東京賢治の学校 2008年「黄色い薔薇」ドルナッハ公演旅行 ―44人の記録― 文責 小山郁夫 目次 [1]発端 [2]期間と、メンバー表 [3]旅程表と、日誌 [4]「第8回世界シュタイナー教師大会」資料抜粋 [1]発端 昨年2007年の6月、ゲーテアヌム教育部門の所長をされているクリストフ・ヴィーヒ ェルト氏が来日された。日本におけるシュタイナー教育の現状をつぶさに視察するた めである。 これには布石がある。2005年台湾でのアジア・シュタイナー教師会議、2007年タ イのアジア・シュタイナー教師会議の両方で、ヴィーヒェルト氏は午前の部の基調講 義を担当されている。その折日本から参加した教師たちは、藤野のシュタイナー学 園の秦理絵子先生を中心に、彼と親しく交流した。また、タイのアジア会議では、夕 方の各国紹介コーナーで、秦先生の御神楽の舞いと、藤村先生と鴻巣先生の七頭 舞をヴィーヒェルト氏はご覧になっている。 さらに今回の氏の訪日は、数年先のアジア会議の開催地として日本が可能および 1 適切かどうかの検分もあっただろうと思う。 ヴィーヒェルト氏は日本の全てのシュタイナー学校を精力的に見て回り、その一環と して賢治の学校にも来られた。そのおりヴィーヒェルト氏は、賢治の学校では授業や 校舎を見て回り、そして今度は子供たちの七頭舞をご覧になった。このとき、9年生 と11年生は宮崎県綾町の自然農実習でいなかったのだが。 数日後、桐澤事務局長にヴィーヒェルト氏から直接、2008年3月の世界大会への 招待が伝えられた。日本の代表として、東京賢治の学校に白羽の矢が立ったわけで ある。教師会で討議の結果、旅費や3月末の新年度への準備など課題はいろいろ あるが、子供の学びにとってこれほどの素晴らしい機会はないだろうということで、参 加を決定した。 [2]期間と、メンバー表 今回のツアーの期間は、2008年3月17日(月)から、3月31日(月)までの15日間。 ちなみに、ヨーロッパでは3月30日から夏時間になるため、前日の夜に1時間時計 を進めた。ジュール・ベルヌの『80日間世界一周』ではないが、この1時間の差で私 たちのほうは飛行機に乗り遅れるかもしれないということもあるので、この時間合わ せには慎重を期した。 随行員の全メンバーは以下の通りである。 ●教師(9名): 鳥山敏子(東京賢治の学校代表、7年担任) ヴィルギリウス・フォーグル 鳥山フォーグル雅代 合場義郎 鴻巣理香 長谷川直美 藤村久美子 佐藤康司 小山郁夫 ●生徒(35名[男子20名、女子15名]): 2 11年(5名)−小山忠、佐藤草、米谷栄軌、水口龍太郎、森山香菜 9年(9名)−片波見せるさ、柄澤琢也、佐々木夢郎、佐藤信悟、佐藤維真、菅谷杏 樹、西田大祐、丸山陽平、和田雅智 8年生(6名)−大柿航、酒地祥太、渋谷一騎、新堂光太郎、堀井晴菜、松田風香 7年生(15名)− (1班) 佐藤友紀[班長]、桐澤正樹、佐々木みずほ、高田正紀、中上咲希、 (2班) 市丸愛佳[班長]、岩月遊楽、木原瑞貴、小山満、森山穂乃香 (3班) 豊田茉莉花[班長]、池田公彦、小柳多央、西田圭祐、橋本賢汰郎 [3]旅程表と、日誌 ●大まかな見取り図: (→=列車; ⇒=飛行機) 立川(集合)−(リムジンバス、2時間)−成田空港(日本)⇒(スイス航空、13時間)⇒ チューリッヒ(スイス)⇒(1.5時間、スイス航空)⇒ローマ(イタリア、3泊4日) →(列車、3.5時間)→フィレンツェ(イタリア、4泊5日) →(列車、2.5時間)→ミラノ(イタリア)→(列車、6時間)→バーゼル(スイス、2泊3日) →(列車、1.5時間)→コルマール(フランス)→(列車、30分) →ストラスブール(フランス、1泊2日) →(列車、6時間)→ハスフルト(ドイツ、2泊3日) →(列車、1時間)→ニュルンベルグ(ドイツ、1泊2日) ⇒(スイス航空、1時間)⇒チューリッヒ(スイス) ⇒(スイス航空、12時間)⇒成田空港(日本)→(解散) ●細目 1)3月17日(月)−東京からローマへ移動 (工程) 6:30[立川駅北口多摩信用金庫付近集合]→6:37[リムジンで出発]→8:55[成田 到着]→11:10[スイス航空LX169便出発]→16:00(現地時間)[チューリッヒ国際 空港着]→17:30[スイス航空LX1732便発]→18:55[ローマ国際空港着]→21:3 0[地下鉄とバスでユース・ホステル(Albergo Ialiana per la Gioventu Roma)着]→ 3 部屋割り→就寝 (主な出来事) 喧騒の未だ沸き上がらぬ立川駅北口周辺、6時半には全員集合。ただし、7名の生 徒は成田で合流することになっている。親たちも多数駆けつけた。チャーター便のリ ムジンバスで一路成田に向け出発。 バス内はちょっとした国内遠足のような雰囲気。道路の渋滞はなくほぼ定刻に成田 に到着する。入り口で検問にあったが、雅代先生の信用顔パスで、無事通過。 空港内に入る。チェックインを済ませ、トイレタイム。ヴィルギリウス先生と雅代先生 は、先へ先へと下見をしている。 飛行機は定刻に出発。海外旅行の雰囲気が出てくる。飛行機に弱い生徒もいるの で、さっそくヴィルギリウス先生と雅代先生は生徒の見回りを始める。お2人は賢治 の学校専属のキャビン・アテンダントだ。そのおかげで、全体に和やかなムードが生 まれる。これはツアー中いつもそうだった。 さて、機内での13時間をどう過ごすか。 スイス航空は、東京賢治の学校が今回招かれた「第8回世界シュタイナー教師会 議」のスポンサーになっている。それで、私達の飛行機チケットに関しても事務局で 交渉した結果、往復一人10万円にしていただいた。感謝の意を込めてスイス航空を 褒めておこう。しかし、これは正直な感想である。何しろ食事がおいしい。アテンダン トの方たちも陽気で丁寧、皆さん働き者だ。「SWATCH」というスイスの時計がある が、あのような感じの全体としてすきっとしたところがある。 水平定速飛行に入り、みんなくつろぐ。ジュースを飲み、お昼を食べた後は、さらにく つろぐ。おしゃべり、読書、トランプ、そろそろ専用ディスプレーで映画を見たりゲーム を始める生徒もいる。しかし、未だ宿題を始める者はいない。 チューリッヒに到着し、ローマ行きに乗り換える。今回、この「乗り換え」というのが生 徒にとって素晴らしい学びの「場」になることを私は改めて発見した。そこでは、注意 力と周囲への気遣いと瞬間的な判断力が縦横無尽に要求される。お手本は、ヴィル ギリウス先生の行動だ。 チューリッヒ国際空港は広いが、慣れている団長のおかげでスムーズにローマ行き に乗り換える。 ちなみに、ローマ行きの機内では、一人の人がドイツ語英語イタリア語でアナウンス 4 をしていた。日本語は日本人の方だった。 ローマ空港に着き、その後は地下鉄とバスを乗り次いでユースに向う。バスを降り、 みんなで両手を広げて車の流れを止め道路を渡ると、そこはユースだった。やっと横 になれるところについて生徒はひと安心。しかし、ここで最初のアクシデントに遭遇す る。 フロントで、ヴィルギリウス団長が東京賢治の学校の到来を告げると、なにやら雲行 きがおかしい。「メールが届いていないので、フロントでは宿泊の予約を受け付けて いない。だから、宿泊は出来ない」、これがフロントの最初の応答だった。ヴィルギリ ウス先生の全身に力がみなぎり、ヨーロッパ流の交渉がここから始まる。交渉の結 果部屋は空いていて全員宿泊は可能という。しかし、もう一つ問題が生じた。夕飯が セットになっているので、食べていないのにもかかわらず、その代金を払え、というの である。教師会で議論の結果、生徒たちの疲労も考え、これ以上の議論を避け受け 入れることに決定。 さっそく部屋割りをして、各自寝る支度に取り掛かる。私は、ヴィルギリウス先生と同 室となった。 2)3月18日(火)−ローマ観光(その1) (工程) 7;00[朝食]→スペイン広場→トレヴィの泉→聖イグナチオ教会→聖マリア・ミネルヴ ァ教会(ミケランジェロ「キリスト像」他)→パンテオン→ナヴォーナ広場(昼食)→ロー マ博物館分館・アルテンプス宮(「ルドヴィシの玉座」他)→ヴァチカン博物館(「ラオコ ーン」、ラファエロ「キリストの変容」、ミケランジェロ「最後の審判」[システィーナ礼拝 堂]他)→帰館→夕食→就寝 (主な出来事) さていよいよ観光学習の始まり。