100.小人の手と巨人の目 あるとき地図作りの現場には、大学で物理を

100.小人の手と巨人の目
あるとき地図作りの現場には、大学で物理を
専攻したというキャリアの後輩がいて、彼らは
業務の概要を知るために、生涯たった一枚だけ
の地図作成をやり遂げなければならなかった。
そとき編集図目の前にして「これは、人間の
することではないよ、夜中に小人が来てやって
くれないかなー」と、嘆いていたことがありま
した。
地図を描くことは、いかにも細かなことです
から、後輩が話していたように「小人の仕業」
に頼るべきものかもしれません。しかし、見つ
める眼は巨人のそれでなければなりません。地
図縮尺に応じた「2 万 5 千分の 1 の眼」が要求
されるのです。
最終的には、建物にしろ、道路にしろ、地図
にすべてを表現することはできないのです。建
物が散在する集落などの編集では、主要な道路
を描いたのち、外辺を押さえるように建物を配
置してから、そのほかの建物を描きます。現地
調査ではなおさらのことです。
「2 万 5 千分の 1
の眼」をして調査しなければ、いい資料となり
ません。
等高線図化でも同じです。特に現地でする平
板測量に言えることですが、細かな出入りにば
かり気を取られると地形の全貌を捉えることが
できません。その点室内でする写真測量では、
やや容易です。写真測量では、地図作成縮尺よ
り小縮尺の空中写真を顕微鏡で拡大観察して等
高線図化しますから、小縮尺の空中写真が強制
的に「2 万 5 千分の 1 の眼」の役割をします。
現地調査ではなおさらのことです
どの場面でも、
全てを調べ、
見てしまっては、
2 万 5 千分の 1 の地図は作れません。地球を 2
万 5 千分の 1 程度の大雑把さで見つめることも
大事なのです。
小人の登場を心待ちにしていた後輩は、その
後しばらくして大手電機会社に転職していきま
した。
101.幻の滝はたくさんある
地図上の滝(の記号)のことでは、
「幻の滝を
発見」
、あるいは「地図にない滝を発見」という
タイトルで、ときおり新聞を賑わすことがあり
ました。
そもそも滝とは「急激に水流の落下している
ところ」といった地図図式での定義が示すよう
に、人里離れた道もないような山岳地や急傾斜
地に存在するのが普通です。
写真測量による地図作成では、滝付近で急激
に落下する水流が写真上で見えなくても、前後
の水流と等高線の近接のようすから、その位置
が特定できます。室内での図化作業では、こう
した険阻な渓谷にある滝らしきものに「?」を
付して図化素図とします。
ところが、現地調査者は危険を犯してまで沢
登りが連続するような溪谷に現地進入しないこ
とが多く、図化素図に「?」などとあっても、
編集素図
1
最終的に地図に表現されなかった滝も多くあっ
たのでしょう。
その結果、余暇を楽しむ時代になり、世の中
に前人未踏が少なくなるにつれ、これが新聞種
になったのです。
と同時に、利用者からの指摘を受けて再調査
が行われたことで、地図の中の幻の滝は次第に
少なくなりました。
滝(小)
102.
「地図に残さない仕事」
写真測量による地図作成では、図化機とよば
れる空中写真から地図を描く機械で、立体模型
を観察するようにしてもとになる素図を作りま
す。
そのとき、等高線を描いていると、滝の水流
は見えないのですが等高線の形でそれと分かる
ことがあります。
「水が急激に落下している」の
ですから、谷を横切る等高線のいくつかが異常
に接近します(といっても、高さ 10m ほど滝な
ら平面に表現すれば図のような程度のことで
す)
。
前述したように、こうして「滝かな?」とマ
ーキングされた図化素図があっても、現地調査
する者が簡単な聞き取り調査やおよび腰の谷底
調査で済ますことがあれば、所在が確認されな
いことになります。過去には、こうして「地図
に残さない仕事(滝)
」となったものも、多くあ
滝(大)
ただし、多数の滝が近接して存在するときは
省略もし、一定規模以下のものも表現しません
から、沢登りや渓流釣りをする者から見れば幻
の滝はいつまでも、いくつも存在します。
2
ったと思われます。
列島改造ブームのときには、このままでは都
市周辺には、まったく緑が無くなるのではと思
われるほどに、お蚕さんが桑の葉を食べつくす
ようなスピードで桑畑が失われ、宅地造成が
次々と行われ、関連して主要交通網も整備され
ました。
地方では、新たな海岸干拓や森林地での農地
の造成も進み、その一方で、棚田や山間地での
休耕田の増加が進行するというおかしな現象も
目にしてきました。
そしてバブルの時には、熱病が広がるように
日本列島の隅々にまでゴルフ場やリゾート開発
行われます。しかし、坂を転げるようにその熱
が冷めると、各地で開発が中断され、荒れ地と
化した土地を複雑な心境で地図に表現してきま
した。
さらには、再び復活することはない休耕田、
閉山した炭坑町、
離農した荒んだ酪農家の建物、
滝と等高線
話は変わりますが、地図の維持管理をしてい
ると、土地利用の変化を通して国土の動きを目
の当たりにすることが多くあります。
3
ダムに埋まる山村の家屋と道や農地、いずれも
地図から人間の活動の証を消し取る悲しい所作
もしてきました。
これこそ「地図に残さない仕事」だったのか
もしれません。
103.測量師は 「ひも」にはなりたくない
みんなが、みんなそうではないでしょうが、
「ひもになりたい」は男の願望ではないでしょ
うか。
経済的なことの一切は妻が面倒を見てくれて、
夫には自由な時間が十分にあるなら、時には多
少棘のある言葉が飛び交ったとしても、我慢と
いうものです。
ところで、紐はひもでも測量に使う紐となれ
ば、そうはいきません。伸び縮みのごく少ない
ものでなければなりませんから、話は少々堅苦
しいことになります。
間縄(けんなわ)
、縄伸びといった言葉でも分
かるように、かなりの昔から、縄や紐がものさ
しとして使用されていました。もちろん、もの
さしに使われた縄は、伸縮のことを考えて、後
には竹製や鋼鉄製のものが使用されましたが、
簡便なものは布巻尺と呼ばれるように、特殊加
4
工された布やエスロンテープと呼ばれるガラス
繊維の巻尺が使用されていました。これらの巻
尺は、
30m のものでは、
プラスマイナス 3mm~6mm
程度の誤差が許されています。
初期の三角点は、基線といって長さを正確に
測った辺からスタートして、順次角度を測って
次なる頂点の位置を求めています。従って、基
線の長さを求めるものさしの正確さが、測量の
結果に与える影響は大きいものがあります。
そこで、基線の測量には伸縮の少ないものさし
「基線尺」というものが使用されました。これ
は、ニッケル(36%)と鉄(64%)などの膨張係
数が小さい(5×10-7)合金製で、全長は最大で
も 25m 程度ものでした。
全基線長は、平均 5km ほどもありますから、
このものさしで全長を測るだけでも 200 回、そ
れを 5 回行ったとして、1000 回の測定が実施さ
れます。その間、温度や張力(10kg ほどの錘を
かける)などの管理をしながら、単純でしかも
正確な読定が気の遠くなるほど繰り返されます。
時には複数の尺が用いられて、比較検討され
たこともありましたから、辛抱強い測量官であ
っても基線測量ほど過酷なものはないといわれ
ました。
少し無理がありますが、その時の技術者であ
る測量師は「基線測量には従事したくない(ひ
もにはなりたくない)
」というのが本音でした。
基線測量のようす(国土地理院)
5
104.
「徒歩道」の嘘
地図のきまりでは、
現地での幅員 1.5m 未満の
道を「徒歩道」
、1.5m から 3m を「軽車道」と定
義します。自動車が通行可能な道は原則すべて
表示するきまりですが、徒歩道と軽車道だけは
すべてを表示するわけではありません。
「交通がひんぱんであり、登山・ハイキングな
どに使われる主要な交通路」でなければなりま
せん。維持管理されるなど、継続性も重要視さ
れます。それを判断するのは測量者ですから、
その基準を頭の中に入れて置かなければなりま
せん。
ところが、正しく判断し表現しようにも森
林下などではすべての経路が空中写真上に写る
のはまれですから、図化時に見えたところだけ
点々と描がいた徒歩道を、現地調査で補う必要
があります。そして、これまで森林下の現地調
査は、多くの場合スケッチが主体で十分な測量
が行われませんでしたから、人が歩くだけの道
路に高い位置精度はありません。
測量者の勝手な言い訳として非難されるか
もしれませんが、森林下の道の曲がり具合のて
いどや、九十九折の数を細かに数えても意味が
無く、途中の形状よりは出発地と到達地点を重
要視するような使い方が重要になります。
GNSS などが簡単・有効に使える現在はとも
かく、
「徒歩道」のこれまでには、それほど高い
位置精度はなかったということです。現在は、
現地調査に GNSS 受信機が簡単・有効に使えます
から、補充調査を十分に行なえば問題は解決し
ますが、
地図の上では未だ完全とは言えません。
6
105.海岸線は正しくない
地図の上の海岸線は、満潮時の状態を表示す
るきまりになっています。
しかし、
空中写真は、
コスト的にも満潮時に撮影するとは限りません。
したがって、干満の差が大きい地域では、干満
時刻と関係なく撮られた空中写真をもとに現地
で調査・測量して地図化します。
調査は、岩場の貝の付き具合、水ぎわ植物の
生育状況などあらゆるものを手掛かりとして、
満潮時の海岸線と思われる地点を推察し、空中
写真に整理し、図化や編集に利用します。
ですが、2 万 5 千分の 1 地形図の上の 1 ミリ
は、地上の 25m になることも再確認しておかな
ければなりません。
干満の差が、かなり大きくなければ図上に現
れるほど海岸線が移動しないということ、ある
いは干潮界が表現されることはないということ
です。
徒歩道のある地図(ここが間違っているということで
はありません)
(
「丸森」
)
7
これぐらいの広さならば、
「ムツゴロウも相
当数生息できる」ということからでもないでし
ょうが、図式では、その広がりは「干潟は 50m
×50m 以上のものを表現する」ことになってい
ます。
106.等高線は正しくない
写真測量技術を否定するものではありません
が、地形図の精度について吟味し、正しく利用
するには、地形図のほぼ全てが空中写真を利用
した写真測量で作成されていることを再認識す
る必要があります。
地図と精度について、少々、天邪鬼の目で見
つめてみます。
標高点や等高線は、地表面の高さを表現する
ものですが、実は地表面のほとんどは、建造物
や植物に覆われています。
特に森林地などでは、
樹高が 20m を超すこともありますから、正確な
地上の高さを測定し、描くにはある種の技が必
要なのです。
体験のない人には分かりにくい話ですが、樹
木に覆われた立体地形モデルを観察し、これか
干潮界と干潟(
「肥前大浦」
)
8
ら樹木の高さを差し引きながら、すっぴんの地
球を推察して等高線を描くのです。
さらに、現在測っている地点の先に谷がある
のか尾根があるのかを考え、顕微鏡の視野の外
さえも第 3 の目で見えなければ、連続した等高
線は描けないのです。
それは、1 足先に溝があるのか、泥濘がある
のかを知らなければ、うまく先に進めない人の
歩行に通じます。
樹林帯の等高線を描いているとき、突如とし
て林が終わって地肌が見えても、落ち着きが必
要です。1 本目のコンターは失敗しても、2 本目
以降は、第 3 の目などで適正に対処しなければ
なりません(そのように描画すれば、あとは編
集者が対処してくれることもあります)
。
このように等高線「図化」には、職人技が効
果を発揮します。こうした職人の隠れた技を考
えると、森林地などの等高線は、1 本ごとに見
るのではなく、全体で読むことも必要です。
後述することもあるでしょうが、現在では航
空機レーザスキャナの技術を用いれば、樹木の
下も丸見えです。もう、職人技は不要になりつ
つあります。
図化素図(
「国土基本図の概要」国土地理院)
9
107.正しくないは、正しくない
「地図の等高線は正しくない」
「海岸線は正しく
ない」
「徒歩道のうそ」
などと書いてきましたが、
誤りのないように書き留めておきます。
どこかで既に書いたことですが、2 万 5 千分
の 1 地形図を作るためには、
「2 万 5 千分の 1 の
眼」で見ることが大事です。となると、読み手
も「2 万 5 千分の 1 の眼」で読むことが必要で
す。図上の 1 ミリが、地上の 25m にあたるこの
地図では、多くの情報を伝えるために、転位が
図上 1.2 ミリ(地上位置で 30m)まで許されて
います。また、情報の取捨選択も誇張も行なわ
れます。
そのような意味では、
『○○は、正しくない』
ということ自体が、正しくないのであって、そ
こには、「写真測量による地図作成の特質があ
り」
、縮尺表現がありますから、
「縮尺や測量方
10
法に応じた、正しい使い方が必要である」とい
うことが言いたかったのです。
言い換えれば、
「地図とは、縮尺に応じた目標
精度を保ちながら、その範囲で正確である」と
いうことです。
地形図原図(
「国土基本図の概要」国土地理院)
108.地図の歴史は文字の歴史より古いか?
世界最古の地図が、紀元前 1500 年ころに描
かれたといわれている北イタリアのカモニカ渓
谷の岩壁に残されている「ベトリナ地図」と呼
ばれるものだということは、すでに紹介しまし
た。
地図には、村人がすむ多くの家々と、これを
結ぶ小道や川、畑なども書かれています。その
事実は、素人が同図を紹介する写真を見たとし
ても明らかですし、この地図からはここで暮ら
す人々が地域空間を記号で表現し、情報の伝達
や交換していたと想像できます。
一方エジプトでは、
紀元前 1300 年ころとされ
るパピルスに描かれたヌビア金山の地図が、メ
ソポタミア・ニップールでは、やはり紀元前
1300 年ころのものとされる粘土板に描かれた
都市図が残されていますから、現存する地図は
この辺りが最古といえるでしょう。
そして、地図の発明は文字の発明より遡るの
だというのが定説です。はたして、これを証明
する確かな手掛かりはあるのでしょうか。
文字の発明は、
紀元前 3000 年以ころの地層か
ら象形文字の刻まれた粘土板が発見されている
ことから、
これ以前のことだと言われています。
「ベトリナ地図」以前、人は砂の上に、あるい
は椰子の葉や貝を用い、木や動物の皮などに地
図を描き、補助的記憶手段として残されたと予
想することは容易です。そのような極めて初期
の地図が現在まで残されることは素材の面から
だけでも難しいでしょう。
それでも、1893 年にウクライナ国キエフ市の
丘陵地で発見された「キリロフ図」
(15000 年前
~13000 年前)
、
1962 年にチェコ国南モラビアで
発見された「パヴロフ図」(2500 年前)、1966
年にロシアのチェルカッスク州で発見された
「メジュイリチ図」
(15000 年前~7000 年前)と
11
いった、いずれもマンモスの牙に彫刻された線
画が地図ではないかといわれています(金窪敏
知著「果たして地図の歴史は文字の歴史より古
いか?」
)
。
しかし、これも前にも触れましたが、線画で
あるということは明らかであっても、地図であ
るという確証を得るには、記号化された内容が
明らかになり、描かれた線画と現地あるいは古
地図と対照できなければなりませんから、これ
はかなり難しいでしょう。
いずれにしても、地図の近くにいるものとし
ては、
「地図の発明は文字の発明より遡る」とし
ておきます。
イヌイットの木に刻まれた海岸線を表す地図
12
109.地籍図は測量者が、世界図は哲学者が
作る
地図の最初は、狩猟や採集、耕作といった生
活に密着した情報を整理するために発達します。
狩猟民族は、起点とする集落から主な狩猟区
域を示す地図を、農耕民族なら集落周辺に存在
する採集地や耕作地域の地図を作成したのでし
ょう。
海洋民族なら周辺海域の島嶼や海流などを表
現した地図も作製したに違いありません。
現に、極地や密林に住む原住民の間では、つ
い最近まで木や皮・貝などの自然素材による狩
猟や採集と関連した地図が作られ、利用されて
きました。しかし、前述のように素材の保存性
や地図と絵画の判別などから最古の地図を発見
することは難しいものです。
その後、生活者が集団生活を営むことで、ご
く自然の成り行きとして統治者が出現します。
13
こうなると、国土管理や領土拡張のために広
域地図の作成を行い。さらに、徴税のための地
籍図といったものも作成されるでしょう。
これら官製地図が残存する可能性は、使用す
る素材の発達と並行して次第に高くなります。
古代エジプトでは、ナイル川の氾濫により農
地境界標が頻繁に不明のものになることもあっ
て地籍調査と地籍図の整備が進んだといわれ、
その成果が粘土板やパピルスに地図が描かれた
としても不思議ではありません。
その時代から大きく遡りますが、フランス南
部のオランジュ周辺では、古代ローマ時代(紀
元前 1 世紀ころ)の大理石に刻まれた土地台帳
の破片が多数発見されています。
日本でも、現存する最古の地図は、荘園経営
に関連した地籍図「東大寺領懇田図」
(751 年で
す。
最古の世界図は、よく知られているように粘
土板の「バビロニアの世界図」
(紀元前 6 百年こ
ろ)であって、円盤で示される地球上に、周囲
を海に囲まれたバビロンを中心とする陸地が描
かれています。さらに時代を遡って、ヨーロッ
パ最古の印刷図でもあるTO図(1472 年)には、
今のエルサレムを中心に海や川をあらわし、ア
ジア(上)
、アフリカ(右下)
、ヨーロッパ(左
下)が 3 分割されて描かれています。内容的に
は、
「バビロニアの世界図」同様に 90 度回転さ
せれば北を上とした現在の地図に対応していま
す。
少々意味合いは異なるものの、7 世紀ころの
インドの人が考えていた世界には、大きな亀の
上に 4 匹の象が乗っていて、その象の背中が半
球状の地球を支えていると考えるものがありま
した。
このように世界図は、製作者が主張する世界
「バビロニアの世界図」
そして、世界全体をあらわす地図は、宗教や
世界観との関連をもって発達します。
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観によって表現され、それぞれの国家や宗教施
設が重要な場所に位置します。もちろん、その
とき地図の上方向が北だとは限りません。磁石
が発明されていない時代には、緯度経度はもち
ろん、経度 0 度を示す本初子午線という概念も
乏しいからです。製作者や利用者にとって都合
の良い方向を向けて地図は描かれます。
古代ギリシャでは、土地測定者(測量家)と
は小規模の地域を区画するために雇われた人、
哲学者とは全地球の形状と自然に考えを巡らす
人のように明確に区分されていたといいます
(ノーマンJ・W・スロワー著「地図と文明」
)
。
残された世界図は、まさにこの区分を如実に示
しているといえるでしょう。
110.かつて世界は平盤だった
「バビロニアの世界図」
(紀元前 6 百年ころ)が
作成される以前、紀元前 2 千年ごろからヨーロ
ッパではギリシャが勢力を拡大します。
その勢力範囲は、エジプト、バビロニア、そ
して地中海沿岸から黒海まででした。当然のこ
とながら、地理的知識が拡大され、その結果と
して世界図が作成され、得られた情報に基づく
新しい世界観というものも形成されるはずです。
ところが、ギリシャが作った地図は、地中海
から黒海までの情報は「バビロニアの世界図」
と比べて極めて正確なものでありながら、その
周辺はオケアノスと呼ばれる大洋が囲む平盤の
ような世界であった(
「ヘカタイオスの世界図」
紀元前 6 世紀)
。
その後、アレクサンダー大王によるインド遠
征(紀元前 3 百 510 年~3 百 2103 年)が行われ
15
ると、世界はさらに広げられます。同時に、各
地での測量が実施され、地球が月や太陽と同じ
球体であるとする説が声高となるに及んで、ア
リストテレス(紀元前 384-322 地球球体説を
唱えた哲学者)
、そしてエラトステネス(紀元前
276-196 初めて地球の大きさを測った図書館
長)
、プトレマイオス(?―? 世界図を著した
2 世紀の天文学者)の登場となります。
エラトステネスが作製した世界図は、現存し
ていませんが。残された地理書(ストラボン<
紀元前 63 年~後 2 年>の地理書)などから彼が
作製した地図を推定することはでき、
そこには、
各地の位置を示すものとして経度緯度と地図投
影が意識されているといいます。すなわち、地
球が丸いことが根底にあります。
ローマ時代となると、さらに世界は広がりま
す。
16
その勢力範囲は、ヨーロッパ全域から北アフ
リカ、西アジアの各地までとなります。
そして、科学は 1 段と進み地図も進歩すると
思いきや、そうはなりません。聖書こそ唯一絶
対の真理を現すものとして、
「地球が丸い」は否
定されるのです。そのころの聖書を信じる者に
は、球体の向こう側に足の裏を見せ合って歩く
人の存在など認められなかったのです。
それは、
イスラムの世界でもほぼ同じでした。
ヨーロッパ最古の印刷図が、世界を三分割し
たTO図(1472 年)であるように、この間の地
図の歴史には、進歩というものがなかった、い
や退歩があったのかもしれません。
哲学者が作る、かつての世界図は平盤だった
のです。
111.四色で区分できない日本の市町村区分
図
世界地図を国別などに色塗りをするとき、と
なりあう国が同じ色にならないように塗るには
4 色あれば十分だということについてのお話で
す。
色分けと必要な色数について地図製作者は、
か
なり昔から経験的に知っていたのだといいます。
18 世紀後半、地図製作者からこのことを聞い
た数学者が証明を試みます。かんたんそうに思
えたその証明は難問でした。証明までには苦難
の道があったようです。
TO 図(へレフォード・マップ)
この「4 色定理」のことは、1879 年になってア
ルフレッド・ブレイ・ケンプによる証明が『ア
メリカ数学ジャーナル』
誌上で発表されました。
この証明は正しいと思われましたが、1890 年に
なってパーシー・ヘイウッドにより不備である
17
と指摘されます。ケンプの証明で使われた論理
に沿って地図を塗り分けるには 5 色が必要であ
るということになり、問題解決に至らなかった
のです。
Appel と Wolfgang Haken)がコンピュータを
駆使して証明したのだといいます。
しかし、
あまりに複雑なプログラムのため
検証が困難であり、この 4 色定理の証明を否
定する専門家もいなかったのだそうですが、
とにかく証明されました(以上、主に
「Wikipedia」
)
。
色分けされた都道府県区分図
その後この問題は、グラフ理論という分野
での最も有名な未解決問題となったそうです。
そして 1976 年には、
アップルとハーケン
(Ken
18
ただし、この定理の前提としてあるのは、
飛び地のような領域は考えていないというこ
と。実際の国区分で飛び地があったとしても
飛び地と飛び地の所属する本国は関連せず、
別の色であってもよいとするという決まりが
あります。
したがって、平成の大合併で出現した飛び
地
「市」
が多くある日本の市町村区分地図は、
4 色では適切に表現できないようです。
112.ニホン人、ニッポン人、あなたはどち
らにします?
