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十国裳雄通信
特集:京劇在東京
張春祥と新潮劇院の今までとこれから
東京に生まれた京劇団のはなし
張春祥・・・・1
小林恵.・・・4
桐朋学園大学の俳優座寄贈図書一千田是也と中国演劇
伊藤緯彦・・・・7
連載張君秋(16)安志強・謝紅雲・・・10
お知らせ
編集委員会・・12
中国芸能公演0情報.
第37号
十国芸能研究会
中国芸能通信第37号
特集:京劇在東京
!!
今でこそ、度重なる公演や頻繁な講座など、静かなブームとさえ呼べる
状況を迎えた日本の京劇。しかし現在に至るまでには、まだまだ知られざ
る存在だった頃からの、多くの方々のたゆまぬ努力や、本場中国での活動
にはない苦労があったことでしょう。今回はその中から、東京を基盤に活
動を続ける二つの京劇団、張春祥氏率いる新潮劇院と、張紹成氏率いる東
京京劇団のおこ方に、それぞれ執筆していただきました。
張舂祥と新潮劇院の今までとこれから
新潮劇院張舂祥
「ジャカ、ジャカ」大切な大銅鋼にひびが入って情けない音を出す。冠の
玉飾りが砕けてシャラシャラと床にこぼれる。貴重な翻子が天井を擦って
根元から折れる。槍の頭がバカッと割れる。どれも北京空港で職員に嫌な
顔されながら機内持ちこみして来た品だ。公演当日、楽屋で衣装と格闘し
ていると製作スタッフがやって来る。「夜のお弁当どうしますう?」主演で
演出家で舞台装置係で広報担当で衣装さんの俺は弁当手配係でもあったの
か。俺のこめかみに青筋が立ったのを見てスタッフは一瞬に姿を消す。本
番当日は幕が開く前に喉を使い切ってしまい舞台で鶏みたいに声が枯れる。
「困らせたい奴には劇団やらせりやいい。」と祖父さんが言っていたらしい
が、まったくその通り。
日本で初めて京劇をやったのは来日した次の年、90年1月3日、NH
Kニューイヤーオベラコンサートでのとことだった゜夫が妻を殺してしま
う場面を京劇と歌舞伎とオペラの競演で比較したいからとの依頼で「烏龍
院」の宋江と闇惜妓を3分間やることにした。日本に来たばかりで有頂天
になった単純な俺は「たった3分と言えども本物を演じなければなりませ
ん。」などと製作の人に偉そうに言い、生伴奏に決めてしまった(実はテー
プを持っていなかった)。当時京劇のバンドが東京に存在したのかと疑われ
ることと思うが、もちろんない。本当の楽士は2人で残りの3人は京劇役
者、鼓師なんかいなかったので拝み倒して琴師に叩いてもらった。それで
NHKのリハーサル室を3回くらい借りて嫌がる皆の手に楽器を押し付け
て強行したのだ。ただ、大銅鍵がなくて困っている俺にNHKの人が親切
に「貸してあげるよ」と持って来てくれたのがトーランドットなんかに使
う直径80cm位の本当の大銅鍵だったのにはびっくりした。叩くと「グ
1
ワワーン」と3分くらい鳴ってる奴だ。また女優の頭飾りは小道具さんが
スパンコールを別珍に縫い付けて作ってくれた物だし、俺が着た摺子は実
は任堂恵の摺子だしその下の彩樋は実はただの黒いジャージだった。また
宋江の帽子は妻の手作りだったし歌詞も3分用に新たに作詞して編曲して
しまったのだ。そのビデオが今も残っているのだから恐ろしい話だが内容
は悪くなかった、本当だ。俺もまだ若かったしアップに十分たえていたの
だ。そもそも当時はまだ日本で京劇をやって行こうとか日本の演劇界で生
きていこうとか真剣には考えていなかったから結果など気にしていなかっ
た。
2
そして、その後は京劇の技を振り回しながら日本の演劇界を走り回った。
俺は武生なので北京にいたらあまり隈取ることはないので同年にミュージ
カル「竜の子太郎」の白い馬役で馬の隈取りをメイクさんに施してもらっ
た時はわくわくしたものだ。父は若い頃の武生から年を重ねるにつれ浄も
演じたが俺は馬の勾瞼で浄に目覚め、急いで父に師事することにした。動
機なんてこんなもんだ。またこの時には「ジャンさん、リアクションが大
