渇くことのない水

渇くことのない水
ヨハネによる福音 14
渇くことのない水
4:1-19
サマリアの女とイエスとの対話です。主題は 13,14 節に基づきます。「こ
の水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決
して渇かない。」果たして女は、イエスが与えようとするものに気づくか…
…というサスペンスが、会話全体を流れています。
サマリア人の村落は、現在でも残っています。ユダヤとガリラヤの間の“陸
の孤島”というと大袈裟でしょうが、異文化の博物館のような村として残っ
ているのです。ちょうど日本のアイヌの部落のように、少数民族のコロニー
の形で、シカル(:5)の近くに、今も集落を作っています。現在の住民は
200 人くらいと、参考文献で読んだように記憶します。現地に旅行した人に
聞くと、今はそんなにはいないとも言います。言葉はアラム語とアラビア語
とを使っていると聞きましたが、聖書だけは、彼ら独自の「サマリア聖書」
を使っています。このサマリア聖書は、ヘブライ語である点はユダヤ人の聖
書と同じですが、内容は創世記から申命記までの 5 巻だけから成る巻物で、
イザヤ書や詩篇などは聖書として認めていません。(註の 1,2,3 参照)
サマリア人たちはしかし、エルサレムのユダヤ人たちよりも自分たちの方
が、モーセの律法に忠実で純粋な宗教を保存しているという確信を持ってい
ましたし、今なおもち続けているのです。正統派のユダヤ教徒の側からは、
彼らは異教徒同然、いや異教徒以下に見られ、“犬と同じ”に扱われたもの
でした。9 節の後半に、「ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである」
とありますが、これは、同じ道具や器ものを「一緒に使用しない」という意
味で、という表現が使われています。この女が井戸に持って
来たつるべ等には、ユダヤ人なら絶対に口を付けなかったものです。この物
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語のおもしろい所は、イエスがそういう、サマリア人とユダヤ人という障壁
を全く無視しておられることです。それに、人間の本当の病とか渇きを考え
る人には、そんな愚かな誇りや自己満足にこだわっていられない位の、緊急
を要する別のことがあるということを、この会話は読者に考えさせます。
本講は、このサマリアの女とイエスの対話の前半、女がイエスの見通しの
鋭さに驚嘆するあたりまでです。
1.イエス、サマリアを通って進まれる。 :1-6.
サマリア地区は、ユダヤとガリラヤの中間に位置しますから、サマリアか
らエルサレムへの巡礼などは、大体このサマリア・ルートを使ったそうです。
つまり、ユダヤ人がみんなこの街道を避けたのは、どうやら、本当ではない
ようです。住民の数は、今のように二三百人……ということはなかったでし
ょうが、既にイエスの時代には、サマリア人の集落の数も少なくなり、この
シカルのサマリア人の人口も、知れたものでした。それでも、このシカルと
ゲリジム山に近寄ることは、ユダヤ人にはやはり、タブーだったのです。念
のため、地図に「サマリア」と書いてある地域の全部が不浄と見なされた訳
ではありません。
正統派のユダヤ人、特にファリサイ派は、サマリア経由の高原の道より、
不便なヨルダン渓谷沿いの低い通路に降りて、シカルを避けたものです。海
面下 200 メートルか 300 メートルの、死海に通じる谷間ですから、暑くて、
不快指数も上がったでしょうが、「呪われた不浄の山」に近づくより、地の
底を行くルートの方がましと考えたのです。
1 節から 3 節までは、なぜイエスがユダヤを去ってガリラヤへ退かれたか、
そのいきさつに触れています。理由は、ファリサイ派の威嚇と嫉妬でした。
ヨハネの“悔い改め”運動でさえ我慢ならなかったこの人たちが、イエスの
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周りに、それ以上の人たちが集まるのに耐えられなくなって、圧力を加えて
来たのです。
1.さて、イエスがヨハネより多くの弟子をつくり、バプテスマを授けてお
られるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知
ると、 2.─バプテスマを授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子た
ちである─ 3.ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4.しかし、サマ
リアを通らねばならなかった。 6.それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土
地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6.そこにはヤコブ
の井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられ
た。正午ごろのことである。
当時の旅は、早朝と夕方に歩いて、日中は疲れを休めたものです。ここの
文章で面白いのは、4 節の、イエスは「サマリアを通らねばならなかった」
というところは、“he had to”に当たる強い言葉()が使ってあって、
たまたまお通りになっただけではなく、どうしてもそこをお通りにならねば
ならなかった、という感じに書いてあります。その理由は……、またイエス
の御意図は何だったのか……。
単に、ガリラヤへの道を急いでおられたので近道をお取りになった、とも
取れますが、しかし、そういう事情がなければシカル・ルートは避けて、ヨ
ルダン渓谷のルートをお通りになるのが常だったとは、ちょっと考えられま
せん。主は「わざと進んでこのサマリア人の町を通られた」、つまり、そこ
を通ってサマリア人に接触したいとお考えになった……少なくとも、弟子た
ちの目には、そう映ったのだと思います。
2.サマリアの女との、水についての対話。
:7-15.
