の記録によれば、小勝田では34軒の埋没家屋が見つ かっているとされる。 これら埋没家屋の出土地点については昭和42年、胡桃館遺跡発掘時に地元小ケ田集落の方々に 聞き取り調査を行ったが、伝承その他一切不明とのことであった。 【文献】菅江真澄1975「埋没家屋」『菅江真澄全集』第9巻 未来社/平田篤胤2001「皇国度制考」『新修 平田篤胤全集』補遺3 名著出版/黒沢道形1931「秋田千年瓦」『秋田叢書』第9巻/長岐喜代次1993『秋 田の古文書研究』1 小猿部古文書読解研究会 くるみだて ③胡桃 館 遺跡(北秋田市〔旧鷹巣町〕綴子字胡桃館) 胡桃館遺跡は、鷹巣中学校グランド造成工事に伴い遺物が出土したことを端緒とし、昭和38年 (1963)に遺構の一部(掘立柱列)が発見され、昭和42年(1967)から3か年にわたり発掘調査 が実施された。 遺跡は西流する米代川の北約2㎞、標高28m前後の沖積地に立地する。小勝田の埋没家屋は米 代川を隔てた南南西約3㎞に位置する。調査の結果、弧状をなす柵列(A2)の内側(北)に建 物が4棟検出された(第4図上)。4棟ともシラス層下にある同一の黒色土面に建てられている ことから、同時存在である。建物部材はいずれも南東の方向にやや傾いてることから、北西方向 から押し寄せたシラスにより埋没したことを物語る。堆積したシラスの厚さは2mにも達する。 最も規模の大きいC建物は、桁行11.8m×梁行9mの東西棟の礎石建物である。礎石(玉石) ど い いた あぜ くら の上に土居(建物の土台となる角材)が乗せられ、床は板張りである。壁は板校倉で組み上げら れ、扉は南面に3口、北面に2口、東西面に各1口の計7口あり、全て外に開く観音扉となる。 扉の寸法などから南面中央が正面出入口と考えられる。出土遺物のなかには、木簡が2点含まれ ていた。うち木簡1は、米の支給帳簿と推測され、「玉作麻主」「建部弘主」「伴万呂」などの人 名や米の支給量が「五升五合」 「一升五合」 「一升」等と記されている。木簡2は、 「建□〔建カ〕」 の2文字が記される。表面中程と上端部には墨で塗りつぶした箇所が見られるが、文字とは認め られない。 ほつ たてばしらたて もの あと B1建物は桁行7.3m×梁行5.5mの南北棟の掘立 柱 建物跡である。柱間は桁行3間(8尺等 間)、梁行2間(9尺等間)で、四隅の柱は径17cm程の多面取りの丸柱である。柱間には幅20cm (厚さ2㎝)の板を立て並べ、地面に突き刺す(突きつけ)構造を採っていた。南面中央には両 開きの戸が設けられる。床面には板張りの痕跡はなく、全て土間と考えられる。土間の南東隅近 くには小角材を馬蹄形に立て巡らせた炉跡が見られる。また焼土や炭の分布も確認され、床面上 からは籾殻や須恵器破片も出土した。 B2建物はB1建物と近接し、同一軸線をとる桁行8.8m×梁行6.7mの南北棟の板校倉(平地 せい ろう 式)構造である。地面に土居を据え、その上に幅25cm(厚さ5cm)の板を井篭状に組み上げて板 - 14 - 壁(校倉)としている。北面を除く3面には内開きの戸がある。床は板張りのようだが、南西部 の一角のみ土間とし、ここにB1建物と同類の炉が作られる。なお本建物の扉板(戸)のうち、 1枚には墨書があることが判明している。 B1・B2建物とも遺存状態がよく、最高で地表から1.6mの高さで部材が残り、B2建物は 板壁が4段分残っていた。 B3建物はB2建物の西に位置し、桁行3.1m×梁行1.9mの東西棟の高床式建物と見られる。 北西の隅柱に接して長さ1.3m(幅13cm)、足掛りの段を2段残す梯子も検出された。 【文献】秋田県教委1968『胡桃館埋没建物発掘調査概報』/秋田県教委1969『胡桃館埋没建物遺跡第2次 発掘調査概報』/秋田県教委1970『胡桃館埋没建物遺跡第3次発掘調査報告書』/山本崇・高橋学2006「胡 桃館遺跡出土木簡の再釈読について」『秋田県埋蔵文化財センター研究紀要』第20号 かか りどみち うえ ④掛泥道上遺跡(北秋田市〔旧鷹巣町〕綴子字掛泥道上) 平成15年(2003)に新発見された遺跡。