きすぎる」と演出家に言われ今まで意識しなかった現代劇と京劇の相違点
を認識するようになった。その翌年はハムレットの劇中劇で京劇を演じた
が俺の鐸は空き缶やアルミホイルやポリ袋で出来たジヤンクカオで背中の
葬旗は自転車のスポークだった。そのキラキラ輝いて美しいこと。お客の
誰一人俺がガラクタを着ているとは思わなかっただろう。自由劇場のテイ
ンゲルタンゲルでは大帝を締めずに抱衣をダラッと着崩して輪郭をぼかし
た孫悟空の隈取りで立ち回りをやった。黒テントとアヴイニョン演劇祭へ
行った時は大道京劇を毎日催した。この時は黒テントの面々が一ヶ月の特
訓を経て俺の楽士をしてくれた。実は彼らはハムレットの時から楽隊を
やってくれていたのだが、この頃にはキレる女性団員もいて「ジヤンさん
だけの舞台じゃないんだから、こんなのぱかりやってらんないわ
よ1111」と皆の前で何度も俺は怒鳴り飛ばされたものだ。怖かった。
このような型破りな京劇ばかりやって来て俺は京劇を忘れたのかまた冒
涜したのか。否、他ジャンルを経験するにつれ京劇熱が上昇したのだ。型
を破りながら一方本物を極めたいという思いでいっぱいだ。北京で引退し
ている冠職人を引っ張り出して来たり老役者を訪ねたりして古い脚本を探
し漁ったりもしている。ところで「メリハリ」という言葉、この日本語は
中国語にしにくいが日本ではよく使う。慢と快、静と間、停と動、緊と髭、
俺にとっては伝統と前衛、中国と日本とも言える。せっかくの機会だから
他ジャンルのいい所はどんどん盗むことにして自分の芝居を磨くのが俺の
方法だ。猿之助さんの稽古場で若手に京劇を教えながら横目で猿之助さん
を見てとてもためになった。歌舞伎の見得も覚え込んだので今度どこかで
中国芸能通信第37号
やってやろうと思っているのだがどうだろうか。
日本のよいところは観劇熱心なお客がいる、京劇に理解を示す芸術家が
いる、条件のよい劇場もある。なによりここでは京劇が過去のものでなく
現在進行形だ。若い層のお客は北京より圧倒的に多いし、よそに客演した
時も京劇の広報活動に精を出したおかげで小学生から70代までのお客が
来てくれる。うれしいことだ。額に汗して一枚3500円の切符を売り歩
くなんて北京にいたら味わえない苦しみであり、喜びじゃないか。
新潮劇院という形で公演を始めたのは96年2月からになる。その時は
周りに照明・衣装スタッフに舞台監督・写真家などがいて協力してくれた。
中でも写真家はプロだが中国籍のくせに京劇を一度も見たことがなく、最
初はお互い戸惑ったが今では武打の場面で俺と同じくらい汗をかいて長い
望遠レンズを振り回している。こんなふうに1人1人理解者を増やしてい
くことだってとても重要な俺の任務なのだ。また日本人の役者を育てるこ
と。2年半いつもガミガミ言っている俺だが皆よくやってくれている。
もっともっとうまくなってほしい。
最近思う。京劇は形が決まっているのでそれをなぞっていれば珍しくて
おもしろくてかっこよくお客には喜ばれるが、それでは俺でなくても誰で
もよいではないか、俺にしかできないことをしよう。型の京劇役者ではあ
るが型を取ったら何も残らないのでは存在する意味がない。型に頼らずに
表現できるかどうかやってみようと一昨年の「ザ・寺山」から昨年の「幽
霊はここにいる」、「ポイツェク」で京劇の技を使わない表現方法も少し出
来るようになった。思えば昔の京劇役者は個性的で芝居の達者な人が多
かったと思う。俺も張春祥の武松は泣かせるねえと言われるような役者に
なりたいもんだ。6月の公演の時、見た人からからちょっと悲壮すぎるん
じゃないかと言われ武松って人物はこんななんですと答えたが、実は俺自
身が精神的にも肉体的にも追い詰められて武松より悲壮だったのだ。
張春祥と新潮劇院のプロフィールや今後の公演情報などに関しては、
ホームページ、
http://www2ubiglobe・nejp/~shincyo/