サマリア人の食器には唇をつけない、というユダヤ人の習慣に反して、イ
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エスが女に水をお求めになったことから、会話は始まります。すでにイエス
御自身がサマリア人のつるべなど、問題にしていらっしゃらない訳ですが、
その同じ精神は弟子たちにもうつっていて、一行がお昼に食べる物を町へ
―そこの、シカルの町としか考えられませんが―土地のサマリア人から
買おうとして、出掛けていたのです。
7.サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」
と言われた。8.弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9.すると、
サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして
水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは
交際しないからである。 10.イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神
の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれで
あるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに
生きた水を与えたことであろう。」
「生ける水」という古い訳語は文学的な香りがしました。もっとも、この
「生きた水」living water というのは、ヘブライ語でもギリシャ語でも、川
の流れや、涌き水、動いている水を指す慣用句でした。マイム・ハッイーム
~yYIx; ~yIm;
と言っても、イドル・ゾーンと言っても同じですが、
(溜まってよどんだ水ではなく)流れ下る川の水とか、激しく噴出する泉の
水とかをいう熟語だったのです。もちろん、イエスはここで、その「流水」、
「噴泉」のイメージを材料に、一つ次元の高い話をしておられて、人間の深
い渇きを永遠に癒す力、命で潤して一杯にしてしまう霊の力を語られるので
すが、何しろ、お使いになった言葉自体があまりリアルなものですから、女
にはなかなか通じません。本当に涌き水のことかと、初め受け取っていたと
しても不思議はないのです。「この井戸より、もっときれいな、もっと激し
く沸いて出る泉の話か……?」こうして、11 節から、チグハグの問答が続き
ます。
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「お前さん、ヤコブより偉いつもりかえ……」と言っているのは、ヤコブ
を自分たちサマリア人の先祖と思い込んでいるからで、
「ユダヤ人のくせに、
うちの井戸と先祖様にケチをつける気じゃあるまいね。ここのこの井戸の水
よりもきれいな涌き水を、知っているとでも言いなさるのかね」と、そんな
感じで、女は絡むのです。
11.女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いの
です。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12.あなたは、
わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたち
に与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
こう言ってやれば、このユダヤ人、恐縮して失言を取り消すだろうと思っ
たのでしょう。
13.イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14.