先頭に立つのはヴィルギリウス先生と雅代先生。 副団長の手には遠目の目印となるように、黄色い薔薇が高く握られている。子供に 気を配っていると、一瞬先頭への意識が薄れるときがあり、後続の教師にとってもこ の薔薇は第3の先導役として非常に貢献してくれた。 生徒たちは長時間の移動にもかかわらず今朝はほとんど疲れを見せていない。しか し、ヴィルギリウス先生と雅代先生は、「体に異常があるときは、すぐに教師に知らせ 5 ること。薬があるのでそれで予め対処しておけば必ず良くなりますからね」と、先手の 注意を怠らない。教師は毎日生徒の健康状態を一人一人チェックする。 地下鉄の移動で、本日最初のトラブル発生。1枚切符が自動改札を通らないのであ る。それは昨日の切符であることが判明。今日の分と紛れた生徒が一人いたらしい。 調べたが出て来ないので、もう一度1枚切符買った。以後、使ったキップはその場で 処分するように生徒に注意する。しかし、後の話しだが、国立博物館の切符は3日間 有効なので、このときは別の注意を与えた。 アルテンプス宮でお昼を取る予定だった。しかしそれが許可されないことが分かり、 ナヴォーナ広場に戻りユースで用意してもらった弁当を食べる。素晴らしく噛み応え のあるハムサンドとチーズサンド、ジュース、お菓子、そして「水」と豪華なお弁当。広 場の周りはカフェが多い。私の背後ではギターを片手の女性がスタンドマイクを使い、 カフェのお客に向けてゆったりと歌を歌っていた。歌が終わると、自然と拍手がおこ る。小銭を投ずる人もいた。 美術館で直接見た「ルドヴィシの玉座」といい、「キリストの変容」といい、図版(コピ ー)では何度も見た作品である。しかし、改めてオリジナルを観ることの大切さを感じ る。 かつてクリューガー先生が、「ドイツ人はどんなに小さな作品であろうと、オリジナル のものを家に飾って鑑賞するのを好むのです」と、おっしゃっていた。コピーで99% は分かるのかもしれないが、残りの1%を求めこうして本物の前に立つことの重要性 を確信。子供たちもいつかはそれを知るだろう。 ヴァチカン博物館の周辺は、路上商人がひしめいていた。ベルト、ブランド物のバッ グ、サングラス、アフリカの民芸品、目のさめる様な色のスカーフ他。それを彼らは大 きな風呂敷に包み、持ち運んでいる。観光客の流れと彼らの流れが2重螺旋となっ てヴァチカンを取り巻いていた。 それと忘れてならないのが、ヴァチカン市国の3人の門兵。やはりあの「SWATCH」 のようにすっきりしている。雅代先生によると彼らはスイス人の傭兵である。スイスは 永世中立国なので、自国に安全なスイス人が選ばれるとのことだった。 無事1日を終えユースに帰館。教師の振り返りの際、生徒たちが説明を聞かないで 写真を撮っている場合があるので、話をまず聞いてから後の時間で撮影をするよう 明日注意することにした。また、学習効果を考え、博物館でスケッチの時間を設ける 6 ことにした。 3)3月19日(水)−ローマ観光(その2) (工程) 7:00[朝食]→聖ピエトロ寺院(何かの催しがあるらしく中に入れず、ミケランジェロ 「ピエタ」他を見る予定)→マッシモ宮(「ランチェロッティの円盤投げ」、「眠れるアフロ ディーテ」、「テヴェレのアポロン」他、生徒のスケッチ時間)→聖マリア・マッジョーレ 教会裏の広場で昼食→聖マリア・マッジョーレ教会(モザイク画他)→コロッセオ(巨大 闘技場)とコンスタンティヌス帝の凱旋門→フォロ・ロマーノ(古代ローマ史跡)→聖ピ エトロ・イン・ヴィンコリ教会(ミケランジェロ「モーセ像」他)→聖ピエトロ寺院(閉館時刻 前に再訪したにもかかわらず、既に閉まっている)→帰館→夕食→就寝 (主な出来事) マッシモ宮のスケッチの時間では、「ランチェロッティの円盤投げ」と「眠れるアフロデ ィーテ」に生徒が集中していた。もちろん、いくつものスケッチを手がける子供もいる。 描き上げたスケッチは後で教師がすべて見るのだが、習字と同じで、うまい下手では なくどれも素晴らしく良く描けている。つまり子供がこのスケッチを描くことで、作品の 美と形の学びが確実に内側へ沁み込んでいることが、その書いたものからありあり と見て取れるということ。さらに、シュタイナー学校の真骨頂がこの後現れる。 お昼は、マッシモ宮から歩いて数分の聖マリア・マッジョーレ教会裏の広場でいただ いた。晴れていて青空の下気持ちがいい。食べ終わった後の紙くずを捨てる際、くず かごが溢れないように、紙くずを小さく折りたたんで捨てるようにと、繊細な注意が鳥 山先生より子供たちに伝えられる。 食べ終わった生徒たちのスケッチを雅代先生が見ている。するとやにわに、「さあ、こ のポーズを自分でとってみてください。周りの人もちょっと助言して」と雅代先生のこ とば。「手はもうちょっと上」「膝を少し内側に曲げたら」「顔を上げて」など、周りからい ろいろ声が飛ぶ。生徒は始め恥ずかしそうにしているが、内側に入った力があるの で、それでもみんなの前でポーズを取り始める。これがなかなかきまっている。広場 に、次々と「円盤投げ」のこども立像が並ぶ。これがどれほど貴重な学びの体験か、 彼らは数十年して知るだろう。 コロッセオはなんと言ってもその巨大さに圧倒された。「巨大文化」の発祥はアメリカ 7 ではなく、このローマであったことをしみじみ知る。ときおり、競技場のあちこちにカラ スが舞い降りていて、ゴッホの最後の絵を思い出した。 ゲーテがイタリアを訪れた際最も感動したというミケランジェロの「モーセ像」を見る。 頭部の2本の角は「思考」のシンボルであることを初めて知った。この像の前でおそ らく半日は過ごせたであろう(英文法で言うところの「仮定法過去完了」)。今回のツア ーでは、「時間との戦い」が1つのテーマである。 外に出ると、イタリアの夕暮れが迫っていた。全員石の階段に腰掛けて、無言。すが すがしい風が吹き、どこからともなくアコーディオンの音が聞こえてくる。「そうなんで す、これが典型的なイタリア。美しい風景を見て、風に揺られ、音楽を愛でて、後は 何もしない・・・」と、雅代先生。 聖ピエトロ寺院を再訪するも、通常の閉館時間前にもかかわらず、もう閉まっていた。 仕方なくこれは次回の楽しみとし、明日はフィレンツェに移動なので、月を見ながらロ ーマに別れを告げる。しかし、この後ちょっと「怖い」ドラマが待っていた。 帰りのバスは、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯に当たっていたので、すし詰め状態だ った。この満員バスに途中から二人の男が乗り込んできた。二人とも手に下敷きの ようなものを持っている。目つきはこのときは普通だった。雅代先生もピンと来たの か、バス全体に響き渡る声で、「皆さん気をつけてください、身の回りのものをしっか り持って」と生徒に注意を促す。その時、がたんとバスが1回揺れた。二人組みは後 ろから乗り込み、中央の出口へと人を掻き分けて進む。もう一度雅代先生の良く通る 声で注意。次のバス停で、二人は降りて行った。降りるときの二人の目はプロの犯 罪者の目だった。ユースに帰って確認してみると、残念なことに、S君の10ユーロ入 った財布がすられていた。ポケットのチャックは元通り閉めてあったそうである。全員 にとっての、10ユーロの勉強代ということになった。 4)3月20日(木)−ローマからフィレンツェへ移動、フィレンツェ観光(その1)−聖スピ リト地区中心 (工程) 9:12[ローマ駅]→(途中で、ユースで調達した昼の弁当を食べる)→12:51[フィレン ツェ駅]→ユース[Cooperative Santa Monaca]→部屋割り、荷物置き→聖マリア・デ ル・カルミネ教会(マゾリーノ、マザッチョ、フィリッピーノ・リッピのフレスコ画)→聖スピ 8 リト教会(フィリッピーノ・リッピ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」、ミケランジェロ「十字架 像(木製)」他)→聖フェリーチエ教会(ギルランダイオ「聖母子と聖人達」他)→ピッティ 宮(ラファエロ「大公の聖母」、ティツィアーノ「若者の肖像」他;スケッチの時間を取る) →帰館→ユースから歩いて1分のレストラン「トリッターリア」で夕食→帰館→就寝 (主な出来事) 朝の出発前、雅代先生から昨日のスリのことで話しがあった。