をご参照ください。どうか応援していただけますようお願いいたします。
▼新潮劇院公演情報(巻末の公演情報もご参照下さい)
串田和美演出プレヒト作『セチアンの善人」
5月18日(火)~6月8日(火)新国立劇場中劇場
出演:串田和美・松たかこ・大森博・張春祥他
3
東京に生まれた京劇団のはなし
東京京劇団小林恵
私は5年半ほど前、「因為、・有縁」としか言いようのない経緯で、-人の
中国人、それも京劇という伝統文化の世界に、ほとんど全身侵されている
人間と結婚した。今でもお互いに「なんで、この人と?」と思うのだが、
「縁」の前に、個人の力など無に等しい。中国人のお得意のフレーズ「没辮
法」である。それから今に至るまで、夫、張紹成と共に私は京劇と四つに
取り組むはめになった。その発端は、私たちが結婚した年の夏、北京に
帰った時に始まる。
久しぶりに会った張の古い同級生が、当時街のあちこちで上映していた
一本の映画をしきりに勧めた。絶対に見なきゃだめだ、俺たち京劇に関
わってきた者の想いが、全てこもっているんだから。涙なしには見れない
ぞ。
4
彼らがそこまで言うならと、私たちはその映画を見た。京劇を身につけ
るまでの苦しみ、時代に翻弄される空しさ、京劇への愛惜等々、何もかも
が描かれていた。私も感動したが、彼ら京劇をやってきた人間とは比べよ
うもない。暗闇に紛れて、張は泣いていたと思う。その映画は、カンヌ映
画祭でグランプリを受賞していた。間違いなく日本でも上映される。「これ
を見た人たちに京劇をみてもらいたい」、私たちは同時に考えていた。
映画を、日本での公開前に北京で見ていたことが幸いした。急いで会場
を探し、写真を撮ってチラシをつくった。とにかく、映画を見た人たちに
チラシを渡さねば。その映画「さらば、わが愛一覇王別姫」は当初、東急
文化村のル・シネマのみで上映された。無名の私たちが持ち込んだチラシ
を、支配人の林みつ雄さんが快く受け入れてくださらなかったら、その後
の私たちの活動は、全く違ったものになっていただろう。
人々の反応はものすごく、前売り段階でチケットは完売。そして公演当
日、開演の2時間以上前から、会場の周りに人が集まり始めた。誰が仕
切ったわけでもないのに、静かに列が出来、長く長く蛇行していった。私
の友人は「まさか京劇で列が出来るとは思わなかった。遠くから見たとき、
会場を間違えたかと思った」と言った。
結局、数十人の立ち見まで出たのは、全くの予想外であった。そうした
お客さんへの対応も含め、あの日の公演は今から思えば、反省点だらけで
ある。それでもこの日確かに、日本で最初の京劇団が小さな一歩を踏み出
したのだ。それまで京劇とは、梅蘭芳氏が来日公演したのを皮切りに、た
まに日本を訪れ、我々を楽しませ、帰っていく存在だったのだから。あま
りに独特な異国の文化は、過客に過ぎなかったのだから。まさか、日本に
住んでいる京劇俳優たちが自ら公演をし、そこにたくさんの観客が来ると
中国芸能通信第37号
1土、あの公演まで、誰もが思ってもみないことだった。1994年4月。梅
氏の来日から75年後のことであった。
私にとって予想外だったのは、観客数だけではなく、残された沢山のア
ンケートの内容だった。虞姫が回した剣の光を「まるで哀しみの涙がキラ
キラと散るよう」と表現するような、日本人の感性の豊かさ、美を受け入
れる懐の広さに、私は心底驚いた。こんなにわかってもらえる、ここまで
通じるという感激。あれほどのお客様は、神からの贈り物であろう。この
二つにグッと背中を押されて、私たちは大海に漕ぎだしてしまったのであ
る。
そして悪戦苦闘が続いた。特に第3回公演では辛い思いが残っている。
私は出産を2ケ月後に控え、思うように動けない。公演日がお正月明けで
宣伝の機会が少なく、チケットがなかなか売れない。それまで、制作全般
は私、舞台の上のことは張という分担でやってきたが、私は疲れとあせり
を一人で堪えきれなくなった。一方、張は「桃滑車」という重頭戯(大芝