国立国語研究所では、話し言葉の中での「日
本」がどのように発音されているかを調べたこ
とがありました。
「ニッポン」か、
「ニホン」か、
ということです。
その結果、
「日本」
「日本列島」
「日本一」とい
った約 8200 件の語彙の中で「ニホン」が圧勝し
たのだといいます。特に「日本」にいたっては、
96 パーセントが「ニホン」だったとか。
正解はどうなのでしょうか。また地図の中で
はどうなのでしょうか。
紙幣にも「NIPPON GINKO」とあります。
国連には「ニッポン」で登録されています。
そして、1970 年文部省の臨時国語調査会の呼称
統一の案は「ニッポン」でしたが、政府では採
択されなかったといいます。
いよいよ地図地名での取り扱いです。
百万分の 1、3 百万分の 1、5 百万分の 1 縮尺
の地図の中には「日本」という記載はありませ
ん。ですが、百万分の 1 国際版の図名としては、
「NIPPON-Ⅰ」といった名称を使用しています。
ところが、そこでの日本海の表記は、「JAPAN
SEA(NIHON KAI)」となっています。
「日本海」の名称については慎重にしなければ
本題の答えは、もう少し後にして。
なりませんが、
「Sea of Japan」あるいは、
「Japan
NHKでは、正式な国号を言うときには「ニ
Sea」という英語を併記するというのが、外務省
ッポン」とすると決めているといいます(
「日本
の正式見解です。
海」は、ニホンカイにするという)
。
しかし、国土地理院の地図の中では(ニホン
日本銀行の正式名称は、
「ニッポン・ギンコウ」
、 (「 JAPAN SEA(NIHOHON KAI )」 ) と ニ ッ ポ ン
19
(
「NIPPON」
)が使い分けられているのが現状で
す(Web 上にある最近の「日本全図(英語版)
」
では、図名は「MAP OF JAPAN」、海は「JAPAN
SEA(NIHOHON KAI)」とあります)。
ちなみに、広辞苑によると「ニッポンの方が
古い」とあります。そして、ニッポンが正しく、
ニホンは後に誤読から生じたという説も(小池
清治氏)
。
「日本人」
、これも「ニホンジン」が多数派だと
か、あなたはどちらにします。
日本海の表記
(Web 上にある「日本全図」英語版 国土地理院)
20
113.
「日本国」という山からの眺めは?
かつての国号であった「倭」を「日本」に変
更したのは、大宝律令(701 年)からだといわ
れます。
そのことが、
文書で確認できる最初は、
正倉院文書の 746 年でした。ところが、2004 年
に中国西安で「井真成墓誌」が発見されて、そ
の刻文から 734 年まで遡りました(
「杜嗣先墓
誌」713 年であるとの報告も)
。
それはそれとして、山形県温海町と新潟県山
北町の境に
「日本国」
という名の山があります。
「山の始まりもわからない」の項目で説明した
ように、山の定義には、こんもり盛り上がった
というのもありますから、
「瓶ヶ森」
「西黒森」
といった山名が存在するのは、それほど不思議
ではありません。 それにしても「日本国」は、
いかにも不思議な山名です。
「日本国」
(山)の名前の由来は諸説あるようで
すが、蘇我馬子と対立した崇峻天皇の子である
蜂子皇子(562?-641?)が、この国に来て出羽三
山を開き、晩年にこの山に登って命名したとい
う話が残ります。しかし、これは前段のことと
年月が矛盾しますし、なぜ「日本国」なのかも
わかりません。
「日本国」の標高は 555.4m、ふもとの山北町小
俣には「日本国麓郵便局」という名の郵便局が
あります。
ここでの「日本」の読みはというと、山の名
の「日本国」は「ニホンコク」
、
「日本国麓郵便
局」は「ニホンゴク フモト ユウビンキョク」
というのだそうです。なぜ「日本国」なのか、
古名と思われるのに「ニッポン」ではないのか
など疑問は残るままです。
山麓から 2 時間弱で到達できるという「日本
国」
山頂からのながめは 日本海も朝日連峰も一
望できて、それは「日本国が見わたせるほどの
すばらしい景色」? 「鳥瞰図師が描いたよう
21
な日本列島の全容が見える唯一の場所」? と
いうことにしておきましょう。
日本国(
「鼠ヶ関」
)
このような紛らわしい地名であっても、注意深く読め
ば、 字形が傾斜体であることで、山名であることが明
直立字体で記入された居住地名の「丸森」
らかになります。
(
「石巻」
)
22
114.太りつづけてメタボになったニッポ
ン
「ニッポン・チャチャチャ」のように、種々の
競技などの応援では、ニホンよりもニッポンの
掛け声の方が、力が入るようです。
同じような理由でしょうか、太平洋戦争当時
は、意識してニッポンが使われたようです。
今回のテーマは、「全国都道府県市区町村別
面積調」で、市区町村ごとの面積を競う?わけ
ですから、ここでのタイトルはニッポンにして
みました。
それはさておき、日本の面積はどのくらいあ
るかというと、
北方領土を含めて約 37.7 万平方
km です。最新の国土の面積は、毎年 10 月 1 日
を基準日として、変更部分について計測し作成
される「全国都道府県市区町村別面積調」によ
っています。
その面積値は、国勢調査報告における人口密
傾斜字体で記入された山名の「生森」
(
「小岩井牧場」
)
23
度算出や面積に係る地方交付税算定(地方交付
税法第 12 条)の基礎データとなっています。
を測定し、その後は東京湾のお台場や関西空港
ように新たに海岸が埋め立てられるごとに発表
される新たに生じた土地に関する公告情報にし
たがって、変更した部分だけを測定して、既存
数値に変更を加え続けているからです。
しかも、全面的な測定のやり直しは昭和 63
年以降していませんし、海岸侵食やその逆の堆
砂などによる自然の増減があっても、それが官
報などに公告されて公のものになることがない
ので、面積値には反映されません。
どんなにスリムになっても反映しないという
ことです。
それは、地方交付税の減少につながることが
明らかなのに、海岸浸食などで土地が大きく減
少したとして、わざわざ公告する自治体もない
からです。
となると、地形図は維持管理されて海岸侵食
などによる自然の増減を反映していたとしても、
さらにメタボになり続けるニッポン
その面積調の結果によると、日本国土の面積
は毎年少しずつ、必ず増えています。なぜ必ず
増加し続けるかというと、昭和 63 年に 2 万 5
千分の 1 地形図の上で基礎となる市区町村面積
24
「全国都道府県市区町村別面積調」の上では、
(基準値の再調査をしない限り)自然の増減を
まったく反映しないというおかしなことになっ
ています。日本列島の体系は、どれほどスリム
になっても反映しないということです。
115.島の面積が明らかにならない「島面
積」?
国土地理院が発表している「全国都道府県市
区町村別面積調」によると富山県の面積は、
2045.79 平方 km です(2012.10.1 値)
。
一方で、富山県が主張する県の面積は
4,247.61 平方 km です。この大きな違いはどの
ような理由によるものでしょう。
それは、前者では不確定な県界に関連する富
山市、黒部市、中新川郡立山町、下新川郡朝日
町(相手方は長野県北安曇郡白馬村)の面積を
除外しているからです。
ただし、
欄外には参考値として 4,247.61 平方
km があって、これは総務省自治行政局市町村体
制整備課発行の
「全国市町村要覧 平成 24 年版」
に記載されている便宜上の概算数値だとの説明
があります。
同じような例は、都道府県にかかるものだけ
さて、その年間の面積増の量ですが、公共事
業が減った最近 5 年間でも、年間の面積増は約
3 平方 km から 13 平方 km となっています(東京
ドーム
(0.05 平方 km)
の 60 倍から 260 倍です。
25
でも全国に 14 か所もあって、
これでは使える県
別あるいは市区町村別面積データになっていま
せん。
どのようにすればいいのかと国土地理院に問
われると「地図上の境界が未定なのだからどう
しようもありません」と開き直るしかないので
しょうが困りものです。地理情報の提供という
意味においては、少々おかしなことです。
ともかく、
「全国都道府県市区町村別面積調」
を使用する際には、注意が必要です。
そして、同面積調にある「島面積」にも注意
が必要です(2012.10.1 値)
。
長崎県の対馬(島)の面積は、同じ「全国都
道府県市区町村別面積調」でみると、696.62 平
方 km となっています。
しかし、対馬は江戸時代と明治時代に掘削さ
れた大船越瀬戸と万関瀬戸で分断されているは
26
ずです。
香川県の小豆島も、153.35 平方 km となって
いますが(2012.10.1 値)
、これも世界一せまい
土渕海峡で分断されているはずです。
ですが、公表されている島面積は一つだけで
す。それは、分断された島に公式名称が複数存
在しないこと、人工的な運河でのみ分断されて
いることが理由です。
ということで、公表する島の面積は、自然地
名の有無と、呼称範囲にしたがいます。
これは、利根川と江戸川で分断されている千
葉県が、
(千葉)島の扱いにならないのと同じで
理屈は通っています。
そのときの島面積の範囲は、運河部分の幅員
によっては、外水面として土地面積に含まない
場合(対馬)と、河川などと同様に内水面扱い
として土地面積として含む場合(小豆島や千葉
県のように)があります。
島面積に含まれない運河と、含まれる運河が
存在します。ややこしいことです。
利用者の立場に立てば、対馬のように大きく
分断している、運河部分を陸として計測しない
場合は、個々の島面積も併せて公表してほしい
ものです。
116.日本の中の「日本」を眺める
「飛行機から眺めた下界の風景は、正に日本地
図を見るようです」というのは、表現として適
切なのでしょうか。しかしそれが座席の丸窓か
らの下界の景色を見たときの普通人の実感では
ありませんか。
当たり前のことですが、それぐらい現在の日
本地図は正確にできています?
それはさておき、最古の日本全図「行基図」
の作成者?としてよく知られている行基
(668-749)
は民衆の中に入って社会活動を行い、
庶民からの理解を得ることで仏教を広めようと
したのだそうです。
そのとき、日本中を旅しながら各地の土木事
業に手を貸したのです。手がけた事業は橋・道・
池・溝や堀など広い範囲に及びました。その一
つに、天平 3 年(731)に洪水調節と灌漑用とし
て築いた昆陽池があります。
対馬 万関瀬戸(
「鶏知」
)
27
空中写真に見える昆陽池(国土地理院)
昆陽池(1 万分の 1 地形図「伊丹」
)
今も、当時の昆陽池の一部が残されていて、
市民憩いの場となっています。その昆陽池の中
に、日本列島をかたどった島があります。もち
ろん、
この島は行基が作ったものなどではなく、
28
昭和 47 年から始まった公園再整備の際に、
野鳥
繁殖用の目的で新たに作られたもので、伊丹空
港から離陸する飛行機からは日本列島が見える
ように計画されたのだそうです。
行基が、この島を眺めたとしたら、どんな感
想を持ったでしょうね。「俺の作った地図も満
更捨てたものではない」とでも言ったでしょう
か、それとも、島に棲むカワウの糞害を見て、
「こんなに汚れた日本は知らない」とでも言っ
たでしょうか。ともかく、人工衛星の手を借り
なくても一目で日本列島を見ることができます。
29
117.庭の中に見える「日本」
さらにニッポンが続きますが、もう少々ご辛
抱を。
日本の近代地図作りは、伊能忠敬から始まり
ます。そして明治政府は、明治 10 年(1877)に
起きた西南戦争での苦戦を機に、地図の重要性
が認識され、より詳細な地形図作成に力を入れ
ます。
しかし明治新政府は、いずれの技術分野でも
旧幕府技術者の力に頼らざるを得ませんでした。
結果として、戦さの勝ち負けでこれまでの技術
を断絶させてしまうのではなく、むしろしばら
くの間はこれまでの技術力を活かし、継続しな
がら科学を発展させたのです。
地図・測量の世界も同じです。
一方、いずれの国でもそうですが、地図技術
者は初期には陸軍に属していました。幕府陸軍
は、イギリスが薩摩に接近したのに対抗するよ
うにして、フランスから招聘した軍事顧問の下
で兵制を確立していました。
術もフランスの技術導入を図ります。その流れ
を受けて明治初期に作成されたのが、
有名な
「五
千分一東京図」です。完成した地図が、フラン
ス式と呼ばれる所以です。地図技術者は、徳川
幕府から引き続き新政府に出仕し、初期には明
治政府内でも指導的位置にあったのです。
ここに示した色鮮やかな「五千分一東京図」
を特異な目で散策して見ましょう。
この地図では、大きな公共建物や寺院などの
屋根の形状が詳細に書き込まれています。「切
妻、寄棟それとも入母屋でしょうか」と、想像
をかき立てる何かがあります。
しかも、宮内省の屋根には霞がかかって、絵
巻を見るようでもあり、意味ありげです。お上
のことは、地図のことであっても、御簾越しに
しか拝謁できないものだったのです。
さらに、大蔵省の内庭には築山と池が、学習
院の庭には日本列島を模した築山があったので
霞がかかったような宮内省(「五千分一東京図」国
土地理院)
幕府兵制がフランス式であったので、地図技
30
しょうか、それらしきものが見えます。鹿鳴館
の庭には、紳士淑女の散策する姿がないかと眼
を凝らしたくさえなります。
この日本図なら、雲上の行基も微笑んでいる
ことでしょう。
118.測量は「日本」を守る
昨今、日本列島周辺で領土・領海を巡る問題
が注目を集めているように、現在日本の国境は
陸にではなく海にあります。ですから、地形図
の決まり「2 万 5 千分の 1 地形図図式」には、
国境を示す記号はありません。
そのとき海上に引かれる国の主権が及ぶ界に
関しては、
島の所属を決めることが先にあって、
それが決定されれば、その島嶼の海岸線や接続
する大陸棚などとの関連から、経済的な主権が
およぶ領海や排他的経済水域などがきめられま
す(国連海洋法条約など)
。
その一例としてよく取上げられるのが、日本
の南の果てにある沖ノ鳥島(主に東小島、北小
島の二つの小島からなる)です。この島が日本
国土である結果、我々は約 40 万平方 km メータ
の排他的経済水域を手に入れているのだそうで
「五千分一東京図」(国土地理院)に見える学習院の中
庭
31
す。これは、日本の全排他的経済水域の 10 パー
セントにも及ぶのです。
国際世論に対抗し、この権利を今後も維持す
るためには、同島が「島」として存在するのは
当然として、居住するか、もしくは何らかの経
済活動が確認できなければならないのです。こ
こには、島の所属を巡ることとは異なる問題が
あります。
前記国際世論に対抗するのは経済活動も求めら
れています。
そこで、比較的容易に実行・実証できる測量
が行われ、地名の命名を含む地図作成が行われ
ます。もちろん、測量結果が経済活動の基礎資
料として利用されるのは明らかです。しかし、
港湾の整備や水産業などへの実際的な利用や発
展がなければなりませんが、難しいものがあり
ます。
そのとき「島」とは、自然に形成された陸地
であって、水に囲まれ、高潮時においても水面
上になければなりません、しかし、標高(満潮
時になお海面上にある高さ)が 16 cm しかない
同島の維持管理には、年間 2 億円もの経費を費
やしているのだそうです。
もちろんのこと、他国から「あれは人工構造
物だ」と指摘されないためには、自然を残しな
がら島を存在させなければなりません。
そして、
32
そして近ごろ火山噴火活動で注目されている
西之島のように既存の領海内に自然現象で新た
に島が出現した場合ですが、これは国際法上、
新島は自動的に領海の所属国に帰属しますから
問題ありません。そして、国連海洋法条約など
に基づいて、排他的経済水域の変更も容易に認
められますから、測量・地図作成や経済活動な
どを急ぐ必要もありません。
119.地図は「日本」を確かなものにする
ごく小さな岩のような沖ノ鳥島そのものの維
持管理をしているだけでは、関係国を説得でき
ません。領有を確たるものにするには、漁業活
動基地やそのための海洋観測所、あるいはレジ
ャー基地としての機能を持つなどの経済活動の
証が求められていることは、前項で紹介したと
おりです。
もちろん、領有を明らかにするための測量や
地図作成といった行動も求められていて、これ
も実行に移されています。
地図作成はもちろん、
2005 年 6 月には沖ノ鳥島に電子基準点が設置さ
れました。
国土地理院によれば、連続観測して得られた
データは、太陽光発電と衛星通信システムで 3
時間毎に国土地理院中央局に送信し解析され、
これによって、フィリピン海プレートの詳細な
動きが監視できるといっています。
沖ノ鳥島(「南硫黄島」
)
33
さんご礁の島に設置された電子基準点から、
プレートの動きが詳細かつ正確に監視できるの
かどうかについては、よく分りませんが、いず
れにしても領有との関連なしに行動していると
はいえないでしょう。
過去にさかのぼって領有を主張する場合には、
領有していたという歴史的事実の実証のために
古地図が引き合いに出されます。そのとき、証
拠として示された地図は、いつ誰が作ったもの
か、どのように記載されているか、信頼性はど
うかといったことが確認されるでしょう。
幕末、
咸臨丸で小笠原調査に向かった測量方
には、塚本明毅(のちに内務省地誌課長)
、松岡
盤吉、豊田港などの技術者の名が見えます。彼
らは、天測、海岸線測量、深浅測量などを実施
し小笠原群島の実測図を完成させました
(1862)
。
この成果によって、小笠原諸島の日本領有が
明らかになった事実は良く知られています。
そして、小笠原調査以前、1798 年松前蝦夷地
御用扱いとして蝦夷に赴任、国後・択捉などを
探検した近藤重蔵が、択捉に「大日本恵土呂府」
の木標を建てたことも有名です。
この事例のように、少々大げさに言えば、地
沖ノ鳥島の電子基準点(国土地理院)
34
図・測量技術者は「領土」という意識を無しに
測量を成し、地図作成できないのです。
沖ノ鳥島の電子基準点設置も、一定の時間を
経過した後には、そうした証の一つになるので
しょうか。
120.
「地図と領土と紙幣」
私は、かねがね幾枚もの切手で構成されるモ
ザイクのようになった地図が、いやモザイク状
になった地図の切手シートが発行されることを
夢見ています。
その思いは切手であって、お札に日本地図や
伊能図が印刷されたらなどとは考えていなかっ
たのですが、ユーロ紙幣には、ヨーロッパの地
図がデザインされています。
ところが、この紙幣の地図にカナリア諸島の
一部の島々が抜けているというクレームが起き、
さらには、フランスの地図製作会社から「我が
社の地図を無断使用している」という指摘も起
きたのだといいます。
こうした「領土と地図」の問題は、今も、日
本の竹島や北方領土で起きているように、地図
についての古くて新しい重要なテーマです。
「小笠原測量図」
(国立公文書館所蔵)
35
それぞれの島や地域の帰属は、いつの時代の
地図に、どのように表現されていたかが決め手
になります。地図の上で正しい表記をすること
で、
主張の一貫性を維持することにもなります。
政府の作る地図から、そしてお札からも自国
の領土が欠落し、地名が誤って記入されること
は許されないことです。「日本海」を巡る日本
と韓国などとの問題もこのような、それぞれの
国の主張の延長上にあります。
もう一つ「地図の著作権」も、難しい問題で
す。日本の法律では、地図に著作性があり、著
作権が存在することを認めてはいますが、「地
図とは、地上の状態を一定の規則の下で、正確
に表現したもの」ですから、大縮尺になるほど
に、誰が作成しても似たようなものが作成され
ます。そのため、大縮尺図では著作性を明らか
にすることは困難になります。
36
そして、世界には官が作る地図に公共性を認
め無償提供する国と、地図は軍事機密であると
の考えで公開も一部に限定して、しかも有償提
供する国とが混在していますが、国民にとって
どちらが良いかは一概に言えません。
いずれの国でも地図に著作権が存在すること
は同じなのですが、日本のように官が国民サー
ビスのために道路や公共施設と同様に地図とい
う情報インフラを無償提供することは、多くの
場面で地図の著作権をないがしろにする風潮を
作り出すことにつながります。
末端の利用者に、
地図は無償であるという先入観を与えることに
もなれば、著作権への正しい理解が深まりませ
ん。
一方、有償提供の世界では、地図の自由な流
通がやや不足し、かつ提供コストが高いものに
なり、
市民サービスが低下する傾向になります。
しかし、著作権のことは正しい理解が得られる
傾向につながるでしょう。少々真剣に考えてし
まいました。
日本でも、著作権ことをクリアした上で、地
図模様の 1 万円札とは言いませんが、モザイク
模様の地図切手が早く出回ることを期待してい
ます。
121.韓国の新 10 万ウォン紙幣と地図
そして、紙幣と地図に関連して韓国で起きた
ことです。
新聞記事によると(08.10.26 朝日)、韓
国の 10 万ウォン紙幣の計画でも、
前述の欧州と
おなじような「地図と領土と紙幣」の問題が起
きました。
09 年に発行予定だった同紙幣の図案に使用
が予定されていた古地図に竹島
(韓国名
「独島」
)
が記載されていないことが明らかになったので
す。
使用予定の古地図は、朝鮮王朝時代に作られ
た『大東輿地図』でした。
『大東輿地図』は、金
正浩(キムジョンホ ?-?)による、韓国古地図
の傑作として高い評価を得ているものです。そ
れは、
縮尺約 16 万分の 1 の木版印刷による朝鮮
全図で、1861 年に作成され、その後、1864 年に
地図切手というもの?
