新世界より - So-net

宇部市民オーケストラ
その二
第七回定期演会に寄せて
交響曲「新世界より」―アメリカ土俗音楽とチェコ民族音楽賛歌
団長
佐藤育男
「新世界」ではなく、
「新世界より」が正しい。当時アメリカは新世界と呼ばれていた。
一八九三年、ドヴォルザークはアメリカ滞在中に作曲したのでこの副題を付けた。新世
界からの音楽便りということで、随所にアメリカの息吹ー土着インディアンの音楽や黒
人霊歌―を感じる。しかし、作曲者の望郷の念がはるかに強い。その想いは第 2 楽章の
主題、「家路」という歌で顕著である。下校時や夕暮れにこのメロディーを聴いて帰宅
を急いだ方が多いのではなかろうか?
1891年、ドヴォルザークはアメリカの裕福な青果商の妻サーバー夫人から電報を
受け取った。彼女はニューヨークのナショナル音楽院創立に百五十万ドルもの大金を出
資し、当時ドイツ楽派に席巻されていたアメリカ純音楽界に国民楽派を作ろうと腐心し
ていた。そこでボヘミア民族音楽を体現している高名なドヴォルザークに楽院長就任を
要請したのである。彼女が申し出た年棒は一万五千ドル、チェコの通貨で三万グルデン
に相当した。ドヴォルザークのプラハ音楽院教授の年棒が千二百グルデンだったことを
考えると、この額がいかに破格だったかは想像に難くない。この年棒に対して、彼は一
日に三時間の授業を行い、学生コンサートを年に四回準備し、自身の作品を数回指揮す
れば良く、さらに四ヶ月の休暇が与えられる、という好条件だった。あまりの高給に気
が重く一度ならず断ったものの、作曲家の彼にとって四ヶ月の休暇は魅力だった。そし
て遂に、サーバー夫人の度重なる懇請にアメリカ行きを承諾した。
1892年、ニューヨーク港に到着した彼を待っていたのはサーバー夫人と音楽院関
係者、新聞記者、その他大勢の人々だった。彼らはドヴォルザークが大変な紳士で流暢
なキングス・イングリッシュを話すことに驚いた。記者の一人はその印象を次のような
記事にしている。「・・ドヴォルザーク教授は、全然恐ろしい人物ではない。写真で想
像したよりずっと背が高く、一部の写真のような獰猛なブルドッグといった様子は全く
うかがわれない。身長は一メートル八十二センチ、品格と威厳が自ら備わっている。話
し出すと、シワのある顔は表情豊かに、目は活き活きと輝いた・・。」
翌年、サーバー夫人たちの期待にたがわず素晴らしい交響曲が完成した。初演も大成
功だった。この曲を聴いた人は皆、ドヴォルザークがアメリカで聴いた民謡や霊歌で満
ち溢れており、これこそ待ち望んだアメリカの国民音楽であると歓迎した。しかし、彼
は、「私が書こうとしたのは、インディアンや黒人音楽の精神を取り入れたテーマを私
自身の音楽ことばー近代的なリズム・和声・対位法・新しいオーケストレーションで発
展させたものである。」と否定した。
しかし、考えるに、サーバー夫人がドヴォルザークでなくドイツの音楽家を招聘して
いたら果たしてこのような大傑作は生まれたであろうか?前述したように当時のアメ
リカ楽壇はドイツ楽派に席捲されていた。ニューヨークにはワーグナーの友人ザイデル
がニューヨーク・フィルハーモニーを指揮して専らドイツの音楽を演奏し、メトロポリ
タン歌劇場でもワーグナーの新作を次々に披露していた。また、ボストンには高名なア
ルトウール・二キシュが指揮するボストン交響楽団もあり、至るところで質の高い演奏
が提供されていた。しかし、アメリカの白人たちは豊かな資金を使ってヨーロッパの音
楽を享受していたものの、アメリカで若い音楽家を育てようとはしなかった。アメリカ
楽壇も黒人や土着インディアンの音楽を軽蔑しアメリカの音楽として認めようとは決
してしなかった。
一方、ドヴォルザークの祖国チェコも長い間ドイツ・オーストリア帝国の圧政下にあ
った。政治経済は言うにおよばず、言語・宗教・文化、そしてあらゆる芸術がハプスブ
ルグ帝国に抑えつけられていた。少しでもチェコの言葉や音楽が混じるとチェコ人には
横柄なウィーン人に冷たくあしらわれた。公式言語のドイツ語ができない人間は仕事の
口がなかった。ドヴォルザークも父親の経営する肉屋兼宿屋を継ぐつもりで小学校から
ドイツ語を習った。しかし、そこで毎晩行われる歌や踊りのショーにはバイオリンをも
って父を手伝ったが、習い覚えたプログラムの殆どはボヘミアの伝統芸能だった。その
後、音楽の道を歩むことになった彼はベートーベン、ブラームス、ワーグナーらのドイ
ツ音楽を習得し、先輩スメタナがチェコ国民音楽を確立したあとを引き継いでさらに広
めた。後年チェコやイギリスでは音楽家として頂点に登りつめたもののヨーロッパクラ
シック界の主流にはなり得なかった。
そして、アメリカの音楽界でも外様だったドヴォルザーク・・そんな彼が触発された
音楽こそ土着インディアンや黒人奴隷の音楽だった。強国の下で苦汁をなめる民族の魂
の音楽が骨の随まで染み込んでいた彼には、黒人たちの音楽を無視などできなかった。
むしろそれらのなかに祖国ボヘミアとの共通点を見出し、国民的さらに世界的、普遍的
な音楽芸術へと高めたのである。
第一楽章。
アダージオ(ゆるやかに)ーアレグロモルト(非常に速く)。静かな、ゆったりとした