居)を控え、自分の演技が大変な上に、まわりの役者たちの指導までしな
ければならず、心身共に限界だった。喧嘩し、苦しさをぶつけ、「今回で最
後だ」と叩き、また励まし合う日々。私たちは、荷車を引いて急坂をのぼ
る二頭の馬であった。
その時の観客数は400人を切った。舞台も、当時使っていた生の楽隊
とのタイミングの問題など、課題が残った。それでも、とにかく、終わっ
た。私たちは不覚にも、打ち上げの席で二人して泣いてしまった。その場
にいた人たちには不可解であっただろう。何を泣くことがあろうかと。人
は疲れが限界を超えると、涙がでるのだということを初めて知った。私た
ちは、打ち上げを終え二人きりになると、一言も喋らなかった。言葉は翌
日の昼すぎまで出なかった。
正直に言うと、私たちは何度「もう止めよう」と思ったことか。それが、
この会報がでる頃には第9回自主公演も終え、春には活動6年目を迎えよ
うとしている。そこが人間の不思議さで、時として自分の意志とは裏腹に、
なぜかもわからず、どこへ行くかも知らぬまま、足を前に出していること
があるのだ。
私は、活動当初から随分長い間「毎年のように京劇団は来日するし、本
場の俳優たちが豪華な舞台を見せてくれれば、それでいいのではないか」
と自問しつつ、自分たちの存在意義を探していた。興業的に不安定なのは
もちろんである。限られたメンバーで、毎回の演目を準備するのは一苦労
だ。各俳優にとっても、日本で自分の生活基盤を維持しつつ京劇を演じる
のは、大変なことである。万が一のケガも心配だ。なぜ、何のために、や
るのか?
理由の一つには、俳優達が皆京劇が好きだから、と言うことができる。
ある人はストレートに、ある人はかなり屈折して、それでも確かに京劇を
5
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げたい、と強く思った。
何とか続けているうちに、活動自体成長しつつある。興業面の不安は、
こちらの腹がすわると大きな問題ではなくなり、実際、現在では毎回ある
程度のお客さんは確保できつつある。また、日本にいる京劇俳優たちは、
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愛しているのだと感じる。劇団のビデオの中で、ある女優さんは、「あなた
にとって京劇とは」と訊ねられ、しばらく日本語を考えてから「私の命の
半分」と答えた。そこまで言い切れるものを、あなたは持っていますか、と
私は自分を含めた日本人に訊ねたい。彼らの活動の場をもっと増やしてあ
自分の芝居の幅を広げている。張が「覇王別姫」で女形を演じた時もそう
なのだが、京劇の真髄を少しでも感じた者は、本来の専門とは全く別の役
柄の中でも、要点を掴み、その役を自分のものにすることが可能になる。
女形の演技について研究を重ね、実際に上演した経験は、中国にいたら絶
対にあり得なかったことだ。他の俳優たちもおそらく全員が、こうした研
6
究を経て、専門外の役や習ったこともない役に取り組んだ経験を持つこと
と思う。
また私は、-人の日本人として彼らの存在意義を、こう考える。豊かな
森とは、様々な生物が共存しうるものだと思うのだが、これは国でも同様
で、日本に様々な国の人、様々な文化が共存し、刺激し合うというのは、何
と豊かなことであろう。彼らが日本にいること、彼らの国が長い間かけて
養ってきた文化を披露してくれること、その活動を支える人がいて、観に
くる人がいる、これらは全て豊かさの証である。豊かとは経済的な意味だ
けでなく、限られたお金や時間を捻出して、活動を手伝う、観にくる、そ
の気持ちが豊かということである。日本語を習得した彼らと我々は言葉が
通じ合う。そのうち、彼らと友達や、家族になる日本人も現れる。こうし
た混沌とした存在のしかたが、私には嬉しくてならない。日本にもっと
様々な国の人の、沢山の活動体がいればいいのにと思う。
