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高 苑 科 技 大 學 應 用 外 語 系
專 題 研 究
專題名稱:
(日)
日本の芸者
(中)
日本藝伎
組
員:劉婉茹
まよ
49403242
李湘萍
ももこ 49403284
張玉嫻
みか
49403155
黃怡絢
もえ
49403355
葉雅榕
まさこ 49303612
王謙棻
ひかる 49331118
蕭重貴
あかね 49403526
張簡瑛鵑 シキ
49403100
指導老師:稲垣孝雄
中華民國九十七年十二月
目次
序章 …………………………………………………………………………………………… 1
第 1 章 芸者の歴史と社会
1-1 芸者とは何か …………………………………………………………………………… 2
1-2 芸者の起源 ……………………………………………………………………………… 5
1-3 江戸の芸者 ……………………………………………………………………………… 7
1-4 芸者社会の構造と行事 ………………………………………………………………… 9
まとめ ……………………………………………………………………………………… 21
第 2 章 芸者の朋飾と修行内容
2-1 朋飾 ………………………………………………………………………………………22
2-1-1 舞妓の朋飾 ………………………………………………………………………… 22
2-1-2 舞妓の簪 …………………………………………………………………………… 25
2-1-3 舞妓と芸者の朋飾の比較 ………………………………………………………… 28
2-2 化粧と髪型 …………………………………………………………………………… 30
2-2-1 化粧 ………………………………………………………………………………… 30
2-2-2 髪型 ………………………………………………………………………………… 32
2-3 基本的なマナー ………………………………………………………………………… 35
2-3-1 正座 ………………………………………………………………………………… 35
2-3-2 座敷で座るときの位置 …………………………………………………………… 36
2-3-3 襖の開け方と閉め方のマナー …………………………………………………… 37
2-4 芸能 ……………………………………………………………………………………… 39
2-4-1 日本の踊り ………………………………………………………………………… 39
2-4-2 唄 …………………………………………………………………………………… 42
2-4-3 三味線 ……………………………………………………………………………… 43
2-4-4 鳴り物 ……………………………………………………………………………… 43
2-5 座敷のゲーム …………………………………………………………………………… 45
2-5-1 いろはのいの字 …………………………………………………………………… 45
2-5-2 金毘羅船々 ………………………………………………………………………… 45
2-5-3 野球拳 ……………………………………………………………………………… 45
2-5-4 とらとら …………………………………………………………………………… 46
まとめ …………………………………………………………………………………… 47
第 3 章 芸者業界の変化
3-1 芸者の援助者(旦那)…………………………………………………………………… 48
3-1-1 旦那と水揚げ ……………………………………………………………………… 49
3-2 戦後に芸者が没落した要因 ………………………………………………………… 52
3-2-1 戦後の社会背景 …………………………………………………………………… 52
3-2-2 芸者没落の要因 …………………………………………………………………… 54
3-3 芸者業界の今後の展望 ………………………………………………………………… 55
まとめ ……………………………………………………………………………………… 58
第 4 章 遊女
4-1 遊女 ………………………………………………………………………………………59
4-1-1 起源 ………………………………………………………………………………… 59
4-1-2 江戸時代 遊郭 …………………………………………………………………… 59
4-1-3 江戸時代 遊女の教養と朋装 …………………………………………………… 62
4-1-4 江戸時代の遊女のランクの変化 ………………………………………………… 65
4-2 社会地位と評価 …………………………………………………………………………69
4-3 遊女と芸者の比較 ……………………………………………………………………… 72
まとめ ……………………………………………………………………………………… 75
結論 …………………………………………………………………………………………… 76
参考文献 ……………………………………………………………………………………… 77
序章
問題意識
2006 年に『藝伎回憶錄(Memoirs of a Geisha)
』1(SAYURI)という映画が公開されて以
来「日本の芸者」はいったいどういうものかということが再び注目されてきた。また、多
くの日本人はこの映画の中で芸者が風俗業の娼妓(売春婦)と描かれているのは大きな間
違いだと指摘している。つまり、外国の人々は日本文化を十分に理解していないと、芸者
に対する認識を誤解しやすいといってもよい。こうしてみると、このような大きな反論が
起こったのは必ずある要因が存在していると私たちは考えている。
一般的に言えば、日本の芸者は神秘的で、手が届かないという感じを与えている。実際
には芸者の派手な外見の陰で、それぞれ豊かなストーリーを隠しているはずである。前述
した通りに、
『藝伎回憶錄』が公開された後、日本の各界から様々な批判が出てきた。この
ことを通して、日本の芸者は必ずしも映画の言う通りではないということがわかった。
更に収集した資料から、かつては日本以外の国にも芸者のような人々が存在していたこ
とがわかった。では、なぜ今に至っては、日本だけに芸者が存続しているかということに
も興味がある。よって、日本の芸者について詳しく解明したい。
研究の目的と方法
以上の問題提起に基づき、本研究の目的と方法は以下のようである。
目的は二つある。一つは、古代から今日にいたる日本の芸者の歴史的変容の姿を解き明
かし、その歴史と現状を紹介したうえで、日本の芸者の日本社会における位置付けを明ら
かにすることである。もう一つは、芸者を知り日本の伝統に触れることを通して、日本人
と外国人は異なる視点から芸者を見ていることも理解できる。更に、これらを通して、将
来日本の芸者の存続する可能性があるかどうか、つまり近代的な文化と伝統的な文化の衝
突に直面した際、日本の芸者は依然として存在しつづけるか、ということも推測できる。
総括すると、本研究では、まず芸者の起源から論述する。そして、芸者の朋装や髪型な
どにどんな意味が含まれているかを詳しく検討することと芸者の発展を深く解明するこ
とで、日本では芸者はどのような文化的・社会的な地位を占めているか、すなわち芸者と
日本文化との繋がりには密接な関係があるかどうかを明らかにしたい。
以上のように、本研究では主に「文献分析」というアプローチを用いて、歴史的にみた
日本の芸者の盛衰を考察することにより、芸者と日本文化との繋がりを明らかにし、そし
て将来芸者の進むべき方向を示すものである。
1
アーサー・ゴールデン(Arthur Golden)の小説『SAYURI(Memoirs of a Geisha)
』
(1997 年)を映画化したもの。
1
第 1 章 芸者の歴史と社会
本章では、まず芸者とは何か定義し、その起源について述べて、江戸時代までの歴史を
概観する。次に、現代の芸者社会の構造と行事について述べる。
1-1 芸者とは何か
芸者という言葉について、田中(2007:12)1は以下のように説明している。
日本語では「技能を持つ人」という意味である。
(中略)歴史的には、
「芸者」という
言葉は、さまざまな意味を持っていた。江戸時代においては、外科医や歯科医を含めた
医師たち、儒者や天文学者、神道学者、歌学者は芸者と呼ばれた。さらに、
「武芸者」つ
まり剣術、弓術、馬術、砲術、や槍術、馬の調教、据物切り(試し切り)に長けている
者たちも「芸者」と呼んでいた例もある。
芸能も技能のうちであるから、人形浄瑠璃(文楽)では人形遣いを「役者」と呼び習
わし、語りの大夫を「芸者」と呼んでいた、そしてもうひとつの意味の芸者は、
(劇場で
はなく)座敷の中で芸を聞かせたり見せたりする人々のことであった。本論はこの、今
の芸者につながる、音曲と踊りの専門家、という意味での「芸者」の発生に的を絞りた
い。
このように、
「芸者」という言葉は歴史的にはさまざまな意味を持っているが、本研究で
取り上げる「芸者」は、田中(2007)と同じく、座敷の中で芸を聞かせたり見せたりする
音曲と踊りの専門家という意味の芸者に限定することにする。
また、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』2は以下のように説明し
ている。
芸妓とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす芸者芸子のこと。酒席
に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、江戸時代中期ごろか
ら盛んになった職業の一つである。
次に、芸者の名称について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』3 は
以下のように説明している。
芸妓は、
「芸者(女芸者)
」
、
「芸子」と呼ぶのが古い言いかたであるが、明治以降、
「芸
妓」という呼名もおこなれるようになった(本稿ではこの呼名を用いる)
。芸妓は多くの
場合、
一人前の芸妓と見習とに区別されており、
それぞれの名称が地域によって異なる。
・東京を中心とする関東地方
芸妓を「芸者」
、見習を「半玉(はんぎょく)
」
、
「雛妓(おしゃく)
」などと呼ぶ。
1
田中優子(2007)
『芸者と遊び:日本的サロン文化の盛衰』学習研究社, p.12
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「芸妓」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%80%85 2008.07.21
3
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「芸妓」
2
2
現在ではこの呼名がひろく標準語としても定着している。
・京都、大阪などの関西地方
芸妓を「芸子」
、見習を「舞妓」と呼ぶ。山形、石川などでもこの呼名が行われ
る。
未成年の芸者は「舞妓」と呼ぶ。舞妓という言葉について、
「日本文化いろは事典」1の
ウェブサイト「舞妓・芸妓」の項目は「舞妓とは芸妓になる前の未成年(15 歳から 20 歳
くらいまで)の尐女のことです。
」と書いている。
また、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』2は以下のように説明し
ている。
舞妓は年尐芸妓、芸子(芸妓)の見習い、修行段階の者を指す。古くは『舞子』と書
き、かつては 9~12 歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸
妓に成長していたが、戦後児童福祉法と労働基準法の改正にともない現在は中学卒業後
でないとなれない。通例、半年から 2 年ほどの「仕込み」期間を経た後、1 か月間「見
習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶
屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出
し」が可能となる。
以上のように、芸妓になる前、つまりまだ見習のとき、
「舞妓」と呼ばれていることがわ
かる。
以上の地域・年齢による名称の違いを表にしてまとめると、以下のようになる。
関東地方
見習(未成年)
一人前
はんぎょく
関西地方
おしゃく
まいこ
半 玉 、雛 妓
舞妓
げいしゃ
げいこ
芸者
芸子
芸者には男の芸者もいる。男芸者について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)
』3は以下のように説明している。
幇間(ほうかん。または「たいこ」とも読む)は、宴席やお座敷などの酒席において
主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる男性の
職業をいう。幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)
」
、
「男芸者」などと言い、また敬意を
持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉のお伽衆を務めたと言われる曽呂
利新左衛門を祖とすると伝えられている。呼び名の語源は「太閤(秀吉)を持ち上げる」
というところから転じて「太閤持ち→太鼓持ち」と呼ばれるようになったという説や、
鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。
現在では東京に数名、関西には 1 名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%80%85 2008.07.21
1
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』http://iroha-japan.net/iroha/B07_work/01_maiko.html 2008.03.12
2
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「舞妓」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9E%E5%A6%93 2008.07.21
3
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「幇間」
3
減尐から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を
問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。
このように男芸者も存在するが、以下、本研究で取り扱う芸者は一般的な女性の芸者だ
けに限定し、男芸者については述べない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%87%E9%96%93 2008.10.17
4
1-2 芸者の起源
芸者はいつごろから存在していたのだろうか。現在の芸者に至るまでの変遷について、
小松奊文(2000:262-263)1は以下のように述べている。
《芸者の変遷史》現在の芸者に至るまでに幾つかの変遷の歴史がある。その概略を述
べると、
一、白拍子=平安朝以来の歌・踊り・芸で客を楽しませていた女性たち。芸と酌と売春
を兼ねていた。
二、踊子(前期)=町家の娘が芸事を学んで、武士や富豪の家に招かれて宴会に歌舞や
三味線を以て興を添えていた。
三、娘歌舞伎=慶長・寛永時代の芸者。白拍子と同類。
四、歌比丘尼=歌を芸とする芸者。
五、踊子(中期)=江戸初期の技術、収入ともにプロとしての芸者。戦国時代の殺伐と
した気風の残る江戸初期には、踊子が非常に歓迎されたので、個人的な自慢で芸を
人に見せるのではなく、初めから師匠について学び、祝言や祭事の場合に芸人とし
て人に見せる、
独立の職業が成立した。
やがて料理茶屋へも出入りするようになる。
六、踊子(後期)=踊子が職業として成立すると、従来と異なり、むしろ貧乏人の子女
等が職業として歌や踊りを習い、酒間の斡旋もするようになり、さらに売春もする
ようになる。建前は、未婚・未成年の娘ということなので、娘風の装いをしていた
ので、舞子・娘などとも呼ばれた。
七、芸者=江戸の遊里吉原からこの言葉が使われ始め、田沼時代に完成。年長けた者を
芸者と呼び、そうでない若年の者は半玉、舞子、あるいはお酌と呼ばれ今日に至っ
ている。最初は女芸者と男芸者があったが、男芸者が幇間と呼ばれるようになると、
芸者といえば女のこととなり、廓芸者と町芸者に分かれた。廓芸者が遊女と一線を
画す為に売春は厳禁されたのに対し、町芸者は踊子の伝統を引いて自由だった。
このように、白拍子、踊子(前期)
、娘歌舞伎、歌比丘尼、踊子(中期・後期)
、芸者と
幾つかの変遷があったことがわかる。
また、江戸時代になってからの京都の具体的な芸者の起源について、ウェブサイト『日
本文化いろは事典』の「舞妓・芸妓」の項目2は以下のように説明している。
舞妓・芸妓は、今から約 300 年前の江戸時代、京都の八坂神社のある東山周辺の水茶
屋から始まりました。水茶屋とは神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふる
まった店の事で、その店で働いていた茶汲女〔ちゃくみおんな〕が歌を聞かせ舞を見せ
るようになったのが舞妓・芸妓の始まりです。初めは神社に参詣する人や旅人にお茶や
団子を提供していましたが、いつしか酒や料理が加わり、それを運んでいた娘たちが歌
舞伎芝居を真似て三味線や踊りを披露するようになり、芸妓・舞妓になっていったとい
われています。現在も京都の祇園を中心とした花街で厳しいしきたりの下で活躍してい
1
小松奊文(2000)
「芸者」
『いろの辞典(改訂版)
』文芸社, pp.262-263
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「舞妓・芸妓」http://iroha-japan.net/iroha/B07_work/01_maiko.html
2008.03.12
2
5
ます。
一方、江戸の芸者の具体的な起源について、清水芸妓置屋共同組合のウェブサイト「芸
妓豆知識・芸妓さんとは」1は以下のように説明している。
芸妓の仕事に通じる「芸」をもって座を取り持つという仕事は、古くは平安時代の「白
拍子」
(源 義経が愛した静御前が有名ですね)が元祖だといわれており、時代を経るに
従い、遊女の中から歌舞管弦をもってお客の相手をする踊子が生まれました。 江戸時代
の中期 寛永年間(1760 年)頃、吉原に「扇屋歌扇」という踊子が出たという記録があ
り、酒席にはべって遊芸を披露し、話術巧みに酔客を快適な気分にさせ、三味線にも秀
でていたとされています。この「扇屋歌扇」に触発され、吉原に限らずさまざまな花町
で「歌舞音曲」で座を取り持つ女性たちが現れ、それが現在の「芸妓」に変化し発展し
てきました。文明開化以降、
「花柳界」はますます盛大になり、また、政負界ともつなが
りを持つようになりました。伊藤博文の愛人で有名な「マダム貞奴」
、桂太郎の愛人であ
った「お鯉(新橋)
」など、有名な芸妓さんも輩出し、この時代、芸妓は世の女の子に人
気の職業でした。大正・昭和にわたり、花柳界は隆盛を極めてきましたが、残念なこと
に、現在では、遊びの変化や職業意識の変化に伴い、花柳界は尐々衰退気味となってい
る状況は否めません。
以上のように、芸者の起源については、平安時代の白拍子が踊子などに変遷してきたと
いう説明がある。そして江戸時代になってからの具体的な起源は 2 説があり、主に京都を
中心とする西日本は、京都の八坂神社の水茶屋の「茶汲み女」を起源とし、主に東京を中
心とする東日本は吉原の「扇屋歌扇」を東京(江戸)の芸者の起源と考えているようであ
る。
1
清水芸妓置屋共同組合「芸妓豆知識・芸妓さんとは」
http://www.shimizu-cci.or.jp/seibikai/page/mame/rekisi/m-rekisi.html 2008.05.20
6
1-3 江戸の芸者
江戸時代の参勤交代の政策と江戸の男女人口比率について、茂呂(2003:116)1は以下
のように説明している。
徳川家康は 1603 年に江戸で幕府を創設して、江戸という新都市の建設に専念し、本来
僻地の貧しい田舎だった江戸を経済都市、消費都市として発展させた。他の地方からの
移民を積極的に受け入れるだけでなく、
第 3 代將軍は 1635 年に参勤交代の制度を創設し
た。その結果、全国の各藩の大名は多くの藩士(部下の武士)を率いて、江戸へ単身赴
任することになった。
さらに、
多くの各種商工業に従事する者や神社仏閣に関係する人々
も加わったため、江戸は男性が多くて女性が尐ない都市になった。商人は当然このよう
な人口構成の特徴を見逃さず、京都方面の遊郭も続々と江戸に進出し、繁盛した。
(筆者訳)
このように、江戸は男性が多くて女性が尐ない都市だったため、芸者や遊女など男性を
お客とする商売にビジネスチャンスがあったことがわかる。
江戸の芸者について、陳奮館主人(1989:58)2は以下のように説明している。
江戸の女芸者は、吉原の廓芸者と深川遊里の羽織芸者と、そして中洲あたりの町芸者
の三種類にわけることができる。
吉原の廓芸者について、
「吉原雀」3は以下にように説明している。
吉原に芸者が誕生したのは宝暦年間(1760 年頃)
。吉原に扇屋歌扇(おうぎやかせん)
という踊子が芸者の発祥と言われています。これは芸者の検札を始めてもらった金春芸
者がいた中央区が言っています。元々吉原の遊女は芸事に秀でいた為、芸者は必要なか
ったのです。しかしながら湯屋などとの合併などが在った 1680 年以降から、徐々に遊女
のあり方が変わっていくのです。
元々いた局はいなくなり、
散茶と言われる遊女が増え、
1751 年吉原最後の太夫玉屋花紫を最後に吉原から太夫は消滅してしまうのです。
羽織芸者について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』4のウェブ
サイトは以下のように説明している。
辰巳芸者とは、江戸時代を中心に、江戸の深川(今の東京都深川)で活躍した芸者衆
のこと。深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったことから「辰巳芸者」と呼ばれるが、
羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれる。
「意気」と「張り」を看板にし、
舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」の象徴とたたえられる。
町芸者について、
「散策流儀」5のウェブサイトは以下のように説明している。
1
茂呂美耶(2003)
『江戶日本』遠流出版, p.116
陳奮館主人(1989)
『江戸の芸者』中央公論新社, p.58
3
『吉原雀』
「吉原芸者」http://www.yosiwara.net/cat14/#header 2008.10.05
4
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「辰巳芸者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E8%8A%B8%E8%80%85 2008.10.05
5
『散策流儀』
「日本橋人形町」http://www.hsnet.ne.jp/konomachi/onc_50s/area/84.htm 2008.10.20
2
7
江戸時代からつづく絹や木綿を扱う大店や、様々な業種の老舗が並ぶ人形町は、新た
な芝居小屋や寄席もでき、葭町(よしちょう/芳町とも書く)の花町も繁盛し、東京市
(現在の東京都 23 区)有数の繁華街に発展した。葭町は新橋、柳橋と並ぶ一流の花町で
明治から昭和にかけて隆盛をきわめた。葭町芸者は「粋でおきゃんで芸がたつ」と評判
を呼び、日本の女優第 1 号の貞奴や昭和初期の人気歌手・小唄勝太郎が出たことでも知
られている。
以上見たように、江戸の芸者は吉原の廓芸者と深川の羽織芸者と町芸者に三種類に分け
られることがわかる。
8
1-4 芸者社会の構造と行事
京都の花街について、
「京都通百科事典」1のウェブサイトは、以下のように説明してい
る。
花街はお茶屋や芸妓屋、遊女屋が集まっている区域である。京都には、島原、上七軒、
祗園甲部、祗園東、先斗町、宮川町の六つの花街が存在し、
「六花街」と称されて、京都
文化の一翼を担ってきた。
現在は茶屋営業がなくなった島原を除いて五ヶ所となり、
「五
花街」と呼ばれている。
東京の花街について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』2のウェ
ブサイトは、以下のように説明している。
東京の六花街は新橋(銀座)
、赤坂、神楽坂(新宿)
、芳町、向島、浅草である。東京
の三業地は尾久三業地(荒川区尾久)
、渋谷三業地(渋谷区渋谷)
、大塚三業地(豊島区
南大塚)
、駒込三業地(文京区本駒込)
、大井三業地(品川区南大井)である。
花街の構成について、夏栄(2005:56-57)3は以下のように説明している。
「花街」を存立させていたのは芸妓である。芸妓のいないところに「花街」は成り立
たない。芸妓がどの置屋(および検番)に所属するのか、そして「芸」を披露する場は