胡桃館遺跡の東約2㎞に位置する。シラス層中(河川 工事の法面)から人工的に加工された木製部材が数点発見され、なかに観音開きの扉板が含まれ る。これらが家屋の一部であるが、現地に建っていたものか上流から流されたものか、現段階で の判断はできない。 【文献】鷹巣町教委2004『平成15年度町内遺跡詳細分布調査報告書』 ⑤岩瀬(大館市〔旧田代町〕) 米代川支流岩瀬川の右岸シラス層下から埋没家屋が5~6戸出たという。 【文献】今村明恒1943「古代の比内地震、特に埋没家屋中より発見せる一器具によりて推定せらるる該地 震の年代に就て」『帝國學士院紀事』第2巻第2号 ⑥板沢(大館市板沢) ひつ かけ 寛政5年(1793)頃より4年の間、曳欠川(引欠川)の岸が度々崩れ、板沢村の市重郎という 家の畑より、家屋が5・6軒現れたという。 【文献】菅江真澄1978「さくらかり」『菅江真澄全集』第10巻 未来社 おおびらき ⑦大 披(大館市大披) 安永4年(1775)、米代川支流の曳欠川(引欠川)岸で洪水により家屋が3・4軒出現した。 ちよう な 家の中には長さ2間程の船棹や仏を墨画した板(あるいは仏を彫った板)、手斧作りの机、木鋤、 お しき すずり 折敷(「下」の字が刻まれていた)、木履(下駄、大きく相撲取りの履物と形容)、筆、 硯 、ころ び甕(須恵器大甕、底部が丸底であることから命名)などが出土したという。 なお、大披では天明3年(1783)にも家屋が数軒発見され、これを検討した大館郷土博物館の 荒谷由季子氏は、安永4年の埋没家屋とは別の地点ではないかと考えている。 【文献】菅江真澄1978「さくらかり」『菅江真澄全集』第10巻 『菅江真澄全集』第3巻 未来社/菅江真澄1978「にえのしがらみ」 未来社/荒谷由季子2013「埋没家屋と八郎太郎伝説について(その2)-天明 3年 菅江真澄と大披の埋没家屋-」『大館郷土博物館研究紀要 火内』第11号 - 15 - ⑧向田崖(大館市大披) 大披埋没家屋の南(上流側)100m程の所で、慶応年間(1865~67)に埋没家屋が出現した。 遺物には、曲物(中に種子が入っていた)・瓶(壺)・臼・杵・机・膳類があったという。 【文献】土岐蓑蟲(蓑虫山人)1889「古木器出現の記」『東京人類学会雑誌』第4巻第43号/ 平山次郎・市川賢一1966「1,000年前のシラス洪水-発掘された十和田湖伝説-」『地質ニュース』140号 かた かい いえ の した ⑨片貝家ノ下遺跡(大館市比内町片貝字家ノ下) 村上報告参照。 どう め き ⑩道目木遺跡(大館市道目木字中谷内)(第5図) ほ場整備事業に伴い、平成11年(1999)に発見された。米代川最上流域での検出例となる。1 棟のみの確認であるが、標高75m、米代川面との比高約13mの段丘北西端部に立地する。埋没家 屋は竪穴式ではなくシラス層下の黒土面(当時の生活面)に直接床板材を敷く平地式建物構造を 採る。床板材は全てスギであり、幅26~30cm、厚さ2~3cmに製材され、一部床面上にはスギ皮 が敷かれていた。建物は床板材の配置と間仕切り板材の存在から2室以上に分けられ、その全体 規模は一辺が6m以上となる。外壁は、板を校倉状に重ね矢板状の縦板や木杭で押さえる構造の ようだが詳細は不明である。その他の建築部材では、窓枠の下部材も見つかっている。出土した すだれ 遺物には土器類(土師器坏・甕破片)、木製品(曲物容器、棒状・ 簾 状木製品など)がある。 家屋を構成する部材のうち、表皮の残存するスギ材の年輪年代測定を行った。その結果、伐採 年代が西暦912年と判明した。