37
修正されて再版刊行されたもの。同図は、
「分帖
折畳式」
と呼ばれる東西に短冊状にしたものを、
さらに屏風状に折りたたむという製本形式に特
徴があります。内容的には、比較されることが
多い日本の『伊能図』が海岸線と交通路(街道)
を正確に表現したものであるのに対して、
『大東
輿地図』は大地を構成する山岳位置とその連な
りや水系が正確に表現されているという違いが
あります。
ンとして書きれたとしても問題は少なかったで
しょう。
しかし、今回の例では、日韓相互が領有を主
張し注目されている場所に、戦争中の「戦時改
描」ではありませんが、地図原本にない島を描
き入れれば、「真偽や外交問題を引き起こしか
ねない」という意見もあって、混乱していまし
た。さらに、表面の肖像に予定されていた独立
指導者の金九氏が、最高額面の紙幣にふさわし
い人物ではないとの指摘もあって発行が停止さ
ところが、その『大東輿地図』の木版本には、
れました(2009.1)。
独島(竹島)の表記がないのですが、それ以前
前にも書きましたが、紛争中の島や地域の帰
の筆写本にはこの島が表記されていることから、 属と地図表現とは重要な関係にあります。
独島が表記された筆写本の『大東輿地図』を補
政府の作る地図から自国の領土が欠落し、地
助図案に使うことで、作業を進めているという
名が誤って記入されることは絶対に許されない
話も伝わっていました。
ことです。まして、新たに書き入れたとなると
ユーロ紙幣では他国との領土問題が絡んでい
大きな問題になるでしょう。
なかったので、たとえ原本にない島嶼をデザイ
韓国政府としては、頭の痛い話でした。日本
38
でも、日本領土全体が印刷された地図模様の 1
万円札や、同地図切手を発行するときには、竹
島も、北方領土も、正しく表記されなくてはな
りませんから、やっかいです。
『大東輿地図』
(いずれも『〈はかる〉科学』中公新書)
『大東輿地図』を編集した『大東輿地全図』
39
122.地図の中にキリンはいるか?
そろそろ
「日本」
の呪縛から抜け出ましょう。
そして、
地図の楽しさに、
うーんと近づきます。
地図作成の基本になる測量をすることは、結
果として標石や杭を残す仕事になります。測量
をするものにとって最後に残るのは、「測量結
果)
」と「測量標石」です。
「測量結果」は、それぞれの地点の位置や高さ
の情報を表現した「測量成果表」と、現地に埋
められた標石の案内図といえる
「点の記」
です。
これは、過去の測量技術者が暴風の中で、
「観
測手簿」を命がけで守った話があるように、そ
れこそ命に代えて大事な成果なのですが、素人
目には単に数字の羅列と道案内の拙い地図でし
かありません。
ということで、測量者は現地に残す「測量標
石」に特別の思い入れが起きます。一般者の目
にも触れる標石の、下部深くにタイムカプセル
を埋めた者がいました。また、ある者は、標石
の隠れた部分に本人だけに意味のある文字を刻
んだといいます
それでは、地図を作る者は同様の「遊び」を
どのようにしたでしょうか。
真相は定かではありませんが、何とか仕事に
携わった痕跡を残そうと、地図の中に自分のイ
ニシアルや自分だけが分かる記号を残そうとし
た者がいたそうです。
先輩から聞いた話では、地図者の遊びは麒麟
ビールのラベルの麒麟の毛模様にある「キ・リ・
ン」の文字のように、地図の湿地記号の中に隠
れているといい、破線で示す補助曲線の中にも
隠れているともいいます。
本当でしょうか、旧版地図と呼ばれる古い地
図で探してみては如何でしょう。
じっさいには、
大先輩である検査者の目をかいくぐって
“遊び”
40
を残すのは至難の業です。発見されて大目玉を
いただいたと見るのが妥当なところかも知れま
せん。
ボストン美術博物館東洋部に勤務し、のちメト
ロポリタン博物館勤務。明治 41 年帰国し、岡倉
天心・横山大観・下村観山らと日本美術院を創
立した人です。
「キ・リ・ン」の文字が隠れているキリンビール
のラベル
これをデザインしたのは、漆工芸家六角紫水
(1867-1950)です。彼は広島出身で、明治 26 年
(1893)に東京美術学校漆工科卒業し、同時に教
授に就任しました。明治 29 年(1896-1898)古社
寺保存計画調査官。
明治 37 年岡倉天心らと渡米、
41
(湿地:「長都沼」昭和 25 年測量)
123.神社の地図記号は、どの鳥居がモデル
か?
地図記号における「神社」が、鳥居を模した
形であるのはよく知られています。そして、地
形図の中に記載されている記号の中で、最も多
く表示されているものの一つが神社だと思いま
す(国土地理院は、建物記号や小物体記号の掲
載数ランキングを発表してほしいものです)
。
ということは、神社が郵便局と同様に、お年
寄りや子どもが歩ける範囲に位置している。地
方にとっての神社や郵便局は、住民にとっても
っとも身近なコミュニティの場としての役割を
果たしている、あるいは果たしていたことが予
想できることです。
また、東日本大震災の際には多くの神社の手
前で大津波が止まったことが明らかになったよ
うに、普段何気なく見ている神社は、自然災害
と関係する重要なランドマークでもあり、ない
がしろにしてはならないものなのです。
その日本中に散在する鳥居ですが、よく見て
みると地図記号の形と同形とは限りません。そ
こには、微妙な違いがあります。
詳細は「鳥居」(稲田智宏著 弘光文社新書)
を参照するとよくわかりますが、鳥居の形には
神明系と明神系があって、
細かくは 60 種を超え
るのだとか。そして、地図記号の形は、神明系
である靖国神社の第一鳥居の形と同じなのです。
国土地理院の前身が軍の組織であったからと
いうわけでもないのでしょうが、地図記号は、
ごくシンプルに見える靖国神社の鳥居と同型な
のです
42
124.乳神様として大切にされた水準点?
地図の内容について、次のような質問が寄せ
られたことがあります。
「私は、隠れキリシタンについて研究している
のですが、古い地図の中の土手などの上に『+』
のマークが時折見えるのですが、そこにキリス
ト教会があったということなのでしょうか」
と。
確かに、
明治初期から昭和 30 年の図式までに
は「+」記号によって、西教会あるいはキリス
ト教会を表現することになっていました。
しかし、教会の記号は、記念碑や煙突といっ
た小物体記号のように、それ自体で真の位置を
表現するのではなく、あくまでも建物に付随し
て使われる建物記号と呼ばれるものですから、
記号だけで表現されることはありません。
神社記号と靖国神社の鳥居
四ツ谷須賀神社と赤坂日枝神社の鳥居
教会ではないかと読み違えたのは、いわゆる
「比高」と呼ばれるものです。
43
「+2.5」
などと書かれた土手などの高さを表わ
す、
「プラス」の文字であって、もしも地表面よ
り低い窪地であれば「-2.5」のように「マイナ
ス」の文字も使用します。
このように、ある意味で間違いほど面白いも
のはありません。
賽銭が投げられ「乳神様」として、妊婦に拝
まれるようになった水準点もあったと聞いてい
ます。ホント?
関連して、測量に使われる水準点が間違われ
たという話です。
水準点は、全国の国道筋に約 2km 間隔に設置
されていますが、時間の経過によって、一般住
宅の敷地や畑の中、あるいは畜舎の中にある例
もあります。
ともかく、
「大切に保存しなければならない」
として地元の方々に言い伝えられたからでしょ
うか、めったに測量に使われなかったからでし
ょうか、形が乳房のように特徴的だったからで
しょうか。
44
+3.8 と比高の記入がある地図
(5 万分の 1 地形図「豊橋」昭和 39 年資料修正)
125.地図の定義は時代とともに変化する
か?ずっと昔の三次元地図表現
あらためて、
「地図とはどんなもの」と聞かれ
ると、簡単には、
「地上のようすを、ある決まり
のもとで、紙などに表現したもの」などと答え
ています。
しかし、これには「最近では」と断りを入れ
たほうが良いかもしれません。立体表現した地
図やディスプレイ表示も多くあるからです。
後者のことは、
「紙など」で、広く網羅すると
して、立体の地図、いわゆる三次元表現された
地図は、
(2005 年の)流行り言葉でいえば、定
義を考えたころの想定範囲外ということになる
のでしょうか。
ところが、そうでもないようです。
立体の地図、三次元地図だから、ディスプレ
イでしか表現できないということでもありませ
ん。未開人の間には、木彫りの地図といったも
乳房のように中央が盛り上がっている水準点標石
45
のも存在していて、切り立つ海岸線や半島を鑿
で彫り上げて、明らかに立体的な地表のようす
が表現されています(エスキモーの木彫り地図
など)
。
存しています(
「鳥海山張抜」宝永 2 年 1705
など)
。木彫りでは愛媛県の目黒村「山形模型」
(寛文 5 年 1665 ころ)など。
中には、飛び出す絵本式の純然たる紙製の起
こし立て絵図もあります(
「肥前・筑前国背振山
の図」元禄 6 年(1693)
、
「鳥海山おこし立て絵
図」元禄 16 年(1703)
、
「甲斐国城山の図」文化
6 年 1809 など)
。
これらは、
境界争いになった地域のようすを、
当事者に分りやすく説明し、共通の理解を得る
ことを主に考えた結果です。
同じような意味を持つ立体地図として、英彦
山の山形を木材に彫刻をした地図模型(元和 2
年 1616)があります。さらには、アメリカ軍
が太平洋戦争後に日本に駐留した際にいち早く
作製した日本全域の立体塑像(適所に無数の穴
が開いていて、地図が印刷されたプラスチック
版を圧着させて立体地図を作製するための型)
「鳥海山張抜」
(酒田市立資料館蔵)
また、日本でも、江戸時代などには、藩領地
争いに際して、粘土製や紙などの張りぼて製の
立体地図が作られ裁定に使われ、日本各地に現
46
があります。
いずれも、修行する行者や作戦行動する兵隊
に未知の世界を早く、正しく伝え、行動させる
ために有効であったと思われます。
ということで、過去には「紙などに表現した」
立体的な地図も存在していましたから、前出の
定義の「紙などに」と言ったときに、平面表現
したものに限定して考えるのは現代人の勝手な
先入観であって、前出の定義に矛盾はありませ
んし、立体表現も想定の範囲内のことでした。
現代の三次元地図表現は、古くからあった立
体地図が情報社会の到来で見直され、その手段
がディスプレイなどの変わっただけのことなの
です。
しかしながら、地形図をベースにした建物形
状と航空レーザなどで取得した建築物の高さデ
ータをベースに、現地映像から得られたビル壁
47
面のパターンを貼り付けて作成した三次元表現
を「地図」であるとすることはどうなのでしょ
う。古い者は「これも地図なの?」と少し頭を
かしげます。
126.
「金の国、銀の国」からヤパンへ
「地図とは、
位置情報の塊でなければならない」
と言うのが、私の持論です。
地図の中に書き込まれた、ごく小さな記号の
一つにも、根拠があり、その場所に書きこまれ
る意味がなければなりません。しかし、地球上
に未知の世界があったころには、不確かな情報
のもとで地図を作り、しかも出来る限り空白を
埋めなければなりませんでした。
では、ヨーロッパ人にとって、インドの東や
タクラマカン砂漠の先が未知であったころ、日
出る国日本は地図の上にどのように表現されて
いたのでしょうか。
紀元 2 世紀のプトレマイオス(Claudius
Ptolemaeus 古代ローマ時代のギリシャ人天文
学者)の「地理書」には、ヒマラヤ山脈の先に
「絹の国(セリカ)」が、9 世紀のフルターズ
ビフ(Ibn Khurdadhbih)の地理書には、「シン
の(中国)先には、金を産するシラ(sira)や
ワクワク(wakwak)」という国が記述さている
と言います。
イドリーシーの世界図(12 世紀)
48
そして、12 世紀シチリアの王に仕えたイドリ
ーシー(Al Idrisi)の世界図にも、シンの国
とともにワクワク国が記載されます。
このように、情報不足の時代には、絹と金と
いう魅惑的な産物を未知の国と結びつけて語る
のは、当然のことかも知れません。
セリカ国やワクワク国が、日本そのものであ
るという確証はないのですが、原型であること
は違いないでしょう。
また、中国における絹生産や日本における金
の産出の歴史と重ね合わせると、この記述も全
くの誤った情報というものでもありません。西
洋人にとって、日出る地には、それこそワクワ
ク?するような国の存在が予想されたのでしょ
う。
オルテリウスの太平洋図(1582)
(いずれも、
『古地図の博物誌』古今書院)
その後、1271 年にはマルコポーロ(Malco
Polo)がイタリアを発って東方旅行に向かいま
49
す。そして、中国の東にある黄金の国は、ジパ
ング」(Cipangu)としてヨーロッパに伝えられ
ます。黄金の国の根拠になったのは、俗に言う
ところの奥州平泉の金色堂(1124 年建立)の存
在に代表されるように、実際に金が豊富に産出
した、当時の日本のようすが中国経由で伝えら
れたのでしょう。
ヨーロッパの地図には、
「ジパング
(
(Cimpagu、
Zipangu、Zipangri)
」
などと表記され始めます。
その後、1517 年ごろにマラッカに滞在したト
メ・ピレスの情報により、中国語での日本国(ジ
ーベングォ:Ji-pen-kuo)に由来すると思われ
るジャパン(japan)の名も伝えられます。1569
年のメルカトルの世界図では、かつてのジパン
グはヤパン(japan)となり、そこには「マルコ
ポーロによってジパングと呼ばれたヤパンは、
その昔の金の島である」と記されます。
50
127.地図に石見銀山が登場した日
では、1569 年のメルカトルの世界図へのヤパ
ン(japan)の文字登場によって、黄金の国の記
述は消滅したのでしょうか。
1582 年のオルテリウスの太平洋図では、
Iapan の北には、金銀が豊富に産出する「銀の
島(Isla de plata)」が、再び登場します。日
本という国が、このときも未知の領域にあった
ことを示しているともいえます。
また、西洋人に植えつけられた金銀島のへの
強い期待は、簡単には消えなかったのかもしれ
ません。
そのオルテリウス図をよく見ると、本州の西
には「Minas de plata(銀鉱山)」の文字が、
1595 年のオルテリウス/ティセラの日本図では、
同じ地点にはラテン語の「Argenti fodinae(銀
鉱山)」「Hivami(石見)」の文字も見えます。世
界遺産に指定された、あの石見銀山です。
当時、世界の銀生産量の 3 分の 1 を日本が輸
出していたといいますから、これは金銀(島)
に関して確かな情報が盛り込まれたことになり
ます。そして、たしかな情報をもとに石見銀山
が西洋の地図に登場したこの日は、日本国が世
界地図デビューを果たした一歩であったともい
えます。
その後、東洋の情報はしだいに確度を増して
いきます。未知の領域にあった地図の中の日本
は、その姿形だけでなく確かな地理的情報に基
づいたものへと変化していくのです。
いわゆる「行基図」が西洋に伝えられ、これ
に国名が添えられた独特の日本が西洋の地図に
表現され、それがしだいに形を整え、蝦夷地や
北方地域が表現されるようになり、悲しいかな
金銀島の表記は消えてゆきます。
オルテリウス/ティセラの日本図(部分)
((株)ゼンリン蔵)
51
128.東の海に女人の嶋が?
地図の歴史は、探検の歴史でもあります。
私たちが住む国の向こうには、この海の果て
には、どんな人が住んでいるだろうか、どのよ
うな国があるのかという思いが、人々を探検に
向かわせます。その探検の成果によって正確な
世界図が作成されるのですが、まだ見ぬ地の果
てには、想像の産物が地図の空白を埋めます。
それは、不思議な島や怪獣の存在を信じてい
たからなのでしょうか、地図利用者の期待に応
えるためだったのでしょうか。
未知の地域には、
奇怪な生き物や悪魔が住む不思議な世界がある
と伝えられ、地図にも不思議世界が記入された
のです。
残された地図(10 世紀~)には、頭のない人
や片足の人など、不気味な人物が未知の地域に
描かれています。そうした表現は、陸地に限り
ません。海上に暮らす海獣や人魚、空には怪鳥
52
も見えます。
想像によって書き加えられたのは、生きもの
だけではありません。まことしやかに伝えられ
た不思議な島が書き込まれることもありました。
地図の隅に書かれたもの
不気味な島の存在は、東国でも同じです。李
氏朝鮮の「海東諸国総図」は、その内容からし
て、南日本から朝鮮に伝えられた情報によって
当地で作られ、日本に逆輸入された日本全図で
あることが知られています。
その日本列島の東の海には、
「女国」と「羅刹
国(らさつこく)
」という文字が見えます。
「女人国は、女ばかりが住み、風で孕(はら)
む」「女人国は、美麗な女の住む島」、「羅刹
国は、鬼の住む島」「羅刹国は、女人華(はな)
やぎ、来たりし人還らぬ島」であったようです
(織田武雄「地図の博物誌」
、応地利明著「絵地
図の世界像」
)。
この島を訪ねた日本の男たち、いく人ほどの
帰らぬ人となったのでしょうか。残念ながら、
そのような統計資料は残っていないようです?
日本の果てにも、このような興味あふれる島
があるらしいと、人々には伝えられたのでしょ
うが、私には当時の人々がそれを本気にしたと
も思えません。
未知の地域が残っていた時代には、地図の中
には未知の世界と既知の世界が楽しさとともに
同居していたのだと思います。その意味では、
現在の地図にある不確かな記述が、誤記だけ?
「海東諸国総図」(1471 年「海東諸国紀」所載)
(『絵地図の世界像』岩波新書 東京大学史料編纂所蔵)
53
というのもさびしいものです。
129.鳥瞰図と蛙瞰図
鳥瞰図は、
「鳥が眺めたような地図」というも
のでしょうか。
鳥になったことはないからよく分らないので
すが(といいながらも、私は、かつて夢の中で
飛ぶことができたので、本当は空からの景色を
実感していますが?)
、
飛行機の小窓から除いた
ときの景色が、鳥の目から見える風景なのでし
ょう。
この先の人生もそれほど永くない身では、ま
ったくの絵空事でなければ、確認も兼ねて、島
に渡ってみたいとも思います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
猛禽類は、視力も動体視力も良さそうなのは
わかるとして、鳥目というのもあることだし。
採餌との関連で視力、特に動体視力は高そうで
すが、色彩識別に関しては、それぞれが特徴的
な範囲で高い力を持っているのは予想されるの
ですが、人間ほど多様な能力は持ち合わせてい
いないと思います。
54
これは、私の勝手な想像です。詳細は専門家
にお任せしましよう。
ともかく、
鳥瞰図と呼ばれる地図があります。
鳥瞰図は、
鳥が眺めたような地図ではなくて、
本当のところは、
「高い視点から斜めに俯瞰した
ような透視図」になります。対して、
「あかんず
(蛙瞰図=仰見図)
」という地図もあって、これ
も、蛙が見たようなとはいっても、これも蛙の
眼を通したような地図ではないのですから、
「蛙
は近視ではなかったかしら」などと細かな追求
はしないことにします。単に低い視点からの、
下から見上げた透視図です(虫瞰図ともいう)
。
こうなると、どう命名しようと勝手ですね?
海面から海底を見下ろした図を「鯨瞰図」
。亀
が海から陸を見た図を「亀瞰図」と呼ぶ人も現
れる始末(絵地図作家 村松昭氏「亀瞰図 遠
州海岸絵巻」
)です。
地中から地上を見る「モグラ瞰図」も、闇夜
の地上を見る「ムササビ瞰図」もいいかも知れ
ません?
鳥瞰図(吉田初三郎作)
55
話をもとに戻して、
「鳥瞰図の始めは」いつの
ことかと、思い巡らしてみます。
木の枝を使い、
砂上に地図を書いた時代には、
真上から見た正射投影の地図を描けたのでしょ
うか。それこそ、身近なのは高所から集落の風
景、斜め視点の鳥瞰図そのものだったと思いま
す。もし、そうだとしたら、地図の始まりは鳥
瞰図の始まりと同じになるのかもしれません。
それほど辿りませんが、レオナルド・ダ・ヴ
ィンチ(1452-1519)が「トスカナ鳥瞰図」を
描いています。次に思い浮かぶのは、日本の屏
風絵や絵巻でしょうか。雲間に見えるような都
の風景や、豪華な寝殿造りの縁側で音曲を楽し
む貴族たちのようすが見える優雅な絵です。も
っとポピュラーな現存する日本最初の鳥瞰地図
の代表作となれば、鍬形恵斎(1761-1824)の
「日本絵図」
、その名もずばりの「大江戸鳥瞰図
56
(1802)」そして、橋本玉蘭斎こと五雲亭貞秀
(1807-1878?)の「御開港横浜之図(1868)」
とでもなるのでしょうか。
彼らは、航空機のない時代に、どのようにし
て上空高くに視点を置いた地図を製作できたの
でしょう。不思議です。
そして、有名な鳥瞰図師、吉田初三郎
(1884-1955)の大量の鳥瞰図作品がある。彼が
航空機を利用したかどうかは知りませんが、こ
の時代になれば、上空から鳥瞰する機会にも恵
まれて、参考となる正確な地図も用意されてい
たでしょうから、以前に比べれば容易に製作で
きたはずです。
だとしても、鳥瞰図師には、常人には無い発
想の柔らかさと高い技術が必要です。
130.神社を建てた鳥瞰図師
のちに紹介しますが、吉田初三郎の描く鳥瞰
図は皇太子(のちの昭和天皇)時代の出会から
昭和天皇にも愛されました。優れたデフォルメ
と独特の視点を持つ鳥瞰図は、全国各地の観光
名所などに登場して、多くの市民にも注目され
ました。
その鳥瞰図師吉田初三郎は、神社も建てたそ
うです。
皇太子(のちの昭和天皇)との出会いをきっ
かけとして順調に仕事を続けてきた初三郎でし
たが、大正 12(1937)年の関東大震災で東京の
自宅を焼け出されました。そのとき、ある人の
紹介を受けて日本ライン(木曽川)近くに居を
移します。
初三郎は、住まいの近くに「鬼が島」や「猿
洞」
「雉が棚」といった地名が存在していたこと
さかさまの地図(何がさかさまでしょう?)