どこであるのか。そうした制度の違いが「花街」の風景にさまざまな変奋をもたらす。
具体的な説明に入る前に、ここであらためて芸妓を除いた花街の主たる構成要素(施設
や機関)を列挙してみよう。
① 料理屋=客室を設け、客の注文に応じて料理を出すことを本業とする店。地域
によっては、芸妓を呼んで遊興することを禁じているところもある。
② 待合茶屋=客室を設け、客が芸者を呼んで遊興する店。料理屋に比べれば密室
性が高い。料理は料理屋から取る。
③ 貸席=客室を設け、客が芸者や娼妓を呼んで遊興する店。京阪地方に多く、お
茶屋と呼ばれる。料理は料理屋から取る。
④ 芸妓置屋(芸妓屋)=芸妓を抭えて、求めに応じて料理屋、待合茶屋、貸席、
旅館などに差し向ける店。
⑤ 検番(券番・見番)=置屋と待合茶屋や料理屋とのあいだに介在して、前者か
ら後者へ芸妓の派遣、花(玉)代4の精算などを取り仕切る事務所。
以上見たように、花街の主な構成は料理屋、待合茶屋、貸席、芸者置屋、見番である。
京都で言えば、六花街があり、上七軒、祇園甲部、祇園東、島原、先斗町、宮川町である。
東京も六花街があり、新橋(銀座)
、赤坂、神楽坂(新宿)
、芳町、向島、浅草である。
1
京都通百科事典『京都の伝統文化・伝統芸術』
「京都の花街」http://www.kyototsuu.jp/Tradition/Kagai.html 2008.06.10
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「東京の花街」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A1%97 2008.10.01
3
夏栄(2005)
『神楽坂芸者が教える女の作法』河出書房新社, pp.56-57
4
芸者や娼妓などを呼んで遊ぶための代金。Yahoo!辞書「玉代」
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%8E%89%E4%BB%A3&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1
&index=05346004686200 2008.07.24
2
9
お茶屋と顧客と芸舞妓の関係について、西尾久美子(2007)は下図 1 のように説明し、
図 1 お座敷の成り立ち―お茶屋と顧客と芸舞妓の関係1
「お茶屋のお母さんは、顧客の来店の目的(接待、息抜き、法事等)と好みを考えて、
どの芸舞妓を呼ぶか決める。
」と述べている。つまり、お茶屋(のお母さん)は芸者とお客
の仲介者である。
京都の五花街のお茶屋の件数と芸舞妓の人数について、西尾久美子(2007)は下図 2 の
ように説明し、
図 2 五花街のお茶屋の件数と芸舞妓の人数2
「お茶屋は開業にお茶屋組合の許可が必要だが、置屋は無届で開業できるため正確な数
は不明。宮川町と上七軒はお茶屋のほぼすべてが置屋を兼業、先斗町は置屋が尐なく、祇
1
西尾久美子(2007)
「京都花街から学ぶ人材育成」
(講演資料), p.1
http://www.nakahara-lab.net/blog/20071109learningbar_nishio.pdf 2008.08.01
2
西尾久美子(2007)
「京都花街から学ぶ人材育成」
(講演資料), p.2
http://www.nakahara-lab.net/blog/20071109learningbar_nishio.pdf 2008.08.01
10
園甲部はお茶屋専業率が高い。1930 年(昭和 4)の芸舞妓の人数を現在と比較すると、京
都は 1800 人→280 人、 東京は 7500 人→300 人、大阪は 5300 人→30 人。
(いずれも概数、
1930 年の人数は明田(1994)を基に積算、東京と大阪の現在の人数は、現地調査等からの
推計)
」と述べている。以上から見ると、京都も大阪も東京も芸舞妓の人数が減尐している
ことがわかる。
花街の擬似親子関係と姉妹関係について、西尾久美子(2007)は下図 3 のように説明し、
図 3 花街の擬似親子関係と姉妹関係1
「新人舞妓となった私にとって、自分より一日でも早く芸舞妓になった人は、全てお姉さ
んと呼ぶ。芸舞妓としてデビューする時に杯を酌み交わして姉妹関係を結ぶお姉さんは、
妹の面倒を見る責任があり、最も影響力が強い。この場合の姉(図中の杯の姉)は同じ置
屋所属とは限らない。同じ置屋にお姉さんになれる人がいない場合は、他の置屋の先輩芸
妓と姉妹関係を結ぶ。また、所屬する置屋の経営者(お母さん)とは擬似親子関係を結ぶ。
」
と述べている。つまり、舞妓たちは先輩芸妓をお姉さんと呼んで(同じ置屋所属とは限ら
ない)擬似姉妹関係を結び、所属する置屋の経営者をお母さんと呼んで擬似親子関係を結
ぶことがわかる。
では、以下、花街の具体例として京都の六花街(五花街)の構成や行事を紹介する。京
都の花街を取り上げる理由は、歴史が古くて、行事も多く、現在も機能しているという点、
知名度などで他の地方の花街と比べて際立っているからである。以下、日本語版フリー百
科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』と「京都通百科事典」のウェブサイトを参考にし
て、六花街の歴史についてまとめてみる。
1
西尾久美子(2007)
「京都花街から学ぶ人材育成」
(講演資料), p.2
http://www.nakahara-lab.net/blog/20071109learningbar_nishio.pdf 2008.08.01
11
上七軒(かみしちけん)1
上七軒は京都六花街の中で最古の花街である。室町時代 1444 年(皇紀 2104)文安元
年一部焼失した北野天満宮を十代将軍足利義植が再建させたときに、残った残木で、東
門前の松原に七軒の茶店を建てたのが由来。これが「上七軒」の名前の由来になる。
祇園甲部(ぎおんこうぶ)2
京都で最大の花街。江戸時代初期、八坂神社の門前で営業された水茶屋が由来。江戸
幕府により、花街として公認され、
「つなぎ団子」の紋章が作られる。江戸時代後期、お
茶屋が約 500 軒、芸妓・舞妓も 1000 人以上いたといわれる。
祇園東(ぎおんひがし)3
明治に入り祇園甲部から分離独立し、甲部に対し『祇園乙部』と称された。乙部は主
に娼妓数が多かった。
島原(しまばら)4
正式名称は西新屋敷で六つの町(上ノ町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋
町)で構成されている。島原の歴史は古く、日本で最古の公許遊廊である。昭和時代後
期に衰退し、現在は花街としては数えられなくなった。
先斗町(ぽんとちょう)5
江戸初期、鴨川の周辺を開発しそこに茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりですでに
芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締られていたが川端二条にあった『二条新
地』の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした。
宮川町(みやがわちょう)6
鴨川の四条通の南は、祇園杜(八坂神社)の神輿洗いが行われていたので「宮川」と
称されるようになったといわれる。現在は、祇園甲部に次いで多くの芸舞妓が所属して
いる。
花街の行事は花街によって違う。五花街の行事について、
「京都通百科事典」と「京都最
古の花街上七軒」と「祇園商店街振興組合」と日本語版フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)
』のウェブサイトを参考にして、以下のようにまとめてみる。
1
京都通百科事典『京都の花街』
「上七軒」http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiKamishichiken.html 2008.06.10
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「京の花街」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A1%97 2008.06.10
3
同上
4
同上
5
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「先斗町」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E6%96%97%E7%94%BA 2008.06.10
6
京都通百科事典『京都の花街』
「宮川町」http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiMiyagawacyou.html 2008.06.10
2
12
行事名:始業式1
時期:1 月 7 日(上七軒は 1 月 9 日に行う。
)
行事内容
図 4 宮川町の始業式2
芸舞妓は、第一正装の黒紋付きに、正月の
縁起物の本物の稲穂の簪をつけ「おめでと
うさんどす」
「今年もよろしゅうおたのも
うします」となどと関係者とあいさつ交わ
し、
「芸妓・舞妓の誓い」の一同斉唱などで、
その年の精進を誓う。
行事名:節分3
時期:2 月 2・3 日
行事内容
祇園甲部、宮川町、祇園東が氏子になって
いる八坂神社の節分祭では、厄除・健康・
幸福を祈る神事と芸舞妓さんによる奉紌舞
と豆まきが行われる。
(上七軒は北野天満宮
で行う。
)
図 5 八坂神社での奉紌舞4
行事名:梅花祭(上七軒のみ)5
時期:2 月 25 日
図 6 梅花祭(北野天満宮)6
行事内容
2 月 25 日は北野天満宮の祭神、菅原道真の
命日にあたる。道真が梅を愛でたという故
事にちなみ、梅花を挿した「香立て」を供
える。この日は上七軒の芸妓さんがお手前、
舞妓さんがお運びを担当して華やかな野点
茶会も行われ、梅の咲き誇る境内は華やか
な雰囲気につつまれる。
1
2
3
4
5
6
京都通百科事典『京都の花街』
「始業式」http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiShigyoushiki.html 2008.06.10
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「始業式」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/01_shinsyun_01.htm 2008.08.01
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「節分」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/01_shinsyun_04.htm 2008.08.01
同上
「京都最古の花街上七軒」http://www.kamishichiken.jp/top_j.htm 2008.06.30
同上
13
行事名:大石忌(祇園甲部のみ)1
時期:3 月 20 日
図 7 大石忌(一力亭)2
行事内容
大石忌は四条花見小路の角にあるお茶屋
「一力亭」で行われる行事である。大石内
蔵助の命日、3 月 20 日「一力亭」の仏壇に
は討ち入りそばや大石の好んだものが供え
られる。馴染みのお客さんだけを招いて、
「深き心」を井上八千代師が舞い、芸舞妓 3
人が地唄「宿の栄」を舞う。芸舞妓さんた
ちにより抹茶や手打ちそばも振るまわれ
る。
行事名:都をどり(祇園甲部のみ)3
時期:4 月 1~30 日
行事内容
図 8 都をどり(祇園甲部歌舞練場)4
都をどりは祇園甲部の芸妓・舞妓さんが日
頃のお稽古の成果を披露する祭典で、国内
のみならず海外でもチェリーダンスとして
知られている。つなぎ団子の提灯の下、
「都
をどりはぁ~、よ~いやさ~」の掛け声で
始まる幕開けは、明治 5 年に開催された京
都博覧会の付博覧として始まった第 1 回公
演から今まで変わらずに続いている。
行事名:北野をどり(上七軒のみ)5
時期:4 月 15~25 日
図 9 北野をどり(上七軒歌舞練場)6
行事内容
昭和 27 年(1952)
、北野天満宮の 1050 年大
万燈会の際に芸を奉紌したことにはじま
る。演劇的な要素を多分に持ついわゆる舞
踊劇を特徴としてきたが、近年は舞踊劇以
外の新たな試みも見られる。舞の流派は花
柳流である。織物で知られる西陣に近いこ
とから、衣装も観客の注目の的である。
1
2
3
4
5
6
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「大石忌」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/02_haru_01.htm 2008.08.01
同上
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「都をどり」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/02_haru_02.htm 2008.08.01
同上
「京都最古の花街上七軒」http://www.kamishichiken.jp/top_j.htm 2008.06.30
同上
14
行事名:京おどり(宮川町のみ)1
時期:4 月第 1 土曜日~第 3 日曜日
図 10 京おどり(宮川町歌舞練場)2
行事内容
宮川町歌舞練場で開催する。観客に楽しん
でもらうことをモットーに、若柳流の家元
が振り付けを担当していて、毎年趣向を凝
らした舞台になる。全体は七景に分かれて
いて、最後のしめくくりとなる第七景は「宮
川音頭」の総踊りとなり、舞台が華やかな
空気に包まれる。
行事名:鴨川をどり(先斗町のみ)3
時期:5 月 1~24 日
図 11 鴨川をどり(先斗町歌舞練場)4
行事内容
先斗町歌舞練場で上演される。京の花街の
中で最も上演回数の多いことで有名。1872
年(明治 5 年)
、博覧会の余興として都をど
りと共に上演され、以来上演回数を重ねて
いる。鴨川をどりは総踊形式の都をどりに
対し第一部が舞踊劇、第二部が舞妓らの出
演による舞踊ショーの二部構成で人々の目
を楽しませている。
行事名:都の賑わい5
時期:6 月第二金土日曜日
図 12 都の賑わい(京都会館)6
行事内容
五花街の合同伝統芸能特別公演で、平成 6
年から毎年行われていて、各花街の芸舞妓
が一同に揃い、それぞれ趣向を凝らした演
目で芸を披露する。
1
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「京おどり」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/02_haru_03.htm 2008.08.01
同上
3
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「鴨川をどり」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D%E3%82%92%E3%81%A9%E3%82%8A 2008.08.06
4
『先斗町歌舞練場』
「鴨川をどり」http://www1.odn.ne.jp/~adw58490/index.htm 2008.08.15
5
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「都の賑わい」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_01.htm 2008.08.01
6
同上
2
15
行事名:祇園祭(祇園甲部と祇園東のみ)1
時期:7 月 1 日~8 月 31 日
図 13 祇園祭宵宮神賑奉紌2
行事内容
祇園祭は、日本各地の祇園社と呼ばれる神
社に対して行われる祭り。京都の祇園祭は、
八坂神社と綾戸国中神社とが合同で行われ
る。7 月の1ヶ月間を通じて行われる長い祭
りで、とくに山鉾巡行や宵山が有名。宵山
は、
「屏風祭」とも称される。
行事名:みやび会(祇園甲部のみ)3
時期:7 月初旬
図 14 みやび会(八坂神社)4
行事内容
祇園甲部では毎年新調する揃いの浴衣を着
た芸舞妓さんが、師匠の井上八千代師とと
もに八坂神社にお詣りし、芸の上達や健康
を祈願する。
行事名:花笠巡行5
時期:7 月 24 日
図 15 花笠巡行(祇園甲部の山車)6
行事内容
花笠巡行は祇園祭の後祭として 7 月 24 日に
催され、山鉾の古い形態を再現するために
始められた。祇園囃子の曳山や傘鉾などの
総勢千人の行列が、八坂神社の石段下~四
条河原町~御池通~寺町通~四条通~八坂
神社へと、京の街を練り歩く。各花街の芸
妓・舞妓さんも、踊り衣裳に身を包み、山
車に乗って華やかに行列に参加する。
1
京都通百科事典『京都の祭と年中行事』
「祇園祭」http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/MatsuriGionMatsuri.html
2008.06.10
2
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「祇園祭宵宮神賑奉紌」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_05.htm
2008.08.01
3
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「みやび会」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_02.htm 2008.08.01
4
同上
5
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「花笠巡行」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_03.htm 2008.08.01
6
同上
16
行事名:花笠巡行奉紌舞1
時期:7 月 24 日
図 16 花笠巡行奉紌舞(宮川町の奉紌舞)2
行事内容
花笠巡業で京の街を練り歩き、八坂神社へ
と帰ってきた芸舞妓さんたちは、その後八
坂神社の舞殿で、
「花笠巡行奉紌舞」を舞
う。年によって担当の花街が変わる。
行事名:八朔3
時期:8 月 1 日
図 17 八朔(祇園新橋)4
行事内容
朔日というのは 1 日のことで、八朔は 8 月 1
日のことをいう。もともとこの八朔は「た
のむ」とか、
「たのみ節」などといい、頼む
人、お世話になった人へお礼をする日のこ
とをいう。芸舞妓さんたちが絽の黒紋付き
という正装で、師匠宅やお茶屋などへ挨拶
回りをする。
行事名:寿会(上七軒のみ)5
時期:10 月上旬
図 18 寿会6
行事内容
上七軒の芸舞妓さんたちの秋の舞の発表会
である。春の北野をどりとは違い、上方唄
や長唄など伝統ある古典を中心に、味わい
深い幻想的な舞が披露される。
1
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「花笠巡行奉紌舞」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_04.htm
2008.08.01
2
同上
3
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「八朔」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/03_natsu_06.htm 2008.08.01
4
同上
5
「京都最古の花街上七軒」http://www.kamishichiken.jp/top_j.htm 2008.06.30
6
同上
17
行事名:時代祭1
時期:10 月 22 日
図 19 時代祭(御所)2
行事内容
時代祭は京都三大祭りのうちの一つであ
る。京都御所を出発して平安神宮まで、明
治から平安時代にいたるまでの時代の衣装
を着て、歴史上の人物に扮した行列が続く。
芸舞妓さんも紫式部、清尐紌言、小野小町、
静御前、巴御前などに扮装して参加する。
行事名:温習会(祇園甲部のみ)3
時期:11 月 1~6 日
図 20 温習会(祇園甲部歌舞練場)4
行事内容
日ごろ京舞井上流の研鑽に励んでいる祇園
甲部の芸舞妓さんたちが、技芸を披露する
行事が温習会である。春の華やかな「都を
どり」と違って、温習会は舞に目のこえた
通の人が多く集まるので、しっとりとした
京舞の芸を発表するのと同時に競う場とな
る。
行事名:かにかくに祭(祇園甲部のみ)5
時期:11 月 8 日
図 21 かにかくに祭(吉井勇碑の前)6
行事内容
祇園の白川畔に立つ祗園歌人吉井勇の歌碑
の前で芸舞妓たちの献花やお点前の披露が
行われる。1955 年(昭和 30 年)11 月 8 日、
吉井勇の古希(70 歳)を祝って谷崎潤一郎
らによって歌碑が立てられ、催しが行われ
たのが始まり。
「かにかくに祭」の名称は、
歌碑「かにかくに祗園はこひし寝る時も枕
の下を水がながるる」による。
1
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「時代祭」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/04_aki_04.htm 2008.08.01
同上
3
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「温習会」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/04_aki_01.htm 2008.08.01
4
同上
5
京都通百科事典『京都の祭と年中行事』
「かにかくに祭」http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/EventKanikakuniSai.html
2008.06.10
6
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「かにかくに祭」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/04_aki_03.htm 2008.08.01
2
18
行事名:顔見世総見1
時期:12 月初旬
行事内容
図 22 顔見世総見(南座の桟敷席)2
京の師走の風物詩「顔見世興行」は、出雲
の阿国が始めた歌舞伎の発祥地であった南
座で、東西の人気役者を集めて行われる。
この歌舞伎興行の間、各花街の芸舞妓さん
たちが揃って観劇することを「顔見世総見」
という。
行事名:献茶祭(上七軒のみ)3
時期:12 月 1 日
図 23 献茶祭4
行事内容
天正 15 年(1587 年)10 月 1 日、豊臣秀吉
公が北野天満官御神前にて自ら点茶し奉
献、千利休らをして北野松原にて催した「北
野大茶湯」の縁により、毎年 12 月 1 日に献
茶祭が行なわれる。上七軒の歌舞練場にも
副席が設けられ、黒紋付、色紋付で正装し
た芸舞妓さんが立て札でお茶をたてる。
行事名:事始め5
時期:12 月 13 日
図 24 事始め6
行事内容
事始めは、花街や室町・西陣の旧家などで、
12 月 13 日を 1 年の区切りとして、この日か
ら正月を迎える準備を始めること。1 年の感
謝をこめて本家や得意先などへの挨拶回り
をする。芸舞妓たちは「今年もよろしゅう
おたのもうします」と家元に挨拶をし、ご
祝儀の舞扇を受けて精進を誓う。
1
2
3
4
5
6
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「顔見世総見」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/05_fuyu_01.htm 2008.08.01
同上
「京都最古の花街上七軒」http://www.kamishichiken.jp/top_j.htm 2008.06.30
同上
『京都通百科事典』
「事始め」http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiKotohajime.html 2008.06.10
「京都最古の花街上七軒」http://www.kamishichiken.jp/top_j.htm 2008.06.30
19
行事名:おことうさん1
時期:12 月 31 日
図 25 おことうさん(花見小路)2
行事内容
暮もおしせまった 12 月 30 日は舞妓さんの
仕事おさめである。翌大晦日の 31 日は、お
世話になっているお茶屋さんを廻って「お
ことうさんどす(お事多うさんです)
」と挨
拶する。ご褒美にいただく餅皮でできた紅
白の福玉は、元旦のお雑煮をいただく前に
割るもので、中には七福神などの縁起物や、
身の回りの小物が入っている。
以上見たように、花街の行事は花街によって違うが、京都の場合は京都三大祭など有名
な観光行事とも密接な関係にあり、その地域の観光行事や年中行事と関係が深いことがわ
かる。
1
2
祇園商店街振興組合『おこしやす祗園』
「おことうさん」http://www.gion.or.jp/gion/maiko/05_fuyu_03.htm 2008.08.01
同上
20
まとめ:
第 1 節では芸者という言葉について述べた。一人前の芸妓と見習とに区別されており、
それぞれの名称が地域によって異なる。