【文献】板橋範芳2000「道目木遺跡埋没家屋調査概報」『大館郷土博物館 研究紀要 火内』創刊号/赤石和幸・光谷拓実・板橋範芳2000「十和田火山最新噴火に伴う泥流災害-埋 没家屋の発見とその樹木年輪年代-」『地球惑星科学関連学会2000年合同大会資料』 2 胡桃館遺跡B2建物扉板墨書から読み取れること 胡桃館遺跡のB2建物西面南側の扉板内側には、よく見な いと判別できない墨書が残されていた。赤外線カメラで観察 したところ、右のように、4行26文字が確認された。書かれ ていた内容は、“某年7月16日から3日間連続で一日あたり3 0巻のお経を読んだ”と言えよう。 文字の配置を見ると、同 じ人物が一度にまとめて書いたようであり、とすれば7月18 日に記されたものと推測される。 このことから何が言えるのか。まずはお経を読むことので きる僧侶がいたこと。30巻にも及ぶお経が胡桃館という地にあったことである。僧侶とお経の存 在から、胡桃館とは「寺院」ではなかったのか、という推測も可能となる。実際、この建物内を 含め遺跡内からは4点の「寺」と書かれた墨書土器も出土している。 一方で建築学上、胡桃館の建物は寺院建築とは言い難いとされる。ただし、もともと寺院以外 ほう え の別の用途の建物を「仏堂」として利用し、僧侶が法会(供養などための儀式)を行う場合があ ることは史料から明らかである。寺院建築如何にかかわらず、胡桃館の地で仏教法会が行われて いたと判断してよい。それでは法会が行われた経緯は、何であったのか。その鍵は7月16日~18 - 16 - 日の日付にあると見たい。 十和田火山の噴火は、西暦915年7月4日である。いわゆるシラスの堆積状況と建物の遺存状 態を勘案すれば、短時間で埋没したものとは考えにくい。少なくとも7月18日まではシラスによ って埋没していなったとすれば、某年とは西暦915年と推測できないであろうか。 ほつたの さく あと 十和田火山噴火・降灰を契機とした除災(祭祀)行為は、横手盆地の払田柵跡(大仙市・美郷 くりやがわ や ち 町)や隣接する 厨 川谷地遺跡(美郷町)で確認されている。火山灰降下直後の行為であること は、払田柵跡で土坑内に堆積した火山灰層直上に完形の土師器坏が祭祀のために正立に置かれた 状態で発見され、その底面に火山灰が付着していたことからも明確である。火山噴火という天災 を契機とする祭祀行為は、胡桃館という十和田火山により近い地理的条件と、僧侶が胡桃館内あ るいは近隣の宗教施設に配置されていたことから、法会という形で執り行われた可能性が考えら れる。【文献】吉川真司2008『胡桃館遺跡と古代仏教』講演資料 北秋田市ホームページ参照/高橋学201 2「十和田火山噴火と災害復興」『北から生まれた中世日本』高志書院 3 片貝家ノ下遺跡からみる米代川中流域の古代集落と生業 屋根が当時の状態のまま確認されたことで注目を集めた片貝家ノ下遺跡ではあるが、実は今ま で不明瞭であった当該流域の十和田火山灰降下(915年)以前の集落様相が見え始めたことにも 着目したい。 史料では降下以前の集落について、元慶の乱(878年)に際して、「秋田城下賊地」12村のうち ひ ない すぎぶ ち 当該流域には「火内村」や「榲淵村」の名前が登場する。前者は片貝家ノ下遺跡のある大館市比 内町、後者は北秋田市(旧鷹巣町)近辺であろう。まさしく火山噴火前にも一定数の村・集落が 存在していたことを史料は示していた。ところが考古学的に見れば「村」を構成する建物(住居) の数は極端に少なく、それは“シラスに埋もれてしまい確認できないだけ”と想定していた。今 回の発見は、“やはり低地に村があった”ことを明確に示したのである。 低地・沖積地にある片貝家ノ下遺跡は確認調査という制約もあるが、実調査面積が1,200㎡で 12棟の竪穴建物跡が検出された。いずれも火山灰降下前に造られた建物であった。遺跡(集落) は約31,000㎡とされることから、計算上では300棟超(100㎡あたり1棟)の建物が存在していた 可能性もある。