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NPO-CAP設立記念式典および講演会実施報告
20081210
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【会員専用コーナー】NPO-CAP設立記念講演会「後藤新平の果たせぬ夢」記録 要約文 20081008
(下記の見出しはCAP事務局にて付けさせていただきました。)
(1)御挨拶と新NPO-CAPへの期待
建築が都市政策・都市構造・都市の生活に対する影響というのは非常に大きいと思います。専門的に建築に関わ
っている皆様が、こういったNPO法人という形でネットワークをおつくりになって、いろいろと社会的に発言とか活動を
発信をなさっていくことは、非常に有意義なことで、大変期待をしております。
(2)先生の現在の研究・教育活動について
コロンビア大学でニューヨークとロンドンと東京の都市政策比較という共同研究をやっています。日本では、明治大
学の大学院と政経学部、東京大学の都市工学科とまちづくり大学院、中央大学などで教えています。日本と欧米を
行ったり来たりするという生活をして、全く自由な身分でございます。
(3)都副知事から現在へ
都庁を辞めるときに、今まで自分が思っていたことをどうこれから社会に発信していくかということを考えて、東京都
の外郭団体の理事長とか総裁の職はお許しいただいて、自由な身分を確保したわけでございます。
ですから皆さんのようにこういうNPO法人をおつくりになって社会貢献をしていくという活動には期待するところは非
常に大きいのです。
(4)日本と欧米の都市システムと建築デザイン
日本の社会システム、都市システムというのは抜群で、ヨーロッパ・アメリカに比べても、日本が一番よくできた社会
だと思います。外国の人が日本に来て、初めての場合は、まずホテルに迎えにいき、「これからここに地下鉄で行くか
ら」と言って、路線図と時刻表を見せ、その通りに移動すると、絶対にびっくりします。まず、 ロンドンもニューヨークも
地下鉄のダイヤは存在するのかもしれないけれど、絶対にくれないですね。乗ってみると、しょっちゅうキャンセルは
あるし、それに比べるとやはり東京はすごい。
そのほかに、治安がいいとか、地下鉄が明るいとか、駅で何かものを売っているとか。ですけれども、東京も、あるい
は日本の都市も変えたほうがいいなと思っているのは、建築物のデザインです。日本の建築物のデザインというのは
実に機能的でおとなしくて、それなりに見方によると美しいのですけれども、ランドマークになるようないろいろ面白い
デザインのビルがどれだけ多いかというと、ヨーロッパ・アメリカの都市に比べて相対的に少ないです。
建築の皆さんがもっと発言して、面白い建築とかいろんな建築物をつくっていくことによって、建築というものの面白
さとか楽しさとか文化というのをもっと日本で広めるということは本当に大切なことだと、思っています。
(5)世界の環境問題(CO2削減)へ日本の建築技術を
デザインの問題だけではなくて、CO2の問題でも、日本はGDPの大きさの割には最もCO2を出していない国です。
それは、エネルギーが産出されないから高いということがあって、必然的にそうなったという事情もあるのですけれども、
環境建築の技術開発ということでは間違いなく日本は世界一です。
アメリカとロシアと中国とインドの4カ国で全世界の地球上のCO2の50%以上を出しているのが現実です。日本は
5%しか占めていない。その日本がいくら努力しても地球のCO2は減らないので、日本のこれだけ建築上CO2を減ら
す技術を、建築の皆さんが世界に広めていくということをしないと、地球のCO2は減らないのだと思います。
とりあえずデザインと環境技術の話を考えても、NPO法人の「建築から社会に貢献する会」の皆さんがやっていくこ
と、もちろん皆さんがお考えになっているのですけれども、私はすごく期待するところが多いわけです。
(6)「大風呂敷」後藤新平の業績との出会いから、「小説後藤新平」の執筆へ
私が都庁に入る前の昭和40年頃に、杉森久英という作家が『大風呂敷』という題で新聞連載をやっていたのです。
それを読んで後藤新平は大風呂敷なのかと思っていたわけですが、都庁に入ってその業績に次々とぶつかると、ち
ょっと違うのではないかと思ったのが、私が敢えて小説という形で後藤新平を書いた理由なのです。
まず、最初にぶつかるのは、最初に入れられた研修所で、そこは後藤新平が東京市長の時代に吏員研修所という
形でつくったものが残っているものなのです。それから都庁では福祉をやっても、医療をやっても、とにかく建築とか
都市構造とか都市計画、用途地域、容積率、建ぺい率がどうだと、常にぶつかります。もちろん私は都市計画局の課
長とか、計画部長とかやりましたから余計ぶつかったわけです。
(7)生まれるのが早すぎた先駆者 後藤新平、東京の道路にその卓見
その間で一番思うのは昭和通りです。日本でも100メートル幅の道路というのは当たり前ですけれども、東京では
100メートル幅の道路はないのです。一番広いのが昭和通りで44メートル幅です。何で幅44メートルあるのか、後藤
新平が関東大震災の震災復興でつくったわけです。震災で焼け残ったところは、広い空地があって延焼遮断帯があ
るところです。それで、グリーンベルトを持った広い昭和通りをつくったわけです。あのころ震災復興で、例えば靖国
通りは36メートル幅、晴海通りは当時は33メートル幅につくりました。
それを考えると、私たちの世代がつくったのは環七・環八で幅25メートルです。その環状構造は後藤新平が決めた