改めてみんなの注意 促す。ローマに入る前何度も注意があったにもかかわらず起きてしまった。学びのた めの小さな痛み、というものか。子供たちの動揺はそれほど感じられない。S君は少 ししゅんとしているが。 ローマからフィレンツェに無事到着する。フィレンツェ駅からユースへ向う道のり、子 供たちの間から「フィレンツェのほうがずっといいね」「こっちのほうが気持ちがいい」 という声が上がる。町の様子がコンパクトにまとまっているし、精神的な空気が澄ん でいる気がする。どちらがいいということではないのだが。 アルノ川を渡ってすぐのモナカ通りにユースはあった。ここにこれから5日間お世話 になる。部屋割りをしてユース内を探検する。教師としては緊急時に備え、建物全体 を把握しておかなければならない。かなり「複雑な」構造になっている。合場先生い わく、「これ、東京だったら許可が下りないぞ」。男性教師4人は3階の1室に納まった が、ドアの鍵が掛からない。さっそくみんなで錠前屋になって直しにかかるけれど、ド アの板がゆがんでいてどうしても直らない。この部屋の鍵は常時開けっ放し、という ことになった。チケットなどの貴重品は女性教師の部屋に置くことにした。ヴィルギリ ウス先生はさすがに用意周到で、自分の貴重品はロッカーに入れ、それに持参の鍵 をかけていた。ほかの先生たちもそれを利用させてもらう。 そろそろ具合の悪い生徒が出始める。龍太郎君に発疹が出ている。尋ねると旅行の 前からその兆候はあったそうだ。ヴィルギリウス先生はもしかすると帯状疱疹ではな いかという。携帯電話で、イタリアにお住まいで医者をしているヴィルギリウス先生の 妹さんに問い合わせてみる。帯状疱疹の可能性もあるが、それほど重いものではな さそうだとのこと。確かに龍太郎君はあまり痛がってはいない。まずは安静にし、体 を温めて寝ているように指示する。午後の観光に彼は行かないことにする。その後 ヴィルギリウス先生は、観光途中薬局で龍太郎君のために薬を買った。 荷物が収まったころフロントに再集合。改めて生徒全員の健康状態をチェックする。 9 そしてパスポートチェックも。 移動日の観光ということもあり、このユースのある聖スピリト地区を歩いて回る。位置 関係を説明すると、この聖スピリト地区はアルノ川の南側にあり、ローマ中央駅を中 心とするドゥオーモ、ウフィッツィ美術館などは全てアルノ川の北側にある。 聖スピリト教会では、交渉の結果特別に、ミケランジェロの木製の「十字架像」を見る ことが出来た。ヴィルギリウス先生の説明を聞いている輪の少し外で、鳥山先生がこ の像に向って手を合わせ静かに拝んでいた。 夕食は、ユースを出て最初の十字路を右に曲がり20メートルほど行ったところのレ ストラン「トリッターリア」。ローマの地下食堂も広々としてなかなかよかったが、こちら は一層家庭的で落ち着く。おしゃれなテーブルクロスや椅子、壁に掛けられた絵の 数々が私たちを迎えてくれた。子供たちも少しほっとしただろう。 龍太郎君は少しずつ快方に向っている様子。 振り返りのとき、フィレンツェ行きの列車の乗り方に問題ありとヴィルギリウス先生か ら指摘があった。先に乗った教師も生徒も荷物などでどんどん席を取っていかねば ならなかった。後から来た乗客に席を占められてしまい、賢治の学校の集団が列車 の中で分散してしまった。それと、たとえば乗り込む場合、入り口で下から重いランク を運び上げる役割のグループ、列車内でトランクを網棚に乗せる役割のグループな ど、役割分担をしておくべきだった。これはその後素晴らしく改善されることになる。 生徒たちの学習対応能力は素晴らしい。 5)3月21日(金)−フィレンツェ観光(その2)−聖クローチェ地区中心 (工程) 7:00[「トリッターリア」で朝食]→バルジェッロ国立博物館(チェッリーニ「マーキュリ ー」、ミケランジェロ「酒神バッカス」「聖母子」、ドナテッロ「ダヴィデ」「聖ゲオルギウ ス」、ブレネッレスキ「イサクの犠牲」、デッラ・ロッビアの陶器他;スケッチの時間を取 る)→昼食(グループに分かれ、自由選択でドゥオーモ広場周辺のレストランに入る) →ドゥオーモ(イタリア語で「大聖堂」)→ドゥオーモ付属博物館(ミケランジェロ「ピエタ」、 デッラ・ロッビア「聖歌隊席」他;スケッチの時間を取る)→洗礼堂→「トリッターリア」で 夕食→帰館→就寝 (主な出来事) 10 龍太郎君の症状は、蕁麻疹であることがはっきりする。安静にして、水を適宜大量に 飲むように指示する。雅代先生が食堂の自販機から水のボトルを何本も買って来て 龍太郎君に手渡した。 バルジェッロ国立博物館はかなりの混み様。以前はこれほど混み合っていなかった、 とヴィルギリウス先生はおっしゃっていた。ここでもスケッチの時間を取ったが、対象 の選び方に子供の個性が出ている。 お昼は初めてグループに分かれ取ることになった。洗礼堂付近の比較的手ごろなレ ストランを予め雅代先生がみんなに教えてくださる。 合場先生と私の担当したグループは7年生の3班で、班長の豊田茉莉花さん、池田 公彦君、小柳多央さん、西田圭祐君、橋本賢汰郎君の、子供は計5人。みんな食後 のアイスクリームの時間がほしいので、レストランは即座に決めた。外に掛けてあっ たメニューに、日本語が書き添えてあったのが決め手。お昼時で中は混んでいたが 席も7人分ちょうど空いていた。私いわく、「ここはイタリアですが今後に備え、きょう は皆さんにフランス式のテーブルマナーをお教えします。男性は、女性の食べるスピ ードに合わせなければなりません。またテーブルトークも、男性のほうが話題が途切 れないように提供しなければなりませんよ」。男の子たちは神妙に聞いていた。彼ら はみんな貴公子だ。 ドゥオーモ付属博物館に向うころ、雨が降り始めた。この博物館でもスケッチの時間 を取る。何といっても、ミケランジェロの「ピエタ」に人が集まる。私もその一人となった。 ふと見ると、雅代先生とヴィルギリウス先生も同じ「ピエタ」をスケッチしている。雅代 先生は子どもたちに混じって、ヴィルギリウス先生は階段を登った少し高い所から。 「ピエタ」の前の階段を上ると、IBM 提供の PC ディスプレーが置いてあった。「ピエ タ」を様々な角度から撮影し、3D 画面で再生してある。このやり方は、後で出てくる アカデミア美術館のミケランジェロ作「ダヴィデ」ではさらに精度を増して適用されて いた。行く前に新聞で読んではいたが、ヨーロッパではこうした美術品の「保存」方法 がかなり進展していることを実感する。 龍太郎君はかなりよくなっている。明日はツアーに参加できる見通し。 6)3月22日(土)−フィレンツェ観光(その3)−聖ロレンツォ地区中心 11 (工程) 7:00[「トリッターリア」で朝食]→聖マルコ教会と修道院美術館(サン・マルコ「受胎告 知」他)→アカデミア美術館(ミケランジェロ「ダヴィデ」「奴隷像」他;スケッチの時間を 取る)→昼食(昨日と同じグループに分かれ、自由選択でドゥオーモ広場周辺のレス トランに入る)→聖ロレンツォ教会(フィオレンティーノ「マリアの結婚」他)→メディチ家 礼拝堂(「君主の礼拝堂」、ミケランジェロ「夕暮れ」「曙」「昼」「夜」「聖母子像」他)→聖 マリア・ノヴェッラ教会と付属修道院(マザッチョ「三位一体」、ディ・ボナイウート「聖ト マスの勝利」他)→高等部希望者は初めての自由行動、残りの生徒は帰館→18:30 [「トリッターリア」に全員再集合、夕食]→帰館→就寝 (主な出来事) みんなで聖マルコ修道院に赴く。聖マルコは、大司教に成れたのにもかかわらずそ れを断り、この場所に留まったという。そして、そこで共同生活を送る修道僧たちのた めにフレスコ画を描き続けた。修道院の階段を上るといきなり大画面の、アンジェリ コの最も有名な絵の一つ「受胎告知」と対面する。これも何回となく図版で見ていた が、実物には到底かなわない。全体がふっくらとして、清楚で深い美しさが溢れ出て いる。特に左側の天使ガブリエルの服のひだが実に丁寧に玄妙に描いてある。アン ジェリコその人の人柄が時を越え、しみじみと直に伝わってくるようだ。 お昼は昨日と同様グループによる自由行動。このツアーで子供たちも学んだのが、 時間の節約。それで、昨日と同じレストランにした。昨日と同じ席が空いていたので そこに座り、席の座り方も全く同じにした。これも時間の節約。