もちろん、そうした活動は大変である。東京京劇団も、ほんの小さな活
動に過ぎない。脆い存在である。しかし、まだまだ続いている。我々と共
に歩んでくれる人が一人でも増えることを願いつつ。
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※右のイラストは、東京
京劇団が1998年夏に
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演劇祭に参加した際、現
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れたものです。
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中国芸能通信第37号
桐朋学園大学の俳優座寄贈図書-千田是也と中国演劇
伊藤緯彦
桐朋学園大学短期大学部に芸術科演劇専攻が開学したのは、1966年
(昭和41年)4月であった。「俳優座寄贈図書リスト』にある図書が短大
図書館に寄贈されたのは、そのときのことである。これらは、俳優座研究
所や千田是也の蔵書であったもので、短大設置基準として必要な図書の一
部となった。
この演劇専攻が桐朋短大に設置されたのは以下のような理由による。劇
団・俳優座の運営について千田たちの進め方とは別な考えを持つ幹部たち
があらわれた。快適な稽古場をつくるために研究所や養成所を閉鎖すると
いうのであるd千田は彼らの無茶な提案をおさえることができず、養成所
だけでも残すことはできないものかと考えた。千田は安部公房(芥川賞作
家)に相談した。
ひとり娘がilIii朋に在学していた縁で安部は講演などを頼まれたりしてい
て、校長(理事)・生江義男を知っていた。そして、生江が将来は綜合芸術
大学の構想を持っていることを聞いていた。そこで、安部は桐朋に当たっ
てみたらどうかといった。このようなことから芸術科構想が進められ、担
当者の熱意で幾多の難問題が克服され、短大演劇コースは文部省の認可と
なった。
ところで、中国の演劇資料を俳優座や千田が蔵していたことは、俳優座、
千田と中国とのあいだに早くから交流があったからである。
その最初は、1954年(昭和29)9月に、俳優・岸輝子(千田是也
夫人)が全国婦女連合会の招きで建国五周年の国慶節に参加した、日本婦
人代表団(団長・神近市子衆議院議員)の一員として訪中したことであっ
た。代表団は各地をめぐり、土地改革や農地の集団化、工業建設、教育福
祉、婦人の地位向上などの問題の説明を聞いたり座談会をもったりした。
その忙しいスケジュールをぬいながら、岸は芝居や映画を観、演劇人たち
と話す機会を積極的にもった。
岸がもち帰った資料は俳優座のスタッフが翻訳した。『梁山伯と祝英台」
のカラー・フィルムは日中友好協会、東京華僑協会、朝日新聞社、コロン
ビア映画の協力で日本語のスーパーインポーズをいれ、都内をはじめ六大
都市で公開ざれ多数の観客を動員し賞賛を得た。
1955年(昭和30)、俳優座の提唱により新劇諸団体、人形劇団、日
中翻訳出版懇話会などをメンバーとする日中演劇懇話会が結成された。こ
の会は日中演劇交流の窓口となり、中国演劇の情勢報告、上演、翻訳の際
の意見交換、演劇資料の交換、中国演劇の認識を深めるための研究会を
もった。そして、ひろく歌舞伎、新派、新国劇の人たちや職場演劇サーク
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鷲
鵜
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ルにも門扉を開いた。
この活動をしていた11月に、千田は憲法擁護国民連合(護憲連合)か
ら誘いをうけ、護憲連合代表団(団長・片山哲元首相、副団長・藤田藤太
郎総評議長)の一員として訪中した。このとき、日中文化交流協定ともい
漁
料!