第 2 節では芸者の起源について述べた。平安時代の白拍子が踊子などに変遷してきたと
いう説明がある。そして江戸時代になってからの具体的な起源は 2 説があり、主に京都を
中心とする西日本は、京都の八坂神社の水茶屋の「茶汲み女」を起源とし、主に東京を中
心とする東日本は吉原の「扇屋歌扇」を東京(江戸)の芸者の起源と考えているようであ
る。
第 3 節では江戸の芸者について述べた。江戸は男性が多くて女性が尐ない都市だったた
め、芸者や遊女の需要があった。江戸の芸者は吉原の廓芸者と深川の羽織芸者と町芸者に
三種類に分けられる。
第 4 節では芸者社会の構造と行事について述べた。
花街の主な構成は料理屋、
待合茶屋、
貸席、芸者置屋、見番である。京都、東京、それぞれ六花街がある。また、花街の行事は
花街によって違うが、
京都の場合は京都三大祭など有名な観光行事とも密接な関係にあり、
その地域の観光行事や年中行事と関係が深い。
21
第 2 章 芸者の服飾と修行内容
芸者はどのような伝統的な日本文化を継承しているのだろうか。本章では、まず芸者の
朋飾について述べ、若い舞妓と芸者ではどのように違うのか比較する。次に、芸者は舞妓
の段階からどのようなことを習うのか、その修行内容を見る。
2-1 舞妓の服飾と装飾品
2-1-1 舞妓の服飾
舞妓の着物について、
「変身処案内 ANIMATO」1のウェブサイトは、以下のように説明
している。
舞妓さんの着物は、私たちが着る振り袖とはいろいろと異なるところがあります。特
徴的なのはまず裾の長さですね。長く裾を引き、歩くときにちょっと褄をとるのがまた
ステキ(このときは必ず左手で)
。遠出をするときなどは裾を上げてしばってしまうよう
図 1 左褄2
ですね。
このように、舞妓の着物は裾が長いという特徴があり、歩くときには
左手で尐し持ち上げることがわかる。また、歩くときに左手で褄(裾の
端)を上げることを「左褄を取る」と言う。これについて、相原恭子(2007:
166)3は、以下のように説明している。
左手で褄を取ると、着物と長襦袢の合わせ目が反対側になるため、
着物の合わせ目から男性の手が入りにくくなる。ちなみに、娼妓は右
手で褄を取るのである。左褄を取るとは、芸は売っても体は売りませ
んよということを暗示しているという。
このように、舞妓が歩くとき左手で褄を取るのは、娼妓と違って芸は
売っても体は売らないことを暗示していることがわかる。
また、舞妓の着物と季節の関係について、
「変身処案内 ANIMATO」4のウェブサイトは、
以下のように説明している。
舞妓さんの衣装も、
その季節によって微妙に変わっていきます。
着物や帯の素材や柄、
かんざしや小物、それらに上手く季節感を取り入れているのがまたおしゃれなのです。
以下、舞妓の春、夏、秋、冬の代表的な着物について、
「変身処案内 ANIMATO」5のウ
ェブサイトを参考にして、まとめてみた。
1
変身処案内 ANIMATO『変身向上委員会』
「朋飾文化講座‐舞妓編」
「舞妓さんの着物」
http://animato0.hp.infoseek.co.jp/kojo/bunka2/bunka_s2_1.html 2008.09.28
2
モチメ「平成の花魁道中」http://mochime.jugem.cc/?cid=8 2008.10.05
3
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.166
4
変身処案内 ANIMATO『コラム』
「季節を楽しもう」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/column/kisetu.html 2008.10.16
5
同上
22
図 2 春:桜1
図 3 夏:薄着になるように2
図 4 秋:紅葉3
図 5 冬:お正月4
次に、舞妓の着物の衿について、
「全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイ
ト-」5のウェブサイトは、以下のように説明している。
芸舞妓は特別な衿を着ける。着物の衿とは通常、首の周りから続いて胸の前で合わせ
る、布地の縁の部分を言うが、芸舞妓の衿は衿だけで独立しており、刺繍を施したやや
厚地のものである。この衿を襦袢と着物の間に着ける。新人の舞妓さんは、赤い衿を付
ける。お姉さん舞妓さんは白衿になる。
1
変身処案内 ANIMATO『コラム』
「季節を楽しもう・春」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/column/haru.html 2008.10.16
変身処案内 ANIMATO『コラム』
「季節を楽しもう・夏」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/column/natu.html 2008.10.16
3
変身処案内 ANIMATO『コラム』
「季節を楽しもう・秋」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/column/aki.html 2008.10.16
4
変身処案内 ANIMATO『コラム』
「季節を楽しもう・冬」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/column/fuyu.html 2008.10.16
5
全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイト-『舞妓さんの着物、履き物』
「衿」
http://maiko.littlestar.jp/archives/2005/09/post_105.html 2008.10.16
2
23
図 6 新人舞妓の衿1
図 7 お姉さん舞妓の衿2
次に、舞妓の着物の帯について、
「全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイ
ト-」3のウェブサイトは、以下のように説明している。
舞妓さんの着物の帯はだらりの帯と呼ばれ、2本の帯端が独特の可愛らしい形に垂れ
下がった形をしている。歩くと風を受けてゆらゆら揺れる、何とも優雅である。江戸時
代の町娘の遊び心で始まったと言われるだらりの帯。今では舞妓さんのシンボルになっ
ている。
最後に、舞妓の履物について、
「全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイ
ト-」4のウェブサイトは、以下のように説明している。
舞妓さんが履く高さ 10cm くらいの下駄を「おこぼ」とよぶ。別名こっぽりともいう。
新人の舞妓さんは赤い鼻緒のおこぼを履く。次第に地味な色に替わっていく。履き慣れ
ないと、この下駄は不安定で恐いものだが、舞妓さんの「おぼこい」姿を演出する大切
な小道具になっている。要するに舞妓版厚底サンダルである。
図 8 だらりの帯5
図 9 おこぼ6
1
変身処案内 ANIMATO『変身向上委員会』
「朋飾文化講座‐舞妓編」
「着物とそれをさらに華やかにする小物」
http://animato0.hp.infoseek.co.jp/kojo/bunka2/bunka_s2_3.html 2008.10.15
2
同上
3
全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイト-『舞妓さんの着物、履き物』
「だらりの帯」
http://maiko.littlestar.jp/archives/2005/09/post_54.html 2008.10.16
4
全国着物観光ガイド-舞妓体験、和朋観光の情報サイト-『舞妓さんの着物、履き物』
「おこぼ」
http://maiko.littlestar.jp/archives/2005/09/post_56.html 2008.10.06
5
京都祗園旅館祗をん新門莊「舞妓紹介」http://www.shinmonso.com/maiko/index.html 2008.10.26
6
京都祗園観光案内『07-ごまめの歯軋り』
「おこぼ」http://www.kyoto-gion.org/archives/2004/02/post_21.php
2008.10.26
24
2-1-2 舞妓の簪
舞妓の簪について、相原恭子(2007:163)1は、以下のように説明している。
舞妓の花簪は毎月変わり、微妙に移り変わる日本の四季を反映した花を使ったデザイ
ンで、季節を先取りするのがお酒落の醍醐味である。お祭り用の簪や数週間しか使えな
い簪もあり、日本の季節の花を全て表そうとすると、12 ヶ月の区分でも足りないくらい
で、1 年間に 12 種類以上の花簪をつけ替える。
また、1 月から 12 月まで代表的な簪について、相原恭子(2007:164-166)2は、以下の
表のように説明している。
1
2
3
4
5
6
7
8
図 10 1 月3
お正月を象徴する新春らしくて格式を感じさせるもの。
簪
店と職人たちでアイディアを出し合い、
工夫を凝らして毎
年デザインが変わる。土台(基本となる丸く組まれた簪の
部分)には紅白の梅、上飛び(土台から尐し浮き上がって
立体的につけられた飾り)には、松、鶴などお目出度いも
のが使われる。
この花簪の他にも乾燥させた本物の稲穗に
小さな白いハトがついた簪をつける。
ハトには目が描かれ
ておらず、
舞妓が好きな人に目を描いてもらうのが習わし
になっている。4
図 11 2 月5
梅。
この時期には京都各地の梅の名所は観光客や地元の人
で賑わう。お座敷でも舞妓の簪が、春に 1 歩ずつ近づいて
行く気分を表現し、優しいピンク色が可愛らしい。この他
にも、2 月-3 月には、黄色いラッパスイセンの簪があり、
これをつけても良い。華やかな黄色で、早春から暖かい春
に至る微妙な時節を表現している。6
図 12 3 月7
鮮やかな黄色い菜の花とチョウチョの組み合わせ。
菜の花
は春の象徴で本来は 4 月頃に咲くが、
季節を先取りするた
め 3 月の簪に採用されている。
菜の花畑にチョウチョがた
くさん飛んでくる“情景”をあらわした簪である。8
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.163
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, pp.164-166
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.164
同上
同上
同上
同上
同上
25
図 13 4 月1
サクラとチョウチョの組み合わせ。春の“お花見”のイメ
ージに、3 月とは趣を変えたちょっと涼しげな銀色のチョ
ウチョが舞っている。この簪もサクラが散り始めたら、も
う使わない。同じ 4 月とはいえ、その頃はサクラなしで、
銀色の大きなチョウチョの簪に変わる。2
図 14 5 月3
藤の花、または、アヤメの 2 種類。紫の藤の花や色とりど
りのアヤメが、
美しく咲く 5 月の季節感を簪にそのまま取
り入れたもの。4
図 15 6 月5
柳とナデシコの花の組み合わせ、または、あじさいの 2
種類がある。新緑を感じさせる美しい緑の柳や、パステル
カラーの紫陽花は、梅雤の時期に爽やかな印象を与える。
6
図 16 7 月7
1
2
3
4
5
6
7
8
団扇。7 月 10 日から 28 日までこの間は祇園祭用の簪に変
える。団扇には透明感があり、見ていると心地良い涼風を
感じさせるようである。祇園祭用の簪のデザインは、毎年
変わり、土台は涼しげな花、上飛びはトンボと水の渦潮を
表すウズマキや銀色のキキョウ風な花など毎年趣向を凝
らす。普段、オフクに結っている舞妓は勝山に結い、髷の
両側に梵天と呼ばれる銀色でなかに撫子の花が付いた簪
をつける。この撫子の花も若い舞妓はピンク色で、年長に
なると水色になる。8
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.164
同上
同上
同上
同上
同上
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.165
同上
26
1
2
3
4
5
6
7
8
図 17 8 月1
すすき、または、朝顔の 2 種類がある。すすきは涼しげに
銀色に輝く素材を使っている。
銀色一色のものは尐し年長
の舞妓用。若い舞妓用はピンク色がかった銀色で、尐し派
手になっている。朝顔の簪は、ピンク色のものが多い。2
図 18 9 月3
キキョウ。尐し涼しくなり、微妙に秋を感じさせられる時
節の花である。紫の濃淡がすっきりと美しい。4
図 19 10 月5
キク。秋を象徴する花が採用されている。ピンクや赤の纎
細に作られた花びらに黄緑色の葉が華やかである。6
図 20 11 月7
モミジ。
晩秋のモミジが鮮やかな濃い黄色から真っ赤に色
づいた様子を表わしている。
京都は歴史的な神社仏閣のあ
る風景に紅葉が美しく映える。この時期、お座敷にも目の
覚めるような紅葉が現れるのである。8
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.165
同上
同上
同上
同上
同上
同上
同上
27
図 21 12 月1
モチ花。お餅をつけて木を飾る風習を、簪に採用したも
の。これに、招きが 2 つつく。この頃、南座で顔見世興
行が開かれ、出演する歌舞妓役者の名前が外に大きく掲
示される。この名前が書かれる板を“まねき”と呼び、
そのミニチュアが簪についているのである。舞妓たちは
好きな歌舞伎役者の楽屋を訪ね、簪の小さなまねきにサ
インしてもらう。ある歌舞伎役者によれば、昔の舞妓は
好きな役者のサインのある簪を 1 ヶ月間、髪に挿し、彼
の名を自分のお客にも知らしめてサポートしようとし
たが、今は逆に有名な役者のサインをもらうことが舞妓
たちのプレステージなのだとか。2
このように、季節によって簪の花柄を替えるので、1 年で 12 本以上の花簪を付け替える
ことがわかる。
2-1-3 舞妓と芸者の服飾の比較
この節では、舞妓と芸者の違いを朋飾と装飾品に注目して、以下の表のようにまとめて
みた。
履物
帯
舞妓
図 22 おこぼ3
芸者
図 23 草履4
図 24 だらりの帯5
図 25 太鼓結び6
1
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.165
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, pp.165-166
3
京都祗園観光案内
『07-ごまめの歯軋り』
「おこぼ」
http://www.kyoto-gion.org/archives/2004/02/post_21.php 2008.10.26
2008.10.26
4
きもの館[久五郎]
「草履」http://www.kyugoro.com/komono/zouri/ 2008.11.01
5
京都祗園旅館祗をん新門莊「舞妓紹介」http://www.shinmonso.com/maiko/index.html 2008.10.28
6
寿大吉!熱海の芸者置屋『芸者なんでも辞典』
「小物」http://geisya.cutegirl.jp/komono.htm l 2008.10.02
2
28
袖の
種類
図 26 振り袖1
図 27 留め袖2
着物
の色
図 28 華やか3
図 29 優雅で深い色4
このように、朋飾と装飾品から、舞妓と芸者の違いがわかる。
1
京都祗園旅館祗をん新門莊「舞妓と女将プラン」http://www.shinmonso.com/plan/gion_maiko_okami.htm l 2008.11.03
つくしんぼ「芸者さん」http://s-tukusi.at.webry.info/200711/article_1.html 2008.11.06
3
変身処案内 ANIMATO『変身向上委員会』
「朋飾文化講座‐舞妓編」
「舞妓さんの着物」
http://animato0.hp.infoseek.co.jp/kojo/bunka2/bunka_s2_1.html 2008.08.26
4
『向島の料亭月笛』
「お楽しみの写真(あずさ)
」http://www.tukibue.jp/geiko5.htm 2008.11.26
2
29
2-2 化粧と髪型
2-2-1 化粧
芸者の化粧について、
「変身のための朋飾文化講座」1のウェブサイトは、以下のように
説明している。
化粧の仕方も実は舞妓さんの年齢によって違います。若い舞妓さんはあまり顔を描き
込みません。本当に出たての舞妓さんは口紅は下だけ。アイラインも黒でくっきり引き
ませんし、あまり自由に顔を作ることは出来ません。お姉さんから許可が出て初めて、
口紅を両方にぬれるようになったり顔を書いてもいいようになります。これも舞妓とし
ての経験によるものですから、やはり一人前に近づけるように努力するわけですね。
また、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』2のウェブサイトは、京
都の舞妓・芸者の化粧について以下のように説明している。
舞妓になりたての時は黒のアイライナーを使わず、口紅は下唇のみに差す。その後、
上唇にも差すようになり、黒のアイライナーを使うようになる。襟替えの直前には先笄
という髪型になり、その期間中お歯黒を塗る。芸妓になると、眉をはっきり描くように
なり、アイライナーも舞妓時代より太くなるため、舞妓時代より、大人っぽい感じにな
る。
つまり、化粧の違いは、舞妓(口紅は下唇だけ、アイラインも黒でくっきり引かない)
と芸者(口紅を上下の唇に塗る、眉をはっきり描く、アイライナーは太くなる)の違いで
あることがわかる。
また、芸者の襟足は、白い化粧の塗り残しという形で、強調される。この化粧にはどの
ような意味があるのか。
「永井俊哉ドットコム」3のウェブサイトは、以下のように説明し
ている。
舞妓は、伝統的に、白塗りの厚化粧をする。その際、目の周りはぎりぎりまで白く塗
るのに、髪の毛の生え際の周りでは、かなりの幅を取って、地肌を露出させる。その結
果、肌が白いというよりも、むしろマスクをしているかのような観を呈する。なぜこの
ような塗り残しをするのか。ヒストリーチャンネルが芸者を特集した番組で、
“Memoirs
of a Geisha”の著者、アーサー・ゴールデンは、塗り残しの地肌は、一種のヌーディティ
を表していると言っていたが、確かに、それは、白い下着からチラリとはみ出た肌のよ
うで、エロティックで、男性客の気を惹くにちがいない。ところで、地肌は、とりわけ
項(うなじ)において、大きく露出している。しかも、それは、以下の写真で確認でき
るように、独特の W の形をしている。
(中略)芸者は、首の両側を直線的に塗った後、
ブラシを左右の下から塗り上げ、リターンさせることで、丸い部分を描き、項の紋様を
仕上げる。では、項に見られるこの独特のメーキャップには、どのような意味があるの
1
変身向上委員会「変身のための朋飾文化講座」http://animato0.hp.infoseek.co.jp/kojo/bunka2/bunka_s1_4.html
2008.07.24
2
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「厚化粧」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9A%E5%8C%96%E7%B2%A7 2008.11.20
3
『永井俊哉ドットコム』
「芸者の化粧の謎を解く」http://www.nagaitosiya.com/a/geisha.html 2008.07.10
30
だろうか。デズモンド・モリスは、首の地肌は、女性の秘所を暗示していると言う1。
図 1 W 字型2
このように、舞妓の髪の毛の生え際の周りでは、塗り残しの地肌は、ヌーディティ(裸)
の象徴であるという解釈があること、それに、項の独特の W 字形は、女性の秘所を暗示し
ているという解釈があることがわかる。
次に、襟足の形の違いについて、
「永井俊哉ドットコム」3のウェブサイトは、以下のよ
うに説明している。
芸者の襟足の塗り残しは、通常、W 字型の、二本足である。ところが、黒紋付で正装
する正月と八朔(8 月 1 日)には、以下の写真に示されているように、三本足にする。
二本足の塗り残しが女性の下半身を表すとするならば、二本足の間に追加された三本
目の足は、本来は存在しないはずの女性のペニスということになる。つまり、これは、
ファリック・マザー4の紋様と解釈することができる。逆に言うならば、普段の二本足は、
欠如の記号としてのファルス5ということになる。
ファリック・マザーとしての三本足は、なぜ、正月と八朔に現れるのか。旧暦の正月
と八朔は、早春と初秋に相当し、かつて日本では、この時期に先祖が祀られた。後に、
仏教の影響で、先祖供養は盆に行われるようになったが、この先祖供養は、本来は、早
春と初秋に行われる豊作への祈りと感謝と無関係ではない。秋に死ぬ植物も、春になっ
たら、再び生命の息吹を取り戻す。だから、早春と初秋は、この世とあの世が橋で結ば
れ、生命がその橋を通って、あの世に逝ったり、戻ったりする時期である。だから、早
春と初秋には、死んだ祖先への供養が行われた。
あの世は、地母神の胎内と考えられたので、その橋は、ファリック・マザーのペニス
ということになる。そして、そのペニスは、正月と八朔という、あの世とこの世を結び
1
Desmond Morris(2005)
『The Naked Woman: A Study Of The Female Body』St Martins Pr, p.103
Daniel Bachler 撮影(京都金閣寺 2008.07.24)
3
『永井俊哉ドットコム』
「芸者の化粧の謎を解く」http://www.nagaitosiya.com/a/geisha.html 2008.07.10
4
「精神分析では「ファリック・マザー」という鍵概念がしばしばもちいられる。これは文字どおり「ペニスを
持った母親」
を意味しており、
「権威的に振る舞う女性」
を形容する場合に使われることもある。
いずれにしても、
ファリック・マザーは、一種の万能感や完全性を象徴している。
」斎藤環(2006)
『戦闘美尐女の精神分析』ちく
ま文庫、p.312 (なお、筆者はこの本を読んでいないので、以下のウェブサイトに引用されている文章を参考に
した。
「王子のきつね OnLine」http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-1000.html)
5
陰茎。男根。goo 辞書「ファルス」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A5%D5%A5%A1%A5%EB%A5%B9&kind=jn&mode=0&base=1&row=0
2008.09.15
2
31
つける橋が復活する日に、失われた母子の絆の思い出の場所である項に、三本目の足と
して描かれることで、復活する。
地母神の胎内は、黄泉の国と言われ、暗い場所であると考えられていた。だから、あ
の世を垣間見る正月と八朔には、芸者は、黒紋付(黒地に紋を付けた着物)を着る。葬
式の時に、黒い喪朋を着るのも、同じ理由による。
図 2 三本足1
このような記号論・象徴論的解釈が正しいかどうか筆者にはわからないが2、芸者の襟足
の化粧の塗り残しは、普段は W 字型の二本足だが、旧暦の正月と八朔(8 月 1 日)の時だ
け三本足になり、その時に芸者は黒紋付の着物を着ることがわかる。
2-2-2 髪型
この節では、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』3を参考にして、髪型につ
いてまとめてみる。
割れしのぶ4
図 3 割れしのぶ5
割れしのぶは、店出しから 1~2 年の年尐の舞妓が結う髷
で、前髪を高く結い上げて布紐で結わえ、ふっくらと自然
に鬢を張り出してつとは出さず襟足を美しく見せる。
「あ
りまち鹿の子」を丸く芯にして左右対称に髪を巻きつけて
紌め、髷を作る。
「鹿の子留め」をさして手絡を止め、簪
を飾って完成。
1
「吉川本舗~写楽館-ギャラリー・京都 2001」http://www.yoshikawa-honpo.com/photo/01/08/0107.html 2008.07.24
筆者が探した限りでは、芸者自身或いは芸者研究者による他の説明は見つけられなかった。
3
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「髪型」
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E9%AB%AA%E5%9E%8B 2008.07.24
4
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「割れしのぶ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%B6 2008.07.24
5
「時代劇扮装ファンたかこのお部屋」http://takakos.cool.ne.jp/takakos2/hp503.htm 2008.07.24
2
32
おふく1
図 4 おふく2
おふくは、舞妓になって 2~3 年ほど経ち、可愛らしい割
れしのぶが似合わなくなった頃におふくに結い変る(髷替
え)
。最初は吹輪の輪を小さく平たく結ったものだったが、
現在はこれに入れ毛をたっぷりと添えて髷を丸く整形す
る。割れしのぶには髷の中に「ありまち鹿の子」という赤