57
から「ここが、桃太郎伝説発祥の地である」と
確信し、
日本中に宣伝してまわったといいます。
昭和 4(1929)年になると「桃太郎会」を発
会し、昭和 5 年には桃太郎神社の創設準備を始
めました。同年秋には、桃太郎神社を創建。自
ら「日本一桃太郎会」会長に就任し、地元と協
力して「日本一の桃太郎祭り」を催しました。
また、翌年の祭りには、愛息が桃太郎に扮し
て武者行列に加わり、その列は犬山の町から長
良川を川舟で渡り桃太郎港を経て、同神社まで
を練り歩いたそうです。
初三郎、なぜこんなに桃太郎神社に力を入れ、
こだわったのでしょうか。
全国各地、いや中国や朝鮮までも足を運び鳥
瞰図製作に力を注いでいた初三郎ですが、観光
や鉄道旅行との係わりの中にいるうちに、ごく
自然に観光イベントの実施などにも関心を持つ
ようになっていたようです。
58
そして、日本ライン近くへの転居は、のちに
名古屋鉄道社長になる方の好意を受けたのでし
た。
桃太郎祭りは、社長の支援に応える意味のイ
ベント開催であったのかもしれません。もちろ
ん、時代背景から考えれば戦意高揚とも関連し
て、皆が桃太郎という強い味方に憧れていたの
でしょう。そして、周辺の地名の存在などが、
ない交ぜになっての行動と思われます。
桃太郎神社は、今も愛知県犬山市栗栖字古屋
敷にあります。
もちろん、桃太郎伝説は岡山や高松にもあり、
桃太郎神社は、香川県高松市鬼無町にもありま
す。
131.米粒に文字を書く測量師
私の手もとには「地図用文字」と表題のある
文字見本帳といったものが残っています。
私が国土地理院に入所した当時の地図作成
工程は、空中写真から作成した図化素図から編
集素図を作成し、これを製図して測量原図とし
て、製版・印刷としていました。
この編集素図を、ごく初期には丸ペンを使用
した墨で、次いで鉛筆で整理し描いていた(
「清
描」
【せいびょう】と呼ぶ)
。そのときに、
「地図
用文字」を手本として文字を書き込むこともあ
りましたが、それは写真植字するための当たり
をつけるためのものであって、描いた文字がそ
のまま地図となることはなかった。
そうした地図に表現される文字を「注記」と
呼び、初期には主に楷書体が使われていました
が、明治期以降には明朝体が、その後には等線
書体(ゴシック)も使用されるようになりまし
桃太郎神社(
「犬山」
)
59
た。
そして、地図の名前「図名」や「郡名」には、
隷書体が長く使用されていました。
これら地図用文字には、陸地測量部独自の書
体が開発され使用されてきました。作業の現場
には、そうした文字の標準模範例集となる「図
名隷字集」あるいは前述の「地図用文字」とい
ったテキストがあって、これを使用して技術者
間で書体の統一を図ってきました。
ければ、地図注記は書けなかったのです。
初期の注記は、銅板彫刻やペンによる手描き
文字が使用されました。注記の最小の字大(字
の大きさ)は、1.2 ミリで、それほど小さな文
字ではありませんが、
地図製図師は余技として、
毛筆やペンを用いて米粒に 180 余の文字を書い
たといいます。そこには、
「高砂」
、
「君が代」
、
あるいは童謡の「赤とんぼ」などを好んで書い
たそうです。そのような高度・繊細な技術がな
60
また、書や彫刻、銅板だけでなく、地図製作
にはさらに広範な技量を必要としました。明治
7(1874)年の陸軍省参謀局地図政誌課には、川
上寛(冬崖 洋画家)
、柳田邦道(日本画家)
、
中根淑(書家)などが在籍しました。その後も、
国土地理院の前身である陸地測量部には、のち
に挿絵画家となった富田秀太郎
(永洗)
のほか、
浮世絵、漢書、日本画、洋画などをする者が多
く在籍し、その技術を地図つくりに生かしたの
です。
132.文字を作った男たち
地図作りが銅版彫刻の時代なら、製版は一種
の版画のようなものですから文字を左右反対の
鏡文字で彫らなければなりません。そのまま原
版できるように着墨製図する清絵作業でも、ほ
ぼおなじです。
鏡文字の練習には、見本帳の天地を逆にして、
そこに鏡を立てて、それを見ながら練習したと
いいます。
その地図に使われる文字には、明朝体、等線
体、そして隷書などがありますが、前二つの場
合は、あらかじめ示した字の大きさや間隔を示
す字枠をもとに横方向は定規を使い、縦方向な
どはフリーハンドで描きます。そのとき、縦方
向を定規で描くことは「文字が死ぬ」といわれ
て固く禁じられました。
さらに、日、田などといった文字の空きは上
地図用の隷書体(
『地図用文字』国土地理院)
61
よりも下を広くする。目や貝などでは右の縦線
より左の縦線を太くするなど、錯覚を逆利用し
たバランスのとれた文字を描くことに心がけま
した。しかも、漢字の大きさは小さなものは
1.5mm から 2.0mmm です。文字注記が一人前にな
るのには、10 年かかるといわれてきました。
明治 13 年ごろから使用したという、
こうした
地図の隷書は、古い地形図の図名文字を見比べ
てみるとわかりますが、
時代による変化があり、
複数いた書家による個性もあって、同じ文字で
もまったく同じというものでもありませんでし
た。
中でも、前述の「図名」と「郡名」に使用し
た隷書体については、陸地測量部独特の書風が
あって、熟練した技術者が毛筆で書いたものを
正確に写して、
すべてフリーハンドで描きます。
そのときの見本帳の作成や隷書その他文字の書
き込みなどのことで、陸地測量部にも書家を必
要としたのです。
その陸地測量部の隷書は「曹全碑」あるいは
「漢曹全碑」と呼ばれる、後漢の 185 年ごろに
建てられたという、隷書の石碑にある筆使いの
特徴を取り入れた書風を手本にしています。
その後、見本帳(「図名隷字集」など)を整
備して統一を図りますが、味わい深い隷書書体
の文字は、
今ではまったく使用されていません。
62
133.世界に果てがあったころ
本初子午線とは、経度 0 度の子午線をいいま
す。
経度は、緯度とは異なり相対的ですから、ど
こを 0 度と決めてもよいわけで、過去には国に
よって異なる地点を使用していましたが、現在
はロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線を
0 度と決めています。
2 世紀のプトレマイオスの地図では、大西洋
に浮かぶカナリア諸島を通る子午線が 0 度とな
っていました。これは、当時世界には「果て」
があって、この島が世界の西端であったからに
他なりません。
その後も、西欧の経緯度が記入された地図の
多くは、プトレマイオスの地図にならって、本
初子午線をカナリア諸島としていました。
このことについては、プリセンの地理書など
「曹全碑」
(『地図製図技術の変遷』)
63
をもとにした箕作省吾の「坤輿図識」にも以下
のようにあります。
「福島(カナリア)・・・・、東
西経度線ヲ初メテ、此地ヨリ起ス、爾来今ニ至
リテ西洋諸州人、
多クハ此ニ準用スト云フ・・・・」
さて、我が国ではどうでしょうか。
日本初?の経緯度線入り地図で有名な、長久
保赤水の
「改正日本輿地路程全図」
(1779)
では、
0 度とは記されていませんが、京都が基準にな
っています。
さらに、高橋景保の「日本辺界略図」
(1809)、
伊能忠敬の
「日本沿海輿地図
(いわゆる伊能図)」
(1821)とも、京都に「中度」と明記されてい
ます。それは、京都千本 3 条の改暦所(現京都
市中京区西ノ京西月光町)を通る地点で、ここ
は幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天
文台があった場所です。
64
高橋景保と弟子の忠敬が、自らが勤務する浅
草の幕府天文台を中度としなかったのは、父高
橋至時の改暦(寛政暦)はもちろん、弟の渋川
景佑の主導した改暦(天保暦)も、平安朝以来
の天文総本家土御門家の形式的な校閲を必要と
したことで明らかなように、永年続いた権威に
従わざるを得なかったからです。
変わったところでは、同時期の鷹見泉石所蔵
の「新製総界全覧方図」
(天保 6 年 1809)は、
金華山を経度 0 度としているそうです。
ということで、西欧人は世界の果てを、日本
人は権威の中心を本初子午線にしたという違い
があります。
134.そして本初子午線は動く
本初子午線のその後のことです。
明治 4 年(1871)になると、東京溜池葵町 3
番地
(現東京都港区虎ノ門ホテルオークラ付近)
に工部省の観測課が設置され、天文台が設けら
れました。
同地は後に、内務省地理局測量課となり、一
部の地図の上で、ここが本初子午線(経度 0 度)
となりました。この時の経度値は、明治 8 年に
アメリカの観測隊が長崎での金星経過観測によ
って求めた長崎と東京麻布の海軍天文台経度か
ら求めた値を用いました。
さらに内務省地理局の天文台は、
明治 15 年に
江戸城旧本丸(現皇居東御苑天守台跡)に移転
します。同年内務省は、これまでの葵町の値を
同所に移し、新しい天文台位置を経緯度の 0 点
とすることを告示したのです。
京都に中度とある「伊能図」
65
少し横道にそれますが、どうして天守台跡が
新しい天文台として選ばれたのでしょうか。
明治 13 年 6 月に内務省が作成・提出した伺い
によれば、
「現在の天文台は稍地盤が悪いので、
これを改良するのには相当の経費を要する、現
今の経費削減の折り旧本丸天守台跡は、営築後
200 年になり地盤は堅牢、府下の中央に位置し、
四方が望め、鉄道からも遠く、道路に接近する
こともなく、したがって馬車の通行による振動
もなく適地であるので、ここに天文台を設置す
ることを許可願いたい」とあります。
このような経過で、
新しい天文台が設置され、
江戸城旧本丸(天守台跡)が本初子午線となっ
たのです。
同地に設置された三角点も含めて、いくら国
家防衛上の重要施設だとしても、かしこくもお
上にもっとも近いこの場所に、どうして天文台
が設置されたのでしょう。
それは、
明治の初め、
66
これまでの習慣・常識がことごとく打ち破られ
た(陋習蟬脱)ときだったのです。
その後、明治 17 年(1884)にワシントンにお
いて「万国測地会議」が開催され、イギリスの
グリニッジを経度 0 度とすると定められ、日本
経緯度原点経度もこれに従ったので(明治 19
年)
、以後本初子午線は日本に存在しません。
135.地図に見えた明治の風景
国土地理院の前身が陸軍参謀本部あるいは陸
地測量部であることはよく知られたことです。
ともかく、組織が始まってからこの方営々と地
図作成を続けています。
その数は約 6 万点にもなり、その原図等は国
土地理院の地図倉庫に保管されています(初期
の原図の保存は少数で、初版刷りがほとんどで
す)
。その中に、明治 13(1880)年から同 19 年
にかけて作製された「二万分の一迅速測図」の
名で知られている美しい地図があります。
この地図が、フランスの技術を習得した幕府
技術者によって明治政府の下で作成されたこと
は、すでに紹介しました。
天守台跡の天文台(『気象百年史』気象庁)
地形図は、たて 25 cm×よこ 20 cm の大きさ
で、約 900 枚をもってほぼ関東平野の全域を網
羅しています。それは、土地利用区分ごとに彩
67
色された鮮やかなものであるだけでなく、図隔
外と呼ばれる地図の余白には、当時の風景や目
標物などが、時代のワンカットを切り出したよ
うに描かれています。
そこには、目標物となった神社、寺院、祠な
どのほか、町並や船着き場、そして橋などの構
造物の側面図などもあり、地図マニアでなくて
も、ついうっとりと見つめてしまう多色の美し
さがあります。
図・製版技術者の存在があります。
その後、日本の地図・測量は、ドイツの影響
を深く受けて発展します。その成果は、
「陸地測
量部の 5 万分の 1」などと呼ばれる黒 1 色で表
現される地形図で代表されます。同地形図には
色彩表現はありませんが、それでも「小人の手
と巨人の目」
で紹介したような平板測量技術者、
「海に“グルグル”
(波紋)があったころ」や「米
粒に文字を書く測量師」で紹介した繊細な製
68
「迅速測図」に書き込まれた「視図」と呼ばれるスケッ
チ(国土地理院発行「第 1 軍管地方 2 万分 1 迅速測図原
図」
)
136.地図に英語表記があったころ
「迅速測図」に書き込まれた主要構造物「逆井橋十横断
面図」
(同「第 1 軍管地方 2 万分 1 迅速測図原図」
)
「北海道実測切図」
(北海道庁)
1945 年、太平洋戦争が終了しました。そのと
きアメリカは、数年のうちに日本全土の写真撮
69
影をしました。
あまり知られていませんが、同時に地形模型か
ら立体地形図を作り、三角点への案内図「点の
記」を英語入りで作成したのでした(昭和 21
年開始)
。
立体地形図は、米軍にとって初めての地であ
る「日本」本土を兵士に正しく理解させ、作戦
を確実に遂行する手段とするもので、非常に賢
明な策だと思います。
また、
戦後の混乱の中で、
一等から三等まで、10 数万点もある三角点の情
報(
「点の記」
)を先ず整備するのも、いかにも
基本(図書)やマニュアルを大切にするアメリ
カらしいやり方です。
同時に米軍は、この空中写真と基準点の情報
をもとに地形図の作成を開始し、昭和 34(1959)
年には、日米が共同利用できる「特定 5 万分の
1」と呼ばれる地形図も作成開始しました。その
特定 5 万分の 1 は、写真測量で作られたグリッ
70
ド入り、英語併記で、海部の情報も入った多色
刷りの地形図といったものです。
この仕事に協力したのが、戦地帰りの陸地測
量部の職員であったのは皮肉なことです。
しばらくのちのことですが、私はこの「特定
5 万分の 1」
から英語注記やグリッドを削除して、
日本の地形図に仕立てる仕事に、何の疑問も持
たずに従事しました。
1km メッシュとそれぞれを示す数字が明記さ
れた「特定 5 万分の 1」は、本来単なるメッシ
ュマップなどではなく、軍事用に開発された地
図で、着弾地点や作戦展開地点を数字で表現し
て情報の共有化を図る目的を持つものです。し
かし、その目的と利用価値は、すぐに薄れてい
ったと思います。
英語併記ということでは、それ以前の日本地
図にも事例がありました。正確には「北海道実
測切図」と呼ばれるものです。因縁というか、
この地図作成もアメリカが係わっています。
明治期北海道開拓使は、アメリカ人の指導で
測量地図作成事業を進めていました。測量につ
いては省略しますが、明治 21(1888)年以降に、
アメリカ人の指導を受けて地形測量を行い、明
治 23 年に印刷を開始したこの地図は、
北方地域
を含む北海道全域について、縮尺 5 万分の 1 で
作り、
これを基にして 20 万分の 1 の地図が編集
されました。陸地測量部に先駆けて作成された
3 色刷りの美しい地図には、地名が英語併記さ
れています。
展しないことと、英語入りの地形図が未だ刊行
されないことを思うと尚更です。
著者の勝手な考えですが、明治期と昭和期の
英語併記地図の消滅は、明治期大学での英語に
よる授業の消滅と併せて実に残念なことであっ
たと思っています。
国際化の時代になって、英語教育が順調に進
71
137.測量と通信手段
測をします。あるいは、櫓を直接観測します。
櫓を直接といっても、そう簡単に見えるわけは
ありませんから、これは距離がごく短いときに
限られます。
光を反射させて観測するには、太陽の動きに
合わせて鏡を回転させる必要があり、観測相手
とは鏡の方向の調整や作業の開始、終了といっ
た簡単な通信もできなければいけません。その
ためには、相手側の山頂に光の反射を担当する
測量助手が必要となります。
光通信は、熟達した測量助手が鏡を使ってモ
ールス信号のように行いました。後には、自ら
光を出す回光器が使われましたが、いずれにし
ても、トランシーバなどの携帯できる通信設備
のない時代ですから、いろいろの意味で職人技
が力を発揮したのです。
回照器(ヘリオトロープ)
地図作成の基本になる一等三角測量などに興
味を持った方は、40km も隔たった山頂の 20 cm
ほどの大きさの三角点の位置をどのような方法
で観測し、正確に求めるのか、疑問に思われる
はずです。
一般的には、
三角点標石の付近に高い櫓を
組んで、その上に回照器という太陽光を反射さ
せる鏡を設置して送り、この光を視準して角観
72
器を櫓に上に置いての観測もします。
したがって、測量が開始時には、山々に赤と
白に塗り分けられた測量旗の掲げられた三角錐
の櫓、すなわち三角標が立ち並びます。
賢治は、ここから発する光をイーハトーブ?
などで見たのでしょう。同作品には「三角点の
青白い微光の中を、どこまでもどこまでも走っ
て行くのでした」と、
「野原は走る幻燈のようで
した。百も千もの大小さまざまの三角標、その
大きなものの上には、赤い点々をうった測量旗
も見え・・・」ともあります。
このことからだけでも、
賢治の測量に関す
る知識は高いものがあったようです。
回光器(国土地理院)
関連して、宮沢賢治(1896-1933)の「銀河鉄
道の夜」には、三角標(測量標)がたびたび登
場しますが、それは三角測量に使われる三角錐
あるいは 4 角錐形の木製の櫓をモデルにしたと
思われます。
前述のように、三角測量では、この櫓そのも
のを遠方から観測する、あるいは回照器からの
太陽光を、あるいは回光器の発光した光を観測
する手はずになっています。もちろん、測量機
話を元に戻しますが、その後の測量は、これ
までの測角を主とした測量から、光波測距儀を
使用した距離を測る測量が主になりました。光
波測距儀からは、レーザ光が発射され、相手側
73
の山頂などにはこれを受ける反射鏡がおかれ、
通信の手段もトランシーバが使われるようにな
りました。
そして今では、GNSS 測量が主力となり、通信
もトランシーバのほか、場合によっては携帯電
話の利用も可能になっています。おもしろいこ
とに、騒音が激しい市街地内の、数 m 先の測量
助手とのやりとりに携帯電話を使用していまし
た。
これでは、賢治のような夢のある童話は、創
作できそうにありません。
三角標(測量標)
(関東大震災復興測量の測量標「愛
宕山」
)
宮沢賢治のことは、
「
『銀河鉄道の夜』における「三
角標」と「
(測量)旗」
」を参照ください。
74
138.助役さんが勝手に作った地名
地形図に記載する地名は、原則として地元の
市区町村などが作成する「地名調書」をもとに
します。したがって、地形図に誤りなどがあっ
て、
「△△町」を「○○町」と訂正するときも、
その地名に該当する市区町村の「地名調書」の
内容を変更する形で行います。
原則としてといったのは、行政名や居住地の
名称などは全面的に
「地名調書」
に拠りますが、
山や川といった自然地名は、市区町村の意思に
したがわないことがあるからです。
たとえば、市区町村で「地名調書」に「○○
山」や「□□川」と記載したとしても、じっさ
い現地などでそのように呼んでいなければ、こ
れは採用されません。
自然地名は、話題の種になった合併に伴う疑
問符つきの市名のように、市町村の勝手とはな
らないというわけです。
75
さて、地形図に記載されている地名は、居住
地名といって、居住する建物がある場所だけに
記入されています。また、地図上の見易さなど
も加味されますから、記載されるのは、必ずし
も公式的な名称ばかりでありません。
例えば、公式名称が、あまりにも広い範囲や
狭い範囲を網羅するとき、離れた場所に集落が
存在するときなどには、いわゆる通称名を記載
する場合があります。
事実、そうした場所には、何らかの呼び名が
存在するはずです。
ところが、過去に地図作成者が、
「この集落は
何と呼んでいますか」と聞いても、若い市の職
員は公式名称しか知らないことが多く、いい答
えをもらえないことがありました。
そのときに登場するのが、助役さんや古参の
総務課長さんでした。彼らは、町全体の事情に
精通していて、
「これは○○、それは△△と呼ん
でいる」などと、てきぱきと指示してくれまし
た。
それだけではありません。のちにも紹介しま
すが、区長を務めていた夏目漱石の父は、
「自宅
の前にから南へ行く時に是非共登らねばならな
い長い坂に、
自分の姓の夏目という名をつけた」
という荒業も?しました。そればかりか、喜久
井町さえも勝手に!
そして今、助役という役職の減少や古参の総
務課長が少なくなったことと連動するように、
地名における通称名も使われなくなりました
(最近、地図に掲載する居住地名称は、公式名
称が主体となっています)
。
夏目坂と喜久井町
(
『東京横浜』JTB パブリシング)
76
139.昭和天皇がご指摘になった地図の誤り
京阪電鉄の電車に乗り合わせた皇太子時代の
昭和天皇が、車内に掲げられていた鳥瞰図師吉
田初三郎の「京阪電車御案内(地図)
」にすっか
りほれ込み、
「東京の級友に持ち帰りたい」と、
お話になったという話は、地図仲間では有名で
す(大正 3 年 1913)
。
この出来事からも、昭和天皇は少なからず
地図に興味をお持ちになっていたと思われます。
そして昭和 40(1965)年のことです。
那須の御用邸でお過ごしになっていた天皇陛
下が、植物調査との関連で 5 万分の 1 地形図を
広げられていました。そのとき偶然並べられて
いた古い地形図と新しい地形図で、二つの山の
名前の記載に入れ替わりがあるのに気づかれま
した。共に確認されたであろう侍従は、早速事
務方を通して国土地理院に連絡したようです。
「
『同じ、国土地理院の地図なのに、左右 2 つの
山の名称はどうして入れ替わっているの?』
と、
昭和天皇がご指摘になられました」とでも申し
上げたのでしょう。
陛下直々のご指摘に、国土地理院での狼狽ぶ
りというか、対応のようすが目に浮かびます。
担当課では早々に資料を調べ、さらに現地に
赴き地元の役所などで、詳細かつ慎重な調査を
したそうです。
調査の結果、新版図の記載には誤りがないと
分かって担当者は胸をなで下ろし、事情は速や
かに宮内庁に報告され、その間の経緯は侍従を
通じて陛下にもお伝えされて、一件落着しまし
た。
それは、未踏の地域が未だ多くあった明治・
大正時代の地形図にはよく見られた、左右の山
名の取り違えでした。それを修正測量に伴い、
77
現地調査で誤りを発見し、山名を正しく訂正し
たのです。指摘のあった地形図は「那須岳」
、山
名は「大倉山」と「三倉山」です。じっさい明
治 42 年測図と、昭和 33 年修正の地形図で見比
べるとわかります。
たのでしょうか。
いずれにしても、山名の位置は、その後変更
されていません。
ところが、これには後日談があります。
それから 30 年以上も経った平成 5 年のこと、
黒磯市は「旧来の位置で山名を呼んでいますか
ら。元に戻してほしい」と、国土地理院に申し
出たそうです。しかし、これまでの経緯を知る
者から「この山名の変更は、昭和天皇もご指摘
になったことがあり、納得したものですよ。そ
れでも変更しますか?」との忠告を受けてすっ
かり意気消沈し、山名の表記はそのままになっ
たのだとか。
果たして、どちらが旧来から知られていた名
称だったのでしょうか。正しい名称どちらだっ
78
「那須岳」
(明治 42 年測図 5 万分の 1 地形図)
「那須岳」
「那須岳」
(平成 12 年修正 2 万 5 千分の 1 地形図)
(昭和 33 年修正 5 万分の 1 地形図)
79
140.石田三成ゆかりの“ものさし”
地図作りの目的の一つは、支配者が土地を管
理し、税金を徴収するためであって、そのため
の測量を「検地」といいます。日本で最初に統
一基準による
「検地」
が全国的に行われたのは、
社会科の教科書に必ず出てくる、豊臣秀吉によ
る太閤検地(1592~1596)です。
検地には、現在のポールにあたる梵天竹(ぼ
んてんたけ)
、巻尺にあたる水縄、直角定規にあ
たる十字が使用され、結果としては、土地の 1
区画ごとの地名や地目、等級、面積、石高、耕
作者名などが記載された検地帳(水帳)が作成
されます。
簡単に言えば、検地帳とは、誰がどのような
価値を持つ土地を持っているかを記したもので
す。この検地帳、役人と農民が連判して、2 部
作成され、1 部は名主へ、他は勘定所に納めら
れました。
記載された結果から、田畑、屋敷地などを生
産力に格付けして、米の石高に換算し、これを
基に徴税が行われます。記載された結果から、
田畑、屋敷地などを生産力に格付けして、米の
石高に換算し、これを基に徴税が行われます。
さて、鹿児島市の磯庭園にある尚古集成館に
は、文禄 3 年(1594)に秀吉の命を受けた石田
三成が島津領検地の際に使用したといわれる
“ものさし”が所蔵され、展示されています。
太閤検地は、石田三成と細川幽斎に命じられ
たといい、島津氏の領内は文禄 3 年から同 4 年
にかけて三成の下で実施されました。三成が農
政などで残した功績としては、5 人組制度がす
ぐにあげられますが、地味ながら重要な検地と
いう仕事でも成果をあげたようです。
残された検地尺は、上質の柾目桧板製で、表
には墨による 2 個の×印があり、その間で 1 尺
80
の長さを表示しています。さらに 1 寸ごとの目
盛りがあって、石田三成(治少輔)の署名と花
押もあります。
あい定め候て、5 間に 60 間を 1 反に仕るべく候
なり」と添え書きがあります。
“ものさし”ひとつで、土地は広くもなり狭く
もなりますから、石高や年貢を左右する大事な
道具なのです。この年、この尺を基準にし、添
え書きにあるように 1 間を 6 尺 3 寸と決めて事
業を進めたのです。同尺は、太閤検地尺として
現存する唯一のものさしであり、国指定重要文
化財になっています。
売店では、3 分の 2 に縮めた複製尺も販売さ
れていますから(現在は販売していない)
、文化
財を手にとって確かめられます?