匹珂初.叩卑訓》可守
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うべき広範囲な文化交流に関する申し合わせの調印に参加した。
護憲連合代表団の本隊は帰国したが千田は翌年の初めまで残り、毎日の
ように芝居を観たり各劇団の稽古場や演劇学校を訪ねたり、演劇人から話
を聞いたりした。
このときの中国演劇についての報告を、ほぼ一年がかりで雑誌や新聞に
発表した。それを、『新劇」(1956年4,5,7,9、10月号・白水
社)掲載の訪問先や報告に限ってみると、以下の通りである。
中国青年芸術劇院、北京人民芸術劇院、上海人民芸術劇院、天津人民芸
術劇院、遼寧省人民芸術劇院、中央戯劇学院、中央戯劇学院華東分院、中
国戯曲実験学校、中国におけるスタニスラフスキー・システム、中国新劇
団の現状、中国の話劇団の稽古、中国の演劇教育など。
1956年(昭和31)、千田は日中文化交流協定の趣旨に従い、文化交
流の促進や仲介機関としての日中文化交流協会(会長・片山哲、理事長・
中島健蔵)の創立に参加し常任理事となった。5月に朝日新聞社が招く中
国訪日京劇団(団長・梅蘭芳、副団長・欧陽子債、馬少波、劉佳、孫平化)
の受けいれには、歓迎委員の一員として下働きをしている。
その年の8月には、原水爆禁止世界大会(於長崎)に中国代表団の一員
として出席した曹禺(北京人民芸術院長)と、日中文化交流協会主催のも
とに新劇関係の劇作家、演出家、評論家、中国演劇研究家との座談会、文
学界代表との懇談会を開催している。
翌1957年(昭和32)8月には、中国の子供向き絵本「巧娼婦」を
,篇
もとにした童話劇「りこうなお嫁さん」を上演する。これは千田が書いた
唯一の脚本である。
さらに、1958年(昭和33)9月には、訪中美術家代表団(団長・
中川一政)の副団長として訪中。このとき、日本の新劇合同公演が予定さ
れていた『関漢卿」の作者・田漢と打ちあわせをし、資料をあつめている。
これをうけて、1959年(昭和34)1月~2月、第四回新劇合同公
演において「関漢卿」の演出をする。
つづいて、1960年(昭和35)9月~11月には、第一次訪中日本
新劇団(団長・村山知義)の副団長となる。この時、「死んだ海」(作・村
山知義)、「女の一生」(作・森本薫)、「夕鶴」(作・木下順二)、『石の語る
日」(作・安部公房)、シュプレヒコール「安保阻止のたたかいの記録」、「三
池炭鉱」、「沖縄」が上演された。一方、中国側からは「解放前後の中国話
劇運動」(陽翰笙)、「中国演劇の当面の課題」(呉雪)、「国民党の反共政治
下の上海話劇運動」(呂復)の話や、越劇の名女優衰雪芥から解放前の職業
!
;
中国芸能通信第37号
的民族伝統劇団の親方たちの搾取や虐待、国民党暴力団による反共劇の強
要についての体験などを聞いたりした。
1962年(昭和37)10月~11月、中国演劇家代表団(団長・朱
光、団員・陳白塵、魚菊隠、張瑞芳、崔太山)来日の歓迎委員長となる。
以上、とりあげてきた俳優座、千田と中国演劇との交流は、桐朋短大演
劇専攻の設置作業が始まろうとするころまでの交流である。ときに、日本
政府の中国敵視政策による関係悪化などがあるが、千田は日中友好の基本
姿勢をくずさず、交流の実績を積み上げていった。それがあるのか、19
81年(昭和56)4月には、杉村春子とともに中国演劇家協会の名誉会
員に推されている。これと同じ月に、第三次訪中日本新劇団の団長として、
「華岡清州の妻」(作・有吉佐和子)、「プンナよ木から下りてこい」(作・水
上勉)をもって訪中している。
[参考図警]
○「桐替一桐朋学園大学短期大学部二十周年記念誌」・記念誌編集委員会・
桐朋短大・1987年6月
○「あらすじ」千田是也・「未来」6月号・未来社・1980年
○『戦後日中関係五十年史」島田政雄・田家農・東方書店・1997年9
月
○「千田是也演劇論築」第3巻・未来社・1985年8月
○「千田是也演劇論集」第9巻・未来社・1992年7月
桐朋短大図書館に蔵せられている中国演劇図書の由来を書くため、上記
の参考図響の文章をそのまま写したり、要約したりして内容をまとめるこ
とにした。その点で、作者の趣旨を誤りなく伝えられているかが心配であ
る。
千田是也は、大変多くの中国演劇についての報告を新聞や雑誌に発表し