違うのは、合場先生が 体調のすぐれない公彦君を連れてユースに戻り、2時までに聖ロレンツォ教会の入り 口まで戻ってこなければならないということ。往復に徒歩で1時間はかかるから、逆 算して1時にはここを出なければならない。ところがこういうときに限って、合場先生 のメニューの品がなかなか来ない。ほかの全員が食べ始めていた1時10分前、つ いに、注文の品が到着。合場先生はそれを5分で平らげる。公彦君の食べ終わるの を待って、ちょうど1時に出発。お金を取り出す時間も惜しいから、私が二人の分を 払っておくことにする。後は合場先生が2時に間に合うことを祈るのみ。 2時少し前、合場先生は教会の入り口に来ていた。 公彦君はユースで自分から私に昼食のお金を払いに来た。 7)3月23日(日)−フィレンツェ観光(その4)−ウフィッツィ美術館[Galleria degli 12 Uffizi] (工程) 7:00[トリッターリアで朝食、昼食セットも帰りに受け取る]→7:45[ユース出発]→8: 10[ウフィッツィ美術館着]→館内で昼食が取れないことが分かり、13:30まで館内 ツアーとスケッチに当てることを決める→9:00[3グループに別れ館内ツアー開始、 第1グループは雅代先生をガイドとする7年生、第2グループはヴィルギリウス先生 をガイドとする8・9年生、第3グループは鴻巣先生をガイドとする11年生→主な作 品(チマブーエ「荘厳の聖母」、ジョット「玉座の聖母子」、マルティーニ「受胎告知」、フ ランチェスカ「ウルビーノ公夫婦の肖像」、フィリッポ・リッピ「聖母子と2人の天使」、ボ ッティチェッリ「春」「ヴィーナスの誕生」「マニフィカートの聖母」、レオナルド「受胎告 知」他)→13:30[館内入り口集合、帰館してユースの食堂で昼食をとることにする→ 昼食→バーゼル行きへの準備→高等部希望者は館外自由行動→18:30[「トリッタ ーリア」に全員再集合、夕食]→帰館→就寝 (主な出来事) 今日は1日ウフィッツィ美術館のみの見学となる。それほど広く豊かな場所だというこ と。 トリッターリアで朝食をとり、お昼を受け取り帰館。7時45分にユース出発。ヴェッキ オ橋の1つ手前の聖トリニタ橋を渡り、8時10分頃ウフィッツィ美術館に到着。歩い て20分ほどのところだ。これが後で重要な条件となってくる。 既に並んでいる長蛇の列を横目に、私たちは予約者専用の入り口に並ぶ。これもヴ ィルギリウス先生が予め予約を入れておいてくれたおかげだ。この「予約」のおかげ で今回のツアーがどれほど効率よく進められたか計り知れない。ヴィルギリウス先生 はそのために膨大な時間を割かれたことだろう。ここに改めて心からの感謝の意を 表したい。 さて館内に入ると、予想外のことがまず一つ生じた。お昼を、中の広いテラスで食べ る予定だったのだが、説明によると館内は一切荷物持ち込み禁止。荷物は退館のと きにしか受け取れない。さてどうする。協議の結果、1時30分に同じ入り口の所に集 まり、それまでは見学とスケッチを続ける。お昼をとる場所は状況を見てそれまでに 考えておく。 見学は、3つのグループに分かれた。他の見学者のこともあり、1つのグループで回 13 るには人数の規模が大き過ぎるからだ。7年の第1グループには、ガイド役の雅代 先生と、鳥山先生、藤村先生が付く。8・9年の第2グループには、ガイド役のヴィル ギリウス先生と、長谷川先生、私が付く。11年の第3グループには、ガイド役の鴻巣 先生と、佐藤先生、合場先生が付く。 館内は豪華絢爛、とても1日で味わい尽くすことは出来ないが、ここでも「時間との戦 い」である。 私の第2グループは11時頃に全員への説明を終え、後は各自が自由に作品を選び スケッチをする時間となった。長谷川先生と私はヴィルギリウス先生に奥のカフェで ホット・コーヒーをご馳走になる。外は雨が降っていた。 私はレオナルドの「受胎告知」をスケッチした。日本で私の周りにはレオナルド信奉 者が多い。私は個人的にはエル・グレコ、ゴッホやミレーが好きなのだが、レオナルド に対する尊敬の念は、30年前ブリティッシュ・ミュージアムで「岩場のマリア」を見て 以来未だ失っていない。ある人が、「レオナルドはいつも隅から隅まで意識が鮮明 だ」と喝破した。それを聞いたときなるほどと思い、今回私はそれを実物を前に確か めたかった。 技術的には、ピカソも素晴らしいが、やはりレオナルドのほうが1枚上手のような気 がする。しかし、技術が問題なのではない。それでは何が問題なのか。 私の背後を、フランス語圏の見学グループ、ドイツ語圏の見学グループ、英語圏の 見学グループ、イタリア語圏の見学グループ、日本語圏の見学グループが次々と通 過する。英語と日本語は充分わかるので、ガイドさんの説明に耳を傾けてみた。 その中に、受胎告知の絵は非常に多いが、天使の羽をレオナルドほど本物の鳥の 羽のように描いた画家はいない、という説明があった。つまりレオナルドは現代の 「飛行機」を自ら構想していて、その発想をこの絵の中にも生かしているということだ。 これも一つの発見であった。また、服のひだのところも、アンジェリコとは違った深い 味わいを持って描かれている。 子供たちも思い思いの作品を選んでスケッチをしている。私の見る限り、様々な国の 修学旅行の子供たちが来ていたが、スケッチをしていたのは賢治の学校の子供たち だけだった。 廊下で一休みしていると、ヴィルギリウス先生が少し怖い顔をして私に近づいて来た。 「このあとどうしますか?」。昼食を食べる場所をずっと考えているのである。私も考 14 えていたので提案として、「雨も降っているので、ユースに帰り食堂で食べたらどうで しょうか、時間も20分ぐらいですから」と答えた。それを聞いてヴィルギリウス先生は また足早にほかのところへ去っていった。 結局ユースでお昼をとることになった。点呼をして外へ出ようとするが、出口が極端 に狭い。縦1m80cm、横80cm。犯罪防止のためでもあるのだろうか。外は本降り で、その狭い出口の所に5∼6人のにわか傘売りが殺到している。「5ユーロ!5ユ ーロ!」、「3ユーロ?」、「・・・・OK」、そこで橋本君が5ユーロ紙幣を払って傘を受け 取ったが、肝心の2ユーロが帰ってこない。橋本君は仕方なく行こうとするが、そこへ 背後から「Money back! Money back」と鳥山先生の強い声。お金は戻ってきた。 夕飯前に高等部の自由時間を設けたが、9年生の有志4人が出かけていった。 トリッターリアでの夕食では、明日はフィレンツェを発つということで、店の女主人の ために「ふるさと」をみんなで歌った。この女主人は肝っ玉母さん風で、「かわいい子 供たちだね、かわいい子供たちだね」といつもいっていた。おかわりもどんどん出して くれる。レストランの壁には、主人の友達が描いたというこの肝っ玉母さんの絵も飾 ってあった(これは雅代先生の発見である)。 8)3月24日(月)−フィレンツェからミラノ経由でバーゼルへ移動 (工程) 6:30[トリッターリアで朝食、帰りに昼食を受け取る]→7:15[フィレンツェ駅に向けて 出発]→8:35[20分遅れで、フィレンツェ駅からミラノ駅に向けて出発]→11:05[5 分遅れで、ミラノ駅13番線に到着、2番線のバーゼル行き列車に乗り換え]→11:2 5[ミラノを出発]→(アルプス越え、最高高度約1300m)→17:00[定刻通りバーゼ ルに着く]→徒歩5分でユース(Jugendherberge Basel City)に到着→部屋割り→1 8:30[ゲーテアヌムに向けて出発]→[バーゼル駅からドルナッハ駅まで列車10分、 その後徒歩10分でゲーテアヌムに到着]→19:30[ゲーテアヌムの「作業室」の食堂 で夕飯をいただく]→20:10[シュタイナー作「人類の代表」のアトリエの最高管理者 であるブルームさん(本業は女優)のガイドで、アトリエとシュタイナーの木彫像「人類 の代表」を見学]→21:40[バーゼル発の列車に乗る]→帰館→就寝 (主な出来事) 15 瑞貴君のトランクのローラーの調子が悪い。昨日からヴィルギリウス先生と合場先 生が取り組んで直しているのだが、限界がある。 今回ローラー付きのトランクは非常に便利であったのだが、ローマはアスファルトの 多い東京と違いほとんどが本物の石畳なので、かなり頑丈なものを用意する必要が ある。これは次の機会のときの全員への教訓である。 