明治期には土地台帳作成が、現在では地籍測
量が行われていますが、大都市では遅々として
進んでいません
(全国で 50 パーセント弱の実施
率)
。
そのためもあって、六本木ヒルズ地区の再開
発では、土地境界画定のために長期間を要した
石田三成のものさし(尚古集成館蔵)
裏には、
「この寸をもって、6 尺 3 寸を 1 間に
81
ことが関係者には良く知られています。
高度な科学技術を習得している現代の私たち
ですが、検地(地籍)では秀吉に負けているよ
うです。
141.豊臣秀吉ゆかりの“ものさし”
明治期の新聞によると、西郷隆盛が西南戦争
末期に立てこもった洞窟には、物らしきものは
何一つ残されていなかったのですが、欧米諸国
が見える世界地図が 1 枚残されていたそうです。
官軍と苦しい戦いの最中、西郷はこの地図を
肌身離さず持ち歩き、暇があればこれを開き、
頷いていたといいます。彼は世界地図から何を
読もうとしていたのでしょう。
そして、かの織田信長はイエズス会の宣教師
から献上された地球儀や地図を愛用していた。
そして、世界は球状であることに理解を示して
いたとも言われます。彼は地球儀とそこに描か
れたちっぽけな日本に何を感じていたのでしょ
う。
82
「三国地図扇面」
豊臣秀吉はというと、
「三国地図扇面」という
扇面に日本・中国・朝鮮の三国が描かれたもの
を愛用していました。
地図を見た天下人秀吉が海外に思いをはせ、
覇権を握る夢を見たのかもしれません。
それ以前に、秀吉は博多に良いものを残しま
した。博多駅から博多港まで伸びる「大博通り」
とその周辺の町並みです(1587 年)
。将来の繁
栄を見据えた「大博通り」と周辺の区画は、豊
臣秀吉の手による町割(太閤町割)です。
83
彼は、このときすでに将来の朝鮮出兵を頭に
描いていたようです。
「町割」とは、現在の区画整理や都市計画にあ
たるもので、
既存の町を新たに区割りしなおし、
さらに武士と町民の混在居住を避けるなど、今
で言うところの用途区分の設定も実施しました。
町の再興にあたっては、それまでの歴史や地
理的特徴を調べ上げ、その結果から、唐船が着
く海辺から大宰府(大宰府政庁を指す)に通じ
る南北の道を広くしたのだといわれます。
秀吉は、もちろん城攻めや築城に能力を発揮
しましたが、検地や都市計画にも功績を残した
のです。
そのとき協力したのが豪商神屋宗湛
(1553-1635)でした。彼は、かつての町並みの
跡や井戸を探し、自ら測量するなど太閤の町割
に協力しました。
宗湛が使用した長さ 2m ほどの
間杖が、戦前まで宗湛を祀った豊国神社に保存
されていたのですが、
残念ながら焼失しました。
使われた“ものさし”の複製が、櫛田神社・
博多歴史館にあります。そこからは、
「博多津町
割」と記された文字が読めます。
ということで、間接的ながらも豊臣秀吉ゆか
りの“ものさし”が、ここにも残っています。
前回は、私たちは「検地(現在の地籍測量)
」
で秀吉にも負けているという話でしたが、現代
人は都市計画、町づくりでもいけません。
84
142.シーボルトの花とピアノと髪と
常から、地図や測量が好きな人に手助けをし
たいと思っています。地図を作る人、測量をす
る人の理解者を増やしたい、
「地図の楽しさを伝
える人」になることも願ってきました。地図・
測量に関わる小文を書くことも、その行動の一
つです。
そうした中で、オランダ商館と地図・測量の
流れで資料をめくると、いずれも商館付医師で
あったケンペル(1651-1716)
、ツュンベルク
(1743-1828)
、シーボルト(1796-1866)にたど
り着きます。そのシーボルトといえば、江戸時
代に長崎・出島のオランダ商館に勤めた医師と
して、御禁制の地図を持ち出した事件のことで
日本を追放になった人であることがよく知られ
ていますが、ここでは地図とは係わりのないエ
ピソードをいくつか紹介します。
・ シーボルトと花
シーボルトもケンペルも、商館長の将軍謁見
に同行する道すがら各地を見聞し、日本を世界
に紹介しました。もちろん、
「見聞記」をまとめ
るには、あらゆる物や事へ興味を持つことが大
切です。
その中で、植物の採集も積極的に行い、出島
に植物園を開きました。
シーボルト在任のとき、
栽培された植物は最大 1400 種を数えたといい
ます。そして、彼らは多くの植物とその種子類
をヨーロッパに持ち帰りました。
もちろんのこと博物学という学問のためもあ
りますが、そのころからすでに価値の高い香辛
料入手の延長としての、種子の収集を考えてい
たのです。
シーボルトが西洋にアジサイを紹介し、愛す
る「おたきさん(楠本滝)
」にちなんで学名にハ
イドランジア・オタクサと命名したことは、よ
85
く知られています。
そのほかに、
ウメに学名を、
テッセン、アオキ、ヤツデなども彼によって紹
介されました。
ですが、アジサイを西洋に最初に紹介したの
は、ケンペルだといわれています。ケンペルは
ウメ、ヤマブキ、ハナショウブ、シュウカイド
ウ、サザンカ、そしてツバキの名を伝え紹介し
たといいます。
いずれにしても、シーボルトは日本地図と東
洋文化だけでなく、長い航海をともにした多く
の草花の標本や種子も持ち帰りました。
そして、
一部の花木はその後のヨーロッパの園芸界を席
巻したように、彼らの頭の中には種子戦略が既
に描かれていたように思われます。
あじさい
・ シーボルトとピアノ
シーボルトは、かなりの音楽的能力も持ち合
わせていました。
彼は日本滞在中に、ピアノ曲「日本のメロデ
ィー」を作曲していました。ピアノ曲は、日本
で生まれた西洋の手法によるクラシック音楽の
第一号の栄誉を持つものです。
「日本のメロディ
ー」は、七曲からなり、その第四が「かっぽれ」
86
から採譜されたものであることが、旋律の下に
書き込まれた歌詞などから明らかになりました。
そしてシーボルトは、来日時にピアノを持ち
込んでいます。最新技術の紹介のためだったの
でしょうか。それとも、自身の楽しみのためだ
ったのでしょうか。いずれにしても、当時の輸
送事情などを考えると並々ならぬものを感じま
す。
シーボルトのピアノは、当時親交のあった山
口県萩市の熊谷家に贈られ、今も保存されてい
て、時折当時の音色を伝えているそうです。
・ シーボルトの髪
ドイツの医師の家系に生まれたシーボルトは、
ヴュルツブルク大学で医学と博物学を学びまし
た。その時、大学にはデルリンゲルという有名
な解剖学教授がいて、シーボルトは師の家に寄
宿していました。その後大学を卒業し、1823 年
27 歳の時に長崎に着任するのですが、彼の懐に
花・ピアノ・髪、どれにも、さすが博物学者
は、紙に包まれたデルリンゲル教授の頭髪があ
と思わせるシーボルトの“こだわり”が感じら
りました。遠い東洋の国を目指す旅への覚悟、
れます。
あるいは意気込みが感じられます。
そして、日本滞在中には「おたき」がいて、
二人の間には、
「おいね」が生まれました。
シーボルト事件が起き、
厳しい取り調べの後、
1830 年に国外追放となります。
「おいね」2 歳 8
か月の時です。この時シーボルトは、漆塗りの
小筥を作り、蓋の表に「おたき」の、裏面に「お
いね」の姿を貝象眼させ、さらに母子の頭髪を
シーボルト記念館
紙に包んで持ち帰ったといいます。
「おたき」の毛髪は羽織の紐のように編まれた
もの、
「おいね」の髪は、一見して混血と分かる
茶褐色だといいます。
また、
シーボルトは懇意にしていた最上徳内、
間宮林蔵の両名にも、自身の髪を抜き瑠璃の器
に入れて形見として渡したという話もあります。
87
143.松浦武四郎の小さな庵
伊勢の人松浦武四郎(1818-1888)は、幼少の
ころから遊歴を繰り返し、27 歳のころからは蝦
夷地を探検して「東西蝦夷山川地理取調図」
(全
28 枚)などの詳細な地図を作成し、さらに「東
西蝦夷日誌」などの多くの蝦夷日誌を著したこ
とはよく知られています。
中でも「東西蝦夷山川地理取調図」は、主に
海岸線だけの調査であった「伊能図」を補うも
のとして、内陸の詳細な河川名・地名が記入さ
れた特徴的なものです。
明治政府が樹立されると蝦夷地御用掛、開拓
地判官に就きますが、探検家松浦は 3 年もしな
いうちに「高齢で現地に赴くことも適わない身
であるから」といって、官を辞退します(52 歳)
。
それなのに、その後も吉野連山や九州遊歴な
どを続け、68 歳になってから大台ヶ原を 3 回踏
破し、70 歳になってからも富士登山に挑戦する
など、登山や旅に明け暮れる毎日でした。あの
「高齢で」は、どこにいったのでしょう。
少年期の松浦はというと、10 歳のころから諸
国遍歴の志を抱くようになり、天保 4 年(1833)
には江戸に出て(家出といったもの)
、これを実
行に移し、17 歳の時からわずか 4 年間で日本全
国の名跡、山岳などをくまなく回るなど、根っ
からの旅行家であり、探険家ともいえます。
88
それはそれとして、明治政府の役職から離れ
てまもなくの明治 6(1873)年 55 歳のとき、彼
は神田五軒町(現在の外神田、
「神田明神」の周
辺)に新居を構えました。そして、明治 19 年に
なると、自宅の 1 隅に 1 畳間書斎を建て増しし
ました。この小さな部屋を造るにあたって、古
色溢れた寺院の古材を柱に、日焼けした神社の
板切れを床の間板へと使用したのだそうです。
集まった古材は、奈良春日大社、駿州久能山稲
荷社、伊勢山田外宮、西京東山東福寺仏殿ほか
多数の神社仏閣の由緒ある切れ端でした。
伊勢の神宮の「式年遷宮」などで解体した用
材を、松浦は庵の造作に利用したのですから究
極のエコといえます。
リサイクルショップなどのない時代に、そう
した各地の古材を、松浦はどうやって集めたの
でしょう。諸国遊歴で知り合った各地の友から
贈られたのだといいます。古材収集癖がある?
ことを、友人らが知っていたのでしょう。探検
家松浦は、全国に広がる確かなネットワークも
持っていたようです。
ては、各地に住まいする旧友を思い出していた
と思われます。
命尽きたときは、この古色蒼然とした木材で
亡骸を焼き、遺骨を大台ケ原に遣ってほしいと
言い残したといいます。うーん、自然にやさし
い松浦らしい振る舞いと思わせるのですが、子
息は父の形見として一畳敷書斎を大切に保存し
ました。
小さな庵は、武四郎の遊歴を思わせるように
港区の徳川邸に移り、数回の移転を経て、三鷹
のある実業家の別荘へと旅をして、東京都三鷹
市にある国際基督教大学の敷地内に移築されて、
国の登録文化財として残っています。
亡骸は、大台ケ原山の名古屋谷に分骨碑が建
てられていますから、彼の遺志は半ば適えられ
たようです。
晩年は、古銭蒐集や考古学にも関心を寄せて
いたといいますから、一畳間書斎の日だまりに
古銭を広げ、書をめくっては過ごしたのでしょ
う。そして、柱の一本、壁板の一枚に目をやっ
89
144.宮沢賢治の地名たち
宮沢賢治
神田 5 軒町松浦武四郎宅付近(赤枠部分に「松浦忠四郎」
宮沢賢治(1896-1933)の愛読者の中には、地
図を脇に置きながら作品を楽しむ者、作品を手
に現地を訪ねる者も多くいて、作品に出てくる
地名についても少々やかましいようです。
といいながら、少々の薀蓄を書き込むことに
の文字が見えるが? ココか)
(
「江戸切絵図集」ちくま学芸文庫)
90
しましょう。
賢治作品の中には、主に岩手県の地名と思わ
れるもの多く出てきます。それは、①実在する
地名と、②実在しないがモデルがある、③存在
しないかよく分からない地名に三分されるとい
います。
題名などに含まれていて、よく知られた地名
の中から代表的なものを拾いますと、①に当た
るものとして「盗森(ぬすともり)
」
、②は「イ
ギリス海岸」
、
そして③としては
「イーハトーブ」
があります。
地図の雑学をする者としては、地名の成り立
ちや表記について、それぞれに興味深いものが
あります。
「盗森」は、
『狼森と笊森、盗森(おいのもりと
ざるもり、ぬすともり)
』という表題の話に出て
くる地名で、それらの森は、今では観光地とし
91
て有名な小岩井牧場の北に実在します。牧場か
ら少々足を伸ばすか、地形図で見ると分かるの
ですが、
「森」とはありますが、これはれっきと
した小さな山のことです。
「山とは、平地より高く隆起したところ」をい
います。また、古くは「森とは、木がこんもり
と盛り上がったところ」でした。転じて、人の
住まない野でも里でもないところ、開墾の手の
入っていないところを『森』と呼び、盛り上が
ったところ(
『山』
)と同意語となった」のです。
ですから、山名を「○○森」と呼ぶのはごく
当たり前なのです。森の呼称例が多い東北育ち
の賢治には、ごく自然に受け入れられたでしょ
う。
さて、次は「イギリス海岸」の話です。これ
は同名の作品があって、そこには、この海岸の
場所が特定できる以下の記述があります。
「それは、ほんたうは海岸ではなくて、いかに
も海岸風をした川の岸です。北上川の西岸でし
た。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、
北上山地を横截(よこぎ)って来る冷たい猿ケ
石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸
でした。
」
賢治は、夏休みに海へ向かうことができなか
った農学校の生徒たちと川遊びをしたこの場所
を、イギリス海岸と呼び合ったのです。そこに
は、多少の海への憧れといった意味合いも持っ
て、じっさいには目にしたことのないドーバー
海峡に面した海岸との地質・地層的な類似性を
感じ取って命名したようです。
農林学校で地質や土壌について学んだ賢治な
らではのユニークな命名で、イギリス海岸は下
図の場所にありますが、残念ながらすぐには一
般化しなかったのでしょう。地形図に、イギリ
ス海岸の地名はありませんでした。
ですが、その地点は散策道を含む公園として
整備され、今では観光地図や交通案内標識にも
しっかりと表示されています(その後、史跡・
名勝として「イギリス海岸」が地図に記入され
ました)
。
そして、賢治が心に描いた理想郷「イーハト
ーブ」については、説明するまでもないでしょ
う。
イギリス海岸案内図
92
イギリス海岸
(撮影時には、雨後のため特徴的な岸が見えなかったが、
最近では普段でも見えないのだという)
イギリス海岸(
「土沢」
)
93
145.「なめとこ山の熊」のことならおもし
ろい
宮沢賢治の作品には、おもしろい地名が多く
出てきます。中でも、
「なめとこ山の熊のことな
らおもしろい。なめとこ山は大きな山だ」とい
う、特徴的な書き出しで始まる「なめとこ山」
は、その際たる地名です(作品名は「なめとこ
山の熊」
)
。
この作品に含まれているいくつかの地名のう
ち「中山街道(中山峠)
」
「鉛の湯」
「大空滝」は、
当時も実在していましたが、主人公ともいえる
「なめとこ山」だけは場所が不明でした。
賢治の生誕 100 年に当たった平成 8 年、関連
行事の一環として、この特徴的な「なめとこ山」
を何とか特定しようという動きになりました。
童話本文に書かれた記述から、地形図をにら
めっこするものもあったでしょう。しかし、
「・・・なめとこ山は 1 年のうち大ていの日は
つめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。
まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような
山だ」ともあるように、探索も霧の中でした。
当然ですが、この手の創作された地名は、国
土地理院の地図に記入されません。
しかし、
「ナメトコ山」
(地形図は、カタカナ
表記となっているものの)
、
現在の地形図に記載
されています。どうしたのでしょう。土壌・地
質や地図にも知識が深かった宮沢賢治に敬意を
表して、特別の計らいをしたのでしょうか。そ
の間の経緯は以下のとおりでした。
ところが、ある自然保護団体が調べを進める
うちに、当時の花巻市長の吉田功さんが市内の
古美術商から求めたという古地図を所有してい
ることが分かりました。その地図には、
「ナメト
94
コ山」とカタカナ表記があり、同山の実在が確
認されたのです。
さっそく、同団体に所属していた佐藤孝さん
らによって所在地を特定させる作業が行われま
した。そして花巻市は、国土地理院に地図への
記載を申請したのです。
「へー、これって、現地でそのように呼んでい
るのではなくて、
『呼んでいた』
ではないですか」
「そう固いことは言わないで、これから呼ぶと
いう話で、いいじゃないですか」といったやり
取りがあったかどうか?