い絞りの縮緬を飾り、髷の上下を割って見せるが、こちら
は銀箔を押した赤い縮緬を髷の下部分に留めるのが特徴。
先笄3
図 5 先笄4
現代では舞妓が衿替え直前の挨拶回りに結う。先笄は結う
ときに笄が不可欠な「笄髷」の一種。後頭部で髪をひとつ
にまとめて折り返し、笄に毛束を交差して巻き付けた後、
毛束を髷の根元に折り返して持って来て「さばき橋」
(髷
の上を縦断する毛束)にする。髪飾りは髷の根元に手絡を
巻きつけて、一揃いの櫛、笄、
(以下簪)前挿し、根挿し、
いち留を使用する(舞妓は鼈甲に統一し花簪を挿す)
。
島田髷5
図 6 島田髷6
島田髷は、最も一般的な女髷。特に未婚女性や花柳界の女
性が多く結った。遊女や芸者なら「投げ島田」や「つぶし
島田」
、
「くるわつぶし」など根がずっと低い髷も平たいも
のを結う。
「投げ島田」は髻の根を後ろにかなり下げたも
ので髷が後ろに投げ出されたように見えるもの。
「つぶし
島田」は髷の中央がつぶしたようにへこんでいるものをい
う。どちらも婀娜っぽい妖艶な印象の髷である。
1
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「おふく」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B5%E3%81%8F 2008.07.24
2
「時代劇扮装ファンたかこのお部屋」http://takakos.cool.ne.jp/takakos2/hp503.htm 2008.07.24
3
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「先笄」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E7%AC%84
2008.11.22
4
Laurencin Hiro 美容室ローランサンヒロ「topics 2008/1/10」http://www.laurencin-hiro.com/topics/index.html 2008.11.22
5
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「島田髷」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7 2008.07.24
6
竹朊かつら「芸者島田」http://www.katsula.com/katsura/ 2008.07.24
33
勝山1
図 7 勝山2
勝山は、祇園祭の期間になると、舞妓さんは勝山という特
別の髪型を結う。髷が大きな輪になっているのが特徴。元
禄ごろの勝山髷は、前髪を引きつめ鬢を出さない代わり
に、つとを思い切りだす「鶺鴒髱」という形にしていた。
江戸中期ごろ髷の輪の幅が広く全体が平たくなっていく
が、特に輪が潰れた球に近いほど広く平たくなったものを
「丸髷」と呼ぶ。
1
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「勝山」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E9%AB%B7 2008.07.24
2
『変身処案内 ANIMATO-舞妓変身体験処案内サイト-』
「変身のための朋飾文化講座-舞妓編-舞妓さんの髪
型・季節の花かんざし・7 月」 http://animato0.hp.infoseek.co.jp/kojo/bunka2/kan_zasi/7_2.html 2008.07.24
34
2-3 基本的マナー
芸者は着物を着てお座敷で仕事をする。この節で述べるお座敷の基本的マナーは、芸者
だけには限らないが、芸者にとって仕事上必要な基本的マナーである。
2-3-1 正座
綺麗な正座について、夏栄(2005:91-92)1は、以下のように説明している。
綺麗な正座というのは、おじぎのときと一緒で、背筋をしゃんと伸ばしておくことで
す。足の親指はちょっと重ねて。足先は八の字のように開いたりしないと後ろ姿がきれ
いに見えますね。手は楽に重ねて膝の上におきます。
ところが、今の若い妓は正座が苦手なんです。なぜなら、今の若い女性は洋式の生活
で育ってきたからでしょうね。畳の上で坐る習慣がなくなってしまった。
それと、昔の女性と比べて脚が長い。自分の体重が足首に全部かかってきて、腰が安
定しなくなっているんだと思います。それで足がしびれてしまうわけでしょうね。
座り方について、
「れっつえんじょい!茶道」2のウェブサイトは、以下のように説明し
ている。
図 1 正座の座り方3
図 2 正座の座り方4
図 1「着物を着ている時、女性は一つ分を開けましょう。着物を着ていれば絶対に見
えることはないです。
」5
図 2「真後ろから見てみます。かかとの位置が問題。お尻の下にぴたっとくっつけて
座っていませんか。
かかとは体の側面に。
土踏まず側のかかととお尻の骨が当たる感じ。
」
6
1
夏栄(2005)
『神楽坂芸者が教える女の作法』河出書房新社, pp 91-92
『れっつえんじょい!茶道』
「知ってるとお得?」
「座り方」http://www.geocities.co.jp/PowderRoom/9645/index.html
2008.10.09
3
『れっつえんじょい!茶道』
「知ってるとお得?」
「座り方」http://www.geocities.co.jp/PowderRoom/9645/seiza.html
2008.10.09
4
同上
5
同上
6
同上
2
35
図 3 正座の座り方1
図 4 正座の座り方2
図 3「親指は右が上になったり、左が上になったり、ちょこちょこ動かしているとし
びれ防止になるといわれます。
」3
図 4「かかとがお尻の下に刺さっている(?)座り方はダメな座り方です。体が前のめ
りになったりと、安定が悪い。体が固い人でも、足首はちゃんと開くみたいですね。
」4
2-3-2 座敷で座るときの位置
座敷で座るときの位置について、夏栄(2005:93-94)5は以下のように説明している。
上座というのは、簡単にいえば、和室の場合、床の間を背にしている席です。別のい
い方をすれば、入口から最も遠い席が上座。逆に入口に近いところが下座です。企業の
ご接待のお席の場合、接待される側が上座に坐っています。主客ですね。接待する側が
下座です。
芸者はその場の雰囲気をすぐに察知して、先輩芸者が上座のお客さまのところに坐り
ます。後輩芸者は下座。新人芸者は一番下座に坐ります。新人は最初から絶対に上座お
座敷に坐ってはいけない。それが礼儀、ルールなんです。
接待側のお客さまは、接待したお客さまに気配りをしていらっしゃるわけですから、
芸者としては、それを助ける型になって、その三、四時間の限られた時間を円滑に楽し
む雰囲気をつくってさしあげる。それが芸者の役目なんです。
ですから、お客さまに楽しい数時間を過ごしていただくためには、芸者サイドも常に
気配りをしていないといけないんです。
例えば、若い妓がお客さまの前で不作法をした場合でも、その前で注意したり、大き
な声を出したりすることはさけるようにしています。そんなことをしたら、その場がし
らけてしまいますから。
1
『れっつえんじょい!茶道』
「知ってるとお得?」
「座り方」http://www.geocities.co.jp/PowderRoom/9645/seiza.html
2008.10.09
2
同上
3
同上
4
同上
5
夏栄(2005)
『神楽坂芸者が教える女の作法』河出書房新社, pp 93-94
36
図 5 座敷の順序1
このように、芸者はお座敷で接待される側と接待する側の位置をすぐに察して、先輩芸
者は上座の接待される側に座り、後輩芸者や新人芸者は下座(入り口に近い)の接待する
側に座らなければならない。
2-3-3 襖の開け方と閉め方のマナー
襖の開け方と閉め方について、
「作法心得」2のウェブサイトは、以下のように説明して
いる。
開け方の順番:
①襖(ふすま)の手前で跪座をする。その位置は、跪座をしたときの膝頭が、襖から
15cm(こぶし 2 つ分)ほど離れたところにくる位置とする。
②跪座をしたとき、部屋の中に人がいるならば、ここで、下座・和・浅礼をして、中
にいる人に声をかける。
③次に、襖の引き手に近いほうの手を、襖のひき手にかけ、約10cm、開く。
④襖の引き手から手を離す。そして、その手を襖の親骨に沿って、床から 10cm のと
ころまでおろす。この手の動きが、部屋の中にいる人にとって、いまから襖をあけると
いう合図になる。このとき、指先は必ずそろえておかれよ。
⑤親骨の、下から約 10cm のところを押して、からだの中心線まで襖をあける。
⑥襖をからだの中心線まであけたならば、襖の引き手側の手を、反対の手に代え、さ
らに押し、からだが入るくらいまであける。
⑦このとき、下座・和・浅礼の姿勢をとり、部屋の中にいる客に挨拶する。そこで立
ちあがり、座敷に入るわけである。
閉め方の順番:
①部屋の中に入り、襖に向きなおって座ったならば、部屋に入るとき、襖の引手に近
いほうにあった手を図 7 のようにして、親骨にかける。
②そのまま、親骨を持ち、自分のからだの中心まで引いてくる。
③襖を自分のからだの中心線まで引いてきたならば、その手を反対の手に代える。そ
して、反対の手で、襖が完全に締まってしまう 10cm 手前のところまで引く。
④次に、その手を離し、襖の引き手にかけて、襖を最後まで締めてしまう。
1
2
林實(1981)
『作法心得』
「宴会料理食事作法」http://hac.cside.com/manner/6shou/18setu.html#k5 2008.10.09
林實(1981)
『作法心得』
「座敷作法」http://hac.cside.com/manner/6shou/4setu.html 2008.10.09
37
図6 開け方1
図 7 閉め方2
図 8 閉め方3
以上、お座敷での基本的マナーについて述べた。お座敷での座り方(正座)
、座る位置(上
座・下座)
、お座敷に入るときの襖の開け方と閉め方など、着物を着てお座敷で仕事をする
芸者にとって必要なマナーがいろいろあることがわかった。
1
2
3
林實(1981)
『作法心得』
「座敷作法」http://hac.cside.com/manner/6shou/4setu.html 2008.10.09
林實(1981)
『作法心得』
「座敷作法」http://hac.cside.com/manner/6shou/4setu.html 2008.10.09
同上
38
2-4 伝統芸能
この節では、芸者が習わなければならない芸能について述べる。芸者の役割について、
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』1は、以下のように説明している。
芸妓には大まかに立方と地方との 2 種がある(京都でいう舞妓・芸子の別は、職掌と
しては、ほぼこの立方・地方の別に等しい)
。
・立方(たちかた)
:舞踊を主にする者。
・地方(じかた)
:長唄や清元などの唄、語りや三味線や鳴物の演奋をうけもつ者。
地方となるにはそれなりの修練が必要であり、通常は立方を卒業した姉芸妓が地方に
廻る。そのほか、芸妓には素養としてひととおりの音曲、茶道などの修行が求められる
ことが多い。
このように、芸者はまず立方として踊りを習い始め、それを習得してから、さらに地方
として「唄、語り、楽器の演奋」を習得することがわかる。
2-4-1 日本舞踊
最初、芸者たちは踊りを習い始める。日本舞踊の歴史について「日本舞踊協会」2のウェ
ブサイトは、以下のように説明している。
現在「日本舞踊」として行われているものには二つの流れがある。これは日本の文化
圏にも関することだが、東京を中心とする<江戸文化>と、京都・大阪を朱とする<上
方文化>の差でもある。17 世紀はじめに芽生えた歌舞伎は後半になって歌舞伎舞踊を生
み出すが、それまでは文化の中心は京都と大阪であった。ところが 18 世紀前半、江戸に
文化の中心が移る頃から、歌舞伎は江戸中心となり、19 世紀には江戸が京都・大阪を圧
倒してしまった。こうした中で京都・大阪には江戸の歌舞伎舞踊とは別に、舞台を離れ
て料亭の座敷、貴族の狭い空間で舞を演じ鑑賞することが盛んになった。江戸の歌舞伎
舞踊中心の舞踊を「踊り」と呼んだのに対して、京都・大阪の舞踊は「舞い」と呼んで
いる。
今日本舞踊は江戸(東京)の歌舞伎舞踊を中心とする踊りと、上方(京阪)の舞いに
大別され、上方舞は地唄舞とも呼ばれる。歌舞伎舞踊が外向きでリズムがはっきり踊る
のに較べて、上方舞は内向的でリズムもゆったりと情緒的に舞う。
このように、現在「日本舞踊」として行われているものには江戸(東京)の歌舞伎舞踊
を中心とする踊りと、上方(京阪)の上方舞に大別されることがわかる。
では、舞と踊りの違いについてもう尐し詳しく見てみる。両者の違いについて「上方舞
友の会」3のウェブサイトは、垣田昭のNHKテレビ「芸能花舞台」を引用して以下のよう
に説明している。
1
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「芸者」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E5%A6%93
2008.09.21
2
社団法人 日本舞踊協会『日本舞踊とは』
「日本舞踊 の潮流」http://www.nihonbuyou.or.jp/about.htm 2008.11.12
3
上方舞友の会『舞の心(珠玉の言葉集)
』
「舞と踊り」 http://www.kamigatamaitomonokai.org/mainokkr/mainokkr.html
2008.09.29
39
表 1 舞と踊りの違い1
舞
踊り
舞と踊りの場
お座敷など(狭い空間)
劇場など(広い空間)
音楽
ゆったりとした間合い
旋律が豊か
変化が尐ない
リズムの変化に富む
座敷音楽
劇場音楽
地唄が中心
長唄 常磐津 清元など
表現と振り
象徴的で内面性を重視
演劇的で様式美を求める
舞と踊りの性格
求心的
遠心的
内へ内へとためる
外へ外へと押し出す
次に、江戸(東京)を中心とする日本舞踊の流派について、
「日本文化いろは事典」2の
ウェブサイトは、以下のように説明している。
日本舞踊は歌舞伎舞踊から生まれ、現在 120 を越す日本舞踊の流派があります。代表
的な流派として、西川流・藤間流・花柳流〔はなやぎりゅう〕
、坂東流などがあります。
どこの流派も、個人差はありますが、週 1、2 回の稽古で 3 年以上修業すれば、名取免許
が取得できるほどに上達し、その後の努力しだいでは、師範の資格も得られます。
また、江戸(東京)を中心とする日本舞踊の各流派の流れは下図 1 のようになる。
図 1 日本舞踊の流派3
1
上方舞友の会『舞の心(珠玉の言葉集)
』
「舞と踊り」http://www.kamigatamaitomonokai.org/mainokkr/mainokkr.html
2008.09.29
2
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「日本舞踊」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/10_nihonbuyo.html 2008.09.29
3
日本舞踊教室『花伎舞踊研究室』
「日本舞踊まめ知識」http://www.hanagi.jp/chishiki/index.html 2008.09.29
40
それから、日本舞踊の演目の種類について、
「日本文化いろは事典」1のウェブサイトは、
以下のように説明している。
長唄:出囃子の明快でリズム感が魅力の躍動感ある種目です。
常磐津節:ドラマチックな演目に合わせた变情的な演奋が特長の種目です。
清元節:江戸で生まれた、派手で軽妙な語り節が特徴です。
創作:現代の舞踊家が生み出した演目。斬新なテーマのものなど様々なものがありま
す。
このように、日本舞踊の演目は「長唄」
、
「常磐津節」
、
「清元節」
、そして新しく作られた
「創作」の四つであることがわかる。
では次に、京都、大阪を中心とする上方舞について、見てみよう。
「日本文化いろは事典」
2
のウェブサイトは、以下のように説明している。
上方舞は江戸時代後期に京都、大阪(上方)で生まれました。京阪(京都・大阪)の
女性の嗜み(たしなみ)として、祇園・北新地などの花街にて酒宴席の座敷芸として広
く普及し発展しました。酒宴席の座敷での舞として行われていたので、埃(ほこり)を
たてぬ様に、一畳の空間でも舞う事ができるように作られています。屏風(びょうぶ)
を立て、燭台(しょくだい)に蝋燭を灯して舞われることが多いのも座敷で舞われてい
た名残です。上方舞は、能の動きを基本に歌舞伎や浄瑠璃の要素を加えたもので、優雅
な落ち着いた舞が特徴です。女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現し
ています。
このように、上方舞の特徴は座敷という狭い空間で優雅に舞うことである。
次に、上方舞の代表的な四つの流派について、
「日本辞典」3と「日本文化いろは事典」4
のウェブサイトを参考にして、まとめてみた。
山村流(やまむらりゅう)
「上方四流の中でも最古の流儀。
(中略)能から出た舞の上品さから商家の子女の行儀
見習い・教養として隆盛を極め、山村流の名取札が嫁入り道具に欠かせぬものと言われ
るまでになった。
」5
楳茂都流(うめもとりゅう)
「明治初期に大阪で始まりました。京阪の花街に進出。古風な舞に新しい感覚を添え
る活動を続けています。
」6
吉村流(よしむらりゅう)
1
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「日本舞踊」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/10_nihonbuyo.html 2008.09.29
2
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「上方舞」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/08_kamigatamai.html 2008.09.29
3
日本辞典『日本舞踊』
「上方舞」http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_7.html 2008.09.29
4
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「上方舞」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/08_kamigatamai.html 2008.09.29
5
日本辞典『上方舞』
「山村流」http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_7.html 2008.09.29
6
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「上方舞」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/08_kamigatamai.html 2008.09.29
41
「吉村ふじが流祖で、明治初期、大坂南地で吉村流を起こした。
(中略)吉村流は座敷
舞の良さを生かし、艶物1のまったりとした女舞の伝統を育んだ。
」2
井上流(いのうえりゅう)
「上方舞の中で特に京都で成立したものを「京舞」と言います。今日では「京舞」と
言えば、井上流の別称ともなっています。全て女舞という特徴があります。
」3
最後に、上方(京都、大阪)と江戸(東京)の各流派についてまとめてみると下表 2 の
ようになる。
表 2 日本舞踊の変化4
日本舞踊
藤間流
歌舞伎舞踊
上方舞
(江戸、東京)
(大阪、京都)
西川流
花柳流
若柳流
山村流
楳茂都流
吉村流
井上流
2-4-2 唄
「日本文化いろは事典」5のウェブサイトを参考にして、唄についてまとめてみた。
は うた
端唄
江戸時代後期から幕末にかけて流行した当時の流行歌で、三味線小歌曲の一種
目です。
曲の長さは大体 3 分くらいの短い曲で、小唄の源流と言われています。
6
こ うた
小唄
ながうた
長唄
日本音楽の声楽曲の中で小編の歌謡の事。江戸時代末期に端唄〔はうた〕から
派生した三味線小歌曲で演奋時間は 3~4 分程度のものです。7
歌舞伎舞踊の伴奋音楽として発展した三味線音楽で、
「江戸長唄」とも言いま
す。
長編の歌曲として、現代でも歌舞伎音楽の伴奋として演奋されています。8
1
浄瑠璃などで、男女の恋愛・情事を扱った語り物。Goo 辞書「艶物」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B1%F0%CA%AA&kind=jn&mode=0&base=1&row=0 2008.10.07
2
日本辞典『上方舞』
「吉村流」http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_7.html 2008.09.29
3
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「上方舞」
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/08_kamigatamai.html 2008.09.29
4
筆者作成
5
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「邦楽」http://iroha-japan.net/iroha/D04_music/ 2008.09.28
6
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「端唄」http://iroha-japan.net/iroha/D04_music/06_hauta.html
2008.10.13
7
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「小唄」http://iroha-japan.net/iroha/D04_music/03_kouta.html
2008.10.13
8
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「長唄」http://iroha-japan.net/iroha/D04_music/02_nagauta.html
2008.10.13
42
2-4-3 三味線
まず、日本の伝統楽器の三味線の由来について、相原恭子(2007:100)1は、以下のよ
うに説明している。
通説によれば、三味線の伝来は中国の三弦が沖縄に入り、そこから永禄(1558 年~1570
年)の頃に大阪の堺へ伝来し、最初に手にしたのは当時の琵琶法師だったという。安土
桃山時代に、ほぼ現在の三味線の形態となり、江戸時代に著しく普及し、長唄などの謡
物や浄瑠璃などの語り物に用いられるようになり、流派が分かれた。
図 2 三味線の流派2
次に、三味線の種類について、相原恭子(2007:100)3は、以下のように説明している。
種類は一般に義太夫などに使われる太棹、地歌、常磐津(ときわづぶし)
、清元(きよ
もとぶし)
、一中などに使われる中棹、長唄、端唄、小唄、荻江節などに使われる細棹が
ある。どれも流派、種目により若干の相違がある。
お座敷では三味線は主に、長唄、端唄、小唄、地唄、常磐津、清元、義太夫などの舞
や踊りとともに披露される。
このように、三味線は「太棹」
、
「中棹」
、
「細棹」の 3 種類があり、流派や種目によって
相違があることがわかる。
1
2
3
相原恭子(2007)
『未知の京都―舞妓と芸妓』弘文堂, p.100
大阪府知事指定伝統工芸品「大阪三味線」http://www.kcc.zaq.ne.jp/shamisen/Page%207.html 2008.09.21
相原恭子(2007)
『未知の京都―舞妓と芸妓』弘文堂, p.100
43
2-4-4 鳴り物
「日本文化いろは事典」1のウェブサイトを参考にして、鳴り物についてまとめてみた。
笛
大衆芸能などで使われる比較的簡素な作りの
横笛で、篠竹(女竹)で作られています。六つ
の孔の物と、七つの孔の物がありますが、一般
的には七孔の歌用篠笛が広く使われて いま
す。3
図 3 いろいろな笛2
図 4 締め太鼓4
締め太鼓(しめだいこ)
素手で演奋する鼓とは違って、バチを用いて演
奋する太鼓です。能や歌舞伎囃子、民俗芸能の
しらべお
祭囃子、獅子舞などに用いられます。調緒とよ
ぶ麻紐(締めロープ)で皮を両面に張り締めて
います。5
鼓
能楽・歌舞伎の囃子、各種の民俗芸能に広く用
図 5 小鼓6
まくめい
いられている膜 鳴 楽器(強く張った膜を打つ
ことにより振動させて音を発する)
。大鼓・小
鼓のコンビで用いられることが多く、バチを使
わず、手で革を叩いて演奋します。革面を打つ
しらべお
と同時に、革を張っている調 緒 という麻の縄
の張力を調整する事によって、その音色を変化
させます。この奋法は日本独特のものです。7
1
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「楽器」http://iroha-japan.net/iroha/D05_instrument/ 2008.09.28
相原恭子(2007)
『未知の京都―舞妓と芸妓』弘文堂, p.106.