フィレンツェ駅が見える所まで来ると、出店が有り、ヴィルギリウス先生がさっそく大 きめの青いトランクを瑞貴君のために買った。それに今のトランクを入れて運ぶこと にする。これは後の話になるが、バーゼルのユースに着きゲーテアヌムに向うとき瑞 貴君に、「この前のトランクは、ゲーテアヌムで処分してもらうかい」と聞いた。思い出 があるらしく瑞貴君は即座に、「2つとも日本に持っていく」といった。 さて、ミラノ行きの列車への乗り込みはスムーズに行ったが、また1つ問題が生じた。 ミラノでの乗り換え時間は25分あるので余裕を持っていたのだが、肝心のローマか らのこの列車がなかなか出発しない。5分、10分、15分。20分遅れの8時35分つ いに出発。この時点で乗り換え時間は、普通に行けば5分となった。乗車時間は3時 間ほどあるのでじっくり対策を練る。まず、ヴィルギリウス先生が車掌さんに助言を 求める。こういう時、外国語が出来るというのがどれほど助かるか、改めて痛感し た。 2つの乗り換え方法があるという:1)階段を下りて地下通路を使い再び階段を上り、 当該の番線に行くやり方、2)ホームの同一平面上を遠回りして当該の番線に行くや り方。車掌さんは1)を薦め、ヴィルギリウス先生は2)がいいのではないかという。い ろいろ検討した結果、1)のやり方で行こうと決まる。しかしこの時点では未だ何番線 へ着き何番線へ乗り換えるのかは分っていない。合場先生いわく、「日本だったら出 発が遅れた分だけ車掌さんが気を利かせて遅れを取り戻してくれるんだけどね」。 11時5分前、降りる準備を始める。周りの乗客を観察すると、その人たちも降りる支 度を始めている。どうやら定刻に少し遅れるぐらいで着きそうだ。車掌さんが気を利 かしたのだ。この時点で乗り換えの番線は2番線だというのが分っている。 11時5分過ぎ、13番線に着。13ひく2は11、およそ5ホーム分走らねばならない、 しかし20分はあるからまず大丈夫。それでもみんな必死で荷物を抱えて走った。無 事、314号車と315号車に乗り込む。11時25分、今度のバーセル行きは定刻どお りに出発した。 16 ミラノからバーゼルへ向う列車の両側は、素晴らしい景色が続く。「まるでハイジの世 界だね」と子供の声。鳥山先生は早速、ヴィルギリウス先生の鉄道地図と私のミシュ ランのヨーロッパ道路地図を借りて、子供たちに昨日までの道のりと、今行こうとして いる道のりを説明している。 予定通り、17時にバーセル着。ホームには、アンドレアさんが出迎えてくださる。彼 女はバーセルのシュタイナー学校の11年生で、今回の大会の手伝いをされている そうだ。アンドレアさんは、私たち一行をいろいろ案内してくださった。 ユースは駅から歩いて5分の所。早速部屋割りをして、荷物を置いたらすぐ再集合。 ちなみに最初予定されていた今夜10時からのリーサルはなくなった。 ドルナッハまで列車に乗り、後は歩いて丘を上ると、あの不思議な形をしたゲーテア ヌムの建物に到着する。近くにも同じような形をした家が並んでいた。 本館の中で話をしていると、まったく偶然に、シュタイマン先生とお会いした。みんな 大喜び。「知ってるじゃん」(雅代先生訳)というシュタイマン先生の一言で、また大歓 声。合同写真を撮り、明日の再会を約して分かれる。その後、英語のヤフケ先生に もお会いできた。 夕飯は、シュタイナーが講義をしたこともあるという「作業場」が食堂になっており、そ こでいただいた。私はなぜか緊張して1皿しか食べなかったが、子供の中には4皿ぐ らい平らげている子もいた。あとで聞いた話だが、この日のおかわりは特別で、基本 的に主食のおかわりは出来ないそうだ。印象深かったのは、どこのユースもそうだっ たのだが、とりわけこの食堂で働いている方たちは光り輝いていた。 交渉の結果、シュタイナーの木彫像「人類の代表」を見せてもらえることになった。そ の部署の管理者であるブルームさんが案内と解説をしてくださった。彼女の本職は 女優だそうである。確かにスカーフの色合いはもちろん、そのしめ方も美しい。 アトリエと、20トンあるという「人類の代表」像を見学する。「人類の代表」の部屋に入 ったとき、賢汰郎君がいきなりスケッチブックを取り出し、その像のスケッチを始めた のには驚いた。子供の学びは早い。 この後小雪の舞うドルナッハの道を早足で下り列車に乗り込み、帰館し一日を終え た。 9)3月25日(火)−ドルナッハ公演 17 (工程) 4:00∼5:00[教師起床]→6:00[生徒起床]→7:00[朝食]→8:30[食堂に集合]→ 9:14[ドルナッハ着]→9:30[予約2室(物置と着替え室)に入る]→9:50[道具の飾り 付け作業]→10:30∼12:00[本舞台で練習(1回目)]→12:00∼12:30[食堂室で 昼食]→12:00∼13:00[練習(2回目)]→13:00∼14:00[休憩]→14:00∼16:3 0[本番前練習(ゲネプロ)と、タイの練習風景見学]→16:30∼17:15[買い物など、 自由時間]→17:30[夕食]→18:30∼19:00[舞台で最後の調整]→19:15∼19: 45[本番用着替え]→19:50[開場、楽屋入り、会場内でドルナッハ用に作ったパン フ配り]→20:15[開演]→20:30[ヴィーヒェルト氏による、東京賢治の学校の教師 の紹介]→20:35[生徒たちの演技開始]→演技終了→会場全員総立ちの拍手喝采 →着替え→「お土産セット」をいただいて帰館→慰労→就寝 (主な出来事) ついに1200人の観客の前に立つ日が来た。子供たちはそれほど緊張した様子も ない。教師はもちろんのこと。ただ最善を尽くすのみである。 ゲーテアヌム本館に着いてみると、40畳ほどの部屋が2部屋あてがわれていた。こ の区域は関係者以外は入れない。ひと部屋は道具置き場と着替えに、もうひと部屋 は作業や練習の部屋として使う。椅子やハンガー、着物掛けなども要求して揃えて もらう。ゲーテアヌムでは、雅代先生によると、何か要求が出された場合、何らかの 形で答えなければいけないシステムになっているそうだ。 練習で本舞台に立ってみる。広いことは広いが臆するほどでもない、というのが概ね 子供たちの反応だった。さすがに日ごろから鍛えてあるので、ヴィルギリウス先生も 雅代先生も、大会場の端から舞台の最奥部まで充分届く声でやり取りをする(もちろ んマイクは使わない)。これも、生徒たちを安心させただろう。鴻巣先生や藤村先生 の声も会場を充分に受け止めている。 控え室には既にタイの子供たちや先生方も来ていた。そこには去年のタイのアジア シュタイナー会議でお世話になったポルンさんも来ている。向こうも私のことを覚えて いて互いに挨拶をする。タイの一行は、生徒31名、教師6名で来たそうだ。ポルンさ んがこの一行の代表を務めているらしい。緊張の面持ちだったので、「Good luck to you!」といって励ました。どうかタイの方たちもしっかりやってください。 1回目のリハーサルで全部終えることが出来なかったので、昼食後少し練習すること 18 になった。これも要求して認められたことだ。全体の構成に関していろいろ調整し、新 たに七頭舞の最後の終わりかたとして、一人ずつ観客席に降りて行き、正面のドア から退場するという風にその後決める。 本番前練習を終えると、舞台監督から、つなぎのスピーチが長すぎる、とのコメント が伝わってきた。それで鳥山先生と私でいろいろ案を考え、時間の合間をぬって最 終ヴァージョンを練り上げた。 子供たちは全体として普通通りだ。タイの練習風景もみんなで見たが、確かに完成 度は高い。しかしそれで賢治の学校の子供たちに余計な力みが生じることはなかっ た。「Good luck to Thailand!」 開場時間7時50分の少し前、倉八先生と小柳先生と私で作った英文パンフレットを 配るため、楽屋に入った。ふと見ると誰かの大きな背中が見え、こちらを振り向いた。 それは、今回私たちを招いてくれたヴィーヒェルト氏だった。思わず駆け寄り抱擁。こ んなに硬く抱きしめられたのは生まれて初めてだ。お互いの近況を手短に伝え合い、 公演の打ち合わせとなった。公演に先立ちまず教師の紹介をするという。 会場に出てみると、そろそろ開演というのに座席は7割ぐらいの入りだった。会場内 で、雅代先生と合場先生、そして私でパンフレット配りを始める。