ともかく「ナメトコ山」は、地形図にめでた
く記入されたのです。
95
ナメトコ山(中央奥)
146.石川啄木の地図の歌
ナメトコ山(
「須賀倉山」
)
石川啄木(
『石川啄木大全』講談社)
石川啄木(1886-1912)は、以下の二つのこと
で地図と測量に係わりがあります。
彼を流浪の詩人と呼ぶ人がいるように、地名
の含まれた歌が多いのです。
96
手元にある石川啄木の全集から地名が入った
歌を調べてみると、全部で 36 首あり、その内訳
は札幌や函館・釧路など北海道の都市名が入っ
た歌が一番多く 18 首、故郷岩手が 9 首、東京が
7 首、外国の地名が入った歌も 2 首あります。
今ひとつは、下記のようによく知られた「地
図」を含んだ歌が多く詠まれています。
故郷の村の地図を書いて置かんと思い立ちた
る
最初の歌は、朝鮮併合を批判したとして有名
です。後段の歌は、死の前年の心身衰弱したこ
ろ、故郷渋民村を回想したとき詠んだのだとい
います。残りの時間が少なくなったと感じたと
きに、生い立ちや故郷について書き物を残して
おきたい、心にとどめておきたいと思うのはご
く自然なのかもしれません。
書き残したいと思ったものを「地図」という
言葉で代弁していることに、
「地図好き人」は感
じ入ります。さらに、
「地図を引く」などという
専門的な言葉も嬉しいのですが、
「啄木の地図」
どこにあるのかと探したくなります。
「唯一、地図らしきものが残されているのは、
関心を持った 41 編の英詩と、
それらから感動を
受けて綴った詩を納めた大学ノート『エブアン
地図の上
朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ秋風を聴く
子を叱り過ぎた
きまり悪きさびしさよ
家のまはりの地図などを引く
今のうちに
忘れぬうちに
97
ドフロー』の中で、故郷渋民村生出から岩手山
を望んだ風景だけです」という答えが返ってき
ました(岩手県玉山村・啄木記念館 山本学芸
員)
。啄木自筆の故郷の地図は、心の中だけであ
って、形としては残さなかったのかも知れませ
ん。
立て替えられた岬にある墓は、樺太の「日露
国境天測標石」をモデルにしたのです。
日本人測量技術者には初めての国境測量の結
果となるその石の一方には日本の菊花紋章、他
方にはロシアの双頭鷲紋章が浮き彫りされてい
て、将棋の駒のような形をしています。この標
石が持つ二面性が、石川啄木の思想と通じるの
だそうです。
さらに、啄木の地図・測量との関わりは死後
にも訪れます。
啄木の遺骨は東京浅草から、妻節子の手によ
って函館に移され、
函館市住吉町の立待岬に
「啄
木石川一々族之墓」と「東海の小島の磯の白浜
にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」と墨書した木
標を建て、葬られました。ところが、その後の
大正 15(1926)年、親友であり義弟であった宮崎
郁雨らの手で新しい墓碑建立が計画され、現在
の石碑(
「石川啄木 1 族の墓」
)になりました。
「日露国境天測標石」レプリカ
(明治神宮外苑「絵画館」前)
98
147.森鴎外の「東京方眼図」
図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場か
ら上の雪の電車に乗った。
」
この作品に出てくる方眼図は、その前年に春
陽堂から刊行した
「森林太郎立案 東京方眼図」
です。
森鴎外は島根津和野に生まれ、12 歳のとき家
族とともに上京しましたから、彼にとっての東
京は、地図なくしては歩けないほどの大都会で
あったと思います。
主人公の小泉純一と同様に、
どこへ行くにも小さく折った東京地図を懐中に
森鴎外胸像(文京区立森鴎外記念館)
忍ばせていなければ、不安があったのではない
でしょうか。
森鴎外(1862-1922)の『青年』
(明治 43 年
1881 年に東京大学医学部を卒業した後は、東
1910)には、以下のようにあって、いつかの首
京陸軍病院に勤務し、その後 1884 年から 1888
相に似たような名前の主人公に地図を持たせて、 年までは、ドイツへ留学しました。幼少のころ
東京の町を散歩させています。
からオランダ語やドイツ語を学んでいたといっ
「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼
ても、今のように事前に海外の詳細な地理や地
99
図に接する機会は少なかったはずです。留学か
ら帰った後も、東京、中国、台湾、小倉、中国
と転勤生活を送ります。
後年東京へ戻った鴎外は、日本の地図やガイ
ドマップが、西洋の地図に追いついていないの
を知り、
「森林太郎立案 東京方眼図」の作製に
至った(明治 44 年 1909)のだと思います。
ガイドマップでしょうか、
軍用図でしょうか、
ともかくヨーロッパで手にしたそれらの地図が
モデルとなったと思われる「東京方眼図」は、
『青年』が発表される前年に作製され、小泉青
年の懐中に納められたのです。
地図の内容は、その名前のとおり、赤い方眼
を入れて検索を容易にした地名索引がセットに
なっていて、この手の地図帳としては日本で最
初になります。
東京大学付属図書館の鴎外文庫には、彼の所
蔵した約 180 点の古地図が残されています。地
図への特別な思い入れがあったのでと思われま
すから、不案内な国や町では、やはり地元の地
図やガイドマップを買い求めたのでしょう。
鴎外は留学から帰った後、東京を拠点にしな
がら、中国、台湾、小倉などを行き来する転勤
生活を送ります。不案内の国や町では、やはり
地元の地図やガイドマップを買い求めて行動し
たのではないでしょうか。所蔵地図の中には、
中国や小倉の地図も含まれています。そして鷗
外は、漱石も愛用したドイツ人の印刷業者カー
ル・ペデカが創刊した旅行案内書「ペデカ」を
愛用したといわれています。
また、前出の『青年』の中で、小泉青年の口
から、毛利鴎村という作家のようすとして(自
身のことを)
、
「
(彼は、
)竿と紐尺とを持って測
100
地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐ
る人」であると言わせています。この、意味す
るところは、自身の作品への取り組み姿勢が、
三角測量という骨組みの上に立つ地図のような
しっかりとした構成に基づくとでも、いってい
るのでしょうか。
それとも、少々自虐的な意味合いを持ってい
るのでしょうか。
しがない測量士の私には分かりませんが、地
図とのかかわりを知って微笑みます。
「森林太郎立案 東京方眼図」
(複製)部分
(
『一葉からはじめる東京町歩き』実業之日本社)
101
148.夏目漱石とペデカ
たわけではないのでしょうが、
夏目漱石もまた、
地図を愛する人だったのです。
夏目漱石胸像 早稲田南町(漱石公園)
後述する「一束の地図」を残したという正岡
子規(1867-1902)
、そして夏目漱石(1867-1916)
は、帝国大学の同窓生であっただけではなく、
友として、人間的なことでも、文学面でも互い
に大きな影響を与えました。
師でもある子規の「地図好き」の影響を受け
102
江戸の牛込馬場下で生まれた漱石は、鴎外の
ような地方出身者ではありませんでしたから、
都内散策に地図を重要視することはなかったか
もしれません。しかし、松山中学、熊本五校へ
の赴任、そして英国留学(1900)といった新天地
への展開に際しては、地図を使用しなければな
らなかったでしょう。
といっても、松山や熊本で地図を多用したと
いう話は聞きません。一般的に、都会育ちの者
が、地方小都市で生活を送るために地図をそれ
ほど必要としないでしょう(というのは、偏見
でしょうか)
。
しかし、
英国留学となると状況は異なります。
留学体験に取材した「倫敦塔」の中で、
「まる
で御殿場の兎が急に日本橋の真中に抛りだされ
たような」
、あるいは「恐々(こわごわ)ながら
一枚の地図を案内として毎日見物のためもしく
は用達しのため出あるかなければならなかっ
た。
」といっています。
さらに、
「街角に来るたびに地図を開き、地図
で解らないときは人に聞き、人に聞いて解らな
いときは巡査に聞き、巡査で解らぬときはまた
ほかの人に尋ねるなどして、目的地にいたるの
だ」とも言わせています。かなりの、不安を持
ってロンドンの街を歩いたのだと思います。
デカ」が残されていて、そこには、多くの書き
込みがあり、切り取り失われた地図があり、切
り取られた後に貼付された地図もあるといいま
す。
この断片的な話を聞いただけで、ロンドン散
策などの際にガイドブックの中の「地図」が活
躍したようすが目に浮かぶようです。そればか
りでなく、残された「ペデカ」のロンドン塔の
記事部分には、多くの傍線が施されており、著
作「倫敦塔」
(1905)に生かされているさまが散
見できるのだといいます。
同大学の漱石文庫には、本書のほか、
(ノート
の断片に記した)自筆イギリス地図も残されて
います。
さらに、漱石の「硝子戸の中」
(1915)には、
「私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちな
んだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという
話は、父自身の口から聴いた(のか)
」
、
このとき漱石は、ドイツの旅行案内書「ペデ
カ」を愛用したことが明らかになっています。
鴎外も使用したペデカ(Baedeker)は、1820 年
代にドイツ人の印刷業者カール・ペデカが創刊
した旅行案内書で、後にフランス語版や英語版
も刊行され世界的に有名になったのです。
東北大学の漱石文庫には、彼が愛用した「ペ
103
「
(一時区長という役を勤めていた・・・)父は
まだその上に自宅の前にから南へ行く時に是非
共登らねばならない長い坂に、自分の姓の夏目
という名をつけた」
とあり、父親もまた勝手に「喜久井町」や「夏
目坂」といった地名をつけるほどの地図・地名
に関心の深い人でした?
ああ、あの漱石とその父も「地図好き」だっ
たのだと、言い切ってしまいましょう。
149.正岡子規の自筆地図
正岡子規
科学者であり随筆家でもあった寺田寅彦
(1878-1935)の作品に「子規自筆の根岸地図」
があります。
そこには、正岡子規(1867-1902)が寝たきり
で動けなくなったころに、仰向けに寝ていて描
いたと思われる、子規の自宅から友人の家まで
旅行案内書「ペデカ(Baedeker's London and its
environs)
」
(東北大学附属図書館 HP)
104
の道筋を教えるために書き記してくれた地図が、
詩人の平出隆氏によれば、松山市から上京す
寺田寅彦の手元に残されていると記述されてい
る際に、地図帳の重さを考えて必要部分を切り
ます。
取ったのではないかと考えられています。
となると、子規と地図の係わりは、松山から
寺田は、子規の地図から見える筆の力強さに
始まるようです。
感心し、
「正岡子規自筆根岸地図」とでも袋書き
それを裏付けるように、
「一束の地図」の中に
して大切に保存しなければならないと述懐して
は、朱筆の入った地図のほか、手彩色がなされ
います。
た 20 万分の 1 帝国図でしょうか『松山』があり
刻を変えますが、その正岡子規が松山から上
ます。彩色された松山の地図は、前述の切り取
京し、母と妹を呼び寄せて住まいしたゆかりの
られた世界地図と色合いが似ていて、これを手
子規庵には、
「一束の地図」という、彼が愛蔵し
本にしたと考えられます。
た地図の束が残されています。
「一束の地図」には、日本の官製地図が大部分
子規もまた鴎外と同じように、日本にも「こ
を占めていますが、世界地図も 5 枚含まれてい
んな地図が欲しい」
と考えたのかもしれません。
て、これは地図帳から引きちぎられたようだと
子規は、幼少のころから絵画に興味を持ちま
いいます。
した。絵画だけでなく短歌にも「写生」の重要
なぜ、大切な書籍から切り取ったのでしょう
性を言っています。
か。
俳句に関して「地図的観念と絵画的観念」と
105
いう文章も残しています(明治 27 年「日本新
聞」
)
。そこでは、蕪村の「春の水山なき国を流
れけり」について、内藤鳴雪はこの句から景色
が浮かんでくると評し、子規は何ら絵が浮かば
ない観念的句であると主張しました。主張の違
いは、鳴雪が地図的観念で句を見ていて、私は
絵画的観念で見ているからだと結論付けていま
す。
市井の一測量士に過ぎない私が説明を加える
のは恐れ多いのですが、それは地図における一
般地形図と鳥瞰図の違いのようなものだと思わ
れます。子規は、蕪村のこの句は、そのときの
風景を多視点で拡がりと深みを持つ鳥瞰図様に
描いたものではないといっているように思われ
ます。
槻博士の製作に係り、地理の精細に考証の確実
なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面
白く趣ある者なり」などと、地図について批評
しています。
その地図は、明治 34 年大槻文彦作の「東京下
谷根岸及近傍図」です。
後年永く病床にあった子規は、鴎外のように
自ら立案した地図の刊行こそしませんでしたが、
紹介した文章などの断片や地図への書き入れか
らは、地図に対する思い入れの深さが感じられ
ると思うのは「地図好き人」の贔屓目のせいで
しょうか。
さらに子規は、
「墨汁一滴」の中で、
「この頃
根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大
106
150.寺田寅彦と地図のことば
それは、主に随筆「地図をながめて」にあり
ます。
「
『当世物は尽くし』で、
『安いもの』を列挙し
たとしたら、その筆頭に上げられるべきものは
陸地測量部の地図(であろう)
・・・」
「それだ
けの手数のかかったものがわずかにコーヒー一
杯の代価で買えるのである」といった、地図製
作の難易さに比べて、その価格の低さについて
触れているくだりが有名です。
さらに、
「
『地図の言葉』に習熟した人にとっ
ては、一枚の図葉は実にありとあらゆる有用な
知識の宝庫であり、もっとも忠実な助言者であ
る相談相手である」ともいっています。いかに
も、地図の理解者らしい言葉です。東京の将来
について、都市化、重層化が進んだ首都では、
地下各層の交通を示す立体地図が必要になるだ
ろうと予測しています。
寺田寅彦自画像(
『父・寺田寅彦』くもん出版)
地図・測量を生業にする人は、自らが寺田寅
彦(1878-1935)の随筆を読むことで、あるいは
一般の人々が地図・測量を応援する彼の作品に
触れることだけで、大いに励まされて仕事をし
てきました。
107
されたのです。
寺田の地図に対する考察は、使い手、作り手
双方に訴えるところがあります。いまどきの地
図の作り手も、時折読み返しては地図作成に従
事したいものです。
地図・測量人が、寺田に好意を寄せる鍵は、
さらに一つあります。
これら、測量技術者を影で支える「測夫」に
ついても紹介していることです
(
「地図をながめ
て」
「小浅間」
)
。
彼らは、山中での測量に際して、測量助手と
して櫓を築き、観測補助をするだけでなく、時
には「強力」となり荷を上げ、テントを張りま
す。観測に際しては、40 数 km も先の目的の山々
に登り、
観測者に光を届けるのです。
測量師は、
向けられた光を目標に角観測をするのですが、
太陽光を適切に反射させなければ観測はできま
せん。光の微妙な調整は彼らに豊富な経験と技
術があるからです。
また、炊事・洗濯なども担当し、男所帯で主
婦の役割もします。
「測夫」なくして、初期の測
そして、地図・測量人にとって最大の応援歌
となるのは、技術者が人跡未踏の山岳地で熊と
遭遇し、暴風雨や落雷で負傷するといった労苦
について正確に紹介していることです(陸地測
量部技師に取材した)
。
また、
「三角測量に使用する櫓は、構造の狂い
を防ぐため十分放置してから観測に取り掛か
る」といった、現在の測量者には忘れられよう
としている教訓を文字に残しています。
ここで、紹介されるように、地図・測量者は幾
多の困難を乗り切り、細心の注意を払いながら
測量を行ない、コーヒー一杯代価の地図が作成
108
量は完遂できなかったのです。
こうした下積みの人にも眼を向け、
光を当て、
地図・測量に正しい理解を持ってくれた寺田寅
彦のことを、地図・測量人は、これからも、そ
していつまでも感謝するでしょう。
151.村上春樹の「Cambridge」の地図
さて、
「寺田寅彦と地図のことば」の項でも紹
介しましたが、私たち地図・測量を生業にする
人は、寺田寅彦作品のように、地図や測量に触
れる場面があることで、大いに励まされて仕事
をしてきました。それは、その他のことを生業
にする者も同じだと思います。
そして村上春樹の「ノルウエイの森」には、
以下のような一節があります。
「
(主人公の僕と同室になった)突撃隊は、ある
国立大学で地理学を専攻していた。
『僕はね、ち、ち、地図の勉強をしているんだ
よ』
と最初に会ったとき、
彼は僕にそう言った。
『地図が好きなの?』と僕は訊いて見た。
『うん、大学を出たら国土地理院へ入ってさ、
ち、ち、地図を作るんだ』
・・・・
109
たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持っ
た人間が少しぐらいいないことには -あまり
いっぱいいる必要もないけれどー それは困っ
たことになってしまう。しかし『地図』という
言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国
土地理院に入りたがっているのは何かしら奇妙
であった。かれは、場合によってどもったりど
もらなかったりしたが、
『地図』という言葉が出
てくると百パーセント確実にどもった。
」
無いことですし、もちろん著作にも読者にも何
の関係もないことです。ただ、一人の技術者が
興味をもって読んだということです。
さて、その村上の書籍には、さらに興味深い
ものがあります。それは「村上春樹全作品
1990-2000」
(講談社)という本です。
本のハードなブックカバーは、小窓のように
くり抜かれていて、その小さな額縁状になった
向こうには、
「Cambridge」の地図が見えます。
もちろん、カバーの中にあたる本冊の表紙は地
図がデザインされているのです。
ということで、この書ならページを捲らなく
ても「地図好き」の心をくすぐります。
私は、この書籍を読んだのだのですが、内容
のことは全く記憶にありません。
「ノルウエイの
森」のあの一節と「村上春樹全作品 1990-2000」
表紙の記憶だけが、いつまでも私の脳裏に残っ
私は、
「ノルウエイの森」の突撃隊のように大
学を出ていませんし、地理学を学んだわけでも
ありません。それに、
「地図好きが少しぐらいい
ないことには、成り立ちませんから」と、思っ
たかどうかも? 忘れてしまった半世紀も前
(1963)に国土地理院に入りました。
その後も、ずっと地図にかかわってきました
が、それは村上春樹とも突撃隊とも全く関係の
110
ています。
152.
「東京坂番付」と「番付坂」
机の近くにある「測量地図百年史」という本
は、私の仕事には欠かせない大切な書籍の一つ
です。その中に、明治期の地図印刷技術者を網
羅した「石版技手人名鑑」という、レアな番付
ものが掲載されています。
このような相撲番付にちなんだ、
「○○番付」
といったものは世の中に数多くあって、収集を
始めたら面白いのではないかと思ったこともあ
りますが、几帳面や執念からほど遠いところに
いる私は、すぐに忘れてしまいます。
そんなあるときにスクラップした新聞記事の
中に、「東京坂番付」というのがありました。
埃を避けつつ切れはしを探し出してみると、そ
の作者は源友雄さん(そのとき、すでに故人)
という方で、記載された番付には東京の 466 の
坂道が「勾配・長さ・曲度・風格・景観・知名
『村上春樹全作品 1990-2000』
(講談社)
111
度・そして編者の主観」の 7 項目で評価・採点
したとあります。
私は、以前から番付にあるような坂道、そし
て階段(石段)、峠、曲がり角といったものに
は、ある種の「ドキドキ感」が感じられると思
っています。それは、見知らぬ土地の地図を見
て現地の景色を思い浮かべるのに似ていて、
「無
縁坂」、「蝉坂」「袖摺坂」などという名称を
聞いただけで勝手に想像してしまいます。
道草と同じようなもので、いつもどおりでない
ことがよいのです。
「東京坂番付」による東の横綱は神楽坂、西の
横綱は紀伊国坂です。
地図を片手に現地を訪れることがあれば、歴
史を感じさせる建物や塀、そして道端の古木の
緑陰などから、期待はさらに膨らみます。
明治期、蝉の声が騒がしい季節に、この坂を
登ったのはどのような人たちだっただろうか、
ここでは、どのような事件が起きたのだろうか
などといった風に、想像は尽きないでしょう。
見えない坂道の先への期待感は、学校帰りの
神楽坂
そして、数ある坂の中には「坂番付」にふさ
112
わしい「番付坂(茱萸坂 ぐみさか、別名:さ
んのうさか)」という名の坂もあります。
それは、国会議事堂の南脇を東から西へ向け
て登るもので、坂道に建てられた説明柱による
と「山王(日枝神社)の祭礼の花車には番付札
がつけられていて、それをこの辺りで改めたと
『江戸名所図会』にある」のだといいます。
それでは、「無縁坂」や「蝉坂」、「袖摺坂」
には、どんないわれがあるのでしょうか。散策
がてら、現地の説明書きを読み歩くのは楽しい
ものです。
皆さんの町には、曲がり道」や美しい小道の
「坂番付」
はありませんか。
作ってみませんか。
ちなみに、東京坂番付の西の横綱となった紀
伊国坂は、地下鉄竹橋駅あたりから西へ登る坂
道で、坂道の北側には国立近代美術館、国立公
文書館があるところです。同名の坂は、外堀通
りの赤坂見附交差点から新宿通り(国道 20 号)
113
四谷(四谷見附)方面に弁慶堀に沿って上るも
のがある。
153.住所と地番はどう違うか
一般に、前者「東町 4 丁目 12 番 5 号」のよう
な、何丁目何番何号といった形式になっている
ところは、昭和以降に「住居表示」が行われた
地域です。後者は、住居表示が行われる以前の
住所の表示です。
従来、人が住んでいるところや建物がある場
所を示す住所は、
「字名」や「町名」プラス「地
番」とで構成されていました。
東町 987 番地と、
谷川 45 番地のようなことで
す。
土地と居住建物が一体となった住所における
この地番は、元をただせば固定資産税徴収など
の原簿である「土地台帳」に由来します。同台
帳には、土地の所有単位である一筆(一区切り)
ごとに小字、地番、地目(田、畑、荒地、池な
どの区分)
、
所有者と面積などが記載されていま
す。そして、同台帳付属の地図である「地籍図」
住居表示街区案内図
最近の住宅地の住所は、
「T市東町 4 丁目 12
番 5 号」のようにありますが、古い住宅地など
では、
「D町金井町 345 番地」などといったもの
があります。
どのような違いがあるのでしょう。
114
と対照できるようになっています。すなわち、
地番は土地の場所や権利を明らかにする目的で
つけられたものでした。
ところが、明治期に統一的につけられた地番
はその後、土地が分割されたり、統合整理され
たりして、飛び番や欠番、987 番地-1 のような
枝番が出て複雑になります。987 番地のとなり
が、かならずしも 988 番地でなくなることもあ
ります。
っていたのです。
ところが、市街地が拡大し住宅が増えると住
所管理のための地名と飛び番や欠番、枝番のあ
る組み合わせによる従来の住所では位置を特定
できにくくなって、郵便配達や市区町村の本来
業務にも支障をきたすようになります。
そこで、
住居表示が行われました。
住居表示では、居住区域を一定の大きさごと
に「町丁目」で整理します。ある範囲を「○○
町」あるいは「○○(
「町」なし)
」などとし、
それを「○丁目」で細分するということ。さら
に、
「○丁目」
の中を一定の面積で区画し
(街区)
、
その街区を距離ごとに番号をつけます。
一方の、住所における「字名」や「町名」で
すが、これに土地台帳の一筆ごとなどに細分化
されて付された小字を使用するのは有効ではあ
りません。そこで、住所管理のためには、一定
範囲を代表する小字や旧村名など土台として定
めた地名を使用していました。
この住所管理のための地名と、建物が存在す
る土地地番の組み合わせで旧来の住所が成り立
こうして、多くの住宅地では、
「○丁目」の、
どの区画(街区)の、どの位置に建物があるか
で、
「
(○○町○丁目)○番○号」といった形式
115
で(街区符号+住居番号)
、建物の住所が示され
るようになったというわけです。
ただし、住居表示未実施区域や農地・山林地
における(土地台帳での)土地の管理では、今
なお旧来の小字+地番などが使用されています。
地図の表記は、原則居住者の存在する区域に
限って、住居表示の有無にかかわらず実態のま
ま表現されます。
116
154.地図に残る古代の区画整理
現在でも西日本の農村地帯の地形図を広げれ
ば、比較的容易に古代の区画整理である「条里」
を読み取ることができます。一方、奈良や京都
といった都市に目を向ければ、現在の都市計画
にあたる「条坊」も見ることができます。
条里制は、奈良時代に行なわれた農地での土
地区画整理といったものです。
その「
(方格)地割」は、正方形の区画になっ
ており「条」と「里」で区切られています。原
則、東西方向の区切りが条、南北方向の区切り
が里となっています。もちろん、地形によって
北に対して一定の傾きを持ちます。
条里制の面影が残る地図(
「丸亀」
)
条と里で区切られた正方形の一辺は約 6 町
(約 654m)あり「条里」あるいは「里」と呼び
ます。
「条里」の一辺を 6 等分した 36 区画の正
方形を「坪」と呼びます。したがって、坪は1
町(約 109m)×1町(約 109m)からなり、位
条里制
117
置を特定する場合には、
「4 条 3 里坊 2 坪」など
と呼びます。
「坪」をベースに整然と区画された当時のよう
すは、現在でも西日本の地形図から比較的容易
に知ることができます。
それ以前、藤原京・平城京・長岡京・平安京
などの都市域には条坊制に基づく都市づくりが
あります。
そこには、天皇が居住する「宮」とそれから
南へと伸びる朱雀大路を中心として、南北の大
路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組
み合わせた左右対称で方形の都市が広がります。
平城京では、例えば東西に延びる「6 条大路」
、
南北に延びる「西 2 坊大路」などと呼ばれる大
路でかこまれた方格は、縦横に走る小路によっ
て一辺を 4等分に区分した16区画の正方形で区
画されます。この区画を「坪」と呼び、位置を
118
特定する場合には、
「右京 6 条 2 坊 4 坪」などと
呼びます。
条坊制の、条と坊の大路で構成される区画の
1 辺は約 550m、坪は1辺が約 120m です。平安京
になると、平城京の「坪」にあたる区画を「町」
と呼びます。
このときすでに、当時のようすに適合した住
居表示が行われていたともいえます。
地図を広げるとわかることです。
155.日本海と太平洋の境はどこ?