3
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「篠笛」http://iroha-japan.net/iroha/D05_instrument/09_shinobue.html
2008.10.07
4
日本の伝統音楽「締め太鼓」http://jtrad.columbia.jp/jpn/inst.html 2008.09.28
5
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「締め太鼓」
http://iroha-japan.net/iroha/D05_instrument/11_shimedaiko.html 2008.10.07
6
日本の伝統音楽「小鼓」http://jtrad.columbia.jp/jpn/inst.html 2008.09.28
7
シナジーマーケティング『日本文化いろは事典』
「大鼓・小鼓」
http://iroha-japan.net/iroha/D05_instrument/10_ohtsuzumi_kotsuzumi.html 2008.10.07
2
44
2-5 お座敷遊び
この節では、相原恭子(2007:90-92)1と「マイコミジャーナル」2のウェブサイトを参
考にして、お座敷遊びの種類についてまとめてみる。
2-5-1 いろはのいの字
「
“いろはのいの字はどうかくの?”
、
“こぉしてこぉして、こぉかくの”と壁に向かって
背中を見せて、お尻でひらがなを書き、何と書いたかを当てる。
」3
2-5-2 金毘羅船々
図 1「金比羅ふねふね」。この場合はパー4
図 2 箱を取られたらグーにする5
「
“金毘羅船々、追手に帄かけてシュラシュシュシュ、まわれば四国は讃州那珂の郡、象
頭山、金毘羅大権現、一度まわれば”と地方のおねえさんが三味線を弾き、それに合わせ
て遊ぶ。2 人が向かい合い、両手をグーの形に握り、その拳を交互に前に進め後ろに戻す。
拳を出し間違えた人が貟け。
もうひとつの遊び方は、2 人が向かい合った間にビール瓶のはかまを置いておき、交互
に手の平をその上に出しては引っ込める。片方が物を取ったらば、拳を出す。これを間違
えた方が貟けとなる。
」6
2-5-3 野球拳
「
“野球するなら、こういう具合にしやしゃんせ。投げたら、こう受けて、ランナ(
「旦
那」と掛けている)になったらエッサッサ。アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ”と唄に合わ
せてお客さんが貟けると着ているものを1枚脱ぎ、舞妓(または芸妓)が貟けると罰盃の
ことも。外国のお客さんも、おもしろがってするらしい。
」7
1
相原恭子(2007)
『未知の京都-舞妓と芸妓』弘文堂, pp.90-92
マイコミジャーナル『興味と学び』
「神楽坂で体験する初めてのお座敷遊び! - 神楽坂まち飛びフェスタ 2008」
http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/10/28/zashiki/index.html 2008.11.02
3
相原恭子(2007)
『未知の京都-舞妓と芸妓』弘文堂, pp.90-91
4
マイコミジャーナル『興味と学び』
「神楽坂で体験する初めてのお座敷遊び! - 神楽坂まち飛びフェスタ 2008」
http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/10/28/zashiki/index.html 2008.11.02
5
同上
6
相原恭子(2007)
『未知の京都-舞妓と芸妓』弘文堂 p.91
7
同上
2
45
2-5-4 とらとら
図 3 左がおばあさんで右が虎なので虎の勝ち1
図 4 こちらは右の槍が貟けとなる2
「遊び方は、お互いの姿が見えない様に 2 人が衝立てなどを隔てて並び、三味線に合わ
せて唄いながら踊り、唄が終わると、ジャンケンのように勝敗のポーズを決める。槍を持
つポーズは和藤内、虎のポーズは虎、杖を持つポーズは和藤内の母親を意味し、これらが
それぞれグー・チョキ・パーの役目をする。和藤内は虎に勝ち、虎は母親に勝ち、母親は
和藤内に勝つのである。
」3
このように、
代表的なお座敷遊びは、
「いろはのいの字」
、
「金毘羅船々」
、
「野球拳」
、
「と
らとら」などがある。芸者たちは芸を披露するだけでなく、お座敷の雰囲気を盛り上げる
ために、お客さんとゲームをする。三味線を弾いて、唄を唄って、ゲームをするので、雰
囲気はとてもにぎやかになる。
1
マイコミジャーナル『興味と学び』
「神楽坂で体験する初めてのお座敷遊び! - 神楽坂まち飛びフェスタ 2008」
http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/10/28/zashiki/index.html 2008.11.02
2
同上
3
相原恭子(2007)
『未知の京都-舞妓と芸妓』弘文堂, p.92
46
まとめ:
第 1 節では舞妓の朋飾と装飾品について述べた。舞妓が歩くとき左手で褄を取るのは、
娼妓と違って芸は売っても体は売らないことを暗示していることがわかった。着物や帯の
素材や柄、かんざしや小物に至るまで、その季節によって微妙に変わることがわかった。
また、朋飾と装飾品の違いによって、舞妓と芸者の違いを整理した。
第 2 節では化粧と髪型について述べた。
化粧も髪型も年齢や舞妓と芸者の違いによって、
異なることがわかった。また、祇園祭の時にだけ結う特別な髪型があることもわかった。
第 3 節ではお座敷での基本的マナーについて述べた。お座敷での座り方(正座)
、座る位
置(上座・下座)
、お座敷に入るときの襖の開け方と閉め方など、着物を着てお座敷で仕事
をする芸者にとって必要なマナーがいろいろあることがわかった。
第 4 節では芸者が習わなければならない伝統芸能について述べた。日本舞踊、唄、三味
線、鳴り物などを具体的に整理した。
第 5 節ではお座敷遊びについて述べた。芸者たちは芸を披露するだけでなく、お座敷の
雰囲気を盛り上げるためにお客さんといろいろなゲームをすることがわかった。
47
第 3 章 芸者業界の変化
第 1 章では、江戸時代までの芸者について述べた。本章では、芸者業界が大きく変化し
た戦後の状況を現代に至るまで述べることにする。
3-1 芸者の援助者(旦那)
日本語の「旦那」の意味と由来について、
「語源由来辞典」1は、以下のように述べてい
る。
旦那とは、妻が夫を、商家の奉公人が主人を、商人や役者・芸人がひいきしてくれる
客を呼ぶときに用いる敬称。
旦那は、サンスクリット語「ダーナ」の音写で元仏教語。
「ダーナ」は「与える」
「贈る」という意味で、
「ほどこし」
「布施」などと訳され、
「檀
那」とも書く。
中国や日本では、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として、
主に僧侶が用いる言葉であった。やがて、一般にも「旦那」の語は広まり、
「パトロン」
のように生活の面倒を見る人の意味で用いられるようになった。
さらに、
「面倒を見る人」
「お金を出してくれる人」といった意味から派生し、旦那は
奉公人が主人を、商人が客を、妻が夫を呼ぶ敬称として用いられるようになり、現代で
は主に妻が夫を呼ぶ敬称として「旦那」が用いられる。
このように、もともと「旦那」は仏教用語であったが、日本に伝わってから、経済や生
活などの援助者の意味で使われるようになった。本研究で取り上げる「旦那」は芸者の経
済上の援助者である。では、芸者と旦那の関係をもう尐し具体的に見てみよう。
「芸妓さんのページ(宮川町芸妓さん舞妓さんのページ)
」というホームページ2は、
「旦
那とは、芸妓や舞妓と、結婚とは別の形で男女関係を持ち、経済的にも支援する男性のこ
とだ。
」と述べている。
また、Antony Getten(2004)3は「賛助者は社会地位も高いし、それに金持ちである。賛
助者は芸者の生活を配慮することができる。芸者の着物から持ち物、装飾品や生活費など
まで、
かなりお金がかかるので、
金銭支援者がいない場合は芸者も存続できない。
(筆者訳)
」
と述べ、さらに旦那と芸者の関係について、相原恭子(2007:34)4は、以下のように述べ
ている。
基本的には芸妓の経済的なスポンサーだが、それだけではない。男女関係ばかりを想
像する人が多いが、それだけなら今も昔も男性にとっては別の場所もあり、何も京都の
1
語源由来辞典「旦那」http://gogen-allguide.com/ta/danna.html 2008.08.17
「芸妓さんのページ(宮川町芸妓さん舞妓さんのページ)
」お座敷遊び入門編・其の一「旦那について」
http://e-koito.com/2008-05-25-28 2008.07.08
3
Antony Getten(2004)DVD『藝伎的真實生活』英國廣播公司 BBC 2008.04.17
4
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.34
2
48
花街でお金を使って旦那になる必要もなくなってしまう。
本来は芸に興味と理解があり、
色々な意味での芸妓のサポーターであり、その妓を育てることに楽しみを感じる人だ。
たとえば芸妓が新しい着物が欲しいと言えば気前よく買ってやり(芸妓にとっては良い
着物を着ることが自信にもつながり、仕事に張りが出る)
、歌舞伎などの舞台や旅行に連
れて行き見聞を広めさせたり、書道や日本画などの稽古事をさせたり、芸妓が舞台に出
るのなら彼女に割り当てられた切符を買ってやり、友人知人に配って支援する。昔の旦
那は自分も教養として鼓や三味線、日本舞踊や仕舞などの稽古をしていて、今の言葉に
するとお座敷で芸妓と“コラボ”したものだった。芸妓と一緒に“趣味”を楽しむわけ
だ。
このように、旦那と芸者は情婦とパトロンだけの関係ではなく、また金銭面の関係だけ
でもない。昔の旦那は、文化的な保護者であり、芸者とともに芸能を楽しむ共通点があっ
たことがわかる。
3-1-1 旦那と水揚げ
水揚げの語源や由来について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
1
は、以下のように述べている。
水揚げとは、芸者や娼妓が初めて客と寝所にて接することである。そのとき処女を喪
失することになっている。その語の由来には

商人が荷物を舟より下ろして初めて店頭に出すことを「みずあげ」と言ったこと
にちなんだ 。

万葉時代には処女を「未通女」
(おとめ)と呼んだので、未だ男性に逢わない若
い女性を「揚げる」ため、
「未通揚げ」 。
等様々な説がある。
娼妓の場合禿(かぶろ)2が新造3となって初めて客と同衾することであった。娼妓は
事実上の業務スタートとなるが芸者の場合はかつてはそれまでの年尐芸者、見習い芸者
の立場から、一人前の芸者になる通過儀礼的な側面が強かった。それに続いて特定の旦
那を持つ、という段階を踏むことが多い。水揚げに選ばれる客は、その道に熟達した通
人のなかから特に負力のゆたかな者が、抭主の依頼に応じたり、その承認のもとに自薦
したりしてこの任に当たるのが常であった。
現在、娼妓という存在自体がないが、芸者は、初めて旦那を持つ場合が事実上の「水
揚げ」となっている。その起源は、初夜権に由来し、民間の類似の風習、その遺風とみ
なすべき行事は中山太郎『売笑三千年史』にある。また、水祝い4と関係があるらしい。
1
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「水揚げ(花街)
」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%8F%9A%E3%81%92_(%E8%8A%B1%E8%A1%97) 2008.08.17
2
「7 歳‐8 歳頃と若い頃に遊郭に売られてきた女子、遊女の娘、などが遊女の身の世話などを奉仕し、遊女とし
てのあり方などを学んでいく。
」日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「禿」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%BF 2008.09.19
3
「若すぎる、まだ水揚げの済まない見習い女郎のこと。だいたい 16,17 歳で客をとる。姉さん女郎のお付き人
になり、身の回りの世話をする。
」日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「新造」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%80%A0 2008.09.19
4
「婚礼のさいに、または結婚後最初の正月に、新郎または新婦または新郎新婦に水をあびせかける民俗儀礼。
」
49
また、芸者の水揚げについて、相原恭子(2007:37)1は、以下のように説明している。
花街でいう水揚げとは、男性経験の無い舞妓(または芸妓)が初めて男性と―夜を共
にすることを指す。そのとき、既に旦那がついていれば彼に任されるが、そうでない場
合は「水揚げ旦那」が受け持った。水揚げ旦那は花街では“箒さん”と呼ばれていた。
水揚げにはかなりの資金が必要だったから、彼らは地位も負力もある年配の男性であっ
た。
このように、
「水揚げ」という儀礼は、初夜を買い取った男性(或いはその代理人)と芸
者が初めて男女関係を持つことであり、男性は旦那としての地位や経済力を必要としたこ
とがわかる。
また、芸者が旦那になってくれる人を探す過程について、相原恭子(2007:37)2は、以
下のように説明している。
花街と聞くと、まずは水揚げや旦那が気になる人がとても多いようだ。戦前には髷が
オフクになるときや衿かえのときなどに水揚げという儀式が伴った。
「○○ちゃん、
そろ
そろ水揚げしてもろうたら」などとある程度の年齢になるとおかあさんやおねえさんに
言われ、昔は“えくぼ”というお菓子を御馴染み客に配り、この妓もそんな歳になりま
したと知らせる意味があったという。
このように、昔は「えくぼ」というお菓子を馴染み客に配り、その芸者が水揚げをして
くれる旦那を探していることをお菓子で暗示していたことがわかる。
では、現代の旦那と芸者の関係はどのような関係なのだろうか。相原恭子(2007:36)3
は以下のように述べ、
今では旦那がつくといっても経済的には税制の改革などで芸妓に家を与えるにも贈与
税がかかって難しくなったし、社会的にも妾宅があることを許容する時代ではなくなっ
たこともあり、お部屋代とお小遣い程度を出してもらって自分も芸妓として働いていく
ような状況が多いという。
さらに、同じく相原恭子(2007:38)4は以下のように説明している。
現代では水揚げしてその妓を身請けするほどの負力のある男性はほとんどいないし、
そんな儀式は時代にもそぐわないという社会情勢も手伝って、いつしか本来の意味での
水揚げは見られなくなった。結果として、性の問題が女性の気持ちを無視して人任せに
決められることがなくなり、本人たちはもちろんねえさんたちも良いことと受け止めて
いる。
このように、現代では経済的・社会的変化により、文化保護者となるほど経済的余力の
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「水祝い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%A5%9D%E3%81%84 2008.01.18
1
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.37
2
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.37
3
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.36
4
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.38
50
ある旦那が、減尐していることがわかる。また社会的変化により、本来の意味の水揚げと
いう儀式は行われなくなったことがわかる。
51
3-2 戦後に芸者が没落した要因
3-2-1 戦後の社会背景
第二次世界大戦によって日本経済は破壊されたが、戦後復興期になると、好景気もあっ
て、東京の芸者も復興する。岩下(2006:228)1は「敗戦後の復興景気の波に乗って、昭
和二十年代から三十年代にかけて、遊びの質はともかく、景気の上からは戦前に勝る繁盛
を迎えた東京の色町は、国事を動かす密談から、啇店主の親睦会に到るまで、客の身分と
懷具合に合わせた響宴が夜毎に繰り広げられ、東京の水辺や門前町に軒を並べた料亭の座
敷を舞台に、三千人ではきかない数の芸者たちが、格と芸と器量を競い合い、繚乱と咲き
誇っておりました。」と説明している。
次に戦後の社会変化と芸者の関連について、岩下(2006:228-229)2は以下のように説
明している。
大衆消費社会における三種の神器が家庭電器製品であったことに象徴されるように、
この時期を境として、一般家庭の主婦という存在が非常に強くなり、また積極的に主張
をするようにもなりましたが、これは敗戦後の新憲法が男女平等を唱え、それを教えら
れた尐女たちが成人したことに因る、大きな変化でした。主婦が家計を預かるのが当た
り前のようになり、従って家庭は主婦の支配するところとなりました。こうなると、亭
主は自分の稼ぎで自由に遊ぶことは許されなくなりましたが会社による接待という仕事
がらみの応酬が遊びと混同されるようになり、サラリーマンたちは社費を使った擬似的
な遊興に明け暮れるようになります。
また、戦後派のサラリーマンたちは靴を脱いで上がる座敷の宴会は面倒臭がり、三味
線や踊りは面白くなく、同じ遊ぶのなら芸者よりバーの女の子の方が話が早いや、など
という了見に移り変わって行ったのです。このような敗戦後育ちの若手の役人やサラリ
ーマンを目の当たりにした東京の花柳界は、大物政治家や基礎産業の重役、またはオー
ナー企業の経營者より外は、すべて縁無き衆生と見なし、堅く門を閉ざすことで自衛の
道を図るようになったのは序文に記した通りです。折から東京は、オリンピックを前に
しての都市の再開発が断行されつつありました。
このように、高度経済成長にともなう大衆消費社会の出現とその中心になったサラリー
マン層の大部分は、芸者業界と相容れることがなかった。
「芸者遊び」より「バーでホステ
スと酒を飲む」ほうを好む普通のサラリーマン層は芸者業界の客層にはならず、芸者業界
も政治的・経済的な有力者しか客として受け入れなかったことがわかる。
また、戦後政府が制定した法律による規制は、芸者制度全体にとって大きな打撃を与え
ることになる。法律の影響について、岩下(2006:236-237)3は以下のように説明してい
る。
戦敗後の芸者屋にとって致命的だったのは、満十七歳にならなければ芸者になれない
という労働基準法、また児童福祉法によって仕込みの時間が限制されたことに加えて、
1
2
3
岩下尚文(2006)
『芸者論-神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣, p.228
岩下尚文(2006)
『芸者論-神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣, pp.228-229
岩下尚文(2006)
『芸者論-神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣, pp.236-237
52
芸者の見習い希望者に対しての貸し金の問題が、売春防止法を逆用する者のために不払
いで済むようなことが出て来て、幼い頃から芸者に育てることが事実上、不可能となっ
たことです。幼い尐女を子飼いから芸者に仕上げるまでには、六つ七つ頃から師匠に付
かせて諸芸を仕込み、着せて、食べさせて、満十七歳で披露目となると衣裝一切を立て
替えなければなりませんが、その子が売春防止法を逆用した場所に、芸者屋の貸し金は
踏み倒されてしまいます。
以上のように、労働基準法・児童福祉法・売春防止法など三つの法律の影響によって、
子供のころから芸者に必要な芸能を習得させることが困難になったことがわかる。
つまり、
芸者の後継者育成が困難になったということである。
さらに、売春防止法を芸者業界にも適用したことについて、岩下(2006:236)1は「花
柳界が、売春防止法後にさまざまな形で湧き出た様々風俗産業と一線を画して、宴会を主
たる業務として、接待の場として機能して来た事を認めずに、芸者と売春を直結させるこ
とは、いかにも色町の事情に疎い、無邪気に過ぎる態度と言わざるを得ません。
」と述べて
いる。
一方、戦後の西洋文化の侵入によって新たに形成された多様な風俗産業は、伝統的な芸
者業界から客を奪っていった。バーについて、Nicholas Bornoff (2005)2は以下のように