同時期、火山灰降下前の集落は台地上にも存在する。片貝家ノ下遺跡の北東側に かた かい お が た たて 隣接する片貝遺跡(大館市比内町、標高68m)、小勝田の埋没家屋に近い小勝田館跡と伊勢堂岱 遺跡(いずれも北秋田市脇神)を取り上げる。 片貝では調査面積18,000㎡で竪穴建物跡11棟、小勝田館は11,000㎡で3棟、伊勢堂岱は約 20,000㎡を発掘して1棟である。単純な比較はできないものの、片貝家ノ下に比べると台地上の 集落は構成される建物数が極端に少ないことが明確である。 ここから読み取れることは何か。火山灰降下以前の集落は、主に台地の上ではなく、低地・沖 積地を中心に居住していたと考えざるを得ない。その生業については、胡桃館遺跡で出土した木 簡に記されていた「米五升五合」「米一升」などや伊勢堂岱遺跡の竪穴建物跡カマドから、その 焚き付け材としての稲が見つかっていることも含め、低地部での水田稲作が一定規模で広がって いたと想定される。また、小勝田の埋没家屋からは機織りの木製部材が出土していることから、 布の生産やこれに関連する木材加工も行われていたはずである。 - 17 - 4 火山噴火後の集落立地と生業 そして、運命の日を迎えることになる。十和田火山に近い上流域、米代川本流付近にあった集 落は火砕流や泥流等の直撃を受けて跡形もなく呑み込まれた。その一方で、胡桃館のように避難 する猶予があった集落も存在する。胡桃館B2建物は、木扉に鍵(扉栓)が掛かった状態で確認 されている。このことは、埋没までの時間的余裕があり、建物内から家財道具を持ち出し、最後 に扉を閉め鍵をかけて退去した様子が想像できる。片貝家ノ下の集落も避難する猶予が与えられ た数少ない事例となろう。 生業の基盤であった水田は間違いなく壊滅的な打撃を受けたはずである。災害後、低地に居住 していた人々はどのような行動をとったのか。本流域内に留まるとすれば、台地の上しか居住空 間は確保できないことになる。 米代川流域内で発掘調査された古代集落は、140遺跡を超す。見つかった竪穴建物跡は約1,600 棟、掘立柱建物跡は約310棟を数える。多くの建物跡が発見されているが、このうち奈良時代(8 世紀)から平安時代の初め頃(9世紀中頃)までの集落数は10遺跡にも満たず、建物の数も10数 棟ほどしかない。その他の集落とは9世紀後半以降、すなわち火山災害の直前頃から新たに形成 される。そのピークは、噴火時期と重なる10世紀前半代から噴火後の10世紀中頃である。このこ とから言えることは、災害後の比較的早い段階で集落は復興を遂げていることになる。 新たな集落は、被害の比較的少なかった台地上を選択し、その生業については木材関係、畑作、 か じ そして鉄生産や鍛冶が主となった。台地は今まであまり利用されることがなく、豊富で広大な森 林資源が蓄積されていたと推測できる。杉を中心とする木材は、住居建設には欠くことができな い材料であり、伐採された台地上では畑作も可能となる。実際に、大館能代空港そばのハケノ下 Ⅱ遺跡(北秋田市脇神)では、この時期の畑跡も発見されている。鉄に関わる生業は新たに出現 した。災害後に形成された各集落には、規模や数量にばらつきはあるものの製鉄炉や鍛冶炉、様 々な鉄器など鉄関係の遺構、遺物が認められる。いわば“村の鍛冶屋”はこの頃に成立したと言 える。 おわりに 米代川流域の集落は、災害後にV字回復を遂げる。その要因は森林資源の確保と鉄生産・加工 技術の獲得が鍵となったと考える。鉄関係の生業出現には、出羽国の城柵(秋田城や払田柵)か らの関与があったと想定したい。本流域は「秋田城下賊地」とされるものの、胡桃館で発見され た遺構や遺物の存在が城柵側との結びつきを災害前から明確に示している。このことが、新たな 生業の速やかな受容に繋がったと見ておきたい。 