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は
その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15.女は言った。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、
その水をください。」
女は丸っきり分からずに言っていると思いますか。「そんな、一回きりで
渇きが癒されるような、便利な水があるのなら……」という次元で話してい
るのか、それとも、イエスが言われた「来世の命に至る水」という言葉から、
何かを感じ取ったのか。「その人の内に新しい泉を作ってしまうのだ」とい
う言葉から、少しは察しがついたのでしょうか。本気でそんなものがあると
は思えないので、言葉を弄んでごまかしている、と取るべきか……。「ここ
にくみに来なくてもいいように」という言葉から考えれば、話はあまり通じ
ていないのでしょう。
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こういう、信仰のことについての話というのは、その人自身の内に深い渇
きがない場合は、こういう低い次元でしか話は進行しませんし、仮にもう一
つ高い次元の、霊的なレベルの事柄と察知できても、そんなことは本気で考
えられないし、第一、実生活とかかわりのない、抽象的な話としてしか聞こ
えないのは、今も同じです。この壁を突き破るには、やはり、自分の姿を見
て、自分の奥底の暗闇に気づく道しかありません。イエスはこの女を“荒療
治”にかけようとなさいます。
3.自己の魂の現実から見たら「命の水」の話は分かるか。 :16-19.
16.イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われる
と、 17.女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言わ
れた。「『夫はいません』とは、まさにその通りだ。 18.あなたには五人の
夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言
ったわけだ。」
現代式には、「五人の男と関係があっただけでなく、今続いているのは、
よその男との不倫ではないか」という響きです。訳文はかなり抑えて、和ら
げてありますが、
(英語の“husband”に当る語ではなく)ドイツ語の“Mann”
と同じで、「男」と「夫」は同じ語です。
19.女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」
イエスの鋭い眼力は、この婦人の過去と現在を、全部見通していました。
イエスは、できれば彼女に気づかせたいのです。自分の中にある、癒しよう
のない渇きと、その源をたどって行くなら「罪と死」に行き当たることを…
…。果たして、女は目が開けるか。この時の彼女の言葉は、読む人によって
は、信仰への一歩前進とも取れるでしょうし、単なる驚きと当惑の叫びとも
取れるでしょう。それは、この後の会話が噛み合って行くのか、ますます食
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い違って行くのか……それも読む人の読み方に、左右されると思います。こ
こでも、ヨハネ福音書の著者は、果たして女が、最終的にはイエスがどなた
であるかを、分かって信じたのか、それとも、ついに悲劇的にすれ違ったの
か―あのニコデモの時と同じように、謎のままにして終わるのです。
「あなたは五人の男を所有したが、いま所有している男はひとの夫である」
という主のお言葉から、この女の人の自堕落な前半生を指摘して、自分で自
分をどうすることもできない罪の女……という面を浮き彫りにする解説書も
あります。少し違った角度から、女に同情的な解説者は、「こうして彼女は、
あらゆる努力をした揚げ句、孤独で、恥に満ち、踏みにじられ、貧しく、愛
もなく立っていた」と見ます。不幸な女性としてです。多分、その両方とも
が真実だったのでしょう。
この人が、弁解できない位すさんだ、堕落した女性であったか、不幸と不
運に弄ばれた孤独な女性であったかは別として、イエスの目には、この人は
もう“サマリア人”でも“ユダヤ人”でもないのです。彼女は一人の罪ある
“人間”として、神が与えようとされる「生きた水」を、「命のエネルギー
を注ぐ神の霊」を受けねば死ぬ者として、イエスの目には映っているのでし
た。「上から生まれなければ」とは、ニコデモに対するお言葉(3:3)でし
たが、まさにそれに気づかねばならない「人間」として、女はイエスと向か
い合っているのです。
人は彼女をどう見ようとも、イエス・キリストは全く同じ憐れみの目でそ
の人を見て、同じように命を与えたいのですが、果たして、それを受け止め
るだけの触れ合いがここで始まったかどうか……。女が、「主よ、あなたは