私の分を配り終えた のが8時10分。急いで楽屋へ戻った。見ると、会場は満席である。 子供たちはさすがに少し緊張している。 開演の挨拶があり、ついに私たちの出番だ。教師が全員紹介される。その後鳥山先 生とヴィルギリウス先生の短い挨拶。教師退場。さて、子供たちの出番です!「こん なすばらしい所で踊れてよかったね」と、鳥山先生の最後の檄が飛ぶ。 全体のコーディネーターの雅代先生、そして撮影係の合場先生と佐藤先生は、会場 で見ている。残りの教師全員は楽屋裏からの見学だ。私は舞台監督と一緒に、時折 モニターテレビも見ていた。 終わると同時に大喝采。あとで聞くと、観客全員総立ちの拍手の嵐だったそうだ。子 供たち、おめでとう。 練習中厳しい顔つきの連続だった舞台監督が、破顔一笑、硬い握手を交わしてくれ たのがうれしかった。 このあと着替えをし、豊田さんのヴェレーダの関係者からのお土産をいただき、帰館 した。ひと花咲かせたなあ、という1日だった。 19 10)3月26日(水)−バーゼルからコルマール経由でストラスブールへ移動 (工程) ユース出発→バーゼル駅→(車内で昼食)→12:05[コルマール駅着、下車]→12:3 0[ウンターリンデン美術館着]→(美術館が昼休み中なので、14:00まで目の前のス ーパー内自由行動、希望者はヴィルギリウス先生と市内観光)→14:30[ウンターリ ンデン美術館入館]→16:31[コルマール駅発]→17:04[ストラスブール駅着]→40 分ほど歩いてユース(Ciarus Strasbourg)に到着→部屋割り→夕食→就寝 (主な出来事) あれほどの大成功のあとなのに、子供たちに特別舞い上がった様子はない。 さて、今日はフランス入りである。だから、Strasbourg も「ストラスブルグ」とドイツ語 読みではなく、フランス国民に敬意を表して「ストラスブール」とフランス語読みにして おこう。 コルマールの駅を降りてすぐ目の前の大通りを左に曲がり、20分ほど歩くと、あの グリューネヴァルトの祭壇画で有名なウンターリンデン美術館に着く。驚いたことに、 途中これだけの短い道のりで、5∼6軒もの美容院を目にした。さすがにオシャレの 国である。 例によってヨーロッパの人たちは休み時間を大切にする。2時まで美術館は休み時 間だというので前の広場に荷物をまとめ、子供たちはグループですぐ目の前のスー パー内のみの自由行動となった。そのあと、希望者はヴィルギリウス先生と市内見 学にも出かけた。 スーパーの中、品揃えはそれほど日本と変わらない。しかし、よく見てみると、品物 の配列の仕方、品物の彩色の仕方、ちょっとしたデザイン、などに微妙な国民性の 違いが見て取れる。小さな器のデザインや彩色が、いかにもオシャレに出来ている。 大芸術家の作品を鑑賞することは大切だが、同時にこうした無名の人間たちの生活 の場を観察することも子供にとっては有益だろう。聞く所によると、今では高価な李 朝の器も、当時は民衆の日用品として使われていたそうだ。ひょっとすると、このス ーパーに並んでいる6ユーロのしゃれたタオルが、何百年後貴重な芸術品として愛 でられるかもしれない。 2時半頃入館すると、中はそれほど混んでいない。祭壇画の部屋に行く途中、昔の 20 おもちゃの陳列室があった。これなども無名の民衆文化の名残である。 もう一つ途中に鎧兜や、鉄砲、槍など中世の武具の部屋があり、ほとんどの女の子 は見向きもしなかったが、多くの男子は長いこと見入っていた。 グリューネヴァルトの部屋はさすがに混んでいる。幸いベンチがそれぞれの祭壇画 の前にあり、それに座って鑑賞したり、ロープの最前線まで行って座り込んで見入っ ている人もいる。雅代先生の話によれば、当時の修道僧たちは医者も兼ねており、 病気の治療もしていた。グリューネヴァルトはこの祭壇画を、治療効果も考えて描い たらしい。なるほどこの場に佇んでみると納得がいく。 コルマール駅に戻り今日の宿泊地ストラスブールに向う。 着いてみると、今日のユースはホテル形式の実に立派な場所である。早速部屋割り だが、だいぶ慣れてきて、生徒にやらせてもてきぱきと決まる。幸い手元に資料があ るので、今日の部屋割りを書いておこう(敬称略)。 107号室:忠、栄軌、龍太郎、正樹、正紀、瑞貴 124号室:合場、佐藤、小山 204号室:光太郎、祥太、一騎、航 206号室:陽平、雅智、圭祐、満、賢汰郎、公彦 207号室:鳥山 400号室:雅代、ヴィルギリウス 414号室:信悟、大祐、夢郎、琢也、 416号室:草、香菜、晴菜、風香 433号室:鴻巣、藤村、長谷川 434号室:せるさ、杏樹、維真 438号室:友紀、みずほ、咲希、愛佳 439号室:穂乃香、茉莉花、多央、遊楽 ちなみにヨーロッパは、1階を地上階と呼び、日本式の2階から1階、2階となる。エ レベーターに入りボタンを見ると、地上階は「0」、2階は「1」、地下1階は「-1」と書い てあった。さすがに、ドイツのガウス、リーマンといった大数学者に並ぶフランス人数 学者ポアンカレを生んだ国である。 11)3月27日(木)−ストラスブールからハスフルトへ移動 21 (工程) 7:00[朝食]→9:00[チェック・アウト]→トランクを地下の荷物置き場(本来はディスコ ルーム)に預かってもらう→10:00[ユースからストラスブール大聖堂へ出発]→スト ラスブール大聖堂見学→ユースに帰りカフェを借りて昼食、荷物を持ってストラスブ ール駅に向う→ 13:23[ストラスブール駅発]→ 13:45[アッペンバイヤー駅⑨番線に着、①番線カールスルーエ行きに乗り換え、乗 り換え時間22分]→14:07[アッペンバイヤー駅発]→ 14:48[カールスルーエ駅⑦番線に着、④番線フランクフルト行きに乗り換え、乗り 換え時間6分]→ 14:54[カールスルーエ発]→ 16:18[フランクフルト駅⑬番線に着、⑦番線ヴュルツブルグ行きに乗り換え、乗り 換え時間16分]→ 16:34[フランクフルト発]→ 18:22[ヴュルツブルグ駅⑨番線に着、⑩番線ハスフルト行きに乗り換え、乗り換え 時間14分]→ 18:36[ヴュルツブルグ駅発]→ 19:17[ハスフルト駅着]→ ハスフルト・シュタイナー学校の親と子供たちの出迎え→各自のホームステー先に分 散→夕食→就寝 (主な出来事) 今日のハイライトは2つ、ストラスブール大聖堂(ノートル・ダム大聖堂)と、ストラスブ ール駅からハスフルト駅までの「乗り換え大作戦」である。 ユースから歩いて10分ほどのところに、ゴシック建築で名高いストラスブール大聖 堂がある。これは未完の建物で、正面から見たとき右側の尖塔のところが欠けてい る。 入り口のところに悪徳の像と美徳の像が見事な対称をなして4体ずつ並んでいる。 ほかの美術館でも多く見たのだが、中世の人々はことばではなく、こうした彫刻や絵 画を通して倫理観を学んだ。本で学んで知ってはいたけれど、こうして具体的に実物 に面してみると、改めて当時の生きた文化を体験する。像が「動いて」見える。 22 中に入ると見事なステンドグラスがひときわ人目を引く。中世時代は未だガラス加工 の技術が発達していなかったので、小さな鉄の枠の中に溶けたガラスをはめ込んで いった。それをつなぎ合わせて1つの窓を作る。この素朴な窓の作り方を逆手にとっ て、鉱物から色を取り彩色し、芸術として高めたのがステンドグラスだ。この壮大な 建物の中でそれを見ていると、シュタイナーの「色とは光の受肉である」ということば を思い出す。 ひと通り観て外に出ると、かなり寒い。今度は希望者を募り、ゲーテが高所恐怖症を 克服するために活用したという螺旋階段を上ることにする。子供は全員参加だ。上り きったところの屋上からの景色は素晴らしかった。高所恐怖症訓練生が数人いた。 その後の降りる時間は、上りの半分ぐらいの早さだった。 さて次はユースに戻り昼食。点呼を済ませ、これからの「乗り換え大作戦」の内容を 確認したあと、いざ出発。そのとたん、あとから出たヴィルギリウス先生から「マサー ヨ」と強い声が飛ぶ。行く向きが逆だというのである。雅代先生は確かに昨日来た道 をたどっている。ヴィルギリウス先生いわく、逆の左へ進んだほうが歩く距離が短い というのである。二人で議論の結果、左へ進む。前の日の道のりが予想以上に長か ったので、ヴィルギリウス先生は夜一人で地図を見て研究し、どちらが短くて済むか 確かめてあったのだろう。