ている。それを「千田是也演劇論集」第10巻にまとめて載せることを当
初計画されていたが、計画変更となり実現きれずに終わっている。
「千田是也演劇論集」第3巻、「解説的追想」に書いている。「全くの偶然
だが、建国後6年目のこの最初の訪中のあと私は、いわゆる《大躍進>の
時期にあたる58年10月と、それに対する批判が始まった60年の秋と、
例の四人組による〈文化革命》の最盛期ともいうべき74年の暮れと、そ
の四人組が斥けられ、<現代化>による中国の再建が軌道に乗りはじめた8
1年春と、四つの重大な転換期の中国演劇に触れることができたわけであ
る。それらをひとつの巻にまとめ、比べあわせることで、何かが出てくる
のではないかと思って、その巻を編む日を楽しみにしている。」
これだけの中国演劇の報告を、一編にまとめられていないのは誠に残念
である。
※会員宛に配布きせていただいた目録と閲覧許可証は、桐朋学園大学のご厚意、お
よび執鉦者の伊藤緯彦氏のご尽力により、ご提供いただいたものです。ここに、厚
く御礼申し上げます。(編集委員会)
連載張君秋(16)
安志強・謝紅雲著堀内干害訳
第四章二北京市京劇三団
北京京劇三団は人員が優れ、陣容が整ってきた。張君秋は団長と主演を
兼ねていた。主要な役者には陳少繰(生)、劉雪祷(小生)、李四広(丑)、
翼韻蘭(武旦)、朱金琴(生)、取世華(老旦)、鉦栄亮(丑)等がおり、団
10
全体で六十人だった。
一九五三年から一九五六年まで、君秋の主な力は伝統演目の技術的向上
を進める仕事の上に使われた。いかに伝統演目の芸を向上させるか?君秋
はふたつの主張を持っていた。-つは伝統を尊重し、時代をつかむことで
ある。まず彼は伝統芸、特に長い舞台実践を経て、何代もの芸術家が踏襲
し、演じてきた優秀な伝統演目は、どれも厚い観衆の基盤を持った優れた
作品であると考えていた。その独自の優れた点を必ず把握し、熟練しなけ
ればならない。その独自の優れた芸術価値を無視し、安易にとりあげて手
を入れれば、それは容易に変質し、向上させることが出来ないばかりか、
却って芸の水準を下げ、多くの観衆も認めないのだ。それゆえ伝統の舞台
芸術を尊重し学ぶことは極めて重要である。彼はしょっちゅう、ユーモラ
スに《打面紅》(1)の中の師を持ち出してこう比瞼する。この師のように、
訴状を読んで、知らない字はすぐに破ってしまうなんてことはできない。
いわゆる“観衆を尊重し、時代をつかむ''とは、発展的な考え方で芸の創
造を取り扱うということである。君秋は、芝居は観衆に見せるものであり、
また観衆の好みは時代の発展にともなって断えず変化していると考えた。
歴代の芸術家は、そのため高い芸術的成果と芸術的影響力を持ち、終始自
分の舞台技術を観衆の前に出して検査するよう心がけたのだ。観衆の検査
のなかで自分の芸を改め、観客の要求を満足させるものにし、彼らに最大
の芸術的享受を受けさせた6君秋は伝統演目に手を加えていくなかで、い
つも以上ふたつの基本原則を持っていた。この二つの原則に基づいて、君
秋は伝統演目の芸術的改変について、主に以下のようないくつかの方面の
成果をあげた。
その一つは、脚本の構成のまとまりである。伝統演目は普通いたずらに
長く、だらだらとして、繰り返すという欠点があり、芝居のあいだが多く、
重複することが多いと君秋は思った。彼はこれについて具体的な比嶮をし
てこう言っている。たとえば-人の人が別の-人に手紙を出すとき、手紙
を書きおえたら、封筒に切手を貼って中に入れる。それを郵便配達人が受
け取り、郵便局で仕分けの手続きを経ると、ようやく最後に別の一人の手
中に送り届けられる。この過程に観衆は興味を感じない。-人が手紙を書
き、一人が手紙を読むということを表現しさえすれば、観衆には一目瞭然
中国芸能通信第37号
なのだ゜伝統演目には往々にしてこの種の過程に類似した重複がある。こ
の重複はストーリーの展開を幾重にも阻害し、観衆の気力を分散させてし
まう。このような状況の形勢について、君秋は「京劇流派芸術の敬称と発
展の問題について」(「戯曲芸術」創刊号)の一文のなかで、かつてこう指
摘している。
“解放前は、劇場公演であるか、あるいは村の集会での公演(いわゆる
`野台子,)であるかを問わず時間が長く、一晩中演じることすらあったと
記憶している。しかし始めから終わりまで見る観客は非常に稀だった。そ