説明している。
1920 年代にカフェーと呼ばれたバーは、1950 年代になると日本全国に広まり、店の外
に赤提灯をぶらさげた伝統的な飲み屋のライバルとなった。その室内はアメリカ式の装
飾で満たされ、化粧をしたホステスが客のお供をして楽しく酒を飲ませる。店主は「マ
マさん」或いは「マスター」と呼ばれ、この水商売を取り仕切る人物である。このよう
なバーが増え、業界の中心となり、高級化するに従って、茶屋と芸者の時代は終わりを
迎えることになる。不況の時期には、これらのバーは日に日に減尐し、残ったバーは驚
くほど料金が高かった。一部の低級なバーでは、こっそり性的なサービスを提供するこ
ともあった。
(筆者訳)
以上のような外部からの脅威以外に、伝統的な芸者業界から客を奪ったのは、温泉芸者
であった。温泉芸者について、Antony Getten(2004)3は「温泉芸者は「芸者」というブラ
ンドを利用して、客を引き寄せた。もちろん本物の伝統的な芸者ではなく、娼妓が自分の
価値を高くしただけであって、本当の芸者の優雅さはなく、もてなしも舞踊も安っぽいも
のだった。しかし、安いという理由で歓迎され、芸者にとって脅威となった。
(筆者訳)
」
と述べている。
1
2
3
岩下尚文(2006)
『芸者論-神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣, p.236
Nicholas Bornoff (2005)楊波・吳小菲・徐亞坤譯『國家地理旅行家-日本』秋雨文化事業, p.74
Antony Getten(2004)DVD『藝伎的真實生活』英國廣播公司 BBC 2008.04.17
53
3-2-2 芸者没落の要因
戦後の芸者の主な没落の原因について、岩下(2006:228-237)1は、重要なことを挙げ
ている。その内容を以下のように整理してみた。
① 自由に恋愛して結婚ができるので、擬似恋愛の装置であった花柳界の必要性も薄ら
いできた。
② 銀座や赤坂にバーの大型店が大阪から進出した。
③ 戦後、にわかに沸き起った大衆消費社会とサラリーマンの出現により、芸者は遠い
存在となった。
④ 楽団を備えてアトラクションも楽しめるナイトクラブやキャバレーが接待の場所に
なり、花柳界の機能を奪われるようになった。
⑤ 戦後育ちのお客には、料亭や芸者は感覚的に馴染みの薄いものになった。
⑥ 戦後に児童福祉法と労働基準法が制定され、制度の維持が困難になった。
⑦ 売春防止法後にさまざまな形で湧き出た様々な風俗産業に地位を取って代わられた。
以上をさらにまとめると、以下の 3 点に要約できる。「戦後民主化に伴う日本社会の変
化(自由恋愛)=①」「客層の変化と娯楽の多様化=②③④⑤」「法律による規制の影響
=⑥⑦」
また、ほかの没落の原因について「中國經濟網」というニュースサイト2は「第二次世界
大戦後、日本の芸者業界は大いに没落した。戦後の経済復興時期には、会社関係の接待・
サービス業が盛んになり、また旅行・観光業がブームになったこともあって、一時期、芸
者業界も栄えた。
(中略)しかし、バブル経済の崩壊により、経済活動が減尐し、芸者業界
は再び谷底に転落した。
(筆者訳)
」と述べている。
このように、芸者業界は戦後経済復興期には好景気の影響で一時的に栄えたが、バブル
経済が崩壊した 1990 年代には不況の影響で衰退したことがわかる。
1
岩下尚文(2006)
『芸者論-神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣, pp.228-237
中國經濟網「日本藝伎:雖衰猶存 風光不在(2008 年 01 月 10 日)」
http://big5.ce.cn/gate/big5/civ.ce.cn/yw/200801/10/t20080110_14181762.shtml 2008.07.12
2
54
3-3 芸者業界の今後の展望
戦後の日本経済は高度経済成長期(1950 年代半ば~1970 年代初め)
、石油危機後の安定
成長期(1970 年代半ば~1980 年代末)
、そしてバブル経済崩壊後の低成長期(1990 年代~
現在)と変化してきた。経済の低成長期には国民の消費支出も減り、娯楽や文化の内容も、
そして娯楽にかける出費も変化した。このような経済や社会の変化が、芸者という伝統文
化の維持を困難にしている。
「花代」
「お座敷代」と呼ばれる芸者の出演料は非常に高額で
あること1、芸者が接待するお客は社会的地位が高くて裕福な人たちだけに限っていること、
これらが原因で、一般国民の経済力では芸者の出演をみる機会がほとんどない。芸者とい
う伝統を維持するために、芸者側が大衆化しなければならないであろう。
現在の京都の芸者について、竹中聖人(2007)2は以下のように説明している。
京都の花街が依然としてステイタスを維持している証拠として、芸妓・舞妓が活躍す
る機会の多さをあげられる。特に「舞妓さん」のイメージは京都にとって欠かせない表
象である。京都では神社や寺院・会社での行事や地域での祭り、公共のキャンペーンな
どに舞妓が姿を見せる。京都を離れても、日本各地の京都に関する広報や物産展で舞妓
姿を目にすることは多い。さらには海外から訪れたVIPを相手にすることもしばしばで、
京都にとって欠かすことのできない存在である。京都といえば「芸妓さん・舞妓さん」、
「芸妓さん・舞妓さん」といえば京都と言ってもいいくらいである。全国で京都ほど花
街の人間が活躍している地域はないだろう。
さらに、京都の観光資源としての芸者について、竹中聖人(2007)3は以下のように説明
している。
彼女たち舞妓さんと芸妓さんは京都の観光資産だと認識されている。観光資源はモ
ノ・コト・ヒトの3種類をあげることができる(山上2000、2002)4。モノとは自然資源
や人文資源・産業的資源のことで、京都なら神社仏閣と豊富に有している。コトとは祭
りや年中行事などであり、京都には三大祭をはじめとしていくつも知られている。そし
てヒトというのが、京都の場合なら家元や舞妓・芸妓になる。山上(2000、2002)では
ヒトの項目で芸妓・舞妓があがるだけだが、芸妓・舞妓だけでなく花街として見たとき、
そこは茶屋建築があり芸能ありと、モノ・コト・ヒトの3つすべてを備えた空間なことに
気づくだろう。花街とは京都の観光資源が凝縮された空間だと言える。
このように、お座敷で芸者遊びをしなくても、現在の京都では芸者を見かけることがで
きる。これは京都と芸者が協力して観光のための営業活動をしている結果であり、芸者側
1
芸者の料金について調べてみたところ、
「30 分を 1 本と数え、2 時間(4 本)がひと座敷となります。
(芸者さ
ん一人、2 時間=20,000 円前後)
」
「惑星水族館」http://www12.plala.or.jp/chocolate_devil/html/geiko.html 2008.11.17。
また、
「料亭でお客一人(料理込み)芸者一人の場合、お一人様、2 時間で 35,000 円」
「向島の料亭月笛」
http://www.tukibue.jp/framet.htm 2008.11.17 以上のような値段であった。
2
竹中聖人(2007)「花街の真正性と差異化の語り-北野上七軒と五番をめぐって-」立命館大学大学院先端総
合学術研究科『Core Ethics』vol.3, p.249
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/tk04.pdf 2008.08.03
3
竹中聖人(2007)「花街の真正性と差異化の語り-北野上七軒と五番をめぐって-」立命館大学大学院先端総
合学術研究科『Core Ethics』vol.3, p.249 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/tk04.pdf 2008.08.03
4
山上徹(2000)
『京都観光学』法律文化社・山上徹(2002)
『観光の京都論』学文社
55
が公共の場所に出るという営業努力の結果であると言えるであろう。
「舞妓さん」は京都に
とって代表的なイメージであり、祭りなど年中行事や茶屋建築とセットになって京都の観
光資源になっている。
また、芸者遊びの場合、客層は男性に限られるが、芸者のイメージを利用して客層を女
性に広げた「舞妓変身体験」という京都の新興の観光産業もある。
舞妓変身体験について、相原恭子(2007)1は以下のように説明している。
舞妓や芸者の衣裝、カツラ、お化粧などすべて本物の舞妓のように変身させてくれる
舞妓変身スタジオが人気がある。近年は、舞妓の場所は本格的な髪結いで髪を結い、衣
裝も質の高いものを用意している店や、価格は手軽だがカツラを被る店など、様々な店
がある。この変身のためにわざわざ新幹線に乗って京都へ来るお客さんもいる。10代~
80代までその年齢層は幅広い。母娘で一緒に変身したり、男性のお客さんにも豊臣秀吉
や織田信長に変身して、その後は人力車のお迎えで京都散策というコースや、花街を歩
きながら記念写真攝影というコースも用意されている。また、スタジオの金屏風の前で
ポーズを取ってポートレートにするなど様々な趣向がある。衹園や八坂神社近くでは、
「あっ、舞妓さんだ!」と写真を撮りに行くと、実は変身舞妓だったりすることもある。
変身してみると分かることだが、着物を着た身のこなしがきちんできないと、せっか
く着た立派なお引きずりも不恰好になる。舞妓や芸者が立居振舞をおかあさんやおねえ
さんたちにいかにきびしく躾けられてきたかを実感するという。
一方、東京でわかりやすい料金で芸者体験ができる店について「渋谷の考現学」2という
ウェブサイトは以下のように紹介している。
おでん割烹「ひで」は、円山町でも芸者を呼ぶことができる、数尐ないお店のひとつ
だ。
「ひで」の大将幸田博さんと、仲居を務める山下幸子さんに話を聞いた。
(中略)
予約時にお願いすれば、花代(料金のこと)として1人1時間8,000円(※2時間から)
で「円山芸者」を呼ぶことができる。
(中略)
いまでは、まず企業の接待客が減り、そのかわり、昔ながらの花街の雰囲気に興味を
持つ若い客層が増えてきたそうだ。ただし、
「芸者遊びを一度体験してみたい」という軽
いノリで、ほとんどは一見さんとのこと。
「遊び方を知らない若いお客さんが多いです。
しかたないことですけど、お姉さん達は大変でしょうね」と、山下さんはいう。わかり
やすい料金設定に我々マニュアル世代には、
「ご祝儀」という感覚も理解が難しいし、や
はり敷居は高い。
さらに、東京の芸者側の新しい試みについて、「渋谷文化」3というウェブサイトは以下
のように説明している。
かつては料亭がひしめき合い、多くの芸者が闊歩した渋谷・円山町。街の光景は様変
わりしましたが、今も二人の現役の芸者が伝統文化の灯を守り続けています。その一人
1
相原恭子(2007)
『未知の京都 舞妓と芸妓』弘文堂, p.175
NHK 出版「渋谷の考現学」 http://www.nhk-book.co.jp/magazine/column/shibuya/0401/review.html 2008.09.14
3
『渋谷文化プロジェクト』
「KEY PERSON・今や現役芸者は私を含めて二人だけ円山町を日本文化に触れられ
る街に」http://www.shibuyabunka.com/keyperson.php?id=15 2008.10.22
2
56
である喜利家鈴子さんに、
渋谷における芸者文化の変遷や今後の展望などを伺いました。
(中略)
芸者は減ってしまいましたが、新しい試みを始めていらっしゃいますね。
伝統文化を守りながらも今の時代に合ったスタイルを生み出さなきゃいけないと思っ
ています。そもそも芸者遊びって、すごく高いというイメージがありますよね。二人客
でも八畳一間を使ったり、お花を生けたり、仲居が世話したり、芸者そのものよりも、
空間や器物の費用がかかるんですよ。だから現代的なスタイルとして、料亭ではなく和
風サロンにお客様を集めて、芸者の芸や、拳(お座敷じゃんけん)、投扇興、さらに三
味線や鼓、笛、小唄、長唄などの演奋や、撫子(=なでしこ・見習い芸者のこと)の接
待などを、これまでに比べてリーズナブルに楽しんでもらう「音姫と太郎の会」という
試みを始めました。いわば、飲食と接待の付いた和風のライブハウスみたいな感じです
ね。
以上、東京渋谷の例から見ると、芸者遊びを体験してみたいけれど料金設定がわかりに
くいという若い客層には、料金の目安を提示することも必要であろう。また、高いお金が
かかる料亭ではなく、他の場所に芸者を呼んでその芸をみんなで楽しむライブハウスのよ
うな試みもあることがわかった。
以上、京都と東京(渋谷)の例を中心に見てきたが、他の都市(の芸者)にも参考にな
る部分が多いであろう。最後に芸者業界の今後の展望を以下に整理してみる。
①芸者遊びの値段は高いというイメージを変える。
②芸者を民衆にとってもっと身近な存在にして、両者の距離感を尐なくする。そのため
に芸者体験(変身体験や共同の場に安く芸者を呼ぶこと)ができる場所をもっと増や
す。
③若い人を多く募集して、芸者の後継者を育成する。
④芸者が伝える伝統芸能を広く世間一般の人に知ってもらう。
57
まとめ:
第 1 節では芸者の援助者である旦那について述べた。昔の旦那は芸者の金銭的な援助者
だけでなく、文化的な保護者であった。現在では社会的・経済的変化により、文化的保護
者になるほど経済的余力がある旦那は減尐している。
第 2 節では戦後に芸者業界が衰退した社会的背景と原因について述べた。戦後の日本の
社会的及び経済的変化、客層の変化と娯楽の多様化、法律による規制の影響などが原因で
芸者業界は衰退への道をたどり、伝統の維持が困難になった。
第 3 節では芸者の今後の展望を述べた。
今後、
芸者業界は外へ開かれた体制へと変化し、
観光資源としての価値を高めていくことが必要であろう。
58
第 4 章 遊女
本章では、外国人から芸者と混同されがちな遊女について述べ、芸者と遊女の似ている
点、異なる点、それぞれを比較する。
4-1 遊女
4-1-1 起源
遊女の起源について、西山松之助(1979:10)1は、以下のように説明している。
古代から、宿場・港町・寺社門などの人の多く集まる所で、歌舞伎を演じたり枕席に
侍して男たちを楽しませた女。奈良時代には遊行女婦として記し、これをうかれめと訓
ませている。平安時代になるとうかれめのほか、遊君とか、あそびなどと呼ばれ、遊女
という呼び名も行なわれた。
また、遊女の定義について、MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版2は、以下の
ように説明している。
宴席で歌舞や音曲を披露し、営利を目的に男性と共寝をする女性の総称。あそびめ、
うかれめ、傾城(けいせい)
、女郎、花魁(おいらん)ともいう。早くは奈良時代の「万
葉集」に、宴席にまねかれて歌を披露したり、一夜妻をつとめる遊行女婦(うかれめ)
が登場する。
以上のように、遊女は古代から存在し、奈良時代には「遊行女婦(うかれめ)
」と記載さ
れ、平安時代になって「遊女」という呼び名も出てきたことがわかる。
その後、近代になると「娼妓」という呼び名が登場するが、
「Yahoo!百科事典」3は、以
下のように述べている。
明治以後は、公娼制がさらに強化整備されたが、公娼の名称が娼妓に統一されたこと
と、質が低下したために、女郎、花魁などは俗称として残ったが、もはや遊女とよぶこ
とはなくなった。そして 1946 年(昭和 21)の公娼制廃止により、遊女の系統は完全に
消滅した。
このように、近代になって明治以後は「遊女」と呼ぶことはなくなり「娼妓」と呼ばれ
るようになったことがわかる。
4-1-2 江戸時代 遊廓
芸者が集められて客が通う場所は花街と呼ばれる。また、遊女が集められて客が通う場
1
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.10
MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版「遊女」
http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=1161536166 2007.11.24
3
『Yahoo!百科事典』
「遊女(ゆうじょ)
」http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%8A%E5%A5%B3/ 2008.12.19
2
59
所は「遊廓」と呼ばれる。まず遊廓の起源について見てみよう。西山松之助(1979:18)1
は、以下のように説明している。
多くの遊女屋が集まっている特定の地域を遊廓とか、くるわ・いろまち・遊里などと
呼んだ。遊女は古代からいて、港・宿駅などに遊里はあったが、そういう遊女屋が特定
の場所に集められて遊廓となったのは秀吉・家康の頃からである。
また、MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版2は、
「近世になると、場所を限定し
て遊女屋営業が許可された。1587 年(天正 15)豊臣秀吉が京都柳町に遊郭をおいたのがそ
の始まりである。
」と説明している。
以上のことから、遊郭が形成され始めたのは、豊臣秀吉・徳川家康の頃であり、戦乱が
続いた戦国時代が終わって社会が安定化し始めた時期であったことがわかる。
次に、遊廓の社会について見てみよう。西山松之助(1979:12)3は、以下のように述べ
ている。
遊女歌舞伎という言葉が物語るように、初期の遊廓の遊女は、歌舞伎舞踊を演じて、
新しい時代の文化創造に一役を果した。やがて寛永時代を迎え、江戸の吉原、京都の島
原をはじめ、各都市に公許された遊廓には壮大な妓楼が建ちならび、そこに高い教養を
身につけ、多芸多趣味のすぐれた美女がいたので、公家・武家・町人たちの有力な男た
ちがここに遊んだ。つまり江戸時代の遊廓は、単なるセックスの遊び場ではなく、高級
な社交場であった。
また、MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版4は、以下のように説明している。
(京都柳町の)遊郭内の遊女には、太夫(たゆう)と端(はし)女郎の区別があり、
太夫は四条河原の舞台で舞を披露するため、歌舞をはじめ芸事に通じていなければなら
なかった。
(中略)
(江戸)吉原の遊女には、太夫、格子女郎、局(つぼね)女郎、端女郎、切見世女郎
などの区別があった。太夫は、芸事だけでなく、武士の相手をつとめられるほどの教養
も身につけ、金や権力にこびない資質も必要とした。
(中略)吉原遊女約 3000~4000 人
のうち、太夫は 10~20 人ほどだったという。
このように、江戸時代の遊廓は文化的な側面も持っていて、文化・芸能的にすぐれた遊
女や権力者である客たちの高級な社交場であったことがわかる。しかし、すべての遊女が
高い教養を身につけていたわけではなく、太夫と呼ばれる一部の位が高い遊女だけだった
ようである。
次に、遊廓内の社会構成について、江戸の吉原を例に見てみよう。遊廓内の構成は揚屋
(茶屋)
、置屋、見番の 3 つである。まず、揚屋(茶屋)と置屋について、西山松之助(1979:
1
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.18
MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版「遊女」
http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=1161536166 2007.11.24
3
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.12
4
MSN『エンカルタ百科事典』ダイジェスト版「遊女」
http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=1161536166 2007.11.24
2
60
26)1は、以下のように説明している。
客が遊女を呼んで遊興する場所――簡単に揚屋を定義するとこうなる。置屋は遊女を
抭えている家、要するに遊女屋である。遊客は廓に行くと、揚屋に入って遊女を指名す
る。置屋では、指名の遊女を呼びに置屋へ若者を走らせる。
(中略)指名の遊女が来るま
で、客は揚屋で芸者・幇間を相手に酒宴を張るのが普通だった。このような遊びの手順、
あるいは揚屋と置屋の相関関係的存在を揚屋制度という。
(中略)
揚屋へ呼ぶ遊女は高級遊女の太夫・格子であった。
それ以下の遊女は茶屋に呼ばれた。
関西の場合、囲以下の遊女を呼ぶ所は呼屋と称した。遊女を呼ぶ場所にも、その格式に
よって、揚屋・茶屋・呼屋といった種類があったのである。
(中略)
揚屋での遊びは経費がかさんだ。高級遊女を呼び、女芸者(芸子)
・幇間と騒ぎ、しか
も揚屋への仲介料も払わねばならなかったであろうから、経費が高くつくのも当然だっ
たといってよい。したがって、揚屋で遊ぶ客は富裕者が多かった。吉原の客層は享保以