のです。人々が複雑な移動を地域の中でするということを想定した場合には、環状道路が効率的であると考えたわけ
です。
これは非常に卓見でして、ニューヨークもワシントンもパリも道路面積率が20%を超えているのに、東京の道路面積
率は16%にすぎない。道路面積率が高いニューヨークでもパリでも、渋滞して車で移動するには東京よりもっと不便
です。なぜかと言うと、この格子状の道路というのは移動するのにやたらと信号にひっかかるわけです。碁盤の目構
造とか放射状構造道路は、立体交差で陸橋とかトンネルの形で環状道路を組み合わせるとうまく動けるという発想で、
本当に優れた発想だったと思うのです。戦後は、関東平野には都心環状線、それに加えて中央環状線と外環と圏央
道路と、3つの環状道路を外側につくるという計画をつくったわけです。そういう意味でいうと、「生まれるのが早すぎ
た先駆者」と伊藤博文が後藤新平を評した言葉ですけれども、都市政策として非常に先駆性があったわけです。
(8)これまで書かれなかった台湾・満鉄時代
今言ったようなことをあちこちで言っていたら、学陽書房の編集長が「それ小説にしたら。」と言うのです。「杉森久英
という一流の伝記作家が書いているから出る幕はない」と言いましたら、「よく読んでみなさい」と言われて、もう1回読
んでみたのです。後藤新平は台湾の民政長官を8年、満鉄の総裁を2年やって合計10年、台湾と満鉄の都市計画を
やっているのですが、杉森久英の『大風呂敷』ではこの部分は3∼4ページしか書いてない。ここを書かないと、何で
東京でそういう都市計画をやったのかというのが分からないのです。これは実は杉森さんが書いていた昭和40年頃
にはまだ多分、日本が植民地を支配していた時代のことは書いてはいけないみたいな、そういう誤った観念があった
のだと思うのです。
それで私は構わず、むしろ台湾で何をやって、満鉄で何をやって、だから関東大震災の震災復興ではこれをやっ
たというストーリーで『小説後藤新平』を書いたわけです。つまり、杉森さんが書いていなかった肝心の部分を埋めた
わけです。
【ここのお話しは、青山先生の『小説後藤新平 行革と都市政策の先駆者 学陽書房』などに詳しいので、要約は割
愛いたしました。是非そちらも御覧下さい。】
(9)そして、首都東京市の都市づくりと震災復興
(東京市長として都市づくりの10カ年「8億円プラン」を発表、当時では「大風呂敷」。東京市長辞任後、外務大臣就
任直前の関東大震災により内務大臣として東京を復興。)
【ここのお話しは、青山先生の『小説後藤新平 行革と都市政策の先駆者 学陽書房』などに詳しいので、要約は割
愛いたしました。是非そちらも御覧下さい。】
(10)今、後藤新平から一番学ばなければいけないこと(明治時代の教育)
官軍が東北を統治するときに、給仕を東北諸藩(同盟をつくって官軍に抵抗していた。)それぞれに要求するわけ
です。すると各藩は、オレたちの時代は終わった、でも息子たちには世の中に出て欲しいと、選りすぐった出来のい
い子を出すのです。官軍もこの子は出来るということで教育するわけです。赴任地が変わると連れて歩き、学校に入
れていると学資を送り続けるわけです。
後藤新平も給仕に出され、最初は安場という大物の家に行くわけです。安場さんは、この子は必ず官僚としては最
高位を極めると12歳の子を早くも見抜き、「私のところにいると忙しくて勉強ができない。阿川君なら間違いがない。」
と言って預けるわけです。その阿川さんも、この子は出来ると判断して医学校に入れるわけです。
私はここがなぜ大事かというと、今と比べたほうがいいと思うのです。今の日本は別に国会議員、それから大学の教
授も子弟がなってもいいです。でも、ある程度そういう社会的な能力が必要とされるのは、皆世襲というのはちょっと変
えたほうが良く、いろんな人がいろんなチャンスを持ったほうが良いと思います。
そういう意味では東北を占領した官軍の兵士たちは皆、非常に日本の国家・社会のことを考えていて、自分の息子
の競争相手になるであろう同じ世代の子の方が能力があると思ったら学資を出し続ける。だから岩手県から2人も3人
も首相が出たわけです。そういうことを考えると私たちは、社会皆で優れた子の才能を伸ばす教育をしないといけない
と思うのです。
それを明治の時代にはなぜできたのかというと、欧米列強が日本を植民地にしようとした時代ですから、優れた子は
皆で育てないといけないという国家存立の危機感を彼らは持っていたのだと思うのです。
私は後藤新平から一番学ばなければいけないのはこれだと思うのです。そういう世の中だったから後藤新平が世の
中に出た。それは、そういう教育に対する考え方というのは、非常に社会的な考え方があったのだと思います。
(11)最後に、社会貢献のすすめ
最後にもう一言言いますと、お互いにある程度どこかで一定の仕事をした場合に、その続きをやるのが大事なことな
のです。要するに人生というのは延長線上で行かざるを得ないのです。日本人はもうちょっとそうやって功成り名遂げ
たあと、社会貢献をしたほうがいいです。特に専門知識を活かしたほうがいいと思います。
もう1つ加えると、欧米の人というのはだいたい功成り名遂げたあと、社会貢献をします。ビル・ゲイツなどはまだ40
歳代だけど、「あいつは成功したのに社会貢献していない」とさんざん悪口を言われて、世界一の財団をつくりました。
それでやっと社会の一員として許されるわけです。
日本の場合は功成り名遂げた人がゴルフばかりやっているのではなくて、同時に社会貢献をやることに喜びを感じ
るというのは、今までの延長線上が一番いいです。あまり慣れないことに手を出しても、みんなに迷惑がられるだけで
すから。ぜひ皆さんは建築を通じて社会貢献をしていただけるとすごく社会としてはありがたいと思います。
以上