序奏。まるでアメリカ大陸の広々とした平原の夜明けのようである。しかし、ご存知の
ようにチェコもヨーロッパの中央にあって、見渡すかぎり穏やかな平原が続き森や川が
美しい国である。ドヴォルザークはどちらの国を想ったのであろうか?その後、ティン
パニーの強打に込められた激烈な音楽に続いてホルンが第一主題を奏でる。このシンコ
ペーションのリズムはボヘミア民族舞踊のリズムであろう。アメリカの平原を馬で疾駆
するインディアンを思わせると言う人もいる。そういえば、名盤と評判の高かったトス
カニーニの SP 盤はジャケットがインディアン酋長の肖像画だった。しかし、私にはや
はりポルカのリズムに聴こえる。結尾主題はフルートで奏されるが、ド−ドラソーと下
がりドーミソッソッソーと上昇するメロディーは黒人霊歌の一節に似ている。この音階
は通常の七音音階(ドレミファソラシ)からシとファを欠いており、アフリカ、スコッ
トランド、モラヴィア地方(東チェコ)、そして東洋の琉球や日本民謡など、世界中に
分布する特徴的な五音音階の形をとっている。作曲者はアメリカとモラヴィアに共通す
る音階を選んだのであろうか?旋律はどれも民族色が豊かで限りなく美しい。展開も鮮
やかで、あらゆる交響曲のなかでも最もスリルに富んだ傑作と言える。
第二楽章。
ラルゴ(ゆっくりと)。堀内敬三氏の「遠き山に日は落ちて・・」という歌詞で有名な
この曲は黒人霊歌と思われがちだが、実はドヴォルザーク自身のオリジナルである。の
ちに弟子のフィッシャーが歌詞をつけて、一九二二年、「家路」という題名で出版し全
世界に広まった。このチェコへの郷愁はイングリッシュホルン(イタリア語ではコール
アングレ)で切々と語られる。この美しい調べも五音音階である。
第三楽章。
モルト・ヴィヴァーチェ(アレグロより速く活き活きと)。
ベートーベンによって交響曲に導入されたスケルツオはこの楽章で再びバイタリティ
ーを取り戻している。全楽器の強奏で始まるが、特色あるリズムはインディアンの婚礼
と踊りからヒントを得たと言われている。中間部の美しい旋律はチェコの民俗舞踊曲風
であり、シューベルトの香りをも感じさせる。実は、シューベルトはウィーンの血が一
滴たりとも入っていないモラヴィアの出身である。両者に共通するのはメロディーの美
しさであろう。ただ、ドヴォルザークの極上のメロディー全てが民族的であるという点
でシューベルトと異なっている。ドヴォルザークは、この田園風レントラーを通して、
逆にアメリカにボヘミアを伝えようとしているのかもしれない。
第四楽章。
アレグロ・コン・フォーコ(熱情をもって)。
この楽章について、ドヴォルザークの研究家ショウレックは次のように書いた。「第三
楽章までのスケッチがまとまり、第四楽章に取りかかるまでに少なくとも三ケ月のブラ
ンクがあった。この間、ドヴォルザークはアイオワ州にあるスピルヴィルというチェコ
人の入植地を訪れ、祖国の家族も呼び寄せる計画をたてた。(スピルヴィルは、シュピ
ルマンというバイエルン地方からの移民がアイオワ州北西部で開拓した村である。一八
五○年代に二○家族のチェコ人が移住してコミュニティーを形成した。アイオワ州は、
先年映画で話題になった「マディソン郡の橋」の舞台となった州であるが、映画のシー
ンと同様すごく小さな田舎で、スピルヴィルの人口も一八七○年代の三三六人から現在
でもわずか三八七人にしか増えていない。)この間、初めてアメリカの田舎を体験でき
るという好奇心だけでなく、同郷の人達に会い祖国の生活臭や文化に触れることができ
る、そして何よりも家族と一緒に過ごせるという期待感が彼にホームシックから開放さ
せたと言える。このことが第4楽章への祖国からの音楽的要素の侵入を少なくさせ、現
れてもこれまでのような特別なメランコリーを帯びさせないことにつながったものと
思われる・・。」
さて、曲の冒頭、わずか九小節の弦楽器のフォルテッシモは、まるで蒸気機関車が動
き出すかのようだ。ドヴォルザークの常軌を逸した汽車好きを思い起こさせる。彼が8
歳のとき家のうしろを鉄道が通った。当時鉄道はまだ珍しかった時代である。彼は学校
から帰るや否やカバンを放り出して汽車が通るのを飽きることなく眺めたという。それ
以来の彼のマニアぶりはあまりにも有名なので省かせて戴く。話はそれるが、映画界の
巨匠黒沢明監督は撮影にはいる前には必ずこの楽章を聴いてみこしをあげたという。元
気を貰ったのであろうか。黒沢監督のハイドン好きも有名だが別の機会に書かせて戴き
たい。・・曲に戻ろう。弦楽器の緊張が頂点に達するとホルンとトランペットが有名な
旋律を輝かしく鳴り響かせる。第二主題は、対照的に柔和で美しい旋律をクラリネット
が奏でる。ショウレックの言うように、もはや望郷の切なさはない。後半はこれまでの
楽章のメロディーが回想されるかのように現れては消え、最後は和音が消え入るように
終わる・・という異例の方法で全体をまとめている。
繰り返すが、ドヴォルザークだからこそ、このようなアメリカ民俗音楽、そしてチェコ
民族音楽への愛情あふれる傑作が書けたのである。
宇部市民オーケストラ
団長
佐藤育男
(宇部日報掲載記事)