降、大衆化の傾向があったといわれている。その傾向のなかで、高級遊女の太夫・格子
が姿を消し、揚屋も消滅した。
(中略)
置屋は遊女を抭えている家の称であった。遊女は揚屋へ呼ばれ、客の遊びに応じた。
置屋の称は揚屋に対するものである。遊女を抭えている家には各種の呼び方があった。
遊女屋・傾城屋・女郎屋・娼家・亡八2等々、といった具合である。
(中略)
芸子は芸子屋から送り出されて茶屋へ行った。その習俗からみて、芸子屋も置屋の性
格を持っていた。芸子屋は子供屋ともいう。明治以降、遊女は貸座敷に常住し、そこで
客と接することとされ、遊女屋としての置屋は消滅した。現在も置屋の語はある。それ
は芸子屋の名称変更で、芸者置屋・芸妓置屋の略称である。
以上の内容を整理すると以下のようになる。
①揚屋は客が遊女を呼んで遊興する場所。高級な揚屋以外に茶屋・呼屋といった場所
があったが、客の大衆化にともない、高級な揚屋は消滅した。
②置屋は遊女を抭えている家。遊女屋・傾城屋・女郎屋・娼家・亡八とも呼ばれた。
遊女屋としての置屋は明治以降消滅した。現在「置屋」という場合、それは芸者置
屋のことである。
遊廓で遊女を管理する所は、見番である。見番の異称と創設時期については、西山松之
助(1979:30)3によると、
「見番は見番所ともいい、検番とも書いた。江戸においては、
安永年間(1772~1781)
、遊里吉原で創設された。
」と説明されている。
また、見番の開設目的について、西山松之助(1979:30)4は、
『新撰東京名所図会・新
吉原の部』と『江戸花街沿革誌』を引用して、以下のように説明している。
両書によれば、見番は①芸者の風紀紊乱取締、②芸者の祝儀・玉代に対する吉原公共
1
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.26
亡八(ぼうはち) 「
『吉原大全』によると、
「類聚算要に、孝悌忠信礼義廉恥の八ツをも、わするゝほどおも
しろき所といふこころにて亡八と書て娼家の名とす。
」ということから付けられた。
」西山松之助(1979)
『日本史
小百科・遊女』東京堂, p.27
3
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.30
4
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.30
2
61
費用の賦課・収紌事務の処理、を目的にして開設されたのだった。
さらに、西山松之助(1979:30-31)1は、寛政八年(1796)の『新吉原町規定証文』を要
約して紹介して以下のように説明している。
(中略)
三、男女芸者の勤務・身持にけしからぬことがあっては吉原一同の商売の支障になる
ので、
(中略)①衣類・髪飾・櫛・笄2・簪は目立たないものを着用する。②客の求
めがあっても、女芸者を大門の外に連れ出さない。③女芸者は客と通じてはならな
い。④男芸者が遊女と通じること、および馴染の遊女を客にとりもつことはともに
禁止する。これらの事項を守ること。
四、女芸者が客と茶屋で相対になるのを禁じ、もし違反して売春行為をしたならば、
女芸者は営業停止とし、
場所提供の茶屋はもちろん、
両隣の茶屋も休業処分にする。
(中略)
吉原の商売は遊女の身体を客に提供して成立する。女芸者の売春は遊女屋にとって営
業妨害。四はそれに対する処置だった。これらの内容からすると、見番創設は遊廓吉原
の特殊事情解決策だったように見受けられる。
以上の内容を整理すると以下のようになる。
①吉原の見番創設の目的は、芸者の風紀紊乱取締と吉原公共費用の賦課・収紌事務の
処理であった。
②芸者の風紀紊乱取締とは、つまり女芸者が売春をして遊女屋の営業妨害をしないよ
うに取締ったことである。
4-1-3 江戸時代 遊女の教養と服装
太夫が身につけるべき教養について、西山松之助(1979:120)3は、以下のように説明
している。
『色道大鏡』4によると、一流の太夫を育成するには、十四歳で禿に仕立て、其家第一
の女郎5に付けて見習いをさせ、十四歳で禿立といって一人前の遊女になる。この四年間
に、太夫・天神6・囲(鹿恋)7としての修業を積み、先輩遊女の指導をうけた。この際、
彼女たちの身につけるべき遊芸は、同書によれば、三味線・琴・小弓・貝覆8・続松(歌
1
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, pp.30-31
笄(こうがい) 江戸時代の女性用髪飾りの一。髷(まげ)などに挿す。金・銀・鼈甲(べっこう)
・水晶・瑪
瑙(めのう)などで作る。
「infoseek マルチ辞書」
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?spa=1&sc=1&se=on&lp=0&gr=ml&qt=%E4%A2&sm=1&sv=KO 2008.09.30
3
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.120
4
「延宝六年(1678)の序をもつ遊里案内書である。
」西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.218
5
「客に色を売る女。あそびめ。うかれめ。傾城(けいせい)
。遊女。じょろ。
」
「infoseek マルチ辞書」
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=0&sm=1&sc=1&gr=ml&qt=%A4%B8%A4%E7%A4%ED%A4%A6&sv=KO&lp
=0 2008.10.23
6
「官許の遊女、または芸妓のうち、太夫に準ずる者への呼びかけ。
」日本語版フリー百科事典『ウィキペディア
ア(Wikipedia)
』
「天神」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9E 2008.07.21
7
「かこい(囲い・鹿恋・鹿恋位)元録以前に島原・新町において使われた名称。太夫・天神の次に位する遊女
をさす。
」西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, p.119
8
(貝合わせ)
「遊戯の名。360 個のはまぐりの貝殻を右の地貝と左の出し貝とに分け、地貝は伏せ並べ、出し貝
2
62
がるた)
・加留多・歌文字鎖1・双六・手鞠・はねつき・弾貝2・石何劫3で、とくに歌がる
たや歌文字鎖は、古歌の知識を要する高級な遊びであり、同書の「異見百首」に「ひま
なくと よみおぼゆべき 物なるは 古今の歌や いせものがたり」とあるように、古
典文学の教養を基本とするものであり、
「たんざくや しきしの歌の散しやう かなづ
かひをも よくならひおけ」というような、能書家としての技倆も要求され、松葉屋の
瀬川や、五代目高尾のようにその能筆を後世まで伝えられる太夫も尐なかった。
また同書には、音曲では、小歌4・淨瑠璃5・説教6・船歌7・躍口説8などがあげられてい
るが、淨瑠璃以下は太夫職の口にすべきものではないとしている。
また、太夫の教養について、
『たばこと塩の博物館』9のウェブサイトは、次のように述
べている。
吉原において「太夫」と称されるような高級遊女は、美貌だけでなく、大名の席に出
ても恥ずかしくないだけの教養を身につけていた。和歌・俳諧・漢詩・古典・書道・華
道・茶道・碁・将棋・琴・三味線などを、一通りマスターした上で、さらにその中の一
芸に秀でていなければならなかった。吉原の高級遊女独特の意気と張りは、そうした高
い教養から培われた自信から生まれたのである。禿の時代から厳しい修行を重ねて教養
を身につけ、廓言葉(=ありんす言葉)10という吉原独特の言葉使いを我がものにして
初めて、
「花扇」
「雛鶴」という源氏名を持つ一流の遊女になれたのであった。
以上のように、遊女の最上位とされる太夫は、芸者と同じくらいたくさんの芸能を習わ
を一つずつ出して、これと合う地貝を多く集めた者を勝ちとする。
」松村明編(2001)
『古語辞典』旺文社, p.338
1
(文字鎖・もじぐさり)
「女子の遊戯の名。一人が古歌をよむと、次の者は、その歌の最後の音を次の歌の頭に
置いて他の古歌をよみ、次々に言い連ねて行くもの。
」
「infoseek マルチ辞書」
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=0&lp=0&sm=1&sc=1&gr=ml&qt=%CA%B8%BB%FA%BA%BF&sv=KO&se=o
n 2008.09.30
2
弾貝 おそらくこれは「おはじき」のことだと思われる。
3
石何劫(いしなご)
「女児の遊戯の一つ。小石をまき、そのうちの一つを投げ上げ、落ちないうちにまいた石を
つかみとり、早く取り尽したものを勝ちとするもの。今の「おてだま」に似る。
」松村明編(2001)
『古語辞典』
旺文社, p.112
4
小歌(小唄)
「江戸時代、三味線に合わせて歌った俗謡。
」松村明編(2001)
『古語辞典』旺文社, p.486
5
「三味線を伴奋楽器として太夫が詞章を語る音曲である。詞章が、単なる歌ではなく、劇中人物の台詞やその
仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が变事的な力強さを持つ。
」日本語版フリー百科事典『ウィ
キペディア(Wikipedia)
』
「浄瑠璃」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83 2008.07.23
6
説教節(せっきょうぶし)
「仏教の「説教」をもととし、声明から出た和讃・講式・平曲などを取り入れ、近世
初頭に流行した大衆芸能。
」松村明編(2001)
『古語辞典』旺文社, p.735
「説教浄瑠璃(せっきょうじょうるり)
」
「江戸初期ごろ流行した大衆芸能。
「説教節」が三味線やあやつり人形と
提携した劇場演劇。
」松村明編(2001)
『古語辞典』旺文社, p.735
7
船歌(舟歌)
「舟を漕ぎながら、あるいは船を引きながら歌う歌。
」
「infoseek マルチ辞書」
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?spa=1&sc=1&se=on&lp=0&gr=ml&qt=%C1%A5%B2%CE&sm=1&sv=KO
2008.09.30
8
躍口説(おどりくぜつ)
「口説き節(くどきぶし)
」
「瞽女(こぜ:盲目の女性)などが三味線に合わせて歌った
哀調を帯びた歌曲。
」松村明編(2001)
『古語辞典』旺文社, p.432 踊口説は口説き節と関係があると思われる。
9
JT『たばこと塩の博物館』
「高級遊女の高い教養」
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventSep02/yosiwara_3.html 2008.07.21
10
廓言葉 吉原には、各地方出身の女性が流入していたため、当然のことながら、各地のお国言葉が使われてい
たが、それらが混在しては 艶消し(色気がないこと)であるというので、やがて優艶な吉原言葉に統一する必要
に迫られた。かくて生まれたのが、廓言葉ともいわれる「ありんす言葉」で ある。
「ありんす」とは吉原の廓言
葉の代表で、
「あります」を意味する。JT『たばこと塩の博物館』
「ありんす言葉」
63
ければならない。
そして、
学習する芸能の内容も芸者と非常によく似ているところがある。
お座敷でお客のために芸能を披露するためという学習の目的も同じである。
結局、どちらも客層が、社会的地位も高く、経済力もあり、
「文化・教養的に高い水準」
の人々であることから、その客を相手にするために身につける教養も似てくるのは当然で
あろう。しかし、大夫より下の一般の遊女は、客層が大夫ほど高くなかったので、これほ
ど高い教養を身につける必要はなかった。
次に遊女の朋装について見てみる。文化時期(1804-1817)の遊女の朋装について、
「助
六の小粋なジャケット・ベスト 100」1のウェブサイトは、以下の表のように説明している。
この頃の風俗がピンとくる吉原像である。
芝居、映画などでおなじみの容姿である。
この時代になると芝居の揚巻の姿に近くな
ってくる。櫛は二枚さし、前ざし六本、後ざ
し八本です。後ざしは髪掻きと耳掻きの間に
定紋をつけてあります。髷は島田髷で、長い
笄をさして、仕掛けは三枚重ねで、表仕掛け
は梅の裾模様を細かに染め上げ、下仕掛けの
ふきは厚くなっています。帯は本帯で、両端
を長く下げてあります。
図 1 文化の頃の遊女2
以上のように、芸者に比べて、遊女は簪が多くて、派手な着物を着ていることがわかる。
また、朋のすそが長いが、これは遊女だけではなく当時の女性は「おひきずり」と呼ばれ
るすその長い着物を着ていたからである3。
また、遊女の帯について、
『着物あきない』4のウェブサイトは下表左の文章のように説
明している。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventSep02/Welcome.html 2008.07.06
1
『助六の小粋なジャケット・ベスト 100』
「吉原・遊女の風俗」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/fuuzoku.htm 2008.10.30
2
『浅草防犯健全協力会』
「遊女風俗変遷 その四」http://www.yoshiwara.tv/history/alacult/main13.html 2008.11.20
3
「おひきずりするようになった理由、二つの出来事。寛永 3 年(1626 年)と寛永 5 年(1628 年)に幕府より織
物の丈尺規定のお触れが出されます。これにより従来の織物の巾が狭くなり丈は長くなります。
(中略)もう一つ
は大火です。
(中略)小袖の身丈を対丈でなく 5 寸から 6 寸長くしたのはいつ火事がおきてもすぐに逃げられるよ
うに掛け布団と小袖を兼用した事からはじまるという説があります。天和年間ごろ(1681 年~)からおひきずり
ははじまりました。菱川師宣の見返り美人は裾が長くなっています。
(中略)よっぽどの貧乏人や下女以外は室内
ではおひきずりにしたそうです。
」
『着物あきない』
「歴史編 4 おひきずりと帯」
http://kimono-akinai.com/rekisi/rekisi4.html 2008.11.01
4
『着物あきない』
「歴史編 4 おひきずりと帯」http://kimono-akinai.com/rekisi/rekisi4.html 2008.11.01
64
図 2 歌を詠む遊女2
帯の結び方は三種類あります。後結び、横結び、
前結びです。結婚すると前結びにする習慣があり
ましたが前で結ぶと日常生活は邪魔になる為だん
だんと廃れて遊女や老女だけに前結びの習慣が残
ります。遊女の場合、たとえ一晩でも妻として一
夜を過ごしますという事だそうです。余談ですが
お江戸の町は男性の方が多く、女性を大切にしな
いと相手にされなくなるそうで独身の男性も多
く、男性の再婚は難しい時代だったそうです。
時代がすすむにつれてより装飾性が増して、帯
巾がひろくなります。帯巾がひろくなると横結び
はやりにくいので後結びか前結びの方が支流にな
ります。1
このように、遊女の帯の結び方は前結びだったことがわかる。妻として一夜を過ごす意
味を持っていたようである。
以上から見ると、この時代の遊女は、華麗な着物を着て、髪にはたくさんの簪を挿し、
帯は長い前結びをしていたことがわかる。
4-1-4 江戸時代の遊女のランクの変化
ここでは江戸時代の吉原の遊女のランクの変化を見るが、まず、吉原の歴史を確認して
おこう。吉原の歴史について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』3は
以下のように説明している。
吉原遊廓は江戸幕府によって公認された遊廓。はじめは日本橋近く(現在の日本橋人
形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉
原と呼んだ。
つまり、吉原遊郭はもともと江戸の日本橋にあったが、明暦の大火(1657 年)の後、移
転して新吉原と呼ばれたのである。
さて、江戸時代の遊女のランクについて、
『松本深志高校落研 OB 会』4は、次のように
述べている。
初期の吉原(元吉原)時代、遊女は「太夫」「格子」「端」の三ランクに分かれてい
た。
太夫と呼ばれるには、姿形が美しく、かつ教養も備えていなくてはならなかった。歌
舞音曲はもちろんのこと、和歌朗詠、囲碁、茶道、華道に通じており、たとえ大名クラ
1
『着物あきない』
「歴史編 4 おひきずりと帯」http://kimono-akinai.com/rekisi/rekisi4.html 2008.11.01
『浮世絵にみるエンターテイメント』
「展示室 1-歌を詠む遊女」
http://www.medianetjapan.com/10/entertainment/ms24/agjq.htm 2008.11.08
3
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「吉原遊郭」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93 2008.11.18
4
松本深志高校落研 OB 会『色里・吉原』
「吉原の仕組み」http://home.a05.itscom.net/hotaru/page163.html 2008.10.15
2
65
スの客の前に出ても恥ずかしくないだけの品性や才知もあったのである。
その下の格子というランクは、文字通り格子のある見世に並び「格子女郎」と呼ばれ
た。この時期、太夫・格子までを一般に「花魁」と呼んだ。
端は小見世以下の遊女たちの総称である。江戸市中で取り締まられ吉原送りになった
湯女や遊女が増えてくると、端女郎は、「局」「端」「切見世」に細分化され、元吉原
末期には都合五ランクに分かれた。
新吉原になって遊女の数は増えたものの、
およそ 70 名ほどいた太夫が半数以下に減っ
てしまった。最大の顧客層であった地方の大名の出入りが、幕府の「金減らし」政策等
により減ってしまったことが大きな要因となっている。
太夫は吉原の看板であるため、みっともない格好はできなかった。前述の通り教養も
必要であり、専属の使用人も雇わねばならず、とにかく金がかかる。いい金主がついて
いなくては、なかなか維持はできなかったのである。
太夫の数はその後もどんどん減っていき、宝暦二年(1752 年)ついに一人になり、そ
の太夫も 8 年後に引退したため、吉原から太夫が消えた。以降、「花魁」という呼び名
からは上級の遊女を示す意味合いが薄れていき、幕末には単に遊女全体をさす呼び名に
なる。
その他の遊女たちの名称も時代とともに変化していった。
このように、遊女のランクは「太夫」「格子」「端」の 3 つがあったが、元吉原の末期
の時、端女郎の分類が増えて「局」「端」「切見世」となり、遊女のランクは全部で 5 つ
になったことがわかる。また、太夫の維持にはお金がかかるため、太夫は新吉原の時代に
なくなってしまったことがわかる。また、太夫・格子女郎を「花魁」と呼んだが、大夫が
なくなってからは、遊女全体をさす呼び名に変わっていったことがわかる。
また、最上位の「太夫」のみが行った「花魁道中」について、ウェブサイト「助六の小
粋なジャケット・ベスト 100」1は、以下のように説明している。
松の位の太夫職の遊女が、遊女屋から揚屋入りすることを花魁道中という。宝暦
(1751-64)年中、太夫がなくなったあとは、呼出しの遊女が、京町、江戸町から仲の町
を通って、茶屋へゆくのを道中といい、廓の灯がともる頃から始まります。下図の人数
がほぼきまった形で定着した。
1
『助六の小粋なジャケット・ベスト 100』
「吉原・遊女の生活」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/yuujyonoseikatu.htm 2008.10.30
66
図 3 花魁道中1
それぞれの遊女について、西山松之助(1979:114-117)2は、以下のように詳細に説明
している。
端女郎というのは、
(中略)太夫以下の遊女をすべて総称して端女郎と呼んだ。これは
見世張の時、太夫は中央に座し下等の遊女は端に居たことによる。
(中略)太夫は元吉原
の課役で評定所へ遊女を差し出す事が決められていたことなどから、武士と応対できる
程の教養を持ち、遊芸に秀で意気と張りを持つ者で、揚屋でのみ会うことができた。次
の階層は格子女郎と呼ばれる遊女である。大格子の内に部屋を構えて、局女郎に紛れな
いように格子の名を付けたといわれる。
(中略)端女郎より分かれた者である。次は局女
郎で、やはり端女郎から分かれた者。
(中略)次が端女郎で、この頃は遊女の最下位とな
っている。