な範囲をいうのでしょうか。どのような取り決
日本海と太平洋の境は、どこにあるのでしょ
めになっているのでしょう。
うか?そんな疑問を持ったことはありませんか。
太平洋はいかにも広すぎて話が進めにくいの
で、日本海と津軽海峡に注目して、日本海はど
地名とは、特定な地点、あるいは一定の広が
こまで、太平洋はどこからいうのかを探ってみ
りを持つ土地に付けられた名前ですから、対象
ましょう。
とする地域や地点が明らかなはずです。地図の
1919 年に、海の境界やそれを結ぶ海峡を明ら
上に書かれた注記文字によって、その拡がりや
かにしようとする国際的な動きがあって(各国
地点が概ね特定されるようなら、正しく表現さ
の水路局の集まりである「国際水路局」によっ
れた地図ということになります。
て)
、1928 年にはそれぞれの境界を示した出版
それは何も陸に限ったことではありません。
物(Limits of Oceans and Seas)が刊行さ
海図における地名、○○海、△△海峡、××海
れたそうです。
山といったものであっても、同じようなことで
そこでの津軽海峡とは、東口は尻屋崎と恵山
す。地図に記入する名称の範囲が明らかになら
岬を結んだ線、西口は竜飛岬と白神岬を結んだ
なければ、正しく地図(このときは海図ですが) 線までをいいます(海図では、
「岬」
「崎」を使わ
に表現できません。
ずに、
「埼」を使います)。
この付近での日本海の東端は、津軽海峡の東
それでは、太平洋とは、日本海とはどのよう
口までをいい、北東の境は宗谷岬と西能登呂岬
119
(サハリン)を結んだ線、その他詳細は省略し
ますが、北の端は間宮海峡・・・、南東の界は
関門海峡の西口・・・、南西の界は野母埼から・・・
といったように細かく決まっています。
このように、世界中の海や海峡は、その界が
詳細に決められています。
最初の質問ですが、大間崎の北東で海難事件
が起きたとき、その地点が尻屋崎と恵山岬とを
結んだ線の東側なら、
「津軽海峡に近い太平洋で
起きた事故」
、その西側なら「津軽海峡(日本海
の東)で起きた事故」になります。
日本海と津軽海峡の範囲
(
「主要自然地域名称図」
(国土地理院)を一部編集)
120
156.石垣に明治期地図・測量の始まりを見
る
近代的な地図作りは、地球の大きさや形を知
ることから始まるはずです。次いで、地図を作
るために必要な地点の地球上における正確な位
置を知る測量をすることになります。そのため
の測量には、水平位置を知る三角測量と高さを
知る水準測量があります。
れた「綱紀高低測量」と呼ばれたものが最初で
す。
ところで、三角点標石の形はどのようなもの
か知っていますか。現在のそれは、20 cm 四角
ほどの頂に、十字の刻みがある四角柱です。水
準点標石も同じような柱石ですが、頂の中央に
「へそ」のような小さな高まりがあります。
では、この形は明治期のころからものだった
のでしょうか。
では、こうした測量が日本ではいつどこから
始められたのでしょう。それは明治の時代にな
ってから、お雇い外国人の指導の下で新政府の
技術者により行われます。
本格的な三角測量は、明治(1872)5 年 3 月
工部省測量司という役所が東京府内で行ったの
が始まりです。水準測量は、明治 9 年内務省地
理寮によって東京湾から宮城県塩釜港まで行わ
れたもの、あるいは同年に東京府下一帯で行わ
それを確かめるに、皇居東御苑へお出かけに
なることをおすすめします。
東御苑の西にある富士見櫓は、明治の一時期
日本の本初子午線(経度 0 度とした子午線、現
在の英ケンブリッジ天文台にあたる)となった
ところでもあります。
明治 5 年の工部省の測量は、
府内に 13 か所の
三角点が設置されましたが、
その最初はこの
「富
121
士見櫓」に置いたことになっています。
富士見櫓付近は現在立ち入り禁止ですが、ある
者の調査では当時の標石は現存していないよう
です。
同水準点は、当時のお雇い外国人の影響を受
けたもので、現在のイギリスにも見られる形式
です。刻みに特殊な器具を取り付けて観測・測
量する手はずになっています。
ということで、明治初期の三角点や水準点は
しかし、類似の石が本丸天守台にあります。
現在のものとは異なります。
ここも立ち入り禁止ですが、本丸天守台の登り
さらに、本丸天守台を登りきって右手柵の外
坂の左手柵外の桜の樹下に見ることができます。 には、残念ながらここも立ち入り禁止ですから
その形はというと、24 cm×24 cm 角の頂に、対
遠望するしかありませんが、石垣に直接文字が
角線に×の刻みがある四角錘台といったもの
刻まれた珍しい三等三角点「天守台」があり、
です。
その蓋石が見えるでしょう。
そして初期の水準点は、皇居東御苑の本丸天
守台跡の石垣の隅にあり、これなら身近に手を
触れることもできます。これは「几号水準点」
と呼ばれるもので、灯篭や石垣などの保存性の
良い構築物に、テーブル状(
「不」字形にも見え
る)の刻みを入れて使用しました。
ということで、皇居東御苑は、明治期地図・
測量の始まりを見る絶好の地です。
(じつは、私
の街歩き案内も、ここから始まりました)
。そし
て、梅や桜、ツツジなどの季節の花が美しい庭
園、そして昭和天皇のお声掛かりで整備された
という武蔵野の雑木林なども迎えてくれます。
122
もちろん、松の廊下跡や大奥跡の案内板もあっ
て、それぞれの興味によっては一挙十得にもな
る観光スポットです。ちょっと知ったかぶりし
て、
同行者を驚かしてみてはいかがでしょうか。
天守台付近見取り図
工部省三角点に類似のもの
(見取り図に「大三角点?」とあるもの)
123
157.傘式地球儀を作った人
子どものいる家庭なら、部屋のどこかに一つ
くらい地球儀があるでしょう。しかし、子ども
が成長するにしたがい、本棚の上などでほこり
をかぶることが多く、変形であることから収納
にも困り、少々やっかい者扱いされていません
か。
置き場に困ることを解決した地球儀を製作し
た人が江戸時代にいました。
天守台几号水準点(大手門や桜田門にも同様の几号水
準点の刻みがあります)
常陸国土浦の人沼尻墨僊(ぬまじり ぼくせ
ん 1775-1856)は、幼少より向学心が旺盛で、
勉学に精を出していましたが、いつのころから
か地理学に興味を持ち始め研究書などを著しま
した。誰に師事して学問を修めたかは明らかで
はありません。
彼は鎖国時代の世にあって、
目を世界に向け、
地理学を研究し、
「地理書」を著し、世界地図の
124
模写につとめたといいます。そして、傘式の地
球儀を考案・製作しました。
26 歳の年(1800)には、地理学研究の書「地
球万国図説」を著し、地球儀の製作をし(これ
は、ごく一般的な形と思われます)
、これを寺子
屋教育で使用したとの記述が残されています。
さて、沼尻が発明したおりたたみ型の傘式地
球儀ですが、安政 2 年(1855)81 歳のときに製作
されたものが故郷の茨城県土浦市に残されてい
ます。それは、12 本の骨と長さが 40cm ほどの
柄を持つもので、傘を開くように片方を押し上
げると風船状に地図が開く仕掛けになっていま
す。
逆に閉じると小箱に収納できる優れものです。
さらに特徴的なのは、計算された傾き(36 度)
を持つ支持台に載せられた地球儀からは、日本
が真上に配置されるようになっています。ちな
125
みに、この地球儀の本初子午線(経度 0 度とし
た子午線)は、大西洋のカナリア諸島にありま
す。
傘式地球儀は同好の士に頒布されたほか、江
戸や大阪にも送られ、諸侯にも届けられ好評で
あったといいます。
それを裏付けるように、
「五月中 地球儀一箱
二十入り 江戸へ出荷」などと記載された「手
控え」が残されています。現在、同地球儀は土
浦市博物館のほか神戸市立博物館と山口県防府
市の毛利博物館が所蔵しています。
最後に、地球儀の解説書に添えられた、墨遷
の思い入れを聞いてみましょう。
「私は若いころ地球儀を作り、長い間持ってい
た、近ごろしきりに、銅版で印刷して同好の士
に分けないかと勧める者がいて、八十の年寄り
であるが、昔からの地図を描きたいという癖が
またまた頭をもたげ、
・・・・・早々にできあがった。
多くの世界地図愛好家に見て頂きたく、永く子
孫にも残したいと思うものである。願わくはこ
の仕事が、ボケ老人一世一代の快挙であるとと
もに、
後世へのよい贈り物とならんことを」
(
「沼
尻墨遷」青木光行ほか著 筑波書林)
傘式地球儀
(土浦市博物館パンフレット)
126
158.牛肉店の主人が奉納した青銅製地球儀
最近ではモバイルでの地図やネット上の地図
ばかりでなく、地球儀さえも進化を続けている
ようです。地球儀などを専門に扱う店には、し
ゃべる地球儀、光る地球儀、点字の地球儀など
さまざまな商品があります。
その地球儀を日本で最初に製作した人が誰な
のかは、明らかではありませんが、現存する日
本最古のものは渋川春海(1639-1715)の手によ
るもので、元禄 3(1690)年に伊勢神宮に奉納
され、伊勢神宮徴古館に所蔵されています。
また、松浦史料博物館には、第 7 代藩主松浦
静山が長崎で購入したという、1700 年製のオラ
ンダの地球儀と天球儀が残されています。そし
て、天理大学付属天理図書館は、西洋古地図や
絵地図の他、欧州製の地球儀・天球儀など約 50
個所蔵しています。
話は変わりますが、歌舞伎役者の市川團十郎
は成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗
り、不動明王が登場する芝居を打ったことから
も成田不動は庶民の信仰を集めたといいます。
そのお不動さんを祀る成田山新勝寺(千葉県
成田市)は、初詣や有名人による節分会などで
も有名です。新勝寺の本堂左手石段を上ったと
ころには、額堂と呼ばれる奉納額や絵馬などを
掲げる建築物があります。
現地説明板によると、額堂は文久元年(1861)
に建立されたもので、屋根は入母屋桟瓦葺で重
要文化財に指定されています。掲げられた多く
の額や絵馬とともに、
床面には左から
「旧梵鐘」
、
「勝軍地蔵尊」
、
「方位盤」
、
「成田屋七代目市川
團十郎の座像」
、そして「青銅製地球儀」が鎮座
しています。
京上野の奥平洋三、子夫妻が経営する牛肉店名
「世界」にちなんで、日露戦争の戦勝記念に奉
納したといいます。
地球儀は直径 110 cm ほどの青銅製で、子午環
儀の上に 23.5 度の傾斜をもって設置されてい
ます。過去には、その脇に説明書きがあって、
「日本帝国を銀色にしたのは、目立つように見
せるためであり、これによって見物人がこの国
のことを思い、将来の発展と輝かしい国つくり
を心がけてほしい」と、あったといいます。
当時は銀の象嵌を施していた大日本帝国です
が、今では見学者の日本を思う心が強すぎたの
か磨耗してその面影はありません。
そして、地図に近いところにいる人には、青
銅製地球儀の隣に鎮座する「成田屋」の座像が
伊能忠敬に見えてしまいます。
この地球儀は、明治 40 年(1907)11 月に東
さて、この信心深い、そして夫婦むつまじく
127
歩んできたと思われる牛肉店のその後どうなっ
たのでしょうか、気になるところです。
159.鹿鳴館の庭園に紳士淑女の散策する姿
が見える?地図
青銅製地球儀
鹿鳴館の辺り「五千分一東京図」(国土地理院)
2008 年の大河ドラマで人気だった篤姫の舞
128
台に連なる明治新政府は、いわゆる薩長土肥な
どの諸藩の主導で発足しますが、実務の面では
旧幕府の優秀な技術者なども加わった全員参加
の大改革ともいえます。
何度も記述したことですが、陸軍と係わりの
深い地図測量の分野でも事情は同じで、当初は
旧幕府技術者も参集してフランス式で事業がす
すめられました。
当時のフランス式地図の原図は、古書店など
で見かけるカラー写真以前の絵葉書と同様に手
彩色が施されたもので、
それは美しいものです。
特に、明治 16(1883)年、17 年作成の東京図
は、5 千分 1 と比較的大きな縮尺であることか
ら、地図が苦手の人にも当時のようすが手にと
るように分ります(
「五千分一東京図」
)
。
八重洲や霞ヶ関周辺には中央官庁や軍関係の
施設が、
浅草清松町辺りには寺町が広がります。
129
整然と区画された日本橋周辺には商家らしき家
並が多く見えます。
赤坂や信濃町付近から西には、ウサギやタヌ
キが往来をわがもの顔で駆けそうな田園風景が
続きます。
地図表現に注目すると、都心の大きな建造物
の屋根や庭園、並木の一つひとつも、ていねい
に表現されていて、それは楽しいものです。外
務卿井上馨が主唱して落成したという鹿鳴館で
は、毎夜のようにきらびやかな舞踏会が催され
たのでしょう。地図に見える洋館とその庭園か
ら、
紳士淑女の散策する風景が連想されるのは、
著者だけでしょうか。
また、
「135.地図に明治の風景が見えたころ」
でも紹介しましたが、関東周辺には縮尺 2 万分
1 の「迅速測図」と呼ばれる彩色地図も残され
ています(
「第 1 軍管地方 2 万分 1 迅速測図原
図」
)
。この図からは、当時の関東平野に広がる
を求めたともいえます。
市街地や主要街道のようすが分るとともに、田
や畑の区別ばかりではなく、松、杉、桐、梅、
桑などといった詳細な植物区分が読み取れます。
そして何よりも目を引くのは、地図の欄外に
描かれたスケッチです。地図に含まれる代表的
な風景や土木構造物が描かれています。これら
色彩豊かな地図には、明治期の関東平野や東京
が埋め込まれていて、100 年を経過した今でも、
絵画を見るようにその時の風景を彷彿させるも
のがあります。
「迅速測図」に書き込まれた「視図」と呼ばれるスケッ
明治初期の地図技術者を養成した陸軍士官学
校教師には、洋画家、漢画、浮世絵をする者も
多く在籍していて、
地図技術者には数学、
測量、
製図・印刷技術ばかりではなく、書や絵画の指
導も受けたといいますから、技術者にはレオナ
ルド・ダ・ヴィンチのような広範な技術と能力
チ(
「第 1 軍管地方 2 万分 1 迅速測図原図」国土地理院)
130
160.もしも家の中を県境が横切っていたら
先に、どこかで触れたように封建時代の国界
は、隣接する支配者の力関係によって決まった
はずです。そのとき、国界の位置が山稜や河川
などの自然地形によって区切られることは、戦
略上のことからも当然の成り行きでしょう。
明治期以降の県界や市町村界の多くも、これ
ら封建時代の界を引き継いで、自然地形に沿う
形で決められてきたところも多くあったはずで
す。
ところが、河川流路は河川改修工事なども含
めて時々刻々変化しますから、過去には河川形
状を示していた行政界が、時間経過によって河
川形状とは無関係な形となることがあります。
それでも、行政界が河川敷の中にあれば、そ
こは一般には国や県市町村が管理する公有地で
すから当面は大きな問題になりませんが、河川
の向こうに飛地のようになってしまうと住民に
は迷惑ものです。
図の久留米市とみやき町のような例では、住
民からすれば、行政の界は支配者や管理者が勝
手に決めたもの、利便性を考えて何とかしてほ
しいというのが実情かも知れません。
河川に係るものに限らず、時には行政界が建
物や個人の敷地を横切ることもあります。
長野県(軽井沢町)と群馬県(安中市)の碓
氷峠近くの県境にある熊野神社は、本宮の中央
が県境となっていて、建物の東側は群馬県、西
側は長野県、それぞれに宗教法人が存在して宮
司さんも 2 人、賽銭箱も別々にあります。
また、栃木県(馬頭町)と茨城県(常陸大宮
市)の鷲子山(とりのこやま)県境にある鷲子
山上神社は、本殿に向かう階段から門、拝殿ま
ですべてが県境上にあります。この神社は、全
国で初めて同 1 施設が両県の文化財に指定され
131
たのだといいます。
神主さん程度しか住まない神社なら、この程
度で問題は少ないのですが、個人の建物ならど
うなるのでしょう。
飛び地状になった行政界、久留米市とみやき町(
「久留
米西部」
)
これまでは、尾根筋の行政界の例でしたが、
次は(旧)河川にかかる行政界の例です。
栃木県館林市(旧藤岡町)と群馬県邑楽郡板
倉町には、県境がまたがるお宅があるといいま
す。玄関と台所は栃木県、居間や寝室は群馬県
河川の中の行政界、浜松市と磐田市
(
「磐田」
)
132
というわけ。
このお宅では、住所は玄関や台所のある栃木
県にあって、選挙その他の公共的なことの多く
は同県へ、固定資産税は両県へあん分納付して
いるそうです。地図を見ると分かりますが、こ
の地域では不用意に家を増築すると、警察はど
うなるの、消防署はどうなるのといったお宅が
続出しそうです。
の棒で御柱を 3 回叩き両手で抱きかかえると、
(2県分の)
ご利益があるといいます。
御柱は、
参拝者の願かけの大きさに比例するように、深
くえぐれています。
ややこしい話しが続きましたから温泉にでも
入って頭を冷やしましょう。熊本県(小国町)と
大分県(日田市)の県境付近にある杖立温泉に
は、県境の小川を横切るように建つ温泉旅館が
あり、館内には県境の標識もあって、1 軒で 2
県の温泉に入った気分になれます。
そうそう、蛇足ながら栃 木 県 と 茨 城 県 界 に
あ っ た 鷲子山上神社には、不苦労御柱(ふくろ
うおんばしら)というものがあって、備え付け
県境が家を横切っている辺り(
「古河」
)
133
161.地図の中のスパイラルなもの
ループあるいはスパイラルになった構造物と
いえば、何といっても道路や鉄道です。
こうした構造物は、インターチエンジなどを
除いて全国に約 140 か所もあるそうです。
図は、
静岡県賀茂郡河津町内にある国道 414 号線の河
津七滝ループ橋です。
この地図をはじめて見たときには、一瞬「あ
れ!」と、思うでしょうが、この程度なら現地
の状況を知らなくても、道路(橋)がカーブを
描いているようすが読み取れるはずです。
河津七滝ループ橋(
「湯ヶ野」
)
このように、地図はどの地点でも真上に視点
をおいて、
(正射影といいます)
、原則として立
体になった構造物の最上部だけを表現します。
重複部分や地下のようすは表現しません。
次の図は、東京の芝浦ふ頭と、お台場を結ぶ
レインボーブリッジの一部です。
レインボーブリッジは、他の大型架橋と同じ
ように、大型客船が自由に通過できるように設
計されていて、約 50m もの高さがあります。と
134
ころが、つい先ごろのニュースでは、橋の設計
が豪華客船の大型化に後れをとっていて、この
高さでも自由航行できない大型客船があるそう
です。
最新の豪華客船は、レインボーブリッジより
奥には航行できないというわけです。
それはともかく、この場所をまったく知らな
い人なら、地図を詳細に見てもレインボーブリ
ッジにはそれだけの高さがあって、2 階建てに
なっていることなどまったく分かりません。ま
してや、鉄道の“ゆりかもめ”
(黒色)が、ルー
プ状に巻いた坂の軌道を 50m ほど上っていて、
その他の部分では高速道路橋(茶色)の下にあ
る一階部分を走っているのを読み取るのは難し
いでしょう。
地図は、このような重層的な構造を平面に表
現するには限界がありますが、製作者の腕の見
せ所でもあります。
そこで重要なのは、
「77.0.2 ミリの空白の
魔術」でも紹介した「立体的」にみせるための
仕掛け、
「微量の白部(相互の情報に小さなすき
間を作ること)
」なのですが、多色刷り地図が普
通になった今では、これはややおざなりになっ
ています。
レインボーブリッジ(
「東京南部」
)
135
それでも、これほど超有名スポットなら、他
からの情報もあって、何となく感じはつかめる
かも知れません。
さらに次の図は、かなり複雑な形をしている
岐阜県郡上市の北陸自動車道白鳥 IC 付近の地
図です。
「どれが上で、どれが下?」
、こんどは
立体形が、正しく読み取れましたか。
「微量の白部」に注意して、あるいは等高線と
の関係などから正しく読み取れたとしたら、
“地
図読み人”として合格です。正しく読めないと
いう人には、カーナビの地図をはじめとしたデ
ジタル地図データが、複雑な道路を鳥瞰表現に
よって容易に見せてくれるでしょう。
郡上市油坂峠付近(
「白鳥」
)
136
162.動かないはずだった「日本のへそ」
兵庫県西脇市には、その元祖といえる「日本
のへそ」があります。
この「日本のへそ」は、大正 8(1919)年 8
月多可郡加美町(現多可町)で行われた郡内の
小学校数学教師研修会で、講師の東京高等師範
学校附属小の肥後盛熊教諭が「日本の中心にあ
たる東経 135 度と北緯 35 度の交叉点が、
この地
にある」と指摘したことに始まります。
参加者からは、
「学制公布(明治 5 年 1872)
から 50 周年を記念して標識を立てようではな
いか」という声が上がり、実行に移されたとい
います。
「交叉点標識(経緯度標)
」は、西脇の市街地か
ら東北、交叉点との関連で名付けられたと思わ
れる加古川を渡る緯度橋を渡った河川敷公園内
にあって、御影石の石柱には、
「東経 135 度北緯
137
35 度交叉点海抜 63 米標識」
「大正 12 年多可郡
教育委員会建立」などと刻まれています。さら
に、陸地測量部測量手小野原次郎と大野幸太郎
が測量を担当し、海軍大将鈴木貫太郎の揮号で
あることも刻字から分かります。
大正時代の大人の遊び心で始まった標識の設
置でしたが、あの堅物の陸地測量部の協力を取
り付け、海軍大将の書まで受けて完成した事実
に、そこには何か大きな働きかけがあったこと
が感じられます。
本来このような「日本のへそ」は永久に動か
ないものなのですが、科学技術の進歩によって
地球の正確な大きさが求められるようになり、
永年の間の地殻変動などから、位置の基準(日
本経緯度原点数値)そのものが変わることにな
りました。
世界測地系への移行です(2002 年 4 月)
。
交叉点は、この世界測地系への移行に伴って
再測量されて、新地点にもモニュメントが設置
されました。ちなみに、このときの測量も国土
地理院の協力を得たようです。
これが国土地理院によって認められた、唯一
の「日本のへそ」なのでしょう。いいえ、同院
に言わせれば、
「単に、交叉点を測量してあげた
だけのこと」になるのでしょう。
いずれにしても、この「日本のへそ」は、東
経 135 度と北緯 35 度の、
しかも測地経緯度の交
叉点であるにすぎません。
「交叉点標識(経緯度標)
」の位置と、現在の交叉点
位置(
「西脇」
「比延」
)
138
163.いつまでも動く「日本のへそ」
兵庫県西脇市にある「日本のへそ」は、経度
緯度で決められたものですから、本来動かない
ものです。ところが、位置の基準を世界共通の
ものとする、世界測地系への移行に伴い、新旧
2 つの「日本のへそ」が存在することになった
ことは、紹介しました。
そして、「日本のへそ」は、これだけではあ
りません。そして、自治体などが主張する「○○
のへそ」といったものも多くあります。
るそうです。
国土地理院が発表した「日本の国土の重心」
。
これは、平面とみなした国土の質量中心を計算
によって求めたものですが、残念ながら富山県
沖の日本海に位置しています。
海中深くモニュメントを設置する訳にもいき
ません。同地点に最も近い陸地である石川県珠
洲市禄剛崎には、
「日本列島のまん中の碑」があ
139
人の「へそ」はどのような位置にあるのでし
..