ヴィルギリウス先生は日夜よりよいものを求めている。 ストラスブース駅から第2の公演の地ハスフルトまでの乗り換えは、それまでのたく わえがあったのでほとんど問題なく経過した。列車の到着する番線と、乗り換えの列 車の番線をヴィルギリウス先生が全て調べておいてくれたので、これも非常に助か った。それでも、1回だけハラハラする場面があった。 それは、アッペンバイヤー駅での乗り換えだ。9番線から1番線への乗り換えで、乗 り換え時間は22分ある。楽勝かと思いきや、着いた駅は屋根がなくただ1本ホーム があるのみ。ここが9番線で、1番線はここから歩いて別の場所へ行くのだそうであ る。上り下りの野原を歩いて行くとようやく裸の1番線ホームが向こうに見えた。乗り 換え列車到着時刻5分前。やにわにヴィルギリウス先生が走り出し、どきりとする。 線路のどちら側が1番線か、確認したのだ。無事列車に間に合った。 ハスフルトでの出迎えの様子は、明日の記録に譲る。 12)3月28日(金)−ハスフルト公演 23 (工程) 各自のホームステー先で朝食→10:30[ハスフルト・シュタイナー学校に集合]→ 11:00∼12:00[市庁舎で、ハスフルト副市長さんと面会]→12:00∼12:30[市内 見学]→12:30∼13:00[学校に戻り昼食]→13:00∼14:00[自由時間、買い物な ど]→14:00∼17:00[練習]→17:00∼18:00[おやつ]→19:00[公演]→21:30 [ハスフルトの親の方たちの夕飯をご馳走になる]→帰宅 (主な出来事) 前の晩の7時17分、定刻通りに列車はハスフルト駅に到着した。ヴィルギリウス先 生、雅代先生とハスフルトの親たちとの楽しく懐かしげな会話がすぐに始まる。ヴィ ルギリウス先生は本当に楽しそうに話す。ふと見ると、なにやら子供たちが白地に赤 の模様のついた布を持って広げている。近づいてみるとそれは、日の丸の旗だった。 一瞬、日本に帰って来たのかなと思ったほどだ。 夕闇の中、思いにならない思いが、ハスフルトの出迎えの方たちと44人の訪問団の 間を交錯する。私たちは様々な思いを込めて、その場で「ふるさと」を歌った。その後 既に遅い時間になっていたので、すぐに各自のホームステー先に分かれた。 私のホームステー先はシュミットさん宅。シュミット氏とがっちり握手を交わし車に乗 り込む。家に着くとまずはネコのネリーが私を迎えてくれた。ドアを開くとゲリンデ夫 人と息子のノア君が立っていた。 そして豪華な夕食の始まり。私は全ての料理に手を出したが、牛肉のロール煮込み がことのほかおいしかった。極上のビールやワインも用意してくださったが、これは断 った。途中でノア君は寝るために退席、その後全部で1時間半ぐらい話しに興じた。 翌朝、また素晴らしい朝食を済ませ、10時半に学校へ集合。シュミットさんに車で送 っていただいた。ホールに入るとみんな来ている。端のほうでは校舎の建設が進行 中で、木屑の臭い、塗料の臭いが漂って来る。賢治の学校の校舎のことが思い出さ れた。 11時から副市長さんと面会する。立派な部屋に通され、飲み物や御茶菓子付き、ま るで VIP 並みの扱いである。挨拶のあと、最新鋭の PC とパワーポイントを使いハス フルトの説明をしていただいた。そのときのお話しの内容、後でいただいたパンフレ ット、帰国後調べたことを元に、ハスフルトの地理と歴史をみんなで学ぼうではありま せんか? 24 ・・・まず皆さん、手元の地図帳を開いて、ドイツの全体図をお探しください。ハスフル トの位置を確認しましょう。くらげのような全体の形の中心から北東の端にベルリン、 その中心からやや南西にフランクフルト、南にミュンヘンが探せると思います。私た ちは、フランクフルトに注目しておきます。次に唐突ですが、大熊座の北斗七星を思 い浮かべてそれを線対称にパタンと折り返してください。柄杓の取っ手の端のところ がフランクフルト、取っ手とカップの接続部分がヴュルツグルグ、まっすぐ北に向けて 線を引きカップの底のところがシュヴァインフルト、カップの底のもう一つの端がバム ベルグ、そして南に下って柄杓の一番端がニュルンベルグとなります。これらの都市 は全てマイン川沿いにあります。これらは少し大きな地図であればおそらくみんな出 ていると思います。それではハスフルトはどこかというと、シュヴァインフルトとバムベ ルグをつなぐ線をおよそ3:4に内分したところにあります。これは相当大きな地図帳 でないと載っていませんが、私たちにとっては大切な町です。 緯度はほぼ北緯50度、人口1,3500人、面積5277平方メートル、標高は200メー トルで、マイン川の北側に広がる美しい町です。 1230年に始めて「hasefurthe」という記録が現れます。これは、「ウサギの浅瀬」と いう意味です。きっと昔からウサギが跳ね回っていたんでしょうね。その後重税の苦 しみ、30年戦争、ペスト、など様々なことを体験しました。この地域はもともとカトリッ クの教区なのですが、1899年に初めてルター派の教会ができました。そしてハスフ ルトは、20世紀後半この地域の中心的な町となりました。今では皮革製品をはじめ、 様々な近代的な産業が起こっています。2003年には、市場に面する市庁舎が新装 されました・・・ このあと学校に戻り急いで昼食を済ませ、みんなで町に買い物に出かける。雅代先 生が子どもたちに、100円ショップのようなお店もあると教えている。 午後2時から5時まで舞台の上で練習。ドルナッハの観客が上から舞台を見下ろす のと違い、ここでは下から見上げるので、それを意識して舞台作りをやり直さなけれ ばならない。鴻巣先生も藤村先生も必死だ。やはり時間との戦いで、時計の針はど んどん回っていく。 ひと通りリハーサルは終り、休憩、本番に備える。 6時半頃から人が集まってくる。ドルナッハと違い、子ども連れがもちろん多い。家庭 的な雰囲気が漂う。なんとなく賢治の学校にいるような気分になった。 25 無事公演が終わる。大人も子どもも諸手を上げての拍手喝采、大喜びだった。私の 前のお父さんは、始めから終りまで体を大きく左右に揺らせ、心行くまで楽しんでい た。ヴィルギリウス先生の話しも何かこの場所の空気にとてもなじんでいる。 着替えのためだいぶお待たせをして、親たちの手作りのご馳走をみんなでいただく。 白いフランクフルトソーセージが子供には人気だった。ケーキも6種類くらい用意され ている。お昼のときに「ハスフルトの金子さんです!」と雅代先生が紹介した方もいる。 ハスフルトの親に囲まれて食べていると、親から子どもへの最高のプレセントとして よい教育を子供に受けさせたい、そうした親の気持ちは日本でもドイツでも全く同じ なのだと感じた。 その後はまたそれぞれホームステー先に帰って行った。明日はいよいよ最後の公演 の場所、ニュルンベルグへ出発だ。 13)3月29日(土)−ハスフルトからニュルンベルグへ移動、そして公演 (工程) 10:00[ハスフルト駅に集合]→10:17[ハスフルト駅からニュルンベルグ駅に出発] →11:21[ニュルンベルグ駅に到着]→12:45[市内を見学後ユース (Juhgendherberge Nürnberg)に到着]→昼食→14:30∼17:00[練習]→17:00 ∼18:00[おやつ]→19:00[公演]→21:00[夕食]→22:00[生徒帰館]→教師によ る後片付け→24:30[教師帰館]→就寝 (主な出来事) 余裕を見てかなり早めに家を出てもらったのだが、ハスフルトの駅に着くともうほとん どの子供と先生が集まっていた。次々と到着する子どもとホストファミリーを、鳥山先 生が1軒1軒写真に収めている。やがてニュルンベルグ行きの列車が来て、何回も 何回も互いに手を振って別れを告げた。いろいろありがとうございました。 その列車の中で初めて、夢郎君の具合が悪いことを知った。今回のツアーで子供の 一人一人本当に成長したと思う。夢郎君はその筆頭かもしれない。ドルナッハの控 え室で、「さあ並んで」と言ったときの、彼の声の強さと暖かい包容力を私は今も忘れ ない。 ニュルンベルグの駅に着くと彼の体を休めるため、夢郎君と私は先にタクシーでユー スへ向った。タクシーの中で夢郎君の横顔を見ると、その眼差しに、母親を思う気持 26 ちと最後の公演に出られるかどうかの不安な気持ちが浮かんでいるように、私には 思えた。