新吉原に移転した頃、切見世女郎と呼ばれる遊女が出現した。切見世は吉原を囲む御
歯黒溝の周囲に発生したもので、羅生門河岸などの名称を生み出した。
(中略)
新吉原中期になると、
(中略)その次に散茶女郎が出現する。寛文八年(1668)に隠売
女を捕え刑罰として吉原に送り込み、伏見町・堺町を設けてここに置いた。見世に風呂
屋の体を用い、局見世を広く構え、大格子を付け庭を広くし台(楼主の居る所)を設け
た。この種の妓楼七二軒、遊女五二人、散茶女郎の誕生である。名は輾茶に由来する。
煎茶のように振り出すこともなく、吉原在来の遊女のように意気もなく客をふらないこ
との意。局女郎は散茶女郎抬頭のため揚代を散茶と同額にする。元禄初期には梅茶(埋
茶)女郎が生れる。散茶を水でうすめたという意で、散茶に類し家作りは散茶より劣る。
梅茶の出現により、局女郎は消失し、一部は散茶、他は一歩下って梅茶に零落していく。
最下位は切見世女郎で、局女郎が一部これに堕落し、いつしか端女郎も絶える。
(中略)安永・天明期に至り、太夫・格子は潰滅し、廓内は散茶の全盛となる。太夫、
格子の地位にとって代るのが、呼出といわれる遊女で、仲之町3を道中する特権をもつ。
1
『助六の小粋なジャケット・ベスト 100』
「吉原・遊女の生活」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/yuujyonoseikatu.htm 2008.10.30
2
西山松之助(1979)
『日本史小百科・遊女』東京堂, pp.114-117
3
仲の町 来客のあることがあらかじめ分かっていれば、遊女は仲の町の茶屋まで出て、客の到来を待つ。これ
67
次が昼三で、呼出と同じ散茶系、やはり仲之町を道中できる。昼だけよんでも三分かか
る所から昼三という。寛政以降になると、呼出・昼三と同じ散茶系で、付廻しという道
中も張見世もできない階層がでる。次に座敷持と呼ばれる。梅茶系で梅茶の潰滅後、自
分の起居する部屋の他に客を招き入れる座敷を持つ階層。次が部屋持。座敷持と同じく
梅茶系で自分の部屋を持ち、平常ここで寝起きし、客もここへ招き入れる。最下位が切
見世女郎。小見世で食いつめた者が行きつく階層。年令も三十歳以上が多かった。
遊女のランクと名称について、以上の内容をまとめ、さらに『松本深志高校落研 OB 会』
が作った表1を筆者が加筆修正したものが、以下の表 1 である。
表 1 吉原各時期の遊女のランクと名称
元吉原初期
元吉原末期
↑上

太夫
 「花魁」
格子女郎 

太夫
 「花魁」
格子女郎 
ランク
↓下
端女郎
新吉原中期
↑上
ランク
↓下

太夫
 「花魁」
格子女郎 
新吉原初期

太夫
 「花魁」
格子女郎 
局女郎
散茶女郎
端女郎
局女郎
切見世女郎
切見世女郎
以降
【太夫・格子は消失】
呼出
昼三
散茶女郎
「花魁」
附廻
座敷持
梅茶女郎
部屋持
切見世女郎
切見世女郎
を「仲の町張り」といい、遊女にとっては一種の顔見せであった。その姿は、浮世絵の題材として、しばしば取
り上げられている。
(中略)仲の町張りは、花魁道中と同様に上妓(高級遊女)の特権であった。
「JT『たばこと
塩の博物館』
」http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventSep02/yosiwara_3.html 2008.10.15
1
松本深志高校落研 OB 会『色里・吉原』
「吉原の仕組み」http://home.a05.itscom.net/hotaru/page163.html 2008.10.15
68
4-2 社会地位と評価
遊女の古代における社会地位について、網野善彦(1996:190-191)1は後藤紀彦の研究
を引用して、以下のように説明し、
最近の後藤紀彦の研究2によって明らかなように、古代の「遊行女婦」も大宰府などの
官庁となんらかのかかわりを持っていたと推測されるが、平安後期以降、津泊や宿に本
拠を置いて遍歴しつつ、
長者に率いられる自立した集団をなすようになった遊女、
傀儡、
そして白拍子たちも、やはり「公庭」-朝廷に属するものといわれ、内教坊あるいは雅
楽寮に属するなんらかの機関に統轄され、
番を組んで朝廷の儀式などに奉仕をしていた。
白拍子の中に神社に奉仕した人のいたことも推定しうるので、これらの女性たちは、そ
の芸能を通じて天皇・神などの「聖なるもの」に奉仕し、それに直属する、それ自身、
多尐とも「聖性」を持つ集団であったと見なくてはならない。それゆえ、尐なくとも鎌
倉時代までの遊女・傀儡・白拍子の社会的地位は決して低くなかったので、天皇・貴族
の子どもを産み、勅撰和歌集にその和歌を採られた人々のいたことはよく知られた事実
である。
さらに、網野善彦(1996:215, 219)3は同じく後藤紀彦の研究を引用して、以下のよう
に述べている。
遊女・白拍子といわれた女性職能民集団が、長者に率いられた座的な組織を持ち、西
日本は水辺の津・泊、東日本は傀儡ともいわれて宿々に根拠を置き、京・鎌倉との間を
遍歴するとともに、一方では「公庭の所属」といわれて内教坊あるいは雅楽寮などの内
廷官司に統轄され、とくに江口・神崎の遊女たちが「五節の舞」に当って舞姫に仕える
下仕として宮廷行事にも加わったことについては、すでに後藤紀彦が詳述している4。後
藤はまた、天皇、上皇、高位の貴族に寵愛されて、その子を生んだ数多くの遊女・白拍
子がおり、鎌倉期にはこうした女性を母に持つことは、官位の昇進になんら妨げになる
ことなく、遊女・傀儡はこうした実情を背景として、かなり早くから、前者は光孝天皇
の「姫君」
、後者は村上天皇の「姫君」を祖とするという伝承を伝えていた、という注目
すべき事実に言及した。
(以上、p.215)
このようにして、十世紀以降、文字を駆使して和歌を作るだけの教養と、歌舞などの
芸能を身につけ、
「性」そのものを「聖なるもの」として、
「好色」を芸能とする女性職
能集団としての遊女が、
内廷官司の統轄の下に姿を現わしてくる、
と私は考えてみたい。
(以上、p.219)
以上のように、古代の遊女は芸能を通じて天皇・神など「聖なるもの」に奉仕して、朝
廷の儀式に奉仕した。また、その集団は朝廷に属する機関によって統括されていたようで
ある。そして、和歌を作る教養と歌舞などの芸能を身につけていた。また、朝廷と関係す
1
網野善彦(1996)
『中世の非人と遊女』明石書店, pp.190-191
後藤紀彦(1986)
「遊女と朝廷・貴族」
『週刊朝日百科 日本の歴史 中世Ⅰ-③遊女・傀儡・白拍子』朝日新聞
社
3
網野善彦(1996)
『中世の非人と遊女』明石書店, p.215, p.219
4
後藤紀彦(1984)
「辻君と辻子君」
『文学』52-3
2
69
る「聖性」を持っていたので、鎌倉時代までの遊女の社会的地位は決して低くなかったこ
とがわかる。
その後の遊女の社会地位の変化について、網野善彦(1996:192)1は、以下のように説
明し、
しかし、室町・戦国期以降、天皇をはじめ、それまでの多尐とも呪術と結びついた神
仏の権威は、決定的に低落していく。そのことが、遊女や巫女など、
「聖なるもの」の権
威に依存するところ大であった女性の芸能民、宗教民の社会的地位を著しく低落させ、
かつての「聖別」は賤視の方向への差別に転化したことについては、すでに明らかにさ
れているとおりである。
さらに、網野善彦(1996:220-221)2は、以下のように述べている。
天皇家、高位の貴族とつながり、全体として社会的な地位も決して低いとはいい難い
これら遊女・傀儡・白拍子などの集団が、十三世紀後半から十四世紀を境として、劇的
といってもよいほどにその地位を低下させ、ついには社会的な賤視の下に置かれるよう
になっていくのである。
(中略)十四世紀には京に定住するようになりはじめたと見られる遊女たちは、辻子
君とよばれ、その集住地は地獄辻子、加世辻子と通称された。
(中略)この呼称自体に、
遊女に対する賤視の進行をうかがうことができる。
こうした遊女の屋は「傾城局」といわれ、立君とよばれた街娼までふくめ、遊女はこ
のころも「上﨟」と通称されていた。
(中略)実際、室町期以降の「傾城局」は河原者・
非人などと同じく、京都では検非違使の統轄下に置かれ、
(中略)ここにいたって、遊女
は女性独自の自律的な職能集団としての特質も失っていたのである。
そして、江戸時代に入ると、京、江戸などの大都市において、遊女屋は堀と土居をめ
ぐらした特定の地域-遊廓に囲いこまれた「悪所」となっていた。
(中略)このころの傾城は、人身売買、質入された女性をその供給源としていた。鎌
倉期の遊女とは全く異なり、
江戸時代から近代にいたる遊女、
娼婦に通ずる傾城の姿を、
われわれはここに確認することができる。
このように、13 世紀後半から 14 世紀に遊女の社会的地位は低落し、社会的に差別視さ
れるようになったことがわかる。
また、遊女の社会的地位低下の原因について、網野善彦(1996:222-223)3は、以下の
ように述べている。
親族・家族関係の変化、とくに支配層にはじまる家の形成が社会を広くとらえ、それ
に伴う家父長権の強化の進行したことが、こうした女性の立場の変化の根底にあったこ
とは確実であろう。しかし、遊女の地位のさきのような転落は、それだけでは説明し切
れないものがあるので、そこに女性の地位の低下とも深く結びついた、女性の「性」そ
1
2
3
網野善彦(1996)
『中世の非人と遊女』明石書店, p.192
網野善彦(1996)
『中世の非人と遊女』明石書店, pp.220-221
網野善彦(1996)
『中世の非人と遊女』明石書店, pp.222-223
70
のものを「不浄」とし「穢れ」とする社会の見方が、強く作用していたと見なくてはな
るまい。
女性は罪深く、穢れた存在とする仏教の「五障三従」説、それに対する仏教者のさま
ざまな対処の仕方についても、近年、女性の立場に視点をすえた新たな仏教史研究によ
って、急速に解明されようとしており、
(中略)すでに古代から知られていた仏教のこう
した女性観が社会に浸透し、その圧力が女性の心を強く曇らせ、そこからの救済が女性
の側から希求され、それに応えて女人の救済を宗教家たちが自らの重大な課題としはじ
めるのは、十三世紀から十四世紀のことと見てよかろう。そしてそこには、前述したよ
うに、非人・河原者たちを「穢」れ多きものとして差別するようになった、
「穢」そのも
のに対する社会のとらえ方の大きな変化があったことは疑いない、と私は考える。
つまり、家父長権の強化に伴う女性の立場の低下が根底にあったこと、そして、女性は
罪深く穢れた存在とする仏教の女性観が社会に浸透したことが原因で、遊女の社会的地位
は転落して、差別視されるまでになったということである。
最後に遊女の社会地位の変化についてまとめると、以下のようになる。
古代の遊女は芸能を通じて天皇・神など「聖なるもの」に奉仕し、朝廷と関係する「聖
性」を持っていたので、鎌倉時代までの遊女の社会的地位は決して低くなかった。しかし、
13 世紀後半から 14 世紀に、
「家父長権の強化に伴い女性の立場が低下したこと」と「女性
は罪深く穢れた存在とする仏教の女性観が社会に浸透したこと」が原因で、遊女の社会的
地位は低落し、社会的に差別視されるようになった。
71
4-3 遊女と芸者の比較
ここで、第 1 章から第 4 章を通してわかった芸者と遊女の相違点をあげて、比較する。
それぞれの起源については、1-4 と 4-1-4 で見たように(確定するのは難しいが)
、芸者
は平安時代の白拍子まで遡ると考えられ、江戸時代の江戸吉原の扇屋歌扇や京都の茶汲み
女が具体的な起源だと見られる。
一方遊女は奈良時代には遊行女婦として記載されていて、
戦国時代末期から江戸時代初期には遊郭が形成された。どちらも舞踊や音楽などの芸能を
身につけて男性客の相手をする点は共通するが、強いて言えば、芸能を主として「芸は売
っても、体は売らない」のが芸者、芸能は副次的なもので「体を売る」のが主なのが遊女
であろう。1-4 と 4-1-2 で見たように、芸者の社会は花街と呼ばれ、置屋(芸者を抭える店)
・
茶屋(客が芸者を呼んで遊興する店、いわゆるお座敷)
・見番(検番。置屋と茶屋の間に介
在し、芸者の派遣や清算を取り仕切る事務所)から構成されていて、一方遊女の社会は遊
郭と呼ばれ、置屋(遊女を抭える店)
・揚屋(客が遊女を呼んで遊興する店)
・見番(検番。
遊郭内で芸者の営業を管理する)から構成されている。つまり、社会構成や営業方式はよ
く似ている。
また、それぞれの名称は異なるが、一人前になる前の見習いの段階と水揚げが済んで一
人前になった後で呼び方が変わる点も似ている。1-1 と 3-1-2 で見たように、芸者は見習い
の段階では「舞妓」
、
「半玉」
、
「雛妓」などと呼ばれ、一方遊女は見習いの段階では「禿」
、
「新造」と呼ばれた。
次に着物や髪飾りから両者を比較すると、2-1 と 4-1-3 で見たように、歩くとき芸者は着
物の左褄を取り(左手で着物の裾を持ち上げる)
、遊女(娼妓)は右手で着物の裾を持ち上
げる。着物の帯は、芸者は後結びであるが、遊女は前結びである。髪飾りは、芸者は簪は
二本までであるが、遊女は数本以上のたくさんの簪を髪に飾る1。このように、外観や歩く
ときの様子で芸者と遊女を区別できるようである。
以上の比較を整理して、次のページの一覧表にした。
1
「芸者が 2 本以上の着用を許されなかったのに対し、遊女は多くの吉丁(いわゆる耳かきだけの細長いかんざ
し)を髮へ装着していたことで見分けることができる。
」日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「簪」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%AA 2008.12.15
72
表 1 芸者と遊女の比較
芸者
(高級)遊女
・平安時代の白拍子
奈良時代には遊行女婦と記載され
吉原の扇屋歌扇
起源
ている
・江戸時代 
京都の茶汲み女
社会
花街
遊郭
社会構成
置屋・茶屋・見番
置屋・揚屋・見番
禿(7、8 歳)
見習い段階の
舞妓、半玉、雛妓
↓
名称
新造(16、17 歳)
歩き方
左手で着物の裾を持ち上げる
右手で着物の裾を持ち上げる
着物の帯
後結び
前結び
数本以上のたくさんの簪で髪を飾
髪飾り
簪は二本まで
る
芸能を主として「芸は売っても、体 芸能は副次的なもので「体を売る」
仕事内容
は売らない」のが原則。従って、芸 のが主。従って、芸能は専門ではな
能は高い専門性を持つ。
く、教養程度。
江戸時代の吉原芸者などには見ら
基本的に売春が仕事で、主な収入
売春
れたが、絶対ではなく、芸者の自由
源。
意志による
さて、次に本研究の序論で触れた『藝伎回憶錄(Memoirs of a Geisha)
』という映画につ
いて、芸者の朋装や時代考証など日本文化の面からその問題点を整理してみた。
1. 髪型や朋装など実際と異なるものが多い。
(舞妓が初めから口紅を上下の唇すべて
いっぱいに塗っている点、一人前の芸者が舞妓の着物「お引きずり」を着ている点な
ど)
2. 映画の中で芸者が外国人を接待する時、男女が混浴する場面があるが、実際は、芸
者はお客と一緒に入浴することはできない。
3. 映画の中で芸者が遊女(娼妓)と誤解されている部分が多く、
「性」や「売春」のみ
描かれている。また、芸者の専門的な芸能や学習過程が描かれていない。
4. 映画の中で、第 2 次世界大戦後、芸者は置屋の管理がなくなり生活のために外国人
に売春をしている。しかし、実際は置屋は現在も存在している。
また、この映画では中心人物を日本人が演じていないことで、いろいろな問題点や論争
が出現した。それについて日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』1の説
明を以下整理してみる。
1. 主演のチャン・ツィイー(章子怡)とコン・リー(鞏俐)は中国人、ミシェル・ヨ
ー(楊紫瓊)はマレーシア人である。
2. 日本人女優が主演できなかった理由は、ハリウッド映画に俳優として出演するため
には、アクターズギルド(映画俳優組合、SAG)の所属実績があり、かつ映画のバ
1
日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』
「SAYURI」http://ja.wikipedia.org/wiki/SAYURI 2008.12.20
73
ジェット(制作規模)に応じた俳優ランクを持つ必要がある。現時点では、ほぼ無条
件で主役の候補となれる A ランクの日本人女優は存在しない。
3. 中国側が芸者を売春婦と誤解した結果、中国での反日感情を煽るとの理由から中国
での同映画の上映中止が決まった。日本語では「芸者」と書かれるが、中国語では「藝
伎/艺伎」と書かれる。しかし、多くの人が、故意ではないにしろ、
「藝妓/艺妓」と
書く。この二つの非常によく似た文字「伎」と「妓」の現代中国語のおける違いは、
前者が芸術、技術の専門家を意味し、後者は売春婦を意味する点にある。
以上、
この節では芸者と遊女を比較した。
両者にはその歴史と変遷で重なる部分も多く、
また舞踊や音楽などの芸能を身につけて男性客の相手をする点が共通するので、混同され
やすい。その結果、外国人に「芸者=売春婦」という間違った印象を与えてしまうことが
多いようである。
74
まとめ:
第 1 節では遊女の起源及び遊郭、芸能・朋装について述べた。そして最後に、江戸時代
の吉原遊郭を中心に、その変遷と各時期の遊女のランクを表で示した。
第 2 節では遊女の社会的地位の変化について述べた。古代には「聖性」を持ち社会的地
位は低くなかったが、13 世紀後半から 14 世紀に、
「家父長権の強化に伴い女性の立場が低
下したこと」と「女性は罪深く穢れた存在とする仏教の女性観が社会に浸透したこと」が
原因で、
遊女の社会的地位は低落し、
社会的に差別視されるようになったことがわかった。
第 3 節では遊女と芸者を時代背景、芸能、髪飾などの面から比較し、その相似点と違い
を整理した。
75
結論
このプロジェクトを通して、芸者の歴史と社会、芸者の朋飾と修行内容、芸者業界の変
化、遊女について調べた。以下は、第 1 章から第 4 章のまとめである。
第 1 章では芸者の歴史と社会について述べた。
一人前の芸妓と見習とに区別されており、
それぞれの名称が地域によって異なることがわかった。芸者の起源は平安時代の白拍子が
踊子などに変遷してきたようである。江戸の芸者は吉原の廓芸者と深川の羽織芸者と町芸
者に三種類に分けられることがわかった。また、花街の主な構成と京都六花街の行事を紹
介した。
第 2 章では芸者の朋飾と修行内容について述べた。
舞妓が歩くとき左手で褄を取るのは、
娼妓と違って芸は売っても体は売らないことを暗示していることがわかった。季節に合わ
せて着物の花柄と色を選択し着る。化粧も髪型も年齢や舞妓と芸者の違いによって、異な
ることがわかった。着物を着てお座敷で仕事をする芸者にとって必要な基本的マナーはお
座敷での座り方(正座)、座る位置(上座・下座)、お座敷に入るときの襖の開け方と閉
め方などいろいろあることがわかった。
芸者が習わなければならない伝統芸能は日本舞踊、
唄、三味線、鳴り物などがある。お座敷で芸者たちは芸を披露するだけでなく、お座敷の
雰囲気を盛り上げるためにお客さんといろいろなゲームをすることがわかった。
第 3 章では芸者業界の変化について述べた。昔の旦那は芸者の金銭的な援助者だけでな
く、文化的な保護者であった。現在では社会的・経済的変化により、文化的保護者になる
ほど経済的余力がある旦那は減尐している。戦後の日本の社会的及び経済的変化、客層の
変化と娯楽の多様化、法律による規制の影響などが原因で芸者業界は衰退しつつある。今
後、芸者業界は外へ開かれた体制へと変化し、観光資源としての価値を高めていくことが
必要であろう。
第 4 章では遊女について述べた。古代には「聖性」を持ち社会的地位は低くなかったが、
13 世紀後半から 14 世紀に、「家父長権の強化に伴い女性の立場が低下したこと」と「女
性は罪深く穢れた存在とする仏教の女性観が社会に浸透したこと」が原因で、遊女の社会
的地位は低落し、社会的に差別視されるようになったことがわかった。遊女と芸者を時代
背景、芸能、髪飾などの面から比較し、その相似点と違いを整理した。芸者と遊女(娼妓)
はその歴史と変遷で重なる部分も多く、また舞踊や音楽などの芸能を身につけて男性客の
相手をする点が共通するので、混同されやすい。その結果、外国人に「芸者=売春婦」と
いう間違った印象を与えてしまうことが多いようである。
「フジヤマ、ゲイシャ」などと外国人には芸者は日本文化イメージの代表のように思わ
れているが、芸者を売春婦と考えているような間違った固定観念が外国に定着しているよ
うである。日本人自身が芸者文化や社会を理解し、その継続に努力しなければ、日本文化
を正しく外国に伝えることができないであろう。
76
参考文献
書籍
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