の当時の観衆は流動性が強く、有閑階級の人間が割合に多かった。誰かが
やって来ると誰かが行ってしまうというような、これら固定していない観
衆に、彼等が芝居を見ているあいだで内容を分からせるために台詞の重複
を嫌わず、また、いたずらに長いとか、繰り返しであるという感覚を観衆
のほうも持たなかった。”
彼は、この長く緩慢なリズムは既に時代の要求に合わなくなっていると
考えた。今の時代のリズムは張りつめ、向上心があり、明快な、生き生き
としたものである。彼は今の観衆の芸術的要求を重視し理解している。
“時間はとても貴重であり、彼らが忙しい中をわざわざ劇場に芝居を見に
行くのは、その中から有益なものを得、芸術上の享受を得たいと思ってい
るのである。芝居に携わる者の一人として絶えず観衆のことを考え、芸術
要求の上で絶えず進歩を求め、より短い時間内で、観衆により多くの芸術
的享受、より多くの有益な物を与えるよう力を尽くすべきである。',
この観点に基づき、君秋は伝統演目を演じるなかで、不必要なつなぎの芝
居を削除することに努め、より多くの筆を主要なストーリーに注ぎ、表現
した。たとえば《春秋配》は、もとは季春発の“吊場”(※前に付けた枕の
芝居)があり、家庭のことを自ら申し述べ、李春発の身の上や行動の成り
行きについて話す。君秋はこの“吊場”を削除した。この“吊場”が後の
ストーリーの発展のなかでまた重複すると考えたからだ。観衆が関心を持
つのはこれらのことではなく、芝居のなかの女主人公美秋連の身の上であ
り、萎秋連が継母に強いられてたきぎを切っている途中、季春発に助けら
れたことを表現しさえすれば全く良いということなのだ。季春発の到来は
大して響く必要がない。また《銀屏公主》では、秦英が鱈太后を誤殺する
表現のあとで、君秋はすぐにクライマックスを“金殿,'の一場に当てて展
開させ、藺妃の問いただしと銀屏公主の長い説明を捨て、芝居のクライ
マックスをさらに集中させて展開をさらに迅速なものにした。君秋はさら
に〈髄鳳呈祥》、《隣香伴》、《金山寺・断橋・雷峰塔》等の芝居のなかでも、
多くの重複を取り去った。彼が演じる伝統劇は基本の上で山場を集中きせ
ることが出来、内容が良く練れていて、彼が自ら言う“より短時間のうち
に観衆により多くの芸術的享受と、より多くの有益なものを与える”とい
う目的に到達している。(待続)
11
注釈
1)《打面紅》・伝統演目。妓女周臘梅が妓楼を嫌った生涯を描いたもの。彼女
は役人に落籍し結婚させてほしいと訴える。県の役人は小役人の張才に決めたが、
張を山東に出張させ、夜張の家に行って臘梅をからかってやろうと計画する。図
らずも部下四人と聲記がすでに張の家に来ており、互いに逃げる。張才もやっと
県の役人の意地の悪さを知って、夜中に家に帰り、瓶に隠れた役人を捕まえる。
中国芸能公演情報
▼北京京劇院京劇三国志Ⅱ
.Aプロ『諸葛亮空域の計」
.Bプロ『関羽の忠義は永遠なり(古城会)」
東京公演6月16日(水)~20日(日):東京芸術劇場中ホール
その他5月下旬から全国を巡演予定、チケットは3月下旬から
お問い合わせは(株)オーロラオーバルまで(O3-5280-1085)
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▼新潮劇院(張春祥一座)京劇公演
演目:「鍾値嫁妹」、「打漁殺家」
出演:張春祥・慮思・段秋端他
客演:張宝華・大酪駝艦
・6月25日(金)~27日(日):両国シアターX(カイ)
お問い合わせは新潮劇院まで(FAX:03-3484-4832)
▼巴蜀芸術団川劇「扇小情」
作・芸術総監督:張中学
「]911斎志異」に取材した111劇の演目で、静岡県にて開催きれる第2回
シアター・オリンピックス参加作品
・4月17日(±)、18日(日)午後4時開演
チケットはシアター・オリンピックスチケットセンターまで
(O54-202-3399)
▼市川猿之助スーパー歌舞伎「新・三国志」
大立ち回り部分を京劇と合作。
4月の新橋演舞場を皮切りに全国巡演予定
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十国裳鮠遡億37号
1999年3月31曰発行
頒価(本体価格)250円
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