そのことは何も触れず、手の平でおでこを触ってみる。38度ぐらいの熱だろ うか。私に出来ることは、ユースのカウンターで交渉し、夢郎君が横になれる場所を なんとか獲得することである。今は12時ちょっと過ぎ、ユースの受付けは2時からだ から、杓子定規の理屈から言えば、断られるかもしれない。ローマのユースで交渉を 始めたときのヴィルギリウス先生の雄姿が思い浮かんだ。 ユースのカウンターで英語で挨拶をすると、きれいな英語が帰ってきた。ひと目、好 青年であることが分る。彼は事情を聞くと、即刻入室を許可してくれ、205号室の鍵 を渡してくれた。しかし未だ清掃中なので入室はいま少し待ってほしいという。 食堂に夢郎君を座らせ、荷物をまとめ、私は3階まで行ってみる。掃除機の音が廊 下に響いている。205号室を覗くとどうやら掃除は終わっているらしい。掃除をして いる方に「入っていいですか」とたずねると、「OK」と答えが返ってきた。喜んで階段 を駆け下り夢郎君を連れて来る。夢郎君はうずくまるように、布団の中へもぐり込ん だ。おでこに手を当てると、熱は先ほどより少し上がっている。 12時15分に後続部隊到着。お昼を済ませ、早速今日の公演会場のシュタイナー・ ハウスへ向う。夢郎君には、雅代先生が付き沿っている。 シュタイナー・ハウスの控え室に入ると、テーブルの上に、リボンや色紙やチョコレー トで見事な装飾が施されている。賢治の学校のシンボルマークを描いてくださった、 リタ先生からの贈り物だ。早速腕白坊主の手が、色とりどりの銀紙に包まれたチョコ に伸びかけたが、食べるところまではいかなかったようだ。 練習を終え、開演間近になると、クリューガー先生御夫婦、シューラー先生、アルマ・ シュミット先生、ヴィルギリウス先生のお母様、ヴィアーネ先生と、賢治の学校の根 元を支えてくださった方たちが続々と来場される。そして優雅な物腰の老人ホームの 方たちも三々五々いらしてくださる。 イタリアにおける美の実体験、ドルナッハの舞台で専門家の目をうならせた賢治の 学校の実力、ハスフルトにおける遠い親同士の心のつながり、そして今ニュルンベ ルグで最後の公演が始まる。フィオーナ・アンサンブル、2003年の1年間に渡る23 名の教師研修と、このニュルンベルグの地に賢治の学校の学びの原点がある。この 地に最後の公演とともに巡礼し、過去を振り返り、脱皮し、真に新しいものの創造を 私は祈った。 27 公演が始まり、いくつかの演目が終わる。そして最後の七頭舞、見るとその先頭集 団に夢郎君の姿がみえる。あとで聞いたところによると、雅代先生の代わりに合場 先生が部屋に行くと、夢郎君はもう着替えを済ませ出かける準備をしていたそうだ。 全てが終了し、55人の観客の、心のこもった暖かい拍手が続く。 その後カンパをいただいたのだが、なんとその額はハスフルトの額を上回った。金額 で成果を計るわけではないけれど、子どもたちは正直に驚き喜んでいた。 このあと夕飯とおやつをいただき、子どもたちは10時ごろ帰館。先生方は後片付け をし、夜の散歩を楽しみながら12時半に帰館した。 14)3月30日(日)−ニュルンベルグからチューリッヒへ、そして日本へ移動 (工程) 6:00[起床]→7:00[朝食]→出発→8:20[ニュルンベルグ空港着]→チェックイン→ ヴィルギリウス先生と雅代先生とはここで別行動、お2人はヴィルギリウス先生のご 両親の元へ向う→10:25[スイス航空LX1189で、チューリッヒヘ向う]→11:25[チ ューリッヒ国際空港着]→13:00[スイス航空LX160で、成田に向う]→ (主な出来事) 早めに並び朝食をとる。その後慎重に荷物チェックをしていざ出発。昨日親切にして くれた青年に一言挨拶をする。後で雅代先生から聞いたのだが、彼はシュタイナー 学校の卒業生だそうである。 足取りも軽く、最寄りの地下鉄の駅に着き、そこから空港行きの列車に乗る。列車に 揺られていると、日本に帰るのだなあ、という思いが湧いて来る。 ニュルンベルグ空港では、ヴィルギリウス先生のお母様が待っていた。買い物をし、 チェックインを済ませ、ここでヴィルギリウス先生と雅代先生とはしばしのお別れとな る。お二人はヴィルギリウス先生のご両親の元へ行かれるのだ。 子供たちの周りに一瞬切ない雰囲気が漂う。けれど、また日本で会えるさ。ヴィルギ リウス先生、雅代先生、今回のツアー本当にありがとうございました。 それからヴィルギリウス先生のお母様も挨拶された、「・・・国を超えて人と人とが交 わる、これが本当の世界の平和をもたらすのだと思います・・・」。まったく同感であ る。 それから長谷川先生が先導役となり、チューリッヒの飛行ゲートまで無事到着。搭乗 28 し、ベルトを締め、あとは飛行機の離陸を待つばかりである。 15)3月31日(月)−日本に帰る (工程) 7:40(日本時間)[成田着]→解散 (主な出来事) 飛行機の中、始めはみんなそれほど疲れた様子も見せない。アテンダントの方も日 本人の方が二人いたり、乗客も行きの時よりはるかに日本人が多い。周りの様々な 日本語を聞いていると、なんだかもう日本に着いているような気がする。先に寝入っ たのは、先生方のほうが多いかもしれない。でも、大いなる力が守っているので大丈 夫です。 そのうち、「・・・味噌汁・・」「・・・ラーメン・・」「・・・ふろ・・」などの単語がぽつぽつどこ からともなく聞こえて来る。それも止み機内は寝静まった。飛行機は一路、9604キ ロメートルの距離を少しずつ縮めていく。 ほぼ定刻通り成田に到着。パスポートチェック、荷物を受け取り、税関を抜けると、花 が咲いたように多くの親がそこにいた。愛佳さんのお父さんが来ている、咲希さんの お母さんがいる、松田啓二さんの顔も見える・・・。挨拶と簡単な報告をして、解散。各 自、荷物とお土産と思い出を抱えて、家路に着いた。 [4]「第8回世界シュタイナー教師大会」資料抜粋 1)大会のテーマ: Wille bilden − Kopfgeist wecken, Neue Wege suchen(意志の 形成ー頭部精神の目覚め、新たな道を求めて) 2)開催期間:2008年3月24日∼3月29日 3)開催地:ゲーテアヌム、ドルハッハ 4)クリストフ・ヴィーヒェルト氏の紹介文; (Christof Wiechert) 1945年生まれ。オ ランダのハーグにあるシュタイナー学校の出身。大学では、教育学と地理学を学ぶ。 大学卒業後、30年間母校のハーグ・シュタイナー学校で教える。この間に、オランダ 国立シュタイナー研修を協同で立ち上げる。多年、オランダ人智学協会の評議員を 務める。アーテ・コープマン氏と、「子供研究の芸術」コースを立ち上げる。国内外で 長年活動を続けた後、1999年にゲーテアヌム教育部門で主導的役割を担い、200 29 1年に同部門の所長となる。結婚し、5人の子供の父親である。 5)国別参加者人数:アルゼンチン(1人);オーストラリア(17人);ベルギー(13人); ブラジル(14人);デンマーク(24人);ドイツ(135人);エストニア(12人);フィンランド (48人);フランス(15人);グルジア(1人);イギリス(36人);インド(10人);アイスラン ド(3人);イスラエル(3人);イタリア(39人);日本(7人);カナダ(19人);カザフスタン (1人);ケニア(5人);キルギスタン(3人);クロアチア(1人);ラトビア(13人);リトアニ ア(4人);メキシコ(2人);ネパール(1人);ニュージーランド(9人);オランダ(122人); ノルウェー(33人);オーストリア(12人);パキスタン(1人);ペルー(3人);フィリピン (5人);ポーランド(7人);ポルトガル(1人);ルーマニア(19人);ロシア(24人);スエ ーデン(40人);スイス(144人);スロヴァキア(2人);スロヴェニア(8人);スペイン(3 9人);南アフリカ(35人);台湾(4人);タンザニア(2人);タイ(4人);チェコ(7人);ウガ ンダ(3人);ウクライナ(12人);ハンガリー(41人);ウルグアイ(1人);アメリカ合衆国 (49人);中国(2人) 6)公式参加者総数:1056人 7)参加国数:52カ国 30
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