預言者だとお見受けします」と言うところで、話の前半は終わっています。
ドイツのある注解者は、少し冷たい目でこの女を見て、こうコメントします。
「彼女の発言も罪の告白ではなくて、驚きの表現である。『人の心を見抜く
人だ』、『このよそ者は、すべてを見抜く預言者であるに違いない』と彼女
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は思ったのである」と。
《結 び》
主が言われたいくつかの言葉は、なんでもない普通の日常の言葉でありな
がら、私たちに、人の霊的な現状を垣間見せています。
「生きた水」も、イディオム(慣用句)としては単に、「涌き水」、「流
水」をいう普通の言葉ですが、ここでは死んだ者に命を与えずにはおかない
“神の息吹”(霊)を暗示します。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」
という主のお言葉と、女が言った「また、ここにくみに来なくてもよいよう
に」とは、全く噛み合わないままに、それでも、上から命をいただかないか
ぎり、どんな水を貪り飲んでもまた、激しい渇きに捕らえられる絶望的な霊
の破綻を、よく表わしています。
ヤコブの泉から汲み上げた清水を飲んで、「ああ、生き返った!」と発作
的には満足しても、間もなく、落ち込みの底を低迷して、呪いと苦さが次の
発作まで続くのが、「生きた水」抜きの一時的な癒しです。
しかし、主の言葉は、もし神の賜物が何であるかを見抜いて、ナザレのイ
エスが自分にとってどなたであるかに気づいたら……そしてこの方から、命
の力を受けたら……仮に、苦しい渇きが戻って来た時でも、すでに自分の内
部に「泉が涌き出ている」のに気づきます。イエスのお言葉からそこへ、信
仰の飛躍ができるか……です。
(1985/11/03)
《研究者のための注》
1.サマリア人とユダヤ人との確執については、「ルカによる福音」第 41 講でも触れまし
た。その歴史的背景をたどると、王下 17:24 以下に記された、バビロン等の地から強
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制移住させられた外国人との混血によりヤハヴェ信仰の純粋さが失われたことが、そ
の堕落の原因である─というのが、エルサレムのユダヤ教正統派の評価でした。ゲリ
ジム山の聖所ができたのは、これより 400 年ほど後の B.C.331 年。これに裁可を与え
たのは、ダレイオス3世でした。
2.サマリア人部落の規模について、Britanica の 66 年版は、20 世紀中葉すでに現在のナ
ブルスにあるコロニーが 約 190 人、ほかにテル・アビブに何家族かが住む、と記載し
ています。200 人の「過越」の写真も残っています。
3.本講の約 10 年後、NHK 製作「戒律に生きる―サマリア人 3000 年の祈り」が“地
球に好奇心”のシリーズで放映されました。それによると、現在の人口は 650 人で、
そのうちゲリジム山麓に住むのは 300 人です。現在はイスラム地区の中にあり、イス
ラエル政府からの補助も出ているそうです。
4.「ヤコブの井戸」の呼称には、普通「井戸」を指すが、11,12 節に使われ、
「泉」
を指すが 6 節に使われています。ここでは二つの語は同じものを指し、同義語
として使われているとみてよいでしう。神が与えた水源─そこから水が涌き出ると
いう意味では泉,人間がそれを汲み出す穴として掘った工事がであると
は、Morris の注解の脚注の観察です。キリスト新聞社の「新聖書大事典」には井戸の
断面図が 1395 頁に出ていて、底部は塵埃が堆積して埋もれているが、なお 23 メート
ルの深さを持つと記載されています。
5.イエスは女に、「荒療治」を試みたと言いました。神の前に自分の罪を知ることのみ
が、キリスト信仰の入り口だからです。サマリアの女は果たして、イエスが見させよ
うとなさったものを見たのか? 単にイエスの千里眼に驚いただけなのかは不明です。
NTD のシュルツの言葉を引用して、私自身はいくぶん否定的な見方をしました。
6.「預言者」は、ギリシャ神話やギリシャ悲劇に出るのような「未来の運命
を言い当てる」タイプの宗教家ではなく、神の言葉を預かって語る「神のスポークス
マン」というのが、旧約聖書的な定義です。しかし、当時の一般人の理解としては、
人の内なる思いを見抜き、すべてを言い当てる能力を持つ筈……という俗信も、たと
えばルカ 7:39 のファリサイ派のコメントには現れています。なお、神の言葉を「預
かる」者として、「予言者」でなく、「預言者」という漢字を充てた訳者の知恵に賛
同したこともありましたが、これは、現代中国語の「預」が主として「あらかじめ」
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の意味であることから考えると、思い過ごしかも知れません。
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