ょうか。身体のヘリから最も遠いところにある
のでしょうか。公式な発表ではありませんが。
同じ国土地理院が地図利用者の質問に答えて算
出した、
「全ての海岸線から最も遠く離れている
場所」というものもあって、これは長野県佐久
市田口字榊山(旧臼田町)の山中にあります。
現地には旧臼田町によって建てられた標柱が
あり、到達者には佐久市観光協会から 『到達
認定書』が頂けるそうですが、道路状況などの
ことから注意が必要とのことです(2007.12)
。
これまでの「日本のへそ」は、国土に大きな
変化がない限り、基準が変わらない限り、移動
しないのですが、総務省統計局が国勢調査の結
果に基づいて発表する「日本の人口重心」とな
ると、人々が移動を続ける限り 4 年に 1 度確実
に移動します。
その「日本の人口重心」
、1965 年には岐阜県
美山町(現山県市)にありましたが、その後 1970
年洞戸村、1975 年美濃市、そして 1980 年には
美並村(現郡上市)に位置しました。
美並村は、村おこしの一環として、1997 年に
巨大な日時計備えた
「日本まん真ん中センター」
を建設しました。
日時計の高さは 37.3m、センターには「おも
しろ統計コーナー」のほか、世界の日時計など
が展示されています。さらに、
「日本真ん中」花
火大会、同秋祭り、同マラソン大会などを開催、
「へそまんじゅう」
、
「ど真ん中ラーメン」を販
売するなど、
「日本の真ん中」を最大限に利用し
てきました。
ところが、
「日本の人口重心」はさらに東進を
続けて 2000 年には村の外へ出てしまいました。
140
「日本まん真ん中センター」は、日本のまん中
には無い施設なのです。トレーラーハウスなど
の可動式建物としておくべきであったようで
す??
「日本まん真ん中センター」
(
「郡上八幡」
)
するものが出てくると、
もう収拾がつきません。
ちなみに、人口重心は日本全土を平面と見な
滋賀県栗太郡栗東町には、糸を巻く道具「綣
し、その上に分布する人口を、市町村役場の上
(巻き)
」の生産が盛んだったことから、あるい
にそれぞれの市町村の総人口があると仮定して、 は花園天皇の后の機織につかわれた糸巻きの心
重心を求めたもの、
ちなみに 2000 年には武儀町
棒を綣といったのが由来だということに由来す
へ、2005 年には関市(市立武儀東小学校の北)
、
る、由緒ある「綣(へそ)
」地名もあります。
2010 年には、さらに南東へ約 2.4km 進んだそう
です。
そのほかにも、それぞれ勝手な定義?をつけ
て、
「日本のへそ」
を名乗るものが多くあります。
「日本中心標」
碑が長野県辰野町鶴ヶ峰にあり、
群馬県渋川市は「日本のまんなかのまち」を自
称して「渋川へそ祭り」を開催し、栃木県田沼
町も「日本列島の中心」だといっています。
さらには、北海道のへそ(富良野市)
、広島県
の中心(東広島市(旧豊栄町)
)
、玉島港のへそ
(岡山県玉島市)などいっては、
「へそ祭り」を
141
164.日本の地図に緑色は使えない
Jリーグの東京ヴェルディ(Tokyo Verdy)と
いうチーム名の語源となっている、ポルトガル
語のヴェルデ(Verde)には、
「緑」というほか
に「幸運」とか「若い」という意味もあります。
一方の日本語の「緑(あお)
」には、生き生き
としたという使われ方がありますが、青二才の
ようにも使われて、未熟なものという意味合い
があります。幸運を現す色は、むしろ朱(あか、
赤)や紫です。
この違いは、どのようなことでしょうか。
地図をする者の勝手な解釈ですが、南欧や中
南米などから想像される風景の中には、見える
限りの範囲には草木の 1 本もない、あるのは岩
や砂礫だけという景色はあたりまえのようです
から、こうした自然環境を持つ民族にとって、
緑は幸運の色というのは分かるような気がしま
す。
その点、日本の気候は植物の成長にとって恵
まれています。悪名高かった、バブルの後遺症
となったビルの谷間の空き地も、ゴルフ場に開
発し損なった荒れ地も、ひと夏を経ると、あっ
という間に緑に覆われてしまいます。
このような違いが、南欧や中南米の人には緑
が幸福の色となって、パティオ(中庭)に石を
配置する気にはなれませんが、日本の庭園には
必ずと言ってよいほど石が配置される理由なの
かもしれません。
明治 11 年(1878)に日本を訪問した英人女性
探検家イサベラ・バードが、ひと雨降れば泥沼
のようになる当時の間道を抜けるようにして、
蝦夷を目指したときのことです。
江戸から日光へ向かう例幣使街道の杉並木や
日光の緑を見たとき、当初こそ、その魅力的な
調和のとれた景色に感激していましたが、会津
142
から津川に至る車峠では、こう嘆いています。
「すべてが緑色の草木に覆われている。私は機
嫌が悪いときには、これを『むやみに生い茂っ
た草木だ』といいたくなる。ああ、山腹に突如
として切り立つ岩、あるいは燃え立つような砂
漠のかけらでもいい、何かぴりっと目立つよう
な、ぎらぎら輝くようなものが、この単調な景
色の中に出てこないものか。どんなに不調和な
ものでもかなわないだが。
」
(東洋文庫「日本奥
地紀行」
)
この時のイサベラには、あたり一面が緑の砂
漠に見えたのでしょう。
かなり遠回りをしましたが、日本の地図の上
で「緑」は、どのような意味を持っているので
しょう。図は森林部分や田園地帯に緑を配して
みたものです。会津から津川を訪れたイサベラ
ではありませんが、この試作図を見た利用者の
眼は「緑い実(あおいみ)を食べた小鳥」のよ
うになってしまいそうに思いませんか。
日本の地形図が多色刷りになっても森林地帯
に緑色が配されないのは、このようなことが関
連しているのではないかと思ったりもします。
森林地帯に緑色を使った地図
(
「藤枝」を編集)
143
165.食べられるチズ
せんべいなどの堅いものを、前歯のどこで噛
もうかと思案し始めたら、もうお年寄りの仲間
入りだといいます。
何とか自分の歯を残そうと、
「80 歳で 20 本の
歯を」などという運動もありますが、このとき
ベースとして、成長期のカルシウム摂取がどう
であったか、女性なら妊娠時の補給がどうであ
ったかといった、これまでの生活スタイルが重
要になります。
骨粗鬆症が気になりだす年齢になってから、
牛乳やほうれん草などのカルシウムが多く含ま
れる食品の摂取に気をつけても、現状維持がせ
いぜいだとの意見もあります。いや、努力は報
われるとの意見もあって、これらの食品が嫌い
な筋には、サプリメントが出回っていて人気を
博しています。
「林蔵最中」
(つくばみらい市)の包み紙 と「地図サブ
レ」
(香取市)
144
その、カルシウムが豊富に含まれる食べるチ
ーズならぬ「食べられるチズ」について真剣に
考えたことがあります。
これは、
「ひとり地図ブレーンストーミング」
をして浮かんだアイデアの一つです。短い時間
ではありましたが、何とか製品化できるものは
ないかと考えをめぐらしたものでした。
そのうち、
「地図展」などのイベントを担当す
る機会があり、旧佐原市で市販していた伊能忠
敬にちなんだ「地図サブレ」から連想して、
「ナ
ンのようなチズ?」
「ピザのようなチズ?」と、
アイデアは少し膨らみました。
各県のあてはめ地図でできた「ジグソー・チ
ズクッキー」はどうだろうか。もちろんカルシ
ウムが入ったチーズ味で、裏には正解の県名な
どが入っているクッキー。
食べながら地理の勉強ができ、骨太な子ども
を育てる「食べられるチズ」には、JAS と、な
145
ぜか GSI(国土地理院)の推薦マークが付いて
います。
商品化するのは、伊能忠敬の佐原市、間宮林
蔵のつくばみらい市、いや、忠敬に負けずと長
久保赤水の高萩市の菓子店が経緯度線を入れて
作るでしょう。などと、
「地図好き人」は、考え
を巡らすだけで楽しかったものですが、それだ
けのことで良い結果は出ませんでした。
166.食べられるチメイ?
「東西蝦夷山川地理取調大概図」の「チエトマイ」地名
(地図中央上、現稚内市の宗谷岬東)
黒百合と延胡索
(
『東西蝦夷山川地理取調図』松浦武四郎)
最初にお断りしておきますが、著者は地図人
です。しかも、美食にはほど遠い位置にいるこ
とを、自ら強く保証します。
ですから、今回のお話も、美味しい食べ物の
146
話?には違いありませんが、地図・地名とのか
かわりで興味もっただけのことで、美味だとし
て推薦するものではありません。
食文化研究家の永山久夫さんによると、南米
のオリノコ河畔に住むというオットマッグ族は、
土をこねたダンゴを焼いて食べるといいます。
また、ニューギニアやアフリカの土着民は、ど
うしても塩分が不足するときに土をなめ、塩を
含んだ草束を焼いた塩灰を食べるともいいます
(
「たべもの古代史」永山久夫著)
。
世界各地にこのような習慣があるようですが、
日本ではどうなのでしょうか。明治 6(1873)
年に北海道開拓使に雇われ、調査測量のために
各地を訪れた測量長 M.
Sデイが開拓使に提出
した「北海道測量報文」には、次のようにあり
ます。
「宗谷を過ぎて最初の宿泊所を『チエトマイ』
といい、そこは番屋 1 軒と土地のものが住む小
147
屋が数軒といった漁村である。ここには、変わ
った泥土があって、土地のものはこれを肉のよ
うに野百合の根とともに煮て食べる。ここの本
当の地名『チエトイナイ』は、
『喰土の谷』とい
う意味である」とあります。
また、北海道の名付け親として名高い松浦武
四郎の著書にも同様な記述があって、トマ(延
胡索(えんごさく)と呼ばれる早春に青色の花
を咲かせる野草)
、
ハー
(野百合)
とともに煮て、
これにチエトイ(喰土)を入れ、これに鱒の卵
と油を少し加えて食したとあります。
お味の方はどうだったのでしょう。
「始めには、臭気に困ったが、後には馴れてう
まいと思うようになった」
(北蝦夷餘誌)とあり
ます。平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」による
と、最上徳内も蝦夷地でこれを体験したようで
す。
そのほかには、
「常陸風土記」にも、鳥が黄色
い土をついばんでいるとあり。
訪ねたことはありませんが、長野県小諸市に
は天然記念物
「テングノムギメシ
(天狗の麦飯)
」
という喰土の産地があり、ここにあるのは「藍
藻」といわれる黄褐色の微生物や菌類からなる
土で、飢饉の時に食べたことに始まり、同じよ
うな喰土は同県の他所にも多くあるといいます。
本州の人にも、土(珪藻土)を食べる習慣があ
ったようです。
北海道庁測量課 1/20 万地形図「足寄」の「チエトイ」
地名 (地図中央、ただし右書き、現本別町)
そして、地名のことですが、知里真志保著の
「地名アイヌ語小辞典」によれば、
『chi-e は我
食うということ。chi-e-toy なら、われわれ人
間の食う土、食用ねん土、
(珪藻土)
。そして nay
148
は、川、谷川、沢』とありますから、アイヌ語
の「チエトイナイ」は、
「喰土の谷(川)
」の意
味になります。
喰土にまつわる地名は、
「チエトイナイ」
「チ
エトマイ」
「チエトマリ」
「チエトイシュンナイ」
「チエトイウシ」などと、かつて北海道各地に
あり、
現在では転化した戸井
(とい、
chi-e-toy)
、
東別(とうべつ、toy-pet)
、豊似(とよに、
toy-o-i)
、豊別(とよべつ、toy-pet)などがあ
ります。
167.地図の中の森
久しぶりに地図記号の話です。
地図は、地球上の事象を紙などに表現したも
のです。したがって、そこには、道路や鉄道、
建築物といった人工物のほかに、地球の凹凸を
しめす「地形」や地上を覆う植物をあらわす「植
生」といった自然物も表現されます。
その植生ですが、下記のような植生記号と呼
ばれるもので表現されます。でも皆さんは、地
図を読むときに、針葉樹や広葉樹の記号を気に
かけたことがありますか?
針葉樹と広葉樹の記号
(平成 14 年式 2 万 5 千分 1 地形図図式)
149
植生記号の身近な利用者といえば、少ない勉
強量で高得点が得られそうだからと「地理」を
選択した受験生ぐらいで、
「気にしたことはあり
ません」
「知りませんでした」という答えがほと
んどでしょう。
その受験生も知らない高度な地図知識?を紹
介しましょう。
現在の森を表す地図記号には、上記の針葉樹
と広葉樹のほかに、竹林、ヤシ科樹林、ハイマ
ツ地、荒地などがありますが、その昔をたどっ
てみると下記のような記号もあります。
線の太さを使い分けて、それぞれの樹木の特
徴を表現しています。そして、記号の大小、記
号の配置密度も変えて、森全体のようすをそれ
らしく表現してきました。
高々大きさ1ミリ程度の植生記号が書き込ま
れた、その地図からは森のようすが一目でわか
るというものです。
杉・檜・竹・雑樹林
(明治 17 年 仮製二万分一地形図記号)
高々大きさ1ミリ程度の植生記号が書き込ま
れた、その地図からは森のようすが一目でわか
るというものです。
「地図記号のはじめは、なんと美しかったのだ
150
ろう」と思いませんか。このように過去と現在
のそれを見比べてしまうと、今の地図記号はい
かにも不細工に感じますね。
そして、
下記は針葉樹の森を表現しています。
ですが、
少しだけ気になることはありませんか。
針葉樹記号の下部にある横にならんだ点は、樹
木の影のようなものだとして、記号の中間にも
点が書かれています。これは何を意味するので
しょう。
??な、針葉樹林
(明治 42 年式 地形図図式)
針葉樹林に限らず、それぞれの樹木や湿地な
151
どの記号の中に、
「点」
が配置された地域は、
「
(兵
隊が)通過困難」であることを示しています。
それは、まさに地図が軍用であった証拠です。
したがって、平和な時代の「地図中の森」に、
もうこの記号はありません。
168.地図の中の里
(
「既耕地」に区分される)
畑と果樹園の記号
(未耕地に区分される)
針葉樹と広葉樹の記号
現在の森を表す地図記号は、針葉樹・広葉樹・
竹林・ヤシ科樹林・ハイマツ地・笹地・荒地 7
種類しかありません。しかし、
「明治 17 年 仮
152
製二万分一地形図記号」などといった、日本で
最初の地図記号には、約 20 種類もありました。
それだけではありません。前回も紹介したよう
に、記号の間に「点」を配置して、通過困難な
地域を表現し、
「縦短線」を配置したところは蔓
が多い地域、
「横短線」は倒木が多い地域を表現
するなど、軍用目的に対応した多様な表現を実
現していました。
さて、軍用から離れて、話を里に近づけまし
ょう。
「地図の中の森や里」を表現する植生記号は、
地図のきまり「図式」の中では、田や畑といっ
た「既耕地」と、荒地や樹林といった「未耕地」
の記号に区分します。
その表現の違いのことは、
「24.既耕地は整然と、未耕地は雑然と」で
紹介しました。結論だけ再掲しますと、既耕地
の界は「植生界」であらわしますが、未耕地間
の界には植生界は使いません。さらに、既耕地
は規則的に配置し、未耕地は不規則に配置しま
す。
「並べた方がきれいだから」
「私は几帳面だ
から」などといって、規則的に配置するのは許
されないのです。
169.地図の中の畑
ここでのつたない地図記号知識、
「受験生が知
っていても役に立たないものです」が、雑学王
となるための知識、いや地図雑学クイズ製作者
としての知識にくらいはなると思っています。
言い訳はこのくらいにして、本題に入りましょ
う。
今回は、田や畑へと話を進めます。
地図は初め、
軍用を目的として始まりました。
ですから、
「地図の中の森」のところでも紹介
しましたように、過去の地図には、兵隊が容易
に通れるか、遠くまで見通せるか、戦車が渡れ
るかなどが判断基準になっている決まりが多く
ありました。
下の図は、私たちになじみの、稲の切り株を
模式化した「田」の記号です。
その、田んぼの記号ですが、地図好きにはよ
く知られているように、かつては乾田、水田、
その他の樹木畑
もちろん、手入れに行き届かない課税逃れの
栗林(
「果樹園」
)や、整然と植えられていると
はとても思えない、都市近郊に多くみられる庭
園用樹木を栽培している「その他の樹木畑」の
場合も、この原則に従います。
153
沼田のように区分されていました
(昭和 30 年図
式まで)
。地図は初め、軍用を目的として始まり
ました。
ですから、
「地図の中の森」のところでも紹介
しましたように、過去の地図には、兵隊が容易
に通れるか、遠くまで見通せるか、戦車が渡れ
るかなどが判断基準になっている決まりが多く
ありました。
下の図は、私たちになじみの、稲の切り株を
模式化した「田」の記号です。
その、田んぼの記号ですが、かつては、乾田、
水田、沼田のように区分されていました(昭和
30 年図式まで)
。
短い線が1本ずつ書きくわえられるだけです
が、そこからは稲作文化の国らしい、細やかな
表現が感じられます。
さらに、
軍用図としては、
下記のように理解されて利用されてきたはずで
す。
田の記号(平成 14 年式 2 万 5 千分 1 地形図図式)
乾田、水田、沼田
(明治 17 年 仮製二万分一地形図記号)
乾田なら、刈り取り前以降は、水も抜かれて
自由に歩くことができる。水田は、いつでも水
があるので、行動はやや困難である。沼田は、
膝や脚が埋もれるほどの状態になって、まった
く行動できない。短い線が1本書き加えられる
154
だけですが、これだけ意味が異なります。
地図記号には、行動判断を迅速・容易にする
ための、視覚に訴える分かりやすい表現が求め
られたはずです。
現在の地形図図式にある既耕地の記号は、
田・畑・桑畑・茶畑・果樹園・その他の樹木畑
のたった 6 種類だけですが、
「明治 17 年 仮製
二万分一地形図記号」といった、最初の地図記
号には、約 15 種類もありました。その中には、
花畑・芝畑・三椏畑(みつまたはたけ)
・茶畑・
櫨畑(こうぞはたけ)といった、今では耕作地
も発見できない畑もありますが、その多様さか
らは、地上のようすを詳細に表現しようとする
意気込みが感じられます。同時に、上記のよう
な行動判断を容易にするための、良いデザイン
も感じられました。
その点から考えただけでも、現在の地図はネ
155
ット時代を先取りしたかのように、早くから単
純化を進行させ、退化を始めたといえないでし
ょうか。
花畑・芝畑・三椏畑・茶畑・櫨畑
(明治 17 年 仮製二万分一地形図記号など)
170.地図の中の鉱山
現在の教科書地図帳にある「鉱物資源」を表
現した日本全図からは、亜鉛、石灰、鉛、硫化
鉄、そして金・銀を採掘する鉱山の名称が 10
か所ほど読み取れます。いまさらですが、これ
ほど鉱物資源の少ない国だったのかと驚くばか
りです。
これを反映するように、鉱物資源に関連する
現在の地図記号は、採鉱地と油井・ガス井の 2
種類しかありません(そのとき、採掘している
鉱種名は、採鉱地の記号に「せきたん」などの
ように文字を添えて使用します)
。
ところが、明治期最初の地図記号には、油井・
ガス井の記号こそありませんでしたが(井戸の
記号はあった)
、下記のように、驚くほど多くの
鉱山などの地図記号がありました。
当時の日本が、それほど多くの鉱物資源に恵
まれていたわけではないのでしょうが、少なく
ても大きな期待があったのだと思います。
しかし、国土開発が進むうちに現実を感じた
のでしょうか、重要度のバランスからでしょう
か、大正 6 年図式からは多くの記号が姿を消し
てしまいました。残念なことです。
それどころか、現在残っている採鉱地や油
井・ガス井の記号は、地図記号全体からみると
使用頻度の少ない部類に入り、そのうち廃止さ
れるかもしれません。今の日本が、鉱物資源に
恵まれない国であることを地図記号があらわし
ています。
採鉱地(せきたん)と油井・ガス井
(平成 14 年式 2 万 5 千分 1 地形図図式)
156
緑礬・明礬・玉石
(いずれも、明治 17 年 仮製二万分一地形図記号)
さて、こうした過去の鉱物関係の地図記号を
見ると、
「そのいわれ、成り立ちなどがどこにあ
るのか」と気になりますが、残念ながら著者に
も不明です。ご存じの方がいたら教えてほしい
ものです。
金・銀・鉄・銅・錫
石炭・亜鉛・鉛
157