一方で、集落や建物数の増加時期を考慮すれば、律令体制の支配下にあった城柵側が米代川流 域の地元民(いわゆる蝦夷)に生業確保等の働きかけを開始したのは、火山災害前に遡る。そし て城柵側の施策が進行するなかで未曾有の災害が発生した。進行中の施策であったため、災害復 興としても強力に推し進められた結果が、10世紀代の集落展開に結びついた。このことが、その 後の郡形成や安倍・清原氏の台頭と奥州平泉・藤原氏の登場に繋がっていくのである。 - 18 - 第1図 第2図 米代川流域の埋没家屋遺跡 引欠川流域と埋没家屋の位置 - 19 - 第3図 小勝田の埋没家屋 - 20 - 第4図 胡桃館遺跡の遺構配置と復元図 - 21 - 第5図 道目木遺跡の遺構と出土遺物 - 22 - 地形環境からみた片貝家ノ下遺跡 弘前大学 教育学部 小岩直人 1.はじめに 米代川流域には,花輪盆地,大館盆地,鷹巣盆地が存在している.これらの盆地には,河川の営力 によって形成された,平坦な段丘面と急な崖の組み合わせの地形である「河成段丘」が広く分布して おり,流域の人々の生活の場として利用されている.河成段丘は河川の運搬力と河川へ供給される土 砂量の変化によって形成される地形である.日本における河成段丘は,繰り返される気候変化やそれ に伴う海面変化によって形成されているものが多いが,米代川流域の盆地にみられる河成段丘はこれ らとは異なり,十和田火山起源の大量の火山噴出物とそれがさらに下流側に移動した堆積物(二次堆 積物)によりつくられたものである.これらの段丘の形成については,藤原(1960),内藤(1966,1 970)などによって検討され,その全容が明らかにされてきた(大月,2005).大館盆地の南西部に位 置する片貝家ノ下遺跡は,毛馬内火砕流とその二次堆積物からなる段丘面の下に埋もれている. 近年,大都市や主要河川沿いでは,レーザー航空測量による数値標高モデル(Digital Elevation Model: DEM)が国土地理院により整備され,その成果は5mメッシュデータとしてインターネットにお いて入手することが可能となってきた.5mメッシュデータは,南北方向,東西方向に分割してえられ る5m間隔の方眼の中心部の標高を示したデータの集合であり,高さの誤差は数地をカバーするように - 23 - 5mメッシュのデータが公表されている.本講演では,このデータを用いて作成した標高分布図をもと に,大館盆地の地形,および片貝家ノ下遺跡の地形環境を検討する. 2.大館盆地の地形,毛馬内火砕流およびその二次堆積物 図1に5mメッシュのDEMを用いて作成した大館盆地の鳥瞰図を示す.大館盆地内の地形は,おもに氾 濫原と河成段丘面からなっている.後者の多くは十和田火山起源の火砕流堆積物に関連する地形面で あり,段丘面は高低2段に大別され,高位の段丘面は,約1.5万年前の八戸火砕流堆積物とその二次堆 積物による地形面(本講演では「八戸面」とする)であり,低位のものは米代川の流路付近に分布す る,10世紀前半の毛馬内火砕流とその二次堆積物による地形面(「毛馬内面」とする)である.八戸 面は,大館盆地全域に分布し,盆地中央部では標高60~80mを有し,大館市の中心市街地の南部は, この段丘面上に立地している(図1).八戸面が形成された当時は,八戸火砕流(または二次堆積物) によって盆地全体が埋められたものと考えられるが,これらの地形は米代川をはじめとする諸河川に より大きく侵食され,台地状の地形が形成される.大館盆地にみられる河川は,現在ではその侵食さ れた谷の中を流下している.毛馬内面は,米代川沿いに分布が限定されていることから,八戸面形成 時とは異なり,毛馬内火砕流とその二次堆積物が関連した堆積物が盆地全域を覆うことはなく,八戸 面が侵食されて形成された谷の中を流下したと考えられる.毛馬内面は扇田付近で標高60~70m,盆 地中央部から最下流部で標高40~50mの標高を示す(大月,2005). 3.片貝家ノ下遺跡周辺の地形 片貝家ノ下遺跡は,引欠川沿いに位置している.引欠川は,大館盆地最下流部の横岩周辺において 米代川と合流する河川である.図2に図1の側線A-Bに沿って投影した引欠川の現河床,毛馬内面,八 戸面の縦断形を示す.引欠川は2~3/1000の勾配をもつ河川であるが,これに対して,八戸面および 毛馬内面は(とくに下流部で)緩勾配となっている部分がみられる.片貝家ノ下遺跡の家屋を埋没さ せたであろう毛馬内火砕流およびその二次堆積物による地形面(毛馬内面)は,標高48~50m前後と, 標高58m前後に分布がわかれ,とくに後者がほぼ水平に近い平坦面となっている.図2から,片貝家ノ 下遺跡周辺では,八戸面の連続が途切れていることがわかるが,この場所は,米代川本流から片貝川 方向に地形が大きく開いているところとなっている(図1).このような状況を考えると,片貝家ノ下 遺跡周辺は,八戸面の分布が切れ た場所から,米代川から越流した 氾濫堆積物が押し出されてきた場 所に相当すると考えられるであろ う.一方,下流側の著しく緩勾配 である毛馬内面は,おそらく盆地 の出口付近(早口・岩瀬付近)の 狭窄部において,下流側に運搬さ れきれなかった堆積物が順次堆積 - 24 - - 25 - した地形面である可能性が高い.毛馬内面が形成される以前の引欠川の勾配は,ほぼ現在と同様であ ると推定されることから,下流側のほぼ平坦な毛馬内面は盆地峡谷部から順次堆積し,それが上流側 へ波及して形成された可能性があると思われる.片貝家ノ下遺跡の約5km下流の大披では,平安時代 の埋没家屋が報告されているが,ここでは,このような堆積作用のもとで家屋が埋積したと推定する ことができるであろう. DEMを用いて作成した片貝家ノ下遺跡周辺の標高分布図を図3に示す.遺跡の北側には,米代川から 越流してきた堆積物からなる毛馬内面が分布しており,その末端付近の標高58m前後となっている. 片貝家ノ下遺跡は,明らかにこの地形よりも1m程度低い位置にある(図3).毛馬内と片貝家ノ下遺跡 の間には,旧河道がみられて両者の連続性を検討することが困難となっているが,このような地形条 件から遺跡周辺では,毛馬内火砕流の二次堆積物が堆積した後,引欠川が側方に移動することによっ て侵食された可能性が指摘できる.しかし,遺跡が位置する平坦面と毛馬内面がかつて連続していた ようにもみられることから,今後,堆積物を含めたさらなる検討をする必要があると思われる. 引用文献 藤原健蔵(1960)米代川流域の河岸段丘と十和田火山噴出物との関係.東北地理,12,33-40. 大月義徳(2005)米代川流域の地形.小池一之・田村俊和.鎮西清高・宮城豊彦編『日本の地形3 東北』東京大学出版会,205-217. 内藤博夫(1966)秋田県米代川流域の第四紀火山砕屑物.地理学評論,39,463-484. 内藤博夫(1970)秋田県花輪盆地および花輪盆地の地形発達史.地理学評論,43,594-606. - 26 - 2015年2月14日 大館 十和田湖の噴火と 片貝家ノ下遺跡 早川由紀夫 過去の噴火は、軽石や火山灰として 地層の中に記録されている。 中掫軽石(6300年前) 南部軽石(9500年前) 八戸火砕流(1万5000年前) 青森県田子町 - 27 - 高い崖をつくる八戸火砕流 比内町で2015年11月撮影 八戸火砕流と八戸火山灰 1万5000年前 50 cm - 28 - 十和田湖から出た火砕流 1000年前 1万5000年前 3万0000年前 4万3000年前 毛馬内火砕流 (A) 八戸火砕流 (L) 大不動火砕流 (N) 奥瀬火砕流 (Q) 1万5000年前の八戸火砕流とは明らかに違う火砕流がある。 薄いクロボクにしか覆われていない。毛馬内火砕流。 1983年頃、発荷峠で撮影 - 29 - ○十和田湖 • 大森房吉(1918)は、この噴火記録を「或ハ 鳥海山ノ噴火ナランカ」と考えた。 • この解釈は長い間支持されてきた。たとえ ば村山、1978) • 1981年になって、町田ほか(1981)が、この 古記録は鳥海山ではなく十和田湖の大噴 火を記したものではないかと初めて指摘し た。 - 30 - 京都比叡山延暦寺の僧侶 が書いた『扶桑略記』 ×鳥海山 915年 延喜十五年七月条 8月18日 五日甲子、卯時、日无暉、 其貌似月、時人奇之 十三日、出羽國言上雨灰 高二寸諸郷農桑枯損之由 8月26日 状況証拠 • 鳥海山では、915年ころに大きな噴火があっ たことを示す堆積物が知られていない(林信 太郎、1995)。 • そのときすでに大和朝廷の支配下にあった 鳥海山神社の位階がこの噴火で上がってい ない。当時朝廷の支配下になかった北方の 火山の噴火であると考えるほうがもっともら しい。 毛馬内火砕流中の炭化木 • 1280±90yBP(GaK-548;平山・市川,1966) • 1470±100 yBP (GaK-10045;Hayakawa, 1985) • 1090±100 yBP (GaK-10046;Hayakawa, 1985) 915年に対応する放射性炭素年代は1140 yBP - 31 - 考古学からの束縛条件 • 仙台市の陸奥国分寺跡において、古記録か ら870年と934年に対応することがわかる遺 物層に挟まれてこの火山灰がみつかった (白鳥、1980)。 • 鷹巣の胡桃館遺跡において、902年に形成 された年輪をもつ杉材(奈良国立文化財研 究所、1990)がシラス洪水の堆積物中から みつかった。 『扶桑略記』に書かれた915年でよさそう。 【疑問】 出羽国から京都 まで8日で行けた か? • 被害を認定したのち京への報告書をしたためるの に3日かかったとみると、5日しか残らない。 • 浅間山1108年噴火では、 • 8月29日の大噴火報告が上野国から京都に届いたの は10月13日だった。46日かかった。 • 無理そうだ。噴火は7月だった? - 32 - 御倉山 烏帽子岩 瞰湖台から 南部軽石(9500年前) - 33 - 御倉山には中掫軽石がのっていない。 中掫軽石(6300年前) 五色岩 火道は狭い - 34 - シラス洪水 毛馬内火砕流 大湯温泉、1984年撮影 - 35 - シラス洪水 シラス洪水 大湯軽石のあと、すみやかにシラス洪水に襲われたようにみえる。 片貝家ノ下遺跡 十和田湖915年噴火と米代川洪水 御倉山溶岩ドーム 毛馬内火砕流 シラス洪水 大湯軽石 - 36 - 5 cm 東北各地の大湯軽石 925± 915 秋田駒ヶ岳登山道路1240m地点 仙台空港 @Aso_Yudamari 軽石の分布軸と噴火の季節 • 大湯軽石の分布軸が南に向かっているの は夏の噴火と符合する。 • 1万5000年前の八戸火山灰の分布軸は東 に向かっていた。西風が強まる冬に噴火し た。 - 37 - まとめ 915年(延喜十五年) 7月? 大湯軽石? 毛馬内火砕流 御倉山溶岩ドーム出現。冷却まで100年。 シラス洪水が米代川を下る。 8月18日 8月26日 京都比叡山から見た朝日が月のようだった。 出羽国から京都に報告が上がった。 火山学的問題(やや専門的) • 厚い大湯軽石を見ない。プリニー式噴火だろうか? • 火山灰と互層していることも含めて、毛馬内火砕流から の降下物である可能性。 • 毛馬内火砕流は尾根の上に薄く分布する。谷を厚 く埋めていない。 • これほど大規模なシラス洪水がなぜ発生したのか。 • シラス洪水は奥入瀬川や浅瀬石川を下らなかった のか。 - 38 -
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